財産私有型民主制・民主社会主義の展望を
ロールズの「正義論」から
ロールズは、公正・公共による自由と平等を正義論から明らかにしました。そして、公正なる知性としての近代民主主義の憲法事項遵守、格差社会是正の政治哲学を探求しました。
公正なる知性と格差原理からの自立ということから教育と訓練を特別に重視したのです。未来への展望として、財産私有型民主制政体、民主的社会主義政体を提起した。
ロールズの提起する公正なる政治の正義論の考えを大切にした自由と民主主義の公正性を評価することを痛覚しました。
ここでは、著しい格差社会の現実を直視しながら、人間的自立、人間らしく豊かな社会経済のあり方、その実現をしていく政治的正義を考えてみることにしました。
公正、公共の正義を大切にすることは個別的エゴに執着するのではく、利他主義、人間的普遍性のために憲法事項から、個別の要求を公の場での議会を通しての合意が求められるのはいうまでないことです。公正なる正義は民主的政治にとって不可欠なことです。
1,問題の所在ー現代政治のモラル問題と日本の伝統的な正義論ー
コロナ禍で政治家のモラルが大きく問われる時代です。超大国のアメリカでは、現職の大統領が選挙結果を認めず、支持者を煽って、議会に乱入し、5名が死亡する事件が起きた。新大統領の就任には、2万5千名の州兵と1万名の警察での厳戒体制であったのです。コロナ禍での重点的感染症対策よりも経済を優先していたことが問題になったのです。本人も選挙運動のなかで、新型コロナにかかったのです。
トランプ大統領は、国際協調主義を否定して、アメリカファースト主義で、次々に国際的約束ごとを破棄してきたのです。民族排外主義的で大きく世界を混乱させた大国の指導者でした。かれを熱烈に支持する人々が議会の乱入事件を起こしたのです。議会という民主主義の象徴に大きな汚点になったのです。
日本では、場当たり的に一斉に緊急事態宣言ということで学校一斉休校、感染症対策の基本である社会的検査、人権尊重の保護隔離をあいまいに、GO TOなどとして経済優先をしたのです。新型コロナの蔓延によっての自宅待機続発の事態を招いている状況です。
この間に国会では、総理大臣が嘘を100回以上も繰り返し、政治の私物化疑惑が問題になったのです。さらに、政府は、国民に対して緊急事態宣言での自粛を要請するなかで、政権与党の罰則提案の国会の責任者が高級クラブなど風俗営業店で豪遊していることが発覚しているのです。
ところで、政治的モラルが深刻な日本の状況ですが、日本の政治家を全面的に否定するのではなく、真面目に政治的正義に生きた多くの人びとがいたこと、さらに、現代でも公正なる政治的正義で頑張っている人びとがいることを決して見落としてはならないのです。
それでは、日本の政治的正義の問題を歴史的にみつめてみよう。国際連盟の事務局次長を務め国際平和に尽力した新渡戸稲造は、日本の幕藩体制時代の正義観を武士道として、光り輝く最高の支柱であったとのべています。正義に生きることが武士にとって絶対的なもので、それが勇気になっているというのです。
武士の情けは、人として仁のこころをもって、苦しんでいる人、落胆している人を励ます正義にたいするものとしているのです。武士は誠に高い敬意をもって、嘘をつくことは最も恥ずべきことで、損得勘定をとらない、贅沢をしないと記したのです。
日本の明治維新における5箇条のご誓文の考えに大きな影響を与えた横井小楠は、公平無私の天理に従う他人のための利になる仁政、公正の貿易促進としての万国一体・四海兄弟の公共の天理を大切にしたのです。そして、仁による天地自然の道を強調するのでした。公共の天理は自然の道、世界一体・四海兄弟の理、民のために尽くす仁政なのです。
また、公平ということから、党派にこだわらず人物才能で人を選び、こころを正大にして、郷、藩、坊主、医者、学者などの狭い気風を除かねばならないとしています。教養の道は識見がたしかで心術が正しく、徳義を磨き、風俗を正しくするということです。
西洋の学問は事業の学であって、信徳がないので、人情に関することがわからないとしたのです。日本には昔から一定の政治をつかさどる学問がなく、神道、儒教、仏法などがあり、西洋の学問技術を取り入れるようになった。日本の政治を一新して、西洋へ普及すれば、世界の人情に通じて戦争をなくすことができますと横井小楠は考えたのです。
この古くて新しい政治は日本でこそ可能であったのです。今の世の中に処していくためには、成否にとらわれずに正道を立ててとおすことで、世の形勢に左右されてはならないというのです。政道さえたてておけば、後生に子孫が伝えてくれるのですと。
さらに、大政奉還後の政局について、上院に公卿、大名、下院に広く天下の人材をと議事院を提案しているのです。そして、財政や議事院の貸財運用の大切、条約、海軍などにのべています。以上のように、横井小楠は、公正の原理、公共の天理をのべるのです。
日本の近代の経済発展に大きく貢献した渋沢栄一は、論語と算盤として、道徳経済合一で、仁義は、経済活動においての絶対条件としたのです。
渋沢栄一は、若いときに日本の植民地の危機に幕府を倒さねばならないと、高崎城をのっとり、その勢いで横浜の外国人居留地を焼き払う企てをしたのでしたが、未然に親類に知られて、決起を断念したのです。
その後に、幕府の一橋に仕官して、慶喜の弟を団長とするパリ万博の経理担当として随員するのです。ヨーロッパ視察で、近代国家の銀行組織や企業の株式形態を学びました。
幕府崩壊後に、一時的に大蔵省で働くが、井上薫や山県有朋などの不祥事問題などで官僚の道を去りました。そして、実業家として、日本の最初の銀行を創立して、道徳経済合一論で生涯にわたって、経済や人材養成、福祉活動などで活躍するのでした。
