社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

自由の精神と社会教育

        自由の精神と社会教育

       神田 嘉延

はじめに

 本論では、自由という課題に、精神的な理性をもった主体形成側面からアプローチしていく。社会的、政治的な意味での自由を論じることは、すでに本ブログで書いているので、それらに譲る。理性的、文化的、社会的絆という人間の総合的な精神形成は、生涯にわたり、幸福な生活を送るために必要である。それには、自由な精神の発展を、それぞれの年齢段階に応じて、豊かにしていくことが不可欠である。

 自由の精神は、社会教育によって、一定の方向性が導かれていく。また、社会教育は文化・芸術・スポーツなどの人間的精神を豊かにしていく場にもなる。人間のもつ煩悩、とらわれからの解放は、精神的な自由を得ることで大切である。

 現代社会は、無制限の欲望拡大が煽られている。このことによって、利己の世界が絶対化され、葛藤と孤立が蔓延している。自由の精神を考えることは、その克服のために、心を清浄化し、感性を豊かに、理性を持って、正しく生きることが重要になる。
 ところで、ここでいう社会教育とは、公的な公民館などの学びの場だけを言っているのではない。行政機関の社会教育的営みはもちろんのこと、社会的、地域的、職場内など、あらゆる機関や組織、あらゆる社会的機能の活動が行う様々な学びの場をさしている。

 このことを視野におきながら本稿では、社会教育と自由の関係を深めていく。この立場から、日本仏教の精神的自由、j,s,ミルの自由論、ヘーゲルの法の哲学にみる自由論などから考察していくことにする。自由の課題については、いままで、社会教育評論のブログで書いている。本論の最後に、その一覧をあげているので参考にしてもらえれば幸いである。
 
 1,日本仏教の精神的自由論

 

 仏教は本質的に他から拘束されることなく、自立して、利他に向かう自由自在の精神を求めている。仏教的に自由を見ていくことは、自己欲のまま、わがままで、自分かっての気まま、自己利益の思いのままに生きるということではない。人間が悟りをのぼっていくことは、自由自在になっていく道程である。

 自由とは他人に依存せずに、自我、意識的な自己欲を止揚していくことだ。仏教的自由は、動物的な欲を意識的に醸成していくことから解放され、清浄化した心の魂を持った人間的な自尊自立の精神である。それは、何事からも束縛されない境地になることである。

 悟りは、昇りつめて仏の心になる。心の清浄は、悟りの道である。この境地になるのには、だれでも可能性をもっているが、仏の心は、人間は欲望の塊を側面をもっており、非常に難しい。それほどに人間のもつ煩悩は強い力がある。

 煩悩を自由自在にあやつることができる力は、仏の修行を登りつめていくことである。それは、いっきょではなく、段々と身についていく。仏教的に、自由自在の境地になるのは、簡単な世界ではない。しかし、それを目標にして生きることは、自由をめざすことで、誰でも大いに可能なことである。
 仏教の般若心経では、「心無罣礙」(しんむけいげ)ということばがある。それは、心にさえぎるものがない、心にこだわりがない精神的に、自由である心境を指している。現実の世界に生きることは、人間関係、仕事、出世、名誉など心にこだわりが湧いてくる。それがときには、縛られて大きな悩みをつくる。
 また、ときには、罪を犯し、人を傷つけ、人を蹴落としていこうと悪徳の自己欲に走ることがある。まさに、人間のもつ自己欲からの煩悩である。自己欲望から、こだわりや執着心をもつ。このことは、心の網が取り巻いて、心を不自由にしていく。

 人間は、本来的に、一人で生きていくのではなく、利他で、絆の心をもつことで、人との関係をもつことによって、自由自在になる。自己欲の執着は、心の葛藤をもつ煩悩をつくり、人との関係を難しいものにすることがある。それであるから、自己欲の執着は、心の不自由を作り出していく。

 しかし、執着という未練の心は簡単になくなるものではない。ときには、大きな力になることがある。出世欲や悪徳の執着ということばかりでない。とくに、自己の希望に、強い情熱をもって、日々努力してきた人にとっては、執着は強い。絶え間ない努力は、強い志があってできるものである。未来に向かって、前向きのこだわりは大切である。前向きの未来をつくっていくことのこだわりは、自己の反省と共に、他との関係で、意見を聞き、困難なことを打開していこうとする姿勢が不可欠である。悩みという心の不安定さをつくっていことは、強い自己欲、閉鎖性のなかでのこだわりである。

 現実的に、多くは目標どおり簡単に達成できない。挫折はつきものである。非常にきつい心の痛みを伴う。それは、心の病に発展して、深刻な悩みになっていく。ときには、自ら命を絶つことさえある。しかし、七転び八起きといういうように、挫折をしても、大きな成果を達成することもめずらしくない。そこには、挫折を前向きな個性で反省し、開かれた心で創造的な世界へと挑戦していく精神を作り出すことである。個性や能力の発達も人によって異なる。

 とくに、内向きな個性をもった人のこだわりは、固定された煩悩に支配されて、執着心に縛られ、心の病になりやすい。自由になることは、「人はみな違う」ということを認識することが大切である。自分の個性を広い世界をもって、ときには、自分の生き甲斐を見直していくことも必要である。見栄をはって生きることこそつらいことはない。自分の心を開き、狭い世界からの解放が重要である。
 般若心経の無智亦無得(むちやくむとく)以無所得故(いむしょとくこ)という言葉がある。これは、知恵や損得にこだわらず、無所得の心をもっているがゆえに、自由自在に生きることができるということだ。人間は知恵を豊かにして、それぞれぞれの違いがあるが、努力することを常にする。そのことが、より広い世界が開かれる。そして、人間社会は、古来から学ぶことを大切にしてきた。
 しかし、ここで、知恵にこだわらずに生きていこうする見方を変えることは、知恵のことで苦しんでいる人にとって大切なことなのだ。生きていくうえで、生活物資がなければ、お金がなければ、苦労をするのはいうまでもない。だれでも豊かな暮らしをしたいということを考えることは当然である。この欲望を誰でも持っていることはいうまでもない。
 豊かな暮らしとは、物資的な面は最小限必要であるが、すべてではない。仏教的な小欲知足の心になるのは誰でも難しい。とくに、消費欲が煽れ、弱肉強食の競争社会では、自己欲が肥大化する傾向をもつ。ここでは、意識的な努力が絶えざず求められる。それは、肥大化する欲望に溺れて不幸になっていくからである。肥大化する物質欲にこだわっても、必ずしも幸福になるとは言えない。

