社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

民主的社会主義と社会教育型国家

 民主的社会主義と社会教育型国家

         神田 嘉延

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 現代は国際的に格差から貧困問題が大きな課題になっています。福祉国家の資本主義諸国での財政を通しての社会保障制度もありますが、格差からの貧困問題の解消になっていない。年間10億ドルを越える資産家は2000千名も超え、一位1247億ドル2位1034億ドルと巨大になっています。1.9ドル以下の絶対貧困で暮らす人は7億3千万人といわれます。

 国連統計などによると世界人口の23%13億人が貧困といわれています。相対的貧困率は、平均収入中央値の半分以下で暮らす人々のことです。

 日本の場合は、平均年収436万円ですが、中央値は370万円です。この相対的貧困率は、米国17.8%,日本15.7%となっています。教育格差、医療格差などは依然として深刻です。新型コロナで一層に拡大しているのです。

 

 資本主義の矛盾は、福祉国家資本主義の社会保障制度のみでは解決できない現状です。現代は、マルクス資本論を執筆した150年前の機械制大工業のルールなき過酷な搾取形態とは大きく異なっています。

 福祉国家資本主義では、社会保障制度、労働法の整備、独占禁止法の整備など社会における民主的な諸制度が確立しています。国際的な多国籍の大企業の規模も巨大になり、その社会的責任は極めて大きくなっています。大企業は経済の社会化という存在で、その社会的影響力は大きなものがあるのです。

 

 しかし、実質的にそれらの制度や社会的責任の役割が十分に機能していない状況です。それぞれの国によって、歴史や文化の違いがあります。帝国主義国や植民地国になった歴史、経済の発展の度合い、国民の所得、文化の違いがありますが、資本主義の現実に抱えている矛盾をどう解決していくのか。これは、現代の人類が抱えている共通の課題です。

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 本論では、資本主義の矛盾の格差・貧困、労働疎外、雇用不安、経済の競争と無政府性を、自由と民主主義の充実を基礎にして、それも教育を重視しながら自立を尊重して、問題解決の展望を明らかにしたい。それらの参考になる理論を紹介しながら、国家の役割としての民主的ルールづくり、憲法・法によっての民主的社会主義と社会教育型国家像を明らかにするものです。

 本論では、レスター・サロンの知識資本主義、ドラッカーのポスト資本主義、ロールズの公正なる正義、マルクス資本論の教育条項から、自由と未来社会への展望を探求していくために問題を整理していくものです。

 

1,知識資本主義:レスター・C・サロンの社会教育型国家

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 デジタル社会という情報革命によって、資本や土地、労働という従前の資本主義の経済的価値は知識に大きくかわった。つまり、新たな産業革命が起きているのです。レスター・C・サロンは、グローバリーゼーションと知識集約型経済によって、世界は第3次産業革命の衝撃として、大きく変わっていくとしているのです。
 世界の大富豪も、デジタル産業や、その関係をもった企業の創始者が多く、それらのイノベションを成し遂げた人びとが名を連ねています。この事実から、知識が大きく経済社会を変えていくと注目されているのです。

 この知識資本主義を考えていくうえで、ファッシズムを経験した世界の人びとが民主主義を実現していくうえで、マンハイム等が主張した自由の精神的理性という意味の知識社会論とは異なっています。 

 

 レスター・サロンは、マルクスの生きていた時代について、機械が熟練工にとって代わって、貧しい人びとはさらに貧しくなり、賃金も最低生活水準まで下げられたと、マルクスの当時の指摘は正しかったとのべます。彼のマルクス理解は、資本主義の発展で、巨大で略奪的な独占資本が集中するとマルクスの指摘であったが、現実の歴史はそうならなかった考えるのです。資本主義経済は発展し、マルクスが生きていた時代と、その後の歴史は違ったと考えるのです。富の分配が行われ、不平等をなくす政策を政府は積極的に行って、社会福祉国家になったとみるのです。
 この社会福祉国家で、格差を是正し、平等を実現していくうえで、教育の役割が重要であるとレスター・サロンは強調するのです。それは、社会教育型国家というべきかもしれないと格差是正の教育の役割をレスター・サロンは重視したのです。教育費を負担し、労働者の教育を充実していくという義務教育の制度がとられたが、これは平等な社会を作り上げていくうえで重要な施策であったと指摘するのです。

 

 国の義務教育制度は、親の収入と教育の関係を絶ったと、その平等化の社会的役割をみました。福祉国家的資本主義の発展によって、貧しい親の子どもでも技能を学ぶことができる時代になった。このことが、生産性も上がることに経営者が認識したとするのです。

 貧しい子どもでも知識や技能を身につけて立身出世できるようになったのが現実の福祉国家の姿であり、貧しい単純労働者の階層から抜け出すことができるようになったと考えるのです。つまり、貧しい階層の人びとでも義務教育の仕組みが平等を達成することを可能にしたと力説します。
 さらに、レスター・サロンは、政府による資本主義によって生まれる不平等を取り除く多くの政策を実施してきたとするのです。そのことを次のような具体的政策事項をあげて強調するのです。

 それらは、失業保険制度の創設、健康保険制度、年金制度の整備でした。さらに、累進課税は、富裕層の所得を再配分する役割を果たした。また、相続税が導入されて、裕福な家庭に生まれた人が経済的に有利にしないための方策をした。独占禁止法や、独占の規制などで資本の集中と市場の公平性を保障したとするのです。

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 マルクスが生きた19世紀の資本主義とは明らかに異なるというのです。資本主義には固有に生まれる経済的不安定性と不平等性、格差がありますが、政府によってコントロールしてきたのが社会福祉国家の資本主義であったと強調するのです。

 これらのレスター・サロンの見方は、制度そのものが生まれたことは事実ですが、実際的に格差を解消して、平等な社会をつくりだしていく機能を果たしたのか、実証していく課題があるのです。今日では弱肉強食の競争主義や新自由主義の政策の現実の分析からの問題を整理していくことが求められます。

 とくに、コロナ禍で莫大な利益をあげているデジタル分野などの産業と貧困層の拡大がみられます。社会的危機というなかで、一部の独占的企業が最高利益になるという膨大な利益をあげていることも事実です。世界の企業の4分の1がコロナ禍で最高利益を得たのです。

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 第三次産業革命という知識情報社会は、知的所有権が重要な意味をもつ時代です。グローバリゼーションのなかで、競争力をもつのは、物的所有権ではなく、知的資本とみるのです。知的所有権は、新しい知的所有を創造する強いインセンティブシステムが必要ですが、他方で新しい知識と発明は、即座に利用しなければ経済的意味をもたない。発明は独占的権利を与えられてきた。それは特許として、自由に一定期間にわたって誰でも使用できなという問題があるとレスター・サロンはみるのです。


 知識集約的、情報化の第三次産業革命のなかで、経済格差の広がりは、知識や技能水準によって起きているというのです。教育の充実と技能の向上は格差を解消していくうえで大切というのです。全員が生活の糧となる技能を身につけ、生涯にわたって新しい技能を習得していくことが求められると。つまり、そこでは、生涯にわたっての教育の実施が行われる社会システムが重要ということです。


 資本主義に対立するためには、批判するばかりではなく、実現可能な選択肢を提唱しなければならない。レスター・サロンは、今のところ、非資本主義の選択肢で信憑性があるものは存在しないと考え、資本主義が世界を支配するグローバリゼーションのなかで、孤立しての国家経済はないとするのです。

 世界的経済のなかで問題をみることは重要なことですが、それがすべて絶対的なことになるものではないのです。このことを見落としはならない。

 

2,ドラッカーのポスト資本主義と「教育ある人間論」

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 ドラッカーは、ポスト資本主義として、知識社会を積極的に提唱するのです。ソ連や東欧の体制的崩壊がマルクス主義共産主義の崩壊とドラッカーは考えるのです。同時に、資本主義を老化させる力が働いているとみています。あたらしい社会はポスト資本主義としての知識社会とするのです。その主役は知識労働者とサービス労働者となり、資本でも天然資源、労働でもない知識が重要と考えるのです。


 ドラッカーの考える知識社会の生産性は、チームワークで、仕事と仕事の流れに最適なものを選ぶことを重視するのです。仕事の性格、道具、流れ、製品の変化など、仕事を行うチームそのものが経済を変化させると考えます。

 チームの構成員は、監督と指揮者から情報を得ます。監督や指揮者は、チームの楽譜を管理します。従前の機能別の部門で仕事をしていくのではなく、オーケストラのようにチーム編成して、指揮監督による知識労働者、サービス労働者の情報部門が力を発揮するのです。そして、それぞれの専門職員は仕事への集中として、大きな役割を果たしていくというのがドラッカーの見方です。
 また、専門的に仕事をしている人びとが、どのような道具が必要か。どのような情報化必要か。仕事とその方法についてわれわれに教えてもらえることはなにか。専門的に働くものが責任をもち、かれらが最もうまくいく方法はどのようなものか、また、いかない方法は何かを知っている必要があるとみるのです。


 ドラッカーにとって、知識労働者やサービス労働者の仕事は、責任ある労働者との協力が生産性向上の唯一であるとみるのです。仕事と組織に継続性を組み込むことが知識労働者とサービス労働者の仕事になるのです。ここでは、組織そのものが学ぶ組織および教える組織となるのです。
 ドラッカーは社会的責任論を強調します。ポスト資本主義の原則は社会的責任型組織になります。それは、自らの能力の及ぶ範囲内において、自らの本業の能力を損なわない限りにおいて、社会的責任をもつことです。組織の社会的責任は、経済的責任が企業の唯一の責任ではない。教育上の責任だけが学校の責任ではない。医療上の責任だけが病院の責任ではない。組織がもつ力は社会的な力なのです。

 社会的責任のシステムは、民主的な社会をつくっていくうえで極めて大切なことです。企業が大きく成長して、大企業になっていくことは、社会化の拡大でもあり、それだけ社会的責任も拡大していくという見方が重要です。

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 ところで、最もよく秩序が保たれ、安定した社会においてさえ、知識労働への移行に取り残された人びとは生まれるとドラッカーは考えます。社会と人間が労働力の急激な変化、必要とされる技能や知識の急激な変化に追いつくには、一世代ないし二世代を要するというのです。そこでは社会的サービスが重要になってくるのです。
 社会的サービスは、第一に、先進国にみられる高齢者の急速な増加です。一人でくらすことがでてくるのです。そこでは、保険に関する研究や教育、治療や入院のための施設が求められるのです。保健と医療は複雑化していくとみるのです。


 第二には、成人に対する継続教育です。ひとり親も増加していきます。社会的セクターは、先進国における成長セクターになっていくのです。むしろ、社会的救済のサービスは実質的に低下していくのです。
 ドラッカーが指摘する社会的サービスの二つの分野は、ますます社会で重要な仕事の分野になっていくのです。二つの分野は、人間らしく豊かに生きていくための福祉に、教育が密接に結びつていくのです。高齢化して楽しく生きていくために、健康であることが一番に大切な要件になるのです。

 健康のためには、当然ながら予防医学の知見が必要ですし、そのためのスポーツや食事・栄養が必要です。食事は楽しみのひとつですが、健康のためにも栄養や塩分などを控えていくことも求められていくのです。健康のためには、保健活動やスポーツ活動、趣味の活動など楽しく仲間と生きていくことも大切なことです。

 コミュニティのなかで生きるために、その活動の輪をつくっていくリーダーや指導員、その施設が不可欠になってくるのです。ドラッカーが指摘する高齢化による新たな社会サービスは益々大きな期待が社会に要請されていくのです。


 成人の継続教育もいつでも自由に受けられることも大切な要件とドラッカーは提起するのです。それは、職場での専門的な職業的教育はもちろんのこと、また、仕事の安定的継続性のためには、産業構造が著しく変化するなかでは、労働力の移動は当然ながら社会的に求められていきます。

 そこでは、年齢に応じて、体力的に職種が異なっていくこともあります。積極的に労働力の流動化が必要なのですが、職業教育・職業訓練が伴った積極的な労働力政策でなければ、格差拡大や貧困化になっていくのです。そして、貧民層として固定化していくこともありうるのです。年をとってもいつまでも可能であれば働きたいという人も少なくないのです。

 高齢化しても働くことによって、生きがいをもてるようになり、所得向上にも役にたち、年金収入以外としても役にたつことがあるのです。高齢化社会のなかで、いつまでも働ける社会システムも重要なことです。これらには、社会教育型国家のしくみがどうしても作り上げていかなば実質的な意味をもたないのです。


 ドラッカーは、知識社会にとって、知識の経済学を必要としているというのです。つまり、知識を富の創造過程の中心とする経済理論が求められていると考えるのです。既存の経済学は資源の配分や経済的報酬の分配について、完全競争をモデルとしています。現実は不完全な競争ですが、その原因を経済に対する外部干渉、独占、特許保護、政府規制等に帰しています。

 しかし、知識経済における不完全競争は経済それ自体に内在するのです。さきがけた知識の利用、学習曲線によって得られる優位性は永続するのです。逆転は不可能であるとドラッカーは指摘します。
 知識は安く手に入らない。知識の形成が最大の投資先になり、知識から得られる利益こそが決定的要因とみるのです。知識の生産性は知識を体系的に応用できるマネージメントの責任です。知識を応用する努力は、もっぱら経済と技術の分野ですが、社会問題、政治、知識そのものの分野で知識の生産性は応用できるのです。知識は道具として結合することも大切なのです。結合させる能力は、学んだり、教えたりするうえで、道具に焦点を合わせることが必要というのです。以上のようにドラッカーは知識の応用と生産性を強調するのです。

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 ドラッカーの責任ある学校は、社会の中心的機関であるという関係者の認識が大切です。しかし、学校が教育の対象としてきた子ども達や青年達は、市民権をもたず、責任能力もなく、労働力になっていないのです。知識社会における学校は、成人教育、とくに高等教育を受けている成人教育ともなるのです。

 日本の教育の伝統について、ドラッカーが評価しているのも大きな特徴です。それは、近代以前の文人による私塾です。書道は規律と美的感覚を重視した。文人の塾は、大衆と異質なエリート教育ではなかったのです。中国的な伝統教育ではなかったのです。近代学校は、文人の塾で教えられた弟子達によって行われた。技術は重要であるということで、教育や学校の見直しということで、新しいことをしたのです。教科書は道具にすぎなかったのです。


 学校は高度の基礎教育を行うことがなければ、社会から課された知識の重大な責任を果たすことができないとドラッカーは考えるのです。知識社会では教科内容そのものよりも、学習の継続能力や意欲の方が重要です。ドラッカー生涯学習を不可欠なこととするのです。学習には規律が不可欠になっているという見方をドラッカーはもっています。

 学校は生涯学習に向けて開かれたシステムです。学校は年齢にかかわらず、いかなる教育課程でも入れることが重要なのです。とくに、高等教育の道を開いていることは、社会的要請とドラッカーはみます。


 ドラッカーは、学校教育と社会との協同を重視します。教育は学校の独占ではなく、学校がパートナーとなるさまざまな社会分権との共同事業をもっているのです。学校は働く人びとにとって、学習を継続する場であるのです。成人とくに高度な知識を有する人は教育訓練の対象となるのです。同時に、生徒だけではなく、教師にもなるのです。今後にとって、未来を構築していくうえで、高等教育機関と雇用機関は協力していくことが必要になってくるのです。
 ドラッカーは教育ある人間という概念を用いるのです。知識社会では教養ある人間形成が不可避になっていきます。教育ある人間は、社会的モデルとなる能力を規定し、社会の価値、信念、意志を体現するとしています。教育ある人間は、知識社会であるがゆえに、貨幣経済、職業、技術、諸種の課題、とくに情報ががグローバルであるがゆえに普遍性をもつ存在なのです。

 

 そして、統合の力、諸種の独立した伝統を共通かつ共有の価値あるものへの献身、卓越性という共通概念や相互の尊重、まとめあげられる指導力などがあります。

 ドラッカーにとって重要なことは、教育ある人間を考えるうえで、未来を創造するための能力が大切なのです。それは、人文主義という人類の遺産や知恵、美や知識という教養主義でもないというのです。教育ある人間は専門知識を大切にして、自らの専門が他者に理解できるように、様々な分野との結合ができるための相互理解、対話ができるための教養が必要になってくるのです。

 それは、単なる博学ではなく、人文主義の求める教養を積極的に享受して、未来を創造していく能力を身につけていくという教育ある人間という意味なのです。

 

3, ロールズの公正なる正義論での民主的社会主義論と教育の役割

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 ロールズは、正義にかなった国家像・社会制度として、財産私有型民主制とリベラルな(民主的)社会主義をあげています。それらは、資本主義的福祉国家ではなく、資本主義に代わるものとみるのです。
 世代から次世代へとわたる自由で平等な市民間の公正な協働システムは、重要なことです。それは、財産私有型民主制または、リベラル(民主的)社会主義の未来論の積極的な提起です。
 福祉国家型資本主義は、現実的に、利益第一主義の弱肉強食競争、社員の暮らしより株主第一主義に巻き込まれ、格差社会を拡大している状況です。ここでは、国家と独占的企業の癒着や財政誘導行政になりがちで、民主的経済のあり方が問われるのです。

 そして、経済との関係で、政治的自由の公正的価値を拒んでいきます。機会平等の配慮がされていても、格差を生む経済的仕組が是正されない限り、平等の達成に必要な政策がとられないのです。

 所有の不平等から少数者による経済支配がおき、そこでは、経済的社会的不平等を規制すべき互恵性の原理がないのです。国家社会主義は、一党独裁による指令経済で基本的諸権利と諸自由を侵害しており、自由の公正の正義の価値の侵害です。


 財産私有型民主制とリベラル社会主義の政体は、どちらも民主政治の憲法枠組みを設定し、基本的諸自由に加えて、政治的諸自由の公正な価値と機会の公正な平等も保障しており、格差原理によってではない相互性の原理によって、経済的・社会的不平等を規制していると考えています。
 財産私有型民主制か、民主的社会主義のどちらを選ぶかは、決める必要がないとみるのです。両方の政治的価値も、ロールズの考える公正なる正義を実現する政体なのです。
 財産私有型民主制と福祉国家型資本主義の綿密な対比がロールズにとって、大切なことであった。財産私有型民主制は、富と資本の所有を分散させています。それは、少数のものによる経済や政治生活の支配を防ぐように働く。財産私有型民主制の政体は、もたざる人びとに所得を再配分するのではなく、各期のはじめに、生産用資産と教育と訓練された人的資本の広くゆきわった所有を確保するのです。
 教育と訓練の重視と機会の公正な平等の徹底によって、格差原理に対処するものです。それぞれ、相互の利益と自尊によって、自己の分担役割をしていく。最も不利益にある人びとは、慈悲や同情、哀れみの対象ではなく、何人も互恵性なのです。社会的・経済的平等を足場に自分自身のことは自分でやっていくということで、最も不利益で、もたざる人びとに、自立の立場を作り上げていくのです。
 教育と訓練を重視して、意欲的に誇りと自尊心をもって生きることは、より人間らしく自由になることです。この仕組みづくりで教育と訓練は極めて重要な事項です。もたざる人びとも自由で平等な者として、自由に人間らしく誇りをもって、意欲的に働き、市民間の公正なる協働システムの一員として、機能するようにロールズは考えたのです。


 
 財産私有型民主制やリベラル社会主義の政治的価値は、公正なる正義として、民主的政治の憲法的枠組みを設定しています。立憲民主制と手続き的民主制の違いも明確にしておくことが必要としています。
 財産私有型民主制は、手続き的民主制という政治的価値はない。憲法事項にそって、法がつくられていくのです。憲法の制約が立法でも裁判所でも明確にされています。しかし、手続き的民主制は、立法上において憲法の制約もなく、適切な手続きによって法が制定されていきます。それは過半数の原理によっての制定です。

 財産私有型民主制や民主的社会主義では、多数決原理という手続き民主制の普及ではなく、憲法的内容を実質化していくという公正なる正義の政治が執行されていくという教育を社会的に充実していくことが大切になってくるのです。
 市民達の政治論争、政治的に対立する党派での討議の基礎は、憲法の必須事項からの政策的な合意、社会的協働なのです。これらを具体的な国民の要求実現の筋道を合意と協働システムのなかで示していくのです。
 財産私有型民主制の経済制度は、格差原理からの自由と平等を保障していくという社会的諸制度で、貯蓄原理を正義のために働かせるのです。社会は長期にわたる世代間の公正なる協働システムを作っていくのです。貯蓄をとりしきる原理も必要になるのです。貯蓄原理の合意は、富の水準をどれほど多くするのかという他の世代の義務を根拠づけることが求められます。


 さらに、税のことでは、貯蓄原理と課税の問題があります。ロールズは、遺贈を規制し、相続を制限するということは税の対象とせずに、累進課税に原理を積極的に適用するとしています。公平で平等な正義がかなっている社会では、累進課税で財源を増やすことを直接の目的にするためではないとするのです。
 それは、政治的諸自由の公正、機会の公正のために、背景的正義に反する富の蓄積を防ぐためというのです。ここで、問題となるのは、貯蓄原理が生活のために、小規模な資産として相続することを考えるのが必要なのです。それは、公正なる平等の正義から不公平な富の格差が生まれてくることはないのです。
 しかし、市場競争という現実を肯定しているなかで、資本の一極集中が進んで、それに伴って資産も強大になり、そのことで、世界の経済を支配することで重大になります。生活のための小規模な貯蓄であれば、富と貧困の極端な格差の矛盾は生まれない。その場合は遺産相続の所得控除という制度によって、実質に相続がかからない仕組みもできのです。控除額をどれほど引き上げるかによって、実質的に小規模な生活のための資産の遺産相続はなく、ロールズのいうとおりに課税対象からはずれることになるのです。
 比例的な消費税として、一定の所得税を越える消費総額にのみ課税されることも考慮するひとつです。人びとが、生産された財やサービスをどれだけ使用したか。それに応じて課税されることで、適切な社会的ミニマムに配慮した調整ができるというのです。。
 ロールズは、財産私有型民主制にとって、女性の完全平等をめざすことが大切と考えます。伝統的な家族内分業が基礎になった歴史的条件があることから、基本制度としての家族の問題になるのです。長期的な社会的協働のひとつとして、女性や子どもに平等な正義を確保する必要があるのです。 


 政治的リベラリズムの実現には、教育によって達成するのです。子どもの教育のなかに、自分の憲法上の権利や市民的権利に関する知識が重要です。自分の住む社会には良心の自由が憲法的に保障されいます。子ども達は十分に協働する社会的構成員となる準備を整え、可能となる自活の教育を受けていきます。そして、社会的協働の公正な条項を尊重したいという欲求が起きる政治的徳性を寛容していくことが求められます。
 自由で平等な公正なる民主的国家をつくっていくには、将来の市民としての子ども達の役割は重要です。子ども達に公共的な文化を理解し、その諸制度に参加し、政治的公正なる諸徳性の発達能力をつけることは不可欠になってきます。そして、全生涯にわたって、自活して生きる能力が求められということです。


4、 マルクスの自由論と教育の役割

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資本主義の基本矛盾

 

 マルクスは資本主義の矛盾原理を資本論で明らかにた。マルクスから学ぶ自由論を考えていくうえで、社会的自由が基本にしています。
 マルクスは、イギリスの経済史と経済状態からの資本主義矛盾の解放を大きな課題としたのです。イギリスこそ不可避的に社会革命が平和的で合法的な手段によって、完全に遂行されうる唯一の国であると考えたのです。

 マルクスは、商品生産の物神的性格を脱ぎ捨てためには、自由に社会化された人間の産物を意識的計画的に管理できる社会的相互関係が大切とした。

 そして、その歴史的条件には、人間と自然の関係の生産力の発展が必要と考えたのです。労働の疎外をはじめ制約されたものからの解放には、長い苦難に満ちた発展が求められていくとみたのです。
 労働者が労働力の売り手として、資本主義的な生産関係に入ることで、労働とその意志の自由が大きく変化したのです。資本主義的生産関係の労働者は、労働する魅力が少なければ、また、自分自身の肉体的および精神的の働きとして楽しむことが少なければ少ないほど資本にとって喜ばしいことになります。労働者は、資本関係において、自分の意志を労働過程に従属させなければならなくなったのです。労働者は資本主義的生産関係に入ることによって、彼の一日の全体の生活は、労働力以外のなにものでもないようになるのです。

 

 労働者は、人間的教養、精神的発達のための自由な時間を奪われていくのです。さらに、社会的役割を遂行するための、社会的交流の時間も失っていくのです。これらのことは、肉体的・精神的生命力のための時間を資本の価値増殖のために、奪われていくということを意味しているのです。資本関係に入ることによって、労働者は、人間的な自由時間が失われていくとマルクスはみたのです。
 本質的に、資本主義的生産は労働日の延長によって、人間的労働力の正常な精神的および肉体的発達との諸条件を奪いとられるだけではなく、労働力そのもを早く消耗して、労働者の生存時間を短縮していくとマルクスは分析したのです。
 利潤第一主義の資本制的大工業の誕生以来、強力で無制限な労働日の延長がされ、児童や女性が労働力市場に入り込んでいったのです。19世紀の前半に、イギリスでは、工場法立法の制定によって、標準労働日を獲得したのです。


 工場立法は、工場労働者たちの政治的選挙スローガンによって、広く宣伝されて、議会の大きな課題となったのです。工場経営者を規制していく工場法が制定されたのです。この工場法も労働者の戦いによって、労働時間の短縮、労働条件の改善が充実していくのでした。

 1844年の工場法によって、一日12時間以下、女性労働者の夜間労働が禁止され、13歳未満の児童は、一日6時間半になったのです。さらに、工場立法では、保険条項とて、換気装置などの労働現場や労働者の住居の改善をしていくのでした。

 国家法の強制によって、清潔・保健設備がされていくのでした。工場内は過密で健康に悪く、労働者の宿舎も換気の悪い部屋であありました。しかし、衛生的正義の闘争によって、衛生当局者も労働者の衛生権を報告するのでした。衛生権は法的な保護になったことを見落としてはならないのです。
 また、工場内に教育条項としての学校がつくられたことは注目することです。工場法によって、初等教育が工場内で実施されたのです。このことは、資本から労働者がもぎとった画期的な譲歩であったのです。


 労働者は闘いによって、孤立した労働者ではなく、資本との自由意志契約によって、自分たちの奴隷的状況を克服していったのです。ここには、議会による労働立法という強力な社会的手段があったことを見落としてならないのです。議会による工場立法は工場経営者に対する強制力になったことを決して忘れてはならないのです。
 同時に、ここでは、孤立した労働者としてではなく、標準労働日や労働条件を団結した力によって獲得していったことは重要なことでした。資本との関係で、自由対等に労働契約を結んでいくことができるようになったのです。まさに、労働契約を自由にできることは、労働力市場の自由ということから注目すべきことです。

 労働者の場合は、個々では孤立した存在であることから、労働者が意識的に団結の力で、議会に要求し、国家による労働立法から守られることが大切であったのです。また、労働者自身の団結権、労働交渉権なども不可欠になります。


 資本論からみた労働者の労働時間の短縮の闘いは、自由な時間の獲得になるのです。そして、工場法の教育条項にみられるように、人間的な発達のために、初等教育も獲得したことは特記すべきことです。

 安心、安全な環境で暮らすことは人間にとっての自由の条件でもあります。清潔・保健整備の改善や換気の悪い宿舎の改善など、衛生権ということからも大切なことであったのです。

