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憲法九条を提案した幣原喜十郎戦後初代首相

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憲法九条を提案した幣原喜十郎戦後初代首相

 

 (1)戦前と戦後の平和外交継承としての幣原喜重郎

 

 第二次世界大戦の敗戦により、戦後の初代の総理大臣に1945年10月に就任したのが、幣原喜重郎であった。当時、貴族院議員で、昭和6年外務大臣辞任から政界の第一線から身を引いていたが、昭和天皇の説得により首相を引き受けるのであった。

 幣原は、若いときから外交官として活躍し、外務大臣をたびたび引き受け、国際協調外交をしてきた人物である。対外強行圧力路線や拡張主義外交と対抗し、中国への内政不干渉および正当なる中国権益の擁護を重ねて表明してきた外務大臣であった。

 このために、軍部や対外邦人権益者との軋轢が強くあった。たびたび大臣を辞任させられるのである。日本の近代において、軍閥に抵抗し、国際的視野をもって自由主義を大切に国際協調路線をとった西園寺公望等の流れにそった人物ともいえるのである。西園寺は、広く知識を世界に求める国際主義、女子教育の振興などのリベラルな第二次教育勅語案を明治27年の文部大臣就任のときに尽力したたが、実際は埋もれてしまったのである。

 

戦前の軍部との対立のなかでの平和外交

 

 日露戦争後は、軍部の政治的台頭が大きくなっていく。小村寿太郎全権大使によるポーツマスの日露講和条約の調印に領土拡張主義影響による国民の不満が日比谷焼打ち事件として爆発したのである。西園寺は領土拡張の動向に便乗することなく、列強の利権獲得の衝突から不測になる可能性を懸念して、外交による努力による紛争の阻止という信念を貫くのである。しかし、天皇統帥権を利用して、軍部は外交や国際情勢の判断に政府と協議することなく、天皇に上奏し、軍令による内閣の知らぬままに軍事行動をしていく。日露戦争後の1907年7月に軍令第一号が施行される。軍令によって陸海軍は内閣から自由に軍事勅令を制定することになったのである。

 そして、国内では、呉海軍工廠ストライキや足尾鉱山事件に軍隊が出動する不幸な事件が起きた。軍部の巨頭といわれた山県有朋は、現内閣の社会党取り締まりの不完全を天皇に上奏したのである。山県によって、軍部の国家機構での比重が増して、国防方針の策定がされていくことを見落としてならない。

 1919年1月に西園寺は、70才で病弱であったが、第一次世界大戦後の世界平和秩序を確立するためのパリ講和に日本の全権大使として出席した。列強の代表者として見劣りしない人物という元老山県、原首相、内田外相など政府の思惑からであった。西園寺は、フランス留学をとおしての封建主義に反対する自由主義思想を身につけて、国際主義の考えをもっていたが、皇室史上主義を強くもち、民衆の感情的運動を抑えてきた。

 パリ講和会議は、日本として交渉しなければならない重要な課題があった。アメリカのウィルソン大統領は1919年1月に世界平和のための国際連盟の構想を発表していた。日本が占領した青島などの山東省や南洋諸島のドイツがもっていた権利と財産問題をどうするのか。アメリカでの日本人移民に対する差別問題などがあった。

 西園寺は国際連盟の問題をとくに重視し、講和会議から日本が離脱しないように日本の代表団の役割を大きく果たしたのである。1919年6月にヴェルサイユ宮殿で中国を除く、日本、ドイツ、アメリカ、フランス、イタリアと共に主たる同盟連合国となり、1920年に発足した国際連盟結成では、常任理事国になるのである。人種差別の撤廃の問題は実現しなかった。中国は山東省問題でも日本の要求を拒否した。アメリカは、自ら提唱した国際連盟に参加することをしなかった。世界の紛争に巻き込まれる危険がある国際連盟に参加するのはアメリカ第1主義をとる共和党であった。

 上院の議会では、前回の選挙で多数を占めるように、1920年の議会で否決された。そして、大統領選挙でもウィルソンは敗北したのである。そして、極東を重視してのアメリカ海軍の増強が行われていく。日英同盟アメリカとの関係で解消していくのである。山東省の問題は、1922年のワシントン条約で日本の権益の放棄されることになるのである。9

 幣原喜重郎は、パリ講和会議ヴェルサイユ条約締結の年、1919年9月に駐米特命全権大使に任命されている。それ以前の職責は、1915年10月に外務次官に任命され外務省の事務方の責任者になっている。

 

 駐米大使であった幣原喜十郎は、1922年のワシントン会議の全権大使として任命されて、交渉にあたるのである。他に全権大使は、海軍大臣加藤友三郎貴族院議長徳川家達であった。ワシントン会議は、国際連盟加盟の反対で当選したアメリカ大統領ウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議であった。国際連盟との関係とは別に実施され、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加した。アメリカが主催した初の国際会議であった。

 米・英・仏・日による、太平洋における各国領土の権益を保障した四カ国条約を締結し、それに伴う日英同盟の破棄がされる。米・英・仏・日にイタリアを加えた、主力艦の保有量の制限を定めた海軍軍縮条約でああた。日本は対米英6割であった。そして、全参加国により、中国の領土の保全・門戸開放を求める九カ国条約を締結されたのである。 

 中国の主権尊重・領土保全の原則を各国が承認したのである。日本が1915年の二十一カ条の要求の山東半島権益を放棄した。日本はワシントン会議を転機として国際協調外交に順応していくのであった。膨張政策を採り続けた元老山県有朋ワシントン会議閉会の直前に85才で死去する。

 中国は1911年に辛亥革命が起こり、1912年にアジアで最初の共和制国家の中華民国が発足した。日本は共和制の中国政府に1915年1月に21ケ条の主権侵害、属国化する帝国主義的要求をしたのである。その要求は、五項目21条からなる。中国政府は憤激し、交渉にはならなかった。中国各地に日本品の排斥運動や日本商店が襲撃され、政府には要求を拒否の請願が殺到したのである。

 

日本の中国への帝国主義的侵略施策と大正デモクラシー

 

 日本政府が中国政府に要求した21ヶ条の要求は、日本の帝国主義的な施策が露骨に出されたものであり、強大化する軍部の力を背景にしたものである。この21ヶ条の要求は、日本の非常に恥ずべき帝国主義的侵略と中国の主権国家確立のわが仇敵の関係史になったのである。日本人の多くは、大国主義的意識に助長され、21ヶ条の不当な帝国主義的な要求について非難する世論がなかった。民本主義として大正デモクラシーで大きな影響を与えた吉野作造も主権を侵害した側面はあるが、帝国の立場からは最小限度の要求であり、西洋諸国との関係からみればすこぶる好適の時期を選んだものである。日本の生存のために必要欠くべからざるおのであるという立場であった。自国の生存のために他国の主権をふみじってもかまわないという領土拡張主義を善であり、正義という国家エゴイズムをもっているのである。9

 国家エゴイズムと膨張主義が日本をおおっているなかで、例外的に中国への21ヶ条要求に反対し、青島、旅順の領土侵略を排し、一日も早く中国に還した方が我らの利益は増進するという見方があったのである。9

 吉野作造民本主義論は、言論の自由、選挙権の拡張、政党内閣制の大正デモクラシーをリードした。山県有朋などの元老や軍人や官僚で固めた専制政府批判に有効性を発揮した。1918年9月に陸軍、海軍、外相を除く原敬立憲政友会が率いる内閣が成立したのである。

 ここに日本の憲政史上はじめての政党内閣の成立と言われるのである。1921年11月に右翼の青年に殺害されるのである。原内閣の時代に国際連盟が樹立して、日本は主要な役割を果たし、常任理事国になる。教育改革でも熱心にとりくみ大学令をだすなどして国立の帝国大学以外の私立大学を認めたのである。

 さらに、交通機関の整備、産業の奨励を実施した、しかし、国防の充実など軍部の要求も積極的に取り入れ、歳出の49%まで軍事費になった。民衆の普通選挙要求の高まりで、衆議院議員有権者を倍増させ、政友会と憲政会の二大保守政党のなかで、選挙を有利にするため党利党略的財政誘導を行った。この結果、国家財政の赤字は増大し、汚職事件など金権的な政治の腐敗を招いた。

 

 原内閣の成立の2ヶ月前に富山からはじまった米騒動が全国的に展開するのであった。米商人が買占めと投機に走って米価が高騰し、民衆の生活に大きな打撃を与えたのである。米騒動は、2ヶ月間にわたって、全国で主婦を中心として自然発生的に資産家や米屋に押しかけた。七〇万人の民衆が参加したと警察当局の数字になっているが、実際は最多くの民衆が参加したとみられる。

 騒動の鎮圧には軍隊が出動しなければならなかった。軍人と官僚で固めた寺内内閣の総辞職によって原内閣が誕生したのである。米騒動は、民衆運動が一斉に起こっていくきっかけとなった。友愛会は、全国的な労働者のナショナルセンターに成長して1919年に大日本労働総同盟友愛会に名称を変えて労働時間の8時間制、労働組合の自由、普通選挙制の実施などの労働者の要求をかかげた。

 また、学生団体でつくる新人会は、1919年に2月に憲法発布三〇周年を記念して2千名の学生が集まり、普通選挙実施を要求する請願を行ったのである。1920年に日本最初のメーデー友愛会などの主催で、東京上野公園にて一万人の参加で行われたのである。1922年に部落解放運動のための水平社が全国各地から3千名の参加のもと、人権宣言によって結成されるのである。日本農民組合は1922年に創立大会を開くのである。創立は253名であったが、3年後は五万人の組合に成長していくのである。

 1924年6月に幣原喜重郎は、外務大臣に任命されるのである。外交官試験に合格した外交官としての最初の外務大臣であった。幣原の信念である国際協調主義の外交が展開されていく。幣原は、国際連盟ワシントン会議の結果による国際協調主義を積極的に展開した。中国への内政干渉主義を貫いたいくのである。元老西園寺は、幣原外交を積極的に支持した。

 

普通選挙の実施と民衆の運動弾圧の治安維持法

 

 日本は、大正デモクラシーの影響によって、1925年に普通選挙法を公布した。しかし、同時に、国体護持と称して、民衆の運動を弾圧する治安維持法を公布したのである。治安維持法は、国家体制の変革と私有財産制度否認を目的とする結社を組織したり、参加したりすることを取り締まるものであった。当局が判断すれば、本人の意図に関わらず検挙できる「目的遂行罪」で逮捕できるものであった。この法律によっての逮捕者は数十万人、7万人以上が送検され、刑務所や拘置所の獄死者は400人余に上ったとされる。

 1928年の最初の普通選挙では、無産政党に激しい選挙干渉が行われ、治安維持法違反で全国一斉に千数百名の検挙が行われ、拷問を加えて488名を起訴した。いわゆる3.15事件である。さらに、1928年に治安維持法をさらに改悪して、全県に特別高等警察を設置して思想取り締まりの強化をはかったのである。

 日本は、1927年に金融恐慌が発生し、2年後の1929年の世界恐慌が重なり、日本経済は危機的な状況になっていく。幣原外交の国際協調主義は、対中国にたいして軟弱外交として、中国での権益、領土拡張を求める財界や軍部から批判をあび、国民もその声に同調していくのである。

 幣原は、平和外交推進の手段として日本経済の危機を救うために中国市場のための経済外交を重要視した。1925年に中国の関税自主権回復の国際会議が北京で開催された。しかし、列強諸国の対立からうまくいかなかった。日本の軍部による中国への内政干渉を幣原は努力したのであった。幣原外交は、財界などの中国の権益をもつ強行攻策の要求から、また、保守野党の政友会による南京事件による現内閣の一大失態の攻撃によって総辞職に追い込まれていく。

 1929年7月に浜口雄幸首相のもとに外相に幣原喜重郎が返り咲き、荒廃した日中関係をとりもどすために、関税自主権の交渉を行う。1930年1月開始され、3月に仮調印し、5月に正式に調印されるのである。幣原外交に対し、中国での邦人、中国での権益をもっている財界人から不満が高まる。浜口首相1930年11月に狙撃され、幣原は臨時の総理大臣になる。1931年4月に若槻内閣は満蒙は日本の生命線と演説する。同じ年の9月に満州事変が勃発して日中戦争に突入していく。幣原は、外務大臣を退陣するのである。

                                        (2) 戦後に日本国憲法9条の内容を提唱した幣原喜十郎戦後初代首相

 

 マッッカサーに憲法九条の内容を提言する

 

 1964年(昭和39年)2月に平野三郎衆議員は憲法調査会に「幣原先生から聴衆した戦争放棄条項等の生まれた事情について」の報告書を提出している。平野は、1949年2月に衆議院議長に就任しているが、そのときに秘書官を務めている。1949年から5期連続衆議院議員、66年から3期岐阜県知事を歴任している。その報告書の内容は「日本国憲法9条に込められた魂」鉄筆文庫に載せられている。9

 平野は、昭和26年2月下旬に幣原邸で憲法9条のことで幣原自身に聞き取りを行っている。「今までの常識ではこれはおかしなことだ。しかし、原始爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼にに帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる」。

 戦後初代の首相になった幣原喜重郎は、広島と長崎の原子爆弾投下の恐ろしい現実をみての非武装論であった。この現実から、憲法9条という非武装論の切実な考えが生まれたのである。

  第二次世界大戦に、人類は核兵器という無残な人びとの地獄をみた。この悲惨な経験の直後での考えで、武器をもたない必要性を幣原喜重郎は認識したのであった。

  幣原喜重郎は、自分の天命として、当時では、狂気の沙汰といわれようとも非武装宣言を決意したのである。原子爆弾という悪魔の武器から、悪魔を武器を投げ捨てるために、神の民族としての日本は、歴史の大道として、世界に非武装宣言をするというのである。

 「恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋(とき)ではないか。そのために生きてきたのではないか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕を天命をさずかったような気がしていた。非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く凶器の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。

 

 要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史的使命を日本が果たすのだ。日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。

 神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第9条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依って再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である」。

 幣原喜重郎は、マッカサーに憲法9条を提案するのである。1946年1月24日という歴史的な会談が行われた。

 「僕はマッカサーに進言し、命令として出して貰うよう決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。・・・昭和21年1月24日である。その日、僕と元帥と二人切りで長い時間話し込んこんだ。すべてはそこで決まった訳だ」。

 幣原喜重郎は、戦前における欧米での独自のパイプを用いて活躍した外交活動の実績が高く評価されて、新しい日本の憲法を築いていくうえで、74才という高齢であったが首相に抜擢されたのである。マッカーサーと会談して憲法九条の提案をするのが幣原喜重郎であったという重要なことを見落としてはならない。

 ところで、日本側の憲法草案をGHQが拒否したのは、国務大臣の松本烝治を長とする憲法問題調査会案である。戦前からの権力構造の継承から考えが保守的な側面が強く、軍国主義体制による日中戦争や太平洋戦争の反省が十分にないままの憲法草案であった。

 

  (3)安倍内閣以前の戦後内閣の憲法9条遵守策と自衛隊

 

必要最小限の個別的自衛権憲法9条

 

  戦後の帝国憲法の改正による新しい日本国憲法衆議院の上程に、吉田首相は、自衛権を否定しないが、自衛権の発動としての戦争も、一切の軍備と交戦権は認めないと次のように答弁しているのである。

 「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はしていないが、第9条第2項に おいて一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、 又交戦権も放棄したものであります。」(吉田茂首相、衆議院本会議、1946年6月26日)

 「私の言わんと欲した所は、自衛権に依る交戦権の放棄と云うことを強調すると云うよりも、自衛権に依る戦争、叉侵略に依る交戦権、此の二つに分ける区別其のことが有害無益なりと私は云った積もりで居ります」。(吉田首相、衆議院特別委員会、昭和21年7月4日)

 憲法を上程したときの衆議院の議論で、吉田首相は、憲法9条の規程は、自衛権発動の戦争であろうとも一切の戦争放棄をしたものであり、軍備と国の交戦権を否定しているものであるとのべたのである。自衛権を否定しないことと、自衛権発動としての戦争、交戦権を否定しているのである。

 

 そして、日本がサンフランシスコ平和条約によって、独立を達成していくが、このときの国会の答弁でも吉田首相は、武力なしの自衛権は存在すると、警察予備隊の創設は、軍隊ではなく、自衛のための交戦権の行使をするための実力組織ではないと次のように強調するのである。

「いやしくも国家である以上、独立を回復し た以上は、自衛権はこれに伴って存するもの。 安全保障なく、自衛権がないかのどとき議論があるが、武力なしといえども自衛権はある。」 (吉田茂首相 1950年1月31日)

「自衛のためといえども軍隊の保持は憲法第9条によって禁止されている」という立場を堅持しつつ、警察予備隊の創設について「治安維持の目的以上のものではない。再軍備の意味は、全然含んでいない。目的は国内治安の維持であり、性格は軍隊ではない。自衛権を放棄するとまで申したことはない。」(吉田茂首相 1950年7月29日)

 1950年6月には、朝鮮戦争が勃発し、日本の隣国での緊張関係が起きるのである。朝鮮戦争の結果、警察予備隊などを経て1954年に自衛隊が設立されることになる。警察行政の一環からはじまっての自衛権の実力組織として出発したのである。

 

 当時の鳩山一郎首相は「自衛のための必要最小限度の武力を行使することは認められている」と発言したのである。自衛隊の実力組織は、「自衛のための必要最小限度を超える実力」ではないので、「自衛隊は軍隊ではない」と解釈されることになったのである。ここで重要なことは、自衛するための必要最小限の実力組織ということで、軍隊ではないことで、憲法9条2項の解釈から直接に必要最小限の実力組織を位置つけていくことではないのである。あくまでも、憲法は、自衛権を否定していないという解釈からの憲法前文の平和的生存権憲法13条の生命、自由及び幸福追求の国民の権利を国政上最大源に尊重することからであった。自衛隊の英訳は、Self‐Defense Forcesである。

 1954年に自衛隊の創立のときに、自衛隊の海外出動を国会決議をしているのである。「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」「本院は、自衛隊の創設に際し、現行憲法の条章 と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照し、 海外出動は、これを行わないことを、茲に更めて確認する。右決議する 。(1954年6月2日 参議院本会議)

 1960年の日米安保条約の改定のときに、国民的に大きな反対運動が起きるが、そのときに集団自衛権は、憲法上はできなということを当時の岸首相は次のようにのべている。「実は集団的自衛権という観念につきまして は、学者の間にいろいろと議論がありまして、 広狭の差があると思います。しかし、問題の要点、中心的な問題は、自国と密接な関係にある他の国が侵略された場合に、これを自国が侵略されたと同じような立場から、その侵略されておる他国にまで出かけていってこれを防衛するということが、集団的自衛権の中心的な問題になると思います。そういうものは、日本国憲法においてそういうことができないことはこれは当然。」(岸信介首相 1960年2月10日)

 

  国連憲章では、集団自衛権は認められているが、日本国憲法では認められないことを次のようにのべる。「日本国が主権国として、独立国として国連憲章51条による個別的ならびに集団的自衛権を持ってはいるが、憲法9条の規定から海外へ出て締約国の領土を守るという集団的自衛権の行使はできない。第5条の場合に、日本の施政下にある領域が武力攻撃を受けるのであるから 日本が個別的自衛権でこれを防衛するに必要な武力行動をするのだということは十分説明できると思う。」(岸信介首相 1960年4月20日)

 日本の防御は、あくまでも個別的自衛権であり、集団的自衛権は含まれないとするのである。

 1972年10月の田中内閣では、憲法前文の平和的生存権憲法13条の生命、自由及び幸福追求の国民の権利を国政上最大源保障ということから、自衛隊の存在が強調されていくのである。田中内閣が国会に提出した内容は、次のようにのべている。

 「憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」 ことを確認し、また、第13条において「生 命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とす る」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかで あって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために 必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。

 

 しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法 が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまでも他国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置として、はじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。

 そうだとすれば、わが憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する 急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得な い。」(政府資料 1972年10月14日)

 さらに、田中内閣では、自衛隊専守防衛の基本的方針として、相手の基地を攻撃するものでなく、他国に侵略的脅威を与える実力組織を持たないことの重要性を次のようにのべている。

 「専守防衛ないし専守防御というのは、防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行うということでございまして、これはわが国防衛の基本的な方針であり、この考え方を変えるということは全くありません。 なお戦略守勢も、軍事的な用語としては、この専守防衛と同様の意味のものであります。積極的な意味を持つかのように誤解されない。」(1972年10月31日 衆議院本会議 田中角栄首相)「他国に対して侵略的脅威を与えるようなものは保持しない。」 (田中角栄首相1972年11月13日衆議院予算委員会)

 さらに、21世紀に入り、小泉内閣でも集団自衛権について、日本国憲法から認められないことを国会答弁しているのである。衆議院議員土井たか子の質問で、「小泉内閣発足にあたって国政の基本政策」の集団的自衛権に関する答弁書(平成13年5月8日提出)で、小泉内閣での政府答弁は、次のように答えている。

