社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

賀川豊彦の協同組合論とマルクスの疎外・協働・自由論ー未来への主体的学びー

賀川豊彦の協同組合論とマルクスの疎外・協働・自由論ー未来への主体的学びー

 

賀川豊彦の生涯の社会活動と著作活動の概要

  本論では、賀川豊彦の友愛による協同組合の精神と、マルクスの労働疎外論から未来社会を模索していくものである。この未来社会の実現には、利潤第一主義、弱肉強食の競争主義、格差と無縁社会など、資本主義的利己による自由主義の矛盾からの解放を展望しているものである。

  労働疎外からの克服、友愛、協働・協同、利他主義的による人間的自由、それぞれの個性を尊重して、個々が仲間の絆を伴っての人格の発達がされていく社会を探究していくものである。ここでは、人びとの絶えざる学び・生涯学習が不可欠になるのである。そして、その矛盾の克服の実践によって、一歩一歩前進していくものと考える。

 ところで、賀川豊彦は、日本の生活協同組合運動、協同組合保険運動に大きな影響を与えた思想家である。戦前の労働者や農民の貧困状況をすこしでも改善したいという友愛的精神から労働運動や農民運動とのかかわりを深くもっていた。また、協同組合運動を日本で先進的に展開した活動家であった。

 彼の社会運動の基盤精神は、キリスト教の友愛精神を基本にしていた。トルストイの「戦争と平和」の著作に大きな影響を受け、その精神を基にして、平和運動にも貢献した。

  彼は、キリスト教社会主義に共感をもって、貧民の人たちをすくった聖人でもあった。キリスト教の信仰にある友愛精神の内心から資本主義的矛盾のなかで貧困に虐げられた人びとの救済の運動を積極的に展開したのである。

 明治34年に結成された日本最初の社会主義政党社会民主党創立者の多くは、キリスト教信者であった。明治政府は、キリスト教育信者で社会主義者に弾圧を加えたのが大逆事件であった。和歌山県新宮市アメリカで医学を学び、医師でクリスチャンであった大石誠之助が死刑執行されたのである。新宮では、6名が逮捕され、2名が死刑執行、4名が無期懲役の刑を受けた。

 戦後は、多くの研究者の解明によって、国家的陰謀としての真実が明らかになり、キリスト教信者と僧侶の仏教者など犠牲になった6名は新宮市の市議会全員一致で、名誉回復の決議されて、大逆事件の犠牲者を顕彰会として、暗黒裁判の歴史と犠牲者たちの意志を学習し、未来への継承に、人間の尊厳と平和のための市民的運動になっていったことである。

 ところで、片山潜安部磯雄、木下尚江などは社会党結成のメンバーの多くはクリスチャンであった。足尾鉱毒事件の運動など社会運動を積極的に展開した内村鑑三キリスト教の信者であった。戦後の日本共産党の副委員長を務めた小笠原貞子もキリスト教の信者であった。

  また、リベラルな日本の近代思想を形成していくうえで大きな影響を与えた新渡戸稲造キリスト教司祭信者であった。彼は武士道論を英文で出版して、世界に日本文化を支えてきた社会倫理精神を紹介した。また、一国の良心教育論などを実践し、同志社大学を創立した新島壌もキリスト教信者であった。日本では、キリスト教信者の文化人・教育者が日本の近代のレベラル思想の発展に大きな影響を与えたのである。

  明治期の社会主義の流れの仏教者との関係では、大逆事件連座した内山愚童、(曹洞宗・死刑執行)、高木顕明(新宮グループとして、真宗大谷派・死刑判決減刑無懲役)、峰雄節堂(臨済宗・死刑判決減刑無期懲役、加藤時朗(日蓮宗在家信者)がいた。

 昭和初期には、私有なき共同社会を論じて仏教社会主義を実践した妹尾義郎がいた。彼は治安維持法によって弾圧された。戦後は日本共産党の運動にも参加した。このように、宗教的な精神からマルクス主義を学び、社会主義運動を実践した人びとが日本に数多くいたのである。幕末から明治維新にかけての廃仏稀釈、大逆事件などは、キリスト教の神父や仏教の僧侶を国家神道のもとに統制して、アジアへの侵略戦争のための精神的動員にしたのである。ここでは、様々な宗教集団が国家神道のもとで、日本的精神に醸成され正戦論になっていくのである。

