社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

子ども若者の居場所づくり・社会参加と社会教育の学会報告感想

子ども若者の居場所づくり・社会参加と社会教育感想

     日本社会教育学会九州六月集会より 

           鹿児島大学名誉教授 神田 嘉延

 

 6月22日に大分県別府大学で、九州地区の六月集会がありました。毎年一回の九州地区の社会教育研究者の集会です。3つの報告がありました。それぞれの報告の概要と感想・意見についてのべます。

 

 第1の報告は、「高校生の居場所づくりと社会参加」の報告でした。高校名は報告のなかであげていなかったのですが、大分市東である坂の市地区の県立高校は、東高校で、普通科と園芸ビジネス科と園芸デザイン科を有する学校です。生徒の進路先は、就職や専門学校が主で、大学の進学高校ではないようです。

学校案内で、普通科は、総合選抜制の多彩な授業、習熟度別授業、地域課題探究学習、地域に根ざしたボランティア活動をあげ、農業科は、総合選抜制、課題研究、農業を利用した地域貢献、地域と企業と連携したインターシップなどをあげ、地域との連携を意識した教育実践を特徴とした学校のようにみえるのです。

偏差値的にも決して高い学校ではなく、生徒たちに希望と誇りをもだせることが重要な教育課題であるような学校とみられるのです。このことは、大学進学をめざした進学高校にありがちな受験成績をあげるための型にはまった教育から解放されて、生徒の個性に合わせて自由性をもっている生徒の大いなる可能性を引き出させる高校であるようにも考えられるのです。高校名も報告ではなく、その高校でのカリキュラムの特徴や教育実践の報告は全くなかった。また坂の市の人口は、2万人ということの報告ですが、東高校の生徒が、どの地域から通ってくるのかわかりませんでした。現代の高校では偏差値的な進路指導によって、地域性がなくなっているのが現状ですが、ベットタウン化している坂の市地区にある東高校の場合は、どうなのか。本報告は、地域の側からの社会教育としての居場所づくりの未来応援の社会参加ということで、市民による未来応援コミュニティb―room「高校生の居場所」・家庭でもない、学校でもない、第3の居場所づくりの実践報告でした。この実践を主導しているのは、大分市の公民館に勤めていた人が退職して、公民館ではできないことということでした。

居場所づくりでは、すべてが正解、生徒自身の役割、コミュニュケーションを大切にして、可能性を引き出す自己決定と幸福感を目標としているということです。無人駅で写真館ということでの展示からはじめ、高校生が企画してのボランティア活動、公園をつくろうというボランティアのプロジェクト、ごみ拾いのブランティア活動、まちづくり協議会と連携しての自分の身近なところでの職場体験学習、養豚農家、米の農家での体験学習を実施しています。とくに、地域の農家からは、丁寧な米作りを教えてもらっています。田植えなどでは、高校生と地域の子どもたちと一緒に実施して、大切な交流の場になっています。

若者応援条例を大分市ではつくられていますが、高校生と市議会との話し合いの場がもたれています。家に、帰って、東高校の概略をインターネットで調べてみました。これらの活動が学校教育での東高校の地域と連携している特色ある教育実践とどのように関連しているのか、全く無関係なのかよくわかりませんでした。

第2の報告は、子ども食堂をとおしての、子どもの貧困化の問題を文化や心の問題までもおさえた報告でした。

子どもたちの言葉から、家にいるのが苦しい、むなしさを感じるという家庭の憩いの場が崩壊されている実態。子ども食堂で、これが家庭の料理だと知った。こども食堂をやって、子どもの貧困の状況がつかむことができたということです。子ども食堂で、友だちとの交流の場をはじめて気が付いたというのです。

バランスの取れた食事をいままでしてこなかったことがわかった。頼れる親族や身近な介助者がほぼいない家庭。長期に影響を及ぼす多重苦の連鎖。日々との「生きる」を支える子ども食堂の役割があるのです。どのようにして、子どもの希望を支えることができるのか。相談できる体制が実質的にない。親にとって、行政の当事者意識のなさ。

役所の手続きは疲れる。学校には責められるようで、苦痛の状況です。子ども食堂に来て、話せる相手ができたということです。子ども食堂は、最初の救済の扉になっており、それが学び合う場であると最後に報告者は強調するのでした。

この報告は、子ども食堂が経済的な問題ばかりではなく、多重化する子どもの文化や心の貧困を含めて、貧困の救済の場になっているということです。これらの問題に深く切りこんでいけるのが社会教育での学び場としての子ども食堂の役割であるということを強く感じました。目の前の子ども食堂にくる子どもたちに徹底して、つきあうことが、このような実践ができたということです。ある意味で、報告者は人間としてあたりまえのことをしていることが、学びの場の大切さを知ったということです。

第3の報告は、大分県県立図書館の社会教育行政を兼ねていることの報告でした。平成の市町村合併によって、地域の公民館の暮らしに根ざした学びが困難になったということです。県の行政として、それをどう考えて、従前の市町村の社会教育の役割を維持していくサポートができるかということです。

県は、直接的に社会教育の現場をもっているわけではありません。暮らしに役にたつ社会教育の行政の各部署との連携事業をどのようにすれば可能であるのか。それぞれの部署の教育的事業を調べて、社会教育としての予算化が大きな仕事とかんがえているという報告者でした。

学校と地域の連携・協働のとりくみは、まさに社会教育の重要な仕事になるというのです。不登校不登校傾向にある児童生徒の居場所づくりも重要とするのです。さらに、青年の学びなおしの応援も大切として、高校中退者で、働いている人に高校認定試験などの応援も予算をつけているというのです。学校を卒業した障がい者の学習提供支援も学びなおし事業として、予算化しているというのです。

この報告は社会教育の在り方を福祉での学習支援事業として積極的に考えて、県行政として予算化して、市町村での公民館の役割を再構築しているのです。暮らしに根ざした社会教育、公民館の再構築として、一般行政での教育的な役割を教育委員会社会教育行政として位置づけて、社会教育行政や公民館事業が衰退化して、縮小、廃止化の動きのなかで、戦っているという報告でした。

道元仏教の平和思想と現代的修証義理念

道元仏教の平和思想と現代的修証義理念

 

在家信者のための修証義と軍国主義化に戦争反対した仏教者



  曹洞宗道元を始祖としています。明治維新廃仏毀釈のなかで、薩摩藩のように曹洞宗を歴代藩主の菩提寺としの福昌寺が徹底的に破壊されています。これは、国家神道のための宗教づくりのためであった。 日本の仏教界は、国家神道によっての中央集権体制・軍国主義化のなかで、宗教的自立性を失っていったのです。

 しかし、このなかでも曹洞宗明治22年に「修証義」という在家信者のために、道元正法眼蔵を要約したのです。ここには、曹洞宗としての道元の仏教思想を学んでいこうとする前向きの姿勢がみられます。

  ところで、曹洞宗の大きな転換が起きるのが、日露戦争を契機に、社会主義思想をもった曹洞宗僧侶内山愚童師が、大逆事件によって、逮捕されことです。無罪でしたが、1911年31歳で、将来性を持った若い僧侶が、悲しいことに、判決後即刻死刑になったのです。

彼の書かれた「平凡の自覚」では、独立自活・相互扶助、自由・平等・博愛の実現の主張であった。人間尊厳の近代人として、あたりまえの考えです。

 愚童は、1904年の平民新聞に、一切衆生悉有仏性、此平等無高下が信仰の立脚地とするので、社会主義と一致することを発見したとのべるのです。大乗仏教のすべての生きとし、生けるものの一切の衆生には、悉く仏性があるということで、すべての存在に理想実現の能力を認め、互いに他者を尊重し、命の愛護に努めるということになるのです。自由とは、本来仏教用語であり、自我に執着して、わがまま勝手に自己中心に思惟し、行動するのではなく、自己の欲望を抑制して、真正の見解を得た自己に由るところの真の自由がり、主体性の確立が顕現すところにあるとするのです。

 平等も仏教用語で、人びとは本来等しく仏性を有しているのであって、人種・民族・階級・職業・性・年齢等を超えて平等であると説くのです。博愛は仏教用語では、慈悲です。それは、他者の苦しみを共にし、他者の苦しみを同じにして、すべての人びとの幸福に奉仕する菩薩行とするのです。愚童僧は、仏教の教文から不平等社会の現実を改革して、餓える人、貧しき人、苦しむ人の救済者として社会主義者となった。眞田芳「大逆事件と禅僧内山愚童の抵抗」68頁~75頁参照

 天皇国家神道のもとに、国民の精神動員を進め、強権をもって、中央集権的な教化政策を強化していく時代であった。官憲の弾圧を恐れて、曹洞宗管長は、彼を宗門から除名した。そして、陳謝表文を宮内庁に提出し、宗門あげての国家神道に従属していくための大規模な研修を行っていくのです。その後に、曹洞宗は、国家神道のもとで、軍国主義への従属を深めていくのです。仏教の戦争協力は、曹洞宗ばかりではなく、真宗僧侶の高木謙明、臨済宗の峰尾節堂など仏教界全体に逮捕が及び、曹洞宗と同じように、弾圧を恐れて、それぞれ宗派も軍国主義の戦争協力に進んでいくのです。

 

 国際連盟の脱退、満州事変を契機に、日本は世界を相手に全面的に国民を戦争協力の精神の総動員をしていく。仏教界も、この戦争推進の国民精神運動のために、仏教連合会をつくり、皇道仏教ということから、天皇阿弥陀仏ということで、仏教界も戦時国家体制に組み込まれていくのです。仏教界は、皇国史観のもとに、日本の国体を乱す敵は、仏教の対象の人間ではなく、日本人の生命・文化を防衛継承していくうえで、不殺生戒を破ったことにはならないということで、日本精神総動員運動に積極的に協力をしていくのでした。



 昭和に入っても、仏教者のなかには、戦争に反対していく人々がいたのでしたが、弾圧されていくのです。瀬尾義郎僧は、1931年4月に、新興仏教青年同盟結成会に参加した。30名ほどの青年仏教者が集まって、宣言と綱領を発表した。

その宣言では、資本主義に起因する現代社会の苦悩を解放するために本来の仏教精神である世界平和、愛と平等と自由の社会をめざすために、文化闘争はもちろんのこと、政治闘争も断行するとしたのです。仏教青年同盟の新興仏教の目的は、(1)堕落した既成教団を排して仏教の真価を発揮すること。(2)分裂した仏教を統一して、醜い宗派争いをなくすこと。(3)仏教の精神によって、資本主義経済組織の改革運動に参加して、愛と平等の理想社会を実現していくことの三点であった。

 

 1931年の満州事変直前の国家神道によって、一層に過激化していく軍国主義化のなかで、仏教の平和、慈愛、自由、平等の正義を信じる若者たちの動きです。この運動は、軍部ファッシズムに対する弾圧されることを覚悟しての抵抗であったのです。民衆は戦争防止のために自営的最善の努力を払わねば駄目だ。浅薄な敵愾心にかられて墓穴を掘ってはならぬ。戦争は人類の最大の不幸だ。帝国主義戦争は民衆の敵だ。反戦の明確な訴えを新興仏教青年同盟は行うのです。稲垣真美仏陀背負って街頭へ」岩波新書参照

 

 歴史は、アジア・太平洋への日本軍国主義の侵略の拡大になっていくのです。そして、国民の戦争協力の国家総動員体制として、日本軍国主義のファッシズム化が促進されたのです。歴史の結果は、悲惨な第二次世界大戦、原爆投下、沖縄の地上戦、日本全土の大空襲となっていくのです。

 

 戦後仏教者の平和運動道元思想



 ところで、敗戦によって、戦後日本は、平和と民主主義の新憲法を制定しました。朝鮮戦争に日本は、前線基地になり、欧米諸国などを中心に単独の講和条約を結んでいくのでした。このような状況で、仏教者は平和を求めたのです。1950年6月に米国のダレス長官に仏教連合会は、旧交戦国のすべてと平和を結び、憲法9条を守ることの決議を送るのでした。

 

 翌1951年2月、仏教者平和懇談会の平和声明を出すのです。「ブツタの示された慈愛の精神とその人間生活の信条である戒律として、戦争や暴力を否定する「不殺生」、資源の独占を禁じ、貧富を許さない「不愉盗」各国の不和を助長するデマ宣伝によって、他を陥れることを指定する「不妄語」という内容の声明でした。

 さらに、1951年6月に、宗教者平和運動協議会を結成して、翌7月には、非武装憲法を人類の理想と位置づけ、その理念を貫いて、世界平和を築くことという声明を出すのです。ここには、仏教者ばかりではなく、神道キリスト教関係者も平和協議会に入っているのです。

 戦後の仏教者の平和運動の出発をみるのでした。しかし、大逆事件などで弾圧された僧侶たちの名誉回復は、1990年代に入ってからです。

 

 曹洞宗として大逆事件で即刻死刑執行をされた内山愚童復権は、1993年の戦争責任の懺悔宣言によってです。1979年に内山愚童をしのぶ会が結成され、1984年には、曹洞宗人権擁護推進本部が愚童の墓参をはじめるのです。そして、内山愚童没の百年に総務総長談話として、懺悔と平和実現へ向けての誓願を出すのです。その内容は次のとおりです。

「懺悔と平和実現へ向けての誓願。2011 ( 平成23 ) 年1月24日。

 明治44( 1911 ) 年1月24日、「仏種を植える」ことと「死ぬ積りで人を救う」ことに仏者としての生涯をかけていたひとりの僧侶が生命を奪われてから、今日で百年が経過しました。時の国家の政治的意図によって、皇太子の暗殺計画( 大逆事件) に関与したという汚名を着せられて36歳の若さで処刑されたのです。その僧侶の名前は、内山愚童師、神奈川県箱根町林泉寺第二十世天室愚童和尚その人です。

 当時の宗門は愚童師に対して、この大逆事件が発覚する以前に「犯罪者」「宗旨に背く者」として烙印を押しつけ、宗内擯斥という教団永久追放処分を科し、宗侶としての誇りと生命を奪いました。大逆事件そのものが、実態として存在した組織的犯罪ではなく、愚童師を含む多くの被告が罪なくして断罪されたことが、敗戦後明らかになりました。

とくに愚童師生前の行実については、むしろ私ども宗侶が模範とすべきすぐれた仏者であったことが見直されました。すでに遅きに失した観がありますが、1993 ( 平成5 ) 年4月には、愚童師への処分そのものを取り消し、83年ぶりに師の名誉回復を公表しました。さらに宗門は愚童師の先覚的仏者としての追悼と師への懺謝のため、2005 ( 平成17 ) 年4 月に、林泉寺墓所に「顕彰碑」等を建立し、除幕の式典と追悼の法要とを挙行し、師の行実とその願いを宗侶それぞれの胸に刻みつけました。

 

 懺悔と平和実現へ向けての誓願師が自らの身命を賭して植えた仏の種は、ある時はまったく無視され、誤解されてきました。師の没後百年を経て、その仏種は静かに根を張りめぐらせ、幹を太くし、枝葉を繁らせ新たな花実を結びつつあります。

 本日、愚童師の没後百一年目の初日を迎えました。曹洞宗は、来し方の百年間をあらためて反省・懺悔し、愚童師が自らを捧げて蒔いた仏種を守り育てたいと思います。私どもは師にならい、日日の営みを通して、衆生と世界の苦楽にまっすぐに向き合い、平和と、社会的差別を解決できる世界を実現すべく、人間の尊厳を支え合うささやかな縁となる誓願に生きます。 曹洞宗宗務総長 佐々木 孝一」。

 大逆事件で死刑にあった内山愚童師は、無実であったのですが、曹洞宗の宗門は、事件発覚以前に犯罪者、宗門に背くものとしての烙印を押して、当時の国家神道の絶対的な国家権力に屈服して、戦争への協力体制にのみこまれていったことを反省して、懺悔しているのです。そして、現代的に内山愚童に学び、平和と社会的差別を解決できる世界実現への宗門の活動を誓願しているのです。

 

 大逆事件は、社会主義者幸徳秋水外25名が大審院に付され翌年1月に24名に死刑判決(12名は翌日無期に減刑)が出され12名が処刑された事件です。

 

 和歌山県新宮市では大逆事件の犠牲者、キリスト教の大石誠之助、真宗大谷僧の高木顕名臨済宗僧、峯尾節堂峰、成石平四郎、成石勘三郎、崎久保誓一6名の名誉回復の陳情が市民から出された。和歌山県新宮市では、2001年8月に新宮市新宮市議会に、犠牲者6名の名誉回復を市議会全員一致で「名誉回復宣言」が採択された。そして、6名の顕彰碑が建立されたのです。



 現在の曹洞宗は人権・平和・環境という理念のもとに宗教活動を積極的に展開しています。人権・平和・環境理念の基礎は、「正法眼蔵」の道元思想を現代にしたことにあるというのです。

それは、「仏道をならうというのは、自己をならう也。自己をならうというのは、自己をわするるなり。自己をわするるというのは、万法に証せらるるなり」という内容にあるというのです。『正法眼蔵』での「現成公案」(仏道をならうこととは、自己をならうことです。。自己をならうこととは、自己へのとらわれを忘れることです。自己へのとらわれを忘れることとは、一切の物事によって(自己を)明らかにされることです。一切の物事によって(自己を)明らかにされることとは、自己の身と心、他人の身と心を、自由の境地にさせることになるのです)。

  このことばは、矛盾しているように思えるかもしれません。これは正法眼蔵の現成公案における自意識を捨てて、無我になることの大切な教えなのです。自分を深くみつめ、自分のなかにある自我のなかの自己欲をわすれていくことを仏への道としているのです。

  それは、自己欲にこだわらずに、無我の心を悟っていくというのです。無我になれということは、自分の欲、自己の見方にこだわらず、自分に執着せずに利他の心をもつことを意味しています。

つまり、相互に信頼して、心の自由ということでの自然の感情をもって生きていくことをのべているのです。このことは、自分の狭い世界ではなく、宇宙全体に向かって自分自身が自由自在になるということの意味になるのです。自由自在ということで、仏のこころの悟りを開眼することで、人間的に自由にふるまうことができるというのです。

曹洞宗の経典は、修証義です。それは、道元正法眼蔵から、その文言を抜き出して編集されたものです。多くの僧侶と信者の参加のもとに、1890年に曹洞宗の総本山として、公布したものです。

 

 修証義の総序は、生死を究めることからはじまります。現成公案では、薪が燃え尽きると灰になるが、灰が再び薪になることはないと、と同じように、人が死んだら再び生まれかわることはないというのです。生も一時のありかたなのです。鳥が空を離れると死んでしまう。魚も水から出ればたちまち死んでしまう。所を得れば、道を得れば、日常生活がそのまま永遠の真理となるのです。これと同じように、人が仏道を修行し、実証する場合に、一法得れば一法に通じ、一行に行えば一行を修することになるのです。

 

 「人身得ること難し」ということで、人間として、生まれてきたことは、まれなことで大変なことなのです。「最勝の善身をいたずらの露命を無常の風にまかすことであってはならない」「身すでに私に非ず、命は光陰に移されてしばらく、とどめ難し、」として、命は自分では自由になるものではなく、ときと共に消えていく有限性をのべていることで、現生、次の世、さらに、次の次での世という三時の長い時空で、因果の道理によって、命の大切さを考えて、悪行ではなく、修善の道に生きることを諭しているのです。

 

 ここでの道元思想の教えから戦争という人間の命を大量に抹殺していくことを長い歴史の軸によって、みていくことが必要になってくるのです。

 さらに、三時の見方から、懺悔滅罪としての心を清めていくことが求められるというのです。仏法では、大慈悲心によって懺悔していくことによって、許されていくという考えをもっているのです。日本は、戦前に軍国主義化によって、隣国のアジア諸国で酷い侵略戦争を行った過去の歴史があります。

 このことは、侵略戦争をしたアジア諸国と共生・共存して、平和を積極的に守っていくための平和憲法を堅持するための心を清浄することによって、懺悔滅罪されていくのです。それは、仏教的に道元思想からみれば、民族の誇りを傷つけるものではなく、懺悔滅罪として、真逆の民族の誇りになっていくのです。

 

 修証義では、三つの誓願として、してはならないことは絶対にしないという摂律儀戒、しなくてはならぬおとは、必ず実行するという摂善法界戒、摂衆生戒として、世のため、人のために必ず行うということです。十重禁戒は、第1に、不殺生戒をあげ、第2に、不ちゅう盗戒をあげて、戦争による不殺生戒と、略奪していくことを厳しく戒めているのです。

 

 そして、発願利生では、衆生きに4つの利益を施すとして、布施、愛語、利行、同事をあげているのです。貪らず施す心の大切さをのべるのです。そして、愛語は、慈愛の心を起こして顧愛の言葉を施すことで、怨敵を降伏して、君子を和睦させる力があるというのです。愛語は、平和の対話の力であるのです。

 世のためひとのための利行には、自分の利益、報謝を求めないことです。このことによって、自分も他の人もよい結果になるというのです。また、同事は、不意ということで、自分にも、他人にもそむかないことしかし、たがわないことです。自分と他の関係は一体であって、無限であるというのです。それは、自が他になることもあり、他が自になるというのです。海がどんな川の水を受け入れるのも同時行であるというのです。

 

 まさに、同事行は、異なる人々も、それぞれを受け入れて一体となって平和になっていくのです。世界の平和を考えていくうえでの同事行は、紛争・戦争を側面から、それぞれの民族の歴史と文化を直視しながら、複雑性と多様性を包み込む広い視野と大きな包容力が求められているのです。そこでは、民主主義と独裁という単純な対立を前提にした見方ではなく、様々な価値観、や様な宗教を共存・共生していく人間としての生き方の哲学が、必要になっているのです。

賀川豊彦の協同組合論とマルクスの疎外・協働・自由論ー未来への主体的学びー

賀川豊彦の協同組合論とマルクスの疎外・協働・自由論ー未来への主体的学びー

 

賀川豊彦の生涯の社会活動と著作活動の概要

  本論では、賀川豊彦の友愛による協同組合の精神と、マルクスの労働疎外論から未来社会を模索していくものである。この未来社会の実現には、利潤第一主義、弱肉強食の競争主義、格差と無縁社会など、資本主義的利己による自由主義の矛盾からの解放を展望しているものである。

  労働疎外からの克服、友愛、協働・協同、利他主義的による人間的自由、それぞれの個性を尊重して、個々が仲間の絆を伴っての人格の発達がされていく社会を探究していくものである。ここでは、人びとの絶えざる学び・生涯学習が不可欠になるのである。そして、その矛盾の克服の実践によって、一歩一歩前進していくものと考える。

 ところで、賀川豊彦は、日本の生活協同組合運動、協同組合保険運動に大きな影響を与えた思想家である。戦前の労働者や農民の貧困状況をすこしでも改善したいという友愛的精神から労働運動や農民運動とのかかわりを深くもっていた。また、協同組合運動を日本で先進的に展開した活動家であった。

 彼の社会運動の基盤精神は、キリスト教の友愛精神を基本にしていた。トルストイの「戦争と平和」の著作に大きな影響を受け、その精神を基にして、平和運動にも貢献した。

  彼は、キリスト教社会主義に共感をもって、貧民の人たちをすくった聖人でもあった。キリスト教の信仰にある友愛精神の内心から資本主義的矛盾のなかで貧困に虐げられた人びとの救済の運動を積極的に展開したのである。

 明治34年に結成された日本最初の社会主義政党社会民主党創立者の多くは、キリスト教信者であった。明治政府は、キリスト教育信者で社会主義者に弾圧を加えたのが大逆事件であった。和歌山県新宮市アメリカで医学を学び、医師でクリスチャンであった大石誠之助が死刑執行されたのである。新宮では、6名が逮捕され、2名が死刑執行、4名が無期懲役の刑を受けた。

 戦後は、多くの研究者の解明によって、国家的陰謀としての真実が明らかになり、キリスト教信者と僧侶の仏教者など犠牲になった6名は新宮市の市議会全員一致で、名誉回復の決議されて、大逆事件の犠牲者を顕彰会として、暗黒裁判の歴史と犠牲者たちの意志を学習し、未来への継承に、人間の尊厳と平和のための市民的運動になっていったことである。

 ところで、片山潜安部磯雄、木下尚江などは社会党結成のメンバーの多くはクリスチャンであった。足尾鉱毒事件の運動など社会運動を積極的に展開した内村鑑三キリスト教の信者であった。戦後の日本共産党の副委員長を務めた小笠原貞子もキリスト教の信者であった。

  また、リベラルな日本の近代思想を形成していくうえで大きな影響を与えた新渡戸稲造キリスト教司祭信者であった。彼は武士道論を英文で出版して、世界に日本文化を支えてきた社会倫理精神を紹介した。また、一国の良心教育論などを実践し、同志社大学を創立した新島壌もキリスト教信者であった。日本では、キリスト教信者の文化人・教育者が日本の近代のレベラル思想の発展に大きな影響を与えたのである。

  明治期の社会主義の流れの仏教者との関係では、大逆事件連座した内山愚童、(曹洞宗・死刑執行)、高木顕明(新宮グループとして、真宗大谷派・死刑判決減刑無懲役)、峰雄節堂(臨済宗・死刑判決減刑無期懲役、加藤時朗(日蓮宗在家信者)がいた。

