社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

中江藤樹の学問・教育と民の暮らし

中江藤樹の学問・教育と民の暮らし

 

 

はじめに

 

   中江藤樹は、何のために学ぶのか、人間的に生きることはどのようなことなのか。人を育てることをどうしたらいいのか。人間のもつ素晴らしい可能性を探求した儒学者、村の教育者でした。現代ても学ぶべきことがたくさんあると思う人です。

 藤樹は、すべての人々に孝を大切にした人です。全孝の精神から人間らしき生きるための道徳を提唱した儒学者・教育者であったのです。

 彼は、幕府体制維持の精神支柱になった林羅山などの朱子学に疑問をもち、大洲藩を脱藩して、生まれ育った琵琶湖湖畔の高島藩小川村で私塾を開いたのです。そこでは、村民を中心に、また、かつて自分が任官していた大洲藩をはじめ、多くの若い武士も含めて、士農工商のすべての階層に開かれた塾でした。現代的にみれば、学校ばかりではなく、自由に開かれた学びの場であったのです。それは、塾に入門して、大学や中庸をきちんと体系的に儒学や医学を学ぶことだけではなく、村民が自由に話を聞ける場でも交流する機会でもあったのです。

  藤樹は、学問をはじめたとき、武士の身分でしたが、脱藩して、生まれ故郷で塾を興いた志士でした。権力に仕官しない自由の立場の学者として生きたのです。そして、学問とすべての人々の暮らし・生き方を統一的にとらえ、人間として敬愛心・孝徳の大切さを考えたのです。村人や武士に対する教育実践と新たな思想の模索は、後に、日本の陽明学の祖、近江聖人として言われるようになったのです。

  その教育実践は、武士にはなれないという親が考える特別に覚えが悪い若者を、かれが希望する医学を教えたのです。彼のために、専門的な医学書をやさしく教科書につくりかえたのです。

 藤樹は、それぞれの個性や能力に応じて、また、文字を読めない村人にも自由に講習が聞けるように、また、休憩や余暇のときは、長期に滞在している弟子たちと村人、そして、藤樹自身が交流できる場をつくっていたのです。

  それは、閉鎖的な決められた時間内に教育の課題をひとつひとつ細かく教化的に実践していく学校教育風ではなく、おおらかに教育の目標を定めて、現代風での社会教育的な成人学習の場でもなっていたのです。

  中江藤樹は、琵琶湖のほとりの高島藩の小川村という村落社会での傑出した教育者、思想家として、後の日本に、大きな影響をもっていくのでした。現代の日本での参考になることがたくさんあります。

  現代の日本は、弱肉強食の競争社会になっています。社会の矛盾も大きく、無縁社会現象も生まれています。敬愛の心の形成は、大切な時代です。学校教育も立身出世主義、競争に打ち勝っていくという評価主義と管理主義が横行しています。共に生きるための教育の実践が切実に求められる時代です。

  何のなめに学ぶのか。人間としての根本である敬愛心の形成を明らかにした藤樹から学ぶことはたくさんあると思います。万民は、すべて天地の子であるから人はみな兄弟で、公明博愛の心をもって生きる心の形成を大切にしたのは藤樹でした。

  これらの明徳を明らかにする学びは、現代的でも学ぶことがあります。私欲をもつ人面獣心ではなく、人間として生きていくに必要なことです。その学びは、書物を暗記し、もの知りとして出世という私的欲の手段はなく、暮らしのなかから、討論して思考して敬愛という人間の心をもった人格形成のためなのです。この中江藤樹の問題提起は、現代に生きる人々にとっても極めて大切なことです。

   中江藤樹の学問・教育を考えていくうえで、戦前の家族国家観にみられる注入主義的な方法での親孝行・忠孝との関係をみていかねばならない。戦前の絶対主義的体制の精神支柱として、国家による上からの教育勅語教育が徹底され、家父長制による絶対服従の精神形成を強要したのです。そこでは、家族における人間的自然の親子感情を家父長制の家族国家観に利用したのです。

  つまり、中江藤樹の親孝行の言説が、歪曲されて、絶対主義的な家族国家観に積極的に利用されたのです。それは、国家権力機構を大家族という家父長的な家族の一体制のなかに国民を精神的に組み込んだものであったのです。

 この体制を作り上げていくうえで、教育の役割が極めて重要であった。日本の伝統的に行われてきた儒教教育が歪曲されて利用されたのです。武士ばかりではなく、村落で暮らす農民にも大きな影響を及ぼした中江藤樹の親孝行の思想が歪曲されて、学校教育のなかで積極的に利用されたのです。

   中江藤樹の親孝行の思想がどういうものであったのか。徳川幕藩体制の確立していくなかで、幕府の丸暗記的な訓詁学林羅山朱子学言説が採用されたのです。これは、立身出世の道具として、幕藩体制の武士の新たな官僚機構整備に、奨励されたのです。しかし、絶対服従の精神形成を強要することに、反発するなかから、生まれたのが中江藤樹の敬愛・全孝の人間学的な思想であるのです。

   内村鑑三は、代表的な日本人の五人のひとりとして、日本での伝統的な真の人間になるための、英語でいえばジェントルマンになるための詰込みの教育ではなく、歴史、詩歌、行儀作法を少なからず教えた実践的道徳形成の村落学校であった。

  そこでは、決して、思弁的、神学的な性質を有する道徳を決して押しつけなかった。ここでは、多くの国々にみられる宗教的論争のらちがいであった。そして、子どもたちや青年たちをいくつかのクラスに分けずに、すべて人は一個の人間と考えたのです。そこでは、面と面、霊魂と霊魂とが相対して、とりあつかわなければならないと信じて教育をしたのです。それゆえに、一人ひとり、各自その肉体的、精神的の特質に応じて薫陶したのです。それは、人の個別の人間として、敬愛の精神による人間関係の教育実践であったのです。そして、身分に関係なく、誰でも教育を希望すれば受けられる学校であったのです。

  以上のように内村鑑三は、中江藤樹の村落学校を積極的に評価するのでした。内村鑑三の著作は、英文で書かれての日本の代表的な歴史的な教育者として、中江藤樹を世界に紹介するものでした。

  中江藤樹は、どの藩にも仕えるのではなく、自由な立場のわずかな生計糧の手段をもった処士の儒学者であり、村落の教師であったのです。日本の村落の伝統的な教育実践の典型として、中江藤樹を世界に紹介しているのです。

