社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

国際機関で平和のために尽力した新渡戸稲造と安達峰一郎

f:id:yoshinobu44:20210213151453j:plain

国際機関で平和のために尽力した新渡戸稲造と安達峰一郎

 

 日本の戦前は軍国主義にむかっていくが、そのなかで体をはって国際平和のために活躍した新渡戸稲造(武士道を書いたことで有名)と国際司法裁判長になった安達峰一郎は特質すべき人物である。

 

 (1)新渡戸稲造と平和活動

  新渡戸稲造は、国際連盟の事務局次長とアメリカと日本の平和の橋渡しをした人物である。新渡戸稲造は武士道を英文で書いた人で国際的に日本人の精神を紹介した学者である。新渡戸稲造の武士道論は戦前の軍国主義を鼓舞したものと異なる。新渡戸稲造とはどんな人であったのか。彼は、世界平和のために尽力した人である。

 新渡戸稲造は英語が得意であった。札幌農学校のクラーク博士に教えられた4人組の一人である。岩崎、内村、宮部は、東京の英語学校以来の親友であるのである。岩崎は鹿児島大学の前身のひとつになった第7高等学校造士館の初代の館長である。岩崎は、キリスト教の洗礼をうけなかった。新渡戸稲造をはじめ、東京英語学校以来の親友の3人は、札幌農学校キリスト教の洗礼をうける。

 そして、新渡戸稲造は、1901年に、アメリカ人のクリスチャンのメアリー・エルキントンと国際結婚をする。  アメリカ滞在中に 武士道を英語で書いて出版した。アメリカと日本の関係悪化のときに、日本政府から正式に派遣された人物である。1919年から日本政府代表として、国際連盟の仕事に7年間就くという国際的立場から平和に尽力した日本人でもある。しかし、1933年2月に日本は国際連盟を脱退することによって、彼の国際的な平和活動の舞台はなくなっていく。

 新渡戸は1920年国際連盟の結成のときに事務局次長として活躍したほどの人物である。かれは、太平洋問題理事長として渡米して、アメリカの各地で講演し、両国の親善に尽くしたのである。しかし、日本政府は国際連盟の脱退により、国際的に孤立をするなかで、新渡戸稲造は体調がすぐれないなかで、国際連盟脱退の年8月に、カナダで平和の望みを捨てず日本側代表として演説する。1ケ月後病に倒れてカナダのビクトリアで死亡(71歳)する。

 生涯、教育者、研究者、社会運動家として、新渡戸稲造は活躍したのである。札幌農学校、第1高等学校、東京大学京都大学で教授、校長として教育にあたる。札幌農学校では、学校教育を受けられない青年を対象に勤労者の夜間学校をつくる。

 札幌の豊平の貧困地帯につくった夜学校は、日本の勤労者教育としての大きな足跡を残した。さらに、東京女子大学の初代の学長として、女子教育にも尽力する。郷里の岩手では、産業組合の指導を引き受ける。また、加川豊彦とともに、医療協同組合運動を若い医師とともにつくる。かれは、多方面で活躍したのである。晩年に、日本を滅ぼすのは軍閥ということで、軍国主義に警戒したのであった。

 新渡戸稲造は、国際連盟にたいして国際平和を守る重要な機関として認識していた。「国際連盟の業績」という報告では、国際連盟の規約は、平和条約の一部になるということであった。「連盟規約は平和条約の一部である。他の国際機関と協力して、戦争状態の処理の最高権威。国際協力及び国際平和と安全の達成の方法を討議する機関」。[1]

 そして、新渡戸稲造は、国際連盟運動について「日本帰国報告」で政府高官等の日本のリーダー層よりも青年層が国際連盟に関心を高くもっていることを次のように述べている。「教育ある青年層に限られているが熱心に連盟の関心が高い。政府高官、議会、大企業界、学界では熱意が欠けている。功利的動機ではなく、名誉の感覚だけが、国際連盟の多額な費用を出している。連盟の日本に対する実際的効用は疑問をもっている。日本の代表者の疑い、冷淡な理由は次のとおりである。