 「政府は、従来から、我が国が国際法集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えてきている。憲法は我が国の法秩序の根幹であり、特に憲法第9条については過去五十年余にわたる国会での議論の積み重ねがあるので、その解釈の変更については十分に慎重でなければならないと考える」。

 

 憲法9条の解釈の変更は慎重にしなければならないという小泉内閣の答弁であった。政府は、日米安全保障体制のもとで、戦後憲法の制定から50年間にわたって、集団的自衛権の行使は憲法上許されないと答弁しているのである。自衛権の行使は、わが国を防衛するための必要最小限の範囲としているのである。

 日本国憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持」「平和のういちに生存する権利」という理念のもとに、専守防衛に徹し、他国に武力による威嚇にならないこと、文民統制を確保と非核三原則の遵守の自衛のための実力組織であるということを小泉内閣までの自民党政府は貫いてきたのである。

 唯一の被爆国である日本は、核兵器の恐ろしさを身にしみている。核兵器の全廃は、戦後の国民的な平和運動の課題として取り組んできたのである。しかし、戦後の歴代の日本政府は、核兵器の脅威ということから、米国の核抑止力に依存してきたのである。国連で核兵器禁止条約の締結が決議されて、その条約締結が国際的な課題になっているが、核抑止論との関係で、日本政府をはじめ、核を保有する国などがこれに背を向けているのである。核兵器のない世界を目指すことは、現代の人類の平和的生存権にとって緊急の課題である。核兵器全廃の課題を放置すれば人類の破滅的な危機に陥る可能性がある。国連は、核兵器の全廃と根絶を目的とした国際条約を提唱したのである。「核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関する条約」。

 

 自衛隊の機能として、国民の命、自由、幸福を守るための国政上の最大の仕事の一貫としての存在していることがある。大規模・特殊災害等人命又は財産の保護を必要とする任務は、国内のどの地域においても災害救援を実施し得る部隊や専門能力を備えた体制をとることはいうまでもない。この機能は、日本が火山、地震、台風などが常時に襲ってくることであり、自衛隊の大切な任務であるのである。

 憲法9条では、戦力の保持が禁止されている。自衛隊の個々の兵器の保有は、専守防衛という必要最小限の自衛のための実力で、性能上専ら相手国国土の壊滅的な破壊のために用いられる、攻撃的兵器は認められないものである。攻撃的兵器は、自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなるため、いかなる場合にも許されないのである。

 自衛権発動の要件は、憲法第9条の下で認められる自衛権の発動としての武力の行使について、政府は、従来から、1,わが国に対する急迫不正の侵害があること。2,この場合にこれを排除するためにほかの適当な手段がないこと。3,必要最小限度の実力行使にとどまるべきことという三要件に該当する場合に限られるとしている。

 憲法9条は、戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認であり、国際紛争を解決する手段として武力による威嚇、武力行使を放棄するということである。そして、戦力を保持しないということになる。この意味で、自衛隊は、戦力ではない。憲法9条からの自衛隊の存続の解釈からではなく、憲法前文の「平和のうちに生存する権利」、憲法13条の生命、自由及び幸福追求の国民の権利を国政のうえで最大限に尊重する施策としての必要最小限の実力組織の自衛隊なのである。つまり、憲法9条は、自衛権を放棄していないという解釈からの自衛隊憲法上の容認である。

 

現代的な憲法九条を守る課題としての東アジア平和ブロック構想の実現 

 

 東アジア地域で、どのように平和的なブロックをつくることができるのか真剣に考える時期である。自衛隊の役割が集団的自衛権の容認と近隣諸国の脅威論から兵器装備が拡大するなかで、憲法9条の改正の問題も大きな政治的な焦点になっている。政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにと世界に誓った日本国憲法の理念の意義を人類史的な側面からあらためて認識することが大切な時代ではないか。

 日本が世界平和にもっとも貢献していくことはなにか。第1次世界大戦を経てのパリ不戦条約、第2次世界戦争後の日本国憲法の世界史な意味を考えてことではないか。

 第2次世界戦争後には、世界の平和のために国連が生まれたのである。その憲章の前文では、二度にわたる言語に絶する戦争の惨害から人類をすくために、次のように国際的な平和の構築を求めたのである。

 「われら連合国の人民は、われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること」。

 正義と条約その他の国際法から義務と尊重という国際的平和秩序を国連は求めたのである。国際法の義務と尊重や平和構築のための条約などの役割が強調されているのである。ここでは、紛争解決のために国際司法裁判所の役割があるのである。

 

 互いに平和的に生活するためには、武力を原則的に用いないこと、寛容の実行、世界の人々がすべてに経済的及び社会的発達を促進するために、努力を結集することを次のようにのべるのである。

「並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和および安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した」。

 国連憲章前文の精神を含めて、平和の問題を深めていくことが必要である。世界平和のために名誉ある国際的地位と日本人としての誇りをもてることはなにかということで、憲法9条や憲法の前文を見ていくことが重要ではないか。

 

9 岩井忠熊著「西園寺公望岩波新書伊藤之雄著「元老西園寺公望」文芸新書参照

江口圭一「二つの大戦ー体系日本の歴史14巻」小学館、40頁~41頁

9 前掲書、45頁

9鉄筆編「日本国憲法9条に込められた魂」鉄筆文庫、125頁~185頁

 

ロールズから公正としての正義論

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財産私有型民主制・民主社会主義の展望を
   ロールズの「正義論」から

 
 ロールズは、公正・公共による自由と平等を正義論から明らかにしました。そして、公正なる知性としての近代民主主義の憲法事項遵守、格差社会是正の政治哲学を探求しました。
 公正なる知性と格差原理からの自立ということから教育と訓練を特別に重視したのです。未来への展望として、財産私有型民主制政体、民主的社会主義政体を提起した。
 ロールズの提起する公正なる政治の正義論の考えを大切にした自由と民主主義の公正性を評価することを痛覚しました。
 ここでは、著しい格差社会の現実を直視しながら、人間的自立、人間らしく豊かな社会経済のあり方、その実現をしていく政治的正義を考えてみることにしました。
 公正、公共の正義を大切にすることは個別的エゴに執着するのではく、利他主義、人間的普遍性のために憲法事項から、個別の要求を公の場での議会を通しての合意が求められるのはいうまでないことです。公正なる正義は民主的政治にとって不可欠なことです。

 1,問題の所在ー現代政治のモラル問題と日本の伝統的な正義論ー

 コロナ禍で政治家のモラルが大きく問われる時代です。超大国アメリカでは、現職の大統領が選挙結果を認めず、支持者を煽って、議会に乱入し、5名が死亡する事件が起きた。新大統領の就任には、2万5千名の州兵と1万名の警察での厳戒体制であったのです。コロナ禍での重点的感染症対策よりも経済を優先していたことが問題になったのです。本人も選挙運動のなかで、新型コロナにかかったのです。
 トランプ大統領は、国際協調主義を否定して、アメリカファースト主義で、次々に国際的約束ごとを破棄してきたのです。民族排外主義的で大きく世界を混乱させた大国の指導者でした。かれを熱烈に支持する人々が議会の乱入事件を起こしたのです。議会という民主主義の象徴に大きな汚点になったのです。
 日本では、場当たり的に一斉に緊急事態宣言ということで学校一斉休校、感染症対策の基本である社会的検査、人権尊重の保護隔離をあいまいに、GO TOなどとして経済優先をしたのです。新型コロナの蔓延によっての自宅待機続発の事態を招いている状況です。
 この間に国会では、総理大臣が嘘を100回以上も繰り返し、政治の私物化疑惑が問題になったのです。さらに、政府は、国民に対して緊急事態宣言での自粛を要請するなかで、政権与党の罰則提案の国会の責任者が高級クラブなど風俗営業店で豪遊していることが発覚しているのです。
 ところで、政治的モラルが深刻な日本の状況ですが、日本の政治家を全面的に否定するのではなく、真面目に政治的正義に生きた多くの人びとがいたこと、さらに、現代でも公正なる政治的正義で頑張っている人びとがいることを決して見落としてはならないのです。
 それでは、日本の政治的正義の問題を歴史的にみつめてみよう。国際連盟の事務局次長を務め国際平和に尽力した新渡戸稲造は、日本の幕藩体制時代の正義観を武士道として、光り輝く最高の支柱であったとのべています。正義に生きることが武士にとって絶対的なもので、それが勇気になっているというのです。
 武士の情けは、人として仁のこころをもって、苦しんでいる人、落胆している人を励ます正義にたいするものとしているのです。武士は誠に高い敬意をもって、嘘をつくことは最も恥ずべきことで、損得勘定をとらない、贅沢をしないと記したのです。
 
 日本の明治維新における5箇条のご誓文の考えに大きな影響を与えた横井小楠は、公平無私の天理に従う他人のための利になる仁政、公正の貿易促進としての万国一体・四海兄弟の公共の天理を大切にしたのです。そして、仁による天地自然の道を強調するのでした。公共の天理は自然の道、世界一体・四海兄弟の理、民のために尽くす仁政なのです。
 また、公平ということから、党派にこだわらず人物才能で人を選び、こころを正大にして、郷、藩、坊主、医者、学者などの狭い気風を除かねばならないとしています。教養の道は識見がたしかで心術が正しく、徳義を磨き、風俗を正しくするということです。
 西洋の学問は事業の学であって、信徳がないので、人情に関することがわからないとしたのです。日本には昔から一定の政治をつかさどる学問がなく、神道儒教、仏法などがあり、西洋の学問技術を取り入れるようになった。日本の政治を一新して、西洋へ普及すれば、世界の人情に通じて戦争をなくすことができますと横井小楠は考えたのです。
 この古くて新しい政治は日本でこそ可能であったのです。今の世の中に処していくためには、成否にとらわれずに正道を立ててとおすことで、世の形勢に左右されてはならないというのです。政道さえたてておけば、後生に子孫が伝えてくれるのですと。
 さらに、大政奉還後の政局について、上院に公卿、大名、下院に広く天下の人材をと議事院を提案しているのです。そして、財政や議事院の貸財運用の大切、条約、海軍などにのべています。以上のように、横井小楠は、公正の原理、公共の天理をのべるのです。
 日本の近代の経済発展に大きく貢献した渋沢栄一は、論語と算盤として、道徳経済合一で、仁義は、経済活動においての絶対条件としたのです。

 渋沢栄一は、若いときに日本の植民地の危機に幕府を倒さねばならないと、高崎城をのっとり、その勢いで横浜の外国人居留地を焼き払う企てをしたのでしたが、未然に親類に知られて、決起を断念したのです。
 その後に、幕府の一橋に仕官して、慶喜の弟を団長とするパリ万博の経理担当として随員するのです。ヨーロッパ視察で、近代国家の銀行組織や企業の株式形態を学びました。
 幕府崩壊後に、一時的に大蔵省で働くが、井上薫山県有朋などの不祥事問題などで官僚の道を去りました。そして、実業家として、日本の最初の銀行を創立して、道徳経済合一論で生涯にわたって、経済や人材養成、福祉活動などで活躍するのでした。
 日本の近代化は、経済的発展を成し遂げていったが、しかし、政治的に、戦前では、絶対主義的な中央集権体制のもとでの議会制の展開であったのです。
 戦後の日本国憲法の制定によって、主権在民としての自由と民主主義の形成になったのです。国民の広範な自由と民主主義の権利獲得の運動成果として憲法が制定されたので、憲法理念の実現は、その後の国民の運動によって充実していくのでした。公正な社会的正義は不十分なままであることが日本の現状なのです。
 ロールズの公正としての政治的な正義の政治哲学から学ぶ意味は、日本の現状からみても大切なことですが、日本の先人の思想家が切り開いてきた公正の原理や公共の天理、武士道の正義精神、論語と算術の伝統文化も含めて、ロールズの正義を深めていくことが必要と考えているのです。
 
 2,ロールズの正義論の原理

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 世代的に連続して公正な社会協働システムを作り上げていくのが正義の基本的中心概念です。協働している市民は自由で、平等な人格をもって公共的構想による秩序に規制された正義の観念をもった社会とロールズみるのです。協働の公正な観念は互恵的ないし相互性の観念を明確にするというのです。
 自由で平等な人格の観念は、社会的協働の公正という正義の原理を理解し、行動する能力をもっていることである。そして、善の構想能力をもち、修正し、合理的に追求する能力である。この二つの道徳能力をもっていることが、自由で平等な人格であり、民主的社会の公共的な政治文化というのです。市民はいかなる意味で自由であるのか。
 自由の保障は、社会的協働の公正を理解し、行動する道徳能力をもつことと、善の能力をもって合理的に探求できる道徳力をもつ公正的な社会が形成されているとするのです。
 政治的正義は、政治的に協働することであり、意見を異に他の人びと適切な論拠や推論の方法によって、自由を共有して、熟慮して公共的結論をしていくことです。熟慮しても受け入れがたい場合は、公共的正当化には足りないのです。熟慮からの確信ばかりではなく、他の人びとに受け入れがは公共的たいものがある場合には、反省的均衡の問題があるというのです。
 政治的正義の公正は、憲法の必須的なコンセンサスで、自由で平等な市民間の相互尊重を基礎にして、実効的で民主的な社会的協働であるとロールズは考えるのです。反省的均衡は、筋のとおった反省ということで、合意と区別されるものです。政治的正義において、反省的均衡の観念によって、熟慮してもまとまらない事項に公共的公正を導き出そうとロールズはするのです。
 マルクス・エンゲルスは、社会的結合の自由なる社会の創造は、資本主義の無政府性と労働の分割による疎外の激しい矛盾によって、その克服過程のなかでの人びとの運動の意識のなかであらわれてくるとするのです。マルクスとエンゲルの「ドイツイデオロギー」の著書では、未来社会論における自由なる社会結合を次のようにのべています。
 資本主義的大工業による労働の分割から人間的な力の復元は、もとのようにはならない。諸個人が個人として参加していく共同態によって、諸個人の自由な発展と運動の諸条件のもとでの諸個人の結合によって、新たな豊かな人間的な力が復元できるというのです。
 他の人たちとの共同こそが、個人の素質をあらゆる方向へ伸ばすことになるという考えです。したがって、共同においてこそ人間的自由は可能となるのです。この共同態とは、個々人の自由な参加による結合なのです 。ロールズの社会的協働の正義論の現実の価値観のことなる人びとの多様性を寛容しての協働ということではなく、未来社会への人間的自由を可能にしての社会的結合により協働の実現ということなのです。
  また、資本主義的大工業での労働は、分業がすすめばすすむほど、蓄積がふえればふえるほど、分裂は鋭くなっていくと考えるのです。生産力は個人と全く独立の世界となるというのです。
 労働の分割は、物資的労働と精神的労働の分割が現れてくる瞬間から、意識のなかで現れてくるのです。享受と労働、生産と消費は、矛盾が進行していきます。マルクスは、現実の資本主義の大工業によって、社会はますます無政府性になり、個々はバラバラに労働疎外ななって、孤立していくというのです。
 そして、人間の意志、精神は、分割されていれば、労働が自由意志的にではなく、抑圧に、よそもののこととして、彼の意志に対立していくというのです。労働の分割のうちにすべての矛盾が存在するという見方です。
 激しい矛盾は結合の必要性を強く意識するということから、社会的結合の目的意識性の客観的条件が生まれてくると考えるのです。つまり、労働の分割によって、必須となった協働の社会力は、個々人の自由意志ではなく、よそものように彼らの外にある強引な力として現れるのです。
 社会的協働への展望は、私的所有と労働の分割を廃止してこそ、諸個人は自立して、社会的地位と、それに伴う人格的発展が保障されていくという認識なのです。
 分業を止揚していくことは、共同社会においはじめて、人格的自由が可能となるのです。諸個人はかれらの連合によって自由になると考えるのです。まさに、現実の社会的矛盾の克服の運動のなかで、自由なる社会的結合ができるというのです。
 この立場は真に根本的に矛盾解決実現する展望であるが、マルクス資本論の第13章の機械制大工業の矛盾のなかで、労働者が議会をとおして充実した工場法制定を順次に獲得していくように、現実の矛盾をどのようにして、一歩、一歩実現して、社会的協働への道に進んでいくのかという政策展望が重要なのです。この意味で、社会化していくなかでの大規模化していく私的所有と社会的格差の矛盾を、経営と労働の矛盾をどう解決していくかということで、様々な矛盾解決の施策が議会、法、行政、社会政策、金融政策をとおして行われてきたのも現実です。

  ロールズは、社会的矛盾のなかでの人間の意識や熟慮ということではなく、道徳観念としての社会的公正としての熟慮を強調するのです。熟慮した判断は、理性的能力や正義感覚の好都合な状況でだされるものであり、健全な判断能力と平等なる機会の願望の状況、誘惑がなく健全な判断をしないような明白な関心がない状況を考えるのです。
 それは、自分の内部に葛藤がなく、判断した場合に独断的になるときに、熟慮の問題が起きるというのです。重なり合うコンセンサスの観念は、秩序だった社会の民主的な公正としての政治的正義に必要なことです。
 現実的には、多元主義の事実のなかで公共的な政治的正義の判断を支持しているのです。そのなかには、ひとつの公共的な正義の政治構想を支持していても、全く同じ理由で支持しているとはいえないというのです。
 市民たちは、宗教的、哲学的、道徳的見解をもって、対立している側面もあるのでが、それぞれが違った理由から公共的な政治構想の内容を支持していることをみなければならないのです。公正としての正義は、公共的な政治文化からで、重なり合ったコンセンサスから成り立っているというのです。
  民主的な社会として、自由で平等な市民の社会的協働が公正なるシステムとしてロールズはみていますが、
 穏当な多元性が民主社会の特徴ですが、それを正当な政治権力として秩序するのかということで、憲法、立憲政体がるが、多数決民主制とどう整合性をもつかという問題がある。さらに、現実の社会的・経済的不平等がある。
 自由で平等な公正な市民の協働システムの構築には、矛盾が含んでいるので、分配の原理、憲法立憲主義の原理という熟慮のうえでの判断行使が求められるのである。
 機会の公正な平等原理は、格差原理に優先するのです。そして、平等な基本原理は、基本的自由を保障されているなかで発揮されるものとロールズは考えるのです。
 公正な機会の平等は、才能と能力に関して、天賦の才と意欲は同一としてとらえて、出身階層のいかんにかかわらず同一の成功があるとみなして、社会は、その育成をはかるべきとしているのです。
 機会の公正を達成するためには、自然的自由である政治的自由と思想の自由ということからの社会政策が正義にかなっているかどうかの道徳的能力を発達させることとが求められるとしているのです。また、良心の自由と結社の自由という善の道徳能力を発達させる必要があると考えるのです。
 正義には、基本的諸自由なることと、社会的・経済的不平等という平等原理の2つのがあるという。これらの二つの正義の原理をもつ道徳観発達の能力形成において、憲法の権利と自由の必須制定事項が大切とロールズは強調するのです。正義の第1原理となる政治的諸自由と正義の第2原理になる平等について、ロールズは、その関係性についてのべていく。
 憲法の必須事項として、第2原理の機会平等の公正は憲法必須事項になっていくが、格差原理は要求するところが多く、憲法の必須事項に入らないとしてきたとするのです。
 第1原理は、憲法制定会議の段階で、第2原理は立法段階であったとするのです。第2原理はめざすところは多くの種類があって、困難な問題があるとするのです。分配正義は、憲法必須事項に属さないということから、協働する社会構成員としての互恵性に関わる問題にロールズの探求が行われるのです。
 分配正義は、公正で、効率的で、生産的な社会協働システムであり、世代から次世代へと長期にわたり維持されるための基本構造ということです。その基本構造によって、諸制度をつくり、どのようにして規制して、統一的な枠組みをつくっていくのかということですと。
 分配的正義の諸制度に手続き的な理解の容易なる個別取引に直接適用される背景的正義を重視するのです。背景的正義は、秩序だった社会において、平等な基本的諸自由と機会の公正なルールでというのです。全員が公知の協働ルールに従って受け入れ、ルールによって定められた請求権を尊重するならば、その結果の諸財の分配は正義にかなったものとみるのです。
 個々の分配は正義にかなっているかどうかは、公正なる協働システムの内部で、個人自らの努力によって、獲得した請求権を無視して判断することはないと考えるのです。このロールズの考えは、公正なる協働の公知によるルールの社会システムがつくられているのかどうかということが前提になるのです。
 格差原理によって、規制される背景的諸制度に含まれる諸ルールの効果は予見可能であるから、市民は当初からそうした諸ルールを考慮に入れて計画を策定して、行動するというのです。
 公正的合意に基づく社会的条件の確保は重要であるとするのです。相当多くの富と財産が少数の手に蓄積され、機会の公正な平等や政治的諸自由の公正的価値が阻害することも十分に考えられるというロールズに認識です。このために、ロールズは、自然状態において個人や結社における自由なる取引を公正なる背景的条件として強調するのです。
 不平等は、出身社会階層による生まれてから成人にいたる階層、生まれつきの才能、一生をつうじて出会う、幸運と不運というように非自発的失業や地域的不況など3つの形態をロールズはあげるのです。
 これらの3つの不平等の偶然ごとを指摘するだけでは不十分であるが、これを放置すれば協働を行うための公正システムができなとしているのです。生まれながら知能や自然的能力は、固定的なものではなく、社会的諸条件によって開花するものです。
 教育と訓練された能力は、広範のなかの選択の一部での可能な能力ということから小さなものであるとみるのです。才能の早期の訓練や開発の奨励や手助、社会的態度によって、違ってくるというのです。
 格差原理の要求とは、最も不利益状況にある人びとに福利を含めて、効果的に利益を資することで、不平等は、許容されないというとロールズはのべるのです。そして、偶然ごとの格差という三との種類に人種、ジェンダーなどが含まれていないのか。
 その答えは、主要な関心が理想論で、公正としての正義を説明するためとしているのです。ジェンダーや人種に基づく差別は、歴史的に、政治権力と経済的資質の支配力の不平等から生まれたものであり、歴史的判断は不確かで、固定的特性として、変化しないものとみるのです。現実の秩序だった社会での公正としての正義にあてはまらないとするのです。
 自由と平等の市民間の社会的協働からの分配的正義を考える基盤に、出身階層、生まれつき、生涯を通じての不運がもたらす3つの種類による格差に長期的、持続的な効果を考えているいうことです。公正としての正義は、互恵性と相互利益との間に位置するということから分配的正義になるというのです。
 公正としての正義に従う秩序によって、格差の3つの種類の偶然ごとが厄介な不平等を生み出すが、それ以外の考慮事項をどのように考えたらよいのか。理想的理論の内部で最も不利益の状況にあつ人をどのように特定されるべきか。
 不平等は、偶然ごとによって定義されるのではなく、基本善の指数によって定義されることがあるのです。一般的に、最も不利益の人びとは、諸自由と公正な機会をもっているけれども、最低の所得と富しかもたない人びとのことになります。一定の固定的自然特性が不平等な基本的権利の割り当てや、より少ない機会しか与えられないことがあります。この固定的特性は変化しない。ジェンダーや人種に基づく差別は、この種の固定的特性になるとロールズはみるのです。
 ロールズは、男女の不平等について、双方の許容の認識のうえに成り立っていると次のようにのべます。男性が女性よりも、より大きな基本的権利や機会をもっているとすれば、そのような不平等が正当化されるのは、それが女性の利益になり、かつ、女性の視点からみて受け入れられるときに限られのです。これらは、政治的、経済的な歴史的判断であるのです。
 正義論では、これらは、欠落しているが、正義論の欠陥ではない。同様なことは、人種に基づく基本的な権利と機会の不平等にあてはまります。ジェンダーや人種による区別は格差原理の特殊形態が適用されるとみるのです。これらの固定的自然的特性からの権利や平等の問題を対象外にしていることは、理想的理論を構築するために、枠外にしたことで、公正なる正義論の欠落分野であり、公正なる正義論そのものが欠陥ではない。
 男女の不平等や人種の差別の問題を固定した自然的特性ということで、機能的に生物学的違いからの家族分業の歴史的特性を強調し、人間の尊厳としての平等的視点からの論理をたてていない。
 自由と平等からの公正的な正義は男女平等、人種間の差別撤廃という人間の尊厳、人権的な側面からの論理の構築が求められているのです。社会階層的恵まれない層、生まれつき才能のない人びと、失業など生涯に恵まれない不運というた3種の格差差別を受けることからの偶然の機会からの解放ということで、これらのことは極めて大切な格差解消からの大事なことです。しかし、その論理を理想論として、展開していくことに限界があるのです。
この論理は、所得の配分を経済的効率論による富の分配という枠内からの公正なる正義としての道徳義論にすぎないことになってしまうのです。 
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3,公共的理性と基本的諸自由

