はじめに・生きがいへの自由を求めて
現代社会の矛盾
あなたは自由ですかときっぱりと胸をはって、自由ですと答えられれば、本当に幸せと思います。現代に生きる人びとの多くは、自由なのかと迷うことでしょう。何が本当に自由なのかと戸惑うこともあるのでは。拘束のない、気まままに生きていることが自由なのかと。自分の心が充実して、毎日が楽しく生き生きしていれば問題はないと考えますが、何か将来に対する不安、心の中にさびしさがあるのではないでしょうか。それが、何からくるのかと、ああでもない、こうでもないと、錯綜するのではないか。
現代の日本社会は、さまざまな社会矛盾があります。仕事や生活に生きがいをもてずに、孤立し、不自由を感じることはないでしょうか。現代日本では、そのような不自由を感じる人が数多くいるのではないでしょうか。この原因は、新自由主義のもとでの、長時間労働、弱肉強食の競争、生活苦、将来への不安、格差拡大、差別などがあると思います。
ところで、人類の歴史で、近代社会の形成は、市民的な自由の獲得でした。それぞれの国によって歴史も異なります。しかし、実際は、資本主義の自由競争で、弱肉強食の実態が起きて、格差拡大をしているのです。その競争社会の過程では、自由時間の極端の減少、労働疎外や仲間の絆がくずされる現象が起きたのです。仲間との絆や連帯のない、孤独の状況で、拘束を受けない自由の状況が作り出されるのです。そこでは、自由からの逃走意識が起きるのです。
さまざまな差別は、競争社会のなかで自己の弱さを見せられないということで再生産されていくのです。負け組に多くの人がなっていくのは資本主義的競争の矛盾の結果です。
多くのハンディキャップをもつことや、個々の能力的・努力の弱さ、貧困の克服は、矛盾をもつ人々の団結と連帯が必要です。団結と連帯で、さまざまな資本主義的矛盾の人間尊厳から解放されるのです。このことがなければ社会的さまざまな差別は拡大再生産されていくのです。差別の克服は、意識の問題だけということに狭めてはならないのです。資本主義的矛盾によって再生産されていることを決して見逃してはならないのです。
さらに、都市と農村の対立、植民地支配がありました。その後も先進国と発展途上国の格差による民族差別が続きます。先進国での発展途上国からの外国人労働者の差別が起きているのです。都市と農村の対立で、農山漁村の過疎化が起きて、農村では高齢者の暮らしが厳しく限界集落の形成がされているのです。
人間が自由であることは、平和であることが前提です。戦争は、国民全体が不自由になります。戦争を防止することは国家的に自由を保障することで。この意味で、日本国憲法の9条は人類的理想です。この理念で、平和外交を行っていくことは自由を守る国家の大きな責任です。とくに、隣国との平和友好は、極めて大切です。
実際は、人間らしく生きるための自由を感じる人は、ごく少数にすぎないと思うのです。
理性的自由を求めて
欧米先進国での市民革命による近代社会の歴史は、資本主義的大工業制によって、長時間の過酷な児童労働や女性労働の動員が行われました。
それは、人間の尊厳を逸脱したことで、自由ということから非人間的な労働強制ということで、人間の尊厳から真逆のことが起きたのです。このことによって、労働力の再生産に大きな弊害をもたらしました。この人間的な改善のために、社会的な運動もおきていくのでした。過酷な長時間労働からの労働時間短縮は、社会の大きな課題であったのです。
大企業の経営者、中小企業企業の経営者は弱肉強食の資本主義的競争のなかで、争いに巻き込まれていくのです。ウエバーがのべたように禁欲的ピューリタンニズムのような資本主義の精神は、絵に描いた餅になっているのです。拘束を受けない気ままな自己欲望を払拭していかねば厳しい争いのなかで孤立した孤独の精神におおいつくされていくのです。
経営者も心の葛藤をもって人間的善意が心の解放をもたらすのです。その証として、論語と算術、人間尊重の経営、社員と共に学ぶ経営などが評判になるのです。それらは、経営者の精神的な模索です。資本のもつ蓄積拡大の欲望のなかで、人間尊厳の精神と葛藤していくのです。
ここに、修正的資本主義ということでの社会的コントロールによる自己欲望、支配欲、出世欲、名誉欲が抑制されていくのです。ここには、資本主義での理性的知性による自由への労働者や民衆との社会的運動との調和的な基盤があるのです。社会主義・共産主義の志向が社会全体のなかで調和によって、一歩一歩前進して、人間尊厳の社会的ルールの確立があるのです。
この反対の方向として、新自由主義のもとでの自己欲望や支配欲、権威欲、金銭欲・所有欲が拡大してのです。人間の自己欲望によって、争いが絶えなく、戦争へと進むのです。20世紀は、帝国主義間ごとの植民地獲得競争のなかで、資本と国家の結合によって世界戦争が起きたのです。現代の戦争も資本と結びついた世界支配、自国の権益欲、民族優位欲・拝外主義欲、宗教的支配欲などの国家の欲望をみていくことが必要です。戦争は人々の自由侵害の最大の行為です。
戦争と平和をみていくうえでの、それぞれの価値観、民族的文化、それぞれぞれのの歴史文化を認めていく調和的理性、話し合いによって、理性的自由を獲得することが求められているのです。この意味で、平和のためには外交努力の話し合いが大切になってくるのです。人間にとって、戦争ほど不自由な状況はないのです。
人間の争いが暴力に発展しないように、人びとは歴史的に努力してきました。日本の歴史も平安時代や江戸時代にみられるように国内での戦争はなかったのです。和の精神、大乗仏教的な殺傷を否定する見方や、人間のもつ自己欲望を利他の欲望の尊重、修行や懺悔の精神が争いを大きくしないような努力がされてきたと思います。
自由時間の問題
働く人々の自由時間を少しでも拡大していこうとすることや、雇用契約・労働、社会保障のルールづくりが、社会・労働運動によって、勝ち取られていくのでした。
自由に自分自身で処分できる時間の拡大は、知識や文化の獲得、スポーツによる充実感や健康保持など人間らしい生活、理性的な人格形成にとって大きな意味をもったのです。
理性的な人格の形成が多くの人びとに定着していくことは、社会的ルールの形成にとっても大切なことです。それは、新しい創造的なものを生み出し、新しい産業を形成させる力にもなるのです。
さらに、人間の尊厳を重視していくことは、人間的な文化的な趣味、工芸、観光などの人間の新しい産業分野も開いていくのです。人間尊厳の社会的なルールによる社会的な制度も充実していくのです。これらは、人間の主体的な学びによって実現していくことを見落としてはならないのです。人間の尊厳は、人間らしい文化をもった経済を発展させていくのです。
これらは、人間の社会的な自由の獲得の歴史でもあったのです。自由な時間の拡大は、青年や成人の学びの保障にもつながっていくのです。学びは、自分の労働の質の充実にもなって、単純労働から知的な複雑な労働、労働の自由な選択になっていく。労働の疎外という自己のやりがいをもって、自分の労働への社会的誇り、生きがいをもてる条件もつくりだしていくのです。単に、給料を得るという金銭的な労働従事ということではなく、労働の社会的な意味が見えるようになっていくのです。
社会的自由の獲得のジグザクの道
ところで、社会的な自由の獲得は、常に発展していくばかりではなく、ジグザクの道で、大きく後退していくこともあったのです。とくに、近年は、新自由主義のもとで、歴史的に獲得してきた社会的なルール、社会的な自由が、営業の自由、弱肉強食の競争社会の持ち込みで、民衆が勝ち取ってきた人間尊厳が規制緩和ということで、大きく後退していくのです。