 1,独立の主権を介入しないか。2,ほんとうに戦争を避けることができるのか。3,人間は本能的な喧嘩がやめられるのか。4,連盟は民主的組織を有しているのか。5,連盟は密かにユダヤ人を配置しているはほんとうか。6,平和手段を訴えるのは、戦争準備を隠す口実ではないか。7,連盟は大国の利己目的の道具ではないか。8,連盟はヨーロッパにとって好都合な組織であって、アジア、とりわけ日本にとってどんな利益をもたらすのか。世界協力の一般精神ー国際心をどのようにつくりだしていくか。連盟における日本の地位と責任を明らかにすること」。[2]

 日本のリーダー層は、名誉の感覚だけで国際連盟に多額の費用を出しているので、平和を実現していく功利的な側面からみていないと。冷淡な理由は、国際連盟は、ほんとうに戦争を避けることができるのかということであるとみている。そして、国際連盟は、ヨーロッパの大国を中心にして、アジア、とくに日本にとって利益をもたらすのかという懐疑心をもっているとみている。これが新渡戸稲造の日本リーダー層に対する見方である。新渡戸稲造は、国際連盟において、日本の地位と責任を明確にするうえで、世界に協力していく国際精神の養成が大切である考えている。

 「国際連盟ー世界平和への夢と挫折」を著書を書いた篠原初江は、新渡戸稲造国際連盟の活動業績に知的な平和のための国際交流を積極的に推進したことをあげている。それが、できたのも帝国大学教授として国際的な視野をもっていた新渡戸の人望、人格の優れたことであると次のように記している。

 「新渡戸は「真お国際人」として、国際連盟内部でも、ヨーロッパの一般こくみんからも人望が厚かった。創成期の国際連盟という大事な時期に「ジュネーブ精神」を培う精神的風土を育てる役割を果たしたといえる。ヨーロッパ各地で新渡戸の人格が優れていることが知れ渡ったが、日本にとっては、日本人や日本の評判をあげた重要な人物であり、新渡戸も自分が日本を代表する任務を背負っていることを理解していた」

 「新渡戸の国際連盟の業績は、知的協力国際委員会を立ち上げ、それを活性化させたことである」。知的協力委員会は、知識人の意見交換や学生の国際交流を促進したものである。新渡戸は、会議の参加に科学者のキューリー夫人などに熱心に勧誘したのであった。そして、国際連盟の理念や活動についてヨーロッパ各地で講演していくのである。日本に一時帰国したときも精力的に国際連盟の役割について講演し、ジュネーブに帰って国際連盟の事務総長に日本の状況を次のように報告している。「日本の教育を受けた若者には、国際連盟の理念は広がったが、大きな障害は、軍部と保守的な教育者」であるとしている。[3]

 新渡戸稲造は、国際連盟事務局次長の後に、太平洋問題調査委員会日本代表に就任した。新渡戸稲造は、太平洋国際連盟という地域共同体の国家連合を考えたことである。このことについて「平和の絆ー新渡戸稲造賀川豊彦、そして中国」を書いた布川弘は、世界的規模の国家連合体を重視しながらも地域共同体の国家連合を考えたことであり、現代のヨーロッパ共同体のようなことを構想していたとする。

 それは、汎太平洋国際連盟の構想である。汎太平洋国際連盟は、民間団体であるが、アメリカ政府とハワイの名士の補助をうけているという政府組織の位置づけである。そして、自由闊達に議論できるように円卓会議方式の太平洋問題調査会と二つの団体の必要性を新渡戸は考えていたのである。

 これは、第一次大戦を契機に日本の勢力が著しくなるなかで、紛争や戦争につながりかねない国家間の問題をより実際的で役にたつ恒常的な組織の必要性を認識していたと新渡戸の平和構築構想を布川弘は評価する。[4]

 1927年、1928年に二度にわたる中国山東出兵の問題で、19286年6月の日本宗教者大会は加川豊彦の新渡戸稲造も中心的な役割を果たし、日本の中国への武力干渉が重要なテーマになった。この大会は昭和天皇の即位記念として開催されたものである。

