社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

橫井小楠と仁政の公共思想

 

  横井小楠は、幕末・明治維新に、西洋との交通貿易を重視しながら、東洋の心の精神を大切にした思想家です。大義を世界に求め、身分の軽重を問わず、お互いい批判しあい、政治や人情を公論の視野から大切にして、仁政による公共の道を求めた。

 橫井小楠は、世界に戦争をなくすことが、日本の政治に可能とする。それは、日本の政治を一新して、西洋へ普及すれば、世界の人情を通じて戦争をなくすこともできる。この古くて新しい政治は日本でこそ可能であるというのである。まさに、日本の古くからあった仁の政治の重要性を世界に広めていく重要性をのべている。

 橫井小楠からは、現代の混迷する時代の為政者、政治家のあり方として、学ぶことがたくさんあるのではないか。かれは、現代の公共思想を考えていくうえで、心術による教育の重要性、衆議による講学、公明正大、民を豊かにしていく富国論、天地仁義、天地自然の道理、自己の利害を忘れ他への利、公平無私の天理、万国一体・四海兄弟の理、人情による仁政など、いくつかの重要な問題提起をしている。横井小楠は熊本が生んだ偉大な思想家でもある。

  横井小楠は、肥後藩では、改革派であった。ゆえに、冷遇された。生まれた家は15 0石である。家督を継ぐが、一時は時習館の寮長として抜擢される。しかし、藩校を改革しようと、仁政の実践を大切にした衆議の学問を提唱した。しかし、改革を求めなかった藩により失脚する。その後、藩からの待遇はよくなかった。

 1855年に沼山津に45歳のとき転居する。幕末に、欧米との関係に対して、改革を求めた福井藩に、50歳のときに招かれる。1860年から1863年の3年間に重臣として藩主の相談役として大いに活躍する。ところが、攘夷派による暗殺事件に遭遇し、友を助けなかったということでの士道忘却事件として、閑居となる。やもなく、再び、熊本の沼山津に帰る。

 ところが、かれの才能を大きく評価していた明治維新の新政府は、横井小楠を新政府の参与として迎えるのである。かれは、1868年4月に60歳で任命される。このときには、病状であった。大政奉還後の政局については、議事院を建てる建白書を出している。議事院は、上院に公卿と大名が一同に会し、下院は、広く天下の人材を挙用すればよいという案である。

 この案は、五箇条のご誓文「広く会議を興し万機公論に決すべし」として盛り込まれた。新政府によって、採用されたが、新政府の議事員は、政府の執行権力の合意形成のなかで大きな意味をもたなかった。この議事員は、新政府の政治のなかで十分に機能せずに西郷隆盛等など明治6年政変によって完全に挫折するのである。

 橫井小楠は、新政府の提案に、財政を重視した。そして、刑法局を建て、海軍局を兵庫に建て、公明正大に百年の計として開港せよという内容をもったのである。

 また、外国貿易にあたっての商法の整備を提案している。公平なる貿易により、四海兄弟として、国際平和を幕末の開港時期に考えたのである。横井小楠は東洋文明の正道を明らかにした。東洋の儒教思想から公共、公平、公正の大義を世界に求めたことは特記すべきである。ここには、東洋の思想から、私欲を排して、一国という狭い自国主義ではなく、国の狭い枠内での諸勢力の利害得失を度外視して、世界兄弟という平和思想を構築したのである。

 横井小楠の思想にみられる公共と公平という側面から、新しい共生・共栄の世界的秩序は、世界的な諸価値を融合しての新しい民主主義を考えていくことで、現代に意味がある。東洋文化西洋文化の融合、そして、世界にある様々な価値観から人類普遍的な公共の道を探る大切な時代である。

 世界の為政者にとっての大切なことは、新自由主義の弱肉強食による格差が拡大を是正して、平和を求めて共存・共栄と地球気候問題などの持続可能な循環経済を実現していく時代をつくることである。様々な立場から衆議を尽くして、利他主義的に格差をなくし、文化手に人間らしい民衆の豊かな暮らしと文化を充実していく政治が求められるのが現代である。

