神田嘉延
日本人は戦後に国際協調と平和主義を国是とする憲法のもとで暮らしてきました。憲法9条は平和主義の象徴です。国際紛争が絶えない世界情勢ですが、憲法9条は日本の平和外交のための灯台であると思います。ベトナムをはじめ東南アジア諸国は友好協力条約を結び話し合いによって、それぞれの困難な国家関係を解決していくことを定めています。
ベトナム戦争の教訓から平和ブロックを形成したのです。アメリカも中国も、このブロック体制を尊重しているのです。
日本はベトナム戦争のときにアメリカの前線基地となり、日本国内で多くの国民がベトナム反戦運動をしたのです。
日本とベトナムは古来より深い関係がありました。現在は多くのベトナム人が外国人労働者として働いています。また、日本に学びにきているベトナム留学生も多いのです。このなかでさまざまな問題も起きています。日本人とベトナム人の共生教育が求められているのです。
ベトナム解放における日本留学運動ードンズー運動(日本に学べ)
ベトナムは、1884年にフランスの植民地になりました。植民地からの解放として、日本から学ぼうということで、留学運動があったのです。それは、ファン・ボイ・チャウを中心に、ドンズー運動(日本に学べ)として、1905年から1909年にかけての運動でした。
それは、過酷なフランス植民地支配からベトナムの独立を勝ち取るために、日本への留学する運動を展開したのです。この留学運動には、当初、大隈重信、犬飼毅、柏原文太郎の有力政治家なども協力しました。しかし、1907年の日仏協約によって日本政府は、一転してドンズー運動を弾圧するのでした。フランスは植民地政策として、徹底した愚民政策をとっていたのです。フランス政府は、日本への青年達の留学を取り締まるように日本政府に要請したのです。
ベトナムの独立運動で、建国の父といわれるホーチミンは、1924年にフランスの愚民政策を痛烈に批判した文書を書いています。フランスがベトナムを植民地支配することによって、非識字者が大幅に増えたというのです。漢字文化も一掃し、愚民政策をフランスはとったと述べています。
学校をたてるのも侵略に奉仕する通訳、官吏の養成だけで、智恵を深め、祖国を愛し、思想を発展させ、ベトナムの未来をつくるためではないのです。そこでは、フランスの絶対性とベトナムの祖先を蔑視したものです。
ベトナム人が自主的に海外留学の考えをもっただけでフランスの反逆者とみなされたのです。フランス国内ではあたりまえに読まれていた近代の民主主義思想家のルソーやモンテスキュウーの作品を読むことも禁じられました。
フランスは、ベトナム人の自主的な学びを弾圧したのです。1907年に兵を派遣してベトナム人が学ぶ「トンキン義塾」の閉鎖を命令します。教師達は捕らえられ、虐待され、牛馬のように殴打され、強制労働をされたのです。ベトナムの植民政策は、愚民政策が徹底されたのです。
ベトナム人にとって、学ぶことは、命がけでした。フランス帝国主義者にとって、ベトナム人が学ぶことが自らの支配が崩れると考えたのです。ホーチミンは、ベトナムの解放闘争に、学ぶことを最も重視しました。
教育者は、ベトナムの未来にとって、光栄ある重い責任があるとして、その養成を大切にしたのです。トンキン(東京)義塾は、日本に数週間滞在して日本の教育機関を参観したファン・ボイ・チャウによって、1907年にハノイで開設されました。
日本に期待し、命がけで留学してきたベトナム青年を、日本政府はフランスからの圧力によって、追放するのでした。追放されたときは、中国人留学生の多くが在籍する予備校の東京同文書院、士官学校予備校の振武学院、慶応、法政などにベトナム人の留学生は学んでいました。
1908年10月、ベトナム人留学生の解散命令のときには、300名の留学生がいました。ベトナム人留学生のための特別日本語班が設けられました。厳しい日本政府のベトナム人留学の解散命令と1909年2月の退去命令のなかでもベトナム人留学生を支えたのが医師の浅羽佐喜太郎などでした。
ファン・ボイ・チャウは、日本に来たときは、立憲君主制をめざしての革命を考えていました。ベトナム皇族のクオン・デをたてて、独立を勝ち取ろうと考えたのです。グエン・デは1906年フェを脱出して、ハイフォン、香港経由から横浜に4月末に到着するのでした。
ファン・ボイ・チャウは、孫文など日本で中国革命家ばかりではなく、日本人の社会主義者とも会っています。
ベトナムの独立のために日本へ留学したトンズー運動を現代に評価することは、日本とベトナムの友好発展にとって大切なことです。フェのファン・ボイ・チャウの記念碑訪問については次のブログを参照してください。