 この会議は、世界宗教者会議の影響のもとに開かれ、3月から4月にエルサレムでの会議では、キリスト教は他の宗教に対してその中にある美点を歓迎し、他の宗教の真理は天啓真理の一部であることが決議されている。他の宗教を異教として蔑むようなことはしなというとりきめをしたと布川弘は解説している。

 新渡戸稲造は日本宗教大会の平和部会長として、「山東出兵の名目を承認しつつ、出兵が行われた後で平和を論じる意味を高い見地から、しかも押しつけがましい形で提起していると布川弘は解釈する。

 日本宗教大会では、山東出兵反対の急先鋒であった賀川豊彦の「産業の人道化」という演説が第一日にあった。この演説に怒りをもった扶桑教の堤は、新渡戸の演説内容は、宗教者を侮辱するものであると糾弾の狼煙があがったのである。

 この侮辱に対して、主催者側はいかに責任をとるのかという内容が提出された。日本宗教者大会は山東出兵の明確な意見表明はなかった。軍縮会議の取り決めや、国際連盟加盟促進の決議がされたが、中国クリスチャンとの連帯の証となる出兵反対の意思表明は難事であったのである。

 1929年に太平洋問題調査会が京都で開催されたが、この会議は新渡戸稲造がリーダーシップをとって開いたものである。太平洋問題調査会の総会は第1回、第2回は発祥地のホノルルで開催されたが、京都会議のメンバーの招待は、日本のグループであった。円卓会議では、パリ条約の責務とはなにか、国家政策の手段としての戦争とはなにか、パリ条約の拘束力とはなにか、現在許されている解決手段の意味での平和的な手段とはなにかなどを議論のテーマとした。

 イギリス代表のトインビーは、満州をめぐる問題が関係する団体以外に関わり、それらの一般的利害の問題と感じているので、その討議を熱望しているという発言であった。日本の鶴見祐輔は、中国と日本は正式に参加しているが、今回は、ロシアはオブザーバーであり、満州に直接利害関係をもつ国々が正式メンバーとして会議に参加していないのでとりあげるべきではないと発言している。

 中国からの満州問題の熱心な問題提起の会議であったが、日本側の反論の演説も外交官松岡洋右によってあった。相対立する溝は深く、どこかで内容的に合意する余地はなかったが、永久委員会を日中と第三国の代表も含めて参加するということで合意したのである。

 京都会議は、日中双方のナショナリズム高揚のなかで開催され、とりわけ日本委員会は、地元開催ということもあり、ナショナリズムの制約を大きく受けざるを得なかった。新渡戸稲造の平和秩序につながるような重要な合意点を見いだすことができなかった。

 以上は、布川弘の国際平和運動における新渡戸稲造賀川豊彦の役割の実証的な研究成果から得た知見を国際平和と有徳という視点から新渡戸稲造に絞ってまとめたものである。[5]

 新渡戸稲造の平和思想を考えていくうえで、彼の「武士道」論を考えてみることも欠かせない。新渡戸稲造の考える武士道は日本の象徴であり、日本土壌の固有の華であるとする。封建制度の所産である武士道に光を新渡戸稲造はあてているが、武士道は、その母なる日本の封建制度よりも長く生きのびてきたとする。

 新渡戸稲造の武士道論は、人倫の道のありようを日本の歴史のなかで照らすのであったと考える。つまり、日本における壮大な倫理体系のかなめの石になったのである。日本の仏教や神道が武士道にあたえたものは大きい。禅の絶対の認識しえたものは誰でも世俗的な事柄から自己を脱落させ、天と地を自覚させるのである。神道の忠誠は、先祖への崇拝、孝心、忍耐心である。

 日本には、西洋のキリスト教での原罪という教義の入り込む余地はない。人間魂の生来の善性と清浄性を信じている。それは、日本的な精神構造の特徴である。武士道の源泉は孔子の教えにあり、武士道は知識のための知識を軽視する。まさに、江戸幕府は、朱子学的な理性の自己展開で社会的秩序を求めたが、武士の本質的な精神構造は、知行合一思想であり、朱子学が隆盛を誇った江戸時代為政者の官学のなかでも陽明学儒学が脈々と地下水のごとく流れていったのである。