 マルクス資本論1巻13章の機械と大工業のなかで、安価で単純な女性労働、児童労働を大量に動員していくことを述べています。機械は労働者家族の全員を労働市場に投じて、成人男子の労働力価値を全家族間に分割していくのです。そこでは、自由な労働力を売ることを放棄していくのです。機械は労働者自身を幼少時からひとつの部分機械の部分にしてしまうために乱用されていくとマルクスはみるのです。

 資本主義的な機械の充用は労働者の労働を解放するのではなく、自動装置によって、労働条件に労働者が使われることが強固になるというのです。つまり、手労働のときの心身の一切の自由な活動を封じてしまうのです。監督労働と単純な筋肉労働へとなっていくのです。

 

  資本にとって、政治的には分権や代議員制は、封建的特権を打ち破り、営業の自由を獲得していくうえで、歴史的に重要なことであったのです。この分権や代議員制は近代の民主主義の発展にとって極めて大切なことですが、自らの経営にとって、資本は利潤第一主義によって先制的になるのです。

 また、労働者は自らの目先の現象的な矛盾から機械との闘争をはじめるのです。機械は労働者自身の競争相手になると思うのです。実際は、機械の資本主義的充用によって、解雇され、生存条件が奪われていくのです。

 機械による分業は労働力を一面化して、ひとつの部分道具を取り扱うまったく特殊化された技能にされてしまうのです。機械のために余分な労働力にされた人々が生まれて行くというのです。労働者にとって、ここでは、社会的な関係をみることではなく、目先の機械化に奪われているのです。

 

機械制工場での教育の獲得と人間の全面的発達論

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 資本主義的自動体系のもとでは労働者の才能をますます排除します。熟練度の高い成人男子から熟練度の低いものに、子どもを大人の代わりに用いていくのです。

 ここでは、機械そのものの資本主義的充用から区別し、物資的生産手段の社会的利用形態の重要性を労働者が覚えるためには、時間と経験が必要であったのです。

 機械装置の発達によって、子どもの世話、裁縫や修理などの家事労働の家族の機能も大きく変化するのです。児童や少年の労働の売買は知的荒廃をつくりだしていくのです。

 しかし、児童の知的退廃が社会的に問題にされることによって、工場法の教育条項が生まれます。その適用を受ける産業で、初等教育を14歳未満での法的強制をしなければ社会それ自身の再生産が成り立っていかない状況になったのです。

 

 ところで、工場法の教育条項は、全体的に貧弱にみえるとはいえ、それは初等教育を労働の強制的条件として宣言したとマルクスは積極的に評価するのです。マルクスによれば、その成果は、筋肉労働を教育および体育と結びつくることの可能性をはじめて実証したとするのでした。

 工場監督官たちはやがて、学校教師の証人喚問から、工場児童は正規の昼間生徒の半分しか授業を受けていないのに、それと同じか、またはしばしばそれよりも多く学んでいることを発見したというのです。

 それは、二つの仕事をしているということです。一方では休養に、および気晴らしになり、中断なしに続けるよりもずっと適当というのです。

 また、上級および中級の児童の一面的で不生産的で長すぎる授業時間が、いたずらに教師の労働を多くしていること、児童の時間や健康を無駄にするだけではなく、まったく有害に乱費しているとみるのです。

 ここでの労働は過度な強制的なものを意味しているものではありません。マルクスは、児童労働調査員会の報告書を紹介しながら、そのことを語っています。有能な労働者をつくる秘訣は、子どもの時から労働と教育とを結びつけることになります。その労働は激しすぎてはいけないし、不快なものとか不健康なものではいけない。自分の子どもにでも、学業からの気分転換のために労働や遊戯をやらせたいとおもっていると児童労働調査員会は報告しているのです。

 

 長期的な側面からみれば、有能な労働者をいかにつくりだしていくのか。このことは、資本にとって、大切なのです。さらに、マルクスは当時の農村の状況では貧困家庭には教育を禁止するという風習があったことを記しているのです。貧しいがゆえに児童労働者として、工場に働きにいった子ども達が、そこで教育を受けられるということなのです。農村にいては教育が受けられなかった子どもたちが、工場法の教育条項によって、学ぶことが可能になったのです。

 イギリスの農村地方で、貧乏な親たちは子どもの教育を罰ということで禁止されているのです。貧乏人が教区の救済を求める場合には、彼は子どもを退学させられることを強いられるのです。

 工場制度からは、われわれはロバート・オーエンにおいて詳細にその跡を追うことができるように、未来の教育の萌芽がでてきたとするのです。それは、単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法であるとマルクスは工場法の教育条項を積極的にみているのです。

 

 全面的に発達した個人になっていくのです。全面的発達は、教育の前提ではなく、生きるために、労働現場からはじき出されることの繰り返しのなかで、その場、その場で必死に労働力市場に対応していくなかでの能力の形成からの結果としての全面的発達の人間形成なのです。長い人生のなかでの、困難につきあたり、新たな能力形成挑戦の努力から全面的発達の人間形成としてみることが重要です。ここには、社会教育・生涯学習ということからの全面発達の人間形成としてみるべきです。

  生涯を通しての全面的発達への基礎として、自然発生的に発達した工業および農学の学校や職業学校にもなるのです。労働者の子どもが技術学やいろいろの生産用具の実際の取り扱いのある程度の教育を受けることの重要性をマルクスは考えたのです。

 工業学校、農学校、職業学校は、生涯学習からの全面的発達の人間形成ということで、大きな意味をもっているのです。したがって、そこでは、すぐに役にたつという職業訓練的な教育ではなく、生涯にわたって大切な職業観教育や技術学の基礎、科学の基礎を実際的な訓練の基礎から学ぶことになるのです。職業観や技術学の基礎、科学の基礎を実際に応用できるように学ぶことが求められているのです。

 工場立法は、資本からやっともぎとった最初の譲歩として、初等教育を工場労働者に結びつけることができたのです。このことは、労働者階級による不可避的な政権獲得のための理論的なことになります。また、実際的な技術教育のためにの労働学校のなかにその席を取ってやることができるとマルクスはみたのです。

 

  部分人間からの全面的発展の人間形成は、機械制大工業による資本主義的な競争原理による価格競争からです。それは、生産性という絶えざる技術革新による労働者の労働力市場からの反発や吸収によって起きるのです。

 労働者の全面的発達の人間形成は、労働力市場の反発や吸収という死活問題のなかで形成されていくのです。労働者が不況のなかで解雇されていくなかで、生きていくいくために必死になって新たな産業へと雇用を求めます。雇用の安定のために、自己の能力を身につけようとするのです。

 部分人間からの全面的発達への人間形成ということは、前提としての教育や職業訓練の営みの目的によってではなく、労働者の景気循環のなかでの雇用の排出反と吸収のなかでの適応であるのです。つまり、経済的基盤からの労働者の死活問題としての労働への適応の努力の学習の繰り返しのなかで形成されていくとみるのです。

 このように、マルクスが考えた全面的発達論は、部分人間からの脱皮は、資本主義的な景気循環での排出と吸収、絶えざる技術の競争というなかで捉えていくことが大切なのです。社会経済的状況から無視しての独自の教育論としての全面的発達論ではないのです。

 この意味で全面的発達論は、社会から閉じられた学校教育という狭いなかで考えるのではなく、学校教育自身も社会との関係で積極的に教育内容、教えていく課題、教育の方法、体験学習や観察、実験方法、体を動かす教育、感性を磨いていく実際の方法など、様々なことを社会や体験、実際のことなど工夫していく教育が必要なのです。

 さらに、社会教育・生涯学習の課題として、全面的発達論をみていくことが大切なのです。

 

労働の疎外と人間的自由
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マルクスは、「経済学・哲学草稿」で疎外された労働についてのべまています。資本主義的な生産関係では、労働者は富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけ貧しくなるというのです。
 この事実は、労働が生産する対象、生産物がひとつの疎遠な存在であったのです。そして、生産者から独立した力として、労働に対立したのです。労働者は彼の生命を労働対象のなかにそそぎこむので。しかし、そそぎこまれた生命の生産物は彼自身のものではないという皮肉な結果であったのです。


 自然は労働に生活手段を提供しますが、自然は狭い意味での生活手段を提供していたのです。労働者は、資本主義的な生産関係に入ることによって、彼の生活手段の自由な労働を奪われるし、生存手段である生産物も失われのです。労働者は肉体的主体としてのみふるまうのです。ここに二重の側面から労働者の疎外が生まれたのです。
 労働者は労働の本質から疎外されることによって、労働によっての幸福を感ぜず、かえって不幸を感じるのです。労働者の自由な肉体的および精神的および精神的エネルギーがまったく発達せずに、かえって彼の肉体を消耗し、彼の精神は頽廃化していくのです。

 また、労働していない家庭にいるような安らぎは、労働しているときは安らぎをもたないのです。だから、かれの労働は自発的なものではなく、強いられたのであり、強制労働だというのです。 


 労働は、ある欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足させるための手段にすぎないということです。人間的労働の本質である自然との関係で、欲求の満足のために、生産する喜びが失われているというのです。
 以上のようにマルクスは、資本主義的な生産によって、資本によっての労働過程の支配と所有から排除されていることで、労働による幸福感、満足を得ることができないということで、労働疎外の本質をのべるのです。
 人間は動物と異なって類的な存在であると考えるのもマルクスの特徴です。人間は自己に対してひとつの普遍的な、それゆえ自由な存在としてふるまうというのです。人間は、植物、動物、岩石、空気、光などの自然科学の対象として、また、芸術の諸対象してふるまうというのです。


 人間が享受すべき生産物を消化するためには、まず第1に仕上げを加えなければならないと考えます。それは、人間の精神的な非有機的自然、精神的生活手段になります。自然生産物が食料、燃料、衣服、住居などの形であらわれるようになるのです。そこでは、人間的生活や人間的活動の一部を形成し、また、人間的意識の一部をもつのです。人間は自然によって生きるということです。
 つまり、自然との不断の交流過程で人間は死なずに生きているのです。資本主義的な生産関係での疎外された労働は、人間は自然の一部として、自然と意識的に連関しているのを断ち切られているのです。

 

 人間にとっての労働は、生命活動、生産的生活そのものです。それは、欲求を、肉体的生存を保持しようとする欲求を満たすための手段であるのです。
 人間の生命活動は、類的生活がよこたわっています。自由な人間の意識活動は、そのものなのです。人間は、生命活動そのものなかに、自分の意欲や自分の意識の対象にしています。資本主義的生産関係は、自由な人間の意識活動、喜びや幸福感という自由な活動を疎外しているというのです。
 疎外された労働は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観することと、自然との関係での生命活動からの意欲や意識の自由な活動を人間の肉体的存在の手段に引き下げるということになるというのです。これらの意味することは、人間の精神的本質を疎外するというのです。


 労働の疎外があるということは、人間からの人間の疎外ということです。労働者が生産した労働生産物は、労働者に属さず、労働者以外の他の人間に属するということです。労働者の苦しみは他の資本にとっては、その生産物が享受され、他の人間、資本にとっての生活のよろこびになるのです。
 労働疎外によっての労働生産物は、資本家のものになり、その労働の主人が資本家になっているのです。私有財産は、労働者の外化された労働の産物、成果です。

 労働疎外が人間の疎外ということから、労働者の政治的な解放ということは、労働者だけの問題だけではなく、一般的に人間の解放が含まれているのです。人間にとっての労働、生命活動、生産的生活からの幸福感、人間の意識、人間的文化という本質の問題があるのです。このことから、利潤第一主義の労働から離れた資本家も含めて、人間的生きる喜び、幸福感、人間の意識や文化芸術をもみつめていくことが大切になってくるのです。
 
 労働の疎外は、機械の発達の導入によって、全く未発育な子どもを労働者にするのです。機械は人間の弱さに順応して、弱い人間を機械にしようとするのです。労働者の活動をもっとも抽象的な機械運動にまで還元し、活動する欲求も、楽しむための欲求すらなくすというのです。まさに、労働者を貧弱した生存条件の無感覚的な欲求の存在として陥れるとしたのです。 

 

人間の自由の意志と幸福観

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  エンゲルスは「反デユーリング論」のなかで人間の意志の自由問題として、自由と必然性についてのべています。 自由は、洞察と衝動、分別と無分別との平均であって、その度合いとしてみるのです。自由とは必然性の洞察であり、意志の自由は知識をもって決定を行う能力というのです。だから、ある人が判断がより自由であればあるほど、その判断の内容は必然性をもつということになります。


 無知にもとづく判断は、気ままに選択するようにみえても、自らの不自由を証明するのです。自由は必然的に歴史的発展の産物です。動物界から分離したばかりの人間はすべて本質的に不自由であった。文明、文化の進歩は、自由の歩みであったことを重視しているのです。
 エンゲルスは「フォイエルバッハ論」の著書で、人間の幸福衝動についてのべています。幸福衝動は、その充足の手段である外界との関わり合いが必要としています。幸福の衝動は、食物、異性の個人、書物、談話、討論、活動などの形であらわれます。それらは、消費される対象になるのです。
 
 社会の発展史は、自然の発展史と本質的に異なるのです。自然史は、人間の意識のない盲目的な作用力であって、交互作用のうちに一般的な法則がありますが、人間社会の歴史は、行動している人間は意識を賦与され、考慮または情感をもって行動し、一定の目標をめざして努力している人間であるのです。
 ここでは、表面上では、個人の意識的に意欲された目標によっての行動があるのです。行動は偶然が支配しているようにみえますが、多くは、意欲された目的が交錯したり、抗争したりするのです。行動の目的は意欲されているにもかかわらず、その行動の結果は、意欲された目的と合致するかに見えても、意欲された結果と違うことになるのです。偶然性が支配しているように見えても、この偶然性の内部にかくれた法則性によって支配されていることを詳しくみる必要があるのです。


 人間の歴史は、人間各自の意識的に意欲していることを追うことによって、多くの意志と外界の意志の多様な働きが合成され、それが歴史の結果なのです。個々の意志は破棄されるのではなく、合成された一部を構成されているのです。このことは、多くの個人が意欲しているというなかで歴史がつくられいくということです。
 

マルクス・エンゲルス未来社会ー真の人間的自由ー

 

 マルクスとエンゲルの「ドイツイデオロギー」の著書では、未来社会論を次のようにのべています。資本主義的大工業による労働の分割から人間的な力の復元は、もとのようにはならない。諸個人が個人として参加していく共同態によって、諸個人の自由な発展と運動の諸条件のもとでの諸個人の結合によって、新たな豊かな人間的な力が復元できるというのです。

 他の人たちとの共同こそが、個人の素質をあらゆる方向へ伸ばすことになるという考えです。したがって、共同においてこそ人間的自由は可能となるのです。


 この共同態とは、個々人の自由な参加による結合なのです。どのようにして、これを実現していくのか。その具体的な形態はどのようになっていくのか。資本主義的矛盾の対立のなかで、労働組合と経営者の集団的な交渉や協議会、協同組合方式の経営、労働者の職場などでの経営参加など、様々な試みが歴史のなかでされてきました。
 そして、労働基準監督、公衆衛生面からの保健所行政、環境保護行政など国家での法律に基づいて、経営側の社会的規制と労働者の社会的参加が行われてきました。

 

 マルクスエンゲルスの指摘する自由な国への諸個人の結合による共同態をどのようにつくりあげていくのか。詳細な具体的にるみえる形が必要です。
 そして、それらが、具体的にどのような方法で実現していくのかという過程も大切です。基本は現実的な問題の起きている利益第一主義の資本主義の矛盾を地域や職場のレベルから、地方、全国へと国民的な参加によって、民主的な協議、結合によって未来社会への達成を一歩一歩成し遂げていくことではないか。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

霧島における明治8年民主憲法の草案

 霧島における明治8年民主憲法の草案
 鹿児島大学名誉教授 神田 嘉延

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はじめに.

 霧島山麓は、古来から六所権現として、殺生を嫌って、修行したといわれる性空上人の僧など、極楽浄土の地であった。まさに、平和を祈る山であった。ここには、神仏混合、隠れ念仏の洞窟が多数あり、多様な複合的文化をもっていた安楽の地であった。そして、多様な価値を融合しての和の精神が色濃く山に映えるのであった。

 わき出る温泉の地であったので、霧島の山々に、西郷がよく湯治に来ていた。また、明治の学制がひかれるまえに、学問所が独自に各大字ごとにつくられていたとこも注目するところでもある。 

 竹下彌平の名前でだされた憲法草案は、彼が投稿したとき、霧島居住者であった。この憲法草案は、明治8年3月1日付けの朝野新聞に発表された。執筆は、明治8年2月1日となっている。竹下彌平は、鹿児島県襲山郷在中とある。この郷の現在市町村は、霧島市であり、霧島山麓の旧霧島町から日当山温泉地域をさしている。
 戦後の民主憲法を様々な地域での自由民権運動憲法草案から見つめていくことは、現代においても重要なことである。それは、挫折したが、日本における近代化過程の自主自立精神にもとづく民主主義形成の伝統であるからである。
 明治初期に民主憲法の骨格が鹿児島でもつくられていたのである。その理念は明治維新の五個条の御誓文の拡充と自由の真理という精神、立憲主義による国会中心主義である。

 そして、行政官、武官、司法官も左右両院の特権は侵すことができないとしている。さらに、行政の最高責任を担う太政大臣、左右両大臣と予算は国会の権限と明記する。国権の最高機関としての国会の役割、三権の分立と国会の政治における役割、政治の軍部からの自立を明らかにしている。明治8年の時期に画期的な民主主義の原理になる国会重視の立憲主義と自由の理念を打ち出している。

 武官はあらゆる国会の有する特権をおかすことができないとしている。このことは、政治における平和の問題を考えていくことで大切なことである。
 なぜ、霧島での在住の竹下弥平(偽名と思われる)がこのような憲法明治8年3月1日の朝野新聞に書いたのか。当時の政治情勢と鹿児島での地域の士族民権の動きも含めて検討する課題が重要である。

 

 

1. 明治8年鹿児島での民主憲法素案の歴史的意義

 竹下彌平憲法草案は、国民のための民主憲法を歴史的に考えていくうえで、重要な資料である。かれの憲法草案の理念的特徴は、国会の早期創設によって憲法を制定して、立憲主義のもとに、為政者を豹変させないという趣旨であった。国会は、国の重要な行政的責任者の太政大臣、左右大臣を選び、国の歳入歳出を定める特権を有するという提言である。
 
 左右両院の特権は、いかなる行政官、司法官、武官といえども犯すことができないとして、国会の権限は、立国の本旨から最重要であるとする。明治維新の5箇条の御誓文は、広く会議を起こして万機公論に決すという理念であったことから、その理念を早急に拡充して国会を開設すべきという。まさに、立憲主義と、国権の最高機関という国会の役割の主張がみられるのである。

 竹下彌平の憲法草案で注目されることは、天皇の位置である。天皇は、左右両院の開閉の特権をもつとしているが、国を統治する権限としての国会の役割を特別に重視していることである。また、両院に武官や司法官がなれないようにしていることも重要である。
 明治10年代に自由民権運動との関連でつくられた植木枝盛や五日市の私偽憲法案は、国民の基本的権利を尊重するが、天皇の統治のもとに国会を位置づけていたことと明らかに異なる。
 しかし、竹下彌平も天皇については、国民の象徴の権威性を次のように大切にしている。「恭しく聞く、我が帝国専世、聖哲ナル天皇之敕ニ曰、天、君主ヲ設クルハ国民ノ為ニスルノミ、君ノ為ニ人民ヲ置クニ非ズト」と。ここには、古事記にみられる仁徳天皇等の君主に対する尊敬と「嚶鳴館遺草」等の経世済民による愛民思想が見られる。竹下彌平の考える日本の伝統的な為政者は、国民のためにするのみで、君のために人民を置くものではないということが基本である。

 そして、中国の先哲として、「天下ハ天下ノ天下ニシテ、一人ノ天下ニ非ズト」としている。これは、中国の伝統的な兵法書六韜の考えである。さらに、フランス革命などによって形成された欧米の人権思想の大切さを次のように指摘する。「我国ヲ愛スベシ、吾人、自由ノ理ハ我国ヨリモ愛スベシ」(パトリア、カーラ、カーリヲル、リベルタス」(ラテン語)。つまり、祖国も大切であるが、さらに重要なものは自由であるとしている。人類の普遍的な人間尊厳の統治の論理探求の姿がみられる。


 自由の理は、「英雄起ルニ非ルヨリハ、宿習ヲ勇截浄濯選シテ真理ヲ実行ニ著見スルヲ得ンヤト」と過去の世の習わしをいさぎよく断ち切り洗い清めて、真理を明らかにすることを強調している。以上のように、明治8年に、自由の理による国民のための立憲主義の理念がすでに提起されていたことは特記すべきである。
 自由の理、国民のための憲法制定の運動は、明治8年6月の言論の自由を奪う新聞条例、西南戦争、明治14年政変、福島・秩父などの自由民権の激化事件などによって、日本の政治勢力から消えていったのである。
 しかし、自由民権運動に参加していった多くの日本の国民のなかに、その精神は、明治維新の五個条の御聖誓の拡大として残っていった。

 明治23年の国会開設の第1回衆議院議員は、かつて自由民権を訴えていた人々とつながりのある民党系が過半数以上を占めるが、国会は、国権の最高権限ではない。このことから、国政の絶対的権限をもっている専制政府のもとに、弾圧と懐柔が民党系にされていく。結果的に、かつての自由民権運動の思想は、政治舞台では骨抜きにされていったのである。


 自由民権運動は、安政条約による日本の植民地化に対する危機感からであった。その危機意識から国民国家の形成というナショナリズムの問題も内包していった。

 それが、後に慈愛的国際主義、民族平等と共存共栄の意識になっていくか、民族排外主義による帝国主義になっていくかの問題を含んでいた。それは、その後の日本の歴史の事実が教えている。

 竹下彌平の憲法草案は、日本近代における天皇主権の立憲主義憲法の骨格がつくられていく過程の政治情勢からみなければならない。現実の明治憲法は、竹下彌平の憲法草案の自由の理と国民のための立憲主義とは全く異なるものになった。
 明治8年2月は愛国社が結成され、全国的に国会開設の声が高まったときである。また、明治8年1月の大坂会議で、自由民権への融和懐柔が行われた。下野していた板垣退助木戸孝允井上馨大久保利通伊藤博文との政治的合意がされた。愛国社の総裁の板垣退助が多くの愛国社のメンバーから批判されるなかで、参議に復帰していく時期である。
 すでに、木戸孝允は、井上周蔵に依頼して、ドイツ・プロシア憲法をモデルに絶対主義的な憲法草案(大日本政規)を明治6年につくっている。大坂会議の合意によって、板垣退助木戸孝允の参議復帰が行われ、明治8年4月14日に立憲政体の詔書がでる。

 この詔書は、漸次立憲政体にしていくということで、元老院大審院、地方官会議を詔勅によって設置することであった。その後は、天皇主権による絶対主義的な天皇の協賛としての国会という明治憲法になっていく。


 当時の明治政府部内にあった民選議員設立の反対理由は、加藤弘之に典型にみられるように、時期尚早論で、天賦人権論は否定できなかった。

 加藤弘之の見方は、今日の我が国では制度憲法は難しいということである。我国では、英国の賢智者多いことと異なり、天下のことを公議する知識が無知不学の民多く、適切なる者を選ぶことができないという理由からである。

 未開の国は、自由の権利を得るとき、その正道を知らずして、自暴自棄に陥り、国家治安の障害になる。学校を興し人材を教育することをすすめて、人民の自主の心を旺盛にしてから民選議院を設立すべきという時期尚早論である。(加藤弘之民選議院ヲ設立スルノ疑問」明治啓蒙思想集・明治文学全集3巻、筑摩書房、154頁~157頁参照)。これらの論に対して、竹下は、憲法制定の緊急性をのべているのである。
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2.竹下彌平の憲法草案にみる明治維新の見方

 

 竹下彌平は、明治維新によって、旧習の下手な説や群藩の幡も一掃され、県治に大きく方向転換したことを次のようにのべる。

 「既ニシテ戊辰ノ転覆ニ会シ。逆乱旧習之陋説(ろうせつ)、義兵錦旌(きんしょう)之下ニ一掃シテ尽キ、海内(かいだい)一変、群藩幡然(はんぜん) 方嚮(ほうこう)ヲ改メ県治ニ皈(き)ス」。

 また、戊辰戦争後の新政府は、五箇条の御聖誓の万機公論に決するということであった。竹下彌平は、このことを次のようにのべる。
 「此之時ニ当リテ所謂萬機公論ニ決スル云々等之聖誓ハ、即、恐多クモ曩ニ所述、天地ニ亘(わたり)リ萬世ヲ究メ不可易(かゆるべかざる)真理ニ根拠シテ発スル所ノ者ニテ、而 (しかして)直ニ此真理ヲ実行ニ施スヲ見ル。我輩幼児之疑恠(ぎかい)、頓ニ氷釈(ひょうしゃく)スルヲ覚フ」。
 幕府を倒し、新しい国、理想を掲げた五箇条の御誓文の精神が全く形骸していることを問題にしている。幕府を倒したときの新しい世の中をつくっていくときの意気が消えたことを歎いているのである。現実の社会経済、政治をよくみて、真理を発展させて、欧米文明諸国と対等になることを期待していた。
 そして、この真理をのびやかに発達させて欧米文明諸国と「并馳共峠」(へいちきょうじ」と並び馳せ、共に目標に達するようになることを望むとしている。しかし、明治6年5月の井上大蔵の退職の前後より政治は失調しているとする。そのときから、すこぶる国民のため、自由の理の政治が消えていると考える。


 竹下彌平は、明治6年の政変を井上大蔵大輔等退職前後から捉えている。「政機失調ルアルガ如く」と、新しい国づくりの危機をあげている。それは、政商と藩閥政治汚職問題からであり、政治とカネという徳政の問題、国家財政問題のあり方も大きく問われたのである。
 井上馨は、日本主力鉱山の尾去沢(おさりざわ)銅山汚職問題で江藤新平等に追及されて辞職している。井上参議の辞職は、汚職問題が直接的理由である。近代化していくなかでの汚職の問題は、為政者の德の問題として大きくあった。この汚職問題を竹下彌平は、政機の失調のはじまりと見ていたのである。ここには、「新政厚徳」の精神が読み取れる。
 廃藩置県が行われ、徴兵制がしかれ、学制による義務教育の整備がだされていった。この時期は、旧幕府体制の制度をあらためることが急務であった。このためには、国家としての財政的な確立が不可欠であった。財源ぬきの学制が発布される。

 西郷をはじめ朝鮮問題で政府の中枢メンバーが下野していくのも明治6年10月であった。そして、明治6年5月から10月の政変は、地租改正や内務省の設置にみられるように大久保利通岩倉具視等は、天皇を利用しての官吏の権限強化をはかっていく。大久保は、明治6年11月に内務省をつくる。内務省は、政権の中枢的機能になっていく。


 下野した板垣退助などは、民撰議院設立建白書を明治7年1月17日に政府に対して最初に民選の議会開設を要望する。「今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司ニ帰ス」。
 今の政権は、天皇にも人民にもなく、ただ有司=官僚の独裁であるとしている。
 そして、「臣等愛国ノ情自ラ已ム能ハズ、乃チ之ヲ振救スルノ道ヲ講求スルニ、唯天下ノ公議ヲ張ルニ在ル而已。天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已。則有司ノ権限ル所アツテ、而上下其安全幸福ヲ受ル者アラン」ということで建白をしている。