 中江藤樹は、1608年に近江の高島郡小川村の農家の子として生まれました。9歳のときに、武士であった祖父の養子になって、学問をはじめるのです。父親は、武士として、祖父の後を継承せずに、農民として暮らしていた。

  祖父は、加藤家の100石の武士として、米子藩に仕えていましたが、藤樹にとって、米子の生活は1年間でした。国替えで、四国の大洲藩に移住しました。脱藩するまでの27歳まで、藩士として、藤樹は大洲藩で暮らすのです。祖父は奉行職であったが、藤樹も、祖父が亡くなった後は、その職に就いていいます。

  学問に志していた藤樹は、15歳のとき、奉行職と同時に藩内の学問を推奨することで、若い武士と共に儒学の大学等などの会読を行うのです。21歳で大学啓蒙を著すのです。

  25歳のときに、近江の母親を大洲に連れてくるために帰省します。しかし、母親に断られます。母は、住み慣れた小川村を離れることをしなかったのです。小川村には、娘夫婦も近くに住んでおり、あえて全く知らない大洲に行くことをしなかったのです。藤樹にとって、人生は、思うようにいかずに、マイナス状況に働くのです。持病の喘息が、小川村から大洲への帰りの船で、悪化するのでした。

  大洲藩では分家問題がありました。藤樹は、分家に帰属することになっていたのです。このような状況もあって、藤樹は、母の面倒をみることと、自分自身が病気であることを理由で、藩主に辞表の願いの「致仕願」をだすのでした。しかし、致仕願いを出しても許可がでることがなかったのです。

  藤樹は決死の脱藩を決意するのでした。もともと藤樹が生まれた家は、戦国と幕藩体制の移行の時代であるときは、農民と下級武士を兼ねていたのです。父親は、農民であったが、祖父は100石家禄の武士身分で、大洲藩では飛び地の代官でもあったのです。

  祖父は、跡継ぎがいないということで、藤樹を養子にしたのです。戦国時代から幕藩体制の太平の世になりましたが、封建的な身分制は厳しくなったのです。武士にとって、脱藩することは、追ってが、さし向けられて、死罪に値するほどの重い罪になる時代になっていました。藤樹は、すぐに、故郷の小川村に帰郷するのではなく、様子をみるために、京都に滞在しています。

脱藩に対する おとがめがない状況と判断して、小川村に帰るのでした。大洲藩主は、藤樹に対して、期待をもっていました。学問によって改革を断行していくとみていたのです。大洲藩からは、若い武士たちが、藤樹が塾を開いたと聞くと学びにくる状況でした。藩主は、藤樹の将来を見越して、藩にとっても得策であると、柔軟な対応をしたのです。脱藩して、藤樹は小川村で塾を開くのでした。

 

  藤樹は、武士としての禄をとることがなくなったので、生計の手段を考えていかねばならないのです。仕官せずに自由に学問を深め、人びとに教えていく道をとったのですが、十分な土地をもっているわけではなく、生計の手立てをもっていなかったのです。

  藤樹は、自由に学問を志していこうと思っても、生きる手立てがないのです。仕官しての立身出世のための学問ではなかったので、生計の糧はありません。人間としての生き方の真理を探っていくために、幕藩体制の処世術から解放されて、藩内の権力的な人間関係から解放されて、自由に生きる道を選んだのですが、生計の糧はないのです。生計を立てていくには、どうすべきなのか。考えていかねばならないのです。

 生計のためには、わずかな土地だけでは無理ということから、残っていた銀百銭で、酒を仕入れて農民に売りました。刀を銀10枚で売って、その金で米を買って、農民に貸して、利息で生計をたてるようにしたのです。武士の禄からの生計から、わずかな酒の販売と少ない金額ですが、金利という金融業で生計をたてるようになったのです。

 生計の基盤をつくり、自由に自分の考えで、塾を開くようにしたのです。この塾は農民をはじめ、すべての身分の人に開かれた学びの場であったのです。大洲藩からも藤樹を頼って学びにくる多くの武士がいたのです。

 藤樹の人柄がわかることは、大洲藩時代の同僚の200石家禄大野家次男了佐の話です。藤樹が31歳の時で、結婚した翌年です。大野家当主の父親は、武士にむかない愚鈍な次男に、武士以外の道を探していた。

 本人は、医者になりたいということであった。しかし、まわりの反対をよそに、多くの学問を積まなければならない難しい道を選択したのです。

 藤樹は、かれが医者になりたいという強い希望を素直に受けとめた。医者になることは、難しい医学書を学ぶことをしなければならない。愚鈍なものには、誰でも無理という答えでありました。しかし、藤樹は、そのような立場をとらなかったのです。わずかな医学書をすこし読むように指導したのですが、文書を200回繰り返し読んで理解できるようになるのは難しいというありさまでした。

 しかし、藤樹は、了佐のために教え方を工夫しました。中国からの難しい医学書をかれが理解できるように、藤樹のために、やさしい教科書をつくるのでした。教科書づくりは大変な仕事でした。教師である藤樹と、医者になりたいという教え子の了佐の努力が重なって、一般の医学の志望者の数倍の時間と並々ならぬ苦労のすえに、立派な医者になっていくのでした。

 大野家の愚鈍な次男、大野了佐は医者として生涯を送るのでした。大野了佐は、母の実家の尾関家で、尾関友庵という医者になりました。大洲藩の近くの宇和島で開業し、七十七歳まで、真心をもった医者として領民から慕われたのです。

 ここには藤樹の仁愛に満ちあふれた姿勢と人を育てる態度がみられるのです。最初から人間の能力の素質、将来の夢を優秀であるか、愚鈍な人間であるのかという基準で判断しないことです。その人の将来に対する可能性は、人間性を含めて総合的にみていくことが必要なのです。記憶がよくない人でも人間的にみれば素晴らしい側面をもっているのです。大野了佐が人間的に素晴らしい医者として生涯過ごしたことが証明しているのです。

 どんな人でも、本人自身の強い努力と教える人の工夫で、その可能性を秘めているということです。人は、記憶力の優劣は様々です。愚鈍ということで、覚えが人並みの努力では難しいのはいうまでもありません。本人自身の強い意志と並々ならぬ努力、教える者自身の工夫、その子供や青年に対するきめのこまかい丁寧な指導ということが大切ということを中江藤樹の実践姿勢は、教えています。

