社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

未来への地方自治と社会教育の研究展望

未来への地方自治と社会教育の研究展望

               神田 嘉延

 (0)研究所の 社会教育教育研究の基本的視点の再確認

 

  社会教育・生涯学習研究所の島田修一先生を囲んでの小さな3月9日(土曜日)の研究会は刺激になりました。私はオンラインでの参加。

  島田先生は、次のような問題提起をした。地方自治の未来をどのように具体的な展望をもっているのか。研究所が出した今回の本は、理論的に未来展望を提示できていないのではないか。社会教育の再定位を10年前に本を出して、研究を積み重ねていく必要があるということであった。その視点からの研究は、進んではないのではないか。この指摘は、厳しい指摘である。この厳しい意見は、研究所のメンバーに対する島田先生の大きな期待であると受けとめた。

  長く所長をされてきた先生の社会教育・生涯学習の理論の再構築の願いでもある。これは、生活の現実と現在の政治経済的構造の矛盾を解決していく未来への希望ある地域づくりの学習の方法にもなると考える。

 その見方は、それぞれが主体的に学び、科学的な視点から化社会教育実践をどう理論的に構築していくかという問題提起でもある。現在の世界的環境問題、平和の問題、都市と農村の対立、所得格差問題、人権問題など、人々の暮らしは厳しい状況にたたされている。それぞれの学問分野でも、人間らしい暮らしの豊かな未来社会の探求は重要な課題になっている。

 社会教育の研究者として、現実の社会的問題に対して、どう実践的に、それを社会教育という学びの論理から具体的にせまっていくのか。この理論構築が求められているという。

  その学習方法はさまざまな人々の相互の学び合いである。そして、学びをともに創ることをとおして、相互の人間的な発達や実践力を高めていくということの認識が大切になる。

  現代は、人権と自治に結び付いていく社会教育労働論の必要性が極めて大切になっているということを島田先生は強調する。 島田先生は、人類史な危機的状況に真正面に向かって、社会教育研究の必要性を指摘する。島田先生は、この課題に次のようにのべる。

  いま、食料、エネルギー、環境をはじめ人間の生存に関わる深刻な危機的状況に、人々の科学的認識、危機を解決する新しい社会秩序構築に人類はたたされている。この状況に、人々の人々の学びをとおしての深い思考と哲学の協同の作業が必要なのである。

  今後、社会教育実践がどのような領域で広がりをもって展開されていくのか。それを担う社会教育労働は、新しい人間発達の公共性としてどのようにして展開されていくのか。

   島田先生は、社会教育学会での研究の現状を批判する。研究動向は、地域づくり論が政策批判に傾斜し、社会教育職員の専門性が学習方法や技術論になっているという思いをもっている。

 

(1)神田の問題提起は、基本的視点をもって具体的実践の分析から普遍化探求。

 

神田の基本視点

   島田先生の意見に対して、私は大賛成である。しかし、なかなか自分の考えが十分に伝えることができなかった。この日のオンラインからの参加では出来ずに、難しさも感じた。

 神田の問題意識からは、地方自治の未来を社会教育から考えるならば、地方自治の暮らしの住民参画という地域民主主義の発展ということで、地域の伝統的文化、自然に対する畏敬の地域文化の社会教育の位置づけが必要であると考える。

  自然の畏敬の伝統文化は、山神、水神、田の神などに内包されている。それは、未来への住民自治の発展の文化的要素として再定位していくことではないか。

  人類史的に人間は、動物と異なって個体の生きる欲求としてでなく、共同体的営みのなかで社会的存在・類的存在として生きてきた。

 近代社会の市民社会は、個人の尊厳が重視されて、社会的存在としての人間の側面ではなく、自己欲望、自己利益ということで他者との関係が薄くなっている。そこでは、他者との絆・友愛の精神が弱くなっている。その結果、精神的に孤立した人間存在、意識のなかで無縁社会が形成されている。

  現代社会の実際は、巨大で複雑な官僚的組織化の状況になっている。このなかで人間の本来の精神的な営みである絆・友愛による自由な精神による共同的・協同的社会が切実に求められている。

