
はじめ
いま、なぜ 現代の社会から未来へと考えるときに、縄文遺跡から学ぶことが必要なのか。
豊かな自然の恵みから生きていくことは、持続可能な循環社会をつくりだすことがよくいわれています。セルノースナノテクや再生可能なエネルギーなど、自然資源を積極的に活用する科学・技術の発展は、今日、世界各地における環境問題が深刻になるなかで、人類的課題となっています。
現代は、様々な面で便利な社会になっています。ものがあふれています。人びとは自己の欲望を実現するために、金さえあれば願いがかなえられると思う人が増えています。個々の金銭欲、拝金主義は現代の人々の心を支配しているように思うのです。そして、金銭欲から、弱肉強食の競争に勝つことが強要され、個々の人びとが、自然循環、持続可能性を考える人間的理性を失い、動物的な欲望に走っているようです。
さらに、弱肉強食の競争主義によって、生産性第一の効率至上主義になっています。この状況によって、多くの人々は、余裕のない日々で、身体の病と心の病も発生しやすくなっています。その結果、負け組と勝ち組ということで、格差社会になっているのです。ものがあふれる一方で、大量廃棄物が生まれ、環境問題が深刻になっているのです。
人間は、動物とどこが違うのか。生物的なヒトが人間になっていく過程は、長い進化の歴史のなかで、ヒトが、食べ物を分け与え、共同で食物を獲得し、共同の居住区をつくったのです。また、自然の資源から衣服をつくり、それらのために、知恵を発達させて、道具を工夫して、自然のなかで支え合いながら社会を形成してきたのです。
人間は、それぞれが、意思をもって社会的存在として支え合って、相互扶助で生きることが、動物と本質的に違うのです。ヒトという類人猿から人間的氏族共同体社会の集落形成から長い歴史をかけて、農耕社会、古代の地域のクニ、民族的共同的中央集権国家、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会と、現在のような社会的分業や機構が、複雑になっていく社会になってきたのです。現代の塾肉強食の競争社会や官僚化社会は、個々の意思が埋没して、孤立した無縁状況の意識と生活になっています。個々の意思と現実の乖離が大きくあるのです。実際の個々の機能はそれぞれが社会的存在の役割を果たしているのです。
人間は、旧石器時代から石を加工して、新石器時代へとなった。そして、土器を創造して定住したのです。日本列島では、自然の恵みを工夫し、生活の糧として森や川、自然の土地を大切にする縄文時代が生まれました。10500年前に、52棟の竪穴住居の集落の存在が、日本の国土に存在した遺跡が発見されたことは、大きな注目を集めたのです。それが、鹿児島県霧島市にある上野原遺跡です。
ここでは、連結の土坑を利用しての燻製づくり、土器による煮炊きがされていました。また、集石遺構から石を火で焼いて、その上で蒸し焼きをして食べる料理をしていたことがわかったのです。これらからみるとおり、食生活の多彩な工夫がされていたという高い文化をもっていたのです。
この地域社会では、家族を大切にしての女性が中心の母系制社会であったのです。乳房や肋骨を表現した女性像の土偶、ゴウボラ貝など大型貝類の加工による装飾の遺跡も豊富に出ています。首飾り、耳飾り、腕輪なども。
縄文の集落では、自然の恵みによって生きていたことから、人々は、自然を畏敬し、家族を中心としての氏族共同の社会であったのです。土偶は、安産祈願・子孫繁栄、豊穣、病気平癒などを願う儀式などに使われていたのです。
ここでは、道具としての磨製石器も出ています。その後の縄文社会の発展は、黒曜石によるやじり、木の伐採の石斧、石包丁、石クワ、石かまなど。土器には貝殻などで文様をつくての表現がされています。
そして、貝の装飾品や黒曜石などからは、広いネットワークをもっていたことがわかります。黒曜石は地元またはその周辺にないからです。このことから、広い範囲の交易がおこなわれていたのです。
この交易には、海をとおしての交流で、一本の大木を掘りぬいて、カヌーのような小型船による帆をはったのではないか。荷物の多いときは小舟をつなぎ合わせ、また、安定性を確保して、風の動きを巧みに操作させたのです。
そして、海流の動きを丹念に観察し、北極星などの星の位置から方角を定めての航海ではなかったかと思うのです。
現代の日本人が、縄文から学ぶことは、人間と自然との共生関係です。縄文時代は、自然のくりやどんぐりを主食にしながら、植林して、畑作農耕をはじめ、小水田稲作をつくりだし、弥生時代へとつないでいったのです。このことによって、食糧の安定確保人口との増大がはかれました。霧島山麓の都城市・横市で紀元前10世紀の小水田稲作の畔遺跡が発見されました。湧き水、傾斜地、シラス台地の霧島山麓の自然条件を巧みに利用した小水田稲作遺跡です。縄文の自然恵み・条件を利用していく考えの文化継承です。
ところで、縄文時代の家族は、大家族で、それぞれの家族ごとの支え合いが身近に形成されて、それぞれ個々の役割分担もあったのです。家族を中心とした集落は、母系社会での集落での共同の支え合いであったのです。地域で、家族間で支え合う、共同で仕事をしていくことであったのです。
縄文時代から弥生時代に移行していく過程で、海をとおしての広いネットワークと交易のなかから異なる文化や異なる民族の人々が入ってきて、地域の社会も発展してきたのです。そのひとつとして、水田稲作があったのです。そこでは、自然を徹底して観察して、知恵をだして、すべての自然物を有効に利用していたのです。
現代は、自然を畏敬して、徹底して今使っているもの、食糧残渣などを再利用していくなど、持続可能な社会のために自然循環社会、自然との共生社会を積極的に考え、その知恵や工夫を大いに発展させていく時代です。

上野原遺跡、子どもや地域の大人、そして、高齢者たちも学べ、考えさせる企画展
地域の社会教育実践に、すべての年齢層が楽しく、未来をみつめて学ぶ、考えさせる企画として、「現代と古代のもったいないサイクル」が、博物館類似施設の霧島市縄文の森展示館でありました。
現代における大量消費のあふれる廃棄物の環境問題から、未来への持続可能な社会形成にとって、縄文時代での自然との共生した社会から学び、考えるというものでした。素晴らしい環境教育の実践のための展示会でした。
学校の子どもたち、地域の高齢者団体、家族づれの親子、青年たちのグループなど、多くの人たちが参加して、ボランティアの熱心な説明者も加わっての環境教育実践がみれたような気がしました。
