社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

一橋大編「渋沢栄一と人づくり」を読んで

 

稲盛和夫の仕事入門 (稲盛アカデミー選書)

稲盛和夫の仕事入門 (稲盛アカデミー選書)

 

 

     一橋大編「渋沢栄一と人づくり」を読んで
       神田 嘉延
 一橋大日本企業研究センター研究叢書「渋沢栄一と人づくり」が有斐閣から2013年に出版されていますが、このたび新一万円札に選ばれた人物になったので、あらためて読みました。
 
 渋沢の唱えた合本主義と人材育成
 
 序論で橘川武郎氏が、渋沢栄一の人づくりに注目する理由をあげています。まず、合本(がっぽん)主義について、社会的資金の動員というお金の問題ではなく、人材を確保することと社会的資金の問題を結びつけていくことをあげているというのです。渋沢栄一は、生涯で「教育・学術」が最大の社会的寄付であったのです。それがなぜであろうかと橘川氏はつめていくのです。
 
 現在は、企業との関係で大学の教育や研究を考えると、産学共同として、国際競争力からの研究開発による特許など個別の利益の問題が出てきます。大学にとって公益性が強く求められているのです。人類的な視点からの社会貢献が大切なのです。渋沢の人材養成論は、公益の観点から現代的にみていくことが本来の彼に対する見方になるのです。また、現代社会の企業や政治家の不祥事が多発という問題があります。社会的退廃問題を克服していくうえで、渋沢栄一の人材養成論から学ぶことが多いのです。
 
 ところで、2008年のリーマンショック以降に、世界経済が危機的状況を呈しています。このようなかで、拝金主義というカネに重心を置く資本主義観に代わって、人を重視する資本主義観の再評価が要請されるようになっています。モラル資本主義ということから渋沢栄一の人づくりに注目したと橘川氏はのべるています。
 
 彼は後進国の工業化にとって人材確保がもっとも大切なことであるというのです。渋沢はこの視点から積極的に評価されるというのが橘川氏の問題提起です。合本主義研究は危機にたつ資本主義のなかで今日的意義をもつというのです。
 
 日本のオープンマーケットの仕組みと商業教育
 
 日本は後発国工業化でありましたが、渋沢をはじめとした人づくりいによって、独自の制度設計ができたのです。それは、しばしばみられる後発国の財閥型とは異なるオープンマーケットモデルをつくりあげたと橘川武郎はのべています。
 
 日本の商業教育機関は、オープンマーケットへの多数の企業経営者が排出したとするのでした。日本の財閥内部でも商業教育機関によって、学卒エリートを中心に優秀な人材が養成されたのです。人材養成なくして、近代産業の発展はなかったのです。日本は学問に裏付けられた職業教育によって、近代の産業発展の優秀な人材養成ができたことを見落としてはならないのです。
 
 合本主義と日本の商業高等教育
 
 島田昌和氏は合本資本主義と高等教育への反映として、東大、早稲田、一橋の支援をあげています。渋沢は非財閥系の多くの会社の創立にかかわり、その発展に貢献しています。その経営手法は、情報を重視して、人的ネットワークによっていることが大きいと島田は分析しているのです。
 非財閥系会社は資本と人材を独自に調達しなければならなっかったことで、第1銀行の頭取として、渋沢がその仕事にかかわったのです。日本の近代産業の発展に多くの中小企業が参加していく基盤があったのです。このことは、広く人材を国民的に求めていったことが大きいのです。
 
 渋沢が考えた合本主義は、欧米の株式会社を原型としますが、本質的に欧米とは異なるのです。渋沢は、民間に公共物をつくるということで、日本的な官尊民卑の克服にあたったのです。官に対して、民の力を蓄え、底上げしていくために私的利潤追求による富の蓄積を必要と考えたのです。この社会的要請の民間パブリックのために、論語を用いたと島田はみたのです。
 
 東京大学卒業生は、民業には名誉がないということで、民業につくことに進路を選ばなかったことから、東大の学長に民業についてもらうために渋沢は談判したのです。ところが、逆に講師を頼まれ、東大で講義することになるのです。
 経済学を空論にしないために、商工業の実情を知るために、銀行の組織を知るべしと講義をしています。銀行制度を通して近代的経営の手法を伝授したのが渋沢でした。近代産業発展のための優秀な人材を積極的に求めた渋沢の活動の様子がわかるのです。
 
 学長の人選をめぐる早稲田大学の紛争と渋沢栄一の調停
 
 渋沢が早稲田に深く関わったのは、1917年の6月から9月までの間、学内の総長をめぐって学内が二分したことで、調停に入ったことです。大隈内閣のもとに文部大臣であった高田早苗をふたたび学長にしようとする動きと、現学長の天野為之を再任しようとすることと紛争が起きたのです。天野は、ミルの自由経済論を信奉し、ジャーナリストとして活躍した人物です。この天野を大隈・高田勢力が失脚させようとしたのです。
 
 渋沢は、明治維新以来大熊重信と親しい関係にあり、人間関係としては、大隈重信高田早苗により近い存在であったのです。しかし、対立した天野為之の商業教育には渋沢の価値観に似たものがあったのです。渋沢は対立する両者から、調停役にもっとも適した人物でした。
 
 大隈の亡くなった後の1922年からの記念事業の後援会長に渋沢がなっています。大講堂建設、新図書館、学生ホール、野球場、プールなど1925年に整備され、渋沢は基金管理委員長としての講演を行っています。さらに、1927年からの演劇博物館建設計画にも渋沢は募金活動の発起人代表になっているのです。
 
 渋沢は、官尊民卑の陋習(ろうしゅう)を矯正するために、学問の民衆的発展を行い、私学を興して経済界に人材を輩出して、国家社会の隆盛をしたと大隈を積極的に評価しているのです。また、この間に、渋沢は、早稲田騒動の後の大学運営の難しいなかで、維持員会に毎月出席して、教員の待遇や施設の改善に財政的支援をするのでした。
 
 渋沢はなぜ東京高等商業学校を持続的に支援したのか

 渋沢は、官尊民卑の克服といいながら、官立になった東京高等商業学校になぜ支援を続けたのであろうか。渋沢は一国の貧富は、商業の盛衰にありと考えました。島田は渋沢の学生へのメッセージの分析から、その鍵は商業に従事する器が必要ということで、商業教育を重視したというのです。現在の商工業者の経営者は学問を応用していないと渋沢はみていた。渋沢は、学問をビジネスに応用することの必要性を持ってが,当時では、その実現のために東京高等商業学校しかなかったというのです。
 
 飯塚陽介氏は、東京高等商業学校への影響力の基盤とその変化についてのべています。教育機関の運営に実業家が関与する正当性がいかなるものであろうか。官立の学校に実業界の渋沢がなぜ指導的な立場になりえたのか。渋沢が教育とは無関係な実業家として、学校運営への関与を正当化する制度に商議委員会制度があったことを飯塚はのべるのです。
 
 文部科学省直轄の実業専門学校に対する諮問する商議委員会メンバーに嘱託された渋沢が、東京高等商業学校の運営に関与できたとするのです。実業学校の商談委員会制度は、1884年に東京商業ではじめて導入されましたが、1900年頃までほとんど実業学校に導入されました。
 
 当時、一般的に実業家による社会事業や教育事業への支援行為が行われていました。事業家が社会貢献していくという社会的環境もあったのです。商談委員会制度によって渋沢の東京高等商業学校への関与は正当化されますが、この制度は1900年以降次第に実行性を失っていきます。
 
 1899年に実業学校令がだされ、商業学校、工業学校、農業学校、実業補習学校の設置が文部省に認められることになったのです。実業学校の設置者は、府県、市町村、産業組合等の組合、私立であったのです。1903年に専門学校の改正がされて、程度の高い実業学校は、専門実業学校になったのです。
 
 1920年には、実業学校の目的に「徳性の涵養」という教育目的が入った改正がだされるのです。これは、1917年から1919年までの従前の教育制度や教育内容を抜本的に改革していくことした臨時教育会議で行われました。すべての分野にわたっての教育改革方策の答申がされました。実業学校の改善方策もだされ、徳性の涵養を教育目的につけ加えたのです。
 
 徳性の涵養には、兵式訓練のための精神主義による国家主義的意味からと、労働運動からの友愛会的解釈とがあります。友愛会の結成は、1912年(明治45年)8月で、労働者の「親睦・相互扶助」、「識見開発・徳性涵養・技術進歩」、「地位改善」を目的に掲げました。渋沢のかかげる道徳経済合一説からの徳性の涵養ということもあり、多義的にとらえることができるのです。
 
 1900年以降に設立された高等専門学校は、商談委員会制度を確認することができないのです。1903年に制定された専門学校令は、一定の基準を文部省が決め、それを遵守することで専門学校としての地位が法定に承認されるということになったのです。
 
 学校ごとの独自性をもって発展してきた実業教育の方針転換が行われたのです。文部省の許認可と教育内容の権限が実業学校でも強まっていくのです。このような状況変化のなかでも、渋沢の東京商業専門学校の学校運営における影響力・指導性を持ち続けたという特殊性があったと飯塚はのべるのです。
 
 東京高等商業学校の大学昇格への運動
 
 1900年以降に東京高等商業学校を大学にしようとする運動が起きます。そのけ結実として、1907年に国会に商科大学設置建議案が提出され、可決されます。しかし、文部科学省は東京帝大との関係を考慮して、東京帝大内に経済学科を設置し、東京高等商業学校の専攻部の廃止ということで対応するのでした。
 
  東京高等商業学校の教官や同窓会は、東京商科大学の設置の要望でした。文部省は、その要望を再三拒否をするのでした。そして、文部省は、帝大内に商科設置と東京高等商業学校の専攻部の廃止の決定をするのでした。
 
 この決定に、高等商業学校学生の抗議が起きます。抗議の激しい高まりは、1907年に学生大会で学生総退学ということになるのでした。東京商工会議所や渋沢たちも、その解決にむけて奔走します。渋沢は商談委員の立場を利用しての文部省に抗議をし、文部大臣に東京帝大の商科併置を撤回するように具申するのでした。
 渋沢の行動によって、学生の復学と専攻部存続の決定がされて、事態は解決するのでした。1919年4月から大学令が施行されて、東京商科大学が誕生するのでした。同時に、多くの私立大学が設立されていくのです。
 
 東京高等商業学校の大学昇格問題に対する渋沢の東京高等商業学校の影響力は、同窓会と渋沢の邸宅に寝起きしていた書生の竜門会のメンバーの人的な関係であったのです。この書生たちは、独自に渋沢の思想に共鳴して、勉強会を組織していました。すでに存在していた学友会にも影響力をもっていたのです。
 
 また、同窓会にも影響力を竜門会はもったのです。飯塚氏は、渋沢が東京高等商業学校での持続的な影響力を行使できたのは、竜門会などの強い人的なネットワークであるとしているのです。渋沢の人間的な影響力が書生たちからの人脈によって、強い社会的な力になったのです。
 
 渋沢栄一の東京高等商業学校での講話内容
 
 渋沢は東京高等商業学校でどのような講話をしたのでしょうか。渋沢の道徳経済合一論の真意はどこにあったのでしょうか。この問題について、田中一弘氏は、東京高等商業学校での卒業式の講話(1885年45才から1915年75才の14回)と77才から80才までの修身特別講義の分析から明らかにしています。
 
 講話では第1に、旧幕藩時代からの商業者が社会から低くみられている状況のなかで、その地位を高め、優秀な人材が商業に寄りつくようにしたのです。このために、その名誉と使命を訴え、商業と商業者の社会的地位の向上を強調したのでした。
 第2に、渋沢は、学問に裏打ちされた実務能力の必要性を重視したのです。そして、第3に、商業道徳の力説でした。商業道徳がなければ永続性もなく、社会に害をあたえるということです。
 
 道徳経済論は、商業の活力と健全さの根拠になるというのです。経済に道徳価値を与えることによって、商業に従事する人々に自信と使命感を与え、活力を生み出すというのです。そして、道徳は経済を妨げるのではなく、むしろ経済が健全に機能するというのです。
 
 商業活動が蔑視されてきたことは、不正に富を獲得してきたことがあったからです。経済活動に道徳が不可欠になることによって、商業に従事する人々が社会的に評価されて自信をもって、経済に活力を与える活動が出来るとしたのです。経世済民ということは、民間の事業活動こそが担い手になると渋沢は考えた。田中一弘氏はこのようにのべるのです。
 
 学問に裏打ちされた商業活動は、高い実務能力をもち、商工業を発展させることによって、社会的に評価されていくと考えていたのです。つまり、そこでは、旧来の習慣に基づく商業とのせめぎ合いになるのです。理屈は高尚だが、実際に役にたたないということでは、学校の存在の意義が問われるのです。商業者として利益が出るような学問に裏打ちされた実務能力をもたねばならないとしているのです。
 
 渋沢が本格的に道徳経済合一説を主張した時期
 
 渋沢が道徳経済合一説を明示したのは、69才のときです。1909年の竜門社の社則改定のときであったのです。それから、5年後の1914年の東京高等商業卒業式の講話で、利益にのみに走るのではなく、仁義道徳と利殖の一致をのべているのです。このとき、渋沢が74才です。この前年に、大学昇格問題をめぐっての文部省と東京高等商業学校との紛争により、学生総退学という問題が起きています。
 
 東京高等商業学校の創立40周年で、渋沢75才のときの講話では、商業の地位向上を喜ぶと同時に、利益のみに走る実業界に道徳欠如に憂えています。そこでは、商業教育における仁義道徳の必要性を強調したのです。渋沢は1917年から1919年に修身特別講義を東京高等商業学校でするのでした。それは、道徳と経済の一致、知識と道徳の密着という講義をするためでした。
 