 教育の力によって、彼の希望はかなえられていくという立場です。また、教えられる大野了佐は、彼自身の熱意ある努力、将来の強い希望があったことを見落としてはならないのです。400年前の藤樹の村落での教育実践は、時代が大きく異なるとはいえ、現代でも学ぶことが大いにあるのです。 

 熊沢蕃山が、中江藤樹の塾に入りたい強い希望をもったエピソードがあります。加賀藩前田家の公金200両を届ける飛脚の話です。かれは、200両を馬の鞍の間に挟まっていたのを忘れて、紛失したということで、途方にくれていたということです。そこに、宿屋に泊まって困っていた飛脚に馬方が届けたという話です。

 その200両の大金を届けた馬方は、小川村で藤樹の話を熱心に聞いていた人です。藤樹の儒学の話を聞いていたので、人として、私利私欲ではなく、仁義の生き方を身に着けていたのです。飛脚は、馬方に、お礼として自分の財布から15両の金を出したが、受け取らない。5両、3両、一両といっても受け取らない。結局、200文ということで、お酒の振る舞いとしてもらうことにしたという話です。

 やさしい心をもっている馬方に、飛脚はどうして、そのような態度をもつのかと、聞きました。馬方は、自分の村に中江藤樹先生がいます。その人から人として正しく生きることを学んでいるからということでした。

 毎日仕事が終わると藤樹先生の塾に通い、藤樹先生の話をきいているということです。村人はみんな同じことをすると告げたのです。現代でいうと村人に対しての人間としての生き方の社会教育活動になるものです。

 この噂は、京都にひろまり、その噂を聞いた熊沢蕃山が中江藤樹の弟子入りを決意するのでした。中江藤樹のところに訪ねて、弟子入りを願うのですが、教える立場ではないと強く断われるのです。門の前で2夜座り込んだり、馬方をはじめ村人となかよくなったりして、弟子になるための方策を考えたのです。

 熊沢蕃山の様子をみかねて藤樹の母親は、息子を説得するのです。このことで、ようやっとのことで、熊沢蕃山は、藤樹と対面することをするのでした。8月であったが、すぐに入門を認めたわけではなく、翌年の冬に藤樹を慕って訪ねてきた蕃山の熱意にうたれて入門を認められることになったのです。

 藤樹にとって、熊沢蕃山が訪ねてきたときは、学問内容の大きな転換時期であったのです。そのことから、将来性をもっている若い武士を引き受けることができなかったのです。「人の師たるに足らず」ということで、教えることができる立場ではないと思っていたのです。朱子学を信じての学びの疑問から新しい学問を求めてもがいていたという大きな思想の転換期であったのです。

 藤樹は熊沢蕃山との出会いは、人格的な深い交わりを結んだということです。学習し、討論し合い、心と心がとけあって、友として、互いに人間としての完成をめざして励ましたのです。そこでは、意気投合して助け合うことができたということです。

 藤樹は、蕃山を性命の友と呼び、心を許し合う捕人と某逆の間柄と言っているのです。捕人は、親友が互いに仁の徳の成長を助け励まし合うことで、莫逆は、互いに心を逆らうことなく意気投合するということです。藤樹33歳、蕃山23歳のときの出会いであった。(渡部武「中江藤樹清水書院・藤樹と蕃山の出会い134頁から143頁参照)

 藤樹は、酒を農民に売る方法として、無人販売方式で、家の門前に大きな酒壺を置いて売ったということです。ここには、教育的な配慮をもっていたのです。村人は勝手にのれんをくぐって必要なだけ酒を飲み、代金をおいて立ち去るという方式です。店頭に誰もいなく、講義や討論の邪魔にならないで収入をあげるということであった。

 酒は順調に売れて、生計を安定させるのに役に立ったのです。そして、藤樹は生活を弟子たちと楽しむことをしたのです。それは、楽しみながらの教育として大いに役にたったのです。

 藤樹は、詩や和歌を作り、音楽も楽しんだ。これらは、弟子たち共に楽しんだということです。師を中心に弟子たちが泊まり込み、寄宿舎の形態をとるときに、娯楽なしに学問をするのは不可能です。節度ある娯楽の工夫として、詩歌管弦、村に伝えられてきた横笛などは絶好の楽しみであった。

 また、琵琶湖の北部に浮かぶ竹島にも弟子たちと出かけているのです。楽しみながら、弟子たちと親密な関係をつくりながら、学問の目的である明徳を明らかにする。民に親しむに在り、至善に止まるに在りということで、博く、これを学び、審らかにしたのです。

 また、これを問い、謹んでこれを思い、明らかにこれを弁じ、篤くこれを行うことをしたのです。そして、物知りをひけらかす、利禄のもとめとのみ、心の驕慢の深い記誦詞章ではなく、実践的に明徳という五倫道徳の知を窮めることにあったのです。

(山住正己「中江藤樹朝日新聞社、近江の私塾117頁から176頁参照)。

 

  中江藤樹の翁問答(中公バックスの日本の名著)から、学問や教育の考えを読み取っていきます。藤樹は、問答ということで、弟子たちからの質問に答える形で、自分の考えをのべているのです。

  学問の本意が世間で明らかでないことが天下の大不幸であると藤樹は、徳がなければ儒者ではいということで、のべていますが、その意味がわからないという弟子の質問です。

 藤樹はのべます。「学問は明徳を明らかにすることを主意真髄とする。明徳は、われわれ人の形をしているものの根本であり、主人である。この主人が暗ければ、あたかも主君がぼんやり者で家来が無秩序であるようなものだというのです。

 その人の思うこと行うこと、みな天理に背き、もっぱら明利の欲が深く、親をも親とせず、君も君とせず、ただひたすら自分には利があり人には損害をあたえることに知恵を働かし工夫をし、互いに争ったり奪い合ったりし、はなはだしい場合には主君や親を殺す悪逆な行為もする。人間の万苦は明徳の暗いことから起こり、天下の兵乱もまた明徳の暗いことから起こっている」(163頁)。

 ここでは、私利ということが、天理にはずれ、明徳を暗くして、その怖さとして、心の側面から争いの根本の原因になることを指摘しているのです。天理ということが藤樹にとって大切なことなのです。

