農業教育の歴史から現代的に学ぶことは何か
神田嘉延
はじめに
日本の近代化の農業教育はどうであったのか。地域の振興にどのような役割を果たしたのか。
日本の近代化は、生糸、絹織物が輸出産業として大きな位置を占めました。それらは、農家の優れたすぐれた養蚕があってこそ可能であった。生糸も農家から供給あれた女子労働者が、高級な生糸を作り上げたのである。絹織物業も同様であった。日本の急速な経済発展は、輸出産業としての生糸や絹織物が大きく貢献したのである。地方の様々な地場産業の発展も農産物を基盤に展開した。ここでは、日本の地域での実業教育において、農業教育が大きな役割を果たしてきたことを見落としてならない。
ところが、日本の重化学工業の発展は、農村からの労働力提供という意味をもったが、農業教育とは直接に関係をもっていなかった。
しかし、農村における小学校などの国民教育の勤勉的な人格形成や集団性という側面から意味をもっていた。戦後は、農村からの労働力流出が急速に進み、地域での農業教育は大きく後退していく。
農業後継者教育としての農業教育も大きく限界になってきた。今日、狭い農業後継者教育という視点のみではなく、持続可能性の社会、地域循環経済、脱炭素、脱プラスチックということから考える時期になっている。
つまり、新しい経済社会の形成という視点から農業教育が注目をもつ必要がある。資源を略奪していく工業原料、有限の鉱物資源から無限に再生産される農業林業があらためて未来産業として注目されるのである。
これは、セルロースナノテクにみられるように、科学技術の著しい発展の結果である。このような、新しい時代状況を踏まえて、近代化における農業教育は一体、どうであったのか。この評価を現代的な課題の視点からみつめることに本稿の試みるである。
1,明治の近代化における農業教育
明治初期の政府が進めた農業教育施策は,近代的な欧米農法の導入を積極的に行うために農学校を設立した。当初は、国家的な農業施策のリーダーを養成することが目的であった。
つまり,上から欧米農法を農民に浸透させようとしたことである。そして,それは士族授産としての開墾政策であった。欧米の大農具による耕作奨励,輸入の農作物・種苗の奨励など農業技術の開発施策である。
国家の農業施策のリーダー養成の駒場農学校,札幌農学校は士族の子弟が数多く入学しており,ここでは外国人を雇用しての学校運営であった。
勧農政策の積極的な府県は,農業試験研究機関や農学校をもっていた。実業教育に関する最初の法令として、明治16年に「農学校通則」の交付であった。この農学校は、文部行政の権限の中でつくられたのである。ここでは、実際の農業をめざすたための農学校として、第一種の2年制と農業指導者をめざす第2種農学校に分かれた。このときの農業学校で最も創立が早かったのは新潟県である。
農学校は、明治16年の頃に石川,岐阜,広島,福島,福岡,鳥取,山梨にもあった。それらは2年間から3年間の修業年限であり、旧制の中等学校卒を対象したものである。
その目的は、府県の農業指導者を養成するものであった。在籍数も多いところで、石川の43名である。山梨は15名にすぎなかった。実際には、農事講習所などの農学校通則に準拠しない機関が主流を占めて、農学校通則は明治19年に廃止されるのである。文部行政の農学校は挫折するのである。
農務省は、明治18年に「農事巡回教師」の制度をつくり、駒場農学校の卒業生や老農を巡回教師として採用した。
この農事巡回教師の教育事業は直接的に農民に対して農商務省の行政が体系的に農事指導を行った最初のものである。この制度は科学的農業知識を担当する甲部巡回教師と経験的農法をもった老農による乙部巡回教師に役割を分担させての農業改良教育であった。
この制度も明治26年の国立農業試験所の設立によって廃止されている。農事巡回教師の制度も8年間で挫折するのである。
欧米農法では日本の農業生産構造に通用しないということを悟ったのである。農学校の卒業生達は,在来の農法を出発にして農業改良を進めていこうとする。この動きが活発になっていった。この中で「老農」といわれた在村の農業指導者の人々が評価されたのである。明治10年頃から明治23年頃まで老農による農業改良が勧農施策として進められていくのである。
農談会,農事会と呼ばれて各地で農業講習・農民の研修会がもたれていくのであった。老農の活躍は農学校で学んだ欧米農学と現実の日本の条件にあった農業改良が大きく遊離していることを明らかにしていった。
