社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

カンボジア・アンコール遺跡から学ぶ寛容精神

カンボジア・アンコール遺跡から学ぶ寛容精神

                                               神田嘉延

 カンボジアのアンコール遺跡の旅をとおして、人類史的な偉大性、寛容性と慈愛の精神の素晴らしさ、自然を研究し、自然との共生、循環的に生きた精神など、多くのことを学ぶことが出来ました。

 カンボジアの歴史区分は、802年のアンコール王朝成立以降と、それ以前の前アンコール、そして、アンコール崩壊後のポストアンコール時代と、三期にわかれます。アンコール遺跡は、802年から1431年の600年以上に及ぶ、クメール王国の栄華をほこっていた時代の世界史的な偉大な文化の証です。

  古代インド文明のヒンズー教を基底に、それと日本と同じ大乗仏教を見事に結合させて、カンボジアの農耕的習俗や自然信仰、そして、土地の精霊の守護神を融合させたということです。そこでは、多様性の信仰をそれぞれ尊重して、王のもとに、寛容の精神で融合させて、カンボジア王として、統一した神と結ぶ象徴性を強く持たせたのです。

  日本の古代は、自然信仰の多様な神と、大乗仏教を結びつけて、国家鎮護の仏と神を心の支えとしたのです。そして、天皇の権威によって、国をまとめた和の文化を作り上げたのです。これに、類似したものが古代・中世のクメール王国にもあったと思いました。

  クメール王国は、600年以上にわたって、繁栄したのです。現在の東南アジアのベトナム南部、ラオス、タイと支配し、シエムリアップの地アンコールワットの王道を開いたことも極めて大切なことだと思います。

 土着の守護精霊ネアクタと言われる土地の神々、大木に、大石などの自然の精霊が宿るということです。そこに、バラモンのシヴァカイヴァールヤを招き、王とシヴァ神を合体させての王の象徴としての権威によって、統一性を保ったのです。

  この意味で、多様性を尊重しての祭政一致体制をつくったのです。多様な信仰を尊重したことで、日本の戦前のような国家神道という強力な一神教的な統合ではなかったのです。政治権力と自然精霊信仰の宗教的権威を大切にしたのです。

  それは、権力と権威を相互に依存させながら、宗教的に大伽藍を築き、カンボジア的太陽信仰の宇宙観を演出して、人びとを統治してきたのです。

  この統治は、カンボジアの豊かさを保障していくのです。つまり、大貯水池の堤防や灌漑用水事業に民を積極的に動員することができたのです。5月中旬から11月中旬まで雨季と、2月中旬から5月中旬まで全く雨がふらないというカンボジアの自然条件です。乾期は、木々も夏季の眠に入るのです。

  この自然条件に対して、降雨や浅く氾濫した洪水を、うまく大貯水池・バライ、灌漑用水を利用して、乾季と雨季を二分している一年間に、乾季のときでも稲作ができるようにしたのです。

  乾期でも稲作ができたのは、アンコール地方の扇状地の段差を利用して貯水池・バライのまわりに、コの字型に堤防をつくり、そこに雨水や河川の水を引き入れて、貯めたのです。低いところに水門をつくり、土手の内側と外側に副水路の子溝にしたのです。自然条件をよく工夫された田越え用水路方式による稲作水田であった。ここには貴重な水を有効に、効率的に田越えの用水網が作られたのです。

   このような田越えの用水網は日本でも河川のない九州大分県の国東半島で行われてきました。ここは、水が十分にない地方で、1000年前から変わらない方法でいまだに実施しているのです。ユネスコの世界農業遺産に指定されているところです。

  千年近い歴史をもって伝統的な農村風景を維持してきたことは、日本の古代からの国家守護神で託せんも発した近くの宇佐八幡宮と関連が深いのです。この地域は、修験道を伴った神仏混合の大乗仏教の大伽藍文化が維持されてきた神聖なところでもあるのです。