 アジア諸国では、異なる価値観を平和の枠組みで包み込み、非同盟中立が圧倒的である。同じ価値観で連合していくという欧米諸国とは平和に対する見方が大きく異なる。東洋の思想から世界平和ということに正面から向き合って、公共・公平・公明の思想を人類的な平和の課題から万国一体・四海兄弟の天地自然の理として、融合していくことが現代的に必要になっている。この意味で、横井小楠の思想を現代的課題から明らかにする意味は大きい。

 仁政による公共の道を橫井小楠は、世界万国の事情に従って、天下の政治を行えば、いまの心配事を解決して、いっさいの障害は消えるとしている。

 

 富国論

 

 横井小楠は、1860年に国是3論(富国論、強兵論、人・士道)を書いている。 富国論では天地の機運に乗じて、世界万国の事情に従って、公共の道における政治の提起である。幕末の時代では商品経済が国内経済として著しく発展して、悪徳商人や悪徳政治家も幅をきかした。このような状況で、橫井小楠は、痛切に悪逆政治家を批判するのである。

 悪逆な政治家は、民衆をしいたげ収奪して自分たちの費用にする。四民が困窮するといっても、農・工・商の三民であって、勤労によって、生活している人々である。大名をはじめ下級武士まで収入が一定しているのであるから、支出がその収入を上回れば手のほどこしようがない。そのために、民の迷惑を顧みず重税を課すのである。収奪を受けた民も、物価をつりあげて、赤字を補う。武士もまた響いていく。窮地から逃れるのは、無用の経費を廃しての徹底した節約である。

 善良な政治家として、自らの提案を橫井小楠はする。政府の費用を切りつめて必要なところに回す。民間の生産物もそれを売りさばく市場に制限があるので、生産しすぎると値打ちが下がり、さらに、悪徳商人の詐欺で一段と下落する。藩が買い上げて藩の倉庫に集めることで、買い上げ値段は民に利益があり、藩政府としても損をしない。政府が利益を望まなければ、自然と民に利益がまわるはずである。

 また、一般の民家に生産を向上させるために政府資金を貸し付ける。資力がないが生産にたずさわりたいと意欲をもっている民家への積極的な藩政府の無償の貸し付けである。資金を貸し付ければ民家は希望通りに仕事ができる。その生産物を藩に納めさせ、その買付代金から貸し付け分を返上させれば、利息を取らないので民は非常に助かる。

 種子や原料・道具の仕入れ、人夫賃・肥料代などすべて藩より貸し付けて利息をとらなければ、民は自分で交渉して高利の金を借りる無駄がなくなる。藩政府からの貸し付けは元金を失わなければよい。利を取ろうと思ってはならない。藩の利益は外国から取るのである。海外にうりさばければ生産過剰で値段が下がることも滞貨に悩むことはない。外国との通商は、交易のなかで大きな比重を占めていくが、交易とはもともと天地間の根源なものである。

 これらの提案は、藩政府が積極的に市場経済に介入して、市場をコントロールして、財政政策として、一般民衆の起業家をこころざそうとするものに貸し付けて、藩の経済を活性化していこうとすることである。ここには、日本の地域のすぐれた特産物を国際的に売りさばくという貿易の振興ということを想定している。江戸時代に、日本は、各地にすぐれた特産物が生まれ、商品経済が著しく発展して、国内市場が大いに発展したのである。為政者や特権商人の贅沢も肥大化して、貧富の格差と藩財政を枯渇するところも各地に生まれた。

 橫井小楠の天下の治世は、藩政府の仁政を特徴として、民の暮らしをいかに豊かにしていくかということである。そこでは、富を一般大衆に分かち、困窮孤独のものを救い、刑罰を緩くし、税のとりたてを減らすことを経済的政策として積極的に打ち出している。

 さらに、民衆一般の教育として、経済政策を前提にしての道徳教育の重視による公正、公平、天地自然の理による倫理確立をあげている。

 経済と一般民衆の倫理・道徳教育の結合である。この教育の力によって、民衆も生活を楽しむことを知り、愛育につとめている政府への感謝の念をもつようになるというのである。これは、藩政府を父母に対するごとくと感謝の気持ちとなるというのである。

 また、養蚕をはじめ各種の産業や農具などにそれぞれ労力の節約となる便利な方法があるので、藩政府で十分に試験し、みんなが信用したところで、採用させるとよい。どんなに便利な方法でも新しいことを強制すると民心は反発するとしている。

