社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

小さな自治と小学校の校区

 

農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

農は脳と人をよくする ―子どもの発達と地域― 改訂版

 

 

           
 小さな自治と小学校の校区の社会教育的役割 
                      
       神田 嘉延

 (一) 小さな自治としての小学校の校区
 
 小さな自治を地域の暮らしからみていくうえで、小学校の校区自治の役割が大切である。農山漁村における小学校の校区は、歴史的に、伝統的な村落共同体に依存していた側面がある。

 小学校の校区は、明治の近代化のなかで、新たな暮らしの地域共同体となった場合もある。伝統的な村落共同体に依存している小学校の校区では、入会権による学有林をもっている場合もある。そこでは、校区自身が自主的な財源をもっている。

 鹿児島県の山間部では、小学校の校区の学有林があり、学校の施設整備などに住民の寄付行為と体育館などの学校施設整備に寄与する場合が少なくない。旧霧島町には、三つの小学校が存在している。それぞれ、学有林をもち、地域によっては、奨学制度や認定こども園を住民立でつくっている。

 永水小学校では、1992年より山村留学をしていますが、始めるときに、小学校の林野財産区から80万円、地域の奨学会から30万、町から70万の予算を山村留学実行委員会はもらっている。

 鹿児島県霧島市竹子(たかぜ)の小学校の校区は、山の共有林を中心に共生会をつくっている。山に木を植えて、子どもの教育のために積極的に利用していこうということで、明治14年に小学校ができたころから「山には木を、里には人を」と山の整備と学校の充実を一体としてとりくんできたのである。

 鹿児島県の出水市上場高原では、集落ごとの対立が水利権問題などで地域が一体でまとまっていたわけではなく、小学校の存在によって地域がまとまってきたのである。小学校のまとまりによって、2つの自治公民館が水道事業等のむらづくりに統一してとりくみ、1998年度のむらづくり日本一として表彰される。

 鹿児島県の出水地方の学校給食に上場高原牛乳を提供して、地域の銘柄牛乳の生産地になっていった。市当局と教育委員会が積極的にとりくみ、出水の都市部との交流、産直も行われていくのである。
 神田 嘉延「むらづくりと公民館」高文堂出版参照

  鹿児島県知覧の松ヶ浦高等小学校は、明治35年から明治45年まで学校統廃合に反対した住民が自ら住民よりの寄付金によって、教師を雇い学校運営をしているのである。この小学校は江戸時代から稽古場を中心に浜の住民が独自に大字行政区をつくり、小学校をつくっていくのであった。

 近世の行政村では、浜の地域は、別々の村で農業を営む地域から差別を受けていたが、明治になって、小学校の校区を中心に独自の行政村をつくりあげていくのである。

  長野県下伊那郡伊賀良村(昭和31年に飯田市に合併)は、学校存続問題で明治時代から村がゆれてきた地域である。明治31年に中村地区の分教場が独立していこうとする村当局との紛争である。自ら資金を集め、学校の建築を行い、高等科も設置するのである。

 しかし、郡長の命令によって、強引に学校の統合が大正2年に決定され、中村校区の住民は、分村の請願、児童の同盟休校がされるのである。校区住民は、訴訟運動を展開していくのである。中村区民の粘り強い地域の学校存続運動があったのである。

 中村の校区の住民が学校の設置や管理運営をできた財政的な基盤は、広大な共有林野の存在があったことを見落としてはならない。小学校の校区がむらづくりの単位になっている事例は数多くあることをみていかねばならない。「伊賀良村史」868頁~899

 学校は地域の文化センターとしての役割を歴史的にもってきた。農村において、学校の運動会は、地域の運動会であった。これは、村落共同体に依存して学校が形成されてきたという歴史的性格から、地域行事と学校行事が結びついてきたことからである。

   農林漁業を生業とする地域では、明治以来続いてきた行事である。学校は地域が支えてきたという歴史をもってきた。とくに、僻地では、国や地方自治体から教育を見放されたところが少なくない。離島地域や開拓地では、見放されたところが多い。

  1992年にむらづくり日本一になった沖永良部の国頭も小学校の校区単位で積極的に地域づくりと社会教育活動をしている。ここでの社会教育活動は国頭字の自治公民館である。土地条件も悪く、農業に不向きな土地であったが、岩に海水をたたきつけながら塩をつくって生計をたててきた地域であった。

