社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

プロパガンダ・世論操作とメディア民主主義

   

プロパガンダ・世論操作とメディア民主主義

 

 

はじめにー

 

 ウクライナ戦争は、テレビばかりではなく、SNSも含めて情報戦が行われています。世界の世論形成にメディアは、大きな役割を果たしています。ウクライナ・欧米とロシアとのプロパガンダが大々的にやられ、ウクライナの悲惨な映像、ロシア軍の動きが日々報道されています。ロシアのプロパガンダも世界中にながされています。双方の立場から、国際的な世論形成の情報操作が軍事作戦と平行して行われているのです。
 戦争当事者だけではなく、世界の世論がウクライナ・欧米諸国とロシアのどちらが握るのかという情報戦争が行われているのです。このような状況で、あらためて、エドワード・バーネイズ著「プロパガンダ」とW・リップマン「 世論」を読んでみて戦争下におけるメディア民主主義の問題を深くみつめてみたいと思います。
 このたびのウクライナ戦争は、国連憲章国際法を無視したロシアの侵略です。主権をもつウクライナに武力侵攻したことだけでわかります。この事実は、それぞれの国の立場や人々の価値観を超えて、ウクライナに平和をもたらすうえで重要なことです。

 しかし、なぜ、ロシアが侵略行動に走ったのか。悪と正義の戦いということで、武力に解決を頼ることでは、犠牲を大きくして、和平の話し合いを遠くにしていきます。

 現実は、マスコミ、SNSに動かされての二者択一的な悪魔、残酷という双方からの感情発信が支配しているのです。この状況では、憎しみを煽って戦争の激化、長期戦になるばかりです。戦争には、情報の戦いがつきものです。ウクライナ・欧米とロシアの立場によって、情報の流し方が全く異なるのです。
 侵略戦争はいかなる理由があっても許されることではありません。国連憲章国際法による外交の努力で、仲介も含めての国際的な話し合いによって、解決することができなかったのか。隣国に武力侵略ということで、やってはならないことをロシアは、なぜ実行したのであろうか。

 この問題は、単によい国と悪い国、悪魔の指導者と正義の戦いということで単純に決めつけでは本質がみえないのです。もともと民族的にも近く、文化的にも同じ側面を強くもっていたロシアとウクライナの双方です。

 90年以前のソ連の時代は、同じ国であり、ソ連の多くの国家指導者を輩出してきたウクライナです。ロシアの芸術・文化の名高いリーダーは、ウクライナ出身も多くいたのです。このような間柄で、なぜウクライナとロシアの大きな紛争の種は何にか。なぜ、話し合いによって、問題の解決ができなかったのか。
 ロシアとウクライナは、歴史的にも多くの矛盾も存在していました。帝政ロシア時代からウクライナとの矛盾があったのです。ロシア革命後のウクライナでの赤軍と白軍との戦い、スターリン統治によるウクライナの悲劇、ソ連におけるナチスドイツとの戦いでのウクライナ民族主義の役割がありました。

 さらに、冷戦の時代の計画経済・集団農場体制でのウクライナとロシアとの矛盾、そして、冷戦が終わりソ連崩壊関係まで様々な矛盾があったのです。民族的な重視の東方正教会との国家と結合していく宗教的な意味からの文化的な摩擦との関係もあります。ソ連崩壊後のウクライナの国家としての独立から、憲法事項の体制的な政治的な対立がありました。ウクライナ独立後は度重なる政変があったのです。
 東方正教会でのロシア正教会ウクライナ支部と独立正教会カソリックという宗教的な文明衝突もあるのです。愛国主義東方正教会は、宗教的な側面と民族主義が密接に結びついていたのです。ソ連崩壊後は、ロシア正教会と国家との関係は強くあり、プーチン大統領の思考のなかには、歴史的な関係も含めて強く存在しているのです。
 今回のロシアのウクライナへ侵略には、2014年のウクライナ革命とロシアのクルミヤ併合、2015年のミンスク合意、その後のウクライナ東部での内戦、ウクライナNATO加盟問題がありました。また、ウクライナ民族主義運動のナチスドイツに協力し、反ソ連ウクライナ蜂起軍と連携したバンデーラの国家としての英雄への再評価もあります。ここには、首都の中心街にバンデーラの通りの名が生まれるのです。平和友好のための協調ではなく、ロシアを敵視し、結果的に侵略戦争を誘発した様々な原因を探ることも大切です。
 今後、極めて難しくなった和平をどのようにして達成するのか。どちらかが降伏するか、どちらかの政権が倒れるか、それまで待つというのか。これらには、多くの人々が犠牲になっていくのです。これでは、悲しむべき事態です。
 感情的に善悪のみで、テレビやSNSなどで悲惨な映像だけでは、ロシアのウクライナ侵略の問題をみつめたことにはならないのです。ウクライナの戦争に反対して、平和を達成することは難しい課題が山積しています。マスコミ報道のしかたも憎悪を煽るような報道の仕方では、結果的に戦争の世論を増幅させる働きをもつだけです。
 戦争当事者の情報戦のプロパガンダの情報を横流しするだけではなく、どのようにしたら和平、平和が達成できるのかということをマスコミの倫理として求められているのです。この意味で、政治的な対立ばかりではなく、宗教的な側面と国家との関係など多様な立場からの国際的な情報の提供がメディアに必要です。
 とくに、国連憲章国際法バンドン会議などの帝国主義国の植民地から独立した国々の非同盟中立の平和原則、日本国憲法の平和主義などを思考の基礎にして、問題に向き合う必要があります。ウクライナや欧米からの情報ばかりではなく、多様な立場からの情報が必要になっているのです。その多様な立場からの国際法にてらして、平和達成のための思考が求められているのです。
 ウクライナ戦争の問題からストレートに台湾問題に結びつけて考える報道も数多くみられます。また、日本でも仮想敵国論として、中国や北朝鮮、ロシアとの関係が取り沙汰されて、もし侵略されたら日本を守ることができないとして、敵地攻撃・敵地中枢の殲滅、核享有、軍備増大が叫ばれ、武力対武力という軍事競争発想の報道も目につくのです。

