社会教育評論

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江戸時代の平和思想ー安藤昌益の武器全廃論と横井小楠の世界兄弟論ー

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江戸時代の平和思想ー安藤昌益の武器全廃論と横井小楠の世界兄弟論ー

 

 (1)安藤昌益の平和論

 日本国憲法は、9条において、国権の発動たる戦争の放棄、戦力の不保持をうたっているが、武器の全廃論をすでに300年まえに、安藤昌益によって唱えられている。日本国憲法の戦力不保持からの平和思想は、日本の伝統的な思想家からもみることができる。安藤昌益は、1703年に生まれ、15歳のとき曹洞宗禅寺で正式の修行僧として入門している。各地の山門を訪れ て、修行し、いろいろの師につかえてきた。10数年の修行によって、指導できる禅宗僧の資格を得るのである。

 安藤昌益は、若くして、一人前の禅宗の僧として世に出ることができるようになるのである。しかし、青年僧安藤昌益は、仏門を捨てたのである。なぜか。それは、心の救済では人々を救うことはできないと悟ったからである。安藤昌益の思想を考えていくうえで、青年時代曹洞宗禅寺の修行のなかで形成された仏教的な平和観と自然観は大切な見方である。

 安藤昌益は、病との闘いが必要ということで医師をめざす。そして、医学の修業を一〇年行う。医学は、京都で学び、オランダ商館とも接触する。 そして、10年後の一七四四年のとき、四二歳で東北の八戸へ医業をする。そこで、かれの独自の思想体系が生まれていく。医師としての診療と思想家としての講演を八戸で行う。多くの者が教えを受けるためにかれのもとに集まり、各地にかれの弟子が生まれていく。

 安藤昌益にとって、学問は、座っている姿に限定しなかった。学問は、日常生活における一切の状況から考える。学問は、学問をする者の独占的なものではない。真実は、世俗的な生活の道から探求するという姿勢を貫いた。

 曹洞宗の開祖である道元の耕道という概念を世俗の生活のなかで発展させて、直耕という独創性的な概念をつくりだした。それは、農民の労働こそ富をつくりだす根源であるという考えである。人間の富を労働との関係で考え出したのである。

 道元の思想について、正法眼蔵では、耕道を行持(ぎょうじ)仏祖の大道との関係で次のように述べている。「仏祖の大道、かならず無上の行持あり。道環してほとけ断絶せず、発心修行、菩提涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。このゆゑに、みづからの強為にあらず、他の強為にあらず、不曽染汚の行持なり」。

「行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学を審細にすべし。かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり」「一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。この行持に諸仏見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは、諸仏をいとひ、諸仏を供養せず、行持をいとひ、諸仏と同生同死せず、同学同参せざるなり」「大善知識かならず人をしる徳あれども、耕道功夫のとき、あくまで親近する良縁まれなるものなり。雪峰のむかし洞山にのぼれりけんにも、投子にのぼれりけんにも、さだめてこの事煩をしのびけん。この行持の法操あはれむべし、参学せざらんはかなしむべし」。[1]

 在家に仏の道理を学ぶべきものとして、修証義が明治以降に道元の正法眼臓からの抜粋要約として、まとめているが、そこでは行持報恩として、日々の平常心、日々の生命、我欲のためにひきずりまわされないようにすることの大切を次のように述べている。

「唯当に日日(にちにち)の行持(ぎょうじ)、其報謝(そのほうしゃ)の正道(しょうどう)なるべし、謂ゆるの道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、私に費やさざらんと行持するなり」「此(この)行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、我等が行持に依りて諸仏の行持見成(げんじょう)し、諸仏の大道通達(つうだつ)するなり、然(しか)あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子(しゅし)なり、諸仏の行持なり」。[2]

 安藤昌益は、道元から学び、その思想を独自に農民の生活の関係で発展していくのである。安藤昌益の思想を考えていくうえで、互いに相反する関係は、相互の依存関係をもっているということで、互生という性質を重視するのである。そして、社会のあらゆる領域に存在する対立する二別的論理をえぐりだす。つまり、支配と被支配の関係である。かれは、身分制を鋭く批判する。

 そして、兵は国の争乱の道具であり、刀は天下を盗む器具であると考える。封建的な武士社会を根底から批判するのであった。江戸の中期の時代からみれば極めてラデカルな見方であり、当時の社会では受け入れがたい考えであった。彼自身も現実的に当時の世の中に支持されるとは思っていなかったのである。従って、弟子たちに公に考えを普及することを進めなかったのである。