日本の近代化は、経済的発展を成し遂げていったが、しかし、政治的に、戦前では、絶対主義的な中央集権体制のもとでの議会制の展開であったのです。
戦後の日本国憲法の制定によって、主権在民としての自由と民主主義の形成になったのです。国民の広範な自由と民主主義の権利獲得の運動成果として憲法が制定されたので、憲法理念の実現は、その後の国民の運動によって充実していくのでした。公正な社会的正義は不十分なままであることが日本の現状なのです。
ロールズの公正としての政治的な正義の政治哲学から学ぶ意味は、日本の現状からみても大切なことですが、日本の先人の思想家が切り開いてきた公正の原理や公共の天理、武士道の正義精神、論語と算術の伝統文化も含めて、ロールズの正義を深めていくことが必要と考えているのです。
2,ロールズの正義論の原理
世代的に連続して公正な社会協働システムを作り上げていくのが正義の基本的中心概念です。協働している市民は自由で、平等な人格をもって公共的構想による秩序に規制された正義の観念をもった社会とロールズみるのです。協働の公正な観念は互恵的ないし相互性の観念を明確にするというのです。
自由で平等な人格の観念は、社会的協働の公正という正義の原理を理解し、行動する能力をもっていることである。そして、善の構想能力をもち、修正し、合理的に追求する能力である。この二つの道徳能力をもっていることが、自由で平等な人格であり、民主的社会の公共的な政治文化というのです。市民はいかなる意味で自由であるのか。
自由の保障は、社会的協働の公正を理解し、行動する道徳能力をもつことと、善の能力をもって合理的に探求できる道徳力をもつ公正的な社会が形成されているとするのです。
政治的正義は、政治的に協働することであり、意見を異に他の人びと適切な論拠や推論の方法によって、自由を共有して、熟慮して公共的結論をしていくことです。熟慮しても受け入れがたい場合は、公共的正当化には足りないのです。熟慮からの確信ばかりではなく、他の人びとに受け入れがは公共的たいものがある場合には、反省的均衡の問題があるというのです。
政治的正義の公正は、憲法の必須的なコンセンサスで、自由で平等な市民間の相互尊重を基礎にして、実効的で民主的な社会的協働であるとロールズは考えるのです。反省的均衡は、筋のとおった反省ということで、合意と区別されるものです。政治的正義において、反省的均衡の観念によって、熟慮してもまとまらない事項に公共的公正を導き出そうとロールズはするのです。
マルクス・エンゲルスは、社会的結合の自由なる社会の創造は、資本主義の無政府性と労働の分割による疎外の激しい矛盾によって、その克服過程のなかでの人びとの運動の意識のなかであらわれてくるとするのです。マルクスとエンゲルの「ドイツイデオロギー」の著書では、未来社会論における自由なる社会結合を次のようにのべています。
資本主義的大工業による労働の分割から人間的な力の復元は、もとのようにはならない。諸個人が個人として参加していく共同態によって、諸個人の自由な発展と運動の諸条件のもとでの諸個人の結合によって、新たな豊かな人間的な力が復元できるというのです。
他の人たちとの共同こそが、個人の素質をあらゆる方向へ伸ばすことになるという考えです。したがって、共同においてこそ人間的自由は可能となるのです。この共同態とは、個々人の自由な参加による結合なのです 。ロールズの社会的協働の正義論の現実の価値観のことなる人びとの多様性を寛容しての協働ということではなく、未来社会への人間的自由を可能にしての社会的結合により協働の実現ということなのです。
また、資本主義的大工業での労働は、分業がすすめばすすむほど、蓄積がふえればふえるほど、分裂は鋭くなっていくと考えるのです。生産力は個人と全く独立の世界となるというのです。
労働の分割は、物資的労働と精神的労働の分割が現れてくる瞬間から、意識のなかで現れてくるのです。享受と労働、生産と消費は、矛盾が進行していきます。マルクスは、現実の資本主義の大工業によって、社会はますます無政府性になり、個々はバラバラに労働疎外ななって、孤立していくというのです。
そして、人間の意志、精神は、分割されていれば、労働が自由意志的にではなく、抑圧に、よそもののこととして、彼の意志に対立していくというのです。労働の分割のうちにすべての矛盾が存在するという見方です。
激しい矛盾は結合の必要性を強く意識するということから、社会的結合の目的意識性の客観的条件が生まれてくると考えるのです。つまり、労働の分割によって、必須となった協働の社会力は、個々人の自由意志ではなく、よそものように彼らの外にある強引な力として現れるのです。
社会的協働への展望は、私的所有と労働の分割を廃止してこそ、諸個人は自立して、社会的地位と、それに伴う人格的発展が保障されていくという認識なのです。
分業を止揚していくことは、共同社会においはじめて、人格的自由が可能となるのです。諸個人はかれらの連合によって自由になると考えるのです。まさに、現実の社会的矛盾の克服の運動のなかで、自由なる社会的結合ができるというのです。
この立場は真に根本的に矛盾解決実現する展望であるが、マルクスも資本論の第13章の機械制大工業の矛盾のなかで、労働者が議会をとおして充実した工場法制定を順次に獲得していくように、現実の矛盾をどのようにして、一歩、一歩実現して、社会的協働への道に進んでいくのかという政策展望が重要なのです。この意味で、社会化していくなかでの大規模化していく私的所有と社会的格差の矛盾を、経営と労働の矛盾をどう解決していくかということで、様々な矛盾解決の施策が議会、法、行政、社会政策、金融政策をとおして行われてきたのも現実です。