 日本と中国は平和友好条約が結ばれていますが、北朝鮮との関係は、国交さえもありません。ロシアとの関係は国交回復をして、貿易関係、経済的な開発協力もありますが、平和条約はありません。それぞれ、外交的な課題は、大きく異なっているのです。日本国憲法の平和主義精神からの外交交渉が最も大きな課題です。
 日本は1945年の軍国主義の敗戦を冷静にみる必要があるのです。日本の戦前は、軍国主義体制をとって、アジアの侵略を行った過去があります。明治維新の日本の近代化も国際協調の精神を基に、その努力を人々とともに、軍国主義体制の対抗のなかで見直す必要もあります。

 アジアの諸国は、軍事侵略を受け、植民地・半植民地されたことを決して忘れてはいないのです。戦後に、日本が憲法の国際協調主義と平和的生存権を人類普遍の理想として宣言し、憲法九条を定めたのです。


 1955年にインドネシアのバンドンで開かれたインドネシア、インド、エジプト、中華人民共和国などアジア・アフリカの首脳29ヶ国で平和10原則が決議されました。後に、1961年に設立された非同盟諸国会議につながっていきます。2016年の時点で参加国120、オブザーバー17国になっています。常設の非同盟諸国常任委員会もあります。世界には、非同盟の平和運動があることを見落としてはならないのです。
 非同盟の運動は、国連憲章の尊重、全ての国の主権と領土保全を尊重、他国の内政に干渉しない、集団的防衛を大国の特定利益のために利用しない、国際紛争は平和的手段によって解決、核兵器禁止条約などに貢献しているのです。
 日本は、戦後に基本的人権や民主主義の憲法を定めて、日本人が持っている優れた素養を活かして世界的に誇る優れた技術を生みだし、経済を大きく発展させたのです。ウクライナ戦争から学ぶことは、仮想敵国をつくって核共有論や適地攻撃論の力の対決ではなく、近隣諸国と平和友好を発展させる絶え間ない努力をすることです。戦争を挑発、誘発する恐ろしいことは決してやってはならないことです。

 


 (1)エドワード・バーネイズ著「プロパガンダ」からの戦争とプロパガンダ

 


   エドワード・ルイス・バーネイズ(1891年~1995年)は、政治、経済、教育、芸術など様々な分野において、大衆の世論操作の大切さを説いた人です。そして、その活動を積極的に展開し、広報の父ともいわれました。

 かれは、オーストラリア系のアメリカ人で、アメリカで活躍したのです。代表的な著書として、「プロパガンダ」があります。エドワード・バーネイズの時代は、大規模なマスメディアの発達がされたときです。著書の「プロパガンダ」は、この時代のなかで、大衆の世論操作がいかにして可能になるのかということを理論化したものです。

 プロパガンダは、権力者の政治宣伝による世論形成でもあります。戦争には、大衆を積極的に動員するために大きな武器となっていく歴史があったのです。かれの理論は、ナチスドイツをはじめ積極的に利用されました。
 戦争でのプロパガンダには、大衆の洗脳が重視されます。また、20世紀の民主主義の発展、とくに議会制民主主義の選挙制度によって、プロパガンダは重要な意味をもってくるのです。これらの戦争や政治の世界では、感情的なプロパガンダによって、具体的な問題状況や社会の抱えている矛盾の真実から離れ、外交交渉や政策の論議よりも大衆を洗脳して、偏りや誤解を招いていくことが多々あるのです。

 現代ではイラク戦争ウクライナ戦争において、メディアの総監視のもとに、攻撃の模様、戦争被害の悲惨な状況が、メディアの大衆心理的洗脳技法を用いてコントロールされているのです。この手法は、SNSと言う新しい情報媒体を含めて、すべてのメディアによって、AIなど技法も高度化して、大々的に世界の人々をメディアにひきつけているのです。まさに、人々の洗脳をメディアによって行われているのです。
  大衆宣伝ということでのプロパガンダは、相手を攻撃し、相手が劣等で、非道的な存在であるという中傷がまず重要とエドワード・バーネイズは述べるのです。相手を人格攻撃するということでは、4つの信用失墜、中傷、悪魔化、非人間性を積極的に利用するというのです。また、魅力的に、曖昧な言葉で対象に自分たちを好印象づけるのです。
 そこでは、社会的に高い信用性のある人物や集団を宣伝に積極的に利用することも重視していくのです。それは、大衆の意識にある権威主義があるためです。その権威意識を積極的に利用するのです。

 このために、自分たちの戦争協力者や政治体制協力者の学者・文化人や有名人が積極的に利用されるのです。大衆をコントロールするのは、民主主義を前提にする社会で、極めて重要になるとエドワード・バーネイズは考えるのです。まさに、目に見えない統治機構としての大衆の世論のコントロールとして、プロパガンダは必要なのです。
  一般大衆にとって、理屈のうえでは、政治的、経済的、道徳的な雑多で小難しい情報の是非を自分自身で判断することは実際には難しいのです。一般大衆は、指導者から直接に、メディアをとおして間接的に、事実と認められる内容の情報を得ることで判断していくのが一般的です。

 


企業の広告宣伝による消費行動を生みだす世論操作


 プロパガンダは、企業の広告宣伝による消費行動を生みだす世論操作のPRということもあります。市場に出回っている商品も実際に時間をかけて調査をすることはできないのです。一般大衆は、宣伝行為を通して自分の選択の幅を狭めているのです。プロパガンダを推進する人たちは、自分たちの政策や政治思想、商品に大衆の目が向くように、大変な労力を常にはらっているのです。
 この実際の動向とは逆に、プロパガンダやそれに類似した大衆に対する働きかけの手法ではなく、賢人会議のように知識人たちのつくる委員会が大切とする見方もありました。