社会教育として、このような地域の暮らしの課題から未来への地域社会をつくっていく姿勢は、考えさせながら未来への地域づくりの場の提供だと思いました。今後は、社会教育行政として、未来への地域づくりのための学びが求められていると思うのです。

- 上記の図式は、鹿児島県文化振興財団上野原縄文の森の企画展のリーフレットからです。
現代と古代のもったいないサイクル・古代人に学ぶMOTTINAI2025年4月26日から7月6日の企画展がありました。子供たちからお年寄りまで楽しく、わかりやすい、非常にためになる未來への勇気がわいてくるものでした。
もったいないについては、ものがあふれる現代人にとって聞きなれないことばではないかと語っています。「かぎりある自然のなかに資源を使う」「再利用」「転用」する知恵や工夫が求められる現代で、縄文時代から学ぶことが多いという展示でした。
自然素材をうまく生かした古代人は、豊かな心をもって生活していたということです。貝や骨、木材、粘土、石などの自然素材をたくみに活かしての暮らしであったということです。
古代人の知恵と工夫はすばらしいものでした。素材を無駄にしないで、工夫した道具を大切に扱い、修理しながら使い続けることなどエコな持続可能性を追求したものであることが強調されていました。
普通は石斧だけども、ヤコイ貝の蓋(ふた)を利用しての貝斧など。土器に小さな穴をあけて、ひびが入ったときにひろがらないように、両側をひもでとめられるようなあなを工夫されているという。
どうやってつくったのかという問いかけ。穴をあけることのヒントなど。使えなくなった土器はすべて、捨ててしまったのかという問題設定です。
こわれても再利用する工夫があったのだよと解答。いろいろと問を投げかけて考えさせる展示になっていました 。
このような問いかけをする展示の企画です。子どもたちや地域の大人たちにも未來への持続可能な社会をつくりだすために、積極的に再利用する、リサイクルを縄文時代から学ぶというものでした。
そして、大量生産・大量消費、大量廃棄物による深刻な環境問題から縄文人の知恵と工夫から解決していこうということです。未來社会に向けての展示会で、縄文遺跡の展示資料館として、すばらしい企画と思いました。
現代社会の人々が、縄文の自然を大切にした文化を見直す意味とは!

現代の日本社会では、大都市への人口集中によって、農山村の過疎化が著しく進み、日本人の食糧自給率もカロリーベースで38%と極めて低い数字です。野菜のたねの90%は海外依存、飼料の自給率は25%という低さです。
エネルギーの自給は15%という危機的な状況です。木材自給率は43%ということです。現代日本は、日常生活に必要な消費財は輸入に大きく依存しているのです。
石油に依存してのエネルギーや化学加工製品の消費財の占める率が高くなっているのです。地域の自然資源を有効に生活資材に利用していくという発想が、著しく劣っているのです。
現代の日本は、 石油化学の発展によっての経済発展ということで、資源を持たない加工貿易国と称されたのです。これが、日本の未来を考えていくうえで、正しい認識であるのか。日本人が、培ってきた自然と共生してきた文化を忘れているのではないか。
資源を持たない加工貿易国という考え方は、石油を中心に考える資源論でつくられたものです。このことで果たしていいのであろうか。もう一度、日本の人々が生きていくうえでの自然の資源とは何であるのか考える必要があるのです。日本は資源のない国としてきめつけていいのかと。
国内、地域にある自然資源を有効に使ってきた歴史文化、そして、未来への持続可能性をもつ地域社会ということから、現実にある地域や国内にある資源の見直しをする必要があるのです。新しい地域や国内の持続可能な資源開発という科学・技術の発展という発想が大切なのです。
この意味からも縄文時代の人びとは、どのように日本列島の資源を自然との共生で、有効に利用していたのであろうか。
縄文時代から、そして弥生、古墳と続き、ヤマト国家、平安時代と続き、鎌倉、室町、江戸時代と、日本は、山の文化を大切にして、ある程度の自然を大切に、地域循環の発想を持ちながら、暮らしてきたのです。
日本の自然条件に対応させて、そこから得られる資源を巧みに利用して、衣食住の生活資材を得たのです。自然の恵みを積極的につくりかえたのが農耕文化です。寒冷化や台風、大雨、地震、火山噴火などの自然の恵みが厳しいときに、飢餓がおとずれた。ところが、農耕は、食糧の蓄えもできるようになり、飢餓を救ったのです。そして、人口も増大させ、文化も発展させてきたのです。
豊かな森林と豊富な水と肥沃な土地に恵まれていた日本の国土で、農耕を発展させて、水田稲作を充実させて、土地生産性を重視してきたのです。日本で暮らしてきた人々は、その恩恵によって、歴史的に豊かさを得て文化を発展させてきたのです。
日本の水田稲作は、平野だけではなく、中山間の地域に普及していったことも特徴です。この結果、狭い平地の国土で、森林におおわれたなかでも、米の生産数量を増大させてきたのです。
ここには、山に降り注いだ雨が、森林によって貯水池の役割を果たし、そして、川に常に水がながれるようになって、水田は、さらに大雨が降った時の災害防止の役割をもっていたのです。
つまり、水田は、稲作のためだけではなく、自然保全の役割を歴史的に果たしてきたのです。水田を開墾すれ際に、常に河川による洪水が起きないように配慮がされきたという歴史的事実をみることが大切なのです。
徳川時代に、大きな河川の平野部に水田がつくられていくときに、この問題が常に大きな課題となったのです。
水田稲作や畑づくりにおいても山は、農地の土壌改良や肥料を得るために、大きな役割を果たしていたのです。また、日常生活の燃料も、山からの焚き木が不可欠であったのです。
中世の時代まで、ためいけをつくる条件のない平場の河川周辺には、水田開発の開発をすることが一般的になかったのです。
ためいけなどをつくって水田の水の供給も行われいたことを見落としてならないのです。日本の文化のなかには、自然そのもを神として、その豊かな恩恵を受けてきたことに感謝の精神が深くあったのです。
実は、縄文時代に生きてきた人々の知恵や工夫が、現代でも文化として生きているのです。この意味で、縄文時代の遺跡や文化を大切にしていくことは、自然と共に生きていくこと、循環的な持続可能な社会をつくっていくという、日本の未来を考えていくうえで大切なことです。
