社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

熊沢蕃山の自然循環思想

熊沢蕃山の自然循環思想

      神田 嘉延

 

 はじめに・現代に熊沢蕃山を学び意味

 

 熊沢蕃山の自然循環の環境思想を学ぶ意義は、現代に大きな意味をもっている。自然の力によって、自然をよく観察して、自然循環を破壊しないで防災対策をしていくということである。これは、持続可能な社会を形成していくうえで、不可欠なことである。

 蕃山は、これらのことを教えてくれるのである。国土強靭といって、自然に対して、人工的な構造物を強大につくっていくことでない。また、自然循環的なことに反する開発、エネルギーの創出を極力抑えていく見方が必要な時代である。

 九州の大分県竹田市の巨大な天空にそびえる山城は、現在、公園として整備されて、観光地の名所になっている。そこに蕃山先生のほめの徳の碑がある。42歳の時、江戸から下っての冬、そして、翌年の4月まで滞在したといわれている。藩政の自然循環の灌漑用水と植林などの民政指導のために、短い藩主からの招聘によっての滞在であったが、蕃山の功績は、後の人々の心のなかに深く刻まれている。

 城原井路、緒方上井路戸の建設に助言したことが現在も残る貴重な灌漑用水になったのである。疎水によって、自然をこわすずに、集落ごとの争いがないように、稲葉川支流から取水し、その末流のひとつとして、滝の上から落差40メートルのがけ下にひらがっていた下水の水田に用水して、稲葉川に合流させている。

 この滝は、竹田駅の近くで、落門の滝として名勝地になっている。全長、7.7キロの工事である。城原井路土地改良区として、現在でも稼働して大いに地域経済の発展に貢献している。ここの土地改良区は、最も最先端の少水路による水力発電所建設をしている。近くの井路群と協力しての地改良区も同じような発電所を建設して、5000世帯近くの電力をまかなっているのである。

 大分県の竹田地方は、多くの湧水群や滝、井路があり、地元の石材を用いた水利施設も特徴であり、石橋、石垣、円形分水、ため池、さまざまな井路の形など自然と融合した山間の石の文化が定着しているのである。熊沢蕃山の自然循環の思想が、現在でも発展させて、生きづいているのである。

 

 熊沢蕃山の主な経歴

 

 熊沢蕃山は、中江藤樹のところで、学問を学び、1645年に28歳で、岡山藩に仕えようになった武士である。1654年に備前の大洪水・凶作・飢餓で、農村振興のために、藩主の池田光正を補佐し、自然循環的な開田事業を推進した。

 しかし、家老のなかで意見の食い違い起きる。1656年に藩主の三男を養子にして、藩主光正との関係も強くしたことが、翌年に隠居においこまれる。蕃山は39歳のときであった。

  その後は在野の陽明学者として活躍し、為政者には厳しい批判をし、幕府から監視の身におかれる。監視され、幽閉された立場でも蕃山は地域からの相談にのり、渡良瀬川の今でも残る堤などの灌漑用水の自然災害のおきない工夫の工事をしたのである。

  52歳のときに、母を岡山の蕃山村に葬る。55歳のときに父が病のため岡山に帰る。69歳のときに、松平忠之幕府の意を受けて古河に招く。12月に幕府の命で古河城頼政廓に禁固になる。

   古河藩に幽閉されたが、蕃山に農政や田畑の灌漑用水など開墾事業の指導を受けさせている。渡良瀬川の洪水防止ための新堀や堤の事業を指導している。新堀の築造1年後に、73歳でなくなっている。

 

蕃山のかんがえの慈愛をもった仁徳政治

 

 ところで、蕃山の考えは、仁徳の政治をめざすものである。それが、行われなければ、在来の遊民の暮らしが豊かにならなければ、新田を開いても意味をもたないという見方である。

 塩浜と焼き物は、人々に富をもたらしていく産業として、各地で盛んに行われるようになった。しかし、蕃山は、これを決してすべてよいことであると言っていない。森などの自然循環の害になることをみていかねばならないという立場である。このことに蕃山は、次のようにのべる。

「塩浜と焼物とが山林を取り尽くすことは重大な問題である。山林は国の本である。山は樹木がある時は神気が盛んであつが、樹木がなければ神気が衰えて、雲雨を起こす力が少ない。それだけではなく、草木の生え茂る山は土砂を川中に落とさず、大雨が降っても草木に水が含んで、10日、20日もかかって自然に川に出るから、一方では洪水の心配がない」。