 昭和初期には、私有なき共同社会を論じて仏教社会主義を実践した妹尾義郎がいた。彼は治安維持法によって弾圧された。戦後は日本共産党の運動にも参加した。このように、宗教的な精神からマルクス主義を学び、社会主義運動を実践した人びとが日本に数多くいたのである。幕末から明治維新にかけての廃仏稀釈、大逆事件などは、キリスト教の神父や仏教の僧侶を国家神道のもとに統制して、アジアへの侵略戦争のための精神的動員にしたのである。ここでは、様々な宗教集団が国家神道のもとで、日本的精神に醸成され正戦論になっていくのである。

 ところで、賀川豊彦1920年出版「死線を超えて」は、100万部を超えた。賀川はこの年に、神戸購買組合を設立した。その協同組合は、後に灘生協になって、日本最大の生活協同組合になったのである。

  賀川は、1921年三菱重工業川崎造船所の大争議をも指導し、労働運動を積極的に指導した。彼は、キリスト教友愛精神をもっての社会主義活動を展開したのである。この大争議は、3万5千人の労働者による自主管理を一時的に実施する。

  しかし、警察による弾圧によって労働争議は敗北に終わるのでした。さらに、1922年には農民運動にもかかわるようになる。農民組合は3年後に7万人の組合になる。

 1929年以降は、100万人の救霊として、福音伝道のための活動で全国をまわるようになる。戦後の1946年には、桜美林大学の創設期に初代理事長になった。また、戦後の日本社会党の結成にも参加した。晩年は、平和のために、世界連邦に取り組んだのである。このように、賀川は友愛精神を基礎にして、多様な人々の救済の社会活動、政治活動に参加したのである。

 賀川豊彦の協同組合の本質論は、助け合いの組織を作り、それを実現することであると述べる。そこでは、生産者も、消費者も愛のつながりによって公正な、自由な幸福を分かち合う経済生活ができるとする。協同組合は、宗教的にキリストでいう兄弟愛意識の発展であると考える。それは、最善の合理性、科学性に富み、かつ芸術的、宗教的経済組織といえるというのであると考える。

 ところで、賀川は、唯物論的経済学の無能さを力説する。マルクスは、友愛の経済を実現することはできないときめつける。また、一方的な独善の教義的宗教は、友愛経済の実現ができないとしている。

  マルクス唯物史観は旧時代の学説と断定する。賀川は、人間の歴史における客観の勢力を否定するものではないとみているが、客観と自我が交渉して経済史が生まれるのは、自然史ではなく、生物の発生史だと賀川は考える。

 賀川はマルクスを次のように批判する。マルクスは、唯物的生産が意識的目覚め、人間の精神的文明文化を決定するというが、そんな簡単なものではないと批判する。

   賀川は食の生産について、次のように述べる。食の生産は、植物の征服、動物の征服、気象学・土壌学・肥料学・微生物学を始めとするその他の諸学を加えて進歩した。これは全く人間意識の発達によるもので、単なる唯物的決定によってよるものではないことは明らかである。マルクスは人間の意識の発達作用をみないとするのである。

  そして、さらに、マルクスの理論は、社会病理学を示したことは立派であるが、社会病理の治療方面には触れることはなかったと断定する。その最も重大な治療面は協同組合運動によらねばならないということが、賀川の主張である。賀川豊彦のディスカバー選書「協同組合の理論と実際」9頁参照

 この賀川の批判には、マルクスの正確な理解が不足して、多くの誤解を含んでいる。マルクスは人間の意識、意欲を社会変革のなかで特別に重視しているのである。決して、社会的矛盾は、必然的に解消されていくという立場をとっていない。

 

 賀川豊彦マルクス批判に対する本論でのマルクスの人間意識・意欲の見方

 

 賀川のマルクスの理解は、スターリン主義による機会的唯物の影響の中に強くある。スターリンは、世界の本性を物質的な発展法則ととらえ、世界精神なるものは存在しないとみるのである。

 「物質、自然、存在は、意識のそとに、それとは独立に存在する客観的実在であり、物質は感覚、表象、意識の源泉であるから、物質こそ第一次的であり、意識は物質の反映であり存在の反映であるから、第二次的であり、派生的である」スターリン「弁証的唯物論史的唯物論国民文庫、108頁。

 マルクスエンゲルス社会主義理論は、社会を変革していくうえで、人間の意識や意欲を積極的に評価しているのである。 そして、人間の善悪の問題、道徳や幸福の衝動を社会的役割のなかでみていたのである。そこでは、大きな流れのなかで、社会的存在の客観的にみる必要性を強調している。

 賀川がのべるように唯物生産決定という単純な考えをマルクスはとっていない。マルクスエンゲルスは、キリスト教の本質を書いたフォイエルバッハの機会的唯物論を批判している。そこでの人間の行動の見方は、頭脳を通して、感情や衝動、思想として、観念の世界によって起きることを次のように述べる。

 「人間を動かすものはすべて、その頭脳を通過しなければならない飲み食いさえもそうであって、それは頭脳によって感じられ飢えや渇きではじめられ、同じく頭脳によってかんじられ豊満で終わるのである。人間に及ぶ外界の影響は、人間の頭脳のうちに表現され、頭脳のうちに感情としての思想と衝動の意志決定となる。要するに観念の流れとして反映して、そしてこの形において観念の力となるのである」。エンゲルス「フォイルバッハ論・」国民文37頁より

 マルクス・エンゲルスの考える人間の行動は観念の力として起きるというのである。人間の観念は、かれが存在している外界の影響を頭脳をとおして表れるという見方である。そして、人間の善悪は、所有欲とか支配欲という人間の持つ邪悪な情欲から起きるとマルクスエンゲルスは次のようにみるのである。

 「人間の悪は階級対立の発生以来、歴史的発展の梃子は、所有欲とか支配欲という人間の邪悪な情欲であって、封建制度ブルジョアジーとの歴史が、その独特な永続的証拠である。道徳的な悪が歴史のうえで演じる役割の研究が必要である。このことをフェイエルバッハは思いもおよばない」。前掲書、45頁―46頁

 そして、エンゲルは善悪と幸福衝動の愛の道徳については、個々の人間が他人と交わるということから生まれると次のように述べる。

「フイエルバッハは自身の合理的自制と、他人との交じりにおける愛が道徳の根本規則であって、この規則から他の善悪のことが一切導かれる。また、幸福の衝動は人が自分自身のことだけにかかわりあっているのでは、例外的にしかみたされず、自分の利益にもなり、他人の利益にもなるようにみたされることはけっしてない。

 かえって幸福衝動は、その充足の手段である外界とのかかわりあいを必要とし、したがって食物、異性の個人、書物、談話、討論、活動など、利用されまたは消費される諸対象を必要とする。フォイルバッハの道徳は、これら幸福衝動充足のための手段と対象とが無条件に各人にあたえられているものとみる」。前掲書46頁ー47頁参照

 個々の人間が他人と交わることからの善悪や幸福の衝動は、個々の内面的なことに入り込むのではなく、おいしい食べ物文化の楽しみ、友人や異性との語らいや絆の関係、共に行動する楽しさや連帯など個々の外界との関係を大切とするのである。

  そして、人間の歴史は、自然の発達史と本質的に異なる。人間の歴史は意識が付与され、情感や考慮によって、意欲的な目標をもって行動していくということを次のように述べている。

 「社会の発達史は、ある一点で自然の発達史と本質的に類をことに類するものである。自然の発達史はまったく意識のない盲目的な作用力であって、これらの作用力の交互作用のうちに一般的な法則がおこなわれているのである。

 社会の歴史においては、そこで行動しているものは、意識を付与され、考慮または情感をもって行動し、一定の目標をめざして努力する人間のみである。そこでは、意識された企図、意欲された目標なしに、なにごとも発生しない」。前掲書、60頁-61頁

 マルクスエンゲルス社会主義の理論は、意識された企画と意図、意欲された目標なしに、一定の努力なしに人間の社会は動いていかないことを強調していたのである。

 マルクスは経済学・哲学草稿において、資本主義の労働は、人間の本質の自由で自発的なものからではないとする。労働者が幸福を感じないことで、精神を退廃させている。これは疎外状況であるとしたのである。

  マルクスの人間理解は類的存在ということで、実践的な社会的存在であり、意識や意欲をもって行動することを重要視した。 人間の本質的な自由な労働は、動物と異なり、人間が生活手段とする自然生産物は、人間の実践的な意欲された自由な精神活動である。そのことが人間の類的生活をもっての社会的存在の証でもあると次のように述べる。

 「人間は自分の生命活動そのものを、自分の意欲や自分の意識の対象とする。意識している生命活動は、動物的な生命活動から直接人間を区別する。まさにこのことによってのみ、人間は一つの類的存在なのである。すなわち、彼自身の生活が彼にとって対象なのである。このゆえにのみ、彼の活動は自由な活動なのである」。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、95頁ー96頁

 マルクスのみる資本主義的生産による疎外された労働は、人間の本来的な類的存在を奪いとるものであるとした。自由な自己活動の類的生活が労働疎外によって現実的な類的対象を奪い、給料による生活手段に大きく変化していく。労働者は、自分の労働の生産物に対して疎遠になるというのである。

  それは、自分の欲する生産物の労働ではなく、私有財産を所有する資本の富者の利益のために、生産するというのである。労働者にとって、彼が創造する価値の生産物は、自分の欲求から必要な生産物ではないのである。その生産物は、自分の所有物ではなく、外にあるものになる。従って、生産することに幸福を感ぜず、かえって不幸と感じ、自由な肉体的、精神的エネルギーが発展させられずに、肉体は消耗し、精神は退廃化するということになる。

 資本主義的な疎外における労働者は、労働しないときに、安らぎを感じ、労働は自発的なものではなく、強いられたもので、欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足するようになる。疎外された外的な労働は自己犠牲で、資本の私的所有者の他人に従属することとして現れ、自己を苦しめる労働になる。

 それは、宗教において、人間的な想像力、人間的な脳髄、人間的な心情の自己活動が、個人から独立して、疎遠な神的または悪魔的な活動として、個人の上に働きかけるように、彼の自己活動ではないのである。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、91頁ー92頁参照

  労働の疎外は類的存在の意識された自由な精神的能力という人間的本質を奪うことになるのである。 疎外された人間の労働は、人間の食糧、燃料、衣服、住居などの自然からの生産物であることから、人間を自然から疎外することになり、人間にもつ特有の自由な欲求に応じての活動的機能や、人間のもつ精神的本質を疎外することになるのである。

 労働者の生活手段の給料は疎外された労働の直接の結果である。労働者の隷属状態からの解放は、単に、労働者の解放というだけではなく、一般的人間解放が含まれるのである。資本主義的な生産関係において、労働者の生活手段は、自営する農林漁業者のように自らの欲求に応じての自然を対象にしての労働ではなく、市場をとおしてほしいものを購入することによって、消費手段を得るのである。

  そこでは、労働者の生産目的は、疎外された労働になることによって、私有財産の所有者の資本から賃金を得ることが重要な生活のための手段となるのである。マルクスは、この問題について、次のように述べる。

 「労賃は疎外された労働の直接の結果であり、そして疎外された労働は私有財産の直接の原因である。だから、一方の側面とともに、他方の側面もまた没落さざるをえない。私有財産からの隷属状態からの解放が、労働者のかいほうという政治的なかたちで表明される。

  労働者の解放だけが問題になっているようになっているが、そうではなく、むしろ労働者の解放のなかにこそ一般的人間解放が含まれているのである。生産にたいする労働者の関係のなかに、人間的な全隷属状態が内包されているのである」。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、104頁参照。

 マルクスは近代によって生まれた資本主義的な私有財産の積極的止揚の展望を、疎外された労働からの解放として、原理的に位置づけるのである。疎外された労働からの解放ということは、占有や所有という物資的関係だけではなく、全人間的な感性的な感情や意欲、意識を人間的に自由にしていくということを強調しているのである。この私有財産止揚は、長い歴史的な過程によって、具体的な矛盾から一歩づつ人間的な解放がされていくのである。

 「私有財産の積極的止揚は、人間的本質と生命という人間的感性を自分のものにしていくことで、単に占有、所有という意味だけではなく、人間の全面的本質、全面的な仕方でみていくことである。

  世界に対する人間的諸関係の中での見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感ずる、恣意する、直観する、感じ取る、意欲する、活動する、愛すること、要するには人間の個性のすべてである。私有財産止揚は、すべての人間的な感覚や徳性の完全な解放である。私有財産止揚が、人間の感覚や感性が主体的にも客体的にも人間的になっているということである」。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、136頁ー137頁参照

 人間の解放にとって、自然科学が大きな役割を果たすことは、産業をとおして、類的存在の人間のもつ社会的存在や人間的な哲学・思想の総合的な営みのなかで達成されていくものである。現代のように、科学や技術が競争社会のなかで一面的に産業に応用されてきた結果、地球的な規模で環境問題が生まれる時代である。

 持続可能な社会のために科学や技術の産業への応用問題を総合的に社会科学や人文科学も含めて総合的に考えることが迫られることである。マルクスは自然学の発展に、産業のもつ意味について、次のように述べている。

 「自然科学は途方もなく大きい活動を展開し、たえず増大する材料をわがものとしてきた。自然科学が哲学に疎遠なままにとどまっているのと同様に、哲学はその間、自然科学にたいして疎遠なままになってきた。一時的な結合もたんなる空想的な幻影にすぎなかった。

  しかし、自然科学は産業を介してますます実践的に人間生活のなかに入りこみ、それを改造し、そして人間的解放を準備したのであるが、それだけますます直接的には自然科学は、非人間化を完成させずにはやまなかった。産業は、人間に対する自然の、したがって自然科学の現実的な歴史的関係である」。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、142頁参照

 自然科学の産業の応用は、一面的であるが、自然科学が実際に人間の生活と結びついて、生産力の発展、経済の成長に貢献していくのである。

  労働の疎外という視点から大切なことは、資本主義的生産関係による矛盾の課題である。そこでは、価格競争や利益主義的な大量生産・大量消費・大量廃棄物ということで、一面的、奇形的に発展してきたのである。それは、人間にとっての幸福や豊かさに決して直線的に結びつくものではなかったのである。

  また、自然環境の破壊など地球的な気候問題も起こしているのである。この矛盾に対して、人びとの意識的な危機を克服していこうとする運動、様々な社会的な積み重ねられてきた社会的規制のルールと、それを、さらに矛盾解決を充実させていく社会的規制によって、一歩、一歩の目的意識的な解決の探究が行われているのである。ここにも、資本主義的な私有財産の矛盾の長い解放の運動があるのである。

 労働疎外の矛盾から、個々の労働者は無力であった。格差の拡大による貧困から集団として団結して、労働組合をつくり、自ら窮乏した生活や失業の恐怖を団体交渉、ストライキによって、人間らしく生きる権利を行使しようとするのである。

 また、資本による非人間的な利潤の社会的規制、失業や医療保障、年金など、国に対しての社会的保障を求めていくのである。ここに、労働者の労働疎外からの解放運動を中心としての社会的な人権が生まれていくのである。

  これらの事実からみるとおり、労働者の解放運動は、すべての人々の人間らしく生きる権利になっていくのである。それは賃金などの経済的物質的なことだけではなく、労働者が生きがいをもって働ける職場環境、豊かな知識や技術、教育や文化の保障、孤立した無縁社会の解放によっての潤いのある人間関係の構築によって幸福に生きていける権利も含まれているのである。

 労働の疎外は人間が商品化されることによって起きる歴史過程である。土地の占有・所有者であった農民が収奪されて、働く場所を求めて都市へと、工業へと移動していくことによって生まれたものであり、そこでは、失業者、浮浪者という過酷な生活を余儀なくされて、資本に従属していく過程があったのである。

 安定した雇用契約を結ぶことができるためには、資本に従属して効率的で、生産力向上のための労働力を発揮することが求められたのである。利潤追及の資本による効率的な労働力の質の競争が労働者の間で起きるのである。資本の効率性は利潤追求が第一主義であり、決して、労働者全体の生活の安定と幸福をもたらすものではない。

 資本主義的な価格競争は、科学・技術を利潤追求のために発展させた。その発展は人々の生活第一主義ではなく、自然にやさしいものではなく、失業者を作りだし、自然環境を破壊してきた。人間にとっての生活や文化を豊かにしたいという本源的な労働が人間自身をも疎外していくのである。

 そして、人間自身の精神的、文化的な疎外は、官僚制を生むのである。科学・技術の推進による生産効率の高度化は分業の著しい発展をもたらして、社会全体を目的合理的に人間の労働を部分化して、精神も細分化された機械の歯車のように官僚化していくのである。人間の疎外は労働疎外を基盤に、人間を商品化して、官僚制のなかにはめこんでいくのである。

 この人間疎外からの解放には、競争のなかにいる労働者をはじめ、人々の協同・協働、絆、人間的な友愛と慈愛の精神を大切にして、資本主義的な矛盾の克服のために連帯と団結していくことである。そして、疎外された状況から主体的意識をもって民主的に社会参加の行動を起こしていくことである。協同組合資本に個々が自立的と自治をもって、一人一票制度を大切にして、自らが生活者の主人公として参加することも重要である。

 このためには、協同組合自身が徹底した参加民主主義をとっていくことであり、個々の組合員が自らの生活、暮らしの豊かさになっていくという認識をもっていくことである。この参加民主主義の実現には教育という役割が欠かせないのである。協同組合の教育活動は本来的な協同組合運動を支える要になるのである。

 さらに、株式会社などの企業形態でも参加民主主義のしくみが大切であり、企業経営における労働者の生活、消費者の生活の豊かさ、環境にやさしい持続可能性が大切なのである。とくに、地球的規模で問題になっている気候変動の危機という環境問題から持続可能な発展のためには、再生可能エネルギー、有限的な資源からではなく、循環的な生産、リサイクルの問題など大きな課題がある。バイオマスセルロースナノファイバーもそのひとつである。

 現代の科学・技術を総合的に発展させれば、それは可能になっている。ここには、利潤第一主義の問題があり、労働者や一般国民との対抗による話し合いという参加民主主義の論理のなかで、経営側が譲歩することによって、問題が解決していくのである。

 マルクス資本論1巻13章での機械設備と大工業のところで、機械を採用にすることによって、安価な低賃金労働力として、婦人労働力や未成熟な労働力を雇い、むきだしの強奪、残酷な夜間労働を強制したことを述べている。

 それは、踏み越えられない一定の自然的諸制限につきあたる。そして、同時にこのような資本主義的搾取も自然的諸制限に突き当たる。自然的諸制限による人間の再生産も不可能になっていく。労働日の規制が工場法という強制によって、実施されていくのである。

  工場立法は大工業の機械設備の導入による自然諸制限の限界から意識的にかつ計画的に労働力の再生産を確保するという資本主義的生産搾取の無政府性の矛盾からの社会的要請でもあった。また、工場内における最も簡単な清潔・保健設備も国家の強制法によって、社会的ルールとして強制されたのである。

 工場法の教育条項も全体的には貧弱であるが、初等教育を労働の強制的条件としたのである。これは、教育と体育を筋肉労働のなかで結合する可能性をもったのである。

  さらに、工場の児童の方が半分の授業を受けていないにもかかわらず、昼間の正規の生徒と同じか、またはもっと多くを学んでいることを発見したのである。工場制度から未来の教育の萌芽が生まれているのである。

   この未来の教育は、社会的生産を増大させるばかりではなく、全面的に発達した人間をつくるためにも生産労働と知育および体育を結びつけることを教えているのである。

 「大工業を基礎として自然発生的に発展した一契機は、総合技術および農学の学校であり、もう一つの契機は、労働者の子弟たちが技術学とさまざまな生産用具の実際的な取り扱いについてある程度の授業を受ける「職業学校」である。

  工場立法は、資本からやっともぎとった最初の譲歩として、初等教育を工場労働と結びつけるにすぎないとすれば、労働者階級による政治権力の不可避的な獲得が、理論的および実践的な技術学的教育のためにも、労働者学校にいてその占めるべき席を獲得するであろうことは、疑う余地がない」。カール・マルクス資本論・第一巻」新日本出版、838頁

 大工業の機械設備の導入による労働力を枯渇させるという耐え難い児童労働の導入によって、社会的に自然諸制限が限界になることが認識されて、労働日や保健衛生設備充実の社会的規制と児童労働者の初等教育実施が義務化された。

 このことは、労働者が資本からの勝ち取った社会的譲歩であったが、同時に、生産・労働や実際の生活を結びつけていく教育の内容と方法の未来への教育のあり方も含んでいるとマルクスはみるのである。

 立身出世や学力競争が氾濫するなかで、人間の様々な諸能力の獲得は、人間らしく、文化的に豊かに生きるために、自然循環との付き合いで人間社会の持続性のために、実際と結びついていく教育のあり方が問われているのである。

  つまり、何のための教育であるのかという根本的な問題提起が含まれているのである。マルクスは、未来への社会を展望しての現実の社会的矛盾の直視から、それを一歩一歩解決していくことの重要性を教えているのである。

 

 賀川豊彦の協同組合論

 

 賀川豊彦のディスカバー選書「協同組合の理論と実際」から、協同組合の社会における産業民主主義、政治的民主主義、利己意識に根ざす資本主義に苦しむ人々の救済の道、それを実践的に支えていく学びを考えていく。

 終戦直後の都市では、食糧難による飢え、栄養失調がひどいものがあった。このなかで、闇の経済が氾濫して、社会経済が大混乱している状況であった。この状況を救うために、賀川は、協同組合の必要性を力説した。

 「経済機構も、生産、分配、消費の傾向が、全部物質および本能的な経済行動から救われて、初めて意識的に移り、生命的な一つの大きい愛の組織を形成せねばならないのである。

  その愛の経済組織とは、ここにいう協同組合運動のことである。 われらは、世界を一つの協同組合経済の世界とするために、あらゆる無用なる経済はこれを破壊して、世界経済を建て直す協同組合への道を獅子奮迅の勢いで努力せねばならない。

 窮乏・飢餓・不安・闘争・失業・闇の横行・混乱・恐慌、などなどの深淵が、暗黒な口を開いて人々を呑みつつあり、かつ呑まんとしているのである。 またインフレーションの竜巻が吹きまくって、アレヨアレヨという間に人々を天高く引きさらっては、再び地上へ墜落させている」。賀川豊彦のディスカバー選書「協同組合の理論と実際」前掲書、5頁

 日本主義的な無政府による経済の社会制度の生産、分配、消費の物質的な行動から、人びとが救われることである。この救いがあって、はじめて意識的な人間らしい生命活動になっていくというのである。その中で、とくに、友愛精神という愛の組織を形成するということで、協同組合を賀川は重視するのである。

 賀川は、愛に根ざした助け合いの経済組織が窮乏と飢餓を救い、盲目的な無秩序な経済状況が社会の混乱を防止していくとするのである。前掲書、10頁参照

 この愛に根ざした友愛の協同組合の精神に、公平で自由な幸福で、分かち合う社会ができるとするのである。

 つまり、賀川にとって、友愛の精神の協同組合の形成において、キリスト教でいう兄弟愛精神が、重要であるということになる。生産者も、消費者も愛のつながりによって、公正で自由な幸福を分かち合うことができる。キリスト教でいう兄弟愛意識の発展を協同組合にみることができると。前掲書、16頁参照

 賀川は協同組合運動において、物質を第一とするのではなく、人間尊厳を大切にして、友愛精神をもつ格を第一としているのである。協同組合運動は、隣人愛の社会を実現することを目的とするもので物質を第一とせず人格を第一とする。利益を中心とせずに相互扶助を中心とする。前掲書、20頁参照

 賀川は、協同組合運動の三つの原則として、ロッチデールの協同組合の原則を重視するのである。その三つは、(1)利益払い戻し(2)持ち分の制限(3)一人一表制ということである。とくに、もうけた利益を案分比例で戻すという分配制度の確立を重視した。このことは、独占権の打破と利益を消費者に戻すということから富を搾取しない、集中しないという原理をもっているのである。前掲書、21頁参照

 ところで、日本の協同組合の歴史について、古くから、無尽・頼母子講、地割制度のような共済組合、相互扶助制度のようなものが日本文化の特徴としてあったことを賀川は指摘する。日本の農村の共同体には、伝統的に助け合いの精神があったとするのである。

  そして、とくに、日本の協同組合の歴史で、重要なことは、学びという教育を重視してきたことであるとする。その典型的な事例として、京都の伏見をあげる。伏見十六会は、明治27年にキリスト教の信者であった人見善三郎によって信用組合が16名の有志で立ち上げられたものである。この組合は一日2銭の貯蓄ということで、16人が32人になり、千人となり、一万人を超える組織となった。

  その利益を教育に貢献させるということで、伏見菊水高等女学校、伏見商業学校を創立した。上級の学校に行きたい者には、学費のないものには大学を出るまで学資金を貸し出すということを行ったのである。

 賀川にとって、協同組合運動は、隣保愛、互助相愛の精神を基礎に、働いて得た利益を公平に分配し、個人家庭社会の幸福と向上のために使い、到善の施設を拡大して搾取なき社会をつくっていくことにあるというのである。前掲書、24頁ー25頁参照