ここには、日本の自然的条件と家族的農業経営という地主制のもとでの小農ということでの西洋式の大農経営や生産力主義の科学的農法との関係の矛盾があった。
そして、陰陽説等の自然循環的な見方や、在来の合理主義的な経験農法を取り入れていった老農と農学校で学んだ自然科学的な科学的農法との関係が大きな課題となったのである。
明治27年に文部省管轄の簡易農学校が発足している。これは農商務省系統で行われてきた農事講習所をより組織的に実施するために、文部省の学校組織系統に編成したものである。簡易農学校は開設時期を地域の状況によって自由にでき,巡回教師の方法の継承にもなるのである。入学資格は年齢14才以上ということで学歴の制限は全くなかった。ところで明治32年の実業学校令の発布によって簡易農学校は廃止され,新たに制度化した農業学校に編成されていく。
実業学校令による農業学校は14才以上の高等小学校卒を対象にしての3年制から4年制の甲種農学校, 2年以内の予科・補習科と12才以上尋常小学校対象とする年齢制限3年以内の乙種農学校になり、簡易な形態をとる別科という形態で出発した。
実業学校令によって中等教育としての農学校が急速に整備されていく。農村の指導者養成としての要求から簡易農学校のときより,一般教養や農民文化の精神領域が充実していくのである。ここに農業の技術の専門知識・実習の面と一般教養としての普通教育の統一が問題になっていくのであった。
ところで、 府県の農業試験所は明治32年の農業試験所の国庫補助法により全国に作られていった。その補助法が出来る前は農業試験所があったのはわずか13府県にすぎなかった。農業試験所の設立は農業巡回教師の活動を継承する役割があり,研究的試験よりも応用的なものが重点なのであった。
高等小学校での農業科の付設は明治33年の小学校令改正のなかにも規定されているが,そこでの農業科目の位置は農学の知識を修得させることばかりでなく,勤勉の心を養うことが出来ることを強調している。
小学校令施行規則13条にはそのことが次のように述べられている。「農業ハ農業二関スル普通ノ知識ヲ得シメ農業ノ趣味ヲ長シ勤勉利用ノ心ヲ養フヲ以テ要旨トス」。明治40年の小学校令改正により尋常小学校が2年延期され6年制になることによって,高等小学校の農業,商業,工業の付設が重要視された。高等小学校に職業の付設かより一層に職業教育への国民教育としての位置づけが促進されていく。
高等小学校の農業科は毎週授業数2時間と規定されていく。そして,小学校においての農業実習地を借入地でも可とするようになる。
さらに,明治44年の小学校改正令により高等小学校の実業科は必修となるのである。まさに、国民教育としての職業教育があたりまえのように行われていくのである。
ところで、小学校に付設された夜間や季節的に学ぶ実業補習学校の役割も極めて重要である。実業補習学校規定の公布された翌年の明治27年井上文相は実業教育政策の一環として実業教育国庫補助法を作っている。
この国庫補助法によって全国的規模で実業教育へ国家財政が投資されていく。公立の工業学校,農業学校,商業学校,徒弟学校および実業補習学校に対して全国で15万が国家財政より投資されるのである。各学校の負担額は設立者の2分の1以下として文部大臣の必要と認めた学校に交付されたものであった。
農業学校,工業学校,商業学校等の実業学校が増大していくのは実業教育費国庫補助法と並んで明治32年の実業学校令であった。とくに,農業学校の増大は著しく,明治27年9校であったのが明治33年に56校,明治41年の尋常小学校6年制の実施のときは実に180校に膨れ上がっている。明治27年から明治41年までの農業学校以下の実業学校の増大をみれば,工業学校は7校から31校,商業学校は9校から71校となっている。このことからわかるとおり他の実業学校に比較して農業学校の増大が明らかである。
ところで,実業補習学校においては農業補習学校の増大は他の実業補習学校に比して極端な伸びをみせている。農業補習学校は明治27年26校であったが明治41年には4,185校と急激に増大していくのである。これに対して工業補習学校は9校から252校,商業補習学校は20校から215校である。明治41年では農業補習学校が実業補習学校全体の中で学校数で88%,生徒数で83%の高率を占めるようになったのである。
農業補習学校の普及を考えていくうえで従前にあった青年の自主的な夜学校の存在を無視することはできない。つまり,青年の夜学校から実業補習学校の転換がみられたところが少なくないのである。