 それは、公私にわたり、一般大衆への行動判断になる情報提供をするという考えです。実際の近代化によるメディア発達の社会は、自由競争で、プロパガンダに委ねたのです。自由競争の社会を適切に機能させるために、指導者のリーダーシップと宣伝行為を利用することによって、自由競争をコントロールすることができるということでした。

 エドワード・バーネイズはプロパガンダの事例を商品販売の拡大で、説明していきます。例えば、商品の流行は、プロパガンダ・PRによってつくられたのです。パリはファッションの本場です。その供給源になるメーカーがどのようにして、大衆に影響をあたえていくかということが重要という指摘です。

 著名人である伯爵夫人や公爵夫人にドレスや帽子を身につけてもらうように、それを雑誌や新聞が追いかけて、記事にしていくことです。百貨店はパリの情報源をもとん、最新の流行として、宣伝していくのです。こうして、継続的に計画的にプロパガンダを行う少数の知的エリートたちによって、流行がつくられていくのです。

 影響力のある実力者は、人々の社会生活をコントロールしていくプロパガンダで大切な役割を果たすのです。PRコンサルタントは現代のコミュニュケーション手段と社会集団の仕組みを利用して、それを操作することで、特定の考えを大衆に植え付ける代理人になるのです。

 また、顧客の方針、教養、体制、意見にも気を配り、大衆の支持を得ようとするのです。最初の仕事は、提供しようとしている製品が、大衆に受けいれられているのか、どんなやり方をすれば受けいれられてもらえるのか。
 第2に、ターゲットとなる様々な属性をもつ集団ごとにPRコンサルタントが窓口になってクライアントに代わって大衆に声を伝えていくのです。第3に、大衆との接点を持つ局面を想定して、活動、手続き、習慣を管理する計画をたてます。第4に、本格的な宣伝に入っていくという過程をふむのです。
 広報宣伝活動は、専門職として、それにふさわしい理念と倫理をもつことが求められるのです。企業の財政状況に関する秘密主義、ニセ情報など会社と大衆との関係を築くうえで、疑念を生むことはしてはいけないのです。PRコンサルタントの役割は、噂や疑惑に対処できることが欠かせないのです。大衆が望まない製品をつくったり、大衆との不要な摩擦を起こしたり、大衆を騙したり、たぶらかしないという公正も職務が必要なのです。

 企業は世論に左右され、商品の販路の拡大にプロパガンダは大きな役割を果たすということが、エドワード・バーネイズの指摘です。彼は、企業のPR担当者に次のようなことを求めます。具体的には、一般大衆が持っている特徴、ステレオタイプ、関心の移り変わりの熟知によって、その商品販売の課題へのアプローチです。
 一般大衆には独自の価値基準やニーズ、習慣がありますが、しかし、大企業は、一般大衆からの意見を快く受け入れないことが一般的にみられるというのです。大量生産と科学的なマーケティングに、大衆の求めるものを理解して、それを満たすことの努力が本来的に求められているのです。
 大企業は世論の支持をえることによって、ビジネスを前向きに拡大することができるのです。世論そのものが巨大企業を次々に誕生させるのを容認していくのです。つまり、世論が独占禁止法を緩和、撤廃されるのです。そこでの大企業は社会を見守る巨人となっているというのです。

 経済における好ましい結果の多くは、広い意味でのプロパガンの計画的な活用がもたらしたものです。大企業が大衆の支持を受けたとしても、大衆に密接な電力、ガス、水道などの公共サービスを常に大衆不満の格好の標的になります。
 PRコンサルタントは、世論の動向を予測して、不満を未然に防ぐために、世論調査をして、企業に対する大衆の不満や偏見を説得するのです。 企業にとって、新しい真実を大衆に伝える宣伝手法は、非常に有益な結果をもつというのです。

 誇大広告ではなく、反倫理的な宣伝ではなく、不当な競争を嫌っている人々が、本当に問題になっているのかのプロパガンダという武器を使うべきとエドワード・バーネイズの論語はなっていくのです。
 エドワード・バーネイズは、薄利多売を脱する付加価値層創造の宣伝法が大企業に求められるといいます。大量生産による低価格という競争力ではなく、大衆の視点からの魅力であるのかという品質による差別化の製品が必要になっているのです。
 それには、PRの原則になる集団行動の原理、大衆の権威者に対する盲目的に従うという原理、大衆は他者にならうという原理によって、製品の差別化を宣伝していくことであると。企業は、常に大衆が何をかんがえているかを把握して、大衆のこころをつかんで、変わりゆく世論に対して、公正に、豊かな感性をもって、自らを売り込んでいくための準備をととのえていなければならない。このようにエドワード・バーネイズはのべるのです。
 ここには、ニュースの情報操作や不遜、様々ざま誇大広告が生まれるのです。大衆が投票すべき政治家や買うべき商品が一方的に大衆の意識に植え付けられるということになるのです。

 世論を形成する際には、プロパガンダの手法が積極的に利用されるということになるのです。印刷機と新聞、電話、ラジオ、飛行機など大衆をコントロールするメカニズム、技術が開発され、コミュニュケーション技術の発達が世界中に広がったのです。このことによって、社会集団は、地域ごとのあるいはジャンルによる制約を受けることがなくなったとエドワード・バーネイズはいうのです。
 現代の情報社会は、SNSの発達によって、日常的な会話によるマスコミなどの情報についての議論を直接的に話し合って思考していくよりもテレビやスマートホーンの映像によって、感覚的な印象で判断していくのです。

 感覚的な印象は、文字による言語よりもショッキングな映像や極端なフレーズによる決めつけの意見は、わかりやすいということです。思考するよりも印象イメージが大きな役割を果たす情報社会になっているのです。

 



