社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

霧島古道と天孫古跡と霧島六所権現

霧島古道と天孫古跡と霧島六所権現
    神田 嘉延

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 現代に生きる人々にとって自然循環的に持続可能性の社会経済形成、絆や心と体の健康づくりは極めて大切です。この意味で環境学習や健康学習は人類にとって大きな課題です。霧島六所権現はそのヒントを多く与えると思います。
 生産性向上、効率性の激しい競争社会で心の病、健康を害することが蔓延していま自然循環性と生態系を無視した効率主義による大規模開発による自然破壊が進んでいます。このことで災害の頻繁が起きるようになっています。
 健康で生きたいということは、どんな状況にあっても誰でも共通した願いです。心と体を鍛えていくことに霧島六所権現の歴史文化から学ぶことができます。新型コロナによる世界的に社会経済のあり方が大きく問われています。
 現在の状況では、人間と自然とのあり方、生態系の秩序を考えることが大切になっています。また、資本や権力の集中化が大規模な都市を作り出し、過密な日常生活を作り出した。あらためて自然の豊かな農山漁村での暮らしが大きな価値をもつようになっています。世界的規模の主産地特化した分業やサプライチェーンではなくて、地域での医療保健、食糧、エネルギーという日常生活にとって不可欠な物質的供給の地域循環性も求められているのです。新型コロナの経験によって、世界的規模の、新自由主義と効率的な生産体制の反省が求められているのです。未来の持続可能性をもった自然循環社会をつくっていくために、教育のあり方も大きな変革が求められているのです。科学教育も専門細分化したことでは、自然循環ということから総合的な視点からの科学教育が求められていくのです。識字教育も地域の暮らしと結びついての総合的な生活主義的な教育が必要とされるのです。この総合主義は、体験をとおしての疑問の発見ということが出発になっていくのです。
 霧島は古来から自然信仰が強くありました。霧島山麓の人々の心には、山の神、森の神、水の神、田の神が住んでいました。また、山の女神の宮殿の民話などがありました。天孫降臨信仰も森や水の豊かな自然のうえに稲作文明がもたされたことから、それに感謝する人々によって、ニニギノミコトの神話が生まれたのです。神話や民俗学的な民間信仰は、人々が生きてきた生活や労働、自然に対する関係があるのです。
 これらが霧島神道の基礎であり、そのうえに霧島六所権現が築かれたのです。そして、為政者によって天台宗真言宗の仏教、修験道・山伏の文化に変えられていった側面がありますが、基層的に霧島に生きてきた人々は、自然信仰によって、すべての価値観を包み込んできたのです。
 近世になって天台宗真言宗かの帰属が求められて霧島六所権現として継続します。かくれ念仏という近世の薩摩藩浄土真宗の厳しい弾圧のなかでも、霧島の自然信仰はその人々の心を包み込んできたのです。多様な価値観を認め、自然と共に生きる人々の暮らしを尊重してきたのが霧島六所権現です。
 霧島六所権現は霧島霧島連山全体の地域ブロックとしての連帯と交流網をもっていたのも特徴です。これには山麓の街道の役割が大きくあったのです。山麓で暮らす人々の側面からみれば、山伏の修験道ということで、深い山のなかに入って修行していくという側面だけではないのです。
 霧島六所権現には、六根清浄という人間のもっている五感と意識を加え自己中心的欲望を断ち切って清らかになる修行をもつことでした。そして、六観音として、地獄・飢餓・畜生・修羅・人間・天の六道を示し、衆生を浄土に導くものでした。また、四方門として、発心なる東門の東霧島神社、修行なる南門の荒嶽神社、菩提なる西門の西霧島神社霧島神宮)、涅槃なる北門の夷守神社の曼荼羅の聖空間を配置したのです。4つの門を開くことは、ひとつに自分の機嫌をとること、2つに自分の能力をだしきる。3つにひとに徳をもつこと、4つにいつも感謝の心があるのです。このことを忘れずにという四方門です。

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 霧島には西の霧島神宮、霧島東神宮、狭野神社、夷守峯神社に至る荒襲街道小林街道の霧島古道があります。これらの神社は霧島六所権現を開いた性空上人が修行して六所権現の悟りを若いときに開いたところです。この意味で天孫古跡を探るのも興味ある課題です。
 もともと式内社のあった霧島社の伝統のうえに霧島の山地で修行しながら、また山里の人々の暮らしをみて、知恵をだしながら地域振興に手をかしながら、独自に性空は六所権現の悟りを開いたのです。

 性空上人が護摩を焚いて六根清浄の悟りをひらいたとされる霧島東神社の神田ブログ
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 ここに当初から霧島の自然に根づいたシャーマニズム的信仰に結合しての神仏混合に発展していったのです。そこには山と森そして水の神があったのです。霧島は古代からの神話伝説のあるところで、狭野神社から小林、えびの市方面にかけて独自の文化をもった地下式墳墓が広範囲に残っていた地域です。その遺跡からは大陸との関係を示す遺物が出てきています。霧島山麓の里は、古墳時代からの独自の文化があったところです。
 霧島修験道には、人々の暮らしの生活や庶民性が強くあります。自然を神として、自然そのものを守っていく考えが強くあったのです。日本各地の修験道にも「靡き八丁 斧入れず」というように、靡(なび)きといわれる尾根から800メートルは、大地がすべてがつながっているということで、そのつながりを切ってはいけないとその自然環境を大切にしたのです。

狭野神社の古墳と周辺の地下式墳墓の神田ブログ
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 性空上人伝説のなかに上人が杖をたたいて湧水がわいてきたという話があります。湧水池や水をひいた神とされているのです。性空上人が農業振興や市場を開いたという伝説が残っているのです。
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 性空上人は山にこもって修行のみをしたのではなく、里の人々と共に暮らして、リーダー的側面があったのです。霧島六所権現の神仏混合の信仰は山里の人々のなかにあったのです。
 「霧島神宮」鹿児島文庫を書いた窪田仲市郎氏は、一般的にいわれている霧島の神の山上鎮座説を否定して神社は、日常の生活の信仰からの糧になるものであったとして、現在の山麓麓にある神社が性空上人が活躍した時代からそうであったと考えているのです。

高千穂峯の逆鉾をどのように理解するのか。天孫降臨の象徴の神田ブログ 
https://kandayoshinobu.at.webry.info/201705/article_10.html
 
 前期の霧島神宮を書いた窪田氏は、室町幕府成立のころ、日向の守護職になった畠山氏と大隅半島南朝方の肝属氏の対立で九州南部に幕府との強い関係をもっていた真言宗を伸ばすために、霧島の東麓にに修験道場をつくっていたとするのです。
 真言宗三宝院本山と天台宗英彦山修験道との勢力の関係で霧島の修験道としての六所権現が整備されたとするのです。島津氏は、積極的に真言宗修験道を保護しました。戦勝祈願の加持祈祷のためにも整備したのです。天の逆鉾は、修験道場として、拠点の東麓から高千穂峯の西側での修験行の象徴のためだったのです。
 近世以後になると幕府は、山伏の全国行脚を禁止し、山伏の里での定着になったのです。農業を営みながらの修験道の里が生まれていくのです。中世的な山伏から里に定着していく修験道になるのです。
 そして、神仏混合との寺院と結びついた農業や林業を営む山伏の定着です。しかし、山伏のもつ情報伝達、交通の果たす役割は大きかったのです。

 高千穂河原にある旧霧島社の古宮跡地は皇紀2600年昭和15年の記念に上段54m*38下段54m*16mでつくられたものです。鳥居は東多羅の集落にあった日露戦争勝利記念のために建てものです。おそらく扇山の日露戦争勝利記念の植樹と関係があると思います‼️

自然のなか霧島岑神社の昇り竜の神田ブログ
霧島岑神社の登り竜柱: 神田 嘉延ー歴史文化の旅から学ぶシニア人生ー
 
 ところで、霧島連山は古来から人々に恵みを与えてくれ、心を清め豊かにしてくれる信仰の対象でした。自然の恵みとして、山の神、森の神、水源の神を祀ってきたのです。ここには人々の自然に感謝する深い心があったのです。
 自然を侵す人には祟りが起きるということで、家を建てるときに大木を利用するときに山の神に許しの祈りをしたのです。地域の人々は自然を守る掟をつくり、自然と共生する自然循環性のしくみをもっていたのです。
 山里の人々は、山と森とつきあいながら、山の生業としての木炭生産、狩猟による生計をしてきました。山から肥料をとり、薪を集め、肥料をとり生きてきたのです。
 そして、畑や田を耕して、地域の自然循環性の生活をしていたのです。とくに、水田稲作によっての田の神と山の神は一体になっているのです。田の神は冬になると山に入り、春になると山から降りてくるのです。田植えと共に霧島の神は田の神として活躍するのです。

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 ところで、街道のもつ意味も歴史的にみていくことも必要です。自然循環性によって、歴史的に霧島山麓の里の人々が生きてきたなかで、街道の役割はどのように変わっていったのでしょうか。
 霧島六所権現は、産業や交易の発展、権力者の広域化と強力化とも絡んでいます。そのことからみていくことも求められます。
 現代は価格競争や効率性のもとに、市場の国際化が極端に進み、国内での日常生活品さえもまかなえない状況です。
 これは新型コロナのなかではっきりとしてきたのです。マスクさえも国内生産ではなかったのです。さまざまな分野の業種で国内では自己完結できないことが明らかになったのです。
 あらためて社会経済のあり方が大きく問われます。地域やブロックで、国内での循環性が大きく問われている時代です。

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 高千穂峰は豊作祈願の山です。秋に実った稲穂を、山に捧げるため、霧島の山に登ったのです。
 上記の写真は高千穂牧場から撮った霧島連山高千穂峰の景観です。ここは古来から猪子石と呼ばれた字です。松並木がずっとずっと連なり、旅人が一服して山に祈願しながら休憩したところです。霧島古道の荒襲街道と小林方面に至る街道です。
 ここにはさまざまなドラマが歴史のなかにありました。10世紀中頃の平安時代の中期に性空上人が修行したのは霧島の山ですが、ここで六所権現の考えが生まれたのです。
 六根清浄の聖の地としての霧島になったのです。また、その後に霧島の修験道の活動の場になっていくのです。現在でも霧島神宮、霧島東神社、狭野神社、峯・夷守神社として、霧島山麓の西側から東、北と、六所権現のゆかりの神社が街道筋に残っています。
 
 戦国時代は、日向の覇者の伊東氏、豊後の大友氏など島津氏との戦いで重要な街道であったのです。この街道を通って伊東氏や大友氏の軍勢が侵入してきたのです。また、島津氏が伊東氏や大友氏を攻略していくうえで、重要な街道であったのです。
 そして、江戸時代になると日向方面からの物資が入ってくる交通路になります。小林や高原の年貢米も小林・荒襲街道をとおってはこばれてきたのです。霧島の大窪には年貢の蔵が750坪に8つあったということです。大窪御蔵といわれていた。
 明治になっても、鉄道が走るまで、小林街道は重要な交通路でした。

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下記の地図は近世社会と霧島村として、霧島町郷土誌289頁からとったのです。東まわりと西まわり道が示されています。西まわりは西霧島権現にいく道で東まわりは小林に都城にいく道です。
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 開拓記念碑の下に書かれているのが大切です。江戸時代の享保年間に荒襲街道を改修したときの碑です。歴史的な記念碑なので大切にしたいものです。
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 猪子石から都城や小林に下る集落の吉之元に丁仏碑があります。天文22年1553年のものです。この集落には荒岳権現と金剛院明観寺がありました。現在はその遺跡の一部が残っています。住民の人が私費で守っているのです❗
 
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荒岳権現・明観寺の神田のブログ
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 明治になって京都で歌人として、宮中の歌会で活躍した八田知紀が幕末に幽門された寺院でもあります。霧島六所権現の四方面の南門といわれたところですが、そのあとが感じられる状況に現在はなっていませんが、集落あげての日曜日のランチタイムなど地域住民は地域おこしを真剣に取り組んでいます。

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 また、猪子石から下る霧島神宮駅の近くに湯之宮集落があります。その集落に室町時代から江戸初期といわれる異なる時代の石塔群があります。これらの遺跡も街道との関係で考えると新しいことが発見されるのではないかと思います。

 下記の写真はかつて山道で猪子石の荒襲街道から霧島神宮方面に下るところにあった遺跡です。現在70代の人に聞くと自分も含めて猪子石の子ども達はこの山道を下って霧島小学校に通ったという。この石には大山祇神の文字が書かれています。近くには日露戦争の戦勝記念として植林したことが書かれています。この山は扇山としていわれ、昔から森の神、山の神が宿るとされていたのです。

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 扇山の麓は霧島川が流れ永池方面からの小川が合流するところです。猪子石は現在別荘やゴルフ場、ホテルができて、猪子石の松並木の街道は全く姿を消しています。わずかに松が残っている程度です。松食い虫によってほぼかれてしまったのです。
 もともと猪子石の下の整備された国道のできるずっと以前は東西50間南北15間軒の永池と東西60間、南北30間の鉢池という2つの池があったのです。(霧島町郷土誌より)池によって調整池の役割があったのです。今は扇山の保水力が大切になっています。

 下記の写真は、霧島神宮高千穂峰登山道に進む裏山にある山神の祠です。下を降りた旧参道にも同じような山神の祠があります。
 霧島神宮の周辺には隠れ念仏の洞窟が何ヵ所もあります。薩摩藩に弾圧された浄土真宗の人々が霧島神宮の近くで祈りをしていたのです。この洞窟には隠れ念仏の講の組織がそれぞれの洞窟ごとに組織されています。

 霧島神宮周辺の隠れ念仏の信仰のたための洞窟の神田ブログ
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 また、独自に閉鎖されての信仰組織になったのがかやかべ教です‼️鳥は絶対な神の変身で、食べてはいけないという風習をもっているのです。いまでもかやかべ教は続いています。
 霧島神宮の勅使殿は仏教的な白象や蓮の花の彫刻がされており、拝殿の向拝柱には全体に龍が彫られています。
 拝殿には儒教の教えの二十四孝(にじゅうしこう)の絵がかざられています。孝行が人間にとって大切なことを説いている絵です。江戸時代の儒教的な教えの御伽草子(おとぎそうし)に描かれた世界です‼️
 霧島神宮神道はもちろんのこと、山や森、水などの自然信仰、田の神信仰、仏教、修験道隠れ念仏などさまざまな信仰が混合しての多元的な信仰になっているのです。
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 下記の写真は明治以前からあった歴史的に古い旧参道です。深い森のなかを歩いて登る参道です。現在の霧島神宮は駐車場がお宮の近くにあり、参道を歩くことが極めて短くなっています。近代によって、新しく作られた参道も歩かなくなっています。
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 性空上人は、36歳で霧島山で出家しました。その後比叡山で学び得度して、再び霧島山法華経を書写して修行しましたが、農民の豊作祈願や生活向上と結びついての田を開き、水を引いたりしました。
 性空上人の用水開発の伝説が霧島山麓でみられます。用水の水源地は、性空上人の杖をたたいて生まれたという伝説です。小林の細野の十日町の市も性空上人が開いたとする伝説もあります。

霧島六所権現を創設した性空上人の供養碑
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 霧島神宮が神仏混合時代の坊主墓の遺跡を書いた神田のブログ
西霧島権現社(霧島神宮)別当寺・華林寺跡と坊主墓: 神田 嘉延ー歴史文化の旅から学ぶシニア人生ー


 御池の西側の近くの絶壁に性空上人が護摩供養した場といわれます。そこでは、五穀豊穣の譲りとして農民の参拝が多かったのです。霧島東神社の近くになります。

 性空上人の説話は、今昔物語や徒然草に登場します。この時期は仏教での浄土が流行した時期です。民衆への仏教として、人々は救いを仏教に求めていく時代です。藤原家の摂関政治の全盛のときで、寺院が国家の権威と結びついていましたが、他面に、民衆の生活のための心の支えになていく仏教の側面をもっていくのです。
 性空上人は、幼い頃から生き物を殺さず、終生争いを嫌い、平和を大切にした僧です。仏教の中に平和の思想が強くあったのです。
 霧島の山岳修験道信仰のなかに平和のねがいが強くあることを忘れてはならない。徒然草69段では、法華経を読誦をつづけ、目、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚のけがれを払われ、六根清浄の境地になったことが書かれています。
 また、遊女と普賢菩薩の話として、遊女をみて、目を閉じれば菩薩に変わりということも古事談第三記、十訓抄に書かれているのです。二人のみそぼらしい童子が現れて、性空にしたってくれば、童子の一人は、不動妙法の化身とみえ、もうひとりは、毘沙門天の化身とみえたのです。性空上人の人をみるやさしい目がみられます。

性空上人が開山したといわれる佐賀と福岡の境になる背振山修験道の神田ブログ 
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 性空が晩年に開山した書写山円教寺を書いた神田のブログ
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湯布院の性空上人の開基の寺院の神田ブログ
湯布院の夫婦円満佛山寺(性空開基)と地蔵さま: 神田 嘉延ー歴史文化の旅から学ぶシニア人生ー