  地域の暮らしの社会教育実践は、未来への社会像としての人間の本来のあり方からの、自己利益、自己欲望のみのエゴイズムの問題の克服に正面から向き合うことが必要である。

   農山漁村地域では、共同体的営みが伝統的にあった。それは、入会地や共有地、水利権、入浜権、溜め池の利用と管理、学校林野などである。

  ここでは、新たに無縁社会の克服、社会的存在としての人間を否定していく自己欲望謳歌を克服していくためにも、地域での暮らしの共同の営みを評価する必要がある。

   わたしは、島田先生の問題提起を具体的事例をとおして、農業・食糧やエネルギーの新たな地域づくり・地域再生の学びとして、また、再生可能エネルギーを新たな地域再生の学びと結びつける必要があると考える。

   さらに、現代的矛盾の視点に、都市と農村、農業や工業の不均等発展、都市への商業や金融の集中、病院や教育機関などやサービス機能が都市へと機能的に集約されていく問題を明らかにしていくことが求められる。

  これらのためには、農村のもっていた暮らしの文化や共同体機能の現代的な見直しが必要である。そこでは、崩壊していく農村の危機的状況のなかで、人々の農村の再評価の学びによって、新たな視点からの未来への持続可能な地域発展の力をつけていくことである。農村再評価の学びによる地域再生は、都市と農村、相互の新たな自覚した人々の自治の力で、いかに再生していくのかということになる。

  現代社会は、スマートホーンが誰でももつようになり、パソコン機能も人々に浸透して、テレビや新聞と同時に新たなマスコミ機能を果たすようになっている。それは、人々の意識や行動に大きな影響を与えている。このなかで、人々への宣伝や啓蒙活動というプロパガンダ操作によるウソや騙しがはびこっている状況を注意していかねばならない。

   現代のマスコミによるプロパガンダは、人々の意識や行動が暮らしから考える習慣よりも世論操作が大きい。それは、消費生活や文化、政治も大きな影響を与えている。

  現代社会は、騙しやウソではなく、真実を知るということを意識的に追及していく姿勢が必要な時代である。真実を知るには、地域の暮らしから考える学びが大切であり、多様な情報から真実を知ることが大切である。

   また、政策の基本になる法律・条例・行政施策などが理解できるるように社会教育的機能を充実させていくことも地域の民主主義を育てていくうえで不可欠である。

 

都市の暮らしの問題提起からの農村の再評価

  農村の過疎化、さらに崩壊のなかで、暮らしの共同体の再評価をしていくうえで、都市の暮らしが人間らしい豊かさであるかという根本的疑問の問題提起からはじめることが必要である。

  人間は本来、一人で生きられるものではない。孤立して無縁なる生活は耐えがい苦痛になる。かつては共同体が人間らしく生きる絆の役割を果たした。

  現代は相互に自立した人が、家族や仲間や絆をもって、さらにさまざまな機能的な人間関係で生きている。これらは大切な人間らしい関係である。この機能的な新たな人間関係によって、新しい地域コミュニティーや様々な機能組織の継続性が大切になっているのである。

 さらに、地域での自治、コミュニティ、社会的連帯は、無縁社会にならないために極めて大きな役割を果たすのである。この学びと組織化を積極的に展開することは大切なことである。ギャンブル依存症、アル中患者などの問題は、人間関係のなかでのトラブルなどの精神的疾患である。

  それは、現代的社会的病理現象である。人々の心の病みが蔓延している。そこでは、精神的疲れ、癒しの世界が求められている。この癒しも経済的格差のなかで、すべての人々に機会が提供されているわけではない。日常的な場を離れての癒しという様々なふれあい、豊かな環境での自然や文化的学びは、孤立化した精神状況を解放して、視野を広げていく。

 弱肉強食の競争社会、成果を常に求められての業績主義的な管理主義社会が生み出されている。現代の資本主義も矛盾は、都市に集中して、経済的格差の貧困ということばかりではなく、人間関係からの精神的な貧困化が生み出されているのである。

 現代の民主主義は、制度の問題ばかりではなく、人間らしく生きるための精神的な豊かな環境、個々の文化的な様々な充実が必要になっている。ここには、価値の多様性、異なる文化や宗教の寛容性、楽しく対話のできる環境が求められているのである。自然や文化の癒しとして農村の再評価があるのである。