ベトナムの独立のために日本へ留学ー ファン・ボイ・チャウとドンズー運動: 神田 嘉延ー歴史文化の旅から学ぶシニア人生ー (webry.info)
ベトナムと日本、とくに鹿児島を中心としての歴史的な関係については、次のブログを参照にしてください。
ベトナムの人々はアメリカとの激しい戦いをしましたが、しかし、アメリカ人の捕虜に対しては、手厚い人道的待遇をしたのです。アメリカ軍の戦略爆撃機を打ち落としたときに、落下してくるパラシュートの兵士を保護する対策を徹底しました。
ベトナムの伝統思想家グエン・チャイ (1380年~1442年)は、敵兵に仁義を唱えた。彼は、15世紀中国の明朝の侵略を打ち破った指導者で、国を導いた儒教思想家です。彼は次のように現代の思想にも通じることをのべています。ホーチミンは、このベトナムの伝統的な思想をアメリカとの戦いでも実施したのです。
「仁義は横暴より強し」ということで、「大義をもって残虐に勝る」ということです。儒教のこころをベトナム的に応用して、独立を守りました。捕虜になった明朝の兵士を人道的にあつかい、彼等の食料と帰りの道を確保しました。海を渡って帰る兵士に500余の船を与え、陸を通って帰る兵士には、数千の馬を与え、人道的なはからいをしました。 中国明朝に対する侵略者への怒りの爆発ではなく、捕虜になった人々に、人間としてのこころをもって大切にするようにベトナム人に説いたのです。
アメリカの兵士も一人の人間であり、帝国主義ということと区別すべきという見方からです。ベトナムは小国で歴史的に中国の侵略を絶えず受けてきた国です。戦法も工夫して、中国にたいしては、海と接する川の満ち引きの自然の力を利用して、船団を動けなくする方法での撃退やゲリラ的に待ち伏せ攻撃など。アメリカに対して、地下道をくまなくつくり、敵の陣地へ兵器の火力に依存するのではなく、人の力と国民的抵抗心とゲリラ戦で戦ったのです。
そして、侵略に動員された敵兵を味方にする方策をとってきたのです。敵を打ち破ったら、彼らを味方にしていくということで、捕虜に生活費のお金をあげて手厚く送り返したということです。
ベトナムの平和ということで、アメリカ国内でベトナム帰還兵を巻き込んでの大きなベトナム反戦のうねりになっていったことが、ベトナムでの戦争終結に大きな役割を果たしたのです。日本もアメリカのベトナム侵略の拠点基地になりましたが、日本の多くの国民がベトナム反戦運動を展開したのです。直接にアメリカ兵にもベトナム平和のチラシを配り、平和のためのデモを展開したのでした。日本人のもっていた憲法九条の精神がベトナム反戦運動にも貢献したのです。
ベトナムの激戦地が今は平和のための観光地に
1965年4月にホーチミンルートの麓であったドンホイの町はアメリカ軍によって壊滅状況になりました。今の市人口は10万人余です。町からみえる山岳地帯の向こう側はラオスです。住民は疎開しての生活を余儀なくされました。現在は、村全体が地下壕になっているところの跡地も戦争遺跡として保存されているのです。この跡地は、外国人を含み多くの観光客が訪れています。
ベトナム戦争は第2次世界大戦後の世界史で、大きな悲惨な出来事でした。日本でも60年代後半から70年代前半にベトナム反戦運動が全国的に展開されました。ベトナムは、日本の敗戦により、1945年9月2日に独立宣言をしました。
しかし、再びかつて、ベトナムを植民地にしていたフランス軍が侵攻してきたのです。フランスとのベトナム人との抵抗では、敗戦で日本に帰らなかった多くの日本人兵士がベトナム側に協力したのです。
フランスとの闘いは1954年のジュネーブ平和協定まで続きました。17度線の停戦協定がひかれ、双方の軍隊は、北と南にわかれたのです。2年後に選挙が行われる予定でしたが、アメリカのかいらい政権が南に打ち立てられ、再び長い戦争に突入していくのでした。その戦争は1975年4月の南ベトナム政府のサイゴン陥落まで続きます。17度線が引かれたベトナムの中部は激戦地であったのです。
激戦地ドンホイの住民達は、7年間地下での生活を強いられるのです。そこには、病院もあり、この地下生活で生まれた多くの子どもたちもいたのです。地下壕は、現在、平和観光のための資源になっています。
町の中心の公園には、平和の象徴として、パリ協定のシンボルの像があります。壊滅したドンホイ市には、キューバのカストロも訪れ、キューバ建築家の設計と技術者の援助によって、太陽のもとでの市街地で、豊かに暮らせるようになったのです。