 霧島神宮と隣り合わせている扇山の全景です。大山祇の祠が中腹にあります。霧島山麓には母なる山地として山の森を大切にするということで大山祇信仰が深くあるのです。
 山を侵すものは祟りが起きるということで、共生して生きる知恵を先祖伝来継承してきたのです。大山祇は「コノハナサクヤヒメ」として山の恵みを産む母として信仰されてきたのです。
 隣接している霧島神宮を祀る夫のニニギノミコトと共に神話伝説として仰がれていたのです。扇山全景に80メガソーラーの大規模な開発計画が外国資本によって行われているのです。
 切土と盛土によって自然景観を破壊し自然循環性を守ってきた山の神の歴史文化も消し去ろうとしています。さらに、急傾斜の開発から山の神の怒りとして、災害の危険も伴うのです。
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 サルタヒコの巡行する東まわりの道順図です。春と秋に、それぞれ2回づつ計年間の巡回が霧島神宮の行事として行われています。古くから「メンドンマワリ」としてサルタヒコの面をかついで東回りで、神宮の大鳥居、東多羅、永池、猪子石、待世神社跡、梅北橋、川北、7ヶ所で、お祓いをしながらまわるのです。

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西郷軍が人吉から霧島を通って、霧島の大窪や猪子石で政府軍との闘いがあり、宮崎方面に退避していった地図です。

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 街道筋にある大田小学校の学有林です。この付近が学有林になっています。子どもたちは地域の大人たちと森を守り、木の育っていく姿をみてきたのです。街道筋の林野は教育的に永い年月にわたって歴史的に利用され、、現在は地域の人たちがを学校林野を管理しているのです。

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林野庁ホームページより引用
 「学校林活動:学校林とは、小学校、中学校、高等学校等において、学校の基本財産形成や児童・生徒への環境に関する教育、体験活動を目的に、学校が保有している森林をいいます。
学校林の造成は、戦後の国土復興運動の一環として、林政・教育上において重要なものとして推進されてきました。
 学校林の所有形態は、学校所有のほか、国有林や公有林など分収林によるものもあります。
 学校林活動は、心身ともに発育中の小中学校の生徒や高校生による、植樹や保育作業を通じた自然に関する科学知識の学習、社会に貢献する情操豊かな人間性の修得、森林造成による地域社会への寄与などの側面を持った活動として実施されています。
 また、この活動を広げていくことを目的として、平成19年度から毎年「学校林・遊々の森」全国子どもサミットを開催してきましたが、平成26年度からは「学校の森・子どもサミット」へと発展させ、全国から集まった子ども達の学校林での活動発表や交流を行っています」。
 広大なを学校林野や地域の大川育英財団の林野をもっている大田の小学校の校区は森林に利用した自然教育や森林のもってきた歴史的な社会経済の自然役割、災害防止機能の役割を体験的に学ぶことができる地域です。
 広く国民に開放して積極的に大田小学校をはじめ霧島の各小学校がもっている学校林野や地域の共有林野の教育的役割を積極的に活用していくことが求められていると思います。
 このためには、森林教育活動を推進していく社会教育の施設の充実やの職員の配置が必要になってきます。さらに、霧島の自然や文化を教育的なことから若者や大人に広げていく、滞在型の文化歴史観光が求められる時代です。
 心を豊かにしていくことはより深くり知り、体験することによって定着していくものだと思います。心の癒やしにとっても通過的観光でなく、のんびりと滞在して歴史文化の深さを体験することをおおすめします。

霧島神宮近くの7不思議の一つ 11月から4月までの半年間にわたって御手洗(みたらし)川の水が流れなくなります‼️みんなで一緒になぜかと考えてみましょう⁉️
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霧島神宮隣接の80メガソーラー発電の急傾斜地大規模造成問題

 霧島神宮隣接の80メガソーラー発電の急傾斜地大規模造成問題

 

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 霧島市田口・大窪地区メガソーラー発電所発電事業は、災害発生の危険性、歴史文化の破壊 自然景観の破壊、観光などの地域経済の打撃ということが想定されます。
 この開発は、霧島神宮隣接の急傾斜地に高低差250メートルにわたる135ヘクタールの開発事業です。開発業者が管理する土地の73ヘクタールの森林を伐採して、約25万枚のパネルの太陽光パネルを設置する計画です。このの開発のための環境評価評価方法書説明会が令和2年3月17日にありました。
 開発事業者は、シフトエナジージャパン(SEJ)で福岡市に本社をおく、太陽光発電の投資・開発・運営を行うグローバル企業と称しています。代表取締役は、ジョセフラーラです。会社のホームページでも山地の急傾斜に広大な太陽光発電パネルを設置している写真をだして、技術力をほこっているようです。
 当日に、SEJの担当者は、この事業に、極めて大きなビジネスチャンスになるということでした。そして、SEJは積極的な開発推進を表明したのでした。この開発計画がもちあがったときに、霧島市の市議会は平成31年3月にメガソーラー反対の陳情書を全員一致で決議しました。市長は平成31年2月26日にメガソーラー反対の通告をしました。平成31年4月18日には、地域の霧島神宮、水利組合、自治会、医療施設、介護施設、漁協などの反対の意思表示書を知事と市長に提出しました。
 しかし、これらの意見も全く無視して、具体的に推進していく方法書を作成して、鹿児島県の知事に認可をしていくための手続きに入っていくという姿勢でした。
 3月17日の環境影響評価方法書の説明は事業概要の説明をSEJが行いましたが、方法書の詳しい説明を長時間にわたって、九州環境影管理協会(理事長・九州大学名誉教授百島 則幸)の職員が行いました。当日はメガソーラーの建設に反対する多くの意見がだされましたが、業者側は手続きにすすむ一歩が進んだということで、終わった後は喜びをみせるほどでした。
 方法書に対する意見書を神田は、次のように書きました。どれほど、意見書に対する真剣な回答がくるのか定かではないが、きちんとした白紙撤回の意思をだすことが必要と思い書きました。

 

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       意見書  
                          令和2年4月3日
                              神田 嘉延

縦覧図書の名称:霧島市田口・大窪地区メガソーラー発電所発電事業環境影響評価方法書

霧島市田口・大窪地区メガソーラー発電所発電事業環境影響評価方法書に対する意見は、(1)災害発生の危険性 (2)歴史文化の破壊危惧 (3)自然景観の破壊危惧 (4)観光などの地域経済の打撃の危惧という4つのことから、白紙撤回を求めます。その具体的な理由と質問については別紙に書きます。

 別紙1
 神田 嘉延
霧島市田口・大窪地区メガソーラー発電所発電事業環境影響評価方法書の白紙撤回要求の理由と質問

(1)災害発生の危険

 

  太陽光を設置する土地利用計画地域は、鹿児島県の山地災害危険地区マップで、多くが崩壊土砂流出危険地区になっています。また、平成30年の災害危険の基礎調査でも急傾斜の崩壊の指定地域に設定されています。
 また、太陽光を設置する地層は、傾斜地のうえに、シラスが上から下に帯状に存在しているのです。
 霧島山麓は、雨量が非常に多いのが特徴です。梅雨時の末期では、鹿児島県の雨量よりも50%以上降るといわれます。たびたび、霧島川の水系は、氾濫が起きてきた歴史をもってきました。このため、地域住民は、山の森林保全に力を注いできたのです。
 
  方法書では、日本の地形レッドデーターブック第1集の危険地形に掲載されていないという確認で、急傾斜の山地開発に問題がないということで、大規模な切土と盛土をして、地形を大幅に改造しようとするのです。地質学による地層の研究成果、県災害危険調査、県の山地災害危険地区マップ、氾濫の歴史、雨量のデーターをもとに、詳細なる実施調査をして、80メガソーラー設置の適地であるのかということを再検討してほしいと思います。
 方法書に書かれている切土・盛土・法面調整については、極めて危険な内容です。切土と盛土は、地図上に地域をおとしておりますが、どのような圃場になっていくのか。きわめて心配です。高低が250メートルある広大な急傾斜地を切土と盛土によって、10度の角度以下の平坦地にしてソーラーパネルをひくということのようですが、圃場はいくつになるのか、それぞれの圃場の法面の高さはどのようになるのか全く示されていません。広大な段々畑のような圃場ができるのでしょうか。また、切土して、新たにできた絶壁の高さがどの程度になるのか。
 そして、圃場の法面の強度が緑地の種子吹付工事をして、暗渠排水するので問題はないと方法書では書かれていますが、安全面から極めて不安です。さらに、暗渠排水官の施設、土砂流出防止工事をするので問題がないとしていますが、その安全性を保障する具体的な内容が明らかになってません。

 伐採した樹木を再利用するために、チップ化して、法面保護で行う吹き付け工事の基盤材や渇水低減対策のフイルターなどに利用することが方法書では書かれています。しかし、そのおとによって、盛土による軟弱な地盤の強度になるのか。これらは、盛土による安全性になっていくのか極めて疑問です。
 とくに、盛土が深さ20メートルから24.6メートルも重ねていくということで、その土地の強度が保てるのかが不安です。大規模盛土造成地の危険性として、今日では、国土交通省はボーリングなどをして再点検の調査に乗り出しているのです。今まで、やってきた土地開発における盛土の技術的な方法が問題になっている時代です。

 このような安全性と持続可能性を重視する時代に、あえて危険な急傾斜の地域を盛土していくことが、どの程度に新たな技術的方法によって、問題を解決しようとしているのか疑問です。盛土の強度、法面の保護、切土した絶壁の安全性の担保などを具体的に示してほしい。
 さらに、水害対策は広域的な水系から問題をみていかねばなりません。つまり、局所的なことだけではなく、水系によって、水量が増大して、下流の河川が被害を受けるからです。
 つまり、水害などは、広域的な水系のなかでみていかねばなりません。大規模に森林を伐採して、盛土・切土にして急傾斜の土地を平坦にしていくことによって、水系がどのように変わっていくのか。調整池7つをつくることによって、水害の防止対策になるのか。調整池をつくるということは、森林伐採によって、水害が起きることを想定しているからこそ、つくるのだと思われます。方法書では、そのことを認識しているからこそ、渇水対策をあげているのではないでしょうか。
 地球温暖化のなかで、近年は異常気象によって、大量の雨が連続的に降ることで、日本列島では各地で従前に想定しなかった水害が起きる時代です。7つの調整池で水害の防止対策を同程度の最高の雨量を想定して設計しているのか、教えてください。側溝をどの程度つくり、その側溝から調整池に集まって、さらに、霧島川に流れていく水量がどの程度になるのか。メガソーラー発電所建設のための大規模な切土・盛土の土地改変は、旧霧島町ばかりではなく、隼人町の松永地区、さらに、国分平野までも影響を受けることになると思われます。
 森林伐採によって、渇水の問題が起きるということから、その対策として、伐採した樹木を使用するとしていますが、どのように敷き詰めていくのか。具体的に提示してほしい。むしろ、渇水対策としての伐採した樹木の利用が、かえって軟弱地盤に拍車をかけるのではないかと危惧する次第です。その疑問に答えるには、具体的な方法を示して、地盤の強化になることを示してほしいと思います。むしろ、捨て場に困ったものを埋め込むのではないかという安易な発想に思われがちですので、そうではないことを示してほしい。
 大田水源の問題が開発地域との関係でありますが、伐採した樹木を渇水対策に利用するということを方法書で示していることは、樹木の伐採、切土・盛土によって、SEJ社も渇水の想定を認識していると思われます。そのことが最も有効なことは現状を維持していくことではないでしょうか。それに変わることが伐採した樹木を利用することなどのでしょうか。
 80メガという大規模な太陽光ソーラー群による地域の電波障害、反射光などによる人体的被害はないのか。その対策は具体的にとる必要はないのか。ソーラーパネルの架設工事による有害な物質の使用はないのか。パネルの架設の安全性の保障はあるのか。ソーラーパネルの架設工事の原材料を明示してほしい。
 さらに、重大なのは、発電事業終了時の計画であります。20年後に継続するのかどうかの判断ということで、持続可能性をもって、太陽光発電を考えているのではなく、短期的な事業として、急傾斜地の大改造をするということに驚きをもっています。135ヘクタールの大規模な大改造計画で盛土・切土等の73ヘクタールの森林伐採という事業が20年ということで、継続判断するという、単にソーラー発電の設置という次元しか考えていないのでしょうか。長期にわたって、自然とつきあって、持続可能性をもっていくという開発の視点がないことに驚きをもっています。
 最も怖いのは、シフトエネジージャパンと霧島での建設を目的にしたSEJが倒産して、ソーラー発電の管理を放棄することです。環境保全のためには、管理会社が存在していなければ、全くの無責任な状況になりかねません。この意味で、このメガソーラー発電の事業が採算からすれば極めて極めて危険な環境保全に反したものといわざるをえないと考えています。再生可能エネルギーという事業目標は、投資家にとっても魅力あることと思いますし、今後の未来社会を考えていくうえで、大切な事業計画と思われがちです。しかし、その実体がともわない、逆に環境破壊になり、地域の暮らしにとって、危険性を伴うものであれば開発事業は許されることではないと考えます。

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 (2)歴史文化の破壊危惧

 

 135ヘクタールのメガソーラー開発地域は、霧島神宮に隣接していることから、古代から歴史文化の蓄積している地域です。環境保全ということは、環境保全を累積してきた歴史文化も含めて、考えるべきと思いますが、どのようにお考えですか。
 霧島神宮は、10世紀に性空聖人が修行した山麓として、神仏の教え、修験道の歴史が深く刻まれているところです。もともと天孫降臨神話伝説があるところで、日本人の心のふるさとでもあります。日本の平安時代の説話には、今昔物語や徒然草にでてくる性空聖人の話としてよくでてくるところです。
 メガソーラーの開発地区は、方法書で、文化財保護法や鹿児島県文化財保護条例に指定された埋蔵文化財、指定文化財は、対象地域に確認されなかったということで、歴史文化からの地域の環境保全という視点が全く放棄されています。霧島神宮は、建物としての文化財遺産としての側面をもつことは、もちろんのことですが、周りの自然や地域の環境のなかで存在しているのです。そして、周りの地域は、歴史的に修験道の聖の地域として、多くの人々が人間的に、この自然地域での修行によって、育っていったのです。
 霧島神宮に隣接している80メガソーラーの開発地域の扇山は、天孫降臨古跡の巨大石群といわれているところです。古代の祭祀遺跡ともいわるところです。地域の人々は扇山の石船の巨石文化を大切にして、山の神が宿るとして、大山祇神(オオヤマズミノノカミ)として敬っていたのです。その祠も現在でも扇山に残っています。80メガソーラーの開発は、これらを全く文化としてみていないのです。古来から大山祇神(オオヤマズミノカミ)という山の神様に守られながら、自然の恩恵を受けて山村の人々は暮らしてきたのです。山の掟を破れば祟りがおきるということで、人々は山の自然を大切にしながら、その恩恵を受けてきたのです。
 霧島神宮に隣接している扇山に宿る大山祇神(オオヤマズミノカミ)は、山の精霊であると同時に、水の精霊でもあるのです。山の神は里に降りれば、田の神になるのです。田の神は、冬になれば、山に戻るといういうことなのです。田の神の信仰と山神の信仰は一体であるのです。それは、山が恵みを与えてくれるということばかりではなく、里を守ってくれるということからです。
 木を伐採するときも、山の神にお祈りをしながら、自然の循環を誓ってきたのです。日露戦争によって、自然を豊かにしていこうと植林したのも地域の人々の自然循環からの恵みの願いからです。これら記念碑も扇山の巨石群のひとつに残っています。メガソーラーの山地大改造によって、それらの歴史文化遺産が消滅していく危機にあるのです。扇山は聖の山として、大山祇神の宿るところです。その保存をどのように考えますか。
 メガソーラーの開発の地域の虎ケ尾丘から待世神社に至る山道は、旧小林街道・荒襲街道といわれる道であります。小林、高原、御池、吉之元、猪子石、待世、大窪、国分と通じていく道です。古代から中世、そして、近世、近代と鉄道や自動車道路ができる以前は街道であったのです。この街道は、歴史的に様々なドラマがあったところです。島津軍と伊藤軍が戦ったときに島津義久がたびたび通った街道です。また、九州全体を統一しようとした島津軍が通った道でもあります。西南戦争のときに、西郷軍が人吉から霧島をとおり、宮崎方面にいくときに通った道でもあります。大窪から猪子石では政府軍との合戦もありました。歴史的に重要な街道であったのです。
 この街道筋には、霧島東神社、狭野神社、夷守神社など霧島山麓の重要な6所権現があるところです。まさに、古代からの文化交流のための霧島古道であるのです。6所権現は、六根清浄の修行の道で、世相の欲のよごれを洗い清めながら人間としての正しい生きる道の感覚をみがいていくことなのです。
 この街道筋の旧霧島の範囲では、猿田彦命巡行祭(メンドンマワリ)が現代も霧島神宮の行事として、春秋2回年間4回行われているのです。霧島神宮の境内をお祓いするということで巡っていたのです。東回りに80メガソーラーの開発地域が入るのです。切土・盛土によって、この街道筋が消滅していくのです。猪子石から待世に至る旧街道がなくなるのです。霧島神宮を出発して、永池、猪子石、待世、田口の猿田彦神社霧島神宮のコースです。これらの古道を歴史的文化遺産として、人々がいかにして街道筋を歩いてきたことを現代でも持続可能性の社会づくりとして保全すべきと思いますが、その保存の工夫をする考えはありますか。

 

 (3)景観破壊の危惧

 

 景観法の基本理念では、「地域の自然、歴史、文化等と人々の生活、経済活動等の調和により形成されるものであることにかんがみ、適正な制限の下にこれらが調和した土地利用がなされること等を通じて、その整備及保全が図られなければならない」としています。そして、「良好な景観は、地域固有な特性と密接に関連するものであることにかんがみ、地域住民の意向を踏まえ、それぞれの地域の個性及び特色の慎重に資するよう、その多様性な形成が図られなければならない」と地域の固有の特性の重視と住民の意向という市民参加方式を積極的にうたっているのです。