 損得にこだわる人に、以外と十分に余裕がある人を多くみる。一方で、肥大な欲望を遠ざけて自由になることも一つの知恵である。生きていくことに必要な所得で、満足という人々もめずらしくない。人の幸福感、自由自在に生きるということで、損得にこだわることを捨てよという考え方は仏教的な見方である。
 「無罣礙故」(むけいげこ)ということで、心にさまたげがないことで、「無有恐怖」(むうくふ)という恐れる心がなにもなく、不安になることもないということは、自由に精神になることである。人間は数限りなく、恐怖の心を生み出して生きているのだ。
 つまり、生活の不安の恐怖、他人が自分を責めていることの恐怖、大勢の人が自分を責めているのではないかという恐怖、死に対する恐怖、死後に地獄におちないかという恐怖など誰の心にもある。遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)ということで、一切のまちがった夢想を遠ざけていくことが大切と仏教はみる。

 この遠ざけていく心には、物事は常に変化していて、いつまでも錯覚にとらわれないことを指摘している。また、不落を楽として真実の楽しみを知ることでも大切である。それには、我に執着しないことである。

 人は、志を達成していこうと心で、正しい道理を四顛倒を正すということで、妄想を無常、苦を楽、無我を我、不浄を浄としてとらわれていることを重視している。これは、とらわれていることのあやまりを解するという教えである。これらのことを転倒して、現実をみていくことは、なかなか難しいことであるが、それをひとつひとつ心にとどめていることが幸福につながっていくことになるという。
 親鸞教行信証では、自由自在ということばの内容は4つあると言う。仏の特質である不共法は、1つには自由自在に空中を飛行できること、二つには自由自在に姿がかえられること 3つには自由自在に、さまたげられることがなく、なんでもひらけること、4つには、自由自在に量り知れない知恵の力によって、すべての人の心が知れることである。 
 自由自在に鳥のように空を飛ぶことができるようになったら、どんなに心が豊かになっていくだろう。生きることが運命的に閉ざされそうになったとき、命の制限が宣告されたときに、翼をもって空を高く飛んで行きたいという自由な気持ちをもつ心境はどうであろうか。

 自由自在に姿がかえられることは、人間のすべての可能性をもつことを示すことになる。実際に生きていくうえでは、ある方向へと縛られることが少なくなることも自由自在ということか。
 ひとは誰でもこんなことをしたい、あんなことをしたという空想をもつ。自由自在に姿がかえられたらと思うのである。妨げられることがなくひらけていることは、どうしたら可能か。

 社会的に自由な境遇でない多くの人々にとっては、社会の差別や偏見、貧困問題など現実をみていくことも必要である。そのなかでも、自由自在に姿が変えられるという心境をもつことで、大きな心の安らかさを持っていくというのだ。

 計り知れない知恵をもつことは、自由自在の境遇をつくりあげていくうえで、大きな条件なのである。ここでの知恵とは、人間が生きていくうえでの能力形成で、創造力形成でもある。人の能力で大切なことで、人々を喜ばせ、幸福にさせる人間力がある。それは、人々を幸福にさせるうえで重要な能力である。
 自由自在の境遇をつくりあげていくことは、広大な慈悲の心にもなる。そして、そのことが、やがて自らの仏の教えを完成するというのである。慈悲の心は、つねに世の人の利益になることを求めて、人々の心身のやすらぎを与える。

 利他とは、人の立場にたつと、おのずと利他になる。他力の意は、仏の最上の力である。この世界では、煩悩を破って真実をさとる。このときは、自分の力で運命を切り開く。悟りをうるには、他力を頼む必要があるだ。    
 各自が自由に人々を導くためには、広大な誓いを鎧としてまとい、功徳を積み重ね、すべてのものを救って、多くの仏の国で遊ぶことも大切である。そして、各自が自由に人々を導くことは、菩提の修行を修めて、すべての仏を供養することである。このことが、仏の真理であり、清浄な道になるというのだ。海という意味は、仏の差別と平等の一切を知る知恵が深く広く果たすことになる。

 真実の知恵は、とらわれを去った無知の知恵になる。真実の知恵として、はからいを超えた法身であり、それは、清浄となる。つまり、とらわれを去った無知の世界ということで、姿、形を超えた無相の世界でもある。
 慈悲には、三つの世界がある。ひとつには、世の人を対象とするもので小の慈悲だ。二つには、心の対象となるすべてのもので、中の慈悲である。三つは、一切の対象を超えた大の慈悲である。この広大な慈悲は迷いの世を超えた善であり、安楽浄土の広大な慈悲から生まれたという見方だ。まさに、安楽浄土の仏が、阿弥陀仏の特別の意図をもった広大な弘願(くがん)の誓いになる。
 道元正法眼蔵明治23年に宗門から、簡単にわかりやすくまとめたのが修証義である。そのなかで、すべては無常で、常に移り変わるという見方である。自分の身体でも自由にならないと言うのだ。衆苦を解脱するとということで、束縛から離れて自由になること、無礙(むげ)の浄心ということで、さまたげられることのない浄化した清い心の自由の言葉が使われていく。
 修証義では、因果道理としての公平無私の善悪、過去現在未来の三世、行為に対する報いの大切を説いている。善悪の報いは、現世でなした報い、次の世で受ける報い、次の次の世以後の報いということで、この三時から道理をあきらかにして、誤った道に堕ちいらないように諭している。

