社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

人間の安全保障と貧困者の潜在能力開発及び多文化共生

f:id:yoshinobu44:20210213172113j:plain

人間の安全保障と貧困者の潜在能力開発及び多文化共生         神田 嘉延

  

 世界的に蔓延する新型ウイルスの感染症のなかで、人間の安全保障をみつめることが極めて大切になっている。

 それは、大国の覇権主義、一国のナショナリズムではなく、国際協調主義である。新型コロナという感染症パンデミックという人類を脅かす災難が襲っている現状ですが、この危機の克服には、人間の安全保障という視点からの国際協調が急がれているのである。

 世界的危機になっているコロナ禍では、WTOの役割に大いに期待するところである。この危機のなかで国連のもっているすべての機能を全面的に開花させて、国際協調を推進することが切実に求められている。

 安全保障という概念は、国家ではなく、個々の人々の恐怖や欠乏から、人間の尊厳を確固たるものにするためである。それは、教育や社会参加などの人間の能力強化の人間開発と貧困から恐怖の解放のために社会的サービス、生存の基礎的インフラ整備が求められる。さらに、暴力を伴う紛争からの保護を行っていくことが必要である。

 人間の安全保障は、国家による安全保障という側面からではない。人間の安全保障は、国境、敵国、自国の価値観・政治システムからではなく、環境汚染、貧困、大規模人口移動、ウイルスなどからの感染症など人間が生きていくうえで多様な脅威から人々を保護していくという新たな視点が不可欠である。

 人間の安全保障は、国と国の関係も相互依存関係という視点が大切である。それは、国際関係における国益という執着を忘れることである。国家間の違いをお互いに認め合うという国際協調主義を重視することである。

 

 国境を越えての社会の在り方を問う時代

 

 人間の安全保障は、領土保全より、国境を越えての人々の暮らしや社会のあり方が問われている。領土を外敵から守ることだけではなく、恐怖と欠乏から解放され、個人や社会の潜在能力を引き出すことである。このことによって、人間らしく生きるような人間の安全と豊かさを作り上げていくいくことになる。

 国連の人間安全保障委員会は、2000年9月の国連ミレニアム・サミットでの日本のよびかけによって設立された。前国連難民高等弁務官緒方貞子ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン教授を共同議長として設立された。

 2003年5月に両共同代表が「人間の安全保障委員会報告書」を国連事務総長へ提出した。人間の安全保障委員会は、日本政府の発案で設立されたことを日本国民として誇りに持つべきものである。

 この提案は、国際平和の問題を国家という枠を超えて、世界にある貧困という欠乏、戦争などの暴力からの恐怖と人間らしく生きていくためのものである。そこでは、保護と能力強化の人間の安全保障を行うものである。

 

困窮の克服は人間の安全保障・戦争防止の重要な課題

 

 人間の安全保障は、紛争と貧困から個々が自由になっていくことを積極的に提起した。国連での各国政府機関から独立した人間の安全保障委員会は、日本の国際平和の大きな役割を国連の場で発揮したものとして注目すべきものである。

 困窮の克服は、安全保障の大切な課題である。平和と開発は、相互に結びついている。貧困と欠乏が暴力を伴う紛争とどのような因果関係にあるかは慎重に検証する必要がある。紛争が起きていない国でも貧困に苦しむ人々は多い。富裕な国でも格差拡大、差別問題などで紛争が起こることを見落としてはならない。

 戦争は人の命を奪い、生存者にも深い傷を残す。また、家屋・資産・作物・道路・銀行やその他の公共設備を破壊するばかりではなく、市場メカニズムと政治の基盤である人と人の信頼関係をも傷つける。

 さらに、戦争は貧困を助長する。国連の人間の安全保障委員会報告書は、戦争によって、困窮が一層に拍車をかけていくことを重大な問題にしている。

 人間の安全保障委員会は、内戦という暴力を伴う紛争の変化の特徴として、次の六点を指摘する。1,土地ないし資源をめぐる係争。2,急速かつ激しい政治的、経済的変化。3.人々や地域社会の不平等の拡大。4.犯罪、腐敗、非合法活動の増加。5,脆弱かつ不安定な政治体制と制度。6,アイデンティティ政治、植民地主義をめとする歴史的遺産。

 暴力を伴う係争下の人々の問題を考えていくうえで、アメリカ、イギリス、ロシアなどの大国の影響もあることを見落としてはならない。

 アフガニスタンイラク、シリア、リビアなどの内戦は、宗教的な争い、民族間の争い、政治体制の争いばかりではなく、アメリカ、イギリス、ロシアなど、大国の利益との関係が深く関わりながら、戦争が長期したことをみなければならない。

 現代の暴力を伴う内戦の問題は、国境を越え、宗教的な名目をもって、経済的格差や生活不安を背景に世界的規模に拡大している。この現実を人々はみなければならない。

 人間の安全保障委員会の報告書では、テロに対する戦争について次のように指摘している。「テロ組織もまた、人々の安全と世界の平和に大きな脅威となっている。テロ自体は新しい現象ではなく、これまでも国家や暴力的活動家が一定の政治的目的を達成するためにテロを行ってきた。