 ところで、賀川豊彦1920年出版「死線を超えて」は、100万部を超えた。賀川はこの年に、神戸購買組合を設立した。その協同組合は、後に灘生協になって、日本最大の生活協同組合になったのである。

  賀川は、1921年三菱重工業川崎造船所の大争議をも指導し、労働運動を積極的に指導した。彼は、キリスト教友愛精神をもっての社会主義活動を展開したのである。この大争議は、3万5千人の労働者による自主管理を一時的に実施する。

  しかし、警察による弾圧によって労働争議は敗北に終わるのでした。さらに、1922年には農民運動にもかかわるようになる。農民組合は3年後に7万人の組合になる。

 1929年以降は、100万人の救霊として、福音伝道のための活動で全国をまわるようになる。戦後の1946年には、桜美林大学の創設期に初代理事長になった。また、戦後の日本社会党の結成にも参加した。晩年は、平和のために、世界連邦に取り組んだのである。このように、賀川は友愛精神を基礎にして、多様な人々の救済の社会活動、政治活動に参加したのである。

 賀川豊彦の協同組合の本質論は、助け合いの組織を作り、それを実現することであると述べる。そこでは、生産者も、消費者も愛のつながりによって公正な、自由な幸福を分かち合う経済生活ができるとする。協同組合は、宗教的にキリストでいう兄弟愛意識の発展であると考える。それは、最善の合理性、科学性に富み、かつ芸術的、宗教的経済組織といえるというのであると考える。

 ところで、賀川は、唯物論的経済学の無能さを力説する。マルクスは、友愛の経済を実現することはできないときめつける。また、一方的な独善の教義的宗教は、友愛経済の実現ができないとしている。

  マルクス唯物史観は旧時代の学説と断定する。賀川は、人間の歴史における客観の勢力を否定するものではないとみているが、客観と自我が交渉して経済史が生まれるのは、自然史ではなく、生物の発生史だと賀川は考える。

 賀川はマルクスを次のように批判する。マルクスは、唯物的生産が意識的目覚め、人間の精神的文明文化を決定するというが、そんな簡単なものではないと批判する。

   賀川は食の生産について、次のように述べる。食の生産は、植物の征服、動物の征服、気象学・土壌学・肥料学・微生物学を始めとするその他の諸学を加えて進歩した。これは全く人間意識の発達によるもので、単なる唯物的決定によってよるものではないことは明らかである。マルクスは人間の意識の発達作用をみないとするのである。

  そして、さらに、マルクスの理論は、社会病理学を示したことは立派であるが、社会病理の治療方面には触れることはなかったと断定する。その最も重大な治療面は協同組合運動によらねばならないということが、賀川の主張である。賀川豊彦のディスカバー選書「協同組合の理論と実際」9頁参照

 この賀川の批判には、マルクスの正確な理解が不足して、多くの誤解を含んでいる。マルクスは人間の意識、意欲を社会変革のなかで特別に重視しているのである。決して、社会的矛盾は、必然的に解消されていくという立場をとっていない。

 

 賀川豊彦マルクス批判に対する本論でのマルクスの人間意識・意欲の見方

 

 賀川のマルクスの理解は、スターリン主義による機会的唯物の影響の中に強くある。スターリンは、世界の本性を物質的な発展法則ととらえ、世界精神なるものは存在しないとみるのである。

 「物質、自然、存在は、意識のそとに、それとは独立に存在する客観的実在であり、物質は感覚、表象、意識の源泉であるから、物質こそ第一次的であり、意識は物質の反映であり存在の反映であるから、第二次的であり、派生的である」スターリン「弁証的唯物論史的唯物論国民文庫、108頁。

 マルクスエンゲルス社会主義理論は、社会を変革していくうえで、人間の意識や意欲を積極的に評価しているのである。 そして、人間の善悪の問題、道徳や幸福の衝動を社会的役割のなかでみていたのである。そこでは、大きな流れのなかで、社会的存在の客観的にみる必要性を強調している。

