賀川豊彦の協同組合論とマルクスの疎外・協働・自由論ー未来への主体的学びー
賀川豊彦の生涯の社会活動と著作活動の概要
本論では、賀川豊彦の友愛による協同組合の精神と、マルクスの労働疎外論から未来社会を模索していくものである。この未来社会の実現には、利潤第一主義、弱肉強食の競争主義、格差と無縁社会など、資本主義的利己による自由主義の矛盾からの解放を展望しているものである。
労働疎外からの克服、友愛、協働・協同、利他主義的による人間的自由、それぞれの個性を尊重して、個々が仲間の絆を伴っての人格の発達がされていく社会を探究していくものである。ここでは、人びとの絶えざる学び・生涯学習が不可欠になるのである。そして、その矛盾の克服の実践によって、一歩一歩前進していくものと考える。
ところで、賀川豊彦は、日本の生活協同組合運動、協同組合保険運動に大きな影響を与えた思想家である。戦前の労働者や農民の貧困状況をすこしでも改善したいという友愛的精神から労働運動や農民運動とのかかわりを深くもっていた。また、協同組合運動を日本で先進的に展開した活動家であった。
彼の社会運動の基盤精神は、キリスト教の友愛精神を基本にしていた。トルストイの「戦争と平和」の著作に大きな影響を受け、その精神を基にして、平和運動にも貢献した。
彼は、キリスト教社会主義に共感をもって、貧民の人たちをすくった聖人でもあった。キリスト教の信仰にある友愛精神の内心から資本主義的矛盾のなかで貧困に虐げられた人びとの救済の運動を積極的に展開したのである。
明治34年に結成された日本最初の社会主義政党の社会民主党の創立者の多くは、キリスト教信者であった。明治政府は、キリスト教育信者で社会主義者に弾圧を加えたのが大逆事件であった。和歌山県新宮市のアメリカで医学を学び、医師でクリスチャンであった大石誠之助が死刑執行されたのである。新宮では、6名が逮捕され、2名が死刑執行、4名が無期懲役の刑を受けた。
戦後は、多くの研究者の解明によって、国家的陰謀としての真実が明らかになり、キリスト教信者と僧侶の仏教者など犠牲になった6名は新宮市の市議会全員一致で、名誉回復の決議されて、大逆事件の犠牲者を顕彰会として、暗黒裁判の歴史と犠牲者たちの意志を学習し、未来への継承に、人間の尊厳と平和のための市民的運動になっていったことである。
ところで、片山潜、安部磯雄、木下尚江などは社会党結成のメンバーの多くはクリスチャンであった。足尾鉱毒事件の運動など社会運動を積極的に展開した内村鑑三もキリスト教の信者であった。戦後の日本共産党の副委員長を務めた小笠原貞子もキリスト教の信者であった。
また、リベラルな日本の近代思想を形成していくうえで大きな影響を与えた新渡戸稲造もキリスト教司祭信者であった。彼は武士道論を英文で出版して、世界に日本文化を支えてきた社会倫理精神を紹介した。また、一国の良心教育論などを実践し、同志社大学を創立した新島壌もキリスト教信者であった。日本では、キリスト教信者の文化人・教育者が日本の近代のレベラル思想の発展に大きな影響を与えたのである。
明治期の社会主義の流れの仏教者との関係では、大逆事件に連座した内山愚童、(曹洞宗・死刑執行)、高木顕明(新宮グループとして、真宗大谷派・死刑判決減刑無懲役)、峰雄節堂(臨済宗・死刑判決減刑無期懲役、加藤時朗(日蓮宗在家信者)がいた。
昭和初期には、私有なき共同社会を論じて仏教社会主義を実践した妹尾義郎がいた。彼は治安維持法によって弾圧された。戦後は日本共産党の運動にも参加した。このように、宗教的な精神からマルクス主義を学び、社会主義運動を実践した人びとが日本に数多くいたのである。幕末から明治維新にかけての廃仏稀釈、大逆事件などは、キリスト教の神父や仏教の僧侶を国家神道のもとに統制して、アジアへの侵略戦争のための精神的動員にしたのである。ここでは、様々な宗教集団が国家神道のもとで、日本的精神に醸成され正戦論になっていくのである。
ところで、賀川豊彦の1920年出版「死線を超えて」は、100万部を超えた。賀川はこの年に、神戸購買組合を設立した。その協同組合は、後に灘生協になって、日本最大の生活協同組合になったのである。
賀川は、1921年に三菱重工業・川崎造船所の大争議をも指導し、労働運動を積極的に指導した。彼は、キリスト教友愛精神をもっての社会主義活動を展開したのである。この大争議は、3万5千人の労働者による自主管理を一時的に実施する。
しかし、警察による弾圧によって労働争議は敗北に終わるのでした。さらに、1922年には農民運動にもかかわるようになる。農民組合は3年後に7万人の組合になる。
1929年以降は、100万人の救霊として、福音伝道のための活動で全国をまわるようになる。戦後の1946年には、桜美林大学の創設期に初代理事長になった。また、戦後の日本社会党の結成にも参加した。晩年は、平和のために、世界連邦に取り組んだのである。このように、賀川は友愛精神を基礎にして、多様な人々の救済の社会活動、政治活動に参加したのである。
賀川豊彦の協同組合の本質論は、助け合いの組織を作り、それを実現することであると述べる。そこでは、生産者も、消費者も愛のつながりによって公正な、自由な幸福を分かち合う経済生活ができるとする。協同組合は、宗教的にキリストでいう兄弟愛意識の発展であると考える。それは、最善の合理性、科学性に富み、かつ芸術的、宗教的経済組織といえるというのであると考える。
ところで、賀川は、唯物論的経済学の無能さを力説する。マルクスは、友愛の経済を実現することはできないときめつける。また、一方的な独善の教義的宗教は、友愛経済の実現ができないとしている。