 協同組合運動は、資本主義の解放ということで、搾取なき社会が目標となるのである。そして、協同組合運動は、運用するものの精神的社会意識の目覚めの程度によって真価が問われるということを賀川は力説している。まさに、教育、生涯学習という友愛や慈愛の精神による学びになってくる。

 そこでは、道徳教育を徹底し、意識開発をまたねばならないとする。組合員が利己的であれば利益金は全部かれらに返っていく。組合員に他愛精神が旺盛であれば、その利益は組合員の決議によって、全部社会公共のために使用される。協同組合は単なる金儲けの組織ではなく、喜んで人のために損をする覚悟をもっていく兄弟愛意識が求められていくのである。前掲書、27頁ー28頁参照

 兄弟愛意識形成という利他主義が大切になってくるのである。とくに、資本主義のなかで、金儲け主義の自己利益がはびこっていくばかりではなく、人を騙し、嘘をついていく人間としての倫理観を失っていくことが平然とやられていく状況もあらわれていく。その克服として、人間の尊厳、人間らしく生きるということはどういうことか。動物と異なって、類的な社会存在という根本的な本質論から、利他主義的な友愛や慈愛の精神が重視されていくのである。

 賀川は、生産を、生産のために生産すると言う盲目的の生産から一転していくことが求められるとしている。つまり、需要に対して生産者の活動が開始される時に、人間生命の幸福と完成のために、必然的に功利的一面と共に、芸術的精神をもってこれを生産するということである。

 そこでの生産には、芸術化があり、生産品に美と味わいを加えることになるのである。従って消費ということもまた芸術的意義を有し、かつ文化的意義を生ずるのである。賀川の生産論には、文化と結びついて、計術的精神が含まれているのである。

  まさに、物の生産には、人間の芸術をもっての美的な精神的活動が含まれているのである。まさに、生産物に対する文化的要素としての美的な品質の問題があるのである。一つ一つの生産物には、人間の魂が入っているのである。伝統的な職人労働による生産物は、このことを強く反映しているのである。大量生産・大量消費という効率主義による生産物ではないのである。前掲書、28頁参照

 協同組合運動の教育と訓練には、(1)奉仕精神と信用、(2)私欲を離れる、(3)会計検査を厳重にせよということがある。

 第1は、奉仕精神がなければ信用がない。日本の村々の産業組合はただ利益ということから出発しているのが多いので、利益がなければ組合をすぐに脱退したり、解散したりする。協同組合運動は、その場限りの利益中心の金儲け主義の運動ではない。経済状態を根本的に改造せんとする協同愛の運動である。

 第2に、肥料を買いつけ、先へ行って高くなると組合員に高く売り、その価格の差だけをもうけていた。こうしたことは、組合員を欺く利己的な態度で、利己的な態度で、利己心は組合を滅ぼすものである。

 第3の会計検査を厳重にせよということは、このためには、整然たる会計簿を備えておくことが絶対的な条件になる。

  多くの協同組合の失敗の教訓は、会計簿の整備の問題がある。幹部には会計事務に堪能な人、宣伝の上手な人、商品に明るい人と、三人をおかねばならない。さらに、組合成立の努力には、200軒の加盟者、事務所の設置、配給法として組合員が自分で取りに来るやり方、掛売りはできるかぎりしない方がよい、利益金の分配は早く理解させる方がよい、商人の妨害にひるまず妥協せずに、協同組合は労働組合と違って永い訓練と経験を積むことで忍耐せよということを賀川は述べているのである。前掲書、51頁-53頁参照

 さらに、協同組合運動は、国家改造ということがある。国家のもとで協同組合がしっかりして、組合員を餓えぬように、貧乏にさせないようにしなければならないと賀川は考えるのである。

 日本では、政党の歴史は、自己の権力のことばかり腐心して、国民の全生活のこと、福利のことは考えていない。政治を利用してわがまま勝手なことばかりしている。これでは、政治は少数者の権力争いの具に使われ、一般民衆がおきざりにされている。民衆それ自身が組織し管理する協同組合精神によって、国家の改造が必要であると賀川は述べるのである。

 また、協同組合代表による議会改造の必要性を強調する。協同組合の代表者を選んで、協同組合の組合長なり、専務理事というものの中から選挙し、議会を組織すればよい。国民それぞれの生活を熟知している組合の代表者のみが、真の国家の議会というものを組織しなければならない。

 議会制度というものは、生活に即して生活を根本的に改造する国家組織をもたねばならない。生活権を保証し、労働を保証し、人格権を保証するような、生活、労働、人格の三つを保証し得る真の協同組合の基礎をもった議会制度が生まれ、組合国家の議会をつくるべきと賀川は考えるのである。

 世界平和ということも賀川の協同組合論では重要な課題である。近代戦争は、人口問題、原料問題、国債問題、運輸問題、商業政策・関税問題の五つが重大な問題と賀川はみる。経済問題が世界戦争の大きな要因になっている。このために、協調相愛し、戦争のない世界的政治文化を協同組合の原則によってつくることを力説している。このためには、世界経済会議をもって、世界経済同盟を結ぶ必要性を提唱している。前掲書、55頁

 現代の平和と戦争の問題を考えていくうえで、賀川が指摘していることは重要な課題であるが、ウクライナ戦争問題やイスラエルパレスチナの問題を考えると、それぞれの国家体制や民族的価値観、民族的文化、宗教的価値を相互に認めていく国際的な協同と協調の国家主権の尊重が大切になっている。とくに、世界の平和共存を考えていくうえで、民主主義と独裁・権威主義の闘いという見方の克服が緊急の課題になっている。この意味で国連憲章の遵守が世界の協同と協調になっていくのである。

 

まとめ

 

 賀川豊彦は、キリスト教の友愛精神をもって、貧困化などの資本主義の矛盾にあえぐ人びとの救済に、友愛による協同組合を積極的に考えたのである。ここでは、利己ではなく、友愛による協同の経済を大切にしたのである。友愛の協同組合の経済の確立・発展には、学びの営みが大切と賀川が指摘していることである。教育の力によって、それは、実現していくというのも大きな社会変革の行動における特徴である。

 1995年に世界の協同組合原則として、協同組合のアイデンティティーに関するI CA 声明を全体総会で決議した。協同組合の定義は、共同で所有し、民主的に管理する事業体を通じ、共通の経済的・社会的・文化的ニーズと願いを満たすために自発的に手を結んだ人々の自治的な組織である。

 協同組合は、自助、自己責任、民主主義、平等、公正、そして連帯の価値を基礎とする。それぞれの創始者の伝統を受け継ぎ、協同組合の組合員は、誠実、公開、社会的責任、そして他人への配慮という倫理的価値を信条とする。

 協同組合の定義は自発的に手を結んだ人々の組織としていることである。つまり、自発的な自治組織ということである。そして、協同組合の価値観では、他人への配慮という倫理的価値を信条としている。他人への配慮ということで、利己的ではなく、利他主義を信条としていることである。

 協同組合の原則として、七つあげている。第一は、自発的で開かれた組合員制。第二は、組合員による民主的管理。第三は、組合員の経済的参加。第四、自治と自立。第五、教育、訓練及び広報。第六、協同組合間協同。第七、コミュニティへの関与。以上の七つの原則で、長年にわたって、教育と訓練の役割を特別に重視してきたのである。

 協同組合にとって教育の役割は決定的に重要であるということである。とくに、若い人々やオピニオンリーダーに協同組合運動の特質と利点について重視していることである。第七原則は新たに付け加えられたものである。それは、環境問題克服など持続可能な発展、人間らしい生活の地域課題と深くかかわっていることが認識されるようになったからである。協同組合運動は地理的空間として、コミュニティと密接にかかわっている。

 資本主義社会は、利益中心の利己主義に陥りやすく、競争主義を一層に促進する。このことが、国際的になって世界各地の天然資源の大規模な略奪、持続可能性を否定していく開発が各地に進んでいったのである。未来への持続可能な社会形成に、資本主義的利益第一主義の矛盾の解決をしていくためには、友愛精神による協同組合運動の必要性を不可避にしている。

 協同組合運動にとって、最も大切なことは、組合員の教育とともに、コミュニティに関与していくための啓蒙活動は必然的に要求されていく。1995年の協同組合のアイデンティティーに関するI CA 大会の7つの原則のなかでも子どもや青年期からの協同組合精神の教育を重視しているのである。現代日本における子育て・教育も大きな矛盾をもっている。

 学校では競争主義による一斉学力試験が導入され、一斉学力試験による教育の画一化も進み、偏差値教育による子どもたちをランク化していく。子どもの個性によって、また、子どもの将来の希望、やりたいことをじっくり考えていくような進路の指導も遠ざかっていく。学習塾やお稽古ごとの教育産業も幅をきかしている。子育てにかかる家計費も大きな比重を占めるようになり、子育て・教育をめぐる格差も重大な問題になっていく。本来ならば公的教育が担うべき教育の比重もさがっていく。

 このなかで重大なことは、子ども・青年の成長に欠かせない人間的な絆、仲間と共に考えて、協働の力で創造していくことが疎かになって、利己主義的利益におちいりやすくなっていくことである。つまり、類的存在・社会的存在としての人間の本来の利他主義的な人格が形成されていかないことである。

 この矛盾を真剣に考えて、教育における協同・共同、仲間と共に相互性をもって集団的に学ぶことが求められているのである。また、集団のなかで、道徳的に利己主義の克服、友愛精神、慈愛精神、利他主義の教育、協同組合と教育機関との連携がコミュニティーのなかで大切である。

 賀川は、生産過程における資本主義的な労働疎外の矛盾に対して、労働組合運動や農民運動を支援したが、それに、協同組合運動を対置したのである。また、社会保障の確立・整備、資本主義の無政府的な搾取や利潤中心主義にたいして、社会的規制をもって対処していくための政治的権力や行政的施策にたいしても、協同組合主義によって変革していくというものであった。キリスト教の友愛精神が大切にされた賀川であったが、ここでは宗教と政治権力や行政的な権力との関係にふれておかねばならない。

 友愛精神や仏教的な慈愛・慈悲の精神は、個々の社会的な活動を支えていく大切な精神になっていくことはいうまでもない。それぞれの信仰は、人間が生きていくうえで重要な精神になっていく。哲学や思想も同様である。個々の信仰や価値観は多様性をもっているのである。

友愛の精神には、人間の尊厳を基礎にして、それぞれを認め合って、対話して、相互に自由に活動ができることが重要なのである。社会的に絶対的な宗教や価値観があるわけではなく、国家権力や行政権力は、それぞれの信仰や思想・信条を認め合い、その自由を保障していくことが大切なのである。ここには、思想・良心の自由(憲法19条)。信教の自由、政教分離憲法20条)の民主主義の原理があるのである。

 人間は主体的な意識をもって、知的に、文化的に生きているのである。人間の意識、意欲、感情、知的な活動、他を思いやる心は、社会的存在として、類的存在の人間らしく生きていくために大切なことである。マルクスも労働疎外論など彼の哲学・思想のなかで、積極的に人間らしく生きていくために重要なことである。

  具体的に社会主義未来社会を論じるうえで、労働疎外や弱肉強食の競争主義、自己利益の金儲け主義の人間モラルの衰退の資本主義に対して、労働者や農民をはじめの国民的運動の役割は大きい。その矛盾の解決には、強いられた競争から矛盾のなかで生活苦や地域の環境を解決していく仲間の輪をつくり、絆を形成し、団結していくことである。

 現実の資本主義の矛盾の外にあるものではない。資本主義の胎内に社会主義の未来の姿がある。歴史的に資本主義の矛盾の現れ方も人々の運動によって異なる。それぞれの国の制度や歴史文化によっても異なる。また、それぞれの国の経済の発展度合い、人びとの意識度合によっても異なる。

 資本主義の中での科学・技術の発展は、競争主義の中で一面的、奇形的になっていった。そこでは、自然環境破壊をもたらし、持続可能な発展ということからの危機が現れたのである。人間それ自身も分業的に生産効率にさせられて、資本主義の労働疎外と同時に、目的合理的官僚制によって、人間の心のない業務遂行が機械的に促進されていくのである。近年のコンピューターや映像の発達、AI化によって、マスコミの発達も複雑になっている。

 人間は一層、機械に動かされ、バーチャルな世界に人びとが入り込んで、人間の意識それ自身が操作されやすくなっていくのである。人々の日常の暮しや実際の現実から遠ざかっていくことで、自立的、自発的に主体性をもって物事を考えていくことが難しい時代をもたらしていく。

  現代の日本社会は、子どものときから学力競争や立身出世にかりたてられて、大人になっても競争に追われる。この現状から、人びとは、孤立や無縁にかりたてられる。そして、利己的にならざるをえない側面がある。そこでは、個々人にとって、意志的に人間のもつ類的存在、社会的存在としての絆が薄くなっていく。様々な生活の矛盾を仲間と共に考え、学ぶことが苦手になっていく。

 このような現代の状況は、目的意識的に絆や仲間という集団、協同の組織形成が必要なのである。とくに自己の主体性をもつこと、目的や意欲、自分は何をしたいのかということの自己の個性をみつめて、積極的に組織形成していくことが不可欠になっている。

 さらに、人間らしい暮らしを実現していく人びとの目的意識的な友愛による協同の組織的実践は、資本主義的な社会的矛盾と対抗しながら、新たに、友愛・慈愛の協働性をもって、人間の個性と自由性の総合的な発展を導いていく。また、自然と調和し、豊かな人間関係をつくりあげていくのである。

 現実の資本主義の矛盾のなかで、その矛盾を解決していく人びとが獲得した社会的ルール、法制度、人間の尊厳による社会保障や民主的な公平の分配などの財政制度などは、社会主義を準備していく社会的基盤でもあるのである。

 この意味で、社会主義未来社会論は、人びとの現実的な資本主義の矛盾解決として人びとが勝ち取った社会制度、政治制度、財政制度のなかにあるのである。また、社会主義未来社会を考えていくうえで、利他主義的な友愛や慈愛などの精神をもつ人間の尊厳、人間らしく生きるということは大切なことである。

 

未来への地方自治と社会教育の研究展望

未来への地方自治と社会教育の研究展望

               神田 嘉延

 (0)研究所の 社会教育教育研究の基本的視点の再確認

 

  社会教育・生涯学習研究所の島田修一先生を囲んでの小さな3月9日(土曜日)の研究会は刺激になりました。私はオンラインでの参加。

  島田先生は、次のような問題提起をした。地方自治の未来をどのように具体的な展望をもっているのか。研究所が出した今回の本は、理論的に未来展望を提示できていないのではないか。社会教育の再定位を10年前に本を出して、研究を積み重ねていく必要があるということであった。その視点からの研究は、進んではないのではないか。この指摘は、厳しい指摘である。この厳しい意見は、研究所のメンバーに対する島田先生の大きな期待であると受けとめた。

  長く所長をされてきた先生の社会教育・生涯学習の理論の再構築の願いでもある。これは、生活の現実と現在の政治経済的構造の矛盾を解決していく未来への希望ある地域づくりの学習の方法にもなると考える。

 その見方は、それぞれが主体的に学び、科学的な視点から化社会教育実践をどう理論的に構築していくかという問題提起でもある。現在の世界的環境問題、平和の問題、都市と農村の対立、所得格差問題、人権問題など、人々の暮らしは厳しい状況にたたされている。それぞれの学問分野でも、人間らしい暮らしの豊かな未来社会の探求は重要な課題になっている。

 社会教育の研究者として、現実の社会的問題に対して、どう実践的に、それを社会教育という学びの論理から具体的にせまっていくのか。この理論構築が求められているという。

  その学習方法はさまざまな人々の相互の学び合いである。そして、学びをともに創ることをとおして、相互の人間的な発達や実践力を高めていくということの認識が大切になる。

  現代は、人権と自治に結び付いていく社会教育労働論の必要性が極めて大切になっているということを島田先生は強調する。 島田先生は、人類史な危機的状況に真正面に向かって、社会教育研究の必要性を指摘する。島田先生は、この課題に次のようにのべる。

  いま、食料、エネルギー、環境をはじめ人間の生存に関わる深刻な危機的状況に、人々の科学的認識、危機を解決する新しい社会秩序構築に人類はたたされている。この状況に、人々の人々の学びをとおしての深い思考と哲学の協同の作業が必要なのである。

  今後、社会教育実践がどのような領域で広がりをもって展開されていくのか。それを担う社会教育労働は、新しい人間発達の公共性としてどのようにして展開されていくのか。

   島田先生は、社会教育学会での研究の現状を批判する。研究動向は、地域づくり論が政策批判に傾斜し、社会教育職員の専門性が学習方法や技術論になっているという思いをもっている。

 

(1)神田の問題提起は、基本的視点をもって具体的実践の分析から普遍化探求。

 

神田の基本視点

   島田先生の意見に対して、私は大賛成である。しかし、なかなか自分の考えが十分に伝えることができなかった。この日のオンラインからの参加では出来ずに、難しさも感じた。

 神田の問題意識からは、地方自治の未来を社会教育から考えるならば、地方自治の暮らしの住民参画という地域民主主義の発展ということで、地域の伝統的文化、自然に対する畏敬の地域文化の社会教育の位置づけが必要であると考える。

  自然の畏敬の伝統文化は、山神、水神、田の神などに内包されている。それは、未来への住民自治の発展の文化的要素として再定位していくことではないか。

  人類史的に人間は、動物と異なって個体の生きる欲求としてでなく、共同体的営みのなかで社会的存在・類的存在として生きてきた。

 近代社会の市民社会は、個人の尊厳が重視されて、社会的存在としての人間の側面ではなく、自己欲望、自己利益ということで他者との関係が薄くなっている。そこでは、他者との絆・友愛の精神が弱くなっている。その結果、精神的に孤立した人間存在、意識のなかで無縁社会が形成されている。

  現代社会の実際は、巨大で複雑な官僚的組織化の状況になっている。このなかで人間の本来の精神的な営みである絆・友愛による自由な精神による共同的・協同的社会が切実に求められている。

  地域の暮らしの社会教育実践は、未来への社会像としての人間の本来のあり方からの、自己利益、自己欲望のみのエゴイズムの問題の克服に正面から向き合うことが必要である。

   農山漁村地域では、共同体的営みが伝統的にあった。それは、入会地や共有地、水利権、入浜権、溜め池の利用と管理、学校林野などである。

  ここでは、新たに無縁社会の克服、社会的存在としての人間を否定していく自己欲望謳歌を克服していくためにも、地域での暮らしの共同の営みを評価する必要がある。

   わたしは、島田先生の問題提起を具体的事例をとおして、農業・食糧やエネルギーの新たな地域づくり・地域再生の学びとして、また、再生可能エネルギーを新たな地域再生の学びと結びつける必要があると考える。

   さらに、現代的矛盾の視点に、都市と農村、農業や工業の不均等発展、都市への商業や金融の集中、病院や教育機関などやサービス機能が都市へと機能的に集約されていく問題を明らかにしていくことが求められる。

  これらのためには、農村のもっていた暮らしの文化や共同体機能の現代的な見直しが必要である。そこでは、崩壊していく農村の危機的状況のなかで、人々の農村の再評価の学びによって、新たな視点からの未来への持続可能な地域発展の力をつけていくことである。農村再評価の学びによる地域再生は、都市と農村、相互の新たな自覚した人々の自治の力で、いかに再生していくのかということになる。

  現代社会は、スマートホーンが誰でももつようになり、パソコン機能も人々に浸透して、テレビや新聞と同時に新たなマスコミ機能を果たすようになっている。それは、人々の意識や行動に大きな影響を与えている。このなかで、人々への宣伝や啓蒙活動というプロパガンダ操作によるウソや騙しがはびこっている状況を注意していかねばならない。

   現代のマスコミによるプロパガンダは、人々の意識や行動が暮らしから考える習慣よりも世論操作が大きい。それは、消費生活や文化、政治も大きな影響を与えている。

  現代社会は、騙しやウソではなく、真実を知るということを意識的に追及していく姿勢が必要な時代である。真実を知るには、地域の暮らしから考える学びが大切であり、多様な情報から真実を知ることが大切である。

   また、政策の基本になる法律・条例・行政施策などが理解できるるように社会教育的機能を充実させていくことも地域の民主主義を育てていくうえで不可欠である。

 

都市の暮らしの問題提起からの農村の再評価

  農村の過疎化、さらに崩壊のなかで、暮らしの共同体の再評価をしていくうえで、都市の暮らしが人間らしい豊かさであるかという根本的疑問の問題提起からはじめることが必要である。

  人間は本来、一人で生きられるものではない。孤立して無縁なる生活は耐えがい苦痛になる。かつては共同体が人間らしく生きる絆の役割を果たした。

  現代は相互に自立した人が、家族や仲間や絆をもって、さらにさまざまな機能的な人間関係で生きている。これらは大切な人間らしい関係である。この機能的な新たな人間関係によって、新しい地域コミュニティーや様々な機能組織の継続性が大切になっているのである。

 さらに、地域での自治、コミュニティ、社会的連帯は、無縁社会にならないために極めて大きな役割を果たすのである。この学びと組織化を積極的に展開することは大切なことである。ギャンブル依存症、アル中患者などの問題は、人間関係のなかでのトラブルなどの精神的疾患である。

  それは、現代的社会的病理現象である。人々の心の病みが蔓延している。そこでは、精神的疲れ、癒しの世界が求められている。この癒しも経済的格差のなかで、すべての人々に機会が提供されているわけではない。日常的な場を離れての癒しという様々なふれあい、豊かな環境での自然や文化的学びは、孤立化した精神状況を解放して、視野を広げていく。

 弱肉強食の競争社会、成果を常に求められての業績主義的な管理主義社会が生み出されている。現代の資本主義も矛盾は、都市に集中して、経済的格差の貧困ということばかりではなく、人間関係からの精神的な貧困化が生み出されているのである。

 現代の民主主義は、制度の問題ばかりではなく、人間らしく生きるための精神的な豊かな環境、個々の文化的な様々な充実が必要になっている。ここには、価値の多様性、異なる文化や宗教の寛容性、楽しく対話のできる環境が求められているのである。自然や文化の癒しとして農村の再評価があるのである。

  大都市の暮らしは便利であり、物質的にものが満ち溢れている。一見、自由に楽しんで暮らしているようにみえる。映画館や文化ホール、音楽会、美術館、博物館などのさまざまな文化的な催しが行われている。

   最先端の病院もあり、大学も集中している。しかし、都市の人々の生活は全てが生き生きと楽しく人間らしく暮らしているようにみえない。人々の暮らしのなかでの絆や地域の連帯ではなく、個々が自己欲望と競争のなかでバラバラにみえる。ここには果てしない人間の欲望が渦巻き、それを駆り立てている。

  自己欲望からではなく、利他を考えながら相互依存関係や自然の恵みのなかで生きてきた農村の暮らしにふれる学びが人々の心の病みの解放に効果のである。

  大都市は、根本的に格差矛盾と孤立化の社会である。当時に大きな地球的な面からみれば日常生活そのものが環境破壊を作り出しているゾーンである。農村の過疎化のなかでの危機の認識と同時に、都市の暮らしの矛盾を直視することが大切なのである。

  この都市と農村の矛盾を統一的にとらえていく学びは、社会教育として積極的に行って、未来への展望、都市と農村の交流と連帯ということがある。

   まさに、この危機のなかでで新たな地域的生活機能、文化の再構築などからの視点から未来への農山村社会の構築の課題がある。これらは、現代的に地域住民自治の文化的要素として位置づけていく必要性からである。

   ここには、狭い地域閉鎖的な見方ではなく、広く大都市と農村の交流という全国的な視野と市町村自治を越えての国のあり方にも関係してくるのである。

  伝統的な地域の祭りは、地域の暮らしの共同体の営みの物質的基礎をもって存在していたのである。それらは自然破壊の環境問題に立ち向かう地域文化の再生でもあり、大都市で暮らす人々の交流による心の糧にもなる。地域文化の自然に対する畏敬や伝統的地域の暮らしの営みの文化的再評価にもなる。

  この再評価のなかで、新たに現代的自然生態系に即して科学的技術の応用による地域経済の活性化にもなる。このための住民参画の自治が求められていくのである。バイオマス発電、地域資源の積極的な探求、新たなセルロースナノファイバーなどの学習など未来への地域の再生の視点も重要なのである。

   

バイオマス発電・小水力発電の具体的事例

 新しい農山村のバイオマス発電として、焼酎工場でのバイオマス発電がある。ここでは、肥料として、牛フンや焼酎かすを発酵させて地域の農業に還元している。

  霧島の焼酎工場の事例は、地域のエネルギー2000世帯分に還元している。南九州の焼酎工場、その他のバイオマスエネルギーの可能な食品廃棄物、食品工場の廃棄物、鹿児島県内全体の畜産物の糞尿などを具体的に数字としての可能性のエネルギーの産出量を求めていくことも必要なことである。観光牧場である高千穂牧場は、牧場の糞尿の醗酵を利用してのメタンガスで、発電をしている。

   これらのの実践が南九州全体または日本全体に拡がっていけば大きな再生可能エネルギーになる。数字を示しながらの具体的な説得力も同時に求められている。バイオマスを実施している焼酎工場は、自由に見学できる。また、学習館を設けている。交流のための市民広場も整備している。

  観光農場も高千穂の峰のすそので、動物とのふれあい、乳製品の加工工場、バイオマス発電も見学できる。これらの見学を積極的に取り組む姿は、人々が理解していくのに大いに役にたっている。まさに、人々の学習の場に機能している。