 しかし、犯罪組織ともむすびつくことの多い国際的なテロ・ネットワークが大量破壊兵器を入手することすら可能となった現在、テロはその性質を変えつつある。国家と国際社会の安全保障論議を席巻しているのが、テロに対する戦争である」。

 紛争は人々の間の信頼関係のみならず、地域社会や政府への信用をも破壊し、社会への結束力をむしばむものである。そして、和解と共存に力を入れることは、紛争の終了後には重要なことであると強調する。これを無視すれば、新たに、不平の種を生み、暴力や人権侵害、紛争を再びつくりだすと人間の安全保障委員会は指摘する。

 

 平和のための法的正義と教育の役割

 

 人間のもっている能力を強化するためには、教育を受けなければならないとしているのも重要な特徴である。教育がなければ人間の安全保障を実現することはきわめて厳しい。働く者として、親として、社会を変えていこうとする市民としても、教育を受けなければ、人は大きな不利益を受ける。

 貧しい人々が教育の機会を享受することは大切であるが、単に確保されるだけではなく、学校が安全を有ること、市民社会を育み寛容な社会をつくりだすような教育内容であることが重要である。

 さらに、こうした観点からは、平和と開発、安全保障と環境保全を考えるのではなく、すべての要因を含めて考慮する必要がある。これらの教育に関する基本的視点を人間の安全保障委員会報告書は述べている。

 法的正義がより良い平和を築くとは限らない。平和の構築には、人々が過去と折り合いをつくる信頼を築くことである。それには、様々な深刻な問題の起きたことを認め、受け入れることが必要である。

 それらは、被害者と地域社会の尊厳の回復と再生を推進するためである。そこでは、罪を自白させ、社会的制裁や起訴によって罰することが求められる。

 さらに、これらのことが効果をあげるためには、時間と関与が不可欠である。法的正義と和解は、どちらも短期間では達成できない。全過程を通じた継続的な関与が求められる。また、強力で効果的な制度が必要になる。

 法的正義を実現するためには、強力で独立した法制度が必須である。またそれらの制度は、和解を育むためにすべての人々が恩恵を享受できるものでなければならない。参加と合意された枠組みも求められている。

 オーナーシップと正統性を持たせるために、目的や手続きを決定する場に人々自身が参加し、協議することが必要である。

 人間の安全保障の共同議長を務めたアマルティアセン博士は、安全が脅かされる時代に教育の必要性を強調している。

 読み書きや計算という生きるために必要な基礎教育を普及させることは、人間の安全を脅かすための強力な予防効果になる。教育の恩恵はどんな貧しい家庭にももたされることを見逃してはならない。

 

身近なところで実益を伴う教育

 

 身近な場所に手の届く範囲で、実益のともなう教育を安全に受けられる機会が必要である。それがあれば、親は子どもを学校に通わせる。

 学校教育が人間を脅かす不安の克服に果たす役割は大きなものがある。基礎教育は人々が仕事を手に入れ、実りのよい勤め口を見つけるために、きわめて重要なものである。品質管理と厳密な仕様に沿った生産はグローバルの世界では欠かせない。

 日本は明治維新によって、地域で不学の子どもをなくすことをした。社会の責任として教育の格差を縮め、急速な経済成長を遂げた。若い世代のほとんど読み書きができるようになった。1913年になると日本はまだ貧しかったが、出版点数でイギリスに勝り、アメリカの2倍になり、教育に専念したことが日本の経済と社会の発展そのものの速度を大いに決定づけた。この認識は人間の安全保障委員会のものである。

 20世紀後半になると韓国、中国。台湾、香港、シンガポールなど東アジアの地域が同じ道をたどり、教育の全般的普及にしっかり重点をおき、グローバル経済への本格的な参加をした。

 これらの歴史的事実は、重要なことである。世界の歴史的事実の教訓として、教育の重要性を人間の安全保障委員会は以上のように強調するのである

 

基礎教育とはなにか

 

 人間の安全保障という視点からの基礎教育は、技術を身につけさせるための制度ではないと考えている。

 基礎教育には、世界の本質を、共通した人間の大切さを話し合う力、その多様性と豊かさのなかで、自分たち自身をどうとらえ決定づけられるか。それらを判断できる能力が求められている。

 自分たちのアイデンティティを構成するさまざまな要素の教育も大切である。それらは、言語、文学、宗教、民族性、科学的関心などに目をむけていることである。そして、自由と論理的な思考を育む能力も不可欠である。そして、友情の大切さを理解することである。

 以上のように、アマルティアセン博士は、安全を脅かされる時代に共通した人間の大切さと多様性と豊かさの理解、アイデンティティを構成し、論理的に思考し、話し合える教育の重要性を指摘している。

 このなかで、日本の明治維新以降の例や東アジアの20世紀後半の例を引き合いにだして、グローバル時代に生きる人々にとって、教育を安全に受けられる条件をつくることを重視しているのである。

 

平和のための幅の広い民主主義概念の見直しと多様性の容認

 