 渋沢の私立商業学校と官立商業学校の支援
 
 渋沢は、私立の商業学校の卒業式に講話をするなどの関与をしたのです。1903年の専門学校令によって、私立の高等商業学校が生まれたのです。商業教育の体系は、実業補習学校、商業学校、高等商業学校になるのでした。渋沢は、私立京華商業学校、私立大倉商業学校、高千穂高等商業学校等の卒業式に講話をしています。
 
 さらに、渋沢は官立の名古屋商業学校や横浜中等商業学校の支援をしているのです。1918年に名古屋商業学校では、商業教育の必要に高尚なる人格養成の必要性を説いているのです。
 
 1910年に横浜商業学校の講話では、アメリカのビジネススクールを事例に、商工業者は秩序ある教育をうけていることを紹介しています。そこでは、学問と常識の融合、精神修養を怠らないように生徒達に講話しているのです。渋沢が広く商業学校の発展の気持ちをもっていたことは、私立の商業学校での講話や官立の中等教育学校の講話をしていたことからも伺うことができます。
 
 渋沢の商工業の人材育成を大学や中等教育に求めたことは、個別の企業と大学の利益の関係ではなく、社会的に人類的課題のなかで、学問の自由、教育の自由を大切にしていくことが必要であったからです。
 現代のように産学連携が盛んにいわれ、科学技術の立国論がいわれることが国際競争力という個別の企業利益重視ということではないのです。このことについて、平成15年4月の新時代の産学官連携の構築に向けての審議会のまとめが大切な視点を問題提起しています。
 
 これは、科学技術・学術審議会、技術・研究基盤部会、産学官連携推進委員会の合同審議会のまとめです。科学技術立国ををめざす産学官の構築にむけての答申です。大学の使命のなかに、学術研究の推進や高度の人材養成と同時に、社会的貢献のなかでの産学官連携の推進をうたっています。
 
 大学の社会的貢献は、大学の知的財産の国民への還元ということからの生涯学習的機能をもっています。国民的な還元というなかで、科学技術創造立国をめざす産学官連携という独自の課題をうちだしたのです。大学の使命としての社会的貢献は、地域コミュニティや福祉・環境問題といったより広い意味での社会全体の発展への寄与です。

 また、産学官連携の推進において、人材養成・活用面を審議会は重視したのです。産学連携は、大学の公共性という性格と、企業の私的利益性からの矛盾の問題をどう統一していくかということです。
 
 大学は、教育や研究を通じて広く社会の発展に貢献することを本質的な役割をもち、公共性の高い機関です。一方、企業の本質的な行動原理は私的経済利益の追求です。教職員が企業との関係で有する利益や責務が大学における教育・研究上の責務と衝突する状況が産学連携のなかで生じ得るのです。このような状況が「利益相反」「責務相反」と言われるものです。
 
 答申では、教育を受ける学生の学問の探究の自由性、学問の選択の自由という教育面の最大限の配慮を強調しています。産官学連携活動の重視によって、学生の教育を受ける権利の侵害、学問の選択の自由がおろそかになれば、大学としての大きな問題です。産官学連携は学生教育の充実という側面から問題を深めていく課題があるのです。
 
 渋沢の女子教育の奨励理念

    渋沢は、日本女子大学校に対する支持と尽力を積極的にしたと山内雄気氏はのべるのです。1888年に士族や貴族の子女を対象に東京女学館の創立にかわわりました。そして、1901年に大衆の子女を対象とする日本女子大学校の設立と運営にかかわったのです。
 
 渋沢の女子教育の理念は、女性の社会進出のためではなく、家庭と西洋式の家庭外の活動をしていく良妻賢母であったのです。渋沢は女子教育普及のために各地に寄付金を募る巡行の講演をしています。現代にみる女性の社会進出ということが家庭外の活動に限られていたということで、積極的に専門性をもって職業に携わるものではなかったのです。
 
 徳川家達渋沢栄一らを中心に1919年に設立した協調会は、 労働者学校として社会政策講習所と労働学院を開設しています。この労働者教育と渋沢がどのようなかかわりがあったのか、友愛会を創立した鈴木文治との関係も含めて、渋沢の人づくりという側面を労働者教育から深めていく課題があります。
  このなかで、労働者の権利問題としての労働組合員、団体交渉権の問題、さらに失業問題や貧困問題なども含めて、みていくことが必要です。当時の大正デモクラシーのなかでの労働運動や農民運動などの関連も含めて考えていむ課題があるのです。また、日本が植民地にしていった朝鮮半島や台湾の問題も資本主義の道徳問題、論語と算盤としては大切な課題なのです。
 
 

 

現代社会の退廃問題から渋沢栄一に学ぶ

 

稲盛和夫の仕事入門 (稲盛アカデミー選書)

稲盛和夫の仕事入門 (稲盛アカデミー選書)

 

 

 
 現代社会の退廃問題から渋沢栄一に学ぶ
 

神田嘉延

 
 はじめに
 
 渋沢栄一は、新札一万円の人物に選ばれました。彼は経済人のモラルとして、「論語と算盤」ということで、道徳経済合一を論じた人です。その論は、経済を拝金主義の私欲ではなく、公益を考えたのです。そして、彼は、教育や福祉などの社会貢献を積極的にしました。
 
 現代社会は大企業の経営者の不祥事が相次いでいます。信じられない私欲に走っている状況が多いのです。また、政権幹部、官僚の不祥事も相次いでいます。社会全体のリーダーのあり方が大きく問われているのです。さらに、拝金主義が横行して、次から次へと詐欺事件が起きているのです。このような状況でお金の意味を人間社会のあり方から考えることは重要です。
 
 薩摩の郷中教育では、偽りを言わず、身に私を構えず、心すなおにして、上にへつらわず、下をあなどらず、人の艱難(かんなん)を見捨てず、温和慈愛にしてと節義を申し合わせていたのです。(出水兵児修養の掟より)昔むかしから、日本人の武士道のなかには、うそをつかない、困難な人を助ける、いじめをしない、私欲に走らないということを子どものときから教えられていたのです。

 経営者のモラルとして論語と算盤を書いた渋谷栄一から学ぶことが現代社会は多いのです。渋沢 栄一は、明治、大正、昭和初期に、日本の経済人のリーダーの位置にたった人です。1840年3月16日に生まれ、1931年11月11日に他界しています。

 渋沢は、第一国立銀行東京証券取引所を設立し、多種多様な企業の設立・経営に関わった人物です。王子製紙東京ガス東京海上火災保険、帝国ホテル、麒麟麦酒東洋紡績などその数は500以上といわれる会社設立にかかわっています。渋沢栄一は、財閥を作らなかったことです。それは、私利を追わず公益を図るという彼の考えからです。
 
 渋沢は、研究機関や大学の創立に深く関わっています。教育理化学研究所の創設者でもあります。東京商法講習所(後の一橋大学の前身の基盤)を創立し、新島の同志社設立に積極的に支援しました。
 
 さらに、日本最初の福祉施設である東京養育院を設立した人物です。社会活動・政治活動では、普通選挙をめざす活動や世界平和のために積極的に実業家として参加しました。
 渋沢 栄一の思想は、道徳経済合一論です。その内容は、「論語と算盤」という書物のなかで説いています。渋沢栄一は、論語を基本にして、経営者を対象にしての講義をしています。(論語講義として講談社の学術文庫(1)-(7)にまとめられていますので参照)。
 
 渋沢栄一の師は富岡製糸の初代工場長になった人です。
 
 渋沢栄一は、1840年、現在の埼玉県深谷市です。生まれた実家は、養蚕などで大成功した 名字帯刀を許された富豪農家でした。渋沢栄一の師は、尾高惇忠(おだか あつただ)です。渋沢栄一より10歳年上でした。かれは、1847年から1868年ごろまで自宅で塾を開いていました。
 
 渋沢栄一が尾高塾に通ったのは7歳です。その後数年間学んでいます。渋沢栄一の生まれところから尾高塾の距離は、およそ1キロメートルです。この道は、栄一が論語を習いに通ったことから、「論語の道」と呼ばれるようになりました。

 尾高の思想は、陽明学知行合一でした。彼の教育者としての力量が社会的に大きく発揮されたのは、官営富岡製糸場でした。初代工場長の尾高は「至誠如神」(至誠神の如し)の四文字を経営理念としたのです。その四文字の意味は、「至誠神の如し、才能があってもなくても、素質があってもなくても、たとえそれがどんなに小さくても、誠意を尽くせば、その尽くしている姿そのものが神と同じ、神の如し。何か事あるごとに至誠神の如しということを思う」ということです。
 
 攘夷倒幕から幕府使節団のパリ博への青年時代
 
 渋沢栄一は、 幕末の激動する時代に青年期を過ごしていました。多感な青年であった渋沢は、1840年アヘン戦争でのイギリスの清国に対する過酷な要求を知りました。この国際情勢のなかで、日本の植民地危機観をもったのです。今の幕藩体制では日本は植民地になると考えました。1863年に、高崎城のっとりを企て、武器を購入するのでした。

 かれの考えは、高崎城をのっとり、その勢いで横浜の外国人居留地を焼き払い、攘夷のための決起を計画するでした。計画の段階で、従兄弟に未然に知られたのです。親族との激論によって、決起が見送られました。
 
 その後のかれの人生は、大きな転機を迎えるのでした。幕府に計画を知られるのをおそれた親類は、伊勢参りの理由で深谷のふるさとを離れさせたのです。実際は伊勢ではなく京都にいくのです。偶然に京都で一橋家家臣平岡円四郎と出会い、日本の未来に対する考えで意気投合するのです。
 
 渋沢は、この出会いによって、自分が倒そうと思った幕府の一橋家に仕官する運命になるのです。これは、1864年の出来事です。かれが、二四歳のときです。1866年2月慶喜の弟の徳川昭彦団長とするバリの万国博覧会使節団の経理担当として随員することになる。二七歳のときです。
 
    新政府の官僚ではなく、実業家の道へ

 渋沢栄一は、ヨーロッパ視察で、先進国から学ぶことの必要性を痛感しました。近代国家での銀行や企業の合本組織である株式会社を知ったのです。そして、社会的な営利活動の重要性に関心を示すのです。
 
 その後に、この経験が基で、士魂商才の経営者として、渋沢の経理実務能力が評価されていくのです。この経験と尾高から論語を学んだことから、士魂商才の経営理念を模索していくのです。 幕府の崩壊後、慶喜の近くにいため、静岡藩に在住しました。静岡で合本組織である商法会所をつくるのです。これは、銀行と商事会社を兼ねたものです。
 
 1871年に大蔵省の仕官をさそわれ、井上馨のもとで働くことになりました。そこで、銀行条例をつくるのです。大蔵省の勤めはわずか2年ほどでした。井上薫汚職問題なども発覚して、かれにとって、官僚の仕事は合わなかったのです。

 1873年5月(明治6年)に大蔵省を去り、実業家の道へ行きます。このときは、井上馨山県有朋など汚職問題で江藤に追求されたのです。かれらは、辞職に追い込まれています。新政府の腐敗問題が深刻になっていた時期です。 三井組と小野組組は、明治6年8月に、国立銀行条例による共同出資での設立が、第1国立銀行でした。渋沢栄一は、総監役として経営に参画しました。

 このとき、小野組は、全盛をほこっていました。しかし、激しい国際経済からの為替の変動は、小野組の経済基盤を一挙に突き落とすのです。為替御用を担当していた小野組は、金価格の騰貴によって、急激なインフレに直面するのです。それは、明治7年8月31日の出来事でした。国債の膨大な発行が銀行紙幣と金の兌換のバランスが大きく崩れ、信用不安の結果で、巨大な損失を受けるのでした。
 
 第1国立銀行の再生と渋沢栄一

 小野組は、公金を無期限無利子で預かった特殊銀行でもあったのです。銀行からの借金により、営業の手を広げていた小野組は破綻するのでした。第1銀行の経営も怪しくなり、小野組と第1銀行の関係を整理したのは、政府であったのです。

 明治7年11月に大蔵省は、各府県に小野組に預け入れていた金銭をひきあげるように命じたのです。小野組は抵当をすべて銀行にさしだしました。この結果、第1国立銀行の実損はわずかでした。第1国立銀行は、三井組の支配権になり、明治8年1月に渋沢栄一が監視役の総監から頭取に就任するのでした。

 そして、第1国立銀行の改革を行うのでした。西園寺をはじめ他の株主との協力によって、銀行の総株を250万株から百万株を減じました。三井との取引を一般方法に改めることにしたのです。渋沢は、頭取としての経営権を確立していくのでした。

 この時代の銀行は、民間株主の共同出資による経営です。国立銀行条例によって、全国に次々に民間の銀行が生まれ、設立の許可順にナンバーがつけられていきました。全国で153の国立銀行が生まれるのです。国立銀行条例は1896年(明治29年)に廃止されて、渋沢が頭取をしていた第1国立銀行は、株式会社第1銀行となったのです。

  日本最初の福祉施設である東京養育院の設立
 
 渋沢は、1874年(明治7年)11月に東京府知事からの共有金の取扱りを依託されました。明治5年まで町会所が保管していたものが、町会所の廃止で東京府庁の管理になった。本来、東京市民の共有財産であったので、東京営繕会議を設置して、管理することとなりました。

 会議所は、ガス灯の設置、道路・橋梁の整備などをしましたが、国賓としてロシア皇太子が日本に来ることで、数万人の路上生活者が首都の東京にいるのはよくないということから、共有金で保護することとなったのです。これが、日本最初の福祉施設である東京養育院の設立です。渋沢栄一は、東京会議所の委員に選ばれ、府知事から委嘱されて、養育院の監督もするのでした。
 
 養育院の子ども達の発達の様子

 渋沢は、養育院を視察して、入所している子どものことを語っています。養育院の子どもは親から捨てられた子どもであるということから、食物と住居が成長にとって悪影響となっていたことがわかります。最も貧しい子どもよりも発育が悪いし、挙動が活発でないし、なんとなく気の重いとっころがあります。