 さらに、地域の用水路や地形の段差の利用を小水力発電して、霧島市重久の110メートルの落差を利用しての発電所がある。これは水害の防災機能を兼ね備えたものである。霧島山麓には、戦前から山麓での自然の傾斜地を利用しての水力発電所がある。それは、いまでも活用されている。

 その発電所は、霧島第1発電,霧島第2発電,水天渕発電、小鹿所発電、塩浸温泉発電、新川発電など数多くあったのある。自然の傾斜地を利用しての水力発電である。地域の集落のエネルギーを自給する取り組みなどもある。旧霧島田口の集落の用水路発電がそれである。自然の地形は、多くの小水力発電としての利用が可能である。また、傾斜地の多い集落では、用水路を利用しての発電もできる可能性が高いのである。

 生産法人による農業とのシャア太陽発電も貴重な取り組みである。これらは、地域循環のエネルギーのしくみづくりの基盤になる。そして、新たな地域経済の活性化になり、雇用も増大していく。

  さまざまな再生可能エネルギーの取り組みの障壁になっているのが、安くて合理的な大量発電という幻想的な宣伝が原子力発電やメガソーラーである。原発は、福島の事故がそのことを教えている。メガソーラー発電は、日本の自然環境を破壊して、自然災害の大きな原因にもなっている。これらは、なかなか幻想を払拭できない強力な宣伝と政府の金配りの財政誘導があってやめていくのに難しい問題がある。

  ひもつき補助金、多くの財政誘導政策が地域住民の自立的学びを奪っている。この矛盾を直視しての国の財政民主主義をどう確立していくのかということである。

   原子力発電反対と同時に地域での再生可能のエネルギーの具体的な施策が地域の自然条件にあわせてつくりあげていく学びの課題がある。このさいに、住民の暮らしの自立の視点からの財政民主主義の視点は、欠かせない。

  この実現には、働く人々、地域住民の相互の学び、矛盾のなかからの具体的解決のための相互の協同の学びが不可欠になる。 地域住民間の矛盾、それぞれの企業と地域住民、地域住民と行政や公的な機関との矛盾も多い。

  矛盾の解決には、新しい未来創造の地域社会がある。大量の焼酎かすは、工場にとっても大きな悩みをもっていた。被害は、漁民や地域住民であった。

  観光牧場の近くは別荘や昔からの集落があった。臭いのことで、地域の人々は悩まされた。発酵によるバイオマス発電がそれを解決したのである。年間150万人訪れる観光牧場のエネルギーは、バイオマス発電で間に合うのである。

  

過疎化での新たな山の再生の可能性

 山村地域では、都市と農村という不均等発展からの著しい格差のもとで、過疎化や農村の貧困が起きていく。これに伴って、山林も荒廃していく。山の再生・活性化は、大きな課題である。

  生産性や効率性ということからは、農業と工場、都市と農村の不均等発展は、避けられない。工場と農村の援助は、社会的に公共的コントロールということから、国家的に財政的援助することはいうまでもないことである。

  ここには不均等を是正するための国家の役割がある。都市と農村の不均等発展の学びは国家としての食糧自給率向上や農村のもつ環境保全的役割、癒しや教育的役割から国家的課題になってくる。

 その学びは学校教育として子供の発達段階での自治と参加民主主義による民族的、国家的自立の課題として必要なことである。

  木材の輸入は、日本の需要の70%である。日本の森林が荒れて外国産の安い木材が入ってくるのである。セルロースナノファイバーという新しい未来型の工業素材が開発されているが、単なる経済利益の効率性からではなく、日本の森林資源の活性化、自然循環が重要である。

  学校林野も存在して、子供の成長や教育活動に林野は、大きな役割を果たしてきた。日本の農山村の教育の大きな特徴であった。若者組や青年団通過儀礼としての世俗から離れての山に籠る文化があった。

  現在では、多くの学校教育では森林の教育的役割が無視されている。森林行政と社会教育行政との連携もない。山村の地域住民は、体験学習として、森林の教育的役割の問題提起をしている。みどりの少年団が十分ではないが生まれている。森林組合などが積極的に青少年の自然体験学習として、環境問題の具体的解決方法の森林の役割を教えている。

  地域住民は、学校教育や社会教育の行政に体験学習や環境学習をよびかけている。森林関係の行政職員もその学びに協力している。学校の先生や社会教育職員と住民の学びの意識に大きな開きがある。

 

社会教育職員の仕事の本来的役割

  公民館は、趣味やお稽古の講座が中心である。社会教育の公民館などは趣味やお稽古などの講座や催しがほとんどである。暮らしの福祉や医療、環境問題などの実際生活に結びつく学習から遠くの存在である。

  趣味やお稽ごとの講座や催しは、広い意味での豊かな生きがいをもって文化的に暮らすことである。それらは、社会教育として独自の役割をもっている。それを否定できない。これらの活動が健康保全機能やシニア世代の趣味の充実として、生きがい対策になっていけば、それなりの地域での暮らしの充実の学びとして役割を果たしていくこくになる。決して趣味やお稽古ごとの講座を否定すべきことではない。

   しかし、その講座や催しの工夫も必要ではないか。これらは、自主的なサークルや地域の人材を生かして、さらに、民間のカルチャーセンターの活用、自治会などの自主的講座などを大いに生かすこともできる。

  社会教育職員は、実際生活に即して、住民の学習権の保障を担う専門性である。その専門性は、地域の暮らしや地域振興の学びの地域教育計画、住民の学習の組織化、コーディネーター的役割、生涯学習ということからの人間の発達論、様々な学問分野の基礎的な教養性が高く求められているのである。

  一般行政は、啓蒙的な政策遂行的教化主義になりやすい。住民自治による学習権として、学びによる参画民主主義にはならない。 社会教育職員の専門性は、地域の暮らしと結びついた地域の学習計画とその組織化、学習方法のの設計が本来の仕事なのである。

    一般行政と結びついての地域の振興計画とその実践の学び、住民の参画民主主義のコーディネーターとしての社会教育職員の役割がある。

  例えば、環境問題の学びは、それぞれの関連行政の仕事であるという社会教育職員の意識が強い。学校教育の先生も教科書、学力向上で忙しい。地域の教材開発や地域での自然体験学習で命の尊さ、自然の恵みを実感をもって教えることが弱い。

  パソコンの導入などで教育機器が一層に実際の生活実感や体験などから離れて、バーチャル世界での日々の暮らしから実感をもっての理性の発展から遠くなっている。喜び痛み悲しみという人間の感覚的感情から感性に、そして、理性へと発展過程をとおしての学びが薄くなっている。

 

地域住民の暮らしを守る運動からの主体的学び

  大規模な太陽光発電霧島神宮周辺の山で外国資本によって企画された。土地をもっていた人々は生活資金が欲しいということで売った。これも地域の矛盾として、悩むのである。

  旧霧島地域には天孫降臨ニニギノミコトを祀る霧島神宮がある。サルタヒコ巡りの行事も行われている。田植え行事、六月灯、夏祭り

収穫祭など、さまざまな祭りの行事があるのである。

  この神宮の宮司さんもメガソーラーに積極的に反対署名運動に参加した。神宮にお参りにくる参拝者に反対署名の看板を出して協力を願ったのである。

  メガソーラー予定地の大山の麓の集落自治会も反対の表明して陳情をした。地域には、お寺の住職たちと隠れ念仏の祈りの場の洞窟の6ケ所の調査などさまざまな遺跡巡りをして、地域の人びと歴史文化の大切を学びあってきた。

  これには霧島神宮の懐の深さがみれるのである。薩摩藩が弾圧して、隠れ念仏になった人々を霧島山麓の人びとはかくまったのである。霧島六所権現の多元的な信仰を包み込む精神があるのである。 

  神仏混合という古代仏教だけではなく、浄土真宗なども包み込む心の深さがあるのである。六根清浄という自然の恵みのなかで精神を豊かにしていく営みがあるのである。

 これらの歴史文化の学びの蓄積のもとに、メガソーラー反対運動の輪の基盤があった。霧島神宮には年間200万人の参拝者が訪れる。観光牧場や観光果樹園、たまご牧場なども盛んである。新住民が霧島の自然や歴史文化に魅せられて、移り住んでいる。その新住民の典型が別荘地帯の人びとである。

 また、新しいレストランなども都会から移り住んだ人びとが始めている。うなぎ屋、文学喫茶・レストン、スイーツの店、イタリア料理店、ピザ店、カレー店、しゃれた家族レストランなどさまざまである。古くからあった店の多くはつぶれている。

 旧霧島町の地域全体は過疎化して、人口減少は止まらない。60代以上の昔から住んでいる人たちに聞くと、地元に残って商売や農業をやることは恥ずかしいことであるという意識があったという。学校教育では、都会に出て、立身出世していくことが求めらられたのである。

  霧島の森林には山神が宿り、水神が祭ってある。麓には山から降りてくる田の神がいる。農民は豊作祈願の神様にさまざまな感謝と祈願の行事をする。感謝の気持ちで地域での収穫祭があり、稲穂をもって高千穂の山に登る。メガソーローの反対運動では、地域の歴史文化や自然の恵みに感謝する祠や遺跡などの調査で、その深さを再認識したのであった。祭りの行事は、地域の人々の絆や伝統的な文化の継承の学びとして、大きく役割を果たすのである。

 メガソーラー反対運動は、 結果的に地域住民の学び、度重なる会合によって、対象となる霧島神宮や別荘の住民または地域の農民、観光にたずさわる人々を中心として、反対運動が広がり、市議会議員全員と市長の反対で計画は頓挫した。

  これは地域住民の未来への地域づくりのを求めてことになった。メガソーラーに反対する運動を積極的に展開しながら、未来への地域振興策を模索していく一つの事例である。全国にはさまざま地域住民の未来への地域づくりの学びがあると考える。

  メガソーラ反対運動は、単に自然や森林を残すという消極的な意味でではなく、森林を活用した地域の未来へ創造の模索の学びでもある。自然のなかで生きる人間のあり方を長期滞在型の観光の工夫で出来ないか。

  都市から山村への子供の学習体験事業として出来ないか。心が疲れた働く人々がのんびり山村で滞在しての心のケアは、出来ないか。さまざまなアイデアが起きてくるのである。観光のあり方も一過性の景色の素晴らしいことだけではなく、心の豊かさを自然のなかで癒す、農業で汗を流しながら癒すという取り組みなどが必要ではないかと。

   

地方の労働力不足と外国人労働者への学び援助

 地方では、とくに農産漁村では深刻な労働力不足である。外国人労働者労働者に依存しなければ地域の経済はなりたたなくなっている。いうまでもなく、外国人労働者労働者の大きなハンディキャップは、日本語と日本の生活習慣や文化の違いからの大きな行違いである。

   この問題の解決には国際交流の行政職員のイベント活動や英語教育ではない。日本語の教育や日本文化を職場を基礎に教えていくことである。これには教育労働の経験や若者たちの地域の未来への熱意ある人々のボランティアが求められる。行政職員や外国人労働者の管理の機関では対応してくれない。現実は、検討するという回答であるが、なかなか進まない。

   住民による外国人労働者への日本語学習は、こみコミュニケーションが円満にいくように、仕事の基本の日本語が理解できるようにしている。「おはようございます」。「お願いします」。「ありがとうございます」。  このように丁寧なことば、感謝のことばを大切にしている。乱暴なことばは使わない、一方的な命令ことばも使わない学びを指導している。 

   日本人と外国人労働者の相互学習に気配りをしている。観光農園でも多くの外国人労働者が朝の挨拶でおはようございます。今日もお願いしますということばが日本人にも大きな影響を与えている。  一緒に旅行することも出来るようになる。ベトナム人と日本人と結婚することも生まれている。

 

地方自治の未来への展望と暮らしの社会教育の充実・参加民主主義の社会教育型国家像

   地方自治の未来とは、具体的にさまざまな先進的に事例を普遍化し、概念化していくことが必要である。南日本新聞珠洲市の半世紀前の原発反対運動が紹介されていた。能登半島地震を受けて、その反対運動の正しさが実証されたということである。

  ここにはふるさとの力という住民自治のことが問題提起されていた。自然の恩恵のなかで自然を大切にしてきたエコロジカルライフをはじめふるさとのなかで暮らしてきた人々の暮らしのなかの営みを大切にするということである。また、掟という住民のくらしの伝統的モラルには、現代的に再編成してことが求められるのではないか。

  とくに大都市の形成という超自然的現象のなかで未来への新たな地方自治の模索が不可欠である。地方やふるさとの連携、産直、都市と農村の持続的な定期的交流も含めて地方自治のあり方を深めていくことが必要である。

  鹿児島では協同組合間の学びが労働者協同組合を中心として、ネットワークの動きがある。協同組合は、本来的に組合員の学びの機能が不可欠な組織である。社会教育職員との連携は、求められているのである。現実には進んでいない。

  社会教育労働を狭い公民館などの行政として、そこに配置された職員のみに求めるべきではない。新しい国家像として、暮らしの人間らしい豊かさと人間的自由を求めての地域の参加民主主義を作り上げていくことである。

  この学びは地域の暮らしや経済に関わる様々な機関・組織団体と関わり、行政組織も狭い専門的分業された領域主義からの脱皮が不可欠である。

  公民館職員や教育委員会の社会教育の専門性は地域の学びで重要な役割を果たす。その可能性は、大きなものがある。幅広くさまざま機関分野の組織や団体と連携して、協同で学ぶこである。

  そのあり方を模索していくことが求められる。 これらには社会教育職員の幅広い知見とエコロジカルライフという住民自治の模索も必要である。社会教育の実践者として、個人の学びという狭い枠組みでは地域の住民が協同で学び自治を、それぞれの地域課題に即しての対応していくことが求められる。

  実際には価値観や認識の違いなども多様であるのが現実である。この違いを意識して住民の自治ということからの協同の学びの組織化があるのである。

 学校のように教室という学びの場が設定されているわけではない。学びの協同において、価値観や認識の違いが、さらに、興味関心という学びの参加意欲なども極めて大きく異なるのである。地域自治ということを尊重しての学びの協同を考えていけば、その学習の組織化は難しい側面が大きくある。学習の共同体は同じ興味関心の意欲によって成り立っていくものである。

 社会教育の実践者は趣味やお稽古ごとの共通の文化的関心意欲の場合は容易に講座として組織しやすい。講座方式の場合は同じ興味関心によって集まってくるのである。

  地域課題を解決していくには、同じ興味関心という意欲ある人々によっての学びの論理ばかりでなく、興味や関心のない人々を学びに引き込んでいく論理が必要です。住民自治ということからは参加民主主義ということで、興味関心のない人々を包み込んでの学びを構築して難しさがあるのである。

   社会教育・生涯学習の研究者にとって未来への地方自治の創造の研究、実践的な政策提言も含めての幅広い機関や団体などの連携や協同の学びが求められている。

  地方自治の住民参加の充実は、教育委員会の社会教育行政の狭い論理ではなく、地域住民の様々な暮らしのための行政分野の学びが不可欠である。住民の学びなく、住民自治の参加はない。地域の民主主義の充実もない。

 さらに、財政の民主主義を地方自治から作り上げていくことも大切なことである。制度の民主主義だけではなく、財政的に住民のために奉仕していくことが求められるのである。

  税金の取り立ても同じである。貧富の格差が現実にあり、累進課税ということで、所得の高い層が税の割合が高くなっていくのは当然である。社会保険も同様である。地方の暮らしの自治の住民参加から中央の税の問題や、国の財の在り方や国の政策転換も大きな課題である。

  地方自治の住民参加の充実から国の制度や政策、国の財政の民主主義が不可欠なのである。これらは、国民の学びがなければ実現していかないのである。

  これらには、様々な学びがある。それらが、相互にどのように関係していく学びであるのか。その問いが、社会教育の専門的な労働に求められているのである。学びの組織化は社会教育の職員の大切な専門性である。

  そして、学びによって、地方自治の住民参加がどのように充実していくのか。その実践をどのようにしていくのか。ここには、地域の民主主義のための社会教育の実践がある。

 この研究姿勢をもっての理論的構築が切実に求められる。社会教育・生涯学習研究所の社会的役割もここにあるのではいか。 日頃に同じ関心をもつ人たちの研究会をオンラインなどをとおして気軽にできないかと。また、大切なこととして、島田先生の問題提起について考えていくことが必要がある。
   社会教育型国家像については、すでに、社会教育評論のブログでのべている。そのブログは、次に示しているので参照してもらえれば幸いである。

https://yoshinobu44.hateblo.jp/entry/2021/02/24/220358

騙し謳歌の社会からの解放の学びの大切さについては、次のブログに書いている。

https://yoshinobu44.hateblo.jp/entry/2023/06/13/092813

 

熊沢蕃山:人間教育と慈愛の仁政

熊沢蕃山:人間教育と慈愛の仁政

       神田 嘉延

はじめに:現代で、蕃山の人間教育と慈愛の仁政を考える意味があるのか

 

 人間らしく生きていくうえで、今は、教育にどんなことが求められているのでしょうか。学力競争や学力テスト中心による学校教育がはびこっていないでしょうか。教育は人格形成ということで、人間として生きていくための能力、それぞれの民族的、地域的文化素養を身につけていくことが求められます。

 そして、生きていくための基礎学力はもちろんのことですが、同時に人間の尊厳、話し合いやルールという民主主義の尊重、人間として生きていくための絆、善悪など道徳形成は、大切なことです。それぞれの個々の成長も能力の差があり、相互に発達の差をもちながら、利他のなかで、他を尊重しながら、人間らしく絆や集団的に自治形成をもちながら成長していくということが問われるのです。

 ここには人間が生きていくうえでの自然の恩恵、自然循環のなかで人間らしく、豊かに生きるのが含まれるのです。それらは、競争主義的な個々の発達のみを考えていくものではないのです。また、健康に育っていくためにスポーツや情操の発達も大切です。子どもたちは、個性の発達と共に、全面的な側面からの育ちが求められるのです。

 現代は、国会議員選挙にいかない人びとが大幅に増え、投票率が半数以下になる市長選挙の状況があります。選挙では、それぞれが議論して自らの理性的な判断ではなく、マスコミやSNSのイメージ宣伝によっての影響が大きく、十分な政策議論が少なくなっているのです。民主主義の危機が生まれているのです。

   一人一人が現実の矛盾や未来社会を議論して、考える状況が乏しくなっていることは重大なことです。とくに、若い人びとは、所得も充分ではなく、競争主義と管理主義のもとで、将来への不安や恐怖をもっていることも少なくないのです。教育の力によって、未来をみつめていく状況が極めて少ないのです。これらの問題は、学校教育や社会教育の関係者に鋭くつきつけられているのです。

  とくに、公民館などの社会教育機関は、市民の教養充実、地域施策の学習など、民主主義の日常のなかで定着して、市民参加の様々な地域での取り組みが弱くなっています。職場のなかでも管理と競争がはびこり、個々が創意を活かしての自由な発想で、心を豊かにしていく働きがいが少ないのです。

 人々は孤立化して、本来の人間のもっている仲間と共に社会的な絆で生きるということが難しいことを弱肉強食の競争社会がつくりだしています。このような状況で、精神的な病も増大しています。現代社会は心の貧困が厳しい時代になっているのです。

 将来の見通し、不安感が人々の心を襲い、未来がみえにくい時代の中で、未来未来社会の創造性を求める社会教育、人々の学びの機会はきわめて大切ですが、それが整っていないのが社会的に取ってとって、大きな問題です。

 現代社会は、あらためて人間にとって、学ぶこと、学問をすることが問われているのです。日本という国は、伝統的にどうであったのか。仁義礼智信ということで、道徳の教育が重視されて、村のなかでは、小若組、若者組ということで、地域で一人前の人間になるための教育が行われていたのです。為政者や社会のリーダーになっていくには、学問を身につけていくことが大切にされたのです。

 とくに、為政者には、暮らしを豊かにしていく、民を幸福にしていくことが重視されたのです。民のための公の道が必要なことは時代を超えての普遍なことです。

  武士道は、公のために生きる精神であり、武士としての正義の生き方が示されてたのです。熊沢蕃山は、江戸時代に生きた学問を大切にして、仁政を強調した人です。常に批判的精神をもって、民のために武士として生涯を送った人です。

 かれの儒学陽明学知行合一思想からの人間教育や仁政論は、古い封建時代の身分制にもとづいた思想として、切り捨てるのではなく、現代政治のなかでも私欲や既得権が問題にされるように、為政者の公の仕事が求められているのです。

  熊沢蕃山は、水土思想をもって山の自然、森林の役割、水の恵み、天人同一などエコロジカルライフを積極的に提示しています。

  現代で利益優先、効率主義絶対主義、大量生産・大量消費、大量廃棄物、大規模開発優先で地域の自然を破壊してきたなかで、あらためて人間と自然、自然循環社会が問われるのです。

  人々の暮らしが地域の自然に根差して、エコロジカルライフの探求、人々の自然に優しい地域コミュニティー、それを支えていく地方自治のあり方が大切です。それは、古からの自然のなかで生きてきた人間的なふるさとの力です。つまり、ふるさとの力は、住民自治を基本に求めれるという意味です。

 現代の政治の荒廃は、極限です。仁政から大きくはずれています。裏金問題にみられる政治と金銭の癒着の現状を直視して、仁政を模索する為政者が必要な時代です。

  平和と戦争というテーマからホモサピエンスという人間の原点である仲間、支え会う集団、相互依存性、慈しみから対話という本質をながめることが必要なのです。

  仁政が鋭く問われるのです。現実は真逆になっています。人間のもつ考える力、工夫する力が重要なのです。現代社会は、科学技術の発展の力が非人間的なものに、動物的欲望になっているのです。この欲望は自然的に規制されるのではないので動物以下です。

  敵対主義による軍事膨張、パレスチナにみる大量虐殺、ウクライナ戦争など混迷した政治的状況や、荒廃した精神状況があるなかで、熊沢蕃山の仁政について学ぶことが多々あるのです。

 

  (1)熊沢蕃山の世界観と人間教育論 

 

人間の長所と短所によるそれぞれの人の役割

 蕃山は、人間に長所と短所があるという見方です。人間には、徳行に薄い人と、知に不足している人とがいるということで、為政者は、知と行をすべて備わっているということを部下を使うときに求めないということです。

 このことについて蕃山は次のように述べています。「たいてい文才に器用な者は徳行に薄く、徳行に良い人は、文才に拙(つたな)いことがある。知が聡明な生まれつきの者は、行いが欠けやすい。行いが篤実な者は、知に不足のところがある。君子は人の長所を採り用いて用いて、知と徳を全備することを求めない。小人は人の短所を表立てて、その美点を覆い隠す。すべての世の中には、才もなく徳もない人が多い。だから才があればたたえ、徳があれば誉めるがよりしい」(集義巻1)。

 蕃山は、このように知と徳を全面的に求めないことを強調してるのです。小人は自分の才もなく、徳もないことを隠そうとしています。むしろ、君主は大切なこととして、その人のもっている良いこと、不足していることをきちんと見て、それにふさわしい仕事をつけていることであるとしているのです。

 

学問と人間性

 知を増大していくということで、学問をすることで、利欲を求めることは大きな問題と蕃山はしているのです。

 「学問でも、利欲を本として勉学する者は論外です。真実に道を求めて学ぶ人は、みな愚人と召されるがよろしい。この世に生まれて知力が増すにつれて世間にもてはやされる人は、利巧だからである。そんな人物でも世間の利害に染まれば、道徳には遠いものとなります」(集義和書巻1)。

 知力がある人は、愚人と言われる方がよいということです。それぞれ、自分の与えられた仕事について謙虚になってこなしていくというのです。知力があると褒められても、自己の利害に染まらないということを指摘するのです。

 学問をして、博学になっても人情や時変(時勢の変化)を見通す能力のないのは政治に向かないし、ねじけた心をもっている人は害が多いとも蕃山は言っているのです。「たとえ博学有徳でも人情・時変(時勢の変化)を見通す才のない人は政治はできにくく、また世間知(政事に明るい知識)があっても心が、ねじけた人は害が多いのです」。

 「これらの事は、むかしの人選の仕方」で、蕃山の生きていた時代では通用しないと言っているのです。「地位相当の身分の人か、衆人を指すか、いずれも人情が納得する人の中から悪徳のない人物を選んでいる」ということです。「無学であっても、われ政をせんという学者の国政よりも優れている」と述べているのです。

 この言葉は、蕃山の生きていた時代でも、権力と結んだ学者の国政の悪さを警戒していたのです。これは、出世のための私利私欲の朱子学的な学問を利用して、幕府の権力と結んで力をもっていたことがあったのです。この現状に対する蕃山の気持ちの表れです。

 学者が一般の人には難しいことをしようと努めていますが、無学の普通の人よりも劣ることがあると蕃山は述べるのです。学問をする人はは、立極点の志に変わりがあるのです。

 学術は心の外に向かうので自らの知見が明らかにならないためでしょう。陽明の学者でも心から修養すると申しても理を極めることでは見解がいろいろあるのです。真実でないところが見えます。愚かさを知っていることが明らかでないのです。

