社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

デジタル化社会の民主主義と人間教育ー監視資本主義論から考えるー

      デジタル化社会の民主主義と人間教育ー監視資本主義論から考えるー

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 日々の生活のなかでスマートホーンなどの普及によって、SNSの情報が生活に大きな影響を与えています。人々の行動にSNSは、避けられなくなっているのです。行動ばかりではなく、自分が常に監視されているという恐怖感にたち、スマートホーンやパソコンのメールなどで、見知らぬ人からの情報がとぎれなく入ってくる状況です。

 さらに、重大なことにデジタル社会によって、現実の暮らしや人々の生の痛みや喜び、願い、様々な体験、多くの人との出会いによる体験的なことが、バーチャルの世界に転化していくことです。このことによって、人間の実際の心や精神、魂が理解できなくなっていくことです。

 さらに、スマートホーンでの詐欺も多くなるのです。便利で利用を強いられているスマートホーンが怖さの対象になっています。また、SNSによって、個人情報が流出して、個人にそっての欲望があおられていくのです。

 SNSによる安易な世論操作も行われて、テレビと同時に、ポピリズムをつくる大きな情報源にもなっています。

 まさに、自分の意志がコントロールできない状況がSNSによってつくられているのです。人々がSNSに操られているのです。

 ショシャナ・ズボス「監視資本主義」東洋経済新聞社を読んで、あらためて、デジタルを支配する巨大な情報操作による新たな監視資本主義の道具主義の巨大な力を考えさせられました。

 

 新自由主義と監視資本主義

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 高度に専門化された機械知能の操作によって、人々の行動を予測して、排他性をもって高収益を得ていくというのが監視資本主義です。新自由主義の遺産が監視資本主義をつくりだしたとショシャナ・ズボス「監視資本主義」はのべます。
   ショシャナ・ズボスは、 監視資本主義のプロジェクトにとって、自律的行動という自己決定や意志の自由を他律的行動に置き換えなければならないと強調します。人間の気づきが、大気規模な行動修正プロジェクトにとって脅威になるのです。

 当事者の気づきをを回避することは、監視資本主義全体にとって必須の条件となるというのです。示唆による大規模な遠隔刺激としての効果によって、気づかれることなく、感情を経験させることが大切というのです。

 自己決定や意志の自由という近代社会における民主主義の人格形成にとっての基礎的要因をデジタルの情報づけで他律的な行動に置き換えていくのです。
 ショシャナ・ズボスは、人間の行動を自分の利益のために密かに修正していくのが監視資本主義の本質とみるのです。人間の行動を予測、制御、修正するように多様なプログラムを設計していく。監視資本主義は、自動化された機械処理によって、一人一人の行動を探知ることから、自分達の利益になるように機械処理によって、人々の行動を形づくりということです。人間の行動を自動化された機械処理によっての他律的志向を内面から形成して行動にはしらせていくのです。

 それは、強権的に外からの力によって、人間の自由を奪っていくものではなく、デジタルの機械処理によっての他律的志向の人間形成をもって、マインドコントロールされて行動していくのです。
 監視資本主義は、近代社会によって確かに確立された自分の意志、自己の決定による自由という人間の本質を破壊することにあるのです。ショシャナ・ズボスは、人間の本質の略奪と監視資本主義について次のように力説します。

 監視資本主義の形づくる情報文明は、人間の本性を犠牲にして、人間性を犠牲にしていく。商業の慣行を超えて、社会的つながりの中に浸透して、自分や他者との関係を変容させることになるというのです。
 監視資本主義は、社会の教育部門を乗っ取り、社会秩序の頂点にたって、知識を自由に操り確実性の原本を育てて、道具主義を保護しているのです。

 道具主義は、修正、予測、収益化、支配を目的として、行動を軽装し、道具化することです。軽装とは、計器を装備して、監視や制御を行うことだが、人間を操り人形にすることです。それは、人間の経験をを視覚化し、解釈し、操るコンピユーターと常時つなげておくことを意味しているのです。

 