 塩浜と焼き物が盛んになると、山林を取りつくことになると警告するのである。山林の果たしている自然循環の役割をよく考えて、塩浜や焼き物の生産を考えるべきとしている。  

  この問題は、山川の神気が知らないからであるとしている。現代風に言えば、自然循環ということは、それぞれの山、川、草木、雨の自然の現象は相互にかかわって生態系をもって共生しているというのである。蕃山は、山川の神気、山沢の気が通じ合いと、次のように言っている。

 「山に草木がないと、土砂が川中に入って川底が高くなる。大雨を蓄える草木がないから、一度に川に、落ち入り、しかも川底が高いから洪水の心配がある。山川の神気が薄く、山沢の気が通じ合って水を生み出すことも少ないから、平成は田地の用水が少なく、船を通すことも自由でない。これはみな山沢の地理に通じ、神明の理を知る人がいないためである」。(「中江藤樹・熊沢蕃山」中央公論社、集義外書巻1)より)

 さらに、新田畠開墾者の罪悪として、蕃山はのべる。不仁の王が新田畠を開墾するのは、主君を富ませ、勢いを強くするおとあるから、悪逆の根を増やすことになうとする。

  「新田畠は、多くは古地の害になるものである。また、隣村の害になることもある。国に不毛の野山が多いのは、牛馬を養うのに便利であり、薪を採るにも都合のよいものである。新田はまた、これらに害になるものがある。たいていは後々に悪い影響を残すものであるから、軍者の次に悪逆である」。(集義外書第9)。

 日本の水土に適した大道が大切と蕃山は考えるのである。この日本の水土に適した大道とはどのようなことを指しているのであろうか。「上は天の時節にのっとり、下は水土に基づく大道である。形跡だけを見ても真実を知らない人とは、ともに道を語りがたい。言ってはならない者に言い、非難を得るなら、私の不明である。けれども非難を恐れて言わなければ、後世に知る人はないであろう」。集義外書巻10。

 蕃山は、上は、天の時節にのっとり、下は、水土のもとづけ大道としている。水土ということから天地の自然の動きのなかで生きる人間の自然循環の知恵を大切にするのである。

 

水土に適応する学者の知恵

 

  水土に適応する学者はめったにいないというのが蕃山の見方である。それは、老荘でもなんでもないというのである。蕃山の見方の水土論からの大道である。

 蕃山の生きていた時代についての学者についても厳しい見方をしている。学者は、仏法の立てている成り行きをもって、水土に適応するところがあるとしている。

  儒道には、水土に適応するところがないが、遺徳を明らかにして、人情や時の移り変わりを知って、万物の道を助ける大道であり、儒道の礼法は、仁欲を抑える堤があると蕃山はみている。

 「現代の学者は、儒道を興起すると言って、自分自身を抑え、仏法を避けると言って、助けて立てている成り行きを知らない。仏者の不仁と儒者が理法に拘泥するのと、ともに神道をないがしろにすることは一つである。その中でも、仏法は、水土に適合するところがあり、儒法は水土に適応しない。

 ・・・神代の遺徳を明らかにし、王朝時代の法令を考え、現代の人情や時の移り変わりを詳しく知って、万物の道化成育を助ける大道がある。信が厚くないのに法を先にすれば、民の偽りを導き、無事を行わないで礼にわずらわしければ、人欲が生じる。

 そもそも礼法は人欲の堤である。大河のほとりに住居するものは、堤が堅固であれば、生命は安全である。ところが、水源に遠くない小河で、水害の心配のない土地に、堤をあちこちに大きくすれば、民の身命を養う田畠も、多くは堤のために取られて飢餓に陥るであろう」。集義外書巻10

 大河のほとりに住居するのは、堤が堅固であれば、生命が安全である。水源に遠くない小河で堤をあちこちに大きくすれば、民の身命を養う田畠が小さくなり、飢餓に陥ると蕃山はのべるのである。

  日本の国土の多くは、大河ではないのである。中国の広大な大地をもって、大河が流れるところではないのである。このことについて蕃山は次のようにのべる。

 「唐国は大国であって、土地の生産力が厚い。中での周の代は、天地開けて以来、太平無事の時運に当たっていた。天地が物を生じることは限りなく、財用の多いことは水火のようである。人民は大いに富み、しなければならない用務はない。それゆえに驕奢(きょうしゃ)に流れ、情欲が溢れる勢いであった。

