社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

知足と利他により新しい自然共生経済

 知足と利他により新しい自然共生経済
 
 シュウマッハの仏教経済学ースモールイズ・ビュートフルー

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 人間は高度な科学・技術をもった。それは、当面の富を得ることに集中した。人間のもつ我欲は、効率性と大量生産を追い求めて、自然破壊をしてきた。人間の知性は自然に対して傲慢になって欲望を拡大してきたのである。現代は、地球規模の自然破壊が進み、自らの欲望をコントロールする術を身につけなければ、自ら滅亡する道に走っていく運命にある。足を知るという仏教経済の在り方が注目される時代になっている。


 人間中心の経済学の構築を提示したシュウーマッハーは、仏教の八正道の思想による経済のあり方を強調した。仏教の八正道とは、正見(正しい見解)、正思惟(正しい考え方)、正語(正しい言葉)正業(正しい行動)正命(正しい仕事)正精進(正しい努力)正念(正しい気づき)正定(正しい精神統一)ということで、煩悩からの真の悟りの修行を8つあげている。


 シューマッハーは、八正道から学び、伝統主義と近代的成長とをとるということではなく、正しい生活を見出して、仏教的に相互に対立する苦と楽に極端に走らない中道の道を探求した。
 開発の地方分権的手法で、土着の在来技術を高度な先進技術の知識を加味して改良し、発展途上国でもできる少ない資金でできる労働集約的な中間技術を積極的に提唱したのである。
 これらの経験から、物質文明の反省による仏教経済学を提唱したのである。仏教経済にとって、仕事の役割は、人間の能力を発揮することであり、人間的な生きる喜びを与えるものである。仕事がないことは、単に収入がないことではなく、絶望に陥ることであり、人間を豊かにしていく活力が失われていく原因になったとする。


 シューマッハーの考える仕事の役割は、最も人間的な楽しさであり、生きがいをだしていくんものであるとする。仕事が無意味に感じて退屈に思うことは、犯罪スレスレであり、慈悲心を欠くことであるとする。また、余暇については、仕事と余暇は相補っているものと理解している。 
 仏教経済学は決して冨を否定するものではない。楽しいことを享受することを妨げるものでは決してない。仏教徒はわずかな生活手段で十分な生活の満足を得ることができるとシューマッハーはみる。これが、知足という仏教経済学である。その考えは、決して冨を否定するものではない。冨への執着が問題なのである。絶えざる欲望の肥大によって、自然循環を略奪して、人々への争い、戦争の原因を造り出し、競争と格差により人間としての本質である絆から人間を孤立化させ、不安に陥れていく経済が問題なのである。

 仏教経済学の消費的な満足は、知足なのである。消費は、人間が生存していくうえでの手段であって、決して目的でもなく、目標でもないのである。
 
 知足と自然循環性

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 人間が生きていくうえでの適正規模の消費によって充分な満足と幸福感をもつことである。これは、自然と向き合いながら、自然を循環させ、人々の共生と絆を築いていくことである。仏教経済学は、人々が暮らしている場に自然の循環を求めて、地域の資源を有効に使って知足の消費を工夫していくのである。地域資源を有効に使う経済生活が最も知足の仏教経済にとって大切な課題であるとする。
 とくに、生きていくうえで、日々必要とされる食糧やエネルギーが地域資源を工夫して得ていくことが求められている。知足と共に人々が暮らしている地域での経済は、仏教経済学にとって大切な課題であるのである。


 日々の暮らしの身近にある自然からの恵みを得ていくためには、その地域の自然循環の構築が基本になっていくが、現代の都市生活の集中と、都市と農村の生活及び自然循環の格差は、日常的な暮らしからの資源の活用が困難になっている。さらに、グローバル化の市場価格競争によって、日々の生活素材を得ることが地域から大きく離れ、益々遠方になっている。
 この状況のなかで、人類はまさに、知足の仏教的経済に焦点をあてる時代にきている。そこでは、自然循環の再生を長期的な展望をもって、新たな科学・技術の創造を発展させながら構築していくことが求められているというのである。


 太陽の恵みは、誰でも、どこでも得れる自然循環からの恵みである。自然循環的なまことの経済開発とは、何か。このことが鋭く問われている。シュウーマッハは、地域の暮らしに根ざした自然循環の経済を木を一本一本植えることから始めることの必要性を強調する。