 国を救う道を講究することは、広く天下の公議を張ることである。そのためには、民選議院を設立することであると。このことによって、官僚の独裁をやめさせることができるというのである。


 竹下彌平は、「維新之基礎タル聖誓之大旨」として、この時代的状況のなかで明治元年五箇条の御誓文を大切にすべきであるとしている。それは、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベス」「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ」「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」ということである。


 広く会議を興して万機公論に決すべきということは、国民とともに議論して、国民のために政治を行って、国民みんなが位に関係なく一致して、国家を治めていくことをめざしていくことである。

 このためには、国会を開設して、憲法を制定し、その下で国政をしていくということである。さらに、旧来の悪い習慣を破り、天地の公道に基づき、知識を世界に求めることを指摘している。
 竹下彌平の憲法草案は、この時代のもとで、民会の役割の重要性を次のようにのべる。
「既ニシテ、民会之議起ル。其得失、利害、尚早、既可(きか)詳(つまびら)カニ諸賢之説アリ。又贅(ぜい)スルヲ須(ま)タズ。吾謂(い)フ聖誓ヲ将ニ湮晦(いんかい)セントスルノ日ニ、維持挽回スルモノ民会ヲ舎(おい)テ又、他ニ求ムベカラズ。真理ヲ将ニ否塞(ひそく)セントスルノ際ニ,開闡暢進(かいせんちょうしん)スルモノ亦民会ヲ舎(おい)テ他ニ求ムベカラズ」。
 民会の議論は、利害がぶつかりあい、時期が成熟していないという意見があるが、五箇条の御聖誓をうずもれさせないために、国政失調を挽回するには、民会に求める他にない。自主自立、自由の理の真理を切り開き、国を発展せるためには、早期に民会を開くことしかないとしている。


 明治8年6月の大阪での第1回地方官会議に地方民会の議論になるが、鹿児島県令の大山は、時期が早いとして不要論を主張していた。「人情未タ安寧ナラス、生産未タ繁殖セス、風俗未タ醇厚ナラス、盗賊末タ衰止セス、而ルオ況ヤ各地ニ於テヲヤ。故ニ民会ヲ開キ広議興論ヲ采リ、以テ政に施サント欲ス、其意美ナラサルニ非ス、然レトモ方今民会ヲ開ニ於テ、其妨害極テ多シ」。「民会ヲ開クニハ、他日人民開化進歩ノ時ヲ待チ、朝廷地方ノ官員協心同力、今日着実ノ政事ニ勉力シ、徒ニ文具ヲ事とセサルベシ」。 (都丸泰助「現代地方自治の原型―明治地方自治制度の研究」大月書店、148頁~149頁参照)。 
 政府内には、民会について時期が早いという考えであったが、その見方が大山県令にも反映していたのである。竹下彌平の地元鹿児島県令ですら、地方民会も時期が早いという論であった。鹿児島県令は、民会を開くことの将来的な意味は認めているが、今はその時期ではない、国民の開明の進展までまつべきだとしている。

 この地方官会議では、民選ではなく、官選で決定される。しかし、竹下彌平は、県治と民会の役割を今こそ重視している。このことは、注目することである。戊辰戦争によって幕府を倒し、逆乱旧習の狭い考えを一変する方向性は、改められた県治によるところが大きく、緊急に民会を開くことを重視しているのが竹下彌平の見方である。

 

3.国会の役割と立憲主義

 

 竹下彌平は、最も切望するところとして、国会を開設するために、憲法骨格草案の八条を提起する。この憲法草案は国会を開設するための基本的見方である。
 第一条は、為政者・君子の豹変を防止するために憲法の制定の重要性を指摘する。「己巳平定以来、此ニ七年、蓋シ国歩又一歩ヲ進メ、君子豹変スベキハ此之時ヲ然リトス。故ニ吾帝国、宜シク益其廟謨(びようびぼ)ヲ宏遠(こうえん)ニ運ラシテ、我帝国ノ福祉ヲ暢達スベキ憲法典則ヲ鈐呈(けんてい)スベシ」。
 国の福祉を発展させるためには、憲法制定をすべきであるとする。ここでは、君主による統治の欽定憲法ではない。そして、第2条では、即、聖誓の拡充を実現するための憲法制定であり、国権の最高機関としての国会の役割を重視しているのである。

 ここでは、国民のための立憲主義による国のかたちを明らかにした。その国会は、今の左院と右院を改めて、新たにつくれとしている。当面の緊急時なる議員構成については、第3条と4条に示している。
 「第二条 右憲法ヲ定メルハ、即聖誓ヲ拡充スル所以ナレバ、立法権ヲ議院(現今之左右院ヲ改メ、新ニ立ル処ノ左右両院之議院ヲ云)ニ悉皆委任スベシ」。
 第三条では左院の議員構成である。左院の定員は百名で、三分の一は、現今各省の奏任官四等以下七等に至り、判任官八等より10等までのうち、主務に練達諳塾して、才識あるものから人選を提起している。ここでは、上級の官吏を外しての各省ごとからの若干名の選出の提案である。
 三分の一は、著名に功労ある人望家、旧参議諸公のごとき在野の俊傑及び博識卓見なるものから選挙するとしている。その例として、福沢、福地、箕作、中村等と新聞家成島、栗本をあげている。最初は、太政官より命令して選び、議会がたった後は、別に選挙方法を立てて選ぶとしている。例としてあげられた知識人の4名は、竹下彌平と同じように国会即時開設論ではない。むしろ、当時の代表的な在野の文化人として竹下彌平はあげている。
 三分の一は、府県知事、令参事に命じて、その管下、秀俊老練、民事を通暁し、地方の利弊を考えながら選べとしている。最初は太政官より地方官に示諭して、乱選なきを注意し、適宜に選ぶことも妨げないとしている。議会がたった後は別に詳細に選挙法を設けるとしている。
 板垣退助等は、民選議院の設立の建白書を提出したが、左院は、広く会議を起すという意味で重要な役割をもっていた。この左院の構成について、竹下彌平は、広く国民の代表者による会議として、上級の官吏を除く、直接に一般の民に近い行政の仕事をしている人から憲法制定のための国会議員を選ぶという方法をとっている。

 これは、上層部のリーダーだけによって憲法制定の意志にならないように、民の身近な官吏からの代表を大切したのである。また、在野の博識卓見ある文化人から議員を選ぶということも国民教育が普及していない明治8年の情勢からの緊急提案である。
 さらに、左院の議員構成に地方の代表を位置づけていることは、国家レベルの憲法を中央集権的に決めていかないという見識である。
 第四条は、右院の議員の規定で、定員は左院と同じ百名である。その構成は、行政官勅任官以上ということで、高級官吏からの代表と皇族華族中より選挙するとしている。

 ここで、注目することは、司法官と武官は議員を禁ずるとしている。左院の選出方法を含めて、司法官と武官は、両院の議員になることができないしくみの構想になっている。
 ところで両院の権限として、三つをあげている。まず、第1は、行政の最高の権限をもっている太政大臣と左右両大臣は国会で選ぶことをのべる。
「第五条 太政大臣及左右大臣は左右両院の選挙をもって定める」。

 当時の藩閥政治では、広く会議を起こして行政の最高責任者を選ぶしくみがなかった。形式上は、天皇の勅命によって太政大臣、左右大臣が決められていた。実質的に政府の権限は、それを支える参議や高級官僚が握っていた。行政の最高権限者を国会によって、選ぶという仕組みにかえていこうとするが竹下憲法草案のねらいである。
 天皇の特権は左右両院の開閉にあるということで、行政の最高の責任権限者ではない。明治維新によって、新政府の統合的なシンボルになっている天皇を位置づけていることである。広く会議を興し万機公論に決すという聖誓の理念の重要な場の設定としての天皇である。「第六条 左右院を開閉するは天皇の特権にあり」。
 国会の第二の役割は、国の統治で根幹になる歳入・歳出を定める特権である。「第七条 帝国の歳入出を定める特権は左右両院にあり」。


 さらに、立憲主義ということから憲法の制定や改正は、極めて重要なことである。この特権は、いかなる行政官、司法官、武官は犯してはならない。それは、立国の本旨であると第八条でのべる。「凡帝国の憲法典則ヲ鈐定スル、若シクハ更正増減スルハ一切左右両院之特権ニ在ルヲ以テ、仮令行政官、司法官及武官、如何様之威権、如何様之時宜アルトモ、決シテ立法上ノ権ヲ毫モ干犯スルヲ得ザラシムハ、立国之本旨最重スル所トス」
 これは、有司専制というように官僚的独裁によって憲法を犯してはならないことであり、また、武力によって、国の基本施策や憲法を動かしてはならないという立国の本旨からである。そして、司法と国会を分離する意味から司法官の国会議員を禁止している。以上のように、竹下彌平は、国権の最高の権限を国会におくことを憲法草案にうたっている。

 竹下彌平は、民間人としての憲法草案を提唱したのであるが、「左右議員ヲ速ニ立セラレント、今日、政府ノ急務」として、現在の国の情勢からみて、議会を開く緊急性を強調しているのである。

 

4.日本の未来の危機意識と自主自立精神の重要性

 

 竹下彌平の我が国に対する危機意識は、インドのように植民地になってしまうという懸念である。つまり、早く挽回しなければ日本の未来は大変なことになるということである。それは、欧米の列強諸国の外圧による植民地の危惧である。「我ガ帝国之民、淳朴(じゅんぼく)忠愛、・・・奴隷之習気脳髄ニ印シテ、精神恍惚、亦覚醒ナキガ如キニ至ル。彼之印度ノ奴ト偽リシモ亦、職トシテ、是之由ル。今ニシテ早ク是ヲ挽回セザルバ、印度之覆轍ヲ踏ザルモノ幾希ナリ」。
 国会を開設し、憲法を設定することは、自由を大切にして、学校を盛んにして、兵力を増強し、近代技術、近代施設を整備していくことになる。「外国人ト婚娶(こんじゅ)ヲ許スガ如キ、出版ヲ自由ニスルガ如キ、学校ヲ盛ニスルガ如キ、兵力ヲ張ルガ如キ、拷掠(ごうりゃく)ノ苛酷ヲ除キ、審判之傍聴ヲ縦(ほしいまま)ニスルガ如キ汽車山川を縮メ、電線宇宙ヲ縛(ばく)スルガ如キ、皆、開花之衆肢體ニ非ザルハナシ。然レドモ、徒(いたずら)ニ其肢體ヲ獲テ、而(しかして)未ダ其精神ヲ具(ぐ)セズンバ、偶人塑像ニ均シキノミ」。


 外国人と結婚を許す自由のごとき、出版の自由、学校を盛んにすること、汽車を走らせ、電線をひくことである。そのためには、自主自立の理の精神を備えていくことである。その結果によって、真に開化することができるとしている。近代化しても、自主自立の精神をもたねば、粘土でつくった人形像のようなものであると訴えている。


 国民的に自主自立の精神を旺盛にしていくには、国会を開き、憲法を制定して、出版の自由、学校を盛んにして、大いに議論していくことであると。このことによって、奴隷の気質、精神恍惚を一掃して、立憲主義の国家をつくっていくことになると竹下は考える。


 自由の理ということで、竹下彌平は、最初に、外国人と結婚を許すということをあげている。この時期は、国際結婚は極めて例外的であったが、明治初期に鹿児島医学校でイギリスの地域医療による多くの医師を養成したウイリアム・ウイリスは、地域の日本人女性と結婚し、子どもをもうけ、日本での永住を決意していたが、西南戦争によって、それは、挫折している。
 欧米の民の気質についても「忠厚温良」が不足しているという興味ある問題提起をしている。「欧米之民、沈毅果断、忠厚温良不足。其之弊ヤ、君主ヲ威逼(いひつ)シ、政府ヲ倒制スルモノ往々之有リ」ということで国の恥さらしになり、為政者をおどしおびやかして、国を倒すこともたびたびあり、建設的にならないことを指摘している。
 出版の自由については、海老原穆の活動は、注目するところである。明治4年西郷隆盛と共に上京し、明治6年に、明治六年の政変で下野したことに呼応して軍職を辞し、明治8年2月に、集思社を創設し、「評論新聞」を創刊した。その新聞では、太政官政府に対する痛烈な批判を展開した。海老原穆は、新聞条例によって、讒謗律に違反するとして逮捕投獄される。
 集思社は、新聞条例によって発刊停止になった後も、中外評論を発行する。また、発禁になり、さらに、文明雑誌を発行して粘り強く言論活動を展開していく。集思社と同時期に栗原亮一社長の自主社系の草莽雑誌も反政府、西郷支持の論陣を張ったのである。評論新聞と同様に発行禁止の弾圧を受けるが、草莽事情として発行を続ける。両社とも西南戦争のさなかで消えていったのである。
 評論新聞には、西南戦争に熊本隊として、ルソーを教本にしていた植木学校の教師であった宮崎八郎も記者として勤務していた。このように、明治の初期には、在野の人々が自由の理を求めての出版活動がはじまっていたのである。

 

 まとめ.自由の国づくり

 

 竹下彌平の憲法草案は、左右両院を開いて、自主自立の精神によって自由の理の国づくりをしていこうとする。国会の開設、憲法の制定によって、日本の毅然とした自立の志気がつくられていくとする。幕府を倒し、新しい世の中を宣言した五箇条の御誓文をふさいでしまった現政府に、国会の開設によっての自主自立の道を拓いていくことを強く訴えたのである。
 竹下彌平の憲法草案の最大のねらいは、毅然として自主自立、自由の理の志気をもって、 両院を開くためである。その両院の初期目的が、憲法制定である。左院は、三つの層から代表を選挙していくということも竹下彌平の独創的な見方である。官僚組織の中下級層からの選出、知識あるもの、功労人望ある著名人からの選出、地方からの選出となっているが、これは、憲法制定議会の構成に社会的な三つの機能層から選出しようとするものである。
 竹下彌平の描く、自主自立と自由の理の拡充暢達とは、具体的にどのようなことを考えていたのか興味ある問題である。印度の覆轍を踏まずということで、日本の植民地に対して、強い危惧の念をもっていたことは確かであり、自由の理を大切にして、学校を盛んにすることを強く抱いていたのである。また、自由の制度をつくっても、また、汽車や電線を整備しても、自主自立、自由の理の精神が育っていかねば全く意味をもたないことを強調していた。
 出原政雄は、「鹿児島県における自由民権思想」についてまとめているが、鹿児島新聞(現在の南日本新聞の前進)の初代主筆を努めた元吉秀三郎は、鹿児島での民権運動の重要な一翼を担っていたとしている。また、西南戦争によって、竹下彌平などの流れは中断したが、その後、明治13年3月に鹿児島市内で自由民権運動の「同志社」がつくられ、「国会開設の建言」を元老院に提出している。
 さらに、同じ年の12月に3500名が、国会開設建言書を元老院に提出している。明治14年11月に旧私学校関係者によって三州社が完全なる立憲政体を目的として結成される。このような状況のなかで、鹿児島県内の多くの民権論を唱える人々が結集され、それらに支えられて、民権運動擁護のための言論として鹿児島新聞が明治15年10月に創設されたと出原政雄は分析している。(出原政雄「鹿児島県における自由民権思想「鹿児島新聞」と元吉秀三郎」志學館法学第4号75頁~100頁参照)。
 鹿児島県での自由民権の思想の発展は、西南戦争以降において、鹿児島新聞を支えた多くの民権論者によって推進されていく。明治23年の第1回の国会選挙では、全員が民党系で占められる。その後の弾圧と懐柔によって、吏党系が多数を占めるようになっていく。(芳 即正・松永明敏「権力に抗った薩摩人」南方社、参照)
 明治8年霧島山系の裾の襲山郷在住の竹下彌平によって提唱された憲法草案は、明治維新の地域における民衆思想として特記されるものである。
 (ふりかなは、鹿児島社会運動史が史料の出典をだす際にふりがなをつけたものをそのまま引用した。久米雅章「明治初期の民権運動議会士族」川嵜兼孝・久米雅章・松永明敏『鹿児島近代社会運動史』南方新社54頁~63頁参照、家長三郎・松永昌三・江村栄一編「明治前期の憲法構想 福村出版、25頁~26頁、171頁~173頁参照 )

 

西洋の近代の永久平和論と戦争論


 西洋の近代の永久平和論と戦争論

       神田 嘉延

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 憲法九条の意義を、西洋近代の永久平和論や民主主義統治論、戦争論など人類史的な思想から深めてみることにした。

 晩年のカントは、自由と、平等、博愛の近代フランス大革命の後に、永遠平和のための著書を書いた。それぞれの国が敵対しなように、地球市民法の平和条約の必要性を強調したのであった。このカントの提起は、今もっても極めて重要な課題として、人類全体に突きつけている。

 カントは、統治者の自然的な欲望状態のままでは、戦争が絶えず起きるとする。その戦争の可能性をたちきるのは共和制であり、その体制によって、意識的に平和を考えることが必要であるとみる。そして、平和のためには、諸国連合をつくり、自由の基礎を置かねばならないとする。さらに、それぞれの国が友好のために目的意識的になることの必要性を指摘する。

 ルソーの考える戦争は、個人と個人の関係ではなく、国家と国家の関係であって、個人は人間としてではなく、また市民としてではなく、兵士としてたまたま敵対させられているにすぎない。平和を考えるには国家の問題が重要であるとするである。

 ルソーにとって、自然状態から社会状態の移行は、人間の行為において正義をもって本能に置き換えるとする。それに、人間の行動に欠けていた道徳性をあたえたりする。宣戦という特殊意志は、一般意志ではなく、共同の利益意志でもなく、私的利益の意志であるということが大きな問題であるというのである。

 ロックの統治論での戦争状態は、敵意と破壊の状態であるとみる。戦争は他人の生命を奪う激情的なものではなく、相手の権力を武力で破壊するという平静な行為であるとしている。

 19世紀の初期に戦争論を書いたクラウゼヴィッツは、文明をもった、国民の戦争を理性的行為に還元するのは誤った見方であると指摘する。戦争がいやしくも暴力行為である以上、当然そこには敵対感情も含まれてくる。戦争がどの程度敵対感情に帰着してくるかは、その国の文明度によって決まるのではなく、両国の敵対的関係の重要さ、及びその利害関係の継続期間によって決まるとみる。

 

 (1)カントの永久平和論の特徴

 

 カントは、世界の永遠平和論を1795年に出版した哲学者である。人間の尊厳のために自由、平等、博愛のフランス大革命後のフランスとドイツとの関係のバーゼル平和条約批判の書でもある。カント晩年の71歳のときである。「永遠平和のために」は、人類にとって重要な課題であるとしている。
 敵対関係をなくす普遍的な友好をもたらす地域上の共同の権利である地域市民法の成立の必要性を書いている。バーゼル平和条約という一時的な休戦協定で決して永遠平和に役立つものではないとみた。
 平和とは、一切の敵意が終わることである。平和を実現するための6つの条項をカントは示す。永遠平和は、近代の自由、平等、友愛という人間の尊厳にとって不可欠な要素であるとカントは考えたのである。

 その後の世界の歴史は、列強諸国による帝国主義という世界の領土分割へと進み、多くの発展途上国が植民地になっていき、そのための領土拡張の戦争が行われ、二度の世界大戦が起きるのである。
 第一次世界戦争後に世界は、国際連盟をつくり、63ケ国が署名したパリ不戦条約を結んだが、有効に機能せず、第二次世界戦争を引き起こした。不戦条約の第一条は、国際紛争解決のための戦争の否定と国家の政策の手段としての戦争の放棄を宣言であったが、多くの列強諸国の植民地維持の自衛権侵略戦争、不戦条約違反の制裁戦争などの問題が起きた。


 第二次世界戦争後は、国際連合が生まれた。その設立の趣旨は、「国際平和の実現が大きな目的である。そのために、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によつて確保し」することであった。


 しかし、朝鮮戦争ベトナム戦争中東戦争湾岸戦争アフガニスタン戦争、イラク戦争、外部勢力を含んでのリビア・シリアの内戦など絶え間なく戦争が起き、国連が大きく関与しているのも事実である。
 このような現代的状況のなかで、200年まえの自由、平等、友愛という理念ということと、国際平和という課題を近代のはじまりの人間尊厳ということから、あらためて問う意味は大きい。


 カントは200年前に、将来の戦争の種をまく平和条約は決して、平和条約ではないということからはじまっている。平和条約の名のもとに戦争がいままで準備されたことがいかに多いか。
 永遠平和の第1の条項は、「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、けっして平和条約とみなされてはならない」。「なぜなら、その場合には、それは実はたんある休戦であり、敵対行為の延期であって、平和ではないからである。平和とは一切の敵意が終わることで、永遠という形容詞を平和につけるのは、かえって疑念を起こさせる語の重複とも言える」。
 国家間で敵意関係をなくすことが重要な課題であるとするが、「国家の真の名誉は、どのような手段を用いるせよ、権力の普段の増大にあるとされるから、さきの判定がいかにも形式的で杓子定規に見えるのは当然であろう」とカントはのべる。国家権力の普段の増大を真正面から問題にしていかねばならないのである。とくに、隣接する国家の関係は領土の拡張問題が後を絶つことができないほど、歴史的に戦争の原因をつくりあげてきた。領土の権利の主張は、古くからの大きな問題であるのである。
 現代の敵対関係は、国家関係の敵対ということから、民族間、宗教的な対立、価値観的な対立というように国家を超えての敵対関係が国家間の対立に複雑に関与している。さらに、国家の存続それ自身も、この対立関係から滅亡して、あらたな国家が生まれていくということから、それが、国家間の秩序を超えての敵対関係が同一の宗教観、価値観を有するものに変わって、領土関係を超えての集団的なテロ行為が起きている時代である。
 第2の条項は、「国家は所有物ではない。国家それ自身以外のなにものにも支配されたり、処理されたりしてはならない人間社会である。それ自身が幹として自分自身の根をもっている国家を、継ぎ枝として他の国家に接合することは、道徳人格である国家の存在を破棄して、物件にしまうことで、民族についての根源的契約の理念に矛盾する」とカントはのべる。
 民族として国家を統治するのは、身体をそなえたほかの人格によって統治されるのであって、ひとりの統治者が国家を取得するのではない。まさに、国家は民族としての道徳的な人格をもった存在であり、所有物ではないということである。
 領土の権利ということはその大地を所有して、自由に国家の統治者がものとしてあつかっているように見えるのである。独立している国家は、継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということがあってはならない」という原理・原則が重要である。
 それぞれの国家に帰属している資源が国家の所有物の獲得合戦になっている。ここには、国際的な経済関係が深く関与して、国家の一部の継承、交換、買収、贈与が他の国家によって取得されている事態が起きている。
 第3の条項は「常備軍はときとともに全廃しなければならない」という原則である。「常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えていることによって、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである。常備軍が刺戟となって、たがいに無制限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和の方が短期の戦争よりもいっそう重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである」。ときとともに常備軍の全廃をカントは強調しているのである。
 「人を殺したり人に殺されたりするために雇われることは人間が単なる機会や道具として使用させることと、われわれ自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないであろう。」
「だが国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外からの攻撃に対して防備することは、これとはまった別の事柄である」。カントは、常備軍として雇われることの人間性の喪失の怖さを指摘しているのである。これと対照的に国民が自発的に祖国を外からの攻撃に対して防衛することとは区別している。
 第4の条項は「国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない」。国家の対外紛争にかんして、いかなる国も国債を発行してはならないことは、国家権力がたがいに競う道具を増大していくからである。戦争遂行の危険な国債は人間の本姓に生来そなわっているかにみえる権力者の戦争癖と結びつき、永遠平和の最大の障害となるものであるとカントは警告するのである。
 第5の条項は、「いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に暴力をもって干渉してはならない」。「一国家が他国の臣民たちに与える騒乱の種のたぐいがそれである」。「ひとつの国家が国内の不和によって二つの部分に分裂し、それぞれが個別に独立国家を称して、全体を支配しようとする場合は、事情は別かもしれない。その際、その一方に他国が援助を与えても、これはその国の体制への干渉とみなすことはできないであろう」「内部の争いがまだ決定していないのに、外部の力が干渉するのは、病気と格闘しているだけで、他国に依存しているわけではない一民族の権利を侵害するおので、この干渉自体がその国を傷つける醜行であるし、あらゆる国家の自律を危うくするものであろう」。
 この条項は、現代の国際紛争を考えていくうえで、極めて重要な条項である。大国による価値観の判断によって、ほかの国家の体制や統治に暴力をもって干渉が行われているからである。また、国家を超えて聖戦という暴力的な価値観によって、武装集団・機関ではなく一般民衆も含む無差別のテロ行為が起きているのも現実である。
 第6の条項は「いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。たとえば、暗殺者や毒殺者を雇ったり、降伏条約を破ったり、敵国内での裏切りをそそそのかしたりことが、それにあたる」。
 戦争状態であっても将来は、お互いの国が平和的な関係になることを願うことはいうまでもない。しかし、この将来の平和をつくりあげていくうえで、戦争状態でやってはいけないことをカントは提起しているのである。
 暗殺者や毒殺を雇ったり、降伏条約を破ったり、裏切りをしたりと、戦争状態のなかでも将来の平和の関係をつくりあげていくことが必要なのである。これを破れば、国家間、民族的な信頼関係が失われ、戦争状態が一層に永続して深刻になっていくのである。戦争状態でも平和を締結する志向がなければ殲滅戦になるというのである。
 「これの行為は、卑劣な戦略である。なぜなら、戦争のさなかでも敵の志操に対するなんらかの信頼がなお残っているはずで、そうでなければ、平和を締結することも不可能であろうし、敵対行為は殲滅戦にいたるであろう。ところで、戦争は、自然状態において、暴力によって自分の正義を主張するといった、悲しむべき手段にすぎない。またこの状態において両国のいずれも不正な敵と宣言させることはありえない」。

 「殲滅戦では、双方が同時に滅亡し、それとともにあらゆる正義も滅亡するから、永遠平和は人類の巨大な墓地の上にのみ築かれることになろう。それゆえ、このような戦争は、したがってまたそうした戦争に導く手段の使用は、絶対に禁止されなければならない」。*1
 殲滅戦ほど恐ろしい戦争はない。双方が徹底的に殺し合い、滅亡するまで闘うということになる。これは、人類の巨大な墓場になるというのである。

 現代においてもイラク戦争のように、核兵器等の大量破壊兵器があるということで、アメリカ軍をはじめ有志連合が侵攻したが、現実に、フセイン政権は、圧倒的な近代科学兵器のまえに壊滅し、逮捕され、殺されたのであるが、このカントの提起する戦争状態のなかでも将来の平和時のことを考えていく戦略が必要であるということをみることが大切である。現在のイラクでは、イスラム教のスンニ派シーア派クルド人、「IS」という過激派、アメリカ等の有志連合に対する憎しみの連鎖による戦闘が行われている。どのようにしたら双方の信頼を回復して、平和の関係を取り戻していくのかという難題があるのが現実である。

 

(2)カント永遠平和のための三つの確定条件

 