マルクスの唯物史観は旧時代の学説と断定する。賀川は、人間の歴史における客観の勢力を否定するものではないとみているが、客観と自我が交渉して経済史が生まれるのは、自然史ではなく、生物の発生史だと賀川は考える。
賀川はマルクスを次のように批判する。マルクスは、唯物的生産が意識的目覚め、人間の精神的文明文化を決定するというが、そんな簡単なものではないと批判する。
賀川は食の生産について、次のように述べる。食の生産は、植物の征服、動物の征服、気象学・土壌学・肥料学・微生物学を始めとするその他の諸学を加えて進歩した。これは全く人間意識の発達によるもので、単なる唯物的決定によってよるものではないことは明らかである。マルクスは人間の意識の発達作用をみないとするのである。
そして、さらに、マルクスの理論は、社会病理学を示したことは立派であるが、社会病理の治療方面には触れることはなかったと断定する。その最も重大な治療面は協同組合運動によらねばならないということが、賀川の主張である。賀川豊彦のディスカバー選書「協同組合の理論と実際」9頁参照
この賀川の批判には、マルクスの正確な理解が不足して、多くの誤解を含んでいる。マルクスは人間の意識、意欲を社会変革のなかで特別に重視しているのである。決して、社会的矛盾は、必然的に解消されていくという立場をとっていない。
賀川豊彦のマルクス批判に対する本論でのマルクスの人間意識・意欲の見方
賀川のマルクスの理解は、スターリン主義による機会的唯物の影響の中に強くある。スターリンは、世界の本性を物質的な発展法則ととらえ、世界精神なるものは存在しないとみるのである。
「物質、自然、存在は、意識のそとに、それとは独立に存在する客観的実在であり、物質は感覚、表象、意識の源泉であるから、物質こそ第一次的であり、意識は物質の反映であり存在の反映であるから、第二次的であり、派生的である」スターリン「弁証的唯物論と史的唯物論」国民文庫、108頁。
マルクスやエンゲルスの社会主義理論は、社会を変革していくうえで、人間の意識や意欲を積極的に評価しているのである。 そして、人間の善悪の問題、道徳や幸福の衝動を社会的役割のなかでみていたのである。そこでは、大きな流れのなかで、社会的存在の客観的にみる必要性を強調している。
賀川がのべるように唯物生産決定という単純な考えをマルクスはとっていない。マルクスとエンゲルスは、キリスト教の本質を書いたフォイエルバッハの機会的唯物論を批判している。そこでの人間の行動の見方は、頭脳を通して、感情や衝動、思想として、観念の世界によって起きることを次のように述べる。
「人間を動かすものはすべて、その頭脳を通過しなければならない飲み食いさえもそうであって、それは頭脳によって感じられ飢えや渇きではじめられ、同じく頭脳によってかんじられ豊満で終わるのである。人間に及ぶ外界の影響は、人間の頭脳のうちに表現され、頭脳のうちに感情としての思想と衝動の意志決定となる。要するに観念の流れとして反映して、そしてこの形において観念の力となるのである」。エンゲルス「フォイルバッハ論・」国民文37頁より
マルクス・エンゲルスの考える人間の行動は観念の力として起きるというのである。人間の観念は、かれが存在している外界の影響を頭脳をとおして表れるという見方である。そして、人間の善悪は、所有欲とか支配欲という人間の持つ邪悪な情欲から起きるとマルクスとエンゲルスは次のようにみるのである。
「人間の悪は階級対立の発生以来、歴史的発展の梃子は、所有欲とか支配欲という人間の邪悪な情欲であって、封建制度とブルジョアジーとの歴史が、その独特な永続的証拠である。道徳的な悪が歴史のうえで演じる役割の研究が必要である。このことをフェイエルバッハは思いもおよばない」。前掲書、45頁―46頁
そして、エンゲルは善悪と幸福衝動の愛の道徳については、個々の人間が他人と交わるということから生まれると次のように述べる。
「フイエルバッハは自身の合理的自制と、他人との交じりにおける愛が道徳の根本規則であって、この規則から他の善悪のことが一切導かれる。また、幸福の衝動は人が自分自身のことだけにかかわりあっているのでは、例外的にしかみたされず、自分の利益にもなり、他人の利益にもなるようにみたされることはけっしてない。
かえって幸福衝動は、その充足の手段である外界とのかかわりあいを必要とし、したがって食物、異性の個人、書物、談話、討論、活動など、利用されまたは消費される諸対象を必要とする。フォイルバッハの道徳は、これら幸福衝動充足のための手段と対象とが無条件に各人にあたえられているものとみる」。前掲書46頁ー47頁参照
個々の人間が他人と交わることからの善悪や幸福の衝動は、個々の内面的なことに入り込むのではなく、おいしい食べ物文化の楽しみ、友人や異性との語らいや絆の関係、共に行動する楽しさや連帯など個々の外界との関係を大切とするのである。
そして、人間の歴史は、自然の発達史と本質的に異なる。人間の歴史は意識が付与され、情感や考慮によって、意欲的な目標をもって行動していくということを次のように述べている。
「社会の発達史は、ある一点で自然の発達史と本質的に類をことに類するものである。自然の発達史はまったく意識のない盲目的な作用力であって、これらの作用力の交互作用のうちに一般的な法則がおこなわれているのである。
社会の歴史においては、そこで行動しているものは、意識を付与され、考慮または情感をもって行動し、一定の目標をめざして努力する人間のみである。そこでは、意識された企図、意欲された目標なしに、なにごとも発生しない」。前掲書、60頁-61頁