 聖人がこれを心配されて、礼文・法令を多く作って暇をなくさせ、喪祭のために財物を費やして欲を防止された。その時でさえ、礼文が先立ってまだ実行には至らなかった。

 後世になると、政令は道を失い人心が正しくないので、四季の気が不順であって、土地が物を生じることも少ない。貴賤おのおのの身分相応を超えて、士・民ともに貧しい。事柄が多く暇がない。

  そのため多欲になり、人情が薄くなったので、その国でさえ礼法は行ないにくく、まして他国ではもちろんである。近年は草木金石でさえ性質が弱くなっている。まして人は病気や無気力な者ばかりである。その上、家が貧しく、世間のことが忙しい。どうして大国の上代の法を行うことができようか」。集義外書巻10

 中国は広大な土地で、天地開けて以来、時節に恵まれて、開墾して生産力が増して、人々は贅沢になって、個々が情欲に走って社会が乱れていくようになったのである。

  これによって、天の恵みに感謝する祭礼や先祖への喪を大切にするようになったのである。礼法などを大切にするようにして、自由気ままの個々の情欲を抑えて、忙しくするようにしたと蕃山はのべるのである。

 ところで、蕃山の時代の学者は、わが身を富んで、暇ばかりであるとしている。武士は決して豊かではなく、暇がないというのである。暇にもてあそんでいる学者は、天地自然の天理、水土の大道をしらないのである。それを観察したり、探求したりすることはなく、実践的にも思考しないのである。

 「現今の学者は、我が身は富んで、暇ばかりである。武士の貧しく、朝夕の暇がないものにも、その礼を移して行わせるようにする。我が身は仕事を持たないので、気力に余裕があってすることを、奉公に疲れている武士に無理強いすれば、怠らない者は少ない」。(集義外書巻十)

  蕃山の生きた時代の学者は水土論から学問をするものは少なかった。多くは自分の身を富むことばかりで、暇な人間であった。

 

天地自然循環に山の樹木は命

 

 熊沢蕃山は、山に樹木があってこそ、天地自然の理にかなって大雨が降っても洪水を防ぐことができることを考えた。淀川などでは、川が浅くなり、川底を掘り、砂留をして、船の航行を自由にしていることに、それは、根本的に効果のないことだと蕃山は次のようにのべる。

 「川底を掘り、砂留めなど末端のことで、船の航行を自由にしようというのは、効果まさしく食物の上を蠅うようでありましょう。

 水上の水、流域の谷々、山々の草木を切り尽くして、土砂を絡み保留することがないから、一雨、一雨に、川の中に土砂が流入して、川底が高く、川口が埋もれたのである。その根本をよくしないで、末端だけのやりくりをしてもどうして成功しようか。

 今は草木を切り尽くしばかりでなく、木の切り株まで掘っている。切り株を掘った山は、なお多くの土砂が川に流入する。後に伐採禁止の留山にしても木の根を掘りとった山は50年、30年も草木はそだたない。

 水上の山が荒れると、山や沢の神気が薄なくなって、水を出すことが少ないので、平常は荒れが細い。そればかりでなく、大雨のたびに流れ出た砂は、川底となって積もるので、砂の中をくぐる水も多い。

  もとは川というものは、平地よりも低かったのに、今は平地と同じ高さになり、あるいは平地よりも高く流れるものがある。堤防だけで支えているのである。

 これはみな山が荒れてなったことである。昔は川が深かったので、たいていの大雨・大水では田地・家屋敷を損なうことはなかった。今は川が浅い。山々に雨水を貯える草木がない。

  少量の水も中水(中ぐらいの水量)となり、中水は大水となり、大水すぁれば堤防を越え壊し、田畑・家屋敷を損なうことが多い。その上、左の堤防が強ければ、右の堤防を破壊し、左右ともに強ければ、川下の堤防を破壊するという。これはみな川が土砂に埋まって深くないための災害である」。(集義外書巻13)

 蕃山に対する問で、「今から水上の山々谷々の伐採を禁じて、草木を生やしても、もはや埋もれ流入した砂は取れないものでしょうか」という質問に、熊沢蕃山は、次のように答える。    「山々谷々に木が茂り、土砂の流入が止まれば、大雨のたびごとに、今、川に落ちこんどいる土砂や自然に大海に入り、川の水は深くなる勢いです。後から流入する土砂が多大であるため、初めの砂も海に落ち入りにくいのであります」。(集義外書巻13)