 カントは永遠平和のために三つの確定条項が必要であるとのべる。人間の平和状態は、自然状態でない。むしろ、自然状態は戦争であると考える。人間の自然状態は、たえず敵対行為が生じて、意識的に平和状態は創設しなければならないとカントはみる。第一は、「各国家における市民的体制は、共和的でなければならない」。

 この共和的という意味をカントは、社会の成員は人間として自由であること、すべての成員が共同の立法に従属していること、すべての成員が平等であるということの三つの体制が整備されているということである。


 この体制では戦争をすべきかどうかは国民の賛同が必要となり、国民は戦争のあらゆる苦難を自分自身に背負い込むことに覚悟しなければならない。共和的ではない場合は、戦争は全く慎重さを必要としない世間事である。
 さらに、カントは、共和的体制と民衆的な体制を混同しないために、国家の所有形式が一人による君主制であるか、数人の貴族制であるか、市民社会を形成する集合的な全員であるか。また、統治形態が憲法に基づく共和的であるか、絶対権力をもつ専制的であるか。国民にとって、国家形態よりも法の概念にかなって憲法による統治方式の方が比較にならないほど重要であるとカントはのべる。


 第二の確定条件として、「国際法は、自由な諸国家の連合の基礎におくべきである」。諸民族は自然状態において、隣り合っているだけですでに互いに害しあっている。未開人は、無原則な自由に執着して、法的な強制に従うよりも、絶えず争うことの方を好み、自制的な自由よりも愚かな自由を好む。どの国家も立法する上位の者と、服従する下位の者は矛盾を含んでいる。人間の本性にしなわる邪悪は、諸民族の自由な関係のうちにあからさまにあらわれるとカントは考える。


 多くの民族が一つの国家に吸収されると、ただひとつの民族しか民族しか形成しないことになると矛盾していく。諸民族相互の法を考察し、さまざまな国家を形成すべきで、一つの国家に融合すべきではない。ところが未開人は、無原則な自由に執着して、かれら自身によって制定されるべき法的な強制にしたがうよりも、たえず争いあうことを好み、理性的な自由よりも愚かな自由を好むのである。このことをひどく軽蔑し、粗野で野蛮、人間性の動物的な失墜とみるが、開化した諸民族は、未開国と同じように非難される状態から脱出しようと急ぐが、実はこれに反して、それぞれ国家は、国家の威厳を、まさにどのような外的な法的強制にもしたがっていないことに置いているとカントはのべる。


 国家の威厳という非理性的な法に強制されない外的なものにあるとしているのである。国際法による道徳的理性による係争手段の戦争を処罰し、平和の状態を義務とするが、それは、民族間の平和契約がなければ保障されない。これは、平和連合という特殊な連合がなければならない。永遠平和を好む強力に啓蒙された共和国が形成することができるならば、その共和国が他の諸国家に対して平和連合のかなめの役をすることができるとカントは考えるのである。
 国際法が戦争への権利を正当化する法を含むとすると、こうした国際法の概念は無意味なものになる。理性による限り、未開な自由を捨てて公的な強制に順応して、諸民族合一国家を形成して、国家が地上のあらゆる民族を包括するようにした永遠平和の方策はないのである。


 具体的な適用面では、一つの世界共和国という積極的な理念の代わりに戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する連合という消極的な代替物のみが、好戦的な傾向の流れを阻止できるのであるとカントは、世界共和国のための連合の拡大による戦争の防止の策をカントは考えるのである。世界共和国という理念の基に、国家間の連合を拡大して、戦争を阻止していくということである。
 ここでは、国家と国家の戦争はなくなっていくが、文化のことなる異民族間がひとつの国家の連合を形成することによって、内部の矛盾を内包しての連合ということになり、異文化、価値の多様性を国家の連合のなかで認め合っていくという法的な確定と、国家の連合での新たな国民教育が必要になっていくのである。国家の連合をつくっていく国民の個々が異文化を認め合い、価値の多様性をもって、寛容になっていく理性的な人間形成が不可欠なのである。
  第三の確定条項は「世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない」。*1
 外国人が他国の土地に踏み入れたときに、その国の人間から敵意をもって扱われることのない権利をもっていることである。外国人は客人の権利ではなく、訪問の権利である。この訪問の権利は、地球上に共同して所有する権利である。商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度に、訪問することは、征服することと同じことを意味することがあった。
 東インドでは、商業支店を設けるという口実に軍隊を導入に、原住民を圧迫し、広範な範囲におよぶ戦争を起こし、飢え、反乱、裏切り、そのほか人類を苦しめるあらゆる災厄の悪事をもちこんだとカントは指摘する。来航を許したが入国を許さなかった中国と、オランダ人だけを許可して、囚人のように取り扱い、自国民との交際から閉め出した日本と、二つのアジア国の来訪者を試すしくみは大切であったとカントはのべる。
 以上のように、カントは、平和のための確定条件として、1,各国の市民体制は共和的でなければならない。2,国際法は自由な諸国家の連合制に基礎をおく。3,世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならないと三との確定条件を目的意識的につくりあげていくことを提起するのである。
 
(3)ルソーの戦争と平和

 

 ルソーは、社会契約論において、戦争についてのべる。戦争は国家と国家の関係であり、個人の人間としてではなく、兵士として敵対し、武器をおいて降伏したならば個人としての人間にもどる。また、公正なる君主は、戦争によって奪うものは公共の所有であり、個人の人格と財産は奪わないとしている。
 つまり、ルソーの考える戦争は、個人と個人の関係ではなく、国家と国家の関係であって、個人は人間としてはなく、また市民とそいではなく、兵士としてたまたま敵対しているにすぎない。すなわち祖国の一員ではなく、祖国の防衛者として敵対しているにすぎない。
 宣戦は諸国に対する布告というより、諸国の臣民に対する布告である。君主に対して宣戦しないで、臣民から盗んだり、これを殺したり、あるいはこれを拘禁したりした外国人は、それが王であれ、個人であれ、人民であれ、それは敵ではなく、強盗である。交戦の最中でさえ、公正な君主は、敵国において、公共の所有するいっさいのものを奪うが、しかし個人の人格と財産を尊重する。彼は自分の権利の基礎となっている権利を尊重する。 戦争の目的は敵国の破壊にあるから、防衛者が武器を手にしているかぎり、これを殺す権利をもっている。しかしかれらが武器をおいて降伏したならば、ただちに敵もしくは敵の道具ではなくなり、ふたたびたんある個人にもどるのであり、だれもかれらの生命を奪う権利をもたない。*1
 ルソーは戦争の勝利で得た奴隷は不合理で戦争を継続するもので何の意味をもたないとしている。戦争でつくられた奴隷、もしくは征服された人民は強制のもとに主人に服従するだけで、主人に対してまったく何の義務を負わない点をあたしはあげたい。勝者は敗者に対して、力のほかに新たに権威を得たわけではなく、戦争状態は従来どおり両者のあいだに存続しており、両者の関係そのものが戦争状態の結果である。そして、戦争権の行使はいかなる平和条約をも予想しない。勝者と敗者が一つの合意に達したというなら、それはよい。しかし、この合意は戦争状態を打破するものではなく、その継続を予想している。ルソーは、奴隷権は正当ではなく、それは不合理で何の意味をもたないことを以上のように強調しているのである。*2
 ルソーは自然状態から社会状態への移行の重要性を指摘する。「自然状態から社会状態の移行は、人間の行為において正義をもって本能に置き換えたり、それまで人間の行動に欠けていた道徳性をあたえたりすることによって、人間における注意すべき変化をもたらす。義務の叫び声は肉体衝動に、権利は欲望に入れ替わることになり、それまでに自分しか考慮しなかった人間は、違った原則に基づいて行動し、自分の好みに従う前に理性的に図らなければならない。


 人間がこの状態において、自然から受けた多くの利益を失ったとしても、大きな利益を取りもどし、その能力は訓練されて発達し、その思想は広がりを加え、その感情は崇高になる。そして、魂は高められるので、もしこの状態から生ずる弊害のためにしばしば自分の脱出した自然状態より以下に落ちることがないとすれば、人間は自然状態から永久におのれを引き離し、無知な、想像力のない野獣を知性的な存在、人間たらしめるあの幸福な瞬間を、たえず祝福しなければならないであろう」。*1
 「社会状態において得たものには、精神的自由を加えることができよう。精神的自由のみが、人間を真に自己の主人たらしめる。これを加える理由は、単なる欲望の衝動は人間を奴隷状態に落とすものであり、自分の制定した法への服従が自由だからである」。*2
 ルソーは一般意志のみが公共の福祉という国家設立の目的に従って、国家の諸力を指導しうるということである。特殊利益の対立が社会建設に必要とすれば、その建設を可能にしたのは特殊利益の一致である。社会的紐帯を形成するのは、種々の利益のなかにある共通なものである。社会が統治されるのは共同利益に基づいてである。主権は一般意志の行使にほかならないから、集合的な存在である。特殊遺志はその性質上から不公平を、一般意志は平等を志向するとルソーは見るのである。
 また、主権は分割できなというのもルソーの主張である。政治学者は立法権と執行権に分割し、さらに課税権、司法権、宣戦権に分割し、国内行政権と外国との条約締結権に分割する。これらのあらゆる部分を混合してみたり、ときには分離してみたりするが、それは、主権の正確な概念がつくられていないことから生じるのである。
 宣戦と平和締結の行為は主権の行為とみなされてきたが、それは違うのである。これらの行為は法ではなく、単に法の適用にすぎず、法の適用例を決定する特殊な行為にしぎない。

 

 一般意志は常に正しく、常に公共的利益を志向する。人民は常に幸福を望むが、幸福とはなんであるかわかっていないことによって、しばしば欺かれる。一般意志の共同利益を大切にするとことから人民はけっして堕落することはない。決して全体意志と一般意志はしばしば差異がある。一般意志は共同利益に注意しないが、全体意志は私的利益を注意するので、特殊意志の総和にすぎないとルソーは述べる。つまり、宣戦という特殊意志は、公共的な共同利益ではなく、私的な利益という特殊意志による全体の意志である。
 ルソーは人民が事情をよく知って討議するならば、共同利益の一般意志になっていくが、党派の結合の意志は決してそうではなく、国家に対して特殊意志になっていくと問題を次のように提起している。人民が事情をよく知って討議し、多くの小差があってたところで、結果として常に一般意志を生じる。
 しかし、党派が部分結合の政治体という大連合を犠牲につくられると構成員は一般意志になるが、国家にたしては特殊意志となる。識見ある学者は、自分のたちの見解に詭弁を言い過ぎ、調停すべきさまざまな利害関係を害しはしないかと混乱する。
 著書を王にささげ人民からあらゆる権利を奪い、できるかぎり技巧をつくして、その権利を王に与えるあらゆる努力をおしまない。彼らにとって、真理を語ることは本当の道ではない。ルソーは以上のように、真理としての公共的な共同利益の一般意志を重要視するのである。*1
 そして、どういう行政形態をとろうと、すべて法によって、支配される国家をルソーは共和国と呼ぶ。共和国は、公共利益が優位を占め、公共のものごとが重要性をもつ。
 法は本来、社会的結合の条件にすぎない。法に従う人民が、法の制定者でなければならない。社会の条件を規定しうる者は、社会の結合する人々のみである。盲目の群衆は、何が自分たちに利益となるかをめったに知らないために、しばしば何を欲するかわからない。
 法は、一般意志の求める正しい道を人民に教え、特殊意志の誘惑から守る。また、法は、所と時を注視させ、遠い将来の隠された災いの危険をあげてくれる。法を有効に活用するには、目前の感じられる利益の誘惑と法の内容の正しい道を比較させることが必要である。
 公衆がかしこくなると、社会体のなかに悟性と意志の合一があらわれ、その結果、各部分の正確な協力が生じ、最後に、全体の最大の力が発揮される。これが立法者を必要とする理由である。以上のように共和国における盲目からの群衆から、かしこい公衆になるための立法者の意義をルソーは語る。*2


 ところで、ルソーは、度を超えた為政者の贅沢の危険性を指摘する。公共の仕事に私的利益が影響を及ぼすほど危険なことはない。奢侈は祖国を売ってもなお安逸にふけり、虚栄心を満たそうとする。奢侈は、国家からその市民をことごとく奪い去って、ある者を他の者の前に屈服させ、彼らを一人残らず偏見の奴隷とする。このようなわけでモンテスキューは徳政を共和国の原理とみなした。民主制の条件は、徳政なくして存続しえないからである。*3
 
 (4)ロックの統治論における戦争問題

 

 ロックは統治論で戦争の状態について、次のようにのべる。「戦争の状態は敵意と破壊の状態である。したがって、他人の生命を奪うための激情的な性急な意図ではなく、平静で固定した意図を言葉や行動を通じて宣言すれば、そういう意向の宣言を受けた当の相手と戦争の状態に入ることになり、こうして自分の生命を、自分からとらえ去るべき相手の権力に、あるいはその相手のを守ろうとして加担し、相手の言い方を支持する者の権力ににさらすことになる」。
 「他人を自分の絶対的な権力のもとに置こうと企てる者は、そうすることで、その相手と戦争状態に入ることになる。というのは、それは彼の生命を奪おうとという意図の宣言と理解されるべきからである」。「われわれは自然状態と戦争の状態との差異をはっきりさせることができる。両者を混同した人もいたが、両者ははなはだかけ離れたものであることは、ちょうど、平和や善意や相互援助や保全の状態が、敵意や悪意や暴力や相互破壊の状態と互いにかけ離れているのと同じである。人々が理性にしたがって一緒に生活し、しかも彼らの間を裁く権威を備えた共通の優越者を地上にもたない状態、これこそまさしく自然の状態である。これに対し、他人に暴力を使ったり、そういうもくろみを宣言する者があっても、救助を訴えるべき共通の優越者が事情にいない状態、それが戦争状態である」。*1


 戦争の状態は、敵意と破壊の状態であるとロックは統治論で指摘する。戦争は他人の生命を奪う激情的なものではなく、相手の権力を武力で破壊するという平静な行為であるとしている。戦争状態は社会の自然の状態ではなく、救助を訴えるべき共通の優越者が状況にない、相互の援助のない異常の状態であるとする。戦争によっての征服者が絶対的な権力をもつことをロックは次のように述べる。
 「戦争の状態に入ることによって、みずから生命の権利を放棄した人々の生命に対して、征服者は絶対的な権力をもつ。しかしながら、征服者は、だからといって、彼らの所有物に対する対する権利や資格まで与えられるわけではない。・・・・・どんな戦争においても、暴力と損害とは結びついているのが普通であり、侵略者が戦争をしかけた相手の身体に対して暴力を用いれば、その資産はたいていは傷つけられる。しかし、人を戦争の状態に入らせるのは暴力の使用である。なぜなら暴力によって侵害を始めるにせよ、あるいはまた人目を欺いて危害を加えておいてから、しかも賠償を拒否し、暴力によってそれを押し通そうとするにせよ、戦争はひき起こすのは不正な力の使用だからである」。*2


 戦争は暴力によって生命が脅かされる。そして、財産も破壊される。戦争そのものは、人を殺し、財産も奪い、文化も破壊し、平常時であれば社会的な不正行為そのものである。しかし、戦勝国は、賠償を拒否するのである。
 
(5) クラウゼヴィッツ戦争論

 

 19世紀の初期に戦争論を書いたクラウゼヴィッツは、文明国民の戦争を理性的行為に還元するのは誤った見方である次のように指摘している。
 「文明国民の戦争を政府間の単なる理性的行為に還元し、一切の敵対感情とは無縁のものと考えるほど間違った見方はない。・・・戦争がいやしくも暴力行為である以上、当然そこには敵対感情も含まれてくる。もちろん初めは敵対感情から始まった戦争でなくとも、終局的には多かれ、少なかれ敵対感情に帰着してくる。そして戦争がどの程度敵対感情に帰着してくるかは、その国の文明度によって決まるのではなく、両国の敵対的関係の重要さおよびその利害関係の継続期間によって決まるのである」と敵対感情の深まりは、文明国民であるか、ないかということではなく、利害関係の重要性と継続期間によって決まっていくとしている。


 さらに、戦争は暴力行為であり、その暴力の限度はないということを明確にみている。「戦争とは暴力行為のことであって、その暴力の行使に限度のあろうはずがない。一方が暴力を行使すれば他方も暴力をもって抵抗せざるを得ず、かくて両者の間に生ずる相互作用は概念上どうしても無制限なものにならざるを得ない」。*1
 戦争の目標は、敵を事実上に無抵抗状態においやる武装解除である。領土を占領しても敵が抵抗の意志を放棄しなければ戦争が続いていくのである。敵国民を降伏させない限り戦闘は終結しないということである。国土を制圧しても降伏しない意志ことであれば内発的に抵抗をもち、あるいは、外部の援助を受けて戦争になりうえることもある。戦争とは無制限になる可能性をもっているのである。


 戦争の基本的動機が政治目的があるとクラウゼヴィッツは考える。「戦争の政治目的が打算の重要な要素となる。敵に要求する犠牲が小さければ小さいほど、敵のわれわれに抵抗する力が小さくなる。・・・われわれの政治目的が小さなものあればあるほど、われわれがこれに置く比重も小さなものとなり、必要とあればこの政治目的を断念することもそれだけ容易なものとなる。したがってこのような理由からもわれわれの力を発揮する程度はますます小さなものとなってゆくものである」。*2
 「敵国大衆が曖昧な態度であり敵対のきもなく、かつ両国間の緊張の度が薄ければ薄いほど好都合であり、このような場合、時として政治目的がほとんど決定的に戦争の成り行きをとりきめる場合も生じる」。*3
 戦争とは政治の継続であるとするのがクラウゼヴィッツの見方である。戦争は政治的行動であるだけではなく、一つの政治的手段であり、政治的交渉の継続でもある。戦争のもつ手段は、政治的手段の特異性なのである。「戦争が政治的意図にたとええどれほど強く反作用を及ぼしたにして、その反作用は常に政治的意図に修正を加える以上のことができるはずもないのである。というのは政治的意図は目的であり、戦争はあくまでも手段だからである」。*4

 

えいきゅう クラウゼヴィッツは戦争ということを考えていくうえで、政治の役割が決定に重要であることを述べているのである。どんなに、軍事的なことが政治に影響を与えるとしても政治それ自身の目的、意図が重要であるいうのである。ここに、戦争における政治家の位置があるのである。
 戦争を起こすことも政治のひとつであり、政治のコントロールによっても戦争という手段に訴えない行為が平和を守っていくことになることを見落としてはならない。すでに、クラウゼヴィッツによって、19世紀のはじめに、近代の戦争の意味を政治の手段として見方があったのである。

世界連邦政府構想と共生文明―核兵器禁止条約発効にー

 

世界連邦政府構想と共生文明―核兵器禁止条約発効にー

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 核兵器禁止条約が2021年1月22日から発効された。この条約は、2017年7月7日に国際連合総会で採択されたものである。核兵器全廃に向けた包括的に禁止する条約である。対象は核兵器で、平和目的での核利用は禁止していない。核兵器、核爆発装置の所有、保有、管理していた締約国が申告を要する点が重要なこと。核兵器を国際条約という法的拘束力で禁止していくものである。

 条約を賛成する国が五〇ヶ国以上の批准によって、発効することになっていた。2021年1月の現在で五二ヶ国の批准である。

 唯一の被爆国である日本国政府は、この条約の国連総会の賛成署名もしていない。条約を批准する国民運動を政府として行っていません。

 しかし、核兵器全面禁止の日本国民の自主的運動は、世界の核兵器禁止条約の運動をリードしてきた。広島、長崎を先頭に日本における民衆の核兵器の恐ろしさの訴え、核兵器全面禁止の国民運動が実ったのである。

 

(1)人類を救う哲学としての世界連邦政府構想

  

 ノーベル賞を日本人としてはじめて受賞した湯川博士は、生前に原子爆弾の登場により、人類の行く末を案じて世界連邦政府を提唱し、その運動を積極的に展開した。

  世界連邦運動は、大量殺戮兵器の原子爆弾の惨害を体験した日本の役割がある。日本は、憲法9条によって、軍備と交戦権をもたない平和主義の理念をつくった。それは、科学・技術の発達と戦争による滅亡的な悲惨ということから、人類史的意義をもっているとする。科学・技術の進歩の思想に歯止めが絶対的に要請されている核時代であるからこそ、憲法9条の意義は大きいとする。

 人類は進歩によって、自滅の可能性がでてきた。核時代の政治家にとって、世界の平和ヴィジョンは、世界連邦への道であり、日本国憲法戦争放棄、戦力の不保持の誓いを世界に示しているというのである。武力による国際紛争の解決の時代錯誤が明白になっている。世界連邦構想は、新しい時代の良識を担う非核兵器地帯の拡大と非軍事的地域安全保障の前進がある。

 

 稲盛和夫梅原猛は、対談形式の著作「人類を救う哲学」のなかで、究極の世界平和のためには、世界連邦政府の樹立であるとしている。湯川博士たちの遺志を継ぐべきときであると。世界連邦政府のような組織は、人類の英知を結集して、核拡散問題、環境問題、資源問題を考えるときに重要な問題提起であるとしている。

 この世界連邦政府の構想についは、湯川秀樹とアインシタインの「戦争と科学の世紀を生きた科学者の平和思想」として、同じ物理学者の田中正が著書で詳細にまとめている。田中正は、二〇世紀を戦争と科学の世紀であったとする。

 そして、現代は核の時代だとする。それは、原子爆弾の強大な破壊力の出現にとどまらない。21世紀に入った今日、現代の科学・技術を足場に加速するグローバリゼーションによる不安定な競争社会が、貧富の分極をつくり、地球環境を生み出し、より深刻な新たな人類的危機をもたらしたとする。

 

 日本国憲法の平和主義は、人類的な理想である永遠平和の道を示し、世界連邦への実現の道を示している。しかし、日本国民自身が、その役割の重要性と誇りに十分に認識されてきていないのも現実である。

 そして、稲盛和夫を嘆くように、その声はだんだん小さくなり、大変残念なことである。「現状を受け入れるしかない。そのような構想は非現実的だ」という声が支配的になり、みんな真剣に理想を追求しようとしない、今こそ湯川博士たちの遺志を継ぐべきはないかと稲盛和夫はのべる。

 

 世界連邦政府構想に近づけていく努力が永久平和達成ではないか。さらに、世界連邦政府のひな型にEUはなりうるのではないかと稲盛和夫は述べる。

 これを拡大させていくにはどうしたらよいのか、世界の為政者は各国は、自国の利害からの対立ではなく、全人類・全民族共通の平和への地道な努力が求められている。国連など、平和のための世界連邦政府をめざして、知恵を働かすべきであるというのが稲盛和夫の提案である。

 

 稲盛和夫は、世界連邦政府の構想の実現に、当面、最初は韓国、中国、日本の三国だけでも平和のための連邦でまとまることが必要であると提案する。人類が争いながら発展してきたのは過去の話である。人類は自らを滅ぼしかねない強力な科学技術を手にした。このまま争い続けるならば、人類の未来はないと。

 

 21世紀は争いの文明に終止符をうち、お互いが助け合う共生の精神に基づく文明をつくりあげていかねばならないときである。

 過去の国家のエゴ、民族のエゴ、宗教のエゴなど、お互いの利害ばかり主張した時代からお互いの利害を超え、お互いが助け合い、慈しみ合いながら、平和で思いやりのある世界をつくる。そのなかで互いの文化を尊重しながら、地球規模の新しい文明を構築していく時代であると。稲盛和夫は共生の新しい文明の創造を力説する。

 

 (2)国益を守ることの傲慢性と利他主義による共生文明の構築

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 稲盛和夫は、国益を守ることが傲慢さを助長しているとする。地球に住むあらゆる生物は、太陽の恩恵で生きている。古代エジプト人は、太陽を神として崇めていた。現代人もこの自然の偉大な力に対し、敬虔な気持ちをもたなければならない。

 それは、人間の傲慢さにブレーキをかけることになると稲盛和夫は述べる。そして、国家という存在自体が傲慢さをもたらしていると。

 国家は、みな国益を守ろうとする。その国益とは国家のエゴで、当然、衝突が生まれ、最初はごくわずかな領土の帰属問題の小さな火種が、やがて大きくなり、核の拡散が進んでいる現在、核戦争の事態を誘発するかもしれない。

 自分の国の利益だけを主張していたのでは、人類は生き残れない。利他の心をもって、人類全体の益を考え、みんなが平和に、繁栄を持続できる隣人関係を国際社会につくりあげていかねばならないということを稲盛和夫は力説するのである。この稲盛和夫の主張は、国家の傲慢さは、国益からであるとして、国益ではなく、国家間でも利他をもって、世界連邦政府への実現の道をすすめていく理念である。

 国益、民族間の利益、経済的権益、宗教や文化の争い、政治体制、価値観の違いによって、現実の世界各国では紛争が絶えない。宗教や文化、イデオロギー、さらに経済的利害のぶつかりあいによって、民族、国家を超えて武力による争いが起きている。世界戦争の危機さえある。核抑止論、軍事同盟の強化による集団的自衛の軍事的抑止論など軍事力による世界のブロックも一方では進んでいる。この動きは、軍事的な弱小国が一層に凶暴な一般民衆を巻き込んだ無差別なテロ行為に走っていく状況を作り出している。

 

 2001年9月11日にアメリカで世界貿易センタービル国防省にハイジャック機による同時多発テロ事件が起きた。2001年10月7日にアメリカはアフガニスタン空爆を開始した。圧倒的な軍事力でタリバン政権は二ケ月で消滅した。2002年1月の一般教書演説で、イラク、イラン、北朝鮮を悪枢軸として、テロ国家ときめつけた。

 2003年3月17日、先制攻撃となる空爆を行った後、ブッシュ大統領はテレビ演説を行い、48時間以内フセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。2日後の3月19日、イギリスなどと共にイラク攻撃を開始した。イラク攻撃には、フランス、ドイツ、ロシア、中国などが強硬に反対を表明した。戦争理由として、生物・化学兵器等、大量破壊兵器保有しているということであった。事実は、大量破壊兵器は存在しなかったのである。 

 強大な軍事力でイラクの国家指導体制を崩壊させた。非人道的なクラスター爆弾、核燃料の製造過程できる劣化ウラン弾巡航ミサイルトマホークなどの精密兵器が大量に使われた。また、小型核爆弾に匹敵する燃料気化兵器の使用も疑われている。その地域では、テロ行為の発祥地になっていった。アメリカをはじめ、その同盟国は、テロとの戦いが国際的な地域の規模で起きているのである。

 また、イスラエルパレスチナなどの民族間と宗教問題の絡む戦争も果てしなく続く。クロアチアセルビア人の紛争、アアリカのルワンダ紛争によるフツ族によるツチ族の大量虐殺など民族間の憎しみあいの増幅による戦争も深刻である。スリランカ内のタミル人の問題、漢民族ウイグル族などの多民族間国家内の統治をめぐっての紛争。これらは、国益、民族益、地域益、宗教、資源の争奪からくる集団的憎しみを乗り越えての平和構築の課題探求があるのである。どのようにして、紛争や戦争を乗り越えて、新たな課題としての共存・共栄の共生の文明によるブロックごとの平和共同体づくりをしていくのかは重要な課題である。

 イラク戦争は、現代の国際平和を考えていくうえで重要な問題を提起している。独裁国家であるフセイン体制ということで、武力でアメリカを中心とする有志連合が崩壊させたのである。崩壊してアメリカをはじめとする有志連合国が占領するが、生物による大量破壊兵器はみつからず、その後、国内は宗教間、民族間の争いは激化し、アメリカを中心とする有志連合国に対する憎しみも深まったのである。