 そこでは、地域の必要に応じ、地域でとれる資源を使って生産を行うのが、もっとも合理的な経済生活ということになる。遠い外国からの輸入に頼り、その結果、見知らぬ遠い国の人たちに輸出品を送りこむために生産を行うことは、例外的で、きわめて不経済なことである。


 木を植えることが大切である。このことを万人が認識し、それを義務として実行するならば、本当の高度な経済開発ができる。薪や水力のような再生可能なエネルギーの大切さを仏教経済学の方法として強調するのである。

 

 教育による生き方形成と学問の倫理観

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 教育の役割は、いかに生きるべきか、考える道具としての生き方の精神が極めて大切なである。 教育の向上は、それによって英知が増すときに限って役に立つ。教育の核心は価値の伝達にある。人の思考と感情につねについてまわり、世の中を眺め、解釈し、体験する上での手段・道具である。 
 専門化それ自体は、教育の方法として誤りではない。専門化意外にもっとも大切な科学を教える前提であるところの人間の思想という全体像と、科学との関係が欠落していて、科学法則が人間が生きていくうえでの意味や意義が忘れられてるというのである。


 あらゆる学問分野はどんなに専門化しても、倫理的な問題と結びつく。。科学を教える前提に全人的な人間観が重要である。全人的な教育は、こまかな事実や理論ではなく、人生の意味や目的の根本的な確信をもたせていくものである。シューマッハーにとっての学問を学ぶ中心の意味は、人生への内面的な確信であり、それは、善なるものへの精進である。


  科学・技術の進歩の発展方向については、暴力ではなく非暴力、自然界を敵にまわすのではなく友とする協力関係、騒がしくエネルギーを多く使い、残忍で無駄なゴタゴタした科学・技術ではなくて、静かでエネルギーの消費が少なく、すっきりした、経済的でもある方法(これこそが自然界の方法である)を目指すべきである。

 

貪欲の経済から自然循環の未来経済へ

 

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  安原和夫は、「足るを知る経済」の著書で、仏教思想で創る21世紀と日本の未来の構築を述べている。それは、貪欲の経済学から地球環境時代にふさわしい仏教の智慧の小欲知足の持続可能な発展の、経済学の構築であるとしている。

 新しい時代の課題に対する現代経済学は、4つのキーワードを安原和夫はあげている。1,環境、経済成長じだいから地球環境時代の歴史的転換期の経済学、地球環境の保全と創造こそ最優先課題であり、それにどう対応するのか。2,21世紀に持続できる新しい真の豊かさとは何かという経済学。3,一人ひとりの生きがいのある生き方をどこに求めるのかという経済学。4,非暴力すなわち平和が確保される。

 以上の4つの条件を追求する上での基本条件である。戦争、殺戮、人権無視・抑圧・差別、貧困、資源・エネルギーの強奪・浪費などの暴力がこの地球から、そして社会からなくなる状態という広い意味での非暴力と平和をどう確立していくか。安原和夫「足るを知る経済」毎日新聞社
 仏教思想と経済思想の接点は、「一切衆生悉有仏生、草木国土悉皆成仏」という仏教の「不殺生」を生かすことと、「財物は亡び易し、ただ三宝の法は絶えず」という聖徳太子の教え、「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」という道元のことばにあり、そして、般若心教の「色即是空、空即是色」にあるとしている。これらの仏教思想から経済思想の融合として5点を知足の経済学として安原和夫は、次のように問題提起する。
 1,自然環境・環境と人間との平等、共生(地球環境の保全)。2,物質文明の限界に着目(近代工業文明の破綻、限界)。3,足を知ること(中道=節約、簡素)。4,私的利益追求第一主義への疑問(自他利他不二)。5,非市場的、非貨幣的価値の尊重(大地、自然・環境、いのち、ゆとり、働きがい、生きがいなどの重視)。

 この5点の仏教思想を生かした新しい経済学を構築する意味で、知足の経済学と称して、知足、節度をわきまえるという中道、いのちあるものすべてが相互依存にあるという共生という三つの基本概念を相互に依存させながら持続的発展の経済学を構築していくことを問題提起する。