ドンホイ訪問のときのブログは次のとおりです。参考にしてもらえればと思います。
ベトナム戦争中部激戦跡地を訪ねて(ドンホイ周辺): 神田 嘉延ー歴史文化の旅から学ぶシニア人生ー (webry.info)
アメリカの経済封鎖が1994年まで続き、中国との緊張関係もありました。1975年の戦争終了後にベトナム人自身の自力によって全土の復興がされていきますが、物質が外国から入ってこないので、生活の実態は厳しさを強いられたのです。今は、世界との経済活動も活発になり、かつての激戦地であったドンホイ市は観光地に生まれかわり、外国人も訪れるリゾート地にもなっています。
ベトナムは1994年まで経済封鎖をアメリカ主導によってなされたので、世界と自由に独立してつき合えるようになりました。アメリカとも現在は仲良い関係をもっています。ベトナムの真の解放は、1995年以降とみるべきでしょう。
世界最貧国から立ち上がったベトナムの経済発展と平和の大切さ
ベトナムは、20年前まで世界の最貧国でした。長いフランスの植民地支配、フランス、そして、アメリカとの戦争。中国との緊張関係など。1975年にベトナムは独立を完全に達成して解放されますが、その後は1994年までアメリカをはじめ先進国からの経済封鎖、中国との軍事的紛争などで、まともな経済活動ができなったのです。ベトナム国民にとって、近代の歴史をみれば、独立と平和は極めて大切な課題です。それは、極めて困難ななかでの達成でした。
現在は、東南アジア諸国連合で平和共同体をつくっています。非同盟運動と多様性を認め合い、共存・共栄の平和連合体をつくっているのです。
ベトナムは市場経済を通して社会主義をめざす国家です。地域の共同体、話し合いを地域で大切にして、それぞれの価値観、信仰も尊重している国で、キリスト教、仏教、儒教、地域の習俗的信仰など、それぞれ尊重して、村のなかでも異なる信仰が共存しているのです。この意味で明治以前における日本の伝統的な文化とも似ている側面があります。
ベトナムでは政府の政策が必ずしも国会で承認されるわけではありません。政府は新幹線を推進しようとという施策でしたが、各地から撰ばれてくる議員で構成される国会は、新幹線の段階ではなく、地域の交通機関を発達せよということで、政府提案は否決されています。原子力発電所建設も同様で政府提案は否決されています。多様な意見を尊重し、また、南部、中部、北部という地域性を尊重して、国民合意を大切にする国づくりをしている現状です。
ところで、拝金主義の問題も経済発展のなかで大きな問題として起きています。新たに汚職問題も起きていますが、汚職の分配を部署の人々に行うという共同体主義もあります。公務員が貧しいなかでのワイロは大きな悩みです。これは東南アジアに共通して起きています。
ここには、先進国のモラル問題も絡んで発生している場合も多くみるのです。政府は汚職問題には大変な悩みで、その対策に徹底しているところです。
ベトナムは、平和秩序と勤勉な民族性、強い絆をもっている国民性です。若者たちは大きな夢をもって学んでいます。最貧国から脱出した親の世代を引き継ぎ、新たな人類的な課題の経済発展にとりくむことに挑戦しているのです。世界から経済封鎖されても、最貧国のなかでもベトナムは、教育に力をいれてきたことが特徴でした。
上記の写真は、竹からつくった照明傘、花器など室内の装飾品です。プラスッチックからの自然にやさいい循環経済をめざしています。
高い識字率で、だれでも読み書きができる国をつくりあげています。ベトナムは、地域で自給自足の経済を確立していました。VAC運動といわれるように、自分の庭に、薬草を植え、池をつくって魚を養殖して、豚や鶏を飼って、エネルギーは家畜の糞尿によるバイオマスガスを利用していたのです。
現在は、先進国の科学・技術を積極的に学んで、新たな挑戦を考えています。ベトナムの経済は、民族資本が十分に育っていません。国として、全体的に独自色をもつベトナム方式の人類的貢献する経済発展は、これからです。
自動車も電気自動車開発に力をいれているビングループがハイホンで工場をつくっています。電動自転車や電動バイクの開発もしています。先進国からの工場進出によって、経済が大きく成長している現状です。地域の資源を有効に利用して、民族資本を大きくして、地域経済を豊かにしていく課題があるのです。
ベトナムは、農業が中心です。広大な農村社会をかかえています。この現実のなかで、人類的な夢の経済発展を考えているのです。それは、持続可能な自然循環を大切にした経済発展です。
憲法九条は日本初代首相の提案でつくられたもの