  大都市の暮らしは便利であり、物質的にものが満ち溢れている。一見、自由に楽しんで暮らしているようにみえる。映画館や文化ホール、音楽会、美術館、博物館などのさまざまな文化的な催しが行われている。

   最先端の病院もあり、大学も集中している。しかし、都市の人々の生活は全てが生き生きと楽しく人間らしく暮らしているようにみえない。人々の暮らしのなかでの絆や地域の連帯ではなく、個々が自己欲望と競争のなかでバラバラにみえる。ここには果てしない人間の欲望が渦巻き、それを駆り立てている。

  自己欲望からではなく、利他を考えながら相互依存関係や自然の恵みのなかで生きてきた農村の暮らしにふれる学びが人々の心の病みの解放に効果のである。

  大都市は、根本的に格差矛盾と孤立化の社会である。当時に大きな地球的な面からみれば日常生活そのものが環境破壊を作り出しているゾーンである。農村の過疎化のなかでの危機の認識と同時に、都市の暮らしの矛盾を直視することが大切なのである。

  この都市と農村の矛盾を統一的にとらえていく学びは、社会教育として積極的に行って、未来への展望、都市と農村の交流と連帯ということがある。

   まさに、この危機のなかでで新たな地域的生活機能、文化の再構築などからの視点から未来への農山村社会の構築の課題がある。これらは、現代的に地域住民自治の文化的要素として位置づけていく必要性からである。

   ここには、狭い地域閉鎖的な見方ではなく、広く大都市と農村の交流という全国的な視野と市町村自治を越えての国のあり方にも関係してくるのである。

  伝統的な地域の祭りは、地域の暮らしの共同体の営みの物質的基礎をもって存在していたのである。それらは自然破壊の環境問題に立ち向かう地域文化の再生でもあり、大都市で暮らす人々の交流による心の糧にもなる。地域文化の自然に対する畏敬や伝統的地域の暮らしの営みの文化的再評価にもなる。

  この再評価のなかで、新たに現代的自然生態系に即して科学的技術の応用による地域経済の活性化にもなる。このための住民参画の自治が求められていくのである。バイオマス発電、地域資源の積極的な探求、新たなセルロースナノファイバーなどの学習など未来への地域の再生の視点も重要なのである。

   

バイオマス発電・小水力発電の具体的事例

 新しい農山村のバイオマス発電として、焼酎工場でのバイオマス発電がある。ここでは、肥料として、牛フンや焼酎かすを発酵させて地域の農業に還元している。

  霧島の焼酎工場の事例は、地域のエネルギー2000世帯分に還元している。南九州の焼酎工場、その他のバイオマスエネルギーの可能な食品廃棄物、食品工場の廃棄物、鹿児島県内全体の畜産物の糞尿などを具体的に数字としての可能性のエネルギーの産出量を求めていくことも必要なことである。観光牧場である高千穂牧場は、牧場の糞尿の醗酵を利用してのメタンガスで、発電をしている。

   これらのの実践が南九州全体または日本全体に拡がっていけば大きな再生可能エネルギーになる。数字を示しながらの具体的な説得力も同時に求められている。バイオマスを実施している焼酎工場は、自由に見学できる。また、学習館を設けている。交流のための市民広場も整備している。

  観光農場も高千穂の峰のすそので、動物とのふれあい、乳製品の加工工場、バイオマス発電も見学できる。これらの見学を積極的に取り組む姿は、人々が理解していくのに大いに役にたっている。まさに、人々の学習の場に機能している。

 さらに、地域の用水路や地形の段差の利用を小水力発電して、霧島市重久の110メートルの落差を利用しての発電所がある。これは水害の防災機能を兼ね備えたものである。霧島山麓には、戦前から山麓での自然の傾斜地を利用しての水力発電所がある。それは、いまでも活用されている。

 その発電所は、霧島第1発電,霧島第2発電,水天渕発電、小鹿所発電、塩浸温泉発電、新川発電など数多くあったのある。自然の傾斜地を利用しての水力発電である。地域の集落のエネルギーを自給する取り組みなどもある。旧霧島田口の集落の用水路発電がそれである。自然の地形は、多くの小水力発電としての利用が可能である。また、傾斜地の多い集落では、用水路を利用しての発電もできる可能性が高いのである。