 賀川がのべるように唯物生産決定という単純な考えをマルクスはとっていない。マルクスエンゲルスは、キリスト教の本質を書いたフォイエルバッハの機会的唯物論を批判している。そこでの人間の行動の見方は、頭脳を通して、感情や衝動、思想として、観念の世界によって起きることを次のように述べる。

 「人間を動かすものはすべて、その頭脳を通過しなければならない飲み食いさえもそうであって、それは頭脳によって感じられ飢えや渇きではじめられ、同じく頭脳によってかんじられ豊満で終わるのである。人間に及ぶ外界の影響は、人間の頭脳のうちに表現され、頭脳のうちに感情としての思想と衝動の意志決定となる。要するに観念の流れとして反映して、そしてこの形において観念の力となるのである」。エンゲルス「フォイルバッハ論・」国民文37頁より

 マルクス・エンゲルスの考える人間の行動は観念の力として起きるというのである。人間の観念は、かれが存在している外界の影響を頭脳をとおして表れるという見方である。そして、人間の善悪は、所有欲とか支配欲という人間の持つ邪悪な情欲から起きるとマルクスエンゲルスは次のようにみるのである。

 「人間の悪は階級対立の発生以来、歴史的発展の梃子は、所有欲とか支配欲という人間の邪悪な情欲であって、封建制度ブルジョアジーとの歴史が、その独特な永続的証拠である。道徳的な悪が歴史のうえで演じる役割の研究が必要である。このことをフェイエルバッハは思いもおよばない」。前掲書、45頁―46頁

 そして、エンゲルは善悪と幸福衝動の愛の道徳については、個々の人間が他人と交わるということから生まれると次のように述べる。

「フイエルバッハは自身の合理的自制と、他人との交じりにおける愛が道徳の根本規則であって、この規則から他の善悪のことが一切導かれる。また、幸福の衝動は人が自分自身のことだけにかかわりあっているのでは、例外的にしかみたされず、自分の利益にもなり、他人の利益にもなるようにみたされることはけっしてない。

 かえって幸福衝動は、その充足の手段である外界とのかかわりあいを必要とし、したがって食物、異性の個人、書物、談話、討論、活動など、利用されまたは消費される諸対象を必要とする。フォイルバッハの道徳は、これら幸福衝動充足のための手段と対象とが無条件に各人にあたえられているものとみる」。前掲書46頁ー47頁参照

 個々の人間が他人と交わることからの善悪や幸福の衝動は、個々の内面的なことに入り込むのではなく、おいしい食べ物文化の楽しみ、友人や異性との語らいや絆の関係、共に行動する楽しさや連帯など個々の外界との関係を大切とするのである。

  そして、人間の歴史は、自然の発達史と本質的に異なる。人間の歴史は意識が付与され、情感や考慮によって、意欲的な目標をもって行動していくということを次のように述べている。

 「社会の発達史は、ある一点で自然の発達史と本質的に類をことに類するものである。自然の発達史はまったく意識のない盲目的な作用力であって、これらの作用力の交互作用のうちに一般的な法則がおこなわれているのである。

 社会の歴史においては、そこで行動しているものは、意識を付与され、考慮または情感をもって行動し、一定の目標をめざして努力する人間のみである。そこでは、意識された企図、意欲された目標なしに、なにごとも発生しない」。前掲書、60頁-61頁

 マルクスエンゲルス社会主義の理論は、意識された企画と意図、意欲された目標なしに、一定の努力なしに人間の社会は動いていかないことを強調していたのである。

 マルクスは経済学・哲学草稿において、資本主義の労働は、人間の本質の自由で自発的なものからではないとする。労働者が幸福を感じないことで、精神を退廃させている。これは疎外状況であるとしたのである。

  マルクスの人間理解は類的存在ということで、実践的な社会的存在であり、意識や意欲をもって行動することを重要視した。 人間の本質的な自由な労働は、動物と異なり、人間が生活手段とする自然生産物は、人間の実践的な意欲された自由な精神活動である。そのことが人間の類的生活をもっての社会的存在の証でもあると次のように述べる。