マルクスやエンゲルスの社会主義の理論は、意識された企画と意図、意欲された目標なしに、一定の努力なしに人間の社会は動いていかないことを強調していたのである。
マルクスは経済学・哲学草稿において、資本主義の労働は、人間の本質の自由で自発的なものからではないとする。労働者が幸福を感じないことで、精神を退廃させている。これは疎外状況であるとしたのである。
マルクスの人間理解は類的存在ということで、実践的な社会的存在であり、意識や意欲をもって行動することを重要視した。 人間の本質的な自由な労働は、動物と異なり、人間が生活手段とする自然生産物は、人間の実践的な意欲された自由な精神活動である。そのことが人間の類的生活をもっての社会的存在の証でもあると次のように述べる。
「人間は自分の生命活動そのものを、自分の意欲や自分の意識の対象とする。意識している生命活動は、動物的な生命活動から直接人間を区別する。まさにこのことによってのみ、人間は一つの類的存在なのである。すなわち、彼自身の生活が彼にとって対象なのである。このゆえにのみ、彼の活動は自由な活動なのである」。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、95頁ー96頁
マルクスのみる資本主義的生産による疎外された労働は、人間の本来的な類的存在を奪いとるものであるとした。自由な自己活動の類的生活が労働疎外によって現実的な類的対象を奪い、給料による生活手段に大きく変化していく。労働者は、自分の労働の生産物に対して疎遠になるというのである。
それは、自分の欲する生産物の労働ではなく、私有財産を所有する資本の富者の利益のために、生産するというのである。労働者にとって、彼が創造する価値の生産物は、自分の欲求から必要な生産物ではないのである。その生産物は、自分の所有物ではなく、外にあるものになる。従って、生産することに幸福を感ぜず、かえって不幸と感じ、自由な肉体的、精神的エネルギーが発展させられずに、肉体は消耗し、精神は退廃化するということになる。
資本主義的な疎外における労働者は、労働しないときに、安らぎを感じ、労働は自発的なものではなく、強いられたもので、欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足するようになる。疎外された外的な労働は自己犠牲で、資本の私的所有者の他人に従属することとして現れ、自己を苦しめる労働になる。
それは、宗教において、人間的な想像力、人間的な脳髄、人間的な心情の自己活動が、個人から独立して、疎遠な神的または悪魔的な活動として、個人の上に働きかけるように、彼の自己活動ではないのである。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、91頁ー92頁参照
労働の疎外は類的存在の意識された自由な精神的能力という人間的本質を奪うことになるのである。 疎外された人間の労働は、人間の食糧、燃料、衣服、住居などの自然からの生産物であることから、人間を自然から疎外することになり、人間にもつ特有の自由な欲求に応じての活動的機能や、人間のもつ精神的本質を疎外することになるのである。
労働者の生活手段の給料は疎外された労働の直接の結果である。労働者の隷属状態からの解放は、単に、労働者の解放というだけではなく、一般的人間解放が含まれるのである。資本主義的な生産関係において、労働者の生活手段は、自営する農林漁業者のように自らの欲求に応じての自然を対象にしての労働ではなく、市場をとおしてほしいものを購入することによって、消費手段を得るのである。
そこでは、労働者の生産目的は、疎外された労働になることによって、私有財産の所有者の資本から賃金を得ることが重要な生活のための手段となるのである。マルクスは、この問題について、次のように述べる。
「労賃は疎外された労働の直接の結果であり、そして疎外された労働は私有財産の直接の原因である。だから、一方の側面とともに、他方の側面もまた没落さざるをえない。私有財産からの隷属状態からの解放が、労働者のかいほうという政治的なかたちで表明される。
労働者の解放だけが問題になっているようになっているが、そうではなく、むしろ労働者の解放のなかにこそ一般的人間解放が含まれているのである。生産にたいする労働者の関係のなかに、人間的な全隷属状態が内包されているのである」。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、104頁参照。
マルクスは近代によって生まれた資本主義的な私有財産の積極的止揚の展望を、疎外された労働からの解放として、原理的に位置づけるのである。疎外された労働からの解放ということは、占有や所有という物資的関係だけではなく、全人間的な感性的な感情や意欲、意識を人間的に自由にしていくということを強調しているのである。この私有財産の止揚は、長い歴史的な過程によって、具体的な矛盾から一歩づつ人間的な解放がされていくのである。
「私有財産の積極的止揚は、人間的本質と生命という人間的感性を自分のものにしていくことで、単に占有、所有という意味だけではなく、人間の全面的本質、全面的な仕方でみていくことである。
世界に対する人間的諸関係の中での見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感ずる、恣意する、直観する、感じ取る、意欲する、活動する、愛すること、要するには人間の個性のすべてである。私有財産の止揚は、すべての人間的な感覚や徳性の完全な解放である。私有財産の止揚が、人間の感覚や感性が主体的にも客体的にも人間的になっているということである」。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、136頁ー137頁参照