 監視資本主義と道具主義

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 監視資本主義は、道具主義全体主義を同一視する。このことが道具主義を力にしていく。道具主義に抵抗し、それを中和し打ち負かすことを妨げているのです。監視資本主義は、全体主義と全く違う道具主義を使って操っていくのです。
 全体主義は暴力によって機能しましたが、道具主義は行動修正によって機能するのです。道具主義は、人間の魂にもそれを指導する原理にも興味がない。精神を救済する訓練や教育は不要で、行動の指標となるイデオロギーも存在しない。苦悩ゆえの行動のデーターは大いに歓迎するが、苦悩や恐れに興味はなく、意図や動機にも無関心です。まさに、道具主義は人間のもっている精神、喜びや悲しみという魂、イデオロギーにも関心がなく、人間をデジタル操作によって、正確に行動するロボット化していくことです。
 道具主義者が関心を向けているのは、測定可能な行動を測定し、わたしたちのあらゆる行動を絶えず進化する計算・修正・収益化・制御のシステムに常につなげておくことになるのです。道具主義人間性の犠牲は、テクノロジーと技術的複雑さによって、カモフラージュされた親しみやさいレトリックによってあいまいにされるのです。 
 さらに、道具主義はデジタルを取り込んでの独自の社会支配を実現する徹底した行動主義なのです。魂、自我、精神、意識という人間の内面的要素は観察も測定もできないから科学的価値がなく、魂の人間から自然法に従う魂の集合体の生物の集合体として人間をみるのです。
 科学が文明を超越するにつれて、平等と民主的連帯についての世界認識が育ってきたが、それが基盤とするのは、すべての人間の同種の生物としての圧倒的類似性とみるのです。階級、富、人種などに基づく社会や政治や経済における区分はばかげたものと見なされるようになると道具主義は考えるのです。
 道具主義の政権下では、精神と権利は徐々に新たな種類の自動性におしつぶされていく。刺激・反応・強化からなる生きた経験は単なる生物の行き来に集約されるのです。社会規範に服従する必要がなく、恐怖や脅迫によって自己を失う恐れもない。すべてがデジタルの秩序にとって代わるのです。魂をもった人間、精神をもった人間ではなく、刺激・反応・強化からなる生きた機械的な生物としての取り扱いです。
 その秩序は物や身体の中で成長して、生きた人間の意欲を機械的な強化に変え、行動を条件つきの反応に変えるのです。監視資本主義のための知識を続々と生みだしていくのは、人間のもっている魂、精神からの自由の意志を限りなく減らしていくのです。個人の自由を他者の知識に置き換え、社会を監視資本主義の目的の確実性に置き換えるのです。それは、民主主義にたちむかうことをせずに、民主主義を内部から侵食していくことに本質があるのです。
 デジタル会社の道具主義の計画は、人、モノ、プロセスのすべてを含む社会の情報を供給網を通じて機械に送り込み、人々の脆弱さを管理していく。デジタルでの完全な知識は非協調的サ-ビスに必要なものとして販売され、AIを活用し、全員をつなげ、世界を理解する全知の全体主義の解決策につながっていく。

 

機械と人間の関係

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 機械と人間の関係は、監督、交渉、コミュニケーション、問題解決という社会的機能が物体と同等のものとして、独自に配置されたAIをつうじてシステムに認識されて、調整されるのです。各人の経験、資格、雇用履歴、その他の背景的情報は、即座にシステムに表示され、資格をもつ従業員だけが作業機械を使用できるようになるのです。AIが異様を察知するのです。管理のすべてをAIにまかせる仕組みになるのです。
 デジタル時代の機械と人間の関係は、コンピユーター内のオブジェクトとして統合され、すべてが監視資本主義のポリシーに従って、道具化され、システムによって自動的に課されて、監視されて維持されていくのです。ここでは、約束と妥協、合意と価値の共有、民主的な競争、正当、権利というプライベートガバナンスやパブリックガバナンスに関する社会的プロセスは一切が無縁となるのです。
  機械知能を共有するマシンは最も効率的に情報を共有して、効果をだしていく。マシンはより人間に似せて設計することができ、人工知能は毛嫌いせず、人間の方が機械に近づかなければならいとするのです。機械は個別的な存在ではなく、人間は機械のようにあるべきだという見方になっていく。
 機械は互いに模倣して、共生のために人間は互いに調和して、互いに倣って考え、正しい理解に基づいて平和的に同じ方向に行動するようになるべきとするのです。正しい結果は事前に知らされ、保証されていくというのです。個人の自由は集団の知識と行動のために没収されていくのです。調和しない要素は先制攻撃のターゲットになるのです。

 

民主主義の破壊とデジタルの道具主義

 

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 大義よりもより多くの人々の利益のための行動が道具主義社会の原則になっていく。知的な個人のためではなく、社会の利益のために知性を正しく方向づけることになるのです。完全な知識が集団的意思決定の手段になることによって、政治に代わる計画ができると考えるのです。不合理な結果や意図しない結果が生じる余地を残さないことになっていきます。民主的な政治では、創造的であるが厄介な対立が生じがちというのです。人間の社会は、それぞれ個性をもち、性格も異なり、文化も多様性をもっています。多様な魂をもっているのが人間なのです。この多様性のなかで、いかに共存していくのかが、人間が様々に作り出している社会システムであるし、文学も生まれ、芸術も生まれ、音楽によって自己表現しながら、共感をもっていくのです。そして、思想や哲学も充実していくのです。それは、機械のように正確で同一に動くものではない。これらの人間的な営みを機械処理の効率性と同一性の論理で奪っていくのが、監視資本主義によるデジタルによる道具主義なのです。
 道具主義者にとっての政治の正しい解決策は、科学的に全体の調和と集合的な目的を達成されるために調整され、はるかに微妙で洗練された強化スケジュールに基づく必要があるとするのです。悲しみと憎しみ、それに過剰な恐れや怒りがもたらす興奮は現代の生活ニーズに対する危険な脅威とみなされることになるのです。