 生産法人による農業とのシャア太陽発電も貴重な取り組みである。これらは、地域循環のエネルギーのしくみづくりの基盤になる。そして、新たな地域経済の活性化になり、雇用も増大していく。

  さまざまな再生可能エネルギーの取り組みの障壁になっているのが、安くて合理的な大量発電という幻想的な宣伝が原子力発電やメガソーラーである。原発は、福島の事故がそのことを教えている。メガソーラー発電は、日本の自然環境を破壊して、自然災害の大きな原因にもなっている。これらは、なかなか幻想を払拭できない強力な宣伝と政府の金配りの財政誘導があってやめていくのに難しい問題がある。

  ひもつき補助金、多くの財政誘導政策が地域住民の自立的学びを奪っている。この矛盾を直視しての国の財政民主主義をどう確立していくのかということである。

   原子力発電反対と同時に地域での再生可能のエネルギーの具体的な施策が地域の自然条件にあわせてつくりあげていく学びの課題がある。このさいに、住民の暮らしの自立の視点からの財政民主主義の視点は、欠かせない。

  この実現には、働く人々、地域住民の相互の学び、矛盾のなかからの具体的解決のための相互の協同の学びが不可欠になる。 地域住民間の矛盾、それぞれの企業と地域住民、地域住民と行政や公的な機関との矛盾も多い。

  矛盾の解決には、新しい未来創造の地域社会がある。大量の焼酎かすは、工場にとっても大きな悩みをもっていた。被害は、漁民や地域住民であった。

  観光牧場の近くは別荘や昔からの集落があった。臭いのことで、地域の人々は悩まされた。発酵によるバイオマス発電がそれを解決したのである。年間150万人訪れる観光牧場のエネルギーは、バイオマス発電で間に合うのである。

  

過疎化での新たな山の再生の可能性

 山村地域では、都市と農村という不均等発展からの著しい格差のもとで、過疎化や農村の貧困が起きていく。これに伴って、山林も荒廃していく。山の再生・活性化は、大きな課題である。

  生産性や効率性ということからは、農業と工場、都市と農村の不均等発展は、避けられない。工場と農村の援助は、社会的に公共的コントロールということから、国家的に財政的援助することはいうまでもないことである。

  ここには不均等を是正するための国家の役割がある。都市と農村の不均等発展の学びは国家としての食糧自給率向上や農村のもつ環境保全的役割、癒しや教育的役割から国家的課題になってくる。

 その学びは学校教育として子供の発達段階での自治と参加民主主義による民族的、国家的自立の課題として必要なことである。

  木材の輸入は、日本の需要の70%である。日本の森林が荒れて外国産の安い木材が入ってくるのである。セルロースナノファイバーという新しい未来型の工業素材が開発されているが、単なる経済利益の効率性からではなく、日本の森林資源の活性化、自然循環が重要である。

  学校林野も存在して、子供の成長や教育活動に林野は、大きな役割を果たしてきた。日本の農山村の教育の大きな特徴であった。若者組や青年団通過儀礼としての世俗から離れての山に籠る文化があった。

  現在では、多くの学校教育では森林の教育的役割が無視されている。森林行政と社会教育行政との連携もない。山村の地域住民は、体験学習として、森林の教育的役割の問題提起をしている。みどりの少年団が十分ではないが生まれている。森林組合などが積極的に青少年の自然体験学習として、環境問題の具体的解決方法の森林の役割を教えている。

  地域住民は、学校教育や社会教育の行政に体験学習や環境学習をよびかけている。森林関係の行政職員もその学びに協力している。学校の先生や社会教育職員と住民の学びの意識に大きな開きがある。

 

社会教育職員の仕事の本来的役割

  公民館は、趣味やお稽古の講座が中心である。社会教育の公民館などは趣味やお稽古などの講座や催しがほとんどである。暮らしの福祉や医療、環境問題などの実際生活に結びつく学習から遠くの存在である。