 その境地を抜け出ることを知らなければ名利欲の根性が伏蔵して元の凡庸となるというのです。大志がなければ到達しないのです。

  生まれつき良い性質の人で世間の風習で表面ばかり暗くなった者などは、道を開けば一時の迷いはすぐ解けて元の良いところが現れるのです。このような気質変化と申す者もありますが、これも変化ではないのです。

 導く人の人柄が良ければ、その国の良い人が集まります。王陽明朱子の学の異同にはよらず、先学の徳と不徳によるものです。相対する人が我が身の鑑とすれば、自分の人柄こそ恥ずかしくなるものです。

 文が過ぎるとは驕りです。士以上が驕れば、軟弱になり、武威が弱くなります。上が驕れば、民がゆかれ果てるのです。上下が怠っては武が備わらないというのです。無事の時には、民も女のように心やさしいのは、使いようだけれども、戦国に当たって士の手足とするものは民なのです。

 少し学んだだけで、道理がましい説を立てる者は人道の害になるものです。自身の愚かさをを知らず、至らぬ私見を立て、無地の人まで物事を狂わせます。平凡な学者でも謙遜で心掛けの良い者を招いて経議を開かれるのがよいと蕃山は謙遜である学者の意見を大切にすべきと語るのです。

 徳行は人のためにするのではないと蕃山は断定します。それは、「自分一人のために天理を存し人欲を去るものである。人欲を去って天理を存する工夫は、善行より大きなものはない。善というものは、格別にことを作ってなすものではなく、人倫日用の用はみな善である」。まさに、自己中心的な欲をなくしていくことが徳行であるというのです。

 義理ということを決して、心法とするのではなく、小人の境地から抜け出すことを指摘しているのです。「蕃山は義理ということを心法にとって重要と思う人がいるが、「小人の境地から自らが抜け出す」ことを大切としているのです。「心中では義理を主として、よく心法を受容すると思う人がいるけれど、その人柄の全体は小人の境地で、自身はそれに気がつかない。小人の境地を抜け出せない者は古今に多い」。そして、理学と心術についての概念の概略を説明します。「人の迷いを解明することの多いのを理学といい、心を修めることが多いのを心術という」。

 

天地万物一体と人間の欲

 ところで、天地万物一体と人間について、蕃山は次のように語るのです。

「天地の間に人が存在するのは、人間の胸中に心があるようなもので、天地万物は人間を主とするから、有形のものの中で人間より尊いものはない」。

 「仁者は、一草一本でも切るべき時節でなく、道理がなくては切りません。鳥獣虫魚は殺しません。草木でも萎むのを見ては、わが心も萎む。雨露の恵みで青々と栄える様子を見ては、われ心も喜ばしい。これが万物一体のしるしです。人は天地の徳、万物の霊といって、優れているのは太極、一本の木は天地、枝は、国々、葉は万物、花の実は、人のようなものである。葉も花の実も一本の木から生ずるけれども、葉には全体の木の用はない。多数あって朽ちるばかりである。花の実は、少ないが一本の全体を備えているから、地に植えればまた大木となる」(集義和書巻1)。

 このように、蕃山は天地一体の自然の道理について述べるのです。そして、明徳の称号は、人の性にだけ当てえられたものであるとするのです。仁義礼智信は、人にあってこそつけられたのです。木神は仁、金神は義、火神は礼、水神は知である。天地人を三極という。万物は人のために生じるものである。わが心は太極であり、天地四海もわが心の中にある」。

 万物は人のためにあり、自然体の木・金・火・水等の神と徳の要素を結びつけて蕃山は強調するのです。蕃山は儒者も仏教者も兄弟であると述べたのです。

 「異なる見解は、争うのではなく、仏者も儒者、それぞれ天地の子です。所見の相違や生業によってさまざまに分かれます。兄弟の親しみだけで交われば争うことはありません。食べ物にも兄弟それぞれ好き嫌いがあります。味を争っても各自の口の引くところは一致しない。そのままにして、われはわれ、そのままの人で良い」(集義和書巻1)。

 人はそれぞれ異なるのですが、天地の子として兄弟であるというのです。違う見解を激しく争って、敵対するのではなく、許容して、寛容な立場に立って、お互いを尊重して、それぞれがそのままの価値観、好みを守っていくことが大切というのです。

 無欲とケチの違いについて蕃山は語ります。「無欲は、天理を止めて人欲とし、人欲を止めて天理とするという誤りがある。物を貯めて使わないのを欲とし、貯えないで有り次第に使い、無くなれば何もしないでいるのを無欲とおもっている誤りがある。ケチと正常の心でとがある」(集義和書巻3)。

 無欲とか人欲に対する見方の誤りがあるというのです。むしろ、真実の無欲ということを知ることが大切であるとしているのです。それは、天理を悟ることになるのです。天地ということで、自然の姿をよく観察して、自然のなかで人間が生きていることの原理を知り、それを実践していくということになるのです。無欲というのは、生きるすべを放棄させというのではなく、積極的に人間と自然の関係をみながら生きる知恵を出していくことになるのです。

 「支出を節約せず、急場の準備もせず、わざと財を貯えない様子をし、仁でも義でもなくて、理由もなく使い施すのを無欲と申しましょうか。それは名誉心から発して、欲心のいいわけでに見せかけたものである。

 人はケチというだろうかと考えて、純白な風をするのである。真実無欲の人には、純白もないものです。真実に無欲であれば、人がケチにあるという気遣いもないから、気にもかけずに、家屋の美を好まないから自然に倹約である。衣服・諸道具・飲食の好みがないから自然に身軽である。無欲無心の倹約であるから、自分も苦労せず、他人もとがめない」(集義和書巻3)。

 真実の無欲ということからの倹約というのは、自然にできるというのです。天理と人欲について、蕃山は並立しないと語るのです。

 「人が天理を主とするときには、人欲は亡失する。これを操存という。心が人欲を主とするときは、天理が亡失する。これを放舎という。天理が存在する時は、夜も昼も天理に感応するだけである。だから万物一体の理を感じて、惻隠の情が、発する。義の理を感じて、善悪の情が発する。礼も知も同様である。これはみな真実無妄の天理である。これを天理流行という」。(集義和書巻14)

 天理と人欲を主とすれば、天理は亡失する、天理を主とすれば人欲は亡失するというように、相反するものとしています。理を感じて、相手の身に寄り添って深く心を痛めるという憶隠の情が発することや真実無妄という偽りのない善悪の情が発するというのです。これらは、みな真実無妄の天理というのです

 義と欲について、蕃山は、欲が義に従って動くことを道としているのです。人間の欲の前提には人間としての義があるというのです。人間が生きていることに、自然的な欲があるのは当然です。

 欲がなければ死を意味します。食べる欲はだれでも生きるためには不可欠です。寒さを防ぐために衣服を着て、暖房をするのは人間の生きる欲です。家を建てて生活の場を得るのも人間の生きる欲です。これらの生きる欲には、人間的な義があるのです。義のない欲は、獣と同じであると蕃山は次のようにのべています。

 「義理で欲のないものは、生きている人間ではない。欲だけで義理を知らぬものは、獣である。欲というのは人間の形をなす心のもつ生の楽になるのです。天地万物は有無が離れず、道が存しているのです。

 だから有形はみな無になるというのです。形や色のあるものは恒常不変という常ではない。形や色のない恒常不変の世界が真の実であるのです。形や色のない世界の境地に極めつくした人が心静かに、福が来てもはなはだ喜ばない、禍があってもはなはだ憂えないのです」。(集義和書巻10)

 欲に覆われることなく、道を身につけて、義をもって悠然として、生のための欲をもって、暮らすことを好人としているのです。つまり、恒常不変として、無を極めていく人は心を静かに、動揺せず、心を常に平静さをもって楽しんで生きていくことが出来るとしているのです。

 現代社会は、消費社会と競争主義社会のなかで物質的な欲望が際限なく拡がって、出世欲や権力欲も増大していく社会です。

  人間は本来的に仲間をもって、慈しみのなかでそれぞれに助け、助けられていく社会的存在として生きてきたのです。

  本質的に利他主義です。競争が煽られて、利己主義的な人びとになりやすいのですが、そこには、心の苦しみも計り知れないものが伴っていくのです。心の病が大きな社会的課題になっているのが現代社会です。

 

わが子の育て方論

 蕃山に来書での質問が来ました。それは、わが子の育て方です。「愚者ではありませんが、者世間の習慣に染まって、気ままでわがままで道徳を好まず、諸芸も根本に入れず、かえって父の非を数えて立て、同志の人びとの非をいい、口先がうまくて、その身の行状が悪く、どうしたらよいのか」ということです。

  蕃山は次のように答えます。「一朝一夕にそうなったわけではありません。貴殿の長年の育て方のためであるから、御子息の罪ではありません。父とは心根には慈愛があって、いつも厳格であるのがよろしい。人の生は水と火の二つがなければ、一日もやっていけません。

 水火の仁恵ほど大きいものはないが、火は厳しいものなので、人は恐れて用心をするから心から火に近づいて死ぬ者はいません。水は柔らかなものなので人びとは心安く思い、近づいて溺れ死ぬ者が多い。貴方の欠点は、柔和にすぎていることです。柔和に過ぎているのは人が褒めるもので、善いようですが、その家に不孝の子が出ます。

 ・・・水の仁は母のようで、火の仁は父のようである。貴方のは母の仁であって、御子息が悪くなられたのです。いまになって厳しくなさるのなら、いよいよ逆らって善いことはありません。・・・貴殿は今から火の仁をなすことはできませんから、水の仁でもっていよいよ徳を積まれるがよろしい」(集義和書巻3)。

 蕃山は、水と火の性質の人間との関係をみながら、子育てにおける火の厳しい側面と根底に慈愛をもつ父の役割があるというのです。

   そして、水の柔らかさと慈しみの母の子育ての位置があることを強調しています。父と母とは子育てにおいて、それぞれの自然的な役割機能があるというのです。

  蕃山が火と水に対する人間の関係から子育てを説いていることは、天地万物、人間の存在の天地自然の運行、万物は人のためという世界観を根底にもっているからです。 

 子育てにおいて、道理や学問を強いることは、かえって逆の効果になるということを蕃山は次のようにのべているのです。

 「道理を分別する知恵も開けない時に、善事を強いるのは、かえって善根を挫けさせる例もあるというのです。学問などが強いると、後に学問嫌いになる人もいる。ただ善事で大きな垣を廻して不善の事を見せず、戒めなくても不善をせず、努力しなくても善にならうようにするがよい。天地の間に春が来れば、春に遊ばぬ人はなく、善事が家の中に満ちれば、善を楽しまぬ人はない道理である。善事と言って特別のことがあるわけではない。五倫の人間関係に五典十義があることを自然に教え習わすのである。六芸で遊ぶことも、その作法がよければみな善事である」集義外書巻1)。

 このように、子育てにおいて、分別も知恵のない時期に、善事や学問を強制してもかえって逆の結果をもたらすことを警告しているのです。

  むしろ、自然に育っていくことを大切にして、そのまわりの人びとが善事を積んでいくことであるとしているのです。

 幼君の教育について、1、礼を教えるのに世間一般の基本を知らせるがよい。7・5・3などの祝儀を遊び事にして、成人こ子どもも混じって互いに客になり主人となり、給仕人となって作法を教え習わすがよい。口上・辞儀も、遊びがてらに習わせるがよい。

 2、音楽の稽古の初めは、音律のよい者を師として、ことや笛の楽譜を歌うことを習うがよい。幼少の者に成人もまじり、幾人も一度に歌えば早く熟達できるであろう。そのなかに音調に器用な者がいれば、脇の者も引き立てる。楽音によく熟達すればみだらな音楽は好まぬものです。

 3、幼少の弓矢の稽古について、弓は手ごたえのないほど弱い篠張(しのばり)から始め、馬は木場から始め、その後は的を射て遊び、輪乗りをして、鞍を固め、馬から落ちぬように教えるということです。武道を、技芸を職業とする身分の者にまかせると、武道が廃れることになるのです。

4、読書・手習いは幼少の者に成人の人もまじって、退屈しないように約1時間替わりで学習するがよい。武芸は約2時間替わりでよい。いつも幼君の眼前で練習すれば、自然に見聞して、苦労なく習うことができるのです。成人の者は、その好みに従い、決して強制してはならない。8歳から15歳・16歳、20歳までは教育の年頃だから、少しづつ教えるがよい。

 5、算数は才知を伸ばし、六芸の一つで人生の用に立つものであるから、必修の科目であるけれども、卑しいことのように考え込んで、習わない人が多い。古の武士は商人のように利害の話はしなかった。今は算数を卑しんで利害に専念しているのです。軍法にも算数を用いることがあります。数の根本は利益を取り扱うものではない。律算などは最も風流なものです。このような算数を子どもと大人がまじって2番、3番し、そのうち1番は幼君のきままに従い、2番、3番は算数の技を競うのがよい。

 このように蕃山は集義外書巻一のなかで教育について語っているのです。それぞれの教育内容についての教育方法について、成人がまじって、習わせるということと、強制させずに、遊びに心を大切にしての教育を重視しているのです。

 

(2)熊沢蕃山の仁政論

 治国平天下の窮理は民がいるということから考えることです。民が民として生きて行けるのは五穀が豊富にあって民力に余裕があることであると熊沢蕃山は次のようにのべているのです。

 「そもそも国が国と存在するのは、民があるからである。民が民と存在するのは五穀があるからである。五穀が豊富にあるのは、民力に余裕があって、仕事の成果によるものである。だから、有徳の君、有道の臣のいる時代の一日は、のびのびとして長い。その民が静かで暇が多く、生活力に余裕があるからである。

 道の失われた時代の一日は忙しく、短い。その民は苦しみ、勤めても力が足りないないからである。古も今も一日の長短に変わりがあるわけではない。君が英明で、民が静かであれば長いように感じる。上が暗君で、下が乱れていれば短いように感じる。だから、礼儀は富み万事に足りていることから生まれ、盗賊は貧窮より起こるものである」。(集義外書巻7)

   天下の治国は、民がいることによって、成り立っているという見方です。民は五穀を生産し、五穀が豊富であることは、民力に余裕ができるということで、その国と富の源泉というのです。五穀を基本にして農業生産を通して民が豊かになっていくというのです。民の豊かさは、生活力の余裕であるというので、食糧が確保されてこそ、民がのびのびとして一日が静かで長く、暇が多いという気持ちになっていくというのです。

 現代の国際的分業社会では、それぞれの民族や地方・地域で食糧を自給していくということではなく、金銀銭によって、交換していく時代になっているのです。一見、豊かな飽食の生活と多量の食べ残しをしているようですが、不安を持ちながら生きていることと、金銀銭を持たない他の民族に飢餓状態を押しつけているのです。

 蕃山の生きていた時代の江戸中期時代に、民が衣食を不足して、士が貧困になっていることがあった。そこでは、士は、財を貪り、民は盗みをはたらくという現状で、どのような政治が政治が必要であるか。この問いに、蕃山は農業の五穀を基本にすえることをのべているのです。

 「農業が有利である時は、本業を勤める者がたくさんいる。そして民力に余裕があれば五穀の生産も限りがない。女の仕事も寛やかで精しいから、天下婦人は女の仕事をよくして、布綿も余るほどある。木こりや杣人が山林に入って仕事をするにも、時節をはずさなければ、草木がよく繁茂する。同時に、無用の家作をせず、無用の器物をつくらなければ、山は茂り、川は深くなって民の需要にも欠乏することはない。

 そもそも金銀・珠玉・銭物を用いることが多くて、五穀の生産の少ない時は、人民は多欲になる。善人を宝としないで、器物を宝とする時は、驕奢になる。だから、善政は粟(もみ)を本にして他の万物に交換するのである」。

 民の食糧不足で、士が貧困な状況をつくりだしたのは、金銀・珠玉・銭物を用いることが多く、為政者が傲慢になって、驕奢な生活になっているということです。民が五穀を生産していく原点として、自然生産物を大切にしていくということで、籾によって、交換していくことを基本としているのです。

 「籾は米にしてしまうと損しやすいし、虫に食われて使えなくなるのが多いため、古は籾(もみ)で納め、すべての売買も籾で行ったのである。籾はかさが多くて、たくさん積み隠すことのできない物であるから、自然と人心の欲は少なくなる。他のいろいろな物を作って、それを籾に替えて食う者も、仕事の労力は少なくても食は足りた。

 だから、倹約の訓戒がなくても、自然に驕奢にはならない。世間に粟が満ちてたくさんになれば、互いの不作にも困窮にまでに至らない。五穀が水や火のように多い時は、民に不仁の者が少ない。盗みをすることがない。金・銀・銭は五穀の補助だけをする」。

 籾によって交換していくことは便利性、効率性という面からみれば、金銀で取引することになりがちである。便利ということは、驕りの心が増大して、商人が富むということで、武士や民はかえって貧しくなっていくというのです。

 「籾を使うことをやめて、金・銀・銭で万物の売買をする時は、それを収め貯えて広く用い、便利なものであるから、規制しても驕りが生じる。いろいろな職業の者がみな美を尽くそうと思うようになる。だから、商人は過分に富み、士が貧乏であれば、民から取ることがますます多くなる」。(集義外書巻8)

  どのようにして民を救ったらよいのか。上の米穀を散じて民を賑わそうとすれば、民が多くて穀物が足りない。金銀を施そうとすれば、金銀は限りがあって、民は限りがない。この問いに対して、蕃山は、民に対する驕りが根本であると述べるのです。

 「下々を損ずるのは驕りである。驕らなければ使用することが少ない。使用が少なければ、自然と民から取ることも薄い。・・・心の驕りをやめないで、物事を倹約しようとするときには、東で物入りをなくしても西で物入りが生じる。なくした所では、人の所有物はなくなり、庶民は職業を失う。生じたところでは、人はない物を求め、民は本を棄てて末に赴く。だから、士はいよいよ貧乏となり、民はますます遊民となる」。

 どんなに倹約しようとしても為政者の驕りの心が民を貧しくしているというのです。金銀が取引驕りが為政者と大商人によって、蔓延して、金銭による支配が強まっていくのです。人間にとって、五穀という食糧の原点を考え直して、自然のなかで生きていく在り方を深めていくことは、生活の余裕、豊かさを作り出していくというのです。

   治国・天下のためには、その要としての人材を得ることだと、蕃山はのべます。どうすれば仁政のために人材を得ることができるのか。為政者自身が民を我が子のように慈の心をもってことに当たることを基本にすべきで、人々はだれでも平和を望み、世の乱れは望まないものであるとみているのです。人としてのあるべき仁の心が大切であるとつぎのように蕃山はのべます。

 「人は、みな国の治安、天下の平和を望まないことはないけれども、その治平を乱す根を絶つことを知らない。その根本を精究すると不仁が原因である。人民に対して自分の幼児を保育するような慈心がないためである。

 人々は我が子が水火の中で苦しめば、これを救わないうちは、寝ても、眠られず、食べても味わうことができない多くの子供を、自分ひとりの力では水火の災難から救うことができないときは、助ける術を知っている人があると聞けば、年来の仇敵であっても、かならず行って手を束ね膝をかがめても、我が子の救助を頼むだろう」。集義和書巻12

 仇敵であっても我が子の命が危ないときに、その術を知っているならば、手を束ね膝をかがめても頼むということで、我が子を慈しむ心が重要であると指摘しているのです。君主という人間的な器は、民を我が子のように慈しむ心であり、徳行の備わったが、学識、人格ともすぐれた人格者が為政者になっていることです。

 つまり、仁政の精神をもっているのが、君主なのです。学識がある人々があり、人格的にも優れていて、君主を支えていくのが賢人であるのです。だれでも、君主や賢人であるわけではなく、その人間性の鍛錬、教養、その素養が求められるのです。

 多くの人々は小人です。小人は、小人としての社会での役割があり、その能力を十分に発揮させるのが君主であり、賢人であるのです。その小人が君主や賢人のようにでしゃばって為政者のようにふるまえば社会が混乱し、国は亡びていく。小人が驕る時に民は剥落されて、天下に災害が多くなると蕃山は次のようにのべているのです。

 「そもそも剥とは、君子が退き小人がでしゃばることでもある。小人がでしゃばれば日ごとに驕奢になる。このため、世の中が驕るときは、民は剥落されその次に士が剥落され、その次に公侯が剥落される。このようなときには、天下に災害が多くて、ついには主君も剥落して、乱世となるものである。今の武士は、民から厳しく年貢を取ることを好んで、寛大にすることを怠り、民が剥落された次に、自分の身にも及ぶことを知らない」。集義外書巻7

  乱世の原因の三大要因として、蕃山は、「第一には、大都市でも小都市でも河海の通路の便利なところに都を建てると、驕奢が日々増して防ぎ止められない。商人が富んで士が貧しくなる。第二には、穀物で諸物を交易することが薄くなり、金銀銭だけを用いるようになると諸物価が高値となり、天下の金銀が商人の手に渡り、大身も少身の士も財用が不足するものである。第三には、適宜の礼式がないときは、事が繁り、物が多くなるものである。

 禄米を金銀銭に替えて諸物を買う。米穀が低値で諸物が高値の時は、財用が足りない。そのうえに物事が多く繁れば、ますます貧乏になる。士が困窮すれば、民から取り上げることが倍になる。だから豊年には不足し、凶年には飢え寒さに苦しむ。士民が困窮すれば工商の者は穀物に替える相手を失い、ただ大商人だけがますます富有になる。財用の権富を商人にまかせてはならない。商人に財用の権をまかせると諸侯と富を争い、諸国が枯れて、国が亡び、天下が乱れる」。集義和書巻13より

 交易にも便利な場所ではなく、ほどほどの距離をもって、贅沢にならない程度の暮らしに必要な交易を指摘しているのです。また、金銭だけでの交易だけではなく、穀物で諸物を交換する意味をのべているのです。

 国の人々が豊かに暮すには、穀物が不可欠であり、食糧がなければ人は生きていくことができないということで、富の基本的な価値を穀物においているのです。さらに、礼式も派手にするのではなく、適度に簡素にすることを強調しているのです。富の権は、穀物にあるということで、それを管理していく為政者の諸侯や天子の役割があるのです。大商人が、それによって代われば世の中は乱れていくということを蕃山は力説しているのです。                                                                                                                                                                                                                                                   



 




 



 

 

熊沢蕃山の自然循環思想

熊沢蕃山の自然循環思想

      神田 嘉延

 

 はじめに・現代に熊沢蕃山を学び意味

 

 熊沢蕃山の自然循環の環境思想を学ぶ意義は、現代に大きな意味をもっている。自然の力によって、自然をよく観察して、自然循環を破壊しないで防災対策をしていくということである。これは、持続可能な社会を形成していくうえで、不可欠なことである。

 蕃山は、これらのことを教えてくれるのである。国土強靭といって、自然に対して、人工的な構造物を強大につくっていくことでない。また、自然循環的なことに反する開発、エネルギーの創出を極力抑えていく見方が必要な時代である。

 九州の大分県竹田市の巨大な天空にそびえる山城は、現在、公園として整備されて、観光地の名所になっている。そこに蕃山先生のほめの徳の碑がある。42歳の時、江戸から下っての冬、そして、翌年の4月まで滞在したといわれている。藩政の自然循環の灌漑用水と植林などの民政指導のために、短い藩主からの招聘によっての滞在であったが、蕃山の功績は、後の人々の心のなかに深く刻まれている。

 城原井路、緒方上井路戸の建設に助言したことが現在も残る貴重な灌漑用水になったのである。疎水によって、自然をこわすずに、集落ごとの争いがないように、稲葉川支流から取水し、その末流のひとつとして、滝の上から落差40メートルのがけ下にひらがっていた下水の水田に用水して、稲葉川に合流させている。

 この滝は、竹田駅の近くで、落門の滝として名勝地になっている。全長、7.7キロの工事である。城原井路土地改良区として、現在でも稼働して大いに地域経済の発展に貢献している。ここの土地改良区は、最も最先端の少水路による水力発電所建設をしている。近くの井路群と協力しての地改良区も同じような発電所を建設して、5000世帯近くの電力をまかなっているのである。

 大分県の竹田地方は、多くの湧水群や滝、井路があり、地元の石材を用いた水利施設も特徴であり、石橋、石垣、円形分水、ため池、さまざまな井路の形など自然と融合した山間の石の文化が定着しているのである。熊沢蕃山の自然循環の思想が、現在でも発展させて、生きづいているのである。

 

 熊沢蕃山の主な経歴

 

 熊沢蕃山は、中江藤樹のところで、学問を学び、1645年に28歳で、岡山藩に仕えようになった武士である。1654年に備前の大洪水・凶作・飢餓で、農村振興のために、藩主の池田光正を補佐し、自然循環的な開田事業を推進した。

 しかし、家老のなかで意見の食い違い起きる。1656年に藩主の三男を養子にして、藩主光正との関係も強くしたことが、翌年に隠居においこまれる。蕃山は39歳のときであった。

  その後は在野の陽明学者として活躍し、為政者には厳しい批判をし、幕府から監視の身におかれる。監視され、幽閉された立場でも蕃山は地域からの相談にのり、渡良瀬川の今でも残る堤などの灌漑用水の自然災害のおきない工夫の工事をしたのである。

  52歳のときに、母を岡山の蕃山村に葬る。55歳のときに父が病のため岡山に帰る。69歳のときに、松平忠之幕府の意を受けて古河に招く。12月に幕府の命で古河城頼政廓に禁固になる。