 消費者主権を超える生活者主権の確立が知足経済学にとって、急務であると安原和夫は提起する。生活者は、経済学からはみ出した概念であるが、人間中心の経済学として、特別の意味をもって安原和夫は問題提起する。「生活者は市場的価値の財・サービスの生産・供給(生産者としてではなく、労働者として)、需要・消費(消費者として)、だけではなく、非市場的価値をも創造し、保全し、さらにそれを享受するところに大きな特質がある。

 生活者とは、市場経済の側面ばかりではなく、非市場価値の保全・創造・享受を重視する側面を積極的にもっている広い概念をもった経済学である。生活者には四つの権利があるとして、消費者保護法や消費者運動の消費者権利ということではなく、1,自立・拒否する権利。2,参加・参画する権利。3,ゆとりも生かす権利。4,自然・環境と共生する権利をあげている。
  
自然循環と道元の思想

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  ところで、日本の禅僧で小欲知足について、体系的に仏教の教義として強調したのは道元である。道元は、かれの仏教思想を体系にまとめた正法眼蔵で小欲知足について本格的に述べている。


 道元は、「正法眼蔵」の最後にあたる第12巻第12でブッタの遺言にあたる「仏遺教経」の八大人覚を引用して、仏の最上の智である菩薩の道、涅槃の境地に至る8つの教えを説いている。つまり、智慧(ちえ)を磨き修行を積んで、迷いや煩悩(ぼんのう)や執着を断ち切り、悟りに到達して、いっさいの苦・束縛(そくばく)・輪廻(りんね)から解放された最高の境地になるための8つの教えを入滅の前にブッタは、八大人覚として説いたのである。


 この教えで最初に述べたのが、小欲である。人間のもっている末得の五欲を広く追い求めることなく生きることを大切な修行とした。そして、第2に、やもえずという法の中に、受取る限りを以て、満足する生き方とする。知足小欲は、道元僧の教える仏教にとって大切な教えである。
 「仏言(のたま)はく、何等此丘(なんだちびく)、当(まさ)に知るべし、多欲の人は、多く名利を求むるが故に苦悩も亦多し。小欲の人は、求むること無く欲なければ則ち此の患い無し。直爾(ただそ)の小欲なる尚応(まさ)に修習(しゅうじふ)すべし、何(いか)に況(いは)んや小欲の能く諸(もろもろ)の功徳を生ずるをや。小欲の人は、則ち諂曲(てんこく)して以て人の意を求むること無く、亦復(また)諸根に惹かれず。小欲を行ずる者は、心則ち坦然(たんねん)として、憂畏(うい)する所無し、事に触れて餘あり、常に足らざること無し。小欲有る者は、則ち般若有り。是を小欲と名づく」。


 「二つには知足。已得(いとく)の法の中に、受取するに限りを以てするを称じて知足と曰ふ。仏言(のたま)はく、何等此丘(なんだちびく)、若諸(もろもろ)の苦悩を脱(のが)れんと欲(おも)はば、当に知足を観ずべし。知足の法は、即ち是れ富楽安穏(ふらくあんのん)の処なり、知足の人は、地上に臥(ふ)すと雖も猶(なお)安楽なり。不知足の者は、天堂に処すと雖も亦意に称(かな)はず。不知足の者は、冨まりと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲に牽かれて、知足の者に憐愍(れんみん)せらる。是れを知足と名づく」。「正法眼蔵」。


 多欲の人は、多くの名誉と利益を求めて悩むが、小欲の人は、この悩むというわざわいがない。小欲なる人になるための修行が大切としている。小欲な人になれば、自分のこころをまげて人にこびへつらうこともなく、財欲、色欲、飲食欲、名誉欲などの様々な欲望におぼれることもないし、こころがいつも平静を保つことである。
 さらに、他人の意をくんで、うれいおそれることもなく、余裕をもって事にあたれるというのである。常に足らざる心をもつことが、真の智慧である。

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 小欲とは禁欲ということではなく、常に足らざるところでおさえておくことで、欲望を飽くなき求めるものではないということであり、欲の自制心が必要であるということである。つまり、人間が生きていくためには、欲望が必要であるが、小欲であることが、悩みをもたず、争いを持たず、循環を保ち、平安に生きていくことができるということである。