 渋沢は養育院に入った貧困の子どもを次のように観察しながらのべています。栄養不足のためかと思いましたが、一般世間の温かい家庭に育つことがないことに起因しているのです。すねる、はねる、甘えるという自由さがないない。
 笑うのも泣くのも、自分の欲望を父母に訴えてこれを満たし、あるいはみたさんとするひとつの楽しみがないのです。誰に頼ろうという対象もなく、自然に行動が不活発になり、幼いながらも孤独のさびしさを感じているというのです。それが、子どもの発育に大きな関係があるのではないかを知りました。養育院の子ども達は、家族的楽しみを受けさせることが最も肝心なことであるとのべているのです。
 
 養育院事業の困難性
 
 渋沢が養育院で最初に直面したのは、厳格な取り締まりではなく、普通の家庭のように、家族的ケアのとりくみの組織化でした。岡山孤児院を創設した石井十次は1892年に東京養育院を訪問していますが、何の為すことをせずに養われ、働く人々が窮民のなかから選んでいるのです。俸給はわずかであったことから、その難しい現状を知ったのです。
 
 石井は、東京養育院をみてきたことによって、独自に労働によって自活できる方法の確立を探り、また、東京市営の公的施設の職員ではなく、子どもを援助指導するひとたちをキリスト教慈善事業の人としたのです。 渋沢はこの道ではなく、慈悲の心を国民全体がもつ必要があるということから、社会政策による国家の公営事業としての養育院に専念したのでした。
 
 養育院は福祉事業全体を包容
 
 東京養育院は、公営として、障害児教育施設、窮民を一時的に保護する施設、高齢者の施設として、福祉事業分野を包含したものでした。養育院の出発は貧困者の老幼混在施設であったのです。在院の人数が増えることによって、児童と成人、障害児童施設に分離するようになったのです。

 東京会議所の事業は、1876年にすべて東京府に移管されましたが、渋沢は、院長職を続けます。渋沢の経済を担う経営者として、慈善事業は不可欠な仕事であったのです。彼は、終生持ち続けたのです。
 
 養育院の経営は、東京会議所の所有地を売却して、第1国立銀行と協定を結び、年利6%を購入しての収益で、運営していく方法を確立していくのでした。社会事業組織の資金保全や運用を第1国立銀行で引きうけることを確立していくのでした。年利9%ことで支援するこもあったのです。
 
 渋沢は、養育院の廃止論にも闘ったのです。

 窮民が生まれるのは、自由主義経済の必然的結果であり、社会政策として、その汚点が生じないようにすることは、資本を提供する第1銀行の経営者たる自分の責任として自覚していたのです。資本・経営の立場にたつ渋沢は、経営者の社会的貢献としての福祉事業を社会的矛盾の解決の一つの方法と考えていたのです。
 
 そして、養育院は単なる収容施設ではなく、社会へ可能な限り社会復帰できるような施設として、教育を重視したのです。自活していくにはほど遠い窮民の児童教育に特別に力を入れたのです。
 
 一橋大学の前進の商法講習所の設立
 
 1875(明治8年8月)に東京会議所は、商法講習所を作ります。この提案は森有礼であり、その提案を助け、尽力したのが、渋沢栄一でした。アメリカ人教師ホイットニーを雇うことになりました。私塾形式の商法講習所として出発しました。

 学校管理運営の費用は、共有金から支払ったものです。しかし、翌年1876年に東京市の所轄になりますが、1879年に予算の半減になるのです。このために、渋沢は、独立した商業教育の必要性を痛感したことから、農務省の補助をとりつけました。1884年農商務省が管轄する学校となり、1887年に文部省の高等商業学校になっていくのです。

 16年間努めた矢野二郎校長は、アメリカの商業教育を模範として、学区内に銀行、郵便局、仲買、保険などを設けて実地教育、商業に必要な学習と実地教育をしたのでした。渋沢は矢野の実践教育を高く評価したのでした。帝国大学に対して低い位置にあったことから学問重視の批判が学内にあり、矢野は辞任し、1896年に学科課程が細分化されたが、商業道徳を正規の科目にしたのでした。

 渋沢は、旧来の経験よりも新しい学識が必要と考えていましたが、同時に人格や道理を身につけることの重要性を説いたのでした。東京高等商業学校以外にも私立商業学校、商業補習学校、中等商業学校など様々な商業学校の支援を渋沢はするのでした。

   渋沢は、他の大学の創立にも尽力しています。同志社大学創立と渋沢との関係は深い。渋沢は、新島の同志社設立に積極的に支援したのです。1897年に日本女子大学の女子教育活動の援助もするのでした。女子教育にも積極的にかかわったのです。
 
 経済人としての外交活動と平和教育の推進

 渋沢は、民のための外交を願っていたのです。日清戦争後の賠償金を整理公債や軍事公債にあてるべきではないと主張したのです。それらは、物価騰貴、投機熱になり、恐慌の引き金になるのではないかと一時的な貨幣の流入を警戒したのです。
 
 渋沢は、経済を自由放任、自由主義の立場から、賠償金を産業奨励に使うことに反対したのです。また、当時の欧米情勢からの脱亜入欧施策の金本位制度導入にも反対したのです。日清戦争後の軍備拡張によって、貿易収支が大幅な入超になり、外債による外資導入になったのです。渋沢は外債発行ではなく、民間への外資導入を提案していた。安易な公的な資金導入は、長期的に日本企業の国際競争力を弱めるというのが渋沢の考えであった。

 日露戦争後に、日米経済関係に大きな摩擦が起きていくのです。政府は軍備増強路線をとっていくのです。日本人移民排斥という人種差別が起きるのです。これに対して、渋沢は、組織的に行うために、商業会議所をとおして民間経済外交を積極的に展開したのでした。民間経済外交は、日本商品の流通にかかわる関税、輸送手段の値上げや商品にたいする苦情や批判にこたえるために業界レベルで対応するなど関心が高かったのです。

 1921年に81才の高齢にもかかわらず、ワシントン会議にオブザーバーとして参加しています。民間経済外交として、太平洋の平和と進歩に貢献するためであったのです。外相は平和外交推進役の幣原喜重郎で、首相は原敬であった。
 
 ワシントン会議終了後は、アメリカの対日感情が好転して行きます。大正デモクラシーのもとに世界平和を唱える国際交流が活発になります。しかし、第一次世界大戦の景気にによって、実業界に平和に対するモラルが低下したのです。

 1924年に排日移民法アメリカ議会で通過するのでした。日本国内に反米感情が増していくのです。アメリカの雰囲気が保護主義と結びつき日本に経済制裁を起きないように渋沢は努力するのです。普通選挙をめざす活動や世界平和のための社会活動などにも参加し、国際交流を推進する平和教育構想をうちだすのです。
 渋沢は、意識的に国際交流教育活動をとおして、日本の国際社会の存在を主張していくのです。世界は、常に進歩発達していくので、それに対応していくことが国際化ということで、実業教育を重視したのです。渋沢は、論語を基礎としての徳育を実業教育と関連させました。
 
 しかし、新島の徳育論を評価し、同志社を積極的に支援したことにみられるように、キリスト教批判になったわけではなく、実業と倫理の普遍性ということを大切にしたのです。ここに、世界と積極的に文化交流していて、国際協調主義の立場をとっている渋沢の姿勢がみられるのです。個人主義と国家的団結、経済問題と社会政策、実証主義の気風と宗教的理想主義、社会の現実に応ずべき教育と道徳教育などの世界がかかえている困難な課題は、西洋と東洋を問わず、世界文明がかかえている普遍的な解決すべき問題としているのです。そして、第一次世界大戦を契機として、国際の道徳として、弱肉強食の競争主義からの国家エコイズムの克服という平和教育の課題をあげているのです。
 
 労働運動に対応しての協調会の設立
 
 1919年に協調会が設立されますが、渋沢栄一は副会長になっています。このとき79才です。労働運動が高まっていく時期に渋沢は、資本と労働との調和という協調主義の立場をとったのです。経営側と労働者側の双方から委員を出して問題の解決していく方法を賛同したのでした。労働争議の調停機能を渋沢は期待したのでした。

 1916年に、喜寿を迎える76才のときに第1銀行の頭取の職を辞して、実業の世界を引退しているときです。渋沢は労働組合なしに正しい労使関係はないと考えていました。サミュエル・ゴンバースが指導するアメリカ総同盟の指導のもとに労働者の地位向上、賃上げ、権利確立に努力している運動に理解を示していたのです。日本の労働運動の指導者の鈴木文治に1915年にサミュエル・ゴンバースにあわせるために渡米させるほどであった。

 協調会は、労働者に対する講習や講演会を展開し、労働学校の経営を行った。また、政府に対する労働政策の建議や職業紹介をするのでした。さらに、労働問題に対する調査活動や雑誌の発行などもしたのでした。そして、欧米の労働問題の翻訳もしたのでした。協調会の活動は多面にわたっていたのです。
 
 渋沢は協調会をとおして、労使の食い違いを道徳的に、人情的に解決しようとしたのです。当時の経営者は、労働組合を危険視していたので、渋沢のような考えは少数派でしたが、大正デモクラシーの影響のもとに、社会政策を重視する新官僚が育っていった。内務大臣の床次竹二郎を中心に、渋沢日本工業倶楽部に参加する財界人、桑田熊蔵法学博士、松岡均平法学博士等の学者も加わりました。
 
 推薦された大日本総同盟友愛会の鈴木文治は、労働組合抜きの協調会であるとして、参加を拒否したので、労働代表は加わっていない。
 
 青年団運動の精神的支柱になっっていた田沢義鋪は、渋沢の強い意向で協調会の常務理事になりました。かれは、労務者講習会ということで、青年労働者の修養に力を入れた労働者教育活動を積極的に推進するのでした。講習の受講者は、修養団体に入団して、団員を拠点に各企業で活動するのでした。
 
 協調会が経営していた中央労働学園は、戦後に法政大学に移管され、社会学部となり、協調会が収集した資料は、法政大学大原社会問題研究所が管理して、公開しています。

渋沢栄一の思想を論語と算盤からみる
 
 渋沢の士魂商才とは
 
 渋沢の学問論は、日常生活の指南です。そえは、人生処世上の基準になり、実際を離れたものではないとするのです。 渋沢栄一は、人の世に立つには、武士的精神が大切と考えたのです。商才がなければ経済が自滅するとみたのです。士魂養成は論語が根底にあるとしたのです。渋沢は、論語の教訓に従って、商売し、利殖を得ることができると考えたのです。
 
 かつて、商人のなかには、商売に学問は不要であるという見方が強くあったのです。むしろ、商売にとって、学問は、害になるとしたのです。渋沢にとって、論語の教えは、広く世間の効能があるとみたのです。
 
 論語は元来わかりやすいものです。学者が論語の解釈をして、むずかしくしていると渋沢はみるのです。商人や農民は論語を手にすべきではないというのは間違いです。因果の関係は、ある一定の時期に達するまでは、人力で到底形勢を動かすことができないのです。形勢をみて、気長に時期の到来を待つのです。
 
 常識とはなにか。それは、智恵、情愛、意志の三者が均衡に保ち、発達していくことです。智恵は、物を識別する能力、善悪是非の識別、利害得失の鑑定、利あることを利ありと見分ける力をもつことです。どんなに学問であっても、善悪是非、利害得失の鑑定に欠けた人であれば、常識のない人間です。
 
 渋沢は問いかけます。人格の標準はどうなのか。人と獣はどう異なるのか。人は徳を修め、智を啓(ひら)き、世に有益なる貢献を為すことによって、真の人となる。元気とはいかなるものか。いたって大きく、いたって強く、道理正しく至誠をもって養って、それがいつまでも継続することです。
 
 ところで、算盤と権利の関係を考えていくうえで、論語主義は、権利思想がないというのは誤りであると渋沢はみるのです。キリスト教の愛と論語の仁とは同じです。自動と他動の違いがありますが。仁にあっては、師に譲らずという論語の思想です。人間行為の定規は、王道あるのみです。
 
 合理的経営は道理をもって処するのです。論語をもって商売上のバイブルとしてきたのが渋沢です。一個人に利益ある仕事よりも、多数社会を益していくのでなければならぬという見方です。多数社会に利益を与えるには、その事業が堅固に発達して継続して、繁昌しなければならないとしたのです。渋沢は、このことを常に心がけたのです。
 
 渋沢にとって、武士道は実業道です。日中間は、同文同種の関係です。隣接する位置よりも古来より思想、風俗、趣味の共通する点があります。相愛忠汝(そうあいちゅうじょ)の道をもって交わるべしとしたのです。渋沢にとっての隣国たる中国は、バイブルであった論語を生んだ国であり、文化、思想の共通性からの相愛忠汝の国際関係は重要なことであったのです。
 
  渋沢の思想は道徳経済合一論です。かれは、経済人として、日本の近代の形成における公益追求者であったのです。渋沢栄一の思想の説得力があるのは、経済人として、実践的に数々の成功を遂げたことが大きいのです。
  
    自己の適材適所と処世・信条
 
 渋沢にとって、人は平等なりという根本的な見方をもっています。適材適所に置くということです。適材適所の配属は、道具を使って自分の勢力を築こうとするものではないのです。適材適所は、国家、社会に貢献していくことが目的です。
 従って、この信念のもとに人物を待つとしています。巧みに人をあざむく色彩をもって、人をはずかしめ、自分の思うままの家来として、人を封じ込めてしまうようなことは決してしないことを渋沢は強調しているのです。
 
 活動の天地は自由でなければならないというのが渋沢の信念です。自由自在に大舞台に乗り出して思うままに活動してくれることを願っているとするのです。人は節制ある礼譲ある平等でなければならないとしています。お互いにおごらず、あなどらず、互いに相許してわずかなことまで乖離することがないように勤めるように渋沢は努力するとしています。