 個人による良い行動を設計を促す行動プロセスのセルフコントロールは、常に社会の手によって最終的に全員を協力させるネットワークによってチックされます。これらの強化のためにはソーシャルメデアが重要と考えているのです。
   道具主義社会とって個性は脅威となります。それは、協力と調和と統合からエネルギーを奪うから、厄介者だとするのです。社会は個人の理性ではなく、周囲のアイデアの流れや事例からも理解されると道具主義者はみるおです。個性ということではなく、集団知性によって支配されるべきとするのです。個々の自律性という破壊的なフィクションを排除すれば、個体差はほとんど問題にならない。計画者による操作に個人が降伏することは自由の喪失のうえに築かれ、安全で繁栄する未来への道を開くと道具主義者はいうのです。

 ところで、ソーシャルメデアを使わずにいられないと感じる若者は、ソーシャルメデアに必死にしがみついています。たとえ傷つけられても他者の視線のなかで生きようとしています。若者は社会的比較をとおして活動し、社会的圧力や他の社会的影響に対して、ほとんど抵抗しないまま、あっさりと餌食になるのです。

 

自己構築と監視資本主義

 

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 個人の内面的な空虚さは、ソーシャルメデアによって容易に満たしてくれます。それは、自己構築の作業を外からのアイデンティティの注入によって置き代わるのです。自他の融合は関係ある人から関係を持つ人への移行が大切と監視資本主義を警告するショシャナ・ズボフはいうのです。
 本来的に人間的発達のために、この移行には、経験の理解の仕方を根本的に求める作業が必要です。相互性の文化から自分の人生の著者になること、自律性からなる文化への移行だというのです。この移行を成功させるのは、鏡に映る自己像を超えるものを求める人や人生との出会いが必要になるのです。
 その人や経験が若者に求めるのは、一人称で語り、世界に対して独自に反応をすることです。この真実と権利の感覚を土台に、若者はわたしは考える、わたしは信じるということになっていくのです。自己に影響を与え、自己を知り、意図的な選択と目的のある行動によって自己ををコントロールできるようになっていく。
 このような自己構築における大きな飛躍は構造化された内省、対立、不調和、危機、失敗などの経験によって刺激されるのです。この自己構築していく若者を手助けする人々は、若者の鏡になることを道具主義社会では決定的に拒むのです。デジタル社会は、若者との融合を拒否しているのです。伝統的社会が衰退して社会が複雑になって、個人化のプロセスが加速して、過去のどの時代よりもアイデンティティと精神力に頼ることになっていますが、それに頼れないで大いに混乱して孤独になっている青年が多いというのです。
 また、デジタル接続が社会に参加するために欠かせない時代になっています。人間間のコミュニュケーションがコンピュターが媒介するようになったことです。SNSで個人や集団の行動に光があたるようになって、数限りない行動が津波のようにおしよせてくるようになったことです。

 そして、監視資本主義がデジタル接続を支配して道具として利用していることです。若者の生活空間は監視資本家によって所有され、経済的志向に従っての監視収益を最大化するように若者達の私的空間を利用しているのです。そして、社会的圧力、若者達の行動を操作しているのです。

 自己を構築したいという人間的欲求と監視資本主義の行動学の専門性が現実では衝突するのです。デジタル社会によって個々人の心理がソーシャルメデアに支配されていくのです。ソーシャルメデアは、社会的比較の強度、密度、普及について新時代を築き、人々の消費財の意識と欲望を目覚めさせた。窃盗罪も増えた。ソーシャルメデアによって、自尊心や幸福感も左右されていく。社会的比較によって負の影響も増大したのです。

