社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

霧島古道と天孫古跡と霧島六所権現

霧島古道と天孫古跡と霧島六所権現
    神田 嘉延

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 現代に生きる人々にとって自然循環的に持続可能性の社会経済形成、絆や心と体の健康づくりは極めて大切です。この意味で環境学習や健康学習は人類にとって大きな課題です。霧島六所権現はそのヒントを多く与えると思います。
 生産性向上、効率性の激しい競争社会で心の病、健康を害することが蔓延していま自然循環性と生態系を無視した効率主義による大規模開発による自然破壊が進んでいます。このことで災害の頻繁が起きるようになっています。
 健康で生きたいということは、どんな状況にあっても誰でも共通した願いです。心と体を鍛えていくことに霧島六所権現の歴史文化から学ぶことができます。新型コロナによる世界的に社会経済のあり方が大きく問われています。
 現在の状況では、人間と自然とのあり方、生態系の秩序を考えることが大切になっています。また、資本や権力の集中化が大規模な都市を作り出し、過密な日常生活を作り出した。あらためて自然の豊かな農山漁村での暮らしが大きな価値をもつようになっています。
 世界的規模の主産地特化した分業やサプライチェーンではなくて、地域での医療保健、食糧、エネルギーという日常生活にとって不可欠な物質的供給の地域循環性も求められているのです。
 新型コロナの経験によって、世界的規模の、新自由主義と効率的な生産体制の反省が求められているのです。未来の持続可能性をもった自然循環社会をつくっていくために、教育のあり方も大きな変革が求められているのです。
 科学教育も専門細分化したことでは、自然循環ということから総合的な視点からの科学教育が求められていくのです。識字教育も地域の暮らしと結びついての総合的な生活主義的な教育が必要とされるのです。この総合主義は、体験をとおしての疑問の発見ということが出発になっていくのです。
 霧島は古来から自然信仰が強くありました。霧島山麓の人々の心には、山の神、森の神、水の神、田の神が住んでいたのです。また、山の女神の宮殿の民話などがありました。天孫降臨信仰も森や水の豊かな自然のうえに稲作文明がもたされたことから、それに感謝する人々によって、ニニギノミコトの神話が生まれたのです。
 神話や民俗学的な民間信仰は、人々が生きてきた生活や労働、自然に対する関係があるのです。
 これらが霧島神道の基礎であり、そのうえに霧島六所権現が築かれたのです。そして、為政者によって天台宗真言宗の仏教、修験道・山伏の文化に変えられていった側面がありますが、基層的に霧島に生きてきた人々は、自然信仰によって、すべての価値観を包み込んできたのです。
 近世になって天台宗真言宗かの帰属が求められて霧島六所権現として継続します。かくれ念仏という近世の薩摩藩浄土真宗の厳しい弾圧のなかでも、霧島の自然信仰はその人々の心を包み込んできたのです。多様な価値観を認め、自然と共に生きる人々の暮らしを尊重してきたのが霧島六所権現です。
 霧島六所権現は霧島霧島連山全体の地域ブロックとしての連帯と交流網をもっていたのも特徴です。これには山麓の街道の役割が大きくあったのです。山麓で暮らす人々の側面からみれば、山伏の修験道ということで、深い山のなかに入って修行していくという側面だけではないのです。
 霧島六所権現には、六根清浄という人間のもっている五感と意識を加え自己中心的欲望を断ち切って清らかになる修行をもつことでした。
 そして、六観音として、地獄・飢餓・畜生・修羅・人間・天の六道を示し、衆生を浄土に導くものでした。また、四方門として、発心なる東門の東霧島神社、修行なる南門の荒嶽神社、菩提なる西門の西霧島神社霧島神宮)、涅槃なる北門の夷守神社の曼荼羅の聖空間を配置したのです。
 4つの門を開くことは、ひとつに自分の機嫌をとること、2つに自分の能力をだしきる。3つにひとに徳をもつこと、4つにいつも感謝の心があるのです。このことを忘れずにという四方門です。

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 霧島には西の霧島神宮、霧島東神宮、狭野神社、夷守峯神社に至る荒襲街道小林街道の霧島古道があります。これらの神社は霧島六所権現を開いた性空上人が修行して六所権現の悟りを若いときに開いたところです。この意味で天孫古跡を探るのも興味ある課題です。
 もともと式内社のあった霧島社の伝統のうえに霧島の山地で修行しながら、また山里の人々の暮らしをみて、知恵をだしながら地域振興に手をかしながら、独自に性空は六所権現の悟りを開いたのです。