 この地域では、自生していたゆりを商品化して豊かになったのである。自ら創意工夫して、市場を開いてきたのである。自立自興というために伝統的に教育を重視して、地域の共同の力で子育てをし、自治公民館を拠点に地域づくりをしてきたのである。学校の庭には、「潮干す母の像」を地域の教育目標のシンボルにしている。

鹿児島の沖永良部で最も貧しい地域といわれた。沖永良部の国頭では、地域で自分たちの資金を出して、学問所を設立している。明治6年頃に、十数名の子弟の教育を、二間角の粗末な家を建てて、学校と部落民がつくった。

 沖永良部は、西郷隆盛が獄中で生死をさまよったところである。牢の看守役人によって、奇跡的に助けられ、牢に入った西郷が教師になって子ども達に学問を教えたところである。ここには、社倉という助け合いの精神によって学問所がつくられていくのである。

   明治10年に、八間に四間の茅葺きの馬小屋建で、校庭20坪ほどに過ぎない学問所をつくっている。明治15年の学制変更により、小学校を初等、中等、高等の三等科としたが、国頭の校舎は、完全なる設備を有することができないため、教授に不都合であった。

   明治19年に学制の変更により、校名を簡易小学校と改称し、尋常小学校の代用をしていた。明治23年に小学校簡易科を廃して、高等尋常の二科のみの存置を布告があったが、その要求に応ずることができず、簡易科を設けて教育を継続している。

 小学校は、地域住民の子育てに対するアイデンティティ形成として大きな役割をもっている。とくに、農村においては、小学校が地域の文化センター的役割をもってきた。農村における小学校校区は、大字または、大字連合によって、歴史的に形成されてきた。

 しかし、一方で地域の生活・生産の共同体的機能という側面を校区が強くもっていたのである。ここに村の学校の2面性が歴史的にあったのである。農村における矛盾関係があっても子育ての機能は地域の大きな共同的な機能であった。小学校は、村落の人々がまとまっていくいうで大きな機能をもっていたのである。さらに、小学校は、農村の地域住民にとって、地域の文化的統合の機能をもっていたのである。

   北海道の開拓農民は、小学校をたてることが、開拓の第一歩であった。鹿児島からブラジルにわたった人たちも同じように学校建設が開拓の第一歩であった。日系人がつくった中南米最大の協同組合に発展したコチア産業組合も学校を拠点に展開したのである。

  そこでの学校は、子どもを教えることはいうまでもないが、地域の文化センターとしての役割を果たした。小学校の校区は、地域の運動会や地域の青年・大人たちの学ぶ場としての機能している。農業研修や農業開発のうえで、大きな役割を果たしたのである。コチア産業組合の現在は、倒産から、原点にかえって地域に根ざした学びを大切にしての再建運動を展開している。

  学校が地域づくりの拠点になり、地域住民の英知が学校に結集しているのである。アメリカの組織学習協会の創始者のピーター・M・センゲは、学校を教える組織から学ぶ組織に変革していくことを強調している。

 その学ぶ組織の変革では、コミュニティとの関係を重視しているのが特徴である。そして、持続可能性をもつコミュニティにとって必要なことは、教育との関係であるとのべる。
 「学校システムがコミュニティの中で一歩前に出てじっくり考える役割を果たさなければ、あるいは、教育長が他のコミュニティのリーダーとよい関係を築いていないとか、住民が学校をコミュニティに対する有力な貢献者と見なしていなかったらすれば、それはコミュニティ内のつながりの力が弱いことを意味している。

 ・・・貧困にある子どもを支援する団体は、社会サービスの関係者だけではなく、教育者ともつながれる。教育に関する活動は博物館、オーケストラ、公共図書館、ボーイ・スカウト、劇場、文化保存団体、公共サービス、宗教組織、地方の法律関係団体、ヘッド・スタート、ビジネス界などコミュニティの中の多数の機関で行われている」。