政治・戦争と世論形成におけるプロパガンダ


 エドワード・バーネイズは、数多くの集団のメンバーにとって、目に見えない、互いに絡み合ったグループ相互のネットワークのメカニズムが大きな意味をもつというのです。このネットワークによって、集団思想がつくられたのです。

 そして、大衆心理の手法を活用して、特定の考え方や商品を買わせるように、専門家の手による宣伝行為で人々は動かされ行くのです。大衆心理の手法は、エドワード・バーネイズのプロパガンダ理論による世論形成で重要であるということになるのです。
   プロパガンダは、大規模に特定の考え、信条や教養、商品を大衆に、大企業や政治家、社会グループが自分たちの考えや商品を広めるためのまとまった首尾一貫した、継続的な活動になるというのです。

 それは、社会のあらゆる場面に、戦争宣伝から平時に利用されます。世界大戦のプロパガンダの驚くべき国威発揚の戦争遂行宣伝の成功によって、知的エリートたちは、大衆はコントロールすることができると。このように、エドワード・バーネイズは指摘するのです。
 プロパガンダは、国家の権力者が戦争を遂行することに、その遂行目的を達成するために大きな意味をもってきたのです。日本の満州事変や太平洋戦争遂行のなかで、マスコミが大きな役割がもつのは、大本営発表を新聞社がそもまま大々的に書いていったのです。このことによって、新聞の発行部数は飛躍的に伸びていくのです。第二次世界戦争の遂行には、新聞の協力が大きかったのです。
 イラク戦争のときも、プロパガンダが大きな役割をもったのです。大量破壊兵器イラクはもって世界を恐怖にさせている、9.11事件の首謀者と関連があると大々的に宣伝した。このことによって、アメリカ国民の熱狂的な支持のもとにイラクの侵略をしたのです。戦争によって、イラクフセイン大統領をはじめ指導者を殺し、支配政党のバース党を壊滅させたのです。

 後でわかったことは、イラクに、実際は、大量破壊兵器もなかった、9.11事件の実行犯とも関係ないということの判明でした。リビアでも同様なことが行われたのです。このようなことは、マスコミの発達した、議会制民主主義が発達したときでも、たびたびくりかえされているのです。民主主義の名のもとに、世界の平和や人権に脅威を与えるということで、マスコミを総動員して行われてきたのです。

 ノーム・チョムスキーは、「メディア・コントロール」の著書で、9.11事件後に、イラク戦争など公正なジャーナリズとはなにかということで、正義なき民主主義としての恐ろしい敵として、メディアのウソと偏向、憎しみを扇動することで、戦争のための世論をつくりあげていくことをのべています。ベトナム戦争では偽りの現実を提示して、戦争を遂行したというのです。

 ウソにウソを重ねて堂々と戦争をしていくことが、アメリカという民主主義の社会で、自由な環境のもとで行われ行くのは、メディアの大衆操作の役割があるからだというのです。

 1986年5月にキューバ政治犯パヤダレスが獄中から解放されたときに、メディアがとびつき、盛んにカストロは政敵を処罰し、抹殺すつための巨大な拷問・投獄システムをしていると書き立てたのです。

 今世紀最大の大量殺人者カストロの国家暴力の記録として出版されて、マスコミは極悪非道な独裁者カストロが報道されたのです。非人間的極悪非道のカストロを書いたパヤダレスは、国連人権委員会アメリカ代表に任じられたのです。エルサルバドル、ガテマラ、インドネシア、ダマスカルなどアメリカの数々の他国への侵攻による武力介入による深刻な人権違反が隠蔽されていくのです。

 エドワード・バーネイズのプロパガンダ論は、調査研究と大衆心理学を応用したものです。大衆はリーダーに従うという大衆心理の手法はプロパガンダにとって大切ということです。選挙戦では、大衆が嫌う言葉と結びつけて、大衆を誘導することができるのです。利権ということで、何百万に投票行動に影響を与えるとエドワード・バーネイズはいうのです。
 政治の世界で、最近は、共産党という言葉をもちだすことで大衆を脅かす効果ができるというのです。大衆のもっているイメージを上手に言葉に表して利用することが大きな意味をもつのです。
 このエドワード・バーネイズの指摘は、日本をはじめ欧米諸国で、近代の歴史のなかで今まで使われる手法です。共産主義の恐ろしさを常日頃、ありとあらゆる場所、機会で情報を収集して、それを誇大に宣伝して、一般大衆への恐怖心をもたせていることは、大きな情報戦略なのです。

 社会主義の思想がいかに危険なものであるのかということを普段から印象操作で国民に植え付けていくことことが、アメリカの支配する政治体制の維持にとって、不可欠なことなのです。異なる多様な意見の尊重や社会的な立場の異なることによって、利害は複雑になっているのが現実です。

 現代の実際の政治のなかで、現実は、複雑な社会構造にあるのです。新自由主義のもとで、格差もひらいていく状況です。それぞれの利害関係や社会的階層の支持基盤をもって、選挙によって選ばれてくるのです。マスコミなどの大衆操作によって、国民を同一の意識に固定させるのは無理があり、最初から同じ意見であることが本来的におかしいのです。

 それぞれの多様性を認め合いながら、社会的な矛盾を未来に向かって解決し、経済が発展して人々の暮らしが豊かになっていく政策の討議と施策の実行が民主主義の役割です。社会主義とか、共産党ということが最初から悪魔の集団として、印象操作として排除していくことが社会的な心理状態としてつくられている状況があるのです。そこでは、政策の論争とは別の社会心理の手法による印象操作があるのです。
 エドワード・バーネイズの考える人間のもつ真の行動動機は、しっかり吟味した結果ではないというのです。多くの人は、本質的な価値や有効性ではなく、無意識に別の象徴で判断していくというのです。