  水が少ないなかでも、土地の自然の形状を有効に活かした水田の形成をみることができるのです。ため池を集落の里山の各地につくり、田越しの水田から水田へと水を流す灌漑方法をしているのも特徴です。

 

カンボジア的宇宙観

  カンボジア的宇宙観を演出して、統一したカンボジアをまとめていく祭礼的な儀式は、カンボジアの民を豊かにしていくための共同労働の象徴的な役割を果たしたのです。

 アンコール王朝を繁栄させたのは、このように、大貯水池・バライの堤防と灌漑用水という扇状地帯の段差を巧みに利用した田越えの灌漑など農業技術の発達によっての豊かな農業生産力を作り上げたことによるものです。

 堤防や水利網の維持・管理は、村の地主というリーダー層で、その指揮のもとに配水人がいて、培ってきた経験を継承しながら、農業生産力を維持してきたのです。そこには、農業を担う高い技術力と自然条件、季節感を良く知る人材が存在していたのです。堆積した土砂の除去、水路の底さらい、旱魃や洪水のときの調整などが求められたのです。

 王は、これらの人材の養成と確保を確実にしてきたのです。まさに、強力な王権による灌漑事業と堤防の水利システムの管理維持と、その人材は、太陽の自然神からさずかった偉大な力として機能していたのです。

  1296年に中国人の周達観が訪れて記録したなかには、全盛期には、三毛作も可能であったといわれるほどです。大貯水池の堤防と、灌漑用水事業による集約的農業は、村人に賦役として王の税が課せられたことによって実現したのでした。この賦役労働によって、堤防や用水事業ばかりでなく、王道の道路や寺院建設、都城の建設に動員されたのです。

 また、農民たちは弓ややりの訓練もさせられ、外敵がきたときは軍人としても動員されたのです。

  アンコール王朝の崩壊は、1353年前後の二度にわたるタイのアユタヤ朝との大戦争がきっかけで、大貯水池・バライや水利網の損壊と、それを維持管理する配水人が戦争によって、軍人に動員されたことで、排水網を維持管理してきた人材に死傷者が多く出て、維持できなくなったのです。

  つまり、大戦争の結果は、貯水池・バライの堤防や用水事業の維持管理、配水を担う人材が大きく不足したのです。このことが王権の経済基盤を失うことになったのです。 

   水田は、乾期に、灼熱の太陽にさらされて地下水の酸化鉄分が浮上して荒廃していくのです。人間の水利網の維持管理の手が入らなくなると、たちまちもとの密林に戻ったのです。

 

  ところで、水利と太陽信仰による豊かな農業生産の中心の都として、人びとをまとめ、その権威の象徴の地理的な条件として、アンコールの地が選ばれたことを忘れてはならないのです。

  アンコール・ワットのつくられた都は、地形的にも扇状地として、セムリアップ川、トレンサップ川、メコン川が流れ、それを有効に水利網として利用できて、さらに、扇状地の段差を利用しての堤防づくりも容易に可能であったのです。

  これらの自然条件の有利性が、いくえにも水利網をもった偉大な灌漑用水事業ができたのです。シエムリアップのアンコール遺跡のあったところは、太陽信仰の聖なる地としての演出の自然条件にも適していたのです。

 アンコールワットは、春と秋、春分秋分の年2回に中央祠堂から太陽が昇るように設計されているのです。冬至夏至の太陽の天文学的位置、占星術的要素などが密接に関わっての建築構造物なのです。

  これは、カンボジア王の宇宙観から、人びとを統治するための祭礼儀式のために不可欠なことであったのです。実際の太陽の自然的な規則的な現象によって、その法則の大切さを人々に、感覚的な身をもっての労働体験ということで、理性的な知恵も加えて、悟っていくのです。

 

 アンコール・ワットは、中央祠堂、高さ65メートルのヒンズー教ヴィシュヌ神を祀る塔です。それは、ヒンズー教の神々が降臨する須弥山を想定した塔で、4つの塔に囲まれているのです。また、水の恵みの神として、蛇神が祀られているのです。