 民主的社会の永続的特徴は、穏当の多元性性とみて、それを正義の主観的環境と呼ぶというのです。自由で平等な市民の政治権力は合理的に市民全員が共通の人間性を支持する仕方で行使しなければならないとしています。社会的統合は市民達が一つの政治的正義構想を受け入れ、包括的教説に根をもつ善に関する完全な構想基盤をもつものとしているのです。
 公共的理性の観念を導入する根拠は政治権力の強制的な作用からです。民主的政体においては、公衆の権力です。それぞれの市民が政治的権力の分け前を平等にもつとすれば、政治的権力は憲法の必須事項と基本的正義の諸問題に対して理性にてらして公共的に支持することの仕方でのべるのです。そして、市民たちは政治的問題を自分の政治的見解を正当化するために、公共的に受け入れられる理由を提出することができなければならないのです。以上のように、民主的政体においては、公共的理性を公衆として、市民一人一人がもつべきとしているのです。
 公共的な探求のために指針が十分な情報のもとで道理にかなった仕方で自由で公共的なものであることを保証しなければならないのです。また、判断・推論・証拠といった基本を適切に用いることだけではなく、常識的知識の基準及び手続き、科学の方法や結論に従うことができるようにする必要を求めるのです。これらは、道理にかなうこと、偏見のない諸徳性が含まれているのです。
 公共的理性の代表としての当事者は、自由で平等な市民の代表であるのです。従って、受託者、後見人として行動するというのです。立憲政体の代議員の当事者は、自己利益とか利己的であるということは意味しない。自分自身への関心、自分の富と地位への利害関心、自分の力と威信への関心であるということが大きな課題になるというのです。ロールズは自己利益や利己的を目的とする知識や文化を全く排除していくことを公共的理性とするのです。
 本来的に、公共的理性をもった当事者は、それらを克服されているのです。市民が道徳的能力を発達させて行使し、他の人びととの公正な取り決めに基づいて善の構想を効果的に追求するにふさわしい諸条件ができあがっているのかでの当事者なのです。
 正義の主観的な深刻な対立は、宗教的・道徳的な場面で起きるのですが、それは、一般的に自己利益というわけではなく、公共的理性として、正義にかなう正当なものとみているからこそ、その対立は難しいのです。社会的・経済的対立とは性質が異なるとしています。
 市民にとっての普遍的な公正としての正義は、宗教的・道徳的なものではなく、政治的正義としての公共的理性なのです。全員一致による合意の合理的な判断として、立憲民主制が大切になってくるのです。公共的な合意を導く、その指針となる一般的知識がいかなるものか。多元性というなかで、憲法の必須事項が諸制度や公共政策の正当化を可能にするものです。
 公共的理性は、憲法の必須事項を基本的正義として、市民が自分自身の理性にしたっがって、行使していくことです。政治的見解を正当化するのは、憲法の必須事項からの公共的な政治構想です。相互尊重に基づく政治的に協働していくということです。ほとんどの立法問題は、憲法必須事項からかかわっているのだが、その議論を公共的理性から問題にしていくことが大切であるのだが。
 公共的理性は、憲法必須事項と関連させて政治的正義を考え、立憲政体をとっていくが、非公共的な理性は、社会の内部の個人や結社からの理性です。それは、個人的または結社的に決定の熟慮のための理性です。結社のために承認された推論方法は、その構成員との関係では、公共的でありますが、政治社会とのかんけいでは、非公共的です。市民全体にとっても非公共的であるのです。
 民主社会では、教会の権威のように非公共的な権威を認めています。宗教的・哲学的・道徳的な見解も良心の自由、表現の自由からどのようなものでも認めているのです。これらは、憲法上に保障された基本的な自由と権利からです。公共的理性と非公共的理性を区別して、政治的正義の社会と、結社の社会とは異なるのです。
 
 安定した立憲政体には3つの条件が必要とロールズはのべるのです。一つは多元性の優先性です。これらのことによって、イデオロギー的な政党の枠にはまった政治課題からはずされることになり、社会的利益の計算を越えたところの相互尊重や社会的協働の足場をつくることになるのです。
 基本的諸自由・諸権利と社会利益の計算を関連させることは、諸自由・諸権利の地位と内容を不安定にさせるというのです。それは公共的生活と敵対性を危険なまでに増大させるとみるのです。
 立憲政体の第二の必要条件は、政治的構想が公共的理性の基礎的なことが共有されていることです。その基礎は公衆から十分に信頼されていることです。精緻な計算によって、公共的に効用原理が認められても、それは恣意的仮定に依存するもので、効用原理の適応は暫定的で不確実なものになるのです。効用原理は政治的に使いものにならないのです。
 安定した立憲政体の第三の必要条件は、政治生活に関する協調的徳政の涵養の促進です。その徳性は公正感覚、妥協の精神、互譲の精神などです。これらの徳が全員が平等と相互尊重に基づいて公正な政治になるのです。
 ここに、正義にかなった諸制度が確立され、長期にわたって協調的政治徳性が促進されるというのです。効用原理はその観念を欠いているのです。市民の公共的認識が市民の間の相互信頼を促進し、自発的で実り豊かな社会的協働の必要な態度と心の習性の発達を促進するというのです。
 憲法的必須事項の原理からの法の制定は人命に対してふさわしいか、社会に対して長期的自己再生産の諸制度を適切にしているのか、公共的法が女性の十分な平等を保障しているのか。公共的理性がと問われるのです。
 公共的理性は道理にかなっている公正感覚、妥協の精神や公共的な市民としての義務を尊重する意志、協働的な政治徳性をもっていることなのです。これらは、互恵性の原理を表現することです。効用原理は、これらの観念を欠いているのです。
 公共的理性をみていくうえで、マキシミン・ルールによって導かれる選択肢の答えを統計に最悪から期待効用を最大化するということで、ルールや数学的関数で順序だてること判断の合理性という考え方があります。
 それらは、統計的な表面的項目として、期待される満足、快楽や合意可能な意識だとかが問題にされますが、実態的内容を欠いているのです。これらの方法は思考を成序する賢明なやり方のようにみえ、科学的、合理的、理性的みえます。
 マキシミン・ルールは必要不可欠なことではなく、われわれの根本利益が本当は何であるのかの根本を問題にすることです。それがないなかでのマキシミン・ルールは最悪の結果になるのです。ロールズは以上のようマキシミン・ルールの方法を危惧するのでした。
 効用原理はより有利な状況にある人びとよりもより不利な状況にある人々に、同じような要求をすることは、不利な状況にある人びとに大きな心理的負担をもたらし、不安定さをもたらす。有利な状況にある人びとは正義にかなったことを遵守しそこなうかもしれないが、彼らは権威や政治権力をもつ頻度がより高いため、正義原理に背く誘惑にかりたてられ負担が軽くなる。
 相互に尊重された合意事項を自ら進んで適用しての達成していくコミットメントは当事者に緊張関係をもたらす。合意事項は尊重されることを期待するのです。その結果が悪いものに判明したとしても、その合意に背くことができない。不公正な状況であったから、無知や不意打ちがあったといいわけをすることができない。効用論からは結果が唯一であるのです。一切の言い訳は排除されてしまうのです。コミットメントの緊張が過度にするために、どのようにすることがよいのか。
 コミットメントの緊張が過大に思える場合は、最も不利な状況にある人びとは社会の正義構想を拒絶し、自分が抑圧されているとみなしている場合です。また、穏やかな対応ですが、孤立して世の中ののけ者と思う人びとです。この場合も正義原理を肯定することができないのです。効用原理を支持する人はコミットメントの緊張が大きいのは市民の不可欠なニーズを許さない場合だけとみるのです。
 格差原理は公共的政治文化において、正義の政治構想のための互恵性の観念を単純な形であらわしている。ある世代から次の世代に続く自由で平等な市民の間の社会的協働システムとしての互恵性の観念は重要なのです。ロールズにとって、格差原理を考えていくうえで互恵性が自由と平等の社会形成にとって極めて重要な道徳的観念になるのです。

4、財産私有民主制・民主的社会主義への展望
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 ロールズは、正義にかなった国家像・社会制度として、財産私有型民主制とリベラルな(民主的)社会主義をあげるのです。それらは、資本主義的福祉国家ではなく、資本主義に代わるものとみるのです。
 世代から次世代へとわたる自由で平等な市民間の公正な協働システムは、財産私有型民主制または、リベラル(民主的)社会主義であるとたどりつくのです。
 自由で平等な社会システムは、自由放任型資本主義、福祉国家型資本主義、指令経済を伴う国家社会主義、財産私有型民主制、リベラル社会主義となるとみています。自由と平等の正義にかなった基本的諸制度には、4つの問題があるいう。
 第1は、政体の制度が正義にかなっているか。第2は、政体が正義にかなって効果的に設計できるか、第3は、政体が市民達の利害関心や目的に照らして職務や地位にある人びとがルールに従って執行していくのか。とくに、腐敗の問題は、この職務や地位のある人びとのルールを遵守できるかどうかにあります。第4は、職務や地域に割り当てられた人びとが、その任務を遂行するうえで、難しすぎるという能力の問題があるのです。
 多くの保守的な人びとは、第3の職務と地位での問題点をあげて、いわゆる福祉国家の非現実性、浪費と腐敗に向かうというのです。5つの政体で、どれが自由と平等の正義にかなった政治的価値をもっているのか。それぞれの政体が設計された価値で、自由と平等の理想をうごかしたとしても社会的利害を生み出すかもしれえないということです。
 社会的利害のために、最初あげた自由放任型資本主義、福祉国家型資本主義、国家社会主義の3つの政体は、自由と平等の正義の実現が不可能になってしまうことがあるのです。
 第1の自由放任型資本主義は、社会的ミニマムによる制約をしても経済効率性と成長をめざすものです。
 第2の福祉国家型資本主義は、政治的自由の公正的価値を拒んでおり、機会の平等の配慮がされていても達成に必要な政策がとられないとしています。国家所有の不平等から少数者による経済支配がおき、経済的社会的不平等を規制すべき互恵性の原理がないとするのです。
 第3の国家社会主義は、一党独裁による指令経済で基本的諸権利と諸自由を侵害しており、自由の公正の正義の価値の侵害になっているのです。
 財産私有型民主制とリベラル社会主義の政体は、どちらも民主政治の憲法枠組みを設定し、基本的諸自由に加えて、政治的諸自由の公正な価値と機会の公正な平等も保障しており、格差原理によってではない相互性の原理によって、経済的・社会的不平等を規制する。
 このどちらを選ぶかは、決める必要がないと。両方の政治的価値も、ロールズの考える公正なる正義を実現する政体としているのです。
 財産私有型民主制と福祉国家型資本主義の綿密な対比がロールズにとって、大切なことであったのです。財産私有型民主制は、富と資本の所有を分散させるのです。
 少数のものによる経済や政治生活の支配を防ぐように働くのです。財産私有型民主制の政体は、もたざる人びとに所得を再配分するのではなく、各期のはじめに、生産用資産と教育と訓練された人的資本の広くゆきわった所有を確保することにしています。
 教育と訓練の重視と機会の公正な平等の徹底によって、格差原理に対処するものであった。それぞれ、相互の利益と自尊によって、自己の分担役割をしていくのです。
 最も不利益にある人びとは、慈悲や同情、哀れみの対象ではなく、何人も互恵性にあたっているのです。社会的・経済的平等を足場に自分自身のことは自分でやっていくということです。最も不利益で、めぐまれないもたざる人びとに、自立の立場になるということです。
 教育と訓練を重視して、意欲的に誇りと自尊心をもって生きることはより人間らしく自由になることです。格差から平等への条件整備に、人間らしく自由に生きる自立への意欲と能力形成が必要なのです。貧困の再生や貧困の継続ではない条件を具体的に作り上げていく社会経済的の仕組みが求まれているのです。
 この仕組みづくりで教育と訓練は極めて重要な事項なのです。もたざる人びとも自由で平等な者として、自由に人間らしく誇りをもって、意欲的に働き、市民間の公正なる協働システムの一員として、機能するようにロールズは考えたのです。
 対照的に、福祉国家型資本主義は少数のものが生産手段をほぼ独占することを許容する仕組みです。福祉国家型資本主義では、最低限の生活水準を下回ることもなく、失業保障や医療扶助といった不慮の事故に対する保護が保障されるかもしれません。しかし、重要なことは、各期の終わりに援助を必要とすることからの国家政策の基準からの査定であるのです。
 実際に人間らしく働くことや豊かに生活する過程の背景的な正義が欠けているとロールズはみるのです。所得や富みに不平等があると、その構成員は、慢性的に福祉依存にかりたてられるのです。下層階級は、挫折し、意気消沈した層として、自由で平等な者として、自分たちをみないで、公共的政治文化に参加しないのです。さらに、意欲的に互恵性をもっての社会的協働のなかで生きていかないのです。
 財産私有型民主制やリベラル社会主義の政治的価値は、公正なる正義として、民主的政治の憲法的枠組みを設定していますが、立憲民主制と手続き的民主制の違いも明確にしておくことが必要です。
 財産私有型民主制は、手続き的民主制という政治的価値はない。憲法事項にそって、法がつくられていくのです。憲法の制約が立法でも裁判所でも明確にされているのです。
 しかし、手続き的民主制は、立法上において憲法の制約もなく、適切な手続きによって法が制定されていくのです。それは過半数の原理によっての制定です。ここでは、多数決原理という手続き民主制の教育ではなく、憲法的内容を実質化していくという公正なる正義の政治が執行されていくという教育を充実していくことが大切になってくるのです。
 公正なる政治における教育の役割は特別に重要ということを決して見落としてならない。市民達の政治論争、政敵討議の基礎は憲法の必須事項からの政策的な合意、社会的協働なのです。これらを具体的な国民の要求実現の筋道を合意と協働システムのなかで示していくことです。
 財産私有型民主制の経済制度は、格差原理からの自由と平等を保障していくという社会的諸制度です。貯蓄原理を正義のために働かせることです。所得と富の格差原理は、より有利な状況にある人びとが、正当な期待が減少する場合には、より不利な状況にある人びとの正当な期待も減少するのです。
 社会は長期にわたる世代間の公正なる協働システムであるべきで。貯蓄をとりしきる原理が必要です。貯蓄原理の合意は、富の水準をどれほど多くするのかという他の世代の義務を根拠づけることが求められるのです。
 貯蓄原理と課税の問題です。ロールズは、遺贈を規制し、相続を制限するということは税の対象とせずに、累進課税に原理を積極的に適用するとしています。公平で平等な正義がかなっている社会では、累進課税で財源を増やすことを直接の目的にするためではないのです。
 それは、政治的諸自由の公正、機会の公正のために、背景的正義に反する富の蓄積を防ぐためというのです。ここで、問題となるのは、貯蓄原理が生活のために、小規模な資産として相続することは、公正なる平等の正義から不公平な富の格差が生まれてくることはありません。
 しかし、市場競争という現実を肯定しているなかで、資本の一極集中が進んで、それに伴って資産も強大になり、そのことで、世界の経済を支配することが重大なのです。
 生活のための小規模な貯蓄であれば、富と貧困の極端な格差の矛盾は生まれない。その場合は遺産相続の所得控除という制度によって、実質に相続がかからない仕組みもできるのです。控除額をどうれほど引き上げるかによって、実質的に小規模な生活のための資産の遺産相続はなく、ロールズのいうとおりに課税対象からはずれることになります。
 しかし、強大になった貯蓄の場合は、富の格差の問題から、社会的な弊害が大きく生まれるのです。経済的・社会的平等の社会をつくっていくうえでの生前・死後の相続は必要なことです。
 比例的な消費税として、一定の所得税を越える消費総額にのみ課税されることも考慮するひとつです。人びとが、生産された財やサービスをどれだけ使用したか。それに応じて課税されることで、適切な社会的ミニマムに配慮した調整ができるというのです。課税の固定限界率を調節することによって、格差原理の大まかな問題を解決できるというのです。
 企業の社会的責任・社会的貢献ということでは、道徳的資本主義の問題として、企業モラルの在り方が鋭く問われる時代です。国連はグローバルコンパクト原則として、企業の腐敗防止のため、2003年に総会でその宣言をしています。
 経済的犯罪が巨額な資産と結びついて、国の政治的、経済的に持続発展を脅かす事態になっているというのです。腐敗防止には、国際的協力が必要な時代というのです。腐敗防止のためには総合的な施策が必要として、10項目の原則をたてているのです。
 その原則は、1,人権の保護、尊重、2,人権侵害の企業が加担しないこと、3,企業は組合結成の自由と団体交渉の権利を保障、4,あらゆる形態の強制労働の禁止、5,児童労働の実効的支配の撤廃、6,雇用と職業に関する差別の撤廃、7,環境問題に対する予防的措置をとること、8,環境問題に関する大きな責任を率先して引き受けること、9,環境にやさしい技術の開発と普及を奨励すること、10,強要と贈収賄を含むあらよる腐敗防止にとりくむこと。このグローバル・コンパクトに署名する企業や団体をよびかけているのです。
 そして、コー円卓会議ということで、企業の倫理や社会的責任ということから、世界の社会経済の健全な発展ということで、道徳資本主義の課題が討議されています。
 企業市民という概念から、顧客、従業員、株主、仕入れ先、競争相手、地域社会という人間的モラルの関係性ということで、ステークホルダーの人間尊厳の責任ある行動が提起されているのです。ここでは高品質、サイービス、公平性、健康と安全、商品・マーケテング・広告を通しての人間尊厳、文化や生活様式保全という顧客に信頼されてこそ、持続可能性をもつということなのです。
 働く人びとには、生活を保障し、健康と品格を保つこと、情報の公開と共有、提案やアイデアを可能な限り採用、対立が生じたときに誠実に交渉、障がい者の積極的雇用、職場での傷害や病気から守る、技能や知識の取得の奨励、失業問題に注意を払うなどの提言をしています。企業の公正ななる活動として、コー会議が提唱する6つのステークホロダーとの人間的信頼関係内や従業員に対する企業内での民主主義の問題は、ロールズの考える公正なる社会経済の正義にとって当てはまるものです。
 社会的協働のしくみをどのようにつくりあげていくのか。相互の信頼による互恵性をどのようにしてつくりあげていくのか。企業活動にとって民主主義的な社会経済を尊重していくということで重要な課題です。
 さらに、企業間の関係では、ステークホロダーという社会経済活動の機能的に分業化していく側面と、下請けという関係や大規模な企業に依存しなければ経営がやっていけないという従属性の問題のなかで、いかに民主的に平等な関係がきずかれていくのか。
 そして、金融関係という銀行や投資家との金銭的な問題も経営の自立性ということから重要な課題なのです。金融機関・銀行や日本銀行の徹底した公正なるしくみづくりと徹底した民主的管理運営が必要なのです。
 大企業の下請けによる従属的関係や金融機関の管理統制関係から、いかに自立して、それぞれの経営体が市場のなかで民主的な関係のもとで保障されていくのか。
 そこでは、自由なる経済活動を保障して、個々の営業・労働の意欲を活性化させるために独占禁止法の民主的な徹底整備、金融関係の民主的な法整備、消費者主権の民主的な法整備、命と自然を守り、持続可能性の経済のための環境法の整備など企業の民主的な自由で平等な社会経済の正義を充実していくことが必要になります。
 これらは、市場経済に対応しての自由な競争の前提には公正なる原理、民主主義の経済ルールなのです。競争の原理には人間らしく豊かなに生きていくための質的な勝負による切磋琢磨が求められているのです。
 つまり、この保障を社会的にきちんと整備していくのは、国家による法的整備と行政的執行による民主的コントロールが求められるのです。また、ステークホロダー、従業員への人間尊厳への経営、下請けや金融ということでの企業倫理を保障していくことも大切です。
 これらのことは、財産私有型民主制の国家の重要な役割です。国家は財政民主主義による国民の代表からなる国会の予算決定権、財政執行の法律主義、国債による収入の国会決議主義の重大性があります。
 財政法による国債発行の禁止主義などをいかに遵守していくのか。日本の戦前の軍国主義体制のなかで、軍部独裁の権力で大幅な赤字財政が組まれ、戦争遂行と赤字国債は密接な関係にあったのです。権力の独裁を防ぐためにも赤字国債を禁止するということは戦前の反省からです。
 国家の民主主義的な財政規律が大きく問われている現状で、いかに、国民の命と暮らしを守る主権在民としての民主主義的な国家財政の確立ができるかということです。歳入としての税の在り方、累進課税や大企業などの優遇税税制などを含めての税収入を格差原理を踏まえての民主主義的再編成が求められています。
 また、歳出の在り方としての公共事業支出、社会保障支出の検討など薬価などの医療費や自立していくための教育や訓練、職業斡旋の重点指導など、いくつかの検討があるとみられます。
 財産私有型民主制や民主的社会主義のなかでこれらをどうやって実現していけるのかという財政のシュミレーションが大切になってくるのです。公正なる正義として国家の財政の民主主義的在り方、民主主義的財政の確立は極めて重要な事項です。国会における一人一人の議員の在り方、各政党、内閣・行政機関も大きく問われているのです。
 現実の資本主義的市場のなかで生み出された矛盾に対して、それぞれの国家が蓄積してきた資本主義の矛盾を克服する民主的ルールや、国際的に承認されてきた社会経済システモの民主的ルールを再評価することが求められます。そして、財産私有型民主制政体や民主的社会主義の政体を、世界を支配する超巨大な富の集中という矛盾を解決するうえで、大きなヒントを与えると考えられます。
 ここには、先進国の主導ではなく、発展途上国を含めての国際的機関に対する民主的国際的強調づくりが大切です。このための国連の役割が大きくなっているのです。
 世界のトップの資産総額は1300億ドルを超えています。10億ドル以上の資産家は2200名以上です。これらの人びとが世界の富の半数以上を握っているのです。
 一方で一日1.9ドル以下という絶対的貧困で暮らす人びとが7億3千人いるということです。絶対的貧困発展途上国に多くいるのです。先進国では相対的貧困ということで、南アフリカ26.6、アメリカ17.8%、韓国16.7%、日15.6%、ニュージランド10.9%、ドイツ10.4%、スェーデン8.9%(2018年OECD統計)ということです。日本の一人親の場合半数以上が相対的貧困になっているのです。その割合が増加しているのです。
 ごく少数の人びとが世界の経済を支配して、貧困の状況が進んでいるのです。アメリカは世界一の大金持ちの集中している国ですが相対的貧困率の高い国です。この世界現実のなかで、自由と平等を尊重する社会経済のしくみづくりとして、模索していくことが必要なのです。
 ロールズは、財産私有型民主制にとって、女性の完全平等をめざすものであることを大切にするのです。伝統的な家族内分業が基礎になった歴史的条件があることから、基本制度としての家族の問題が大切であるとしているのです。長期的な社会的協働のひとつとして、女性や子どもに平等な正義を確保する必要があるとするのです。 
 政治的リベラリズムの実現には、教育によって達成するのです。子どもの教育のなかに、自分の憲法上の権利や市民的権利に関する知識が重要なのです。
 自分の住む社会には良心の自由が憲法的に保障されいるのです。子ども達は十分に協働する社会的構成員となる準備を整え、可能となる自活の教育を受けていくのです。そして、社会的協働の公正な条項を尊重したいという欲求が起きる政治的徳性を寛容していくことが求められるのです。
 自由で平等な公正なる民主的国家をつくっていくには、将来の市民としての子ども達の役割は重要です。子ども達に公共的な文化を理解し、その諸制度に参加し、政治的公正なる諸徳性の発達能力をつけることは不可欠です。そして、全生涯にわたって、自活して生きる能力が求められるのです。