上田篤「縄文人に学ぶ」新潮新書によれば、和して楽しむとして、大自然の変化のなかで、大霊、マナの気配を知ることが大切で、それを知ろうとする縄文人は日々努め、人間どうしの争いなどにかかずらっておれなかったのだろうとのべるのです。
縄文人はすぐれて自然観測民族だったのだ。そう考えると、縄文社会に戦争や殺人がなかったことも、縄文社会が一万年もつづいたわけも理解できるとみるのです。
縄文社会の生産性が低いことからこそ弥生農業を受け入れたことは歪めない。しかし、日本列島では、長い年月を経て、普及していくのです。このことをを考えると、縄文人は、自分たちの自然との共生、自然に対する畏敬を大切にしながら、豊かさを求めていたのです。決して、現代に比して物資的に豊かではなかったことはいうまでもない。
だが豊かさというのは、かならずしも生産力の高さや物量の豊富さをいうもではないだろう。精神的な、文化的な豊かさをも含めて考えていくことが必要なのです。コップ一杯の水も、心のもちようによっては貧しくとも豊かにもなるものだとしたら、問題は心にあるのではないかと。

縄文社会が、男の猛々しさよりも女のしなやかさを、益荒男ぶりよりも手弱女ぶりを、力よりも知恵を尊んだとすれば、モノよりココロということも理解されるのです。
日本の未来として、上田篤は、「縄文人に学ぶ」で、母性原理を重視するのです。
父性社会では、競争が激しいい。競争によって、社会は進歩しますが、反面、弱者は切り捨てられていく。また競争にともなって抗争、戦争が激化し、また資源破壊や環境汚染などをも引きおこすのです。
これに反して、母性原理が優先する社会は、平等を旨(むね)とするから、人びとの競争は起きず、社会の急激な進歩はしないが、弱者の切り捨て、抗争、戦争、環境問題の激化などを引き起こさないのです。
父性原理と母性原理がバランスを保ち、従来の「進歩史観」から新たな「持続史観」への道筋が描かれ、明るい日本の未来が拓かれていくのではないか。父性と母性の両面のバランスの大切さを持続史観として、上田氏は、強調するのです。
上田氏の問題提起によって、縄文時代から学び、持続可能性や自然循環ということが無視されてきた開発論、狭い分野での生産力第一主義ではなく、社会進歩とはなにかということを今一度、考え直す時期ではないかと考えるのです。
持続史観として、進歩を考えるときに、平等を旨として、持続可能性や環境や社会との関係で循環が前提に考えることが基本になるのです。持続性と社会進歩を対立的にみるのではなく、社会進歩は持続可能性を前提に、弱者の切り捨て、抗争、戦争、環境問題を引き起こさないことなのです。
確かに、縄文時代に生きていた人々が3000年前の寒冷化によって、人びとが自然からの恵みのみでは生きていくことができなくなって、水田稲作への弥生時代へと、日本人の生活は移行していく側面がありました。
しかし、一挙に移行していくのではないのです。渡来人が 以前から住んでいた縄文人を駆逐し、縄文の文化を消滅していくものでもなかったのです。
水田稲作の普及は、長い年月をかけて、縄文的狩猟採集経済や森の文化を継続しながら成し遂げられていくのです。従って、水田稲作が農耕の中心となった時代においても縄文の森に依存した生活文化があったのです。自然の森から、食材を得ること、衣服の材料を得ること、道具の材料を得ること、住居の木材など様々な生活資材を森から得ていたのです。
そして、自然との共生をしながら、自然からの生活の糧を得ることをしながらも、自然からクリの木を植えたり、自然の植物を農耕へと利用していて側面が強くあったのです。

水田稲作の普及は、自然的な気候に大きく左右されていた縄文の生活から、食糧確保に大きな前進であった。いうまでもなく、生きていく物資的な条件がなければ人間は生きていけない。水田稲作の普及によって、生きていくための食材の生産力の発展があった。食糧の確保は、飛躍的に充実した。人間が豊かに文化的に生きていくためには、食糧確保は、前提になるのです。
ところで、上田篤氏がのべるような母性原理という争いのない、平等で包み込んでいく和して楽しむ世界はきわめて大切です。「縄文文化が日本人の未来を拓く」徳間書店を書いた小林達雄氏は、日本列島で、縄文文化が生まれたことを人類的視点から大きな画期としているのです。縄文時代の出現によって、人間が定住した。自然のままに生きていたことからムラという空間を大切にする社会が、生まれたというのです。
ここでは、自然のままの人間の個人情報だけではなく、蓄積された集団全員に共有される生活の場である人間的空間になったと考えているのです。
人間はもはや動物ではないということで、定住によって、人間としての新しいムラ社会が形成されていくというのです。
ムラの外側には、自然空間として、食糧庫、エネルギーの供給源、必要とする道具の資材倉の原っぱのハラという関係になっていくのです。自然との共生ということで、ムラ社会と自然そのものであるハラとの関係になっていくと。
縄文人は自然の秩序を保ちながら、自然の恵みを利用していくという文化が生まれて、継承していくのです。自然との共生体験は、日本列島で暮らす縄文人が強くもっていたというのです。大陸の農耕の歴史文化には、それはなかったと、春に小林達雄はのべるのです。
つまり、縄文の文化は旧石器時代の狩猟採集時代の自然のままに生きる人間社会ではないと強調するのです。ムラ社会が存在しての自然との共生をしていく知恵と工夫をもって、それを継承していく社会の文化があったとするのです。
この新しい時代の画期は、決して、人類史の普遍的な旧石器時代の狩猟採集時代ではなく、多種多様な食糧事情をもっているというのです。食糧を得るためや味の工夫の文化的な側面を強くもっているのです。
さらに、土器や様々な縄文遺跡からみられるように、芸術的な心の表現がされていた豊かな文化が存在していたとするのです。そして、縄文記念物の心は、現代にまでつながっていると強調します。縄文人の空間認識は、中心に人工的世界として、定住基地としてのムラがあるというのです。

その中にそれぞれのイエがあり、その外にハラとしての自然と人工の世界があり、さらに、その外に、自然のヤマがあり、さらに、他界としてのソラがあるという世界を描いているのです。
縄文人にとって、ハラの風景は、中景となり、ヤマも遠景ではなく、景観を区切りながらの異界とするのです。縄文人は太陽の動向を正確に認識して、日の出、日の入りの位置を山並みに沿って追跡していたのです。ムラの存在の位置も山の認識にそって作られたというのです。
