都城の中郷に、古代に王国の都があり、その王さまが女性であったということで、卑弥呼ではないかということで、その関心をもっている地域の人たち16人が集まって楽しく語った。現代の日本は、ジェンダー問題があります。女性の社会的地位が低く、国会議員や地方の議員も少なく、女性が社会を統治していたということは考えにくい状況です。
しかし、文明が発生する古代社会では、女性が社会を統治したことがあったということです。それは、それぞれの地域の歴史文化、神話から考えることができます。この古代の歴史を現代的に考えることは、女性の社会的地位向上、女性活躍の社会をつくっていくうえで、大切なことです。
この日は 魏志倭人の歴史書の地名解釈にこだわらず、その当時の都城の古代史がどうであったのかという自由な発想で議論した。
それは、日本の古代文明の発生を中央集権的な上からの絶対的権力者が地方をひらいていったという視点からではなく、地方にはそれぞれの王国があって、その王国が東アジアとの国際交流をもっていたという発想から自由に語り合った。
また、ヒメ・ヒコ文化というように、女性が王であっても、男性も、社会の統治にかかわって、男女が協力し会う男女平等で、それぞれの役割を大切にした社会を現代的にも見直していくことを古代社会を手がかりに考えていくことが必要ということでした。
古代社会は、自然に対する畏敬、全く予想のつかない事態も数多く、人びとが安心感をもって生きていく上で、祈りは重要な社会的行事でもあったのです。女性は、祈祷など、その大きな役割をもっていたのです。
卑弥呼伝説ということで、それぞれ日本の各地で議論することは、母系制社会の継承の意味を文明の発達ということから考えることにもなるのです。それは、現代的に人間の本質論から男女が協力しあうことに大きな意味をもつのです。なるのです。その再評価は、女性の社会的地位向上につながっていくのです。
もともと古代社会の文明の発生時期は、統治していくうえで、自然の畏敬、太陽神、祈祷などで、女性の役割が大きくあったことを見落としてはならないのです。
卑弥呼を語ることは、大変によいことと思います。それぞれの地域が自分達の文化の誇り、自分達の王国、そのなかでの女性の役割をを考えているのではないかと思います。
また、卑弥呼伝説は日本の古代の母系制社会継承の一端です。そして、ヒメ・ヒコ古代文化を見直すことは、現代社会で女性が尊重されて、未來社会への展望を探っていくことにもなるのです。
日本神話のアマテラスも女性です。弟のスサノウミコトは、高天ヶ原という神話の国で、とんでもない弟で、追放されたという古事記の神話の話です。出雲にくだってまともな神になって、国譲り神話にも登場します。
都城地方の古代の神話には、諸県(モロカタ)王がいたのです。髪長比売(かみながひめ)の伝説など(古事記)もあります。古代の堺に前方後円墳の大古墳をつくった仁徳天皇陵は有名ですが、これにもいろいろ説があるようです。
九州の西都原古墳には、日本列島最大の帆立貝形古墳、おさほづか古墳、九州最大の前方後円墳、めさほづか古墳という大きな古墳があります。西都原古墳群は、地下式横穴墳墓と結びついて存在しています。
地下式墳墓は、独自の高い文化をもっていたのではないか。霧島山麓では、たくさんの祈りの剣、象嵌装飾、蛇行剣が発掘されています。
都城は、縄文時代の終わりごろの稲作跡地が見つかりました。横市で、ほ場整備事業で、発掘調査が行われました。 坂元A遺跡では、縄文時代終わり頃から中世までの水田跡が発見されたのです。歴史的に、その移り変わりをはっきりとさせる貴重な遺跡でした。
本来ならば、日本の水田の始まりからの変遷がわかる土地なのです。九州南部で最も古い水田の形を知ることができるのです。そして、各時代の水田の移り変わりを観察することができる遺跡なのです。