 日本の景観法では、環境保全における地域の固有な景観の役割を重視しているのです。それは、災害発生ということばかりではなく、景観に対する人々の心の癒やしの大切さ、地域の歴史文化に対する人々の精神の問題を含んでいることを見落としてはならないのです。
 霧島市田口・大窪のメガソーラーの大規模開発について、方法書では、開発区域の境界線を緑地として森林を残し、植林も多少すると書かれています。しかし、800戸以上がたち、ホテルがあり、多くの住民が住む大和の別荘地帯に行く道路は、太陽光パネルが敷き詰められた真ん中を通りますが、その緑地の工夫がなされていませんし、その道路の森林は伐採されることになっています。図2-4の土地利用計画図。
 広大な地域に太陽光パネルが25万8千枚山地の斜面に並ぶのです。このことが、国立公園隣接の自然景観に突如として、人工的なソーラーパネルの構造物が存在するということがどうなのか。景観法の理念からみても大いに問題があると考えますが、景観法ということから霧島市田口・大窪メガソーラー開発をどのように考えますか。
 霧島市田口・大窪のメガソーラー開発について、景観法の理念からの地域住民の意向、住民と地方公共団体、事業者との一体的な取り組みをどのように考えているのですか。市長や市議会が正式に反対表明していることによって、大幅な計画案の見直しや白紙撤回も含めて、その検討を専門家も含めてどのようにされたのでしょうか。具体的に専門家を含めて検討なされたことを教えてください。
 霧島市は景観法に基づき、景観条例を制定しています。そして、全市を景観区域にして、景観計画を作成しているのです。市の景観計画で、山の地域では、建築・工作物において、大規模となる場合、道路から後退させて周辺に違和感がないようにし、地形を生かして、切土・盛土を最小限にすること、法面の長大はさけること、太陽光発電設備は稜線を乱さないようにまた、土地形状に違和感をあたえないことなどの基準を設けています。
 悠久の歴史・文化に抱かれた個性ある景観として霧島市は特徴づけけをしています。それは、市内に天孫降臨神話との関係の文化遺産や伝統行事が数多くあることです。これらは、山地での森林や水の文化が深く根づき、厳しい自然条件でも持続可能性をもってきた人々の叡智が信仰の形で、自然の畏敬という住民の精神性に凝集されているのです。景観を守っていくことは環境保全、持続可能性ということが密接に結びついてきたのです。このことを田口・大窪のメガソーラー開発で、どのようにSEJさんは考えているのでしょうか。

 

  (4)観光など地域経済の打撃の危惧

 

 景観法での地域経済や観光の役割として「良好な景観は、観光その他の地域間交流の促進に大きな大きな役割を担うものであることにかんがみ、地域の活性化に資するよう、地方公共団体、事業者及び住民により、その形成に向けて一体的な取り組みがなさなければならない」としています。
 旧霧島町の地域経済にとって、観光と農業は大きな位置を占めています。そして、近年は、高齢化時代のなかで老後の癒やしの暮らしとして、自然のなかで暮らすことが注目を集めています。別荘地は高齢者の住む住宅地に変わってきています。そこには、医療や介護施設が地域に新たに充実して、ひとつの地域の働きの場になっています。これらは、豊かな自然環境と安心してくらせるセーフティネットあってのことです。
 霧島市の旧霧島町田口・大窪に計画されている大規模なメガソーラー計画は、地域住民の安心・安全に大きな恐怖感を与え、また、景観も大きく損なうことから地域経済に大きな打撃を与えると想像されます。旧霧島町は、安心・安全の農業を積極的にとりくみ、それを観光業として結びつけて、六次産業として、未来型の地域経済振興を起こしています。これは、20年後に操業の存続を検討するという田口・大窪のメガソーラー計画とは全く異なります。SEJさんのメガソーラー計画が地域の環境破壊に導くならば、地域経済に大きな打撃を与えると思いますが、どのように考えますか。環境保全という視点から地域経済の振興のこともぜひとも考えてほしいと思います。

霧島山麓の歴史文化からSDGsを

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霧島山麓の歴史文化からSDGs

   神田 嘉延

 地域の歴史文化からSDGsをみる意義

 2015年に国連は、持続可能な開発目標(SDGs)を採択した。この国連の採択によって、各国政府、地方自治体、企業、非政府組織、教育機関などが、17の持続可能な開発目標にとりくみはじめています。17の持続可能な開発目標は、個々の目標にそって単独に考えるのではなく、総合的にみていくことが大切です。同時に様々な側面からの地域での生活や経済活動でみていくことが求められています。その際に、地域の自然地形や歴史文化からの継続性から未来への持続可能な地域社会の構築が重要になってくるのです。
 
現代の水をめぐる問題状況とSDGs

 異常気象によって、日本は水害に会う機会が増える今日です。現代は、干ばつと水害が世界各地で起きています。日本で暮らす人々にとって、地球上は、水が豊富であるように思われます。しかし、地球上で人間が生きるために利用できる淡水はわずかなのです。21世紀は、水の危機といわれるように世界の各地で、水をめぐる紛争がほっとおけば激増します。
 水をめぐる紛争は、格差・貧困と差別の問題がよこたわっています。水の危機の対応には、環境問題ばかりではなく、発展途上国の貧困問題、女性、子ども、高齢者の社会的弱者に配慮しての持続可能な開発目標(SDGs)が求められているのです。

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 SDGsから霧島の自然と歴史文化の特徴

 

 霧島山麓の自然地形と歴史文化の特性から未来への持続可能な開発目標をつくっていくことが求められているのです。

 霧島の自然地形は、古期から新期にかけて幾重の火山活動で20あまりの火山体があって、多くの火山湖があるのです。そして、水が地下深く山の下に滞留しているのが特徴です。

 豊富な水の存在は、縄文晩期からの水田開発が都城で発見されています。霧島山麓は、天孫降臨の神話があるように、文明の発生が早くから行われていたのです。そして、潅漑用水事業によって、多くの水田が開発されています。江戸時代に開発された潅漑用水事業は現代でも利用されているのです。
 ここには、ミネラルの豊富な淡水があります。霧島の天然水は、炭素イオン、マグネシウムを含む豊富な水、体を構成するマルチプレイヤーシリカ水を含むものです。

 温泉の多いのも自然地形の特徴で、独特の風景と共に心の癒やしの場にもなっているのです。溶岩凝結岩が河の浸食によって、滝になったり、甌穴になったり、また、豊富なわき水も各地にあり、自然の芸術品がつくりだされているのです。
 霧島山の深部にエネルギーが蓄積しております。明治から水力発電所が各地につくられ、近年になって、地熱発電所がつくられているのです。
 

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 SDGsから霧島山麓での水とエネルギー

 

 300年以上継続して、維持されている潅漑用水路が小水路発電に利用できる技術開発が行われ、その導入経費の安価化も工夫されている時代です。水力を利用して、複合的に太陽光、バイオマス発電、蓄電装置、地域の送電線網など、地域でネルギーがまかなえるスマートコミュニティづくりの時代も到来しているのです。この未来へのエネルギーの地産地消のしくみづくりに、300年以上も継続している潅漑用水事業の過去の歴史から学ぶ意味は大きなものがあるのです。
 日本は水田の稲作によって、農村では、潅漑用水路が各地につくられています。潅漑用水の開発には、多くの地域の人々が動員され、その後の維持のために、地域の共同体の力が大きな力をもったのです。現在でも土地改良区、水利組合としての地域の共同事業が継続しているのです。
 継続的に豊かな水が供給していくたには、水源の確保として、森林の役割が大きなものがあります。法律によっても水源としての森林の役割を明確に位置づけられているのです。入会権、地域の共有林は大きな意味を歴史的にもってきたのです。

 

 日本の自然地形から水力発電所が大きな意味をもっています。水力発電所は日本を救うといわれるほどです。自然とのつきあいをうまくやっていかねば、自然からしっぺ返しされるのです。これが日本の厳しい自然条件です。うまくつきあえば日本はすばらしい自然の恩恵があるのです。自然と上手に共生していく水力発電所はその典型です。
 例えば、天孫降臨の神話がある南九州の霧島はカルデラ地形から急に流れ落ちる河川の傾斜地域が多いのです。この地形を利用して、明治後期から大正期にかけて水力発電所が積極的に作られたのです。水力発電所は、地産地消費のエネルギー開発として、今後に重要性を増していきます。
 

 個々の家族農業と集落の共同体、森林の共同管理の意味があるのです。この意味で、過疎化が進む中で、その機能を維持することが難しくなっている状況で、新たに地域の小農・森林を維持するための社会的組織が必要なのです。協同組合、ワーカーズコープ、NGONPOなどの新たな動きも生まれています。

 また、積極的に新たな市場を開発していく社会的課題に取り組んでいく企業の役割もあります。森林・竹林を自然循環させるための有効な管理のため、また、複合的な農業経営のために、バイオマス発電の積極的な利用も可能になっています。地産地消のエネルギーということから、今まで捨てられていた農産物残渣を資源として、農家が個別に有効に利用できる小規模なバイオマス発電プラントの導入も必要なことです。

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 霧島山麓地域での300年以上続く開墾用水事業

 

 松永地区には灌漑用水を守るために、災害防御用の石橋アーチがかかっています。そこでは、河川水を落とす段差工事がされています。この石橋アーチのスパンは3.5メートルで、橋の長さは13.3メートルです。1777年の改造の碑銘があります。近世時代の貴重な災害防御用の石橋アーチです。水を分散させて水害から灌漑用水路を守ろうとしたのです。
 ところで、霧島山麓水系は積極的に開墾が行われました。鎖国令の後に、広瀬川は川筋の大工事を4年間で行います。1666年に完成し、新たな新川をつくり、川筋が5000石高の新田になったのです。川筋の開墾は自然の復元力によって、大雨が降れば水があふれやすい地形です。現代でも水害の防災対策として、歴史的地形を知ることは大切です。
  国分平野の天降川の川筋直しの完成によって、河川の氾濫をなくし、新たに400ヘクタールの水田をつくったのです。この水田整備の完成は、1716年です。約50年かけて、河底の整備、排水路の整備、新田開発をしました。
 国分平野の用水路の整備は、小村新田・1851年120ヘクタール、松永用水・1671年396ヘクタール、平溝(清水新田)・1672年143ヘクタール、宮内原用水・1716年317ヘクタール、重久中台用水・江戸後期76ヘクタール、五ケ村井堰1672年350ヘクタールがあります。

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霧島市教育委員会主催「天降川川筋直しと宮内原用水」企画展パンフより


 用水整備事業には多大な経費と尽力を要して、自然地形から極めて複雑な難工事であったのです。宮内原用水は取水口から12キロに及ぶものですが、高低差は、17メートルということで、極めて平坦な勾配で、100メートルで5センチという測量技術の正確さを要求されると同時に、嘉例川と西光寺川を横断する工事でした。また、取水口は大きな岩が多く、山地をぬけるということで、隧道工事を強いられました。そして、暗渠、放水門などの設備が必要な難工事でした。
 その潅漑面積は、436ヘクタール(現在は344ヘクタール)です。隧道は、上から何カ所も井戸を掘って、井戸の底部を横に掘って、つなぎ地下トンネルをとおしていったということです。そのトンネルを大きくするために取水口近辺の本流の天降川をせき止めて、上流から水を流して、土砂を水力によって崩していく方法をとったのです。
 

 嘉例川を宮内原水路が横切るために、潜り工法がとられています。合流点からおよそ30メートル奥まったところに隧道を掘って潜らせています。そして、川のこの付近の高低差は岩石の落下が頻繁に起きる地域ですので、嘉例川の底部を石組みで補強する工事をしているのです。西光寺川でも宮内原用水路を横切らせるために同様な工事をしています。
 国分平野には武士の麓集落と郷村制が国分郷、清水郷、重久郷、日当山郷村と存在した。これらの郷村が統一して国分平野の用水路と開田をして、産業の発展と治水事業をしてきたのです。山の整備も薩摩藩の林野やそれぞれの村の林野を整備して森林の管理と治水事業を結びつけることから植林の奨励もしたのです。
 

 現代的にも300年前の事業は、地域社会の循環機能として機能しているのです。SDGsを考えていくうえで、この300年以上続いている潅漑用水を積極的に評価していくことが大切です。この用水事業は、持続性、防災機能を充実していくうえで大切な見方を提供してくれます。

 

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 SDGsから霧島山麓での新たな水力発電

 

 重久発電所は2015年2月より売電を開始しています。出力980kwで一般家庭1500世帯にあたります。小水力発電所が新たに注目されているなかでの現代的創設の水力発電所です。
 110メートルの落差を利用しての発電で、1年半の工事で完成しています。小水力発電を推進する九州発電株式会社がつくったものです。
 この地域は県道が走り霧島神宮方面や都城に行く大切なところですが、水力発電所が防災対策機能も含めて注目されるところです。発電所の途中の県道に水害を忘れないようにという掲示板があります。発電所ができたことによって日常的地域の環境点検も行われています。


 霧島市霧島田口の神話の里公園の下にむかしからの田口土地改良区の用水路がありました。この用水路は地域の人々の祖先が苦労して田んぼの開墾のためにつくったものです。そこに平成30年小水路発電所をつくりました。最大出力39キロワット、年間30万キロワット時で全量を売電して、年間1000万円の収入を得ています。misumi株式会社が運営しています。

 完全従属型発電で全量を用水路を管理してきた土地改良区組合に戻しています。まさに、昔からの田んぼの用水路を利用しての自然環境にやさしい発電方式です。
 売上の5%は土地改良区に還元されています。水利施設の維持や賦課金低減にあてられています。田口用水路は取水口から末端の田んぼまで標高差は200メートルあります。64ヘクタールの田んぼです。
 高密度ポリエチレン管やコンテナ型ユニットを利用して土木工事などを大幅に短縮しています。約3カ月です。水圧管路210メートルで有効落差25メートルを利用して発電しています。

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 霧島山麓でも焼酎粕からバイオマス発電

 霧島山麓の都城には霧島酒造という日本一の生産量をもつ焼酎メーカーがあります。霧島の天然水を地下100メートル掘って霧島烈か水という火山灰土壌での岩石にたまったミネラル豊富でまろやかな水をくみ上げて焼酎にしているのです。
 ここでは、焼酎粕を発酵させてメタンガスをつくり、44%は焼酎製造工程のボイラー用燃料にしています。56%はバイオマス発電に利用しているのです。2018年6月現在で850万kwh/年発電量で2000世帯以上の電力を売電しているのです。発酵させてメタンガスを抽出したサツマイモの焼酎粕は堆肥として利用できるようにして、各農家に戻しているのです。地域での循環システムをつくりあげています。


 鹿児島や宮崎は焼酎製造会社が各地にあります。サツマイモの生産地でもあります。各焼酎製造メーカーが霧島酒造のように焼酎粕を発酵させてメタンガスをとるようにしていくには、どのような課題があるのか資金面や財政的な補助、新たな地域電力市場の創出、その経営運営の住民参加までも含めて検討していく課題があるのです。地域での再生可能エネルギーの可能性としてみていくことが求められると思います。

 

 家畜糞用尿からバイオマス発電


 隣接し霧島市での高千穂牧場のように家畜の糞尿を利用したバイオマス発電もあります。南九州は畜産地域でもありますので、その地域循環型の発電の可能性は大いにあるのです。農業や農産物加工での地域での再生可能エネルギーの可能性は高いのです。
 霧島市の高千穂牧場は観光地として日曜日や祭日には家族連れで大勢の人が訪れます。動物とふれあう場でもあり、子どもたちが羊とたわむれ、牛の乳しぼりも人気があります。
 ここでは家畜牛の糞尿を発酵させ、そのメタンガスを利用して、バイオマス発電をしています。温室効果ガス減少にも貢献します。そして、堆肥として牧草地に戻しています。未来への循環型の持続可能性をもった環境にやさしい観光酪農を展開しているのです。

 

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SDGsから大義による企業経営のあり方

 

 市場経済のなかでの企業の継続的な存在は、市場競争に打ち勝つことが求められます。企業は、常に市場との関係で社会的ニーズに対応しなければならない。そして、企業が生きていけるのには、社会のニーズの変化によって、企業の変革が必要になってくるのです。イノベーションマネジーメントは、企業の戦略にとって不可欠なのです。社会的なニーズは多様です。そこには、社会的大義に反することもあります。経済的な価値と大義の社会的な価値は、短期の利益のことからは一致しないこともあるのです。社会的な大義、社会の進歩を長期にみていくことは、長期的に継続的に企業が存続して、発展していくために不可欠なことです。

 企業は、何をめざして変革していくのか。企業本来の目的は、単なる目先の利益ではなく、長期的に共通価値の創造ということで、経済的価値と同時に未来への社会的価値を創出し、企業と地域社会が共同で価値を創造する経営戦略が問われる時代です。(経営学者のマイケル・ポーターより)
 持続可能の地域社会の大義のもとに賛同した多くの環境NGO環境保護を推進する行政、市民の後押しに受けてのビジネス市場を拡大していく時代です。

 企業は損益計算や現金収支、連結決算などの経営成果をはかるモノサシに社会的価値を導入していくことが必要な時代としているのです。経済のエゴシステムからエドシステムの時代で、市場創造・拡大に社会的課題としての経営戦略が求められるのです。社会的課題として、10年単位の長期計画と短期の計画という2つのレンズからの経営のサイクルが必要とするのです。