 無礙浄心を生長しむるということで、何事にもとらわれない精神を強くしていくことで、それは、自分だけではなく、他人も変わるという。迷信邪教によっては、衆苦という多くの苦しみや多くのひとを解脱することはできないということだ。
  修証義では、衆生(しゅじょう)ということで、自分が救われる前に、周囲の人々を救うことを強調している。ここには、利他主義の考えが徹底している。指導者は、利他の悟りを求める菩提心を起こせばなれるということになる。どんなにみすぼらしくとも、男女に関係なく、菩提心を導くことができるのだと言う。衆生ということは、人間が生きていくに、単なる個人として考えるのではなく、多くの人に接して、人々と共にある世界で、そのおとで、思考していく人間の境界である。
   衆生の利益には、布施、愛護、利行、同事という四つの知恵がある。 布施とは、施すものが軽少であっても、よいが心が大切だ。布施をしても返礼を期待せず、自分の力で施すことが重要になる。船を運航したり、橋を架ける交通の便をよくすることも布施である。生計を立てるための産業も布施である。布施を多様な面からみている。
 愛語というのは、衆生に対して慈愛の心を発し、思いやりの言葉を施すことである。母親の深い愛情のこもった言葉は愛語のよい例である。徳あるひとをほめ、徳なき人をあわれむのも愛語になる。恨みをもっている敵を降伏させたり、君子の争いを和睦させるのも愛語だ。愛語は天子のような権力者の心も動かす大きな力があることを学ぶべきだと言う。愛語は人間の社会で大きな力を発揮していくことを教えている。
 利行は、貧富にかかわらず、衆生の利益ために、こころを砕き努力することである。修証義は、苦しめられている亀を助けてやったり、弱っている雀を助けてやったりすることに、そのいい例とする。

 恩返しを求めないで、だだひとえに利行することが、衆生の利益の知恵になる。愚かな人は他の利益を優先すれば、自分が損をすると思う。利行は、自分にも、他人にも利益になるのだ。他人の利益と自分の利益が一体になっているのが利行になるのだと言う。
 同事とは自分にたいしても、他人にたいしても不違ということで、そむかない、たがわないことである。人間界を救う仏は、人間の姿をしていることと同じである。自分と他人との関係は一体である。他人を自分に同じくして、自分を他人に同じくしていく。海が川の水を受け入れるのは同事行である。 川の水は集まりて海となるのだ。現代的に、共生社会ということが言われるが、修証義の世界には共生の世界がある。

 以上にように、何事にもとらわれることなく、衆生の利益ということが修証義での大きな教えになっている。ここに、仏教的自由と 衆生の利益が合一している。まさに、仏教的な自由自在の生き方は、利他主義的に生きる知恵を教えているのである。

 仏教的に自由になるということは、自立自尊をもって、利他の精神をもつことであり、利他の精神は自分の生き甲斐という自分自身の幸福につながっていくという見方である。

 ところで、仏教学者であった中村元は、鈴木正三僧についての自由の概念について、述べている。彼は、江戸初期で幕府の有力な幕臣関ヶ原大阪冬の陣、夏の陣で武功をたてたが、武士を離れて、僧侶になった人物である。

 鈴木正三僧にとっては、自己を知ること、自己が害われないように、自己を譲るということであった。自己を譲れば、正念を持ち、安楽して、自己を守ることになるという。人々が苦しめられているのは、煩悩であり、自己を忘れ去ることであるとしている。

 己を顧みて己をしるべしということで、自己反省の大切さを強調している。自己は否定されるべきことと、実現されるべき自己と2種類あるという。そして、真実の自己にたって生きることは、自由を考えるうえで、重要なことであると、鈴木正三僧はみるのである。

 自由は、仏教的な解脱というこになる。自己の主人、六根を自由に知るのが修行の目的である。煩悩のきずなにつながれていることと、自由な身とは正反対の概念とみるのである。究極の理想の境地は、自由という解脱になるのである。これは、自己欲望のわがまま勝手、恣意的、ほしままという意味につかわれているのでは決してない。身を捨てるということで、執着を離れることが自由になることを意味しているのである。

 真実の自由は、死における自由を体得することであるからこそ、それに裏付けられた生における自由が実現される。鈴木正三僧の仏心は、万徳円満と心に自由を使い、世界の用にたつのが正法というのである。

 さらに、国、王国の正道の正しき御代となることが、仁義五常になると言う。このことで、諸民の心が正路になるのだ。仏の心は、学ぶことで道が近くなり、渡世の営みを自由になると正三僧は強調している。

 このように、政治的レベルについても自由の精神の大切さを指摘しているのである。そして、さらに、商人の自由は、国中の自由、世界の自由を実現していく天職としての位置づけである。ここでの自由は、精神的な自由から、行動に関する完全な自律性の確保をのべていくことになる。

 そして、職業倫理との関係で、自由の概念が充実していくのである。鈴木正三僧は、著「万民徳用」で、仏教の修行に世俗的な生活での職業的な労働を強調している。職人なくしては、世間の用ができない。世を治めるのは武士なくてできない。

 農民なくしては、食物があることはできない。世界の自由を実現していくには、交易をする商人がいなくてはできない。商人、職人、武士、農民の労働が不可欠であるという見方です。それぞれの職業的倫理について、具体的にのべ、国家のあり方を論じているのである。(中村元「近世日本の批判的精神」ー鈴木正三の宗教改革の精神を参考に)

 

  2,J,S,ミルの自由論から

 ミルは、個々における意志の自由ではなく、社会的自由を論じたのである。近代社会において、支配者の権力行使から国民の自由を守るために憲法の制定を重視した。 自由と民主主義を規定した憲法は、統治者の独裁抑制のために不可欠なものである。