   古河藩に幽閉されたが、蕃山に農政や田畑の灌漑用水など開墾事業の指導を受けさせている。渡良瀬川の洪水防止ための新堀や堤の事業を指導している。新堀の築造1年後に、73歳でなくなっている。

 

蕃山のかんがえの慈愛をもった仁徳政治

 

 ところで、蕃山の考えは、仁徳の政治をめざすものである。それが、行われなければ、在来の遊民の暮らしが豊かにならなければ、新田を開いても意味をもたないという見方である。

 塩浜と焼き物は、人々に富をもたらしていく産業として、各地で盛んに行われるようになった。しかし、蕃山は、これを決してすべてよいことであると言っていない。森などの自然循環の害になることをみていかねばならないという立場である。このことに蕃山は、次のようにのべる。

「塩浜と焼物とが山林を取り尽くすことは重大な問題である。山林は国の本である。山は樹木がある時は神気が盛んであつが、樹木がなければ神気が衰えて、雲雨を起こす力が少ない。それだけではなく、草木の生え茂る山は土砂を川中に落とさず、大雨が降っても草木に水が含んで、10日、20日もかかって自然に川に出るから、一方では洪水の心配がない」。

 塩浜と焼き物が盛んになると、山林を取りつくことになると警告するのである。山林の果たしている自然循環の役割をよく考えて、塩浜や焼き物の生産を考えるべきとしている。  

  この問題は、山川の神気が知らないからであるとしている。現代風に言えば、自然循環ということは、それぞれの山、川、草木、雨の自然の現象は相互にかかわって生態系をもって共生しているというのである。蕃山は、山川の神気、山沢の気が通じ合いと、次のように言っている。

 「山に草木がないと、土砂が川中に入って川底が高くなる。大雨を蓄える草木がないから、一度に川に、落ち入り、しかも川底が高いから洪水の心配がある。山川の神気が薄く、山沢の気が通じ合って水を生み出すことも少ないから、平成は田地の用水が少なく、船を通すことも自由でない。これはみな山沢の地理に通じ、神明の理を知る人がいないためである」。(「中江藤樹・熊沢蕃山」中央公論社、集義外書巻1)より)

 さらに、新田畠開墾者の罪悪として、蕃山はのべる。不仁の王が新田畠を開墾するのは、主君を富ませ、勢いを強くするおとあるから、悪逆の根を増やすことになうとする。

  「新田畠は、多くは古地の害になるものである。また、隣村の害になることもある。国に不毛の野山が多いのは、牛馬を養うのに便利であり、薪を採るにも都合のよいものである。新田はまた、これらに害になるものがある。たいていは後々に悪い影響を残すものであるから、軍者の次に悪逆である」。(集義外書第9)。

 日本の水土に適した大道が大切と蕃山は考えるのである。この日本の水土に適した大道とはどのようなことを指しているのであろうか。「上は天の時節にのっとり、下は水土に基づく大道である。形跡だけを見ても真実を知らない人とは、ともに道を語りがたい。言ってはならない者に言い、非難を得るなら、私の不明である。けれども非難を恐れて言わなければ、後世に知る人はないであろう」。集義外書巻10。

 蕃山は、上は、天の時節にのっとり、下は、水土のもとづけ大道としている。水土ということから天地の自然の動きのなかで生きる人間の自然循環の知恵を大切にするのである。

 

水土に適応する学者の知恵

 

  水土に適応する学者はめったにいないというのが蕃山の見方である。それは、老荘でもなんでもないというのである。蕃山の見方の水土論からの大道である。

 蕃山の生きていた時代についての学者についても厳しい見方をしている。学者は、仏法の立てている成り行きをもって、水土に適応するところがあるとしている。

  儒道には、水土に適応するところがないが、遺徳を明らかにして、人情や時の移り変わりを知って、万物の道を助ける大道であり、儒道の礼法は、仁欲を抑える堤があると蕃山はみている。

 「現代の学者は、儒道を興起すると言って、自分自身を抑え、仏法を避けると言って、助けて立てている成り行きを知らない。仏者の不仁と儒者が理法に拘泥するのと、ともに神道をないがしろにすることは一つである。その中でも、仏法は、水土に適合するところがあり、儒法は水土に適応しない。

 ・・・神代の遺徳を明らかにし、王朝時代の法令を考え、現代の人情や時の移り変わりを詳しく知って、万物の道化成育を助ける大道がある。信が厚くないのに法を先にすれば、民の偽りを導き、無事を行わないで礼にわずらわしければ、人欲が生じる。

 そもそも礼法は人欲の堤である。大河のほとりに住居するものは、堤が堅固であれば、生命は安全である。ところが、水源に遠くない小河で、水害の心配のない土地に、堤をあちこちに大きくすれば、民の身命を養う田畠も、多くは堤のために取られて飢餓に陥るであろう」。集義外書巻10

 大河のほとりに住居するのは、堤が堅固であれば、生命が安全である。水源に遠くない小河で堤をあちこちに大きくすれば、民の身命を養う田畠が小さくなり、飢餓に陥ると蕃山はのべるのである。

  日本の国土の多くは、大河ではないのである。中国の広大な大地をもって、大河が流れるところではないのである。このことについて蕃山は次のようにのべる。

 「唐国は大国であって、土地の生産力が厚い。中での周の代は、天地開けて以来、太平無事の時運に当たっていた。天地が物を生じることは限りなく、財用の多いことは水火のようである。人民は大いに富み、しなければならない用務はない。それゆえに驕奢(きょうしゃ)に流れ、情欲が溢れる勢いであった。

 聖人がこれを心配されて、礼文・法令を多く作って暇をなくさせ、喪祭のために財物を費やして欲を防止された。その時でさえ、礼文が先立ってまだ実行には至らなかった。

 後世になると、政令は道を失い人心が正しくないので、四季の気が不順であって、土地が物を生じることも少ない。貴賤おのおのの身分相応を超えて、士・民ともに貧しい。事柄が多く暇がない。

  そのため多欲になり、人情が薄くなったので、その国でさえ礼法は行ないにくく、まして他国ではもちろんである。近年は草木金石でさえ性質が弱くなっている。まして人は病気や無気力な者ばかりである。その上、家が貧しく、世間のことが忙しい。どうして大国の上代の法を行うことができようか」。集義外書巻10

 中国は広大な土地で、天地開けて以来、時節に恵まれて、開墾して生産力が増して、人々は贅沢になって、個々が情欲に走って社会が乱れていくようになったのである。

  これによって、天の恵みに感謝する祭礼や先祖への喪を大切にするようになったのである。礼法などを大切にするようにして、自由気ままの個々の情欲を抑えて、忙しくするようにしたと蕃山はのべるのである。

 ところで、蕃山の時代の学者は、わが身を富んで、暇ばかりであるとしている。武士は決して豊かではなく、暇がないというのである。暇にもてあそんでいる学者は、天地自然の天理、水土の大道をしらないのである。それを観察したり、探求したりすることはなく、実践的にも思考しないのである。

 「現今の学者は、我が身は富んで、暇ばかりである。武士の貧しく、朝夕の暇がないものにも、その礼を移して行わせるようにする。我が身は仕事を持たないので、気力に余裕があってすることを、奉公に疲れている武士に無理強いすれば、怠らない者は少ない」。(集義外書巻十)

  蕃山の生きた時代の学者は水土論から学問をするものは少なかった。多くは自分の身を富むことばかりで、暇な人間であった。

 

天地自然循環に山の樹木は命

 

 熊沢蕃山は、山に樹木があってこそ、天地自然の理にかなって大雨が降っても洪水を防ぐことができることを考えた。淀川などでは、川が浅くなり、川底を掘り、砂留をして、船の航行を自由にしていることに、それは、根本的に効果のないことだと蕃山は次のようにのべる。

 「川底を掘り、砂留めなど末端のことで、船の航行を自由にしようというのは、効果まさしく食物の上を蠅うようでありましょう。

 水上の水、流域の谷々、山々の草木を切り尽くして、土砂を絡み保留することがないから、一雨、一雨に、川の中に土砂が流入して、川底が高く、川口が埋もれたのである。その根本をよくしないで、末端だけのやりくりをしてもどうして成功しようか。

 今は草木を切り尽くしばかりでなく、木の切り株まで掘っている。切り株を掘った山は、なお多くの土砂が川に流入する。後に伐採禁止の留山にしても木の根を掘りとった山は50年、30年も草木はそだたない。

 水上の山が荒れると、山や沢の神気が薄なくなって、水を出すことが少ないので、平常は荒れが細い。そればかりでなく、大雨のたびに流れ出た砂は、川底となって積もるので、砂の中をくぐる水も多い。

  もとは川というものは、平地よりも低かったのに、今は平地と同じ高さになり、あるいは平地よりも高く流れるものがある。堤防だけで支えているのである。

 これはみな山が荒れてなったことである。昔は川が深かったので、たいていの大雨・大水では田地・家屋敷を損なうことはなかった。今は川が浅い。山々に雨水を貯える草木がない。

  少量の水も中水(中ぐらいの水量)となり、中水は大水となり、大水すぁれば堤防を越え壊し、田畑・家屋敷を損なうことが多い。その上、左の堤防が強ければ、右の堤防を破壊し、左右ともに強ければ、川下の堤防を破壊するという。これはみな川が土砂に埋まって深くないための災害である」。(集義外書巻13)

 蕃山に対する問で、「今から水上の山々谷々の伐採を禁じて、草木を生やしても、もはや埋もれ流入した砂は取れないものでしょうか」という質問に、熊沢蕃山は、次のように答える。    「山々谷々に木が茂り、土砂の流入が止まれば、大雨のたびごとに、今、川に落ちこんどいる土砂や自然に大海に入り、川の水は深くなる勢いです。後から流入する土砂が多大であるため、初めの砂も海に落ち入りにくいのであります」。(集義外書巻13)

    山の伐採を禁じて山々に草木を繁るように、また植林をしていけば自然にもとのように堆積した土砂は、なくなり、川の流が自然になっていくというのである。

 

淀川の3つの合流川についての蕃山の灌漑用水の工事に対する見方

 

 奈良から流れ出る木津川は、京都と大阪の堺で、瀬田川宇治川桂川と大きな三つの河川が、ひとつに合流して、淀川となって大阪にながれていく。この木津川と瀬田川の改修工事についても熊沢蕃山は言及している。

 木津川の河道改修工事について質問されている。「今の木津川を三ケ原(奈良の北方)の上から川筋を変えて、奈良の佐保川筋へ廻し、河内路を経て、摂津の国の川口(大和川の川口)へ落とせばよいと申す説がある。そのようにすればよいことが多い、調査してほしいと願う者があります。もしや、また、悪いことが起こりましょうか」。

 「川筋を変えよとの話の場所から、淀の大橋まで五、六里はありましょう。川の水勢がゆるく下に常に流れている大河を受けているので、ひでりの時にも十石船はたがいに航行します。それを大和路へ廻して、河内・摂津の国へ落とすと、大和は地形が高く、河内への落ち口に銚子の口(水量調節のため川幅を狭くした部分)を当てなければ、川の水を保ちがたい。銚子の口をすると、今の十石船もまっすぐ進めない。

 銚子の口をしないで水をまっすぐ落とすとすると、水上は水が少なる。水は急に下がって、川の水がなくなってしまうから、船の航行は止まるであろう。大雨の時は河内の上田へ砂石が入って、国土を損なうであろう。

 大和川は、平常は水が少なくて、大雨の時はことのほか水が出るのである。今の川幅は、二町交あるとこところも三町あるところもある。それにいっぱいに水が出て、それでもなお堤防が危険なことがたびたびである。

   今の堤は昔からの堤であるから、山と同じくらいに堅固であるが、それでも時々決壊することがある。

 二十里余りの所、川幅2町平均にして、大和・河内の上田畠をつぶすとしても、山々は荒れて、大雨ごと砂を落とし入れば、ほどなく砂川となり、河底が高くなるであろう。

   そうすれば、その後は大和・河内は荒れてしまうこともことあろう。もとの川跡が田畠になると言っても、底まで砂なので、何も生長しにくいであろう。

 新川の幅を狭く見積りするものであるとのことですが、大水の時の水勢を知らないからである。狭くてはなかなか持ちこたえるものではない。さて、川の長さは、今の倍になります。

   この川は、ふだんは細い流れである。それを伸ばす、方々で水が漏れ、いよいよ水流が細くなるだろう。その上、淀から下流の大阪までの船路は、少し照ると船が川底についてしまうので、木津川の流れが止まったらならば、いよいよ航行は難儀でしょう。

 昔は、大和川にも銚子の口があったと聞く。船を通そうと言って、これを切り削ったので、船が通らなくなっただけではなく、川が浅くなってしまった。

  少なくなった水は、砂中をくぐり、音に聞こえた立田川も、今は名ばかりである。後悔してももとにようにしようとしたけれども、天然の岩を切り削ったので、もはや直すことができない」。(集義外書巻13)

 さらに、琵琶湖から流れる瀬田川でのししが瀬の岩を砕いて、琵琶湖のたまった水をいっきょうに流す工事について議論が起きていた。 琵琶湖から流れる水は、瀬田川ひとつになっている。琵琶湖に流れ込む川はたくさんあり、大雨がふれば、水が入りこんで、耕作のできない田畠が増えて、石高24、25万ほどが水底になってしまった。瀬田川下流のししが瀬の岩を少し砕けば水がながれ落ちて、耕作できるようになるという意見があるが、熊沢蕃山にどう考えがえるかという質問に、次のように答えるのである。

 「おおいに悪いことが起きるでしょう。湖の水が入り込むというのは、一朝一夕のことではない。ししが瀬は天地自然の銚子の口である。それなのにししが瀬の岩を切り削るならば、湖の水が急に流れて落ち、淀川の水は湧きあがり、湖の水がまもなく流れ落ちれば、淀川は後悔してもどうしようもない。・・・

 晴天続きのよい時分、水が渇き落ちて、稲も実り、淀川の水も適当なころを見計らない、それよりも高い水は流れ落ちるように、北国の方へ、池水のあらて(水量を調節するため掘った川)のように、水はけをつけることは差し支えないのではなかろうか」。「集義外書巻13」

 蕃山は、河川において、天地自然の銚子の役割を重視して、それを削ることで水が急に流がれ、降らないときはかれるということで、自然の水の調整的なことがくずれることを危惧しているのである。

  むしろ、みずはけをつけるようにと川を掘ることでの水量の調節には奨励しているのである。それも自然の害が起きない時期をよくみてする必要があることを強調しているのである。

 蕃山は日本始まって以来、日本国中で大和・河内の上田という古地を、川につぶして、その下流の地を新田にしようということは、大きな誤りであると警告している。

 「川下に新田をつくれば、川上の古地は悪くなるといって、昔から心あるものはしないことである。まして、古地をつぶして別の地に新田をつくることは、その大小の損益はいうまでもない。やがて山々から流入した砂は、天下の主のお力でも除去しようがありますから、もはや大和・河内の上田は、永久に廃に田なるでしょう。・・・

 今、山城・摂津・河内の水害を止めることは容易であろう。淀の大橋の向う山崎の辺から、あらてごし(本流の外に水路を掘って水量を調節)ということをして、洪水の時、二本の川とするのがよい。

  桂川は淀までつけないで、半分余の水量をあらての川へ、引く水路もあるだろう。そうすれば鳥羽・伏見・摂津・河内の水害はやむだろう。あらてごしのために、田地のつぶれる石高は、2千石ばかりであろう。助かる土地は石高15万石もあるだろう。

  15万石から2千石を補えば、租税率にしても一、二分であろう。堤と堤の間の田地は、そのまま耕作すればよい。5年、7年に一度、その年の作物の損害はあるだろうが、翌年は肥料がなくても、大いに豊塾するであろう」。「集義外書巻13」

 このように、治水の権道としての臨機応変の処置について、蕃山はのべるのである。つまり、5年から7年に一度の水害で、2千石はそのときに、損害を被るが、全体の15万石から2千石を引いた田畠は、守られるということになのである。本流の外に水路を掘って水量を調節する方法である。

 

天地自然の理と仁政の義

 

 新田開墾することに、蕃山は、天地自然の理と仁政の義をもってよく考えるべきと警告する。民の暮らしを第一と考えて、目先の生産量増大ということだけではない。まずは、民の暮らしを豊かにすることからはじめるべきということである。

 「国は、田畑ばかりで山林や不毛の地がないのは、士民の生活が悪いからである。野は野のままにしておくがよい。その上、新田を開いて古地の田が悪くなる所があるから、よく考えるべきである。たといさしさわりがなく、良い新田であっても、君子なら理由なしに開発すまい。

   開発するのなら必ずその義・正しいわけがあるだろう。義というのは、仁徳の政治が行われて、在来の遊民を住まわせる所がなければ、新田を開いてそこへすまわせるがよい。塩浜が国土の山林より多すぎて材木木炭が不自由な時にその浜を減らす場合、塩焼たちを移動させるために新田を開くがよい」。(集義外書巻1より)

 塩田を開くにも国土の木炭を燃やすためにも、山林を多く伐採して不自由になるのなら意味をもたない。山林は国の本である。山の樹木がる時は、山川の神気が盛んである。

  樹木がなければ神気は衰える。草木の生え茂る山は土砂を川中におとさず、大雨が減っても草木に水が含んで、10日も20日もかかって自然の川にでるのである。そこでは、洪水の心配がなくなる。

 乱世となり、山川が荒れるのは、天地自然の理を人々が知らないことから起きると蕃山はのべるのである。小人の考える利をもって利するということでは天理を知らない、決してない。

 

天理と人欲は両立しない

 

 天理と人欲は両立しなというのが熊沢蕃山の見方である。天理の誠を知らない、驕りで仁政を失う、仏者が得度を失うごとく、堂塔寺院を多く建てるように絢爛豪華を求める為政者を批判する。

 世間には学問を得意とするものがあるが、正道という本才には疎い。日本は山野に限りがある小国である。その山野にあった正道が必要である。為政者や驕る仏者に対して、「山川が荒廃する根本の原因を知らない。また、山川が荒れては世の中が立ち行かない道理も知らない。天地が破れても洪水に見舞われなければ理解しない。乱世となる天地も理解しない」(集義外書14)。

 為政者が天地自然の理と仁政をないがしろにして、目先の己の欲に走っている施策について、蕃山は批判する。ひとつは、山林への高い年貢である。

 「山林のある里村では、山林を目当てにして田にはない高免をおくことがある。このため山林がだんだん荒れて、後には百姓が頼れる物をなくなる。家屋を壊し田畑を売って、村の様子は昔の面影もなく、衰微して年貢も取れないので、仕方なく免を下げるのである」。

 さらに、第2に、麦を田につくって百姓の食料とする為政者の施策について批判する。麦作の悪い年で田の年貢率の許可がないから、負債がでてくる。田地を質にとられ、土地をとられるのである。村の民は乞食同様になる。

 第3に田畑の土地の条件も考えずに年貢を一律に課す為政者の施策を批判する。水田湿地で麦もまけず、山林の便もなく、田以外に頼るものがないところにすべての村と同じように四分六分の毛見をするところがある。

 第4に、米の収穫を考えないで、年貢を取り立てる為政者の施策を批判する。田地に米の有無を計らず、しきりに督促して取り立てを行えば、春の農作の牛馬を売り、子ども年季奉公に出して、夫婦は嘆き悲しみ、まめに働く気力もなくなり、耕作に精を出さなくなる。

 第5に、公儀が毎年に収穫量で調べる毛見による不当な年貢取り立てがあることを批判するのである。「集義和書」巻16)より)

 熊沢蕃山は、治国道理の論議をしていく結論に、次のようにのべる。「国が国として存在するのは、民がいるからである。五穀が豊富であるのは民力に余裕があって、仕事の成果によってである。だから、有徳の君、有道の臣のいる時代の一日は、のびのびと長い。その民が静かで暇が多く、生活力があるからである。道の失われた時代の一日は、忙しく短い。その民は苦しみ、勤めても力が足りないからである」(集義外書第7巻より)。

 国は民によって、成り立っていることを根本的に為政者はみるべきとしている。そういう見方をもてば、民はのびのびとして、民の暇が多く、生活力に余裕がきるというのである。

 

それぞれの専門と地域のことをよく知っている人にたずねよ

 

 蕃山に対する盟友の問いで、池堤の修造、飢餓を救い、干害と水害を防止されて、土地の人民はいつまでも、その功をほめているが、どのようにして治水術を鍛錬されたのですかと。蕃山は、そのような術は見たことも習ったことのないとしている。

「自分は治水の術を知らないから、巧者の人にそれをさせたのである。巧者の人々が治水工事をするのを許しただけである。後には、人に問い尋ね、見習い教えられて、少しは功もあった。世の中で何か事業を実施する人の過ちをみると、たいていは他人に問い尋ねないことから起こっている。

  京のことは京育ちの者pに尋ね、山のことは山村の人に尋ね、川の流れや洪水の勢いは川辺の者に尋ねて相談し、堤を築き、水除けをすれば、後悔が少ない」。(集義和書巻15)

 人の間違いが他人にたずねないことから起こということで、蕃山は、京都のことは、京都の人に、山のことは山の人に尋ねるということのように、それぞれの直接に関連する人や、それぞれ専門の人に尋ねることも大切にせよとしている。

  「治世でも乱世でも、大任に当たる者は、心が公平で自分を捨てて他人の意見に従い、天下の才知を用い、衆人の計策をつくさなければ、成功することはできない」(集義和書巻15)。

 蕃山は、大任に当たる者は、公平で他人の意見を従い、才知を用いていくことの大切をのべている。

 仁政ある農業施策は、人民の労力を奪い取ってはならないというのが蕃山の考えである。「民を骨折らせる場合は、彼らが秋の収穫に有利なことに骨折らせ、民を使う場合は、将来彼らが骨休みできることに使えば、民は働き疲れても恨まない」。(「集義和書巻16)

 民が骨折ることも耐えることは、自分たちの秋の収穫に有利なたであり、将来に豊かになって幸福になっていけば、骨折ることに恨みをもつことはないと、蕃山は強調している。まさに、仁政が基本になっているのである。

 「年ごとに稲の出来具合を調べて年貢を定める方法としての毛見は、公儀ではなく百姓にやらせた方がよいとする。公儀毛見では手間がかかり、費用もかかる。風雨のために稲刈りが遅れるとすらある。公儀毛見になれば大損になることを百姓に理解してもらい、奉行公儀をなくして、さらに、毛見の制度を廃止して定免にする道を選んだ方がよいとしている」。(「集義和書巻16)

 蕃山は日本の水土にあった民の暮らしを重視しなければ、日本は、永続していかないと警告するのです。

 「日本の水土により山沢・草木・人物の情勢をみると、簡易の善でなければ、あまねく行きわたらず、長く続かない道理がある」。水土の考えを民に進めていくには、簡易でなければできないとしている。仏教は世にあった簡易さを失っているというのである。

 「近年は、仏法が世に合った簡易さを失って、驕りを極めていますので、長くはりすまい。けれどもやがて天から驕りを削がれ、堂寺や法師など少なく、やや出家らしくなって、またまた長く続きましょう。今の儒学の様子では、朱学も王学も、治学の助けとはなるまい。・・・日本の水土や今の時節に合わない」。(集義外書巻16)。

 蕃山がのべる水土論は、現代の資本主義的な利益中心の開発に対するアンチテーゼを築いていくうえで、大いに参考になる自然循環の思想である。

 

石清水八幡宮と三つの河川の合流地域

 

 京都の石清水八幡宮の建っている男山の裾野は、大きな三つの川が合流地形にある。その川は、京都盆地からの桂川、琵琶湖からの瀬田川宇治川、三重の伊賀からの木津川である。たびたび氾濫によって、水害に悩まされた地域である。

  木津川は、砂礫の堆積による川底が周辺の土地よりも高くなる天井川と言われ、堤防がくまなくつくられて、さらに、氾濫があれば高く積み上げられた堤防になっていった。

 この三つの河川は、水害対策を昔から、自然の状況をみながら有効な手をうってきた。そこには、人間と自然という共生ということから、自然に対する畏敬にそっての防災対策をしてきた歴史が含まれていた。

 歴史のなかで様々な利益による開発が起き、その合意や自然との関係があったのである。自然との共生、循環性をもつためには、山の木を切ったら植林をし、そして山林の保全、大雨の山の対策としての調整池の設置である。

  これは、大雨による巨大な水流を撃退する強靭な建造・施設ということからではなく、「減勢治水」という思想ということからである。

 さらに、里に流れていく河川では、霞堤ということで、溢れる川の水を流しての二重の堤防の遊水池、引堤として、川を掘り、川面を大きくすることや付け替え、川底掘削などを行ってきたのである。

 ここには、上流と下流の住民の利害対立を乗り越えて河川の水系全体としての協力し、合意していく強いリーダーシップとシンボル的な自然の神の存在が必要であった。

 熊沢蕃山の環境思想からの河川の水害対策も、このような大きな歴史の流れのなかでみていくことが必要である。

 琵琶湖を囲む山々も花崗岩の岩石であるが、都の建設や神社建立などによって、森林伐採が盛んに行われて、天井川になった河川が多かった。このために、田畑や市街地に土砂流失の続いてきた地域です。琵琶湖から流れていく河川は、瀬田川一本で厳しい自然条件にさらされていたのである。