 企業は会社全体で考えの共有をはかり、取り組みの意志決定を社員全体のものにするために話し合いは重要なことです。PDCAという経営サイクルのなかでSDGsの視点と結びつけていくことです。PLANのなかでもSDGsとの関係で、取り組みの行動計画を作成し、会社内での理解と協力が不可欠です。DOということでもSDGsの視点を加味して取り組みを実施し、結果を評価していくことです。取り組みの状況の確認と評価というCHECKは、取り組みの記録から結果を評価して、レポート作成をしていくことです。そして、取り組みの見直しというACTでは一定の取り組みを整理し、外部への発信し、次への取り組みを展開していくことです。これらのPDCA

というサイクルのなかを短期のことはもちろんのこと、長期的な視点からも捉えていくことがSDGsというしてんからは、求められるのです。

 経営には1年という短期のサイクルは、否定するんものではありません。具体的に損益計算をしていくのも短期の計画がなければなりたっていきません。この短期の経営計画に、長期的な計画のなかで位置づけしていくことが必要なのです。経営を社会的な大義という側面は、長期的計画があってこそ意味をもってくるのです。長期計画を短期のなかに押し込んでいくことが必要なのです。SDGしは極めて長期的な経営目標のなかで位置づけられていくのです。短期計画という時間的に狭い範囲では、難しいのです。


 企業は、SDGsの主体になるのです。多くの企業がSDGsのスローガンをあげはじめていることは重要なことです。企業のあり方も大きく変化していく時代です。働く人々と経営者が協働の力で、SDGsをもとに未来社会を模索していく時期です。この際に考えなければならないことは、働く人々が意欲をもって人間らしく活躍できるように経営の参加民主主義を充実させるためであり、そのための教育や研修に力を入れていくことです。

 

 現代は、SDGsから経済成長のあり方が問われるのです。GDPの再検討が求められているのです。豊かさや社会進歩は、よりよい暮らしを指標にしていくことが求められているのです。それは、住宅、収入、雇用、コミュニティ、教育、環境、健康、人生の満足度、安全、ワークライフバランスなどBetter Life IndexとOECDは求めているのです。貧困を生まず、格差を広げないように、資源の枯渇や自然破壊ではなく、人間らしさを大切にする労働、持続可能性の地域社会をつくっていくことです。国連が提唱する社会開発や人間開発の指標が大切になっているのです。
 

 新たな経済成長の定義のための指標と地域SDGs経営

 

 SDGsは、ベーシックなヒューマンニーズである貧困や飢餓の克服、健康と福祉、教育、ジェンダー平等、安全な水とトイレなどが土台としてあります。達成のための前提条件に、平和とあらゆる人々の社会的参加、司法のアクセス、あらゆるレベルの説明責任が求められているのです。

 そして、グローバル・パートナーシップの活性化としています。 さらに、持続可能な経済として6つの開発目標をあげ、財政、社会保障、労働政策により深刻な状況の克服をあげています。また、3つの環境保護の持続可能な開発目標をあげています。

 

 環境自治体の採択


 環境自治体会議の2015年の採択では10項目をあげています。1,庁内環境配慮、2、エネルギー、3,交通・都市基盤、4,水環境、5,生物多様性、6,廃棄物・資源循環、7,地域資源活用型まちづくり、8,環境行政、9,環境学習・ESD、10,地域協働

 この環境自治体に参加するのは、正会員30と日本の自治体の全体の数からみればわずかでであるが、10項目の基本的な視点から、それぞれの特性から持続可能な地域循環的な未来社会へのとりくみをはじめているのです。水と生物性多様性というをことを大切にしての地域エネルギーや地域資源を生かした地域の創成活動をしているのです。2020年からを組織を人づくり、共生、循環を大切にして、SDGsの達成に向けたに再編するとしています。

 また、地域エネルギーや共生と循環社会の創出によって、地域での雇用を新たに生み出していくことも求められているのです。地方は、人口減少が著しく、過疎化が進行しています。

 過疎化は、豊かな自然の地域資源を生かして、循環社会を創成していくために大きな障壁になっているのです。どのようにして、地方での労働力を確保していくのか、都会の若者に対する地方で生きるロマンを具体的に示していくことが必要なのです。外国人労働者の受け入れについても同様です。日本で働くことによって、夢のある未来へとつながっていくことが不可欠です。そのためには、地域の日本人と共に夢を語り合う共同の学びと国際的なパートナーシップの精神によって、日本語・日本文化を習得させる義務が受け入れる側としての最低の義務なのです。

 

 海外依存と産業の空洞化のなかで新たな日本の地方産業再生

 

  経済のグローバル化は安価な労働を求めて発展途上国に工場の進出が急速に進んでいます。また、食糧の自給率が38%以下と、著しいが低下がみられます。エネルギーの自給にとっては、化石燃料で依存極めて深刻です。循環する経済にとって、グローバル化は、サプライヤーチエーンとして、部品や原材料の調達が日常的な地域からより離れ、災害、ウイルス感染等の公衆衛生の危機、国際紛争などで多くのリスクを背負うようになっているのです。持続可能な循環する経済から遠ざかっているのです。

 

 地域資源を生かした技術科学の進行が切実に求められている時代です。日本の豊かな森林・竹資源を生かしたセルロースナノテクの科学技術による鋼鉄よりも何倍も強く、軽量である素材の構築、畜産や焼酎粕などの食品加工残渣をバイオマスエネルギー利用、水田地帯の潅漑用水や山間の傾斜地の小川を小水路発電に利用、公共施設の建物や自社施設内の屋根や構造を利用しての太陽光発電などによる地産地消の地域循環のエネルギー創出というスマートコミュニティのしくみなどを構築するなど大きな課題があるのです。

 

短期的利益追求型ビジネスから長期的な土台の経営

 

 Sdgsを経営に積極的に提唱するモニターデロイトなどの論は、短期的利益追求型のビジネスから長期的土台のうえに、環境問題や社会的課題を積極的にとらえて、資本主義による社会的な副作用を抑えて社会的価値を創造していくことが求められるというのです。短期追求型ビジネスは短期利益の最大化、コストの最小化ということが社会的課題のブーメランになるというのです。

 それらは、安全衛生問題、低賃金、社内格差、不安定雇用、汚染、乱獲、伐採というミクロ課題から激甚自然災害、資源枯渇、政情不安、国民の健康・教育レベルの低下、政府財政の蔓延などのマクロ課題が起きて事業への影響も大きく起きるというのです。物流の断絶、調達の不安定ということで、市場や規制における予測可能性の低下、生産性の低下、消費ベースの縮小、租税・社会保障負担の増大が起きるというのです。

 その制御としては、外部規範の顔、法令や規制、投資家からのチエックが必要であるとしています。そして、積極的に市場開発のために、SDGsがあるというのです。長期的土台の上にSDGsの経営があるのです。自社の事業を支える自然資本や人的資本、社会資本を持続的に確保することで、事業が持続可能性をもつことができるというのです。企業の存在を長期に生存させるためには、経営の内発的動機として、社会課題起点の市場創出、再エネ市場の拡大、外部の利益関係者の関心に合致するルール形成などの攻めの新たな市場開拓があるとするのです。

 

 企業の大義とSDGs

 

 先進企業は、大義によって賛同した多くの環境NGO住民運動環境保護を推進する議会、行政、政府、地方自治体、消費者である市民の後押しを受けて環境ビジネスの市場拡大をつくりあげることが求められているのです。

 社会的課題に積極的に企業がとりくむことは、企業の大義力により、それは、新事業の創出によって、企業の力を大きくし、競争力にもなるのです。企業の大義力を組織的に強くしていくうえで、企業で働く人々の経営参加が極めて大きく、職場内参加民主義の形成が不可欠なのです。

 現代社会は、格差問題が大きくあります。職場の参加民主主義の問題でも雇用の保障、給与の問題、労働条件も忘れてはならないのです。問題は、働く人々が人間らしく豊かに生きがいをもって、未来への人類的課題に向かって意欲的に働けることです。また、企業の行動原理としての「利益の最大化」や「競争に勝つ」ということが、結果としての富の分配をどのようにしていくのかという課題があることを決して見落としてはならないのです。

 SDGs時代の新たな経営モデルの変化には、それらのことを要求しているのです。変革は企業のエゴシステムからエコシステムという社会的価値による新たな市場創造・拡大にあるのです。社会的課題の創出・拡大ということは長期の計画になってきます。経営には日進月歩の変化していく市場競争のなかで生きていかねばならない側面があります。

 とくに、資本規模の小さい中小企業にとっては、短期的経営目標によっての経営が余儀なくされます。大義のもとに長期的な経営計画と短期の経営計画という2面から経営のサイクルが必要になってくるのです。長期の大義の経営計画を継続していくうえで、個々の経営者、個々の企業ばかりではなく、社会的に支援していくしくみづくりがなければ実現しないのです。この意味において、業界団体、市民運動NGOとの連携、政府や地方自治体との連携などが不可欠になってくるのです。

 これらの技術を地域に確立して、そのシステムを輸出していくこともグローバルパートーにとって大切なことです。企業は積極的にエネルギーを自社や施設や近隣の施設で再生エネルギーを創出していくことが求められているのです。この企業のとりくみを社会的にして評価して、経済的価値ににつながっていくしくみづくりが求められているのです。

 

  SDGsによる地域創成と住民参加

 

  アメリカの社会学者のアーンスタインは行政への住民参加の最終目標を住民自身が主導して管理していけるように実効性ある市民自治をあげています。それに至る過程を8段階あげています。

 最初の段階は行政主導のまちづくりで世論操作による説得的な型です。そこには、当然市民からみるならば、ごまかしもあるのです。そして、第2の段階は不満をそらす操作でガス抜きをすることです。このふたつの段階は 住民の不参加の状況です。

 第3の段階が住民に情報を一方的に提供する段階です。そして、第4段階は意見聴衆したり、住民協議との協議をしたりすることです。これは形式的な意見聴衆です。第5段階は形式的な参加機会の増大です。ここでの行政は住民の意見のいいどこどりで、懐柔的な役割をもつということです。

 第6段階からが住民の権利としての参加のはじまりです。この段階から住民と行政が共に考え、共に行動するという協働というパートナーシップを築いていくことです。そして、第7段階は一部権限を住民に委任していくことです。第8段階の住民の参加最終目標は住民自身が管理して、住民主導になっていくことです。この8つの段階をアーンスタインは行政への住民参加として考えるのです。

 実効性ある地域住民の行政参加は、住民自身が自ら管理していけるようになっていくということです。ここには、地域住民の社会的合意形成がなければならないし、SDGsの17の目標のように、問題解決には科学的合理性が要求されます。住民自身の学びと専門性、合理性という専門家の役割も大切になってくるのです。地域住民の社会的合意形成には地域における多様の関係者があり、その意見も様々であり、それらをどのように合意していくのかという地域における寛容の精神形成の課題が大きくあるのです。それぞれのエゴから、多様な意見や要求からの合意形成という市民的公共性への課題があるのです。ここには、寛容という精神形成が極めて大切なのです。この8つの段階を考えていくうえで、行政における住民参加の成熟性をみていくうえで、学校教育での地域課題解決の方法や自治の形成課題、住民自身の学びを決して忘れてはならないことです。

 

 

 


 

 

水と平和

  水と平和

    鹿児島大学名誉教授 神田 嘉延

 

 (1) 水と紛争

 

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 異常気象によって、日本は水害に会う機会が増える今日である。現代は、干ばつと水害が世界各地で起きる時代である。日本で暮らす人々にとって、地球上は、水が豊富にあるように思われがちである。しかし、地球上で人間が生きるために利用できる淡水はわずかである。21世紀は、水の危機といわれるように世界の各地で、その紛争がほっとおけば激増するとみられる。


 また、水をめぐる紛争は、格差・貧困と差別の問題がよこたわっている。水の危機の対応には、環境問題ばかりではなく、発展途上国の貧困問題、女性、子ども、高齢者の社会的弱者に配慮しての持続可能な開発目標(SDGs)が求められている。国連は、2015年の総会で持続可能な開発目標を採択したのである。持続可能な開発目標にとって人間の能力開発という教育目標は重要な課題になっている。そして、平和なくして、持続可能な開発はありえないとしている。


 ところで、地球上の水の97.5%が塩水で、淡水は、2.5%である。しかし、湖・河川、浅い地下水で人間が利用できる淡水は、極めてわずかである。淡水の70%は南極と北極にあり、それ以外の淡水も地下800メートルである。地表の60倍も帯水層という地下水である。 

 人間が生きていくうえで必要な淡水は非常に少ないのである。世界の人口の4分の1が飲料水を地下水に依存している。水は本来人類の共通の資源として、地域でそれぞれ共有してきたのである。


 水の共有の掟が、植民地的なモノカルチャー経済や緑の革命という農業生産力の飛躍的増大によって、大きく変わった。それぞれぞれの地域や地方ごとの食糧生産から輸出のためになった。乾燥地帯での適切な排水のない過剰な潅漑用水が土地を砂漠化していくのである。

 過剰な耕作は、世界の各地で行われ、土壌の劣化が起きている。水をめぐる紛争は、モノカルチャーという植民地的な単一の農業生産や緑の革命という飛躍的輸出のための農業生産によって、起きるようになったことを忘れてはならない。食糧の輸入は他国の水資源からである。


 そこでは、井戸が涸れ、河川や湖沼が干上がる現象が起きる。地下水位の低下と化石水が減少して、太古の水の循環性が崩されていく。過剰な揚水が世界各地の穀倉地帯で起き、農地の栄養分が消滅しているのである。また、化学肥料、窒素肥料を多量に使う大規模な集約農業は、河川を汚染していく。
 さらに、多頭飼育の畜産業は河川の糞尿汚染を作り出していく。沿岸漁民は、森林を水源とする豊富なミネラルを含んだ河川の栄養素によって、プランクトンの繁殖で、魚が集まってきた。多頭飼育による河川の汚染によって、漁民と畜産農民の対立が起きるのである。紛争を解決する方向性として、漁民と農民が共同しての水源地域に植林運動をしている事例もみられる。

 

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 淡水の利用は、農業用水ばかりではなく、家庭用水と都市活動用水の生活用水と工業用水がある。工業用水は、使用量が急増しているが、近年の特徴として、工業用水を循環的に回収利用するようになっている。大和総研国土交通省の資料から2009年度の水利用可能な水源源賦の20%が利用されているとしている。それによると農業用水544億m3、工業用水116億m3、生活用水154億m3である。農業用水は、1990年がピークである。仮想水利用量は、日本の農業用水利用よりも上回っている。


 工業用水は、実際の使用量は、1965年から2000年度まで3倍になっているが、循環式の回収水の普及で淡水の利用が減少しているのである。工業用の淡水量供給の2009年は100億m3で、1970年150億m3である。生活用水量は、2000年度をピークに減少している。


 産業革命による工業の近代は、多くの淡水を利用するようになり、さらに、その処理の仕方も垂れ流しという水の汚染からの公害問題を起こしたのである。渡良瀬川足尾鉱毒事件、神通川イタイイタイ病を起こした。さらに、水俣病の原因になった窒素会社の水銀垂れ流しの問題などが起きた。

 

 これらは、永い年月をかけて地域住民と会社の対立を生んだのである。これらと同様な事件は、世界各地に起き、現在も起きている。水の紛争問題を考えいくうえで、公害の問題は近代の工業化や植民地経済にとっても大きな問題を歴史的にもったのである。今でも、この問題は完全に解決しているわけではなく、発展途上国では、いまだに大きな課題になっている地域がある。


 世界人口の8億人近くが栄養不足で暮らしている現状である。先進国では、飽食状況で、食品ロスから多くの食糧品を破棄している。世界全体でつくられる食品生産量40億トンのうち、13億トンがすてられている。世界中で飢えに苦しんでいる人々に食糧援助しているのが320万トンである。日本では、その2倍の621万トンの食品がすてられている。日本は、37%以下という低い食糧自給率の国であるが、食品をすてる国民になっている。


 世界人口の40%は、2ヶ国以上の共有する河川水系に依存している。例えば、メコン川は、上流の国が中国、ミヤンマーであるが、メコン川の国際会議の正式メンバーは、タイ、ラオスカンボジアベトナムである。中国とミヤンマーはオブザバーである。複数の国にまたがるメコン川を共同で管理している。複数の国での下流の国は弱い立場にある。また、河川の権利を武力によって、独占している場合もある。


 イスラエルの水源の多くは、占領地に源を発している。パレスチナの人々は水を自由に利用できない。イスラエルの人々は水を自由に使い、豊かな農業を営み、何不自由なく庭に水をまくことができる。一方でパレスチナの人々は飲む水にも苦労している。シリアがヨルダン川から分水しようと1965年にイスラエル空爆してあきらめさせた。


 タイ東北部では、雨期と乾季が明確に季節によってわかれているが。そこでは、森林と水田によって、伝統的に人々の集落での生活がされてきた。キャッサバによるデンプン生産を行う外国資本の影響で大規模開墾のために広大な森林を伐採した。また、パルプ生産のために生育のきわめて早い外来のユーカリを植えた。


 この結果、地表の植生による保水能力が失われ、水の自然循環が破壊されたのである。乾季のときに河川の水が流れなくなる。地域全体に、地下水の塩分が地表にあらわれるようになり、あちこちの畑に塩がたまるようになっていく。地下深くにあった塩の岩盤が地下水の上昇によって、塩害被害が起き、砂漠化していった。もともと、地下を掘って塩田生産が行われていた地域で、地下に塩の岩盤があることは知られていたのである。


 2011年にタイのチャプラヤ川では、大洪水が起きた。ここには、7つの工業団地があり、8000以上の企業が浸水被害を受け、その半数以上が日系企業であった。直接経済損失1兆円、機会損失4兆円という莫大な被害であった。

 