戦後初代の首相になった幣原喜重郎は、広島と長崎の原子爆弾投下の恐ろしい現実をみての非武装論をもちました。原子爆弾投下という現実から、憲法9条という非武装論の切実な考えが生まれたのです。
第二次世界大戦に、人類は核兵器という無残な人びとの地獄を日本の広島と長崎で経験したのです。この悲惨な経験の直後での考えが、軍備をもたない憲法9条です。その必要性を幣原喜重郎は認識したのでした。
幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)は、自分の天命として、当時では、狂気の沙汰といわれようとも非武装宣言を決意したのです。原子爆弾という悪魔の武器から、悪魔の武器を投げ捨てるために、神の民族としての日本は、歴史の大道として、世界に非武装宣言をするというのでした。幣原首相は、次のように回顧録でのべています。
「恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋(とき)ではないか。そのために生きてきたのではないか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕を天命をさずかったような気がしていた。非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く凶器の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。
要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史的使命を日本が果たすのだ。日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。
神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第9条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依って再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である」。
幣原喜重郎は、マッカサーに憲法9条を提案するのです。1946年1月24日という歴史的な会談が行われました。「僕はマッカサーに進言し、命令として出して貰うよう決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。・・・昭和21年1月24日である。その日、僕と元帥と二人切りで長い時間話し込んこんだ。すべてはそこで決まった訳だ」。(1964年2月に平野三郎衆議員は憲法調査会に「幣原先生から聴衆した戦争放棄条項等の生まれた事情について」の報告書を提出。その報告書の内容は「日本国憲法9条に込められた魂」鉄筆文庫に載せられています)。
幣原喜重郎は、戦前における欧米での独自のパイプを用いて活躍した外交活動の実績が高く評価されて、新しい日本の憲法を築いていくうえで、74才という高齢であったが首相に抜擢されたのです。
ところで、日本側の憲法草案をGHQが拒否したのは、国務大臣の松本烝治を長とする憲法問題調査会案です。戦前からの権力構造の継承から考えが保守的な側面が強く、軍国主義体制による日中戦争や太平洋戦争の反省が十分にないままの憲法草案であったのです。
戦後の帝国憲法の改正による新しい日本国憲法の衆議院の上程に、吉田首相は、自衛権を否定しないが、自衛権の発動としての戦争も、一切の軍備と交戦権は認めないと次のように答弁しているのです。
「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はしていないが、第9条第2項に おいて一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、 又交戦権も放棄したものであります。」(吉田茂首相、衆議院本会議、1946年6月26日)
「私の言わんと欲した所は、自衛権に依る交戦権の放棄と云うことを強調すると云うよりも、自衛権に依る戦争、叉侵略に依る交戦権、此の二つに分ける区別其のことが有害無益なりと私は云った積もりで居ります」。(吉田首相、衆議院特別委員会、昭和21年7月4日)
憲法を上程したときの衆議院の議論で、吉田首相は、憲法9条の規程は、自衛権発動の戦争であろうとも一切の戦争放棄をしたものであり、軍備と国の交戦権を否定しているものであるとのべたのです。自衛権を否定しないことと、自衛権発動としての戦争、交戦権を否定しているのです。