 例えば、車を買うのは、交通手段として必要というよりもステータスシンボルなどの社会的評価からなのです。また、車ぐらいは買わないという社会的な習慣となっているから買うのです。人間は著名なリーダーを手本とする衝動、自己顕示欲という集団のなかで生まれる動機によって行動するというのです。
  エドワード・バーネイズは人々の声は人々の考えの表明で、その考えは、グループが信頼するリーダーと世論の操作で作り上げられとみます。リーダーの影響によって、大衆は、固定概念やシンボルの文句で成り立ってきましたが、現代は、有能で誠実な政治家は、プロパガンの技法を用いて人々の意思を思い通りに作り上げることができるというのです。

 アメリカは政治のプロパガンダが大規模利用ができる国になっているというのです。有権者の間に政治的な無関心が蔓延していることは、民衆の心理状況に合わせる方法を政治家がしたがらない。政治的指導者が大衆に盲目的に従わねばならないと謝っていると考えから本当に重大な話題やテーマを選挙運動から省いている状況であると。
 大衆のニーズを調査して、目標を決定して、幅広い基本計画をたてて、大衆をリードするプロパガンダを使っていないからだと思うのです。大衆の感情に直接的に訴えるうえで、幅広い基本計画、対象となる大衆グループにふさわしいこと、考えを広めるメディアの性質にふさわしいかの条件が必要であるとエドワード・バーネイズは考えるのです。
 さらに、エドワード・バーネイズは、現代政治は個人的な魅力を売り込むことに重点がおかれていますが、政党全体の政策、マニフェストが重要とするのです。候補者が魅力的であればつまらない公約でも有権者の得票を勝ち取ることができるという言うのです。これは、選挙の錬金術になるのです。
 しかし、もっと重要なことは、候補者自身がその政党の掲げる計画を十分に理解して、実行できるかどうか、あるいはマニフェストそのものに力点を置きながらのプロパガンダを求められていると言うのです。エドワード・バーネイズがのべる通り、議会制民主主義にとって、選挙民が候補者を選択するのにマニフェストが大切なのです。
 選挙民は、マニフェスト以上に、印象像で選ぶことが現実に多いのです。マニフェストによって、選挙民が候補者を選ぶようにするためには、政策を知らせていくための期間や、その討論の場を保障していくメディアの役割も大切です。誹謗中傷合戦のみで選挙が行われていけば、印象像のみで判断せざるをえない。

 それは、選挙の関心が薄れて棄権する人が増大していくのです。とくに、棄権が増大していくことは、議会制民主主義における代表者の選出ということからも危機的な状況になっていくのです。
 選挙のプロパガンダは大衆心理学に基づいていくことも求められるというのです。プロパガンダは、リーダーが権威をもち、それに特別の忠誠心をもつ集団であってこそ強力に発揮されるのです。プロパガンダは、指導者のもっている大衆を誘導する技術よいうことがエドワード・バーネイズは考えるのです。

 


  W・リップマン「 世論」からの戦争と世論操作

 

 リップマン は、(1889年~1974年)アメリカのジャーナリズムで活躍し、哲学的に世論ということを体系化した人です。 かれは、ドイツ・ユダヤ系の三世として生まれ、ハーバーと大学で学びました。彼が、学んでいたハーバード大学は、各自が自由に考えることができ、またコースを自由に選択できる大学改革のときでした。このようななかでリップマンの自由な精神が育っていったのです。
 卒業して、ジャーナリズムの世界に入り、そして、デモクラシーの本質な前提になる自己統治能力の課題に、ニュースの重要性を理解したのです。人間は、環境のイメージ、現実の環境、客観的事実、真実などによって、行動すると考えたのです。ニュースはひとつの事実で、隠された真実、偶発的な体験や偏見などがあります。このようななかで、ジャーナリストのあり方を見つめたのです。

 


民主主義と世論形成における新聞


 リップマンは、著書「世論」では、外界と頭のなかで描く世界を考察していくうえで、外界への接近、ステレオタイプ、様々な関心、共通意志形成、民主主義のイメージを考えたのです。そのうえで、新聞、情報の組織化を深めたのです。
 戦争と平時のとき、人々の頭のなかで描く世界は異なるとリップマンはみるのです。戦争のときは、集団全体が情動に統合され、恐怖と好戦心と憎悪が支配するというのです。平時は、世論を象徴するものの点検、比較、論議の対象になるものです。

 そこでは融合したり、忘れ去れたりすることがあっても、けっして集団全体の情動を統合するものではないのです。人はどのようにして自分の良心というもつのでしょうか。安全、権威、支配、あるいは漠然と自己実現よ呼ばれるものに対する願望が社会生活に意味することを深くみつめるのです。
 自分の安全とはどのようなものでしょうか。人々の行為は目指すものは、快楽、苦痛、良心、取得、保護、高揚、習熟ということで、目標に向かって働いていく本能的な性質をみていくのです。そして、頭のなかで描いた疑似環境が思想、感情をもって、行動を決めていくのです。
 国家意思、集団精神、社会的目的など個々の内部で感じたり、考えたりしているうちに彼自身の関心がどのようにして同一化され、ステレオタイプ化になるのでしょうか。そして、ひとつの型にはまった考えになっていくのでしょうか。
 外部から送り込まれたメーセージがどのように機能しるのでしょうか。人々に見えない事実をはっきり認識させる独立専門機関がなければ、代議員制に基づく統治形態がうまく機能しなというのがリップマンの考えです。
 民主主義者は、新聞こそ自分たちの傷を治療する万能薬だと考えていますが、ニュースの性格やジャーナリズムの経済基盤を分析すると新聞は世論を組織する手段として不完全だとリップマンはみるのです。世論が健全に機能するためには、公衆に奉仕する世論によって、新聞は作らねばならないということになるのです。
 リップマンは、第1世界大戦まで、戦争は死傷者によって決せられるという戦争観が主流ということで、主義主張のために戦争ということを信じるものはいなかったのです。戦略あるいは外交はものの数ではないということです。