 瀬田川京都府に入り宇治川になり、三つの川の合流で淀川になる。山が川に大きく張り出しているところを削る試みは、奈良時代行基が考えられたが、瀬田川の川幅を拡げることがかえって下流の地域が氾濫するということで、断念した。

 さらに、山に手をつけることは祟りが起きるという言い伝えを残した。現在は大日山とよばれている。そこに、大日如来を祀った場所がある。

 桂川は、古代から嵯峨や松尾などに入植した秦氏が氾濫に対して治水対策をしていたということです。その後に、嵐山周辺と上流域は、「大堰川」というように、土砂が流れやくす川底が高くなっていく現象が生まれていくのである。

 平安京建立のときは、丹波や山城からの船による木材運搬の川といわれた。しかし、同時に、水害の発生の危険も増していくのである。木材などの交易のための航行の発達によって、大水害の歴史も繰り返されていく。

 現代は、川の交易のための交通手段の役割は大きくなくった。道路の開発が網の目のように細かく行われて、山の様相も大きく変わったのである。森林の保全、植林の大切さや、自然の力で自然の水害から調整していくことがあらためて問われる時代である。

 熊沢蕃山の環境思想、自然をよく観察しての自然をよく知っての自然の力を大いに利用しての防災対策が、持続可能な可能社会を形成していくためにますます重要になっているのである。

中江藤樹の学問・教育と民の暮らし

中江藤樹の学問・教育と民の暮らし

 

 

はじめに

 

   中江藤樹は、何のために学ぶのか、人間的に生きることはどのようなことなのか。人を育てることをどうしたらいいのか。人間のもつ素晴らしい可能性を探求した儒学者、村の教育者でした。現代ても学ぶべきことがたくさんあると思う人です。

 藤樹は、すべての人々に孝を大切にした人です。全孝の精神から人間らしき生きるための道徳を提唱した儒学者・教育者であったのです。

 彼は、幕府体制維持の精神支柱になった林羅山などの朱子学に疑問をもち、大洲藩を脱藩して、生まれ育った琵琶湖湖畔の高島藩小川村で私塾を開いたのです。そこでは、村民を中心に、また、かつて自分が任官していた大洲藩をはじめ、多くの若い武士も含めて、士農工商のすべての階層に開かれた塾でした。現代的にみれば、学校ばかりではなく、自由に開かれた学びの場であったのです。それは、塾に入門して、大学や中庸をきちんと体系的に儒学や医学を学ぶことだけではなく、村民が自由に話を聞ける場でも交流する機会でもあったのです。

  藤樹は、学問をはじめたとき、武士の身分でしたが、脱藩して、生まれ故郷で塾を興いた志士でした。権力に仕官しない自由の立場の学者として生きたのです。そして、学問とすべての人々の暮らし・生き方を統一的にとらえ、人間として敬愛心・孝徳の大切さを考えたのです。村人や武士に対する教育実践と新たな思想の模索は、後に、日本の陽明学の祖、近江聖人として言われるようになったのです。

  その教育実践は、武士にはなれないという親が考える特別に覚えが悪い若者を、かれが希望する医学を教えたのです。彼のために、専門的な医学書をやさしく教科書につくりかえたのです。

 藤樹は、それぞれの個性や能力に応じて、また、文字を読めない村人にも自由に講習が聞けるように、また、休憩や余暇のときは、長期に滞在している弟子たちと村人、そして、藤樹自身が交流できる場をつくっていたのです。

  それは、閉鎖的な決められた時間内に教育の課題をひとつひとつ細かく教化的に実践していく学校教育風ではなく、おおらかに教育の目標を定めて、現代風での社会教育的な成人学習の場でもなっていたのです。

  中江藤樹は、琵琶湖のほとりの高島藩の小川村という村落社会での傑出した教育者、思想家として、後の日本に、大きな影響をもっていくのでした。現代の日本での参考になることがたくさんあります。

  現代の日本は、弱肉強食の競争社会になっています。社会の矛盾も大きく、無縁社会現象も生まれています。敬愛の心の形成は、大切な時代です。学校教育も立身出世主義、競争に打ち勝っていくという評価主義と管理主義が横行しています。共に生きるための教育の実践が切実に求められる時代です。

  何のなめに学ぶのか。人間としての根本である敬愛心の形成を明らかにした藤樹から学ぶことはたくさんあると思います。万民は、すべて天地の子であるから人はみな兄弟で、公明博愛の心をもって生きる心の形成を大切にしたのは藤樹でした。

  これらの明徳を明らかにする学びは、現代的でも学ぶことがあります。私欲をもつ人面獣心ではなく、人間として生きていくに必要なことです。その学びは、書物を暗記し、もの知りとして出世という私的欲の手段はなく、暮らしのなかから、討論して思考して敬愛という人間の心をもった人格形成のためなのです。この中江藤樹の問題提起は、現代に生きる人々にとっても極めて大切なことです。

   中江藤樹の学問・教育を考えていくうえで、戦前の家族国家観にみられる注入主義的な方法での親孝行・忠孝との関係をみていかねばならない。戦前の絶対主義的体制の精神支柱として、国家による上からの教育勅語教育が徹底され、家父長制による絶対服従の精神形成を強要したのです。そこでは、家族における人間的自然の親子感情を家父長制の家族国家観に利用したのです。

  つまり、中江藤樹の親孝行の言説が、歪曲されて、絶対主義的な家族国家観に積極的に利用されたのです。それは、国家権力機構を大家族という家父長的な家族の一体制のなかに国民を精神的に組み込んだものであったのです。

 この体制を作り上げていくうえで、教育の役割が極めて重要であった。日本の伝統的に行われてきた儒教教育が歪曲されて利用されたのです。武士ばかりではなく、村落で暮らす農民にも大きな影響を及ぼした中江藤樹の親孝行の思想が歪曲されて、学校教育のなかで積極的に利用されたのです。

   中江藤樹の親孝行の思想がどういうものであったのか。徳川幕藩体制の確立していくなかで、幕府の丸暗記的な訓詁学林羅山朱子学言説が採用されたのです。これは、立身出世の道具として、幕藩体制の武士の新たな官僚機構整備に、奨励されたのです。しかし、絶対服従の精神形成を強要することに、反発するなかから、生まれたのが中江藤樹の敬愛・全孝の人間学的な思想であるのです。

   内村鑑三は、代表的な日本人の五人のひとりとして、日本での伝統的な真の人間になるための、英語でいえばジェントルマンになるための詰込みの教育ではなく、歴史、詩歌、行儀作法を少なからず教えた実践的道徳形成の村落学校であった。

  そこでは、決して、思弁的、神学的な性質を有する道徳を決して押しつけなかった。ここでは、多くの国々にみられる宗教的論争のらちがいであった。そして、子どもたちや青年たちをいくつかのクラスに分けずに、すべて人は一個の人間と考えたのです。そこでは、面と面、霊魂と霊魂とが相対して、とりあつかわなければならないと信じて教育をしたのです。それゆえに、一人ひとり、各自その肉体的、精神的の特質に応じて薫陶したのです。それは、人の個別の人間として、敬愛の精神による人間関係の教育実践であったのです。そして、身分に関係なく、誰でも教育を希望すれば受けられる学校であったのです。

  以上のように内村鑑三は、中江藤樹の村落学校を積極的に評価するのでした。内村鑑三の著作は、英文で書かれての日本の代表的な歴史的な教育者として、中江藤樹を世界に紹介するものでした。

  中江藤樹は、どの藩にも仕えるのではなく、自由な立場のわずかな生計糧の手段をもった処士の儒学者であり、村落の教師であったのです。日本の村落の伝統的な教育実践の典型として、中江藤樹を世界に紹介しているのです。

 中江藤樹は、1608年に近江の高島郡小川村の農家の子として生まれました。9歳のときに、武士であった祖父の養子になって、学問をはじめるのです。父親は、武士として、祖父の後を継承せずに、農民として暮らしていた。

  祖父は、加藤家の100石の武士として、米子藩に仕えていましたが、藤樹にとって、米子の生活は1年間でした。国替えで、四国の大洲藩に移住しました。脱藩するまでの27歳まで、藩士として、藤樹は大洲藩で暮らすのです。祖父は奉行職であったが、藤樹も、祖父が亡くなった後は、その職に就いていいます。

  学問に志していた藤樹は、15歳のとき、奉行職と同時に藩内の学問を推奨することで、若い武士と共に儒学の大学等などの会読を行うのです。21歳で大学啓蒙を著すのです。

  25歳のときに、近江の母親を大洲に連れてくるために帰省します。しかし、母親に断られます。母は、住み慣れた小川村を離れることをしなかったのです。小川村には、娘夫婦も近くに住んでおり、あえて全く知らない大洲に行くことをしなかったのです。藤樹にとって、人生は、思うようにいかずに、マイナス状況に働くのです。持病の喘息が、小川村から大洲への帰りの船で、悪化するのでした。

  大洲藩では分家問題がありました。藤樹は、分家に帰属することになっていたのです。このような状況もあって、藤樹は、母の面倒をみることと、自分自身が病気であることを理由で、藩主に辞表の願いの「致仕願」をだすのでした。しかし、致仕願いを出しても許可がでることがなかったのです。

  藤樹は決死の脱藩を決意するのでした。もともと藤樹が生まれた家は、戦国と幕藩体制の移行の時代であるときは、農民と下級武士を兼ねていたのです。父親は、農民であったが、祖父は100石家禄の武士身分で、大洲藩では飛び地の代官でもあったのです。

  祖父は、跡継ぎがいないということで、藤樹を養子にしたのです。戦国時代から幕藩体制の太平の世になりましたが、封建的な身分制は厳しくなったのです。武士にとって、脱藩することは、追ってが、さし向けられて、死罪に値するほどの重い罪になる時代になっていました。藤樹は、すぐに、故郷の小川村に帰郷するのではなく、様子をみるために、京都に滞在しています。

脱藩に対する おとがめがない状況と判断して、小川村に帰るのでした。大洲藩主は、藤樹に対して、期待をもっていました。学問によって改革を断行していくとみていたのです。大洲藩からは、若い武士たちが、藤樹が塾を開いたと聞くと学びにくる状況でした。藩主は、藤樹の将来を見越して、藩にとっても得策であると、柔軟な対応をしたのです。脱藩して、藤樹は小川村で塾を開くのでした。

 

  藤樹は、武士としての禄をとることがなくなったので、生計の手段を考えていかねばならないのです。仕官せずに自由に学問を深め、人びとに教えていく道をとったのですが、十分な土地をもっているわけではなく、生計の手立てをもっていなかったのです。

  藤樹は、自由に学問を志していこうと思っても、生きる手立てがないのです。仕官しての立身出世のための学問ではなかったので、生計の糧はありません。人間としての生き方の真理を探っていくために、幕藩体制の処世術から解放されて、藩内の権力的な人間関係から解放されて、自由に生きる道を選んだのですが、生計の糧はないのです。生計を立てていくには、どうすべきなのか。考えていかねばならないのです。

 生計のためには、わずかな土地だけでは無理ということから、残っていた銀百銭で、酒を仕入れて農民に売りました。刀を銀10枚で売って、その金で米を買って、農民に貸して、利息で生計をたてるようにしたのです。武士の禄からの生計から、わずかな酒の販売と少ない金額ですが、金利という金融業で生計をたてるようになったのです。

 生計の基盤をつくり、自由に自分の考えで、塾を開くようにしたのです。この塾は農民をはじめ、すべての身分の人に開かれた学びの場であったのです。大洲藩からも藤樹を頼って学びにくる多くの武士がいたのです。

 藤樹の人柄がわかることは、大洲藩時代の同僚の200石家禄大野家次男了佐の話です。藤樹が31歳の時で、結婚した翌年です。大野家当主の父親は、武士にむかない愚鈍な次男に、武士以外の道を探していた。

 本人は、医者になりたいということであった。しかし、まわりの反対をよそに、多くの学問を積まなければならない難しい道を選択したのです。

 藤樹は、かれが医者になりたいという強い希望を素直に受けとめた。医者になることは、難しい医学書を学ぶことをしなければならない。愚鈍なものには、誰でも無理という答えでありました。しかし、藤樹は、そのような立場をとらなかったのです。わずかな医学書をすこし読むように指導したのですが、文書を200回繰り返し読んで理解できるようになるのは難しいというありさまでした。

 しかし、藤樹は、了佐のために教え方を工夫しました。中国からの難しい医学書をかれが理解できるように、藤樹のために、やさしい教科書をつくるのでした。教科書づくりは大変な仕事でした。教師である藤樹と、医者になりたいという教え子の了佐の努力が重なって、一般の医学の志望者の数倍の時間と並々ならぬ苦労のすえに、立派な医者になっていくのでした。

 大野家の愚鈍な次男、大野了佐は医者として生涯を送るのでした。大野了佐は、母の実家の尾関家で、尾関友庵という医者になりました。大洲藩の近くの宇和島で開業し、七十七歳まで、真心をもった医者として領民から慕われたのです。

 ここには藤樹の仁愛に満ちあふれた姿勢と人を育てる態度がみられるのです。最初から人間の能力の素質、将来の夢を優秀であるか、愚鈍な人間であるのかという基準で判断しないことです。その人の将来に対する可能性は、人間性を含めて総合的にみていくことが必要なのです。記憶がよくない人でも人間的にみれば素晴らしい側面をもっているのです。大野了佐が人間的に素晴らしい医者として生涯過ごしたことが証明しているのです。

 どんな人でも、本人自身の強い努力と教える人の工夫で、その可能性を秘めているということです。人は、記憶力の優劣は様々です。愚鈍ということで、覚えが人並みの努力では難しいのはいうまでもありません。本人自身の強い意志と並々ならぬ努力、教える者自身の工夫、その子供や青年に対するきめのこまかい丁寧な指導ということが大切ということを中江藤樹の実践姿勢は、教えています。

 教育の力によって、彼の希望はかなえられていくという立場です。また、教えられる大野了佐は、彼自身の熱意ある努力、将来の強い希望があったことを見落としてはならないのです。400年前の藤樹の村落での教育実践は、時代が大きく異なるとはいえ、現代でも学ぶことが大いにあるのです。 

 熊沢蕃山が、中江藤樹の塾に入りたい強い希望をもったエピソードがあります。加賀藩前田家の公金200両を届ける飛脚の話です。かれは、200両を馬の鞍の間に挟まっていたのを忘れて、紛失したということで、途方にくれていたということです。そこに、宿屋に泊まって困っていた飛脚に馬方が届けたという話です。

 その200両の大金を届けた馬方は、小川村で藤樹の話を熱心に聞いていた人です。藤樹の儒学の話を聞いていたので、人として、私利私欲ではなく、仁義の生き方を身に着けていたのです。飛脚は、馬方に、お礼として自分の財布から15両の金を出したが、受け取らない。5両、3両、一両といっても受け取らない。結局、200文ということで、お酒の振る舞いとしてもらうことにしたという話です。

 やさしい心をもっている馬方に、飛脚はどうして、そのような態度をもつのかと、聞きました。馬方は、自分の村に中江藤樹先生がいます。その人から人として正しく生きることを学んでいるからということでした。

 毎日仕事が終わると藤樹先生の塾に通い、藤樹先生の話をきいているということです。村人はみんな同じことをすると告げたのです。現代でいうと村人に対しての人間としての生き方の社会教育活動になるものです。

 この噂は、京都にひろまり、その噂を聞いた熊沢蕃山が中江藤樹の弟子入りを決意するのでした。中江藤樹のところに訪ねて、弟子入りを願うのですが、教える立場ではないと強く断われるのです。門の前で2夜座り込んだり、馬方をはじめ村人となかよくなったりして、弟子になるための方策を考えたのです。

 熊沢蕃山の様子をみかねて藤樹の母親は、息子を説得するのです。このことで、ようやっとのことで、熊沢蕃山は、藤樹と対面することをするのでした。8月であったが、すぐに入門を認めたわけではなく、翌年の冬に藤樹を慕って訪ねてきた蕃山の熱意にうたれて入門を認められることになったのです。

 藤樹にとって、熊沢蕃山が訪ねてきたときは、学問内容の大きな転換時期であったのです。そのことから、将来性をもっている若い武士を引き受けることができなかったのです。「人の師たるに足らず」ということで、教えることができる立場ではないと思っていたのです。朱子学を信じての学びの疑問から新しい学問を求めてもがいていたという大きな思想の転換期であったのです。

 藤樹は熊沢蕃山との出会いは、人格的な深い交わりを結んだということです。学習し、討論し合い、心と心がとけあって、友として、互いに人間としての完成をめざして励ましたのです。そこでは、意気投合して助け合うことができたということです。

 藤樹は、蕃山を性命の友と呼び、心を許し合う捕人と某逆の間柄と言っているのです。捕人は、親友が互いに仁の徳の成長を助け励まし合うことで、莫逆は、互いに心を逆らうことなく意気投合するということです。藤樹33歳、蕃山23歳のときの出会いであった。(渡部武「中江藤樹清水書院・藤樹と蕃山の出会い134頁から143頁参照)

 藤樹は、酒を農民に売る方法として、無人販売方式で、家の門前に大きな酒壺を置いて売ったということです。ここには、教育的な配慮をもっていたのです。村人は勝手にのれんをくぐって必要なだけ酒を飲み、代金をおいて立ち去るという方式です。店頭に誰もいなく、講義や討論の邪魔にならないで収入をあげるということであった。

 酒は順調に売れて、生計を安定させるのに役に立ったのです。そして、藤樹は生活を弟子たちと楽しむことをしたのです。それは、楽しみながらの教育として大いに役にたったのです。

 藤樹は、詩や和歌を作り、音楽も楽しんだ。これらは、弟子たち共に楽しんだということです。師を中心に弟子たちが泊まり込み、寄宿舎の形態をとるときに、娯楽なしに学問をするのは不可能です。節度ある娯楽の工夫として、詩歌管弦、村に伝えられてきた横笛などは絶好の楽しみであった。

 また、琵琶湖の北部に浮かぶ竹島にも弟子たちと出かけているのです。楽しみながら、弟子たちと親密な関係をつくりながら、学問の目的である明徳を明らかにする。民に親しむに在り、至善に止まるに在りということで、博く、これを学び、審らかにしたのです。

 また、これを問い、謹んでこれを思い、明らかにこれを弁じ、篤くこれを行うことをしたのです。そして、物知りをひけらかす、利禄のもとめとのみ、心の驕慢の深い記誦詞章ではなく、実践的に明徳という五倫道徳の知を窮めることにあったのです。

(山住正己「中江藤樹朝日新聞社、近江の私塾117頁から176頁参照)。

 

  中江藤樹の翁問答(中公バックスの日本の名著)から、学問や教育の考えを読み取っていきます。藤樹は、問答ということで、弟子たちからの質問に答える形で、自分の考えをのべているのです。

  学問の本意が世間で明らかでないことが天下の大不幸であると藤樹は、徳がなければ儒者ではいということで、のべていますが、その意味がわからないという弟子の質問です。

 藤樹はのべます。「学問は明徳を明らかにすることを主意真髄とする。明徳は、われわれ人の形をしているものの根本であり、主人である。この主人が暗ければ、あたかも主君がぼんやり者で家来が無秩序であるようなものだというのです。

 その人の思うこと行うこと、みな天理に背き、もっぱら明利の欲が深く、親をも親とせず、君も君とせず、ただひたすら自分には利があり人には損害をあたえることに知恵を働かし工夫をし、互いに争ったり奪い合ったりし、はなはだしい場合には主君や親を殺す悪逆な行為もする。人間の万苦は明徳の暗いことから起こり、天下の兵乱もまた明徳の暗いことから起こっている」(163頁)。

 ここでは、私利ということが、天理にはずれ、明徳を暗くして、その怖さとして、心の側面から争いの根本の原因になることを指摘しているのです。天理ということが藤樹にとって大切なことなのです。

 世間で学問をする人をみるに、学問の真の意味を知って、志す人は少ないと藤樹はみているのです。

 弟子の質問は、四書・五経は世間にゆきわたって、読む者はたくさんいるが、この真の意味が明らかではなく、世の中の人々が学問を謗(そし)るのはどうしてか。この質問にたいして、藤樹は、学問の本意は、明徳を明らかにするということであると語ります。

「文字や書物の読み方を教えて禄を得るという物読み奉公人、医者の飾り、伊達道具のためか、三つを志として学問をするので、学問第一義の明徳を明らかにすることに関心ももっていないから、心を正しく身を修める益はなく、文芸を自慢する病がかさむだけである」。(166頁)

 弟子は、学問はよいものであるとみるのです。しかし、たくさんは不要のことであるという人が多い。これは真実のように思いますか。これに対して、藤樹は、学問に、贋(にせ)学問と正真とがありますと答えるのです。

「正真の学問は、私心を捨てて義理をもっぱらとし、自慢の心をおこさないように心がけることを工夫の眼目とすることであり、贋の学問は博学の誉れだけをもっぱらとし、自分より勝っている人をねたみ、自分の名を高くしようとたたひたすら文字だけを暗記ばかりする記誦詞章(きしょうししょう)の芸ばかりになって、心構えや行儀が悪くなり傲慢になっていく。自慢の心根は固くなり、人々。これは生きている虫ほどにも思わず、天下に我以上はないと、親や親方の愚痴な様子を軽蔑し笑いものに思い、主君を謗り盟友を嘲、正道を妨げているようになるのです。(101頁から102頁参照)

 正真の学問は私利私欲を捨てるために、義理を重んじるために学ぶのですが、ニセの学問は、暗記ばかりの物知りになっての出世のための私利私欲のために学ぶものです。

 弟子は、世間の学問をする人を見ると、さして学問による有益なしうるもなく、かえって気質は悪く異風になる人があるようです。結局は学問はしない方がましと存じますが、どんなものでしょうか。

 藤樹にとって、人間は徳を知り、道を行わなければ人面獣心ということになり、学問は人間第一の急務と答えるのです。しかし、それをよく知って教える人がまれであると藤樹は、次のように語っているのです。

 「人間に生まれて、徳を知り、道を行わなければ、人面獣心といって、形は人間であるが心は獣と同じで、至誠無息の神聖を失い、世俗の諺に「人の皮をかぶった犬」というようにたいへん浅ましいことであるから、学問は人間第一の急務であり、なさねばならないことであるけれども、正真の学問を知っていて教える人がまれだから、学ぶ人も少ない。世間でもてはやす学問は、多くは贋である。贋学問をすればなんの益もなく、かえって気質悪く異風になるものである」。(71頁参照)

 さらに贋(にせ)学問と正真の学問について、、天道の道にそって、その違いをのべていきます。「天道の神理に背いているのが贋学問である。俗儒は、儒道の四書・五経その他諸子百家の書物を残らず読覚え、文章を書き、詩を作り、口耳を飾り、利益に禄を求めるのみで、驕慢心の非常に深人です。彼は、訓詁や記憶してそらんじ、詩文を読むことをもっぱらとして、耳に聞き、口に説くばかりで、徳を知らないものです。

 これとは正反対の正真の学問は、明徳を明らかにすることを志の根本にしているのです。四書・五経の心の師とし、事に応じ物に接する実際の生活環境を砥石と考えて宝珠を磨くように明徳を磨き、四海を正し天下を安らかに治め、立派な事業を実施し、時勢にあわないで困窮するときは、ひとりその身を正しくして、己の心に具えた天理をつくし天命を信じて教えを実践することが、正真の学問です。72頁から73頁参照)。

 正真の学問をする人たちは、四書・五経を読んで覚えるだけではなく、実際の生活を砥石として、磨いていくということになるのです。実際の生活とかけ離れての四書・五経を自分自身の心を磨いていくことはないのです。ここには、藤樹の学問の姿勢が実際生活との関係で、物事を考えていく基本的な立場があるのです。

 ところで、弟子の質問で、世間の取沙汰に、武士に物読み坊主衆あるいは出家のすることで、武士のなすべきことではない。学問に熱心になりすぎた人は軟弱で武用には役にたたないなどといって、武士の中で学問する人があれば、かえって非難しております。

 このような誤りは、いかなる迷いから起ったのでしょうか。藤樹は、世間に贋の学問ばかりが盛んで、人々の心が汚れに染まっているからだとのべるのです。そして、正真の学問は武士に必要と強調するのです。

 「世間は贋の学問が盛んで、風俗が悪く人々の心が汚濁されています。書物を読むことばかりを学問と考える風潮です。心の汚れを清めるのが学問です。学問は武士のすることではないというのは、愚かなことで、迷いの中の迷いです。心が明らかで行儀正しく、文武を兼ね備えるように思案工夫することを正真の学問です。学問は武士がしなければならないことです。

 正真の学問は仁義の勇です。生まれつき勇気のあるものは、元来死を恐れずに物におびえない驚かないことは仁者の勇に似ているが、仁欲の迷いが深いから、明徳の良知が暗いので、不義無道の働きは畜生と同じで、生まれつき天から受けた仁徳を失うものである。生まれつき勇気のある者は、正真の儒学を努めて、その勇を仁義の勇となっていくのです。(96頁から99頁参照)