 その憲法によって、政府の権力は決して人々に不利益にになるように濫用されない保障をもつことができるようになった。このようにミルは考えるのである。ミルの統治者からの国民の自由を考えていくうえで、憲法の果たす役割を極めて重視した。
 しかし、一方で、近代の民主政治は、選挙によって権力を行使する人が選ばれるようになったことが、人民の意志と為政者の意志が同一体になり、国民は統治者に権力を委託するようにみえた。選挙の実際は、人々から自己を多数者として認めさせることに成功した人が権力を行使できるようになったのだ。選挙による多数者の暴挙は、圧政を予防するために社会の警戒心をもつことが必要となる。
 ミルは、選挙によって、多数の暴挙が起きることを次のようにのべる。多数者の暴挙は、「政治的圧政よりもさらに恐るべき社会的暴挙を遂行する」「社会的暴挙は生活の細部にまで浸透し、霊魂そのものを奴隷化する」「法律上の刑罰以外の方法によって、自己の思想と慣習とを、その思想と慣習とに反対する市民に対しても、行為の準則として強制しようとした。

 また、自己の慣行と調和しないあらゆる個性の発展を妨害し、個性の形成そのものを抑止し、あらゆる人々の性格が社会の性格を範として形成されるべき」ことを強制しようとする。
 多数者として選挙によって認めさせた権力者の暴挙は、人民の意志と権力を行使する人とは同じではないことを決して見落としてはならないのである。多数者の暴挙は、議会制民主主義の弊害としての多数決原理で、少数意見を尊重しての議論を尽くし、原案に対する修正も重要である。このように、少数者の意見を尊重する自由な精神が民主主義にとって重要な精神なのである。
 また、少数意見も尊重しての共同の提案も求められていく。多数決ということは、現代において政党所属の多数決で、個々の議員の意志からよりも政党の議員数によって決まっていくのである。ミルが、強調した多数決の暴挙は、現代における政党政治に多数決のなかでの一層に考えなければならいことである。

 ミルは、政治的専制に対する保護を指摘するが、かれからみれば、個人の独立と社会による統制との適切な調整は重要であるが、実際は未解決というのである。
 議会制民主主義では、個々の政治的な課題にたいしての選挙ではなく、代議員制として国民が個々の議員に精神的に委託するということで、この委託ということも多数決原理ということで、選ばれていく。

 国民が議員を選ぶ基準はなにか。個々の選挙を受ける政治家の政策課題によって、選ぶとは限らないのである。政治理念やマニフエスよりも、地縁・血縁や業界・団体の有力者からの利害関係、人気投票的な側面が強くあり、マスコミなどでよく知られている著名人、芸能人、スポーツ選手が選ばれていく。
 現代社会は、ミルの生きていた160年前の時代に比べれば、著しく都市化に伴って無縁社会が拡がり、弱肉強食の競争社会も激化して、不安と孤独も拍車がかけられている。また、科学技術の進歩で世論お形成方法も異なり、人々の権利に対する運動の蓄積によって、社会的な自由、民主主義、人権や福祉の制度も充実してきてる。
 孤独の判断について、ミルは、「ひとは自分の孤独の判断に対して自信がなければないほど、盲目的な信頼をもって、世間一般の無謬性に依頼することが常になる。各個人の世間は、かれが接触する一部分の世間である。世間という集団的権威に対する各人の信仰は、彼の属する世間である」という。自己の判断力ではなく、自分の意見、良心に基づいて行動するのは躊躇するのである。この世間の盲目的な信頼性ということ以上に、現代社会は、無関心性とマスコミなどの世論誘導性がつよまっている。
 ミルは、人間は議論と経験によって自分の誤りを正すことができるとして、真理を探究して、正しい政策の判断に、議論することの重要性を次のように指摘するのである。「経験をいかに解釈すべきかを明らかにするためには、議論がなくてはならない。謝った意見と実行とは、徐々に事実と論証との前に屈服していく。・・・主題に対して、異なった意見に耳を傾け、この主題に研究することによって、正しい判断力が身についていくのである。自己自身と他人の意見を照合することによって、自分の意見を訂正することが人間的知性の本性である」。
 ところで、個性の自由な発展が幸福の主要な要素になることをみていくことが必要である。ミルは自己の意見を実行する自由とは、自分自身の責任と危険にさせるものである。それは、同朋たちによって肉体的または精神的な妨害を受けることなく、自己の意見を自己の生活に実現していくという自由であるとのべる。個々の自由の権利には、自己責任があり、自己の生活の実現にあるという。人間は誤りのないものではない。
 人間の真理は大部分半真理にすぎない。相反する意見を最も自由に比較できなければならない。真理のすべての側面を認識しうるようになるまでは意見の相違は害悪ではなく、むしろ為になるのである。

 このように、ミルは、自由に、思考し、議論して真理探究になるというのである。自由に実行することは、個々の生活の実現ということで、それは、幸福論に結びついていくと考える。
 慣習に縛られて、個人の自発性が固有の価値をもつことを認めないことがあるとミルは次のように指摘する。道徳と社会の改革者の大多数は自発性を理想の構成要素とみなすこともしない。むしろ自発性は、手に負えない障害物となるとみる。伝統と慣習は、能力の成熟期に到達した人間の経験が、ある程度まで青年に何かを教えた証拠であるということになる。
 しかし、経験が狭隘かもしれない。経験を正しく解釈されていなかったかもしれない。経験がかれら以外の人には適合しないかもしれない。慣習は、そのつくられる環境がある。慣習が今日の慣習の適合として妥当であるのか。道徳的選択に至る人間的諸機能は、自ら選択を行うことによってのみ錬磨されるのである。慣習は何ら選択することではないとミルは、自由に選択することに、人間的な能力の発達をみるのである。
 また、人間的的能力の発達は、独創力が極めて大切である。そのためには、自由と状況の多様性が必要性をミルは次のように強調する。
 「自分の計画と自らの選択するものこそ、彼のすべての能力を活用できる。見るために観察力を、予知するために推理力と判断力を、決断を下すために、必要な材料を蒐集するために活動力を、決断するために識別力を使用し、決断するために考え抜いた判断を固守するために毅然たる性格と自制心を用いなくてはならない」。
 個性は、発達と同一のものであるという見方もミルの特徴である。個性の重要性、自由を欲求せず、自由を利用しようとしない人々に向かって、どう考えを見直してもらえるのかということで、ミルは、自由を利用することによって何らかの形で報酬をうるであろうこという体験が必要とするのである。