明治初期の欧米式農法による農業改良政策は,日本農業には適応せず,在来農法の再評価により農談会の講師として,農村巡回教師をして老農が活躍していく中で進められていく。
老農の活躍時代は,明治10年頃から明治20年頃であった。そこでの農業改良は,品種改良,施肥中心の多肥多労働型農法の延長による農業生産力の増大策であった。例えば,馬耕式の産米改良運動もその一つであり,地主的要求に基づくものである。
駒場農学校で欧米の近代農学を学んだが、それは日本の稲作や養蚕に、ほとんど役に立たなかった。「農学興って農業亡ぶ」という有名な文句をのべた横井時敬は、科学的な農法ということで、塩水選種法をあみだした。
明治15年に福岡農業試験所に赴任したが、そこで、科学的農法と地域での老農による農法を結合させたのである。福岡県には、「明治三老農」の一人林遠里がいた。明治10年から20年代における在来農法の見直しの農事改良活動家がそれぞれの地域で活躍した。
かれらが老農と言われらが、その思想は、地域の条件に即して経験的な合理性の基での在来農法と陰陽説の自然循環の見方からの農事改良であった。
横井が林遠里の名声に対抗するための武器は、近代農学であった。地域の老農たちなどとの交流の中から、横井が生みだした技術が自然科学を応用した塩水選種法である。
塩水選種法は、近代農学最初の成果である。それは、画期的な農民的技術であった。まさに、老農の農法と近代農学が結合しての新しい農民の技術になったのである。
横井時敬の塩水選手法は、優良な生育できる種子を選別する選種法として、種子を一定の濃度の食塩水に入れ、浮いたものを取り除き、沈んだものを種子として採用する方法である。横井時敬は福岡県の農業試験所で7年間勤務して辞職している。横井時敬は、明治36年の実業教育に就いての講演で次のようにのべている。
福岡県の7年間の農学校の勤務で、農学校は効能がない、無用のものであるという議論が盛んにあった。県会では、実業教育を道路工事と同じように、結果がすぐにあらわれるように速効の結果がでるとみている。
農業は速効がすぐにでるものではなく、それを求めるべきものではない。速効を求めることは干渉主義である。廃止論が盛んにあったが、しかし、福岡県の農業試験所は、農業生産の改良発達における日本の模範になったのである。横井事件は、塩水選種法などの科学的農法の創造や農業教育の福岡での実績をもって、自信をもって、農業試験や農業教育において、速効的なことでみてはいけないことを後に講演している。
さらに、横井時敬は、青年教育において、普通教育ばかりではなく、職業教育をしなければ国民は満足な生活が出来ず、詐欺などの悪事を働き、国民は決して満足な生活ができないことを次のように強調している。
人間は生活していかねばならず、職業教育は子弟が身を立つ基となるので、普通教育だけでは世の中で役にたたない。普通教育だけでは食べる道をえないから常に不満足を感じ、悪いことをする。
士族にしても普通教育を受け、徳育も高く、こころざしを大きくするが、詐欺を働くようになる。とくに、多くの無産士族に多い。高い教育を望むのは大いなる間違いである。最後の教育として必ず職業的なことがしなければ満足を得る国民になることができない。横井時敬は、農業地方は、農業教育、都会は商工業教育、貧民の如きは実業補習教育を推進をあげているのである。
日本民族と農業ということで、横井時敬は、工業発展、工業立国ということで、いたずらに工業を盛んにして、他国に出て売らんとすることは危険な事であるという。
経済のもとは農業である。農業が発達して、工業も商業も自然に発達していく。日本は農業に適した自然条件をもっている。気候の悪いところでは疎放なる農業をしなければならない。工業は都会で行われて発達し、農業者がやってきた小工業は段々と取り上げられていった。
農業者の手にある工業を発見することも必要である。織物業である絣は農民の婦女の手によっている。絹織物についても同様である。農民兼工業者で、農民の収入が維持している。
日本が近代化の道を歩みはじめたときに、普通教育ばかりではなく、青年教育にとって最も大切なこととして、職業教育の重要性を指摘している。その職業教育は、速効的なものではなく、人間として生きていくための基本的な糧をえるための人間的な技のもった知恵である。