 
 
          

マルクスから学ぶ社会的自由論

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マルクスから学ぶ社会的自由論

             神田 嘉延

はじめに

 

 マルクスは、150年まえの産業革命の発展のなかで、資本主義的大工業の矛盾の本質を経済学の探究から明らかにしたのです。また、その実践的変革を表した社会思想家でした。マルクスは資本主義的な矛盾の解放から社会的自由が獲得されるとみたのです。
 その後、資本主義の歴史は、労働運動、差別解消運動、公害防止運動など様々な人びとの社会運動によって、社会権が人類にとって、普遍的な価値となったのです。
 しかし、新自由主義のもとで、自己責任、社会的責任を放棄した営業の自由、弱肉強食の競争が蔓延し、資本主義的な矛盾の克服は、いまだに大きな課題となっているのです。自由の問題を考えていくうえで、市民的自由ばかりではなく、資本主義社会の矛盾から社会的自由は、重要な課題になっているのです。
 つまり、格差の拡大、世界的な恐慌、社会的頽廃は、極めて深刻になり、国際緊張やテロ、政治的な民主主義の危機も重なり、世界的に新自由主義の克服、社会的自由充実の課題が緊急になっています。
 市民的自由がすべての人びとにゆきわっていくためには、社会的自由の課題も不可欠になっているのです。自由の課題には、公共の福祉ということで、他人の自由を犯さないということになるのです。
 人間は社会的存在です。現代は、国際化した社会のなかで、多国間の共存・共栄のもとに、多様な価値を認め合って、共生社会の形成が求められているのです。

 社会の複雑な広がり、交通手段の発展、科学技術の発展など、生活や生産の社会化は進んでいます。このことは、社会的自由の課題と公共性ということが身近な課題として感じられるようになっています。その課題を達成していくことが一層に大切になってきているのです。

 そして、マルクスの社会的自由を考えていくうえで、現代社会の複雑な現状から問題をみつめていくことが必要な時代です。

 

 1,マルクス資本論からの労働権

 

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 マルクスは資本主義の矛盾原理を資本論で明らかにしました。マルクスから学ぶ自由論を考えていくうえで、社会的自由が基本になります。

 マルクスは、イギリスの経済史と経済状態からの資本主義矛盾の解放を大きな課題としたのです。
 イギリスこそ不可避的に社会革命が平和的で合法的な手段によって、完全に遂行されうる唯一の国であると考えたのです。

 マルクスは、商品生産の物神的性格を脱ぎ捨てためには、自由に社会化された人間の産物を意識的計画的に管理できる社会的相互関係が大切としたのです。

 そして、その歴史的条件には、人間と自然の関係の生産力の発展が必要としたのです。労働の疎外をはじめ制約されたものからの解放には、長い苦難に満ちた発展が求められると考えたのです。
 労働者が労働力の売り手として、資本主義的な生産関係に入ることで、労働とその意志の自由が大きく変わった。資本主義的生産関係の労働者は、労働する魅力が少なければ、また、自分自身の肉体的および精神的の働きとして楽しむことが少なければ少ないほど資本にとって喜ばしいことになったのです。

 それは、労働する緊張感と注意力としての合目的な意志が必要であったからです。労働者は、資本主義的な生産過程のなかで、労働の魅力、楽しみが奪われていったのです。つまり、労働者は、資本関係において、自分の意志を労働過程に従属させなければならなくなったのです。
 労働者は資本主義的生産関係に入ることによって、彼の一日の全体の生活は、労働力以外のなにものでもないようになるのです。

 労働者は、人間的教養、精神的発達のための自由な時間を奪われていくのです。さらに、社会的役割を遂行するための、社会的交流の時間も失っていくのです。

 これらのことは、肉体的・精神的生命力のための時間を資本の価値増殖のために、奪われていくということを意味しているのです。資本関係に入ることによって、労働者は、人間的な自由時間が失われていくとマルクスはみたのです。
 本質的に、資本主義的生産は労働日の延長によって、人間的労働力の正常な精神的および肉体的発達との諸条件を奪いとられるだけではなく、労働力そのもを早く消耗して、労働者の生存時間を短縮していくとマルクスは分析したのです。
 ここには、労働者と資本家との間の長期にわたる闘争の歴史が生まれていくのです。そして、長い闘争の成果として、労働者は、標準労働時間の獲得をしていくのです。利潤第一主義の資本制的大工業の誕生以来、強力で無制限な労働日の延長がされ、児童や女性が労働力市場に入り込んでいったのです。19世紀の前半に、イギリスでは、工場法立法の制定によって、標準労働日を獲得したのです。
 工場立法は、工場労働者たちの政治的選挙スローガンによって、広く宣伝されて、議会の大きな課題となったのです。工場経営者を規制していく工場法が制定されたのです。この工場法も労働者の戦いによって、労働時間の短縮、労働条件の改善が充実していくのでした。

 1844年の工場法によって、一日12時間以下、女性労働者の夜間労働が禁止され、13歳未満の児童は、一日6時間半になったのです。さらに、工場立法では、保険条項として、換気装置などの労働現場や労働者の住居の改善をしていくのでした。

 国家法の強制によって、清潔・保健設備がされていくのでした。工場内は過密で健康に悪く、労働者の宿舎も換気の悪い部屋であありました。しかし、衛生的正義の闘争によって、衛生当局者も労働者の衛生権を報告するのでした。衛生権は法的な保護になったことを見落としてはならないのです。
 また、工場内に教育条項としての学校がつくられたことは注目することです。工場法によって、初等教育が工場内で実施されたのです。このことは、資本から労働者がもぎとった画期的な譲歩であったのです。
 労働者の闘いによって、孤立した労働者ではなく、資本との自由意志契約によって、自分たちの奴隷的状況を克服していったのです。ここには、議会による労働立法という強力な社会的手段があったことを見落としてならないのです。議会による工場立法は工場経営者に対する強制力になったことを決して忘れてはならないのです。
 同時に、ここでは、孤立した労働者としてではなく、標準労働日や労働条件を団結した力によって獲得していったことは重要なことでした。資本との関係で、自由対等に労働契約を結んでいくことができるようになったのです。まさに、労働契約を自由にできることは、労働力市場の自由ということから注目すべきことなのですけど。

 労働者の場合は、個々では孤立した存在であることから、労働者が意識的に団結の力で、議会に要求し、国家による労働立法から守られることが大切であったのです。また、労働者自身の団結権、労働交渉権なども不可欠であったのです。
 資本論からみた労働者の労働時間の短縮の闘いは、相対的に自由な時間の獲得ということです。そして、工場法の教育条項にみられるように、人間的な発達のために、初等教育も獲得したことは特記すべきことです。

 安心、安全な環境で暮らすことは人間にとっての自由の条件でもあります。清潔・保健整備の改善や換気の悪い宿舎の改善など、衛生権ということからも大切なことであったのです。
 社会的自由、社会権としての日本国憲法の27条の「勤労の権利・義務、勤労条件の基準、児童の酷使の禁止があります。

 また、憲法28条の労働基本権、勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動する権利は、これを保障するということがあるのです。

 ここには、マルクス資本論を書いた150年前からも、その問題が問われていたのです。その後の近代の歴史が社会権としての重要な認識となり、基本的な人権として充実させてきた結果によるものです。

 

 2,貧困化問題と生存権社会保障の国家義務

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 憲法25条は、生存権、国の社会保障の義務を定めています。すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 日本国憲法は、社会的自由の条件として、様々な貧困化の状況に対して、社会福祉社会保障、公衆衛生を実施するのを国家的義務にしているのです。
 資本論では、資本主義的蓄積の一般的法則として、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、道徳堕落の蓄積の必然性をのべています。そして、社会的階層に相対的過剰人口、受救貧民層をあげています。

 受救貧民層は、浮浪人、犯罪者、売春婦、孤児、転業能力のない没落層です。彼らは、危険な機械設備、鉱山作業、化学工場などの犠牲者です。この層の拡大は貧困層と産業予備軍の増大、資本の増大に比例するというのです。

 資本論において、利潤第一主義の資本主義的な生産力の発展は、資本蓄積のためで、労働者の支配と搾取の手段にするのです。そこでは、労働者の犠牲のうえに達成していくとみたのです。

 「労働者を部分人間へと不具化させ、労働者を機械の付属物へとおしとめ、彼の労働苦で労働内容を破壊し、科学が自律的力能として労働過程に合体される程度に応じて、労働過程の精神的能力を労働者に疎遠なものにするのであり」。第一巻第23章資本主義的蓄積の一般的法則、1108頁、新日本出版
 一国民の富は、貧困層の人口に照応し、ある人びとの勤勉は、他のひとびとの怠惰を強要するのです。大衆の貧困と堕落とを伴う、資本主義の文明の野蛮ということになるのです。

 マルクスは、資本論で資本主義的蓄積の貧困化の例証を具体的にイギリスの実態でのべていく。
 1863年に枢密院の医務官は、イングランドの労働者の栄養最悪部分と窮状の調査をするのでした。絹織物工、女子縫製工、革手袋製造工、女子裁縫工などを調べて、食事のひどい貧しさ、栄養不足が病気を引き起こしているというのです。   衣料と燃料、下水溝がもっとも貧弱な不衛生な住居など。

 勤勉このうえない労働者層の飢えの苦しみと、資本主義的蓄積のもとづく富者の粗野または上品な浪費的消費、豪壮な建物、豪華偽装馬車のための道路拡張がみられるのです。
 資本主義的な大工業をいち早く取り入れ、資本主義の急速な発展を達成したイギリスで、その文明の汚辱の事実がみられるとマルクスはみたのです。

 そこでは、住居の劣悪さは明白であった。道徳的生活を重んじるすべての人びとにとって、深い心痛であった。伝染病を蔓延するひどい衛生状況での生活であったのです。これらの悲惨な状況を、公衆衛生報告書、児童労働調委員会報告書で、マルクスは引用してのべているのです。

 

3,疎外された労働

 

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 マルクスは、「経済学・哲学草稿」で疎外された労働についてのべまています。資本主義的な生産関係では、労働者は富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけ貧しくなるというのです。
 この事実は、労働が生産する対象、生産物がひとつの疎遠な存在であったのです。そして、生産者から独立した力として、労働に対立したのです。労働者は彼の生命を労働対象のなかにそそぎこむので。しかし、そそぎこまれた生命の生産物は彼自身のものではないという皮肉な結果であったのです。
 自然は労働に生活手段を提供しますが、自然は狭い意味での生活手段を提供していたのです。労働者は、資本主義的な生産関係に入ることによって、彼の生活手段の自由な労働を奪われるし、生存手段である生産物も失われのです。労働者は肉体的主体としてのみふるまうのです。ここに二重の側面から労働者の疎外が生まれたのです。
 労働者は労働の本質から疎外されることによって、労働によっての幸福を感ぜず、かえって不幸を感じるのです。労働者の自由な肉体的および精神的および精神的エネルギーがまったく発達せずに、かえって彼の肉体を消耗し、彼の精神は頽廃化していくのです。

 また、労働していない家庭にいるような安らぎは、労働しているときは安らぎをもたないのです。だから、かれの労働は自発的なものではなく、強いられたのであり、強制労働だというのです。 
 労働は、ある欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足させるための手段にすぎないということです。人間的労働の本質である自然との関係で、欲求の満足のために、生産する喜びが失われているというのです。
 以上のようにマルクスは、資本主義的な生産によって、資本によっての労働過程の支配と所有から排除されていることで、労働による幸福感、満足を得ることができないということで、労働疎外の本質をのべるのです。
 人間は動物と異なって類的な存在であると考えるのもマルクスの特徴です。人間は自己に対してひとつの普遍的な、それゆえ自由な存在としてふるまうというのです。人間は、植物、動物、岩石、空気、光などの自然科学の対象として、また、芸術の諸対象してふるまうというのです。
 人間が享受すべき生産物を消化するためには、まず第1に仕上げを加えなければならないと考えます。それは、人間の精神的な非有機的自然、精神的生活手段になります。自然生産物が食料、燃料、衣服、住居などの形であらわれるようになるのです。そこでは、人間的生活や人間的活動の一部を形成し、また、人間的意識の一部をもつのです。人間は自然によって生きるということです。
 つまり、自然との不断の交流過程で人間は死なずに生きているのです。資本主義的な生産関係での疎外された労働は、人間は自然の一部として、自然と意識的に連関しているのを断ち切られているのです。

 人間にとっての労働は、生命活動、生産的生活そのものです。それは、欲求を、肉体的生存を保持しようとする欲求を満たすための手段であるのです。
 人間の生命活動は、類的生活がよこたわっています。自由な人間の意識活動は、そのものなのです。人間は、生命活動そのものなかに、自分の意欲や自分の意識の対象にしています。資本主義的生産関係は、自由な人間の意識活動、喜びや幸福感という自由な活動を疎外しているというのです。
 疎外された労働は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観することと、自然との関係での生命活動からの意欲や意識の自由な活動を人間の肉体的存在の手段に引き下げるということになるというのです。これらの意味することは、人間の精神的本質を疎外するというのです。
 労働の疎外があるということは、人間からの人間の疎外ということです。労働者が生産した労働生産物は、労働者に属さず、労働者以外の他の人間に属するということです。労働者の苦しみは他の資本にとっては、その生産物が享受され、他の人間、資本にとっての生活のよろこびになるのです。
 労働疎外によっての労働生産物は、資本家のものになり、その労働の主人が資本家になっているのです。私有財産は、労働者の外化された労働の産物、成果です。

 労働疎外が人間の疎外ということから、労働者の政治的な解放ということは、労働者だけの問題だけではなく、一般的に人間の解放が含まれているのです。人間にとっての労働、生命活動、生産的生活からの幸福感、人間の意識、人間的文化という本質の問題があるのです。このことから、利潤第一主義の労働から離れた資本家も含めて、人間的生きる喜び、幸福感、人間の意識や文化芸術をもみつめていくことが大切になってくるのです。
 資本主義的な生産関係での私有財産は、労働者の人間的欲求を知らないのです。資本家は妄想、気まま、気まぐれであるとマルクスはのべるのです。資本家は、光、空気など動物的な清潔さもやめてしまう。汚らしいもの、人間の頽廃、堕落、文明の下水溝の汚物のあるところが、労働者の生活基盤になっているのです。

 完全な不自然な放任、腐敗した自然が、人間の生活基盤になっているのです。もはや人間の感覚のどれひとつとして、人間的な仕方からみればおかしなことです。このような非人間的な事態は、動物的な仕方においてすら、まったく存在しないとマルクスは痛烈に問題を告発するのです。
 労働の疎外は、機械の発達の導入によって、全く未発育な子どもを労働者にするのです。機械は人間の弱さに順応して、弱い人間を機械にしようとするのです。労働者の活動をもっとも抽象的な機械運動にまで還元し、活動する欲求も、楽しむための欲求すらなくすというのです。まさに、労働者を貧弱した生存条件の無感覚的な欲求の存在として陥れるとしたのです。 