  西側が正門で、第1回廊、第2回廊、第3回廊、十字回廊は、ヒマラヤの山々を意味し、環濠は、大海を意味しているのです。

  西参道門から大海を表す環濠を渡るところは一直接に350メートル続くのです。回廊内は、全長760メートルにもなる高度の美術的価値のもつレリーフの歴史絵巻をみることができるのです。

  ヴィシュヌ神と阿修羅の戦い、天国と地獄、多数の仏像、美を競う多くの女神のデヴァターなど。アンコールワットは、ヒンズー教の寺院として、建築されていますが、同時にクメール国の王の墓でもあるのです。

 

アンコール・トム

 アンコールトムは、アンコール王朝の最盛期の王宮跡の広大な都城です。アンコール・トムは、城壁で、囲まれた大きな砦の意味をもっていましたが、祈りのばでみあったのです。

  城のもつ民に対する権威や外敵から守るという意味では日本と同じですが、日本の城跡とは性質の異なるものは、祈りの場であるということです。

  この意味では世界遺産に登録されている沖縄のグスク内の各所の祈願する御嶽と同じように、砦と、祈りの場であるということは同じです。沖縄の首里城でも円覚寺と弁財天があり、神仏混合と土地の精霊の神が共存共生しているのです。

   また、沖縄の神道になる龍神信仰・蛇神のナーガ信仰も本島と繋ぐ小島にある御嶽として、神の島のなかにみることができます。海神としての意味をも持っています。

  カンボジアのアンコール・トムの城内には、巨大な観世音菩薩の四面塔があるバイヨン寺院があります。

 平和を愛した王の思いが54基の観世音菩薩を安置したのです。レリーフにも千手観音などの仏教的な彫刻もあります。

 日本人にとっても親しみのある観世音菩薩という大乗仏教観音菩薩が据えられているのです。日本では、どの宗派でもとなえる盤若心経の最初にでてくる迷いを救う知恵として、人間の5つの感覚から悩みを救う知恵の菩薩です。

  さらに、ガイドをしてくれた流暢な日本語を話していたコンさんは、大乗仏教の5つの層も大切と強調していました。彼は、日本の五重の塔の意味と同じであるというのです。地、水、火、風、空と説明したのです。

  大地という安定感に満ちて、水大という一切のもの水によって清め、復元させる火大として、一切のものを焼きつくす激しさと暖かさ、風大として、一切のものをふきとばす活動性、空大として、時間空間を越えた無限の広がり、底知れぬ包容力です。

  5体満足ということで、地が骨水が血液、火が熱、風が呼吸空が生命を表しています。五重の塔や五輪塔に、これらの見方が表れているのです。インド的なカースト制度は、カンボジアの習俗には、合わなかったということも強調していました。

 

   さらに、様々なレリーフの彫刻をみることができます。チャンパとの闘いの様子はなまなましいものです。チャンパの水軍を追い払う彫刻はクメール王国の兵士の勇猛さをみせているのです。

 庶民の日常生活の様子、庶民が楽しんでいる娯楽、曲芸やスポーツなどの様子などが描かれています。 クメール王国の民の暮らしの楽しみをリアルに描いているのです。  曲芸やスポーツなどが盛んに行われて、豊かな庶民の生活も描かれているのです。

 また、国際的にも交易活動が盛んに行われている様子として、 商売する中国人が市場のなかで描かれています。このことは、中国人がカンボジア王国に、一般的に訪れていたことを示しているのです。

  周達観のクメール王国・真臘風土記が特別の旅人ではないのです。彼が書いているように、カンボジア人は素朴で唐人を見れば畏敬の念をもつ。近ごろ唐人を騙すし損害を与えるものもいるという。