  以上のように、現実世界情勢は、戦争か平和かという問題は、極めて厳しいところにある。この厳しい情勢であるがゆえに、世界連邦政府の理想をかかげて、平和のために世界を共存と共栄ということからあらゆる価値を認め合い、多様な文化を尊重し、寛容の精神をもっていく共生文明が切実に求められているのである。

 この際に、稲盛和夫も強調するように、自国のエゴ、民族のエゴ、宗教的なエゴを棄てて、大きな人類的理想の平和文化を築いていく共生文明が求められているのである。この共生文明を築いていくうえで、日本のもっている人類史的な役割は、憲法9条の精神を守っていくことである。稲盛和夫は、現在の憲法9条だけではなく、前文も含めての平和主義という理想は極めて大切としている。国家間の信頼ベースとして、憲法9条の平和主義があるということである。

 稲盛和夫憲法9条の平和主義を貫いていくことは、ほんとうに勇気ある日本であるということである。いま、憲法の改正論議があるが、大変に心配していると今の世界情勢のなかで、勇気ある選択をしてほしいと稲盛和夫は述べているのである。

 ところで、世界連邦構想は、人類史的にも大きな課題である。近代社会がはじまる頃から多くの思想家や哲学者が提唱してきたことである。広島と長崎の核兵器の投下は、世界連邦構想が切実になったときである。

 

 世界連邦構想は、哲学者で法政大学の総長をした谷川徹三も提唱している。世界連邦は、200年前の近代の人間論を基礎に理性的認識を考えた近代哲学者のカントの永久平和論に世界連合構想が提起されていた。この意義を谷川徹三は現代的に解釈している。ヒューマニズムの普遍的な問題は、200年前と変わらないということである。

 しかし、広島に原爆が落とされ、世界各地に世界連邦政府運動の団体が出来て、1947年に世界連邦政府運動の第1回の大会が世界から20ヶ国の代表500名による大会がスイスのモントルーで開かれるという新しい時代になっているとしている。この大会の宣言は、国際連合の現在の構成されている状態では戦争を防止することができない。

 世界連邦主義者は、今重要なことが世界連邦を創設することであるとしているのである。それは、自由企業か統制経済か、資本主義か共産主義かではなくて、戦争からの永遠の解放は世界連邦の設立としている。モントルー宣言は、5つの原則として、1,全世界参加、2,国家主権の制限、ならびに世界問題の管理に必要な立法権、行政権、司法権連邦政府への委譲、3,個人に対し連邦政府の権限内において、直接に法を適用すること、すなわち人権の保障および連邦の安全に対する一切の侵犯の抑圧。 4,超国家的軍隊の創設と、連邦構成要素たる諸国家の警察力以上の武装解除。5,原子力その他大規模の破壊を生む可能性あるあらゆる科学的発見に関する一切の権利を連邦へ付与するとしている。

 

 以上の原則を踏まえて、具体的な方策として、1,世論の動員によって、政府ならびに議会に国際連合の権限および基礎を強大にさせること、さらに憲章の改正によってそれを世界連邦にまで変形させること。2,世界憲法制定会議を遅くとも1950年には開催することができるように諸般の準備をすること。以上のように、哲学者の谷川徹三は、モントルー原則とその具体的な方策の決議の大切さを要約しているのである。

 モントルー原則を具体的な方策にしていくうえで、国際連合の機能と国際的な専門機関を世界連邦政府へと近づけていくことを強調しているのである。そして、当面は、ヨーロッパ連邦等の地域レベルで現実的にしていくことが必要としている。

 広島と長崎の原爆投下によって、世界の平和問題は、全く新しい状況になっていることを世界の良識ある科学者と文化人は考えるようになっている。それは、人類的危機、地球の破滅という核戦争を絶対に阻止しなければならないということが差し迫っている平和の課題になっていることである。この課題のために核兵器の全面的全廃という課題があるのである。

 しかし、核抑止論ということが核軍備の競争に拍車をかけているのである。核戦争へのいっさいの可能性をなくすことは、核兵器の全廃である。ほとんどありえないと考えていた原子力発電の爆発事故が起きたのは、福島の原発事故であった。核戦争の問題も核抑止が暴走しないとも限らない。

 

 (3)東南アジア諸国連合の平和ブロック

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 世界のブロックごとに平和の砦をつくっていくことは、当面世界連邦政府への道筋の具体的な方法として重要である。このことで、東南アジア諸国連合の動きは注目することである。ASEAN憲章は、地域の平和、安定、地域の平和Nの2006年首脳会議の合い言葉は、「一つのビジョン、一つのアイデンティティー、一つの共同体」としていることである。

 マレーシアのクアラルンプールで、国防相会議を開き、その共同声明を出した。防衛・安全保障分野の対話と協力を通じての地域の平和と安定の促進する。国防政策、脅威の認識、安全保障への挑戦に関する相互の信頼と理解の促進する。2020年までASEAN安全保障共同体 (ASEAN Security Community: ) 創設への確認した。2003年の会合でASEAN各国首脳は,「第二ASEAN協和宣言」を採択し,2020年までに「政治・安全保障共同体)」,「経済共同体(AEC)」,「社会・文化共同体」から成る「ASEAN共同体」を設立することで合意したのである。 ASEAN安全保障共同体は2015年11月に発足したのである。
 2008年12月5日にASEAN憲章は発足している。その内容は六点にわたっている。
1,地域の平和、安全、安定を維持する。
2,核兵器大量破壊兵器の存在しない地域としての東南アジアを維持する。
3,安定、繁栄し、高度な競争力を有し、経済的に統合されたタン一市場と生
産地を創出する。
4,ASEAN域内での貧困を削減し、域内発展格差を縮小する。
5,民主主義を強化し、グットガバナンスと法の支配を強化し、人権と基本的
自由を促進する。
6,地域アーキテクチュアにおける域外パートナーとの関係協力において主
要な推進力であるASEANの役割を維持する。
 以上の内容をASEANの憲章として各国が合意して、ASEAN共同をつくったのである。この憲章内容は、域内の平和と安全、安定ばかりではなく、他の地域へのモデルにもなっていく人類史的な意義をもっている。
  ASEAN諸国が平和的に生存するために政治・安全保障協力のレベルを高める。地域間相違の解決は平和的手段のみを用いる。 幅広い側面を有する包括的安全保障の原則に意する。軍事同盟の形式ではない。国内問題について外部から干渉を受けない。 国連憲章国際法を遵守し、ASEANの原則を堅持する。 海事協力は本共同体の進化に資する。 東南アジア友好協力条約理事会は本共同体の重要な構成要素となる。ASEAN地域フォーラムは地域の安全保障対話の主要なフォーラム。 本共同体は外に開かれたものである。

 テロ対策等国境を越える犯罪に対する能力を強化するため、既存の制度を十分活用する。大量破壊兵器のない東南アジア地域を確保する。 国連その他の地域・国際組織との協力強化を目指すものである。
 稲盛和夫梅原猛が提起する東アジア連合構想のモデルにもなるものである。日本中国、韓国は、同じ漢字文化圏で大なり小なり儒教と仏教と道教の影響が国民の仲に残っており、道徳観も共通するところがあるということで、まずは三国が共同体をつくり、アジアイ共同体に広げていくべきと梅原猛は、稲盛和夫との対談集でのべている。

 稲盛和夫は、この提案を受けて、最初は三国だけでもまとまることは大切としている。三国がまとまればASEANの方にもひろがるでしょう。国際問題を根本的に解決するには、世界連邦国家みたいな発想が必要で、その先駆として、EUがあり、AU(アジア連合)みたいなものをつくる必要があると述べている。

 

(4)非同盟運動キューバハバナ宣言と平和の国連憲章

 

 2006年9月15日、16日のキューバハバナで第14回非同盟運諸国首脳会議が開催された。そこでは、非同盟運動の目的と原則が再び確認された。ここでも前回のクアラルンプール宣言と同じように国連の役割を次のように確認している。「非同盟運動が創立された理念、原則、目的にたいする、また、国連憲章に明記された原則と目的にたいする誓約を再確認した」。
 非同盟諸国の首脳会議は、非常に複雑な国際情勢で開かれた。多国間主義の強化、貧困、及び疎外の激化という世界経済の構造的不均衡と不平等を深刻化させているという認識であり、そのもとに安全と福祉はかってない試練に直面しているということである。このことに次のように宣言では強調する。
 「国家・政府首脳は、第14回非同盟運動首脳会議が非常に複雑な国際情勢を背景にしておこなわれているとの全面的な確信を表明した。 政治的レベルにおいては、国際的および国連憲章の諸原則適用の尊重ならびに多国間主義の強化にもとづいて、多極世界を構築するという目標を促進する必要性がある。
 経済レベルでは、グローバル化の進行のなかで、低開発、貧困、飢餓、および疎外化が激化し、国際経済秩序に影響をもたらす構造的不均衡と不平等を深刻化させている。 われわれの諸国の安全と福祉は、かつて経験したことのない試練に直面している」。
 このようななかで、ハバナ宣言は「 国家・政府首脳は、人々が尊厳と幸福のもとで生活する権利を強調しつつ、開発、平和、安全および人権のあいだの相互補完性を再確認した」。そして、国際政治情勢のなかで2つの対立するブロックが存在しなくなっても非同盟運動の必要性が低まったということは決してないとつぎのように表明する。
 「 国家・政府首脳は、非同盟の原則と目的が引き続き有効で通用するものであると改めて強調した。 2つの対立するブロックが存在しなくなったことで発展途上国の政治的調整のメカニズムとしての非同盟運動を強化する必要性がいささかも低まるものではない」と表明している。


 とくに、非同盟諸国は、大国の単独行動主義と干渉に強く警戒しているのである。非同盟運動は、国際的に格差や疎外問題が深刻化するなかで、非同盟運動の活性化を提起している。そして、現在の国際情勢のなかで、非同盟諸国が国際関係に影響力を行使するとりくみが必要であり、非同盟諸国の団結と連帯が必要としている。
 国際的な犯罪やテロなどの国際的脅威に立ち向かうことで、非同盟諸国は、主導的な役割をはたすべきと次のように合意している。
 「国家・政府首脳は、関連する国連文書にそった達成している。能な戦略の整備を通じて、多国籍組織犯罪、違法な麻薬の取引を含む世界の麻薬問題、人身売買、小火器、小型兵器の違法な取引、およびテロなどの世界的な脅威に立ち向かうなかで加盟国間の取り組みを調整するうえで、非同盟運動が活発な主導的役割を強化する必要性を強調した」。
 非同盟諸国は、具体的に運動の目的をもって行動をすべきとしている。それは、まず 第1は、国際的な様々な問題で、国連を重視である。国連の持っている役割のなかで非同盟運動の位置を明確にしている。そして、国連の果たすべき役割は、「多国間主義を促進、強化」「国際関係システムにおける共通利益を促進・擁護。そのための発展途上国の政治的調整」「全会一致によって合意された共有の価値観と優先課題にもとづいて発展途上国間の統一、連帯」「平和的手段によってすべての国際紛争を解決する」。「国際法とくに国連憲章に明記された諸原則にもとづいて、すべての国々のあいだの友好・協力関係を促進」と6つをあげている。


 国際平和と安全であることが明確に非同盟諸国の共同意志として合意されたのでる。非同盟運動は平和共存を理念にしてきたが、ハバナ会議での確認では、すべての体制の違いにかかわりなく、平和共存の再確認を次のようにあげる。
 「政治、社会、経済上の体制にかかわりなく、諸国間の平和的共存を促進する」「単独行動主義、および、国際関係において覇権主義的支配の反対」「国および諸国グループによる武力行使の威嚇、侵略行為、植民地化、外国の占領およびその他の平和の破壊に共同の対処、調整」と三つをあげている。


 ハバナ宣言では、武力行使単独主義覇権主義を強く非難し、国際平和のための共同行動や調整を重視しているのである。そして、それを担っていく国連憲章の確認とその実践の提起である。非同盟諸国にとって、国連の役割を重視しているが、そのためには、国連の民主化も重要な課題であるとつぎのように提起する。
 「国連の強化と民主化を促進し、国連総会に、国連憲章に規定された機能と権限に従ってそれにふさわしい役割を与える。そして、安全保障理事会が、国際の平和と安全を維持する主要な責任をもった機関として、国連憲章によって与えられた役割を透明性と公正さをもって遂行できるように、その包括的な改革を促進する」と積極的に国連の改革案を提起する。そこでは、すべての体制を容認しての平和共存の重要性と国連憲章を実施していくうえでの単独主義覇権主義ではなく、国連合意のもとでの安全保障理事会の役割を強調しているのである。


 現代の国際的な政治で、平和共存に最も障壁になっていることは、アメリカ等の単独行動主義による覇権主義である。国連の強化と国連の民主化が強く求められていることを非同盟運動ハバナ会議では共同の確認をしている。
 さらに、核兵器の廃絶と軍縮問題は、ハバナ会議の合意書では大きな提起である。そこでは、次のように指摘する。
 「普遍的かつ差別のない核軍縮、ならびに、厳格かつ効果的な国際管理のもとでの全面完全軍縮をひきつづき追求する。この文脈で、核兵器を廃絶し、核兵器の開発、製造、入手、実験、備蓄、移送、使用、および使用の威嚇を禁止し、核兵器の廃棄を規定するために、具体的な時間枠のなかでの核兵器全面廃絶を目的とする段階的プログラムの合意に達するという目標にむかって努力する」「一方的で不当な基準をもとにして、国々の善、あるいは悪であると分類することに反対し、それを非難する。また、核攻撃をふくむ先制攻撃ドクトリンの採用に反対し、それを非難する。それは、国際法、とりわけ核軍縮にかんする法的拘束力のある文書に矛盾する。さらに、非同盟諸国の主権、領土保全および独立にたいする一方的軍事行動、武力行使または武力行使の威嚇を非難し、それに反対する」。


 一方的な軍事行動、武力威嚇は、非同盟運動にとって大きな脅威になっており、国際法によって、緊急に核兵器を段階的に削減していくことが求められているのである。この非同盟諸国ハバナ会議の核兵器廃絶と軍縮の合意は、現在の国際平和を求める緊急の人類的な課題である。
 1999年に国連は、非核兵器地帯の創設に特別の関心をはらった。それが地球規模に拡がることによって、世界から核兵器をなくしていくことになるとしたのである。非同盟諸国ハバナ会議でもこの国連の特別総会の文書を次のように大切にしている。
 「第1回国連軍縮特別総会の最終文書の条項および1999年国連軍縮委員会によって採択された諸原則にしたがって、新しい非核兵器地帯をそれが存在していない地域に創設するために、関係地域の諸国間で、自由に達せられる合意を締結するよう勧奨する。非核兵器地帯の創設は、地球規模の核軍縮と核不拡散にむけた積極的一歩であり重要な措置である」「核エネルギーの平和利用における国際協力を促進する。また、発展途上国に要請された、平和利用のための核技術、核設備および核物質の入手を容易化する」
 非同盟運動核兵器全面廃絶を要求し、核攻撃をふくむ先制攻撃ドクトリンの採用に強く反対し、非難するとしている。さらに、非同盟諸国の主権、独立に対して、一方的軍事行動、武力の威嚇を非難している。


 非同盟運動の行動は、国連憲章国際法の原則の尊重である。ハバナ会議では、平和共存によるすべての国の主権尊重、領土保全を大切にすることを合意したのである。そして、非同盟諸国が自らその理念のもとに国内の体制を充実していくことが含まれている。
国連憲章ならびに国際法に規定された原則を尊重すること」「すべての国の主権、主権平等および領土保全を尊重すること」「あらゆる人種、宗教、文化の平等を承認し、また、大小を問わずすべての国の平等を承認すること」「宗教、その象徴および価値観を尊重し、および寛容と信教の自由の促進と強化にもとづく、諸国民、文明、文化、宗教間の対話を促進すること」「平和と開発を享受する人民の権利の効果的な具体化を含め、万人のためのすべての人権と基本的自由を尊重し促進すること」
 あらゆる人種、宗教、文化の価値を尊重し、対話を促進することが、すべての民族、国の人権と自由を尊重することであり、それは、国際平和の構築にも貢献することである。そして、民族の自決の権利と主権を尊重し、国家の内政への不干渉、体制転換の策動をしないこと、紛争に雇い兵をとらないこと、全面的侵略または間接直接の武力行使をしないことなど厳しい提起をしている。


 この要求に対して、日本の世論では、アメリカ等の先進国なしにはありえないことであるとみる。しかし、非同盟諸国首脳では、この問題について真剣に議論し、その危険性に対して警告し、アメリカ等の先進国との対話、国連の役割、国連の民主化を重視しているのである。

日本の伝統的な平和文化と有徳国家

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日本の伝統的な平和文化と有徳国家

  

 (1)近代以前民衆の暮らしのなかにあった文化

 

 憲法九条は、日本が世界に誇れる平和主義文化の証である。この平和主義の文化は、日本の歴史的な伝統文化とどのような関係にあるのであろうか。日本の国家は、戦前に軍国主義を経験した。日本の近代化は、朝鮮半島や台湾を植民地にし、さらに、中国をはじめアジア・太平洋に軍事的な力をもって、侵略を行った。

 これらの事実によって、戦後日本の平和主義憲法は、日本の伝統文化と無縁ということに思ってしまう。日本の文化の侵略性、軍国主義な側面を強調すると、それが民族的な運命論からとみてしまいがちである。このようななかから、戦後の憲法の平和主義が戦勝国から押しつけられたとみることになりがちである。

 近代以前の日本の神仏習合文化、神仏の同一体文化を価値の多様性と異質性を尊重し、話し合いをして、合意をつくりあげていくという文化を日本の伝統文化からみることができる。

 この文化は、縄文時代からの森の文化、弥生時代の稲作・畑作文化、古墳文化、古代律令制平安時代、鎌倉・室町時代徳川時代という、古代、中世、近世という日本の歴史を大きく2000年の歴史的なスパンから平和主義の文化を探ることが大切である。

 民衆の暮らしのなかにある習俗、慣習、村の掟、民衆の祟りや恐れの精神文化から探ることは、民衆の生きていくための平和主義文化である。それぞれの習俗、慣習、掟、祟りや恐れは、人間のもつ絶え間ない紛争、支配・権力欲望、己や自己の所属する集団のエゴを絶対するうえでの抑制力になった。

  日本の民族にとって、日本列島という、急傾斜と雨の多いところで、台風、水害、火山噴火、地震が頻繁に起きてきた。このなかで、エゴで生きることの厳しさがあったのである。これは、日本の民族的な平和文化のアイデンティティをつくっていくうえで重要なことである。

 ところで、稲盛和夫は、すばらしい伝統をもっている日本人の平和に対する善き思いの精神文化を発展させることだとしている。世界で率先してすばらしい社会をつくり、世界中から尊敬される国になってほしいという願いである。

 日本は、世界の他民族から尊敬されるためには、日本の地方の村にいた素封家のひとたちの姿があるとしている。素封家とは、公の職につかず、なんの権力をもたず、位はないが、その人の人間性や器量で、実質的なリーダーの役割をしていた村の文化人である。

 素封家は、田畑をすこしだけ多くもち、教養・学問があって、何よりも人間性が豊かである。村人は、困ったときに、その人に相談に行き、その人を中心に貧しく困っている村の人を物心両面に支援した。権力を誇示したり、威張ったりしない人たちであった。

 今後、世界のなかの日本は利他の心をもって、お金持ちとしてではなく、軍事大国ではなく、世界の素封家になれば、日本は、世界の人々から尊敬される国になることができると稲盛和夫はのべる。[1]

 また、日本の善き伝統は、共生と自然循環の社会であったと稲盛和夫はのべる。入会権のように森、キノコ、落ち葉もすべて村落共同体のもので村人が分かち合う文化があったのである。水の管理、水の配分には、村に共生のルールがあって、自分勝手を許さないことであった。また、堰や水路は、村人が共同で見張って管理していたのである。[2]

 稲盛和夫は、美しい心を持っていた江戸の日本人の見直しを強調する。それは、政官財を問わず各界の不祥事が起きる現代日本の問題状況のなかで、その克服の展望に江戸時代の日本人の心に大きな鏡があるという理由からである。

 明治以前の日本を訪れた外国の知識人はなんと美しい心を持った民族かと驚嘆していたと。資源を分かち合い、隣近所となかむづましく、礼儀作法と人間性をもっていた日本社会の姿があったとみる。稲盛和夫は、江戸時代にもっていた素晴らしい日本人の心の見直しを指摘するのである。

 

(2)日本の自然の恩恵を大切にする文化が平和を支えた

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 日本には、豊かな自然の恩恵を大切にしてきた文化があった。里山を日常に村人みんなで自然循環するように管理し、奥山は、聖なる山として材木として利用する以外は手をつけないで自然のままにしてきた。奥山の木を切るときは聖なる山の神に祈り、生活にどうしても必要であるときは、懇願して、山を大切にしながら木を切ったのである。

 山の恵みはすべて、循環するように掟を守ったのである。山芋をとるときも下の食べられる芋をとるが、根株は植えなおすことをしてきた。

 田んぼでの豊作を祈願するときは、山を大切にしたのである。田の神は、秋深くなると山にもどっていくという思いが村人にあり、山と田、山と農業の関係を大切にしてきたのである。

 漁業にとっても豊かな山の自然を大切にするということは同じである。漁民の大漁祈願には山を祈ったのである。今でも、漁民は、山に木を植え、山の自然循環を大切にする管理を山村民と協力しているのである。日本には自然循環と共生の文化が根強くあるのである。

 「しかし、近代以降、日本は軍事力を増大させ、周辺民族をも支配し、そこから経済発展を遂げてきた。現在も、植民地こそありませんが、やり方を変えて他国に干渉している。経済支援という美名のもと、やはり自国の権益の拡大をめざしている。いまこそ欲望を抑え、その対極にある「慈悲」「思いやり」「助け合い」「利他」という価値観に目覚め、「みんなで一緒に生き延びてこそという方向に、日本人がその思考を変えていくときではないでしょうか」と稲盛和夫はのべる。[3]

 江戸時代の美しい心を持った日本人の現代的な再評価は、慈悲、思いやり、助け合い、利他という価値観に日本人が目覚め、みんなで一緒に生きのびていこうという共生社会の構築を展望するのである。

 ところで、一方的に明治以降の近代化を稲盛和夫は否定しているわけでもない。物質的な豊かな文明を作ったことを評価している。その物質的な豊かな文明が一人歩きして、豊かであった日本人の心が置き去りにされて、不祥事などにみられる精神の荒廃が起きているのである。

 そして、物質文明も驕りがあるというのである。その驕りが持続可能な社会の危機の到来になっているというのである。まさに、物質文明の限界をきちんと認識していく時代になっている。

 稲盛和夫は、明治維新についても日本が植民地にならなかったことを積極的に評価している。日本の近代化を積極的な面と、江戸時代の分かち合い、小欲知足による自然循環等世界に誇れる精神の衰退、周辺民族の支配のマイナス面と二面性があったのである。

 「もし日本の明治維新が失敗していたら、我が国も植民地化され、他のアジア諸国と同じ状況に陥っていたかもしれません。そうすれば、現在のような繁栄した日本の姿は存在していないでしょう。明治政府以来の富国強兵政策や覇権主義が近隣諸国にたいへんな迷惑をかけたことは確かですが、国家としての日本の命運という点においては、近代化に向かったことはよかった。その点においては評価できるでしょう」。[4]

 平和についての日本の文化は、複合的で多様な価値観を包み込んでいることによって、寛容の精神を醸成してきた。単一の価値観、画一の文化ではないのである。海幸の民、山幸の民、交易の民、農耕の民、工芸の民と多様な文化が豊かな自然のなかで複合して蓄積してきたのである。日本という列島のなかで、複合的な文化と価値観をもった人々が共に暮らしてきたのである。

 北海道でとれるコンブが沖縄の食の伝統になくてはならない素材になっている。北海道の物産は、古くから関西の伝統料理の素材に不可欠であったのである。これは、交易の民としての日本人がいたから複合的な文化が形成されてきたのである。

 日本人は、交易の民によって広く開かれた交流をしてきた民族である。江戸の初期まで東南アジアまで広く交易をしていたことを決して忘れてはならないのである。

 その後幕府の貿易の独占によって特定に地域に交易の場が定められたが、広く世界との交流をも幕府独占であったが、行われていた。西洋や中国の窓口として長崎、朝鮮の窓口としての対馬、北方の窓口としての釧路があった。薩摩は沖縄ルートをとおして独自の交易のルートをもっていた。

 日本の江戸時代は、幕府独占の交易であった。西洋は、王権の支配が同一民族によって、地域に固定しているものではなく、王権自身の支配権が異民族に入れ替わっていった。新生ローマ帝国オスマン帝国など。

 また、近代過程で西洋諸国のように帝国主義的な領土を拡張して移民を行っていく歴史は日本にはなかった。民族間を超えての領土拡張の戦争は歴史的になかった。中国のように異民族を支配していく歴史もなかった。

 日本は漢民族以外にモンゴル、清・満州族が中国皇帝となっていく歴史もなかった。ここに異民族間が極端に敵対して憎しみ合う歴史もなかったのである。

 国内における武士の戦いであっても農地を荒らすことは基本的に行われなかった。戦国末期まで多くの武将は、農民も兼ねてきたのである。つまり、兵農分離は行われていなかった。職業的な武装集団の形成は極めて弱かったのである。

 日本の宗教観は、単一の価値観、単一の宗派をもっているのではなく、それぞれが融合して、寛容の精神をもっているのが特徴である。それは、神仏混合というなかに典型にみることができる。ここに、精神構造的に宗教的な価値観によって争う戦争は起きなかったのである。

 為政者は、この多様な価値観をもった宗教観を恐れたのである。一部には、民に深く根付いていた念仏を弾圧した薩摩藩のようなところと、幕府のもとに諸般が禁止したキリスト教もあったが、民衆は、隠れて信仰したのであるが、それらは、土地の信仰と深く結びついて継続したのである。

 

(2)神仏混合による日本の伝統文化と和の精神

 

 神仏習合の文化はすべての生き物を大切にする文化と共同体の安寧

 

 憲法九条の平和主義文化は、世界宗教である仏教の普遍主義と日本の地域社会で生きてきた自然主義的な共同体のもつ生活からの基層的信仰を習合した開かれた精神からきたものである。

 仏教のもつ普遍的な悟りの教典の抽象性と具体的な生活からの苦悩や恐れ、祈願という感情を信仰に高めながら、心を鎮めるように統合したものである。宗教のもつ絶対的な価値性を生活からの苦悩、恐れ、祈願という感情と統合して、紛争や人間のもつエゴ、欲望の増幅をコントロールしていく役割を果たしている。

 仏教や神道は、人間のみを救済の対象しか考えない信仰ではなく、すべての生き物、自然を包み込む救済の対象とする。日本では地震、台風、水害、急傾斜による自然災害の厳しさがあった。このなかでこそ自然循環、自然畏敬の文化を大切にしてきたのである。

 特別に自然の掟に付き合って、自然を観察し、自然と共に生き、自然循環を重視していく文化が醸成されてきたのである。そのゆえに、抽象的な悟りと具体的な生活感情をより深めたのである。