 争いは決して排除すべきことではないと渋沢は考えます。処世のうえにも、発達進歩のために必要なことです。むしろ重要なことは、その解決方法が真髄なのです。渋沢は、争いによって、問題が解決していくこととして、積極的に位置づけているのです。かれが、晩年に労使の話し合いを制度的に提起した協調会の創立に尽力したのもかれの争いを積極的にとらえようとする思想からです。

 渋沢は、自己の維新前のことを振り返りながら逆境について考えるのです。真の逆境とはいかなる場合をいうのでしょうか。時代の推移、常に人生の波瀾のあることはやもえない。逆境は絶対にないことはありません。人為的逆境であるのか。自然的逆境であるのか。どのように考えますか。
 
 自然的逆境は、自己の本分であると覚悟するのが唯一の策です。足を知り分を守ることです。天命であるからしかたがないと考えるのです。この場合も一般的には、人為的に解釈していくことが多いのです。人間の力でどうにかなるものであると考えると苦労が増すのです。

 人為的逆境の場合は、何でも自分に省みて悪い点を改める外ないのです。それは、自動的なもので自分からこうしたい、ああしたい、こうしたいと奮闘すれば、大まかにその意のごとくになるものです。しかし、多くの人は自ら幸福なる運命を招こうとせず、手前の方から故意にねじけた人となって、逆境を招くようなことになるのです。
 
 渋沢が青年で最も注意すべきことに、喜怒哀楽の問題であるとのべます。喜怒哀楽の調整が大切なのです。酒を飲み、遊びもするが、淫せず、やぶらずということを常に肝に命じていたのです。何事も誠心誠意することです。
 
 わざわいがやってくるのは、多くは得意になっているときです。調子にのるとわざわいをつくりやすいのです。得意時代は気を緩めず、失意のときは落胆せず、道理をもって処する必要があると渋沢はのべるのです。
 
 渋沢は、大事と小事のことを考えることも大切としています。小事は、軽く考えがちになるのです。大事は、いかに処すべきかを精神を注ぐものです。小事については、頭から馬鹿にして、不注意にやり過ごしてしまいます。小事かえって大事となるのです。大小にかかわらず、性質ををよく考慮して、処するように心がけることが必要とみるのです。
 徳川家康の遺訓は、処世の道を説かれていますが、それは、論語が出たものとしてのべています。家康の有名なことで、「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし」「己を責めて人を責むるな」「不自由を常に思えば不足なし、心に望み起こらば、困窮したる時を思い出すばし」は論語から出たものです。
 
 
   智慧と情の調和
 
  渋沢は智慧と情の調和は次のように考えます。功利を主とすれば智慧の働きが多くなり、仁義道徳の方面は遠くなります。智慧の弊として、術数に陥り、欺瞞詐欺を生ずる場合があるのです。情は、自己本位をもって他人の迷惑や難儀なぞ何ともおもわね人間になってしまうことに対するひとつの緩和策です。
 
 情の欠点は、感情の弊が起きます。ここに確固たる意志が大切になってくるのです。智慧と情愛と意志を適度に調和したものを大きく発展できる人が常識をもっていることになります。誠意がなく、所作の巧みな人間がいますが、人の志まで見抜くことは容易ではないのです。
 
 智恵、情愛、意志の三者が均衡に保ち、発達していくことです。智恵は、物を識別する能力、善悪是非の識別、利害得失の鑑定、利あることを利ありと見分ける力をもつことです。
 
 智は策術や功利に走る欠点があります。それは、仁義道徳から遠くなります。人間世界から情をはずしたらなにもかも極端に走るのです。情の欠点は、喜怒哀楽より生ずるのです。事柄は変化が強いので、感情に走りすぎるのです。
 意思は、情を抑制します。意志は精神作用中の本源です。強固な意志であれば、人生においてもっとも強みになります。意志の強さは頑固もの、強情なるものと異なるのです。意志の強固さと聡明なる智恵を加味し、これを調節する情をもって、完全なる常識となります。
 
 どんなに学問があっても、善悪是非、利害得失の鑑定に欠けた人であれば、常識にない人間です。功利を主とすれば智慧の働きが多くなり、仁義道徳の方面は遠くなります。智慧の弊として、術数に陥り、欺瞞詐欺を生ずる場合があるのです。

 情は、自己本位をもって他人の迷惑や難儀など、何ともおもわね人間になってしまうのです。情の欠点です。ここに確固たる意志が大切になってくるのです。智慧と情愛と意志を適度に調和したものを大きく発展できる人が大切になってきます。 心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすいのです。誠意がなく、所作の巧みな人間がいますが、人の志まで見抜くことは容易ではないのです。
 
   真正の利殖法とはなにか 
 
 真性の利殖法について、渋沢は考えます。仁義道徳がなければ決して利殖は永続きはしないというのです。空理空論なる仁義では、国を元気にしないし、物の生産力を薄くしてしまう。
 物を進めたい、増したいという欲望は常に人間の心にもたねばならない。しかし、その欲望は道理によって活動することが必要なのです。道理と欲望は、相密着していることが大切なのです。
 
 孔子も生財と善意の競争を強調していると渋さはのべます。孔子の貨幣富貴観 仁義王道と貨幣富貴を統一して孔子は考えています。この二者は両立しがたい考えがちですが、論語の正しい解釈で問題が解決するのです。 大学には生財の大道をのべています。一般人民の衣食住の必要から、金銭上の関係から政務をのべているのです。
 
 競争には、善意と悪意があります。朝早く起き、善い工夫をなし、智慧と勉強とをもって打ち克つのはよい競争です。他人の企てたことをかすめとることに翻弄することは、悪い競争です。悪質なる競争を避けることは、論語の勉強です。
 
 渋沢は、利の行為において、仁義の重要性を指摘しているのです。利にとって、仁義は絶対的な条件なのです。利は、公利を害せぬように道理に照らすというのです。仁義道徳がなければ決して利殖は永続きはしないのです。空理空論なる仁義では、国を元気にしないし、物の生産力を薄くしてしまう。

 商業は、相愛忠恕です。忠恕(ちゅうしょ)とは、孔子の唱えた人間の最も本能的で基本的な徳です。「忠」は人間が自然に持っている真心です。「恕」は人間が自然に持っている思いやり)の道をもって交わるべしというのです。
 
  利殖は、仁義道徳を基礎にしていなければ、永続しないと道徳経済論を強調したのが渋沢栄一です。金銭欲による弊害の罪は金銭からではない。金銭は、社会の力を表彰するのです。これを貴ぶのは正当です。必要の場合に、よく集めてよく散じて社会を活発にします。
 経済界の行為は、世の中の進歩を促すものです。金銭を善用するという仁義道徳が経済人に求められているのです。以上にように、道徳と経済を合一することによって、経済の行為が社会的な貢献になると渋沢はのべるのです。
 
 
  人間を見る目
 
 孔子の遺訓の人物観察は、視、観、察です。視は外形からみるのです。観は、心眼を開いてみるのです。その人の安心はいずれにあるかみる必要があります。その人は何に満足して暮らしているか。その行為の動機の精神が正しくなければ、その人は決して正しい人ではないのです。行為と動機と満足する点の三点がそろっていれば、その人は正しいのです。

  動機と結果の関係があります。心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすい。誠意がなく、振る舞いの巧みな人間がいますが、人の志まで見抜くことは容易ではないのです。
 
 参考文献
島田昌和「渋沢栄一社会起業家の先駆者」岩波新書
木村昌人「渋沢栄一・民間経済外交の創始者中公新書
渋沢研究会編「公益の追求者渋沢栄一」山川出版
 

再生可能エネルギーとコミュニティでのESD

再生可能エネルギーとコミュニティでのESD
      神田 嘉延
 
 再生可能エネルギーは、集中型で大規模な発電からの脱皮
 
 再生可能エネルギーは、石油・石炭、原子力から分散型で自然と共生のためのものです。大量エネルギー創出生産に終止符をうつものであります。人々が暮らす地域で分散的エネルギーを創出するもので、メガソーラーを山間地に大規模に開発するものでもありません。
 
メガソーラーは再生可能エネルギーではない
 
 メガソーラーは、森林を伐採して、水源を破壊し、土地を造成して、森林や水田など自然と共生していた人間の暮らしのもつ防災機能をなくし、電磁波や発光の人体被害をもたらします。また、自然景観や生態系を破壊し、歴史文化遺跡を消滅させます。
 
 メガソーラーには、膨大な設備投資が必要となります。そして、大規模な発電ということから地域でのエネルギーをまかなうということではなく、広い範囲での電気利用のために送配電網が必要となります。送配電ということで、途中で電気が消耗していくのです。また、配電の需要と供給のバランスがくずれることにより、広い範囲で停電が起きるのです。大規模な発電網では、発電量のロスが大きく働きます。
 
  エネルギーの地産地消・コミュニティ単位で発電
 
 
  コミュニティ単位で発電をして、それを蓄電し、コミュニティで利用していく新しいエネルギーのしくみが社会的課題になっているのです。つまり、スマートコミュニティの創出です。また、各家庭でのスマートハウスや工場やオフイスでのスマートビルなどが課題になります。
 
 それらは、集中的な大規模なエネルギー創出ではなく、日常的な暮らしや仕事の場で作られます。そして、エネルーギー創出施設と日常の暮らしや仕事が矛盾しないように工夫されます。つまり、共生の配慮が意識的にされるのです。
 
 再生可能エネルギーでも技術方法に伴う、様々な弊害が起きます。万能ではないのです。それを除去していく科学技術の発展や住民参加が必要です。再生可能エネルーの施設設備には、目的意識的に環境共生や人命・身体被害を想定する開発が要求されます。大規模な発電システムは、住民参加がなく、とかく僻地などにつくらえることが多いのです。そして、自然破壊や人々の生活に大きなマイナスをもたらすことがあります。
 
 スマートコミュニティ、スマートハウス、スマートビル等では、住民が日常的に電気の使用や設備など管理をしながら問題点を自ら発見していくようになるのです。そこでは、エネルギー創出の参加が必要になり、地域やビルに蓄電していくしくみに変わります。
 
  地域での蓄電によって、大規模な発電方法や電気の送配電網や広域的調整は、必要なくなるのです。膨大なロスがなくなり電気の効率的な製造のしくみに変わるのです。電気は、照明や家電製品を動かし、暖房等の熱に転換するばかりではなく、電気自動車の普及によりガソリンに変わる時代がくるのです。
 
 マイホームやビルでの発電によって、台風や大雨で住宅被害があれば自ら専門家の工務店等に依頼して修理をしてもらうのと同じように、再生可能エネルギーの施設のトラブルを即時に専門家に依頼することができるのです。そのための基礎的知識や訓練は、将来的に学校教育でのリテラシーの課題になっていきます。
 
 再生可能エネルギーと称してのメガソーラーや大型風力発電などは、開発による自然破壊、電磁波問題、反射光、風による倒壊被害など多くの問題が起きます。再生可能エネルギーは、技術的な発電方法の問題ではなく、自然循環のエネルーギーとしてとらえることが必要で、自然と共生していく人間の知恵からのエネルギー創出です。再生可能可能エネルギーは、自然破壊するメガソーラーや大型の風力発電の開発設置ではないのです。
 
エイモリー・B・ロビンス・山藤泰訳「新しい火の創造」
 
 エイモリー・B・ロビンス・山藤泰訳「新しい火の創造」ダイヤモンド社出版は、再生可能なエネルギーの理念やビジネスで未来社会を考えていくうえで大いに参考になります。
 
 本書では、集中型火力発電や原子力からもっとも安い分散型再生可能エネルギー創出をあげています。また、同時にエネルギー消費の効率をあげていくことを提案しているのです。福島の原発事故で世界のエネルギー創出のあり方が根本的に変わったとしています。世界中で原発を止めて、新しい再生可能エネルギー創出とエネルギー消費の節約に向かっていくことが新しい人類的課題となったとしているのです。
 
 また、化石燃料依存からの脱皮は、世界の安全保障の面から、その構造が変わっていくとしています。エネルギーは、世界の紛争、汚染、リスクの源であるというのです。石油をめぐっての争いが軍事衝突につながっていくのです。石油依存の経済コストとして、中東をめぐる安全保障のコストの問題が大きくあります。
 
 中東での安全保障の軍事費用は、石油採掘現場で支払う金額以上に、大きいというのです。その軍事費用は、米国人が支払うエネルギー代金総額をはるかに上回っているのです。また、石油の施設もテロに対して脆弱です。
 
 燃料の非化石は新しい時代をつくりあげるのです。デンマークは、2008年に建てられた住宅は、1977年以前の住宅の半分以下のエネルーギー消費の構造になっています。新規に建設された発電設備も再生可能エネルギーが電力と熱利用に同時に利用できる発電機です。デンマークは2050年までに完全な脱化石燃料の脱却を計画しているのです。
 
 エネルギー需要を広汎な技術供給によって、精密、かつ得になるように合わせることができるようになっているのです。電力を得ることは、もっとも安いときに、もっとも高価なときには停電して、不便なしに電力を利用することができるようになっている時代が現実的に可能なのです。
 
 分散型の再生可能なエネルギーの時代には、これまでとは違う車の設計が必要です。超軽量の素材によっての車の製造という技術革新です。燃料タンク、車体、車輪に至るあらゆるところで軽量化の開発が求められるのです。
 
 そして、ガソンリンエンジンから電気自動車の時代となるのです。つまり、自動車の製造方法が抜本的に変わっていくのです。さらに、また、新たなバイオ燃料としての藻類の開発を次世代の開発技術になるのです。
 
 住宅、学校、高層オフイス、工場をはじめとする建物をどのようにすればエネルギー削減になるのかを考えていく必要があります。建物の省エネルギー化には、スマートウインドウの開発、改良型蒸発式冷房の開発、高度強化断熱材の利用があります。さらに、温度が上がると溶けることで熱を吸収する相変化素材の利用、LEDの利用など様々な工夫によってのエネルギー利用削減が可能になるのです。
 