 アンコール王朝維持の精神基盤に、神なる王として、シヴァ神から預けられた王国で、シヴァ神の分身としての王であるということです。

  これは、インドから持ち込まれたシヴァ神の信仰とカンボジアの土俗的な大木や大石などに宿る土地の精霊と結びついたものです。

  それは、王の祭儀・信仰と世俗的な王権を結びつけることによって、絶対的な権威と権力が結合したのです。

   しかし、それが崩れたときには、王権の基盤が緩いでいくのです。宗教的権威を王権支配体制に奉仕させて権力を維持できたのです。宗教的権威と世俗的な権力が結びついてこそ、アンコール王朝が維持できたのです。

  そのことが明らかになったことは、921年に、王権の後継をめぐって争いが起きたときです。アンコールの王朝は、921年にクーデターで、もろくも弱体化したのです。

 

コーケー遺跡

 

 武力で倒したのではなく、クーデターということで、アンコールより北130キロのコーケーにジャヴァルマン4世は、王位継承を宣言したのです。神聖なるシヴァ神から授かったとされるご本尊・デヴァラージャを持ち出してコーケーの城に安置して、王位継承の宣言をしたのです。

 

  そして、王位継承したジャバルマン4世は、排除されていた宗教的儀礼者のイシャナムルティを新しい宗教的儀礼をしきる専従者にしたのです。かつてシヴァ神から授かった宗教的儀礼を担当する責任者であった家系が復活したのです。排除されて地方へ移住された家柄であったのです。

  新しい政治勢力と新しい宗教的権威者が生まれたのです。ここに、アンコールの王権とコーケーの王権の二つのクメール王国が並立するのでした。

  921年から928年まで二つの王権の並立が続きましたが、コーケーの都は大貯水池と用水網を整備して、豊かな農業生産基盤もつくり、アンコールの都をしのぐ勢いを増していくことになりました。

 

  ところで、寺院や城壁をつくる石材は露天掘りの石切場が近くにあって容易に手に入ったが、貯水池や用水網の水利システム、水田づくりは、アンコール地方の扇状地とは異なり、土地に岩石が数多く含まれて、豊かな土壌ではなかったのです。

 コーケーは、アンコール以上に絢爛豪華な都城を建設したのです。ピラミッド型の国家鎮護寺基壇62メートル、高さ62メートルの基壇7層を積み上げて、最上には木造の祠堂を建てたのです。

 そして、30ケ所の石積みの新祠堂と新寺院の建設をはじめたのです。20年間のコーケーでの王権であったが、息子の時代になって2年後にアンコールに、移っているのです。

 重要な祠堂はレンガづくりで、赤の祠堂として、非常に品格あるもので、踊るシヴァ神の石像彫刻像が祀られています。美術品としての独創的なものが多数つくられていったのです。

  レンガも焼きレンガと日干しレンガがあるのです。日干しレンガは、湿気に強く丈夫であるというのです。期間をかけて灼熱の太陽の恩恵によってレンガをつくるという知恵があったのです。

  コーケーは、十分な貯水池をつくることができなくて、河川に依存できない雨依存の水利網だけの自然条件でした。ここは、アンコールに、比べれば不利な条件であったのです。コーケーは、人口増大を支える農業生産の基盤を支えることができなかったのです。

 

 アンコールに都を移し、巨大な貯水池の東バライの南側に新都城を移し、大貯水池を再活用して稲作の拡大をはかったのです。東バライの人工の小島に東メボン寺院を建てたのです。

 

アンコール王朝の裁判制度・証人重視

  その後、アンコール王朝の統治では裁判をとおしての社会正義が大事にされています。土地をめぐる争いは、どの時代でも数多く発生しますが、畑地の境界を抜き取り収穫物を横領した事件の裁判は、王の命令で法廷によって裁かれているのです。横領した地方役人が告訴によって法廷で裁かれるのです。平等に司法裁判が行われていたのです。