 「人間は自分の生命活動そのものを、自分の意欲や自分の意識の対象とする。意識している生命活動は、動物的な生命活動から直接人間を区別する。まさにこのことによってのみ、人間は一つの類的存在なのである。すなわち、彼自身の生活が彼にとって対象なのである。このゆえにのみ、彼の活動は自由な活動なのである」。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、95頁ー96頁

 マルクスのみる資本主義的生産による疎外された労働は、人間の本来的な類的存在を奪いとるものであるとした。自由な自己活動の類的生活が労働疎外によって現実的な類的対象を奪い、給料による生活手段に大きく変化していく。労働者は、自分の労働の生産物に対して疎遠になるというのである。

  それは、自分の欲する生産物の労働ではなく、私有財産を所有する資本の富者の利益のために、生産するというのである。労働者にとって、彼が創造する価値の生産物は、自分の欲求から必要な生産物ではないのである。その生産物は、自分の所有物ではなく、外にあるものになる。従って、生産することに幸福を感ぜず、かえって不幸と感じ、自由な肉体的、精神的エネルギーが発展させられずに、肉体は消耗し、精神は退廃化するということになる。

 資本主義的な疎外における労働者は、労働しないときに、安らぎを感じ、労働は自発的なものではなく、強いられたもので、欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足するようになる。疎外された外的な労働は自己犠牲で、資本の私的所有者の他人に従属することとして現れ、自己を苦しめる労働になる。

 それは、宗教において、人間的な想像力、人間的な脳髄、人間的な心情の自己活動が、個人から独立して、疎遠な神的または悪魔的な活動として、個人の上に働きかけるように、彼の自己活動ではないのである。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、91頁ー92頁参照

  労働の疎外は類的存在の意識された自由な精神的能力という人間的本質を奪うことになるのである。 疎外された人間の労働は、人間の食糧、燃料、衣服、住居などの自然からの生産物であることから、人間を自然から疎外することになり、人間にもつ特有の自由な欲求に応じての活動的機能や、人間のもつ精神的本質を疎外することになるのである。

 労働者の生活手段の給料は疎外された労働の直接の結果である。労働者の隷属状態からの解放は、単に、労働者の解放というだけではなく、一般的人間解放が含まれるのである。資本主義的な生産関係において、労働者の生活手段は、自営する農林漁業者のように自らの欲求に応じての自然を対象にしての労働ではなく、市場をとおしてほしいものを購入することによって、消費手段を得るのである。

  そこでは、労働者の生産目的は、疎外された労働になることによって、私有財産の所有者の資本から賃金を得ることが重要な生活のための手段となるのである。マルクスは、この問題について、次のように述べる。

 「労賃は疎外された労働の直接の結果であり、そして疎外された労働は私有財産の直接の原因である。だから、一方の側面とともに、他方の側面もまた没落さざるをえない。私有財産からの隷属状態からの解放が、労働者のかいほうという政治的なかたちで表明される。

  労働者の解放だけが問題になっているようになっているが、そうではなく、むしろ労働者の解放のなかにこそ一般的人間解放が含まれているのである。生産にたいする労働者の関係のなかに、人間的な全隷属状態が内包されているのである」。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、104頁参照。

 マルクスは近代によって生まれた資本主義的な私有財産の積極的止揚の展望を、疎外された労働からの解放として、原理的に位置づけるのである。疎外された労働からの解放ということは、占有や所有という物資的関係だけではなく、全人間的な感性的な感情や意欲、意識を人間的に自由にしていくということを強調しているのである。この私有財産止揚は、長い歴史的な過程によって、具体的な矛盾から一歩づつ人間的な解放がされていくのである。

 「私有財産の積極的止揚は、人間的本質と生命という人間的感性を自分のものにしていくことで、単に占有、所有という意味だけではなく、人間の全面的本質、全面的な仕方でみていくことである。