ロールズは、社会的矛盾のなかでの人間の意識や熟慮ということではなく、道徳観念としての社会的公正としての熟慮を強調するのです。熟慮した判断は、理性的能力や正義感覚の好都合な状況でだされるものであり、健全な判断能力と平等なる機会の願望の状況、誘惑がなく健全な判断をしないような明白な関心がない状況を考えるのです。
それは、自分の内部に葛藤がなく、判断した場合に独断的になるときに、熟慮の問題が起きるというのです。重なり合うコンセンサスの観念は、秩序だった社会の民主的な公正としての政治的正義に必要なことです。
現実的には、多元主義の事実のなかで公共的な政治的正義の判断を支持しているのです。そのなかには、ひとつの公共的な正義の政治構想を支持していても、全く同じ理由で支持しているとはいえないというのです。
市民たちは、宗教的、哲学的、道徳的見解をもって、対立している側面もあるのでが、それぞれが違った理由から公共的な政治構想の内容を支持していることをみなければならないのです。公正としての正義は、公共的な政治文化からで、重なり合ったコンセンサスから成り立っているというのです。
民主的な社会として、自由で平等な市民の社会的協働が公正なるシステムとしてロールズはみていますが、
穏当な多元性が民主社会の特徴ですが、それを正当な政治権力として秩序するのかということで、憲法、立憲政体がるが、多数決民主制とどう整合性をもつかという問題がある。さらに、現実の社会的・経済的不平等がある。
自由で平等な公正な市民の協働システムの構築には、矛盾が含んでいるので、分配の原理、憲法・立憲主義の原理という熟慮のうえでの判断行使が求められるのである。
機会の公正な平等原理は、格差原理に優先するのです。そして、平等な基本原理は、基本的自由を保障されているなかで発揮されるものとロールズは考えるのです。
公正な機会の平等は、才能と能力に関して、天賦の才と意欲は同一としてとらえて、出身階層のいかんにかかわらず同一の成功があるとみなして、社会は、その育成をはかるべきとしているのです。
機会の公正を達成するためには、自然的自由である政治的自由と思想の自由ということからの社会政策が正義にかなっているかどうかの道徳的能力を発達させることとが求められるとしているのです。また、良心の自由と結社の自由という善の道徳能力を発達させる必要があると考えるのです。
正義には、基本的諸自由なることと、社会的・経済的不平等という平等原理の2つのがあるという。これらの二つの正義の原理をもつ道徳観発達の能力形成において、憲法の権利と自由の必須制定事項が大切とロールズは強調するのです。正義の第1原理となる政治的諸自由と正義の第2原理になる平等について、ロールズは、その関係性についてのべていく。
憲法の必須事項として、第2原理の機会平等の公正は憲法必須事項になっていくが、格差原理は要求するところが多く、憲法の必須事項に入らないとしてきたとするのです。
第1原理は、憲法制定会議の段階で、第2原理は立法段階であったとするのです。第2原理はめざすところは多くの種類があって、困難な問題があるとするのです。分配正義は、憲法必須事項に属さないということから、協働する社会構成員としての互恵性に関わる問題にロールズの探求が行われるのです。
分配正義は、公正で、効率的で、生産的な社会協働システムであり、世代から次世代へと長期にわたり維持されるための基本構造ということです。その基本構造によって、諸制度をつくり、どのようにして規制して、統一的な枠組みをつくっていくのかということですと。
分配的正義の諸制度に手続き的な理解の容易なる個別取引に直接適用される背景的正義を重視するのです。背景的正義は、秩序だった社会において、平等な基本的諸自由と機会の公正なルールでというのです。全員が公知の協働ルールに従って受け入れ、ルールによって定められた請求権を尊重するならば、その結果の諸財の分配は正義にかなったものとみるのです。
個々の分配は正義にかなっているかどうかは、公正なる協働システムの内部で、個人自らの努力によって、獲得した請求権を無視して判断することはないと考えるのです。このロールズの考えは、公正なる協働の公知によるルールの社会システムがつくられているのかどうかということが前提になるのです。
格差原理によって、規制される背景的諸制度に含まれる諸ルールの効果は予見可能であるから、市民は当初からそうした諸ルールを考慮に入れて計画を策定して、行動するというのです。
公正的合意に基づく社会的条件の確保は重要であるとするのです。相当多くの富と財産が少数の手に蓄積され、機会の公正な平等や政治的諸自由の公正的価値が阻害することも十分に考えられるというロールズに認識です。このために、ロールズは、自然状態において個人や結社における自由なる取引を公正なる背景的条件として強調するのです。
不平等は、出身社会階層による生まれてから成人にいたる階層、生まれつきの才能、一生をつうじて出会う、幸運と不運というように非自発的失業や地域的不況など3つの形態をロールズはあげるのです。
これらの3つの不平等の偶然ごとを指摘するだけでは不十分であるが、これを放置すれば協働を行うための公正システムができなとしているのです。生まれながら知能や自然的能力は、固定的なものではなく、社会的諸条件によって開花するものです。
教育と訓練された能力は、広範のなかの選択の一部での可能な能力ということから小さなものであるとみるのです。才能の早期の訓練や開発の奨励や手助、社会的態度によって、違ってくるというのです。