 さらに、神仏習合が、庶民の生活から乖離して、為政者によって権力支配を絶対化して、祈りと暴力が結びつくことがあった。儒教の導入から人の道、善悪、慈しみの心、正義などが、為政者に強く求められた。

 このことは、日本の伝統的な和の精神を作りだした。民の暮らしを大切にし、紛争を話し合いで解決していくという文化である。為政者にとって、神仏習合の精神、後の祟りが恐ろしいという文化、怨霊文化などは、権力支配欲の増幅に歯止めのの役割を果たしてきたのである。日本の伝統的な文化を破壊したのが廃仏毀釈である。

 廃仏毀釈は、日本の近代化のなかで、神仏習合文化から絶対主義的な国家神道をつくりあげたことである。国家神道は、決して日本の伝統的な文化ではなく、日本の国民全体を軍国主義的精神に統制していくためのものであった。

 天皇の民族的なアイデンティティという権威は、国家権力を結びつけたものであり、国家の軍事的統制の役割を果たしたものである。憲法九条の平和主義を日本の伝統的な文化から考える場合に、神仏習合の積極的な評価、廃仏毀釈の大いなる反省と日本文化の複合性、価値観の多様性、自然主義を見直しながら平和の構築をしていくことが必要である。

 歴史宗教学者義江彰夫は、著書「神仏習合」で日本の宗教構造の特徴について分析している。

 「8世紀から9世紀半ばに神宮寺生成過程を通して、日本各地に、多国に類例をみない神社(基層信仰)と寺院(普遍宗教)が正面から結合し、仏になろうとして神(菩薩)のための寺というかたちの神宮寺が生まれている」

 「神宮寺の出現は、普遍宗教としての仏教と基層信仰としての神祇信仰が、各々の独自の信仰と教理の体系を維持したままで、開かれた系で結ばれている」「神宮寺を起点として、次々に生まれてくる怨霊信仰、浄土信仰、本地垂跡説、中世日本記など、神仏習合の諸問題は、いずれも神宮寺にみられた神仏の関係を起訴として発展的に生まれてくる問題なのである」。[5]

 義江彰夫氏は、神宮寺の出現の重要性を日本の宗教構造を解明していくうえで、重要性であるとしている。神仏習合の出現の過程で、それぞれの独自の教理と信仰の体系を維持したままで正面から維持して、開かれた系をもって習合していくことを強調しているのである。

 地方の豪族が神々を背負って支配してきたのが、8世紀後半に全国いたるところでゆきづまりに直面し、仏教にその打開の道に求めた時代である。

 地方神の神宮寺化の動きは、新嘗祭等の皇祖神の霊力という律令国家支配体制を物的に支えるものである。地方社会の共同体祭祀を国家的規模で変容編成していくのを認めていくのが神仏習合であると義江彰夫氏は述べている。[6]

 さらに、神仏習合によっても基層信仰の強い呪術的な共同体信仰の神祇信仰は、社会底辺に生き続けたのである。神々の霊力に奉ることが共同体成員のすべての安泰と繁栄が約束されるということであった。王朝国家の時代はもちろん中世の時代まで基層信仰の呪術的信仰とケガレ、忌避観念の信仰は継続したと考える。

 また、キリスト教の世界では、仏教と決定的に異なるのは、最初から呪術と奇跡を認め、人間しか救済されないということで、罪も人間だけで、人間の生物、物への罪などは問われなかったとしている。キリスト教は、異教と基層信仰の神々の名を唱えることを禁じたのであると。

 日本の神仏習合の歴史はヨーロッパと決定的に異なる普遍宗教と基層信仰の結合のしかたをみることができる。日本では、仏教が神祇信仰を排除・抑圧することは一度もなかった。

 仏教が神祇信仰を吸収する際に神祇の名を唱えることを禁ずる必要がなかった。日本の仏教と神祇信仰はヨーロッパののように、閉ざされた系でキリスト教の吸収ではなく、開かれた系で結びあい、仏教と神祇信仰の共存の上に、競合と結合を築け上げてきたと、義江彰夫氏は強調しているのである。[7]

 義江彰夫氏が指摘する日本の伝統的な宗教構造の基層信仰と普遍宗教の共存性が、神仏習合というなかにみることができるという指摘は、日本の宗教文化の構造論から平和文化を考えるうえで注目することである。

 閉ざされた系で、異教徒と基層信仰を禁じてきたことは、ぶつかり合う宗教的教理や価値に対して、寛容性をもっていくうえで、一段と高いレベルの伝統的な宗教的な要素を超えての多様性の価値を認め合う平和の理性が求められているのである。

 

神仏習合での僧兵をどうみるか ー平和文化との関係でー

 

  神仏習合の文化のすべてが、暴力を否定しているということではない。それは、僧兵ということで、祈りと暴力の力が結合していた歴史を直視しなければならない。 古代・中世時代の神仏習合における修験道寺には、僧兵と言われる武装集団があった。僧兵が活躍した時代は、社会が乱れるなかである。

 もうひとつの中世社会の権力というように神社勢力は、貴族社会とは別個に荘園を領有していく。それは、摂関政治の貴族の領有に対抗し、広大な寺領・神領を有していく。

 巨大になった神社領有は、いろいろなな勢力から襲われる危険性をもっていた。寺社を防衛することから武力を保持する必要があった。自衛的手段として、武力を保持していたのである。

 中世時代になると神仏習合の神社は、宗教的な権威による地域アイデンティティという側面ばかりでなく、為政者的側面としての地域の権力者になっていく。地域の暮らしの基層的信仰と普遍的な宗教という神仏習合にみられた祭りの神祇信仰が大きく変化していったのである。所領を巨大化した神社勢力は、特権化して武器をもって戦争を引き起こし、人々に恐怖を与える者たちがあらわれるようになった。

 衣川仁氏は「僧兵=祈りと暴力の力」の著書のなかで、中世社会の仏教の実践者がな祈りの世界とかけ離れた暴力をもって権力体として存在していたことを指摘している。寺院が最大限の権力基盤を寺院荘園の経済的基盤によってそなえていた。延暦寺興福寺の寺院では何千もの規模をほこっていたとする。

 そこでは、僧でありながら、武器をもって暴力を行使したのである。中世で「大衆」とよばれる最大級の巨大化した寺院はなぜ歴史上に登場し、なぜ存続できたのか。比叡山にみられるように秩序を乱す僧の基盤は、巨大化した寺院の大衆であるとすると衣川仁氏は問題を提起する。

 寺院と民衆との間には、霊験と帰依という双方向からの依存関係が存在している。その幸福な関係が続かなければ寺には不信と待っていた。それゆえ寺院は、人へ霊感を定着させるために帰依の持続的獲得に奔走する。その手法は穏やかなものことだけではなく、恐怖をからめることを厭わない。領主権力との集団的な抵抗で、中世民衆の主体性は、逃散等を行った。

 常に厳しい現実のなかで、平穏な生活を願って、神仏に素朴な望みを託し、霊験が現れることを待った。同時に、それと引き替えに個々人が蒙るかもしれない恐れというリスクをのみこんで冥顕の力を受け入れたのである。幸福を求めることとセットとなって神仏の恐怖が確実に入り込んでいくと著衣川仁氏はのべるのである。[8]

 中世の大きな寺院は、僧兵をもって為政者に対して徒党を組んで強硬に訴えることを行った。まさに貴族は、強訴の暴力性に恐れた。朝廷は強訴に対して、迅速に対応した。寺院側の大衆を討ってはならず、阻止することを目的として武士の派遣を行った。戦闘の回避である。[9]

 日本の歴史にも典型的に為政者によって、平和を社会の基盤としてつくった平和な2つの時代があった。その時代は、平安時代と江戸時代である。この二との時代を考えることは、日本の平和文化を探るうえで大切なことである。

 この平和文化は、神仏習合、神仏儒の三位一体ということが大きく影響している。この文化は、為政者の権力ということから民衆の精神いあった怨霊祟りの社会的役割や権力から権威が分離した儀式的な意味をもっての象徴天皇の民族的なアイデンティティの意味が大きい。

 この社会的、政治的役割について、山折哲雄は、パクス・ヤポニカの文明として、世界史的な戦争と平和を考えていくえで、大きな示唆をあたえるとしている。なぜ平安時代の350年や江戸時代の250年に平和が実現可能であったのか。その平和の条件を可能にしたのが何であったのか。それは、国家と宗教の相性が良好であったと山折哲雄氏は考える。

 平安時代の平和は怨霊、物の怪という祟りのイデオロギーが政治と社会の不穏な動きに抑制効果をもったとしている。密教僧たちが加持祈祷によって、怨霊鎮魂の仕事を洗練させ、神仏の協同体制によって祟りの排除の軌道をした。

 彼らは、憎悪と暴力衝動の蓄積を早い段階で阻止した。政治と宗教の複合運動であり、その神輿が天皇であった。以上のように、平安時代の平和をつくりあげた宗教構造と国家政治の均衡的な絡み合いを評価する。

 江戸時代の平和は、平安の宗教と国家の均衡以上に家や地域社会を統合する信仰の発展によって社会秩序が安定したとする。氏神や祖先信仰の祀りに精力を費やすようになり、それが、タテ社会身分社会の心の安定をつくりあげた。そして、祖先崇拝の檀家制度によって、大名、武士、一般庶民に至るまでのヨコの関係を強固にしたのである。神道氏神信仰や仏教の死者儀礼が階層を超えて共通の死生観をもった国民宗教的基盤をつくった。[10]

 我が国における二との平和の時代、第一が平安時代桓武天皇の平安遷都(七九四年)から後白河天皇保元の乱(一一五六年)まで、ほぼ三百五十年。第二が江戸時代、家康による開幕(一六〇三年)から明治維新(一八六八年)までほぼ二百五十年。

 平安時代では、神道は崇り現象の発生源であったが、江戸時代になると地域社会を統合する信仰へと発展する。村々の鏡守の森を中心とするカミ信仰である。それはむろん地域の共同体レベルにとどまるものではなかった。

 皇室における伊勢信仰、徳川将軍家における日光東照宮の場合をみればわかるだろう。皇室や将軍家も、庶民の場合と同じように氏神や祖先の祀りに精力を費やしたのであるというのが山折哲雄氏の平和の時代を作り上げていた精神的な基盤であるとしている。

 二つの平和の時代は、源平の合戦から江戸開城いたるほぼ450年の戦乱の時代があった。国家と宗教の近郊が二つの時代の平和を、社会秩序を保つことができたのである。神仏共存のシステムが均衡を保ったのである。

 タテの階層化がつらぬかれていたが、しかし氏神や祖先神への信仰によって心の安定を得ようとした点では、どの階層も共通していた。階層による信仰の分化という現象は、それほど進行してはいない。それが全体としての社会秩序の形成に役立っていた。明治近代国家が一刀両断のごとく神仏分離をしたことが均衡を破壊した山折哲雄は指摘するのである。[11]

 この山折哲雄氏の二つの平和時代は、相対的にとらえるべきであり、この二つの平和の時代に争いがまったくなかったことではない。竹内誠氏は江戸時代の百姓一揆について次のように指摘している。

 「江戸時代においても幕藩領主と農民との矛盾の百姓一揆、町人を中心とする都市騒擾、村役人と一般の農民抗争の村方騒動というように全国各地に起きている。1653年の佐倉藩の圧政を幕府に訴えた佐倉惣五郎の事件などは歌舞伎にでてくるほど有名である。

 1590年から1867年まで百姓一揆は3211件、都市騒擾488件、村方騒動3189件があった。領主の支配強化に対して、農民が絶え間ない抵抗をおこなっているのである。1769年には一揆がおきたら、近くの藩が出兵して鎮圧することを幕府は政策をとる。

 そして、鎮圧のために鉄砲の使用を公然と許可するようになる。個別領主ではなく、連合して一揆鎮圧体制を整備していく。寛成年間(1789~1801)以後、大規模な一揆は減少していった。しかし、農民闘争が沈静化したことを意味せず、全国各地で村方騒動とよばれる村役人の不正追及や村政の民主化の日常闘争が大きなうねりになっていくのである」。[12]

 山折哲雄氏の精神的な統合による社会的な秩序のシステムばかりではなく、この二つの時期は、日本の独自の精神文化やものづくりが発展した時期でもあることを見逃してはならない。

 この時代は、 ひらがな・カタカナが生まれ、源氏物語、枕草紙、つれつれ草、今昔物語、万葉集などの文学。日本女性の感性が発達した時期でもある。

 江戸時代も井原西鶴近松松門左衛門の文学、松尾芭蕉俳諧中江藤樹貝原益軒石田梅岩荻生徂徠本居宣長、平賀源内、細井平洲、安藤昌益、三浦梅園、横井小楠など多くの思想家が生まれた。歌舞伎、浮世絵、人形浄瑠璃、茶道の流行による陶磁器の活況、建築物織物業や工芸品等各地の地場産業の隆盛、宮大工、鋳物師、鍛冶屋などの芸術文化の物づくりが発展した。

 さらに、商業活動の発展、参勤交代、伊勢参り等の旅による交通網が整備されていった。これらは、日本的な精神と経済的な基盤を後世の近代に伝えられる精神や社会経済の日本的な型の基盤がつくられたのである。

 中世時代の僧兵は、寺社勢力が領地をもち、大きな社会的な基盤をもっていたことから、社会的騒乱や盗賊などから防衛的な側面を強くもっていたのである。僧兵を武装解除することは、大きな社会的改革であった。また、武士という社会的階層を農業から分離して、官吏階級として統治の学問と道徳を身につけさせ、社会秩序を打ち立てることも大きな社会改革であった。

 戦国大名が最も恐れたのも仏教を信ずる農民達の力であった。織田信長石山本願寺比叡山の僧兵達に対して、徹底して戦いを挑み、制圧していくのであった。

 江戸時代は、檀家制度によって、信仰を藩主が管理するようになったのである。しかし、薩摩藩隠れ念仏のように藩から自立して農民や下級武士、商人たちが信仰を続けた例などもある。これは、隠れキリシタンも同じである。

 

 (3)仏教における「殺すなかれ」という平和の戒律

 

自然を大切にする文化と仏教の平和主義

  梅原猛稲盛和夫の「人類を救う哲学」のなかで、梅原猛は、仏教の戒律のなかでの「殺すなかれ」を仏教の平和主義にとって大切な思想であり、これは自然を守る思想にも繋がると問題提起している。

 「核戦争の危機がこれだけ叫ばれる時代においては、仏教の殺すなかれこそ、人類の道徳にすべきです。これは動物を含みますから、自然を守れともなり、環境保全にもたいへんよいと思います」。[13]

 梅原猛氏は、人類は業、つまり、欲望によって滅ぶということで、欲望の奴隷にならないことが人類救済にとって大切なことであり、天台仏教、真言密教での神仏習合修験道は、山が聖なる場所で草木国土悉皆成仏という思想をもっていたものが、明治になって神仏習合が排除され、欲望を増進するばかりの受験勉強を奨励するようになったとしている。

「仏教は初期の段階から人類は業によって滅びると説いています。業というのは人間の欲望に支配されていることです。欲望を抑制し、欲望から自由になることが仏教の悟りです。この思想には人間が釈迦の当時よりももっと欲望の奴隷となっている。・・・・日本では神様は山にいます。

 そして、そこには死者の国でもある。だから最澄の天台仏教にせよ、空海真言密教にせよ本拠地をみな山に築きました。天台仏教の本山の比叡山は、いまでも誰も入ったことのないような森林がある鬱蒼とした山です。真言密教の本山の高野山も、たいへんな天然林がります。そいいう森林深き山を本拠地にしたのです。

 そこは、神様の住む土地でもありますから、必然的に神道と融合せざるをえません。そんな神仏習合が行われ、そこから生まれたのが修験道です。明治初期の神仏分離廃仏毀釈で仏教は捨てられましたが、このとき仏教以上に捨てられたのが修験道です。つまり、神仏習合の宗教が捨てられ、山が聖なる場所でなくなったのです。 

 ここにたいへんな大きな問題があります」「人間の利益を追求し、欲望を増進するばかりの教育が行われるようになった。欲望を抑えよと教えることはあっても、それはより大きな欲望を満たすためとなる。怠けたい心を抑え、厳しい受験勉強に耐える。そうして見事合格すれば、いい職業に恵まれるというわけです。これだといい職業には恵まれても、道徳はまったく身につきません。その結果、いい職業に恵まれた人たちが、とんでもない罪悪を犯す。その一方、落ちこぼれた人たちは、裸の欲望によって、めちゃくちゃなことをしでかす」。[14]

 ところで、霧島山麓には、六所権現として人間の欲望のために正しく物事がみられないために、山にこもって六根清浄する修行が行われた。つれつれ草の69段に性空聖人のことが書かれている。声を出して法華教を読み続けることによって六根清浄にかなうる人になったとしている。

 性空は、幼稚の時より、生き物を殺さず、人々と交わらなかったとされていた。10歳の時に師に就いて、法華経8巻を読んだ。27歳の時に元服して、後年母にしたがって日向国に赴き、36歳にして遂に出家した。殺生をひどく嫌った性空聖人は、霧島の山で若いときに修行して名僧になったといわれる。

 霧島の山は古代から平和のシンボルとしての存在価値があった。霧島の山には平和を求めた庶民の心が体現されていたのである。その典型が日本の説話の源流になった高僧の性空聖人が悟りをひらいた山でもあったのである。法華経を霧島の山に立て籠もって書写をして、修行を重ねたのである。

 性空聖人は、平安中期の天台密教の高僧であった。(910年から1007年、今昔物語や徒然草にもよく登場してくる高僧)。一本の針をもって生まれ、幼い頃から生き物を殺さず、静かな所で暮らす。けがれのない、目、耳、鼻、舌、身、意の六根清浄の境地になった高僧である。極楽浄土の山として、霧島は古代から信仰されてきた。

 

戦後仏教者の平和運動の思想

  戦後宗教者平和運動の出発として、全日本宗教者介護の森下 徹は、新憲法と宗教者の関わりを次のように書いている。

 「日本宗教連盟とは、大日本戦時宗教報国会が1945年9月、日本宗教会に改組し、翌年に日本宗教連盟と改称した組織で、神・仏・基各宗教団体の連合体であった。

 日本宗教連盟は、1946年12月13日の理事会において、同連盟ならびに神道教派連合会・仏教連合会・日本キリスト教連合会神社本庁・宗教文化協会との共催で、全日本宗教平和会議を開催することを決定した。この全日本宗教者平和会議は、新憲法施行にあわせて開催されたものである。 

 戦争責任の告白・懺悔が、ようやく近年になって行われ始めたことからもわかるように、敗戦時に自らの戦争責任を問い、なぜ戦争に協力したのか、なぜ天皇制や国家に迎合してしまったのか、その原因を教団のあり方や教学の内容にまで踏み込んで反省した宗教教団はほとんどなかったといえよう。

 たとえば、浄土真宗の真諦=仏への帰依と俗諦=天皇、国家への帰依とを「両立」させ、事実上俗諦に帰依、妥協する道を教義として説いた「真俗二諦論」に代表されるような、信仰(仏・神の論理)を世俗(国家の論理)に従属させる二元論的な考え、もしくは信仰の世界に逃げ込んで世俗から超越しようとする姿勢に対する反省が求められていた。

 しかし、信仰の立場と天皇制、国家との関係をどのように考えるか、また、信仰による「心の平和」と戦争や平和を巡る現実の課題とをどのように関係づけるのか。真摯な内省と自己改革は不十分なままであった。戦争の福音を唱え、宗教報国に邁進していた宗教界は、その看板を「平和」「民主主義」に付け替え、平和国家を道義面から下支えする役割を果たそうとしたのである」。[15]

 日本仏教者の平和声明は、1951年に出されている。この平和声明は、朝鮮戦争の勃発で再び、世界大戦危機での平和への強い祈りからである。日本国憲法の平和主義と、仏教の本来の自由、平和、慈愛の精神を堅固に守っていこうとする意志が次のように指摘している。

「日本仏教者の平和声明(1951年2月20日)。私たち仏教者は新憲法の発布によって信教の自由を保証されたのである。そして、仏教本来の自由、平和、平等、慈悲の精神に基づいて、日本の再建と世界恒久平和の樹立とを固く誓った。

 ところが、終戦後わずか五年にして平和への期待は裏切られ、国際政局は米ソ二大国を中心に他の東西両国を交えて対立を激化させ、とくに朝鮮戦争からアジアの一角では世界戦争への危機を招くに至っておる。

 また、わが国内のありさまも、保守と急進の両陣営に分かれ、世界の危機につながっているように思われる。まして、次にくる戦争の様相は原子力戦であり、これこそ世界の終末を意味することになるであろう。

 私たち仏教者は今こそこの危機を打開するために仏陀の示された慈悲の精神とその人間生活の信条である戒律の真意を世界の人々に示さなければならない。その戒律のうち、「不殺生」とはどんな生物の命をも奪ってはならぬという戒めで、戦争、暴力を否定するものである。

 また、「不愉盗」は資源の独占と権力による占取を禁じ、貧富の偏在を許さないことを意味し、「不妄語」は各国の不和を助長するデマ宣伝によって他を陥れることの否定である。ここに私たちは仏弟子としての重い使命を自覚し、第三次世界戦争の前夜に立ち、その危機を防ぎ、世界の平和を護ろうとするものである。

 仏教者平和懇談会 戦後宗教者平和運動の出発 綱 領

一.われらは仏教の大慈悲精神による世界恒久平和の実現を期す。

二.われらは不殺生の生活信条にもとづき戦争と暴力の絶滅を期す。

  森下 徹(全日本宗教平和会議)「戦後宗教者平和運動の出発」、立命館大学人文科学研究所紀要(82号)」145頁~146頁より

 この仏教者の声明の精神は、戦後宗教者の平和運動の支えになってきたものである。とくに、現代の戦争は、核兵器の恐ろしさがあり、世界を終末に陥れる可能性をもっているのである。

 仏教の不殺生の戒律は、戦争、暴力を否定するものである。仏教の不愉盗という意味は、戦争や暴力の原因になっていく貧富の偏在を許ことである。現代のグルーバル化は、弱肉強食の市場経済である。そこでは、先進国の多国籍企業が勝ち組になり、資源を独占していく構造になっていく。

 また、情報化が著しく進む現代社会は、マスコミの役割が極めて大きな影響をもっていく。現代社会は、マスコミが国をかえていく力をもっている。まさに、マスコミは、大きな社会的な力になっている。マスコミの情報を発信していくモラルは大きくとわれる時代である。

 仏教でいう不妄語は、真実を伝えていくうえで大きな妨げになっている。平和という理念を大切にしたマスコミの良心が求められているのである。国家の不和、民族の不和、宗教的な違いによる不和を煽り、民族排外主義的に敵対勢力を作り上げて、憎悪を煽ることは、許すことができないことである。マスコミを握るものたちの平和主義のあり方は大きく問われるのである。

 日本国憲法9条の平和主義は、世界紛争のなかでどのように考えたらよいのか。日本国の平和憲法は、理想主義のみで、現実に機能しないものか。

 憲法9条や前文の精神を考えていくうえで、日本の伝統的な平和思想を直視しなければならない。日本は、伝統的に平和を尊ぶ民族であったのである。神仏混合思想にみられるように、多様性の文化をもちながら、海外の文化を上手にとりいれてきた民族性をもっていた。

 これは、海洋文化と同時に、森林と結合した稲作農耕文化をもって豊かな文化を築きあげてきたのである。多様性を認めてきた文化が異なる価値観を認め合い、信仰的に土着文化と結びついて、宗教的な寛容性をもってきたのである。いわゆる民族間での宗教戦争ということはなかったのである。

 

仏教の在家信者に対する戒律と平和主義

  仏教では在家信者に五つの戒律を出している。これは、六波羅蜜持戒の内容である。五戒とは、1,生き物を殺してはならない。不殺生戒(ふせっしょうかい)-2,他人のものを盗んでいけない。不偸盗戒(ふちゅうとうかい)。3,強姦不倫をしてはならない。不邪婬戒(ふじゃいんかい) 4,嘘をつかない。偽りを容認してはならない。不妄語戒(ふもうごかい)5,酒を飲まない。不飲酒戒(ふおんじゅかい)。 その最初の第一の戒律が「不殺生戒」の「いかなる生き物も、故意に殺傷しない。他人が殺害されるのを容認してはならない」ということである。

 ブッダの真理では、暴力の項目で殺すことに強く戒めている。「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。すべての(生きもの)にとって命は愛しい。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしてはならぬ」「生きとし生ける者は幸せを求めている。もう暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せを求めていても、死後には幸せが得られない」「16]

 「生きものを(みずから)殺してはならむ。また(他人をして)殺さしてはならぬ。また他人を殺害するのを容認してはならぬ。世の中の強剛な者でもでも、また怯えている者でもでも、すべての生きものに対する暴力を抑えて」。[17]

 現代に呼びかける智恵として、ブッダの仏典のことばから仏教学者の中村元氏は、戦争と平和のことで明確に述べている。「自分よりもさらに愛しいものを見出しえなかった。同様に、他の人びとにもそれぞれ自分は愛しい。それゆえに、自己を愛するものは他人を傷つけてはならぬ」というブッダのことばから、物理的生理的な意味で、あるいは社会的な意味で、他人を害すうことは最大の罪悪としている。国王に対して原始仏教は、戦争放棄をすすめている。戦争手段に訴えて領土を拡張しようとする欲望を棄てなければならぬ。また、王族は権勢欲を棄てなければならぬとしている。原始仏教は、世俗的な国家権力に向かって戦争をとどめるように働きかけと中村元氏は指摘している。[18]

 法然親鸞等の日本の仏教に大きな影響を与えた浄土三部教・無量寿教では五つの悪、五つの現世の悪報をあげ、その悪をなくすために五つの善を保持し、福徳の重要性を述べている。その悪の第一として、征服、紛争、殺し合いの暴力の罪を次のようにあげている。

 「強いものは弱い弱いものを征服し、互いに争い、傷つけ、殺し合い、相手を呑みこもうとする。善をなすことを知らず、悪逆無道であり、犯した後にわざわいや罪を受け、罪に随って自然に果報に導かれる」「世の中には恒久的なきまりとして、王の法律による牢獄もあるけでも(悪人たちはこれを)恐れず、慎ます、悪をなし、罪に陥って罰を受けるのだ」。

 この世では、強いものの侵略、殺し合いの悪逆無道がある。この罪によって、王の裁きによって牢獄に入れられつこともあるが、命を終わった後の世界が言いようもない苦しみを受けることを次のように強調している。

 「目の前の世間においてさえ、このような有様を見るのであるから、命を終わって後に行く世界においては、さらに深く、さらに烈しいのだ。かれらは暗黒の仲に陥り、転々として生を受け、肉身を受ける。その苦しみは、譬えて言えば王の法律によって極刑に処せられる苦痛のようである。

 かくしてかれらは、地獄界の火に焼かれる火の途、畜生界の相食む血の途、餓鬼界の刀に斬られる刀の途という三つの途において無量の苦しみを経験する。体も形も途も次々に変わり、あるときは長い命を受け、あるときは短い命を受ける。精神や感情や識別力も自然にそれに応じて移って行く。

 一人が生ずると、すぐに他の者がこれに伴って生じ、互いに報復し合って、止むことがない。わざわいがなくなるとということがないから離れることができず、その仲を転々として、そこから逃れる出る時がなく、解脱を得がたい。その苦しみは言いようがない」。[19]