 世間で学問をする人をみるに、学問の真の意味を知って、志す人は少ないと藤樹はみているのです。

 弟子の質問は、四書・五経は世間にゆきわたって、読む者はたくさんいるが、この真の意味が明らかではなく、世の中の人々が学問を謗(そし)るのはどうしてか。この質問にたいして、藤樹は、学問の本意は、明徳を明らかにするということであると語ります。

「文字や書物の読み方を教えて禄を得るという物読み奉公人、医者の飾り、伊達道具のためか、三つを志として学問をするので、学問第一義の明徳を明らかにすることに関心ももっていないから、心を正しく身を修める益はなく、文芸を自慢する病がかさむだけである」。(166頁)

 弟子は、学問はよいものであるとみるのです。しかし、たくさんは不要のことであるという人が多い。これは真実のように思いますか。これに対して、藤樹は、学問に、贋(にせ)学問と正真とがありますと答えるのです。

「正真の学問は、私心を捨てて義理をもっぱらとし、自慢の心をおこさないように心がけることを工夫の眼目とすることであり、贋の学問は博学の誉れだけをもっぱらとし、自分より勝っている人をねたみ、自分の名を高くしようとたたひたすら文字だけを暗記ばかりする記誦詞章(きしょうししょう)の芸ばかりになって、心構えや行儀が悪くなり傲慢になっていく。自慢の心根は固くなり、人々。これは生きている虫ほどにも思わず、天下に我以上はないと、親や親方の愚痴な様子を軽蔑し笑いものに思い、主君を謗り盟友を嘲、正道を妨げているようになるのです。(101頁から102頁参照)

 正真の学問は私利私欲を捨てるために、義理を重んじるために学ぶのですが、ニセの学問は、暗記ばかりの物知りになっての出世のための私利私欲のために学ぶものです。

 弟子は、世間の学問をする人を見ると、さして学問による有益なしうるもなく、かえって気質は悪く異風になる人があるようです。結局は学問はしない方がましと存じますが、どんなものでしょうか。

 藤樹にとって、人間は徳を知り、道を行わなければ人面獣心ということになり、学問は人間第一の急務と答えるのです。しかし、それをよく知って教える人がまれであると藤樹は、次のように語っているのです。

 「人間に生まれて、徳を知り、道を行わなければ、人面獣心といって、形は人間であるが心は獣と同じで、至誠無息の神聖を失い、世俗の諺に「人の皮をかぶった犬」というようにたいへん浅ましいことであるから、学問は人間第一の急務であり、なさねばならないことであるけれども、正真の学問を知っていて教える人がまれだから、学ぶ人も少ない。世間でもてはやす学問は、多くは贋である。贋学問をすればなんの益もなく、かえって気質悪く異風になるものである」。(71頁参照)

 さらに贋(にせ)学問と正真の学問について、、天道の道にそって、その違いをのべていきます。「天道の神理に背いているのが贋学問である。俗儒は、儒道の四書・五経その他諸子百家の書物を残らず読覚え、文章を書き、詩を作り、口耳を飾り、利益に禄を求めるのみで、驕慢心の非常に深人です。彼は、訓詁や記憶してそらんじ、詩文を読むことをもっぱらとして、耳に聞き、口に説くばかりで、徳を知らないものです。

 これとは正反対の正真の学問は、明徳を明らかにすることを志の根本にしているのです。四書・五経の心の師とし、事に応じ物に接する実際の生活環境を砥石と考えて宝珠を磨くように明徳を磨き、四海を正し天下を安らかに治め、立派な事業を実施し、時勢にあわないで困窮するときは、ひとりその身を正しくして、己の心に具えた天理をつくし天命を信じて教えを実践することが、正真の学問です。72頁から73頁参照)。

 正真の学問をする人たちは、四書・五経を読んで覚えるだけではなく、実際の生活を砥石として、磨いていくということになるのです。実際の生活とかけ離れての四書・五経を自分自身の心を磨いていくことはないのです。ここには、藤樹の学問の姿勢が実際生活との関係で、物事を考えていく基本的な立場があるのです。

 ところで、弟子の質問で、世間の取沙汰に、武士に物読み坊主衆あるいは出家のすることで、武士のなすべきことではない。学問に熱心になりすぎた人は軟弱で武用には役にたたないなどといって、武士の中で学問する人があれば、かえって非難しております。

 このような誤りは、いかなる迷いから起ったのでしょうか。藤樹は、世間に贋の学問ばかりが盛んで、人々の心が汚れに染まっているからだとのべるのです。そして、正真の学問は武士に必要と強調するのです。

 「世間は贋の学問が盛んで、風俗が悪く人々の心が汚濁されています。書物を読むことばかりを学問と考える風潮です。心の汚れを清めるのが学問です。学問は武士のすることではないというのは、愚かなことで、迷いの中の迷いです。心が明らかで行儀正しく、文武を兼ね備えるように思案工夫することを正真の学問です。学問は武士がしなければならないことです。

 正真の学問は仁義の勇です。生まれつき勇気のあるものは、元来死を恐れずに物におびえない驚かないことは仁者の勇に似ているが、仁欲の迷いが深いから、明徳の良知が暗いので、不義無道の働きは畜生と同じで、生まれつき天から受けた仁徳を失うものである。生まれつき勇気のある者は、正真の儒学を努めて、その勇を仁義の勇となっていくのです。(96頁から99頁参照)

 施政の法度は厳しくしたのがよろしいでしょうかという弟子の質問に、藤樹は、主君の心が明らかで正しい道が実行されていれば、自然と人の心はよくなるもので、本来政治は、法度の個条が少なく、その時代相応の至善にかない、おおらかであることを大本とするものです。

 法治は厳しく厳しいほどみだれやすいものです。徳治と法治の区別をよく理解して、徳治は、まず自分の心を正しくして、人の心を正しくするものです。法治は、自分の心が正しくなくても、人の心を正しくしようとするものです。

 主君の心が明らかであれば、吟味は正しく法度も道理があるから、いつまでも変わらない。主君の心が暗ければ、万事に不吟味であるから、その法度もたびたび改められるのです。明徳さえ明らかになっていれば、時・所・位の分別、人事の務め、運命の定め、みな鏡に影を映すようなものです。(84頁から87頁参照)