地域での農業改良を積極的に展開するうえで、農会の果たした役割は大きかった。その農会を全国的に組織したのは、明治14年に結成された大日本農会である。農会は、販売農産物としての品質向上の地主的要求の農業改良運動の組織化であった。地主はこの段階において豪農的な手作地主の性格が強く,農業経営に足を踏みこんでいたのが少なくない。
農会法は,明治24年に政府案として国会に提出されたが,この法案は流産した。明治20年代は地主層を絶対主義的天皇制の基盤へと確立していく時期でもあり,明治24年の政府案の農会法は,農会を系統化して絶対主義的天皇制に農事指導の側面からも統制しようとするものであった。それが組織化しつつある地主的要求を強くもっての農事指導の国家統制策でもある。
明治24年の政府の農会法案は,農事試験所,信用組合とともに農事三法案として国会に提出されたものであった。農会の系統化は農商務大臣井上の第1回農学会総会(明治21年12月)での農業振興方策について諮問されている。農商務大臣井上は,大農法での農業振興論者であった。
地主が農業改良に大きな関心を示したのは,粗悪の農産物に対することであった。それは,地主的な農産物市場での品質の向上策であり,地主の農業活動の側面からの要求である。したがって,地主の直接的な農業生産への要求が生産力発展の側面以上に商業的活動からの要求が前面に出ているのである。
明治23年(1890年)小学校令で徒弟学校と実業補習学校が小学校の種類として規定される。1899年(明治32年)、 実業学校令が公布され、「工業・農業・商業等の実業に従事する者に対して必要な教育を施す機関」が生まれる。中学校に準じる実業学校が生まれたのである。国民教育に必要な教育と職業教育の二本柱のカリキュラムができる。この考え方は、その後の日本の職業教育の基本として継承されていく。
大正期に入り、日本の教育を抜本的改正していこうとする。臨時教育会議が設置された。臨時教育会議は、1917年(大正6年)に基づき内閣に設置された教育に関する重要事項を調査審議する諮問機関である。
1919年3月の第30回総会をもって終了した。1.小学校 2. 男子高等普通教育 3.大学教育及び専門教育 4.師範教育 5.視学制度 6.女子教育 7.実業教育 8.通俗教育 9.学位制度 の諮問を受けた九つの課題について答申した。
実業教育の現制度は概ね現状のままでよいこととしたが、国庫補助の増額になった。徳育などを重視して人格の陶冶に務めるということで、公民教育が重視されていくのである。実業学校と実業界との連絡協力を密にする方策だだされた。
実業補習教育は、すべての青年に義務教育とするよう努力して、実業補習学校の特に程度の高いものは制度上別に認め、その職員の待遇についても小学校教員の兼務ではなく、独自な教員として配慮することとなった。
この答申により、実業補習の義務教育の速やかな実施を求めたことは,各府県の教育会,農会等で大きな要求事項になっていく。専門的な職業学校として各地に充実させていくということばありではなく、青年における公民教育の重視も加えながら、地域で実業補習教育を充実させていく方向になったのである。この実業補習学校の多くは、農業補習学校として、高等小学校に付属した補習学校として各地で充実していくのである。
2,明治の農村振興と教育
ところで、明治の用水事業においてもヨーロッパの近代的効率の工法と日本の伝統的な工法とのぶつかりがあり、事業推進に地域住民の協力が十分に行われなかったことが南九州の霧島山麓の都城における前田用水事業にみることができる。そこでは、考え方の見直しと地域の農村振興のための教育活動との結びつきによって、立て直しが行われたのである。
明治に日本の聖農と言われた石川理紀之助は、秋田県を中心として農村の開発のための社会教育活動を熱心にした人物である。
南九州でも、前田正名に依頼されたかれの活動は、地域の振興に大きな影響を与えた。困難をかかえた都城の山田の前田用水路開発達成に、かれの私欲を棄て、貧しい農民をいかに豊かにしていく教育は光るものがあった。
石川理紀之助の経済14ヶ条は現代でも通じる大切な教えである。自分は動かないで他人にやらせてはいけない。自分が先頭に立って手本を示し、人を動かすこと。お金のみ頼りにする事業は破産しやすい。農家の経済は単に金持ちになることではない。
借金で苦しんでいる貧農を地域全体の借金として考えて救済する。地域の経済力を高めることを地域みんなの協力のなかで、一人ひとりが努力する。このための地域の社会教育の大切とするのである。