このことで、現代の日本社会の実際は、長時間労働、低賃金、雇用・将来の不安などがあるのです。その結果、日常生活が、自由になれないと思う人々が数多くいるのです。生きがいをもてないことから、人生を悩む人びとが多いのです。
それは、物理的な拘束だけではなく、生活不安、進路の不安、人生での自己不信、孤立感、挫折感、負け組意識など自我喪失などの精神的面からも強く不自由を感じているのです。
現代社会は、お金で日常的生活が支配されています。自給自足の生活からすべてが自己の欲求を実現していくいは、お金が必要な市場社会です。お金がないことは、不自由さを感じていくのです。人間の幸福の実現は決してお金ではなく、お金は欲求を実現していくひとつの手段です。しかし、その手段としてのお金を得ることが目的となって、拝金主義に陥っていくのです。経済的自由は、現代社会では重要な要素になっています。
生きがいのための学習と主体的自由
生きがいは、人間として幸福実現のなかで大切なことです。生きがい、やりがいは、主体的に自由に生きることで重要な要件です。この生きがいやりがいをもつことが、難しい社会にもなっています。自分がなにをやりたいのかを模索する青少年も多く、中高齢期になっても自分のしてきたことが、思ったようにやりきれず、または、挫折して、ほんとうに自分の生きがいであったのか、やりたいことであったんかと悩む人も少なくないのです。
個性の自己発見や自分の社会的役割・価値などの探究は、生涯にわたって必要な課題なのです。自由に生きることは、自己発見という理性的な営み、学びが求められているのです。
現代社会は、効率主義が求められて分業が一層に進み、狭い目的合理的な業務遂行になるのです。それが、官僚的な社会形成いなっていくのです。人間の仕事が社会の歯車のごとく、小さな世界に人びとは閉じ込められていく状況になるのです。このなかで弱肉強食競争社会の状況が加わって、人びとの精神は孤立状況になって、社会、地域との関係を持ち得なくなって、一人で悩むのです。
現代社会は、本来的に人間がもっている社会的存在、絆や連帯ということから遠ざけられているのです。自由に生きることでの仲間の形成と、自由に自己の意志によっての生きがいややりがいの社会参加ということが不可欠になっているのです。
資本主義の文明作用と新たな矛盾
資本主義の形成時期における市民的な自由は、人類が獲得した歴史的な大きな成果です。封建的な社会的拘束からの自由は、人間の幸福実現にとって大きな画期でした。自由に選択できること、自分の意志で自由に行動できること、集会結社の自由、表現の自由、意見発表の自由は近代社会形成のときの市民革命によって達成されました。それは、すべての人間にとっての知性をもった人格発展の発展、幸福実現にとっても不可欠なことです。
さらに、資本主義的な営業・経営の自由などは、市場経済の発展から市民的自由として、生まれて行きました。それは、人間にとっての幸福実現に不可欠な要素です。
社会的自由保障のためのルールは、近代社会で形成された人間の尊厳、幸福実現をすべての人びとに実現していくためのものです。しかし、資本主義の発展は、弱肉強食の競争を伴って、新たな格差社会をつくり、競争の結果からの多くの負け組の社会集団をつくりあげていくのです。競争主義の結果は人びとの精神的な荒廃をつくりだすのです。励まし合いながら切磋琢磨していく向上精神とは本質的に異なるのです。
また、所有・経営と労働の分離が進み、新たな疎外状況もつくられていくのです。労働過程における自由ということは難しい課題になっていくのです。分業体制も大きく進行していくことによって、自己の労働の社会的な位置も見えなくなって、経営からも疎外されていくのです。
さらに、格差が進んでいくことで、失業問題も生まれ、社会的に人間らしい文化的な生存権も大きな課題になっていくのです。経済的に不自由が増大していくのです。
この経済的な不自由の状況で、大量生産・大量消費という資本主義的な消費欲拡大があおられていくのです。それは、一層に借金などを膨大にかかえていくのです。生活のいびつな貧困が生まれ、お金をめぐっての退廃状況が起きていくのです。不自由性が消費欲拡大によって、詐欺や人をだますことが金銭欲のために気軽に行うことなどの社会的な混乱が生まれていくのです。やりたいことをやるという自由の錯覚がはびこるのです。
自由の侵害は、社会的な市民的自由の制度の保障のルールという次元ではなく、生存権保障などの経済的な社会的な格差からの自由の課題が出てきています。個々の自由を保障していくために、他人の個々の自由、社会としての生存権が保障されない人びと、差別されている人びとの社会的な意味での自由の視点と制度的な面ばかりではなく、精神的な疎外感、孤立感、不安感なども自由をかんがえていくうえで大切になっているのです。
また、それらには、個々の感じている拘束感、個々の欲望からの自由の発想からではなく、社会的に考えていく理性的な行為、理性的な他人の自由を考えていく道徳的な責任が必要になってくるのです。
それは、宗教的な感情や感性だけではなく、学びによる人間としての人格の発達、理性的な行為ができるように科学技術の習得や社会的法や制度の認識の向上が要求されていくのです。
バーリンの自由論を考えるうえでの現代の自由侵害状況
本論では、バーリンの「自由論」1と2、小川晃一他訳(みすず書房)を読み、それを、私なりに要約しながら、現代社会の自由をめぐる社会的な問題を論じていきます。序論から、二つの自由概念などバーリンの自由論にそって、のべていきます。
人類が資本主義社会形成の近代社会で獲得した自由は、極めて大切な課題ですが、その実現をすべての人びとに達成することは難しい状況です。資本主義の発展は、競争の結果、多くの負け組をつくりました。それは、社会のなかで、人びとの格差拡大をつくりあげていきました。階級的、階層的な差別も生まれていきました。
そこでは、人間の尊厳、人間の幸福からみると多くの矛盾をもっているのです。つまり、個々の自由と社会的な生存権から人間尊厳の侵害が、現代社会の新自由主義のもとでの資本主義的矛盾が噴出したのです。
新自由主義による自己責任ということで、弱肉強食の競争社会で、多くの人びとが生存権を侵されて、経済的な理由から文化的に保障された生活ができないという社会的に不自由な人びとが増えているのです。まさに、社会的自由が大きな課題になっているのです。
資本主義的な営業の自由や選択の自由が、弱肉強食の競争主義競争に利用されているのです。封建的な社会制度から人びとが獲得した営業の自由や選択の自由という市民的な自由が、ある階級・階層にとっては、自由を謳歌している状況であるが、多くの人びとには不自由を社会的に生み出しているのです。
ここでは、すべての人びとに社会的自由が、保障されない状況が生まれています。効用主義の営業の自由は、資本の独占によって、特定の人びとの自由裁量によって、国際的な資本、大企業の経済活動が行われているのです。政治的権力を支配する人たちは、個々の利益のための世話、財政的利益誘導、自己組織維持強化をすることによって、自らの地位を維持しようします。
資本の独占集団は、政治的権力者の経済的財力を集めていく動機があります。いわゆる社会的にオープンにならない個々の権力を支配する政治家の裏金問題のような不正を産み出す基盤があるのです。
人びとの生存権保障のためには、社会的ルールが必要になっています。つまり、自由とルール・規制の課題が生まれていくのです。社会を経済的に支配する国際的資本と大企業における営業・経営の自由は、人間の尊厳、生存権の保障、解雇規制の両立が求められています。
現代日本では非正規職員の拡大や解雇規制撤廃議論などが国際資本や大企業の営業・経営の自由論から起こっているのです。社会的自由の保障には、市民的な自由のルールの規制が必要になってくるのです。