 ところで、「義」は、武士道の輝く最高の支柱であると新渡戸稲造は見る。正義の道理は絶対的な命令である。勇 は義によって発動することを見落としてはならない。それは、平静さに裏打ちされた勇気である。民を治める者の必要条件は仁にある。まさに、専制政治から救われるのは仁のおかげであることを重視しなければならない。

 新渡戸稲造は日本の武士道にある仁の精神を強調する。人民の意向に君子の意志を一致させることが名君の掟である。武士の情けに内在する根本は、仁のこころである。サムライの慈悲は盲目的な衝動ではなく、正義にたいするものである。仁のこころをもっているものは、苦しんでいる人、落胆している人のこころを励ますものである。いつでも失わない他者への憐れみのこころがサムライである。

 仁の精神と密接にかかわっている心に礼があると新渡戸稲造は指摘する。礼とは他人に対する思いやりを表現することである。礼はその最高の姿として、ほとんど愛に近づくのである。礼を守るための道徳的な訓練は、なにか。礼儀は慈愛と謙遜と動機から生じる。他人に対するやさしい気持ちをもつことの行為が礼である。礼の必要条件とは泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶのである。

 真のサムライは誠に高い敬意を払う。なぜ武士に二言はないのか。二枚舌のために死をもって償うのである。嘘をつくことは最も無礼である。不名誉はその人を大きく育てる。名誉とは、苦痛と試練に耐えるためにある。名誉はこの世で最高の善でもあることを忘れてはならない。

 武士道は個人よりも国を重んじる。忠義とは、人は何のために死ねるか。武士道は良心を主君や国王の奴隷として売り渡せと命じなかった。無節操なへつらいを嫌う。自己の言説の誠を示し、主君の叡智と良心に対して最後の訴えをするのもサムライのこころである。  武士は何を学び、どう己を磨いたか。武士道は損得勘定をとらない。贅沢は人格に影響を及ぼす最大の脅威である。質素の生活が武士階級に要求されたのである。武士道は無報酬の実践のみを信じる。

 精神的な価値にかかわる仕事は、金銀で支払うものではない。それは、価値がはかれないほど貴重なものである。武士道の本性は、計算できない名誉を重んずる特質をもつ。不平不満を並べ立てない不屈の勇気の訓練も必要である。禁欲主義的な気風は武士道にとって大切な精神であることを決して忘れてはならない。

 主君押込の慣行として、藩主に悪行、暴政があるときには、藩主を家臣団の手によって監禁し、改心のための猶予期間を与え、それが困難なときに、隠居させるという慣行があった。この慣行から、主君による上意下達が絶対的ではないのである。主君が正義に反することを行えば、家臣は、勇気をもってそれを戒めるのが重要な社会的責任である。

 f:id:yoshinobu44:20210213151648j:plain

(2) 安達峰一郎による国際法による平和の確立

  安達 峰一郎は、明治から昭和に掛けて活躍した日本の外交官である。アジア系として初の常設国際司法裁判所の裁判官、所長となる。所長就任早々、日本が満州事変を起こし国際連盟の脱退へと向かった。所長3年の任期を終え、昭和9年1月から平判事になったが、8月に重い心臓病を発症し、12月28日にアムステルダムの病院で死去した。

  安達峰一郎は、国家間の紛争を戦争ではなく国際法によって解決する組織作りに生涯を捧げた。第1次世界大戦は、未曽有の戦争惨禍を経験した。その反省に立って、人類は初めて非戦の制度化・世界平和の組織化の道を歩み出した。 

 彼は、世界平和に尽力した国際機関で活躍した外交官であった。安達峰一郎の目指した世界平和は、日本国憲法の前文の平和的共存権と第9条などにつながっている。彼と同時期に外務大臣として国際協調路線をとって活躍した幣原喜重郎は、軍部の軍拡自主路線と対立した。いわゆる幣原外交であった。1930年にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年に満洲を日本が任命する政権の下において統治させるという軍部の提案を幣原外相は拒否した。