  趣味やお稽ごとの講座や催しは、広い意味での豊かな生きがいをもって文化的に暮らすことである。それらは、社会教育として独自の役割をもっている。それを否定できない。これらの活動が健康保全機能やシニア世代の趣味の充実として、生きがい対策になっていけば、それなりの地域での暮らしの充実の学びとして役割を果たしていくこくになる。決して趣味やお稽古ごとの講座を否定すべきことではない。

   しかし、その講座や催しの工夫も必要ではないか。これらは、自主的なサークルや地域の人材を生かして、さらに、民間のカルチャーセンターの活用、自治会などの自主的講座などを大いに生かすこともできる。

  社会教育職員は、実際生活に即して、住民の学習権の保障を担う専門性である。その専門性は、地域の暮らしや地域振興の学びの地域教育計画、住民の学習の組織化、コーディネーター的役割、生涯学習ということからの人間の発達論、様々な学問分野の基礎的な教養性が高く求められているのである。

  一般行政は、啓蒙的な政策遂行的教化主義になりやすい。住民自治による学習権として、学びによる参画民主主義にはならない。 社会教育職員の専門性は、地域の暮らしと結びついた地域の学習計画とその組織化、学習方法のの設計が本来の仕事なのである。

    一般行政と結びついての地域の振興計画とその実践の学び、住民の参画民主主義のコーディネーターとしての社会教育職員の役割がある。

  例えば、環境問題の学びは、それぞれの関連行政の仕事であるという社会教育職員の意識が強い。学校教育の先生も教科書、学力向上で忙しい。地域の教材開発や地域での自然体験学習で命の尊さ、自然の恵みを実感をもって教えることが弱い。

  パソコンの導入などで教育機器が一層に実際の生活実感や体験などから離れて、バーチャル世界での日々の暮らしから実感をもっての理性の発展から遠くなっている。喜び痛み悲しみという人間の感覚的感情から感性に、そして、理性へと発展過程をとおしての学びが薄くなっている。

 

地域住民の暮らしを守る運動からの主体的学び

  大規模な太陽光発電霧島神宮周辺の山で外国資本によって企画された。土地をもっていた人々は生活資金が欲しいということで売った。これも地域の矛盾として、悩むのである。

  旧霧島地域には天孫降臨ニニギノミコトを祀る霧島神宮がある。サルタヒコ巡りの行事も行われている。田植え行事、六月灯、夏祭り

収穫祭など、さまざまな祭りの行事があるのである。

  この神宮の宮司さんもメガソーラーに積極的に反対署名運動に参加した。神宮にお参りにくる参拝者に反対署名の看板を出して協力を願ったのである。

  メガソーラー予定地の大山の麓の集落自治会も反対の表明して陳情をした。地域には、お寺の住職たちと隠れ念仏の祈りの場の洞窟の6ケ所の調査などさまざまな遺跡巡りをして、地域の人びと歴史文化の大切を学びあってきた。

  これには霧島神宮の懐の深さがみれるのである。薩摩藩が弾圧して、隠れ念仏になった人々を霧島山麓の人びとはかくまったのである。霧島六所権現の多元的な信仰を包み込む精神があるのである。 

  神仏混合という古代仏教だけではなく、浄土真宗なども包み込む心の深さがあるのである。六根清浄という自然の恵みのなかで精神を豊かにしていく営みがあるのである。

 これらの歴史文化の学びの蓄積のもとに、メガソーラー反対運動の輪の基盤があった。霧島神宮には年間200万人の参拝者が訪れる。観光牧場や観光果樹園、たまご牧場なども盛んである。新住民が霧島の自然や歴史文化に魅せられて、移り住んでいる。その新住民の典型が別荘地帯の人びとである。

 また、新しいレストランなども都会から移り住んだ人びとが始めている。うなぎ屋、文学喫茶・レストン、スイーツの店、イタリア料理店、ピザ店、カレー店、しゃれた家族レストランなどさまざまである。古くからあった店の多くはつぶれている。

 旧霧島町の地域全体は過疎化して、人口減少は止まらない。60代以上の昔から住んでいる人たちに聞くと、地元に残って商売や農業をやることは恥ずかしいことであるという意識があったという。学校教育では、都会に出て、立身出世していくことが求めらられたのである。