それらを保障するためには、労働者が自立していくための労働組合の団体交渉権など、一定の社会的ルールの規制がなければ有効に機能しないのです。
経済的に立場の弱い働く人びとの権利は、自らの仲間との・団結連帯によって保障されていくのです。それがなければ、競争主義のなかで分断されていくのです。分断は、一層に自律性を失って従属し、拘束感を増して、個々には孤立していくのです。
働く人びとが自由になっていくのは、労働権の確立という団結と連帯によって、資本との話し合いによって、社会権が保障されていくのです。それは、いわゆる働きがいをもって、自由に生きていく保障にもなっていくのです。
この働きがいをもつことによって、労働のなかでの創造力を発揮できる条件や経営への参考意見ができて、社会全体への生産力発展に貢献していくのです。経営者にとっても労働者の権利を尊重するためには、企業の大きな力になるのです。
労働者ばかりではなく、中小企業や自営業者・農民など、国際的資本や大企業に、経済的に支配される人びととの関係に、競争主義の矛盾があるのです。ここでは、協同組合方式や団体・同業組合方式などで自らの社会的立場を強化していく連合や連帯が求められているのです。 個々の自由ということから、社会的に、集団性をもっての団結や連合、連帯という個々の自由を保障していく社会的な枠組みが必要になっていくのです。その団結や連合、連帯を目的意識的に起こさなければ、競争の結果、多くの人びとの負け組が生まれて、孤立現象が起きるのです。
現代の世界的な情勢は、先進国と発展途上国、政治的仕組みの多元性があるのです。それぞれの国の歴史があり、文化も価値も多様です。先進国と異なって、多くの発展途上国は、植民地からの独立した国です。以前は先進国の植民地でした。
そこでは、生産力発展の違いや教育の普及の程度などさまざまです。何が正義であるのかということでも難しい問題があります。世界的緊張のある情勢で、戦争をしないで、外交的努力、話し合いで、解決していくという基本が今日の世界情勢の正義です。自由・民主主義と独裁ということで、戦争と平和の問題が深刻になっています。戦争は、国家によるもっとも深刻な集団的な自由の剥奪です。
バーリンの消極的自由論と積極的に自由論
バーリンは、消極的自由と積極的自由の二つの概念を提起した社会学者です。バーリンは序論では、彼の自由論の批判に答えるということで、論を展開しているので、非常にわかりにくい論述になっています。まず、消極的に自由についての評価を批判に答える形で展開します。
この意味では、かれが、消極的自由論で展開した積極的な評価として、政治的自由としての権力などから干渉されない拘束や虐待からの解放、みずからの意見を自由にのべられることや、職業の選択を自由にできることを大切にしたのです。この件については、バーリンの二つの自由概念のところでのべます。序論での消極的自由については、次のようにのべます。
「消極的な自由論は、社会的な政治目的、統一、調和、平和、合理的な自己開発、正義、自治、秩序など共通の目的のための協力に旗色が悪い。善なるものは、互いに結びつき、相互に排斥しあうことはない。
それは、公私を問わず理性的な行動の目的だ。決定論問題の論点は、自由に選択できる意志と歴史における道徳的責任観念をもって、理性的に判断することで融和が必要である。
「 歴史は、人間の意図、人間の動機、選択をとおして、つくられていく。それは、非人間化社会の力に還元できるものではない」と歴史がつくられていくうえで、人間の意図、動機、選択の意志をとおしてであることをバーリンはのべます。
かれは、自由論について、平和、正義や自治、秩序などの共通の目的のために協力していくことと、それらが自由との共立になることを大切にしているのです。このためには、序論では、積極的自由としての理性的な行動の目的が不可欠というのです。つまり、歴史における道徳的責任観念、理性的な判断は大切になってくるのです。
営業の自由の意志には現代社会の新自由主義の格差や孤立など、さまざまな矛盾があるなかで、人間の尊厳、生存権、社会保障などの道徳的責任が大きく問われるのです。
選択の自由と社会的・政治的自由
さらに、バーリンは、選択の自由と社会的・政治的自由について、次のようにのべます。「社会的・政治的自由は、自由な選択の領域が必要であり、この領域を縮小することは政治的自由と両立できない。政治的自由も、選択の自由も本来人間の観念に内在するものではなく、歴史的に生成するものである。資本主義文明の新しい産物である個人の権利、市民的自由、個人の人格の尊厳、プライバシーや対人関係の重視という価値体系のなかで生まれた」。
政治的自由や選択の自由は歴史の産物であるというのです。つまり、資本主義文明の生産力の発展の結果の産物とみるのです。それは、人間の観念に内在するものではないという見方です。
ところで、 この資本主義の発展は、新たに市場経済のなかで、資本と労働、労働と経営、所有・経営・労働などさまざまな社会的矛盾を産み出していくのです。
そして、社会的矛盾が国家の財政規模が拡大していくなかで、支配政府の政治家と官僚機構も結んで、権力欲や金戦欲、搾取欲も含めて矛盾が大きくなっていくのです。
とくに、官僚機構は、事務的な専門性、効率性などが進んで、国民との暮らしから遊離して、ますます官僚的に目的合理的に人びとを支配していくのです。官僚機構からの日常的な拘束は、税との関係や補助金を受けた場合に大きくなっていくのです。
それは、企業においも巨大化することによって、組織の官僚化が進み、同じような官僚制の現実の仕事から遊離した弊害の現象が起きていくのです。 企業の強大化によっての官僚的拘束の問題があります。会社を辞めることによって解放されるようになりましが、それは、失業という問題に直面するのです。
自由になるためには、職業の選択の保障のできる職業訓練や就職情報、職業あっせんを受けられる権利が必要なのです。つまり、安心で転職できる条件が働く人々の自由の条件になるのです。労働力の流動化は、働く人々の職業選択の自由のための職業教育が保障されていなければならないのです。
ところで、行政的な官僚機構の拘束は、税金などの煩雑な業務からの行政事務命令にみられるように、暮らしに行政が深く浸透していることで、なかなかぬけることができないのです。
競争的な補助金を受けた場合には、なおさらに、厳しい行政的な煩雑な些末な業務命令や業務の形式の強制が補助金を司る為政者の恣意によって行われていくのです。為政者に深く従属していく構造が補助金を介して大きくあるのです。
競争的な補助金の仕組みは、厳しいそれぞれの活動財政のなかで一層に補助金を司る為政者に大きく振り回されて、それぞれの活動の自立性が失われていくのです。
バーリンは自由の観念が歴史的な産物であるということを、生産力の十分な発展ということが必要であったことを次のようにのべます。
「食料、燃料、家、それに最小限の安全がないところでは、契約の自由とか表現の自由との関心は、ほとんで期待できないのである」。契約の自由や表現の自由は歴史的に形成されていく必然性があったのです。
積極的自由の観念は、自分が独立した人格を理性的認識によってもってことが不可欠です。それは、高次の自我であるとしています。そして、消極的自由は、経験的・心理的な低次の自我であると次のようにバーリンはのべます。