石川理紀之助は、1867年23歳のときに、耕作会をつくり、毎月の休日を定め、農事の研究をして、わらじをつくって貯蓄した。この会合は、1877年(明治10)に勧農会になり、県内の農談会に発展した。そして、郡農会の基礎となった。1872(明治5)年秋田県庁勧業課に奉職する。しかし、1883(明治16)年に県庁を辞している。それは、貧困の農家経済を救済し、発展させるために、専念するためである。
石川理紀之助は各地の講演で、強調したことは、まずは、リーダーのあり方である。「寝て居て人を起こす事勿(なか)れ。」自分は動かないで他人にやらせてはいけない。理念を実行するには、よく調べ、工夫して、勤勉のみが安心になること。山林、原野、道路等の村居、耕地、水利、民という村徳の原簿を調べることであるとする。
ところで、農産品評会は、勤勉の方法を保護するのが目的である。優劣を検査査定して実際に益をなすことで、賞を貪るためではない。品質のよいものをつくることが目的である。
山林養成は、一部落の用をなすのみならず、すべての土地はその所有地に一般の用に供する義務がある。山林の養成は公私にかかわらず、適応の樹木を取り立てて公有の用にすべきとする。山を荒すものは子孫絶え、田を荒らすものは家滅ぶことになる。山林は、水源にも最も関係あるものであり、山林がくずれれば、洪水の害となるという言うのである。。
地域の歴史の文化財は、よく調べて子孫に伝えるために部落ごとに保存することを実践した。寺社の古書散失せり、古書たとえ一片ものにてもよく保存したのである。旧蹟土地・村内古書・風景・古碑・石器、何れも後世の参考となるべきものにして保存すべきが重要であるとした。
霧島山麓都城・山田における前田正名の開田のための用水事業がゆきずまったが、石川理紀之助に農民指導の援助依頼をして、その活路を開いた。石川理紀之助は7名の同志を連れて山田の谷頭に入り、そこで夜学を開き、若者たちに字を教え、農家副業の藁加工の作り方を指導するのである。
農民たちの生産する意欲を学びによって高め、具体的に生活の糧を教えていった。そして、前田の用水事業の大切うを理解していった谷頭の人々は地域ぐるみで難しい用水の作業に協力していくのである。
夜学会を中心とした村づくり運動によって、谷頭は急速に生活改善がされ、貯蓄も可能になった。他の村に、この運動は広がった。志和地村、野乃美谷、十万寺、庄内への出張を設けて、夜学会を開いた。これらの地域の展覧会をかつて地頭のあった市街地をもつ庄内の願心寺で行い、竹細工、木工品、わら細工を陳列したのである。また、別部屋で、夜学会員の成績としての作品の展示したのである。
そして、適産調べの書籍、地図等、各部落の貯金表などの展示をした。各部落では、お母さんむけの料理、裁縫、身だしなみ、子育てなどの勉強会も熱心に行われたのである。
前田用水は、坂元源兵衛の開田事業計画がなければできなかった。坂元は、西南戦争で庄内から兵をひきいて薩軍に参加し、謹慎の身であった。源兵衛は薩摩藩から開田掛かりを命じられていた。薩摩藩独特の水流し工法は、坂元家に代々伝わる土木技術であったのである。
前田用水事業の測量班は、明治31年10月に入り、近代的な手法での測量をする。鉄道トンネル技術でシラスの土地の多い地域で多くのトンネルを取り入れての経済ルートを決めていった。土質をよく知らない技師たちは距離が長くなるから、工事費も高くなる。
坂元は、あまりにも地形や地層を無視した計画に、工法の変更を求めた。技師たちは聞き入れなかった。ダイナマイトによって岩盤を爆破させていく。毎日数百人規模の作業員動員で行われていたのである。
水路建設工法でも小田川を横断するところも180メートルの掛樋(かけひ)という板で水路の形をつくり、谷間に支柱を立てて水路を渡す工法であった。坂元は、そのやり方を批判する。ここは氾濫しやすい所で、掛樋は流されるから、土を盛り上げてつくるべきであると提案する。技師たちは掛布は10年もつかえるから大丈夫ということで、ここでも聞き入れなかった。
前田正名の当初の考えは、工事は一流の技師にまかせるべきということであった。病人医者、工事は技師ということで、素人は工事に口をだすなということであった。明治33年4月にトンネル区間の貫通式が行われたが、トンネル内部が崩壊し、台風で掛樋が流され、工法の誤りが膨大な事業費になったのである。