 そこでは、資本主義的生産関係にとって、賃金の節約ということから労働者のどんな贅沢も排除していくのです。諦めの、窮乏の、節約の科学として、空気とか肉体的運動の欲求さえも、人間の節約する驚くべき勤勉と禁欲の科学を道徳理想とするのです。
 自制、つまり生活とすべての人間的欲求との断念が、労働者の主要な教養になるとしたのです。つまり、食べたり、飲んだり、書物を買ったり、劇場や舞踏会や料理屋へ出かけたり、考えたり、愛したり、理論的に考えたり、歌ったり、絵をかいたり、フェンシングをしたりすることなどが少なければ少ないほど、それだけますます節約しているのだとみられているのです。

 この節約道徳は、大切なことを見落としているのです。消費がなければ生産されない。生産は競争をつうじて一層に多面的に、いっそう贅沢になってゆかざることを。節約を推奨する理想道徳は、消費と生産の循環の基本原理を忘れているのです。マルクスは節約道徳理想論をおしつけることを批判しているのです。 
 資本主義の発展のイデオロギーのなかで、ウエーバーの「資本主義の精神」に書かれた近代資本主義の職業的モラルとしてのピューリタンニズムの禁欲主義、日本の渋沢栄一の「論語と算盤」のように、モラル資本主義の課題があったことも見逃してはならない。経営者としての社会的モラル、職業的なモラルが歴史のなかで語られてきたのです。経営者としての職業的なモラルと資本主義的な競争主義のもとでの営利主義での経営的エゴイズムの現実的な矛盾のなかで、社会的ルールとしての経済のしくみが資本主義の矛盾の修正として、国家法によって形をつくってきたのです。
 ここには、労働者の運動、住民の公害防止運動などの社会的な運動との関係で、モラル資本主義のルールがつくられていくのです。さらに、恐慌ということは、生産、労働の目的が人間の生活を豊かにしていくという消費と結びついていないということの労働疎外の本質からの矛盾の克服があったのです。
 さらに、最も重要なことは、国家としての金融、財政、社会政策、厚生労働政策、教育政策などをとおしての社会経済の民主的な計画や管理の法や行政執行のコントロールの役割があることを見落としてはないならないのです。これらの問題を深めていくために、国民的な合意の形成を民主的にどう達成していくのか。議会や国の役割の意義などを念頭におくことが必要です。つまり、これらの意味から人間の意欲・意志の自由と国家の役割を深めていくことが課題になっていくのです。
 
 4,人間の意欲・意志の自由と国家の役割

 

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 エンゲルスは「反デユーリング論」のなかで人間の意志の自由問題として、自由と必然性についてのべています。人間は合理的洞察と非合理的な衝動の両面をもっているとしています。

 自由は、洞察と衝動、分別と無分別との平均であって、その度合いとしてみるのです。自由とは必然性の洞察であり、意志の自由は知識をもって決定を行う能力というのです。だから、ある人が判断がより自由であればあるほど、その判断の内容は必然性をもつということになります。
 無知にもとづく判断は、気ままに選択するようにみえても、自らの不自由を証明するのです。自由は必然的に歴史的発展の産物です。動物界から分離したばかりの人間はすべて本質的に不自由であった。文明、文化の進歩は、自由の歩みであったことを重視しているのです。
 エンゲルスは「フォイエルバッハ論」の著書で、人間の幸福衝動についてのべています。幸福衝動は、その充足の手段である外界との関わり合いが必要としています。幸福の衝動は、食物、異性の個人、書物、談話、討論、活動などの形であらわれます。それらは、消費される対象になるのです。
 フォイエルバッハの道徳はこれらの幸福衝動充足のための手段と対象が無条件に各自に与えられているとみて、人間にとっての幸福への衝動は生得的なものであり、いっさいの道徳的基礎としなければならないとするのです。
 フォイエルバッハが、他人の幸福を尊重しなければならないと考えます。他人は自ら身をもって、幸福衝動をささげものであるということから、われわれ自身の合理的な自制と、他人との交わりにおける愛をのべています。他人の幸福衝動に自分のと同等の権利を認めれば、事情がいくぶんだけでもよくなるとみるのです。

 このことに対して、マルクスは消費される対象が必要であると、古代の奴隷と主人、中世の農奴と諸侯、資本主義でのブルジョアジーと労働者というように支配階級と被圧迫階級の幸福衝動の条件は物質的基盤から異なるとしているのです。
 幸福衝動は観念的権利からだけではなく、物資的手段が必要であり、資本主義的生産関係において、貧窮な生活を強いられている労働者は資本家とは同等ではないとみるのです。フォイエルバッハの抽象的な人間的愛から現実的に生きた人間、人間の歴史のうちで現に実際行動しいる人間の状態から観察するばよいとマルクスは強調するというのです。
 社会の発展史は、自然の発展史と本質的に異なるのです。自然史は、人間の意識のない盲目的な作用力であって、交互作用のうちに一般的な法則がありますが、人間社会の歴史は、行動している人間は意識を賦与され、考慮または情感をもって行動し、一定の目標をめざして努力している人間であるのです。
 ここでは、表面上では、個人の意識的に意欲された目標によっての行動があるのです。行動は偶然が支配しているようにみえますが、多くは、意欲された目的が交錯したり、抗争したりするのです。行動の目的は意欲されているにもかかわらず、その行動の結果は、意欲された目的と合致するかに見えても、意欲された結果と違うことになるのです。偶然性が支配しているように見えても、この偶然性の内部にかくれた法則性によって支配されていることを詳しくみる必要があるのです。
 人間の歴史は、人間各自の意識的に意欲していることを追うことによって、多くの意志と外界の意志の多様な働きが合成され、それが歴史の結果なのです。個々の意志は破棄されるのではなく、合成された一部を構成されているのです。このことは、多くの個人が意欲しているというなかで歴史がつくられいくということです。
 意志は情感または考慮によって規定されているのです。合成された意識は、個々にとっての意欲されたものが他の各人によって妨げられ、全体には、無意識に作用されているようにみえるのです。歴史を動かしている推進力は行動する人間の意識です。その行動する意識は、個々の人間の動因ではありません。それらは、大きな集団、大衆であり、諸民族全体を、そして、各民族のうちで、諸階級全体を動かしている動因なのです。
 人間的な感性的な活動は、実践的に把握されていくものです。人間の考えは、実践的ににおいて真理があるものです。真理は実践的に変革していくなかでみいだされていくという見方が大切というのです。
 近代の歴史は、経済的解放をめぐってされていくものです。国家とか政治的秩序は、従属的要素であるのです。個人の行動の推進力は、個人の頭脳を通過して、個人の意志によって行使されていきますが、社会的階級的によっての要求の意志は、国家のなかでの法律の形で効力をもっていくのです。つまり、国家の意思は法という形であらわれるのが、近代の歴史です。
 社会のなかでどの階級が国家のなかで優勢であるかどうかは、法の形にあれわれるが、規定的には、巨大な生産手段をもつ生産諸力と交換関係のなかで、国家は独自の発展をもつようにみえるのですが、つまり、社会の経済的生活条件からみていかねばならないのです。社会は内外からの攻撃に対して、その共同の利益を守るためにひとつの機関をつくりだす。この機関が国家権力です。
 国家は社会に対して独立して行使するようになっていくのです。支配階級に対する被抑圧階級の闘争は、国家機能の行使の政治闘争になるというのです。経済的基礎との関係で政治的意識の基盤がありますが、国家は独自に発展して、独立性をもっていくのです。職業的に政治家や国法の理論家、私法の法律家が経済的諸関係の事実を考慮していくが、歴史は、その諸関係から独立していくというのです。
 資本主義的生産関係での経済的運動は、全体として自己を貫徹していきますが、国家権力との関係では、相対的独自性をもって政治運動をしていくのです。そして、労働者の運動などの反対派の運動の反作用もうけていくのです。
 国家権力が、経済発展の反作用もあることを見逃してはならないのです。それは、経済発展の特定の方向を遮断し、他方の方向を指定する場合があるのです。政治権力が経済的発展を大いに阻害して、力や材料の大量の浪費を生み出すことが秘本主義的な競争社会の政治的利害関係であるのです。さらに、経済的資源が征服されて乱暴に破壊される場合があるとエンゲルスはみているのです。
 エンゲルスの資本主義的生産関係のなかでの政治闘争の論から学ぶことは、資本と労働者の矛盾や競争間による無政府性の矛盾を国家権力によって、基本的人権などの社会的正義に即して、どう公平性・公正性を保っていくかということです。
 社会的教育・生涯学習の視点からは、これらのことで、歴史をつくってきたこと、社会を実践的に変革していくことで、人間の意識や意欲、感性などをどのようにみていくのか。それをとおして、人間的自由を充実して、どう人間的に認識、能力を高めていくかのかということが問われているのです。
 資本主義的社会経済の関係を考えていくうえで、財産権と公共性の関係問題は重要な課題です。資本主義的関係においては、大量に財産をもつものと全くもたないものと大きく二局に分かれていきます。いわゆる格差の拡大がされているのです。
 財産権と公共性の関係をみていくうえで、日本国憲法の29条の理念は、その重要性をあげています。この認識が現代社会で大きく問われているのです。また、税や財政は、国家の所得の格差からの生存権社会保障、福祉や教育の条件整備、労働の権利保障の財政出動、公共的な事業、公衆衛生など、国家の機能としての国民の命と暮らしの基盤・体制整備にとって極めて大切な課題です。
 現在の日本国憲法では、第29条で財産権は、これを侵してはならなとすると同時に、財産権の内容は、公共の福祉に適合するように法律で定めるとしています。また、私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができるとしているのです。
 財産権は、社会経済活動において、自由に営利のためのエゴイズムの営業活動行使ができるわけではないのです。社会的、経済的弱者の生存権を保障し、生活環境、自然との共生を守るということから制約があるのです。

 労働の場では、経営者側にとって労働安全衛生の遵守、労働基準法の遵守、労働基本権の尊重が不可欠になっているのです。また、社会的には、公害防止や自然環境の保護が求められているのです。
 そして、個々の自由な営業を保障するために、独占禁止法があるのです。商品が安全であること、商品の内容を知る権利、正当に商品を選ぶ権利などの、商品による被害が救済される権利などの消費者保護、証券取引の公平性・公正性を保つためにインサイダー取引の規制、・公平性・公正をもった商品という社会的責任をもつ制約のなかで、財産権の行使があることを決して見落としてはならないのです。
 さらに、国家の社会的責任、社会的義務としての国民の命と生活、国民の幸福、社会的自由の保障などの役割があります。

 このためには、財政的な基盤が必要であり、その財政を民主的に管理し、運営していく義務があるのです。この納税義務は、包括的累進課税が基本原理です。つまり、払える能力の人が、その所得に応じて累進的に払っていくということです。憲法第30条は、国民の納税を法律に定めているのです。

 憲法82条から91条まで第7章として財政について定めています。財政は国家の機能として特別に重要性をもっていることから、憲法において、国家の役割、公費の濫用防止など細かに定めているのです。


5,マルクス・エンゲルスが考えた未来社会論・自由の国

 

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 マルクスとエンゲルの「ドイツイデオロギー」の著書では、未来社会論を次のようにのべています。資本主義的大工業による労働の分割から人間的な力の復元は、もとのようにはならない。諸個人が個人として参加していく共同態によって、諸個人の自由な発展と運動の諸条件のもとでの諸個人の結合によって、新たな豊かな人間的な力が復元できるというのです。

 他の人たちとの共同こそが、個人の素質をあらゆる方向へ伸ばすことになるという考えです。したがって、共同においてこそ人間的自由は可能となるのです。
 この共同態とは、個々人の自由な参加による結合なのです。どのようにして、これを実現していくのか。その具体的な形態はどのようになっていくのか。資本主義的矛盾の対立のなかで、労働組合と経営者の集団的な交渉や協議会、協同組合方式の経営、労働者の職場などでの経営参加など、様々な試みが歴史のなかでされてきました。
 そして、労働基準監督、公衆衛生面からの保健所行政、環境保護行政など国家での法律に基づいて、経営側の社会的規制と労働者の社会的参加が行われてきました。

 マルクスエンゲルスの指摘する自由な国への諸個人の結合による共同態をどのようにつくりあげていくのか。詳細な具体的にるみえる形が必要です。
 そして、それらが、具体的にどのような方法で実現していくのかという過程も大切です。基本は現実的な問題の起きている利益第一主義の資本主義の矛盾を地域や職場のレベルから、地方、全国へと国民的な参加によって、民主的な協議、結合によって未来社会への達成を一歩一歩成し遂げていくことではないか。

 法的には、国家をとおして、地域では市町村での条例をとおして、民主的な協議や結合の法や行政体制が求められています。

 大株主の個人、大規模な特定集団の株式から、国民による社会的共同の株式形態の資本形成が可能であるのか。その模索から、新たにどう変革していくのかという課題は、資本の社会的所有形態として極めて大切です。

 新たな協同、共同所有方法による事業体の経営の模索になっていくのです。公社方式や協同組合資本、ワーカーズコープも考えられることです。株主会社は株数によっての議決権です、協同組合資本は組合の一人一票制です。ワーカーズコープは労働者自身が組合員ですので、協同組合資本と労働者が一体なのです。労働者は経営することを求められるのです。

 市場を社会の発展段階として、不可欠とみるならば、これらの考えを模索していくことは重要なことです。
 再生可能エネルギーでのスマートコミュンティティづくりを目標に、地域循環システムづくりなどにみられように、住民と事業体の共同経営による地域エネルギー経営などそのひとつの事例です。また、消費者・農業・医療などの協同組合を徹底して、労働と消費で直接的な関係の現場で組合員参加方式にすることや、介護福祉や共同の子育て、森林や農業でのワーカーズ方式も注目されることです。

 利潤第一主義の資本主義的矛盾の克服として、それぞれの様々な運動があります。この運動の発展の現実から、協同の結合、共同態の個々人の参加による自由なる国への未来社会をみつめていくことが不可欠なのです。
 資本主義的大工業での労働は、分業がすすめばすすむほど、蓄積がふえればふえるほど、分裂は鋭くなっていきます。生産力は個人と全く独立の世界となるのです。労働は自己表出とみることはできなくなるのです。労働の分割は、物資的労働と精神的労働の分割が現れてくる瞬間から、意識のなかで現れてくるのです。
 享受と労働、生産と消費は、矛盾が進行していきますが、このなかで、結合していけば諸個人のものとなる可能性をもつのです。

 分割されていれば、労働が自由意志的にではなく、抑圧に、よそもののこととして、彼に対立していくのです。労働の分割のうちにすべての矛盾が存在するのです。人間自身の仕業が人間に対して対立するのは、労働の配分が押しつけられた特定の排他的な活動範囲となって、そこから抜け出ることができなくなるのです。激しい矛盾は結合の必要性を強く意識するようになるのです。
 労働の分割によって、必須となった協働の社会力は、個々人の自由意志ではなく、よそものように彼らの外にある強引な力として現れるのです。

 私的所有と労働の分割を廃止してこそ、諸個人は自立して、社会的地位と、それに伴う人格的発展が保障されていくことが認識されるようになるのです。分業を止揚していくことは、共同社会においはじめて、人格的自由が可能となるのです。諸個人はかれらの連合によって自由になるのです。
 資本主義的な大工業は、競争を一般化し、通運手段と世界市場をつくりだしたのです。大工業から閉め出された労働者たちは、大工業の労働者たちよりもひどい生活状態へとおとされます。

 競争は諸個人をいっしょうにするにもかかわらず、労働者を相互に孤立させるのです。労働者が団結しうるには長い時間がかかるのです。孤立した諸個人は、孤立化を日々再生産する状況のなかで生きているのです。この孤立をうちまかす長い闘争が必要なのです。
 エンゲルスは「空想から科学」の著書で、社会主義思想は、天才的頭脳が偶然に発見したものではなく、歴史的に発生したプロレタアートとブルジョアジーとの必然的結果から生まれたとしています。資本主義的大工業の生産は、社会的生産にますますなっていくのです。生産的行為が個々の生産物から社会的生産に転化したのです。
 しかし、私的所有による生産の支配で、生産物を実際に作りだした人びとに領有されないのです。資本家よって領有されるのです。ここでは、資本家による利潤、剰余価値を目的に蓄積が絶えざる行われ、同時に競争が襲いかかってくる社会になるのです。生産手段と生産物は実際は社会的になっているのですが、領有形態が私的であるがゆえに、社会的矛盾による衝突が起きるというのです。
 さらに、資本主義的生産様式が競争社会ということで、無政府をつよめていくのです。市場の膨張は生産の膨張とあわせることができなくなり、その衝突が起きます。それが資本主義的な無政府で、恐慌となって社会経済を混乱させるのです。社会的生産と資本主義的領有の矛盾が社会の無政府性としてあらわれていくのです。
 これらの無政府に結末をつけようとするのが社会主義なのです。資本主義的大工業による社会的生産の推進は、内部に無政府性をつくりだしたが、計画的、意識的な組織に変えられることによって、個人の生存競争はなくなるのです。人間はある意味で、動物界から決定的に分離し、動物的生存条件から人間的な生存条件に入り込むというのです。
 人間を支配してきた人間をとりまく生活条件の外囲は、人間の支配と統制に入るのです。人間は、ここではじめて自然に対して、意識的にほんとうの主人になるのです。人間は専門的知識によって、自然法則を応用していくのです。
 人間は自然に対して、自由な行為に入っていくのです。自由の王国の飛躍になっていくのです。資本主義的な生産による社会的生産の拡大と私的所有の矛盾からの無政府を克服していくために、国家の力によって、社会的になった生産手段を公共的所有に転化させていくのが、社会主義の役割です。エンゲルは空想から科学への著書で、資本主義の矛盾の克服としての社会主義の必然性をのべるのです。
 マルクスとエンゲルが生きていた時代から150年たった現代社会は、生存権社会保障の充実、労働権など社会権の充実がみられるようになりました。国家の機能も大きく変化していったのです。

 国家としての資本主義的無政府性の克服に、国家の経済への関与が巨大な財政出動、公共的事業、金融管理が生まれてくるのです。そして、社会経済社会を法によるルールをつくっていくのです。
 つまり、国家による経済の監督、管理規制と大きく変わっていったのです。日銀の金融政策、国家の財政政策、国際的な経済機構の整備などが進んで、資本主義の無政府性をコントロールする歴史的な時代に入っているのです。

 しかし、一方で、社会的に自由の権利を物質的に制限しようと国民の命や暮らしの社会権利保障の財政出動を削減しようとする新自由主義の考えが大きく存在していることも事実です。この対抗が現代の政治的な矛盾になっているのです。
 新自由主義の考えが、大きな存在になっているなかで、資本主義のもっている原理的な矛盾をマルクスエンゲルスから学ぶ意義は現代でも大きく、社会主義的な見方は未来社会をみつめていくうえで、大切なことです。
 そして、マルクスエンゲルスの生きた時代から150年の歴史を深く分析して、人類史的に社会主義的思想の果たした歴史的役割を先進資本主義の現実の社会経済構造からみていくことも大切な課題です。社会主義という呼称がソ連や中国などで使われています。これらの国は、社会的自由や市民的自由が発展してきた先進資本主義とは異なっています。
 また、植民地から独立したキューバベトナムなどでも社会主義が唱えられています。世界は政治的に植民地が消えて、多くの独立国家として存在して、国連に加盟しています。国際的な共存・共栄と多元主義による多様な価値を尊重する協調主義も可能になっている時代です。
 社会主義を呼称している国は、それぞれ政治体制が、歴史的に異なり、また、文化的側面も違いがあるのです。また、社会主義という思想の意味あいも一律ではないのです。まさに、多様性をもって、多義的に社会主義が呼称されているのです。
 しかし、社会主義は人間的自由を勝ち取っていく思想として、独立と自由、平等ということで多くの人びとに支持されて、普及していったものです。いま一度、人間的な自由とはなにか。自由の国とはなにか。社会的自由、市民的自由、公共の福祉という基本的な原理を含めて、それぞれの国や社会的現実に即して、深めていく課題があるのです。
 マルクスエンゲルス社会主義論は、当時のイギリスなどの自由や民主主義の思想が社会的影響の姿がみられ、議会の発展もありました。このような資本主義の発展した国の現状のなかでの矛盾の分析でした。このなかで社会主義が唱えられたのです。この意味で、マルクスの思想からは、先進資本主義国のなかで、社会主義思想をみつめていくことが大切だと考えられるのです。 

人間の安全保障と貧困者の潜在能力開発及び多文化共生

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人間の安全保障と貧困者の潜在能力開発及び多文化共生         神田 嘉延

  

 世界的に蔓延する新型ウイルスの感染症のなかで、人間の安全保障をみつめることが極めて大切になっている。

 それは、大国の覇権主義、一国のナショナリズムではなく、国際協調主義である。新型コロナという感染症パンデミックという人類を脅かす災難が襲っている現状ですが、この危機の克服には、人間の安全保障という視点からの国際協調が急がれているのである。