そして、日本がサンフランシスコ平和条約によって、独立を達成していくが、このときの国会の答弁でも吉田首相は、武力なしの自衛権は存在すると、警察予備隊の創設は、軍隊ではなく、自衛のための交戦権の行使をするための実力組織ではないと次のように強調するのです。
「いやしくも国家である以上、独立を回復し た以上は、自衛権はこれに伴って存するもの。 安全保障なく、自衛権がないかのどとき議論があるが、武力なしといえども自衛権はある。」 (吉田茂首相 1950年1月31日)
「自衛のためといえども軍隊の保持は憲法第9条によって禁止されている」という立場を堅持しつつ、警察予備隊の創設について「治安維持の目的以上のものではない。再軍備の意味は、全然含んでいない。目的は国内治安の維持であり、性格は軍隊ではない。自衛権を放棄するとまで申したことはない。」(吉田茂首相 1950年7月29日)
1950年6月には、朝鮮戦争が勃発し、日本の隣国での緊張関係が起きるのです。朝鮮戦争の結果、警察予備隊などを経て1954年に自衛隊が設立されることになります。警察行政の一環からはじまっての自衛権の実力組織として出発です。
日本の防御は、あくまでも個別的自衛権であり、集団的自衛権は含まれないとするのです。1972年10月の田中内閣では、憲法前文の平和的生存権、憲法13条の生命、自由及び幸福追求の国民の権利を国政上最大源保障ということから、自衛隊の存在が強調されていくのです。田中内閣が国会に提出した内容は、次のようにのべています。
「憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」 ことを確認し、また、第13条において「生 命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とす る」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかで あって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために 必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。
平和主義をその基本原則とする憲法 が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されのは、あくまでも他国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置として、はじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。
現代的な憲法九条と国連の平和主義
東アジア地域で、どのように平和的なブロックをつくることができるのか真剣に考える時期です。自衛隊の役割が集団的自衛権の容認と近隣諸国の脅威論から兵器装備が拡大するなかで、憲法9条の改正の問題も大きな政治的な焦点になっています。政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにと世界に誓った日本国憲法の理念の意義を人類史的な側面からあらためて認識することが大切な時代です。
日本が世界平和にもっとも貢献していくことはなにか。第1次世界大戦を経てのパリ不戦条約、第2次世界戦争後の日本国憲法の世界史な意味を考えてことではないか。
第2次世界戦争後には、世界の平和のために国連が生まれたのです。その憲章の前文では、二度にわたる言語に絶する戦争の惨害から人類をすくために、次のように国際的な平和の構築を求めた。
「われら連合国の人民は、われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念を改めて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること」。
正義と条約その他の国際法から義務と尊重という国際的平和秩序を国連は求めたのです。国際法の義務と尊重や平和構築のための条約などの役割が強調されています。ここでは、紛争解決のために国際司法裁判所の役割があります。
互いに平和的に生活するためには、武力を原則的に用いないこと、寛容の実行、世界の人々がすべてに経済的及び社会的発達を促進するために、努力を結集することを次のようにのべています。