 公報は、公正を装って、ドイツ軍に大量の死傷者を報じ、血に染まった犠牲者、死体の山、大虐殺について日々かたるのです 。われわれは、これを宣伝と呼ぶことをすでにしっているというのです。
 一般の人たちが自由にアクセスするのを阻止できるように一握りの人々がニュースを自分たちの目的に適するように案配するのです。戦争においては、取材、報道を管理する仕組みができるのです。戦場にいる軍隊の幕僚たちは、一般国民が認識する事柄に広く統制を加える場所にいるというのです。
 かれらは前線に赴く通信員を選ぶ段階で手を回し、前線における彼らの行動を統制し、前線から送られる通信文を読んで検閲して、電信を操作するのです。軍の背後にある政府も同じです。公的に集会に対して、法的権力によって統制するのです。それらは、秘密情報機関によって行われと言うのです。

 


マスコミの道徳規範

 


  リップマンにとって、道徳規範は諸事実に対する一定の見方の前提になると考えています。広く受け入れられる愛国心の規範が想定している人間性と商業の規範が想定している人間性とは、別種の見方になるというのです。一人の人間でも、それぞれの場面、立場によって、道徳性も異なってくるのです。

 例えば、子どもに甘い父親も上司としてき難しく、市民としては熱心な改革者であり、外国問題では強欲な愛国主義なのかもしれないのです。このようなことは一般的にあることです。
 現在の教育状況にあっては、一つの世論は何よりもまず道徳規範を通して見た事実の一つの見方です。われわれがどのような種類の事実群をみるか、どのような光をあててそれを見るか、その大方を決定するのは、われわれの規範の中心にあるステレオタイプのパターンなのですとリップマンはみるのです。
 つまり、私の道徳的判断のもとで、私の事実の見方を否定する人は、私にとって誤った人であり、異端の人であり、危険な人になるというのです。対立者についての説明が必ず必要になるいう見方の習慣が求められるのです。

 このことによって、対立者に対する見方が寛容になれるのです。この寛容の習慣がなければ、自分の描くものが絶対的になり、批判や反論は裏切りものになるのです。われわれは、よく自分の反対者を悪者、陰謀家に仕立てがちです。
  第1次世界大戦の1917年の末、帝政ロシアの崩壊がレーニンの指導するロシア革命アメリカのウイルソンの14ケ条講和提案によって、これまでのプロパガンダを受けてきた既成の戦争観が大きく人々の気持ちが揺らいでいったということです。

 人々の関心は、もはや公表によってつなぎとめることがむずかしくなったのです。かれらの注意は、ときには自分自身の苦悩、自分の党や階級の目的に、ときには政府に対する幅広い恨みに向かうのです。公式の宣伝によって、生まれていた認識、希望、恐怖、憎悪という刺激の組織されたものが崩壊しようとしていたのです。
 何のなための戦争か。敵と命がけで戦わなくとも交渉によって解決できるのか。戦争の目的ではなく、講和条件を実現することで平和が実現するのではないかという一般民衆の意見は変わっていくのです。
 ウイルソンが提案した14ヶ条は、最初の5項目に戦争当事国の誰でも容認できる公開外交、海洋の自由、貿易の機会均等、植民地の帝国主義併合の禁止、国際連の公言、そして個別的な国の条項など、対立する観念はそれぞれ共通にもっていますが、解釈の争いを表面化することではなく、誰もが14ケ条の中に自分の気に入るのをみつけて、希望のすべてを合流しての幸福な未来へ論じるようになったのです。

 以上のように、リップマンは個別の希望を抱えているあらゆる集団をふるいたたせる希望のもてる調和をとりつける言辞の重要性をみたのです。
    世論がどのように源を発し、どのような過程を踏んで導きだされたかについては、リップマンの最大の関心なのです。偏見と直感だでは充分でないという信念が、そのコミュニティティティ全体に成長しない限り民主主義ではないとリップマンはのべるのです。
 偏見や直感ではないという事実の認識は、時間、金、意識的な努力、忍耐、平静心を用いた意見の練り上げてことが求められているのです。そこには、常に信念としての自己批判の精神の成長が伴うのです。自分たちが読んだり、語ったり、決定したりするにあたって意見を分析する習慣が身についていくならば、操作されたりすることはないのです。民主的な議会制政治は世論を神秘的な存在に仕立て、世論の組織化をして、投票日まで過半数を得てきたのです。

 

世論形成と議会制民主主義

  世論を操作することは、議会制民主政治にとって有効な方法とされてきたのです。人はみないかなるときも理性的であり、教育を受けており、知識があると考えて、議会制民主主義を政治学の分析家はみていますが、世論の操作ということが現実に機能して、それは間違っているとリップマンはみるのです。

 さらに、かれは、自分の外部世界については、把握することができないと。人々が自分が住み、働いている土地の習慣なら知ることができるのです。また、その土地の性格などはもっとはっきり把握することができるのです。

  しかし、外の世界については想像しなければならないのです。その想像を可能にするのは、統治者が直接的に確実に知ることの範囲に限られ、人間の能力が自然に及ぶ範囲に基づいて政治を行えば、この限界論から逃げられないのです。近代的な新聞、世界規模の通信サービス、写真や映画が普及するなかで、世論の形成になるのです。
 さらに、リップマン世論形成について、次のようにのべます。それは、測定とか記録、量的・比較的分析、証拠基準、証人の偏見を修正したり、差し引いたりする心理学的分析です。このような世論形成のなかでの議会制民主政治の選挙が行われているというのです。一般大衆の自発的な世論形成は限定で、日常経験から得られることがあります。それは、事実は孤立した地方タウンシップの事情に近いもので、範囲は人間の直接的な確実の知識の範囲です。
 リップマンのみる自治、自決、独立ということでの自治集団は、日常生活の境界を越えた同意とか共同を意味しているのです。自給自足的共同体からの民主主義という観念は、開拓者の理論です。