格差原理の要求とは、最も不利益状況にある人びとに福利を含めて、効果的に利益を資することで、不平等は、許容されないというとロールズはのべるのです。そして、偶然ごとの格差という三との種類に人種、ジェンダーなどが含まれていないのか。
その答えは、主要な関心が理想論で、公正としての正義を説明するためとしているのです。ジェンダーや人種に基づく差別は、歴史的に、政治権力と経済的資質の支配力の不平等から生まれたものであり、歴史的判断は不確かで、固定的特性として、変化しないものとみるのです。現実の秩序だった社会での公正としての正義にあてはまらないとするのです。
自由と平等の市民間の社会的協働からの分配的正義を考える基盤に、出身階層、生まれつき、生涯を通じての不運がもたらす3つの種類による格差に長期的、持続的な効果を考えているいうことです。公正としての正義は、互恵性と相互利益との間に位置するということから分配的正義になるというのです。
公正としての正義に従う秩序によって、格差の3つの種類の偶然ごとが厄介な不平等を生み出すが、それ以外の考慮事項をどのように考えたらよいのか。理想的理論の内部で最も不利益の状況にあつ人をどのように特定されるべきか。
不平等は、偶然ごとによって定義されるのではなく、基本善の指数によって定義されることがあるのです。一般的に、最も不利益の人びとは、諸自由と公正な機会をもっているけれども、最低の所得と富しかもたない人びとのことになります。一定の固定的自然特性が不平等な基本的権利の割り当てや、より少ない機会しか与えられないことがあります。この固定的特性は変化しない。ジェンダーや人種に基づく差別は、この種の固定的特性になるとロールズはみるのです。
ロールズは、男女の不平等について、双方の許容の認識のうえに成り立っていると次のようにのべます。男性が女性よりも、より大きな基本的権利や機会をもっているとすれば、そのような不平等が正当化されるのは、それが女性の利益になり、かつ、女性の視点からみて受け入れられるときに限られのです。これらは、政治的、経済的な歴史的判断であるのです。
正義論では、これらは、欠落しているが、正義論の欠陥ではない。同様なことは、人種に基づく基本的な権利と機会の不平等にあてはまります。ジェンダーや人種による区別は格差原理の特殊形態が適用されるとみるのです。これらの固定的自然的特性からの権利や平等の問題を対象外にしていることは、理想的理論を構築するために、枠外にしたことで、公正なる正義論の欠落分野であり、公正なる正義論そのものが欠陥ではない。
男女の不平等や人種の差別の問題を固定した自然的特性ということで、機能的に生物学的違いからの家族分業の歴史的特性を強調し、人間の尊厳としての平等的視点からの論理をたてていない。
自由と平等からの公正的な正義は男女平等、人種間の差別撤廃という人間の尊厳、人権的な側面からの論理の構築が求められているのです。社会階層的恵まれない層、生まれつき才能のない人びと、失業など生涯に恵まれない不運というた3種の格差差別を受けることからの偶然の機会からの解放ということで、これらのことは極めて大切な格差解消からの大事なことです。しかし、その論理を理想論として、展開していくことに限界があるのです。
この論理は、所得の配分を経済的効率論による富の分配という枠内からの公正なる正義としての道徳義論にすぎないことになってしまうのです。
3,公共的理性と基本的諸自由
民主的社会の永続的特徴は、穏当の多元性性とみて、それを正義の主観的環境と呼ぶというのです。自由で平等な市民の政治権力は合理的に市民全員が共通の人間性を支持する仕方で行使しなければならないとしています。社会的統合は市民達が一つの政治的正義構想を受け入れ、包括的教説に根をもつ善に関する完全な構想基盤をもつものとしているのです。
公共的理性の観念を導入する根拠は政治権力の強制的な作用からです。民主的政体においては、公衆の権力です。それぞれの市民が政治的権力の分け前を平等にもつとすれば、政治的権力は憲法の必須事項と基本的正義の諸問題に対して理性にてらして公共的に支持することの仕方でのべるのです。そして、市民たちは政治的問題を自分の政治的見解を正当化するために、公共的に受け入れられる理由を提出することができなければならないのです。以上のように、民主的政体においては、公共的理性を公衆として、市民一人一人がもつべきとしているのです。
公共的な探求のために指針が十分な情報のもとで道理にかなった仕方で自由で公共的なものであることを保証しなければならないのです。また、判断・推論・証拠といった基本を適切に用いることだけではなく、常識的知識の基準及び手続き、科学の方法や結論に従うことができるようにする必要を求めるのです。これらは、道理にかなうこと、偏見のない諸徳性が含まれているのです。
公共的理性の代表としての当事者は、自由で平等な市民の代表であるのです。従って、受託者、後見人として行動するというのです。立憲政体の代議員の当事者は、自己利益とか利己的であるということは意味しない。自分自身への関心、自分の富と地位への利害関心、自分の力と威信への関心であるということが大きな課題になるというのです。ロールズは自己利益や利己的を目的とする知識や文化を全く排除していくことを公共的理性とするのです。
本来的に、公共的理性をもった当事者は、それらを克服されているのです。市民が道徳的能力を発達させて行使し、他の人びととの公正な取り決めに基づいて善の構想を効果的に追求するにふさわしい諸条件ができあがっているのかでの当事者なのです。