  世界に対する人間的諸関係の中での見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感ずる、恣意する、直観する、感じ取る、意欲する、活動する、愛すること、要するには人間の個性のすべてである。私有財産止揚は、すべての人間的な感覚や徳性の完全な解放である。私有財産止揚が、人間の感覚や感性が主体的にも客体的にも人間的になっているということである」。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、136頁ー137頁参照

 人間の解放にとって、自然科学が大きな役割を果たすことは、産業をとおして、類的存在の人間のもつ社会的存在や人間的な哲学・思想の総合的な営みのなかで達成されていくものである。現代のように、科学や技術が競争社会のなかで一面的に産業に応用されてきた結果、地球的な規模で環境問題が生まれる時代である。

 持続可能な社会のために科学や技術の産業への応用問題を総合的に社会科学や人文科学も含めて総合的に考えることが迫られることである。マルクスは自然学の発展に、産業のもつ意味について、次のように述べている。

 「自然科学は途方もなく大きい活動を展開し、たえず増大する材料をわがものとしてきた。自然科学が哲学に疎遠なままにとどまっているのと同様に、哲学はその間、自然科学にたいして疎遠なままになってきた。一時的な結合もたんなる空想的な幻影にすぎなかった。

  しかし、自然科学は産業を介してますます実践的に人間生活のなかに入りこみ、それを改造し、そして人間的解放を準備したのであるが、それだけますます直接的には自然科学は、非人間化を完成させずにはやまなかった。産業は、人間に対する自然の、したがって自然科学の現実的な歴史的関係である」。マルクス「経済学・哲学草稿」岩波文庫、142頁参照

 自然科学の産業の応用は、一面的であるが、自然科学が実際に人間の生活と結びついて、生産力の発展、経済の成長に貢献していくのである。

  労働の疎外という視点から大切なことは、資本主義的生産関係による矛盾の課題である。そこでは、価格競争や利益主義的な大量生産・大量消費・大量廃棄物ということで、一面的、奇形的に発展してきたのである。それは、人間にとっての幸福や豊かさに決して直線的に結びつくものではなかったのである。

  また、自然環境の破壊など地球的な気候問題も起こしているのである。この矛盾に対して、人びとの意識的な危機を克服していこうとする運動、様々な社会的な積み重ねられてきた社会的規制のルールと、それを、さらに矛盾解決を充実させていく社会的規制によって、一歩、一歩の目的意識的な解決の探究が行われているのである。ここにも、資本主義的な私有財産の矛盾の長い解放の運動があるのである。

 労働疎外の矛盾から、個々の労働者は無力であった。格差の拡大による貧困から集団として団結して、労働組合をつくり、自ら窮乏した生活や失業の恐怖を団体交渉、ストライキによって、人間らしく生きる権利を行使しようとするのである。

 また、資本による非人間的な利潤の社会的規制、失業や医療保障、年金など、国に対しての社会的保障を求めていくのである。ここに、労働者の労働疎外からの解放運動を中心としての社会的な人権が生まれていくのである。

  これらの事実からみるとおり、労働者の解放運動は、すべての人々の人間らしく生きる権利になっていくのである。それは賃金などの経済的物質的なことだけではなく、労働者が生きがいをもって働ける職場環境、豊かな知識や技術、教育や文化の保障、孤立した無縁社会の解放によっての潤いのある人間関係の構築によって幸福に生きていける権利も含まれているのである。

 労働の疎外は人間が商品化されることによって起きる歴史過程である。土地の占有・所有者であった農民が収奪されて、働く場所を求めて都市へと、工業へと移動していくことによって生まれたものであり、そこでは、失業者、浮浪者という過酷な生活を余儀なくされて、資本に従属していく過程があったのである。

 安定した雇用契約を結ぶことができるためには、資本に従属して効率的で、生産力向上のための労働力を発揮することが求められたのである。利潤追及の資本による効率的な労働力の質の競争が労働者の間で起きるのである。資本の効率性は利潤追求が第一主義であり、決して、労働者全体の生活の安定と幸福をもたらすものではない。