坂元B遺跡では弥生時代の竪穴住居を中心に縄文時代の生活の様子がわかるのです。そして、近世までの遺構・遺物が発見されたのです。
弥生時代後期の竪穴住居(花弁形住居)からは完全な形の土器などが多数みつかりました。それは、儀礼に関するものと考えられます。
稲作の水田はどのようにして、日本で生まれたのでしょうか。その地形的な特殊性は、どのようなことなのでしょうか。 豊かな湧き水が絶えず出てきて、自然のままで用意に水田が出きるということが、古代の段階で大切なことです。そして、豊かな水田に適した土壌があったというも。
水田稲作が出来たことは、当然ながら集落が形成されて地域での人口の増加が生まれていく基盤であったのです。 小さな国家形成の始まりが都城に生まれていくということにもなるのです。都城での古墳時代の地下式横穴墳墓も独自の文化として考えていくことが必要です。
象嵌の紋様の持った貴重な刀が発見されました。また、霧島山麓での高速道路工事などで、貴重な多くの蛇行剣の発掘がされました。その遺跡からは、当時の日本の文化からも高い文明が築かれていたことが理解することができるのです。
ここには、都城の自然条件からの水田稲作が容易にできたこと、絹をはじめ衣類、鉄器、日向備長炭の木材、シラス台地という天然の登り窯など、地域の遺跡から考えていくことも大切です。経済的に優れた条件があってこそ、豊かな交易が行われていたのです。
都城全体の地下式横穴墳墓や蛇行剣、象嵌装飾など視野から諸県王国・句奴国を前面に出して、高い文化をもった王国を探ることが必要だと思います。
都城は、日本の文明の発祥のひとつの地域としてみることができるのです。なぜ、日本の文明の発祥地が都城なのでしょうか。土地の自然条件から考えてみることも大切なのです。
卑弥呼伝説の根拠になる遺跡をできればみんなで、この話を想像させる遺跡の発見が大切です。大いに想像力を、ふくらませることも。
ところで、議論は、平安時代に移りますが、都城は、日本の平安時代において、京都の上級貴族と同じような巨大な屋敷があったのです。その遺跡は、金田(かなだ)地区で発見されたのです。日向国や大隅国の国府よりも大きな屋敷が都城にあったのです。この遺跡は、平季基が島津院を中心に荘園を、開墾した100年前のことです。
どのようにして、この屋敷が生まれ、どのような役割をしていたのでしょうか。この遺跡発見は都城が大きな経済地域として、発展していたことがうかがえるのです。どんな商いをどこの国とやっていたのでしょうか。国内ばかりではなく、国際的な視野からも見つめることが必要なのです。
中郷は、島津庄という日本最大の荘園8000町歩に発展していった島津院を中心に荘園を開墾したところです。藤原摂関家に寄進したことから、平安時代に藤原摂関家の全盛時代の経済基盤にもなったのです。
平季基が小さな荘園でしたが、その基盤をつくりました。彼は神柱神社として守護神を、中郷に、建てたのです。もともと、平季基は、私貿易をやっていました。志布志港の権益がほしくて、争いを起こします。諸県の地域は、志布志にもおよんでいたのです。大隅の国府の焼き討ち事件を起こした人物でもありましたが、絹3000疋(12反1馬単位)賄賂をつかって、その罪を逃れたということです。
島津庄のなかで、大きな役割を果たし、平安時代に摂関家の藤原家の後ろだてで大きな力をもったのは、肝付家です。その関係も、中郷の平安時代の地域文化を考えていくうえで重要です。
それは平家の世の中、鎌倉幕府になっても立場は変わりますが、南北時代まで南朝が滅びるまで肝付家は影響力を、もっていたと思われます。 その後に、肝付家は、現在の肝付地方の大隅半島への領地に縮小していきます。また、戦国時代に島津家に滅ばされて、従属していくことになるのです。
中郷の梅北城も600年続いたお城で、戦国の末期に廃城になっています。4つのゾーンをもっていたお城で、その遺跡全体の確認は、できない状況だということを聞いています。