 

外国との正道

 

 外国との正道は、信義を守って貿易を行い、利益をあげて収入を確保すれば主君は仁政を施すことができるとしている。民間の産物を商人に売り渡す方法を改めて、産物を藩が買いあげて民に利益がまわるようにし、増産の意欲あるものに資金を貸し付けて、その産物を藩が買い上げ、代金のなかから返済するようにすれば民は非常にたすかる。また、新しい産物については、藩政府で実験し、実効あるものは、民に採用される、指導は親切にしなければならないとしている。

 藩政府は純益を公表して民に示し、その全部を民の困窮を救うためと、その他の社会福祉的な事業に支出するということである。近年、通商交易が外国から要求があったために世間一般でははじめて交易というものがはじまったという誤解があると橫井小楠は語る。交易とはもともと天地間のもっとも根元的な法則である。人を治めるものは、人にやしなわれ、人をやしなうものは人を治めるというのも交易である。橫井小楠は交通貿易を天地自然の人間の営みの原理にしている。為政者は、民から養われているという自覚が重要であるとしている。民からの税の収入がなければ、為政者の暮らしはないのである。ここには、交通貿易という相互依存の共通の論理があるというのである。

 

本来の学問とは

 

 橫井小楠のみるところで、今の文武は、本来の姿が心法にあるのだということを理解していないという。文武が技術に堕して、学ぶ方法が根本から間違っている。士道は、慈愛、恭倹、公明、正大の心をもち、武道によってその心を鍛錬し、人の道を教え、至誠の心をもって部下を率い、あわれみの心をもって民を治めることにある。まさに、文武の本質である慈愛・恭倹・公明正大の武士道をのべているのである。

 政治と学校は、橫井小楠にとって重要な課題であった。横井小楠は、1852年に学校問答書を書いている。そこでは、政治を行うものに学問を重視する必要があると強調する。政治にたずさわるための人材育成がうまくいかないのは、有用な人材を得るために、競いあうあまり、着実に自己の修養につとめることを忘れ、末梢的な政治技術に心を奪われて、政治を自分の利益のために使うことに集中して、、悪口を言い合い、学校が喧嘩の場になっていくという。

 才能あるものが政治をする人が自分の利益のために学問を利用しようとして、本来の学問をする本質が見失われている。学問は、人材を育てること、篤実の風俗をつくることにある。

 しかし、ときには、学校の役割が喧嘩の場になって、政治的才能のある人物をいやがり、風俗を破壊してしまうことがある。そして、学者は政治経済のことがわからず、政治家は我が身の修養をやめてしまうと橫井小楠はのべる。

 学校がないと倫理道徳が確立せず、人材才気を養えず、風俗の教化もできない。学校では講学のすすめが大切であると橫井小楠はのべる。学校は人倫の大綱を明らかにし、己を修め、人を治める政治の原則を究め、自然の天理に従って、学術を一定にすることにある。

 学ぶものは、身分の軽重を問わず、年の老若を問題にせず、各級の子弟や政治上の職務にかかわらず、武人とか文人とかで逃げ口上にならず、学を講じて、お互いを批判しあい、あるいはいまの政治や人情を論じ、また異端邪説の誤りを見極め、徳義を養い知識を明らかにすることであると講学の方法を力説している。橫井小楠の考える講学は一方的に教え込むのではなく、お互いに議論しあいながら真理を求めていくという方法である。

 学校は身分の軽重を問わず、誰でも参加して、学び、衆議を尽くして公論をつくっていくことであるとみているのである。まさに、現代的にみるならば、異なる考え、異なる身分のもの、軽重を問わずに様々な人が参加しての天地自然のり、天下の仁政の道を究めていく場である。現代的な意味からの真の民主主義の教育の場でもあるのである。

 ところで、衆議を尽くしてまなぶということは、すでに元禄時代以前の伊藤仁斎の町人による学塾・同志会によって、存在していたのである。この意味で、橫井小楠によって、突然にあらわれたのではない。 