日常生活に使われる土器や石器とは別に、土偶、石棒、石剣は祈りや祭りの使われる日常生活とは別の場の聖なる空間のハレの世界があったのです。ここには、自然との共存共生の文化、自然に対する畏敬の魂が縄文の文化のなかにあったとするのです。
安田喜憲「稲作漁労文明ー長江文明から弥生文化へ」雄山閣の著書で、世界史的な視点から、稲作漁労文明をのべています。長江文明から稲作漁労文明の東洋の文明は、西洋の畑作牧畜文明とは自然観が根本的に異なるとしています。
稲作漁労文明には、森の文化の循環性と永続性をもっていると。日本文明の循環性と永続性として、日本の稲作漁労を大切に考えているのです。そして、その起源を長江文明に求めたのです。4200年前の気候変動によって、長江文明は、衰退し、その主流の稲作文明はベトナムなどの東南アジアへと南下していくというのです。
日本では、3200年前の気候の寒冷化という変動が、日本列島の水田稲作の伝搬の契機であったとするのです。縄文時代に、なぜ長江文明の稲作は広まなかったのかという解答に、安田氏はのべます。それは、縄文時代は、日本列島は温暖気候で、自然の恵みが豊かであったことが原因としているのです。
日本の九州は、長江の下流から直接距離で、800キロしか離れていない。すでに5000年前には長江の下流で水田稲作が行われていた。稲作が日本列島に普及していくのは、日本列島の寒冷化という気候変動によって、豊かな自然の恵みという狩猟採集文化の状況が崩れていった以降です。
水田稲作の普及は、長い時間をかけて日本のそれぞれの地域の自然状況に合わせて、陸稲も含めて、どんぐり、くりとか魚介類、野草など様々な食べ物をつくる工夫のなかで、稲作水田も普及していくのであったのです。
安田氏は弥生時代の稲作の開始は、森の文化に典型的にみられるように、縄文の文化継承によってもたらしたとするのです。そして、21世紀の世界で、限られた地球資源のなかで、人類が鋭く問われていることは、自然からの収奪の度合が小さく、小面積の耕地でも多くの人口を養うことのできる生業をしていたのです。
つまり、あらためて確認したいことは、安田氏の提起から学ぶことは、いわゆる規模拡大による労働効率による生産力増強ではないのです。日本のように限られた平地で、国土の7割が森林でおおわれているところは、その限られた土地から自然条件を上手に工夫して、その土地からの生産力の増大なのです。つまり、反収ということでの土地生産性を求めてきた歴史なので、今後も、その方向性しかないというのです。
安田氏は、稲作漁労文明のように、資源の再利用、リサイクルを基本に、人と自然が永続的に生きる文明原理をもたなければ人類は生き残ることができないとしています。日本の稲作水田、森の文化・鎮守の森、神仏習合・多神教、縄文からの自然の畏敬文化など安田氏は強調します。
安田氏がのべるように、日本の自然条件に適応させて、自然循環させてきた日本の農耕様式、漁労、自然の木や植物を積極的に利用して、植林して、自然循環させていく工夫は、日本の生きていくための文化であったのです。この文化は、稲作漁労文明として、地球と人類を救うという人類史的意味があるのです。
21世紀は、この縄文時代以来の文明原理に立脚した日本が、世界をリードする時代になるかもしれないし、長江文明の「美と慈悲」文明共有ということから日中友好の鍵にと安田氏は強調します。
現代的には、セルノースナノテク、様々に自然を活用しての再生可能エネルギーなどの科学技術の積極的な発展が求められます。それは、持続可能な循環社会形成の開発になるのです。
自然の森に立脚した暮らしに豊かさと幸福の原点を求めて、森の神、山の神、川の神、水の神という自然を畏敬の再認識です。鹿児島では、それから生まれた田の神という自然の恵みの信仰があります。田の神は、秋深くなると森の豊かな山にのぼり、春になると山からおりてくるのです。
ところで、 自然を畏敬して、自然の恵みに依存していた縄文時代は、争いのない社会であったことも極めて大切なことです。水田稲作の文化が灌漑用水事業の発展による開墾事業によって、水をめぐる争いをつくりだすことがあります。灌漑用水は、広域範囲の水の流れの秩序と管理を求めるのです。狭い地域間ごとの争いも打ち消されていくのです。水をめぐる秩序は地域社会の和の秩序を要求していくのです。
定住した集落が大きくなれば、当然ながら、家族集団という枠から、広く、異なる家族集団の存在が生まれてきます。人々の日常生活の慣習や秩序も氏族家族集団という範囲ではなく、その集落の掟や統治が求められていくのです。そこにはリーダーが必要になってきます。
縄文時代の中期になると、中心地に広場と墓、そのまわりに祈りの場が設けられ、住宅は、祈りの場を囲むように環状になって大きな集落が形成されていくのです。
ここでは、話し合いと先祖を大切にする心と、祈りからのアイデンティティ形成の心が育っていったのです。縄文的な話し合いの場とアイデンティティの形成です。
縄文時代の環状集落は、弥生時代に形成されていく他のクニ・部族から攻撃されることに対して、防衛のための環濠集落とは本質的にことなるのです。
日本は、自然信仰を基礎にしての神仏混合の文化がありました。明治の近代化のなかでは廃仏毀釈という一神教的の体制がありました。今、大切なことは、自然を畏敬し、神仏混合を多様性を包含する理念として、学ぶことが必要です。
さらに、その理念を人類史的な平和を構築していく視点から世界にひろげていくことだと思います。多様性を尊重し、相互に共存して、立場の異なるそれぞれの価値観や信仰をお互いに存在を認め合っていくことです。それは、広く、平和に生きていくことが切実に求められる時代であるからこそ重要な課題になっているのです。
核による脅し、ドローンなどの人間の手から離れた兵器による戦争、軍備の拡張による膨大な国防費など。平和になれば人びとは豊かに暮らすことが大いに可能となるのです。
信仰では、仏教的な慈悲の心、キリスト教的な愛の心、イスラム教の平等心など、お互いが信じる神を尊重する時代がくれば、さらに、世界の平和にとっては、極めて有意義になってくると思います。

霧島市の上野原縄文遺跡の人類史的な意味
1986年の霧島の上野原の工業団地建設工事のときに、偶然にも1万年前の縄文遺跡が発見されたのです。1986年から10年間かえて鹿児島県教育委員会の発掘調査で、縄文時代の早期前葉から中世までの複合遺跡であることがわかったのです。