 法度がかわらないことは、為政者の明徳が明るいことであり、学問をせずに明徳が暗ければ法度はたびたび変更されるとみているのです。明徳が明るければ、鏡のように分別、人事、運命がみえるというのです。法度が次々にかわっていくことは徳が乱れていること証であるのです。

 学問と政治とは別のことと考えておりますが、一つのものでありましょうかという弟子の質問に、正真の学問であれば、学問と政治は同一とあると、藤樹はのべるのです。 「学問は明徳を明らかにするのを全体の根本とする。明徳は、天地の有形のもの以外にも通じ、上もなく外もなく、神明にして測ることのできないものであり、天下国家を治める政治は明徳の神通妙用の要領であるから、いわば政治は明徳を明らかにする学問であり、学問は天下国家を治める政治でもある。天子・諸大名が自身行われる一事、あるいは口にされる一言でも、みな施策の根本であるから、政治と学問とは本来同一の理であることを、はっきりと納得しなければならない。(87頁参照)

 天下国家を治める政治は、明徳によって正しい施政が行われいくものです。ニセの学問ではなく、真正の学問によって、仁政という政治の根本姿勢が定められていくのです。

 ところで、学問を教える教師について、藤樹はのべるのです。「真儒の生業として、教官をするのは、教え方さえよければ、ありがたい真儒である。その心の持ちようと行いが道理にあわないのが俗儒のそしりを受けるのです。教官を生業とするのは、良いけれども教え方にあやまりがあるのかどうか知るべきです。(76頁参照)

 大学の道は、上は天子から下は一般庶民までの教えとして聞いております。愚かな下々の者は書物を読むことができません。どういたしましょうかという弟子の問いに、藤樹はのべるのです。

 「昔、聖人の御代には小さな村にも学校があった。そして、その村の奉行・代官がその先生となって、耕作の余暇に聖経を講釈し道を教えたので、愚かな下々の者まで書物の本意をよく理解したのである」。163頁

 聖人の御代では、小さな学校が村々に学校があり、奉行・代官が先生になって、農民たちに聖経を教えていたというのです。書物を読めない人々のために、講釈する学校があったということです。藤樹は、まさに聖人の御代のように小さな学校を琵琶湖のほとりの小川村で、わずかな生計を得る手段をもって、権力から自由な立場であるものが実践していたのです。小さな村々にも人間としての正しい生き方の学びの場があったということです。

 名誉や利益を目指して学問する人が何の役にもたたないということはもっともであります。しかし、それほど明利の汚れもなく道に志して学問する人が役に立たないばかりではなく、かえって心持や行儀が異風になっていくのかどういうわけでしょうか。

 この弟子の質問に、藤樹は答えます。「人の心というものは、知識ある者も愚かな者も、私心を種として発する自慢の心のないものは少ない。この慢心が明徳を暗くし、災いを招く曲者であって、万事の苦しみも大部分はこれから起こる。恩恭自虚(おんきょうじきょ)が、初学心法の第1義とするのです。この四字に法に則って慢心を除き捨ててしまえば、その学ぶところはすべて心を磨くことになって、明徳は日ごとに明らかになるものです。

 もし、この法によらないで慢心を除かなければ、学ぶところはみな慢心を助長することになり、明徳は日ごとに暗くなるものです。温和で恭々しく人にへり下り、自ら反省し独り慎み、人を恨まず人を軽蔑せず、人を手本として善をなすということです」。(162頁から163頁参照)。

 誰でも慢心という明徳を暗くする心があるものです。明徳を暗くすることは、苦しみの源になっていくものです。従って、だれでも常に学びが求められているというのです。

 藤樹は「親が子をいつくしみ愛するには道理や才芸を教えて、子の才徳を成就するのを根本」と考えています。苦労をいたわって、子の願いのままに育てるのを姑息の愛としています。牛が子牛をなめ愛して育てることと同じで、慈愛のようにみえるが、その子は気ままになって、才もなく徳もなく鳥や獣と同じようになってしまうので、結局は子を恨んで、悪い道に引き入れるのと同じです。親は、子どもに孝徳を教えることが大切であるとしているのです。

 「子どもの感情の願いのままに育てることは、決して親が子に対する慈愛ではなく、親が子を悪い道に引き入れていくのとおなじである」と藤樹は言うのです。

 「まず道を教えて、本心の孝徳を明らかにすることを教えの根本とするのです。才芸が衆人よりもすぐれ、めぐりあわせが非常によくて、人間として栄誉を得ても、その心がねじけていて本心の孝徳のないものは、天地・鬼神に恨み捨てられものであるのです」。心がねじけていて、孝徳のないものは、天からすてられるというのです。

 ところで、藤樹は幼少期の父母の教育は根本と考えるのです。「幼児の期間には教えないものと思っている人がいると思うが、教えるのは、口で言い教えることだけではない。根本になる教育は、口で教えるのではなく、わが身を立てて道を行って、自然に身についていくのです。言葉を覚えるように、幼い者の気質や身の持ちようも、父母・乳母などの気質や身持ちを見たり聞いたりしてなじんでいくものです」。

 幼少期の教育は、口で言いのではなく、父母自身の気質や態度を見たり聞いたりして身に着けていくものであるとしています。

 そして、孝徳の大意を教える8歳から9歳の重要性についても藤樹は次のようにのべます。「八歳から九歳にもなったときは、孝経の大意を説き聞かせて、才徳兼備の教えをもっぱらとして、愚鈍で才徳兼備を理解できないものは、義理をなんとなく語り聞かせて孝徳の本心を失わないようにして」。

 ところで、15歳になったときの教育について、藤樹は師匠と友人を選ぶ大切さを指摘し、生業の力量の重要性についてのべるのです。「15歳のころになったら、師匠と友人を選ぶことを教えの眼目として、生業は、それぞれの力量や性質に従い、またそれぞれ運命を考えて、生活の本来の道筋と士農工商の身分を考えて定めるべきとしているのです」。(63頁から64頁参照)

 このように、藤樹は子どもの発達の段階にそっての子育て、教育の重要な課題を指摘しているのです。幼児期の教育、8歳から9歳の孝徳の教育、15歳になったときの師匠や友人えらび、生業の力量をみにつけていく課題など、それぞれの成長段階に対応させて考えるようにしているのです。