 独創力が人間に関する大切な要素であることは、何人も否定しない。独創性こそ、独創的なない人々にその効用を感知するこてゃできない。独創性が彼らのために何をなし得るのか。これらの課題について、明確にわかってもらうことが求められるのである。
 ところで、他人の幸福に配慮、他人の幸福を増進して、私心のない善意の努力の徳を築いていくのは、教育の任務である。この教育は強制ではなく、確信と説得によるものであって、教育の時期が去った後でも自己配慮の徳を確信と説得によって、心に植え付けていくことが不可欠である。
 まさに、生涯にわたっての他人の幸福増進、私心のない善意の行動の徳の形成をミルは求めている。この際に、人間は相互の助力によってこそ生きていくことができるということを実践的に行っていくことを示している。より善きものと悪しきものと区別できるというのがミルの見方である。
 相互の激励こそは、善きものを選び、悪しきものを避けることができるのである。人間は相互の助力によって、彼らの高い能力を行使することができるようになり、感情と志向とを愚かな目的や企画ではなく、賢明に向けて高尚な方にますます向けていくようになる。

 社会が一個人にもっている関心は、教育の役割、生涯における徳の形成であるとミルでみるのであるが、自由の判断、自由による独創性、自由による幸福の実現を重視することから、親の子どもに対する絶対的な排他的支配権による教育を否定する。国家に対しても、国民に鋳型にはめた教育を否定する。教育に費やされる時間と努力がさまざまな宗派や党派の闘争の戦場になっているとミルは教育界の状況をみていたのである。

 政府は親たちの欲する場所と方法で教育を与えるべきで、政府自身がやるべきことは、貧困な児童の授業料の納付を補助し、学費の支弁をもたない児童に学費全額を支弁すべきであるという提案である。
 ミルは国家教育について批判するのである。一律的な国家教育は国民を鋳型に入れて完全に相等しいものにしようとする。それは、国民の生活の充実の実現、国民の幸福をもたらすものではなく、支配勢力が喜ぶ教育になる。効率よく教育が成功すれば、精神に対する専制政治を確立し、肉体に対する専制政治も生み出す。

 個人は多くの場合、標準的に特定の政府官吏のように巧みに処理する能力を必要としない。鋳型にはめた標準化された国家教育は、政府の官吏的な人間像をモデルにしている。
 実際の国民の仕事は、個人自らが精神教育の手段として、個人によってなされるが、それは、政府によってなされるよりも望ましい。個人の責任による教育は、彼の能動的諸能力を強化し、彼の判断力を錬磨し、彼の処理に委ねられるからである。自由な民衆的な地方および都市の諸制度や、自発的な協同団体による生産および慈善事業の経営などで長所である。
 個人の責任の教育は、 国民教育の一部として、これらの制度を公民的な特殊訓練を与えるものとして、自由な国民の政治教育の実際的な部分をなすものであって、個人的および狭い家族的利己心の世界から抜けだし、共同の利益を理解し、共同の事務を処理することに慣れさせることになる。共同のために、互いに結合させる公共的な訓練がなければ、自由な憲法は運用させ、維持されることもできない。
 ミルは、自由と民主主義の維持のための憲法の適用を教育の分野においても重視しする。とくに、教育の公共性ということから、公共的な訓練の場として、共同の利益の理解、共同の事務、互いに結合させる公共的訓練の場としての教育的な営みとする。それを創造していくことを提案しているのである。
 ミルは著書「効率主義」では、効用や幸福の達成に、利己心と知的陶冶をのべる。外形的な面でほとんど恵まれている人でありながら、自分にとって価値がある思える楽しみを生活のなかに見いだせないときがあると言う。
 その原因は、気にかけているのは自分だけで他に誰もいない。社会に対する情感も身近な誰かに対する情感を持たない人の場合、人生にもたらす気分の高揚は大幅に失われる。利己的な利害が死によって終止符を打つ。他方で、個人的な情愛の対象を自分がいなくなった後まで残していく。人は、とりわけ、人類全般の利益に対する同朋意識の感情を育んできた。人は、死の直前まで、若く健康で溌剌として、生き生きとした関心を人生にもつ。
 さらに、人生に満たされたものを感じさせるのは、知的陶冶がある。それは、哲学者の知性ではなく、開かれたものに対する知性であり、知的能力を働かせるための教育をほどほど受けた人の知性である。

 この知性は、身の回りのすべてのことに、尽きることのない興味の源泉を見いだす。自然界の物事、芸術作品、詩の生み出す想像的なもの、歴史上の出来事、過去と現在の人々の生き方、人類の将来の見通しという具合である。