 日本では、中世での惣村での長老による村の神社を司る平等に結合した衆議による合意がった。近世になっても各家からによる村の寄り合いで、村の決定がなされていた。さらに、村々では、相互扶助の頼母子講・無尽講、ユイ講、隠れ念仏講などで衆議による合意がされていたのである。日本の伝統的な村の民衆文化は、参加者みんなで衆議してきめる慣行もあったのである。

 伊藤仁斎は、仁愛の精神道徳を強調した人である。かれは、為政者が自己の私欲を克服すれば、それは広く民衆を愛する仁愛の政治につながると力説したのである。このためには、教育の可能性を重視した。

 1662年に、同志会を伊藤仁斎は創設した。この会は研究会のようなもので、会を開くときは、会員から会長を1名選び、講師の話が終わると、集まった会員がそれぞれ質問して、議論が行われる。そのときの会長は、策門あるいは論題を出して、それぞれ論策を提出させ、一冊にしたのである。会のなかでの問答にして経要を発明するもの、学問肯綮(ものごとの急所)皆謹録して、衆人共に校定して別に一冊をつくるとしたのである。

 仁斎にとって、門人小人の説といえども、取るべき論策は皆これに従うということである。衆議定まるものは、書にするという態度をとっていた。このようにして、極力論塾して、その異なる論を一にしたのである。道は私に享受すべきものではなく、天にかかる日月のように、天下に共有のものである。

 自己の私欲を克服すれば、それはひろく民衆を愛することにつながる。公の仕事をまるでわがことのやるのであれば、それは誠実そのもといってよい。仁愛の心があらゆるものにまじりあってゆきわたり、自身の内から学部にひろがり、あらゆるところにゆきわたり、こちらに心をかけるがあちらにはかけないという、一人だけに心を通じるのは仁ではない。仁斎の公の心は私欲を排しての仁愛である。

 さらに、学問をすることについて、仁斎は語る。学問は仁愛に到達できて、はじめて実体のある徳となる。仁の徳は、人を包容することができる。

 同志会は各人の道徳と学問を磨く場であった。伊藤仁斎の同志会には、親方は存在しない。門人に入門するには試験はない。毎回、検定を記録するのは、門人たちである。そこでは、学問的身分を保障するものではない。

 同志会は師と門弟は身分の差がなく平等である。ここには、学びの自治が保障されているのである。学問をしたことがなくても、いったことを守り、人にへりくだり、無欲で自制心があり、意気さかんで、正義のために身命をささげるものがある。これこそ学問の基本である。学問はこれを充実させるだけのことである。非常に貴く、高尚で、世間一般のならわしを超越し、人間にそなわる感情から遠く離れた、高遠で実行しにくいものは、道ではない。すでに、日本では、伊藤仁斎の学塾のような同志会方式の学びの自治が江戸時代の元禄以前の時代に町人文化として存在していたのである。

 伊藤仁斎は、仁愛の精神道徳を強調した人である。かれは、為政者が自己の私欲を克服すれば、それは広く民衆を愛する仁愛の政治につながると力説したのである。

 すでに、日本では、伊藤仁斎の学塾のような同志会方式の学びの自治が江戸時代の元禄以前の時代に町人文化として存在していたのである。

  橫井小楠は、学校の風習がよくなるか悪くなるかは、教官次第であるとみる。識見不十分で心術も正しいかどうかわからないという状態で、どうやって人の才能を開発し、徳義を磨き風俗を正しくする任務を果たるか。学校とは人倫の大綱を明らかにして、政治と学問を一体にすることである。文芸が十分でなくても識見・心術の方を選ぶのが正しい。教養の道は、識見がたしかで心術が正しく教養の道を会得していればよいのである。

 東洋の精神文明の道を明らかにし、西洋の科学知識、技術を身につけることが、横井小楠の見方であった。かれは、国民が豊かになり、国が強兵になるだけではなく、大義を世界に示し、平和を築いていくことが最も大切な天地自然の大道であるとのべた。

 沼山に隠居しながらの横井小楠の塾生との対談で、大義を世界にと語っている。「思」一字は、学問全体を包括している。自己の全体をあげて思うことをしなければならない。幾千の書物を読んでも帳面調べにすぎず何の効果もない。思って行き詰まったときに書物を開けてみる。理を求める心が切実であれば、知見は日ごとに広まり、学問する熱意も盛んになる。まず、自分が思わなければ学問は成立しない。知ると合点するとは違うというのである。