正義の主観的な深刻な対立は、宗教的・道徳的な場面で起きるのですが、それは、一般的に自己利益というわけではなく、公共的理性として、正義にかなう正当なものとみているからこそ、その対立は難しいのです。社会的・経済的対立とは性質が異なるとしています。
市民にとっての普遍的な公正としての正義は、宗教的・道徳的なものではなく、政治的正義としての公共的理性なのです。全員一致による合意の合理的な判断として、立憲民主制が大切になってくるのです。公共的な合意を導く、その指針となる一般的知識がいかなるものか。多元性というなかで、憲法の必須事項が諸制度や公共政策の正当化を可能にするものです。
公共的理性は、憲法の必須事項を基本的正義として、市民が自分自身の理性にしたっがって、行使していくことです。政治的見解を正当化するのは、憲法の必須事項からの公共的な政治構想です。相互尊重に基づく政治的に協働していくということです。ほとんどの立法問題は、憲法必須事項からかかわっているのだが、その議論を公共的理性から問題にしていくことが大切であるのだが。
公共的理性は、憲法必須事項と関連させて政治的正義を考え、立憲政体をとっていくが、非公共的な理性は、社会の内部の個人や結社からの理性です。それは、個人的または結社的に決定の熟慮のための理性です。結社のために承認された推論方法は、その構成員との関係では、公共的でありますが、政治社会とのかんけいでは、非公共的です。市民全体にとっても非公共的であるのです。
民主社会では、教会の権威のように非公共的な権威を認めています。宗教的・哲学的・道徳的な見解も良心の自由、表現の自由からどのようなものでも認めているのです。これらは、憲法上に保障された基本的な自由と権利からです。公共的理性と非公共的理性を区別して、政治的正義の社会と、結社の社会とは異なるのです。
安定した立憲政体には3つの条件が必要とロールズはのべるのです。一つは多元性の優先性です。これらのことによって、イデオロギー的な政党の枠にはまった政治課題からはずされることになり、社会的利益の計算を越えたところの相互尊重や社会的協働の足場をつくることになるのです。
基本的諸自由・諸権利と社会利益の計算を関連させることは、諸自由・諸権利の地位と内容を不安定にさせるというのです。それは公共的生活と敵対性を危険なまでに増大させるとみるのです。
立憲政体の第二の必要条件は、政治的構想が公共的理性の基礎的なことが共有されていることです。その基礎は公衆から十分に信頼されていることです。精緻な計算によって、公共的に効用原理が認められても、それは恣意的仮定に依存するもので、効用原理の適応は暫定的で不確実なものになるのです。効用原理は政治的に使いものにならないのです。
安定した立憲政体の第三の必要条件は、政治生活に関する協調的徳政の涵養の促進です。その徳性は公正感覚、妥協の精神、互譲の精神などです。これらの徳が全員が平等と相互尊重に基づいて公正な政治になるのです。
ここに、正義にかなった諸制度が確立され、長期にわたって協調的政治徳性が促進されるというのです。効用原理はその観念を欠いているのです。市民の公共的認識が市民の間の相互信頼を促進し、自発的で実り豊かな社会的協働の必要な態度と心の習性の発達を促進するというのです。
憲法的必須事項の原理からの法の制定は人命に対してふさわしいか、社会に対して長期的自己再生産の諸制度を適切にしているのか、公共的法が女性の十分な平等を保障しているのか。公共的理性がと問われるのです。
公共的理性は道理にかなっている公正感覚、妥協の精神や公共的な市民としての義務を尊重する意志、協働的な政治徳性をもっていることなのです。これらは、互恵性の原理を表現することです。効用原理は、これらの観念を欠いているのです。
公共的理性をみていくうえで、マキシミン・ルールによって導かれる選択肢の答えを統計に最悪から期待効用を最大化するということで、ルールや数学的関数で順序だてること判断の合理性という考え方があります。
それらは、統計的な表面的項目として、期待される満足、快楽や合意可能な意識だとかが問題にされますが、実態的内容を欠いているのです。これらの方法は思考を成序する賢明なやり方のようにみえ、科学的、合理的、理性的みえます。
マキシミン・ルールは必要不可欠なことではなく、われわれの根本利益が本当は何であるのかの根本を問題にすることです。それがないなかでのマキシミン・ルールは最悪の結果になるのです。ロールズは以上のようマキシミン・ルールの方法を危惧するのでした。
効用原理はより有利な状況にある人びとよりもより不利な状況にある人々に、同じような要求をすることは、不利な状況にある人びとに大きな心理的負担をもたらし、不安定さをもたらす。有利な状況にある人びとは正義にかなったことを遵守しそこなうかもしれないが、彼らは権威や政治権力をもつ頻度がより高いため、正義原理に背く誘惑にかりたてられ負担が軽くなる。
相互に尊重された合意事項を自ら進んで適用しての達成していくコミットメントは当事者に緊張関係をもたらす。合意事項は尊重されることを期待するのです。その結果が悪いものに判明したとしても、その合意に背くことができない。不公正な状況であったから、無知や不意打ちがあったといいわけをすることができない。効用論からは結果が唯一であるのです。一切の言い訳は排除されてしまうのです。コミットメントの緊張が過度にするために、どのようにすることがよいのか。
コミットメントの緊張が過大に思える場合は、最も不利な状況にある人びとは社会の正義構想を拒絶し、自分が抑圧されているとみなしている場合です。また、穏やかな対応ですが、孤立して世の中ののけ者と思う人びとです。この場合も正義原理を肯定することができないのです。効用原理を支持する人はコミットメントの緊張が大きいのは市民の不可欠なニーズを許さない場合だけとみるのです。
