社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

「デモクラシーの危機と教育の再生」ー小柳司教授の最終講義から学ぶ

「デモクラシーの危機と教育の再生」J.デューイ「民主主義と教育」出版百年を超えてと題して、鹿児島大学で30年以上にわたって教鞭をとってきた小柳司教授が最終講義を先日の3月17日に行われた。強靱なデモクラシーを求めてということで、日本の現代に生きているわれわれに、多くの示唆を与えるものでした。長らく鹿児島大学での教育と研究に活躍されてきたことご苦労様でした。

 小柳教授は、「たとえ相手が自分と相容れない思想・信条のゆえに社会や体制から排除されることを命がけで絶対に許さない」という強靱なデモクラシーを強調したのでした。
 「教育と民主主義」の著書は、教育を素材にして自らの哲学を語った書物であるとしています。21世紀の今、直面しているデモクラシーの危機に照らして、デューイが訴えようとした「デモクラシーの本質がみえてくるとみたのでした。そして、名目上デモクラシーの社会に潜む危機に対して、人々が日常生活レベルにまで浸透した生き方や生活態度を大切にしたのでした。

 そして、「社会的弱者の多くの人々は社会の変化に翻弄され、盲目的に生きることを余儀なくされているが、彼らを救済の対象として、単に考えるのではなく、当事者としてエンパワーメントすること」「科学を少数の手からすべての人々に、その変化の当事者である民衆自身が、科学を駆使して、自らの力で統御し、人類福祉の増進を図ることで、巨大なマスデモクラシーの社会を協同統御することができる」
「教養が実際生活から遊離するのではなく、自分達の生活課題と要求を科学的にとらえること、生活と科学の結合の教育的価値として、学校で学ぶこと」というデモクラシーの課題をデューイはみていると小柳教授は力説したのでした。

 さらに、小柳教授が問題提起したのは、言葉のコモンズであった。近代以前のコモンズではなく、現代社会は大衆化が進み、開発に抗して自立共生の生活を取り戻す新たに言葉のコモンズ、意味のコモンズを取り戻さなければならないとした。地方の鹿児島大学で教育と研究に関わってきて、とくに奄美諸島から、そのことを強く学ぶことができたとしていました。

 小柳教授の最終講義を聞いて、帰って「民主主義と教育」に目をとおしました。人間的に生きるための教育として、人間としての生命は、肉体的存在に、信念や理想や希望や幸福や不幸や慣行が伴うということから教育の見方からはじまっています。

  人間の赤ん坊は、社会的素質をもっているからこそ、自然的に無能力でも生きていけることができる。しかし、「周囲の人々の態度や行為に共鳴して感応する子どもたちの柔軟で敏感な能力をすべて保持している大人は少ない。個人の独立性の増大が個人の社会的能力の減少をもたらす危険が常にある。個人がより自立的になるにつれて、冷淡さや無関心に至る。そこで、自分と他人の関係について非常に無感覚になって、自分ひとりで生活し行動することが実際にできるかのように思う幻想を発達させるようになる」とデューイはのべるのです。

 デューイの「民主主義と教育」の論を社会教育・生涯学習という視点からみて、面白いとおもったことは、子どもも大人も成長していくということが、それぞれぞれの生活環境から異なっているということです。大人は子どもから学ぶことが、共感、好奇心、心の素直さなどからあるとしています。子どもは、嘘をついても素直さをもっているために、すぐにわかってしまうのです。大人の嘘は、巧みに使うのでななかな見抜くのに苦労するのです。

 正常な子どもも大人も成長しているというのがデューイの立場です。「しかし、生活環境が異なっているので成長の様式が違うのす。子どもは特殊な科学上、経済上の処理に向けられた能力は、成人のように成長すべきです。成人は、共感的な好奇心や、偏見のない感じやすさ、心の素直さに関して、子どもように成長しつづるべきだ。教育とは、年齢に関わりなく、成長すなわち十全な生活を保障する諸条件を与える事業を意味する」とデューイはのべます。

 教育は社会的な機能であり、未成熟者たちを彼らの属する集団の生活に参加させることをとおして、指導し、発達させることであり、集団の中での普通に行われる生活の質がことなれば、教育も異なるとデューイはのべます。そして、社会集団の成員同士の間に自由な往来がないことは、多数の価値を共有することができない。多様な価値を共有できるには、集団のすべての成員が、他の成員たちから受信し、吸収する機会をもっていなければならない。非常に多様な共同の事業と経験がなければならないと、デューイは、自由な往来と多数の価値の共有を強調するのです。
 共有されたさまざまの関心から生ずる自由で公平な相互交渉の欠如は、知的刺激を不均衡にするというもデューイの立場です。
 刺激の多様性は目新しさをもたらし、目新しさは思考力への挑戦となる。また、技術的、知的、及び社会的な関係を知り、自分のしている仕事について知的な関心を呼び起こすものがなければ、それは、機械的な型にはまった作業になってしまう。これは、労働者の奴隷的な境遇である。以上のように、働く人々の人間的発達、学習の重要性をデューイは指摘するのです。

 デューイの考える民主主義の理想は、「共同の関心がより多くの、より多様な事柄に向かうことを意味しているだけではなく、相互の関心を社会的統制の要因として確認することにより、深い信頼を築くことで第一である。第二は、社会集団が互いに自由に相互作用することを意味するだけではなく、様々な相互交渉によって生み出される新たな状況に対処することによって絶えず再適応させる」ことを意味していると二つの要素を示しています。

 この二つの要素によって、民主的な共同社会は、計画的で組織的な教育に深い関心を向けるようになるというのです。民主的な社会は外的な権威に基づく原理を否認するのであるから、それに代わる自発的な志向や関心の中に、教育を見いだすことができるとするのです。
 民主主義は単に政治形態ではなく、共同生活の一様式、連帯的な共同経験の一様式であります。人々がある一つの関心を共有すれば、各人は自分自身の行動を他の人々の行動に関係づけて考え、一つの関心を共有する人々の数がますます広い範囲に拡大し、接触的がますます多様になり、排他性が解放されていとしているのです。共有された関心の範囲が拡大し、いっそう多様な個人的能力が解放されていくことは、民主主義を特色づけるものです。デューイは、個性化や関心の共有を維持し、拡充することは、計画的な教育の努力結果とするのです。