 世界的危機になっているコロナ禍では、WTOの役割に大いに期待するところである。この危機のなかで国連のもっているすべての機能を全面的に開花させて、国際協調を推進することが切実に求められている。

 安全保障という概念は、国家ではなく、個々の人々の恐怖や欠乏から、人間の尊厳を確固たるものにするためである。それは、教育や社会参加などの人間の能力強化の人間開発と貧困から恐怖の解放のために社会的サービス、生存の基礎的インフラ整備が求められる。さらに、暴力を伴う紛争からの保護を行っていくことが必要である。

 人間の安全保障は、国家による安全保障という側面からではない。人間の安全保障は、国境、敵国、自国の価値観・政治システムからではなく、環境汚染、貧困、大規模人口移動、ウイルスなどからの感染症など人間が生きていくうえで多様な脅威から人々を保護していくという新たな視点が不可欠である。

 人間の安全保障は、国と国の関係も相互依存関係という視点が大切である。それは、国際関係における国益という執着を忘れることである。国家間の違いをお互いに認め合うという国際協調主義を重視することである。

 

 国境を越えての社会の在り方を問う時代

 

 人間の安全保障は、領土保全より、国境を越えての人々の暮らしや社会のあり方が問われている。領土を外敵から守ることだけではなく、恐怖と欠乏から解放され、個人や社会の潜在能力を引き出すことである。このことによって、人間らしく生きるような人間の安全と豊かさを作り上げていくいくことになる。

 国連の人間安全保障委員会は、2000年9月の国連ミレニアム・サミットでの日本のよびかけによって設立された。前国連難民高等弁務官緒方貞子ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン教授を共同議長として設立された。

 2003年5月に両共同代表が「人間の安全保障委員会報告書」を国連事務総長へ提出した。人間の安全保障委員会は、日本政府の発案で設立されたことを日本国民として誇りに持つべきものである。

 この提案は、国際平和の問題を国家という枠を超えて、世界にある貧困という欠乏、戦争などの暴力からの恐怖と人間らしく生きていくためのものである。そこでは、保護と能力強化の人間の安全保障を行うものである。

 

困窮の克服は人間の安全保障・戦争防止の重要な課題

 

 人間の安全保障は、紛争と貧困から個々が自由になっていくことを積極的に提起した。国連での各国政府機関から独立した人間の安全保障委員会は、日本の国際平和の大きな役割を国連の場で発揮したものとして注目すべきものである。

 困窮の克服は、安全保障の大切な課題である。平和と開発は、相互に結びついている。貧困と欠乏が暴力を伴う紛争とどのような因果関係にあるかは慎重に検証する必要がある。紛争が起きていない国でも貧困に苦しむ人々は多い。富裕な国でも格差拡大、差別問題などで紛争が起こることを見落としてはならない。

 戦争は人の命を奪い、生存者にも深い傷を残す。また、家屋・資産・作物・道路・銀行やその他の公共設備を破壊するばかりではなく、市場メカニズムと政治の基盤である人と人の信頼関係をも傷つける。

 さらに、戦争は貧困を助長する。国連の人間の安全保障委員会報告書は、戦争によって、困窮が一層に拍車をかけていくことを重大な問題にしている。

 人間の安全保障委員会は、内戦という暴力を伴う紛争の変化の特徴として、次の六点を指摘する。1,土地ないし資源をめぐる係争。2,急速かつ激しい政治的、経済的変化。3.人々や地域社会の不平等の拡大。4.犯罪、腐敗、非合法活動の増加。5,脆弱かつ不安定な政治体制と制度。6,アイデンティティ政治、植民地主義をめとする歴史的遺産。

 暴力を伴う係争下の人々の問題を考えていくうえで、アメリカ、イギリス、ロシアなどの大国の影響もあることを見落としてはならない。

 アフガニスタンイラク、シリア、リビアなどの内戦は、宗教的な争い、民族間の争い、政治体制の争いばかりではなく、アメリカ、イギリス、ロシアなど、大国の利益との関係が深く関わりながら、戦争が長期したことをみなければならない。

 現代の暴力を伴う内戦の問題は、国境を越え、宗教的な名目をもって、経済的格差や生活不安を背景に世界的規模に拡大している。この現実を人々はみなければならない。

 人間の安全保障委員会の報告書では、テロに対する戦争について次のように指摘している。「テロ組織もまた、人々の安全と世界の平和に大きな脅威となっている。テロ自体は新しい現象ではなく、これまでも国家や暴力的活動家が一定の政治的目的を達成するためにテロを行ってきた。

 しかし、犯罪組織ともむすびつくことの多い国際的なテロ・ネットワークが大量破壊兵器を入手することすら可能となった現在、テロはその性質を変えつつある。国家と国際社会の安全保障論議を席巻しているのが、テロに対する戦争である」。

 紛争は人々の間の信頼関係のみならず、地域社会や政府への信用をも破壊し、社会への結束力をむしばむものである。そして、和解と共存に力を入れることは、紛争の終了後には重要なことであると強調する。これを無視すれば、新たに、不平の種を生み、暴力や人権侵害、紛争を再びつくりだすと人間の安全保障委員会は指摘する。

 

 平和のための法的正義と教育の役割

 

 人間のもっている能力を強化するためには、教育を受けなければならないとしているのも重要な特徴である。教育がなければ人間の安全保障を実現することはきわめて厳しい。働く者として、親として、社会を変えていこうとする市民としても、教育を受けなければ、人は大きな不利益を受ける。

 貧しい人々が教育の機会を享受することは大切であるが、単に確保されるだけではなく、学校が安全を有ること、市民社会を育み寛容な社会をつくりだすような教育内容であることが重要である。

 さらに、こうした観点からは、平和と開発、安全保障と環境保全を考えるのではなく、すべての要因を含めて考慮する必要がある。これらの教育に関する基本的視点を人間の安全保障委員会報告書は述べている。

 法的正義がより良い平和を築くとは限らない。平和の構築には、人々が過去と折り合いをつくる信頼を築くことである。それには、様々な深刻な問題の起きたことを認め、受け入れることが必要である。

 それらは、被害者と地域社会の尊厳の回復と再生を推進するためである。そこでは、罪を自白させ、社会的制裁や起訴によって罰することが求められる。

 さらに、これらのことが効果をあげるためには、時間と関与が不可欠である。法的正義と和解は、どちらも短期間では達成できない。全過程を通じた継続的な関与が求められる。また、強力で効果的な制度が必要になる。

 法的正義を実現するためには、強力で独立した法制度が必須である。またそれらの制度は、和解を育むためにすべての人々が恩恵を享受できるものでなければならない。参加と合意された枠組みも求められている。

 オーナーシップと正統性を持たせるために、目的や手続きを決定する場に人々自身が参加し、協議することが必要である。

 人間の安全保障の共同議長を務めたアマルティアセン博士は、安全が脅かされる時代に教育の必要性を強調している。

 読み書きや計算という生きるために必要な基礎教育を普及させることは、人間の安全を脅かすための強力な予防効果になる。教育の恩恵はどんな貧しい家庭にももたされることを見逃してはならない。

 

身近なところで実益を伴う教育

 

 身近な場所に手の届く範囲で、実益のともなう教育を安全に受けられる機会が必要である。それがあれば、親は子どもを学校に通わせる。

 学校教育が人間を脅かす不安の克服に果たす役割は大きなものがある。基礎教育は人々が仕事を手に入れ、実りのよい勤め口を見つけるために、きわめて重要なものである。品質管理と厳密な仕様に沿った生産はグローバルの世界では欠かせない。

 日本は明治維新によって、地域で不学の子どもをなくすことをした。社会の責任として教育の格差を縮め、急速な経済成長を遂げた。若い世代のほとんど読み書きができるようになった。1913年になると日本はまだ貧しかったが、出版点数でイギリスに勝り、アメリカの2倍になり、教育に専念したことが日本の経済と社会の発展そのものの速度を大いに決定づけた。この認識は人間の安全保障委員会のものである。

 20世紀後半になると韓国、中国。台湾、香港、シンガポールなど東アジアの地域が同じ道をたどり、教育の全般的普及にしっかり重点をおき、グローバル経済への本格的な参加をした。

 これらの歴史的事実は、重要なことである。世界の歴史的事実の教訓として、教育の重要性を人間の安全保障委員会は以上のように強調するのである

 

基礎教育とはなにか

 

 人間の安全保障という視点からの基礎教育は、技術を身につけさせるための制度ではないと考えている。

 基礎教育には、世界の本質を、共通した人間の大切さを話し合う力、その多様性と豊かさのなかで、自分たち自身をどうとらえ決定づけられるか。それらを判断できる能力が求められている。

 自分たちのアイデンティティを構成するさまざまな要素の教育も大切である。それらは、言語、文学、宗教、民族性、科学的関心などに目をむけていることである。そして、自由と論理的な思考を育む能力も不可欠である。そして、友情の大切さを理解することである。

 以上のように、アマルティアセン博士は、安全を脅かされる時代に共通した人間の大切さと多様性と豊かさの理解、アイデンティティを構成し、論理的に思考し、話し合える教育の重要性を指摘している。

 このなかで、日本の明治維新以降の例や東アジアの20世紀後半の例を引き合いにだして、グローバル時代に生きる人々にとって、教育を安全に受けられる条件をつくることを重視しているのである。

 

平和のための幅の広い民主主義概念の見直しと多様性の容認

 

 アマルティアセン博士は、民主主義を考えるうえで、選挙という投票箱に狭めるものではないとしている。

 そして、投票の自由をはるかに超えたもっと広い見地から民主主義をとらえていくことが必要であり、それは、西洋の思想だけではなく、広く人類の話し合いの場をつくっていく公共の思想のなかで求めるべきであるとしている。

 市民社会における議論に効力をもつために、選挙は重要な手段であるが、投票する機会とともに、おびやかせることなく発信し、他の意見を聞く機会が保障されていることを重視している。これらは、公共の理性と実践であって、その実効性をもつのである。

 投票の民主主義は、西洋な価値観と慣習であるという主張である。こうした主張から、公共の理性と実践ということから、広い見地から市民が政治議論に参加して、公共の選択に影響を及ぶ機会が与えられているのかという判断が必要である。このことが大きく問われている。

 投票箱だけが民主主義ではない。広い見地から公共の論理における異なった意見、他者を認めあう公の議論に参加できるしくみの人類史的な理性の蓄積が大切なのである。

 これは西洋的思想だけではなく、広く西洋以外の、アフリカ文化、仏教思想、インド、中国、韓国、日本、アラブ文化、イスラム文化などから学ぶ必要があるとしている。

 このなかで、アマルティアセン博士は、伝統的なアフリカ国家の構造は、王も族長も同意の役割の政治的伝統として、説明責任と意思決定への参加が必要であったとしている。アパルトヘイトをやめさせるマンデラの自由な道の運動は、明らかに国内から始まったものである。

 インドには、歴史的に異なる意見を述べることができ、不平等の拡大には昔から批判的であった。このことを重視する必要があるとしている。

 1950年代のインドのムガル帝国では、多元主義と公の場における議論が果たす建設的な役割を信じて、寛容が必要であると宣言している。異なった宗教における人々の対話の努力を大切なのである。

 仏教徒の知識階級も社会における討議の重要性を認めている。異なる意見をめぐる争いの解決を目的とした公開の一般集会が早い時期から行われていた。

 ブッダが死去して第一回の仏教会議が開かれ、教義や宗教活動における論争を解決することを目的とした。最大規模になった三度目の会議では、アショーカ王の後援のもとに、社会的討議が行われた。暴力もなく、公の場で議論することがとりわけ重要であるとした。

 アショーカ王は、インド各地に社会的討議の掟を石柱に刻んだ。この石柱を建てたことをインド伝統文化の社会的討議の掟であったことを忘れてはならない。

 そこでは、正しいことを発展させるためには、発言に際して節度をわきまえることにあり、自分の属する集団を褒め、理由もなく他の人々の集団を誹謗せず、また、理由があったとしても穏健を心掛けることなのだという。

 一方、他の集団はすべての場合において、あらゆるかたちで、充分に尊重されるべきであると。このように振る舞わない人は、自らの集団に迷惑にかけるばかりではなく、他集団にも害をおよぼすことになるというのである。

 以上のように現代において、民主主義を考えていくうえで、西洋思想の選挙という方法だけではなく、広く人類史的な理性の蓄積である公の場で異なる意見に対して、寛容性をもって議論していく公共の論理の重要をアマルティセン博士は強調しているのである。

 

 グローバルスタンダードとはなにか。

 

 人類の共通の普遍的な価値観とはなにか。多様性と多元主義の価値観をもって寛容性による相互依存の話し合いの場をつくっていくことが人類共通の公共の論理ではないか。

 9.11以降に選挙という欧米の民主主義の価値と世界的な宗教的な装いをもっての衝突、欧米のなかでの格差や貧困の矛盾のなかで、民族排外主義、一国主義、大衆迎合の独裁化などが起きている。異文化コミュニケーション―による多文化主義の寛容と公共の理性の議論が平和をもとらすものではないかということが切実に求められている。

 現代は、多文化主義から見た新たな公共性の創出が世界に必要な時代である。現代の民主主義を西洋文明という狭い視点からではなく、幅広く多様な文明を尊重していくことである。

 多様な価値を相互に寛容性をもって認め合い、話し合い、相互依存、共生の文明をつくりあげていく時代ではないか。

 グローバル化時代の正義のナショナル・アイデンティティを尊重していくことは、多元主義の価値観であり、多様性を認め合う話し合いの場つくりである。

 正義のナショナル・アイデンティティの文化は、相手の価値観を認めない絶対主義的な排外主義の価値ではない。国際協調主義のもとで、多様性を認め会う多民族共生の文化である。

 正義のナショナル・アイデンティティには、民族の誇りを多文化の価値の比較、共生のなかで、平和を構築していくなかで認められていくものである。自民族を権威主義的に統合させ、他民族を蔑視し、教化し、自民族の文明に併合制するものでは決してない。

 グローバル化時代の異文化コミュニケーション―による多文化の多様性の尊重と共生の教育は、国際平和の創出にとって重要なことである。

 人間の安全保障ということからは、多文化共生の教育が極めて重要なことである。多文化共生の国際協調主義の教育は、新型コロナの人類的危機のなかで、未来を切り開いていくことになるのである。

マルクスから学ぶ社会教育・生涯学習論ー自由と民主主義を求めて

・自由とマルクスから学ぶ社会教育・生涯学習論ー自由と民主主義を求めて

       神田 嘉延

 

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 😒問題の所在

 

 社会教育・生涯学習は、公民館、博物館、図書館などの社会教育施設の実施する教育活動の役割が大きな意味をもっていることはいうまでもない。しかし、それらの教育活動ばかりではなく、生活や労働と直結する学習や職業訓練教育も大切な分野です。さらに、国民や地域住民の民主主義のための統治能力を高めていくことも重要な社会教育・生涯学習の社会的役割です。

 この学習には、国民、地域住民が参画していく参加民主主義を進めていくことが大切です。参加民主主義は、選挙という手段ばかりではなく、コミュニティごとの自治会や住民協議会の地域づくりの活動もあります。そして、直接民主主義になっていく条例制定やリコールなどの直接請求も住民の参政権として大切です。また、パブリックコメントオンブズマンなども大いに意味をもっているのです。社会教育・生涯学習は、これらの地域や職場の多様な国民の学習権に対応していくことが求められるのです。

 とくに、地域の生活や労働に直結する政策は、市町村自治体は大きな役割をもっています。また、労働行政や福祉行政が社会教育・生涯学習との連携が弱く、その学習や職業訓練、保育・介護・医療のケア労働を担うことが切り離されているのです。

 雇用の不安定や、格差拡大のなかで、国民の貧困問題が大きな課題になっています。社会教育・生涯学習として、この課題に立ち向かっていくことは、国民の学習権を生活と労働という側面からみていくうえで、極めて大切です。

 現代社会の雇用や労働・生活の問題を考えていくうえで、近代社会が形成し、発展していくなかでの資本主義の矛盾を考えていくことは、大切です。その根本問題を視点に、現実の問題を一つ一つ克服してきた運動の歴史がありまた。この歴史的な運動の成果が、生存権、労働権、教育権などの社会的人権が確立していったのです。  

 その矛盾克服に努力してきた人びとの学習と意識の変化を考えていくことは、社会構造の変動と社会教育・生涯学習をみていくうえで、不可欠なことです。

 

😃マルクス資本論から機械制大工業の歴史的役割

 

 150年前にマルクスは、資本主義の矛盾について、資本論で明らかにしました。その後に労働者をはじめとする社会的な資本主義の矛盾に対する運動のなかで、社会権的人権が確立していきました。

 この運動には、資本主義の矛盾に対する労働者自身の労働組合をはじめとする学習が大きな役割がありました。

 その学習によっての社会認識は、労働者が資本からの主体的形成でありました。資本と経営と並んで労働者自身の社会的役割は大きな意味があることを知ったのです。

 労働過程における資本の専制からの労働組合をとおして、労使で話し合っていくことが社会的に重要であることになったのです。そこでは、社会権を大切にする交渉や協議が確立していくのです。社会的な矛盾を改革していく交渉や協議の話し合いという民主主義の道が開けていくのです。

 資本と労働の統一によって、働く人びとを重視していくという見方や人間尊厳というモラル資本主義という企業の経営が成り立っていくのです。まさに、対立物の統一という弁証法によって、企業のルールを国家の民主主義の発展というなかで、法整備を伴って、社会的に確立していくのです。経営者の在り方も問われていく社会を醸成していくのです。

 現代は、一方で、新自由主義的な見方から、弱肉強食の資本主義的競争による150年前の利益第一主義の社会的経済的状況の回帰もみられています。

 労働と生活に根ざした学習は、社会的運動を実らせ、労働者の権利を獲得していくのでした。近代社会で発展していった社会権という人権は、労働者自身の学習と運動によって確立していくのでした。

 ここで重視しなければならないことは、感覚的に情緒的に不満の爆発という一揆的なことや、英雄主義な特定の独裁的権威者のリーダーシップに矛盾の解決を求めることが常に生まれことです。

 それは、自由と民主主義の一層の発展をめざす社会的認識を求める学習運動がないなかでの不満爆発による熱狂的な運動なのです。これは、社会主義的な民主主義にも反するものです。

 あらためて、人類の歴史的な遺産である市民的人権、社会的人権を基礎にして、資本主義の現実的矛盾を直視して、未来社会を創造していく民主主義の道が必要になっているのです。現実の矛盾を一歩一歩解決していく人間的な自由の充実と、個々が主体的に参加していく民主主義の発展が、未来社会へとつながっていくのです。

 マルクス資本論1巻13章の機械と大工業のなかで、安価で単純な女性労働、児童労働を大量に動員していくことを述べています。機械は労働者家族の全員を労働市場に投じて、成人男子の労働力価値を全家族間に分割していくのです。そこでは、自由な労働力を売ることを放棄していくのです。機械は労働者自身を幼少時からひとつの部分機械の部分にしてしまうために乱用されていくとマルクスはみるのです。

 資本主義的な機械の充用は労働者の労働を解放するのではなく、自動装置によって、労働条件に労働者が使われることが強固になるというのです。つまり、手労働のときの心身の一切の自由な活動を封じてしまうのです。監督労働と単純な筋肉労働へと工場が産業兵卒へとなるというのです。

 マルクスは、工場内での労働者に対する資本の専制について、ブルジョアジーが愛好する分権も、それ以上に愛好する代議員制も、工場法典は私的法律として自分かってに定式しているとしています。

 機械の使用につれて、労働過程の社会的規制は、資本主義的戯画でしかないとしています。資本・経営者たちは、政治的には、分権とか、代議員制をいいながら工場内の経営では専制的であるとみるのです。

 資本にとって、政治的には分権や代議員制は、封建的特権を打ち破り、営業の自由を獲得していくうえで、歴史的に重要なことであったのです。この分権や代議員制は近代の民主主義の発展にとって極めて大切なことですが、自らの経営にとって、資本は利潤第一主義によって先制的になるのです。

  また、労働者は自らの目先の現象的な矛盾から機械との闘争をはじめるのです。機械は労働者自身の競争相手になると思うのです。実際は、機械の資本主義的充用によって、解雇され、生存条件が奪われていくのです。

 機械による分業は労働力を一面化して、ひとつの部分道具を取り扱うまったく特殊化された技能にされてしまうのです。機械のために余分な労働力にされた人々が生まれて行くというのです。労働者にとって、ここでは、社会的な関係をみることではなく、目先の機械化に奪われているのです。

 一方、すべての侵入しやすい産業部門では労働力市場に満ちあふれ、労働力の価格が押し下げられていきます。機械の社会的破壊作用は労働者層の慢性的な貧困を生み出します。資本主義的機械の充用は労働者に対して労働条件も労働生産物も独立した疎外された姿をみせるのです。