 経済のグローバル化によっての海外の工業立地において、災害リスクは大きな課題であることが認識されたタイの大洪水であった。日本企業の自然災害リスクの認識不足ということで、海外であれば、その被害が甚大になるのである。目先の関連企業との近さや交通や物流の便利さだけではなく、河川などからの自然災害ということも視野に入れておかねばならないという教訓である。

 

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 日本は、世界で最も豊かな水の資源に恵まれている国であるが、世界の水に頼って経済が成り立っていることを認識しなければならない。日本の農産物輸入品などの外国からの輸入品を生産するために使われた水を仮想水貿易とするが、2016年度の輸入品から東大教授の水文学専攻の沖大幹氏の試算によると年間640億立方メートルとされ、世界最大の仮想水輸入国になる。食糧の自給率が低いことから農産物輸入が大きいことになる。日本の潅漑揚水量は、572億立方メートルといわれることから、それを上回る仮想水輸入国になっている。まさに、日本は、世界の水を犠牲にして、国民の生活が成り立っている経済構造である。


 沖教授は、一国だけで幸福はありえないとして、グローバル化した世界で、良くも悪くも相互依存が高まっているため、運命共同体になっているとしているとしている。シリアの内戦などに大量の難民が欧州におしよせ、大きな社会問題になった。水や気候変動などで地球規模の難民が高まると考えられ、水、エネルギー、食料を適切に利用できる社会基盤の必要性を強調しているのである。

  沖大幹「水の未来」岩波新書、130頁


 水は人間の暮らし、産業にとっても不可欠の資源であるが、その地域性をもって自然の循環性の資源である。地球の生態系を維持する自然循環として、人類の共有財産であることがあらためて重要になる。水は生命の源である。また、水資源は、地域的に偏在しており、その恩恵を受けるためには、人類的な管理運営が求められる。


 人々は、生きるために水の権利をもっている。水資源は貯水量ではなく、基本的に循環している資源としての水であり、ローカル性をもっている。それは、地理的、季節的にも大きく異なる。


 2000年に国連総会でミレニアム開発目標として、採択された安全な飲料水を確保できない人々を2015年までに半減していくということは、世界に多くの人々が飲料水の確保に苦労している緊急性を示した。ここには、安全の飲料水の確保には、汚染された水を浄化していく整備の問題をも含んでいる。


 水道水の普及は、汚染された水で生活している人々を衛生面から救うために不可欠なことである。水道水の普及がなく、居住している近くに飲料水の確保が難しい地域では、家事労働のひとつとして、女性の水くみと運搬の過重な仕事がある。女性の過重労働の解放ということに、水道水の普及による飲料水などの生活水の確保の問題がある。

 

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 例えば、鹿児島県の離島では、飲料水の確保に、どの集落も苦労していた。そのなかで女性の水くみの労働は大変なものであった。
  沖永良部の知名町瀬利覚に、水が湧き出す場がある。地元の人々は、ジッキョヌホー(瀬利覚の湧水)と。平成の名水百選に指定されている。それぞれ、飲み水等の生活用水、洗濯場、水浴場と使い道によって、区画の区分がされている。この地は、地下の暗川のはずれで海に近い、自然条件から生活のための水くみの過酷な労働から解放された恵まれたところである。飲み水、炊事・洗濯と人々が生きていくうえでなくてはならな水。湧き水のない地域では、暗川を掘り当て、きついがけ下まで降りて、水をくみ上げて、運んでこなければならなかったのである。


 現在は、水道の普及によって、その生活的な役割は終えているが、昔から、聖なる場であると共に、人々が水をくみながら、洗濯をしながら語り合う場でもあった。また、子ども達の水遊びの場でもあったのである。村人にとっての共同の心が通い合うところでもある。そこから、水に感謝する地域の文化が生まれ育ったのである。


 沖永良部では、聖なる泉として水神を祀るショージゴーがある。内城にある世之主墓の西方の谷間でショージゴーが行われていた。元旦の早朝に、全家庭では、若水汲みの行事を主婦が黄金水と称して神棚に供える。ショージゴーでは、水で手足を清め、洗米つくって水にささげ、自ら頭にのせ、そして、その水をくんで家の神様にささげることをしてきたのである。


 家の人が亡くなった数日後は、神の行事をする。その人は、ショージゴーとしてユタに指名された人が行う。ショージゴーは後年になると、近くの泉や井戸を掘って水がでるようになるとショージゴーと称する神移しがおこなわれる。現在は水道の普及によって、その行事やショージゴーという信仰を消えている。
 沖永良部の水の文化を大切にしていくために、瀬利覚の人々が中心となって、文化財として保全し、それを地域の祭として盛大に行っている。現在は水道の普及によって、暗川の役割はなくなっているが、明治、大正、昭和と長い年月にわたって、暗川は活躍したのである。この暗川は、住吉、正名と二つの集落の水源であった。水桶を頭に載せて、あるいは肩に担いで高低20メートルの階段を利用しての水の運搬は重労働であったのである。この仕事は、主に女性の仕事であったことに注目する必要がある。


 明治以前は、さらに厳しい労働であった。明治のはじめに、破裂技術の進歩で、岩盤を切り開いて、高低20メートルの階段のついた通路をつくったのである。それ以前は、水源に至るまで、非常に狭い通路であった。その通路は、水の上から六寸、横幅3尺、水の深さ一尺である。常々衣服を脱ぎ、腹ばいになって桶を脇に挟み水中をもぐるようにして水を汲んでいたのである。


 明治文明開化の世の中になったということで、破裂技術の発明がされたことを知り、島役人たちは支庁に訴えた。そして、支庁は直ちに現地調査を行い、民の苦しみ痛んでいる実情を本庁に具申したのである。県知事から技術者6名が派遣され、公費で無償で明治9年に完成させたのである。


 ところで、2015年に国連総会は、持続可能な開発目標(SDGs)の内容を全会一致で採択した。この開発目標では、5つのPを最重要として位置づけた。それは、人々、地球環境、繁栄、平和、連携という5つである。平和の課題では、持続可能な開発なくして平和はありえないという提起である。


 食糧安全保障では、優先事項として飢餓を撲滅し、あらゆる形態の栄養不良の解消をあげている。後発開発国での小自作農や女性の農民、遊牧民、漁民への支援を通じて、持続可能な農業、漁業発展の資源に注ぎこむ必要があるとしている。また、水とエネルギーのより有効な活用を通じ、都市活動や人々の健康と環境に有害な化学物質の負のインパクトを減らすと考えている。


 ここでは、天然資源、海洋、生物多様性の鍵は、天然資源の持続可能性な管理であるとする。大洋、海、湖、森林や山、陸地の保存をし、それらを持続可能的に使用して、生物多様性、生態系、野生動物を保護すること決意した。持続可能な観光事業、水不足・水汚染解消への取り組みの促進構築と災害のリスク削減に向けた取り組みを強化するとした。17分野の開発目標のもとに、169項目の行動目標を国連総会で持続可能な開発目標をまとめたのである。


 コモンズとしての水、水の脱商品化を提起する「水戦争の世紀」を書いたモード・バウロウ、トニー・クラークは、人類にとって水の平和を強調する。グローバルの水危機に対して、どの国も自国領土内の水の利用の権利をもつことが大切であり、どの国も他国に相談せずに水を利用してはならない原則が大切とする。そして、公平かつ適正に共有する流域の水を利用する権利をもつことができることである。水危機に対して、世界平和を守るために、10の原則を提起する。

 

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 第1は、水は地球と全生物のものである。人間だけが、全生物種の依存する生態系を破壊する力をもっているのである。人間がたどっているのは、破壊的な道である。水とわれわれとの関係を再定義し、水は自然に欠かせないという認識にたちけることができない限り、誤りをただすことができない。
 第2は、水はできる限り元の場所から動かさない。自然はあるべき場所に水をおいた。ダム建設、分水、タンカー輸送は環境に与える影響を考えれば好ましくない。
 3,つねに水の保全に心がける。生活習慣を根本に変えて、水が水量ともに減少しないように心かけるべきである。
 4,汚染された水の再生をはかる。水の不足と汚染の原因は、過剰消費と非効率な水の利用を奨励した経済にある。国境を越えた採掘事業や森林開発に対する厳しい規制を復活すべきである。これらを野放しにしたことが水系を害してきた。
 5,自然の集水域こそ、水を最もよく守ってくれる。集水域の地表水と地下水の状況は、地域の水文条件下にある動植物を含むすべての生き物に影響をおよぼしている。
 6,水は政府のあらゆるレベルで保護すべき公共信託財である。領土内の水は、公共財財として各国政府は宣言すべきである。
 7,クリーンな水へのアクセスは基本的人権である。上下水道事業を公共セクターにとどめ、水資源の保護に法制化し、水を有効に利用すべきである。
 8,地域社会と住民こそ、水の最良の保護者である。水の安全保障には、科学技術にいくら金をかけても、民間企業や政府にもできない。地域社会に根ざしたものでなければ、水不足の解消、持続可能な水の確保はできない。
 9,一般市民と政府は対等のパートナーとして水の保護にあたらなければならない。長い間、政府と世界銀行OECDのような国際的経済機関と貿易官僚が大企業のいいなりになってきた。NGO環境保護団体は相手にされなかった。それが、どの国でも政府の権威を失墜させた。水政策の決定に、市民と労働者、環境保護団体を対等の参加者として、水を守っていく措置を講じなければならない。
 10、経済のグローバル化政策によって水の持続可能性が確保されることはない。経済のグローバル化には、水不足問題を解決することができない。水の持続可能性をグローバルに達成するには、地域的な自給自足を促す道以外にはない。地域の集水域系に根ざした経済の構築は、健全な環境保護政策と人間の生産力を統合すると同時に、水を保護する雄一の方法である。
 モード・バロック、トニー・クラーク著「水戦争の世紀」集英社新書、217頁~227頁参照


 世界の水危機のなかで水をめぐる紛争も世界各地におきる可能性がうまれてきている。水紛争から平和を守るために、以上の10の原則も水と平和ということで重要な検討事項である。


 令和天皇は、皇太子時代の2018年にブラジルであった世界水フォーラムで講演をしている。そこで、水を分かち合うことの大切さを強調している。「歴史を通じ世界にも水を分かち合う工夫は多くあります。その仕組みは施設や慣習にとどまらず、社会システム、法制度、条約にまでおよびます。その中で水に関する情報を共有し、協働して水水源を守り、異なる水利用を折り合わせることは、人々が水を分かち合い、平和と繁栄、そして幸福を分かち合う第一歩といえます」。徳仁親王「水運史から世界の水へ」NHK出版26頁


 日本の水の分かち合う文化や慣習の事例を紹介しながら、世界の水の分かち合うことの大切さを強調しているのである。さらに、令和天皇は、2015年に採択された国連の持続可能な開発目標達成に向けて、女性や子ども、高齢者、障害者の人たちなど社会的弱者が水害や干ばつ、地域の不安定に最も影響を受けるとして、水に関わる人々は、ジェンダー、教育、難民、移民、貧困などの問題に取り組む人たちとの対話を積極的に行う必要性を力説しているのである。前掲書、33頁

 

(2)農と平和

 

 農業は水がなければ生産ができない。農業にとって水の存在は不可欠である。開墾には、水を確保していくことが大きな課題である。つまり、潅漑用水が必要になる。食糧生産にとって、水を制していくことは重要なことである。水をめぐる地域間の争いは絶え間なく起きたのである。為政者にとって、農業生産を安定に確保して、富を増大させていくことで、治水は重要な仕事であった。


 農から平和教育を考えていくことは、人口増大からの食糧問題、資源獲得からの領地拡大として、古代国家から戦争が絶えず続けられてきたのである。農業は、自然と関わる人間の食糧生産の営みである。
 人間が生きていくうえで、基本的な物質的生産が農業である。農業は自然循環による持続可能性をもっていたことによって、その地域の人々は生きてきた。人口増加のため、目先の食糧生産のための乱開発によって、自然生態系を崩した歴史をもった民族があった。例えば、古代のメソポタミヤ文明は、どんなに優れた文明をもっていようと農業の乱開発の環境問題によって衰退していったのである。


 農とかかわってきた人々は、人間として生きるための食糧生産ばかりでなく、農林産物を資源とする工業化にも大きく寄与してきた。体の温暖の調整と豊かな文化性を表現する衣装は、農林産物の加工品であった。人々が住む住宅や家具などは、林業からの匠の加工品である。


 権力者でない民衆は、その都度、戦争の悲惨から人々は平和を願ってきたのである。なぜ、戦争を起こすのか。いつの時代も民衆の最大の為政者に対する疑問であった。
 現代は、科学技術の発達によって大量破壊兵器が開発された。その典型が核兵器である。現代の戦争は、地球全体の破滅につながりかねない恐ろしさをもっている。現代戦争の兵器は、一瞬にして多くの人々を死に追いやり、何年も後遺症で苦しんでいかねばならない。戦争を起こせない世の中をどうしたらつくれるのか。それは、現代の人類の持続可能な社会をつくっていくうえで緊急の課題である。


 戦争は国家、宗派、民族、地域の統治者によって引き起こされる。民衆は誰でも平和で暮らすことを求める。戦争は、個々の人々の争いではなく、国家統治者の意志によって起こされる。この意味で為政者、政治家、教育者、経済人、言論界・マスコミ等社会リーダーの平和に対する有徳問題は決定的に重要である。農からの平和の有徳を考えていくとどうなるか。


 戦争は、個々の争い、憎しみの意識問題に還元できない。個々の人々の意志は、為政者、政治家の戦争動員、戦争協力のための世論づくりに利用される。近代の立憲主義、議会主義の国家体制では、人々の意識、世論が戦争遂行を防止するうえで、極めて大きな役割をもつ。戦争遂行には、国民への協力体制、戦争のための秩序を要求する。


 戦争は、国家、民族、宗派、地域の集団的なエゴが大きくある。民族排外主義のナショナリズムの醸成は、その典型である。民族・国家のエゴは、国際関係での利害関係者との敵対行動へと発展する。平和には、共存・共栄、平等互恵、領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉が必要である。これらは、近代の国際関係の平和主義にとって極めて大切な課題であった。


 民主主義国家であるためには、戦争をしないように努力することが、基本姿勢である。仮想敵国を目的意識的につくり、防衛のために軍事力を強化してきたことが、戦争を誘発してきた。このことは、近代の歴史が証明した。
 国家として、どうしたら国際協調による共存・共栄の関係ができるか。それぞれの民族が生きていくために食糧問題や資源確保の基本がある。それぞれの民族や国家は、食糧を自立的に確保していくことである。それぞれの民族が暮らす地域で自給的に確保できない自然条件では、近隣の民族間を含めての自給的な共存共栄の関係が不可欠である。平和の構築には、それらのことが歴史的に形成されてきたのである。


 例えば、倭人アイヌの関係もそのひとつである。それぞれに恵みを与えて共存してきたのである。もともと異なる民族間が食糧をとおして、交易を行い、共存してきた。これらは、国際協調主義の原型である。


 国際協調主義は、平和を守っていくうえで、基本的な姿勢である。国際協調主義は敵をつくることではなく、軍事力を強化することでもない。民族の誇りは愛他主義であり、このためには価値観の多様性を認め、多文化共生の国際関係を作っていくことである。


 それぞれの国家、民族、宗派、地域は自由で自立した存在として認められ、お互いの主権、自治を尊重して共に生きてきた。共存・共栄の姿勢は平和時代の要請である。国益を守ることは、しばしば利害関係の相手国に対して傲慢になる。国際的な関係で利害関係者がそれぞれ利他主義になることが共生文明になり、平和を構築していくことになる。この思想は世界連邦構想である。国連による平和構築は、この発想に連なる。


 現代の戦争と平和を考えるうえで、格差や貧困を克服し、人間のもっている能力を発展させることは重要である。格差や貧困問題は、現代での平和を考えていくうえで、大きな課題である。人間的に生きていくためには、十分な食糧確保とエネルギーや水などの資源は重要である。平和な社会を築いていく食糧、エネルギー、水などの人間が生きていくうえでの基本になる「人間の安全保障」の視点が世界的に求められている。


 また、発展途上国の格差や貧困問題を正面から明らかにするために非同盟諸国の連帯も国際的な課題である。貧困と格差をなくしていくことは、テロを根絶するためにも根本的なことである。貧困による生きていくための食糧さえも確保できない人々が地球上には数多くいるのである。人間の安全保障によって、食糧問題は極めて重要なのである。


 ところで、日本の伝統的な平和文化や平和思想には、近代以前にも存在した。それは、神仏習合平安時代徳川時代の平和時代のなかでみることができる。農民思想として、耕すことが人間にとって最も大切なことであるとした安藤昌益は、武器の全廃を唱えた。また、世界兄弟で貿易を盛んにする日本を考えた横井小楠など江戸時代の儒学者に典型にみることができる。


 近代以前に、日本は伝統的な平和文化をもっていた。それを支えたのは安定的に食糧生産をしてきた開墾事業であり、そのための治水、潅漑用水を整備して農業生産力を増大してきた役割は大きい。明治の近代以降に、近隣諸国を侵略し、植民地獲得の戦争をしたのか。また、世界を相手に戦争をしたのか。

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 水の危機から平和を考えていくうえで、この問題を深めていくこともひとつのヒントを与えてくれるのではないか。水は万人の人権であり、水は人類共通の共有財産であり、水の商品化を克服して、どの国も他国に相談せずに領土内の水を利用することができない。他国と共有する流域の水を利用する権利は、公平で適正な利用が原則ということを、今一度深く認識して、各国の関係を築くうえでの参考にしてほしいものである。
 