 行動や知識に対しての比較も容易になり、ネガティブ気分や人生の満足度お低さに拍車をかけていくのです。社会的比較は、客観的要素によって、自他の評価するようになるのです。優越感や劣等感による他者との融合や相互作用も難しくなっていくのです。社会的鏡の強化は、自己満足と自傷においたてられていく。
 監視資本主義の隆盛と民主主義の後退で、疎外感や不安感を多くの世界の人々が描いています。従前の議会制民主主義に対する統治に不安感をもつようになっていく。新自由主義の政策によって生みだされた社会の劣化と環境異変で大きく変化した。監視資本主義は民主主義を窮地においやっていく。 新自由主義のもとでの監視資本主義は、極端な富の不平等をつくり、経済的独占を想像もつかないほど手にしたのです。監視資本主義のもとで、どのようにしたら民主主義を創造できるのかという大きな課題が一人一人につきつけられているのです。
 デジタルによる道具主義社会で、人間の素晴らしい本能である人とのつながりや共感や情報の欲求をソーシャルメデアによって操作されるものではない。また、あらゆる動作、感情、発話、願望が分類され、操作され、誰かの利益になるように操作されることも許されることではない。それらに激しい怒りの感情をもつことと、喪失感を取り戻せるかにかかっているとショシャナ・ズボス「監視資本主義」では強調するのです。これは、自らの生活に対する主権と自らの経験の著者としての権利だというのです。
 このためには、意志を育てる内的経験とその意志に従って行動できる公的空間をつくりあげていくことです。情報文明における社会秩序の支配原理と、個人として社会として誰が知っているのか。誰が決めるか。それらの疑問にこたえるわたしたちの権利です。

 

 社会物理学の思考とデジタルの活用

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 アレックス・ペントラントは次のように社会物理学の画期的な未来への可能性をのべています。ソーシャルメデアの科学的道具主義をとる社会物理学は、人間の独立した意思をを認めているという。それを表現する必要がないだけであると。

 社会物理学は母集団全体に及ぶ統計的学的な規則性に依拠し、あらゆる場合において、真実とみられる現象を扱っています。私たちの日常生活の大部分は習慣的なものであり、その習慣の多くは他人の行動を観察することで得られるというのです。社会的物理学を使って、一般的な人間の日常生活に合わせた生活スペースや交通システム、政府機構をデザインすることができる時代になると考えます。
 社会物理学の思考は、他人の経験が統合されたものに基づいて、文化と社会の両方からみているというのです。社会を数学的に捉えて予測可能にする科学は政府の役人や企業のマネジャー、そして市民達が考え、行動するのに劇的に変える可能性があるという。
 社会物理学は社会をよりよくデザインし、人間中心型の設計を支援するのであるとペントラントはのべます。市場は人間を容赦なく競争を追求する存在であった。しかし、人間は単に自己中心的な自律であるわけではなく、他者との交流によって生みだされた社会規範をもつものです。競争と同じくらい協力は人間社会にとって重要であるということから、仲間たちの間の調整や協力は非常に強力な力を発揮していくと社会物理学者のペントラントはみるのです。そして、人間の自然状態は市場ではなく、交換ということから、競争ではなく、人々の交換ネットワークを注目しなければならない。この交換ネットワクの構築は社会物理学者のペントラントにとっての重要な未来社会論なのです。
 社会物理学に基づいた社会デザインは、市場型アプローチに代わるモノで社会効率を達成でき、パーソナルデーターを厳しく管理することで、それを認めた相手に限り、信頼できるネットワークができるというのです。信頼できる交換ネットワークという概念は、自分のパーソナルデーターの行く先と用途をコントロールしながら、効率的で、公正性や信頼、安定を求めるものというのです。
 さらに、ペントランドは、交換型ネットワークの未来への意義を強調するのです。未来への必須条件は、自分のパーソナルデーターが合意した用途のみに使われるように安心した形で個人や企業と安全なやりとりができりことが必須になるのです。パーソナルなデーターの厳格な管理モデルは公正さと安定と共に、社会効率を実現するのです。自分しかみられないみられないパーソナルデーターと限定的なデーターコモンズをつくり誰でも自由にアクセスできるという組み合わせが求められるのです。
 例えば、病院や製薬会社の治療の効果に対する情報を誰でも自由に閲覧できる公共的な情報と、非公開となっている自分の医療記録情報と組み合わせることによって、よりよい治療が受けることが可能となるということが可能になると。このように、ペントランドは、ソーシャル物理学でパーソナルの交換型ネットワークの未来を提示するのです。
   交換型ネットワークは新自由主義のもとでのデジタルによる道具主義のもとでは不可能であることを見逃してはならないのです。厳格にパーソナルデーターの管理は、個々の企業と個人との関係では難しく、公共的に、公平性と安定性をもってしていかねばならないことは、デジタル情報の社会的なルールと管理を厳正に構築していかねばならないのです。

 そこには、政治や法、行政のデジタルの個人情報に対する厳正な管理の施策が求められ、その社会的なプライバシーの尊重、個人情報の厳正管理ルールが一般化されることが当然にならねければならないのです。それを破ることへの強力な罰則と社会的制裁が求められているのです。