 資本主義的大工業は労働手段が労働者を打ち殺すという現象をみせます。絶えざる行われる機械の改良や自動的体系の発達は同じような作用をするのです。

 資本主義的自動体系のもとでは労働者の才能をますます排除します。熟練度の高い成人男子から熟練度の低いものに、子どもを大人の代わりに用いていくのです。

  ここでは、機械そのものの資本主義的充用から区別し、物資的生産手段の社会的利用形態の重要性を労働者が覚えるためには、時間と経験が必要であったのです。

 機械装置の発達によって、子どもの世話、裁縫や修理などの家事労働の家族の機能も大きく変化するのです。児童や少年の労働の売買は知的荒廃をつくりだしていくのです。

 しかし、児童の知的退廃が社会的に問題にされることによって、工場法の教育条項が生まれます。その適用を受ける産業で、初等教育を14歳未満での法的強制をしなければ社会それ自身の再生産が成り立っていかない状況になったのです。

 

 機械装置によっての新たな産業の形成

 

 機械のもたらす直接の結果は、剰余価値を増加させと同時に、生産物を増加させ、資本家階級とその付属物を養っていく。これらの物質といっしょう、その付属物を養う社会層そのもを増大させていく。かれらの富の増大とともに、新しい贅沢品欲望を生むとともに、その充足の新たな手段を生み出すのです。

 社会的生産物の大きな部分が余剰生産物に転化し、余剰生産物のいっそうな大きな部分が洗練された多様な形で再生産され、消費されるというのです。高級品や高級のホテルや高級の旅行などが市場に一定の役割を占めていくのです。

 つまり、贅沢品生産が増大し、高級な消費生活が拍車をかけていくのです。洗練された多様化の生産物は、多くの外国品嗜好品が国内生産と交換され、大量の外国産の原料、混合成分や半製品などの生産手段として、国内産業に入ってくるのです。

 さらに、新たな運輸業とともに、新しい産業分門があらわれるというのです。生産手段や生活手段の増加は、運河やドックやトンネル、橋などのように遠い将来にはじめて実を結ぶような産業部門での労働拡張をひきおこしていくのです。

 一般的な産業変革を基礎として、まったく新たな生産部門が形成されていくというのです。マルクスは、機械体系による剰余価値の増大が、新たな贅沢品の消費を生み出し、世界の嗜好品の取引が活発に行われて、運輸業や贅沢品の牽引による新たな産業分野を作りだされていくとするのです。資本論第一巻大月、582頁

 機械経営は、外国市場の手工業生産物を壊滅させ、外国市場を強制的に自分の原料の生産部門に変えてしまう。地球の一部分を工業を主とする生産現場と農業を主とする生産現場にと国際分業がつくりだしていくのです。

 工場制度の拡張的な可能性は、世界市場への依存性になり、熱病的に市場の拡張と縮小を繰り返していく。産業の生活は、中位の活況、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞という諸時期の一系列に転化し、労働者の生活状態に与える不確実性と不安定は、産業循環によって大きく左右されるのです。

 繁栄期を除いて、資本の間では、市場で占める領分をめぐって激烈きわまる闘争が荒れ狂うというのです。この領分では、生産物の価格競争が行われるのです。

 改良された機械や新たな生産方法が、価格競争に対応し、景気循環のなかで、改良された機械の導入によって、価格競争が行われていくのです。労働者たちは絶えず、はじきだされ、引き寄せられ、あちことにふりまわされるのです。しかも、そのさいに性別や年齢、熟練度は常に変わるのです。

 

 工場法の教育条項の歴史的意義

 

 ところで、工場法の教育条項は、全体的に貧弱にみえるとはいえ、それは初等教育を労働の強制的条件として宣言したとマルクスは積極的に評価するのです。マルクスによれば、その成果は、筋肉労働を教育および体育と結びつくることの可能性をはじめて実証したとするのでした。

 工場監督官たちはやがて、学校教師の証人喚問から、工場児童は正規の昼間生徒の半分しか授業を受けていないのに、それと同じか、またはしばしばそれよりも多く学んでいることを発見したというのです。

 それは、二つの仕事をしているということです。一方では休養に、および気晴らしになり、中断なしに続けるよりもずっと適当というのです。

 また、上級および中級の児童の一面的で不生産的で長すぎる授業時間が、いたずらに教師の労働を多くしていること、児童の時間や健康を無駄にするだけではなく、まったく有害に乱費しているとみるのです。

 ここでの労働は過度な強制的なものを意味しているものではありません。マルクスは、児童労働調査員会の報告書を紹介しながら、そのことを語っています。

 有能な労働者をつくる秘訣は、子どもの時から労働と教育とを結びつけることであると。

 その労働は激しすぎてはいけないし、不快なものとか不健康なものではいけない。自分の子どもにでも、学業からの気分転換のために労働や遊戯をやらせたいとおもっていると児童労働調査員会は報告しているのです。

 長期的な側面からみれば、有能な労働者をいかにつくりだしていくかということは、資本にとって、大切なことであるのです。企業経営を安定させ、競争に勝ち抜いていくうえでも。

 さらに、マルクスは当時の農村の状況では貧困家庭には教育を禁止するという風習があったことを記しているのです。貧しいがゆえに児童労働者として、工場に働きにいった子ども達が、そこで教育を受けられるということなのです。農村にいては教育が受けられなかった子どもたちが、工場法の教育条項によって、学ぶことが可能になったのです。

 イギリスの農村地方で、貧乏な親たちは子どもの教育を罰ということで禁止されているのです。貧乏人が教区の救済を求める場合には、彼は子どもを退学させられることを強いられるのです。

 マルクスは、これらのことを資本論のなかで、引用しています。工場法の教育条項は、機械制大工業という資本主義の文明作用です。

 工場法の教育条項を実施するのはすべての工場ではないことも見落としてはならないのです。マニファクチャ的な煉瓦工場での児童労働における道徳的退廃について、マルクスは当時の児童労働調査委員会の報告書を引用して、堕落の恐ろしさをのべているのです。

 小さいときから耳にする下品な言葉、彼らを無知粗暴なままで成長させる狼狽で粗野で無恥な習慣はその後の彼らの生涯を無法、無頼、放縦にするというのです。堕落の恐ろしい根源のひとつは大人も子ども、少女も7人からなる小屋で寝るという住居の様式をあげています。幼児から乱暴と不潔で、塵埃、無頼きわまる仲間に釘付けにしてしまうというのです。

 工場制度からは、われわれはロバート・オーエンにおいて詳細にその跡を追うことができるように、未来の教育の萌芽がでてきたとするのです。

 それは、単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法であるとマルクスは工場法の教育条項を積極的にみているのです。629頁~630頁

 機械制大工業は景気循環と機械の改良のなかで、労働の転換を求めていくのです。このことは、労働の多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、社会的細部の機能の担い手でしかない部分労働の個人の代わりに、いろいろの社会的機能をもつ人間になっていくことを死活問題とするのです。

 全面的に発達した個人になっていくのです。全面的発達は、教育の前提ではなく、生きるために、労働現場からはじき出されることの繰り返しのなかで、その場、その場で必死に労働力市場に対応していくなかでの能力の形成からの結果としての全面的発達の人間形成なのです。長い人生のなかでの、困難につきあたり、新たな能力形成挑戦の努力から全面的発達の人間形成としてみることが重要です。

 ここには、社会教育・生涯学習ということからの全面発達の人間形成としてみるべきです。これは、生存権、労働権、教育権などの社会権が大きく歴史的に充実している状況であっても新自由主義のもとで、競争があおられて、契約職員、派遣労働、過労死などの問題があるなかで、また、生涯にわたって人間らしく行きたいということで、現代の日本社会でもいえることです。

 生涯を通しての全面的発達への基礎として、自然発生的に発達した工業および農学の学校や職業学校にもなるのです。労働者の子どもが技術学やいろいろの生産用具の実際の取り扱いのある程度の教育を受けることの重要性をマルクスは考えたのです。

 工業学校、農学校、職業学校は、生涯学習からの全面的発達の人間形成ということで、大きな意味をもっているのです。したがって、そこでは、すぐに役にたつという職業訓練的な教育ではなく、生涯にわたって大切な職業観教育や技術学の基礎、科学の基礎を実際的な訓練の基礎から学ぶことになるのです。職業観や技術学の基礎、科学の基礎を実際に応用できるように学ぶことが求められているのです。

 工場立法は、資本からやっともぎとった最初の譲歩として、初等教育を工場労働者に結びつけることができたのです。このことは、労働者階級による不可避的な政権獲得のための理論的なことになります。また、実際的な技術教育のためにの労働学校のなかにその席を取ってやることができるとマルクスはみたのです。

 

 機械制大工業と全面的発達の人間・家父長制の崩壊

 

 資本主義的生産形態の分業の発展による部分人間と景気循環、機械の改良による労働力の反発、さらに労働力の吸収という繰り返しのなかで、全面的に発達した個人が生み出されたのです。機械制による労働者の経済的諸関係はこのような変革の酵素と古い分業の破棄に向かっていくのです。

 資本主的生産の目的と真正面から矛盾するということで、部分的人間が全面的に発展した労働者が生まれるというのです。

 部分人間からの全面的発展の人間形成は、機械制大工業による資本主義的な競争原理による価格競争からです。それは、生産性という絶えざる技術革新による労働者の労働力市場からの反発や吸収によって起きるのです。

 労働者の全面的発達の人間形成は、労働力市場の反発や吸収という死活問題のなかで形成されていくのです。ここでマルクスが指摘する死活問題のなかで形成されていくということです。

 それは、労働者が不況のなかで解雇されていくなかで、生きていくいくために必死になって新たな産業へと雇用を求めていくということです。つまり、雇用の安定のために、自己の能力を身につけていことする作用から起きるということです。

 部分人間からの全面的発達への人間形成ということは、前提としての教育の営みの目的によってではなく、労働者の景気循環のなかでの雇用の排出反と吸収のなかでの適応であるのです。つまり、経済的基盤からの労働者の死活問題としての労働への適応の努力の学習の繰り返しのなかで形成されていくのです。

 このように、マルクスが考えた全面的発達論は、部分人間からの脱皮は、資本主義的な景気循環での排出と吸収、絶えざる技術の競争というなかで捉えていくことが大切なのです。社会経済的状況から無視しての独自の教育論としての全面的発達論ではないのです。

 この意味で全面的発達論は、社会から閉じられた学校教育という狭いなかで考えるのではなく、学校教育自身も社会との関係で積極的に教育内容、教えていく課題、教育の方法、体験学習や観察、実験方法、体を動かす教育、感性を磨いていく実際の方法など、様々なことを社会や体験、実際のことなど工夫していく教育が必要なのです。

 さらに、社会教育・生涯学習の課題として、全面的発達論をみていくことが大切なのです。

 景気循環のなかで雇用の不安定性は労働者にとって、つきものです。ある特定の技術を身につけても、機械の改良によって、その技術の能力は役に立たなくなるのです。

 また、機械装置に対応した新たな技能取得の学びが始めるのです。技術学は機械装置の改良によって、大きく変化していくのです。現代日本において、社会教育・生涯学習として、技術学を学ぶことは、職業訓練の労働行政との連携が極めて大切になっていくのです。

 職業訓練の労働行政は、雇用への職業安定行政と結びついているもので、極めて狭い適応主義的な職業訓練げ現状です。人間の全面的な発達の形成ということからの視点から、職業訓練の技術学が成り立っているわけではないのです。

 ひとつの歴史的な生産形態の諸矛盾の発展は、その解体と形成とへの唯一の歴史的な道としてマルクスは、矛盾の発展のなかから新しいものが生み出されていくという歴史の弁証法としてみるのです。

 古い家族制度の崩壊も大工業によって、もたされていくのです。熟練労働の男子成人労働者は、機械によって、労働力市場から排除され、妻子を労働力市場に巻き込んだ。

 親の権力の濫用によって、妻子は労働力市場に投げ込まれていったのです。親の権力の濫用が、それに対応する経済的基礎を破棄したのです。資本主義的機械の利用によって、どんなに恐ろしくみえても社会的組織された生産過程で女性や男女の少年や子どもに決定的役割をあたえ、古い家族の形態からより高い家族関係や両性関係になっていくのです。

 

 

 

 

 

福祉国家と生涯学習-アンデルセンから学ぶ

 福祉国家生涯学習アンデルセンから学ぶー

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   アンデルセンは知識集約の経済における21世紀の福祉国家の可能性として、ライフサイクルに対応してのチャンスの保証の重要性を指摘するのです。そこでは、固定的な公平感や平等観ではなく、家族構造の変化、高齢者福祉、早期退職・公正な退職問題、非正規の増大、知識集約への教育や職業訓練、認知能力への変化など動態的にとらえる必要があるとしています。

 知識集約的な労働市場では、教育や訓練、認知能力の乏しいものは、周辺部に追いやられ、貧困者になっていくというのです。専門的な知識を有する者が、高い賃金を得ることができるということで、教育や訓練、認知能力の高い者と、それを十分に持ち得ないものとの格差が拡大していくとするのです。

 

 高齢者の年金問題生涯学習

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 アンデルセンは、現代のヨーロッパをみると、学歴の低い、技能も低い過剰労働者の滞留がきわめて大きいとみるのです。伝統的な低技能の産業では、失業率が高くみられるのです。労働者の教育水準の違いが大きな格差をみるというのです。

 滞留する現在の高齢化した低技能労働者の問題をどうするか。急速な技術革新が進むもとで、早期退職は、企業側からの要求として、最も有力な政策であった。低学歴、低技能の高齢者の場合は、それが顕著でした。

 高齢者の早期退職は、年金の実質的早期受給になっていく。高齢者の健康状態が劣悪な場合や、彼らの雇用の見通しや失業のリスクがある場合には、福祉対象の拡大にもなっていく。高齢になることによって、退職年齢を撤廃することは、福祉施策を最適化することになるとアンデルセンは考えるのです。

 アンデルセンは、退職を伸ばすことによって、年金保障と福祉国家の財政を維持していくのに貢献するとみるのです。早期退職の福祉効果は弱まっていること。早期退職の効率性は弱まっていること。以上の点から、高齢者の雇用を高い水準にもっていくことの必要を強調するのです。

 彼は、高齢者の生産性の問題をみていくうえで、50歳前後での再訓練や技能強化にかかっているとしています。労働者が教育および認知のしっかりした基礎をもっている場合にのみ訓練の投資的効果をもつというのです。

 高齢の低技能労働者に生涯学習を施すことは、費用がかかりすぎて、非効率的であるとのべます。また、アメリカで一般的に行われている雇用保護や年功賃金制を緩和することも大切な施策であるとアンデルセンはみるのです。高齢者の福祉施策に、重要なことは将来の世代に十分な技能と認知能力の基礎を獲得できるとするのです。

 ところで、現代社会は、サービス経済の多様化が進み、有償的なボランティア分野も広がり、高齢化した人びとの能力に応じて、多様な働き方が提供できるようになっていることを見逃してはならないのです。

 アンデルセンが指摘する知識集約的な生産現場での作業効率論からみるのみで、これだけでは、高齢者の雇用の可能性を多様にみていくことにはならない。低技能、低学歴の高齢者とは言っても、生きてきた人生の中から、様々な学びが子どもや若者にあるのです。その社会的役割もあるのです。生産効率の側面からだけでは、人間的な豊かな暮らしにつながっていく福祉になっていかない。個々の生きてきた姿から、世代的連帯による個性的な能力開発をしていくことが求められているのです。ここには、専門的に指導していく社会教育関係者が大切になっていくのです。

 低学歴でも、低技能でも、その人が人一倍にやさしさをもっていれば、貴重な人間的能力の財産です。単純な仕事でも熱心に夢中に繰り返しできる能力はすばらしいものです。自然をじっくりみつめ、感覚的におかしなことに気づく能力もすごい力です。山を歩ける力も、畑を耕す力をも人間にとって大切な能力です。それらは、大いに自然循環の地域社会を考えていくうえでの力になるのです。

 高齢者が竹馬づくりや竹とんぼなど手先を器用にして、工芸への可能性を子ども達に教えることはすばらしいことです。昔話や自分の人生体験を子ども達に伝え、未来への橋渡しをしていくことは大切な仕事です。創造的な社会的価値の営みは、継承の面を大切にしてこそ、持続性と生活に根付いていくのです。

 それぞれの個性をもって、どんな人びとも社会的な役割を果たせるのです。そのしくみづくりが重要なのです。それは、個人だけでできるものではないのです。子どもたちに高齢者がかかわっていけるようにするためには、学校の教師の役割と、高齢者に、子どもとの橋渡しをうる社会教育の専門家が必要なのです。

 高齢者も学びによって、自分の生きてきた職場や地域を見直すことができるのです。その学びによって、子どもとの関係を深くもっていくのです。ここには、低学歴、低技能と全く関係のないように演出する社会教育関係者や学校教師の役割があるのです。

 現代社会の産業構造で、科学技術の進歩、デジタル化などによって、労働の内容が大幅に変わり、従前の労働能力では対応できない分野が数多く生まれていることは確かです。この意味から知識集約の経済の側面は否定できないことは理解できることです。

 また、家族が担っていた高齢者の介護、子育て、家事分野などが社会化し、その仕事が新たに生まれてきているのです。さらに、肉体やこころの健康への国民的な関心からのスポーツジムや癒やし施設の普及などもみられます。さらに、相談活動や高齢者の生きてきた知恵を教育的に生かすという教室など新たな分野も生まれているのです。サービス分野の仕事拡大が拡大し、その内容も多様化しているのです。

 これは、単に知識集約型の産業ということだけではなく、人格的な側面や人生経験の豊富な人びとの社会的な働きの場が増大しているのです。これらは、労働の対価を得るという賃金という側面ばかりではなく、有償的なボランティアとしての社会的な貢献の仕事も増えているのです。

 現代社会は、元気であれば活躍できる高齢者の仕事が数多く生まれているのも事実です。この高齢者の社会的活躍の場を充実することによって、高齢者自身の生きがいを増してことを見落としてはならないのです。

 高齢者への生涯学習の限界として、アンデルセンは指摘していますが、高齢者の体験を有効に生かして、社会のなかで活躍できる能力開発が求められているのです。また、高齢者が元気に社会的な活動をしていくことによって、健康を維持できるということも重要なことです。健康への社会的投資も医療費全体を削減していくうえで大きな効果があるのです。

 社会保障にとって、生活費のための年金の支出ばかりではなく、医療費も大きな位置を占めているのです。高齢者の生涯学習としての健康を維持していくための様々な社会教育講座は、高齢者の生きがいを増大していくことと同時に、高齢者医療費の社会的な負担を減少していく役割をもつのです。

 アンデルセンは、高齢者の退職年齢を遅くして、現役労働者の年金負担をかけずにすむという提案をしています。これが、公正なる退職につながっていくというのです。健康であれば、75歳まで退職年齢を助成金を通じて伸ばしていく施策が大切とみるのです。退職年齢の定年制を廃止して、段階的な退職という弾力的な仕組みの開発というのです。

 民間優位の年金ミックスの問題点はライフコースの不平等を追認することになるということをアンデルセンはのべます。民間プランが増えればふえるほど、低所得世帯を受給対象とした公的な年金の給付の引き下げに圧力になるというのです。民間年金の増大は、弱者が経済的により苦しくなっていくことです。

 

 家族と福祉

 

 家族の福祉は稼ぎ手である男性の賃金や雇用保障に依存してきたが、この家族モデルは急速に消滅しているとアンデルセンは指摘します。現代は、一人親世帯のように、子どもの貧困化に高いリスクをもっているのです。母親が安定的な男性と同じような賃金で働いていれば、そのリスクも減るということになるのです。共働き家庭は貧困児童を最小限に抑える最善の策であるというのもアンデルセンの見方です。

 知識社会では、家族政策と結びつけて、教育投資が必要とするのです。ここでは、母親の離職期間を最小限にするために、児童給金の重要性を指摘するのです。さらに、子どもを持ちたいという母親の願いを最大限に奨励するために、出産休暇と育児休暇を整備することとしているのです。

 家族ケアの外部化は、標準的な質と適正な価格で保証されるかぎり、それが、市場をとおしておこなわれるか、公的な機関によって直接に保証されるかは、重要ではないとみるのです。最も大切なことは、高い水準の家庭的ケアを弱い立場にある家庭に対して優先に行われるべきというアンデルセンの考えです。最高水準の家庭ケアを弱い立場の人に優先的にすることは、社会資本によって、不平等を埋め合わせることになるからですと。

 すべての人に対する平等は、いまここでの平等よりもライフチャンスの保証ということが需要であるという指摘は、アンデルセンが強調する論理です。底辺の低賃金雇用層にとってのライフチャンスに否定的な影響を与える施策をとるべきではないとするのです。貧困状態に陥ったままか、それから脱出できるかという、移動のチャンスを保証すべきという見方です。貧困状態に陥る可能性が一番高いのは、低技能労働者で、教育の保証が移動の最善策と考えるのです。従って、生涯学習の保証の戦略が最も大切な社会投資ということになるのです。