 (3)霧島山麓での水とエネルギー

 

 日本の自然地形から水力発電所が大きな意味をもっている。水力発電所は日本を救うといわれるほどである。自然とのつきあいをうまくやっていかねば、自然からしっぺ返しされる。これが日本の厳しい状況自然条件である。うまくつきあえば日本はすばらしい自然の恩恵がある。自然と上手に共生していく水力発電所はその典型である。

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 たとえば、天孫降臨の神話がある南九州の霧島はカルデラ地形から急に流れ落ちる河川の傾斜地域が多い。この地形を利用して、明治後期から大正期にかけて水力発電所が積極的に作られた。


 霧島にある水天渕発電所は明治40年につくられ、小鹿野発電所大正元年に操業している。妙見発電所が大正10年である。霧島第2発電所が大正11年である。霧島第1発電所昭和元年に、塩浸温泉発電所昭和9年で、新川発電所昭和16年と戦前に多くの発電所が天降川の水系につくらている。


 小鹿野発電所は南九州でパイオニア的存在の鹿児島電気の飛躍的発展になったのである。鹿児島電気は1898年明治31年に開業していますが大型の発電所を霧島につくり鹿児島市に電気を供給するのが本格化する。
 霧島の小鹿野鹿児島市の鹿児島電気にとって第4発電所であったが、それまでの発電量を倍加する。1909年9月に株式総会で60万円の大増資決定で、100万円の資本金になります。1910年に着工され、11年に工事は完成し、1912年3月から鹿児島市に送電を開始する。需要家数は前年度の5倍以上になるのである。

 

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 1913年には国分電気への供給を開始する。鹿児島市ばかりではなくなく地元にも電気が使われるようになっていく。霧島の地形を利用した水力発電所は、鹿児島市の電気普及に大きな役割を果たした。
 鹿児島県の大口にある曽木の滝発電事業の創始者は、野口遵である。現在のチッソ旭化成の設立者になる。曽木の滝水力発電所は明治42年に竣工した。平成25年に廃止されていた水力発電所の一部を利用して新たに出発している。
 野口遵は明治39年曽木の滝を利用した発電事業を立ち上げる。大口金山に電力を供給するためである。その余剰電力を水俣カーバイド生産のために利用していく。このことから日本化学工場の発祥の電力供給地域といわれるようになる。


 歴史ある水力発電所の一部の取水設備を改築して新曽木の滝水力発電所として平成25年に観光と教育を兼ねたものとして出発している。事業者は新曽木水力発電所株式会社である。最大出力490kWh、年間発電量343万KWHである。
 霧島山麓のえびの市から白鳥温泉にいく途中で山深いところに、出水観音がある。豊富な霧島の地下水が湧き出ている場である。千年以上の歴史があり、性空上人が創建されたとする出水観音として祀っている。子宝祈願、安産祈願としての観音さまである。

 

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 霧島の六社権現のある反対側のえびの市にも性空上人の創建された神社がある。霧島山麓全体に、性空上人の信仰がある。この泉は、性空によって生まれたという説話がある。霧島の山系のいたるところに性空上人の伝承がある。ここは、古くから農民にとって大切な用水源になった。もともと、真幸院観音寺と称して、天台宗であった。神仏混合の神社である。真幸院を治めていた北原氏があつく信仰していた寺である。


 隣の県になる阿蘇山麓でも霧島と同じように、湧水が信仰の対象になっている。白川水源は南阿蘇村の代表的な水源で多くの観光客が訪れるところである。この水源の池は透明度が高く、川底の砂から湧水がわき出ている様子がみられる。ボコボコと川底から湧水が吹き上げている。毎分60トンの湧水量である。名水百選にも指定されている。古代より水源の守護神として吉見神社がある。この湧水は不老長寿と諸病退散の御清水として昔から語られている。


 霧島山麓は、巨大な水瓶になっている地形からあちこちにわき水が出る。霧島は雨が多い気象条件を持っている。大雨が降ったときは、水害の危険が高い地域でる。このために昔から特別に水害対策が行われてきた。山の森林を大切にして、山のなかに遊水池をつくった。

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 また、山の谷間に水田をつくったことが、水害予防にもなった。今でも谷間のわき水のすぐ近くに水田をつくって水害対策になった話を古老が話す。霧島川の支流になる狩川の源流は、鍋窪の集落の山地からである。山間地の鍋窪の集落が谷間で水田を今でもつくっている。


 近年に霧島川は、開発が進み、大雨のときは河川の水量が極端に多くなり、水害がたびたび起きる。土砂崩れもある。先人の知恵が生かされていないのである。灌漑水路の上に山からの小川の水を通す橋をかけた。橋は人が渡るものではなく、水を通す橋である。そこでは、水が交わることをせず、橋の上に水を通して、違うところに小川の水を流した。そして、霧島川の本流に流し込んでいくのである。


 霧島市の松永地区に灌漑用水を守るために、災害防御用の石橋アーチがかかっている。その河川水を落とす段差工事がされている。この石橋アーチのスパンは3.5メートルで、橋の長さは13.3メートルである。1777の改造の碑銘がある。水神碑には、1761年の刻印である。近世時代の貴重な災害防御用の石橋アーチである。水を分散させて水害から灌漑用水路を守ろうとしたのである。

 

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 ところで、霧島山麓水系は積極的に開墾が行われた。そして、余剰生産物も生まれ、人々の暮らしに余裕がでるようになった。生産されたものを交易した。治水技術の発展による開墾は交易の民を地域に生み出した。交易する民は、海の民が大きな位置をもった。海の民は、宇宙の星をみながら、自らの位置を見極め、気象条件、四季の変化、潮の流れの変化をじっくりみながら航海技術を深化させてきた。


 この航海技術の進歩は、世界へと羽ばたき、交易の民として、異民族文化との接触を積極的にできるようにした。異文化との接触は、珍しい文化のふれあいもでき、創造性をつくりだす。そして、貴重な財を蓄積し、文化が複合的に豊かになってきた。ここには、世界兄弟としての平和の文化もあったのである。海は命を一挙に奪う自然の恐ろしさもある。海の神に対する安全祈願は海の民にとって大切なことなのである。


 九州をほぼ統一した島津義久の拠点は、現在の霧島市隼人浜の市に富隈城を1595年に築いた。徳川家康より、関ヶ原の処理をめぐり、三州の領土は安堵された。鹿児島の鶴丸城に1602年に島津家の家督を継承した家久が入る。義久自身、1604年に国分郷の大隅国分寺跡近くに京都の町並みと国際交易性をもった舞鶴城が必要であった。


 戦国時代から徳川の天下統一によっての国際交易と太平の世の城下町を考えたのである。国際交易として唐人町が必要であり、明国の人々を厚く抱えたのである。霧島山麓の水系にあたる国分の唐人町は、国際交易のために明国から商人を集めてつくった。唐人町の近くには、広瀬川をさかのぼってくる貿易船の船着き場を持っていた。今でも中島、島田、中州という大河川を想像できる地名や川筋の名前がある。向河原、前河原、中河原、古川、滝川という小字名がある。


 また、船が入ってきた証としての湊町という地名が残っている。隼人の浜之市も大隅八幡宮の浜下りの場所である。天降川にそって、ここも昔から交易が盛んな場所であった。そこに、義久は富隈城を築いた。国分の舞鶴城は、京都と同じような町並みと文化的な整備をしていくためであった。
 義久は、明国から学者や技術者を多く召し抱えたのである。江夏友賢は明国からの帰化人で京都の町並みにならって独自に舞鶴城の町並み建設の担当をする。江夏友賢は著名な易学者であったが、町並みづくりの担当に力を発揮する。


 ここでは地形を配慮して、修正しながらの風水の思想を生かした建物の配置と町並みづくりで自然と共生の町づくりをした。富隈城も舞鶴城も天守閣をもった城ではない。舞鶴城は城下町として整然とした碁盤通りの町並みをつくり、武家屋敷街、加治木町、商人街、唐人町、高麗町を設けたのである。


 ここでなぜ一国一城令以前の富隈城も舞鶴城も天守閣をもつ重層的な高い建築の城をつくらず、屋形造りの城であったのか。つまり、なぜ、権威をもつ重層的な高い天守閣の城ではなかったのか。ここには一極集中的な武士団を城下町に集めるのではなく、中世的な各郷の秩序を維持しての兵農分離を徹底するものではなかったのである。


 武士団の権威の意味が郷村制の秩序のなかであった。武士団層が郷の麓集落ばかりでなく、農村のなかにも存在していた。農村では粗末な屋敷で耕作地も少なく百姓も貧しい武士がいた。農民ばかりではなく下級武士にとっての開墾田の要求があった。
 唐人町正覚寺跡公園にある煙草試作研究開発の服部宗重の碑と明国からの渡来の林家等の墓群がある。慶長11年(1606年)に義久の命によって、服部宗重が、この地でたばこの試作をしている。舞鶴城の商人街の近くで新しい産業づくりの取り組みがおこなわれはじめたのである。ここには、未来に対する息吹があったことが重要である。

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 明朝の高官であった林鳳山(ほうざん)が国の乱を避けて日本に渡来してきた。彼は島津義久に召し抱えられて唐人町の発展に尽くす。義久のつくった城の近くは、広瀬川が流れ、唐船や琉球船が入ってきたのである。
 鎖国令の後に、広瀬川は川筋の大工事を4年間で行う。1666年に完成し、新たな新川をつくり、川筋が5000石高の新田になった。川筋の開墾は自然の復元力によって、大雨が降れば水があふれやすい地形である。現代でも水害の防災対策として、歴史的地形を知ることは大切である。


 城をつくり、城下町を整備して、その周りの川筋を開田して、川筋の水量調整や保水機能を水田整備のなかで成し遂げていく。この事業は国分平野全体の水路や開田の整備をした。松永用水路、平溝用水路・清水新田、重久溝用水路、宮内原新田用水路と整備されていくのである。

 用水整備事業には多大な経費と尽力を要して、自然地形から極めて複雑な難工事であった。例えば、宮内原用水は取水口から12キロに及ぶ。高低差は、17メートルということで、極めて平坦な勾配で、100メートルで5センチという測量技術の正確さを要求された。同時に、嘉例川と西光寺川を横断する工事であった。取水口は大きな岩が多く、山地をぬけるということで、隧道工事を強いられたのである。そして、暗渠、放水門などの設備が必要であった。
 その潅漑面積は、436ヘクタール(現在は344ヘクタール)で、約6000石がとれる水田地帯になったのである。隧道は、上から何カ所も井戸を掘って、井戸の底部を横に掘って、つなぎ地下トンネルをとおしていったということである。そのトンネルを大きくするために取水口近辺の本流の天降川をせき止めて、上流から水を流して、土砂を水力によって崩していく方法をとった。
 嘉例川を宮内原水路が横切るために、潜り工法がとられている。合流点からおよそ30メートル奥まったところに隧道を掘って潜らせている。そして、川のこの付近の高低差は岩石の落下が頻繁に起きる地域ですので、嘉例川の底部を石組みで補強する工事をしている。西光寺川でも宮内原用水路を横切らせるために同様な工事をしている。
 国分平野には武士の麓集落と郷村制が国分郷、清水郷、重久郷、日当山郷村と存在した。これらの郷村が統一して国分平野の用水路と開田をして、産業の発展と治水事業をしてきたのである。山の整備も薩摩藩の林野やそれぞれの村の林野を整備して森林の管理と治水事業を結びつけることから植林の奨励もした。

 国分平野には武士の麓集落と郷村制が国分郷、清水郷、重久郷、日当山郷村と存在した。これらの郷村が統一して国分平野の用水路と開田をして、産業の発展と治水事業をしてきたのである。山の整備も薩摩藩の林野やそれぞれの村の林野を整備して森林の管理と治水事業を結びつけることから植林の奨励したということである。


 現代的に地域社会の循環機能を整備した。防災機能を充実していくうえで、森を大切にして水源を確保し、水路をつくり、水田整備の開墾と、循環機能の環境を大切にしたのである。現代でも自然との共生の開発が求められている。開発をしていくうえで歴史から学ぶことが未来への持続可能社会をつくっていくために不可欠である。

 

 (4)ベトナム紅河デルタでの治水による人々の絆と日本との交易

 

 治水は、人々の絆を強くし、分かち合いによる交易の精神をつくりだし、平和の大切、侵略の無謀性を教えてくる。ベトナムの紅河の事例は、そのことを考えてみよう。紅河デルタは、ベトナム人の文化の多様性、独立心、共同性のこころを強くもっている。ベトナムが歴史的に中国から独立していくうえで、紅河デルタは大きな意味をもっ。ハノイを中心とするベトナム北部は、紅河デルタ地域に覆われていたのである。


 ベトナム人にとっての河川との闘いは、食糧生産を豊かにしてきた歴史である。それは、開墾と独立のためである。1200キロと流域面積12万平方キロメートルという巨大な紅河は、ベトナム中流域には平原をもたず、山地とデルタが直接に接している特殊性をもっている。
 このため、ベトナム人は、雨期に荒れ狂う紅河と闘わなければならない歴史であった。紅河デルタの北部のベトナム農民は、経済的基盤をつくるために、広範囲に網の目のように、大小の防波堤を築くことであったことを見落としてならない。そして、地域の絆をつくり、分かち合いの精神を広い範囲で形成した。山間部で暮らす人々、少数民族との連帯を作りあげてきた。また、歴史的に、中国からの独立のためには、農業生産を向上し、暮らしを安定させることであった。


 そこでは、輪中をつくり、紅河の氾濫地域を防波堤で防ぎ、田庄とよばれる荘園をつくっていった。自然に対する深い認識を持ち、地形を戦略にも熟知していた。この荘園には私兵をもち、中国の侵略にたいしての強力な抵抗勢力となったのである。今でも、ナムディンの中心街の公園には、3度による元朝の侵略を打ち破った指導者の陳興道チャンフンダオ)の銅像がそびえている。

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 それは、ベトナムの人々のあつい独立の精神的支柱になっている。この紅河デルタには小さな運河がはりめぐらせて交通手段と灌漑とを兼ねている。今では、ナムディンの海岸では1千トン未満の船舶の造船業が盛んにつくられている。河を利用した交通の要衝であったため、造船業が発達したのである。
 中国軍を追い払ったのも河を利用しての水位の日ごとの差と時間差を利用した戦法であった。河にくいをうちこみ、水がひいたときに船が閉じ込められる工夫したのである。よく地形を考えた戦法である。


 ベトナムの伝統思想家グエンチャイ (1380年~1442年)は、仁義を唱えた15世紀中国の明朝の侵略を打ち破った指導者で思想家である。彼は次のように現代の思想にも通じることをのべている。「仁義は横暴より強し」ということで、「大義をもって残虐に勝る」ということで、儒教のこころをベトナム的に応用して独立を守ったのである。捕虜になった明朝の兵士を人道的にあつかい、彼等の食料と帰りの道を確保したのである。海を渡って帰る兵士に500余の船を与え、陸を通って帰る兵士には、数千の馬を与え、人道的なはからいをした。

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 ベトナムの王は、 人間としてのこころを民に説いた。ベトナムの民には、十分なる休息を与えた。これらは、今後中国と平和を築くためにとった施策である。敵であった中国の兵士は、国に帰って、ベトナムの施策の協力を積極的にしたのも興味あることである。


 紅河は、輪中による強固な共同体をもっていた。しかし、交通手段が発達して、外に開かれていたことも重視しなければならない。外に開かれた共同体意識である。紅河デルタ地帯の共同体は、集落それ自身が、輪中化して、塀をつくりひとつの大きな家族共同体となっていた。そのうえに、皇帝の指揮のもとに派遣されている郡単位規模の上位の地方共同体、省レベルのふるさと意識が存在し、国家・民族意識と繋がっていくのである。これが、強力な防衛組織になっていた。


 ベトナム中部のホイアンは、戦国末期から徳川時代の初期にかけて、日本人が積極的に国際貿易をしていた地域である。とくに、1604年から1635年の幕府が交付した 朱印船は、日本の国際的な交易活動に大きな役割をした。
 朱印船の交付はベトナムが130通でトップである。インドシナ半島では237通と、全体の67%である。ベトナムとの比重が大きくあったのである。その中心がホンアイの港である。ホンアイは国際交易活動を積極的に展開していたチャンパ王国の重要な港町である。朱印船時代に、ホイアンは、ヨーロッパの各国の貿易船が入港していた国際貿易都市であったのである。


 日本商人による国際交易活動ということだけではなく、有力な藩が広く東南アジアに貿易のために進出していた。島原のキリシタン大名有馬晴信や平戸の松浦藩、長崎港開発した大村藩など積極的に国際貿易を展開した。平戸は、日本における国際貿易の拠点になっていたのである。ベトナムのホンアイの国際都市には、この時代に日本町ができたといわれている。


 日本人はヨーロッパの世界の発見と同様に16世紀後半から17世紀前半にかけて大航海時代があったのである。東南アジアで当時の最先端技術が開発されていた。東南アジアからの発信と日本の戦国時代から幕藩体制の確立においての日本近世の発展という関係もみていくことも必要なのである。


 家康は茶屋四朗をとおして、チャンパの王に香木の交易依頼の親書を託している。朱印船の時代のベトナムは、北部に鄭(チン)氏、中部に阮(グエン)、南部にチャンパ王国が栄えたのである。小倉貞男著「朱印船時代の日本人」より
 日本橋ともいわれる来遠橋には、屋根付きの木造の部屋もありました。中国人と日本人のもめ事の簡単な裁定を行っていた。橋を境に東側が日本町、反対側が中国人町となっていました。日本人町には立派な建物がたっていたのである。
 これは朱印船貿易によって幕府や貿易を望む藩との関係で日本町がつくられた。中国側は、貧しい華僑の人々が商売を求めて移り住んだことと対照的であった。この橋のなかには、小さな寺もあったのである。