  霧島の森林には山神が宿り、水神が祭ってある。麓には山から降りてくる田の神がいる。農民は豊作祈願の神様にさまざまな感謝と祈願の行事をする。感謝の気持ちで地域での収穫祭があり、稲穂をもって高千穂の山に登る。メガソーローの反対運動では、地域の歴史文化や自然の恵みに感謝する祠や遺跡などの調査で、その深さを再認識したのであった。祭りの行事は、地域の人々の絆や伝統的な文化の継承の学びとして、大きく役割を果たすのである。

 メガソーラー反対運動は、 結果的に地域住民の学び、度重なる会合によって、対象となる霧島神宮や別荘の住民または地域の農民、観光にたずさわる人々を中心として、反対運動が広がり、市議会議員全員と市長の反対で計画は頓挫した。

  これは地域住民の未来への地域づくりのを求めてことになった。メガソーラーに反対する運動を積極的に展開しながら、未来への地域振興策を模索していく一つの事例である。全国にはさまざま地域住民の未来への地域づくりの学びがあると考える。

  メガソーラ反対運動は、単に自然や森林を残すという消極的な意味でではなく、森林を活用した地域の未来へ創造の模索の学びでもある。自然のなかで生きる人間のあり方を長期滞在型の観光の工夫で出来ないか。

  都市から山村への子供の学習体験事業として出来ないか。心が疲れた働く人々がのんびり山村で滞在しての心のケアは、出来ないか。さまざまなアイデアが起きてくるのである。観光のあり方も一過性の景色の素晴らしいことだけではなく、心の豊かさを自然のなかで癒す、農業で汗を流しながら癒すという取り組みなどが必要ではないかと。

   

地方の労働力不足と外国人労働者への学び援助

 地方では、とくに農産漁村では深刻な労働力不足である。外国人労働者労働者に依存しなければ地域の経済はなりたたなくなっている。いうまでもなく、外国人労働者労働者の大きなハンディキャップは、日本語と日本の生活習慣や文化の違いからの大きな行違いである。

   この問題の解決には国際交流の行政職員のイベント活動や英語教育ではない。日本語の教育や日本文化を職場を基礎に教えていくことである。これには教育労働の経験や若者たちの地域の未来への熱意ある人々のボランティアが求められる。行政職員や外国人労働者の管理の機関では対応してくれない。現実は、検討するという回答であるが、なかなか進まない。

   住民による外国人労働者への日本語学習は、こみコミュニケーションが円満にいくように、仕事の基本の日本語が理解できるようにしている。「おはようございます」。「お願いします」。「ありがとうございます」。  このように丁寧なことば、感謝のことばを大切にしている。乱暴なことばは使わない、一方的な命令ことばも使わない学びを指導している。 

   日本人と外国人労働者の相互学習に気配りをしている。観光農園でも多くの外国人労働者が朝の挨拶でおはようございます。今日もお願いしますということばが日本人にも大きな影響を与えている。  一緒に旅行することも出来るようになる。ベトナム人と日本人と結婚することも生まれている。

 

地方自治の未来への展望と暮らしの社会教育の充実・参加民主主義の社会教育型国家像

   地方自治の未来とは、具体的にさまざまな先進的に事例を普遍化し、概念化していくことが必要である。南日本新聞珠洲市の半世紀前の原発反対運動が紹介されていた。能登半島地震を受けて、その反対運動の正しさが実証されたということである。

  ここにはふるさとの力という住民自治のことが問題提起されていた。自然の恩恵のなかで自然を大切にしてきたエコロジカルライフをはじめふるさとのなかで暮らしてきた人々の暮らしのなかの営みを大切にするということである。また、掟という住民のくらしの伝統的モラルには、現代的に再編成してことが求められるのではないか。

  とくに大都市の形成という超自然的現象のなかで未来への新たな地方自治の模索が不可欠である。地方やふるさとの連携、産直、都市と農村の持続的な定期的交流も含めて地方自治のあり方を深めていくことが必要である。