    山の伐採を禁じて山々に草木を繁るように、また植林をしていけば自然にもとのように堆積した土砂は、なくなり、川の流が自然になっていくというのである。

 

淀川の3つの合流川についての蕃山の灌漑用水の工事に対する見方

 

 奈良から流れ出る木津川は、京都と大阪の堺で、瀬田川宇治川桂川と大きな三つの河川が、ひとつに合流して、淀川となって大阪にながれていく。この木津川と瀬田川の改修工事についても熊沢蕃山は言及している。

 木津川の河道改修工事について質問されている。「今の木津川を三ケ原(奈良の北方)の上から川筋を変えて、奈良の佐保川筋へ廻し、河内路を経て、摂津の国の川口(大和川の川口)へ落とせばよいと申す説がある。そのようにすればよいことが多い、調査してほしいと願う者があります。もしや、また、悪いことが起こりましょうか」。

 「川筋を変えよとの話の場所から、淀の大橋まで五、六里はありましょう。川の水勢がゆるく下に常に流れている大河を受けているので、ひでりの時にも十石船はたがいに航行します。それを大和路へ廻して、河内・摂津の国へ落とすと、大和は地形が高く、河内への落ち口に銚子の口(水量調節のため川幅を狭くした部分)を当てなければ、川の水を保ちがたい。銚子の口をすると、今の十石船もまっすぐ進めない。

 銚子の口をしないで水をまっすぐ落とすとすると、水上は水が少なる。水は急に下がって、川の水がなくなってしまうから、船の航行は止まるであろう。大雨の時は河内の上田へ砂石が入って、国土を損なうであろう。

 大和川は、平常は水が少なくて、大雨の時はことのほか水が出るのである。今の川幅は、二町交あるとこところも三町あるところもある。それにいっぱいに水が出て、それでもなお堤防が危険なことがたびたびである。

   今の堤は昔からの堤であるから、山と同じくらいに堅固であるが、それでも時々決壊することがある。

 二十里余りの所、川幅2町平均にして、大和・河内の上田畠をつぶすとしても、山々は荒れて、大雨ごと砂を落とし入れば、ほどなく砂川となり、河底が高くなるであろう。

   そうすれば、その後は大和・河内は荒れてしまうこともことあろう。もとの川跡が田畠になると言っても、底まで砂なので、何も生長しにくいであろう。

 新川の幅を狭く見積りするものであるとのことですが、大水の時の水勢を知らないからである。狭くてはなかなか持ちこたえるものではない。さて、川の長さは、今の倍になります。

   この川は、ふだんは細い流れである。それを伸ばす、方々で水が漏れ、いよいよ水流が細くなるだろう。その上、淀から下流の大阪までの船路は、少し照ると船が川底についてしまうので、木津川の流れが止まったらならば、いよいよ航行は難儀でしょう。

 昔は、大和川にも銚子の口があったと聞く。船を通そうと言って、これを切り削ったので、船が通らなくなっただけではなく、川が浅くなってしまった。

  少なくなった水は、砂中をくぐり、音に聞こえた立田川も、今は名ばかりである。後悔してももとにようにしようとしたけれども、天然の岩を切り削ったので、もはや直すことができない」。(集義外書巻13)

 さらに、琵琶湖から流れる瀬田川でのししが瀬の岩を砕いて、琵琶湖のたまった水をいっきょうに流す工事について議論が起きていた。 琵琶湖から流れる水は、瀬田川ひとつになっている。琵琶湖に流れ込む川はたくさんあり、大雨がふれば、水が入りこんで、耕作のできない田畠が増えて、石高24、25万ほどが水底になってしまった。瀬田川下流のししが瀬の岩を少し砕けば水がながれ落ちて、耕作できるようになるという意見があるが、熊沢蕃山にどう考えがえるかという質問に、次のように答えるのである。

 「おおいに悪いことが起きるでしょう。湖の水が入り込むというのは、一朝一夕のことではない。ししが瀬は天地自然の銚子の口である。それなのにししが瀬の岩を切り削るならば、湖の水が急に流れて落ち、淀川の水は湧きあがり、湖の水がまもなく流れ落ちれば、淀川は後悔してもどうしようもない。・・・