 中江藤樹の思想では、孝が基本的な内容になります。その孝は、愛敬の二字に要約できるとしています。愛は人間的な感情の親しむということで、敬は、上の者を敬い、下の者を軽くみることではなく、侮らないようなものとしています。孝経は、この宝を学ぶ鏡になるというのです。

 人間の心の持ちようで至徳要道という孝経の宝がもつことができると藤樹は強調するのです。それは、上に天道に通じ、下は四海に明らかにするものです。そのことで、人間の交わり関係でそれぞれ和睦して、互いに憎しみ合うことも生まれないとしています。その宝は本当に求めたいものですが、あまりにも広大な道でわたしどもの分際ではとても到達はできそうもないと弟子は語ります。

 藤樹は本心さえあれば,その広大な宝を誰でも用いることができるとしているのです。衆生に教えを示すために、昔の聖人は孝と名称したというのです。孝は、親に仕えるということに考えると思っている人々がいるが、そうではなく、万世の人々の迷いを開くためで、広大深遠で、始めもなく終わりもない神明の道と藤樹は考えているのです。

 親を愛敬するのは、感通という天地の徳が働いて人間に通じることです。それを孝行の根本としています。臣下が二心なく主君を愛敬するのも忠と名づけ、親がよく教えて子どもを愛敬するのも慈といいます。弟が和順で愛敬するのも悌という。兄が善行を励まして弟を愛敬するのも恵とします。妻が正しく、節操を守って夫を愛敬するのを順となします。夫が義理を守って妻を愛敬するのも和としています。偽ることなく盟友を愛敬するのを信というのです。

 このように、身近な切実な愛敬の道徳であるから、どのような愚鈍な下々の男女でも、幼児でも、よく知りよく行うことができるとしています。そして、人間は天地の徳、万徳の霊であるから、人間の心と身には孝の実体が備わっているので、それによって身を立て、道を行うことを修養の工夫の要領としていると藤樹はみるのです。

 わが身は本来、父母から受けたものであるから、わが身は父母の身と同じと思い、父母の身は天地より受け、天地は太極より受けたものです。このことから、本来わが身は太極神明の分身ということで、それを失わないで、人倫に交わるということになるというのです。(54頁~55頁参照)

 まさに、人間は天地の太極から受けたという人倫の意識が大切だというのです。天道に通じて、四海を理解していくという人間としての仁義があるのです。人間の孝は、すべてにわたって、父母から朋友までの天地の徳、万徳の霊によって、行われるというのです。

 人間の千万の迷いは、みな私心からおこるというのです。私心がわがみ身をわがものとして思うことからおこるのです。孝は、その私心を破り捨てる主人公であるから、孝徳の本来の意味を悟らないときは、博学多才であっても真実の儒者ではないとしているのです(56頁参照)。

 藤樹は、人間のすべての迷いは、私心からおこるとして、私心の心を破り捨てることの大切を力説しているのです。

 私心を入れずということでは、主君が臣下を使ううえでの本質ということや、諸侯・家老の私心が世を乱していることをのべているのです。

 臣下をどのように使用するのがよいのかという弟子の質問に藤樹は公明博愛の心を基として、人を選ぶことの大切さを次のようにのべているのです。

 「賢知・愚不肖それぞれの分相応の人物を取得する場合、私心を入れず、道徳・才智のある賢人を高位につけ、施政万事の主な相談役とし、才徳のない愚人、不肖の人にも必ず得意なことがあるもので、その長所をよく見知って分相応の地位につけて使うならば、人間で役に立たぬ者はないものです。

 使い方が悪いから、よい者も役に立たぬと思うのです。主君の側が直接使ってこそ、その人柄も心がけもわかるのです。人づてに聞いているだけでは人物の良否はわからないのです。出頭人のとりなしでだけでは聞き知る程度にすぎない。心の暗い主君は、どれほど良い士を集め来ても、それを用いる主君が暗ければ曲者で出世しようという士を使うことになるというのです」。(83頁から84頁参照)

 自分で直接会って、そして使って人物の良否をみることの大切さを藤樹は指摘するのです。その際に、使うもの自身が明徳が暗ければよくみることができないとしているのです。

 藤樹は、君主が人を使ううえで、大切な道理は、仁と礼の心をもつことと、人はみな天のもとに、みな骨肉同朋で、兄弟ということの気持ちをもつということを強調しているのです。

 「君主は、仁と礼をもって臣下を使うのが道理です。仁は義理に従って人を愛することで、礼はそれぞれの位の道理にしたがって、人を敬い、侮らないことです。万民はすべて天地の子です。われわれ人も人間の形をしている者はみな兄弟です。生まれつきの厚薄・高下によって主君となり、臣下となっても、元来は骨肉同朋の道理であるから、扶持のないものも憎み悔いるべきことではない。まして、扶持している者は、本当に、情を深くし、礼儀正しくする道理があるというのです」。(65頁から66頁参照)

 使うもの自身が明徳が明らかで、人を敬い、侮らないということで、すべてが、天のもとにあるという姿勢が持てるかどうか大切というのです。そのような関係になれば、骨肉同胞の感情が生まれてくるというのです。みな天の子として、等しく平等にみて、扱うことが上にたつ人は重要であるというのです。まさに、為政者の在り方を説いているのです。 

 また、愚痴・不肖のように才能のすぐれていない者でも良知良能があるというのです。天の子として、人間みな平等ということから、愚痴や不肖の者も良知良能を失わなければ善人の仲間というのです。愚痴や不肖という人間の能力面から悪人とすべき理由はないというのです。

 藤樹は、才ある者も才ないものも、知ある者も、知なき者、形や気の邪欲に溺れ、本心の良知を失う者は、すべて悪人ということで、人間のもつ私欲の問題を基本にして善悪を語っているのです。(92頁参照)

 ところで、諸侯や家老の第一の悪い欠点はどこにあるのかという弟子の質問に藤樹は、私心にあると答えるのです。「私心の人はきままであります。気ままの人は必ず他人の意見を聞き入れず、世間の非難も顧みず、自分の心まかせに偏って、自分の好むことは悪いことでも善いことと取りなすことです。