 

公平無私と平和の論理 

 

 世界の理は幾千万の物事について、それぞれ異なっている。しかも一つ一つが変化する。物事を知っていても形をみているにすぎず、活用することができない。合点するのではなく、理を会得しなければならない。人の思いは、世界全体に及び、それをみな心の中に取りこみ、世界のことはみな心の中にひびくうえ、空理とならずに、万物の変化はみな心の動きとなる。人の思いは、世界全体に及び、それをみな心の中にとりこむのである。

 そして、公平無私の天理に従うことを強調するのでる。西洋諸国の長い戦乱の結果、不仁不義の行為は最後に最悪を招くということを覚ったとして、仁政の重要性を指摘する。これは原則で、実際は、自国と他国、あるいわ自分たちと西洋人、他民族と親疎の差別をしているのもやむをえない。しかし、華夷東西の区別なく、みな人類は同じということの公正の天理から盛大に交通貿易を行うことが自然の理にかなっているという。

 君主が民を愛するとは民に気をつけ、民の便利を計って世話をすることで、天日の恩は、太陽が万物を暖めて生育することである。みな己を捨てて他を利している。利の一字は、自分のために使えば不義となり、他人のために使えば仁となる。

 道は天地自然の道で、これはすなわち我が胸中にある仁の一字である。横行は、公共の天理に反する。世界に乗り出すことは、公共の天理をもって現在の国際紛争を解決してみせるという意気込みをもたなくてはならない。単に勢力を張るだけのものであれば、必ず後日の災害を招く。国際紛争の解決は、公共の天理という原則からみることが必要という橫井小楠の見方である。

 そして、自国と他国との関係も公平かつ盛大に交通貿易をすることが自然の理になる。万国一体・四海兄弟の利は、互いに交通貿易をすれば必ず現れてくる。蒸気船ができてから地球の端から端まで自由自在に交通できるわけで、孤立鎖国は天理に反する。

 全世界は我が心の中にあるということと、明徳を天下に明らかにするという治定のこころがけも大切とする。明徳は真実本心の誠に戻ることである。人には気風というものがある。横井小楠は気風の弊害についてものべる。一郷には一郷の気風があり、一藩には一藩の気風があり、坊主には坊主の気風があり、医者には医者の気風がある。

 人はみなこの気風にとらわれて物事を行うので、心を正大にして気風を除かねばならない。学者はとくに一個の見解にとどまることを警戒しなければならない。党派にとらわれずに人物才能だけによって人材を登用すれば、党派は自然に消滅する。公平の心を措置することが誠の発露にとって重要であるということである。本当の小人、姦人というのは、百人に一人もいません。その他は、みな人間として足りないところであり、良いところを見てやることである。人を責めるのは小人である。道理を守り通すことに、ものには塩時がある。親には塩時に笑顔をみせ、塩ときをみて意見を言う、みな自然の誠である。人は塩らしくしないと万事がうまくいかない。

 さらに、心を大切にすることは、人の内面ばかりでなく、物質世界や国家社会の現実を考えていくことが大切であることを横井小楠はのべる。天人一体の考察は、もっぱら「性・命・道理」というように人の内面に関する規範のことばかりである。現実は西洋の航海術が開けて交通貿易が自由になっている。現実の天と人、すなわち物質世界や国家社会についての思考が大切である。

 西洋諸国がやってきて交渉がはじまるが、かれらには、この国の人情がわからない。人情がわからないために神戸開港問題など通じ合わない。この根本的な理由は、両者の学問の性格が違っている。西洋の学問は、事業の学であって、心德の学ではないと。西洋の学問は事業をどんどんひらけるけど、心德の学がないので人情に関することがわからない。だから、交易の談判も事実をつめていくだけだから戦争となる。戦争になってもやはり事実をつめていって償金講和というようになる。人情を知っていれば戦争を防ぐことになる。

 いま世界の中に処していくには、正道を立て直すことである。世の中の形勢に左右されずに正道を立てて、後生に子孫が伝えてくれるのである。誠は本然の真実の源から湧き出るので工夫を必要としない。信は努力に努力を重ねて己を尽くしてのちに誠に至ることである。