 足を知るということは、受け取ることに限りがあるということで、分に応じてわきまえることが必要である。苦悩を逃れたい思うには、知足をよく観ることである。知足をもつことは、心ゆたかで楽しく、平穏無事である。知足をわからぬ者は、財や名誉に富んでいても、常に五欲にひかれ、その欲望を、さらに獲得しようと求める。ここては、知足の者からみるならば、欲望にとりつかれて悩む人として、あわれむべきことであるとみる。


 仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)というブッタの臨終の際の最後の教えの八大人覚の第1と第2の教えを小欲知足と言う。仏教において、この世では、自分の欲望が満足されないことによって苦悩が生じることが多いと考え、欲を少なくして与えられていることに喜びをもち、感謝するということで、足ることを知ることを大事にするのである。


  現代において、小欲知足の仏教思想は、持続可能な循環型社会の形成にとって極めて大切な問題提起をしている。道元の自然思想を正法眼蔵から探求する有福孝岳は、著書「正法眼蔵に親しむー道元の自然思想で、自然と人間の一体感としての「不二一如」(ふにいつにょ)の自然感を強調している。

 この自然観は、西洋的な人間と自然を二元的にみるのではなく、人間と自然は、不二一如ということで一体としてとらえる東洋的な伝統的な自然観である。不二一如という見方をもっていることからこそ、自然は修復能力があり、人間も、自然の一部として修復可能な循環のなかで生きているというのである。

 

 現代の社会は、人間と自然を二元的にとらえて、人間が自然を支配するというこという[おごり]から、自然の破壊が進んでいるのである。生産力至上主義の自然科学の発展は、人間が自然なしに生きていけないという根本の問題が忘れていく。このことは、人間自身の生存の危機につながっていく。道元の自然思想を正法眼蔵から探求する有福孝岳は、この問題について次のように述べる。
 「自然にはもともと修復能力があり、自然は自然に任せていても、いずれは元のとおりに回復しえたのであるが、今日では原発事故や、湾岸戦争での石油汚染、諸々の公害現象などのいずれを取りあげてみても明らかなように、現代の科学技術の力はあまりにも巨大となりすぎたために、自然の調和と秩序が一度乱されると、その修復はほとんど不可能であるか、可能であるとしても長い年月を要するであろう。

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 このような、現代における自然環境の危機的状況は、現代人がたんに人間と自然とを二元論的に対峙し対立しあうものとして観るのではなく、むしろ主観(人間)と客観(自然)とを、もともとはただ一つの自然として考察する全体的宇宙的自然観に立ち帰ってみて、人間および自然を根本から見直し考え直していくことを迫っている。こうした時代的要請からしても、われわれはもう一度伝統的自然観ーすなわち、人間と自然の不二一如を信じて疑わない自然観ーの良さをとらえ直してみなければならないのではなかろうか」。有福孝岳「正法眼蔵に親しむー道元の自然思想」学生社


 現成公案(げんじょうこうあん)では、鳥も魚もその本分をもってまっとうしているからこそ生命を存続させているのです。鳥は空を飛ぶ。飛んでも飛んでも空はある。魚は水のなかで泳ぐ。泳いでも泳いでも水に終わりがない。そうであるからこそ、鳥は空を離れることはなく、魚も水から離れることがない。それをやめればたちまち死んでしまう。「鳥もしそらをいづれば、たちまに死す、魚もし水をいずれば、たちまち死す」ということで、目の前に現れているところのあるがままがそのままが真理であるとする。われわれ人間がどんなに自然に働きかけて、自然を改造しても自然との関わりのみ可能であり、自然の外に出られず、自然とともに、生き、かつ死んでいくのである。


 無常説法としての大自然の声は、山川草木・土石などの声である。人間も動物も植物も鉱物もすべて自然であり、人間は計算づくしで自然を把握することができないのである。道元は、山川草木・土石の代表として山水を題材にして、仏の心を語る。山水経は、山の功徳・徳性を知ることによって、人間的な汚辱が及ばない、清浄なる仏心の世界に通達するというのである。
 山は常運歩して、動き、青山は、すみやかなれどと道元には映る。そして、不覚不知というしかたで、大自然がそのまま仏教的真理であるというのである。元の自然思想を正法眼蔵から探求する有福孝岳は、自然科学的な法則的自然の認識は、大自然の真理からみれば、氷山の一角にしかすぎない。
 「いくら自然科学を駆使しても、自然を全部知りつくすことができない。なぜなら、自然の方が人間よりもはるかに巨大であって、自然科学はどこまでも有限で欠点多き人間の知的実践であって、人間は永遠に自然の外に出ることはできないのである。だから、どんなに優れた自然科学をもってしても自然のほんの一部分に働きかけ、これを改造することはできても、自然全体に働きかけることも、ましていわんや自然全体を改造したり無きものにしたりすることなど、とうてい不可能なことである。