 人々は自分たちの良心から政治的な知恵を引き出すときに、一つの共同社会がもっている外界世論になる。それは、ステレオタイプ化されたイメージからなりたっているのです。そうしたイメージ群は、かれらの法的道徳規範から引き出された一定のパターンに配列され、地域内での経験によって呼びさまされた感情によって活動するのです。
 このことから、目の届かない環境を小さくして、外国との貿易も恐れ、大都市を作り出すことも嫌うのです。外交政策栄光ある孤立外交政策をもたないという見方もあるのです。過去のアメリカのモンロー主義、スイス、デンマークなどの民主政治などがその事例です。

 われわれのステレオタイプの性格は、世界の小さな一部分にすぎないこと、その知性はせいぜいさまざまな観念の粗い網の中で、世界の一面要素しかとらえられないとみるならば、自分のステレオタイプのときに、それを重く考えずに、修正することができるのです。民主義の形成期における生活範囲のコミュニティの自治について、リップマンは以上のように指摘するのです。
 日本の現代から自治、自決、独立という概念は日常的なコミュニティティの範囲からの概念からではなく、その外界ということから個々の意識をみることは必要であることは大切ですが、自給自足はほとんど消えて、国際的な市場をとおして生活物質を得る社会です。税の仕組みや社会保障なども国家によって決められていくのです。日常的な生活のひとつひとつ外界なくして実態的に成り立たないのです。

 つまり、それは、日常の暮らしのなかから、市町村、県、国、世界という思考が重要になっていくるのです。このように、操作されている世論ではなく、一人一人が自立的・自発的に判断していくには、その能力形成の仕組みや自ら情報を自発的に得ていく手法の技術が重要になっています。インターネット・SNSの情報社会のなかで、操作されていく要素は一層に大きくなる一方で、自ら情報を得、または発信していく技術と手法をもつことによって、自発的になれる可能性も同時にもっているのです。
 リップマンは新聞について、ひとつの事業といえるほど単純なものではないと考えます。新聞は、通常その生産品が原価を割って売られるのです。社会が新聞を評価する場合と商業や工業の場合との倫理的尺度が異なるのです。ジューナリズムを法律、医学、工学などの仕事と比較することもできないのです。

 購読者の立場から判断するなら、自由な新聞は事実上無料で配布されることになるのです。広告されている日用品を買うたびに、大衆はそれと同じかそれ以上の費用を支払うことになっています。
 新聞の発行部数は目的のための手段です。発行部数は広告主に売ることができる資産の一部です。広告主は将来顧客となる人たちに届く確率が高い出版物を選んで、そのスペースを買うのです。新聞が発行されるのは、消費者のものの考え方を尊重して、広告主を媒介して、消費者のためにあるとリップマンはみるのです。
 新聞の発行部数を維持する主力は、政治社会のニュースではないのです。その方面への関心は盛り上がらないのです。新聞社はそれに頼っては事業を存続できないのです。新聞社は多種多様の特別記事を備えていなければなりません。それは、読者を逃がさないためです。大ニュースについて、その善し悪しは批判の目をもちあわせないため、大ニュースは、各紙は主要事件に標準的に取り扱うのです。 
 ニュースは社会状況の全面を映す鏡ではないとリップはのべるのです。各紙が熱い視線を持って読者をつなぎとめておくのは、ニュース以外の上流社会のスキャンダル、スポーツ、映画、女優、失恋アドバイス、消費者欄、料理法など、あらゆるものごとを書くのです。広告主が新聞を後援するのは、消費者集団をつなぎとめておくことなのです。

 編集者は、その手腕が問われているのジャーナリズムを支える経済事情は、ニュース報道の価値を下げる状態にあります。しかし、ニュースを伝える有能な記者が仕事をしている場合もみるのです。ニュースは、目につくはっきりした行為の形でなければならないのです。残酷なほどはっきりした行為で世間の目につくのです。
 労働問題、労働条件が悪いという事実だけではニュースにはならないのです。ニュースにできるのは、素材がはっきりしている場合、保険局がある産業地域における異常な死亡率を報告した場合です。この種のものが介在して、労働者が団結して雇い主に要求を出したときにニュースになるのです。
 ニュースは、ひとりで突出しているある一面についての報告です。ニュースは地中で種子がどのように出芽するかを語らないのです。ある出来事が、目をつけられ、客観化され、測定され、名づけられるような要素を多くもっているほどニュースになるのです。

 


新聞は社会的公正なのか

 


 リップマンは新聞のニュースの社会的公正さに大いに疑問をもっています。どんな事実をどんな印象を新聞に載せるかの選択は、新聞担当者の自由です。戦争の少し前にニューヨークの新聞担当者は1200人雇われていたのですが、世界戦争が終わった段階で大幅に減らされていくのが実態です。組織集団の誘惑からの新聞の戦略がみえるのです。おおきなニュースの場合には、そのほとんどの事実は単純ではないのです。どれを選択するか、どんな意見をつけられるかは新聞担当者の判断だからです。
 事実のなかから自分自身が選択したものを新聞の印刷にまわすのは広報担当者です。記者にイメージを提供し、記者の手間を省くのも広報担当者です。広報係は検閲官であり、宣伝家ですが、その責任は自分の雇い主に対して負うのみです。事実全体に責任を負うのは雇い主が自分自身の利益と考えている事実と一致すると判断するかであるのです。