 アマルティアセン博士は、民主主義を考えるうえで、選挙という投票箱に狭めるものではないとしている。

 そして、投票の自由をはるかに超えたもっと広い見地から民主主義をとらえていくことが必要であり、それは、西洋の思想だけではなく、広く人類の話し合いの場をつくっていく公共の思想のなかで求めるべきであるとしている。

 市民社会における議論に効力をもつために、選挙は重要な手段であるが、投票する機会とともに、おびやかせることなく発信し、他の意見を聞く機会が保障されていることを重視している。これらは、公共の理性と実践であって、その実効性をもつのである。

 投票の民主主義は、西洋な価値観と慣習であるという主張である。こうした主張から、公共の理性と実践ということから、広い見地から市民が政治議論に参加して、公共の選択に影響を及ぶ機会が与えられているのかという判断が必要である。このことが大きく問われている。

 投票箱だけが民主主義ではない。広い見地から公共の論理における異なった意見、他者を認めあう公の議論に参加できるしくみの人類史的な理性の蓄積が大切なのである。

 これは西洋的思想だけではなく、広く西洋以外の、アフリカ文化、仏教思想、インド、中国、韓国、日本、アラブ文化、イスラム文化などから学ぶ必要があるとしている。

 このなかで、アマルティアセン博士は、伝統的なアフリカ国家の構造は、王も族長も同意の役割の政治的伝統として、説明責任と意思決定への参加が必要であったとしている。アパルトヘイトをやめさせるマンデラの自由な道の運動は、明らかに国内から始まったものである。

 インドには、歴史的に異なる意見を述べることができ、不平等の拡大には昔から批判的であった。このことを重視する必要があるとしている。

 1950年代のインドのムガル帝国では、多元主義と公の場における議論が果たす建設的な役割を信じて、寛容が必要であると宣言している。異なった宗教における人々の対話の努力を大切なのである。

 仏教徒の知識階級も社会における討議の重要性を認めている。異なる意見をめぐる争いの解決を目的とした公開の一般集会が早い時期から行われていた。

 ブッダが死去して第一回の仏教会議が開かれ、教義や宗教活動における論争を解決することを目的とした。最大規模になった三度目の会議では、アショーカ王の後援のもとに、社会的討議が行われた。暴力もなく、公の場で議論することがとりわけ重要であるとした。

 アショーカ王は、インド各地に社会的討議の掟を石柱に刻んだ。この石柱を建てたことをインド伝統文化の社会的討議の掟であったことを忘れてはならない。

 そこでは、正しいことを発展させるためには、発言に際して節度をわきまえることにあり、自分の属する集団を褒め、理由もなく他の人々の集団を誹謗せず、また、理由があったとしても穏健を心掛けることなのだという。

 一方、他の集団はすべての場合において、あらゆるかたちで、充分に尊重されるべきであると。このように振る舞わない人は、自らの集団に迷惑にかけるばかりではなく、他集団にも害をおよぼすことになるというのである。

 以上のように現代において、民主主義を考えていくうえで、西洋思想の選挙という方法だけではなく、広く人類史的な理性の蓄積である公の場で異なる意見に対して、寛容性をもって議論していく公共の論理の重要をアマルティセン博士は強調しているのである。

 

 グローバルスタンダードとはなにか。

 

 人類の共通の普遍的な価値観とはなにか。多様性と多元主義の価値観をもって寛容性による相互依存の話し合いの場をつくっていくことが人類共通の公共の論理ではないか。

 9.11以降に選挙という欧米の民主主義の価値と世界的な宗教的な装いをもっての衝突、欧米のなかでの格差や貧困の矛盾のなかで、民族排外主義、一国主義、大衆迎合の独裁化などが起きている。異文化コミュニケーション―による多文化主義の寛容と公共の理性の議論が平和をもとらすものではないかということが切実に求められている。

 現代は、多文化主義から見た新たな公共性の創出が世界に必要な時代である。現代の民主主義を西洋文明という狭い視点からではなく、幅広く多様な文明を尊重していくことである。

 多様な価値を相互に寛容性をもって認め合い、話し合い、相互依存、共生の文明をつくりあげていく時代ではないか。

 グローバル化時代の正義のナショナル・アイデンティティを尊重していくことは、多元主義の価値観であり、多様性を認め合う話し合いの場つくりである。

 正義のナショナル・アイデンティティの文化は、相手の価値観を認めない絶対主義的な排外主義の価値ではない。国際協調主義のもとで、多様性を認め会う多民族共生の文化である。

 正義のナショナル・アイデンティティには、民族の誇りを多文化の価値の比較、共生のなかで、平和を構築していくなかで認められていくものである。自民族を権威主義的に統合させ、他民族を蔑視し、教化し、自民族の文明に併合制するものでは決してない。

 グローバル化時代の異文化コミュニケーション―による多文化の多様性の尊重と共生の教育は、国際平和の創出にとって重要なことである。

 人間の安全保障ということからは、多文化共生の教育が極めて重要なことである。多文化共生の国際協調主義の教育は、新型コロナの人類的危機のなかで、未来を切り開いていくことになるのである。