格差原理は公共的政治文化において、正義の政治構想のための互恵性の観念を単純な形であらわしている。ある世代から次の世代に続く自由で平等な市民の間の社会的協働システムとしての互恵性の観念は重要なのです。ロールズにとって、格差原理を考えていくうえで互恵性が自由と平等の社会形成にとって極めて重要な道徳的観念になるのです。
4、財産私有民主制・民主的社会主義への展望
ロールズは、正義にかなった国家像・社会制度として、財産私有型民主制とリベラルな(民主的)社会主義をあげるのです。それらは、資本主義的福祉国家ではなく、資本主義に代わるものとみるのです。
世代から次世代へとわたる自由で平等な市民間の公正な協働システムは、財産私有型民主制または、リベラル(民主的)社会主義であるとたどりつくのです。
自由で平等な社会システムは、自由放任型資本主義、福祉国家型資本主義、指令経済を伴う国家社会主義、財産私有型民主制、リベラル社会主義となるとみています。自由と平等の正義にかなった基本的諸制度には、4つの問題があるいう。
第1は、政体の制度が正義にかなっているか。第2は、政体が正義にかなって効果的に設計できるか、第3は、政体が市民達の利害関心や目的に照らして職務や地位にある人びとがルールに従って執行していくのか。とくに、腐敗の問題は、この職務や地位のある人びとのルールを遵守できるかどうかにあります。第4は、職務や地域に割り当てられた人びとが、その任務を遂行するうえで、難しすぎるという能力の問題があるのです。
多くの保守的な人びとは、第3の職務と地位での問題点をあげて、いわゆる福祉国家の非現実性、浪費と腐敗に向かうというのです。5つの政体で、どれが自由と平等の正義にかなった政治的価値をもっているのか。それぞれの政体が設計された価値で、自由と平等の理想をうごかしたとしても社会的利害を生み出すかもしれえないということです。
社会的利害のために、最初あげた自由放任型資本主義、福祉国家型資本主義、国家社会主義の3つの政体は、自由と平等の正義の実現が不可能になってしまうことがあるのです。
第1の自由放任型資本主義は、社会的ミニマムによる制約をしても経済効率性と成長をめざすものです。
第2の福祉国家型資本主義は、政治的自由の公正的価値を拒んでおり、機会の平等の配慮がされていても達成に必要な政策がとられないとしています。国家所有の不平等から少数者による経済支配がおき、経済的社会的不平等を規制すべき互恵性の原理がないとするのです。
第3の国家社会主義は、一党独裁による指令経済で基本的諸権利と諸自由を侵害しており、自由の公正の正義の価値の侵害になっているのです。
財産私有型民主制とリベラル社会主義の政体は、どちらも民主政治の憲法枠組みを設定し、基本的諸自由に加えて、政治的諸自由の公正な価値と機会の公正な平等も保障しており、格差原理によってではない相互性の原理によって、経済的・社会的不平等を規制する。
このどちらを選ぶかは、決める必要がないと。両方の政治的価値も、ロールズの考える公正なる正義を実現する政体としているのです。
財産私有型民主制と福祉国家型資本主義の綿密な対比がロールズにとって、大切なことであったのです。財産私有型民主制は、富と資本の所有を分散させるのです。
少数のものによる経済や政治生活の支配を防ぐように働くのです。財産私有型民主制の政体は、もたざる人びとに所得を再配分するのではなく、各期のはじめに、生産用資産と教育と訓練された人的資本の広くゆきわった所有を確保することにしています。
教育と訓練の重視と機会の公正な平等の徹底によって、格差原理に対処するものであった。それぞれ、相互の利益と自尊によって、自己の分担役割をしていくのです。
最も不利益にある人びとは、慈悲や同情、哀れみの対象ではなく、何人も互恵性にあたっているのです。社会的・経済的平等を足場に自分自身のことは自分でやっていくということです。最も不利益で、めぐまれないもたざる人びとに、自立の立場になるということです。
教育と訓練を重視して、意欲的に誇りと自尊心をもって生きることはより人間らしく自由になることです。格差から平等への条件整備に、人間らしく自由に生きる自立への意欲と能力形成が必要なのです。貧困の再生や貧困の継続ではない条件を具体的に作り上げていく社会経済的の仕組みが求まれているのです。
この仕組みづくりで教育と訓練は極めて重要な事項なのです。もたざる人びとも自由で平等な者として、自由に人間らしく誇りをもって、意欲的に働き、市民間の公正なる協働システムの一員として、機能するようにロールズは考えたのです。
対照的に、福祉国家型資本主義は少数のものが生産手段をほぼ独占することを許容する仕組みです。福祉国家型資本主義では、最低限の生活水準を下回ることもなく、失業保障や医療扶助といった不慮の事故に対する保護が保障されるかもしれません。しかし、重要なことは、各期の終わりに援助を必要とすることからの国家政策の基準からの査定であるのです。
実際に人間らしく働くことや豊かに生活する過程の背景的な正義が欠けているとロールズはみるのです。所得や富みに不平等があると、その構成員は、慢性的に福祉依存にかりたてられるのです。下層階級は、挫折し、意気消沈した層として、自由で平等な者として、自分たちをみないで、公共的政治文化に参加しないのです。さらに、意欲的に互恵性をもっての社会的協働のなかで生きていかないのです。
財産私有型民主制やリベラル社会主義の政治的価値は、公正なる正義として、民主的政治の憲法的枠組みを設定していますが、立憲民主制と手続き的民主制の違いも明確にしておくことが必要です。