 性空上人が護摩を焚いて六根清浄の悟りをひらいたとされる霧島東神社の神田ブログ
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 ここに当初から霧島の自然に根づいたシャーマニズム的信仰に結合しての神仏混合に発展していったのです。そこには山と森そして水の神があったのです。
 霧島は古代からの神話伝説のあるところで、狭野神社から小林、えびの市方面にかけて独自の文化をもった地下式墳墓が広範囲に残っていた地域です。その遺跡からは大陸との関係を示す遺物が出てきています。霧島山麓の里は、古墳時代からの独自の文化があったところです。
 霧島修験道には、人々の暮らしの生活や庶民性が強くあります。自然を神として、自然そのものを守っていく考えが強くあったのです。
 日本各地の修験道にも「靡き八丁 斧入れず」というように、靡(なび)きといわれる尾根から800メートルは、大地がすべてがつながっているということで、そのつながりを切ってはいけないとその自然環境を大切にしたのです。

狭野神社の古墳と周辺の地下式墳墓の神田ブログ
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 性空上人伝説のなかに上人が杖をたたいて湧水がわいてきたという話があります。湧水池や水をひいた神とされているのです。性空上人が農業振興や市場を開いたという伝説が残っているのです。
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 性空上人は山にこもって修行のみをしたのではなく、里の人々と共に暮らして、リーダー的側面があったのです。霧島六所権現の神仏混合の信仰は山里の人々のなかにあったのです。
 「霧島神宮」鹿児島文庫を書いた窪田仲市郎氏は、一般的にいわれている霧島の神の山上鎮座説を否定して神社は、日常の生活の信仰からの糧になるものであったとして、現在の山麓麓にある神社が性空上人が活躍した時代からそうであったと考えているのです。

高千穂峯の逆鉾をどのように理解するのか。天孫降臨の象徴の神田ブログ 
https://kandayoshinobu.at.webry.info/201705/article_10.html
 
 前期の霧島神宮を書いた窪田氏は、室町幕府成立のころ、日向の守護職になった畠山氏と大隅半島南朝方の肝属氏の対立で九州南部に幕府との強い関係をもっていた真言宗を伸ばすために、霧島の東麓にに修験道場をつくっていたとするのです。
 真言宗三宝院本山と天台宗英彦山修験道との勢力の関係で霧島の修験道としての六所権現が整備されたとするのです。島津氏は、積極的に真言宗修験道を保護しました。戦勝祈願の加持祈祷のためにも整備したのです。天の逆鉾は、修験道場として、拠点の東麓から高千穂峯の西側での修験行の象徴のためだったのです。
 近世以後になると幕府は、山伏の全国行脚を禁止し、山伏の里での定着になったのです。農業を営みながらの修験道の里が生まれていくのです。中世的な山伏から里に定着していく修験道になるのです。
 そして、神仏混合との寺院と結びついた農業や林業を営む山伏の定着です。しかし、山伏のもつ情報伝達、交通の果たす役割は大きかったのです。

 高千穂河原にある旧霧島社の古宮跡地は皇紀2600年昭和15年の記念に上段54m*38下段54m*16mでつくられたものです。鳥居は東多羅の集落にあった日露戦争勝利記念のために建てものです。おそらく扇山の日露戦争勝利記念の植樹と関係があると思います‼️

自然のなか霧島岑神社の昇り竜の神田ブログ
霧島岑神社の登り竜柱: 神田 嘉延ー歴史文化の旅から学ぶシニア人生ー
 
 ところで、霧島連山は古来から人々に恵みを与えてくれ、心を清め豊かにしてくれる信仰の対象でした。自然の恵みとして、山の神、森の神、水源の神を祀ってきたのです。ここには人々の自然に感謝する深い心があったのです。
 自然を侵す人には祟りが起きるということで、家を建てるときに大木を利用するときに山の神に許しの祈りをしたのです。
 地域の人々は自然を守る掟をつくり、自然と共生する自然循環性のしくみをもっていたのです。
 山里の人々は、山と森とつきあいながら、山の生業としての木炭生産、狩猟による生計をしてきました。山から肥料をとり、薪を集め、肥料をとり生きてきたのです。
 そして、畑や田を耕して、地域の自然循環性の生活をしていたのです。とくに、水田稲作によっての田の神と山の神は一体になっているのです。田の神は冬になると山に入り、春になると山から降りてくるのです。田植えと共に霧島の神は田の神として活躍するのです。