 以上のようにミルは、狭い自己快楽のみで生きるのではなく、社会的な同朋意識と役割を発揮することの公共善、知的陶冶を生涯にわたってもつ幸福感をのべる。
 自己中心的な利己主義や知的陶冶を持ち得ない境遇は、悪法や他人の意向に従属されて幸福の入手先が近くにあるのに自由が認められていないということで、幸福ある人生を損ねてしまうことがある。幸福を損ねている境遇、貧窮、病気、愛情を向ける相手が冷淡などの災厄との戦いが必要とミルは強調する。
 貧困はどういう意味で理解しても苦痛であるが、個々の人々の良識や配慮と結びついた社会の知恵によって克服していくのである。最強の敵である病気ですら、心身双方のすっかりした教育をおこなうことによって、有害な影響を適切にコントロールすれば軽くすることができる。将来の科学の進歩によって、さらにもっと直接的な形で制御することも期待できるとミルはのべるのである。
 現代は、巨大都市の人口集中によって、そこに住む人々の無縁社会化が一層に厳しく進んでいる。多くの人々が住んでいるが、隣近所との付き合いがなく孤独の現象がすすんでいるのである。農村部は、過疎化・高齢化ということで、従前にあった地縁組織が機能しなくなり、孤立化がみられる。
 災厄の対策においては、無縁社会に対する仲間づくり、助け合いの組織づくりが大きな課題になっている。社会保障を個々の生活の問題状況に対応してのきめの細かい施策が求められているが、一方では社会福祉行政の画一化と官僚化もすすんでいる。このようななかで、幸福に暮らすための社会教育の充実は極めて大切になっていることを見落としてならない。

 

 3,ヘーゲルの法の哲学よりの自由論

 ヘーゲルにとって、法の地盤は総じて精神的なものとする。法の開始点は、意志であるということから自由の意志とみる。つまり、法の体系は自由の王国とみる。意志と自由との関係から法をみると、法の精神は知性であるという。人間の意志は、感情から表象を経て、思惟へとすすんでいく。

 その過程は、精神がおのれの意志として現れる。意志は自由なしには空語であり、自由もまた、意志として、主観、主体をもって、はじめて現実的となる。
 人間は思惟によって動物と区別され、意欲することに特徴をもつ。思惟は理論的態度で、意志は実践的な態度である。思惟することで感性的なものを取り去って行く。実践的態度は思惟と自我そのものにはじまる。実践的、活動的であることによって自分を規定していく。ヘーゲルはこのように人間にとっての恣意することの重要性をみる。
 動物は、本能のままに行動し、欲するものを表象しない。このために動物は意志をもっていない。自由が現実的な形態として情熱にまで高められ、それがどこまでも感傷的でしかないときに空虚の自由となる。
 否定的な自由は、特殊化と客観的規定を絶滅させる。ここには、自由の自己意識を生じさせる。つまり、自由の自己意識は、それ自身抽象的な表象でしかありえない。人間のみがおのれの生命をも放棄することができる。

 動物は、それをできない。動物は、おのれの規定に、ただ慣れるだけである衝動や欲求など、即自的に自由であるだけである。その意志は、直接的に自然的意志である。まさに、自殺というのは、人間の意識的な欲望拡大や権力・権威志向からの見栄からの葛藤という自己意識の破滅から起きるのである。ヘーゲルがのべるように人間のもっている恣意することで、動物と異なる自己意識をもつことによって自殺が起きるのである。
 意志の自由は、反省と内的ないし外的に与えられた内容と素材への依存である。自由という場合に、心にある普通の表象は、恣意の表象である。それは、自然的な表象と反省とのもとである。

 世間では、自由とはなんでもやりたいことをやることができると言われる。そのような表象は、まったく思想の形成ないし教養を欠いたものである。そこには、自由の意志というものに、権利、法、倫理ということの観念がない。

 意志の自由は、ヘーゲルにとって、自然的なそのものではないとして、表象、反省という人間の目的性があることを強調している。自由は何でもやりたいことをやるという自然のままに感覚的に動物的な行動を指していうのではない。
 自由ということで、ヘーゲルは、恣意と選択の自由を問題にする。恣意と選択の自由ということで、あれやこれやと自分の自分の選択しうる普遍的な可能性があるならば自由になっていく。このことは真理であるのか。

 普通の人間は、恣意的に行うことがゆるされているときに、自由であると信じる。ヘーゲルは、人間があれやこれやと欲しうる意志にとどまっているかぎり、人間は自由であると。

 しかし、ひとつ内容が与えられたものに固持するならば、この内容に規定されて自由ではなくなる。ヘーゲルがひとつの内容に固辞すれば自由がきえていくという指摘である。まさに、固定された内容に固辞していく自由がひとの心をしばっていくのである。この指摘は、考えさせられる内容である。選択の自由をもっていることが、精神的に固辞していけば自分の心が不自由になっていくという指摘にもなる。
 ヘーゲルは、奴隷には自由を知らないという述べる。奴隷は、自分の本質、自分の無限性などを知らず、自己を知らないので、自由を知らない。自由な意志は、単なる可能性、素質、能力ではなく、現実的に無限なものである。概念の対称性の外在態が、内的なものになるから、自由の意志そのものが、現実性と現存在をもつようになる。
 普遍性という概念は、自己意志に内在なものがあり、思弁によって把握されたことで理性的になるとよばれる。主観的なものといわれるのは、意志の即自的にある概念と区別された個別性の面である。自分の置かれた状態を自己認識できなければ自由の意志をもたない。
 ヘーゲルの見方で、奴隷は自由を意識しないという。奴隷が奴隷のままであまんじているならば、自由の意識をもたないことになる。奴隷が奴隷ではないと思う開かれた境遇になることによって、人間的な自由の意識を持ち始めるのである。
 ヘーゲルは、自分の自由が自分自身の理性的体系という意味において、直接の現実であるということになる。そして、自分の自由が客観的なものになると指摘する。それは、自分の目的を主観的規定から客観的規定のなかへ移し込むことになると言う。そして、客観性のなかで同時に自分のものにありつづけることになる。

 ヘーゲルは、自由な意志の現存在であることが法ないし権利とする。また、それは、自由の理念になるという言うのだ。法や権利は、神聖なるものにみえるのは、絶対的概念の現存在、自己意識的な自由の現存在であるからと考える。
 ヘーゲルは、自由の概念の発展段階は、それぞれ独自の法と権利の概念をもっているとみる。道徳や倫理と、法や権利との対立ということから論ぜられるのが最初の形式的な、抽象的人格性の法や権利とする。
 ヘーゲルは、自由な意志の三つの発展段階についてのべる。第一は、直接的である。それは、抽象的であり、人格性であって意志の存在は直接的な外面的なことである。第二は、外的な現存在から自分のなかへ折れ変わった自己反省の意志である。それは、普遍的なものに対して主体的な個別性として規定される。