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 16世紀後半から17世紀前半にかけて日本はベトナムとの貿易を積極的に行っていた。その港はホンアイであった。絹織物と香木が大切な取引あったのである。グエン王朝は徳川幕府と協定を結び朱印船貿易で大きな役割を果たしたのである。日本の朱印船貿易はホンアイ港で重要な立場になってベトナムのグエン王朝の国際貿易の推進をしたのである。
 ホンアイの郊外の田んぼのなかに、日本人の墓が今でも残っている。谷弥次郎衛の墓で長崎の平戸出身で恋人に会うために再びホンアイに帰って来て永住したという逸話がある。


 ホンアイの日本人町では、角屋七郎兵衛が1670年に松本寺を建てている。日本人町自治制であった故にイエズス会キリスト教の信者の迫害は強くなかった。教会堂で葬式が行われており、多くの日本人が参列したという記録が残っている。岩生成一「南洋日本人町の研究」岩波63頁から73頁
 平野屋六兵衛は日本人町の頭領でした。ホンアイでは、日本町が港の行政にも大きな役割を果たした。オランダ東インド会社は北部のトンキンに事務所をかまえて絹織物を日本に輸出したのである。中国の国内の政治的乱れで、中国商人の活動はベトナムに移り、トンキンの絹は日本市場における中国絹糸の代替えとなった。トンキン在住の長崎出身の和田理左衛門はキリシタンとして貿易に大きな役割をしたのである。北部の王朝の側近として使えていたことも見落としてはならない。

 



 南島原キリシタン大名であった有馬晴信が手厚くキリスト教布教に積極的に協力している。南蛮貿易朱印船貿易を展開した有馬晴信であった。彼は、西洋の文化交流も積極的に行っている。これらは、ポルトガルの世界戦略による交易活動とキリスト教の普及が密接に関係したとみられる。


  朱印船貿易や東南アジアの日本人町に居住する人々にキリスト教信者が多いこともそのことが物語っている。有馬晴信は、龍造寺家との争いで薩摩と手を組み、1584年に勝利した。そこには、イエズス会の経済的軍事的支援があり、イエズス会との絆を深めていったのである。そして、1599年から1604年にかけて、周囲4キロ、31メートルの断崖に三方、海に囲まれた巨大な城を築くのである。この城は、キリシタン王国をめざし、西洋文化と日本文化の融合したものをめざしたのであった。

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 有馬晴信は、ベトナムのチャンパに渡航したと言われている。ベトナムでもイエズス会によってキリスト教の普及がされていく時期であった。チャンパへの渡航イエズス会を仲介していたかは不明であるが、日本の有馬晴信ベトナムチャンパ王国は、香木伽羅の貿易で関係をもっていたのである。


 幕府のキリスト教禁止令は1614年に発令されたが、日本の宣教師は、極東の活動拠点のマカオに集合する。ベトナムの布教活動の拠点にマカオがなる。ド・ロードは、ヨーロッパにベトナムを紹介した宣教師である。彼は、1623年から20年間マカオベトナムで活動する。ベトナムイエズス会の活動に日本の宣教師の果たした役割も大きなものがある。


 以上のように戦国時代末期から徳川時代の初期に至るまで、日本は、南方のベトナムとの貿易を積極的にしていたのである。そのなかで小国であるベトナムがいかにして大国との中国との関係で侵略から守り、平和を構築したのかを交易をとおして学んだのである。日本は、大航海時代に広く世界と交流していたことを忘れてはならない

ベトナム初ナムディン農業高校開設の期待

ナムディン農学校に期待
 鹿児島大学名誉教授 神田 嘉延

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 ナムディン省は農業教育研修センターを改革して、農業高校を開設することになりました。この改革はナムディン省内にある職業教育・訓練機関を一つにして総合的な職業専門教育の学校にする一歩でもあります。

 

 ナムディン農学校が2021年9月から開校することは、ベトナムの教育と地域発展ということで、大きな飛躍になることでしょう。ナムディンは、紅河デルタ地帯の栄養分の含んだ土地で、昔から水田に適した豊かな農業地帯です。用水路がくまなく張り巡らせて、水田稲作を伝統的にしてきたのです。しかし、泥炭地帯という要素をもつことから、畑作に適さず、畑作から商品作物をつくっていくうえでは、土壌改良も必要なところであります。

 

 ナムディン地方の各農家は、昔からの自給自足のために魚を養殖する池をもっています。潅漑施設や用水路を基盤に集落のまとまりはもちろんのこと、上位の広い範囲で地方共同体ということで、人々の絆が多様な価値を認めながら強くあるところです。仏教、キリスト教道教、ディン(神社)などの異なる信仰が共存し、寛容な精神がみなぎっている地域です。

 この自然条件と文化を生かして、新しい持続可能性のある地域循環システムを可能にすることも大いに希望がもてるところです。農学校が地域循環経済、自然や社会との共生という人類の未来への発信の基礎を学ぶ場になることを期待します。

 

 国連は、2015年に150以上の首脳による持続可能な開発のためのサミットを開きました。そこでは、17の持続可能な開発目標を採択しました。持続可能性の開発は、人類共通の課題になっているのです。社会経済的発展の鍵は地球の天然資源の持続可能な管理であります。

 河川、湖、帯水層、森林や山、陸地、海、空気などは、持続可能性の管理が求められているのです。生物多様性や生態系の保持は、地域社会の持続可能性にとって大切な課題です。大都市では、大気汚染、化学物質の汚染、廃棄物の処理問題、水とエネルギー問題など生活の質を確保するために持続可能性の開発が極めて重要になっています。 

 

 ナムディン地方は、ベトナムでのVAC運動の拠点として、困難な地域経済状況のなかでも、食糧自給と健康を大切にし、豚等の糞を利用しての台所のエネルギーを利用した簡単なバイオマスエネルギーを自分たちでつくりだしたところです。高度な科学技術も資本もなく、工夫しての自給自足的に健康に気を使い生きてきたのです。

 

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ナムディン日本語日本文化学院の学生が、自分達で考えたことを白板に書いている様子

 

 今は、平和になり、科学技術も学ぶことが可能になりました。出稼ぎや外国資本の工場進出による国際的な交流も活発になりました。学ぶことによって、可能性は大いに広がると思います。

 ナムディンの農村における伝統を現代的に自然と共生して、農業生産はもちろんのこと、人類の夢である新しい地域循環型経済による工業化を作り出すことができると思います。

 

 化石燃料は有限です。鉄などの鉱物資源も有限です。無限の再生可能な自然エネルギー、無限の工業の現在材料は、地域の自然循環による農業からの創出です。


 現在の日本では、バイオマスエネルギーとして、酒造りであまった残渣や家畜の糞尿を堆肥にします。そのとき発生する熱やガスを利用して、発電に利用されはじめているのです。また、独自に石油に代わるバイオエタノールの開発もはじめています。石油からのプラスチックをやめてバイオプラスチックの開発も起きています。大きな人類史的な時代の変化です。次世代的に社会経済戦略が大きくたてられる夢のある時代です。 

 

 平和をつくりだしている現代は、教育の力によって、未来社会への夢が大きく膨らんでいくのです。それは狭い、短期のすぐに役にたつ職業訓練的な対応の教育ではなく、未来志向的な社会経済戦略からの職業教育・職業訓練が求められているのです。

 

 この意味で、普通教育を基盤にして、職業教育・職業訓練が自然科学と社会科学の教育と密接に結びつける必要があるのです。ナムディンの農業高校は、未来への夢のある社会経済戦略に基づいて、その基礎を学ぶ学校になってほしいと思います。ナムディン農業高校を卒業して、留学や研修という夢をもって、未来への夢のある社会経済戦略のために、高度な専門を学んでほしいと思います。

 

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ナムディン日本語日本文化学院の学生のソーラン節踊り

 自動車工業の原材料も有限の資源ばかりではなく、新しいセルロースナノテクファイバーという植物繊維から鋼鉄をつくりだす時代が未来に予想されます。ガソリンから電気で動く自動車に変わっていくのです。そして、自動車が住宅エネルギーを蓄電する時代になって、災害のときでも電気が確保できるようになるのです。

 

 農村での自然の太陽、河川、水路、堆肥が電気をつくりだします。それぞれの地域ごとに発電や配電のシステムができる時代になっていくのです。

 

 自然が豊かな農山漁村は、その可能性が大いにあるのです。さらに、農林漁業を素材にした様々な工業品の素材がつくられる時代になっていくのです。人類は、発酵という自然作用から加工食品を様々につくりだしました。現代の科学技術の進歩は、微生物の世界をさまざまな分野に応用されようとしているのです。

 

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 ヌクマムの工場見学のブログ

kandayoshinobu.at.webry.info  ベトナムのヌクマムも微生物による発酵を応用した食品加工という調味料です。衣服の原料に自然の植物を農業化して、木綿、絹の生産を人類はしてきました。ナムディンは、絹の代表的な生産地でした。フンエンの港から400年以上前に、日本に輸出されていたのです。
 農業は、食糧生産という人間が生きていくうえで極めて重要な産業です。さらに、地域循環経済という未来社会の工業原材料の供給としても一層に大きな役割を増していくのです。この未来に向けての基礎的な学びをナムディン農業高校で学ぶことができるのです。

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 日本では、農業を食糧という位置づけだけではなく、多様な価値をもつものとして、法律の整備をしています。農業・農村の多様な価値の法整備です。

 

 農業は工業の原材料になっていくことはもちろんのこと、心の病を治すために、自然が豊かな農山漁村を積極的に医学的にも利用するようになっているのです。コンピューターの時代になって人々の精神労働疲労も大きくなっています。農村でのんびりと汗水流し、心を癒やすことは大切になっているのです。
 また、農村には、深い伝統的な文化が蓄積しています。それを豊かな文化として発展させ、都市との交流活動や観光などにも取り入れ、人々に豊かな文化を享受させています。グリーンツーリズムもそのひとつです。

 さらに、子どもや青年にとって農業の教育的役割として、学校教育にも積極的に活用されているのです。農業体験学習は、仲間との協働労働など人格形成と人間と自然の共生を考える教育としても効果を発揮しています。

 

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 上記の写真はベトナムの自立発展のために活躍する鹿児島大学大学院を卒業したファムフーロイ氏です。日本の福沢諭吉学問のすすめ稲盛和夫の生き方などを翻訳してベトナムでの翻訳賞を受賞し、現在はナムディン日本語日本文化学院の校長としてナムディン農業高校開設に奔走しています。令和元年に日本政府から旭日小綬賞の叙勲を受けました。そのときのハノイ日本大使館での挨拶です。

 

 農業は教育、福祉、医療、介護にも応用されているのです。地域循環の持続可能な農業は、棚田などに典型にみられるように、国土保全環境保全の役割を担っています。人々は地域循環の農業のために、森林と河川整備をし、地域の自然環境を守ってきたのです。かんがい施設、分水川、ため池などをつくり、水田などによる食糧生産をして、国土保全環境保全の地域管理をしてきたのです。それができなかった民族は、どんなに文明が栄えても滅びてきたのは歴史が証明してきたことです。


 古代で、メソポタミアギリシャや・ローマは、もともと森林におおわれた豊かな土地でした。しかし、自然生態系を重視しなかったことに農業文化は滅びたのです。古代に農業文化が栄えたメソポタミアなどは、現在は砂漠になっています。現在でも、この教訓は、大切で、地域循環の持続可能な農業は、人類的な課題なのです。

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 青年期教育として、新たに注目されていることは、農業をとおして職業観を身につけていく教育がされていることです。農業教育は、地域で学ぶことと働くことを意欲的にできる場です。農業教育を実践する学校は、生きることを実感できるように意図的、継続的に学習や活動を展開するところです。

 

 つまり、農業教育をとおして、勤労の大切さ、仲間との絆、共に創造する喜びを体験させることです。そのことによって、社会人として、職業人として自立するための能力を形成する場です。


 青年期教育にとって、自分のやりたいことをみつめ、将来の進路をみつめる職業教育は重要な課題です。学ぶことと、将来のことのつながりを見通しながら、社会的に、職業的に自立できるような教育が求められているのです。そこには、具体的な目標が身近に獲得できる姿を、それぞれの青年がつかんでいかねばならない教育が必要なのです。夢は空想ではなく、将来に対する具体的な目標の獲得ができるようなものでなければ夢による意欲がでてきません。

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 農業は、多様な価値をもち、様々な能力が養成されていく職業です。専門性以上に総合性が求められているのです。生物を育てるという能力、太陽エネルギーと地域環境、植物の生長の知識、土壌と微生物、微生物と加工食品、天候に左右されるということから気象学、水と自然環境など。水利体系などの農業土木、河川をはじめ自然からの防災など土木工学。農産物や加工品を販売するための経済や経営の能力が求められます。

 

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 農業生産は、加工から販売まですることによって、社会とのかかわりがよりみえてくるものです。さらに、農業の多様な価値があることによって、それに対応した多様な学びが求められているのです。日本の農業高校では、地域と結びついての活動が活発に行われています。その典型が農産物や加工食品の販売です。農業高校の生徒がつくったということでは地域では大変に人気のあるイベントになり、よく売れます。

 

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 この活動は、農業教育の活動として大きな位置をもっています。地域や社会との関係で農業をみていくことが大きな職業観形成になっていくのです。さらに、地域の学校にいく前の子どもたちとのふれあい活動も積極的にして、異世代との交流活動をしているのです。ここには、青年たちが幼い子どもたちと接触して、思いやりの精神を身につけていくのです。
 日本での農業高校の教育で大きな特徴は、プロジェクト学習の展開です。課題設定を自らして、計画して、調査研究するのです。最後には、反省し、評価していく教育です。これは生徒自身が主体的に、仲間や地域の人々と対話をしながら深い学びになっているのです。

 

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 農業と環境の学びでは、環境の現状を知り、環境と人間生活の原理を学び、地域の環境点検地図をつくります。

 

 積極的に調査をして、自分たちの地域を持続可能性のある環境であるかをみて、その解決すべき課題を発見していくのです。水田周辺の生き物調査、身近な森林などの植生の調査、土壌調査などを行うものです。そして、農村の環境整備を考えていくものです。


  総合実習では、生きる力を育成するために体験学習を重視しています。

 

農業各分野の実験、実習など体験的な学習をとおして、体系的、総合的に学び、管理能力、企画力をみにつけるものです。授業中ばかりではなく、農場管理を数人の班で、輪番制による作物、家畜、加工、農機具の操作を行う農業実習をするのです。


 プロジェクト学習や総合実習は、さらに学校農業クラブとして、放課後にも展開されていくのです。

 

 これは、教科活動と放課後活動が結びついているものです。農業クラブは、学校で発表されるだけではなく、県で、全国的にも大会が毎年開かれて発表されています。

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 後期中等教育になる高校は、職業観の形成教育として重要な役割があります。普通教育としての科学や文化の発展知識や体や情操を鍛えて、より人間らしい文化を身につけていくことは重要なことです。高校教育において、最も独自に考えなければならないことは、職業観教育で、将来の進路を主体的に判断していける能力形成です。この意味から農業高校で職業観の形成の教育は大切になってくるのです。

 

 高校時代の15歳から18歳は、身体能力が著しく発達し、スポーツ活動も大切です。また、情操の発達も大切です。音楽や踊りの感性の表現能力も多くの人々に共感させていく能力です。

 

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 ナムディンの農業研修センターにある現在の寮は使える状況ではありません。新たに改修するか建て替えるしかありません。また、図書館もありませんし食堂もないのです。遠くからくる生徒は寮や食堂がなければ生活できません。条件整備が大きな課題になっているのです。

 

 ナムディン農業高校は、第1外国語を日本語にしたのも特徴です。

 

 日本はベトナムと同じように水田稲作によって農業が発展した国です。気候条件は異なりますが、地形は、山の傾斜地から河川が流れてくるという共通性をもち、水害にみまわれてきた共通性があります。水利や防災などからも農村での地域共同体の伝統は、日本もベトナムもありました。その祭りや郷土芸能の文化も形は異なりますが、共通にあります。

 日本語日本文化を教え日本の農業教育の経験した教師が求められているのです。これも大きな課題です。日本語日本文化をきちんと教える学校がベトナムでは極めて少なく、多くは日本の外国人労働者日本語学校の受け入れて機関と結びついた短期の送り出すための日本語学校が多いのです。

 この意味でも高等学校として卒業単位に第1外国語として日本語を学校全体として課していることはありがたいことです。ベトナムの農村発展のために日本から学ぶ姿勢があらわれているのです。日本の国際貢献と同時に日本の労働力不足に大きな助けになるのです。

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 ベトナムは、漢字と儒教・仏教の文化圏です。ベトナムと日本は、古くからの歴史文化の共通性があるのです。 ベトナムの国際性からの農業教育をしていくうえで、日本と比較しながら、ベトナムの未来を考えていくうえでひとつのヒントになると考えます。日本に留学、研修をしていくために日本語教育を積極的に位置づける価値があると思うのです。

 ナムディン日本語・日本文化学院のホームページです。

https://namdinhgakuin.com/ja/ホームページ/

 