人間の解放にとって、自然科学が大きな役割を果たすことは、産業をとおして、類的存在の人間のもつ社会的存在や人間的な哲学・思想の総合的な営みのなかで達成されていくものである。現代のように、科学や技術が競争社会のなかで一面的に産業に応用されてきた結果、地球的な規模で環境問題が生まれる時代である。
持続可能な社会のために科学や技術の産業への応用問題を総合的に社会科学や人文科学も含めて総合的に考えることが迫られることである。マルクスは自然学の発展に、産業のもつ意味について、次のように述べている。
「自然科学は途方もなく大きい活動を展開し、たえず増大する材料をわがものとしてきた。自然科学が哲学に疎遠なままにとどまっているのと同様に、哲学はその間、自然科学にたいして疎遠なままになってきた。一時的な結合もたんなる空想的な幻影にすぎなかった。
しかし、自然科学は産業を介してますます実践的に人間生活のなかに入りこみ、それを改造し、そして人間的解放を準備したのであるが、それだけますます直接的には自然科学は、非人間化を完成させずにはやまなかった。産業は、人間に対する自然の、したがって自然科学の現実的な歴史的関係である」。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、142頁参照
自然科学の産業の応用は、一面的であるが、自然科学が実際に人間の生活と結びついて、生産力の発展、経済の成長に貢献していくのである。
労働の疎外という視点から大切なことは、資本主義的生産関係による矛盾の課題である。そこでは、価格競争や利益主義的な大量生産・大量消費・大量廃棄物ということで、一面的、奇形的に発展してきたのである。それは、人間にとっての幸福や豊かさに決して直線的に結びつくものではなかったのである。
また、自然環境の破壊など地球的な気候問題も起こしているのである。この矛盾に対して、人びとの意識的な危機を克服していこうとする運動、様々な社会的な積み重ねられてきた社会的規制のルールと、それを、さらに矛盾解決を充実させていく社会的規制によって、一歩、一歩の目的意識的な解決の探究が行われているのである。ここにも、資本主義的な私有財産の矛盾の長い解放の運動があるのである。
労働疎外の矛盾から、個々の労働者は無力であった。格差の拡大による貧困から集団として団結して、労働組合をつくり、自ら窮乏した生活や失業の恐怖を団体交渉、ストライキによって、人間らしく生きる権利を行使しようとするのである。
また、資本による非人間的な利潤の社会的規制、失業や医療保障、年金など、国に対しての社会的保障を求めていくのである。ここに、労働者の労働疎外からの解放運動を中心としての社会的な人権が生まれていくのである。
これらの事実からみるとおり、労働者の解放運動は、すべての人々の人間らしく生きる権利になっていくのである。それは賃金などの経済的物質的なことだけではなく、労働者が生きがいをもって働ける職場環境、豊かな知識や技術、教育や文化の保障、孤立した無縁社会の解放によっての潤いのある人間関係の構築によって幸福に生きていける権利も含まれているのである。
労働の疎外は人間が商品化されることによって起きる歴史過程である。土地の占有・所有者であった農民が収奪されて、働く場所を求めて都市へと、工業へと移動していくことによって生まれたものであり、そこでは、失業者、浮浪者という過酷な生活を余儀なくされて、資本に従属していく過程があったのである。
安定した雇用契約を結ぶことができるためには、資本に従属して効率的で、生産力向上のための労働力を発揮することが求められたのである。利潤追及の資本による効率的な労働力の質の競争が労働者の間で起きるのである。資本の効率性は利潤追求が第一主義であり、決して、労働者全体の生活の安定と幸福をもたらすものではない。
資本主義的な価格競争は、科学・技術を利潤追求のために発展させた。その発展は人々の生活第一主義ではなく、自然にやさしいものではなく、失業者を作りだし、自然環境を破壊してきた。人間にとっての生活や文化を豊かにしたいという本源的な労働が人間自身をも疎外していくのである。
そして、人間自身の精神的、文化的な疎外は、官僚制を生むのである。科学・技術の推進による生産効率の高度化は分業の著しい発展をもたらして、社会全体を目的合理的に人間の労働を部分化して、精神も細分化された機械の歯車のように官僚化していくのである。人間の疎外は労働疎外を基盤に、人間を商品化して、官僚制のなかにはめこんでいくのである。
この人間疎外からの解放には、競争のなかにいる労働者をはじめ、人々の協同・協働、絆、人間的な友愛と慈愛の精神を大切にして、資本主義的な矛盾の克服のために連帯と団結していくことである。そして、疎外された状況から主体的意識をもって民主的に社会参加の行動を起こしていくことである。協同組合資本に個々が自立的と自治をもって、一人一票制度を大切にして、自らが生活者の主人公として参加することも重要である。
このためには、協同組合自身が徹底した参加民主主義をとっていくことであり、個々の組合員が自らの生活、暮らしの豊かさになっていくという認識をもっていくことである。この参加民主主義の実現には教育という役割が欠かせないのである。協同組合の教育活動は本来的な協同組合運動を支える要になるのである。