 ものづくりの工業の再構築では、無駄な大量の廃棄物の工場生産からの脱皮です。典型的に鉱石を掘り出してわずかしか使わず、全部すててしまうプロセスの現代工業とは正反対に、空気、太陽光、水、土壌など以前に作られた有機物の原材料から製品をつくる工業への発送転換です。
 
 自然循環型の工業資源と未来へのエネルギー設計

 くもは繊維より強い絹織りの網に変えます。樹木はステンレスのスチールよりも強い繊維になります。また、貴重な香木、良くきく薬や無数の製品に交換されれます。自然循環型生産の発想は、希少な資源を使い尽くしたり、自分の出した廃棄物で窒息したりすることなく、わずかなエネルギーを使って、自分たちのニーズに応えるのをどのようにすれば可能になるか示してくれます。ロビンス氏は以上のように新たな自然循環型の素材を利用した全く新しい工業の構築をのべているのです。
 
 自然がもつ無尽蔵なエネルギー源は、分散型再生可能なエネルギーを可能にするのです。再生可能エネルギーは、コストが高いと言われます。しかし、風力発電太陽光発電、水路等小型水力発電バイオマス発電は、コスト削減が行われています。
 
 工場のゼロエミッションなどは持続可能な循環型生産システムとして注目されることです。南九州は焼酎生産が活発な地域です。例えば、霧島酒造では焼酎粕が一日あたり約650トンといわれます。それを発酵させ、メタンガスにして、それを工場内の焼酎製造工程のボイラー燃焼に44%利用し、56%をバイオガスによる発電に利用しています。3基の合計で850万KWH/年の発電電力量です。バイオガスを蒸留設備の燃料と乾燥設備の燃料に利用して、それを飼料にしているのです。現状は、2000世帯分の電力を売電していると会社はのべているのです。
 
 ところで、電力を貯蔵する技術開発が進んでいるのです。分散型発電は地域に設置されるため、基本的な電力供給需要に対応するのに、大規模な電力系統に頼る必要がないのです。分散型発電は、送配電系統に起因する停電のリスクはないのです。電力システムを変える大きな力は、電力需要家であるとロビンス氏の強調する意見です。
 
 ロビンスは、選択肢は多いが未来はひとつであるとのべています。2050年の未来から今を振り返る思考方法をとっています。電気自動車は40年前の重さの3分の1になっています。
 
 コミュニティは、自動車ではなく、人の周辺につくられています。遊びや買い物は、歩いて行ける場所になるのです。食料の大部分は、10マイル半径の顔見知りの農家で仕入れる人が多くなります。人々は、カーシェアリング、超軽量鉄道、小型バスでの移動が行われます。働く人は、オフイスへ行くが、3日ないし、4日になるというのです。
 
 2050年の目標の6つの課題
 
 2050年の目標にたどりつくには、教育、イノベーション、リーダーシップです。そして、政策と規制の変更が必要です。目標の達成には、6つの課題があるとしています。1つは、自動車産業の転換です。2つは、自動車の走行距離、荷物の異相・重量の大幅な削減です。
 
 3つは、エネルギー消費の効率の高い建物を大規模につくりあげていく。4つは、再生可能エネリギーからの熱と電力の供給を増やすための国家経済を推進すること。5つは、再生可能エネルギーコストの削減をしていくこと。6つは、分散型再生エネルギーの電力系統の販売量を増やす方策をしていくこと。以上の6点を目標を達成するための課題としているのです。
 
 正しいリーダーシップが発揮されるのであれば、新しい火の創造が可能であるとするのです。新しい火の創造は、命令的なものではなく、寛容なものだというのです。誠実な価格で公正に競争しながら火の創造を行うことを要請するのです。他人に賛成を強要するように求めるのではなく、共に力を合わせ、共有することから仲良く火を創造するのです。
 
 新しい火の創造の著者は、ビジネスの視点を含めて、誠実な価格で公正に競争しながら、コミュニティを基礎とした分散型の再生可能なエネルギーを創出するのです。それは、未来社会創造を展望しくのです。この創出には、共に力を合わせて実現していくことを指摘しています。そこでは、寛容の精神が必要です。教育の力も加味しながら実現していくものです。
 
 貧困な国のエネルギーの課題
 
  貧困な国では、エネルギーの消費効率は極めて悪いのです。電力供給から切り離された時代遅れのエネルギーを使っています。この世界での対象者は16億人にあがるとされます。さらに、10億人が高くて使えないというのです。世界の5分の2は、エネルギー貧困状態にあるのです。
 
 これらの人々に、灯油から蛍光灯の照明にするために、太陽光発電が利用されるような教育運動が起きています。それはベアフットカレッジという名称をつけた運動です。文字の読めない女性たちを教育して、太陽光発電のエンジニアに育成します。その技術を自分の村で使います。自分達で、太陽光発電を建設して維持管理をしているのです。太陽光発電で効率のよいLED照明を使い、娘達が夜に読書して勉強できるようにしているのです。
 
 簡易なソーラー発電は、ランプを使用していたときよりもお金の余裕ができました。そこでは、蚊帳のネット、清潔な水など貧困化から立ち上がることができたとしています。まさに、地域での分散型の簡易なソーラー発電によって、再生可能なエネルギーの転換によって、自立的な経済発展の展望が生まれているのです。ここで、まず大切なことは、どのように教育を提供するということではなく、どのように優れたコミュニティをつくるかです。教育は、そのうえで達成されていくという考え方です。

 

環境問題と地域の自立的発展―離島・へき地を中心にして

環境問題と地域の自立的発展―離島・へき地を中心にして

 

 

 
 
 
 
 

霧島山麓の大規模メガソーラー建設問題と歴史文化の破壊

霧島山麓の大規模メガソーラー建設問題と歴史文化の破壊
             神田 嘉延
 
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    1,大規模な自然破壊の恐れ

 185ヘクタールに80メガを上回る出力の大規模な太陽光発電霧島神宮周辺の山間部で計画されています。この開発地域の周辺には、別荘や介護施設、温泉を利用した病院など余生の憩いの場にもなっているところです。鹿児島市には、7ツ島に、70メガの大規模な太陽光発電所があります。それを上回る規模です。中国系資本等の外国資本を含む事業者が、霧島神宮周辺の土地で、メガソーラーを計画しているために、現在は測量を実施しています。ここは、次々に土地所有者が変わり、事業計画者の転売などによって変わっているのです。
 
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 しかし、固定価格買取制度によって、1キロワット時当たりの買取価格を36円のときの契約なのです。その後、どんどん下がって、現在は、2019年まで14円ということです。従って、もうかるということで、土地も含めて、売買が盛んに行われているのです。この固定価格買取制度は、二〇年間の期間で国民が電気料の形で支払っていくのです。契約のときと、事業実施の時期が大きくづれても容認しているのが、固定価格制度の問題点なのです。
 
 固定価格買取制度によって、霧島神宮の巨大なメガソーラー開発は、仲介業者や管理業者が間に入って、土地の所有権、事業者の売買がされているのです。そして、背後に莫大な建設費がかかるということから、融資する金融資本がかかわって値上がりが行われてマネーゲームがされているです。
 
 
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 ここは、霧島の水源地でもあります。保安林にもなっている地域もありります。全体として、膨大な森林地帯です。さらに、急傾斜が多く、自然災害の警戒地域にもなっています。霧島神宮周辺は、天孫降臨の神話伝説があり、古くから修験道の聖なる地でもあったのです。まさに、自然と歴史文化の観光地です。
 
 霧島神宮周辺のメガソーラー開発は、急傾斜の地域が多いところですが、そこの森林を伐採して、山を削り、 造成して、大規模なメガソーラー設置を計画しています。このメガソーラー開発は、自然破壊による大規模な災害の恐れがあります。さらに、霧島神宮を中心としての自然文化の歴史を破壊するのです。
 
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 霧島市議会は、メガソーラー反対の請願書を委員会で全員一致で採択しました。そして、3月28日の市議会本会議で全員一致でメガソーラー反対の陳情を採択しました。前市長が、メガソーラー・大規模地熱発電促進(霧島市再生可能可能エネルギー事業者協議会)を設置していて、霧島市内の山間部のいたるところでメガソーラーの建設が進んでいったのです。その自然破壊の問題が生まれています。また、温泉枯渇問題で大型地熱発電も地域との摩擦を起こしていました。現在の市長は、霧島神宮周辺の80メガのメガソーラー開発に反対表明をして、その趣旨を開発業者に通達したのです。
 
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 それでも業者は、メガソーラー開発の測量を強行しています。許認可権は県にあると法律に即してやっていると豪語しているのです。3月31日に管理・斡旋業者の霧島神宮周辺のメガソーラーの執行役員の人に住民の反対の意志と開発事業体制のそれぞれの立場と役割、5月より、事業者の環境影響調査実施に県との協議をどのようにされているのか等の質問状を手渡しました。
 
 管理事業者は、盛んに霧島周辺のメガソーラー促進に賛成する自民党の県会議員のいること、土地を売った人々はメガソーラー促進に賛成であって、地域住民は全員反対ではないことを強調したのです。県のメガソーラー設置のための担当者から認可をうけられるようにたびたび指導をうけていると発言されていました。
 
 かれらの考えは、「われわれは、地域にお金がおちることを社会貢献と思っています。土地を持っているいる人たちにも高い値段で買ってやっています。積極的に買ってくれというひとたちもいるのです。メガソーラーは企業誘致として、積極的に促進する人々がいる」ということを強調したのです。
 
 市議会でのメガーソーラー反対陳情に全一致の採決、市長が反対表明しているにもかかわらず、自民党の有力政治家が賛成していることを理由に社会貢献をする事業であると豪語するのでした。今の時代は自民党の力を使えばなんでもできるという姿勢で恐ろしい気がしました。
 
 県の態度は法律に即して、書類の審査を行うとしています。前鹿児島知事は、原発廃止をかかげて前知事の自民・公明推薦の知事を破り、当選しました。しかし、その後変質して、川内原発の再稼働を鹿児島大学の教授を座長とする委員会に委嘱して、その委員会の安全性の確認をしたということで、原発の再稼働を承認したのです。このように県民を裏切っであった知事ですので、メガソーラーについても心配であったのです。あいまいな態度を示している前知事でした。現在の知事は前知事の自民党推薦を破りました。県民運動として、知事を支え、態度を明確にさせう必要があります。つまり、知事に自然環境を破壊するメガソーラー反対の態度表明をさせなければなりません。
 
 霧島神宮周辺のメガソーラー反対協議会は、原発を廃止して、再生可能なエネルギーを開発していくことは大切という立場です。前知事は、再生可能エネルギー開発を盛んに言っていたのです。
 
 しかし、再生可能なエネルギーの開発が乱開発によって、自然破壊をして、森林のもっていた防災機能や自然景観を破壊することとは全く違うのです。この地域は、自然災害警戒地域です。再生可能エネルギーは自然からの恵みという視点が大切なのです。自然循環がなくなっていけば、恵みをもらうことはできないのです。
 
 まさに自然における神の恵みとして、霧島山麓があるのです。この自然の恵みから、おいしいミネラルを豊富に含んだ水が販売され、名酒の焼酎がうまれ、最も価値ある米が生まれていくのです。そして、景観と歴史文化を求めて多くの観光客が訪れ、様々な産業が生まれているのです。
 
 また、霧島山麓の新燃岳、高千穂の火山の爆発危険のある地域です。火山と共に生きてきた地域の歴史です。たびたびの噴火によって、霧島六社権現の御神体は移動したのです。豪雨や台風の被害も多く、多量のソーラーパネルが豪雨や強風によって破壊される心配があります。
 
 ソーラーパネルが老朽したとき、災害などでのパネルの残骸物をどのように処理していくのか。ソーラーパネルには、腐食剤のために水酸化ナトリユム、フッ化水素など、鉛やセレンなどを含む有害化学物質が使われていたりすることがあります。さらに、パネルを支える架台をどうするのか。除草対策をどうするのか。除草剤を使うのか、除草シートを使うのか。いずれもその膨大な処理の問題が起きるのです。
 
 また、パネルによる反射光の問題もあるのです。ソーラーパネルは、火災が起きても発電はやめてくれないのです。消火活動の支障をきたすのです。メガーソーラーの安全・安心対策には、様々な課題があるのです。
 
 
 再生可能エネルギーは自然環境です。自然環境は地域の自然との共生で、地産地消が基本です。自然破壊のメガソーラーは、再生可能エネルギー開発の趣旨に全く反することです。乱開発の自然破壊は、再生エネルギーではありません。さらに、現在霧島神宮周辺で行われているメガーソーラーの開発は、貴重な文化財や生態系をも破壊していくのです。
 
 再生可能なエネルギーは一人一人が参加していくエネルギー開発の視点が大切です。参加民主主義の開発が再生可能なエネルギーを実質的に作りあげていくのです。それは、小規模な多くの人びとが参加する分散型エネルギーシステムです。
 
 このシステムは、大容量集中型エネルギーシステムからの転換であります。地域の様々な資源を利用して、多様な小規模の再生可能のエネルギーを最大限に生かしてのコミュニティによるエネルギーのしくみなのです。小規模分散型エネルギー開発を住民参加方式をとることによって、開発によって起きる問題を未然に適切に、短期間で処理することができるのです。
 
 それぞれの地域資源を有効に活用して、さまざまな工夫をすることです。それは、地域住民の理解と協力によって成り立っていくものです。さらに、重要なことは、住民のそれぞれの総意と工夫が求められていくのです。そこでは、地域で住民参加型のエネルギーを開発していくことです。
 
 住民参加型は、未来型の再生可能エネルギーのしくみづくりなのです。それは、住民生活不在の自然破壊の大規模な乱開発ではなく、大規模な経済性効率を最優先しての大容量集中型のエネルギーしくみからの転換なのです。
 
 分散型エネルギーのしくみは、小規模であっても多くの人々が参加していくことによって、大きな力になり、地域のなかで完結していくことにより送電の非効率を克服していくエネルギー開発です。つまり、大規模な大容量集中型は、送電等によるエネルーギーの消耗も大きいのです。無駄なく地域でエネルギーを自己完結していく地産地消型のエネルギーのしくみなのです。
 