「歴史的に積極的な自由の観念は、自分が独立した人格をもっているという理想的自我・高次の自我をもって、積極的な活動である。経験的、心理的な低次な自我とは区別されるものである。 共通の福祉、社会の革新的勢力、最も進歩的な天与の使命ということに同一視される。消極的自由の信条は、持続的な害悪を生じせしめることに両立することがある」。積極的な理性的な自由の観念は独立した人格をもっていることが必要とバーリンは、のべるのです。それは心理的な低次自我ではなく、学びをとおして理性的な自我をもっているということなのです。それらの行動は天与の使命として、歴史を作っていくというのです。
積極的自由を高次の理性的自我へ
バーリンは、自我を積極的自由との関係で、高次の理性的自我と、消極的自由との関係で、経験的・心理的な低次の自我に区別するのです。そして、ここでは、消極的な自由の信条が公共的な面から、持続的に害悪を生み出すことをのべているのです。
それでは、積極的な自由の信条は、公共の福祉や人間の尊厳からどうであったのか。積極的自由は、本来の自由そのものの人類史的な人間の尊厳や幸福ということから、それに大きく逸脱して、人びとに騙して、嘘をつき、拝金主義を煽り、権力欲、搾取する欲望、金銭欲などで、目的意識的に人びとをコントロールしていたことを近代史の100年間の歴史であったことを次のようにバーリンは、指摘しているのです。
「積極的自由のチャンピオンたちが自分の信条を弁護するときにみせかけの議論や詐術を使うことがはるかに多く、消極的自由の信条者はそれをすることが少ない。
不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きものに対して、野蛮な無鉄砲な、情け容赦のないことに、利用されてきたというのである。過去100年の間に、積極的自由の信条が社会の破滅的なことをしてきたことをみることが必要である。 積極的自由の信条は、功利主義を基礎としての特権への欲望、抑圧し、搾取する権力への欲望ではない。人間の尊厳を害することからの克服としての道徳的責任をもって、積極的自由の本来の本質を取り戻すことが大切になるというのである」。
バーリンは、本来の積極的な自由を取り戻すことの大切さを強調しているのです。 自由とは、政治的な意味では、弱い者いじめ・抑圧の不在と完全に重なる。自由のみが行動を決定しうる唯一の価値ではないのです。バーリンは、積極的な自由の信条者、人間の尊厳からの自由を獲得していった本質を取り戻すことを大切としているのです。自由を考えるときに、それぞれ、人びとの幸福、人間の尊厳ということを社会的にみたときに、それぞれに矛盾することがあるのです。バーリンは、このことについて次のようにのべます。
「ひとつの自由が他の自由を挫折させるかもしれない。自由は、より高度な自由をつくりだす条件を考えていくことが求められる。ある個人ないし集団の自由は、公共生活への十分な参与、協力・連帯・友愛の求めとは、両立しないかもしれない。究極的な価値の正義・幸福・愛などとの関係で、新しい自由観念をつくりだすことが求められているのです。それは、自由そのものと、これらの条件と両立することである。個人の自由は、絶対的な意味で不可侵ではないのである」。
自由とは、協力、連帯、友愛、正義、幸福など人間尊厳の本質から生まれる基本的人権を、侵害してはならないという内容を含んでいます。自由の保障には、その道徳的な責任が社会的に広く確立していることが必要なのです。 つまり、それらの本質を前提にしての自由の存在を考えることが不可欠になってくるのです。
道徳的な責任では、自己の欲望のために、人を騙さない、嘘をつかないという人間としてのあたりまえの誰でもわかる社会的倫理が大切です。営業の自由な意志が、小自営業者などの自由競争時代から、国際的資本、大企業時代の新自由主義になっていることで、嘘や騙しの社会的倫理、社会的ルールの重視はきわめて大切になっています。
ところで、19世紀から20世紀にかけて、資本主義の発展がされていきますが、その社会的矛盾として貧困化や労働問題が起きていきます。このことから社会を経済支配する大資本に対する新しい人間の尊厳の問題が起きていくのです。社会的規制や社会的ルールづくり、組合としての集団による労働契約、労働者の権利運動が虐げられている人々から起きていくのです。バーリンは19世紀の解放的政治運動について、次のようにのべます。
「19世紀の解放政治運動は、人道的個人主義とロマン的国民主義であった。自由主義者は、教育の無限の力と、道徳的道徳の力とによって、経済上の悲惨と不平等が克服できると信じた。
反対に社会主義者は、経済資源の分配と統制の上に、根本的な諸改革がなされないかぎり、個人の側における心情や知性がどんなに変化しても不十分であるとした。 無政府主義、急進主義者は、現在の社会の支配者たちが身に着けたものが清算されなかった遺制があることから、それをなくさなければ、人間の意志の自由な社会を構想し、建設することは不可能である」と、それぞれの立場からから社会的運動の思想的立場について、バーリンは指摘するのです。
19世紀の解放運動は、人道的個人主義とロマン的国民主義で、自由主義を社会的な矛盾から考えることはなかったのです。
反対に社会主義は経済的な矛盾の根本的解決がない限り自由を獲得する解放運動はないと考えたのです。個人の知性や心情がどんなに変化しても社会的な矛盾の構造的な変化がなければ自由への解放ではないと、社会主義者の考えをバーリンは、みるのです。
また無政府主義は、現在の支配者が身につけたものを清算しなければ自由は獲得できない見方であるとバーリンは、三つのタイプを紹介するのです。自由への達成には社会制度との関係で、考えることが必要なのです。
19世紀の解放運動での市民的自由の考えは、後の社会主義的な考えの経済的矛盾を根本的に変えていく社会制度の改革ということに、市民革命での生まれてきた自由の問題を発展に考えることが必要なのです。
無政府主義がすべての社会制度を否定していく、新しい社会制度を創造していかねば社会的な自由の獲得にならないのです。
社会的な自由の獲得は、社会制度の変革でありますが、それは、人びとの意識、意欲、動機をとおして実行されるものなのです。つまり、社会的な運動として、人びとが社会制度の創造する行為によって、変わっていくのです。
相互依存性と他人の自由を尊重する大切さ
バーリンは自由の二つの概念の論文では、自分の目標達成において、他人に妨害されない消極的な自由としています。そこでは、政治的自由や経済的自由の大切さをあげています。
経済的自由の説明では、貧困の原因に対する特定の社会的・経済的理論に依存して、不公平と考えられる特定の社会的しくみで、自由が奪われていると考えられるようになるとバーリンはみるのです。
「人間はきわめて相互依存的存在であるし、いかなる人間の活動もまったく他人の生活を妨げとならないほど完全に私的なものはありえない。強者の自由は、弱者の死。あるひとつの自由は他の人の抑制につながる」というのです。他人の自由を侵害する自由の行動があるというのです。強者の自由と弱者の自由は調整が必要になってくるのです。
「ここで実際上の妥協点をみいださなければならない。市民的自由とか個人の権利のための抗弁、屈辱、公的権威の侵害、慣習や宣伝による大量催眠などの抗議は、個人主義的な人間観、消極的自由観から生まれている。強制は人間の欲望をうちくだくので悪、無干渉は、唯一の善の観念である。
積極的自由の意味で、わたくしはだれによって統治されているのか。わたくしはなにをなすべきか。でもくらしと個人の自由は自分自身によって統治されることを欲する。自分の生活が統制される過程に参画したいという願う気持ちは、行動の自由な範囲を求める願望であり、自由の積極的な概念は、からの自由から、への自由である」と、バーリンは語るのです。