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 ところで、街道のもつ意味も歴史的にみていくことも必要です。自然循環性によって、歴史的に霧島山麓の里の人々が生きてきたなかで、街道の役割はどのように変わっていったのでしょうか。
 霧島六所権現は、産業や交易の発展、権力者の広域化と強力化とも絡んでいます。そのことからみていくことも求められます。
 現代は価格競争や効率性のもとに、市場の国際化が極端に進み、国内での日常生活品さえもまかなえない状況です。
 これは新型コロナのなかではっきりとしてきたのです。マスクさえも国内生産ではなかったのです。さまざまな分野の業種で国内では自己完結できないことが明らかになったのです。
 あらためて社会経済のあり方が大きく問われます。地域やブロックで、国内での循環性が大きく問われている時代です。

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 高千穂峰は豊作祈願の山です。秋に実った稲穂を、山に捧げるため、霧島の山に登ったのです。
 上記の写真は高千穂牧場から撮った霧島連山高千穂峰の景観です。ここは古来から猪子石と呼ばれた字です。松並木がずっとずっと連なり、旅人が一服して山に祈願しながら休憩したところです。霧島古道の荒襲街道と小林方面に至る街道です。
 ここにはさまざまなドラマが歴史のなかにありました。10世紀中頃の平安時代の中期に性空上人が修行したのは霧島の山ですが、ここで六所権現の考えが生まれたのです。
 六根清浄の聖の地としての霧島になったのです。また、その後に霧島の修験道の活動の場になっていくのです。現在でも霧島神宮、霧島東神社、狭野神社、峯・夷守神社として、霧島山麓の西側から東、北と、六所権現のゆかりの神社が街道筋に残っています。
 
 戦国時代は、日向の覇者の伊東氏、豊後の大友氏など島津氏との戦いで重要な街道であったのです。この街道を通って伊東氏や大友氏の軍勢が侵入してきたのです。また、島津氏が伊東氏や大友氏を攻略していくうえで、重要な街道であったのです。
 そして、江戸時代になると日向方面からの物資が入ってくる交通路になります。小林や高原の年貢米も小林・荒襲街道をとおってはこばれてきたのです。霧島の大窪には年貢の蔵が750坪に8つあったということです。大窪御蔵といわれていた。
 明治になっても、鉄道が走るまで、小林街道は重要な交通路でした。

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下記の地図は近世社会と霧島村として、霧島町郷土誌289頁からとったのです。東まわりと西まわり道が示されています。西まわりは西霧島権現にいく道で東まわりは小林に都城にいく道です。
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 開拓記念碑の下に書かれているのが大切です。江戸時代の享保年間に荒襲街道を改修したときの碑です。歴史的な記念碑なので大切にしたいものです。
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 猪子石から都城や小林に下る集落の吉之元に丁仏碑があります。天文22年1553年のものです。この集落には荒岳権現と金剛院明観寺がありました。現在はその遺跡の一部が残っています。住民の人が私費で守っているのです❗
 
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荒岳権現・明観寺の神田のブログ
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 明治になって京都で歌人として、宮中の歌会で活躍した八田知紀が幕末に幽門された寺院でもあります。霧島六所権現の四方面の南門といわれたところですが、そのあとが感じられる状況に現在はなっていませんが、集落あげての日曜日のランチタイムなど地域住民は地域おこしを真剣に取り組んでいます。

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 また、猪子石から下る霧島神宮駅の近くに湯之宮集落があります。その集落に室町時代から江戸初期といわれる異なる時代の石塔群があります。これらの遺跡も街道との関係で考えると新しいことが発見されるのではないかと思います。

 下記の写真はかつて山道で猪子石の荒襲街道から霧島神宮方面に下るところにあった遺跡です。現在70代の人に聞くと自分も含めて猪子石の子ども達はこの山道を下って霧島小学校に通ったという。
 この石には大山祇神の文字が書かれています。近くには日露戦争の戦勝記念として植林したことが書かれています。この山は扇山としていわれ、昔から森の神、山の神が宿るとされていたのです。