 都市では、工場でエネルギーを創出していく工夫、屋上にソーラーパネルをとりつけるなど自分たちで少しでもエネルギーをまかなっていことすることが行われています。企業のなかには、スマートコミュニティのしくみづくりを模索しようとする動きを生まれています。スマートハウスやスマートビル、地域でのエネルギー管理システムの開発などの模索が行われているのです。断熱、床熱貯蔵暖房、LEDの普及など様々な省エネ対策も行われているのです。
 
 山間部では用水路開発や循環式の貯水池方式によるエネルギー開発、温泉熱を利用したホテルの発電、焼酎かすを利用したバイオガス発電、牛の糞尿を利用してのバイオガス発電などがあります。霧島山麓では霧島酒造の焼酎工場で実施しています。この発電で4工場の動力になっているのです。
 年間100万人以上訪れる高千穂観光牧場では牛のふんを利用しての発電をしています。さらに、今後は、海流、潮力を利用した発電、海の上下温度差利用の発電工夫が行われていくと思います。
 
 これらで大切なことは、住民や働いている人が参加しての地域、職場、学校でのとりくみが必要なのです。科学技術の発展をどのようにして再生可能なエネルギーに結びつけていくのか。科学者や技術者の役割も大切です。
 
 分散型エネルギーのしくみをつくっていくうえで、市町村自治体のエネルギー施策も大切です。長期計画のなかに再生可能な分散型エネルギーの施策が求めれるのです。
 
 この長期計画に結びついて、社会教育計画のなかでの住民参加型のエネルギーのしくみづくりの学習運動も不可欠になってくるのです。社会教育計画を基礎にしての学校との連携も求められいます。学校教育での再生可能なエネルギーの教育は地域計画と結びついていきます。そのことが具体的に子どもたちに未来の夢を与えていく教育になっていくのです。学校の施設へ教育的立場からも積極的に再生可能なエネルギーの設備を導入していくことが求められるのです。

2,霧島山麓の貴重な歴史文化の破壊

(1)霧島古道の破壊

 メガソーラーの開発地域は、霧島神宮のサルタヒコ巡行の地域です。そして、山の神、水の神が至るところに存在しています。昔から自然と共に生きてきたところです。霧島神宮宮司はメガソーラーの開発に不同意書を県知事・県議会、霧島市・霧島議会に申し出ています。反対協議会として訪問したときに、自然を尊敬する心が現代人は必要であると力説していました。神は自然のなかに宿っているというのです。
 
  霧島神宮周辺の別荘の自治会や周辺の集落の自治公民館もメガソーラー反対をしています。地域では、反対協議会を結成して、運動をしています。
   ところで、霧島神宮の行事として、猿田彦命巡行祭りが行われています。メンドンマワリといわれ、春と秋に各二回行われています。霧島神宮の周辺集落、神が宿る場をお祓いするという行事です。東巡り7ヶ所と西巡り8ヶ所を廻っていくのです。東巡りの一部は荒襲街道・小林街道とも重なっています。メガソーラー建設計画の区域です。
 
  この街道は、古代から重要な交通網で、南北朝時代の南九州の戦乱、戦国時代の伊藤家と島津家との争い、西南戦争での人吉から宮崎方面に逃走する街道のひとつでした。この街道筋で、西郷軍と政府軍の戦いもありました。

   荒襲街道・小林街道は、江戸時代に小林の地域の年貢米を運ぶ街道でした。霧島町の大窪には、その年貢米の蔵があったところです。また、霧島六社権現のそれぞれの神社にいく街道でもありました。この六社権現の道を霧島古道と名付けたのです。

 メガソーラー開発の入り口である霧島古道は、霧島中学校や霧島太田小学校があります。太田小学校には、学校林野があります。その近くにある待世神社は、現在の霧島神宮ができる以前の霧島六社権現が250年間存在していました。霧島山麓を治める税所家が島津家に滅ばされることによって、現在の霧島神宮のところに御神体が移動したのです。
 ブログ「歴史文化の旅」霧島古道と猿田彦の巡行を参考にしてください。
 
 (2)霧島神宮周辺の山麓隠れ念仏の里の破壊
 
   霧島神宮の周辺には、多数の隠れ念仏洞のありました。その事実を知った人々は、驚きと、霧島神宮のもっていた文化の複合性、包容力の豊かさを感じ、共生という未来への文化遺産であると思うのです。お寺の住職と檀家役員の案内で、地域の人々と念仏巡りをしたときに、共通の語らいでした。

  高千穂念仏洞の近くには、桂久武が慶応3年より開墾のための灌漑用水工事をしていますが、当時に工事をしていたときに、この高千穂洞の存在は、気づいていたと思われます。開墾地に入植してきた人々は、隠れ門徒の信者が多く、桂内という集落群には念仏講があったといわれます。桂久武自身が知っていたがどうかわかりませんが、薩摩藩の家老という重責であったことから興味あるところです。
 
   高千穂念仏洞は、桂内地区の戸崎原(とさきばる)」にあります。小学校の前の橋は「戸崎原橋」です。 霧島小学校を旧霧島東中方面へ200m程上っていったところで車を止め歩く必要があります。田んぼを降りて竹林を2分ほど歩くと洞窟が現れます。この洞窟は既に全て崩れ落ちています。中には、一間の高さの絵象が三幅掛けられいたという。目の前に用水路があり、地元の方によると150年前に造られたものと言われます。

  土質は、桜島の白砂ではなく昔発生した新燃岳噴火による火砕流で出来た赤茶けたものでありました。入口からの長さは10m程。高さは入口は2m程奥の一番高いところで5m程ではなかろうかと推測できます。幅は入口が1m程。奥の方は分からない。西を向いてガマが掘られています。

  三会講(さんえこう)は、吉松・霧島・溝辺(竹子)からなるお講です。地元の方々は地蔵原(じぞうばる)門徒と呼称しています。この講を中心とする方々がお参りしていたと言われるガマです。

   臼原(うすきばる)念仏洞は、霧島神宮の旧参道沿いの谷間にあります。野上神社から下って1キロほどの旧参道の近くです。谷間を降りていくには険しい急坂で、道はありません。念仏洞のあるところは平面であり、田んぼがあったといわれていますが、どのようにして下ったのか、または、下から別の道があったのかといろいろと推測するところです。
 
   臼原(うすきばる)念仏洞は、田口1779の地番です。野上地区の臼原(うすきばる)にあります。民家の道路を隔てた林の急斜面を200mほど下りて行ったところにあります。澤沿いにあるのです。この林では数年前まで(いつまでかは、わからない)は田んぼがあったらしい。近隣の方の話では、ここで最近までは「おやしガマ」と呼ばれ、おやし豆が作られていたそうです。

  狭名田(さなだ)の念仏洞は、地番、田口1624-8です。薩州御鏡講(さっしゅうみかがみこう)を中心とする方々の念仏洞と思われます。狭名田地区の公民館から大通り(野辺田から枦田の県道に突き抜ける道)に出て、その向かい側の田んぼ道にそのまま行きます。車で途中まではいけます。道路から約1キロぐらい歩いたところにあります。川沿いに上っていけば左手にガマが見えます。入口付近白砂が落ちていて狭くなっています。

  薩州御鏡講は宮崎高原町(たかはるちょう)、小林市、えびの市、京町、輝北町百引や栗野、霧島方面のお講で、近年までお講同士のやりとりがなされ、ご法義相続されていました。近くの野辺田というところでは、「ゲンナメさんと言う念仏者の処刑場跡があった」と昭和63年当時の古老の聞き伝えによる証言が残っています。

  鍋窪(なべんくぼ)の念仏洞は、湯之迫集落から山道を上がった鍋窪集落にあります。林野の生活が貴重な価値をもたらしていた時代まで繁栄していた集落です。現在は過疎化が進行して空き家が多くなっています。
 念仏洞にいく途中、山道の渓流が流れる反対側の巌に、南無阿弥陀仏の文字を彫ったものがありました。険しい渓流があります。なかなかみつかるものでありません。仏像や梵字らしいものがあるのです。よくわかりません。今後の調べる課題です。山神の祠ではないかと思われますが、南無阿弥陀仏の書かれた巌の反対側の山道にありました。

 鍋窪(なべんくぼ)の念仏洞は、鍋窪の菅谷(すげんたに)になるのです。道路に車を止めて山を200m程下り川沿いに50m程下っていくと右手に洞窟が見えます。昔、使僧が現在の隼人町ある浜之市から来てこの洞窟で過ごしたとのことです。湯之宮地区の御鏡講の方々が集う念仏洞でした。現在70歳近くになられる方が「小学生の時分にオムロを担いでここまで来て、地域の人たちがお参りをしていた。」と話されました。
 ブログ「歴史文化の旅」霧島神宮周辺にある多数の隠れ念仏洞と未来への遺産を参照。

子どもの虐待問題と社会教育の役割

 
子どもの虐待問題は、警察関与強化で解決するのか
 
 南日本新聞の3月25日の記事では、虐待 警察関与強化へと大きな見出しで書いています。児相と連携、OB配置促進というしです。全国の警察が昨年摘発した児童虐する待事件は1380件、保護した子どもは約4割というのです。
 
 政府は、児童相談所への警察OB配置促進や児相との連携などの警察の役割を強める対策を打ち出した。政府は警察による一層の関与を柱の一つに据えた。威圧的な保護者を想定した警察OBの配置です。財政面などの支援拡充を打ち出し、児相との情報の共有、児相の立ち入り調査に警察の同行の役割拡大を打ち出しているのです。
 
 警察法は、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持するため、民主的管理と運営を保障することが明記されています。警察の責務は、個人の生命、身体および財産の保護に任じ、犯罪の予防と公共の安全と秩序の維持にあたることを責務としているのです。市民警察として、国民から尊敬と感謝される存在であるのです。決して、市民の自由と権利を犯すものではないのです。
 
 専門家からは、警察が前に出すぎると保護者が態度を硬化する恐れもあるという声もでています。ある警察幹部は、釈放後、児相に怒りの矛先を向ける親もおり、児相関係者の中には摘発強化に消極的な人も多い。警察は健全育成といった福祉面の意義を十分に理解したうえで、児相や民間などの協力を模索すべきという記事です。
 
 児童虐待問題の福祉的側面、精神医療的な側面等からの独自の社会教育的側面
 
 児童虐待問題の福祉的側面、精神医療的な側面等からの独自の社会教育的側面が全く考慮されていないのです。また、社会教育においても児童虐待に対応できる子育ての学習を展開する専門性との連携も十分にされていないのが現状です。
 
 専門性をもった児童福祉司の内容的な検討と配置の充実が求められているのです。現代における児童虐待の本質的なとらえ方は、福祉的な側面、教育的な側面、現代社会の家族問題、精神的な病の側面、人間関係の孤立化などから考えることが必要なのです。
 
 子どもの虐待問題は、精神的な病や孤立化のなかで、親の子どもに対する人権感覚のないことが大きいのです。親権は、親の子どもに対する支配権であるという認識も少なくないのです。このような状況の中で、福祉の機能を充実して、子どもも親も、人間らしく生きられる場の提供のために、地域社会のなかで絆を築き、社会教育の役割は極めて大切なのです。ときには、子どもと親を離す緊急避難的な機能もあるのです。相互の信頼の関係、相互尊厳の関係が将来的に構築することは、不可欠なことなのです。
 
 現在の安倍晋三政権は、子どもの虐待問題の対策に警察との連携の強化の促進を柱にしようとしていますが、その発想は、警察国家的な治安対策的発想が根本にあります。警察からの児童相談所への派遣の増強が検討されていますが、子どもの虐待問題は、刑法的な犯罪としての治安対策的なものではないにです。
 
 親の子に対する人権意識
 
 親の虐待は、子に対する人権意識のなさが根本にあります。また、地域社会、社会全体として子どもを育てていくという状況が核家族化のなかで崩れ、ますます親の個人的意識、個人的思いで子どもが育てられる傾向が強まっているのです。
 
 核家族化、親の個人化意識のなかで、児童相談所家庭裁判所、警察、学校、社会教育機関などの関連機関の相互連携が大切になっているのです。また、子どもを育てていく社会的養護という視点が大切にななります。未成年後見人や社会的養護施設の充実があらためて求められているのです。
 
 子どもは親の思うままに育てられるのではないのです。子どもは人間的に調和のとれた発達のためには、家庭環境のもので幸福、愛情のなかで育てられることが必要です。このために、親の役割は、子どもの成長にとって大切なのです。その状況がないなかでも子どもが育っていくには、大人による家族的な愛護の環境が必要なのです。社会的養護という視点においても家族の愛護のなかで子どもは育つという原則的な見方をはずしてはならないのです。
 
国連総会の児童(子ども)の権利条約第19条
 
 国連総会で、1989年に全会一致で採択された児童(子ども)の権利条約第19条では、親による虐待・放任・搾取からの保護をうたっています。国際的な共通の認識として、その条文を紹介します。まず、子どもの虐待は、身体的な虐待だけではなく、精神的な暴力と放任・怠慢な取扱を含むものです。この内容について、次のように述べています。
 
  「1,締約国は、親、法定保護者または子どものを養育をする他の者による子どもの養育中に、あらゆる養育中に、あらゆる形態の身体的または精神的な暴力、侵害または精神的な暴力、侵害虐待、放任または怠慢な取扱い、性的虐待を含む不当な取扱または搾取から子どもを保護するためにあらゆる適当な立法上、行政上、社会上および教育上の措置をとる」。
 