 その後、関東軍の独走で勃発した。幣原は、満州事変の収拾に失敗し、政界を退った。幣原は、パリ不戦条約を熟知しており、戦争放棄の平和主義が、念願であった。戦後敗戦によって、日本をどう再建していくかというときに、幣原喜重郎は、新しい憲法づくりの時代に首相になった。幣原は、戦争放棄という平和主義の憲法九条提案をマッカーサーに提案したのである。

 憲法調査会松本憲法案は保守的な内容でGHQから否定される。憲法九条の平和主義は、もともと日本の幣原首相によるマッカーサーへの提案によってできあがったものである。

 民間人の憲法研究会の憲法草案もGHQに大きな影響を与えた。1945年10月に、高野岩三郎の提案により、事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当した。

12月26日に「憲法草案要綱」として、同会から内閣へ届け、記者団に発表した。また、GHQには英語の話せる杉森が持参した。この要綱には、GHQが強い関心を示しのである。

 山形大学教授の澤田裕治は、世界の良心、安達峰一郎のホームページで安達峰一郎の現代的な研究の意義を次のように強調ししている。

 「徳川幕府崩壊後の日本は、3つの転換期を経験しました。第1の転換期は、去る明治維新期(封建制⇒資本制、近代国家)、第2の転換期は敗戦後(君主主権国家軍国主義国民主権国家、平和主義)、そして第3の転換期は現代(主権国家主権国家体制の動揺、国境の横断的多次元化)であります。現代は高度成長が終わりを告げ、情報化、高齢化、グローバル化が進行する21世紀の始まりに直面しております。

 このような歴史的変革の時を迎えている今、政治・経済・文化など様々な領域で従来の諸制度が見直しを迫られています。この時にあたり、日本は、かつて歩んだ絶望的な破局の道をたどる過ちを繰り返すべきではありません。安達峰一郎の思想のもつ意義を深く学びとる必要があるでしょう。

 安達峰一郎研究によって、地域と自治、人権と国家などの関係を捉えなおし、こうした問題にも迫ることが可能となるし、安達峰一郎の人間としての生き方にも、強い関心が湧いてきています。それは今まさに安達のような人物が求められているからに他なりません。

 その理由は次のとおりです。

 ① 安達峰一郎は、国家間の紛争を戦争でなく、国際法によって解決する組織作りに生涯を捧げたこと。その業績のもつ普遍的な意義、つまり非戦の制度化、世界平和の組織化の重要性がますます認識されるようになっています。

 ② 安達峰一郎は、少数民族、弱者へのまなざしに留意し、人間の理性を信頼し、自らその設立に立ち会った常設国際司法裁判所(非戦思想の制度化、世界平和の組織化)の歴史的意義に対する揺るぎない確信を持ち、過酷な激務に耐えました。

 ③ 安達峰一郎は、常設国際司法裁判所を崇敬し、1931年の彼の開廷演説で、それを『「法に基づく平和の概念の生ける具体化」と呼び、「人は変わってもその概念は生き続け、その制度は存続する。」と付け加えました。

 ④ 安達峰一郎の遺産は、国際連合国際司法裁判所として、今なお受け継がれていること。さらに重要なことは、安達峰一郎の平和の精神が、日本国憲法の平和主義として結実しています。今そこ、安達峰一郎の平和の精神とその志を受けついで行く必要があるとのではないでしょうか」。

 「安達峰一郎博士の正義と公平に基づく識見はどの国からも厚い信頼と尊敬を得たそうです。ジュネーブの「国際紛争平和的処理議定書」で、日本だけが反対の立場に立ったとき、各国代表に対して説明している博士の様子を見て、当時の国際連盟事務次長の新渡戸稲造博士は「安達の舌は国宝だ」と、そのフランス語の説得力を誉め讃えた。

 博士の約40にわたる国際社会での功績に対して、12カ国から第1級の勲章が感謝を持って贈られ、中には勲章制度を新たに創り、その第1号を博士に贈った国までもあった。1930(昭和5)年、オランダ国ハーグ市にある「世界の良心の府」といわれる常設国際司法裁判所裁判官に立候補した博士は、圧倒的な最高点で当選しました」。[6]