都城の中心は、現在からみるとずいぶん異なっていると思います。高城の地域も含めて、歴史的に中心の都や市街地も異なっているのです。高城は、三俣院があったところで、都城でも歴史的に重要な地域であったのです。
ところで、廃仏毀釈は、大変な地域文化の破壊、日本民族文化の破壊だと思います。明治維新のマイナスの側面です。 現代社会を未來志向的に考えていくことでマイナス側面もみておくことも必要です。日本の伝統文化と思っていたことが明治維新によってつくられた面があるのです。
もちろん、明治維新は生産力とか効率的など大きな前進があったと思います。それが人間の暮らしや幸福、自然と共に生きるということで、いきすぎていることが現代はあると思います。
廃仏毀釈で、地域文化は、大きく変わりました。昔に栄えていたところが跡形もなく、荒廃の地になっているのです。 金御山公園と天神の金のいわれも大切です。
ここは都城が一望できて、霧島連峰が遠方にみえるという景色のいいところだけではなく、中郷の信仰の山として、文化的に大きな意味をもっていたところです。ここにも昔は神社があったのです。
明治の神社合併政策で黒尾神社・黒尾権現に吸収されたとか。年輩の人に慣習として金御岳にお詣りすることはなかったか。修験道や山伏の話など。神楽の話や祓川という地名が残っているいわれについても文化の誇りとして、地域みんなで考えていく課題です。
興玉神社・正応寺や黒尾神社、正生寺など、その周辺に女性に関する遺跡や民間信仰などを探していくことが必要と思います。ヒメ・ヒコ神社の役割をしたものが削られているので、なんでもないと思っていることも実は大きな発見になると思います。
正応寺の門前街で育った深見一覧という日本の江戸時代に中国で12年間学び、中国の高僧を数多く招き、幕府の儒者として、江戸時代の日本の学問形成に大きく貢献した遺跡も残っていることから、地域で、どのような話が残されているのか。その遺跡碑は本人が中国から帰国したとき。ふるさとへの報告の記念碑として、現在も正応寺の遺跡近くに残っています。
都城をはじめ霧島山麓が豊かな自然の資源に恵まれていたことが文明の経済発展が可能であったことです。志布志への街道など海外と結ぶルートや日本各地の海上交易をもっていたのです。
中郷地区単位では、金御岳の麓の正跡寺、西生寺跡、黒尾神社、興玉神社などの現代的な地域文化の多様な価値を認め合う神仏混合、自然への畏敬、絆の文化、広く交易していく文化、大きく日本や世界をみていくことなどの見直しが必要です。
修験道と神仏混合の文化を現代に生かして、山登りと心を鍛えていく。安久湯治温泉の活用など。豊かな自然のなかでの未來への健康安全と工業資源農業など新しい課題がでてきます。
現代的に地域おこしとして、過去の歴史文化からの誇り、そして、経済の発展での自然条件を現代的に生かしていくことが必要です。
柿を植えて酢に利用したのをさらに発展させて、果樹園から加工品、ワインなど地域循環型経済のモデル地区で歴史文化、様々な自然や農業、加工、グライダーやその他スポーツなど体を動かす体験を加えての観光業の発展。
みんなで若い人たちが中心になれるような地域づくり運動を会として目指したらと思います。
どうしたら多くの人が観光または滞在してくれるのか。のんびり仲良く、こころの癒しになる自然環境も含めて。また、お金があまりなくても地域での助け合いのを含めて。地域の自給率向上を大切に、せめて、農業とエネルギーの自給率の向上を小さくても数多くの住民参加で大きな力に。
地域での自給にこだわり、ゴミも資源にして、地域の自然を生かしての新しい産業づくりで住民所得が結果的大きく発展している市町村もあります。楽しく自由に若者が地域の主役になって取り組める地域が都会の人たちを惹き付けて大きな経済発展になっているのです。鹿児島県のトップクラスの所得をあげている地域です。