社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

ベトナムの独立と教育運動―ファン・チュー・チンと文明新学策に学ぶー

ベトナムの独立と教育運動―ファン・チュー・チンと文明新学策に学ぶー

 

 ファン・ボイ・チャは、20世紀のはじめにベトナムの独立のためにトンズー運動として日本の近代化から学ぶということや東京(トンキン)義塾の開校などの教育運動がありました。また、ファン・チュー・チンのように日本に渡ったが、ファン・ボイ・チャウとは違って、立憲君主制による独立ではなく、共和制をめざして、儒教の社会的倫理を大切にして、独立を達成しようと考えもあった。かれは、武装闘争で勝てないとして、反暴力主義の独立を考えたのです。

 ファン・チュー・チンはフランス領インドシナ総督に書簡を送った(1906年)。かれは、フランスに協力するベトナム人の搾取を非難し、保守的官僚の残存勢力の一掃をフランスに要請した。そして、フランス人による啓蒙活動の実践を依頼した。また、ベトナムの近代化のために、法律、教育、経済のそれぞれの機関の発足を願い、国家の産業化を求めた。 

 ところで、ベトナムはフランスの植民地になることによって、儒教的な科挙の権威は失われ、フランス文明の価値が最高の権威となったのです。ベトナムでは植民化、近代化によって儒教に対す見方が大きく権威が失われた。朱子学的な儒教は、封建的な支配秩序の精神的支柱であったことは否定できない。封建的な滅私奉公的な束縛からの解放は近代化にとって、大切な課題であることはいうまでもない。

 しかし、王朝絶対主義的儒教ではなく、孔子孟子にもどっての民本主義的な民のためにと仁政、仁愛の精神によって為政者の治世という儒教のもつ歴史的な役割の多様性をみていくことが必要です。

 そこでは、民衆との関係、地域的特性など単純ではないのである。民の知を開くとして、西洋のデモクラシーと儒教的な社会的倫理、さらに貧富の格差や植民地獲得という西洋の近代化、資本主義の問題からのマルクス主義との関係も含めて、ファン・チュー・チンをみていくことが必要なのです。

 グエン・チャイにみられるように仁愛思想、共存・共栄による祖国防衛など、現代的にも見直される側面がある。ベトナム儒教思想の奥の深さが人類的な課題としてあります。ベトナム思想の歴史は、儒教、仏教、道教キリスト教、土着の民俗文化など様々な人類的な思想の影響を受けながらも独自の民族的な哲学的な深さとして、展開してきたのです。

 ファン・チュー・チンは、トンズー運動の一環として、トンキン義塾が1907年に作られたときに、その講師として活躍します。トンキン義塾は1年余で閉鎖の命令を受けたが、ベトナムの近代化思想の確立に大きな役割を果たした。かれは、西洋思想を中心として民主共和制の思想のもとに、フランス革命や、その思想の拠り所の講義を担当したのです。

 教科は漢文、フランス語、国語(クオックグー)、地理、歴史、算術、図画、科学、体育などで、産業発展から外国から学ぶことも重視した。また、新しい生活様式を推奨したのです。

 文明新学策として、実学を重視して、先進国から学ぶことを強調した。そして、民衆の文化と知識を発展させる方法を重視した。国語は、読み書きが誰でもできるようにするために、従前の漢字で学ぶということではなく、クオックグーという表音文字によることを奨励したのです。

 そこでの学習方法は、才能を鼓舞するように、学ぶものが相互に質問をできるように、また実用性を重んじて、技術を改善できるように工芸の発展と結びつくように学習の工夫をした。

 ここでは定期的に新聞を発行した。また、出版社も設立した。 以上のように、新しい試みを行っていくのです。しかし、フランスの植民地主義者によって閉鎖されるのです。基本的にフランスの植民地政策は愚民政策であったことから、民衆が自主的に学ぶことは禁止されたのです。トンキン義塾の解散と同時に、ファン・チュー・チンも農民騒動との関係で逮捕され、投獄されて3年間獄中生活を送るのです。恩赦によって自宅監禁になり、フランスに追放され監査されるのです。

 かれは、民主共和制の思想のもとにフランスで学び、思考を深めていくのです。ファン・チュー・チンは伝統的にベトナムを支配してきた封建的な儒教観からの脱却を目標としていた。

 彼は1915年にパリへ向かった。ここで、ホー・チ・ミン、ファン・バン・チュオンなどとともに「安南愛国者協会」の団体で活動をした。