 「安達は、ポーランドエストニアラトビアフィンランドが組織した国際紛争仲裁のための常設委員会の委員長になるなど、マイノリティを保護し、ドイツとポーランドの間で繰り返される紛争を平和的に解決し、諸国がそのたえざる警戒と疑惑を脇に置くことができるように、諸国の安全のための合意を考えだす国際連盟が果たすべき役割に深く関わっていた」。
 安達峰一郎は、第10回日本国際連盟通常総会昭和5年5月16日に講演しているが、そこでは国際連盟の役割を正義と公平な態度でのぞめば国際平和に貢献できることをつぎのように述べている。

 「如何に難しい事件でも、頼まれれば之を引き受け、正義の観念を本として、終始、公平な態度を執って、事件そのもを深く、また細かく研究して明白なる結論に達し、之を行うに当たっては決して躊躇しなければ、必ず敗北国にも承認せらるるに違いないと信じて居ります。何卒、私がこの一二年間の経験によって深く信じるに至った真理を貴方がたの真理とせられ、是を是とし、非を非として、公平に、如何なる難問題でも是を引き受け、是を裁き、そうして国際連盟の発達に務め、世界の平和に貢献せらるるように願います」。[7]

 安達峰三郎の国際連盟協会東京帝大支部における1930年の講演については、国際知識1930年6号に掲載されたことを篠原初江が著書「国際連盟ー世界平和への夢と挫折」で引用して、次のように評価している。

 「この講演で、安達は国際関係が国家と国家の関係から国家組織へ向かう時代へと変化しており、その意味では国際連盟は時代の発達に適合したものだと繰り返し述べている。安達の分析によれば、大一次世界大戦後の国際関係は「団体で連盟的であり、そのような時代には「戦争と云うものは決して将来世の中のなくなります」と明確に戦争の必要性を否定する。したがって、安達は不戦条約についても積極的に評価し、不戦条約は空文であるという批判に対し、「不戦条約はやはり活動性を以て居りまして各国の行動を支配する異常な力を持って居ります」と述べていると安達の平和を構築していく考えを積極的に評価しているのである。

 そして、「国際協調と愛国心が矛盾することなく、「愛国心国際連盟の寧ろ必要ななる」点と説く。やむえない場合には、「団体的特義心を持つというのが国際連盟の本旨」であると。統合統治篠原初江「国際連盟ー世界平和への夢と挫折」中央公論社

 国際連盟は、国際平和のための国家を超えての共同体的側面をもっているのであり、永遠平和のための世界連邦的な政府の役割をもっているのである。それが、パリ不戦条約によって、より現実的に平和のための国際的な共同体が前進したということである。

 安達は日本に一時帰国したときに、平和のための国際的な共同体の構築としての国際連盟と武力によらず、国際法によって紛争を解決する国際司法裁判所志望裁判所の役割について講演を行っている。

 貴族院では、「国際連盟の現状と来期常設国際司法裁判所判事総選挙」について昭和5年5月17日に講演をしている。そこでの平和解決の重要性として、国際連盟国際司法裁判所の役割を次のように強調している。

 「世界の大問題は、その外形上の如何にに拘わらず、その実は皆、国際連盟に集中しておるという事実であります。ご存知の通り、国際連盟の目的は、正義に基づく平和を世界に確立して、して、軍縮の大事業を完成することにあります。今日、国際連盟において、軍縮の大事業は未だ完成するには至っておりませんが、その緒についてから4年に。その方法にを示した所、極めて有効でありまして」。[8]

 国際連盟は、平和の目的のために各国の軍縮の大事業をどう進めていくのかという課題をもっている。このためにも紛争解決に武力によらないで、双方の意見を聞き、独自に調査して、理事会に報告して問題を処理していくという方法があるとしている。この際に、理事会に提出される報告書は大きな意味をもっていると安達峰一郎は次のように指摘する。