子どもを虐待から保護するためには、立法上、行政上、社会上および教育上の措置

 子どもを虐待から保護するために、立法上、行政上、社会上および教育上の措置をとることとの重要性を指摘しているのです。虐待を禁止していく法的な措置だけではなく、行政的に虐待から子どもを保護する措置が大切なのです。子どもの虐待を禁止していく法的事項を具体的に行政的に整備していくことが求められていくのです。児童虐待から子どもを保護していくうえで、専門職の配置での児童相談所の充実をどうしていくのか。家庭裁判所児童相談所の連携の充実をどうしていくのか。

 児童虐待を防止していくうえで、法的には、親のしつけと虐待の関係が大きな課題になっています。とくに、民法822条で親の懲戒が認められているなかで、しつけとの関係で暴力を容認していく親も少なくないのです。体罰を明確に禁止していくことが法的に求められているのです。
 
 民法では、子どもの利益のために子の監護や教育する権利としての親権者の懲戒権ですが、親権は親の子どもに対する支配権という誤った見方が根強くあるということで、しつけのために暴力を容認していく親も少なくないのです。
 
 懲戒権は、体罰を含むものではないのです。しつけによる体罰は認められていないのです。学校の現場では、教育のために懲戒は認められていますが、体罰は許されていないのです。学校教育法11条には明確に規定されています。
 
 そして、「体罰禁止に関する教師の心得」を文部科学省は指導しているのです。体罰禁止は、とかく感情的行為と区別しがたい一面を有していることと、人格の尊厳を著しく傷つけ、相互の信頼と尊敬を基調とする教育の根本理念に反するということからです。家庭でも同様で、子どもの成長には、親との相互信頼と尊敬のなかで健全な人格が育つものです。そして、独自性としての家庭環境のもので幸福、愛情のなかで育てられることが調和ある豊かな人格に育っていくのです。
 
子どもの虐待を防止するために社会計画の確立
 
 国連の子どもの人権条約では、子どもの虐待を防止するために社会計画の確立と実体の調査、司法的関与の重要性を次のように指摘しています。
 「2,当該保護措置は、適当な場合には、子どもおよび子どもを養育する者に必要な援助を与える社会計画の確立、およびその他の形態の予防のための効果的な手続、ならびに上記の子どもの不当な取扱いについての事例の認定、報告、照会、調査、処理および追跡調査のため、および適当な場合には、司法的関与のための効果的な手続を含む」。
 
 子育ての社会計画の確立のためには、親の子どもの人権意識の現状、子どもの体罰容認や子どもを支配する親権意識などの克服のために社会教育計画が極めて大切なのです。法的に子どもの虐待防止を制定し、行政的にも整備しても親の子どもの人権に対する意識が大切なのです。
 
 そして、子どもへの虐待によって、法的に処罰されても親子関係の円満な関係が築くことは難しいのです。むしろ、親は、児童相談所家庭裁判所に対して怨みをもつようになっていくのです。親自身の教育的な作用なくして、親子関係の信頼関係、相互の尊厳関係、関係機関の感謝の関は育っていかないのです。法的に対応では、児童相談所家庭裁判所との関係は大切ですが、教育的な側面、信頼関係などの構築が大切なのです。
 
親権制限制度や未成年後見人制度は平成23年の民法改正
 
 厳しい体罰の状況に置かれている子どもを救うためには、親から子どもを一時的に離す児童相談所の一時保護も大切です。また、ときには、親権の一時停止もやもえないこともあります。
 
 親権制限制度や未成年後見人制度は平成23年の民法改正により最長二年間の親権停止が可能になり、その請求には、子ども本人や未成年後見人などにも拡大するようになったのです。
 
子どもの申し立てたには、満10才程度であれば
 
 また、未成年後見人には、個人だけではなく、社会福祉法人も可能になったのです。子どもの申し立てたには、満10才程度であれば、意志能力があると解され、裁判所長は、弁護士を手続き代理人として選定できるようになったのです。
 
 10才程度であれば子ども本人が親権制限の申し立てができるということですので、学校教育関係者が身近に日常的な子どもとの接触がありますので、子どもの生活上の異変も気づきやすい立場にいるのです。子どもの健全な発達、命を守る立場から親の虐待について、教師は真剣に向き合うことが求められている時代です。
 
 むしろ、教師は親との関係で無理な要求をつきつけられ、クレーマーになって恫喝されて悩んでいる現実もあります。モンスターペアレントという問題です。我が子を自分の分身・所有物と錯覚して、学校に自己中心的に要求してくることです。親の孤立化、子ども発達のことを知らない大人の価値観でみてしまうことなど様々な問題の意識状況があるのです。
 
 児童相談所児童虐待相談件数は、平成28年度に12万2578件にあがっています。児童相談所家庭裁判所の役割は益々大切になっていますが、同時に子どもの人権、子どもの最善の利益などを考えていく社会教育の役割が不可欠なのです。
 
社会教育が機能していかねば
 
 社会教育が機能していかねば、社会全体が法的な処理、警察権の社会秩序のみになり、親自身の児童相談所家庭裁判所、警察への不信と怨みにつながり、かえって不信社会を助長していくことになるのです。社会全体で子どもを育てて、子どもの人間的な人格の発達につながっていかないのです。
 
  地域の身近なところから児童の虐待の防止体制を築いていくうえで、虐待を防止していく市町村の職員体制の確保・専門性の向上が不可欠です。このためには、 必要な職員の確保がなければ実施できないのです。市町村の相談担当職員の7割は兼務であるといわれます。
 
 
 また、相談担当職員の37%は一般行政職です。児童福祉司任用資格相当の職員は8%弱、社会福祉士は2%にすぎないのです。各市町村とも児童虐待の人材確保に、一般職員からの任用が多いために苦心している状況です。児童虐待が多くなるなかで児童福祉司のあり方の専門職員採用のあり方や社会教育職員のなかで子育ての専門職員の採用なども検討する段階になっています。
 
 そもそも児童福祉司は、専門資格を持つ職業ではないのです。地方公務員試験に合格して児相に配属された職員のことなのです。その職員の専門職のあり方の検討が必要なのです。
 
 現状では、多くの児童福祉司は数カ月の研修で現場に出ています。児童虐待の対応には保護者との関係構築が不可欠です。一人前になるのに10年はかかると言われています。野田市の女児のケースを担当していた柏児相は、勤務年数が3年未満の児童福祉司が非常勤職員を含めて56%、計41人中、実に23人を占めていたのです。

 親が児童福祉司を大声でどう喝したり、暴力を振るったりするケースは少なくないという。さらに、ひどいときは、刃物を持って「子供を返せ」と乗り込んできたり、鈍器のようなものを投げつけたりする親もいるというのです。ここには、明らかに親と相談機関の信頼関係がないこともあらわしています。
  政府が2022年度までに児童福祉司の数を6割増やす方針を打ち出していますが、専門性のない人や非常勤の経験のない人が配置されれても十分に機能しないのです。
 
 
 
 
 
 
 

正義論と社会教育-民主主義社会の道徳形成ー

 為政者が正義に生きることは、日本の武士道にあった!
 
  正義に生きることは、日本の武士道にとってあたりまえの徳育であったのです。民主主義の発展には、人間尊厳、相互尊重・相互扶助の人間らしく生きていくことが必要です。ここには、正義感覚をもった市民形成が要請されています。正義は、ときの為政者によって、大きく曲げられていくことがたびたびあるのです。
 権力を握った為政者は、私欲に走り、民のため、公のことを忘れがちになるのです。民主主義にとって、常に厳しく問われるのは、正義に生きる為政者です。政権をとった政治家や高官は正義の姿が求められます。そして、民はそれを見張る役割としての政治参加があるのです。選挙や直接請求、告発や訴訟は、民主主義社会の形成にとって大切な課題です。これらのために、社会教育は不可欠です。その基本に、為政者を縛る憲法の学びが大切になっているのです。
 
 権力を握る政治家は、民主主義、人間の尊厳、相互尊重の人間らしく正義に生きる。この言葉は、現代の政権において、死語になっているようにみえます。日本の伝統的武士道にとっては、民のために正義に生きることが基本であったのです。武士は、正義を持っていることが誇りになるのです。
 
 現代の日本国憲法のもとでは、法のまえに平等であります。基本的人権は犯すことの出来ない永久の権利として信託されています。日本国憲法の内容は、為政者が日本の主権在民者に対して、誠実に守る責務でもあるのです。
 今の国会での政府答弁では、様々な不正疑惑に対して、首相、大臣、高官もまともに答えない状況です。記憶にない。覚えていない。起訴されているので答えられない等という言葉が続いているのです。
 
安倍晋三政権の退廃状況
 
  国会での統計不正問題では、事実でない報告ということでグレーであるが、隠蔽は確認できなかったと、しらじらしく言う。信じられない矛盾に満ちた発言です。まともに議論を深めず、建設的に不正をなくしていく制度設計にほど遠い状況で、はぐらかしと、その場しのぎで、うそと人を騙すことがまかりとおっているのです。
 
 そして、特定のグループの私欲のために国が動かされているようにみえます。政権を握る人々や一部の財界の幹部は、日本の社会のこと、国民の生活のことを全く考えていないで私欲に走っているようにみえます。日本の社会全体がうそと人を騙すことに走っている悲しい現実があるのです。
 
 武士道の正義
 
 薩摩の郷中教育では、出水の兵児修養の掟にみるように、「偽りを言わず、身に私を構えず、心素直にして、礼儀正しく上にへつらわず下をあなどらず、人の艱難を見捨てず、温和慈愛にして、人に情けを施す」ということです。、地域社会の若者集団のなかで絶えず、これらの心構えを暗唱していたのです。身に私を構えずということで、自己利益、私欲で生きることを大きな恥としたのです。私欲を絶え間なくコントロールして、公の民として生きることを美徳にしたのです。
 
 新渡戸稲造の著書「武士道」でも正義の道理、人の上にたつ条件として、民への仁愛の心を大切にしたとしています。正義は武士道の光輝く再考の支柱なのです。正義は素直で、正直な、徳行で絶大な賞讃を与えられていたとするのです。武士の情けは、正義に対する適切な配慮です。
 
 
 武士の情けは、生かしたり、殺したりする力を背後にもっているのです。武士の慈悲は、民にとっての受益者の利益になっていくのです。武士はいつでも他者への憐れみの心をもっているのです。礼とは他人に対する思いやりを表現することです。礼は最高の姿として、ほとんで愛に近づくものです。新渡戸稲造は以上のように武士道の正義についてのべるのです。
 
 日本の商人の伝統的正道
 
 
 日本では、石田梅岩をはじめ昔から経済活動をしていくうえで、私欲をおさえること、商いは公のためと、利他の心をもつことの重要性を強調してきたのです。商人の正道は、仁愛の精神です。買ってもらう人に自分は養われているという見方です。
 
 
 飢饉があったとき、飢えた人を商人は救うのです。それは、商人の正道です。商人は買い手が満足するように身を入れて努力すれば暮らしの心配はなくなるというのです。商人の利益は公に許された俸禄と同じです。商人は利益を得て、その仕事を果たせば世間の役にたつということが石田梅岩の考えであったのです。
 
  経済的・社会的格差が広がり、自己利益、特定の派閥・仲間のための金銭欲のために為政者が動いていけば社会的退廃がはびこっていくのです。正義に生きる為政者は、民のために、貧困の人びとを救済します。自由で人間らしい暮らしの喜びをもてるように施策を工夫するのです。それらを実行していくのが正義の努めです。社会的公正さ、公共的な福祉が失われていけば、刹那的、享楽的に社会が走っていくのです。
 
 社会的退廃とファッシズム
 
 社会が退廃していくことは、民主主義の危機です。ドイツの戦前のファッシズムへの道や日本の軍国主義化でも社会の退廃が進んでいったのです。ファッシズムの社会的基盤を分析し、それと戦った社会学者のマンハイムは、近代の資本主義社会の発展は、無政府的で、多くの人びとが群衆となり、一部のエリート支配と2つの局に分断されていくと分析しました。
 
 エリートにコントロールされる群衆を形成する大衆社会は、ファッシムへの社会的基盤として、警告したのです。そして、人びとが参加していく民主的な社会計画論を強調しました。この民主的社会計画は、人間性をもった総合的な視野からの教養に裏付けられた知識社会のための教育がなければ実現しないと。
 
 民主主義のための倫理・道徳の教育があってこそ、民主的社会計画の能力が個々につくられたのです。つまり、個々の自己利益、エリートになるための競争主義の教育が出発ではないのです。

 アメリカの社会学者のミルズは、20世紀後半のアメリカを「パワーエリートは金権社会のなかで構造的に退廃する」ことを強調したのです。このなかで、官僚制を克服していくうえで、公衆の参加民主主義教育の役割に糸口をつかみました。
 
 現代社会は、ポピュリズムの蔓延するなかで、現実の金権政治が横行することで、モラルなき金銭欲に走り、オレオレ詐欺から暴力的な最も恐ろしい高齢者をねらったアポ強盗事件が起きるほどです。
 
 すべての基準が金銭欲に走る状況がみられます。正義とは何かがあいまいにされ、正義を語ることは白々しいと敬遠される時代です。正義は、どこかうとましい存在になっているのです。現代は、為政者をはじめ社会的モラルや社会的ルールがおかしくなっているのです。
 
 社会的協働の重要性
 
 本来的に人間の尊厳や社会のなかで生きていく相互尊重と協働の関係が衰退し、立身出世、権力・権威獲得と金銭欲獲得の弱肉強食競争社会の関係が幅をきかせているのです。
 
 人間らしく生きるということが鋭く問われているのです。これらの現実に向き合う社会教育をどう構築していくのか。人間らしく生きたいと思う多くの人びとの潜在意識をどう引き出していくのか。それを潜在能力として地域社会のなかで人間的な相互扶助、協働、共生の関係を作り出すが求められています。つまり、参加民主主義の学習をどのようにして作り出すかが求められているのです。
 
 震災などで多くの若者が自主的・自発的にボランティアに参加ました。そのことは、地域社会で人間的に生きていく未来をみていくうえで大切なヒントを与えてくれます。人々が窮地に陥っていることに共感を示して、自分が少しでも役にたてばと生きがいをもって活動しているのです。
 