開田用水路建設が進み、他の村の水田のあった地域住民は、水不足の懸念があるということで、代替え用水をつくることも開田事業を進める約束になっていた。この代替え用水事業もトンネル方式ということで大きな問題となる。
代替え方式の地域の村民は、掘割工法を望んでいた。技師たちは「近代的トンネル方式は安全」ということで説明する。ここでも住民側からは、湧水の多いところで、トンネルは崩れたら、死活問題になるというこであった。住民の要望は坂元の工法であった。坂本は、伝統的な水流し工法で詳細に計算して横割り断面を決めて、短期間で費用も安価で完成させるのである。
これらのことから、用水の開発事業における伝統的な工法と、ヨーロッパからの近代的な工法の応用のあり方が大きく問われてたのである。
つまり、伝統的な工法は、効率が悪いが、自然とつきあってきた蓄積の関係視点が強く、継承されてきた技術のなかに、経験的に蓄積されてきた安全性の知恵が含まれいたのである。ヨーロッパからの近代的な工法は、効率的な側面からは、科学的であるが、それぞれの地域の実情にあった自然との関係が弱かったのである。
3,戦後の新制高校と農業教育
戦後の教育改革は、戦前のエリート養成の5年制の中学校と一般大衆の高等小学校から実業教育という複線系を単一系の3年制の中学校と高校というように大きく変化させた。
つまり、高等学校は、5年制の中学校、高等女学校、実業学校の三つを単一の三年制高等学校にしたのである。そして、高等学校設置については小学区制、男女共学制、同一の学校に普通課程と職業課程という総合制学校という原則を立てた。
三つの原則によってどのように旧制の中学校や戦前の公民学校や実業学校を移行させるかは、非常にむずかしい問題であった。戦後の高校は、入学を希望するものを入学させる方針であった。このため、高校は、さまざまな要求をもった生徒を入学させるために、学区制をつくり、普通課程、職業課程を設けた。
また、高校に定時制、通信制なども設置して、幅広く高校教育の機会を与える措置をとったのである。このようにして、高校の生徒数の増大をはかり、後期中等教育の教育機会の均等になったのである。
しかし、1949年に1850校になった新制高校で、普通科と職業科をもつ学校は600校、2つ以上の職業過程をもつ学校は200校であった。男女共学も63%であったことから、高校三原則は、新制高校の出発当初から難航したのである。
1951年に産業振興法の成立で、職業高校の単独設置が奨励されて、地域総合性の新制高校原則から反対の方向になった。1962年4月からは、科学技術教育振興ということで、新制の中学校卒業生を対象に5年制の高等専門学校がつくられたのである。
また、1961年に、技能連携制度を高校教育に取り入れて、企業内の技能養成教育を高等学校定時制の単位として認めるようになった。
職業教育と普通教育の分離が起きていく。そして、職業教育も、職業観教育や職業の基礎的な知識、基礎的な技能というよりも、当面に労働過程のなかで必要な技能取得という実利的的な側面の職業訓練が重視されるようになっていく。
農業科の教育目標で、1949年の学習指導要領では、農業教育の一般教育目標が定められている。将来、自ら農業を営もうとする者、あるいは、農業に関する初級技術者になるとするために、農業に関する科学的・実際的な能力養成に教育の目標を定めている。
これらの能力形成の方法は、なすことによって学ぶ指導体系をつくることが大切として、実験・実習を重視したのである。また、学習の効果からホームプロジェクトの家庭実習を多く取り入れることが望ましいとしているのである。
さらに、1952年では、1949年の学習指導要領に加えて、「わが国農業の改良・発展の指導力となるため」が入った。さらに、昭和31年度では、農業に関する技術的な能力を養成、環境と農業との関係、ならびに農業技術の科学的根拠を理解し、進んでこれをよりよくする能力、農業を合理的に営み、有利に経営する能力、農業の意義を自覚し、進んでこれを改良しようとする態度の養成ということになった。
このように、農業経営をしていくうえでの技術的な能力や主体的な自ら進んで農業改良をしていく農業分野のスペシャリスト能力の養成ということで、実際的な農業の経営や技術のことに重きが置かれていくようになったのである。
農業教育として、それぞれの科目ごとの各学年の到達すべき具体的な到達目標を持って、評価をしていくことである。4つの観点から到達目標と評価基準を策定していく。(1)関心・意欲・態度、(2)思考・判断」、(3)「技能・表現」、(4)「知識・理解」。