 労働者の潜在的能力を最大限に生かしていくことで、余暇と労働の配分は大切な課題です。そこでは、週の労働時間を減らすのか、年間労働時間を減らすのか、生涯通算労働時間を減らすのかというという問題があります。パートタイム労働、休暇・有給休暇 制度、失業、労働市場からの排除、勤続年数、早期退職、出産・育児休暇、有休の教育訓練などをどうみていくのか。これらのことをアンデルセンは提起するのです。

 アンデルセンは、ライフサイクルに対応して、教育訓練休暇、家庭での休暇を自由に選択できる制度をつくった1970年代の北欧諸国の余暇講座を積極的に評価するのです。ここでは、退職が高齢期に集中するということがないという。個人のライフサイクルによって、個人が自由に退職がされるというのです。

 家族と福祉の問題を考えていくことで、家族崩壊していく現代の貧困化現象を直視していくことが必要です。母親が一人親で子どもを育てていくことは、厳しい生活苦の現実があります。その予防策として、女性が正規な労働者として、男性と同じように働ける条件を作り上げていくことは重要な課題です。

 しかし、現実に、子どもが育てることができない家庭も生まれてきていることも現実です。子どもの貧困問題の現象です。十分に食べることができない子どもに対して、子ども食堂の運動が各地におきているのです。また、社会的養護としての児童の福祉施設も充実も重要な課題になっています。社会的養護ということでも児童福祉施設の充実ということから、大規模な一斉の入居する児童施設ではなく、家庭と同じように、児童養護施設をユニット制にしていく取り組みも生まれはじめています。さらに、里親制度も奨励していく施策も行われています。

 里親制度の取り組みと社会的養護ということからの児童福祉施設の軽減とは全く別の問題です。社会的養護ということからの児童福祉施設の充実は、一人親の家族崩壊が進む中で、その役割は一層に増しているのです。

 

 女性の雇用の重視

 

 女性の学歴の上昇と現代的に新たに登場したサービス経済の最大の労働力予備軍は女性になっているとアンデルセンは提起してます。若い女性は、どの国でも経済的要求をはっきりと要求するような時代というのです。結婚や出産を遅らせていることでもあります。母親の就職が子どもの貧困を防ぐ最も有効な防御策になっているのです。

 女性の雇用の増大によって、誰にとってもキャリアの中断を経験する可能性が高まり、労働市場規制緩和によって、また、生涯学習や再訓練の必要性が高まることによって、共稼ぎが一般的になり、個人の雇用と福祉の不安定を防御することになっているのです。

 家庭は、外食からクリーニングや娯楽に至るまでサービス消費に雇用を創出していくのです。出生率は、女性の雇用の増大と負の関係にあったが、福祉国家が保育ケアの助成金や無料の保育ケアに、育児休暇制度、高水準の所得を維持すれば出生率は上がっていくとアンデルセンはみるのです。

 子どもの貧困問題と母親の雇用の安定との関係についてはアンデルセンは次のようにのべるのです。子ども時代の貧困は、ライフ・チャンスにとって極めてマイナスの影響を受けるのです。子どもの貧困は、中等教育の機会を引き下げ、学力の低下につながっていくというのです。この状況では、将来における福祉依存のリスクを高ていくのです。また、失業のリスクも高くなり、キャリア移動の機会が狭められ、低技能と低賃金の職に滞留するというのです。

 知識集約的な経済にとっても子どもの貧困化の進行は、人的資源の側面から経済の効率性にとっても大きなマイナスの要因になるのです。労働能力として、十分な人的資本を所有していれば、誰でも市場を最大限に利用することができるのです。

 

 ライフ・チャンスの重視の福祉政策と社会的公正・団結

 

 ライフ・チャンスを重視する政策にとって、社会的団結、福祉、公正という側面と、知識集約という産業構造からの経済効率性をあげていくという側面があるというのです。アンデルセンは、平等概念の再検討を提起しています。知識社会に、知的能力や認知能力から派生する不平等が強化されるとしています。

 そして、サービス業中心の雇用構造では、雇用を最大限にしようとすれば、賃金や職種に新たに不平等が生まれるとしています。平等性を優先しようとすれば、労働市場から排除されたアウトサイダーが増大し、低技能のサービス職の賃金が相対的に下落するというのです。

 新たな労働市場は、これまで以上の柔軟性を必要とするようになるというのです。サービス業中心の雇用では、安定したキャリア形成が減退し、技能のグレードアップした転職が頻繁に迫れるようになり、どの市民も、どの時点においても平等が簡単に保証されない経済になっていくというのです。

 平等は、動態的な問題として、ライフ・チャンスの問題としてとらえるべきとするのです。平等と正義ということは、劣悪な職業や低賃金が存在するから問題というのではないというのです。低技能の労働者は、生涯にわたって劣悪な状況に陥る可能性が高いのです。福祉とか平等を動態的にとらえるならば、ライフ・チャンスが重要であるとアンデルセンは考えるのです。

 生涯学習の提唱と、それと連携しての低技能労働者をその脱出可能性をもつ職業を保証していく必要があるとするのです。劣悪なライフ・チャンスからの十分な脱出可能性をもつ生涯学の重点投資が、公平なる正義の福祉国家の施策であり、強力な平等主義の取り込みであるとするのです。

 このことから、総合的福祉政策の再編成が不可欠であるとアンデルセンはのべるのです。そして、学習社会を一面的に人的資本、知識集約的な人材養成ということから追い求めることはできないというのです。教育がすべての人の効率による機能的な能力の水準を引き上げることにならない側面があるのです。人によっては、生まれつき効率による機能的な能力主義的な才能に恵まれないことがあるのです。

 これらの人びとは取り残されていくのです。この層に対する特別の福祉政策が求められ、人間らしく生きる社会的連帯から側面があるのです。特別の福祉的政策と労働を結びつけた働き方の模索が必要というのです。

 健常者と障がい者が共に個性を生かした能力を大切にしていくことによって、新たな創造的な労働が生まれていくことも見逃してならないのです。有機農業の生産などに、知的障がい者の個性を生かしての能力開発をすることで、健常者ではできない労働成果が発揮できるのです。ここでは、健常者と障がい者との協働労働によって、それぞれの役割と助け合いによって素晴らしい商品化が実現していくのです。

 また、知的障がい者の感覚的な能力を十分に発揮した工芸の商品が、高い価値を生まれてくることがあるのです。それぞれの個性に応じた職業能力開発は、すべての人にいうことができるのです。

 ここでは、画一的な価値観による生産効率、大量生産方式の労働ではなく、それぞれの個性に応じた労働からの生産が高い価値をもち、画一的な労働効率からではない、労働の質と労働の喜び、労働の協働と連帯からの相互の学びと刺激からの生産意欲、労働の質の向上があるのです。

 これらのことを達成していくうえでのリーダーの役割が極めて大切です。ここには、画一的な大量生産の能率性や労働の質をみるのではなく、それぞれの個性を尊重から、それぞれの役割分担が生きる喜びをもてるように組織として、集団として、その協働の営みとしてみることが不可欠なことなのです。

  さらに、協働の営みの認識で、それぞれの役割から、経営に参画していくという民主主義の意味も大きいのです。 経営と労働の結合という課題が労働意欲にあることを決して忘れてはならないのです。

 個々の労働者としてみることは、社会的労働に対応しての役割を位置づけての学習課題を探っていくうえで大切なことですが、本質的には個別の個人的な効率主義的な生産性ではなく、組織として、集団としての社会的連帯の視点から考えていくことが重要なのです。

 低学歴、低技能というこからではなく、どんな人でも社会的役割があり、社会的に貢献できることがあるのです。個々の個性を引き出し社会的連帯によって、その役割を明きからにして、役割分担をしていくことです。知的障がい者でも充分に健常者を励まして、社会的連帯と協働活動のなかで、素晴らしい役割を担えるのです。問題は生きる意欲、姿勢で多くの人々を励ましていくのです。これは重度障がい者でも同じことです。

 貧困化による社会的退廃問題も大きな課題です。不安定な雇用や半失業状態に陥ることによって、犯罪に走っていく場合もあります。オレオレ詐欺などにみられるように高齢者などの社会的な認知を落ちた層がターゲットにされていくのです。犯罪集団に巻き込まれて、社会的秩序を大きく乱していくことは社会を不安に落とし入れていくのです。

 社会的連帯や社会的貢献の能力開発にとって、人権や社会的正義の問題は避けて通れないのです。社会的退廃問題は貧困化ということばかりではなく、拝金主義の絶対化などの社会全体の問題状況があるのです。この意味からも法を守っていく社会的ルールの形成は大切なのです。福祉国家の形成としての民主的なルールの課題は大きくなっているのです。

 

 アンデルセンの考える福祉資本主義の三つの世界

 

 アンデルセンは福祉資本主義は三つの異なった世界があると考えています。それは、コーポラティズム的保守主義自由主義社会民主主義という三つの異なったレジューム類型とみるのです。

 自由主義者は、福祉国家へ依存することは危険である。その危険性は、自由と効率を侵食するからと。自由主義者たちは民主主義の拡大に熱心ではなかったのです。なぜならば、民主主義は、社会主義を生み出すかもしれないという懸念をもっているからです。

 社会民主主義が議会をとおして、労働者が社会的参加を果たし、平等、公正、自由、連帯という社会的市民権をもった福祉国家が有力な論拠となります。このためには、社会的資源、健康、教育が必要です。民主主義的な権利が発展すれば福祉国家も発展するのです。

 福祉国家の追求は、社会権、所得保障、平等化、貧困の根絶です。これは集団的な権力の動員が必要なのです。アンデルセンは、現代的に社会権が導入されていくと労働力は純粋な商品化という性格を薄めていくと考えます。社会的サービスが人びとの権利とみなされるようになると、労働力の市場に依存することなく生活を維持できるという脱商品化が起きるというのです。それは、単に社会的扶助や社会保険が導入されただけではなく、諸個人が実施的に市場依存から解放されることです。

 脱商品化の権利がどの程度に発展したかは、福祉国家の発展にとっての重要な指標となるとアンデルセンはみるのです。社会的扶助制度、強制加入の社会保険制度も脱商品化ということでみていくべきであるとするのです。それらの制度が導入されたからといって自動的に福祉国家の発展ということではないのです。

 社会民主主義福祉国家の特質として、福祉と労働の結合です。完全雇用を保障することが最も大切なこととして考えているのです。働くことの権利は所得の維持の権利ということになります。普遍主義と連帯主義によって、労働力の脱商品化をめざすとしているのです。アンデルセンは市場原理が貫徹するようになれば財産もなく、必要を満たすうえで頼る身分もない労働者にとって、牢獄になる考えるのです。欲望に関しても人間にとって商品化がすすむと、資本蓄積のエンジンは強化されます。その結果、個々の労働者は弱い存在となります。このために、積極的社会政策の強力な手段が必要になってくるのです。

 コーポラティズム的福祉の社会保険制度としてビスマルク保守主義者のモデルがあります。公務員に対して、特権的な福祉供給を確立して、国家への忠誠心を強いる制度をもったのです。古いギルド的な伝統に由来するものです。ドイツ、イタリア、フランスなどは、国家主義的遺制が存在して、自由主義的を信奉して市場の効率や商品化に執着することはみられず、社会権を保障していくことに抵抗はないのです。国家は地位上の格差を維持に重点を置き、再配分の効果はあまりないのです。コーポラティズム的世界は、教会の強い影響のもとでつくら、伝統的な家族制度の維持のために大きな努力をはらってきたのです。

 自由主義的な福祉国家は、最低限の普遍主義的な所得移転、最低限の社会保険のプランです。社会改良は、伝統的な自由主義的な労働倫理によって、厳しく制約されます。国家は最低限水準の保障をするということで、積極的に私的な福祉制度に国家が補助を出す場合もあります。一連の社会権は実質的に抑制されるのです。これらは、アメリカ、カナダにみることができます。

 以上のように福祉を資本主義社会では三つの世界があるとアンデルセンは考えるのです。この三つのレジュームによって福祉政策が国家として実施されているのです。

 

参考文献

アンデルセン福祉国家の可能性」桜井書店

アンデルセン「福祉資本主義の三つの世界」ミネルヴァ書房

ラスキの「近代国家における自由」から教育を争点に

 ファシズムと戦ったラスキの自由論

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 ラスキは自由論を糧にファシズムと戦った思想家、政治家でした。また、ロシアをはじめとする全体主義的な国家社会主義についても厳しく批判したのでした。そこでは、多元主義を重視して、寛容の弁護、理性での権力弁護としたのです。このために、ラスキは教育を重視したのです。

 社会を脅かすものは人々の自己観念や行動を禁圧する独裁的志向です。権力者の欲望は、ひたすら独裁に走るのです。独裁的権力者は独創や実験の効能について何ら省みみることはないとラスキはみるのです。

 自由を創造する精神は民主主義の危機に対して、毅然と抵抗する勇気です。それは、独裁的志向の権力者に対して、脅威になるのです。

 自由は日々に戦いとられ、保持されていくというのです。このためにあらゆる場所、すべての機会に自由の精神を学ぶことが必要なのです。

 

自由は繰り返しの学び

 

 自由はいつの時代も繰り返し学びなおさなければならないとみるのです。自由の領域は、その時々によって、その内容を異にするから、自由の教訓、寛容の領域をその状況に対応して、学ばなければならないのです。ラスキは自由の領域は動態的と考えます。

 近代国家における自由は見識ある判断力をもった市民の形成が不可避です。見識ある市民の形成は教育の力によって成し遂げられていくのです。

 見識ある判断力とは考える力を持つことになり、衝動による行動ではないのです。また、冷淡や無気力は自由について、最も恐るべき敵になるのです。この力は社会のあらゆる場所、機会でで学ばなければな

 

自己の経験を土台にしての自由論と教育の二面性

 

 自己の経験を土台として、判断し、行動しえないとすれば、各人は自由でないとラスキはみるのです。不自由とは各人がその経験を否定されたことです。各人は生活体験から得た教訓を深化することが自由にとって大切とするのです。

 しかし、教育の二面性があることも見落としてはならないのです。ラスキは国民の生活上の利益と全く相容れない国民感情を喚起する国家目的の教育があるというのです。

 それは国家が要請する忠誠心の養成ということです。ここでは、理性や科学よりも国民的統合の絶対的価値観、感情を大切にしていくのです。独裁者はこのための教育を積極的に利用します。

 ところで、近代における科学技術による力が増す時代になることによって、教育の権利は自由にとって根本的なものになったとラスキは考えるのです。

 知識の獲得を奪われたものは教育のより恵まれた人の奴隷になるとしたのです。無知の人はその無知のまま自由かもしれないが、失業の危険性にさらされながら、自らの自由を用いて幸福になれない。

 そこでは、経済的安定性をもって、創造的に生き甲斐をもって、幸福を探求できる大きな自由を獲得することができないのです。

 

学校教師がもつ姿勢の重要性

 

 ところで、学校の教師の姿勢は非常に重要であるというのもラスキの教育に対する見方です。教育者によって子どもたちは大きな影響を受けるからです。

 教育者が広い見識で寛大であるか、それとも極限された偏狭な見方であるか、さらに、懐疑的な精神を涵養するか、積極的な精神を涵養するか、これらは、一国民の知的雰囲気に非常に相違が生まれるとするのです。

 独裁の現在政治制度を熱烈に支持することが愛国心だと信じている教師に、子どもを任せることは危険であるということです。そのような教師は、自由、子どもの幸福にとって、まことに危険極まりないとラスキは考えるのです。

 自由のない教育では、子どもを精神的ドグマの牢獄につないでしまうというのです。偉大な教師が子どもに及ぼす感化は想像を越えるものがあるのです。教師は自由を積極的に教えるべきです。

 

偏狭な愛国心の教育問題と真理探求の教育

 

 偏狭な愛国心はいっそうにおもしろくない社会結果を招くとラスキは考えるのです。権力的社会の支配者は真理探求の精神を嫌悪するのです。

 偏狭な愛国者は、自己に都合のよい事実を信じ込むように教え込むことを求めるというのです。欺瞞によって利益を得ようとするのです。彼らは、教育によっての創造的効果を広範囲にあらわれることを望まないのです。

 ファシズムと戦ったラスキであったので偏狭な愛国心教育に批判したのでしたが、植民地の人々が民族の独立のため愛国的アイデンティティーの確立があります。帝国主義者に奴隷的精神を押し付けられていた人々にとって、自由への解放に愛国心は大切なのです。

 ところで、帝国主義の国で暮らす人々、先進資本主義の人々にとって、領土拡張、民族排外主義による侵略に反対していくことは大切な課題になっていたのです。国際的連帯と国際協調主義のもとに愛国的誇りもあることも見落としてはならない。

 また、国際的文化交流を互恵、共存共存の対等の立場からながめると、一層に民族や国の歴史文化を自覚していくことが求められるのです。この意味での愛国心教育があるのです。

 現代において、グローバルな資本主義や大国の覇権主義が進むなかで、それぞれの国の主権、経済の自立的発展が求められているのです。とくに、発展途上国と先進国の格差が著しいなかで、経済の自立性と主権の国際的秩序は大切になっているのです。

 権力者の支配にとってみれば、国民の求める真理探求の教育の拡充は、都合のよい口実で遅らせていくものです。

 しかし、思考力の価値がますます広く一般的に認められることによって、創造的なやり方の教師をかってに気にくわぬということで解雇はできなくなります。教師の公言が教壇以外でも通用することになり、社会的影響も増していきます。

 真理探求にとって、多面性の承認と寛容性の重要性をラスキは指摘するのです。教育の世界で宗教に対する教科書問題は多面性と寛容を考えていくうえで、大きな問題提起になります。

 ときには、特定宗派の感情を害する教科書の記述があります。その教育をやめるような要請がカトリックの特定宗派から出されることがあります。そこでは、カトリックプロテスタントとの宗教改革の評価をめぐって、歴史的評価があるからです。

 ラスキは、アメリカでも独立戦争憲法の問題でも評価の違いがあるというのです。ここでは異端者狩りをするのではなく、熱烈な討論による多面性と寛容性の容認が教育に求められるのです。

 教育者は、未成熟な精神にただ真正な見解を教えたいという欲望ではなく、真理、経験にてらして解釈をして、人格を抑圧し、人生観を押しつけてはならないとしているのです。

 

経験からの事実の真理探求と多様性・寛容性

 

 そこでは、経験からの事実を大切にして、公共的事項を重視していくというのです。隣人の悪口ということの快楽や特定の利益をもつこと, 醜聞をつくりだす権利はないとしています。

 表現の自由は無制限なものではないというのです。無用な苦痛を人々に与えてはならないとしているのです。公共的事項を抑圧する表現の自由の禁止が決定的重要性をもつ事実や観念を一般大衆の目から遠ざけることは正しくない。

 また、けがれた神という古い伝統は禁止するのではなく、適度に寛容の精神と文化面から擁護すべきとしているのです。

 これらのラスキの多様性と寛容性をもつ教育指導の指摘は、日本の社会科学や自然科学の教育を進めていく場合に、文化の問題もあることを見落としてはならないのです。けがれ、祟り、迷信、神話などを教育のなかでどう考えていくのか。

 それらは遅れた非科学的な見方であるということで、一方的に切り捨てるのではない側面もあります。そこに含んでいる文化的な意味、人々が歴史的に体験してきた習慣や掟などからもみていくことが大切なのです。

 暮らしのなかでは理性的に理解できないこと、不安や恐怖があることを決して忘れてはならないのです。また、自然に対して、祟りや掟は現代の乱開発にみる一面的な狭い科学技術による開発のおごりもあるのです。

 

科学の教育のあり方と多様性・寛容性

 

 自然現象は、わからない未知の部分がたくさんあるのです。科学のおごりは恐ろしい結果を招きます。狭い分野だけの専門分野だけの科学だけで一人歩きすることは極めて危険なのです。

 科学技術が人々の生活に、はかりしれない被害をこうむることがあるのです。核兵器などの戦争のための軍事研究、原子力エネルギーや山の森林を切り開いのメガソーラーなどは、そのことを教えているのです。

 これらの現実には科学者にとっての一般教養や学際的な研究、総合的な異分野の交流が求められているのもそのためです。

 科学者のコミュニティは、自己の専門分野だけではなく、異分野や学際的コミュニティが強く求められているのです。学問の自由は、このコミュニティの理解が極めて大切なのです。

 教育においても当然ながら、このことが求められているのです。大学における教育でも専門的研究の教育と、同時に一般教養が求められているのです。

 

自由の実現と国民の理解

 

 自由の実現は多くの国民に認知されることが必要です。ラスキの言葉で最後をしめたいと思います。

 「権力者は自己の過ちを隠しおおせるものなら、そのためには常に自由を否定するであろう。そして、自由の否定が成功するたび毎に、自由の否定を繰り返すことを容易にするのです。

 いかなる社会でも、人々が自由のもたらす結果について平等な関心をもつ場合にのみ、自由そのものについて平等な関心をもつということである。

 自由のもたらす果実が、少数の占有であるある場合には、他人にそれを拒めばどんなことが起こるかを、この少数の人々が考えることは先ずない」。ラスキ・飯坂良明訳「近代国家における自由」岩波文庫、206頁から207頁