 人間のもっている潜在的優しさ、相互扶助を開花させているのです。より、動物的な側面の競争主義から人間的になっているのです。動物は自然の掟で欲望がコントロールされていきますが、人間がより動物的に欲望を拡大していくと果てしなく拡大していきます。人間は、社会的正義という道徳力の教育によってコントロールされていくのです。
 
 ところで、世界は原発の廃止から再生可能エネルギーの方向に動いていますが、日本は原発の再稼働で莫大な費用を使っています。九州電力が再稼働のための安全対策として1兆円近く投資をしています。福島における原発事故の処理費用には、80兆円かかるといわれています。税金や電気利用者からの支出です。まさに、宇宙的な数字です。
 
 日本の経済には、国民の生活が豊かになることによって、発展します。格差社会がひろがり、非正規労働者、雇い止めの労働者などの不安定労働市場が拡大するなかでは、国民の働く意欲も減退し、摩擦が増え、経済も発展していかないのです。実に悲しい日本の現状です。うそをつかない、ひとをだまさない、弱いものをいじめないということは、あたりりまえのように昔から教えられてきたのが今鋭く問われているのです。
 
 社会的リーダー・経営者の役割
 
  社会におけるリーダーや経営者の役割は極めて大切です。もちろん、もの作りや社会的労働によって人々の生活や未来をつくりだしている労働者の役割も大切です。それぞれ、人は社会のなかで役割を果たし、相互に支援されて生きているのです。社会の相互尊重や社会的協働は、大切なことです。
 
  社会的正義をもつ経営者は、 職務上だけの利益ではなく、公的な義務をもっているのです。道徳的資本主義のためには、人類的な理想の公的な義務という崇高な目的をもつことであると、スティーブ・B・ヤング氏はのべます。彼は、道義的資本主義のために、自己中心的ではなく、高潔な目的による道義的的責任の使命感をもつことであるとして次のように述べています。

 「道義的資本主義では、人は崇高な目的に奉じることができる、人生は巨大な目的のためにある、という使命感をみつけることができる、と想定する。私たちが単に自己中心的な意欲ではなく、高潔な目的を持った代理人であることを道義的に認識していれば、相手に対する代理関係において自らの権力をいかに行使するのか、という直接的な責任を担うことになる。
 道義的資本主義は心のあり方や指南力、考え方を問う。・・・・・受託者の義務は、権力を行使する場合には他者に配慮せよ、とする道義心から生まれる。信託的思考は、意思決定における道義心、人格の倫理的規範、英知を教える。信託的思考は、私たちを信頼できる存在にする。それにより、私たちが暮らし、働く社会の道義心が良質のものへと高められていく」。スティーブ・Bヤング著経済人コー円卓会議日本委員会+原不二子(監訳)「CSR経営モラル・キャピタリズム グルーバル時代の資本主義のあり方」生産性出版。91頁~92頁
 
 権力を行使する場合に、高潔な道義心による他者の配慮、公的な義務を強調して、受託者の義務による人格の倫理的規範における暮らしと社会の道義心を良質なものへと高めていくことの重要性をのべているのです。
 
 国連のグローバルコンパクトにおける社会的退廃への警告
 
 国連グローバル・コンパクトでも腐敗は、世界最大の課題としています。腐敗は持続可能な開発にとって大きな障害となっているのです。国連グローバル・コンパクトの見方は、貧しい地域に不当な影響を及ぼすことだけでなく、社会構造そのものを腐食していくという認識からから積極的に社会的退廃の克服をとりあげています。
 
 腐敗の防止に関する国際連合条約は,すでに、2003年10月に国際連合総会において採択されています。腐敗防止に関する国際連合条約の前文では、腐敗が国際的な現象になっており、民主主義と社会的正義、並びに持続可能な社会を危うくするとしているのです。

  腐敗の防止に関する国際連合条約では、腐敗防止の闘いに、総合的に取り組むことが大切としています。このためには、国の腐敗防止の制度的な設計と管理責任と同時に、市民社会、非政府機関、地域社会の組織の参加を得て、国と相互に腐敗防止に闘っていくことの必要性を強調しているのす。

  ステークホルダー資本主義という考えは、すべての人びとが経営との関係を結びつくことができるようにするものです。そこでは、すべての人々が経済的恩恵をうけられるようになることです。ステークホルダー資本主義として、企業が関係をもつ従業員、お客様、地域社会、取引先、株主・投資家との民主主義的関係の在り方が模索される時代になっているのです。

 グローバル時代の資本主義のあり方として、道徳資本主義(モラル・キャピタリズム)、企業の社会的責任(CSR)が大きく問われるようになっています。経済人コー円卓会議(CRT)は、企業の行動指針として、獣欲的な市場を廃しての道徳的な資本主義の価値と行動を積極的に提唱しています。
 
 経済人コー円卓会議は、激化する貿易摩擦の緩和、日米欧の社会経済の健全な発展という企業の倫理や企業の社会的責任という道徳資本主義の目的のために、スイスのコーという地域に、世界の経済人が集って1986年に創設されたものです。

 企業の社会的存在価値は、国際競争のなかで、生き残りをかけているだけでは不十分です。企業は、市民の一翼として、自ら創造した富を分かち合う公平の精神による社会的責任が課せられています。人間の尊厳の見方が基本です。それぞれの人々の文化や生活様式の質の保全と向上をめざしていくことです。

 働く人々は、人間的に生きていくために、健康はもちろんのこと、品格も大切な要因です。モラル資本主義を構築していくうえで、従業員には、社会的な正義、公平、法令遵守で誠意をもって働くことを求めているのです。

 企業が従業員の人間尊厳を保障していくためには、性別、年齢、人種、宗教の差別をしないことはもちろんですが、障害者の雇用の保障のように、十分に人間的に能力を発揮できるような職場の確保をしていくことです。

 人間の尊厳、公平、正義という公益を重視する企業の存在を大切にするためには、そのための国家のきめ細かな社会制度づくり、経営者、社員や地域社会、消費者をはじめ公益性を重視する社会的な市民意識の変革が必要なのです。
 
 ステークホルダーごとの調整関係のみに力点をおいて考えていくのか、企業の批判勢力として見ていくのか、基本的な経営のフィロソフィで判断していくのか。この問題を企業の社会的責任から突き詰めていくことは経営にとって大切なことです。
 
 ロールズの正義論
 
 功利主義と弱肉強食の競争社会のなかで私欲の絶対化がはびこるなかで、公正な社会をどうつくるのかと、政治哲学者のロールズは、1970年代以降の社会福祉国家への再構成をしていくうえでの政治思想である正義論を展開するのです。
 
 個人の自由と権利の尊重と社会全体の福祉、公正ということからの社会的・経済的不平等の現実をどう克服していくかという正義論であったのです。自由と権利は自然権というのです。経済的・社会的不平等は、政治的平等を阻害するとロールズは考えるのです。社会は本来的に社会的協働によって成り立っているのです。
 
 経済的・社会的不平等の是正は、社会的最低限の生活水準を保障していくことを要求しています。また、持続可能な社会を築くために、現世代が年金資源をくいつぶさないように、天然資源を枯渇して後世代に不正をはたらかないよう。以上のようにロールズの正義論はソーシャルミニマムの考えを提起しました。また、公正な機会均等の原理を大切にしたのです。
 
 ローズは公正としての正義は、立憲デモクラシーの哲学的構想のなかでのものです。立憲デモクラシーにとって最優先しなければならないことは、自由かつ平等な人格をもった市民形成であるとしています。功利主義は、この基本的な権利・自由に対して満足できる根拠を提供できないとロールズは考えたのです。
 
 正義感覚の能力と善(幸福)の構想の能力を適切な仕方で発達させる社会的条件が必要としたのです。思想、良心、結社という自由は、この二つの道徳的能力の発達のために必要不可欠なことです。
 
 人々は自己利益の追求にとどまらない、より高次の利害関心である公共心に満ちあふれた市民に発達していく能力形成が求められているのです。公正なる正義は、財産所有のデモクラシーと福祉国家を要求します。財産所有のデモクラシーは、富と資本の集中に対して、分散を図り、一部のものが経済を支配することを防ぐことです。
 
 これには、政治の役割があるのです。公正な機会均等論から人間の能力を自由に発揮するために教育の権利がすべてに保障されるように、あらゆる機会、あらゆる場所、あらゆる時期、年齢で保障されるべきなのです。社会の相互尊重による社会的協働労働は、自由で民主主義的参加が条件になるのです。
 
 社会尊重による社会的労働が、すべての人々に享有されることにより、活力ある豊かな生きがいをもった社会の形成がされていくのです。財産所有のデモクラシーは、人間の自由で自己の能力を生きがいをもって発達させていくことと車の両輪であるのです。
 
 正義感覚をもっている人は、友情や愛情、相互信頼の絆を有しています。人類の一般的利益に役立っている制度や伝統への専心の代価としているのです。道徳的情操は、通常の人間生活の一部になるのです。
 立憲政治にとって、道徳的情操による公共的運営が必要になるのです。公共的な正義感によって統制されている社会では、内在的な安定性をもっているとロールズは考えるのです。
 
 平等な正義を要求する資格は、道徳人格をもっていることです。道徳人格は、合理的な人生計画によって表明された自分の善についての構想を抱くことができます。また、道徳人格は、正義感覚に基づいて行為したという欲求をもつことができるのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

国連の小農と農村の人々の権利宣言と社会教育

国連の小農と農村の人々の権利宣言と社会教育

     神田 嘉延

 国連は2018年12月18日に小農と農村で暮らす人々の権利宣言を121国の賛成多数で総会で採決しました。日本は広範に小農と農村をかかえながらこの採択には棄権しました。残念なことす。
 国際競争力の農業、選択と集中ということで大規模農業施策をかかげる安倍晋三政権のもとで、世界の動きとは違う農業施策を推進することで受け入れることはできなっかったのです。現実の日本の農村を無視したものです。
 高齢化、過疎化した現状のなかで,国連の宣言は日本の農村活性化のためには有効な内容だと考えます。もちろん農業生産法人の動きを決して否定するものではありません。二者択一の問題ではないのです。

 日本の農業や農村は食糧生産はもちろんのこと、それだけではなく、防災の機能、子育て教育の機能、健康のための癒やしの機能をもっています。また、地域づくりにも大きな役割を果たすのです。地域の協働や協同コミュニティ機能、地域の伝統文化芸術、生きていくうえでの大切な誇り精神的機能、観光機能など様々な機能があるのです。
 国連の小農と農村で暮らす人々の権利宣言を広く日本の人々に伝えていくことは、農業や農村の役割を見直し、日本の豊かな文化と暮らしをつくりあげていくことと日本の食糧自給にとって大事なことです。さらに、日本の文化、自然災害の防波堤機能、自然景観を守っていくうえでも重要なことです。

小農と農村で働く人々の権利宣言は、人類普遍原理

 小農と農村で働く人々の権利宣言は、人類普遍原理の人権宣言を現代の世界における農村での様々な問題状況から具体化した宣言です。この小農・農村の権利宣言は27条からなるものです。
 この宣言は農村の暮らしに依存する土地、水、自然資源などを保存し、持続可能な社会を達成するために食や農村の主権を考えたものです。とりわけ農村の若者たち農村で暮らせるように農村経済の多様性、農業以外の雇用の施策を重視しているのです。これは農業ばかりでなく兼業を積極的に提起しているものです。
 締約国は本宣言の権利宣言を法的、行政的および他の適切な措置で迅速にとらなければならならないとしています

 小農と農村で働く女性について、その権利を積極的に打ちだしていることも特徴です。これは小農と農村で暮らす女性の無権利状態があるからです。農村の女性の教育や研修をとりわけ重視しているのです。そして、女性に対するコミュニティサービスや相談、自助グループと協同組合の組織の権利保障をあげています。また、女性の人権保障としての暴力を受けない施策の重要性を指摘しています。

 農村におけるさまざまことを決めていくうえで、参加の権利保障を重視しているのです。そして、結社の自由、思想信条の自由、言論表現の自由、移動の権利、生命と自由安全の権利の保障、働く権利の保障などをあげています。
 食の主権は、飢餓から逃れるため社会的公正、生態系を配慮したものです。種子と伝統的知識の維持管理継承は生態系の配慮からの持続可能な社会を維持継続するためのものです。生態系を守るアグロエコロジカルな環境の整備と教育は大切なのです。

 国連の小農と農村で働く権利宣言を社会教育から考えていくうえで第25条の教育と研修の権利と第26条の文化的権利と伝統的知識の権利は大切な内容です。

農村での教育プログラム

 教育プログラムは小農と農村で働く人びとの協力によって開発実施しなければならないとしています。上から一方的に行政や教育者が押しつけるものではないのです。参加民主主義が教育プログラムに保障されていなければならない。
 生態系を配慮しては、伝統文化を尊重してアグロエコロジカルな環境整備のもとに教育の実施されるものです。参加型の植物育種が求められ、公平かつ参加型の農業者とのパートナーシップが教育者と科学者に求められているのです。農業者の主権を考えての教育者や科学者の関係性が大切なのです。

 また、農業分野の学校の大切をあげています。日本では農業高校や農業大学校、農業系大学がありますが、ここでの地域農業の発展を考えての国連の小農と農村で働く人びとの権利宣言に基づいた教育が大切になるのです。学校教育のなかでも国民教育として、農業と農村の多面的機能の認識が大切なのです。

 小農と農村で働く人びとは自身の文化を享受し、文化の発展を自由に追求する権利を有すると国連の宣言ではしています。個人として集団として国際基準に従って地元の慣習、言語、文化、宗教、文化芸術を表現する権利を有するということです。教育においてこの課題をいかに保障していくのか。伝統文化の保障は決して人類の普遍原理である人権保障を無視した家父長制度や奴隷的、封建的な残存を認めるわけではないのです。