現代における寺子屋と夜間中学 ー地域民主教育全国交流集会に参加してー


現代における寺子屋と夜間中学ー地域民主教育全国交流集会に参加してー

 地域民主教育全国交流集会が千葉の柏で11月2日から4日にありました。スローガンは「パタン化から自由と創造の教育へ」、「異世代交流・共同で地域づくりを」ということでした。
 地域民主教育全国交流集会は、憲法教育基本法の精神に基づいて、日本各地で実践されている平和と民主主義の教育実践・運動を相互に交流するするものです。交流の視点は、子ども青年をリアルにとらえ、地域の生活現実に根ざし、地域の自主性と個性的なとりくみを尊重して、地域における民主的な教育と学校のあり方を地域に生きる教職員と父母、住民が共同し、地域における教育の民主的発展をめざすためです。

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 全体会では館山市全体で取り組む足もとの地域から世界をみるとして、「館山まるごと博物館・エコミュージアム」の実践の講演でした。平和・交流・共生の歴史文化のまちづくりを学校の授業と地域住民がともに実践しているものです。この実践は、地域の歴史文化を地域の暮らしや平和から先進的に取り組む学校の先生の教材づくりからはじまるものでした。それが発展して、文化財保護運動として、地域まるごとの博物館運動になったということです。地域の文化財をカイドしていける住民が生涯学習のなかで育っていくのです。その中心に、地域の住民が結集していけるNPOが担ったのです。

 館山は古代から森と海とともに生きてきたまちということで、貝塚、アワビの産地、海をとおして世界とつながっていたこと、地震を乗り越えてきた歴史、古代からの信仰の聖地でした。そして、近代日本画家を支えた青木繁が愛した神話のふるさとです。里見八犬伝のゆかりの地と城跡群、韓国や中国から来た人々の遺跡、館山からはじまった日本水産教育、海辺の癒やしのまちづくりが近代のなかでありました。

 

 さらに、重要なことは、戦争遺跡と平和文化としてまちづくりに生かす運動でもありました。多様な深い歴史を踏まえての教育活動とまちづくりをしている館山の地域教育実践の内容でした。この内容をおさえるのにはNPO法人安房文化遺産フォーラムがわかりやすく内容の深いすばらしい冊子を発行しています。 わたしも以前に、館山を訪問して古代の安房神社を中心とした文化遺産の深さをしることができました。そのときの訪問の様子は、ブログ「歴史文化の旅 安房神社」で検索してもらえればみることができます。

 

 全体会では、実践報告として、「若者たちと農業活動に取り組んでー不登校の居場所から若者就労支援の活動」でした。
 不登校の子どもの居場所として、松戸にひだまりという名前の地域の人々による応援の場を開設していますが、現在は週三回で小学生から二〇代の青年まで集まってきます。ひだわまりは学校復帰を目的にしている居場所ではなく、交流してひとりひとりが元気になり、自分らしさを取り戻していく場づくりです。

 青年たちはひだまりで過ごすだけではなく、地域の農家の協力もあって、自分の進路を考えていくために農業活動、農産物販売活動をするようになりました。農業活動は三年目になります。農業や販売活動をとおして、青年たちは多くの人たちと出会いをもつことができて、自分自身の進路を考えていく場になっていくのです。荒れた土地を丹念に堆肥を入れて掘り起こし、農地として作物が立派にとれるようにしているのです。

 そして、その農作物を販売して、自分のつくったものがみんなから喜ばれ、それもお金になっていくことを実感していくのです。農作業はマイペースでやれるし、人からさしずされて強制されるものではなく、学校での管理された窮屈な空間とは全くの別の世界であることを発見していくのです。

 

 千葉県北西部の東葛地域での不登校親子応援ガイドマップがだされていますが、地域で細かくつくられていることに驚きを感じました。民間団体が28団体、公的機関が17ヶ所が掲載されています。掲載されていない自主的な地域教育活動もほかにあると思われます。そして、公立夜間中学校で二学校です。若者たちの農業活動にとりくんでの話を聞いてみて、現在の学校教育の子ども・青年にとっての厳しさの背景をきちんと知る必要性を痛感しました。


 分科会では、5つにわかれましたが、わたしは地域の教育実践のところにでました。その内容でとくに印象にのこった報告は、自主夜間中学校と地域の寺子屋活動でした。両方とも退職した教員と地域住民の共同の教育実践でした。学校との教育実践とは異なり、子ども・青年、高齢者、外国人たちの生きるうえでの学習権から自由にスタッフの援助で学びが行われているということです。


 我孫子市で、自主夜間中学校と子どもの学習支援ネットワークとして元高校教員の報告でした。現役のときに、多くの高校生が授業がわからないと苦痛を訴え、退学していく実態をみてきたということから夜間中学校の地域教育実践をしてきたと。

 2013年に自主夜間中学校を開校しています。生徒は、子どもから大人まで年齢を問わず参加しています。不登校経験者、引きこもりの青年、高校中退者、高齢者、外国人など多様です。学校とも塾とも違う、個別の学習にボランティアスタッフが対応するようなことです。学習を見守るという方法ととっているのが特徴です。学びの場を家の近くで通うことができるようにと、市内の駅の近くに開講していくことを目標としるということです。現在は三教室で将来的には六教室になるというのです。三教室でボランティアのスタッフは30名です。生徒も30名です。

 

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 困窮家庭の子どもへの学習支援は、我孫子市社会福祉課との連携をとっています。子どもにとっての苦しみは、成績と競争ということで、学校の教室は息苦しいものになっているというのです。学力の格差は大きくあるのが現実です。
 我孫子市で学習支援を独自にしなければならない小中学生で対象者は3000人近くいるということです。とくに、そのうちの困窮家庭の子どもが半数以上もなっているのです。我孫子市の小中学校の児童・生徒数は、9562人で、学習支援対象者2910人で、そのうち困窮家庭1593人です。

 

 協同の発見誌2019年9月号では、学びの多様化ー共に学びあう関係づくりを特集していますが、そこで「こんばんは」という夜間中学の映画を制作した森康行監督が夜間中学のことを書いています。

 2010年の国勢調査から全国での未就学者という学歴のない人は、128187人いるとなっています。2017年の文部科学省の調査では不登校者が14万人います。ところで、2016年に教育機会確保法が制定されています。夜間中学の奨励が積極的に法律で保障されるようになったのです。全国的に夜間中学の開設が大きな課題になっています。全国夜間中学研究会の調査では、百数十万人の義務教育無修了者がいるといわれています。夜間中学の潜在的需要は大きいのです。

 

 協同の発見誌では、「夜間中学から現在の教育の競争主義・成果主義、詰め込み主義、偏狭な学歴主義のゆがみの教育の姿が見えてくる」と書かれています。現実の夜間中学では読み書き計算ができない現実を直視して、それがどういうことかの問いから考えています。高齢者で、戦後間もないときに貧困で学校に行けなかったことやいじめにあって不登校にあって学校教育を受けていない中年層が読み書き計算、基礎が出来ないことが生きていくうえでの苦労が極めて大きいことが指摘されています。

 夜間中学では、難しい漢字を生活漢字ということで、一般の小中学校の教科書とは異なる381字を教えています。3年間で教える常用漢字2136字は不可能ということからです。

 

 夜間中学では一人一人の人間としての違った姿を尊重して、人間的に成長するためになにができるかをということで、教師は生徒を励まし、援助する教育をしているというのです。フイリッピンで貧困のなかで学校に行けなく、日本にダンサーとしてつれてこられ苦労した人や、カンボジアから来た人は相次ぐ戦争のなかで学ぶことができなかったのです。現代の社会と世界でさまざまな困難をかかえてきて人たちが夜間中学に来るのです。夜間通学は時代と社会を映す鏡ともいえるというのです。 

 全国の夜間中学は、生徒数1699人ということで、新渡日外国人が、そのうち1215人です。多くが外国人の生徒が多いのです。

 

 夜間中学校で学んで、不登校であった生徒たちが高校に合格したとか、その後大学にいったとか、企業に就職したりとか、スタッフの見守り学習によって成果を得ている事例を報告されました。見守り学習の支援者は、地域の元学校の教員ばかりではなく、元銀行員、元民間企業営業マン、管理者経験者、国際交流協会会員、臨床心理士、大学生などとなっています。

 

 討議のなかで論点として、学習支援と絆をつくる居場所づくりということをどう両立させていくかということが議論になりました。勉強のことで差別され、疎外されている子どもたちに学習支援に力をいれるべきではないかという報告者の意見でしたが、彼自身もそのことに悩みながら地域教育実践をしているということです。
 
 地域の寺子屋実践の報告は、学校の息苦しさから少しでも子どもを解放してあげたいというものでした。元小学校の教師が自宅を開放しての地域の寺子屋の教育実践です。スタッフは退職者19名で、地域の子どもは30名ほどです。小学校から中学生まで毎週火曜日に集まってくる寺子屋教室です。寺小屋に通ってくる子どもたちを一人一人紹介しながら、かれら、彼女らが育って行く様子が紹介されました。


 学校に行っていないが、寺小屋にくることは絶対に学校に言わないでということで、通ってきた子ども。寺小屋にくるようになって勉強をし、二年後には、話も楽しくするようになり、ギャギャ騒ぐようになったということです。学校の先生に話してみようかというと絶対にやめてくれと強く拒否するのです。本人は、学校からの手紙も放置したままです。同じ中学の学年の人と寺小屋であうのもいやだという。中学生であるが簡単な引き算もできないほどです。小学校の三年生の教科書から寺小屋では、はじめています。英語、漢字も少しづつやり、力もついていくのです。数学では連立方程式もできるようになりました。報告者はいいませんでしたが、その話をきいて、学校に対しての強い不信感のあわれではないでしょうかと思いました。
 
 地域のおばあちゃんから相談にのってほしいという中学生がいるとあってみると、母親は中学2年のときに家出をし、彼が母親代わりの家事をしているということです。5人分の家族の洗濯、食事の世話です。父親は、朝早くから夜遅くまで働いているという。寺小屋では勉強の意欲も徐々にでてきています。のみこみは、はやいのですが、学校には頑と行くことはしないのです。

 

 アメリカ人の二世ですが、父親はアメリカに渡ってしまっています。六年生のときに寺小屋にかよってきましたが、算数は二〇点程度しかできなかったが、寺小屋にくるようになって一〇〇点をとれるようになったということです。
 ひとりひとり報告の内容を記すと大変になるので、集会のようすをしるために事例をあげてみました。

 寺小屋の子どもたちの様子や言動から子どもたちの学校での息苦しさがみえてくるというのです。ストレスが限界に達したときに若者たちは恐ろしい犯罪につながる危険があるのです。「学校は牢獄だ」「学校は子どもを奴隷にするところ」「学校は人を傷つけるところ」「しうちをうけるところ」など様々な悪口がでてきます。そんな厳しいことばを聞いていて、元教師たちも心が痛むのです。ぞっとするのが元教師たちの気持ちと報告者は語るのです。

 

 このように、子どもの現実の生活、学力の状況、家庭の貧困状況を丁寧に報告しながら、具体的な成長を寺小屋の教育実践がしていることに感動しました。寺小屋のスタッフは、ユネスコの学習宣言の学習権の理念をよくふまえて、人間の生存にとっての学習権を不可欠なものとして寺小屋を実践しているのでした。学習権なくして、人間の発達はありえない。学習権なくして、農業や工業の躍進も地域の健康増進もない。学習権は人間としての基本的権利であるという見方をもって、志を高くもっての寺小屋の教育実践の報告でした。

厚生労働省の社会的養育ビジョンの疑問

 

 

 

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 厚生労働省が新しい社会的養育ビジョンとして、7年以内に里親委託率75%の目標、未就学児の施設の原則的停止として、日本が伝統的に築いてきた社会的養護施設の役割を大きく縮小している施策を出していることを宮崎県の木城町にある石井十次念友愛園に訪問したときに、小嶋草次郎理事長から知らされました。

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 不勉強で児童福祉法が2016年度に改正されたことも知りませんでした。この改正によって、家庭養育の優先を明記したというのです。児童虐待を受けている場合は、その養育をできるだけ里親制度ということで代替家庭でという方向になったというのです。

 児童の虐待されてということで、問題が深刻化するなかで、このような社会的養育ビジョンでいいのかという疑問は大きく持ちました。帰って、社会的養育がどうなっているのか、また、児童福祉法の改正問題、厚生労働省の新たな社会的養育のあり方に関する検討会の報告書を読みました。

 児童福祉法の改正は、児童の権利条約にのっとり適切に養育されるということで、家庭と同様の環境における養育の推進ということで、養子縁組による家庭、里親家庭、ファミリホームを重点化したことです。里親委託の推進では、普及啓発から選定および里親と児童との間の調整という里親支援を児童福祉の業務として位置づけ、包括的な里親支援事業の強化をうちだしていることです。そして、専門的ケアを要する場合は「できる限り良好な家庭的養育環境」を提供し、短期の入所が原則としたことです。

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 2017年8月2日の新しいビジョンの検討会は、代替養育は一時的な解決であり、家庭復帰、親族との同居、養子縁組の永続的解決を目的とした対応を求めています。代替養育措置はなくなる必要があるとして、養子縁組は永続的解決を保障する重要な選択肢とみています。

 代替養育からの永続的な解決を見据えたソーシャルワークも大切としているのです。代替養育のあり方は、家庭における養育環境と同様の養育環境であり、できる限り良好な家庭環境です。それは、生活基盤をもち、安心して生活でき、良好な人間関係による心の安全基地としての機能をもっていることです。

 発育及び心身の発達を保障する機能をもって、病んだ心身の癒やしと回復をもち、トラウマ体験や分離・喪失体験からの回復機能をもっていることが求められているというのです。厚生労働省のビジョンからみれば、これらの家庭的機能をもった里親や養子縁組が求められているというのです。

 これらの機能を実現できる養子ができることは理想です。しかし、実際にどれほどみつかるかということが大きなです。それを十分に人員の配置保障がないなかで、制度として児童福祉の業務として、ソーシャルワーカーに求めるのも大変なことであるとしています。

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 社会的に組織的に良好ある家庭環境を求めていくのは、社会的養育・養護施設の内容が必要です。社会的養育・養護の内容の検討から良好ある家庭環境の創出の充実が今、もっとも求められているのではないか。大規模なユニットではなく、家庭的ユニットと家庭的な職員と専門員を配置した施設の充実がもとめらていると思うのです。

 児童虐待を受けた子どもたちは、専門的なこころのケアや基礎学力の充実も求められているのです。施設から里親と単純にはいかないのです。虐待やいじめが原因で集団行為への不適応、自傷行為、ことばがでない子どもを救うのは、専門的な教育wおもったひとが必要なのです。

 全国児童養護問題研究会は、2017年9月4日に新しい社会的養育ビジョンに対する意見を出しています。そこでは、社会的養護の多様な選択が必要ということで、施設か里親かの問題ではないとしています。日本の社会的養護が果たしているのは、施設が大きいとしています。

 親族里親は、私的活動として行われてきた。日本における社会的養護の歴史は、施設が大きな役割をはたしてきました。その現実をしっかりみるべきです。全国児童養護問題研究会では、現実の実践的や日本の歴史経験から家庭環境でなければ愛着関係を築けないということではないとしています。施設養護でも愛着関係を築いてきた豊富な実践はあるとしているのです。

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 日本の児童養護施設で、大きな舎で家庭的な機能を無視しているところも現実には存在するのです。また、養護のなかでいじめが日常的に起きて、子どもの人権が奪われているとこもあります。そのことをもって養護施設の否定ということにならないのです。社会的養護施設で子どもの愛着関係を、子どもたちが健やかに未来にむけて育っている現実があるのです。

 子どもの貧困問題に取り組み、貧困と子どもの発達を教育学的に研究したモンテッソーリは、大人の生活問題に子どもは大きく規定されているとしています。貧民の子どもは、大人の自暴自棄のなかで暮らし、野蛮と悪徳のなかで育っているとしています。貧しい恵まれない子どもたちには、発達を保障するために子どもの家をモンテッソーリーはつくったのです。

 そこで、子どもへの愛情によって、子どもたちは自己実現できることを発見しているのです。ここでの愛情は、怒りや悲しみ、快楽という感覚的な感情ではなく、知性を伴った人間的に子どもを熟視しながらのであります。豊かな情操と他の人を思いやり共有していく感覚をつくりあげていくということです。大人の子どもに対する愛着は、このような人間的によって、心が豊かになっていくのです。

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 子どもの権利条約児童の権利に関する条約)では、子どもの最善の利益の尊重として、子どもの権利を明確にしたのです。この原則は、親の指導の尊重、親からの分離禁止原則親の第一義的養育責任を有する場合でも、その前提条件になるのです。従って、親からの分離禁止原則(9条)においても司法審査において、その分離が児童の最善の利益であると決定した場合はこの限りではないとしています。
 子どもの権利条約の19条では、親等による虐待・放任・搾取からの保護がうたわれています。つまり、あらゆる形態の身体的もしくは精神的な暴力、傷害若しくは虐待、放置若しくは怠惰な取り扱い、不当な取り扱い又は搾取からの児童の保護を立法上、行政上、社会的上及び教育上の措置をつると条約で義務づけられているのです。

 そして、20条では、家庭環境を奪われた子どもの養護として、児童の最善の利益にかんがみ国が与える特別の保護及び援助を受ける権利を有するとして、里親委託、養子縁組、施設の収容という児童のための代替的な監護を確保することを求めているのです。この際に、養育の継続性と児童の種族的、宗教的、文化的及び言語的背景を考慮しなければならなういことを義務づけているのです。
 さらに、39条では、犠牲になった子どもの心身の回復と社会復帰をうたっているのです。被害者である児童の身体的及び心理的な回復及び社会復帰を促進するためのすべての適当な措置をとることを求め、このことは、児童の健康、自尊心及び尊厳を育成する環境において実施されることを強調しているのです。