 また、夜も昼もあけぬように好みふけり、自分の好まぬことは善いことでも誹謗して、けなして取り上げず、性の合う者は小人倭人でも近づけて親しみ、功績もないのに知行を加増し、罪があるのに刑罰を課さず、性が合わなければ長い間の功績・忠節の者をおろそかにして近づけず、功があっても賞を与えず、罪もないのに刑罰を加えるという不義無道の作法や仕置きが行われるのです。これらは、みな諸侯や家老の私心の根底から起こるというのです」。(112頁参照)

 人を治める立場の諸侯は、私心の怖さを藤樹は語り、国が乱れ、国を滅ぼしていく道として、私心の慎みをのべているのです。そして、諫言の重要性を指摘しているのです。

 「諸侯の第一の心得として、謙の一字をあげているのです。それは、諫言をよく聞き入れて、自分の高い位におごり、自慢する魔の心を断ち切って、義理の本心を保ち、万民を軽蔑せずに、慈悲深くすることです。諸士には無礼をしないように、家老や出頭人の諫言をよく聞き入れて自分の知恵をさきに立てず、善を好むこと、悪を憎むことは謙というのです」。(112頁から113頁)

 ここでは諫言ということを藤樹は、国を治めていくものが、私心を抑制して大切をのべているのです。

 諫言は、儒学によって、為政者の私心、私欲を取り除き、国を治めていくうえ大切なことであることとして、それを体制的に保障していくしくみを中国の歴史ではつくってきたのです。

 つまり、王によって機能しないこともあったが、諫言を保障していく諫官の制度がつくられていたのです。唐の太宗の時代の諫官は、毎月200枚の用紙を支給されて、それを用いて諫言を書いたのです。そこでは、諫院という庁舎が整備されていたのです。太宗の時代には、諫言が大いに機能して仁政と太平の世が充実していったのです。

 唐の太宗が中国歴史の名君からまとめた「貞観政要」がありますが、そこでは、臣下の諫言に耳を傾けることが帝王学で大切としています。太宗は熱心に臣下からの諫言に耳を傾けた君主であった。「部下の諫言には喜んで耳を傾けるがよい。部下の意見が自分の意見と違っているからといって咎めだてをしてはならぬ。部下の諫言を受け入れない者が、どうして上の者を諫言することができよう」。(守屋洋貞観提要」現代日本語訳、プレジデント社、97頁)。

 日本の武士道の世界でも佐賀藩士の山本常朝が書「葉隠」での武士道の真髄を1659年にかいたが、そのなかで、諫言の重要性を指摘しているのです。

 「すべての諫言や意見は、和の道であり、じっくり話し合わなければ用をなさないものだ。堅苦しく改まった言葉遣いなどでは、角を突き合わせて形になって、簡単なことでも直せぬことになる。主人を諫言するにもいろいろややり方がある。真心から諫言しようというのであれば、周囲に気づかれないようにすることだ。ご主人の気持ちに逆らわぬようにして、よくないことをお直しするのである。

 ・・・諫言する場合にも、もし自分がしかるべき地位にいなかったならば、その地位の人に言ってもらって、主君の間違いが直るようにするのが大忠というものだ。このつてを得るために、諸人と親しく付きへつらうということになる。それを自分のために利用すればへつらうということになる。自分でお家を背負って立つという真心からすればできることである」。(奈良本辰也訳編「葉隠三笠書房、118頁から119頁参照)

 1715年に出版された室鳩巣「名君家訓」にも絶対的服従ではなく、誤りについては、正していく詮議し、諫言を用いて、学問の大切さが述べられていたのです。

 「古の聖賢の君さえ群臣の諫めを求め、生まれつき不肖にして、君たる道にたがい、各々の心にそむかん事を朝夕おそれいり、その身の行い、領国の政、諸事大小によらず、少しもよろしからぬ。生まれつき不肖の悪事を強く諫めれば、不快の顔色をもつ。かさねて申し懲りるようにいたし、その分随分嗜むようになります。

 終始の心底は、弓矢をもって申すどおり。おのれの悪事を人にかくし間、何事によらず、機嫌をはからず諫言を行うことです。威勢をつのり、才智にほこりがあると諫言を用いず、賞罰をしなければ、賢臣を遠ざけ、佞臣を近づけさせることになります。

 それは、文道疎くなり、武備をわすれ、家臣百姓にいたるまで憐れに思うようになる。無用の器物をもてあそび、金銀を費やし、作事を好むのでは、人たる道の力を破ることになります。

 武士の風俗、質直朴素の気味すくなく、外見かざり、身を豊かに持ちなし、下のものに対しては高位な姿勢をとることがあります。これらは、武士の作法にかなうことではなく、武士の本心は、形をつくろい、身をかざる心ではない。平生の行い考えて、善悪を定るのは、家老、頭分の役である。えこひいきは、武士の仕儀にはない。万一左様なことがあれば、詮議を行うべきです。

 武士は、書を読み、古の聖賢御言葉を種として 、心身の工夫をするのであれば、小学、四書、近思録のたぐいを熟読いたし、余力あれば五経などにも及び、その義理を尋ね、一字一句も今日の上にひきうけて、ことごとく修行のためにいたし、真の学問をすべきものです。

 武士は節義のたしなみをもって、口に偽りをせずに、身に私をかまえ鉄石をもって義理を重んじるというのです。そして、温和慈愛にして、物のあわれをしり、人に情けをかけるものです。(「名君家訓」近世武家思想・日本思想体系、岩波書店、68頁から83頁参照)。

 藤樹に、弟子からの武士の人調べはどのようにするものかという問いがあります。世間の諸大名では、諸士を召し抱えるのに、定まった作法があるとは見えない。ただよいひいき、つてのあるものが良い武士とあつかわれ、高い知行を取るように思いますが、いかがでしょうか。

 藤樹は答えます。「主君は人物を吟味して、良い武士をかかえたいと考えても、世間一般の風俗が悪く吟味の方法も明白でないため、不本意にも不吟味になっていくのです。根本的に、武士の品位に上・中・下の三段階があります。

 明徳が十分に明らかで明利私欲の思いがなく、仁義の大勇があって文武を兼ね備えている人を上とするのです。明徳は十分ではないが、財宝利欲の迷いがなく、功名節義を身に代えても守る人を中とします。外見だけは義理だてをしますが、心の中は財宝利欲を考え立身のことばかりをむさぼるのを下とするのです。この下品の曲者が大勢栄えているようにみえるのです。主君たるは用心せねばならぬことです。