さらに、株式会社などの企業形態でも参加民主主義のしくみが大切であり、企業経営における労働者の生活、消費者の生活の豊かさ、環境にやさしい持続可能性が大切なのである。とくに、地球的規模で問題になっている気候変動の危機という環境問題から持続可能な発展のためには、再生可能エネルギー、有限的な資源からではなく、循環的な生産、リサイクルの問題など大きな課題がある。バイオマスやセルロースナノファイバーもそのひとつである。
現代の科学・技術を総合的に発展させれば、それは可能になっている。ここには、利潤第一主義の問題があり、労働者や一般国民との対抗による話し合いという参加民主主義の論理のなかで、経営側が譲歩することによって、問題が解決していくのである。
マルクスは資本論1巻13章での機械設備と大工業のところで、機械を採用にすることによって、安価な低賃金労働力として、婦人労働力や未成熟な労働力を雇い、むきだしの強奪、残酷な夜間労働を強制したことを述べている。
それは、踏み越えられない一定の自然的諸制限につきあたる。そして、同時にこのような資本主義的搾取も自然的諸制限に突き当たる。自然的諸制限による人間の再生産も不可能になっていく。労働日の規制が工場法という強制によって、実施されていくのである。
工場立法は大工業の機械設備の導入による自然諸制限の限界から意識的にかつ計画的に労働力の再生産を確保するという資本主義的生産搾取の無政府性の矛盾からの社会的要請でもあった。また、工場内における最も簡単な清潔・保健設備も国家の強制法によって、社会的ルールとして強制されたのである。
工場法の教育条項も全体的には貧弱であるが、初等教育を労働の強制的条件としたのである。これは、教育と体育を筋肉労働のなかで結合する可能性をもったのである。
さらに、工場の児童の方が半分の授業を受けていないにもかかわらず、昼間の正規の生徒と同じか、またはもっと多くを学んでいることを発見したのである。工場制度から未来の教育の萌芽が生まれているのである。
この未来の教育は、社会的生産を増大させるばかりではなく、全面的に発達した人間をつくるためにも生産労働と知育および体育を結びつけることを教えているのである。
「大工業を基礎として自然発生的に発展した一契機は、総合技術および農学の学校であり、もう一つの契機は、労働者の子弟たちが技術学とさまざまな生産用具の実際的な取り扱いについてある程度の授業を受ける「職業学校」である。
工場立法は、資本からやっともぎとった最初の譲歩として、初等教育を工場労働と結びつけるにすぎないとすれば、労働者階級による政治権力の不可避的な獲得が、理論的および実践的な技術学的教育のためにも、労働者学校にいてその占めるべき席を獲得するであろうことは、疑う余地がない」。カール・マルクス「資本論・第一巻」新日本出版、838頁
大工業の機械設備の導入による労働力を枯渇させるという耐え難い児童労働の導入によって、社会的に自然諸制限が限界になることが認識されて、労働日や保健衛生設備充実の社会的規制と児童労働者の初等教育実施が義務化された。
このことは、労働者が資本からの勝ち取った社会的譲歩であったが、同時に、生産・労働や実際の生活を結びつけていく教育の内容と方法の未来への教育のあり方も含んでいるとマルクスはみるのである。
立身出世や学力競争が氾濫するなかで、人間の様々な諸能力の獲得は、人間らしく、文化的に豊かに生きるために、自然循環との付き合いで人間社会の持続性のために、実際と結びついていく教育のあり方が問われているのである。
つまり、何のための教育であるのかという根本的な問題提起が含まれているのである。マルクスは、未来への社会を展望しての現実の社会的矛盾の直視から、それを一歩一歩解決していくことの重要性を教えているのである。
賀川豊彦の協同組合論
賀川豊彦のディスカバー選書「協同組合の理論と実際」から、協同組合の社会における産業民主主義、政治的民主主義、利己意識に根ざす資本主義に苦しむ人々の救済の道、それを実践的に支えていく学びを考えていく。
終戦直後の都市では、食糧難による飢え、栄養失調がひどいものがあった。このなかで、闇の経済が氾濫して、社会経済が大混乱している状況であった。この状況を救うために、賀川は、協同組合の必要性を力説した。
「経済機構も、生産、分配、消費の傾向が、全部物質および本能的な経済行動から救われて、初めて意識的に移り、生命的な一つの大きい愛の組織を形成せねばならないのである。
その愛の経済組織とは、ここにいう協同組合運動のことである。 われらは、世界を一つの協同組合経済の世界とするために、あらゆる無用なる経済はこれを破壊して、世界経済を建て直す協同組合への道を獅子奮迅の勢いで努力せねばならない。
窮乏・飢餓・不安・闘争・失業・闇の横行・混乱・恐慌、などなどの深淵が、暗黒な口を開いて人々を呑みつつあり、かつ呑まんとしているのである。 またインフレーションの竜巻が吹きまくって、アレヨアレヨという間に人々を天高く引きさらっては、再び地上へ墜落させている」。賀川豊彦のディスカバー選書「協同組合の理論と実際」前掲書、5頁
日本主義的な無政府による経済の社会制度の生産、分配、消費の物質的な行動から、人びとが救われることである。この救いがあって、はじめて意識的な人間らしい生命活動になっていくというのである。その中で、とくに、友愛精神という愛の組織を形成するということで、協同組合を賀川は重視するのである。
賀川は、愛に根ざした助け合いの経済組織が窮乏と飢餓を救い、盲目的な無秩序な経済状況が社会の混乱を防止していくとするのである。前掲書、10頁参照