 ピーター・M・センゲ編・リヒテルズ直子訳「学習学校ー子ども・教員・地域で未来の学びを創造する」英治出版703頁~705

   ピーター・M・センゲのグループは、地域の資源や人材を生かしての地域づくりをしていくうえで、地域の自然、文化、歴史、人材を見直していこうと学際的なフィールドワークの地域学の手法を学校教育で応用している。それは、地域教材によって、カリキュラムマネージメントに利用していことすることである。

  学校教育の新しい考え方として、中央教育審議会は平成2712月に「学校と地域の連携・協働の在り方と今後の推進方策」を答申している。「学校を核とした地域力強化の観点から,全公立小・中学校において,学校と地域が連携・協働する体制を構築するために,コミュニティ・スクールや学校支援地域本部等の取組を一層促進する旨が示されている。

 地方創生の実現に向けて,これからの子供たちには,地域への愛着や誇り,地域課題を解決していく力が求められている」。この答申での開かれた学校とは、地域の将来の担い手を育てるために、地域でどのような子どもを育てるかという教育目標やビジュンを住民と共につくりあげていくことの提言である。
 それをどのように具体的に実現していくのかは、社会教育専門職員が、そこでどのような役割を果たしていくのか明確ではない。一般行政の役割や社会教育の役割を含めて検討していく課題がある。

  学校教育では、社会教育と連携して、地域の人々と共に、地域に誇りがもてるような教育をしていくことである。地域で働き、生活する人々が学校教育に出かけていくことが期待されている。また、地域の教材を積極的に授業で活用する教師の実践も求められている。

 社会教育法が改正され、平成29425日に文部科学省は、地域学校協働活動の推進にむけたガイドライインを出している。ここでは、学校を核とした地域創生を積極的に打ち出し、学校には、社会に開かれた教育課程を推奨している。地域学校協働本部が地域住民からつくられていく時代とするのである。

  例えば、宮崎県都城では様々な地域団体が積極的な活動をしている。しかし、それらが、統一的に地域振興計画や社会教育計画と結びついているわけではない。行政による地域づくりの長期的な戦略が不足している。

 都城では、盆地祭りの継続性の問題やおかげ祭りなどとの連携・各種機関や団体との横のつながりをつくる必要性と講座の開設が求められている。地域デザインの仕事としての、地域社会教育計画と策定という社会教育専門職員の役割がないのである。
 
 (二) 小学校の校区と社会教育の可能性
 
 校区公民館の設置形態は多様である。1,小学校などの区域に設置されている市町村立の条例公民館という形態、2,校区単位に条例公民館の分館を設置している形態、3,学校区を超えた地区の条例公民館の管轄のもとで、学校施設内に公民館を設置して、小学校の校区住民による運営審議会によって運営している形態、

 4,小学校の校区単位での自治会や字の自治団体による財団法人による管理運営している形態、5,小学校の空き教室などを利用しての学校施設開放と、住民の主体的な学習組織ということの学社融合の機能を行い、校区コミュニティづくりを積極的に展開している形態、6,市町村自治体が、新しい小さな自治体として校区を位置づけ、福祉と結びついて公民館活動を展開している形態など、その設置形態は多様である。

 校区公民館の設置形態は、一律ではなく、それぞれの自治体によって、位置づけが多様であり、住民の対応の形態も複雑である。多様化する校区公民館の形態で、共通していることは、校区は、住民の日常生活に密着した学習文化活動の区域としていることである。

 校区公民館は、社会教育法の公民館の目的における「実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もって住民の教養の向上、健康の増進を図り、生活文化の振興を増進に寄与する」(第30条)ということで、歩いて行動でき、実際生活に即する地域生活の密着した学習区域として、大きな意味をもっている。

  山村留学による村の小学校の活性化は、里親による都会の子どもの受け入れ、寄宿舎の設置として対応してきたが、今日では、都会の家族受け入れていくという親子留学制をとるところが生まれている。これは、過疎化によって、空き家が増えたことの対策と、地域産業振興における都会の人材の積極的活用という対策と子どもの教育活動が結びついたものである。この地域づくりを社会教育からみていく場合に、地域の人々の人材養成、個々の諸能力形成の問題がある。

 親子留学は、従前の地域で暮らして人々ではなく、都会などの外からくる家族であり、新たな仕事探しの課題があるのである。農業などでは、新規就農支援対策事業とも積極的に結びつきながら、地域に受け入れた親の仕事の確保に努めているのである。これは、留学というよりも都会の家族を新たに農村で定住していく対策にもなっている。