まさに、10年間かけての綿密な調査分析によって、1万年前の縄文遺跡遺跡であることがわかったのです。縄文遺跡は、東日本で栄え、西日本では低調であるという今までの説を考え直す遺跡になったのです。
また、縄文文化から弥生の水田稲作への移行は、長い年月を経て、森を大切にしてきた文化なのです。この文化は、存続性を持ちながら、年中行事や自然信仰、神社や仏教にも影響をあたえながら、現代の日本人の精神生活に大きな影響を与えてきたのです。

10500年前の日本列島における最古の定住集落が上野原に形成されていたのです。集落には、二つの道、52軒の住居群、39基の集石遺構、16基の連穴土坑があったのです。この竪穴建物は、家族単位の住居であったとみられるのです。

ここでは、どんぐりなどの照樹林を積極的に粉に加工して、料理をしていたのです。石器には、木のみをすりつぶす磨石や石皿が多数発掘されて、木の伐採や加工を行ううえでの石斧、狩りのための石鏃もみつかっています。
石鏃は、黒曜石からつくられいることから、その資源をえるために、遠くの佐賀などの地との交易が行われていたのです。原材げんざい石族また、イノシシやシカなどの動物の肉を燻製にして、保存していたこともわかったのです。
縄文人は土器の創造によって、食材を加工して、煮炊きのできる料理ができるようになったのです。その当時の土器は貝殻で文様をつけて、円形、方形、レモン形という三様の姿であったのです。
縄文時代の食事は、身近な天然の新鮮な食材を工夫して、豊かなメニューをもっていたことがことがわかります。
生のままと調味料、焼いたり、煮たり、蒸したり、そして、燻製にしたり、太陽にあてて干したり、さまざまな方法で調理していたのです。
季節によって、自然の動植物の捕獲・採集も異なり、調理の仕方も違って、当然ながら料理のメニューはことなっていました。料理は季節感を強くもっていたのです。
春はイノシシの燻製、イワシ・トチの実、うずらのたまごなどの縄文ハンバーグ、ぜんまいやわらびのあえもの、はまぐりの蒸し焼き、木イチゴのデザート、夏のメニューはどんぐり・トチの木の実・やまぶどうの干したものからの縄文クッキー、果実酒、タイのキノコの焼き。
秋は海幸や山幸の旬のごった焼き、カキの蒸し焼き、ガマズミのクズよせ、冬のメニューは、干し魚の焼き物、イノシシのバーベキュー、イノシシ肉や山芋のシチュー、どんぐりだんごなどと、季節によって、身近な自然の食材を使っての豊かな旬の味を楽しんでいたのではないかと思われます。
和食の文化というなかに、縄文的文化の食事が今でも形を変えて生きている思われるのです旬によって、食材を考えていた縄文時代ですが、現代でも旬の味を楽しむ文化がすばらしい料理にもなっているのです。
土器ができることによって、煮炊きができるようになったのです。土器は旧石器時代から新石器時代への画期的な変化なのです。粘土を焼いて器にしていくものです。石器は、磨製石器として、様々な用途に利用されていくのです。青銅器や鉄器ができる以前の人間の知恵と工夫がされている道具なのです。
さらに、道具ばかりではなく、装飾用や異形石器としての儀式用などの精神的表現としても加工しているのです。そして、石の素材は、定住している周辺からばかりではなく、黒曜石のように遠方からの交易によって、得ているのです。
縄文土器は、手作りで植物繊維を混ぜて、器を強くし、文様や突起をつけて、器と食事を楽しむことも忘れない。料理に器にこだわることは、今でも和食にあるのです。
8600年前になると、気候が温暖になって、その環境の変化のなかで、シイやカシの木も広がり、動植物の自然の恵みはより豊かになっていくのです。このことによって、より多様な土器や石器を利用するようになっていくのです。
丸と四角の口をもつ土器として、保護された形で、一対の完全な形をしたつぼ型土器が発見されたのです。これは、儀式のために埋められたものではないかということです。
また、石斧も8個がまとまって発見されて、埋納ということで、儀式のためではないかと思われるのです。さらに、土製や石製の耳飾りや装飾用の形のものがみつかっています。人々の豊かな感覚をもった文化的な表現があらわれるようになっているのです。
そして、宗教的な自然信仰のための儀式もおこなわれていたのではないかということが、一対のつぼ型土器や、まとめた石斧の埋納にみられます。これらは、人々の精神的な絆の充実の表現ではないかということが想像できるのです。

縄文時代は、植物や動物の利用は、食用だけではなく、動物の骨や植物の素材をるようしての道具や装飾品として利用していたのです。
木工品、編みかごや、敷物として、編んで加工して利用していたのです。すでに、様々な植物を巧みに利用しての高度な植物の利用がされていることがわかるのです。
さらに、1000キロを超える交易・交流を鹿児島の縄文人はしていたのです。それは、黒曜石などの原材料、装飾品のヒスイや貝製品、土器の様式などからみることができます。
南は沖縄、奄美などの南西諸島、北は東日本、四国、九州各地遺跡からよみとれます。ここでは。丸ノミ石斧で丸木船をつくり、帆をつけて、船を2つ、3つとつなぎ、海を航海していたとみられます。
遠くまで海を航海してくには、体力的な訓練と技術、星に対する知識をもって方向を見定めて、季節感をもって気象感覚と海流など幅広い知見をもっていたとみられれます。
日本人のもっている縄文的な航海術、幅広い外との文化との交流やネットワークがあったのです。これは、海洋民族的要素を一方ではもっていたのです。縄文の人びとの暮らしは狭い地域の空間のなかで生きていたのでは決してないのです。
狩りをするための鋭いやじりをつくるために黒曜石は極めて大切なものですが、その産地は限定されていたが、各地に暮らす縄文人は、それを道具として使用していたのです。貝やヒスイの装飾品も、産地は限定されていたが、その交易があちことで行われていたのです。
ここで、おさえておかねばならないことは、縄文人は交易を積極的にしていたことと、定住した住居生活の両面をきちんとみなければならないのです。
豊かな自然に依存しての住居の定住性と、知恵と工夫という新たな創造性からの交易・交流・ネットワークという移動・交通の発達という二つの面があったことを確認することが必要なのです。日本人が農閑期、仕事の合間に、旅の好きなことも古くからの伝統でもあるかもしれません。