 以上のように「無量寿教」では、いようのな苦しみのすさましい様子をえがいている。まさに、三つの途において暗黒の地獄世界において、耐えがたい無量の苦しみに呑みこまれていくことを述べている。殺し合いの暴力に対する厳しい戒めを仏教では在家に求めているのである。ここに原始仏教から大乗仏教と殺し合いをはじめ暴力を戒め、平和に対する姿勢が明確に示されているのである。

 

[1]稲盛和夫「君の思いは必ず実現する」財界研究所。221頁

[2] 梅原猛稲盛和夫「人類を救う哲学」PHP、101頁、

 

[3] 前掲書、088頁

[4] 前掲書、084頁

[5] 義江彰夫神仏習合岩波新書、26頁~27頁

[6] 前掲書、37頁~39頁参照

[7] 前掲書、208頁~213頁参照

[8] 衣川仁「僧兵=祈りと暴力の力」、講談社選書、146頁~148頁参照

[9] 前掲書、174頁

[10] 山折哲雄「日本文明とはなにか」角川文庫、65頁~66頁参照、150頁~152頁参照

[11]前掲書、146頁~154頁参照

[12] 竹内誠「江戸と大坂ー体系日本の歴史10」小学館、188頁~218頁参照

[13] 梅原猛稲盛和夫「人類を救う哲学」PHP、122頁

[14] 前掲書、124頁~126頁

 

[15] 森下 徹(全日本宗教平和会議)「戦後宗教者平和運動の出発」、立命館大学人文科学研究所紀要(82号)」、136~137頁

[16]中村元訳「ブッタの真理のことば・感興のことば」岩波書店、28頁

[17] 中村元「ブッタのことば・スッタニパーク」81頁、岩波書店

[18] 中村元「仏典のことばー現代によびかける智恵」、岩波書店ら117頁~121頁

[19] 中村元他訳注「浄土三部教上」、岩波文庫107頁~108頁

国際機関で平和のために尽力した新渡戸稲造と安達峰一郎

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国際機関で平和のために尽力した新渡戸稲造と安達峰一郎

 

 日本の戦前は軍国主義にむかっていくが、そのなかで体をはって国際平和のために活躍した新渡戸稲造(武士道を書いたことで有名)と国際司法裁判長になった安達峰一郎は特質すべき人物である。

 

 (1)新渡戸稲造と平和活動

  新渡戸稲造は、国際連盟の事務局次長とアメリカと日本の平和の橋渡しをした人物である。新渡戸稲造は武士道を英文で書いた人で国際的に日本人の精神を紹介した学者である。新渡戸稲造の武士道論は戦前の軍国主義を鼓舞したものと異なる。新渡戸稲造とはどんな人であったのか。彼は、世界平和のために尽力した人である。

 新渡戸稲造は英語が得意であった。札幌農学校のクラーク博士に教えられた4人組の一人である。岩崎、内村、宮部は、東京の英語学校以来の親友であるのである。岩崎は鹿児島大学の前身のひとつになった第7高等学校造士館の初代の館長である。岩崎は、キリスト教の洗礼をうけなかった。新渡戸稲造をはじめ、東京英語学校以来の親友の3人は、札幌農学校キリスト教の洗礼をうける。

 そして、新渡戸稲造は、1901年に、アメリカ人のクリスチャンのメアリー・エルキントンと国際結婚をする。  アメリカ滞在中に 武士道を英語で書いて出版した。アメリカと日本の関係悪化のときに、日本政府から正式に派遣された人物である。1919年から日本政府代表として、国際連盟の仕事に7年間就くという国際的立場から平和に尽力した日本人でもある。しかし、1933年2月に日本は国際連盟を脱退することによって、彼の国際的な平和活動の舞台はなくなっていく。

 新渡戸は1920年国際連盟の結成のときに事務局次長として活躍したほどの人物である。かれは、太平洋問題理事長として渡米して、アメリカの各地で講演し、両国の親善に尽くしたのである。しかし、日本政府は国際連盟の脱退により、国際的に孤立をするなかで、新渡戸稲造は体調がすぐれないなかで、国際連盟脱退の年8月に、カナダで平和の望みを捨てず日本側代表として演説する。1ケ月後病に倒れてカナダのビクトリアで死亡(71歳)する。

 生涯、教育者、研究者、社会運動家として、新渡戸稲造は活躍したのである。札幌農学校、第1高等学校、東京大学京都大学で教授、校長として教育にあたる。札幌農学校では、学校教育を受けられない青年を対象に勤労者の夜間学校をつくる。

 札幌の豊平の貧困地帯につくった夜学校は、日本の勤労者教育としての大きな足跡を残した。さらに、東京女子大学の初代の学長として、女子教育にも尽力する。郷里の岩手では、産業組合の指導を引き受ける。また、加川豊彦とともに、医療協同組合運動を若い医師とともにつくる。かれは、多方面で活躍したのである。晩年に、日本を滅ぼすのは軍閥ということで、軍国主義に警戒したのであった。

 新渡戸稲造は、国際連盟にたいして国際平和を守る重要な機関として認識していた。「国際連盟の業績」という報告では、国際連盟の規約は、平和条約の一部になるということであった。「連盟規約は平和条約の一部である。他の国際機関と協力して、戦争状態の処理の最高権威。国際協力及び国際平和と安全の達成の方法を討議する機関」。[1]

 そして、新渡戸稲造は、国際連盟運動について「日本帰国報告」で政府高官等の日本のリーダー層よりも青年層が国際連盟に関心を高くもっていることを次のように述べている。「教育ある青年層に限られているが熱心に連盟の関心が高い。政府高官、議会、大企業界、学界では熱意が欠けている。功利的動機ではなく、名誉の感覚だけが、国際連盟の多額な費用を出している。連盟の日本に対する実際的効用は疑問をもっている。日本の代表者の疑い、冷淡な理由は次のとおりである。

 1,独立の主権を介入しないか。2,ほんとうに戦争を避けることができるのか。3,人間は本能的な喧嘩がやめられるのか。4,連盟は民主的組織を有しているのか。5,連盟は密かにユダヤ人を配置しているはほんとうか。6,平和手段を訴えるのは、戦争準備を隠す口実ではないか。7,連盟は大国の利己目的の道具ではないか。8,連盟はヨーロッパにとって好都合な組織であって、アジア、とりわけ日本にとってどんな利益をもたらすのか。世界協力の一般精神ー国際心をどのようにつくりだしていくか。連盟における日本の地位と責任を明らかにすること」。[2]

 日本のリーダー層は、名誉の感覚だけで国際連盟に多額の費用を出しているので、平和を実現していく功利的な側面からみていないと。冷淡な理由は、国際連盟は、ほんとうに戦争を避けることができるのかということであるとみている。そして、国際連盟は、ヨーロッパの大国を中心にして、アジア、とくに日本にとって利益をもたらすのかという懐疑心をもっているとみている。これが新渡戸稲造の日本リーダー層に対する見方である。新渡戸稲造は、国際連盟において、日本の地位と責任を明確にするうえで、世界に協力していく国際精神の養成が大切である考えている。

 「国際連盟ー世界平和への夢と挫折」を著書を書いた篠原初江は、新渡戸稲造国際連盟の活動業績に知的な平和のための国際交流を積極的に推進したことをあげている。それが、できたのも帝国大学教授として国際的な視野をもっていた新渡戸の人望、人格の優れたことであると次のように記している。

 「新渡戸は「真お国際人」として、国際連盟内部でも、ヨーロッパの一般こくみんからも人望が厚かった。創成期の国際連盟という大事な時期に「ジュネーブ精神」を培う精神的風土を育てる役割を果たしたといえる。ヨーロッパ各地で新渡戸の人格が優れていることが知れ渡ったが、日本にとっては、日本人や日本の評判をあげた重要な人物であり、新渡戸も自分が日本を代表する任務を背負っていることを理解していた」

 「新渡戸の国際連盟の業績は、知的協力国際委員会を立ち上げ、それを活性化させたことである」。知的協力委員会は、知識人の意見交換や学生の国際交流を促進したものである。新渡戸は、会議の参加に科学者のキューリー夫人などに熱心に勧誘したのであった。そして、国際連盟の理念や活動についてヨーロッパ各地で講演していくのである。日本に一時帰国したときも精力的に国際連盟の役割について講演し、ジュネーブに帰って国際連盟の事務総長に日本の状況を次のように報告している。「日本の教育を受けた若者には、国際連盟の理念は広がったが、大きな障害は、軍部と保守的な教育者」であるとしている。[3]

 新渡戸稲造は、国際連盟事務局次長の後に、太平洋問題調査委員会日本代表に就任した。新渡戸稲造は、太平洋国際連盟という地域共同体の国家連合を考えたことである。このことについて「平和の絆ー新渡戸稲造賀川豊彦、そして中国」を書いた布川弘は、世界的規模の国家連合体を重視しながらも地域共同体の国家連合を考えたことであり、現代のヨーロッパ共同体のようなことを構想していたとする。

 それは、汎太平洋国際連盟の構想である。汎太平洋国際連盟は、民間団体であるが、アメリカ政府とハワイの名士の補助をうけているという政府組織の位置づけである。そして、自由闊達に議論できるように円卓会議方式の太平洋問題調査会と二つの団体の必要性を新渡戸は考えていたのである。

 これは、第一次大戦を契機に日本の勢力が著しくなるなかで、紛争や戦争につながりかねない国家間の問題をより実際的で役にたつ恒常的な組織の必要性を認識していたと新渡戸の平和構築構想を布川弘は評価する。[4]

 1927年、1928年に二度にわたる中国山東出兵の問題で、19286年6月の日本宗教者大会は加川豊彦の新渡戸稲造も中心的な役割を果たし、日本の中国への武力干渉が重要なテーマになった。この大会は昭和天皇の即位記念として開催されたものである。

 この会議は、世界宗教者会議の影響のもとに開かれ、3月から4月にエルサレムでの会議では、キリスト教は他の宗教に対してその中にある美点を歓迎し、他の宗教の真理は天啓真理の一部であることが決議されている。他の宗教を異教として蔑むようなことはしなというとりきめをしたと布川弘は解説している。

 新渡戸稲造は日本宗教大会の平和部会長として、「山東出兵の名目を承認しつつ、出兵が行われた後で平和を論じる意味を高い見地から、しかも押しつけがましい形で提起していると布川弘は解釈する。

 日本宗教大会では、山東出兵反対の急先鋒であった賀川豊彦の「産業の人道化」という演説が第一日にあった。この演説に怒りをもった扶桑教の堤は、新渡戸の演説内容は、宗教者を侮辱するものであると糾弾の狼煙があがったのである。

 この侮辱に対して、主催者側はいかに責任をとるのかという内容が提出された。日本宗教者大会は山東出兵の明確な意見表明はなかった。軍縮会議の取り決めや、国際連盟加盟促進の決議がされたが、中国クリスチャンとの連帯の証となる出兵反対の意思表明は難事であったのである。

 1929年に太平洋問題調査会が京都で開催されたが、この会議は新渡戸稲造がリーダーシップをとって開いたものである。太平洋問題調査会の総会は第1回、第2回は発祥地のホノルルで開催されたが、京都会議のメンバーの招待は、日本のグループであった。円卓会議では、パリ条約の責務とはなにか、国家政策の手段としての戦争とはなにか、パリ条約の拘束力とはなにか、現在許されている解決手段の意味での平和的な手段とはなにかなどを議論のテーマとした。

 イギリス代表のトインビーは、満州をめぐる問題が関係する団体以外に関わり、それらの一般的利害の問題と感じているので、その討議を熱望しているという発言であった。日本の鶴見祐輔は、中国と日本は正式に参加しているが、今回は、ロシアはオブザーバーであり、満州に直接利害関係をもつ国々が正式メンバーとして会議に参加していないのでとりあげるべきではないと発言している。

 中国からの満州問題の熱心な問題提起の会議であったが、日本側の反論の演説も外交官松岡洋右によってあった。相対立する溝は深く、どこかで内容的に合意する余地はなかったが、永久委員会を日中と第三国の代表も含めて参加するということで合意したのである。

 京都会議は、日中双方のナショナリズム高揚のなかで開催され、とりわけ日本委員会は、地元開催ということもあり、ナショナリズムの制約を大きく受けざるを得なかった。新渡戸稲造の平和秩序につながるような重要な合意点を見いだすことができなかった。

 以上は、布川弘の国際平和運動における新渡戸稲造賀川豊彦の役割の実証的な研究成果から得た知見を国際平和と有徳という視点から新渡戸稲造に絞ってまとめたものである。[5]

 新渡戸稲造の平和思想を考えていくうえで、彼の「武士道」論を考えてみることも欠かせない。新渡戸稲造の考える武士道は日本の象徴であり、日本土壌の固有の華であるとする。封建制度の所産である武士道に光を新渡戸稲造はあてているが、武士道は、その母なる日本の封建制度よりも長く生きのびてきたとする。

 新渡戸稲造の武士道論は、人倫の道のありようを日本の歴史のなかで照らすのであったと考える。つまり、日本における壮大な倫理体系のかなめの石になったのである。日本の仏教や神道が武士道にあたえたものは大きい。禅の絶対の認識しえたものは誰でも世俗的な事柄から自己を脱落させ、天と地を自覚させるのである。神道の忠誠は、先祖への崇拝、孝心、忍耐心である。

 日本には、西洋のキリスト教での原罪という教義の入り込む余地はない。人間魂の生来の善性と清浄性を信じている。それは、日本的な精神構造の特徴である。武士道の源泉は孔子の教えにあり、武士道は知識のための知識を軽視する。まさに、江戸幕府は、朱子学的な理性の自己展開で社会的秩序を求めたが、武士の本質的な精神構造は、知行合一思想であり、朱子学が隆盛を誇った江戸時代為政者の官学のなかでも陽明学儒学が脈々と地下水のごとく流れていったのである。

 ところで、「義」は、武士道の輝く最高の支柱であると新渡戸稲造は見る。正義の道理は絶対的な命令である。勇 は義によって発動することを見落としてはならない。それは、平静さに裏打ちされた勇気である。民を治める者の必要条件は仁にある。まさに、専制政治から救われるのは仁のおかげであることを重視しなければならない。

 新渡戸稲造は日本の武士道にある仁の精神を強調する。人民の意向に君子の意志を一致させることが名君の掟である。武士の情けに内在する根本は、仁のこころである。サムライの慈悲は盲目的な衝動ではなく、正義にたいするものである。仁のこころをもっているものは、苦しんでいる人、落胆している人のこころを励ますものである。いつでも失わない他者への憐れみのこころがサムライである。

 仁の精神と密接にかかわっている心に礼があると新渡戸稲造は指摘する。礼とは他人に対する思いやりを表現することである。礼はその最高の姿として、ほとんど愛に近づくのである。礼を守るための道徳的な訓練は、なにか。礼儀は慈愛と謙遜と動機から生じる。他人に対するやさしい気持ちをもつことの行為が礼である。礼の必要条件とは泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶのである。

 真のサムライは誠に高い敬意を払う。なぜ武士に二言はないのか。二枚舌のために死をもって償うのである。嘘をつくことは最も無礼である。不名誉はその人を大きく育てる。名誉とは、苦痛と試練に耐えるためにある。名誉はこの世で最高の善でもあることを忘れてはならない。

 武士道は個人よりも国を重んじる。忠義とは、人は何のために死ねるか。武士道は良心を主君や国王の奴隷として売り渡せと命じなかった。無節操なへつらいを嫌う。自己の言説の誠を示し、主君の叡智と良心に対して最後の訴えをするのもサムライのこころである。  武士は何を学び、どう己を磨いたか。武士道は損得勘定をとらない。贅沢は人格に影響を及ぼす最大の脅威である。質素の生活が武士階級に要求されたのである。武士道は無報酬の実践のみを信じる。

 精神的な価値にかかわる仕事は、金銀で支払うものではない。それは、価値がはかれないほど貴重なものである。武士道の本性は、計算できない名誉を重んずる特質をもつ。不平不満を並べ立てない不屈の勇気の訓練も必要である。禁欲主義的な気風は武士道にとって大切な精神であることを決して忘れてはならない。

 主君押込の慣行として、藩主に悪行、暴政があるときには、藩主を家臣団の手によって監禁し、改心のための猶予期間を与え、それが困難なときに、隠居させるという慣行があった。この慣行から、主君による上意下達が絶対的ではないのである。主君が正義に反することを行えば、家臣は、勇気をもってそれを戒めるのが重要な社会的責任である。

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(2) 安達峰一郎による国際法による平和の確立

  安達 峰一郎は、明治から昭和に掛けて活躍した日本の外交官である。アジア系として初の常設国際司法裁判所の裁判官、所長となる。所長就任早々、日本が満州事変を起こし国際連盟の脱退へと向かった。所長3年の任期を終え、昭和9年1月から平判事になったが、8月に重い心臓病を発症し、12月28日にアムステルダムの病院で死去した。

  安達峰一郎は、国家間の紛争を戦争ではなく国際法によって解決する組織作りに生涯を捧げた。第1次世界大戦は、未曽有の戦争惨禍を経験した。その反省に立って、人類は初めて非戦の制度化・世界平和の組織化の道を歩み出した。 

 彼は、世界平和に尽力した国際機関で活躍した外交官であった。安達峰一郎の目指した世界平和は、日本国憲法の前文の平和的共存権と第9条などにつながっている。彼と同時期に外務大臣として国際協調路線をとって活躍した幣原喜重郎は、軍部の軍拡自主路線と対立した。いわゆる幣原外交であった。1930年にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年に満洲を日本が任命する政権の下において統治させるという軍部の提案を幣原外相は拒否した。

 その後、関東軍の独走で勃発した。幣原は、満州事変の収拾に失敗し、政界を退った。幣原は、パリ不戦条約を熟知しており、戦争放棄の平和主義が、念願であった。戦後敗戦によって、日本をどう再建していくかというときに、幣原喜重郎は、新しい憲法づくりの時代に首相になった。幣原は、戦争放棄という平和主義の憲法九条提案をマッカーサーに提案したのである。

 憲法調査会松本憲法案は保守的な内容でGHQから否定される。憲法九条の平和主義は、もともと日本の幣原首相によるマッカーサーへの提案によってできあがったものである。

 民間人の憲法研究会の憲法草案もGHQに大きな影響を与えた。1945年10月に、高野岩三郎の提案により、事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当した。

12月26日に「憲法草案要綱」として、同会から内閣へ届け、記者団に発表した。また、GHQには英語の話せる杉森が持参した。この要綱には、GHQが強い関心を示しのである。

 山形大学教授の澤田裕治は、世界の良心、安達峰一郎のホームページで安達峰一郎の現代的な研究の意義を次のように強調ししている。

 「徳川幕府崩壊後の日本は、3つの転換期を経験しました。第1の転換期は、去る明治維新期(封建制⇒資本制、近代国家)、第2の転換期は敗戦後(君主主権国家軍国主義国民主権国家、平和主義)、そして第3の転換期は現代(主権国家主権国家体制の動揺、国境の横断的多次元化)であります。現代は高度成長が終わりを告げ、情報化、高齢化、グローバル化が進行する21世紀の始まりに直面しております。

 このような歴史的変革の時を迎えている今、政治・経済・文化など様々な領域で従来の諸制度が見直しを迫られています。この時にあたり、日本は、かつて歩んだ絶望的な破局の道をたどる過ちを繰り返すべきではありません。安達峰一郎の思想のもつ意義を深く学びとる必要があるでしょう。

 安達峰一郎研究によって、地域と自治、人権と国家などの関係を捉えなおし、こうした問題にも迫ることが可能となるし、安達峰一郎の人間としての生き方にも、強い関心が湧いてきています。それは今まさに安達のような人物が求められているからに他なりません。

 その理由は次のとおりです。

 ① 安達峰一郎は、国家間の紛争を戦争でなく、国際法によって解決する組織作りに生涯を捧げたこと。その業績のもつ普遍的な意義、つまり非戦の制度化、世界平和の組織化の重要性がますます認識されるようになっています。

 ② 安達峰一郎は、少数民族、弱者へのまなざしに留意し、人間の理性を信頼し、自らその設立に立ち会った常設国際司法裁判所(非戦思想の制度化、世界平和の組織化)の歴史的意義に対する揺るぎない確信を持ち、過酷な激務に耐えました。

 ③ 安達峰一郎は、常設国際司法裁判所を崇敬し、1931年の彼の開廷演説で、それを『「法に基づく平和の概念の生ける具体化」と呼び、「人は変わってもその概念は生き続け、その制度は存続する。」と付け加えました。

 ④ 安達峰一郎の遺産は、国際連合国際司法裁判所として、今なお受け継がれていること。さらに重要なことは、安達峰一郎の平和の精神が、日本国憲法の平和主義として結実しています。今そこ、安達峰一郎の平和の精神とその志を受けついで行く必要があるとのではないでしょうか」。

 「安達峰一郎博士の正義と公平に基づく識見はどの国からも厚い信頼と尊敬を得たそうです。ジュネーブの「国際紛争平和的処理議定書」で、日本だけが反対の立場に立ったとき、各国代表に対して説明している博士の様子を見て、当時の国際連盟事務次長の新渡戸稲造博士は「安達の舌は国宝だ」と、そのフランス語の説得力を誉め讃えた。

 博士の約40にわたる国際社会での功績に対して、12カ国から第1級の勲章が感謝を持って贈られ、中には勲章制度を新たに創り、その第1号を博士に贈った国までもあった。1930(昭和5)年、オランダ国ハーグ市にある「世界の良心の府」といわれる常設国際司法裁判所裁判官に立候補した博士は、圧倒的な最高点で当選しました」。[6]

 「安達は、ポーランドエストニアラトビアフィンランドが組織した国際紛争仲裁のための常設委員会の委員長になるなど、マイノリティを保護し、ドイツとポーランドの間で繰り返される紛争を平和的に解決し、諸国がそのたえざる警戒と疑惑を脇に置くことができるように、諸国の安全のための合意を考えだす国際連盟が果たすべき役割に深く関わっていた」。
 安達峰一郎は、第10回日本国際連盟通常総会昭和5年5月16日に講演しているが、そこでは国際連盟の役割を正義と公平な態度でのぞめば国際平和に貢献できることをつぎのように述べている。

 「如何に難しい事件でも、頼まれれば之を引き受け、正義の観念を本として、終始、公平な態度を執って、事件そのもを深く、また細かく研究して明白なる結論に達し、之を行うに当たっては決して躊躇しなければ、必ず敗北国にも承認せらるるに違いないと信じて居ります。何卒、私がこの一二年間の経験によって深く信じるに至った真理を貴方がたの真理とせられ、是を是とし、非を非として、公平に、如何なる難問題でも是を引き受け、是を裁き、そうして国際連盟の発達に務め、世界の平和に貢献せらるるように願います」。[7]

 安達峰三郎の国際連盟協会東京帝大支部における1930年の講演については、国際知識1930年6号に掲載されたことを篠原初江が著書「国際連盟ー世界平和への夢と挫折」で引用して、次のように評価している。

 「この講演で、安達は国際関係が国家と国家の関係から国家組織へ向かう時代へと変化しており、その意味では国際連盟は時代の発達に適合したものだと繰り返し述べている。安達の分析によれば、大一次世界大戦後の国際関係は「団体で連盟的であり、そのような時代には「戦争と云うものは決して将来世の中のなくなります」と明確に戦争の必要性を否定する。したがって、安達は不戦条約についても積極的に評価し、不戦条約は空文であるという批判に対し、「不戦条約はやはり活動性を以て居りまして各国の行動を支配する異常な力を持って居ります」と述べていると安達の平和を構築していく考えを積極的に評価しているのである。

 そして、「国際協調と愛国心が矛盾することなく、「愛国心国際連盟の寧ろ必要ななる」点と説く。やむえない場合には、「団体的特義心を持つというのが国際連盟の本旨」であると。統合統治篠原初江「国際連盟ー世界平和への夢と挫折」中央公論社

 国際連盟は、国際平和のための国家を超えての共同体的側面をもっているのであり、永遠平和のための世界連邦的な政府の役割をもっているのである。それが、パリ不戦条約によって、より現実的に平和のための国際的な共同体が前進したということである。

 安達は日本に一時帰国したときに、平和のための国際的な共同体の構築としての国際連盟と武力によらず、国際法によって紛争を解決する国際司法裁判所志望裁判所の役割について講演を行っている。

 貴族院では、「国際連盟の現状と来期常設国際司法裁判所判事総選挙」について昭和5年5月17日に講演をしている。そこでの平和解決の重要性として、国際連盟国際司法裁判所の役割を次のように強調している。

 「世界の大問題は、その外形上の如何にに拘わらず、その実は皆、国際連盟に集中しておるという事実であります。ご存知の通り、国際連盟の目的は、正義に基づく平和を世界に確立して、して、軍縮の大事業を完成することにあります。今日、国際連盟において、軍縮の大事業は未だ完成するには至っておりませんが、その緒についてから4年に。その方法にを示した所、極めて有効でありまして」。[8]

 国際連盟は、平和の目的のために各国の軍縮の大事業をどう進めていくのかという課題をもっている。このためにも紛争解決に武力によらないで、双方の意見を聞き、独自に調査して、理事会に報告して問題を処理していくという方法があるとしている。この際に、理事会に提出される報告書は大きな意味をもっていると安達峰一郎は次のように指摘する。

 「ヨーロッパの治乱に関する大問題であっても、その紛争解決に当たっては、報告者が、その問題に関する種類を調べ、当事者双方を呼び、その申し条を聞たり、証人を呼んで実状を把握した上で報告書を作成し、理事会に報告するのであります。ここでいう報告書とは連盟に報告書を提出する人をいいますが、その責任は頗る重大であります。若し、この報告者が、正義の観念を強く持ち、飽くまでも公平なる態度で、しかも双方に深い同情の心をもって、事件の微細に亘る点まで良く研究し、良心の命ずる所によって判断すれば、その結果は、その当事者でなくても、近い将来において、必ず認められるに至るということであります」。[9]

 報告書を作成する人々は紛争事件の詳細を調べていくためには、公平と正義の良心をもつことが極めて大切であるとしている。この公平と正義の良心は、国際司法裁判所も、国際連盟の関係者に強く求められる国際関係における倫理である。また、不戦条約の精神によって、戦争によって紛争問題を対処するのではなく、国際的な正義と公平の良心にる話し合いが求められていくのである。この話し合いの仲裁の役割も国際連盟国際司法裁判所に求められていくのである。安達は、このことの重要性を次のように指摘する。

 「不戦条約実施の結果、国際紛争事件は、その性質の如何に拘わらず、何れも、これを戦争という手段によって処理するのではなく、全て裁判、もしくは仲裁に付すということになりました。その結果、この裁判所において自国民の判事を持っているということは、一人その国の権威、若しくは名誉にかかわるのみならず、時として自国関係の事件が裁判に付された場合、利害得失の関係がありますから、多数の国は、この条約の規定に従って、各々候補者を定めまして、その後者の当選を熱心に画策し、目下運動を展開中なのであります」。[10]

  安達峰一郎、大国のエゴに挑戦した男である。1934年12月28日に逝去されたが、オランダは1月3日に常設国際司法裁判所裁判長の業績をたたえて、平和宮において国葬として盛大に訣別の式を行った。