 安藤昌益は、とことんまで論じなければならないことは、この天地の間の人間の関係であると考える。その中から人間は対等であり、同格であるという思想を確立する。からの平等思想の確立で大きな影響を与えたのでは、アイヌ社会との接触である。かれは、アイヌ社会を学び、その社会を積極的に評価する。アイヌ社会は、その気だては素朴であり、金銀の通用がないと見たのである。だからアイヌ社会は、上下の支配がないとしたのであり、互いに戦争して奪ったり、奪われたりする乱世もないとするのである。

 安藤昌益は、理想社会の自然活真の世の思想を生み出す。1758年に八戸を去り、秋田の大館に移る。そこで、未来の理想社会をふるさとで深く探求する。そこで、自然真営道を1758年から1762年に執筆するのである。

 かれの互生論、秋田に移住しての執筆する過程のなかで、発展する。人倫は人間関係にあり、男女の関係に本質をみることができる。異質なものが対応しながらも、相手を自己の本性として、自己の存在の本質的契機として、一体を双方が求めるということを重視したのである。この見方は、理想社会をつくっていくうえでの根本的な原理とするのである。

 また、それは、相互依存の論理である。相互的関係のもとで相互自立の論理が導きだされる。他人と同じでないからこそ、わたしが存在する。自己は世界の中心ではないという見方は極めて大切であるとした。相互の平等は自然のなかにある。相互の人間関係の本質をみつめていくなかで平等という概念を導きだしていくのである。

 それは、生存的な自己中心的な平等論でもない。自然の世としての相互の平等関係があり、異なる相互の平等関係のなかに、相互の自立があるとしたのである。このように、安藤昌益は、現実の世を真っ向から徹底的に批判し、理想社会を考えていく。互生論は、安藤昌益の理想社会の根柢になるのである。

 安藤昌益は、自然の世に逆らうということは、どういうことかと問う。万人の中の一人である王が勝手に自分から王になること。直耕に逆らって、耕すことをしない。つまり、労働からの富を生むことをせずにいることが自然の世に逆らっていることである。自然の世は、二別の世界のないことである。人道の道に逆らって獣になることは人の自然の世ではない。山中より金を掘り出して人々の欲望を助長させることも人の世ではない。

 以上のように、自然の世ではない、平等でない二別の世界のないことが根本的な天道に背く争乱の源であるとする。安藤昌益の平等論を考えていくうえで、二別の相互依存の関係論は大切である。差別と区別は異なり、区別ということでの相反する2つのものが互いに支え合って存在していることを力説しているのである。

 王とは天道に背く争乱の源である。王は自然なる天地には存在しないものであり、人間の間にもともと存在するものではない。国にとって、大事なことは軍備ではなく、直耕の天道である。

 安藤昌益は、文字よりもしゃべりことばを大切にしていく。叡智は、文字からの自立が大切である。これまでの知の問題は大きい。今の知は、人間が生きていくもののためであるのか。人はじっくりと自然の履歴を観察し、解読して、自然と対話し、自然の営みを理解していくものである。この見方で、安藤昌益は、未来の自然の世を展望するのである。

 これが自然活真の世である。互生の論理の世として、異質であるが同格で平等な2つの項が対をなしながら相互に自己のなかに自然活真の世が確立していく。互生は、相手のなかに入り込み、交渉しあう関係である。

 自然活真とは自然そのものではなく、生命的運動である。自然を正しく認識し、自然的に実践する理想な人間社会として、自然活真の世を描くのである。陰陽五行の木、火、土、金、水の五行のなかで、土は別格である。土と四行が活真で合体していくとする。

 安藤昌益の直耕概念は自然観の核心的な概念である。肉体的な単純な農業労働という意味ではなく、直とは、自然に働きかける労働をとおして、正しく生きるということで、耕すことは、自然を正しく認識していくことであることを見逃してはならない。

 安藤昌益は、封建的社会そのものを否定して人間平等、平和、環境保全を提言する。安藤昌益の思想を生み出した時代的背景は、元禄時代以降の贅沢化に伴っての東北地方の飢饉である。東北地方は、五年ごとに大飢饉にみまわれた。飢饉は自然災害ではなく、人為的な災害であった。元禄時代以降の経済的発展による東北地方の開発が飢饉になったのである。