個人の自由は自分自身の統治にもなるのです。自由の積極的な概念としての理性的に個人が高まっていくことが求められるのです。行動の自由な範囲は、理性的なのです。
無知の低次の自我と理性的自我
バーリンは、積極的な自由と消極的自由は、それぞれ異なる方向に展開され、両者は、直接衝突する」とのべます。そして、自我について、つぎのように説明していきます。
「真実や理想の自律的な自我と低次の自我の非合理的な衝動、制御できない欲望が衝突するのである。無知・堕落と、理性・賢明の衝突が起きる。積極的な意味での自由の自我は、国家、階級、国民、歴史の進行にまで拡大され、自己支配の積極的な自由観になっていく。
低次の自我である盲目・無知・堕落の人びとが賢明で、理性的自我と同じように利害を理解すれば社会的ルールに対して、意志的抵抗せずに衝突しないですのである。個人的な自我ではなく、理性的な理想的な目的追及の積極的な意味での自由の自我は、国家、階級、国民、歴史の進行まで拡大していくのである。自由観は、人間の自己分裂を示唆する。超越的・支配的な統制者と、訓練された服従させられる一群の経験的な欲求や情念に分かれていく。自由観は、自我をめぐる理性的な高次の自我と、非合理的な欲望を制御できない低次の自我という人間観をめぐることになっていく」。
この低次の自我と理性的な自我との衝突があることを見逃してはならないのです。いかにして高いレベルの理性的な自我を高めていくかは、実際的な体験と個々の内面的な葛藤をとおしての積極的な学びが必要になってくるのです。
人間は自律的である限り自由
バーリンは、人間は自律的である限り自由であり、その自律は理性ということで、自分に強制するというのです。
「人間は自律的である限りにおいて自由である。わたくし法則にしたがう。それは、自分の強制されざる自我のうえに、この法則を課しているのである。
この意味で、自由は服従の側面をもっている。これとは反対に、人間は自律的存在ではなく、外的刺激のままに動かされ、その選択もかれの支配者によって操作されたものと扱われる。人間は自己決定ではないものとして、扱われる。自由主義的個人主義は、自分の動機だけが統御できるもの。世間を無視して、孤立的に人間や事物をつなぐ鎖から離脱してみる。理性的賢者が個人的自由主義と同じように現れるのは、外部の世界が圧政的で、残虐かつ不正であることが明らかなときである。
禁欲的な自己否定は誠実さや精神力の一源泉であるかもしれないが、どうしてこれが自由の拡大と呼ばれるかは理解しがたい。自由の消極的な概念に固辞する人なら自己否定というものが障害にうちかつ唯一の方法ではない、障害を取り除く別の方法があるという考えが許されることだろう。
消極的自由では、自国の利益を脅かす国を征服したりする。個々の人間の抵抗がある場合に、力による暴力や残虐性で障害物を取り除くこともあろう。そのことで、取り除いた当事者が自分の自由を増大せしめることを否定することは不可能である」。
理性的自我をもって、自律的になるということは、禁欲的な自己支配として、精神力を理性によって持つことができるというのです。
自由は自己支配の側面をもっているのです。理性的賢者は、世界が圧政的で、残虐かつ不正があるときにあらわれるということは、真の理性は、人間の尊厳を守る働きをするというのです。そして、人間の尊厳を大切にする賢者をはじめ、虐げられている人々よって、暴力や残虐性の拡大を阻止するため、人間の抵抗が起きるのです。
自由を達成する方法
バーリンは自由の達成の方法について、次のようにのべます。「自由を達成する方法は、批判的理性を使用することである。その批判的理性とは、なにが必然的で、なにが偶然的かを理解することである。自由を妨げている多くの外的要素は、必然性から成り立っている。
例えば、音楽の演奏者が作曲家の目的を自分の目的としたならば、その音楽の外的な法則は服従、強制、自由の妨害ではなく、自由な運動となる。世界を支配しているのは、必然性ということを理解できない無知や非合理性の人は、情念、偏見、恐怖、神経症などに支配されて神話とか幻想の形態をとる。知識は非理性的な恐怖や欲望を除去する。」とバーリンは自由を左右する必然性のことを批判的理性としてのべるのです。
知性が非理性的な恐怖や欲望をなくしていくとするのです。この知性とは、自由を妨げている要因を理解して、その克服への必然性を理解することなのです。音楽の演奏者と作曲家の目的を理解することを例にあげて理性的な自由の獲得のことについて、説明しています。人間の行動、社会的運動において理性をもつことは、音楽における演奏者と作曲家の目的というように。
調和的な社会を作り出すことの重要性について、バーリンは、次のようにのべます。「すべての国の理性的な人間は、同一不変の基礎的要求や同一不変の満足を求めるものであるから、賢明な立法者は、適切な教育と法制によって完全な調和的社会をつくりだすと考えた。
しかし、制度を創造し、変革し、人間の性格や行動をつくりかえる法は、人間理性から生まれる法を理解しなかったゆえに生まれていくというのである」。人間の理性から生まれた法律を重視するのです。それは制度を創造し、人間性格や行動をつくりかえるとバーリンは、語るのです。
バーリンは、マルクスの未来への進むべき道を妨害しているのは社会制度であると次のように紹介します。「マルクスは人間の進むべき道を妨害しているのは、自然の力あるいは人間自身の性格の欠陥だけではなく、人間の社会制度なのだと考えた。
目的のためにつくった社会制度の機能が誤解され、人間の進歩の障害物となった。客観的な力として、需要と供給の法則、所有の法則、富者と貧者、所有者と労働者への社会の区分を変えるべきという社会的・経済的な仮説を提起したのである」。以上のように社会的矛盾を作り出している社会制度という、マルクスの考えを積極的に提示するのです。そして、理性的に理解されることの大切さを次のようにのべているのです。
「これらが理性的に十分に理解されない限り、古い世界を破壊し、もっとも適切な自由な社会組織はできないのである。専制君主の制度、信仰、神経症によって、奴隷にされていることを取り除くには、分析と理解のみでああある。自分の意志によって、自分の生活を設計するならば、その人は自由になっていくのである。
自分に課して、それを理解して、自由に受けるのであれば自分によって、発案されたものであろうと、他人によって発案されたものあると、理性的なものあるかぎり、抑圧し、隷属されることはない。知識がわれわれを自由にするのは、われわれの選択が開かれた可能性を与えてくれるというのではなく、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれることだ。合理主義的な自由観念は、障害物のない境遇、自分のやりたいことのできる空虚な場所という消極的な自由の観念ではなく、自己支配、ないし自己統御という積極的な自由の観念である」。
バーリンは、合理的理性的な認識による行動は、人間を積極的に自由にしていくというのです。人間の行動は、学ぶことをせずに、自分の行動について、感情的な衝動や、なるがままの利己的欲望のままであるならば、決して創造的なものは生み出せないのです。自分のやりたいことという空虚な場所という消極的な自由、衝動的に自由ということは、結果的には、不自由になっていくのです。
衝動的な感情を煽っていく現代社会のマスコミは、大きな問題を含んでいるのです。マスコミのもっている公共的役割が軽視されているのです。安易な利益中心主義があるのです。
どのようにして、理性的に人間がなっていくのかを真正面にすえて、テレビや新聞、SNSでの発信は社会的なモラルとして、常に考えていくことが求められているのです。
理性からの法と自由