 諸子の吟味には三つの要点があります。徳と才と功です。徳は文武合一の明徳です。才能とは、天下国家の万事をとり行う文芸・武芸に関する才智・芸能のことです。功は、あついは天下国家の施政の実績です。あるいは奔走する功です。天下国家の危機をはらい、天下国家のためになることを初めて造り出したたり、大敵を滅ぼし成功をたてるなど、みな功です」。(82頁から83頁参照)

 藤樹は武士の品格には、上中下と三段階があると考えています。そして、多くは、下の段階で、多くは、外見だけは義理だてするが、財と利欲、立身のことばかり考えていると言っているのです。この現実を考えて家臣を冷静にみていくことが必要としています。ここには、家臣たちの常日頃の品格を高めていく学びが求められているのです。

 武士道を吟味するには心学があるのです。真の武士道は、忠孝と藤樹はのべていますが、弟子は、世間での武士道は武のたしなみばかりを考えています。明徳を明らかにして仁義を行うのは、昔からまれであると思っています。昔も今も国も治まっていますので、難しい心学などいらないのではないでしょうか。

 この質問に藤樹は、そうではないと答えます。「明徳仁義は人間の本心の別名で、生命の根であるから、生きとし生ける人間で明徳仁義の心のない者は一人もいない。これを学ぶのが心学です。武篇は忠孝の一種です。忠孝の心が真実であれば武篇は強いものになります。仁義の道を捨てて武士道も立ち、世が治まったなどということはない。欲のために働く勇は、謀反人や盗人であって、武篇ではない。何の吟味もなく猛々しく腕自慢をして人を殺すのは浅ましい嘆かわしいことです」。

 このように、武篇にも仁義が必要であるとのべるのです。それがなければ、人を殺すことを武として自慢するようになるからです。それでは、仁義の道を外れて、世が治まることはないのです。戦場での軍の戦略においても明徳が求められることになるのです。

 ところで、藤樹は、庶民の孝についてのべています。「庶民は、農工商の仕事をしている人たちで仕事を勤めて怠らず、財穀を貯え、むだに消費せず、身の行い、心構えよく慎み、公儀をおそれて法度に背かず、わが身の利や妻子のことを第二として、父母の衣服・食物を第一に念を入れ、心力をつくすこととしています」。

 「庶民は、財産が乏しいので、十分に心を使うことをしなければ衣服や食料が足りないのであるから、庶民にだけ父母の養いを説いたのです。親を愛敬するばかりではなく、それぞれの生業の仕事に精を入れることが親に対する孝行の本当の意味になるというのです」。(58頁から59頁)

 庶民は生業の仕事に精を入れることも孝行にとって大切としているのです。父母への孝行も、財がなければできないということです。つまり、愛敬ということばかりではなく、年老いた父母を養っていくことができなければ孝行にならないとしているのです。

「父母は慈愛の心を持って、苦労を積んで子の身を養い育てたのであるから、人の子の一身、一筋の毛までも父母の千辛万苦の厚恩でないものはない。父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深い。あまりにも広大無類の恩であるので、本心の暗い凡夫は、それに報いることを忘れ、かえって恩があるともないとも思わないようです。恩に報いるように思うのは孝徳の本心があるからです。それを忘れてしまうのは、人欲の雲に覆われ、明徳という日の光が暗くなり、心の闇に迷うゆえです」。(61頁参照)

 このように、藤樹は、父母の恩に対する報いとしての親孝行の大切を強調するのでした。親孝行を考えていくうえで、父母の人間的な慈愛に対する恩に報いるということで、それは、父子関係を基本にしたことでは決してないのです。

 とくに、我が子に対する強い慈愛をもって、育てる母親に対する恩の感情と、父親との関係もあるのです。民の父母たちは、我が子を、苦労を積んで養い育てたのです。家父長的な家族関係での親孝行ということではないのです。家父長的な親孝行の概念が、家族国家観に結んでいった戦前の反省のうえに、父母に対する親孝行を人間学の普遍的道徳から考えていくことが必要なのです。

 ところで、盟友の信としての孝について、藤樹は大切にしているのです。同郷、隣同士、同じ役目、同じ職場、一度あった人でも志で通じ合うことがあります。盟友とは互いに偽りがなく義理にかなう、信をもって交際する道のことです。お互いに志が同じで交わり親しくしていくことを心友という。

 同郷、隣同士、同じ職場、同じ役目をもって交わるのを面友という。善悪の分別もなく自分の心のなかで真実に思い入れて交流をしているのを信とおもっているのは大きな誤りで、真実に思い入れたことでも道に背いていれば、人欲の偽りということであります。盟友たるは、自分も人もみな真実無妄の天道を父母として生まれたものであって、その外形は他人であるが、道理の側からみれば同胞であるから、真実にして妄りなき信の道を守って、骨肉の感情を持つ(69頁参照)。このように藤樹は盟友に、仁徳の義理、骨肉の感情ももつことであるとのべるのです。

 盟友の信としての孝の関係を広く作り上げていくことは、現代社会の弱肉強食のなかで、無縁社会現象や平気で目先の自己利益のために、人間としての仁義が失われがちななかで、大切な課題です。信とは単に絶対的に相手を信じるという関係ではなく、人をあざむかいということで、約束したこと、自分の言ったことに、誠実に責任をもっていく人間関係なのです。

 信用していく、信頼していく人間関係としての盟友としての孝になっていくのです。この意味で、心友という関係ことが大事にされるのです。面友という同郷、隣同士、同じ職場、同じ役目という関係は、幅のもった広い人格形成にとって大切なことです。弱肉競争社会と分業化の極端な進展のなかで、孤立が進み、仕事も一人で行う場面も増えているなかで、面友を増やしていくことは大切です。

 面友は、強い絆をつくりあげていくうえでの共同の活動、仕事などで大いに力を発揮していくことがあるのです。創造的なこと、持続的に課題を探求していくこと、困難性をともなった中では、目的意識性をもった心友の関係への発展が必要になってくるのです。盟友には、心友という孝の関係が基本であるのです。盟友信の大切さは、地域や国を太平で平穏に楽しく豊かに治めていくうえで大切な人々の輪づくりであるいえるのです。