 晴天続きのよい時分、水が渇き落ちて、稲も実り、淀川の水も適当なころを見計らない、それよりも高い水は流れ落ちるように、北国の方へ、池水のあらて(水量を調節するため掘った川)のように、水はけをつけることは差し支えないのではなかろうか」。「集義外書巻13」

 蕃山は、河川において、天地自然の銚子の役割を重視して、それを削ることで水が急に流がれ、降らないときはかれるということで、自然の水の調整的なことがくずれることを危惧しているのである。

  むしろ、みずはけをつけるようにと川を掘ることでの水量の調節には奨励しているのである。それも自然の害が起きない時期をよくみてする必要があることを強調しているのである。

 蕃山は日本始まって以来、日本国中で大和・河内の上田という古地を、川につぶして、その下流の地を新田にしようということは、大きな誤りであると警告している。

 「川下に新田をつくれば、川上の古地は悪くなるといって、昔から心あるものはしないことである。まして、古地をつぶして別の地に新田をつくることは、その大小の損益はいうまでもない。やがて山々から流入した砂は、天下の主のお力でも除去しようがありますから、もはや大和・河内の上田は、永久に廃に田なるでしょう。・・・

 今、山城・摂津・河内の水害を止めることは容易であろう。淀の大橋の向う山崎の辺から、あらてごし(本流の外に水路を掘って水量を調節)ということをして、洪水の時、二本の川とするのがよい。

  桂川は淀までつけないで、半分余の水量をあらての川へ、引く水路もあるだろう。そうすれば鳥羽・伏見・摂津・河内の水害はやむだろう。あらてごしのために、田地のつぶれる石高は、2千石ばかりであろう。助かる土地は石高15万石もあるだろう。

  15万石から2千石を補えば、租税率にしても一、二分であろう。堤と堤の間の田地は、そのまま耕作すればよい。5年、7年に一度、その年の作物の損害はあるだろうが、翌年は肥料がなくても、大いに豊塾するであろう」。「集義外書巻13」

 このように、治水の権道としての臨機応変の処置について、蕃山はのべるのである。つまり、5年から7年に一度の水害で、2千石はそのときに、損害を被るが、全体の15万石から2千石を引いた田畠は、守られるということになのである。本流の外に水路を掘って水量を調節する方法である。

 

天地自然の理と仁政の義

 

 新田開墾することに、蕃山は、天地自然の理と仁政の義をもってよく考えるべきと警告する。民の暮らしを第一と考えて、目先の生産量増大ということだけではない。まずは、民の暮らしを豊かにすることからはじめるべきということである。

 「国は、田畑ばかりで山林や不毛の地がないのは、士民の生活が悪いからである。野は野のままにしておくがよい。その上、新田を開いて古地の田が悪くなる所があるから、よく考えるべきである。たといさしさわりがなく、良い新田であっても、君子なら理由なしに開発すまい。

   開発するのなら必ずその義・正しいわけがあるだろう。義というのは、仁徳の政治が行われて、在来の遊民を住まわせる所がなければ、新田を開いてそこへすまわせるがよい。塩浜が国土の山林より多すぎて材木木炭が不自由な時にその浜を減らす場合、塩焼たちを移動させるために新田を開くがよい」。(集義外書巻1より)

 塩田を開くにも国土の木炭を燃やすためにも、山林を多く伐採して不自由になるのなら意味をもたない。山林は国の本である。山の樹木がる時は、山川の神気が盛んである。

  樹木がなければ神気は衰える。草木の生え茂る山は土砂を川中におとさず、大雨が減っても草木に水が含んで、10日も20日もかかって自然の川にでるのである。そこでは、洪水の心配がなくなる。

 乱世となり、山川が荒れるのは、天地自然の理を人々が知らないことから起きると蕃山はのべるのである。小人の考える利をもって利するということでは天理を知らない、決してない。

 

天理と人欲は両立しない

 

 天理と人欲は両立しなというのが熊沢蕃山の見方である。天理の誠を知らない、驕りで仁政を失う、仏者が得度を失うごとく、堂塔寺院を多く建てるように絢爛豪華を求める為政者を批判する。

 世間には学問を得意とするものがあるが、正道という本才には疎い。日本は山野に限りがある小国である。その山野にあった正道が必要である。為政者や驕る仏者に対して、「山川が荒廃する根本の原因を知らない。また、山川が荒れては世の中が立ち行かない道理も知らない。天地が破れても洪水に見舞われなければ理解しない。乱世となる天地も理解しない」(集義外書14)。