 安達峰一郎について、常設国際裁判所書記のオーケハマーショルドは、1936年に思い出の文書のなかで、東洋の魂、東洋文明の遺産である洗練された礼儀正しさをみることができると書いている。「「安達所長が活動するように運命づけられていた西欧社会に、完全に適応していたその外貌の下に宿っている東洋の魂を見ることができた。だから彼の信任を得たからといって、北欧人として日本の伝統と美徳の精髄である彼の人格を真に理解したと主張するのは全く大胆なことに見えるだろう」「安達所長特有の態度はすべてまた、古い東洋文明の遺産であるあの洗練された礼儀正しさに満ち満ちていたのである。西欧人のうちその秘密やその理由を発見したものは極めて少数であり、それをなお探求する者たちはその圧倒的な円満さを感じ、時にはそれを恨みさえするのである」。[11]

 安達峰一郎はパリ不戦条約に参与として、日本政府を説得したのであった。このパリ不戦条約の精神は戦後日本国憲法の戦争の放棄という平和主義に継承されていくのである。パリ不戦条約の内容は下記の通りである。

「人類の福祉を増進すべきその厳粛な責務を深く感銘し、その人民の間に現存する平和及び友好の関係を永久にするため、国家の政策の手段としての戦争を率直に放棄すべき時が到来したことを確信し、その相互関係における一切の変更は、平和的手段によってのみ求めるべきであること、又平和的で秩序ある手続きの結果であるべきこと、及び今後戦争に訴えて国家の利益を増進しようとする署名国は、本条約の供与する利益を拒否されるべきものであることを確信し、その範例に促され、世界の他の一切の国がこの人道的努力に参加し、かつ、本条約の実施後速やかに加入することによって、その人民が本条約の規定する恩沢に浴し、これによって国家の政策の手段としての戦争の共同放棄に世界の文明諸国を結合することを希望し、ここに条約を締結することにし、このために、左のようにその全権委員を任命した。

宣言(昭和4年6月27日」

「 第一条  締約国は、国際紛争解決のため、戦争に訴えないこととし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。

第二条  締約国は、相互間に起こる一切の紛争又は紛議は、その性質又は起因のがどのようなものであっても、平和的手段以外にその処理又は解決を求めないことを約束する。 第三条

1本条約は、前文に掲げられた締約国により、各自の憲法上の用件に従って批准され、かつ、各国の批准書が全てワシントンおいて寄託せられた後、直ちに締約国間に実施される。

2 本条約は、前項の定めにより実施されるときは、世界の他一切国の加入のため、必要な間開き置かれる。一国の加入を証明する各文書はワシントンに寄託され、本条約は、右の寄託の時より直ちに当該加入国と本条約の他の当事国との間に実施される。

3  アメリカ合衆国政府は、前文に掲げられた各国政府、及び実施後本条約に加入する各国政府に対し、本条約及び一切の批准書又は加入書の認証謄本を交付する義務を有する。アメリカ合衆国政府は、各批准書又は加入書が同国政府に寄託されたときは、直ちに右の諸国政府に電報によって通告する義務を有する。

 右の証拠として、各全権委員は、フランス語及び英語によって作成され、両本文共に同等の効力を有する本条約に署名調印した。1928年8月28日、パリにおいて作成する」。

 日本の帝国政府は、1928年2月27日パリにおいて署名される、戦争抛棄に関する条約第一条中の「其の各自の人民の名に於いて」という字句は、帝国憲法の条文により、日本国に限り適用されないものと了解することを宣言する。

 1928年(昭和3年)8月27日にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名した。その後、ソビエト連邦など63か国が署名する。フランスのパリで締結されたためにパリ条約(協定)、また、パリ不戦条約と呼ぶ。最初はフランスとアメリカの協議から始まった。そして、多国間協議に広がった。戦争の拡大を防ぐために締結されたが、欧米列強の植民地を守るために作った国際法の役割を果たした。

 不戦条約は、期限が明記されていない。このため、現代のでも国際法として有効である。しかし、加盟国の多くが自衛権を留保しており、また違反に対する制裁もないため、その実効性は乏しい。その後の国際法における戦争の違法化、国際紛争の平和的処理の流れに大きな意味を持った。

 条約批准に、アメリカは、自衛戦争は禁止されていないとの解釈であった。イギリスとアメリカは、国境の外であっても、自国の利益にかかわるので軍事力を行使しても、それは侵略ではないとの見方であった。アメリカは、勢力圏になる中南米に、この条約は適用されないとした。世界に植民地をもつイギリスは、国益にかかわる地域がどこなのか明らかにしなかった。

 不戦条約は、期限が明記されていない。このため、現代のでも国際法として有効である。しかし、加盟国の多くが自衛権を留保しており、また違反に対する制裁もないため、その実効性は乏しい。その後の国際法における戦争の違法化、国際紛争の平和的処理の流れに大きな意味を持った。

 パリ不戦条約は、先進国のアメリカ、イギリス、フランスと日本、ドイツ、イタリアなどの列強諸国が結び、さらに、ソビエトをはじめ63ヶ国が署名して、パリ不戦条約として戦争放棄を世界に宣言したものであったが、現実の歴史は、第2次世界大戦になったのである。

 日本の憲法9条は、このパリ不戦条約の延長として、日本の敗戦をよって生まれたものである。日本は自らパリ不戦条約を軍部の力で破り、国際連盟を脱退して戦争の道に突き進んだのである。この過去の重い歴史を背負いながらの憲法9条であることを決して忘れてはならないのである。

 

[1] 国際連盟の業績と現状ー新渡戸稲造全集19巻

[2] 「日本における国際連盟運動ー日本帰国報告ー」新渡戸稲造全集21巻より

[3]篠原初江「国際連盟ー世界平和への夢と挫折」中央公論社参照、

[4] 布川弘「平和の絆ー新渡戸稲造賀川豊彦、そして中国」丸善、65頁

[5] 前掲書、77頁~92頁参照

[6] 世界の平和を求めた安達峰一郎のホームページ・まめ知識 Part・2、安達峰一郎と世界平和への道(執筆:澤田裕治/編集:安達尚宏)http://www.adachi-mineichiro.jp/

[7]安達峰一郎博士顕彰会編「国際法にもとづく平和と正義を求めた安達峰一郎」安達峰一郎博士顕彰会発行、169頁

[8] 前掲書、178頁~179頁

[9]前掲書、182頁

[10]前掲書、188頁

[11]前掲書、225頁~226

江戸時代の平和思想ー安藤昌益の武器全廃論と横井小楠の世界兄弟論ー

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江戸時代の平和思想ー安藤昌益の武器全廃論と横井小楠の世界兄弟論ー

 

 (1)安藤昌益の平和論

 日本国憲法は、9条において、国権の発動たる戦争の放棄、戦力の不保持をうたっているが、武器の全廃論をすでに300年まえに、安藤昌益によって唱えられている。日本国憲法の戦力不保持からの平和思想は、日本の伝統的な思想家からもみることができる。安藤昌益は、1703年に生まれ、15歳のとき曹洞宗禅寺で正式の修行僧として入門している。各地の山門を訪れ て、修行し、いろいろの師につかえてきた。10数年の修行によって、指導できる禅宗僧の資格を得るのである。

 安藤昌益は、若くして、一人前の禅宗の僧として世に出ることができるようになるのである。しかし、青年僧安藤昌益は、仏門を捨てたのである。なぜか。それは、心の救済では人々を救うことはできないと悟ったからである。安藤昌益の思想を考えていくうえで、青年時代曹洞宗禅寺の修行のなかで形成された仏教的な平和観と自然観は大切な見方である。

 安藤昌益は、病との闘いが必要ということで医師をめざす。そして、医学の修業を一〇年行う。医学は、京都で学び、オランダ商館とも接触する。 そして、10年後の一七四四年のとき、四二歳で東北の八戸へ医業をする。そこで、かれの独自の思想体系が生まれていく。医師としての診療と思想家としての講演を八戸で行う。多くの者が教えを受けるためにかれのもとに集まり、各地にかれの弟子が生まれていく。

 安藤昌益にとって、学問は、座っている姿に限定しなかった。学問は、日常生活における一切の状況から考える。学問は、学問をする者の独占的なものではない。真実は、世俗的な生活の道から探求するという姿勢を貫いた。

 曹洞宗の開祖である道元の耕道という概念を世俗の生活のなかで発展させて、直耕という独創性的な概念をつくりだした。それは、農民の労働こそ富をつくりだす根源であるという考えである。人間の富を労働との関係で考え出したのである。

 道元の思想について、正法眼蔵では、耕道を行持(ぎょうじ)仏祖の大道との関係で次のように述べている。「仏祖の大道、かならず無上の行持あり。道環してほとけ断絶せず、発心修行、菩提涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。このゆゑに、みづからの強為にあらず、他の強為にあらず、不曽染汚の行持なり」。

「行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学を審細にすべし。かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり」「一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。この行持に諸仏見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは、諸仏をいとひ、諸仏を供養せず、行持をいとひ、諸仏と同生同死せず、同学同参せざるなり」「大善知識かならず人をしる徳あれども、耕道功夫のとき、あくまで親近する良縁まれなるものなり。雪峰のむかし洞山にのぼれりけんにも、投子にのぼれりけんにも、さだめてこの事煩をしのびけん。この行持の法操あはれむべし、参学せざらんはかなしむべし」。[1]

 在家に仏の道理を学ぶべきものとして、修証義が明治以降に道元の正法眼臓からの抜粋要約として、まとめているが、そこでは行持報恩として、日々の平常心、日々の生命、我欲のためにひきずりまわされないようにすることの大切を次のように述べている。

「唯当に日日(にちにち)の行持(ぎょうじ)、其報謝(そのほうしゃ)の正道(しょうどう)なるべし、謂ゆるの道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、私に費やさざらんと行持するなり」「此(この)行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、我等が行持に依りて諸仏の行持見成(げんじょう)し、諸仏の大道通達(つうだつ)するなり、然(しか)あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子(しゅし)なり、諸仏の行持なり」。[2]

 安藤昌益は、道元から学び、その思想を独自に農民の生活の関係で発展していくのである。安藤昌益の思想を考えていくうえで、互いに相反する関係は、相互の依存関係をもっているということで、互生という性質を重視するのである。そして、社会のあらゆる領域に存在する対立する二別的論理をえぐりだす。つまり、支配と被支配の関係である。かれは、身分制を鋭く批判する。

 そして、兵は国の争乱の道具であり、刀は天下を盗む器具であると考える。封建的な武士社会を根底から批判するのであった。江戸の中期の時代からみれば極めてラデカルな見方であり、当時の社会では受け入れがたい考えであった。彼自身も現実的に当時の世の中に支持されるとは思っていなかったのである。従って、弟子たちに公に考えを普及することを進めなかったのである。

 安藤昌益は、とことんまで論じなければならないことは、この天地の間の人間の関係であると考える。その中から人間は対等であり、同格であるという思想を確立する。からの平等思想の確立で大きな影響を与えたのでは、アイヌ社会との接触である。かれは、アイヌ社会を学び、その社会を積極的に評価する。アイヌ社会は、その気だては素朴であり、金銀の通用がないと見たのである。だからアイヌ社会は、上下の支配がないとしたのであり、互いに戦争して奪ったり、奪われたりする乱世もないとするのである。

 安藤昌益は、理想社会の自然活真の世の思想を生み出す。1758年に八戸を去り、秋田の大館に移る。そこで、未来の理想社会をふるさとで深く探求する。そこで、自然真営道を1758年から1762年に執筆するのである。

 かれの互生論、秋田に移住しての執筆する過程のなかで、発展する。人倫は人間関係にあり、男女の関係に本質をみることができる。異質なものが対応しながらも、相手を自己の本性として、自己の存在の本質的契機として、一体を双方が求めるということを重視したのである。この見方は、理想社会をつくっていくうえでの根本的な原理とするのである。

 また、それは、相互依存の論理である。相互的関係のもとで相互自立の論理が導きだされる。他人と同じでないからこそ、わたしが存在する。自己は世界の中心ではないという見方は極めて大切であるとした。相互の平等は自然のなかにある。相互の人間関係の本質をみつめていくなかで平等という概念を導きだしていくのである。

 それは、生存的な自己中心的な平等論でもない。自然の世としての相互の平等関係があり、異なる相互の平等関係のなかに、相互の自立があるとしたのである。このように、安藤昌益は、現実の世を真っ向から徹底的に批判し、理想社会を考えていく。互生論は、安藤昌益の理想社会の根柢になるのである。

 安藤昌益は、自然の世に逆らうということは、どういうことかと問う。万人の中の一人である王が勝手に自分から王になること。直耕に逆らって、耕すことをしない。つまり、労働からの富を生むことをせずにいることが自然の世に逆らっていることである。自然の世は、二別の世界のないことである。人道の道に逆らって獣になることは人の自然の世ではない。山中より金を掘り出して人々の欲望を助長させることも人の世ではない。

 以上のように、自然の世ではない、平等でない二別の世界のないことが根本的な天道に背く争乱の源であるとする。安藤昌益の平等論を考えていくうえで、二別の相互依存の関係論は大切である。差別と区別は異なり、区別ということでの相反する2つのものが互いに支え合って存在していることを力説しているのである。

 王とは天道に背く争乱の源である。王は自然なる天地には存在しないものであり、人間の間にもともと存在するものではない。国にとって、大事なことは軍備ではなく、直耕の天道である。

 安藤昌益は、文字よりもしゃべりことばを大切にしていく。叡智は、文字からの自立が大切である。これまでの知の問題は大きい。今の知は、人間が生きていくもののためであるのか。人はじっくりと自然の履歴を観察し、解読して、自然と対話し、自然の営みを理解していくものである。この見方で、安藤昌益は、未来の自然の世を展望するのである。

 これが自然活真の世である。互生の論理の世として、異質であるが同格で平等な2つの項が対をなしながら相互に自己のなかに自然活真の世が確立していく。互生は、相手のなかに入り込み、交渉しあう関係である。

 自然活真とは自然そのものではなく、生命的運動である。自然を正しく認識し、自然的に実践する理想な人間社会として、自然活真の世を描くのである。陰陽五行の木、火、土、金、水の五行のなかで、土は別格である。土と四行が活真で合体していくとする。

 安藤昌益の直耕概念は自然観の核心的な概念である。肉体的な単純な農業労働という意味ではなく、直とは、自然に働きかける労働をとおして、正しく生きるということで、耕すことは、自然を正しく認識していくことであることを見逃してはならない。

 安藤昌益は、封建的社会そのものを否定して人間平等、平和、環境保全を提言する。安藤昌益の思想を生み出した時代的背景は、元禄時代以降の贅沢化に伴っての東北地方の飢饉である。東北地方は、五年ごとに大飢饉にみまわれた。飢饉は自然災害ではなく、人為的な災害であった。元禄時代以降の経済的発展による東北地方の開発が飢饉になったのである。

 安藤昌益が生きていた時代は、元禄文化の江戸を中心とした消費文化の影響で、関東の大豆畑が養蚕に替わり、大豆畑は、東北地方の山地に焼き畑農耕方式に移っていった。この結果、自然循環が破壊され、イノシシが大量に発生したのである。

 軍学について、安藤昌益は、天下国家を奪い取るためであると鋭く次のように批判する。

軍学とは、戦争に勝ち王となるためのもの、天下国家を奪いとるためのものである。つかのまの平和にも乱を忘れず、軍学を学び戦争にそなえるというわけだ。ところが軍学は天下国家を治めるためのものだとなどと言っている。だが天下国家を統治しようとすることこそ、叛乱死闘がくりひろげられる。原因となるのだ。このように治めるというのも軍学、乱れ闘うのも軍学なのだから、治も乱ともに軍学によるものであって、つまりは治も乱ともに乱に過ぎない。そこで治乱興亡のない万人直耕の社会となれば、軍学などはまったく必要ないのだ。反対に軍学が続くかぎる治乱興亡をつづくというものである。もし自然にしたがい直耕ひとすじに生きる社会には治乱興亡がないことを論証する者があらわれて、さっさと軍学を一掃し、すべての刀剣・鉄砲・弓矢などの軍備を全廃してしまうならば、将兵の示威行進もなくなり、やがて自然のままの社会にもどっていくことであろう」。[3]

  安藤昌益は、まさに、軍学は乱を起こすものであるとする。したがって、平和を考えれば軍学は必要がないとする。自然のままに生きられる社会をつくるには、軍備を全廃していくことであるとする。江戸の中期に安藤昌益は、武士の社会を否定して、平等なる社会をつくっていくために、刀剣、鉄砲、弓矢などの軍備を全廃することを強調しているのである。

 ところで、石渡博明は、安藤昌益の平和思想を書いている。かれは、9条世界会議などの盛況を世界平和の構築として、積極的に評価する。「武力によらない平和」の世界的なモデルとして位置づけ、国内のみならず世界に発信していくという積極的な姿勢に好感が持てたとしている。「日本の平和運動がややもすると憲法の枠内に終始しがちなこと、九条を「護る」という消極的なスタンスに違和感を持っていたからであり、憲法九条の如何にかかわらず、「平和」運動は人類に普遍的な価値として、根源的な価値として、もっと積極的に発信していくべきであると考えてきたからである。

 とりわけ、ソ連邦の崩壊により冷戦が終結したにもかかわらず、9.11以降、「対テロ戦争」という名の「帝国」による無差別殺戮・大量虐殺が繰り返されるといういかがわしい時代状況の中にあっては。そうした私の基本的なスタンスに照らして、今年の憲法集会はいずれもその前向きな姿勢に好感が持てた。実はこの間、江戸時代の思想家・安藤昌益(1703~62)の平和論・平和思想を読み返すにつけ、そうした思いにかられてきたからである。

 さらに、昌益によれば、「乱世」ばかりではなく「治世」もまた、人々の理想とする「自然世」─自然と共生し平和で平等な社会─には程遠い「法世」として概括される。「法世」とは人間の本質に根ざした真の意味での平和で平等な世の中ではなく、権力者によって強制された、歪んだ世の中、人間性に反した世の中「構造的暴力」のことである。したがって「治は乱の本」でしかなく、平和への敵対概念として否定される。武力で平和は生まれない」と。[4]

 以上のような昌益の平和論を元に、先に見た家永による規定を、空爆に代表される無差別殺戮・大量虐殺の現代に置き換えてみれば、以下のようになるだろう。「(洋の東西を問わず、権力者とは違って)古来庶民は平和の民である。庶民は戦争を好まない。出征すれば人間性を顧みることができなくなるし、戦場となれば人間性ばかりか人間存在そのものまでが蹂躙される。庶民の生活と戦争とは両立しえない」と。ここにおいて、憲法九条の精神、先の世界大戦をはじめとした人類史を総括した日本国憲法前文の精神は、安藤昌益の平和論・平和思想、ガルトゥングの「平和学」とそのまま重なり合う。私たちは、ここをこそ基点として平和を、平和憲法を、世界に発信していくべきではないだろうか。

 

(2)横井小楠の世界兄弟論

  江戸時代末期の黒船来航によっての不平等な安政条約を列強に結ばれた時代に、尊皇攘夷思想が大きな影響力をもっていたが、そのような時代的状況の仲で、積極的に貿易をして、公共の道、平和の道によって、世界と兄弟になっていく日本の進むべき道を示したにが、横井小楠であった。

 横井小楠の代表的な著作として、国是三論がある。そこでは、鎖国時代から国際貿易時代の変革の大切として、公共の道を次のようにのべている。

 「鎖国時代と同程度の見識しかもたないままで開港してもよくない。どちらも弊害が大きく政治の安定は望めないのである。天地の気運に乗じ、世界万国の事情に従って「公共の道」をもって天下の政治をおこなえば、いまの心配事を解決し、いっさいの障害は消え去ってしまうだろう」「世界各国の政治を論ずる力量があってはじめて日本国を治めることができ、日本国を統治する力量があってはじめて一藩を治めることができる」。[5]

 公共の道がなければ、貿易を開いて害は、大きく、鎖国の弊も大きい。大切なことは、世界の情勢を正しく認識して、そのうえにたって新しい見識をもって、公共の天理の政治をおこなうことであると横井小楠はのべている。

「財政のことは、鎖国時代にくらべれば大いにやりやすくなった。いまは、民間でどんなにたくさんの産物ができようと困ることはない。これを海外に売りさばけば生産過剰で値段が下がることも滞貨に悩むことはない。だから、民の生活を安定させて生産にはげませ、その産物の販売を管理することによって藩を富まし士を富ませればよいのである」。[6]

 日本の幕府も各藩も収入以上に生活が贅沢になり、財政的状況は厳しくなっていた。財政状況が苦しくなるなかで年貢の取り立ても大変になり、一般の民衆の生活は苦しくなっていった。このような状況で、横井小楠は、積極的に貿易をして、民の生活を安定していくように提唱しているのである。そのためには、産物の販売の管理を藩がやっていくことを提起している。

 日本では、中世以来の名君や良臣に仁政の理念が忘れ去られているとしている。天下の人民の幸福を積極的にやっていくことが名君である。このことについて、横井小楠は次のように述べている。

 「日本では中世以来戦乱が続き、王室は衰微し、諸侯は割拠して相互に攻め合い、一般民衆は塵芥のように見捨てられ、夫役や糧食を過酷にとりたてられきた。仁政の理念は忘れ去られ、戦争の上手なものが名君、謀略の達人が良臣とみなされる時世となってしまったのである。徳川幕府が開かれ兵乱が収まってからも、なおその余風が残って、・・・みな徳川一家の安定繁栄のために智力を尽くし、天下の人民の幸福をかえりみたことはない。・・・・幕府や諸藩で名君良吏と呼ばれる人材も、みな鎖国の偏見をまぬかれず、一身をその君主にささげ徳川家やそれぞれの藩を大事に思うばかりなので、その忠義の度が強ければ強いほど一般民衆の幸福をそこない、民心が離反していく。国が治まらないのは当然である」。[7]

 以上のように、一般民衆の幸福を追い求めてこなかったことが民心が離れていった大きな原因である。鎖国の偏見をなくして、一般民衆の生活を豊かにしていく政治をしていくことの大切さを述べているのである。そして、天下を治めるためには、優れた人材の養成がなければできないとしている。その人材養成について、民衆の幸福のことが理解できる心法が重要である次のように指摘している。

 「天下を治めるには、平時・非常時いずれであっても、優れた人物がいなければ駄目である。そうして、その人物を育てるには文武の道によるしかない。個人も今の人もみな、文武の道が人材を教育するための中心課題であることを知っているのけれでも、今の人は、文武の本来の姿が心法にあるのだということを理解していないので、今の文武で人材を得るのは、たとえてみれば砂を蒸して飯としようと思うようなものである。人材は得がたく、国家は治まらない理由がわかるだろう」。[8]

 安政条約締結によって、欧米列強の圧力によって、激動する社会を迎えている時に、民衆の幸福の心が理解できる人材を得ることができなければ、国は治まらないのである。民衆の心が理解できるということは、武士道にそって世界の大局をみるうえで、しっかりとした道理が必要であるとしている。この道理のために経書史書が大切としている。

 「たとえ天地がひっくりかえっても心は定まっており、士道に従って誤りのない境地に達しなければならない。そのためには、どうしても道理を聖人の経書に求め、また治乱興亡の歴史を語る史書を参考としなければならないのである」。[9]

 横井小楠は、大義を世界にと「格物」とは世界中の物事の理を究めることで、これがすなわち「思」の仕事としている。また、物事を知っているだけではなく、活用できるように合点することが重要であると次のように指摘する。

 「世界の理は幾千万の物事についてそれぞれ異なっており、一つ一つが変化します。だから、物事をただ知っているだけでは、いくら数多く知っていても形を見ているにすぎず、活用することができません。合点するというのは、書物を参考としてその理を会得することです。理を自分のものにしてしまえば、書物はもう粕にすぎません。いったん理を自分のものとしておけば、異なった物事に対した場合にも、すでに獲得している理から類推していって新しい理を活用することができます」。[10]

 世界を相手に貿易していくときに、四海は兄弟であるという平和の理念が大切であり、世界をよく理解していくことが求められている。とくに、世界の紛争を解決できる公共の道をきちんともっておくべきであるとしている。単に世界勢力の争いとの関係でみれば、後で大きな災難にあうということを横井小楠はたしなめているのである。

 「世界に乗り出すには、公共の天理をもって現在の国際紛争を解決してみせるというほどの意気込みをもたなくてはなりません。単に勢力を張るだけでのつもりであれば、必ず後日の災害を招きます」。[11]

 ところで、列強諸国が大きな軍事力をもって日本に開国を迫ってきているなかで、西洋の科学技術、学問をどうみていくかということは重要なことである。このことについて横井小楠は、西洋の学問は、事業の学であり、心徳の学問がないとしている。心徳がないので人情に関することが理解できなとしている。

 これが、戦争の原因をつくっていると横井小楠は強く警戒しているのである。横井小楠は、心德の学、人情を理解できることが戦争を防止していく役割を果たすとしている。戦争をしないで、円満に貿易をしていくにはどうしたらいいのであろう。

 列強諸国の事業学ではなく、人々の心を理解できる人情をもった国際経済をどうつくりあげていくか。戦争しないで平和的関係で世界の経済を作っていくのは、心德の学と事業の学の統一した理念的結合が迫られているというのである。

「西洋の学問は、事業の学であって心德の学ではない。西洋人は上下貴賤・君子小人、誰によらずみな事業の学問をするので、事業はどんどん開けるけれそも、心德の学がないので人情に関することがわからないのである。だから、交易の談判も事実をつめていくだけだから戦争となり、戦争になってもやはり事実をつめていって償金講和というようになる。人情を知っていれば戦争を防ぐ方法があるのだが、そこまでわかっていないのはワシントンただ一人だった。事実の学ばかりで心德の学がないから、西洋列国、戦争の止む日をもてない。心德の学があって人情を知れば、現在では戦争をしないのですむのである」。[12]

 心德の学をもっていた日本であるが、それは、一つの価値観によって体系したものではなく、神道儒教、仏教といように多様な価値観から、それぞれが複合的に結合していることによって、一定の学がないのも特徴である。これは多様性を認め合う寛容の精神があることであり、西洋の事業の学を積極的に導入して、日本の心德の学を結合していけば、世界に戦争をなくしていくことに貢献ができると横井小楠は次のように世界平和の構築について指摘しているのである。

「日本には昔から一定した学問がなく、神道儒教・仏教などといろいろである。現在ではまた西洋の学問技術の成果をとり入れるようになった。いま、30万石以上の大名にその人を得て、西洋の技術をとり入れながら三代の治道を実施し、日本の政治を一新して西洋へ普及すれば、世界に人情に通じて戦争をなくすこともできるのである。この古くて新しい政治は日本でこそ可能だろう。その後の発展が楽しみである」。[13]

 小楠は、世界万国一体・四海兄弟の政治を論ずる力量が日本の国民にあってはじめて、日本の国を治めることができるという問題提起である。このための教育の重要性を指摘している。

 公共の天理、世界万国との一体関係で国民の国を治める力量の見方は、現代の21世紀の激動する世界情勢における日本の政治ということにおいても通ずることである。世界は価値の多様化に伴ってのグローバル化とブロック化が進み、先進国の価値の論理だけでは世界万国がみれない。アメリカを中心とする先進国の論理だけでは、世界経済の金融や株式の信用機構が崩れていき、新たな国際的な金融などの信用機構の創造が求められているのである。