 「ヨーロッパの治乱に関する大問題であっても、その紛争解決に当たっては、報告者が、その問題に関する種類を調べ、当事者双方を呼び、その申し条を聞たり、証人を呼んで実状を把握した上で報告書を作成し、理事会に報告するのであります。ここでいう報告書とは連盟に報告書を提出する人をいいますが、その責任は頗る重大であります。若し、この報告者が、正義の観念を強く持ち、飽くまでも公平なる態度で、しかも双方に深い同情の心をもって、事件の微細に亘る点まで良く研究し、良心の命ずる所によって判断すれば、その結果は、その当事者でなくても、近い将来において、必ず認められるに至るということであります」。[9]

 報告書を作成する人々は紛争事件の詳細を調べていくためには、公平と正義の良心をもつことが極めて大切であるとしている。この公平と正義の良心は、国際司法裁判所も、国際連盟の関係者に強く求められる国際関係における倫理である。また、不戦条約の精神によって、戦争によって紛争問題を対処するのではなく、国際的な正義と公平の良心にる話し合いが求められていくのである。この話し合いの仲裁の役割も国際連盟国際司法裁判所に求められていくのである。安達は、このことの重要性を次のように指摘する。

 「不戦条約実施の結果、国際紛争事件は、その性質の如何に拘わらず、何れも、これを戦争という手段によって処理するのではなく、全て裁判、もしくは仲裁に付すということになりました。その結果、この裁判所において自国民の判事を持っているということは、一人その国の権威、若しくは名誉にかかわるのみならず、時として自国関係の事件が裁判に付された場合、利害得失の関係がありますから、多数の国は、この条約の規定に従って、各々候補者を定めまして、その後者の当選を熱心に画策し、目下運動を展開中なのであります」。[10]

  安達峰一郎、大国のエゴに挑戦した男である。1934年12月28日に逝去されたが、オランダは1月3日に常設国際司法裁判所裁判長の業績をたたえて、平和宮において国葬として盛大に訣別の式を行った。

 安達峰一郎について、常設国際裁判所書記のオーケハマーショルドは、1936年に思い出の文書のなかで、東洋の魂、東洋文明の遺産である洗練された礼儀正しさをみることができると書いている。「「安達所長が活動するように運命づけられていた西欧社会に、完全に適応していたその外貌の下に宿っている東洋の魂を見ることができた。だから彼の信任を得たからといって、北欧人として日本の伝統と美徳の精髄である彼の人格を真に理解したと主張するのは全く大胆なことに見えるだろう」「安達所長特有の態度はすべてまた、古い東洋文明の遺産であるあの洗練された礼儀正しさに満ち満ちていたのである。西欧人のうちその秘密やその理由を発見したものは極めて少数であり、それをなお探求する者たちはその圧倒的な円満さを感じ、時にはそれを恨みさえするのである」。[11]

 安達峰一郎はパリ不戦条約に参与として、日本政府を説得したのであった。このパリ不戦条約の精神は戦後日本国憲法の戦争の放棄という平和主義に継承されていくのである。パリ不戦条約の内容は下記の通りである。

「人類の福祉を増進すべきその厳粛な責務を深く感銘し、その人民の間に現存する平和及び友好の関係を永久にするため、国家の政策の手段としての戦争を率直に放棄すべき時が到来したことを確信し、その相互関係における一切の変更は、平和的手段によってのみ求めるべきであること、又平和的で秩序ある手続きの結果であるべきこと、及び今後戦争に訴えて国家の利益を増進しようとする署名国は、本条約の供与する利益を拒否されるべきものであることを確信し、その範例に促され、世界の他の一切の国がこの人道的努力に参加し、かつ、本条約の実施後速やかに加入することによって、その人民が本条約の規定する恩沢に浴し、これによって国家の政策の手段としての戦争の共同放棄に世界の文明諸国を結合することを希望し、ここに条約を締結することにし、このために、左のようにその全権委員を任命した。

宣言(昭和4年6月27日」

「 第一条  締約国は、国際紛争解決のため、戦争に訴えないこととし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。

第二条  締約国は、相互間に起こる一切の紛争又は紛議は、その性質又は起因のがどのようなものであっても、平和的手段以外にその処理又は解決を求めないことを約束する。 第三条

1本条約は、前文に掲げられた締約国により、各自の憲法上の用件に従って批准され、かつ、各国の批准書が全てワシントンおいて寄託せられた後、直ちに締約国間に実施される。