財産私有型民主制は、手続き的民主制という政治的価値はない。憲法事項にそって、法がつくられていくのです。憲法の制約が立法でも裁判所でも明確にされているのです。
しかし、手続き的民主制は、立法上において憲法の制約もなく、適切な手続きによって法が制定されていくのです。それは過半数の原理によっての制定です。ここでは、多数決原理という手続き民主制の教育ではなく、憲法的内容を実質化していくという公正なる正義の政治が執行されていくという教育を充実していくことが大切になってくるのです。
公正なる政治における教育の役割は特別に重要ということを決して見落としてならない。市民達の政治論争、政敵討議の基礎は憲法の必須事項からの政策的な合意、社会的協働なのです。これらを具体的な国民の要求実現の筋道を合意と協働システムのなかで示していくことです。
財産私有型民主制の経済制度は、格差原理からの自由と平等を保障していくという社会的諸制度です。貯蓄原理を正義のために働かせることです。所得と富の格差原理は、より有利な状況にある人びとが、正当な期待が減少する場合には、より不利な状況にある人びとの正当な期待も減少するのです。
社会は長期にわたる世代間の公正なる協働システムであるべきで。貯蓄をとりしきる原理が必要です。貯蓄原理の合意は、富の水準をどれほど多くするのかという他の世代の義務を根拠づけることが求められるのです。
貯蓄原理と課税の問題です。ロールズは、遺贈を規制し、相続を制限するということは税の対象とせずに、累進課税に原理を積極的に適用するとしています。公平で平等な正義がかなっている社会では、累進課税で財源を増やすことを直接の目的にするためではないのです。
それは、政治的諸自由の公正、機会の公正のために、背景的正義に反する富の蓄積を防ぐためというのです。ここで、問題となるのは、貯蓄原理が生活のために、小規模な資産として相続することは、公正なる平等の正義から不公平な富の格差が生まれてくることはありません。
しかし、市場競争という現実を肯定しているなかで、資本の一極集中が進んで、それに伴って資産も強大になり、そのことで、世界の経済を支配することが重大なのです。
生活のための小規模な貯蓄であれば、富と貧困の極端な格差の矛盾は生まれない。その場合は遺産相続の所得控除という制度によって、実質に相続がかからない仕組みもできるのです。控除額をどうれほど引き上げるかによって、実質的に小規模な生活のための資産の遺産相続はなく、ロールズのいうとおりに課税対象からはずれることになります。
しかし、強大になった貯蓄の場合は、富の格差の問題から、社会的な弊害が大きく生まれるのです。経済的・社会的平等の社会をつくっていくうえでの生前・死後の相続は必要なことです。
比例的な消費税として、一定の所得税を越える消費総額にのみ課税されることも考慮するひとつです。人びとが、生産された財やサービスをどれだけ使用したか。それに応じて課税されることで、適切な社会的ミニマムに配慮した調整ができるというのです。課税の固定限界率を調節することによって、格差原理の大まかな問題を解決できるというのです。
企業の社会的責任・社会的貢献ということでは、道徳的資本主義の問題として、企業モラルの在り方が鋭く問われる時代です。国連はグローバルコンパクト原則として、企業の腐敗防止のため、2003年に総会でその宣言をしています。
経済的犯罪が巨額な資産と結びついて、国の政治的、経済的に持続発展を脅かす事態になっているというのです。腐敗防止には、国際的協力が必要な時代というのです。腐敗防止のためには総合的な施策が必要として、10項目の原則をたてているのです。
その原則は、1,人権の保護、尊重、2,人権侵害の企業が加担しないこと、3,企業は組合結成の自由と団体交渉の権利を保障、4,あらゆる形態の強制労働の禁止、5,児童労働の実効的支配の撤廃、6,雇用と職業に関する差別の撤廃、7,環境問題に対する予防的措置をとること、8,環境問題に関する大きな責任を率先して引き受けること、9,環境にやさしい技術の開発と普及を奨励すること、10,強要と贈収賄を含むあらよる腐敗防止にとりくむこと。このグローバル・コンパクトに署名する企業や団体をよびかけているのです。
そして、コー円卓会議ということで、企業の倫理や社会的責任ということから、世界の社会経済の健全な発展ということで、道徳資本主義の課題が討議されています。
企業市民という概念から、顧客、従業員、株主、仕入れ先、競争相手、地域社会という人間的モラルの関係性ということで、ステークホルダーの人間尊厳の責任ある行動が提起されているのです。ここでは高品質、サイービス、公平性、健康と安全、商品・マーケテング・広告を通しての人間尊厳、文化や生活様式の保全という顧客に信頼されてこそ、持続可能性をもつということなのです。
働く人びとには、生活を保障し、健康と品格を保つこと、情報の公開と共有、提案やアイデアを可能な限り採用、対立が生じたときに誠実に交渉、障がい者の積極的雇用、職場での傷害や病気から守る、技能や知識の取得の奨励、失業問題に注意を払うなどの提言をしています。企業の公正ななる活動として、コー会議が提唱する6つのステークホロダーとの人間的信頼関係内や従業員に対する企業内での民主主義の問題は、ロールズの考える公正なる社会経済の正義にとって当てはまるものです。
社会的協働のしくみをどのようにつくりあげていくのか。相互の信頼による互恵性をどのようにしてつくりあげていくのか。企業活動にとって民主主義的な社会経済を尊重していくということで重要な課題です。