 

 ところが仏教はまことに都合のよいことに、わからない存在全体を出発点にしているのであるから、わからないとうことが、否定的消極的な意味においてではなく、肯定的積極的な意味合いをもってくるのである。人間にとって不可知なる根源的自然、いわゆる人間と自然とが分かれる以前の、あるがままの自然をいいあらわすのに、仏教は、如是、如法、真如、法爾などの熟語をもっている」。有福孝岳「正法眼蔵に親しむー道元の自然思想」学生社。 

 有福孝岳は、正法眼蔵で仏性の自然観で、山河大地と海が決定に違うことを、山、川にはいろいろの大きさがある。大きい川も小さい川もある。大きな山と小さな山がある。ところが、海には大小はない。これは海の徳である。海の方が山川よりいっそう普遍性をもっているといえよう。有福孝岳「正法眼蔵に親しむー道元の自然思想」学生社


 自分と人を比べる心としての慢は、人間の根本煩悩のひとつとして仏教では理解する。優越感をもったり、劣等感をもったりというのも慢の心である。他人と自分を比べて、優越感や劣等感になるということは、対人認識における社会的な評価の問題である。人間のもつ権力欲や支配欲との関係で、慢の問題が潜んでいる。

 社会的な地位を得たりすると、自分が偉そうになって自分勝手な態度で人を傷つけたりする。ここには、支配欲や権力欲の問題がある。この煩悩は、対抗意識を燃やしたり、優越感、支配欲を増幅させていく。また、逆に、劣等感に悩まされたり、支配されたり、侮辱されたりすることで心が傷ついていく。

 

主体的に生きると怠惰・無責任

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 人間は、何も判断しないでは、主体的に生きていくことはできない。とくに、人間は社会的な存在ということで一人で生きていくことはできないのである。たとえ、疑の煩悩から態度を留保しても、それは、主体的に生きていることではなく、ながされるままに、なりゆきまかせで、怠惰のなかで生きているに過ぎない。

 このことは、周りから無計画とか無責任とか揶揄され、結果的に自分の社会的な役割や価値が見出されずに悩むのである。社会的に生きていることによって、人は必ず役割と価値をもっている。どんな人でも、何らかの形でまわりにいい意味でも悪い意味でも影響を与えている。


  疑という態度留保は、社会的に無責任な結果になっていく。問題は、周りに迷惑をかけて悩むかどうかである。疑によって態度留保をすることは、怠惰の煩悩があるからである。

 態度留保は、現実のやるべきことを先延ばしして、目的意識的に生きていくのではなく、また、自己の役割や価値に目をむけることをせずに、目先の快楽、愉快なあるがままの世界にふけっていくことである。それは、本質的に社会的存在としての人のあり方から逸脱していく自己の責任を回避である。つまり、社会的期待、周りからの期待に背を向けている姿である。


 とくに、困難と思うことは、極力に立ち向かうことを逃避しする。怠惰のための自己弁解の思考展開は活発に働き、自己防衛のために積極的に態度留保する。ここには、他に対するおもいやる感情や自己の社会的責任の希薄性が特徴である。疑は、態度留保に悩むのではなく、周りから自己の責任回避を批判されることに落ち込み、悩むのである。態度留保ということで人に迷惑をかけて悩む煩悩ではない。


 社会的存在としての人間は、絆の心が基本にあり、そこでは分かち合う心をもっているのである。つまり、慈愛の精神をもって人間関係を築いている。慈愛の精神をもって布施を推奨する六波羅蜜の修行は、怠惰による態度留保という疑の煩悩を克服していく大きな位置をもっている。
 邪見として、ものごとのすべてはつながりがあり、縁起があって、必ず原因と結果があることを否定する見方も第6の煩悩の悪見のひとつである。原因や結果、縁起など関係ないと思って、人間関係もうまくいかなくなり、さまざまな世界とも結ぶことをできなくしていき、自分自身さえも理解できなく、孤立していく存在になっていくのである。