この愛に根ざした友愛の協同組合の精神に、公平で自由な幸福で、分かち合う社会ができるとするのである。
つまり、賀川にとって、友愛の精神の協同組合の形成において、キリスト教でいう兄弟愛精神が、重要であるということになる。生産者も、消費者も愛のつながりによって、公正で自由な幸福を分かち合うことができる。キリスト教でいう兄弟愛意識の発展を協同組合にみることができると。前掲書、16頁参照
賀川は協同組合運動において、物質を第一とするのではなく、人間尊厳を大切にして、友愛精神をもつ格を第一としているのである。協同組合運動は、隣人愛の社会を実現することを目的とするもので物質を第一とせず人格を第一とする。利益を中心とせずに相互扶助を中心とする。前掲書、20頁参照
賀川は、協同組合運動の三つの原則として、ロッチデールの協同組合の原則を重視するのである。その三つは、(1)利益払い戻し(2)持ち分の制限(3)一人一表制ということである。とくに、もうけた利益を案分比例で戻すという分配制度の確立を重視した。このことは、独占権の打破と利益を消費者に戻すということから富を搾取しない、集中しないという原理をもっているのである。前掲書、21頁参照
ところで、日本の協同組合の歴史について、古くから、無尽・頼母子講、地割制度のような共済組合、相互扶助制度のようなものが日本文化の特徴としてあったことを賀川は指摘する。日本の農村の共同体には、伝統的に助け合いの精神があったとするのである。
そして、とくに、日本の協同組合の歴史で、重要なことは、学びという教育を重視してきたことであるとする。その典型的な事例として、京都の伏見をあげる。伏見十六会は、明治27年にキリスト教の信者であった人見善三郎によって信用組合が16名の有志で立ち上げられたものである。この組合は一日2銭の貯蓄ということで、16人が32人になり、千人となり、一万人を超える組織となった。
その利益を教育に貢献させるということで、伏見菊水高等女学校、伏見商業学校を創立した。上級の学校に行きたい者には、学費のないものには大学を出るまで学資金を貸し出すということを行ったのである。
賀川にとって、協同組合運動は、隣保愛、互助相愛の精神を基礎に、働いて得た利益を公平に分配し、個人家庭社会の幸福と向上のために使い、到善の施設を拡大して搾取なき社会をつくっていくことにあるというのである。前掲書、24頁ー25頁参照
協同組合運動は、資本主義の解放ということで、搾取なき社会が目標となるのである。そして、協同組合運動は、運用するものの精神的社会意識の目覚めの程度によって真価が問われるということを賀川は力説している。まさに、教育、生涯学習という友愛や慈愛の精神による学びになってくる。
そこでは、道徳教育を徹底し、意識開発をまたねばならないとする。組合員が利己的であれば利益金は全部かれらに返っていく。組合員に他愛精神が旺盛であれば、その利益は組合員の決議によって、全部社会公共のために使用される。協同組合は単なる金儲けの組織ではなく、喜んで人のために損をする覚悟をもっていく兄弟愛意識が求められていくのである。前掲書、27頁ー28頁参照
兄弟愛意識形成という利他主義が大切になってくるのである。とくに、資本主義のなかで、金儲け主義の自己利益がはびこっていくばかりではなく、人を騙し、嘘をついていく人間としての倫理観を失っていくことが平然とやられていく状況もあらわれていく。その克服として、人間の尊厳、人間らしく生きるということはどういうことか。動物と異なって、類的な社会存在という根本的な本質論から、利他主義的な友愛や慈愛の精神が重視されていくのである。
賀川は、生産を、生産のために生産すると言う盲目的の生産から一転していくことが求められるとしている。つまり、需要に対して生産者の活動が開始される時に、人間生命の幸福と完成のために、必然的に功利的一面と共に、芸術的精神をもってこれを生産するということである。
そこでの生産には、芸術化があり、生産品に美と味わいを加えることになるのである。従って消費ということもまた芸術的意義を有し、かつ文化的意義を生ずるのである。賀川の生産論には、文化と結びついて、計術的精神が含まれているのである。
まさに、物の生産には、人間の芸術をもっての美的な精神的活動が含まれているのである。まさに、生産物に対する文化的要素としての美的な品質の問題があるのである。一つ一つの生産物には、人間の魂が入っているのである。伝統的な職人労働による生産物は、このことを強く反映しているのである。大量生産・大量消費という効率主義による生産物ではないのである。前掲書、28頁参照
協同組合運動の教育と訓練には、(1)奉仕精神と信用、(2)私欲を離れる、(3)会計検査を厳重にせよということがある。
第1は、奉仕精神がなければ信用がない。日本の村々の産業組合はただ利益ということから出発しているのが多いので、利益がなければ組合をすぐに脱退したり、解散したりする。協同組合運動は、その場限りの利益中心の金儲け主義の運動ではない。経済状態を根本的に改造せんとする協同愛の運動である。
第2に、肥料を買いつけ、先へ行って高くなると組合員に高く売り、その価格の差だけをもうけていた。こうしたことは、組合員を欺く利己的な態度で、利己的な態度で、利己心は組合を滅ぼすものである。
第3の会計検査を厳重にせよということは、このためには、整然たる会計簿を備えておくことが絶対的な条件になる。