 為政者が天地自然の理と仁政をないがしろにして、目先の己の欲に走っている施策について、蕃山は批判する。ひとつは、山林への高い年貢である。

 「山林のある里村では、山林を目当てにして田にはない高免をおくことがある。このため山林がだんだん荒れて、後には百姓が頼れる物をなくなる。家屋を壊し田畑を売って、村の様子は昔の面影もなく、衰微して年貢も取れないので、仕方なく免を下げるのである」。

 さらに、第2に、麦を田につくって百姓の食料とする為政者の施策について批判する。麦作の悪い年で田の年貢率の許可がないから、負債がでてくる。田地を質にとられ、土地をとられるのである。村の民は乞食同様になる。

 第3に田畑の土地の条件も考えずに年貢を一律に課す為政者の施策を批判する。水田湿地で麦もまけず、山林の便もなく、田以外に頼るものがないところにすべての村と同じように四分六分の毛見をするところがある。

 第4に、米の収穫を考えないで、年貢を取り立てる為政者の施策を批判する。田地に米の有無を計らず、しきりに督促して取り立てを行えば、春の農作の牛馬を売り、子ども年季奉公に出して、夫婦は嘆き悲しみ、まめに働く気力もなくなり、耕作に精を出さなくなる。

 第5に、公儀が毎年に収穫量で調べる毛見による不当な年貢取り立てがあることを批判するのである。「集義和書」巻16)より)

 熊沢蕃山は、治国道理の論議をしていく結論に、次のようにのべる。「国が国として存在するのは、民がいるからである。五穀が豊富であるのは民力に余裕があって、仕事の成果によってである。だから、有徳の君、有道の臣のいる時代の一日は、のびのびと長い。その民が静かで暇が多く、生活力があるからである。道の失われた時代の一日は、忙しく短い。その民は苦しみ、勤めても力が足りないからである」(集義外書第7巻より)。

 国は民によって、成り立っていることを根本的に為政者はみるべきとしている。そういう見方をもてば、民はのびのびとして、民の暇が多く、生活力に余裕がきるというのである。

 

それぞれの専門と地域のことをよく知っている人にたずねよ

 

 蕃山に対する盟友の問いで、池堤の修造、飢餓を救い、干害と水害を防止されて、土地の人民はいつまでも、その功をほめているが、どのようにして治水術を鍛錬されたのですかと。蕃山は、そのような術は見たことも習ったことのないとしている。

「自分は治水の術を知らないから、巧者の人にそれをさせたのである。巧者の人々が治水工事をするのを許しただけである。後には、人に問い尋ね、見習い教えられて、少しは功もあった。世の中で何か事業を実施する人の過ちをみると、たいていは他人に問い尋ねないことから起こっている。

  京のことは京育ちの者pに尋ね、山のことは山村の人に尋ね、川の流れや洪水の勢いは川辺の者に尋ねて相談し、堤を築き、水除けをすれば、後悔が少ない」。(集義和書巻15)

 人の間違いが他人にたずねないことから起こということで、蕃山は、京都のことは、京都の人に、山のことは山の人に尋ねるということのように、それぞれの直接に関連する人や、それぞれ専門の人に尋ねることも大切にせよとしている。

  「治世でも乱世でも、大任に当たる者は、心が公平で自分を捨てて他人の意見に従い、天下の才知を用い、衆人の計策をつくさなければ、成功することはできない」(集義和書巻15)。

 蕃山は、大任に当たる者は、公平で他人の意見を従い、才知を用いていくことの大切をのべている。

 仁政ある農業施策は、人民の労力を奪い取ってはならないというのが蕃山の考えである。「民を骨折らせる場合は、彼らが秋の収穫に有利なことに骨折らせ、民を使う場合は、将来彼らが骨休みできることに使えば、民は働き疲れても恨まない」。(「集義和書巻16)

 民が骨折ることも耐えることは、自分たちの秋の収穫に有利なたであり、将来に豊かになって幸福になっていけば、骨折ることに恨みをもつことはないと、蕃山は強調している。まさに、仁政が基本になっているのである。

 「年ごとに稲の出来具合を調べて年貢を定める方法としての毛見は、公儀ではなく百姓にやらせた方がよいとする。公儀毛見では手間がかかり、費用もかかる。風雨のために稲刈りが遅れるとすらある。公儀毛見になれば大損になることを百姓に理解してもらい、奉行公儀をなくして、さらに、毛見の制度を廃止して定免にする道を選んだ方がよいとしている」。(「集義和書巻16)