4,現代の高校教育の矛盾と農業教育の新しい動き
ところで、1994年になると高校教育の課題として、画一的教育、受験競争激化に伴う教育、不本意入学の増大など矛盾が深刻化し、その矛盾のひとつの解消施策として、総合学科の設置が行われた。
このなかから、多様なコースや学び方が模索されるようになり、普通科と職業科の統合しての総合化、職業科の細分化・専門化ではなく、総合学科という発想が生まれていく。従前の職業高校や普通高校から総合学科に変更する学校が数多く生まれた。
農業高校でも総合学科に編成したところもみられる。農業高校を基盤にしての総合学科の新しい実践がされるようになった。ここには農業教育を狭い農業従事の進路ということではなく、幅広く、進路の選択を考えて、農業教育を実施していこうとするものである。
2018年の高等学校学習指導要領では、職業に関する各教科においては,専門的な知識・技術の定着を図るとともに,多様な課題に対応できる課題解決能力を育成することが重要であるとしたのである。
また、地域や産業界との連携の下,産業現場等における長期間の実習等の実践的な学習活動をより一層充実させていくことが求められるとした。
職業学科に学んだ生徒の進路が多様であることから,大学等との接続についても重要な課題となっている。職業に関する各教科の「見方・考え方」を働かせた実践的・体験的な学習活動を通して,社会を支え産業の発展を担う職業人として必要な資質・能力を目指すという実践的・体験的学習活動から職業に関する倫理観や持続可能性などの見方や考え方ということになった。
農業科改訂では、安定的な食料生産の必要性や農業のグローバル化への対応など農業を取り巻く社会的環境の変化を踏まえ,農業や農業関連産業を通して,地域や社会の健全で持続的な発展を担う職業人を育成するためとした。
そして、現在の「農業経営,食品産業分野」と「バイオテクノロジー分野」を再構造化し,バイオテクノロジーを含む「農業生産や農業経営の分野」と「食品製造や食品流通の分野」を整理した。
農業の各分野において,持続可能で多様な環境に対応した学習の充実、農業経営のグローバル化や法人化,六次産業化や企業参入等に対応した経営感覚の醸成を図るための学習の充実をあげている。
そこでは、安全・安心な食料の持続的な生産と供給に対応した学習の一層の充実、農業の技術革新と高度化等に対応した学習の充実、農業の持つ多面的な特質を学習内容とした地域資源に関する学習の充実、解決すべき職業に関する課題を把握するということである。
「課題の発見」,関係する情報を収集して予想し仮説を立てる「課題解決の方向性の検討」,「計画の立案」,計画に基づき解決策を実践する「計画の実施」,結果を基に計画を検証する「振り返り」といった過程を整理することができるとした。
地域や産業界等と連携した実験・実習などの実践的,体験的な学習活動は,アクティブ・ラーニングの三つの視点を踏まえた学びを実現する上でも重要なものであることから,地域や産業界等との連携がより一層求められる。
このような連携を促進するためには,各地域の産業教育振興会等と協力して,定期的に学校と産業界等が情報交換を行うとともに,教育委員会,地方公共団体の関係部局,経済団体等が協力し,インターンシップの受入れや外部講師の派遣の調整を行うなどといった取組も期待される。
持続可能で多様な環境に対応した学習を充実させるために、「農業と環境」で学習していた農業と環境の関係性について,持続可能で多様な環境に対応するよう新たに「栽培と環境」,「飼育と環境」と分類した。
経営感覚の醸成を図る学習を充実として、経営感覚の醸成と商品開発へつなげるために,「農業経営」,「食品流通」でマーケティングに関する学習内容を充実するとともに,生産系の科目である「作物」,「野菜」,「果樹」,「草花」,「畜産」などにおいて,起業や六次産業化に関わる内容を扱うことにしたのである。
安全・安心な食料の持続的な生産と供給に対応した学習を一層充実するために、「農業と環境」について、農業生物の育成と環境保全に関するプロジェクト学習の意義と役割を明確に位置付け,農業の各科目における系統的なプロジェクト学習を展開できるようにした。
「農業と情報」については,進展する産業社会の情報化を見通し,農業の各分野における先進技術や革新技術を題材とした探究的な学習活動を通し,収集した情報と情報手段を適切かつ効果的に活用できるような学習内容の一層の充実を図るようにした。