 安藤昌益が生きていた時代は、元禄文化の江戸を中心とした消費文化の影響で、関東の大豆畑が養蚕に替わり、大豆畑は、東北地方の山地に焼き畑農耕方式に移っていった。この結果、自然循環が破壊され、イノシシが大量に発生したのである。

 軍学について、安藤昌益は、天下国家を奪い取るためであると鋭く次のように批判する。

軍学とは、戦争に勝ち王となるためのもの、天下国家を奪いとるためのものである。つかのまの平和にも乱を忘れず、軍学を学び戦争にそなえるというわけだ。ところが軍学は天下国家を治めるためのものだとなどと言っている。だが天下国家を統治しようとすることこそ、叛乱死闘がくりひろげられる。原因となるのだ。このように治めるというのも軍学、乱れ闘うのも軍学なのだから、治も乱ともに軍学によるものであって、つまりは治も乱ともに乱に過ぎない。そこで治乱興亡のない万人直耕の社会となれば、軍学などはまったく必要ないのだ。反対に軍学が続くかぎる治乱興亡をつづくというものである。もし自然にしたがい直耕ひとすじに生きる社会には治乱興亡がないことを論証する者があらわれて、さっさと軍学を一掃し、すべての刀剣・鉄砲・弓矢などの軍備を全廃してしまうならば、将兵の示威行進もなくなり、やがて自然のままの社会にもどっていくことであろう」。[3]

  安藤昌益は、まさに、軍学は乱を起こすものであるとする。したがって、平和を考えれば軍学は必要がないとする。自然のままに生きられる社会をつくるには、軍備を全廃していくことであるとする。江戸の中期に安藤昌益は、武士の社会を否定して、平等なる社会をつくっていくために、刀剣、鉄砲、弓矢などの軍備を全廃することを強調しているのである。

 ところで、石渡博明は、安藤昌益の平和思想を書いている。かれは、9条世界会議などの盛況を世界平和の構築として、積極的に評価する。「武力によらない平和」の世界的なモデルとして位置づけ、国内のみならず世界に発信していくという積極的な姿勢に好感が持てたとしている。「日本の平和運動がややもすると憲法の枠内に終始しがちなこと、九条を「護る」という消極的なスタンスに違和感を持っていたからであり、憲法九条の如何にかかわらず、「平和」運動は人類に普遍的な価値として、根源的な価値として、もっと積極的に発信していくべきであると考えてきたからである。

 とりわけ、ソ連邦の崩壊により冷戦が終結したにもかかわらず、9.11以降、「対テロ戦争」という名の「帝国」による無差別殺戮・大量虐殺が繰り返されるといういかがわしい時代状況の中にあっては。そうした私の基本的なスタンスに照らして、今年の憲法集会はいずれもその前向きな姿勢に好感が持てた。実はこの間、江戸時代の思想家・安藤昌益(1703~62)の平和論・平和思想を読み返すにつけ、そうした思いにかられてきたからである。

 さらに、昌益によれば、「乱世」ばかりではなく「治世」もまた、人々の理想とする「自然世」─自然と共生し平和で平等な社会─には程遠い「法世」として概括される。「法世」とは人間の本質に根ざした真の意味での平和で平等な世の中ではなく、権力者によって強制された、歪んだ世の中、人間性に反した世の中「構造的暴力」のことである。したがって「治は乱の本」でしかなく、平和への敵対概念として否定される。武力で平和は生まれない」と。[4]

 以上のような昌益の平和論を元に、先に見た家永による規定を、空爆に代表される無差別殺戮・大量虐殺の現代に置き換えてみれば、以下のようになるだろう。「(洋の東西を問わず、権力者とは違って)古来庶民は平和の民である。庶民は戦争を好まない。出征すれば人間性を顧みることができなくなるし、戦場となれば人間性ばかりか人間存在そのものまでが蹂躙される。庶民の生活と戦争とは両立しえない」と。ここにおいて、憲法九条の精神、先の世界大戦をはじめとした人類史を総括した日本国憲法前文の精神は、安藤昌益の平和論・平和思想、ガルトゥングの「平和学」とそのまま重なり合う。私たちは、ここをこそ基点として平和を、平和憲法を、世界に発信していくべきではないだろうか。

 