  洪水後は、土地所有権をめぐる争いが数多く発生しました。告訴、反論、事前調査、審理、判決という手順で行われたのです。手順として予審を担当する小官吏が当事者双方を喚問して事情聴取を行って調書をつくったのです。それから双方からの証言を審判員のまえで、公にとっていたのです。審理にあたっては、証人を重視して数多くの証人を出しているのです。

  裁判の証拠物件も大切にされたのです。泥棒に対しては、厳しい扱いがされました。捕えて監禁して私刑罰を加えてよいということで、これはアンコール王朝時代の村の慣習法でもあったのです。

  村の慣習法では密林の木を切って畑にした場合は、その土地は木を伐採して除去したものの土地に帰属することになっていた。砂糖ヤシ農家には税金がかからないというきまりがあったのです。ヤシの樹液採取者は手をすべらせて落下することが多かったためとしています。

 

  裁判で証人の役割が大切にされたアンコール王朝時代ですが、偽証人に対する強い罰則もあったのです。偽証人によって刑罰が行われたが、地獄に落ちる厳しい判決の場面がレリーフに描かれているのです。うそや偽りがきびしく扱われた時代です。

 日本人の武士道の精神は、誠という、うそや偽りのない心を大切にしてきたのです。鹿児島でも江戸時代、地域で、郷中教育でうそをつくな、弱いものいじめをするなということが教えられていたのです。

 現代はうそや偽りが自己利益のために、平然と行われています。言論の自由と称してうそが語られ、真実がきわめてあいまいになっているのです。気分感情での憶測で、利益誘導のためにうそが平気で拡散されているのです。うそをつくことは地獄に落ちるという厳しい掟のある社会とは全く違う時代にわれわれは生きているのです。

 

アンコール遺跡の建築構造

 アンコール・ワットは、数万個に及ぶ砂岩とラテライトの石材ブロックを一つずつ積みあげて35年の歳月をかねてつくったものです。すべてが人力のみで1000年近く前に建造されたものです。

  砂岩ブロックは、35キロ離れたプレン・クレーン丘の麓の露天掘りに石切場から運んだものです。バランスよく積み上げるには石材自体がお互いに重力を支え合い、一点過重を分散し、強度を高めなければ、積むときに倒れてしまうということです。石材の接着は、一個の鉄材の千切りが隣接する二つの石材にわたしこまれているのです。

 主要な建物の下部の基礎は地面を掘り込み川砂を10センチ敷くごとに水などをかねてつきかためることを繰り返し、厚さ数メートルにおよぶ砂地業という砂を水絞めしながらつきかためていく地盤改良工事が行われていたのです。

 砂地業に加えて、20センチの割栗石を要所に詰め込み強度をあげる工事をしていたのです。アンコール・ワットの建築物の基礎には、ざらに高さ一メートルの盛土で造成されているのです。その三層の基盤うえに寺院の石材による建築物が建てられたのです。

 

  アンコール・トムは、13世紀はじめにつくられたものです。北側3096メートル、南、東、西側は、それぞれ3070、3031、3036です。周囲は8メートルの高さの城壁で、接着剤を使わず石材 ブロックを積み上げています。場内には、3か所の貯水池がありました。

 

アンコール・トムのバイヨン寺院

 アンコール・トムの大門には、両側にそれぞれ54体の像が100メートル幅の環壕にかかった橋に据えられているのです。阿修羅像とそれぞれの神像、ナーガ・蛇神がきわだって入り口のところで見張っているようです。

 アンコール・トムのなかにあるバイヨン寺院は、大乗仏教建築様式で建てられたものです。大きく目をひくのは4面の観世音菩薩です。すべての心の悩みを救済する智慧をもった慈悲深い菩薩です。

 バイヨン寺院は、クメール王国の国家鎮護であるのです。幅140メートル、長さ160メートルの寺院です。バイヨン寺院は、仏面塔が49個あり、合計200の観世音菩薩像がみられるのです。まさに、観世音菩薩の慈悲深い心を表現している寺院であるのです。