 普遍的なものとは、内的なものとして善であり、外的なものとして、現在世界である。この二つは、相互に媒介されて理念の両面になる。主体的意志として道徳圏になり、世界として、法や権利となる。
 第三は、思惟された善の理念が、自分のなかえ折れ変わって、反省した意志と、外的な世界とにおいて実現されることになる。自由は主体的意志として実在しているのと同じように、現実および必然として実在している。
 ところで、ヘーゲルは、倫理的実体も第一に自然的な精神としての家族をとらえる。第二に、分裂と現象において、市民社会を考える。第三に、特殊的意志の自由な自立性として、普遍的かつ客観的自由としての国家をみるのである。国家の倫理は、個人の自立性と普遍的な実体性との関係で、とてつもなく大きな合一が起きている精神をみる。これが、国家の倫理である。
 倫理とは生きている善としての自由の概念であるとヘーゲルはみる。生きている善は、おのれの知と意志の働きからなる自己意識であり、自己意識は、行動を通じておのれの現実性の意識となる。他方、自己意識もまた、倫理的存在をおのれの存在している基礎として捉え、おのれを動かす目的とする。

 倫理とは、現在世界とともに自己意識の本性となった自由の概念になる。倫理的実体とそれのもろもろの掟と権力は、主体にとっておのれのものではない。それどころか、主体は自身の本質である精神の証になる。それは、おのれの自己感情をもつほどの本質である。
 個のことは、ヘーゲルの見方にとって、個人にとって意志を拘束するところの様々な義務になる。拘束する義務が制限として現れるのは、ただ無規定の主観性、抽象的な自由にに対してだけと考える。

 また、拘束義務は、自然的意志の衝動、あるいはおのれの無規定の善を、おのれの恣意で規定する道徳的意志の衝動に対してだけとなる。個人は義務からの解放として、自然衝動の従属からの道徳的反省とする。

 そして、おのれのうちにとじこもっている非現実性の無規定からの主観性の克服をみる。義務からの解放によって個人は実体的自由を得ることができる。ヘーゲルは意志を拘束することと義務との関係で、自然意志の衝動を考えるのである。
 ヘーゲルは、権利と義務との関係は一体性とであると強調する。奴隷は、義務をもつわけがない。ただ自由な人間だけが権利と義務をもつ。一方の側にすべての権利があり、他方の側にすべての義務があるとすれば全体は解体する。義務については、人間の自然衝動からの道徳的反省をもつことで、それに伴って権利をもっているということになる。
 ヘーゲルは、子どもの扶養、教育について、義務と権利の関係で述べる。子どもは共同の家族資産で扶養され、教育される権利をもっている。両親が子どもに奉仕として要求する権利は、家族のために配慮する共同的なものである。

 人間はあるべき姿を本能的にそなえているのではなく、努力によってそれを勝ち取るものである。教育されるという子どもの権利は、家族の共同体的配慮にに基づいているというのである。子どもに奉仕が許されるのは、奉仕が教育だけを目的とし、教育に関係しうる場合だけである。子どもは即自的に自由な者であり、その生命はひとえに、この自由の直接的現存在にほかならない。

 子どもには、家族関係から愛と信頼と従順の心情的倫理の形成がある。また、生来の自然直接性から抜け出して、独立性と自由な人格を高めていく能力形成の側面がある。ヘーゲルは子どもの奉仕と教育されることを一体的に捉え、奉仕のみの関係は親との関係で全くないとしている。まさに、子どもは愛情と信頼の基で、独立性と自由なる人格形成が最も子どものあるべき姿なのである。
 ヘーゲルは労働と教養について次のように述べる。陶冶としての教養は、より高い解放のための労働である。感情の主観的な自惚れや個人的意向の気まぐれを克服するのは、厳しい労働である。

 厳しい労働は、主観的意志そのものがおのれのうちに客観性を獲得していくのである。労働によって得られる実践的教養は、欲求の産出と仕事一般の習慣、おのれの行動を材料の本性に従って、他人の恣意に従って制御する習慣である。労働の役割について、ヘーゲルは、実践的教養を身につけるとしている。それは、他人の意志に従って、制御していく習慣が身についていくとするのである。
 また、労働は、訓練によって身につけた客観的活動と運用する技能の習慣にもなると述べる。ところで、労働における普遍的な客観的側面は、抽象化される。抽象化は、手段と欲求の種別化をして労働の分割を生み出していく。労働の分割によって、いっそうに単純化し、労働の技能も、生産量もいっそうに増大する。

 生産活動の抽象化は、労働活動をますます機械的にし、機械をして人間の代わりにすることを可能にしていく。労働の分業の社会的役割の変化についてもヘーゲルは人間の機械への従属の可能性をもっていくと指摘する。
 ヘーゲルは、市民社会と労働の関係についても述べる。労働には、第一に個々人の労働によって、欲求を媒介として、すべての人々の労働を欲求充足との関係で満足させる必要があると考える。

 そして、第二には、自由という普遍的なものの現実性をみるうえで、所有を司法活動によって保護することが不可欠とする。第三には、偶然性についてあらかじめ配慮して、福祉行政と職業集団によって、特殊利益を一つの共同体なものとして配慮することを求める。 
   ヘーゲルの近代国家の見方は、具体的自由の現実性と考える。具体的自由とは、人格的個別性とそれの特殊的利益があますことなく発展して、それらの権利が承認されている状態を言う。また、おのれを通して普遍的なものの利益に変わり、他面では、自ら同意して、この普遍的なものを承認し、おのれ自身の実体的精神として承認していくことが不可欠となる。
 ヘーゲルの近代国家の本質的考えは、普遍的なものが、特殊性になるところの十分な自由と、諸個人の幸福とが結びつけられる必要があると言う。それゆえ家族と市民社会との利益が国家へ総括されなければならないことになる。私的権利と私的福祉、家族と市民社会に対して、国家は一面では外面的必然性になっていく。