 ニュースと真実は同一物ではなく、はっきりと区別しなければならないのです。真実の働きは、そこに隠されている事実に光をあて、相互に関連づけ、人々がそれを拠りどころとして行動できるような現実の姿を描き出すことであるとリップは強調するのです。
 さらに、ジャーナリストは、客観的な検査方法が存在しない限り、自分自身の意見、自分自身のステレオタイプ、自分自身の規範、自分自身の関心の強弱によって成り立っていることを抵抗なく認める必要があるのです。ジャーナリストは自分自身が主権的なレンズを通して世の中を見ていることをしっているのです。
 リップマンは、社会的真実は組織化され、新聞からの世論形成は、民主主義理論が要求するだけの情報量を供給することができなくなっているというのです。真実の全貌を新聞が提供してくれることを期待したら、誤った基準で判断したことになると強調します。ニュースの有限的性格と社会の無限の複雑性を正しくと理解して、自分自身の忍耐力、公共の精神、そして万事に対応できる能力が求められているというのです。
 新聞はせいぜいが制度の召使兼番人であり、悪くすれば少数の人間が自分の目的のために社会解体を宣言する際の道具になるのです。制度がうまく機能しなければ、それにつれて無節操なジャーナリストが混乱につけ込んで利益をえたり、良心的なジャーナリストが確実に見込みのないまま冒険しなければならないのです。
 新聞は制度の代役をはたすことではないのです。人々が自分自身の安定した不動の光に頼って働くときはじめて、機会があれば国民の意志決定に充分に役立つことがあるのです。民主主義のあきらかな弱点は、はげしい偏見、無気力、重要だがつまらないことへの反発心からき些末なことがらの好奇心をあおること、枝葉の不完全なものへの欲求に対して、あまりにも主導性が乏しいことになります。

 

社会学者の世論形成の役割


  リップマンは社会科学者の民主主義に果たす役割を指摘するのです。特殊な訓練を受けた法律家は、広範な真里の体系によって、政治や産業の管理運営に寄与すると考えられました。

 しかし、実際は伝統的な法律家の能力だけでは充分な助けにならないことが経験的にわかったのです。技術知識の応用によって、巨大な広がりをもった社会を正確な計画と大量分析の駆使ができるようになったのです。人間社会の支配下にいれることが可能になったのです。

 統計学者、会計士、検査士、産業カウンセラーなどの専門家という社会を管理する技術知識者が存在したのです。これらのことによって、社会科学者実証性の可能性が多いに可能になったのです。社会科学者は、自分の理論を一般の人たちにそれを証明する手立てをもつようになったのです。今まで、実験室で行われる科学よりも社会科学者は、はるかに責任は重いのですが、確実性が低いのです。
 社会科学者が議会の報告、討論、調査、訴訟事件摘要書、国勢調査、関税、税明細書などを巧みに利用して、研究するようになったのです。また、法律の一部を運用し、あるいは正当化し、説得し、主張して、自分のできるかぎりのものを生みだしているのです。
 実際問題を扱う学者は、新しい社会科学の開拓者です。学問と行動との実際的な協同から、行動はその信念を明白にすることによって、信念は行動のなかで確かめられるのです。くさびはうちこまれるのです。

 手助けを必要とするのは、一部の産業界の指導者や政治家たちだけではなく、市政調査局、議会参考図書、会社・労働組合、さまざまな有志団体によって、同業組合、市民連合、出版物、一般教育委員会などによってくさびは打ちこまれたのです。
  くさびがうちこまれることによって、主権を有する一有権者として、専門的な情報を消化することもできるようになるのです。議論に望む一党派として、立法府の委員として、政府、実業界、労働組合の一員として、争点となっている特定の問題の報告書は歓迎すべきです。一市民も何らかの関心をもって任意団体に所属して、そこでスタッフを雇って書類を研究し、役所の仕事にチェック機能を果たす報告書をつくることができるのです。
 まさに、くさびが打ち込まれたことによって、社会的に世論形成の公平性を出発させていくのです。民主主義を発展させるために、社会科学者の役割が極めて重要なのです。日本の大学において、新自由主義のもとで、経済的な価値だけを求めての科学の役割が議論されることが多い。民主主義の発展が個々の国民の創造性や努力をいかに引き出していくのかということです。

 社会科学は、実際の社会との関係で実践的に考えていく力になります。すべての科学分野においても社会科学や人文科学などが民主主義形成と科学ということから社会的に求められているのです。大学における教養教育は、この意味でも大切なのですが、実利的な経済的価値ということに狭められているのです。

 

世論の形成と市民教育・社会教育の役割

 

 リップマンからみれば、多くのひとびとは局外者というのです。特定の問題に判断を下す時間の注意力ももたない。一般的には、勝負事で困ったときの切り札として、世論をもちこもうとするときがあるというのです。そこでのあらゆる複雑な問題を一般公衆に訴えるのは、知る機会を持ったことのない人たちをまきこむことによって、知っているひとたちからの批判をかわしたという気持ちから出てくるのです。
 世論は、大きな声を出している人、巧妙な宣伝家、新聞広告の最大スペースをもてる立場から決まるのです。市民教育を受けて自分をとりまく環境の複雑さに気が回るようになるにつれて、公正さと健全性に気がつくようになるのです。

 そこでは、自分の選んだ代表者自分の代わりにそれを見守ってくれることを期待するようになるのです。リップマンは、知る機会の重要性と社会的に公正に判断できる能力形成について、考えていくのです。
 リップマンは、教育を最高の良薬でとしてみるのです。教育の価値は知識情報の伸びにかかっているというのです。多くの人々にとって、人間の制度について知っている内容は法外に貧困です。社会的知識の収集は全体的にいまだ組織化されていないのです。それは、行動の決定に伴っていなければならないのです。現実はそうではないのです。  リップマンは、以上のように、社会科学の発展、市民教育の重要性を民主主義にとって極めて重要な要件としますが、今後の課題とするのです。
 リップマンの主張から真実に向かい合い、多様性と個々が自発性をもって、理性的な判断ができるような民主主義を発展させていくしくみには、社会科学者の役割が一層に重要になっているのです。それぞれの分野において、社会科学の発展の期待と共に、それと対応した国民一人一人の住民自治能力形成、真実に向き合う社会的判断能力、自らの暮らしを豊かにしていく能力形成など社会教育の役割が大切になっているのです。多様性をもっての真実に向き合う国民の世論形成も、そのなかで充実していくのです。