さらに、企業間の関係では、ステークホロダーという社会経済活動の機能的に分業化していく側面と、下請けという関係や大規模な企業に依存しなければ経営がやっていけないという従属性の問題のなかで、いかに民主的に平等な関係がきずかれていくのか。
そして、金融関係という銀行や投資家との金銭的な問題も経営の自立性ということから重要な課題なのです。金融機関・銀行や日本銀行の徹底した公正なるしくみづくりと徹底した民主的管理運営が必要なのです。
大企業の下請けによる従属的関係や金融機関の管理統制関係から、いかに自立して、それぞれの経営体が市場のなかで民主的な関係のもとで保障されていくのか。
そこでは、自由なる経済活動を保障して、個々の営業・労働の意欲を活性化させるために独占禁止法の民主的な徹底整備、金融関係の民主的な法整備、消費者主権の民主的な法整備、命と自然を守り、持続可能性の経済のための環境法の整備など企業の民主的な自由で平等な社会経済の正義を充実していくことが必要になります。
これらは、市場経済に対応しての自由な競争の前提には公正なる原理、民主主義の経済ルールなのです。競争の原理には人間らしく豊かなに生きていくための質的な勝負による切磋琢磨が求められているのです。
つまり、この保障を社会的にきちんと整備していくのは、国家による法的整備と行政的執行による民主的コントロールが求められるのです。また、ステークホロダー、従業員への人間尊厳への経営、下請けや金融ということでの企業倫理を保障していくことも大切です。
これらのことは、財産私有型民主制の国家の重要な役割です。国家は財政民主主義による国民の代表からなる国会の予算決定権、財政執行の法律主義、国債による収入の国会決議主義の重大性があります。
財政法による国債発行の禁止主義などをいかに遵守していくのか。日本の戦前の軍国主義体制のなかで、軍部独裁の権力で大幅な赤字財政が組まれ、戦争遂行と赤字国債は密接な関係にあったのです。権力の独裁を防ぐためにも赤字国債を禁止するということは戦前の反省からです。
国家の民主主義的な財政規律が大きく問われている現状で、いかに、国民の命と暮らしを守る主権在民としての民主主義的な国家財政の確立ができるかということです。歳入としての税の在り方、累進課税や大企業などの優遇税税制などを含めての税収入を格差原理を踏まえての民主主義的再編成が求められています。
また、歳出の在り方としての公共事業支出、社会保障支出の検討など薬価などの医療費や自立していくための教育や訓練、職業斡旋の重点指導など、いくつかの検討があるとみられます。
財産私有型民主制や民主的社会主義のなかでこれらをどうやって実現していけるのかという財政のシュミレーションが大切になってくるのです。公正なる正義として国家の財政の民主主義的在り方、民主主義的財政の確立は極めて重要な事項です。国会における一人一人の議員の在り方、各政党、内閣・行政機関も大きく問われているのです。
現実の資本主義的市場のなかで生み出された矛盾に対して、それぞれの国家が蓄積してきた資本主義の矛盾を克服する民主的ルールや、国際的に承認されてきた社会経済システモの民主的ルールを再評価することが求められます。そして、財産私有型民主制政体や民主的社会主義の政体を、世界を支配する超巨大な富の集中という矛盾を解決するうえで、大きなヒントを与えると考えられます。
ここには、先進国の主導ではなく、発展途上国を含めての国際的機関に対する民主的国際的強調づくりが大切です。このための国連の役割が大きくなっているのです。
世界のトップの資産総額は1300億ドルを超えています。10億ドル以上の資産家は2200名以上です。これらの人びとが世界の富の半数以上を握っているのです。
一方で一日1.9ドル以下という絶対的貧困で暮らす人びとが7億3千人いるということです。絶対的貧困は発展途上国に多くいるのです。先進国では相対的貧困ということで、南アフリカ26.6、アメリカ17.8%、韓国16.7%、日15.6%、ニュージランド10.9%、ドイツ10.4%、スェーデン8.9%(2018年OECD統計)ということです。日本の一人親の場合半数以上が相対的貧困になっているのです。その割合が増加しているのです。
ごく少数の人びとが世界の経済を支配して、貧困の状況が進んでいるのです。アメリカは世界一の大金持ちの集中している国ですが相対的貧困率の高い国です。この世界現実のなかで、自由と平等を尊重する社会経済のしくみづくりとして、模索していくことが必要なのです。
ロールズは、財産私有型民主制にとって、女性の完全平等をめざすものであることを大切にするのです。伝統的な家族内分業が基礎になった歴史的条件があることから、基本制度としての家族の問題が大切であるとしているのです。長期的な社会的協働のひとつとして、女性や子どもに平等な正義を確保する必要があるとするのです。
政治的リベラリズムの実現には、教育によって達成するのです。子どもの教育のなかに、自分の憲法上の権利や市民的権利に関する知識が重要なのです。
自分の住む社会には良心の自由が憲法的に保障されいるのです。子ども達は十分に協働する社会的構成員となる準備を整え、可能となる自活の教育を受けていくのです。そして、社会的協働の公正な条項を尊重したいという欲求が起きる政治的徳性を寛容していくことが求められるのです。
自由で平等な公正なる民主的国家をつくっていくには、将来の市民としての子ども達の役割は重要です。子ども達に公共的な文化を理解し、その諸制度に参加し、政治的公正なる諸徳性の発達能力をつけることは不可欠です。そして、全生涯にわたって、自活して生きる能力が求められるのです。