2 本条約は、前項の定めにより実施されるときは、世界の他一切国の加入のため、必要な間開き置かれる。一国の加入を証明する各文書はワシントンに寄託され、本条約は、右の寄託の時より直ちに当該加入国と本条約の他の当事国との間に実施される。

3  アメリカ合衆国政府は、前文に掲げられた各国政府、及び実施後本条約に加入する各国政府に対し、本条約及び一切の批准書又は加入書の認証謄本を交付する義務を有する。アメリカ合衆国政府は、各批准書又は加入書が同国政府に寄託されたときは、直ちに右の諸国政府に電報によって通告する義務を有する。

 右の証拠として、各全権委員は、フランス語及び英語によって作成され、両本文共に同等の効力を有する本条約に署名調印した。1928年8月28日、パリにおいて作成する」。

 日本の帝国政府は、1928年2月27日パリにおいて署名される、戦争抛棄に関する条約第一条中の「其の各自の人民の名に於いて」という字句は、帝国憲法の条文により、日本国に限り適用されないものと了解することを宣言する。

 1928年(昭和3年)8月27日にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名した。その後、ソビエト連邦など63か国が署名する。フランスのパリで締結されたためにパリ条約(協定)、また、パリ不戦条約と呼ぶ。最初はフランスとアメリカの協議から始まった。そして、多国間協議に広がった。戦争の拡大を防ぐために締結されたが、欧米列強の植民地を守るために作った国際法の役割を果たした。

 不戦条約は、期限が明記されていない。このため、現代のでも国際法として有効である。しかし、加盟国の多くが自衛権を留保しており、また違反に対する制裁もないため、その実効性は乏しい。その後の国際法における戦争の違法化、国際紛争の平和的処理の流れに大きな意味を持った。

 条約批准に、アメリカは、自衛戦争は禁止されていないとの解釈であった。イギリスとアメリカは、国境の外であっても、自国の利益にかかわるので軍事力を行使しても、それは侵略ではないとの見方であった。アメリカは、勢力圏になる中南米に、この条約は適用されないとした。世界に植民地をもつイギリスは、国益にかかわる地域がどこなのか明らかにしなかった。

 不戦条約は、期限が明記されていない。このため、現代のでも国際法として有効である。しかし、加盟国の多くが自衛権を留保しており、また違反に対する制裁もないため、その実効性は乏しい。その後の国際法における戦争の違法化、国際紛争の平和的処理の流れに大きな意味を持った。

 パリ不戦条約は、先進国のアメリカ、イギリス、フランスと日本、ドイツ、イタリアなどの列強諸国が結び、さらに、ソビエトをはじめ63ヶ国が署名して、パリ不戦条約として戦争放棄を世界に宣言したものであったが、現実の歴史は、第2次世界大戦になったのである。

 日本の憲法9条は、このパリ不戦条約の延長として、日本の敗戦をよって生まれたものである。日本は自らパリ不戦条約を軍部の力で破り、国際連盟を脱退して戦争の道に突き進んだのである。この過去の重い歴史を背負いながらの憲法9条であることを決して忘れてはならないのである。

 

[1] 国際連盟の業績と現状ー新渡戸稲造全集19巻

[2] 「日本における国際連盟運動ー日本帰国報告ー」新渡戸稲造全集21巻より

[3]篠原初江「国際連盟ー世界平和への夢と挫折」中央公論社参照、

[4] 布川弘「平和の絆ー新渡戸稲造賀川豊彦、そして中国」丸善、65頁

[5] 前掲書、77頁~92頁参照

[6] 世界の平和を求めた安達峰一郎のホームページ・まめ知識 Part・2、安達峰一郎と世界平和への道(執筆:澤田裕治/編集:安達尚宏)http://www.adachi-mineichiro.jp/

[7]安達峰一郎博士顕彰会編「国際法にもとづく平和と正義を求めた安達峰一郎」安達峰一郎博士顕彰会発行、169頁

[8] 前掲書、178頁~179頁

[9]前掲書、182頁

[10]前掲書、188頁

[11]前掲書、225頁~226