支配欲は非合理性であり、理性的でない人、真理を学ぶことをしない、教育のないものが法律や制限から逃れようとすると、バーリンはのべるのです。法律は真理の原則として、理性的な人びとによって受け入れられていくというのです。
「すべての真理は原則として、理性的思想家によって発見される。そして、理性的な人びとが受け入れることによって、明瞭に証明される。これは、自然科学においてすべてが事実であった。政治の問題も、理性的存在者が当然もつべきすべての自由を、それぞれの人に与えられるような正しい秩序をうちたてることによって解決される。
支配欲はそれ自体、非合理性の兆候であり、理性的によって治療されるものである。万人のために正しく計画された生活は万人の完全な自由(理性的な自己支配の自由)と合致する。法律は理性の命ずる原則である。
これが厄介なものであると思うのは理性が眠っているからである。理性的な法律は理性の人びと自身の利益、あるいは一般の善をもたらす指示である。制限と考えるのは、法律から逃れることである。法に依存する状態を見出すことが真の自由である。
依存とは立法者行為する自分の意志であるから権威と自由は両立する。自由は法と合致し、自律は権威と一致する。教育のないもののみが非理性的・他律的で、強制されることを必要とする。大多数の無知なるものを法律に従わせることによって、理性的に教育するのである。これらは人権宣言の思想家の考えである」とバーリンはのべるのです。
法律は理性によってつくられ、法律的権威は、自由をもつおとでもあるのです。立法者は、議会でつくられていきますが、議会での立法は、多数決の原理で決まられていくため、代表民主制の議員は、深い教養をもち、人間尊厳の真理のための思想をもっているという理性的人間でならなければならないのです。
近代の議会主義をもっての法律を制定した国の歴史は、ファッシズムという独裁政権をつくりあげて、残虐な非合理的な圧政、民族排外主義や侵略戦争をしてきたのです。立法議会によっての法の制定や予算の執行で、それらの圧政や残虐の行為をしたのです。この意味で代表制の議会、議員一人一人の理性が問われるのです。
法が理性的であるというのは、立法議会の議員の理性や人間性も含めて相対的であるのです。おの意味で、個々の法の基本的な理念や為政者を縛るという意味で、憲法の役割が極めて重要なことになるのです。
近代の市民政府論を論じたロックは、法と自由との関係について次のようにのべているのです。
「政府の下にある人間の自由とは、その社会の誰にも共有な、そうしてその中に建てられた立法権によってつくられた、恒常的な規定に従って生きることである。規定が何も定めがないところでは、一切の事柄について自分自身の意志に従い、そうして他の人間の流動不定、不測で勝手な意志に従属しない自由のことである。
この絶対的恣意権力からの自由は、人の生存に極めて必要であり、またそれと密接に結びついているので、彼はもしこの自由を手離すなら、同時に彼の生存生命を併せ失うことにならざるをえない」。(ロック「市民政府論」岩波文庫、28頁
法は社会の誰もが共有できる中でつくられたものであるとロックはのべているのです。法律による規定は、自己欲望に走る他人の勝手な、非合理的な行動を排除する自由であるというのです。法的な規定のないところでは、自分の意志によって、生存生命を間もなければならないというのです。
「法の目的は、自由を廃止または制限するのではなくして、それを保持拡大するにある。法に従う能力をもっている生物にとっては、どんな場合にも、法のないところはあり得えない。
自由とは、普通にいわれるように、各人が自分の欲するところをなす自由ではない。法の範囲内で、自分の一身、行動、財産およびその全所有を処分し、このようにして、自分の思うままに振る舞う自由であり、その点で、他人の恣意に服するのではなくして、自由に自分自身の意志に従うことである」。(前掲書、60頁)
ロックの市民政府における法と自由については、各人の欲求のために、社会における非合理的な行動を排除するためです。
自由と法を論じたロックの見方は、現代社会にも通じる大切な視点です。法がなければ知性的な自由が存在しないというのです。法は、国家によって、作られていくのです。
国家は、市民的な自由を法によって、整備されていることが条件になっているのです。権力を握る為政者をしばってきた憲法の役割は極めて重要になってくるのです。
つまり、立憲主義が、その国に確立しているのかということなのです。為政者は、議会の多数派によっての恣意性によって、法がつくられていくのです。法の制定には、少数者の意見や価値や文化の多様性を尊重することが不可欠なのです。
法の遵守という問題は、悪法も強制ということで、人びとの自由を奪うことが形式な議会の多数者によって、圧政として民衆の自由を奪うことがあるのです。それらは、戦争というなかで、人びとが歴史のなかで経験してきたことです。
法を制定していく議会の理性は極めて自由を保障していくうえで大きな役割があるのです。議員一人一人の知性がためされているのです。議員は世襲も多く占めています。それぞれの団体のリーダーや行政を司ってきたエリート官僚などが多くいます。議員の選出は、人びとの選挙によって、選出されていきますが、
その選出は、マスコミ、地縁や血縁、業界団体、労働組合ということが、補助金行政の経済的な金銭のコントロールも含めて大きな影響力をもっているのです。個々の人びとの政治的な知性による自由な選択ということでは決してない側面があるのです。
個人利益の行為と他人への害の防止
バーリンはミルでさえ、個人の行為について、社会的に生きている限り、他人に害をおよぼすということで、個人の利益を大切にする認識に失敗したと、次のようにのべます。
「個人という言葉がなにを意味するのか。私的な生活領域と社会的生活の領域とを区別しようと努力したミルでさえ、自分の行うすべてのことが他の人間の害になる結果をもたらすので、個人の利益を大切にする認識に失敗している。
社会的に生きている限り、わたくしのすることはすべてが他人に影響するのである。自分がある特定の集団なり、階級なりに所属しているのは社会的認知である。無視され、恩人ぶられたり、軽蔑されたりという、個人としての取り扱いを受けないことは、自分の独自性が認められないこと、何の特徴もない混合体の一員として類別されてしまうことである。それは、法的な権利の平等とか、したいことをする自由ではない」。
ミルは、人間は社会的に生きている限り、すべて他人に影響にあたえるというのです。それぞれの個人は、特定の集団や階級に属しているのです。個人としての取り扱いを受けることの重要性は、個々の人びとが、自分の独自性を社会的に認められることであると強調するのです。このことが、個人の法的な権利と平等ということになるというのです。
個人の行為について、ミルは、自分以外の人に利害を及ばさない行為と、他人に利益に及ぶす行為とに分けて考えています。このことについて、次のようにミルは自由論でのべます。
「自己の行為について、自分以外の人の利害に関係しないことは社会的に責任をとる必要がない。他人の利益に損害を与えるような行為については個人は責任があり、もし社会が社会的あるいは法的刑罰のいずれかを自己防衛のために必要とすると考えるのであれば、個人はその刑罰のうちのどちらを受けてもさしつかえない」。
個人の行為で他人の利益にかかわることは、その社会的責任は常に問われるのです。趣味やスポーツなどの余暇活動などの個人趣向の範囲内ということは、人間生活のなかでは少ないのが現実で、多くの人間の行為は、他人との関係をもって、その影響をあたえて、時には他人の不利益になる場合があるのです。