総合的な科目の「課題研究」については,各科目でプロジェクト学習の意義や実践について明確に位置付けたことから,この科目では農業学習の集大成として,専門的な知識と技術を関連付け,その深化・総合化を図るための科目とした。
また、「総合実習」については,各農業科目の知識と技術の確実な定着を図る科目であることから,農業の各分野におけるプロジェクト学習などを補完しながら展開できるようにしたのである。
農業高校の教育目標は、従前、将来農業をやるということで、農業自営者養成教育として位置づけてきた。教育実践の面でも狭い狭い枠組みで教育内容を考えてきた。
この見方は、職業選択の自由ということからの農業教育の視点が弱かった。自営者養成という教育内容でも最も重要な経営能力や幅広い教養ということを重視してこなかった。
農業教育は、青年の人格教育として、農業のもっている自然と人間との調和、人類と社会における農業の重要性、幅広く農業教育をとおしての職業選択が自由にできることが大切ということで抜本的に、2018年の高校の学習指導要領から教育目標の考え方を改めたのである。
2019年の文部科学省の学校基本統計によると普通学科73.1%、工業学科7.6%、商業学科5.9%、農業学科2.5%、総合学科5.4%などとなっている。ちなみに、1970年の普通学科58.5%、専門学科41.5%、1985年の普通学科72.1%、専門学科27.9%、 2005年の普通学科72.6%、専門学科23.6%、総合学科3.8%という数字になっている。
農業高校の教育実践の特徴は、地域の農産物を利用しての商品開発を行っていることである。農業高校の特産品カタログには、伝統野菜でのアイスクリーム、桜クッキー、醤油せんべい、プレスハム、乳酸飲料、みそ、柿とゆずのジャム、こめからのめんなどの特産づくり開発をしている日本学校農業クラブは300を超える農業高校が加盟している。
この農業クラブは、戦後の新制の農業高校の発足以来、生徒の自主的な組織として展開してきたものである。この農業クラブは、ブロックごと、全国大会とプロジェクト学習の発表、意見発表会などをしている。
また、大学と共同して、環境保全や食の6次産業化に関する研修、農業経営セミナーへの参加もしている。さらには、農業実習を先進農家等での長期インターンシップの実施で、カリキュラムでの単位の認定として、受け入れ先と学校の双方向の関係での協同の人材養成の事例もあるのである。(いわゆる日本版デユアル システム)
まとめ
150年間の日本の農業教育の歴史を振り返って、現代における地方の地域循環経済発展を農業ということを基盤に考えていくうえで、新しい発想での人材育成ということからの農業教育のあり方が求められる時代である。
明治期には、欧米の生産力主義的科学技術農法の導入が模索された。しかし、日本の現実の農業振興には役に立たなかったのである。在来的な合理的経験主義の積み重ねによる農法と欧米からの近代農法がぶつかったのである。
結果的に欧米の自然科学的方法と日本の在来的農法が結合して、明治の近代的な農業技術の発展が遂行されたのである。
この教訓は、地域の自然的条件や歴史的な社会的条件を加味しての農法の発展が重要であることを示しているのである。
これは、日本の国内においても地域差が大きくあるのである。画一的な細分化された科学的農法ではなく、それぞれの地域の自然的、社会的条件に総合的な視野からの農業の発展が求められていることを教えている。
歴史的に農産物は地域の工業発展の原材料として大きく貢献してきた。日本では養蚕から生糸、絹織物などは、その典型である。食品加工などの醤油、みそ、つけもの、お酒などは地方での特産物として発展してきたのである。
農業は、地域の産業発展の基盤になってきたのである。現代は農業というと食糧生産物ということに集約されがちであるが、広く、地域の工業の発展にとっての原材料の側面をもっていることを決して忘れてはならないのである。
とくに、現代のように、持続可能な循環経済という環境保全の問題、地球温暖化あらの脱炭素の時代にあっては農業の見直しが極めて重要になっているのである。
この意味からも農業教育の役割は益々重要になっているのである。農業高校の教育の特徴として、プロジェクト学習・課題学習、総合実習、農業クラブ活動の方法は、主体的学習や創造的な学習としても極めて大切な活動である。また、人間の自然とのかかわりということから、農業をとおしての環境学を実践的に総合学習をとおして学ぶ意義は大きくある。