  鹿児島では協同組合間の学びが労働者協同組合を中心として、ネットワークの動きがある。協同組合は、本来的に組合員の学びの機能が不可欠な組織である。社会教育職員との連携は、求められているのである。現実には進んでいない。

  社会教育労働を狭い公民館などの行政として、そこに配置された職員のみに求めるべきではない。新しい国家像として、暮らしの人間らしい豊かさと人間的自由を求めての地域の参加民主主義を作り上げていくことである。

  この学びは地域の暮らしや経済に関わる様々な機関・組織団体と関わり、行政組織も狭い専門的分業された領域主義からの脱皮が不可欠である。

  公民館職員や教育委員会の社会教育の専門性は地域の学びで重要な役割を果たす。その可能性は、大きなものがある。幅広くさまざま機関分野の組織や団体と連携して、協同で学ぶこである。

  そのあり方を模索していくことが求められる。 これらには社会教育職員の幅広い知見とエコロジカルライフという住民自治の模索も必要である。社会教育の実践者として、個人の学びという狭い枠組みでは地域の住民が協同で学び自治を、それぞれの地域課題に即しての対応していくことが求められる。

  実際には価値観や認識の違いなども多様であるのが現実である。この違いを意識して住民の自治ということからの協同の学びの組織化があるのである。

 学校のように教室という学びの場が設定されているわけではない。学びの協同において、価値観や認識の違いが、さらに、興味関心という学びの参加意欲なども極めて大きく異なるのである。地域自治ということを尊重しての学びの協同を考えていけば、その学習の組織化は難しい側面が大きくある。学習の共同体は同じ興味関心の意欲によって成り立っていくものである。

 社会教育の実践者は趣味やお稽古ごとの共通の文化的関心意欲の場合は容易に講座として組織しやすい。講座方式の場合は同じ興味関心によって集まってくるのである。

  地域課題を解決していくには、同じ興味関心という意欲ある人々によっての学びの論理ばかりでなく、興味や関心のない人々を学びに引き込んでいく論理が必要です。住民自治ということからは参加民主主義ということで、興味関心のない人々を包み込んでの学びを構築して難しさがあるのである。

   社会教育・生涯学習の研究者にとって未来への地方自治の創造の研究、実践的な政策提言も含めての幅広い機関や団体などの連携や協同の学びが求められている。

  地方自治の住民参加の充実は、教育委員会の社会教育行政の狭い論理ではなく、地域住民の様々な暮らしのための行政分野の学びが不可欠である。住民の学びなく、住民自治の参加はない。地域の民主主義の充実もない。

 さらに、財政の民主主義を地方自治から作り上げていくことも大切なことである。制度の民主主義だけではなく、財政的に住民のために奉仕していくことが求められるのである。

  税金の取り立ても同じである。貧富の格差が現実にあり、累進課税ということで、所得の高い層が税の割合が高くなっていくのは当然である。社会保険も同様である。地方の暮らしの自治の住民参加から中央の税の問題や、国の財の在り方や国の政策転換も大きな課題である。

  地方自治の住民参加の充実から国の制度や政策、国の財政の民主主義が不可欠なのである。これらは、国民の学びがなければ実現していかないのである。

  これらには、様々な学びがある。それらが、相互にどのように関係していく学びであるのか。その問いが、社会教育の専門的な労働に求められているのである。学びの組織化は社会教育の職員の大切な専門性である。

  そして、学びによって、地方自治の住民参加がどのように充実していくのか。その実践をどのようにしていくのか。ここには、地域の民主主義のための社会教育の実践がある。

 この研究姿勢をもっての理論的構築が切実に求められる。社会教育・生涯学習研究所の社会的役割もここにあるのではいか。 日頃に同じ関心をもつ人たちの研究会をオンラインなどをとおして気軽にできないかと。また、大切なこととして、島田先生の問題提起について考えていくことが必要がある。
   社会教育型国家像については、すでに、社会教育評論のブログでのべている。そのブログは、次に示しているので参照してもらえれば幸いである。

https://yoshinobu44.hateblo.jp/entry/2021/02/24/220358

騙し謳歌の社会からの解放の学びの大切さについては、次のブログに書いている。

https://yoshinobu44.hateblo.jp/entry/2023/06/13/092813