「並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和および安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した」。
国連憲章前文の精神を含めて、平和の問題を深めていくことが必要です。世界平和のために名誉ある国際的地位と日本人としての誇りをもてることはなにかということで、憲法9条や憲法の前文を見ていくことが重要です。
東南アジアにおける友好協力条約
ー東南アジアにおける平和・友好・協力を目的ー
憲法九条と響きあう「戦争放棄」の流れが世界に広がっています。東南アジア友好協力条約(TAC)です。アメリカの兵士も一人の人間であり、帝国主義ということと区別すべきという見方からです。
第2条では、締約国相互の関係について、次のような基本原則を定めています。1,主権・領土保全等を相互に尊重、2,外圧に拠らずに国家として存在する権利、3,締約国相互での内政不干渉、4,紛争の平和的手段による解決、5,武力による威嚇または行使の放棄、6,締約国間の効果的な協力。
この条約の締結には、東南アジアの国々が長年にわたり、戦争によって苦しんだことが背景があります。
1955年にインドネシアのバンドンで、第二次世界大戦後に独立したアジア・アフリカの旧植民地国を中心に、二十九カ国が平和のための国際会議を開きました。
そこでは、「バンドン十原則」を決議しました。国連憲章のもとに、主権尊重、内政不干渉、紛争の平和的解決、武力行使の放棄が盛り込まれています。侵略戦争に苦しんだ国々は、自分たちの運命は自分たちで決めることに合意したのです。
東南アジア友好協力条約・TACの精神はバンドン会議にあります。しかし、バンドン会議後、東南アジアは米国のベトナム侵略戦争に巻き込まれます。
米国は南ベトナムに親米独裁政権を打ち立てて、東南アジア諸国の介入を深めます。南ベトナムでは米国と独裁政権に対する解放闘争が拡大するのです。米国はベトナム北部への空爆や南部での米軍の投入をして、戦争を拡大していきます。こうしたなかで、東南アジア条約機構加盟国のタイとフィリピンの米軍基地などが戦争に巻き込まれていくのです。
1967年には、東南アジア諸国連合(ASEAN)が結成されます。ASEANは71年に、「平和・自由・中立地帯宣言」を発表します。74年に4月に米国がベトナム侵略戦争に敗れました。翌76年年2月、ASEANはインドネシアのバリ島で、首脳会議を開き、ベトナムなどインドシナ三カ国との友好関係樹立の意思を表明しました。
そして、東南アジア友好協力条約を締結するのです。2005年年から三回、「東アジアにおける平和、安定及び経済的繁栄を促進することを目的とした対話フォーラム」で共同体形成をめざす東アジア首脳会議が開かれ、東南アジア諸国連合以外にTAC加入の参加条件をつめていきます。
ASEANは、1987年にTAC加入を域外に開放していきます。加入国は03年以降に急増します。03年3月に米国がイラク戦争を強行した時期です。東アジアは平和の共同が広がっていったのです。
東南アジア友好協力条約・TACは欧州連合(EU)に見られる欧州統合を参考につくられました。EUは平和維持を軍事同盟の北大西洋条約機構(NATO)に大きく依存しています。NATOは、域外の「脅威」に対し集団的に軍事力を行使することもあるのです。それは、結果的にロシアへの対抗した軍事同盟になり、その加盟国東方拡大は、大国のロシアへの脅威、恐怖となっていったのです。ロシアを含めた平和友好条約がソ連崩壊後に求められたいたのです。ロシアもソ連崩壊後に、NATOを解体して、ヨーロッパの安全保障機構を要求していたのです。東南アジアの平和友好条約(TAC)は、紛争の平和的手段による解決、武力による威嚇または行使の放棄という戦争放棄を決めた条約の加入国を増やしていくことで平和を実現するしくみづくりです。
加入国が広がるなかで、中国とベトナムは海域の国境問題を残しながらも、陸上国境問題を対話で解決しています。インドと中国が数十年にわたる紛争と対立に終止符を打ちました。インドとパキスタンは領土問題での深刻な対立を平和的に解決しようとしています。
東南アジア友好協力条約・TAC加入国は、ASEAN加盟国十カ国のほか、東ティモール、パプアニューギニア、オーストラリア、ニュージーランド、日本、中国、韓国、ロシア、モンゴル、インド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、フランス。計二十四カ国。人口は三十七億人で、地球人口の57%に達しています。