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 扇山の麓は霧島川が流れ永池方面からの小川が合流するところです。猪子石は現在別荘やゴルフ場、ホテルができて、猪子石の松並木の街道は全く姿を消しています。わずかに松が残っている程度です。松食い虫によってほぼかれてしまったのです。
 もともと猪子石の下の整備された国道のできるずっと以前は東西50間南北15間軒の永池と東西60間、南北30間の鉢池という2つの池があったのです。(霧島町郷土誌より)池によって調整池の役割があったのです。今は扇山の保水力が大切になっています。

 下記の写真は、霧島神宮高千穂峰登山道に進む裏山にある山神の祠です。下を降りた旧参道にも同じような山神の祠があります。
 霧島神宮の周辺には隠れ念仏の洞窟が何ヵ所もあります。薩摩藩に弾圧された浄土真宗の人々が霧島神宮の近くで祈りをしていたのです。この洞窟には隠れ念仏の講の組織がそれぞれの洞窟ごとに組織されています。

 霧島神宮周辺の隠れ念仏の信仰のたための洞窟の神田ブログ
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 また、独自に閉鎖されての信仰組織になったのがかやかべ教です‼️鳥は絶対な神の変身で、食べてはいけないという風習をもっているのです。いまでもかやかべ教は続いています。
 霧島神宮の勅使殿は仏教的な白象や蓮の花の彫刻がされており、拝殿の向拝柱には全体に龍が彫られています。
 拝殿には儒教の教えの二十四孝(にじゅうしこう)の絵がかざられています。孝行が人間にとって大切なことを説いている絵です。江戸時代の儒教的な教えの御伽草子(おとぎそうし)に描かれた世界です‼️
 霧島神宮神道はもちろんのこと、山や森、水などの自然信仰、田の神信仰、仏教、修験道隠れ念仏などさまざまな信仰が混合しての多元的な信仰になっているのです。
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 下記の写真は明治以前からあった歴史的に古い旧参道です。深い森のなかを歩いて登る参道です。現在の霧島神宮は駐車場がお宮の近くにあり、参道を歩くことが極めて短くなっています。近代によって、新しく作られた参道も歩かなくなっています。
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 性空上人は、36歳で霧島山で出家しました。その後比叡山で学び得度して、再び霧島山法華経を書写して修行しましたが、農民の豊作祈願や生活向上と結びついての田を開き、水を引いたりしました。
 性空上人の用水開発の伝説が霧島山麓でみられます。用水の水源地は、性空上人の杖をたたいて生まれたという伝説です。小林の細野の十日町の市も性空上人が開いたとする伝説もあります。

霧島六所権現を創設した性空上人の供養碑
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 霧島神宮が神仏混合時代の坊主墓の遺跡を書いた神田のブログ
西霧島権現社(霧島神宮)別当寺・華林寺跡と坊主墓: 神田 嘉延ー歴史文化の旅から学ぶシニア人生ー

 御池の西側の近くの絶壁に性空上人が護摩供養した場といわれます。そこでは、五穀豊穣の譲りとして農民の参拝が多かったのです。霧島東神社の近くになります。

 性空上人の説話は、今昔物語や徒然草に登場します。この時期は仏教での浄土が流行した時期です。民衆への仏教として、人々は救いを仏教に求めていく時代です。
 藤原家の摂関政治の全盛のときで、寺院が国家の権威と結びついていましたが、他面に、民衆の生活のための心の支えになていく仏教の側面をもっていくのです。
 性空上人は、幼い頃から生き物を殺さず、終生争いを嫌い、平和を大切にした僧です。仏教の中に平和の思想が強くあったのです。
 霧島の山岳修験道信仰のなかに平和のねがいが強くあることを忘れてはならない。徒然草69段では、法華経を読誦をつづけ、目、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚のけがれを払われ、六根清浄の境地になったことが書かれています。
 また、遊女と普賢菩薩の話として、遊女をみて、目を閉じれば菩薩に変わりということも古事談第三記、十訓抄に書かれているのです。二人のみそぼらしい童子が現れて、性空にしたってくれば、童子の一人は、不動妙法の化身とみえ、もうひとりは、毘沙門天の化身とみえたのです。性空上人の人をみるやさしい目がみられます。