ところで、7300年前のアカホヤ大災害・鬼世カルデラ大噴火によって、南九州の縄文時代は壊滅して、東日本に移動したといわれますが、それは一時的なもので、噴火後の厳しい環境のなかでも復興していったことが上野原の遺跡からみることができます。
それは、新しく、土器の形式に丸い底型へと変化していくのです。新しい土器の遺跡や磨石、石皿の数、さらに耳飾り品などが噴火後の地層から多数みつかっています。
さらに、縄文中期の5400年前から4400年前には全国的に出土している春日式土器や船元式土器も多数みつかっていますので、九州の各地、瀬戸内海沿岸地域との交流が活発に行われていたとみられます。
この時期は、東日本や東北も温暖化の影響で、縄文文化が栄えていたことが遺跡から明らかになっています。大きな環状集落ができていくのこの時期でもあります。
霧島の上野原遺跡の参考文献は「上野原縄文の森」常設展示図録より
そこでは、三内丸山遺跡でもわかるような大きな集落と、集落を統治していく集会場や櫓あとなどがあったのです。
ここから当時の社会のしくみも、それぞれが役割分担していくことができていくとみられれます。関東地方でも大きな環状集落跡やみつかり、集落の中央に広場と墓、何か所もの儀式小屋跡がみつかって、すでに話し合いの文化が花開いていたとされます。
青森の三内丸山遺跡を訪ねて: 歴史文化の旅 (seesaa.net)(以前訪れたことのある写真と簡単な感想を書いたブログです)
これは、広いネットワークをもって森と共に生きる縄文の社会は、吉野ケ里遺跡にみられるように、環濠集落という敵対勢力から集落を守るということではなく、誰でも入ってこれる開かれたネットワークで、自由な話し合いの集落ごとの対外関係をもっていたとされるのです。縄文時代の話し合いの文化を現代でも積極的に見出していくことが求められるのです。
「入門縄文時代の考古学」谷口康浩治によれば、土器の出現という技術革新が時代区分として重視され、終末は、大陸からの稲作農耕伝来が弥生時代の移行としての教科書的解釈であったが、それは違うというのです。水田遺跡の形成跡が佐賀県の菜畑遺跡などから縄文晩期であることがでてきているからです。
東日本では、いわゆる2500年前の弥生時代まで狩猟採集時代であったということから数百年さかのぼることになります。日本列島に同時代に、一挙に稲作水田農耕文化になったということではないのです。
縄文時代晩期は、農耕稲作文化と縄文文化の狩猟採集社会の変容が長い期間をとおして日本列島に拡がっていったと谷口氏は理解しなければならないとしています。
そこでは併存しているのが、自然条件の地域ごとの違いということだけではなく、縄文の森のドングリ・クリ、狩猟や漁労のなかで生きてきた人びとが同時に稲作もしていていたということです。
縄文時代に生きていた人びとに稲作もひとつの生活の糧の手段であったのです。南日本などの温暖な気候と豊かな自然の恵みにおおわれた地域では、稲作と狩猟・採集の併存的傾向が強くあったのです。
霧島山麓の都城横市からも縄文晩期3000年前の水田稲作跡の遺跡がでています。ここには、湧水がでるところで、排水のよいシラス台地という自然条件から佐賀県の菜畑遺跡のように灌漑用水の施設はつくっていなくて、自然条件を巧みに利用した畔をつくっての水田稲作といういうことです。
霧島山麓での水田稲作は、森と共生して生きてきた縄文文化を基礎としての水田稲作ではないのです。そこでは、水田稲作ばかりではなく、ドングリやクリを大切にしての狩猟採集経済を継続しての水田稲作の導入なのです。
佐賀の灌漑用水施設をもっていた菜畑遺跡と霧島山麓の横市にみられる自然条件を巧みに利用しての水田稲作の発生という大きな違いがあるのです。この二つの遺跡を比較検討していくのも大切と考えています。中山間地域では、平野部での水田稲作ではないのです。水田稲作が、支配的になるには、長い年月がかかったのです。菜畑遺跡の平地の水田稲作の灌漑用水施設をもった様式が、急速に普及したこととは言えないことが、考古学者も指摘するところです。
霧島山麓の森と水の自然条件を巧みに利用しての稲作水田の栽培方法は、佐賀の菜畑遺跡などの福岡県北部沿岸地域から水田稲作の伝搬ではないのです。それぞれの地域の自然条件によっての工夫があるのです。稲作の伝わっていくルートも一本でみるのではなく、縄文時代の人びとは、日本列島ばかりではなく、海をとおして、広域的に交流や交易をしていたのです。
むしろ、長江下流から直接的にか、南方ルートからの検討も必要なことです。ここには、南方からの海流の状況、黒潮やそれから分かれる対馬海流が日本列島の地形の突き出たところからの反流からの海岸線に漂着していくルートからみれば、鹿児島の志布志湾や宮崎の巨大古墳地帯と、北九州の巨大古墳地帯などは、海流からの文化伝搬ルートでは、共通のものがあるのです。ただ、自然条件は、大きな河川をもっているということで、共通性はありますが、平地を広くもっているところと、すぐに山並みなっていくということで、異なるのです。
「弥生時代の歴史」講談社現代新書・藤尾慎一郎は、水田稲作は、250年間あまり玄海灘円沿岸地域にとどまり、そして、ゆっくりと西日本各地にひろがったと。在来民と水田稲作民の永い併存機関。前400年ごろに北陸から青森までひろがった大阪平野における水田稲作は前8世紀に開始され、前6世紀になると在来の縄文の文化と稲作水田のすみわけはなくなっていく。縄文と弥生のすみわけがなくなったのが、2500年前ということになるのです。
この2500年前の長江流域や東南アジアの状況も含めての検討も必要ではないかということです。その後の歴史的交流も含めての日本文化形成に大きな影響をもっているのです。長江の下流の紹興などはお酒で、有名なところですが、日本酒の発酵技術も含めて、共通点があります。米の文化も含めて長江の食文化、加工食品も含めての長い歴史的交流からも考えることがあるのです。
この時期には渡来人の日本への定住もふえていくとみられるのです。日本に積極的に渡航せねばならない東アジアの状況もあったのではないか。
前4世紀前葉にまで青森まで達した水田稲作は津軽海峡を渡ることはなかった。同様に九州南部まで達した水田稲作も種子島・屋久島に渡ることはなかった。水田稲作を採用しなかった続縄文文化と貝塚後期文化の地域があったとするのです。
さらに、考古学では一般的に言われている日本の稲作の定着を朝鮮半島から、大陸から、南方ルートからと単純にみてはならないと藤尾氏は強調するのです。ここで重視しなければならないことは、対応していく縄文人の多様な稲作の形態があるということです。温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの導入が一律ではないはずです。