この意味で、自由の行為の多くは他人、社会との関係をもって考えていくことが求められていくのです。従って、他人や社会との関係で自由をみれば、当然ながら、その知性的な認識が必要とされるのです。
資本主義の発展によって、自給自足の生活分野が減って行きます。また、生活の分野でもサービス業分野の発達によって、家事や育児、介護などの多くの分野で生活の社会化、生活分野のサービスの商品化が起きていくのです。商売とのかかわりは、人間の暮らしのなかで、大きな位置を占めていくのです。ミルは、商売は、社会的な行為であるとして、市民的な個人的な自由の原理は通用しなと次のようにのべています。
「商売は社会的行為である。公衆になんらかの種類の品物を売ろうとするものはだれでも、他の人と社会一般の利益にかかわる行為であるから、彼の行為は、原則として、社会の管轄下におかれる。・・・個人の自由の原理は、自由交易説の中に含まれていないのと同様に、自由交易説の限界に関して生ずる大部分の問題にも含まれない」。ミル「自由論」世界の名著「ベンサム・JS。ミル」、中央公論社・323頁から325頁参照
商売の行為は、公衆的な関係であります。社会一般の利益にかかわるものです。それは、決して個人的な利益が社会的な機能として、存在しているのではありません。しかし、商売は、社会的な利益の本質をもっていますが、個々の行為は、個人的な利益や特定集団の利益として、現象していくのです。この現象が人々の行為を支配していくとい矛盾があるのです。自由市場は、社会的な自由の誤解として、現象するのです。この誤解を解くためには、市場に対しての社会的なルールや規制が働いていくのです。
さらに、国家が誤用される自由の観念は、子どもに対する教育であるとミルはのべるのです。「国家が、その市民として生まれたあらゆる人間の教育を、ある一定の標準まで要求し、強制すべきことであるということはひとんど自明の公理ではなかろうか。
人生上の役割をよく遂行しうるための教育は授けるのは両親の神聖なる義務である。もし両親がこの義務を遂行しないならば、国家ができるだけ両親の負担においてそれができるように監視していかねばならない。国家による普通教育を履行することが認められれば、国家は何を教えるできか。…
民衆の教育全部ないし大部分が、国家の手中にあるべきということに対しては、私は他のだれにもおとらず反対である。国家教育は人々をお互いそっくりに形づくるための、ただの道具にすぎない。そして、人びとを投げ入れる鋳型は、政府における支配的勢力の、たとえそれが君主、僧侶階級、貴族階級であると、現存の世代の多数派であると否ずとを問わず、その勢力の気に入るものであるから、それは、有効で成功すればすろほど精神に対する先制を確立し、また自然の成り行きとして身体に対する専制になっていくのである。
国家による樹立された教育が存在するとすれば、社会全体の進歩が遅れていて、政府がのりださなければ自立でなんら適当な教育制度を打ち出すことも能力もないないようなときである」。前掲書、336頁~337頁
国家教育の誤りの施行は、精神の専制体制をつくります。人々の精神的な自由を侵害するばかりではなく、自由に思考したり、多様な文化や価値からの豊かな社会の発展を阻害していくのです。
豊かな文化のないところでは、精神的な荒廃を招き、社会的な秩序も、市民的な自由を経験した人々が抑えられることで、人びとの反発精神からの常に混乱が起きていきます。多様な文化や価値観の潜んでいるなかでの社会的なルールの混乱を招いていくのです。
「アメリカ人のどの集団も、だだちに政府をつくり、政治やその他のいかなる公務を十分な知性と秩序を決意をもって遂行できる。これこそ、すべての民衆のあるべき姿である。また、これをなしうる民衆はまちがいなく自由である」前掲書、344頁
民衆の自由のことで、民衆自身が、自分たち自身で政府をだだちにつくる能力がなければ、民衆自身の統治能力がなければ、国家権力からの民衆の自由をかちとることができないことをミルは強調しているのです。
国家の恣意性については、競争的な補助金行政でもみることが出来ます。金銭によって、企業や団体、教育・研究機関など人びとをコントロールしていくのです。競争的な補助金行政は、恣意性が働く可能性が大きくあるのです。補助金行政は、為政者の権力維持、支配力に大きな影響をもっているのです。補助金行政をめぐっての民主的なコントロールの在り方が大きく問われているのです。本来は、国家から補助金を受けるのは、公平であるばきなのです。その公平性を維持していくためには、競争的な補助金が正義なのかということが問われていくのです。
例えば、国立大学の教育・研究費などで研究室に一定の補助金が基準によって、一律に配分されていましたが、それが、教育・研究を熱心にしている人と怠けている人、成果があがる人と、あがらない人と一律に配分するのは社会的に不公平であるということで、教育・研究費を引き下げて、莫大な金額の出る競争的な補助金に転化していったのです。このことによって、何が起きたのかというと、競争的な補助金を得るための時間と費用を費やすことになったのです。
補助金の競争的獲得の結果は、教育と研究も、個々の自由な研究ではなく、学生の自由な将来の選択のための自由な教育ではなく、競争的な補助金を得るために、奔走するようになって、疲れ果て、大学内の人間関係も悪くなって、学際的な幅の広い学問研究から遠ざかって、当面の狭い、また、国の恣意性によって、動かされて行くのです。
個人的自我と社会的に認知されること
バーリンは、温情的な干渉主義は、人間に対する侮辱であると考えるのです。個々人は、社会的な役割の地位とその認知を渇望しているというのです。人は、誰ども自我をもって、社会的に理解され、認められたいということなのだという。
「自分が一個の行為者として、自分の存在を感知できる方が大切である。これは地位と承認・認知への渇望ということで、理解され認められたいことだ。個人的自我は、他人との関係、人びとの態度に存する諸属性のなかで生まれていく。人間の活動の独立の一源泉として、自分の意志をもち、行為しようとする一個の実在として認めてほしいということである。
それは、被抑圧階級が要求するには、行動の自由の妨げではなく、社会的、経済的機会の平等でもなく、理性的立法者の考え出された摩擦のない有機体的国家内に割り当てられたことでもない。温情的干渉主主義は、自分が一個の人間、自分の生活を自分自身の目的にしたがって形成されることが、他から認められる資格をもった人間に対する侮辱である。それは、一個の自己支配的な個人的存在として認められていないということで、自由でないと感ずるのである。このような相互承認への欲求が大切なのである。
地位と承認への欲求は、自由に近いものである。社会的連帯、兄弟的関係、相互理解、対等の条件での結合要求は、社会的自由とよばれるものである。社会の公的な立法者なり教師なりの与える指導から自由な強い独立自尊の人格という干渉を受けないという自由の概念ではなく、自分の人格に低い価値を与えられたくないという欲求、自分の人格が自律的・独創的な真正の行動に対して、社会的制約や禁止立法に出くわしたくないという欲求である」。
バーリンは、個々の人間は、行為を伴って、個人的自我を重視して、社会から認められたいということで、それが叶わないのが自由でないとするのです。地位と承認への欲求は自由に近いものであると強調するのです。
人間は誰でも誇りをもって生きているのです。その誇りが認められることによって、自己の社会的な行為に生きがいを感じていくのです。バーリンは、この誇りの精神を自由の概念のなかに包摂していくのです。
自由と人民主権