多くの協同組合の失敗の教訓は、会計簿の整備の問題がある。幹部には会計事務に堪能な人、宣伝の上手な人、商品に明るい人と、三人をおかねばならない。さらに、組合成立の努力には、200軒の加盟者、事務所の設置、配給法として組合員が自分で取りに来るやり方、掛売りはできるかぎりしない方がよい、利益金の分配は早く理解させる方がよい、商人の妨害にひるまず妥協せずに、協同組合は労働組合と違って永い訓練と経験を積むことで忍耐せよということを賀川は述べているのである。前掲書、51頁-53頁参照
さらに、協同組合運動は、国家改造ということがある。国家のもとで協同組合がしっかりして、組合員を餓えぬように、貧乏にさせないようにしなければならないと賀川は考えるのである。
日本では、政党の歴史は、自己の権力のことばかり腐心して、国民の全生活のこと、福利のことは考えていない。政治を利用してわがまま勝手なことばかりしている。これでは、政治は少数者の権力争いの具に使われ、一般民衆がおきざりにされている。民衆それ自身が組織し管理する協同組合精神によって、国家の改造が必要であると賀川は述べるのである。
また、協同組合代表による議会改造の必要性を強調する。協同組合の代表者を選んで、協同組合の組合長なり、専務理事というものの中から選挙し、議会を組織すればよい。国民それぞれの生活を熟知している組合の代表者のみが、真の国家の議会というものを組織しなければならない。
議会制度というものは、生活に即して生活を根本的に改造する国家組織をもたねばならない。生活権を保証し、労働を保証し、人格権を保証するような、生活、労働、人格の三つを保証し得る真の協同組合の基礎をもった議会制度が生まれ、組合国家の議会をつくるべきと賀川は考えるのである。
世界平和ということも賀川の協同組合論では重要な課題である。近代戦争は、人口問題、原料問題、国債問題、運輸問題、商業政策・関税問題の五つが重大な問題と賀川はみる。経済問題が世界戦争の大きな要因になっている。このために、協調相愛し、戦争のない世界的政治文化を協同組合の原則によってつくることを力説している。このためには、世界経済会議をもって、世界経済同盟を結ぶ必要性を提唱している。前掲書、55頁
現代の平和と戦争の問題を考えていくうえで、賀川が指摘していることは重要な課題であるが、ウクライナ戦争問題やイスラエルとパレスチナの問題を考えると、それぞれの国家体制や民族的価値観、民族的文化、宗教的価値を相互に認めていく国際的な協同と協調の国家主権の尊重が大切になっている。とくに、世界の平和共存を考えていくうえで、民主主義と独裁・権威主義の闘いという見方の克服が緊急の課題になっている。この意味で国連憲章の遵守が世界の協同と協調になっていくのである。
まとめ
賀川豊彦は、キリスト教の友愛精神をもって、貧困化などの資本主義の矛盾にあえぐ人びとの救済に、友愛による協同組合を積極的に考えたのである。ここでは、利己ではなく、友愛による協同の経済を大切にしたのである。友愛の協同組合の経済の確立・発展には、学びの営みが大切と賀川が指摘していることである。教育の力によって、それは、実現していくというのも大きな社会変革の行動における特徴である。
1995年に世界の協同組合原則として、協同組合のアイデンティティーに関するI CA 声明を全体総会で決議した。協同組合の定義は、共同で所有し、民主的に管理する事業体を通じ、共通の経済的・社会的・文化的ニーズと願いを満たすために自発的に手を結んだ人々の自治的な組織である。
協同組合は、自助、自己責任、民主主義、平等、公正、そして連帯の価値を基礎とする。それぞれの創始者の伝統を受け継ぎ、協同組合の組合員は、誠実、公開、社会的責任、そして他人への配慮という倫理的価値を信条とする。
協同組合の定義は自発的に手を結んだ人々の組織としていることである。つまり、自発的な自治組織ということである。そして、協同組合の価値観では、他人への配慮という倫理的価値を信条としている。他人への配慮ということで、利己的ではなく、利他主義を信条としていることである。
協同組合の原則として、七つあげている。第一は、自発的で開かれた組合員制。第二は、組合員による民主的管理。第三は、組合員の経済的参加。第四、自治と自立。第五、教育、訓練及び広報。第六、協同組合間協同。第七、コミュニティへの関与。以上の七つの原則で、長年にわたって、教育と訓練の役割を特別に重視してきたのである。
協同組合にとって教育の役割は決定的に重要であるということである。とくに、若い人々やオピニオンリーダーに協同組合運動の特質と利点について重視していることである。第七原則は新たに付け加えられたものである。それは、環境問題克服など持続可能な発展、人間らしい生活の地域課題と深くかかわっていることが認識されるようになったからである。協同組合運動は地理的空間として、コミュニティと密接にかかわっている。
資本主義社会は、利益中心の利己主義に陥りやすく、競争主義を一層に促進する。このことが、国際的になって世界各地の天然資源の大規模な略奪、持続可能性を否定していく開発が各地に進んでいったのである。未来への持続可能な社会形成に、資本主義的利益第一主義の矛盾の解決をしていくためには、友愛精神による協同組合運動の必要性を不可避にしている。
協同組合運動にとって、最も大切なことは、組合員の教育とともに、コミュニティに関与していくための啓蒙活動は必然的に要求されていく。1995年の協同組合のアイデンティティーに関するI CA 大会の7つの原則のなかでも子どもや青年期からの協同組合精神の教育を重視しているのである。現代日本における子育て・教育も大きな矛盾をもっている。