(2)横井小楠の世界兄弟論

  江戸時代末期の黒船来航によっての不平等な安政条約を列強に結ばれた時代に、尊皇攘夷思想が大きな影響力をもっていたが、そのような時代的状況の仲で、積極的に貿易をして、公共の道、平和の道によって、世界と兄弟になっていく日本の進むべき道を示したにが、横井小楠であった。

 横井小楠の代表的な著作として、国是三論がある。そこでは、鎖国時代から国際貿易時代の変革の大切として、公共の道を次のようにのべている。

 「鎖国時代と同程度の見識しかもたないままで開港してもよくない。どちらも弊害が大きく政治の安定は望めないのである。天地の気運に乗じ、世界万国の事情に従って「公共の道」をもって天下の政治をおこなえば、いまの心配事を解決し、いっさいの障害は消え去ってしまうだろう」「世界各国の政治を論ずる力量があってはじめて日本国を治めることができ、日本国を統治する力量があってはじめて一藩を治めることができる」。[5]

 公共の道がなければ、貿易を開いて害は、大きく、鎖国の弊も大きい。大切なことは、世界の情勢を正しく認識して、そのうえにたって新しい見識をもって、公共の天理の政治をおこなうことであると横井小楠はのべている。

「財政のことは、鎖国時代にくらべれば大いにやりやすくなった。いまは、民間でどんなにたくさんの産物ができようと困ることはない。これを海外に売りさばけば生産過剰で値段が下がることも滞貨に悩むことはない。だから、民の生活を安定させて生産にはげませ、その産物の販売を管理することによって藩を富まし士を富ませればよいのである」。[6]

 日本の幕府も各藩も収入以上に生活が贅沢になり、財政的状況は厳しくなっていた。財政状況が苦しくなるなかで年貢の取り立ても大変になり、一般の民衆の生活は苦しくなっていった。このような状況で、横井小楠は、積極的に貿易をして、民の生活を安定していくように提唱しているのである。そのためには、産物の販売の管理を藩がやっていくことを提起している。

 日本では、中世以来の名君や良臣に仁政の理念が忘れ去られているとしている。天下の人民の幸福を積極的にやっていくことが名君である。このことについて、横井小楠は次のように述べている。

 「日本では中世以来戦乱が続き、王室は衰微し、諸侯は割拠して相互に攻め合い、一般民衆は塵芥のように見捨てられ、夫役や糧食を過酷にとりたてられきた。仁政の理念は忘れ去られ、戦争の上手なものが名君、謀略の達人が良臣とみなされる時世となってしまったのである。徳川幕府が開かれ兵乱が収まってからも、なおその余風が残って、・・・みな徳川一家の安定繁栄のために智力を尽くし、天下の人民の幸福をかえりみたことはない。・・・・幕府や諸藩で名君良吏と呼ばれる人材も、みな鎖国の偏見をまぬかれず、一身をその君主にささげ徳川家やそれぞれの藩を大事に思うばかりなので、その忠義の度が強ければ強いほど一般民衆の幸福をそこない、民心が離反していく。国が治まらないのは当然である」。[7]

 以上のように、一般民衆の幸福を追い求めてこなかったことが民心が離れていった大きな原因である。鎖国の偏見をなくして、一般民衆の生活を豊かにしていく政治をしていくことの大切さを述べているのである。そして、天下を治めるためには、優れた人材の養成がなければできないとしている。その人材養成について、民衆の幸福のことが理解できる心法が重要である次のように指摘している。

 「天下を治めるには、平時・非常時いずれであっても、優れた人物がいなければ駄目である。そうして、その人物を育てるには文武の道によるしかない。個人も今の人もみな、文武の道が人材を教育するための中心課題であることを知っているのけれでも、今の人は、文武の本来の姿が心法にあるのだということを理解していないので、今の文武で人材を得るのは、たとえてみれば砂を蒸して飯としようと思うようなものである。人材は得がたく、国家は治まらない理由がわかるだろう」。[8]

 安政条約締結によって、欧米列強の圧力によって、激動する社会を迎えている時に、民衆の幸福の心が理解できる人材を得ることができなければ、国は治まらないのである。民衆の心が理解できるということは、武士道にそって世界の大局をみるうえで、しっかりとした道理が必要であるとしている。この道理のために経書史書が大切としている。

 「たとえ天地がひっくりかえっても心は定まっており、士道に従って誤りのない境地に達しなければならない。そのためには、どうしても道理を聖人の経書に求め、また治乱興亡の歴史を語る史書を参考としなければならないのである」。[9]