性空上人が開山したといわれる佐賀と福岡の境になる背振山修験道の神田ブログ 
kandayoshinobu.at.webry.info

 性空が晩年に開山した書写山円教寺を書いた神田のブログ
kandayoshinobu.at.webry.info

湯布院の性空上人の開基の寺院の神田ブログ
湯布院の夫婦円満佛山寺(性空開基)と地蔵さま: 神田 嘉延ー歴史文化の旅から学ぶシニア人生ー

 霧島神宮と隣り合わせている扇山の全景です。大山祇の祠が中腹にあります。霧島山麓には母なる山地として山の森を大切にするということで大山祇信仰が深くあるのです。
 山を侵すものは祟りが起きるということで、共生して生きる知恵を先祖伝来継承してきたのです。大山祇は「コノハナサクヤヒメ」として山の恵みを産む母として信仰されてきたのです。
 隣接している霧島神宮を祀る夫のニニギノミコトと共に神話伝説として仰がれていたのです。扇山全景に80メガソーラーの大規模な開発計画が外国資本によって行われているのです。
 切土と盛土によって自然景観を破壊し自然循環性を守ってきた山の神の歴史文化も消し去ろうとしています。さらに、急傾斜の開発から山の神の怒りとして、災害の危険も伴うのです。
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 サルタヒコの巡行する東まわりの道順図です。春と秋に、それぞれ2回づつ計年間の巡回が霧島神宮の行事として行われています。古くから「メンドンマワリ」としてサルタヒコの面をかついで東回りで、神宮の大鳥居、東多羅、永池、猪子石、待世神社跡、梅北橋、川北、7ヶ所で、お祓いをしながらまわるのです。

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西郷軍が人吉から霧島を通って、霧島の大窪や猪子石で政府軍との闘いがあり、宮崎方面に退避していった地図です。

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 街道筋にある大田小学校の学有林です。この付近が学有林になっています。子どもたちは地域の大人たちと森を守り、木の育っていく姿をみてきたのです。街道筋の林野は教育的に永い年月にわたって歴史的に利用され、、現在は地域の人たちがを学校林野を管理しているのです。

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林野庁ホームページより引用
 「学校林活動:学校林とは、小学校、中学校、高等学校等において、学校の基本財産形成や児童・生徒への環境に関する教育、体験活動を目的に、学校が保有している森林をいいます。
学校林の造成は、戦後の国土復興運動の一環として、林政・教育上において重要なものとして推進されてきました。
 学校林の所有形態は、学校所有のほか、国有林や公有林など分収林によるものもあります。
 学校林活動は、心身ともに発育中の小中学校の生徒や高校生による、植樹や保育作業を通じた自然に関する科学知識の学習、社会に貢献する情操豊かな人間性の修得、森林造成による地域社会への寄与などの側面を持った活動として実施されています。
 また、この活動を広げていくことを目的として、平成19年度から毎年「学校林・遊々の森」全国子どもサミットを開催してきましたが、平成26年度からは「学校の森・子どもサミット」へと発展させ、全国から集まった子ども達の学校林での活動発表や交流を行っています」。
 広大なを学校林野や地域の大川育英財団の林野をもっている大田の小学校の校区は森林に利用した自然教育や森林のもってきた歴史的な社会経済の自然役割、災害防止機能の役割を体験的に学ぶことができる地域です。
 広く国民に開放して積極的に大田小学校をはじめ霧島の各小学校がもっている学校林野や地域の共有林野の教育的役割を積極的に活用していくことが求められていると思います。
 このためには、森林教育活動を推進していく社会教育の施設の充実やの職員の配置が必要になってきます。さらに、霧島の自然や文化を教育的なことから若者や大人に広げていく、滞在型の文化歴史観光が求められる時代です。
 心を豊かにしていくことはより深くり知り、体験することによって定着していくものだと思います。心の癒やしにとっても通過的観光でなく、のんびりと滞在して歴史文化の深さを体験することをおおすめします。

 霧島神宮近くの7不思議の一つ 11月から4月までの半年間にわたって御手洗(みたらし)川の水が流れなくなります‼️みんなで一緒になぜかと考えてみましょう⁉️
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