人民主権は個々人の主権を容易に破壊すると、バーリンは、次のようにのべます。
「人民の主権は個々人の主権を容易に破壊しうるであろう。民衆による統治はルソーの言う意味では必ず自由ではないのである。統治する人々は、統治される人々と同じではないのである。
ミルは、多数の横暴という広く世に行われている感情や意見の圧政ということを指摘した。ふつうに主権とよばれる無制限な権威を移し替えることは、自由を増大させるのではなく、隷従の重荷を移動させるだけである。無制限の権威は、いずれだれかを破壊せずにいられない。抑圧の真の原因は、ひとえに権力の集積という事実からくるものである。自由は絶対的権威も存在によって危険にさらされているのである。絶対的主権という教義はそれ自身に圧政的な教養なのだ。多数決の規則にはほとんど期待がもてない。社会を真に自由にするには、すべての人間に、非人間的な行為を拒否する権利があることと、人間が、歴史的に長く受け入れられてきた規則を決して犯してはならない境界線を守ることである。このふたつの原理が、社会の自由を守ることである」。
ミルの指摘しているとおり、人民の主権ということからの多数の横暴ということが起きるというのです。それは、自由を拡大するのではなく、とくに、少数派にとっては、耐え難い苦痛を強いるのです。人民の主権ということは決して多数派による権力の運営ではないのです。主権在民ということで、近代社会の国家は、人びとの選挙をとおして、選ばれた人が為政者として、権力を維持していきます。
選ばれた人間は、知性や人格の一定基準をもって立候補するのではありなせん。本人の自由な意志によって、立候補するのです。人民の主権ということが、選挙によって絶対的になることはどうなのかという検討が必要なのです。為政者をしばっていく制度の設計が大きくあるのです。法的には憲法であり、司法によるチックであり、国会の自由な意見と、その公開です。行政権力によって、すべてが人民主権ということで、実行されることは、選挙による独裁・専制政府の確立です。
人民主権というのであれば、多くの人びとが日常的に行政を監視し、行政に自由に意見をのべ、または参画していく仕組みづくりが求められているのです。
この意味では、マスコミの役割が大きく問われているのです。また、身近な市町村からの多くの人びとが行政に参画していくことも大切です。市町村が広い範囲に構成されていることも大きな問題です。地方自治をより身近にしていく単位も含めて、広域合併の見直しで、校区単位の日常的な自治のしくみづくりが求められているのです。
小学校や中学校なども社会教育機関の公民館とも結びついて、知性的な自由の確立のために生涯学習の拠点として、地方自治の日常的な気軽な担い手が必要になっているのです。
社会的矛盾の衝突と全体的調和による共存
バーリンは、社会的な矛盾の衝突に対して、いかにしてすべての価値が共存することが可能であるのかと全体的調和の真の価値を次のようにのべています。
「自然は、真理、幸福、徳を断ちがたい鎖で結びつけている。自由、平等、正義も同じような言葉を使った。これは、真理であろうか。政治的平等も効果的な組織も、ごく少数の個人的自由と両立せず、無制限な自由放任とは全く両立しない。正義と寛大、公的忠誠と私的忠誠、天才の要求と社会の要求とは、相互にはげしく衝突することがある。これらすべての価値が共存することは可能であるはずだ」。
少数の個人自由と政治的平等は両立するものではないとバーリンは指摘するのです。それは、社会経済構造の矛盾や、人びとの文化的違い、宗教・信仰の違い、多民族性・多様な地域、人びとの志向や思想の違いなど、衝突していく危険性を常にはらんでいるのです。大切なことは、包容していく力や調和していくちからであるというのです。
これは、決して、現実の様々な矛盾を容認するものではなく、矛盾を解決していくには、包容力や調和力のなかで、ひとつひとつ解決して、前に進んでいくのです。矛盾が激しくなれば、一層に、この視点は必要です。人々は矛盾のなかから戦争へと発展するケースが多いのです。
調和の理想の王国と民衆の運動
「究極的・最終的な調和の理想の王国は、経験的観察と通常の人間的意識の手段・方法によって、すべてのよきもが相互に調和可能になる。現代のもっとも力強い民衆の運動に生気を与えている国民的・社会的自己支配の要求の核心にあるものが積極的意味での自由の観念であり、これを認めないことは、現代の最重要の事実と観念(思想)を正しく理解しないということだ」。
民衆の社会運動は、積極的な意味での自由の観念であるとバーリンは指摘するのです。この民衆の社会的な運動自身に、それぞれの社会集団や階級・階層、諸民族などの社会的矛盾があるのですが、この運動を調和によって、制御していくには、それぞれの所属している団体や階級・階層、党派のリーダーの理性の役割が重要なのです。
バーリンは、原理的に調和できるのはあやまりだと指摘するのです。それは、最初から、調和できると思い込むからです。それは、民衆の運動の結果によって、調和がはかられていくというのです。
「原理的に調和的できることは誤りで、人間の目的は多数であり、原理的に相互に矛盾のないものはありえない。衝突・葛藤の可能性、悲劇の可能性は、個人的にも、社会的にも人間の全生活から完全に除去されることは決してありえない。個人的自由よりも深い要求を満足させるもっとも高次の別の価値を用意することが求められる。民衆が自分の欲するままの選択の生き方を選択する自由の程度は他の多くの価値の要求と対比しなければならない。その対比は、平等、正義、幸福、安全、社会秩序という他人の自由に対する配慮を必要とするものである。
欲するままに生きる自由という理想は、没落しつつある文明の所産にすぎないというのです。自己の確信の正当性は、相対的なものであることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること、これこそが文明人を野蛮人から区別する点である」。
まさに、欲するままに生きる自由とは、野蛮人であるというのです。文明人であるならば、ひるむことなく信念をもつところの自己の確信の正当性は、相対的なであるという認識が極めて大切というのです。この相対的な確信が包容力と調和をもたらしていくというのです。それぞれの立場によって、信念が異なり、その矛盾の歴史的な展望のなかで、矛盾の解決への調和が行われていくのです。
その調和は、それぞれの価値をもっている民衆の運動の結果によって、高次の価値が生まれて行くのです。社会的矛盾のなかで、その矛盾を解決していくには、当初の民衆が自分の欲求の実現は、欲するままに生きるというおとでは、矛盾する他の要求と対比しながら、それを相対化していく作用を民衆の運動のなかでコントロールしていく必要があるというのです。
神田 嘉延の社会教育評論のプログで書いた自由論の一覧
自由の精神と社会教育・
マルクスから学ぶ社会的自由論 - 社会教育評論 (hateblo.jp)
ラスキの「近代国家における自由」から教育を争点に - 社会教育評論 (hateblo.jp)
ラスキの「近代国家における自由」から生活苦と無知の解放 - 社会教育評論 (hateblo.jp)
自由への社会教育:カール・ポランニーの社会的自由論から - 社会教育評論 (hateblo.jp)
アレントの公的自由論と市民による統治参加 - 社会教育評論 (hateblo.jp)
共生・協同の社会形成と社会教育ーマンハイムの「自由・権力・民主的計画」から学ぶ - 社会教育評論 (hateblo.jp)
ハイエクの「自由の条件・自由の価値」から人間らしい自由な労働過程の創造 - 社会教育評論 (hateblo.jp)