 横井小楠は、大義を世界にと「格物」とは世界中の物事の理を究めることで、これがすなわち「思」の仕事としている。また、物事を知っているだけではなく、活用できるように合点することが重要であると次のように指摘する。

 「世界の理は幾千万の物事についてそれぞれ異なっており、一つ一つが変化します。だから、物事をただ知っているだけでは、いくら数多く知っていても形を見ているにすぎず、活用することができません。合点するというのは、書物を参考としてその理を会得することです。理を自分のものにしてしまえば、書物はもう粕にすぎません。いったん理を自分のものとしておけば、異なった物事に対した場合にも、すでに獲得している理から類推していって新しい理を活用することができます」。[10]

 世界を相手に貿易していくときに、四海は兄弟であるという平和の理念が大切であり、世界をよく理解していくことが求められている。とくに、世界の紛争を解決できる公共の道をきちんともっておくべきであるとしている。単に世界勢力の争いとの関係でみれば、後で大きな災難にあうということを横井小楠はたしなめているのである。

 「世界に乗り出すには、公共の天理をもって現在の国際紛争を解決してみせるというほどの意気込みをもたなくてはなりません。単に勢力を張るだけでのつもりであれば、必ず後日の災害を招きます」。[11]

 ところで、列強諸国が大きな軍事力をもって日本に開国を迫ってきているなかで、西洋の科学技術、学問をどうみていくかということは重要なことである。このことについて横井小楠は、西洋の学問は、事業の学であり、心徳の学問がないとしている。心徳がないので人情に関することが理解できなとしている。

 これが、戦争の原因をつくっていると横井小楠は強く警戒しているのである。横井小楠は、心德の学、人情を理解できることが戦争を防止していく役割を果たすとしている。戦争をしないで、円満に貿易をしていくにはどうしたらいいのであろう。

 列強諸国の事業学ではなく、人々の心を理解できる人情をもった国際経済をどうつくりあげていくか。戦争しないで平和的関係で世界の経済を作っていくのは、心德の学と事業の学の統一した理念的結合が迫られているというのである。

「西洋の学問は、事業の学であって心德の学ではない。西洋人は上下貴賤・君子小人、誰によらずみな事業の学問をするので、事業はどんどん開けるけれそも、心德の学がないので人情に関することがわからないのである。だから、交易の談判も事実をつめていくだけだから戦争となり、戦争になってもやはり事実をつめていって償金講和というようになる。人情を知っていれば戦争を防ぐ方法があるのだが、そこまでわかっていないのはワシントンただ一人だった。事実の学ばかりで心德の学がないから、西洋列国、戦争の止む日をもてない。心德の学があって人情を知れば、現在では戦争をしないのですむのである」。[12]

 心德の学をもっていた日本であるが、それは、一つの価値観によって体系したものではなく、神道儒教、仏教といように多様な価値観から、それぞれが複合的に結合していることによって、一定の学がないのも特徴である。これは多様性を認め合う寛容の精神があることであり、西洋の事業の学を積極的に導入して、日本の心德の学を結合していけば、世界に戦争をなくしていくことに貢献ができると横井小楠は次のように世界平和の構築について指摘しているのである。

「日本には昔から一定した学問がなく、神道儒教・仏教などといろいろである。現在ではまた西洋の学問技術の成果をとり入れるようになった。いま、30万石以上の大名にその人を得て、西洋の技術をとり入れながら三代の治道を実施し、日本の政治を一新して西洋へ普及すれば、世界に人情に通じて戦争をなくすこともできるのである。この古くて新しい政治は日本でこそ可能だろう。その後の発展が楽しみである」。[13]

 小楠は、世界万国一体・四海兄弟の政治を論ずる力量が日本の国民にあってはじめて、日本の国を治めることができるという問題提起である。このための教育の重要性を指摘している。

 公共の天理、世界万国との一体関係で国民の国を治める力量の見方は、現代の21世紀の激動する世界情勢における日本の政治ということにおいても通ずることである。世界は価値の多様化に伴ってのグローバル化とブロック化が進み、先進国の価値の論理だけでは世界万国がみれない。アメリカを中心とする先進国の論理だけでは、世界経済の金融や株式の信用機構が崩れていき、新たな国際的な金融などの信用機構の創造が求められているのである。