 蕃山は日本の水土にあった民の暮らしを重視しなければ、日本は、永続していかないと警告するのです。

 「日本の水土により山沢・草木・人物の情勢をみると、簡易の善でなければ、あまねく行きわたらず、長く続かない道理がある」。水土の考えを民に進めていくには、簡易でなければできないとしている。仏教は世にあった簡易さを失っているというのである。

 「近年は、仏法が世に合った簡易さを失って、驕りを極めていますので、長くはりすまい。けれどもやがて天から驕りを削がれ、堂寺や法師など少なく、やや出家らしくなって、またまた長く続きましょう。今の儒学の様子では、朱学も王学も、治学の助けとはなるまい。・・・日本の水土や今の時節に合わない」。(集義外書巻16)。

 蕃山がのべる水土論は、現代の資本主義的な利益中心の開発に対するアンチテーゼを築いていくうえで、大いに参考になる自然循環の思想である。

 

石清水八幡宮と三つの河川の合流地域

 

 京都の石清水八幡宮の建っている男山の裾野は、大きな三つの川が合流地形にある。その川は、京都盆地からの桂川、琵琶湖からの瀬田川宇治川、三重の伊賀からの木津川である。たびたび氾濫によって、水害に悩まされた地域である。

  木津川は、砂礫の堆積による川底が周辺の土地よりも高くなる天井川と言われ、堤防がくまなくつくられて、さらに、氾濫があれば高く積み上げられた堤防になっていった。

 この三つの河川は、水害対策を昔から、自然の状況をみながら有効な手をうってきた。そこには、人間と自然という共生ということから、自然に対する畏敬にそっての防災対策をしてきた歴史が含まれていた。

 歴史のなかで様々な利益による開発が起き、その合意や自然との関係があったのである。自然との共生、循環性をもつためには、山の木を切ったら植林をし、そして山林の保全、大雨の山の対策としての調整池の設置である。

  これは、大雨による巨大な水流を撃退する強靭な建造・施設ということからではなく、「減勢治水」という思想ということからである。

 さらに、里に流れていく河川では、霞堤ということで、溢れる川の水を流しての二重の堤防の遊水池、引堤として、川を掘り、川面を大きくすることや付け替え、川底掘削などを行ってきたのである。

 ここには、上流と下流の住民の利害対立を乗り越えて河川の水系全体としての協力し、合意していく強いリーダーシップとシンボル的な自然の神の存在が必要であった。

 熊沢蕃山の環境思想からの河川の水害対策も、このような大きな歴史の流れのなかでみていくことが必要である。

 琵琶湖を囲む山々も花崗岩の岩石であるが、都の建設や神社建立などによって、森林伐採が盛んに行われて、天井川になった河川が多かった。このために、田畑や市街地に土砂流失の続いてきた地域です。琵琶湖から流れていく河川は、瀬田川一本で厳しい自然条件にさらされていたのである。

 瀬田川京都府に入り宇治川になり、三つの川の合流で淀川になる。山が川に大きく張り出しているところを削る試みは、奈良時代行基が考えられたが、瀬田川の川幅を拡げることがかえって下流の地域が氾濫するということで、断念した。

 さらに、山に手をつけることは祟りが起きるという言い伝えを残した。現在は大日山とよばれている。そこに、大日如来を祀った場所がある。

 桂川は、古代から嵯峨や松尾などに入植した秦氏が氾濫に対して治水対策をしていたということです。その後に、嵐山周辺と上流域は、「大堰川」というように、土砂が流れやくす川底が高くなっていく現象が生まれていくのである。

 平安京建立のときは、丹波や山城からの船による木材運搬の川といわれた。しかし、同時に、水害の発生の危険も増していくのである。木材などの交易のための航行の発達によって、大水害の歴史も繰り返されていく。

 現代は、川の交易のための交通手段の役割は大きくなくった。道路の開発が網の目のように細かく行われて、山の様相も大きく変わったのである。森林の保全、植林の大切さや、自然の力で自然の水害から調整していくことがあらためて問われる時代である。

 熊沢蕃山の環境思想、自然をよく観察しての自然をよく知っての自然の力を大いに利用しての防災対策が、持続可能な可能社会を形成していくためにますます重要になっているのである。