 国家は、それらの上に立つよりも高い威力であって、それらの法律も利益もこの威力に従属していく。他面に、国家は、それらの内在的目的であって、国家はおのれの強さを、おのれの普遍的な究極目的と諸個人の特殊的利益との一体性のうちにもっている。
 ヘーゲルの考える諸個人は、権利をもち、国家は義務を果たすという関係になる。憲法は理性的本性をなすものであり、国家の諸制度の諸個人の信頼と心術の土台になるとみるのである。ヘーゲルは、公共の自由の土台に憲法があり、諸制度の自由が実現されるとともに理性的になっていいくと考える。これらは、即自的に、自由と必然性の合一である。
 主体的自由の権利は、提供すべき国家の勤めが普遍的価値の形式において要求されることによってのみ実現可能となる。国家体制ないし憲法の二つの面は諸個人の権利と勤めにかかわる。

 形式的自由は、個々人が普遍的要件たる公事に関して自分自身の判断と意見と提言をもち、それを発表することにある。この形成的主体的自由を世論と呼ばれるとヘーゲルは主張する。普遍的なもの、実体的に真なるものと、反対に多くの私見ということで個人独自の特殊的なものと結びついているものがある。

 言論の自由は、国家体制が理性的であり、政府が堅固であり、さらにまた、議会が公開され、そのなかでの統治で、無害となる。言論出版の自由は、自分の欲することを語り、かつ書く自由である。それは、自分の欲することとするに等しい。無限に多種多様な形でのべられる私見のきわめて特殊な偶然の面の内容にもなる。
 ヘーゲルの考える勇気は、特殊な目的、占有、享受、生活から自由ということである。勇気の価値は国家主権という真の絶対的な究極目的のうちにある。勇気は自由の放棄と自由の顕現の矛盾のなかにある。愛国心等の民族精神の有限性から国家連合によるあらゆる仲裁の永久平和の特殊的主権になる。
 ヘーゲルは、国家間の争いを解決していく方法の条約について次のように考える。それは、特殊的意志の合意を見いだすしていくものである。条約は、特定の利害関係からの特殊な知恵になる。これは、普遍的思想ではない。民族精神の有限性からの普遍的精神、すなわち世界精神が生まれていくという弁証法である。

 それは、世界史の見方からでてくる。世界史は精神の自由の概念からの理性の諸契機の必然的発展であり、したがって、精神の自己意識と精神の自由との必然的発展である。これは、普遍的精神の展開であり、現実化である。
 ヘーゲルにとって、国際紛争の宥和や解決は、感情において、信仰、愛、希望として顕現することになる。この原理の内面性はおのれの内容を展開して、それを現実世界と自覚的な理性的状態へ高める。これは自由人の心情、誠実、協同にに基づく世俗の国である。これに対して粗野な恣意、未開の国が知性的な国と対立しているのである。

 この二つの対立は、激しい闘争をしながら対立は骨抜きになって、思想、理性的な存在と知の原理、法の理性的状態へと高める作用をもって、同時にひとつの統一体と理念に根ざしていくのである。
 ヘーゲルの自由の精神は、動物と異なって、人間のみが恣意をもって自己意志をもつということから出発して、人間のもつ欲望や衝動、感情を人間的理性によって、主体的に自由になっていくことを指摘しているのであった。そして、主体的自由をもって、人間の欲望や感情を道徳をとおして現実化していくというのである。そして、家族、市民社会、国家のその発展次元に即して、権利や義務、労働と教養、労働と自由、国家間の紛争と理性などの問題を深めているのである。自由ということを精神的な人間主体の観念の世界から深めているのがヘーゲルの特徴である。

 マルクスは、ヘーゲル法哲学を批判する。私的権利、私的福祉という家族と市民との掟と利益は、国家の掟と利益に衝突する場合に、後者の利益に従属しながら席をを譲っていく。このことから、自立的なあり方を狭め、外的な間柄になっていくとマルクスはみる。本来的に、市民社会の個人の境遇、個人的自由、自己の職業の選択は、国家が前提とされていくのであると。そして、国家利益の目的は、普遍的なものであり、民主制や共和制は、普遍と特殊が一体性になる。

 つまり、ヘーゲルは政治的国家を社会的存在の最高の真実として描くことができなかった。国家は政治的国家として存在するのみであり、政治国家の全体性は立法権である。立法権に参与することは、政治国家に参与し、市民社会の政治的存在になる。市民社会の政治的社会の現実化の努力は、立法権への一般的参与の努力のみになる。個々人ははじめて、現実的にかつ意識的に社会的機能として政治機能に入り込むとマルクスはみている。

 

 神田 嘉延の社会教育評論のプログで書いた自由論の一覧

マルクスから学ぶ社会的自由論 - 社会教育評論 (hateblo.jp)

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ラスキの「近代国家における自由」から生活苦と無知の解放 - 社会教育評論 (hateblo.jp)

自由への社会教育:カール・ポランニーの社会的自由論から - 社会教育評論 (hateblo.jp)

アレントの公的自由論と市民による統治参加 - 社会教育評論 (hateblo.jp)

共生・協同の社会形成と社会教育ーマンハイムの「自由・権力・民主的計画」から学ぶ - 社会教育評論 (hateblo.jp)

ハイエクの「自由の条件・自由の価値」から人間らしい自由な労働過程の創造 - 社会教育評論 (hateblo.jp)

ハイエクの著書「法と立法と自由」から考えるルールと秩序ある社会の形成 - 社会教育評論 (hateblo.jp)

自由の秩序なくして真の自由はない-社会教育の役割 - 社会教育評論 (hateblo.jp)