学校では競争主義による一斉学力試験が導入され、一斉学力試験による教育の画一化も進み、偏差値教育による子どもたちをランク化していく。子どもの個性によって、また、子どもの将来の希望、やりたいことをじっくり考えていくような進路の指導も遠ざかっていく。学習塾やお稽古ごとの教育産業も幅をきかしている。子育てにかかる家計費も大きな比重を占めるようになり、子育て・教育をめぐる格差も重大な問題になっていく。本来ならば公的教育が担うべき教育の比重もさがっていく。
このなかで重大なことは、子ども・青年の成長に欠かせない人間的な絆、仲間と共に考えて、協働の力で創造していくことが疎かになって、利己主義的利益におちいりやすくなっていくことである。つまり、類的存在・社会的存在としての人間の本来の利他主義的な人格が形成されていかないことである。
この矛盾を真剣に考えて、教育における協同・共同、仲間と共に相互性をもって集団的に学ぶことが求められているのである。また、集団のなかで、道徳的に利己主義の克服、友愛精神、慈愛精神、利他主義の教育、協同組合と教育機関との連携がコミュニティーのなかで大切である。
賀川は、生産過程における資本主義的な労働疎外の矛盾に対して、労働組合運動や農民運動を支援したが、それに、協同組合運動を対置したのである。また、社会保障の確立・整備、資本主義の無政府的な搾取や利潤中心主義にたいして、社会的規制をもって対処していくための政治的権力や行政的施策にたいしても、協同組合主義によって変革していくというものであった。キリスト教の友愛精神が大切にされた賀川であったが、ここでは宗教と政治権力や行政的な権力との関係にふれておかねばならない。
友愛精神や仏教的な慈愛・慈悲の精神は、個々の社会的な活動を支えていく大切な精神になっていくことはいうまでもない。それぞれの信仰は、人間が生きていくうえで重要な精神になっていく。哲学や思想も同様である。個々の信仰や価値観は多様性をもっているのである。
友愛の精神には、人間の尊厳を基礎にして、それぞれを認め合って、対話して、相互に自由に活動ができることが重要なのである。社会的に絶対的な宗教や価値観があるわけではなく、国家権力や行政権力は、それぞれの信仰や思想・信条を認め合い、その自由を保障していくことが大切なのである。ここには、思想・良心の自由(憲法19条)。信教の自由、政教分離(憲法20条)の民主主義の原理があるのである。
人間は主体的な意識をもって、知的に、文化的に生きているのである。人間の意識、意欲、感情、知的な活動、他を思いやる心は、社会的存在として、類的存在の人間らしく生きていくために大切なことである。マルクスも労働疎外論など彼の哲学・思想のなかで、積極的に人間らしく生きていくために重要なことである。
具体的に社会主義の未来社会を論じるうえで、労働疎外や弱肉強食の競争主義、自己利益の金儲け主義の人間モラルの衰退の資本主義に対して、労働者や農民をはじめの国民的運動の役割は大きい。その矛盾の解決には、強いられた競争から矛盾のなかで生活苦や地域の環境を解決していく仲間の輪をつくり、絆を形成し、団結していくことである。
現実の資本主義の矛盾の外にあるものではない。資本主義の胎内に社会主義の未来の姿がある。歴史的に資本主義の矛盾の現れ方も人々の運動によって異なる。それぞれの国の制度や歴史文化によっても異なる。また、それぞれの国の経済の発展度合い、人びとの意識度合によっても異なる。
資本主義の中での科学・技術の発展は、競争主義の中で一面的、奇形的になっていった。そこでは、自然環境破壊をもたらし、持続可能な発展ということからの危機が現れたのである。人間それ自身も分業的に生産効率にさせられて、資本主義の労働疎外と同時に、目的合理的官僚制によって、人間の心のない業務遂行が機械的に促進されていくのである。近年のコンピューターや映像の発達、AI化によって、マスコミの発達も複雑になっている。
人間は一層、機械に動かされ、バーチャルな世界に人びとが入り込んで、人間の意識それ自身が操作されやすくなっていくのである。人々の日常の暮しや実際の現実から遠ざかっていくことで、自立的、自発的に主体性をもって物事を考えていくことが難しい時代をもたらしていく。
現代の日本社会は、子どものときから学力競争や立身出世にかりたてられて、大人になっても競争に追われる。この現状から、人びとは、孤立や無縁にかりたてられる。そして、利己的にならざるをえない側面がある。そこでは、個々人にとって、意志的に人間のもつ類的存在、社会的存在としての絆が薄くなっていく。様々な生活の矛盾を仲間と共に考え、学ぶことが苦手になっていく。
このような現代の状況は、目的意識的に絆や仲間という集団、協同の組織形成が必要なのである。とくに自己の主体性をもつこと、目的や意欲、自分は何をしたいのかということの自己の個性をみつめて、積極的に組織形成していくことが不可欠になっている。
さらに、人間らしい暮らしを実現していく人びとの目的意識的な友愛による協同の組織的実践は、資本主義的な社会的矛盾と対抗しながら、新たに、友愛・慈愛の協働性をもって、人間の個性と自由性の総合的な発展を導いていく。また、自然と調和し、豊かな人間関係をつくりあげていくのである。
現実の資本主義の矛盾のなかで、その矛盾を解決していく人びとが獲得した社会的ルール、法制度、人間の尊厳による社会保障や民主的な公平の分配などの財政制度などは、社会主義を準備していく社会的基盤でもあるのである。
この意味で、社会主義の未来社会論は、人びとの現実的な資本主義の矛盾解決として人びとが勝ち取った社会制度、政治制度、財政制度のなかにあるのである。また、社会主義の未来社会を考えていくうえで、利他主義的な友愛や慈愛などの精神をもつ人間の尊厳、人間らしく生きるということは大切なことである。