とくに、熱帯ジャポニカは、陸稲にも利用され、南種子島では、今でも赤米として神事としてつくられているのです。南島から伝わってきた米として、大切に祀られているのです。
さらに、稲作水田の栽培方法は、独自に日本の自然条件によって、変えられていく側面があります。日本は中山間地域を広範にかかえ、水田稲作栽培にとって、歴史的に中山間地域の果たした役割は大きなものがあるのです。
「イネの歴史」佐藤洋一郎・京都大学学術出版において、田植えと直播があり、田植えを採用する稲作地域は世界でも驚くほど少ない。日本のような田植えは、日本列島を別にすれば厳密に朝鮮半島と中国の一部と、田植えの起源についてもサトイモの株分けなどの諸説あるのです。
さらに日本列島にイネが来たのは縄文時代の中期から後期ではと、稲作=水田という図式は存在しないもので、畔や灌漑用水を伴わない稲作は歴史的にも地誌的にもいくらでもあるのです。縄文時代の稲作は水田を伴わない、焼き畑のような稲作であったと考えるのが適当と、弥生時代に入ってさえ、人びとの最大の食糧はどんぐりであったとも書いているのです。
縄文時代から弥生時代に移行していくうえで、日本列島の寒冷化の現象がっあったのです。自然の恵みのみだけでは生きていくことは不可能になっていく時期での水田稲作の普及、定着になるのです。ここでは水田稲作の生産力の工夫がされていくとみられるのです。
寒冷化によって、東北地方の縄文文化は壊滅状況になっていきます。縄文人は西へ、南へと移動していくのです。そのときに、食糧源をどのようにして求めていくのかということは大きな課題でした。
自然条件に制約されながら、いかに工夫して、食糧源を求めていくのかということで、稲作水田の出現ということが日本列島の自然条件のなかで工夫されたのです。単に、大陸から稲作が導入されたという単純な問題ではなく、日本列島に住んでいた縄文人の生きていくための工夫があったのです。
それは、渡来の弥生人の征服で、縄文人が、消えていったというのではないのです。むしろ、渡来人は、自分たちの定住していた地域で暮らせない状況が生まれてきていることもみていかねばならないのです。渡来人も縄文人も、それぞれ新しい時代に対応して生きていかねばならないということです。それぞれの地域における自然条件によって、縄文人が渡来してきた人々と共に工夫していったのです。また、渡来してきた人びと縄文人の混血もあったのです。
以前に定住していた地域で、なんらかの理由で住むことができなくなった渡来してきた人びとは、豊かな自然資源、自然条件があっての水田稲作の縄文人との工夫であったのです。
最初の水田稲作が日本で前10世紀まえに栽培されたという佐賀県唐津市の菜畑縄文遺跡は、日本でも特殊な平地での水田稲作で、中山間地域でも水田稲作と異なるのです。ここには、日本独自の自然的条件に適応した独自の稲作水田ということなのです。また、縄文人が自然と共に生きてきた文化が融合しての日本独自の稲作水田の工夫があるのです。2500年前ごろに日本の水田稲作が青森から鹿児島まで定着していくのは、多くの渡来人が日本に移住していくという条件も考えていかねばならないのです。そのことによって、人口も増大していくのです。
すでに縄文時代に広い範囲でネットワークや交易がされいたので、それぞれの遺跡に住んでいた人々の交流によって、それぞれの影響がどうであったのかと興味ある課題です。
宮崎県都城市坂元A遺跡における水田跡の調査・桑畑 光博, 原田 亜紀子, 外山 隆之「宮崎県都城市南横市町に所在する坂元A遺跡は,大淀川の支流である横市川右岸の沖積段丘の端部から後背低地(標高147~146m)にかけて立地する。
県営の農業基盤整備事業に伴って,平成12年度に都城市教育委員会が発掘調査を実施し(調査面積は約2800m2),調査の結果,縄文時代晩期後半・弥生時代・中世の各時代の水田跡を検出することができた。
最下層の水田層である9c層は他の層との層位関係や出土土器から,縄文時代晩期後半に位置付けられるもので,国内最古級の水田跡である。その水田域は,西区を中心にかなり限定された範囲で検出され,水田区画はいずれも狭く不整形である。
また,調査区域内において用排水路や堰などの確実な水利施設は認められなかった。地形条件や土壌環境に適応した水田であると考えられ,水利施設を完備し,整然と区画されている北部九州の同時期の水田跡とはかなり異なる構造や特徴をもっていることが指摘できる。日本列島における水田稲作のはじまりに関する研究を進めていく上で重要な資料である」。考古学・2002 年 9 巻 13 号 p. 93-103
(「霧島山麓の都城横市の日本最古の水田稲作跡地を神田のブログで書いたページを次に掲載しました。都城市横市の日本最古級水田跡地: 歴史文化の旅 (seesaa.net)」)
南九州では、縄文晩期の遺跡から水田稲作が紀元前10世紀からあったことが考古学の遺跡調査から確認されたのです。また、志布志市の中山間地域の小迫遺跡の刻目突帯土器の包埋炭化イネの年代測定からも紀元前10世紀の検出がされたのです。熊本大学教授・小畑弘包他、日本考古学誌54号より。この志布志の小迫遺跡は、都城から志布志に至る中間の中山間地です。南九州には、縄文晩期の10世紀ごろに、稲作栽培が行われていたことが、近年の遺跡発掘調査で明らかになっているのです。
北九州の地域から水田稲作が伝搬したととらえる見方よりも南方からの海上ルートとして、とらえていくことも大切な視点ではないかと思うのです。熱帯ジャポニカの日本への持ち込みのルートをも含めての検討が必要ではないか。もともと日本では、他の雑穀の農耕とともに、東南アジア・中国南部の南方から伝搬してきた熱帯ジャポニカを陸稲として行っていたのではないかということも想定されます。また、南種子島の宝満神社では、今でも赤米を祀っているのです。
南種子島の宝満神社の近くの広田遺跡では弥生時代後期から古墳時代の集団墳墓がみつかっています。その人骨は、168体、副葬品4万5千点です。人骨には装飾模様の加工された貝製品を身に着けていることが特徴です。その貝の素材は、種子島近海でとれないもので、奄美や沖縄などの遠方の海で産出されるものです。