 また、外国で暮らしていた子弟が祖父母と共に大都市では子どもが暮らせないということで、農村に留学してくる世帯もいる。そこには、文化的な違いをもった親子世帯が、村の人々と共存して暮らしていくという大きな課題がある。

 親子留学ということで、現役世代の親たちにとっては、地域で暮らすための職場の確保、農業技術の課題などがあるが、それらを乗り越えての親子留学である。

 ここには、従前の山村留学のような子どもだけの留学で、地域の人が里親になるということではない。そこでは、学校教育の課題が大きくあったが、親子留学は、親自身が地域で暮らして行けるのかという独自の課題がある。ここには、今までの山村留学以上に、社会教育からの大人の人材養成、地域のリーダーの育成が極めて大切になってくる。

 そこには、新たな村づくりの課題が全面的に要求されてくる。ここでの村づくりの視点は、親子留学してきた世帯と共に、従前に村で暮らしてきた人々が、共存と相互扶助によって、共に地域で生きていくための諸能力の形成が新たに求められるのである。そこでは地域全体が社会経済的に自立できることが求められる。その共に生きていく結び役が、Uターンである。

 農山漁村では、過疎化、高齢化が進行し、集落の機能さえも崩壊する危機がみられた。集落機能の崩壊は、人間的生活をおくれる社会経済基盤のない問題である。子育てをしていくために、学校の存在は不可欠である。地域に学校がなくなっていくことは、教育と文化的な側面から地域崩壊の大きな契機になっていく。

 学校は、地域住民にとって、文化の灯火であり、未来を担う子どもが地域で学んでいるということは、地域の活性化の基盤である。この意味で、地域の人々は学校教育の支援に積極的に貢献しようとするのである。学校の地域支援活動は、地域住民の村づくりの活力になっていく。学校の運動会は地域住民の運動会となっており、学校行事は地域の住民の行事となっている。

 また、学校での稲作体験学習などの地域教材のとりくみに住民が積極的に協力する。これは、地域の文化を継承していくためである。稲作が地域でなくなっても学校教育として、稲作体験学習をしているのも、その地域文化継承と食育教育のためである。

高齢化した現代では、地域福祉活動として高齢者の団体が積極的に学校施設を利用して、子どもとのふれあい活動を展開しはじめていることも最近の特徴である。学校内に高齢者学級や高齢者が自由に集まれる場所をつくり、また、学校と隣接したりする高齢者のホームなどをつくる地域も増えている。

  子どもとのふれあいによる高齢者自身の生き甲斐と、子どもも高齢者の生きてきた知恵から学ぶということで、両者にとって大いに意味のある活動が生まれている。現代的に、新たなコミュニティをつくっていくうえで、小学校や中学校が地域の複合施設化のなかで、人々が地域の様々な協同活動に参加していくセンター的役割を学校がもちはじめている。

  地域の自立発展という視点から、人材育成、地域の人々の自立のための諸能力育成の大切さを問題提起するものである。自立発展は、内発的な発展ということで、地域の資源、地域の人材、地域の伝統的な文化を生かしての生きるための経済を支えていくうえで、無視することができない重要な視点である。

 過疎化のなかで、内発的な発展論では、自立した社会経済的生活が不可能になっている。現代の都市生活の問題、情報化、教育の高度化、交通網の発展などから、都市と農村の交流による新たな人間的生活の構築が求められる時代である。
 

 また、都市と農村の経済的な生産力第一主義の不均等発展も著しく進行している。そこでは、持続可能性の問題も問われている。そのなかで、都市内部の矛盾も深刻である。日本の企業の国際化のなかで、外国で暮らす子弟も多くなっている。帰国子女の問題もある。

 大都市での厳しい学力競争の学校では、子どもが育てられないと農山漁村の学校を求める親もいる。ここには、都市での学校教育の問題がある。この矛盾を捉えながら、農山漁村の自然の中での人間的な暮らしの再評価も必要である。

 内発的な発展ということからの地域の諸能力の形成、人材育成ということを乗り越えて、都市と農村の連帯、不均等発展の矛盾から積極的な農山漁村への支援のもとに、自立的な発展の構築がある。