 

 バイヨン寺院を建てたクメール王は、民に対して慈悲深い面をもっていたことが、各地域に施療院をつくったことにもあらわれています。薬石、薬草を処方して病気の村人を救ったのです。

  王の意を受けた担当者が近隣の森や密林、河川から薬効のある植物や薬石を探しだしていたのです。クメール王国には薬石・薬草の医療文化が根強くあるのです。

 かつて、わたしはタイ東北部の農村で、経験したことですが、それぞれの村に診療所があることに感銘を受けました。地域の日常的な医療活動が伝統的にあったということでした。

 クメール王国の施療院の思想は現代でも通じる大切な日常的な医療活動、予防医学としても意味のあることです。自然の薬草や薬石などの伝統的な暮らしの文化を評価していくことも大切ではないかと思います。

  ガイドのコンさんは、カンボジアの伝統的な食生活や薬草・薬石などの伝統的な医療も見直すことが大切としていました。日本での有機農業での取り組みをカンボジアでも積極的に市場価値をもたせていくことが必要とのべていました。

  仏教的な輪廻転生と、自然循環ということは、今後のカンボジアにとっても大切であるし、カンボジアの人々はもっと未来に向けて、アンコール遺跡の文化から学ぶことが大切であるとのべていました。

 

 ポストアンコール時代は、1431年にタイ王朝の軍事的脅威からアンコールの都城を放棄してメコン川沿岸のバサンに都を移して、プノンペン周辺にクメール王国の中心が、京成されていくのです。ポストアンコールは、フランスの植民地になるまでをさしています。メコン川とトレンサーブ川の合流地域の湿潤地帯に移ったのです。そして、大乗仏教から上座仏教に変わっていくのです。

  アンコール放棄後に一時的にアンコール都城の復興があるのです。1564年にクメール王国のアン・チャン一世は、アンコール・ワット寺院の整備を命じたのです。1576年に王に即位したその息子は自分自身が移り住み、アンコール・トムを整備したのです。半世紀ほど活気が戻って平穏であったが、1594年にタイ王朝軍との戦争で、陥落するのでした。

  その後に、カンボジアは、タイ王朝の属国になるのでした。そして、ポルトガルやスペインなどの列強諸国は、交易のために支配権をもとうとしてクメール王国を我がものにしようとするのでした。カンボジアは、王の交代圧力に翻弄されるのでした。

   さらに、タイ王朝と、ベトナムの王朝の狭間で右往左往するクメール王国でした。外国勢力によって、王国内は、分裂抗争するのでした。 1731年にカンボジア南部2州をベトナムに割譲、1758年にベトナムの属国確認、1792年にタイヘ運河建設のためにカンボジア人1万人連行、1795年に西北部2州をタイに割譲、1814年に北部3州をタイに割譲、1841年にベトナムは、カンボジアを併合など、カンボジア領土をめぐって、めまぐるしくタイとベトナムの抗争が起きていくのでした。

   フランスの植民地にインドシナ半島がなったときもベトナムの官吏を使ってカンボジアをフランスは支配するのでした。しかし、アンコール・ワットは、東南アジアでの上座仏教の聖地として崇められたのです。

 

  寺院などの遺跡は、石材建築で変わらぬものですが、人間の住居は、木造で変化していくものだとコンさんは言っていました。変わらぬ文化財を大切にしていくことがカンボジアの自立性と、未來の発展していく社会をつくっていくものだということがガイドのコンさんの指摘でした。すばらしいカイドさんに恵まれて、大変に意義深いアンコール遺跡の旅でした。

 

 

参考文献

石澤良昭「アンコール王朝興亡史」NHKブック

綾部恒雄・石井米雄編「もっと知りたいカンボジア」弘文堂

ブリュノ・ダジャンス「アンコール・ワット創元社

上田博広美・岡田知子・福富友子編「カンボジアを知るための60章」赤石書店