装飾模様は、貝府の文様で、古代中国系のものです。そして、山という文字が刻まれていることが発見され、いままでの発見で、日本最古の文字とされています。この複雑な文様を彫刻するには、鉄製品の工具が使われたのではないかと古代貝の道を研究する元熊本大学教授の木下尚子氏はのべるのです。
出土したのは、貝製品4万点、土器53点、石器9点、夜光貝製容器35点、ガラス製品18点、鉄製品6点です。現在のところ住んでいた集落跡はみつかっていません。今後の発見に期待するところです。下記のブログは神田が種子島の弥生・古墳時代の遺跡に旅をしたときのブルグです。
隣の島の屋久島では、3500年前の縄文後期3500年まえの竪穴住居群100軒がみつかっています。約300年継続して存在したとみられるということです。集落の住宅跡の周辺には土壙群がみつかっています。
朝鮮半島という経由という視点だけではなく、様々な新たに発見されていく古代遺跡の分析のもとで、中国大陸からの長江文明の日本への伝搬も南方ルートや直接的に大陸の長江下流ルートからも考えてみることが必要と思うのです。
日本の中世時代には、博多を拠点としてのルートばkりではなく、南九州・九州東海岸・四国まとは四国の高知の南方海路としての交易が盛んに行われていたのです。
大陸の長江下流からの直接ルートでは、巧みな航海術をもっていたオーストラネシア系の民族の影響をもった人々が、長江文明の稲作をもってきた可能性も否定できないのです。縄文人も貝や黒曜石などの海をとおしての交易ということからみられるように航海術もすぐれていたのです。このことは南九州の縄文遺跡の紡錘車や突帯文土器をはじめ、様々な出土した遺跡からの検討も必要ではないかと思うのです。
谷口氏は、縄文人の生態として、資源利用のバランスをもっていたとするのです。地域の環境特性によく適応し、自然の生態系を損なうことなく、持続可能な方式であったとするのです。
縄文里山として、定住がはじまると、自然のままの植生と人工的につくられた里山ゾーンとして、燃料となる薪、山の糧を得る山芋、山菜・木の実、貝・魚介類、狩猟の動物などの人間生活に密着した人為的な森林や海岸ゾーンの自然が必要となります。
縄文人は定住性が強くあったのです。そこでは、深い堀りこみと炉を備え、丈夫な主柱配置の竪穴住居の普及、大規模な集落の造営、長期間にわたる集団墓がつくられたのです。そして、定置網式の漁場獲得、貝塚や盛り土にみる多量の堆積物、持続可能性の秩序をもった廃棄物の処理をみることができます。
木と繊維の利用技術は、木や植物の性質を熟知しての生活素材として幅広く利用されていたのです。また、そこでは、新たな技術も積極的に開発されていたのです。縄、紐、綿布、かご、漆技術、工芸品、石材加工、貝加工、ヒスイ加工、動物の骨加工など自然素材を巧みに加工したのです。自然素材をたくみに扱っていたのです。
そして、土器の工夫、土器の芸術性、建築技術、発酵など、現代からみればバイオテクノロジーの利用、自然をよく観察しての交通・運搬としての帆をたてての丸木船の積極的な活用があったのです。
縄文時代の社会として、環状集落と部族社会を谷口氏は、積極的にみます。環状に集落が形成されて、中央部には住居がないという居住地配置の構造です。その環状集落の中心には広場と集団の墓があります。亡くなった人々を大切にしていく集落の慣習があるのです。祖先たちのつながりを深くしていくということで、先祖の感謝の念と持続性を重視した人々の意識です。
谷口氏は、縄文中期には、群馬県原田遺跡では、300棟以上の竪穴住居跡や1000基以上の土坑やピットが蓄積し、遺構の重複が激しいとしています。延べ数で、1000棟近い住居跡の可能性をもつ巨大な集落が形成されていくというのです。石神井川沿いの下野谷遺跡では、縄文時代の中期の遺跡が数多く発見されています。
二つの縄文集落があり、西側は直径150mほどの範囲に、竪穴建物107棟、土坑墓群166基、倉庫と推定される掘立柱建物群が見つかっています。東集落は、東西300m、南北180mもあり、西集落とほぼ同時期に生活が営まれていた。「双環状集落」です。遺跡保護のため西集落の一部を公有地化し、下野谷遺跡公園を開園しています。
中期になると、東日本では集落での人口密度が高くなっていくというのです。環状集落も巨大化することによって、縄文社会での新たな統治方法と、集落全体をまとめあげていく精神的なアイデンティティの形成も重要になっていくと思われます。
自然の恵みによって集落の人びとが生きてきたことを、暮らしのなかで精神的に実感していく自然信仰も大切になってくるのです。そこでは大きなセロモニーとして、自然そのものを神として崇める文化が大事になっていくとみられるのです。
中央広場にて、集落のひとびとが集まり、自然への祈りの強固な世界が生まれてくるのです。ここには、それを仕切る権威者が必要になってくると思われます。集落内の人びとが平等に仕事をするのではなく、それぞれの与えられた異なる特殊の仕事が生まれてくると思われます。これは、集落内においての異なる役割による階層が生まれていくのです。
環状集落が形成されていく時期になると、縄文時代の狩猟採取経済ということだけではなく、畑作の農耕文化の形成がみれるのではないかと思われます。縄文時代というのは、狩猟採集経済ということだけではなく、クリやどんぐりをとっていくうえで、定住集落の近くに植林や食糧になっていく自然からの植物の栽培などが行われたとみられるのです。
縄文から水田稲作への弥生時代の移行は、長い年月をかけて、日本列島の南の鹿児島から北の青森までの全体へと普及していくのです。それは、採集経済と農耕経済の併存のなかで普及していくのです。水田稲作が支配的になることによって、弥生時代へと移行していくのです。
今後の全国各地の縄文遺跡が発掘されいくことでしょう。そこで、新たな遺跡が出土されて、新たな見解も生まれていくと思われます。既存の見解に固辞するのではなく、縄文時代に生きた人々の知恵と工夫の豊かさ、自然と共生し、自然への畏敬をしてきた人々の精神構造をもみていくことが大切です。
そこでは、自然の恵みを知恵と工夫で豊かに創造してきたことを現代的にも学ぶ必要があるのです。そのことを、現代の環境問題の直面することや、現代社会の暮らしの矛盾から未来への持続可能性の循環社会形成へと大いに議論していくことが必要と思うのです。そして、ネットワークを広くして、それぞれのつなぎ合い、絆を大切にして、新たに地域の自然循環の考えを基盤とした持続可能性の社会が形成されていくのではないかと思うのです。