 施政の法度は厳しくしたのがよろしいでしょうかという弟子の質問に、藤樹は、主君の心が明らかで正しい道が実行されていれば、自然と人の心はよくなるもので、本来政治は、法度の個条が少なく、その時代相応の至善にかない、おおらかであることを大本とするものです。

 法治は厳しく厳しいほどみだれやすいものです。徳治と法治の区別をよく理解して、徳治は、まず自分の心を正しくして、人の心を正しくするものです。法治は、自分の心が正しくなくても、人の心を正しくしようとするものです。

 主君の心が明らかであれば、吟味は正しく法度も道理があるから、いつまでも変わらない。主君の心が暗ければ、万事に不吟味であるから、その法度もたびたび改められるのです。明徳さえ明らかになっていれば、時・所・位の分別、人事の務め、運命の定め、みな鏡に影を映すようなものです。(84頁から87頁参照)

 法度がかわらないことは、為政者の明徳が明るいことであり、学問をせずに明徳が暗ければ法度はたびたび変更されるとみているのです。明徳が明るければ、鏡のように分別、人事、運命がみえるというのです。法度が次々にかわっていくことは徳が乱れていること証であるのです。

 学問と政治とは別のことと考えておりますが、一つのものでありましょうかという弟子の質問に、正真の学問であれば、学問と政治は同一とあると、藤樹はのべるのです。 「学問は明徳を明らかにするのを全体の根本とする。明徳は、天地の有形のもの以外にも通じ、上もなく外もなく、神明にして測ることのできないものであり、天下国家を治める政治は明徳の神通妙用の要領であるから、いわば政治は明徳を明らかにする学問であり、学問は天下国家を治める政治でもある。天子・諸大名が自身行われる一事、あるいは口にされる一言でも、みな施策の根本であるから、政治と学問とは本来同一の理であることを、はっきりと納得しなければならない。(87頁参照)

 天下国家を治める政治は、明徳によって正しい施政が行われいくものです。ニセの学問ではなく、真正の学問によって、仁政という政治の根本姿勢が定められていくのです。

 ところで、学問を教える教師について、藤樹はのべるのです。「真儒の生業として、教官をするのは、教え方さえよければ、ありがたい真儒である。その心の持ちようと行いが道理にあわないのが俗儒のそしりを受けるのです。教官を生業とするのは、良いけれども教え方にあやまりがあるのかどうか知るべきです。(76頁参照)

 大学の道は、上は天子から下は一般庶民までの教えとして聞いております。愚かな下々の者は書物を読むことができません。どういたしましょうかという弟子の問いに、藤樹はのべるのです。

 「昔、聖人の御代には小さな村にも学校があった。そして、その村の奉行・代官がその先生となって、耕作の余暇に聖経を講釈し道を教えたので、愚かな下々の者まで書物の本意をよく理解したのである」。163頁

 聖人の御代では、小さな学校が村々に学校があり、奉行・代官が先生になって、農民たちに聖経を教えていたというのです。書物を読めない人々のために、講釈する学校があったということです。藤樹は、まさに聖人の御代のように小さな学校を琵琶湖のほとりの小川村で、わずかな生計を得る手段をもって、権力から自由な立場であるものが実践していたのです。小さな村々にも人間としての正しい生き方の学びの場があったということです。

 名誉や利益を目指して学問する人が何の役にもたたないということはもっともであります。しかし、それほど明利の汚れもなく道に志して学問する人が役に立たないばかりではなく、かえって心持や行儀が異風になっていくのかどういうわけでしょうか。

 この弟子の質問に、藤樹は答えます。「人の心というものは、知識ある者も愚かな者も、私心を種として発する自慢の心のないものは少ない。この慢心が明徳を暗くし、災いを招く曲者であって、万事の苦しみも大部分はこれから起こる。恩恭自虚(おんきょうじきょ)が、初学心法の第1義とするのです。この四字に法に則って慢心を除き捨ててしまえば、その学ぶところはすべて心を磨くことになって、明徳は日ごとに明らかになるものです。

 もし、この法によらないで慢心を除かなければ、学ぶところはみな慢心を助長することになり、明徳は日ごとに暗くなるものです。温和で恭々しく人にへり下り、自ら反省し独り慎み、人を恨まず人を軽蔑せず、人を手本として善をなすということです」。(162頁から163頁参照)。

 誰でも慢心という明徳を暗くする心があるものです。明徳を暗くすることは、苦しみの源になっていくものです。従って、だれでも常に学びが求められているというのです。

 藤樹は「親が子をいつくしみ愛するには道理や才芸を教えて、子の才徳を成就するのを根本」と考えています。苦労をいたわって、子の願いのままに育てるのを姑息の愛としています。牛が子牛をなめ愛して育てることと同じで、慈愛のようにみえるが、その子は気ままになって、才もなく徳もなく鳥や獣と同じようになってしまうので、結局は子を恨んで、悪い道に引き入れるのと同じです。親は、子どもに孝徳を教えることが大切であるとしているのです。

 「子どもの感情の願いのままに育てることは、決して親が子に対する慈愛ではなく、親が子を悪い道に引き入れていくのとおなじである」と藤樹は言うのです。

 「まず道を教えて、本心の孝徳を明らかにすることを教えの根本とするのです。才芸が衆人よりもすぐれ、めぐりあわせが非常によくて、人間として栄誉を得ても、その心がねじけていて本心の孝徳のないものは、天地・鬼神に恨み捨てられものであるのです」。心がねじけていて、孝徳のないものは、天からすてられるというのです。

 ところで、藤樹は幼少期の父母の教育は根本と考えるのです。「幼児の期間には教えないものと思っている人がいると思うが、教えるのは、口で言い教えることだけではない。根本になる教育は、口で教えるのではなく、わが身を立てて道を行って、自然に身についていくのです。言葉を覚えるように、幼い者の気質や身の持ちようも、父母・乳母などの気質や身持ちを見たり聞いたりしてなじんでいくものです」。

 幼少期の教育は、口で言いのではなく、父母自身の気質や態度を見たり聞いたりして身に着けていくものであるとしています。

 そして、孝徳の大意を教える8歳から9歳の重要性についても藤樹は次のようにのべます。「八歳から九歳にもなったときは、孝経の大意を説き聞かせて、才徳兼備の教えをもっぱらとして、愚鈍で才徳兼備を理解できないものは、義理をなんとなく語り聞かせて孝徳の本心を失わないようにして」。

 ところで、15歳になったときの教育について、藤樹は師匠と友人を選ぶ大切さを指摘し、生業の力量の重要性についてのべるのです。「15歳のころになったら、師匠と友人を選ぶことを教えの眼目として、生業は、それぞれの力量や性質に従い、またそれぞれ運命を考えて、生活の本来の道筋と士農工商の身分を考えて定めるべきとしているのです」。(63頁から64頁参照)

 このように、藤樹は子どもの発達の段階にそっての子育て、教育の重要な課題を指摘しているのです。幼児期の教育、8歳から9歳の孝徳の教育、15歳になったときの師匠や友人えらび、生業の力量をみにつけていく課題など、それぞれの成長段階に対応させて考えるようにしているのです。

 中江藤樹の思想では、孝が基本的な内容になります。その孝は、愛敬の二字に要約できるとしています。愛は人間的な感情の親しむということで、敬は、上の者を敬い、下の者を軽くみることではなく、侮らないようなものとしています。孝経は、この宝を学ぶ鏡になるというのです。

 人間の心の持ちようで至徳要道という孝経の宝がもつことができると藤樹は強調するのです。それは、上に天道に通じ、下は四海に明らかにするものです。そのことで、人間の交わり関係でそれぞれ和睦して、互いに憎しみ合うことも生まれないとしています。その宝は本当に求めたいものですが、あまりにも広大な道でわたしどもの分際ではとても到達はできそうもないと弟子は語ります。

 藤樹は本心さえあれば,その広大な宝を誰でも用いることができるとしているのです。衆生に教えを示すために、昔の聖人は孝と名称したというのです。孝は、親に仕えるということに考えると思っている人々がいるが、そうではなく、万世の人々の迷いを開くためで、広大深遠で、始めもなく終わりもない神明の道と藤樹は考えているのです。

 親を愛敬するのは、感通という天地の徳が働いて人間に通じることです。それを孝行の根本としています。臣下が二心なく主君を愛敬するのも忠と名づけ、親がよく教えて子どもを愛敬するのも慈といいます。弟が和順で愛敬するのも悌という。兄が善行を励まして弟を愛敬するのも恵とします。妻が正しく、節操を守って夫を愛敬するのを順となします。夫が義理を守って妻を愛敬するのも和としています。偽ることなく盟友を愛敬するのを信というのです。

 このように、身近な切実な愛敬の道徳であるから、どのような愚鈍な下々の男女でも、幼児でも、よく知りよく行うことができるとしています。そして、人間は天地の徳、万徳の霊であるから、人間の心と身には孝の実体が備わっているので、それによって身を立て、道を行うことを修養の工夫の要領としていると藤樹はみるのです。

 わが身は本来、父母から受けたものであるから、わが身は父母の身と同じと思い、父母の身は天地より受け、天地は太極より受けたものです。このことから、本来わが身は太極神明の分身ということで、それを失わないで、人倫に交わるということになるというのです。(54頁~55頁参照)

 まさに、人間は天地の太極から受けたという人倫の意識が大切だというのです。天道に通じて、四海を理解していくという人間としての仁義があるのです。人間の孝は、すべてにわたって、父母から朋友までの天地の徳、万徳の霊によって、行われるというのです。

 人間の千万の迷いは、みな私心からおこるというのです。私心がわがみ身をわがものとして思うことからおこるのです。孝は、その私心を破り捨てる主人公であるから、孝徳の本来の意味を悟らないときは、博学多才であっても真実の儒者ではないとしているのです(56頁参照)。

 藤樹は、人間のすべての迷いは、私心からおこるとして、私心の心を破り捨てることの大切を力説しているのです。

 私心を入れずということでは、主君が臣下を使ううえでの本質ということや、諸侯・家老の私心が世を乱していることをのべているのです。

 臣下をどのように使用するのがよいのかという弟子の質問に藤樹は公明博愛の心を基として、人を選ぶことの大切さを次のようにのべているのです。

 「賢知・愚不肖それぞれの分相応の人物を取得する場合、私心を入れず、道徳・才智のある賢人を高位につけ、施政万事の主な相談役とし、才徳のない愚人、不肖の人にも必ず得意なことがあるもので、その長所をよく見知って分相応の地位につけて使うならば、人間で役に立たぬ者はないものです。

 使い方が悪いから、よい者も役に立たぬと思うのです。主君の側が直接使ってこそ、その人柄も心がけもわかるのです。人づてに聞いているだけでは人物の良否はわからないのです。出頭人のとりなしでだけでは聞き知る程度にすぎない。心の暗い主君は、どれほど良い士を集め来ても、それを用いる主君が暗ければ曲者で出世しようという士を使うことになるというのです」。(83頁から84頁参照)

 自分で直接会って、そして使って人物の良否をみることの大切さを藤樹は指摘するのです。その際に、使うもの自身が明徳が暗ければよくみることができないとしているのです。

 藤樹は、君主が人を使ううえで、大切な道理は、仁と礼の心をもつことと、人はみな天のもとに、みな骨肉同朋で、兄弟ということの気持ちをもつということを強調しているのです。

 「君主は、仁と礼をもって臣下を使うのが道理です。仁は義理に従って人を愛することで、礼はそれぞれの位の道理にしたがって、人を敬い、侮らないことです。万民はすべて天地の子です。われわれ人も人間の形をしている者はみな兄弟です。生まれつきの厚薄・高下によって主君となり、臣下となっても、元来は骨肉同朋の道理であるから、扶持のないものも憎み悔いるべきことではない。まして、扶持している者は、本当に、情を深くし、礼儀正しくする道理があるというのです」。(65頁から66頁参照)

 使うもの自身が明徳が明らかで、人を敬い、侮らないということで、すべてが、天のもとにあるという姿勢が持てるかどうか大切というのです。そのような関係になれば、骨肉同胞の感情が生まれてくるというのです。みな天の子として、等しく平等にみて、扱うことが上にたつ人は重要であるというのです。まさに、為政者の在り方を説いているのです。 

 また、愚痴・不肖のように才能のすぐれていない者でも良知良能があるというのです。天の子として、人間みな平等ということから、愚痴や不肖の者も良知良能を失わなければ善人の仲間というのです。愚痴や不肖という人間の能力面から悪人とすべき理由はないというのです。

 藤樹は、才ある者も才ないものも、知ある者も、知なき者、形や気の邪欲に溺れ、本心の良知を失う者は、すべて悪人ということで、人間のもつ私欲の問題を基本にして善悪を語っているのです。(92頁参照)

 ところで、諸侯や家老の第一の悪い欠点はどこにあるのかという弟子の質問に藤樹は、私心にあると答えるのです。「私心の人はきままであります。気ままの人は必ず他人の意見を聞き入れず、世間の非難も顧みず、自分の心まかせに偏って、自分の好むことは悪いことでも善いことと取りなすことです。

 また、夜も昼もあけぬように好みふけり、自分の好まぬことは善いことでも誹謗して、けなして取り上げず、性の合う者は小人倭人でも近づけて親しみ、功績もないのに知行を加増し、罪があるのに刑罰を課さず、性が合わなければ長い間の功績・忠節の者をおろそかにして近づけず、功があっても賞を与えず、罪もないのに刑罰を加えるという不義無道の作法や仕置きが行われるのです。これらは、みな諸侯や家老の私心の根底から起こるというのです」。(112頁参照)

 人を治める立場の諸侯は、私心の怖さを藤樹は語り、国が乱れ、国を滅ぼしていく道として、私心の慎みをのべているのです。そして、諫言の重要性を指摘しているのです。

 「諸侯の第一の心得として、謙の一字をあげているのです。それは、諫言をよく聞き入れて、自分の高い位におごり、自慢する魔の心を断ち切って、義理の本心を保ち、万民を軽蔑せずに、慈悲深くすることです。諸士には無礼をしないように、家老や出頭人の諫言をよく聞き入れて自分の知恵をさきに立てず、善を好むこと、悪を憎むことは謙というのです」。(112頁から113頁)

 ここでは諫言ということを藤樹は、国を治めていくものが、私心を抑制して大切をのべているのです。

 諫言は、儒学によって、為政者の私心、私欲を取り除き、国を治めていくうえ大切なことであることとして、それを体制的に保障していくしくみを中国の歴史ではつくってきたのです。

 つまり、王によって機能しないこともあったが、諫言を保障していく諫官の制度がつくられていたのです。唐の太宗の時代の諫官は、毎月200枚の用紙を支給されて、それを用いて諫言を書いたのです。そこでは、諫院という庁舎が整備されていたのです。太宗の時代には、諫言が大いに機能して仁政と太平の世が充実していったのです。

 唐の太宗が中国歴史の名君からまとめた「貞観政要」がありますが、そこでは、臣下の諫言に耳を傾けることが帝王学で大切としています。太宗は熱心に臣下からの諫言に耳を傾けた君主であった。「部下の諫言には喜んで耳を傾けるがよい。部下の意見が自分の意見と違っているからといって咎めだてをしてはならぬ。部下の諫言を受け入れない者が、どうして上の者を諫言することができよう」。(守屋洋貞観提要」現代日本語訳、プレジデント社、97頁)。

 日本の武士道の世界でも佐賀藩士の山本常朝が書「葉隠」での武士道の真髄を1659年にかいたが、そのなかで、諫言の重要性を指摘しているのです。

 「すべての諫言や意見は、和の道であり、じっくり話し合わなければ用をなさないものだ。堅苦しく改まった言葉遣いなどでは、角を突き合わせて形になって、簡単なことでも直せぬことになる。主人を諫言するにもいろいろややり方がある。真心から諫言しようというのであれば、周囲に気づかれないようにすることだ。ご主人の気持ちに逆らわぬようにして、よくないことをお直しするのである。

 ・・・諫言する場合にも、もし自分がしかるべき地位にいなかったならば、その地位の人に言ってもらって、主君の間違いが直るようにするのが大忠というものだ。このつてを得るために、諸人と親しく付きへつらうということになる。それを自分のために利用すればへつらうということになる。自分でお家を背負って立つという真心からすればできることである」。(奈良本辰也訳編「葉隠三笠書房、118頁から119頁参照)

 1715年に出版された室鳩巣「名君家訓」にも絶対的服従ではなく、誤りについては、正していく詮議し、諫言を用いて、学問の大切さが述べられていたのです。

 「古の聖賢の君さえ群臣の諫めを求め、生まれつき不肖にして、君たる道にたがい、各々の心にそむかん事を朝夕おそれいり、その身の行い、領国の政、諸事大小によらず、少しもよろしからぬ。生まれつき不肖の悪事を強く諫めれば、不快の顔色をもつ。かさねて申し懲りるようにいたし、その分随分嗜むようになります。

 終始の心底は、弓矢をもって申すどおり。おのれの悪事を人にかくし間、何事によらず、機嫌をはからず諫言を行うことです。威勢をつのり、才智にほこりがあると諫言を用いず、賞罰をしなければ、賢臣を遠ざけ、佞臣を近づけさせることになります。

 それは、文道疎くなり、武備をわすれ、家臣百姓にいたるまで憐れに思うようになる。無用の器物をもてあそび、金銀を費やし、作事を好むのでは、人たる道の力を破ることになります。

 武士の風俗、質直朴素の気味すくなく、外見かざり、身を豊かに持ちなし、下のものに対しては高位な姿勢をとることがあります。これらは、武士の作法にかなうことではなく、武士の本心は、形をつくろい、身をかざる心ではない。平生の行い考えて、善悪を定るのは、家老、頭分の役である。えこひいきは、武士の仕儀にはない。万一左様なことがあれば、詮議を行うべきです。

 武士は、書を読み、古の聖賢御言葉を種として 、心身の工夫をするのであれば、小学、四書、近思録のたぐいを熟読いたし、余力あれば五経などにも及び、その義理を尋ね、一字一句も今日の上にひきうけて、ことごとく修行のためにいたし、真の学問をすべきものです。

 武士は節義のたしなみをもって、口に偽りをせずに、身に私をかまえ鉄石をもって義理を重んじるというのです。そして、温和慈愛にして、物のあわれをしり、人に情けをかけるものです。(「名君家訓」近世武家思想・日本思想体系、岩波書店、68頁から83頁参照)。

 藤樹に、弟子からの武士の人調べはどのようにするものかという問いがあります。世間の諸大名では、諸士を召し抱えるのに、定まった作法があるとは見えない。ただよいひいき、つてのあるものが良い武士とあつかわれ、高い知行を取るように思いますが、いかがでしょうか。

 藤樹は答えます。「主君は人物を吟味して、良い武士をかかえたいと考えても、世間一般の風俗が悪く吟味の方法も明白でないため、不本意にも不吟味になっていくのです。根本的に、武士の品位に上・中・下の三段階があります。

 明徳が十分に明らかで明利私欲の思いがなく、仁義の大勇があって文武を兼ね備えている人を上とするのです。明徳は十分ではないが、財宝利欲の迷いがなく、功名節義を身に代えても守る人を中とします。外見だけは義理だてをしますが、心の中は財宝利欲を考え立身のことばかりをむさぼるのを下とするのです。この下品の曲者が大勢栄えているようにみえるのです。主君たるは用心せねばならぬことです。

 諸子の吟味には三つの要点があります。徳と才と功です。徳は文武合一の明徳です。才能とは、天下国家の万事をとり行う文芸・武芸に関する才智・芸能のことです。功は、あついは天下国家の施政の実績です。あるいは奔走する功です。天下国家の危機をはらい、天下国家のためになることを初めて造り出したたり、大敵を滅ぼし成功をたてるなど、みな功です」。(82頁から83頁参照)

 藤樹は武士の品格には、上中下と三段階があると考えています。そして、多くは、下の段階で、多くは、外見だけは義理だてするが、財と利欲、立身のことばかり考えていると言っているのです。この現実を考えて家臣を冷静にみていくことが必要としています。ここには、家臣たちの常日頃の品格を高めていく学びが求められているのです。

 武士道を吟味するには心学があるのです。真の武士道は、忠孝と藤樹はのべていますが、弟子は、世間での武士道は武のたしなみばかりを考えています。明徳を明らかにして仁義を行うのは、昔からまれであると思っています。昔も今も国も治まっていますので、難しい心学などいらないのではないでしょうか。

 この質問に藤樹は、そうではないと答えます。「明徳仁義は人間の本心の別名で、生命の根であるから、生きとし生ける人間で明徳仁義の心のない者は一人もいない。これを学ぶのが心学です。武篇は忠孝の一種です。忠孝の心が真実であれば武篇は強いものになります。仁義の道を捨てて武士道も立ち、世が治まったなどということはない。欲のために働く勇は、謀反人や盗人であって、武篇ではない。何の吟味もなく猛々しく腕自慢をして人を殺すのは浅ましい嘆かわしいことです」。

 このように、武篇にも仁義が必要であるとのべるのです。それがなければ、人を殺すことを武として自慢するようになるからです。それでは、仁義の道を外れて、世が治まることはないのです。戦場での軍の戦略においても明徳が求められることになるのです。

 ところで、藤樹は、庶民の孝についてのべています。「庶民は、農工商の仕事をしている人たちで仕事を勤めて怠らず、財穀を貯え、むだに消費せず、身の行い、心構えよく慎み、公儀をおそれて法度に背かず、わが身の利や妻子のことを第二として、父母の衣服・食物を第一に念を入れ、心力をつくすこととしています」。

 「庶民は、財産が乏しいので、十分に心を使うことをしなければ衣服や食料が足りないのであるから、庶民にだけ父母の養いを説いたのです。親を愛敬するばかりではなく、それぞれの生業の仕事に精を入れることが親に対する孝行の本当の意味になるというのです」。(58頁から59頁)

 庶民は生業の仕事に精を入れることも孝行にとって大切としているのです。父母への孝行も、財がなければできないということです。つまり、愛敬ということばかりではなく、年老いた父母を養っていくことができなければ孝行にならないとしているのです。

「父母は慈愛の心を持って、苦労を積んで子の身を養い育てたのであるから、人の子の一身、一筋の毛までも父母の千辛万苦の厚恩でないものはない。父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深い。あまりにも広大無類の恩であるので、本心の暗い凡夫は、それに報いることを忘れ、かえって恩があるともないとも思わないようです。恩に報いるように思うのは孝徳の本心があるからです。それを忘れてしまうのは、人欲の雲に覆われ、明徳という日の光が暗くなり、心の闇に迷うゆえです」。(61頁参照)

 このように、藤樹は、父母の恩に対する報いとしての親孝行の大切を強調するのでした。親孝行を考えていくうえで、父母の人間的な慈愛に対する恩に報いるということで、それは、父子関係を基本にしたことでは決してないのです。

 とくに、我が子に対する強い慈愛をもって、育てる母親に対する恩の感情と、父親との関係もあるのです。民の父母たちは、我が子を、苦労を積んで養い育てたのです。家父長的な家族関係での親孝行ということではないのです。家父長的な親孝行の概念が、家族国家観に結んでいった戦前の反省のうえに、父母に対する親孝行を人間学の普遍的道徳から考えていくことが必要なのです。

 ところで、盟友の信としての孝について、藤樹は大切にしているのです。同郷、隣同士、同じ役目、同じ職場、一度あった人でも志で通じ合うことがあります。盟友とは互いに偽りがなく義理にかなう、信をもって交際する道のことです。お互いに志が同じで交わり親しくしていくことを心友という。

 同郷、隣同士、同じ職場、同じ役目をもって交わるのを面友という。善悪の分別もなく自分の心のなかで真実に思い入れて交流をしているのを信とおもっているのは大きな誤りで、真実に思い入れたことでも道に背いていれば、人欲の偽りということであります。盟友たるは、自分も人もみな真実無妄の天道を父母として生まれたものであって、その外形は他人であるが、道理の側からみれば同胞であるから、真実にして妄りなき信の道を守って、骨肉の感情を持つ(69頁参照)。このように藤樹は盟友に、仁徳の義理、骨肉の感情ももつことであるとのべるのです。

 盟友の信としての孝の関係を広く作り上げていくことは、現代社会の弱肉強食のなかで、無縁社会現象や平気で目先の自己利益のために、人間としての仁義が失われがちななかで、大切な課題です。信とは単に絶対的に相手を信じるという関係ではなく、人をあざむかいということで、約束したこと、自分の言ったことに、誠実に責任をもっていく人間関係なのです。

 信用していく、信頼していく人間関係としての盟友としての孝になっていくのです。この意味で、心友という関係ことが大事にされるのです。面友という同郷、隣同士、同じ職場、同じ役目という関係は、幅のもった広い人格形成にとって大切なことです。弱肉競争社会と分業化の極端な進展のなかで、孤立が進み、仕事も一人で行う場面も増えているなかで、面友を増やしていくことは大切です。

 面友は、強い絆をつくりあげていくうえでの共同の活動、仕事などで大いに力を発揮していくことがあるのです。創造的なこと、持続的に課題を探求していくこと、困難性をともなった中では、目的意識性をもった心友の関係への発展が必要になってくるのです。盟友には、心友という孝の関係が基本であるのです。盟友信の大切さは、地域や国を太平で平穏に楽しく豊かに治めていくうえで大切な人々の輪づくりであるいえるのです。