 資本主義的な価格競争は、科学・技術を利潤追求のために発展させた。その発展は人々の生活第一主義ではなく、自然にやさしいものではなく、失業者を作りだし、自然環境を破壊してきた。人間にとっての生活や文化を豊かにしたいという本源的な労働が人間自身をも疎外していくのである。

 そして、人間自身の精神的、文化的な疎外は、官僚制を生むのである。科学・技術の推進による生産効率の高度化は分業の著しい発展をもたらして、社会全体を目的合理的に人間の労働を部分化して、精神も細分化された機械の歯車のように官僚化していくのである。人間の疎外は労働疎外を基盤に、人間を商品化して、官僚制のなかにはめこんでいくのである。

 この人間疎外からの解放には、競争のなかにいる労働者をはじめ、人々の協同・協働、絆、人間的な友愛と慈愛の精神を大切にして、資本主義的な矛盾の克服のために連帯と団結していくことである。そして、疎外された状況から主体的意識をもって民主的に社会参加の行動を起こしていくことである。協同組合資本に個々が自立的と自治をもって、一人一票制度を大切にして、自らが生活者の主人公として参加することも重要である。

 このためには、協同組合自身が徹底した参加民主主義をとっていくことであり、個々の組合員が自らの生活、暮らしの豊かさになっていくという認識をもっていくことである。この参加民主主義の実現には教育という役割が欠かせないのである。協同組合の教育活動は本来的な協同組合運動を支える要になるのである。

 さらに、株式会社などの企業形態でも参加民主主義のしくみが大切であり、企業経営における労働者の生活、消費者の生活の豊かさ、環境にやさしい持続可能性が大切なのである。とくに、地球的規模で問題になっている気候変動の危機という環境問題から持続可能な発展のためには、再生可能エネルギー、有限的な資源からではなく、循環的な生産、リサイクルの問題など大きな課題がある。バイオマスセルロースナノファイバーもそのひとつである。

 現代の科学・技術を総合的に発展させれば、それは可能になっている。ここには、利潤第一主義の問題があり、労働者や一般国民との対抗による話し合いという参加民主主義の論理のなかで、経営側が譲歩することによって、問題が解決していくのである。

 マルクス資本論1巻13章での機械設備と大工業のところで、機械を採用にすることによって、安価な低賃金労働力として、婦人労働力や未成熟な労働力を雇い、むきだしの強奪、残酷な夜間労働を強制したことを述べている。

 それは、踏み越えられない一定の自然的諸制限につきあたる。そして、同時にこのような資本主義的搾取も自然的諸制限に突き当たる。自然的諸制限による人間の再生産も不可能になっていく。労働日の規制が工場法という強制によって、実施されていくのである。

  工場立法は大工業の機械設備の導入による自然諸制限の限界から意識的にかつ計画的に労働力の再生産を確保するという資本主義的生産搾取の無政府性の矛盾からの社会的要請でもあった。また、工場内における最も簡単な清潔・保健設備も国家の強制法によって、社会的ルールとして強制されたのである。

 工場法の教育条項も全体的には貧弱であるが、初等教育を労働の強制的条件としたのである。これは、教育と体育を筋肉労働のなかで結合する可能性をもったのである。

  さらに、工場の児童の方が半分の授業を受けていないにもかかわらず、昼間の正規の生徒と同じか、またはもっと多くを学んでいることを発見したのである。工場制度から未来の教育の萌芽が生まれているのである。

   この未来の教育は、社会的生産を増大させるばかりではなく、全面的に発達した人間をつくるためにも生産労働と知育および体育を結びつけることを教えているのである。

 「大工業を基礎として自然発生的に発展した一契機は、総合技術および農学の学校であり、もう一つの契機は、労働者の子弟たちが技術学とさまざまな生産用具の実際的な取り扱いについてある程度の授業を受ける「職業学校」である。

  工場立法は、資本からやっともぎとった最初の譲歩として、初等教育を工場労働と結びつけるにすぎないとすれば、労働者階級による政治権力の不可避的な獲得が、理論的および実践的な技術学的教育のためにも、労働者学校にいてその占めるべき席を獲得するであろうことは、疑う余地がない」。カール・マルクス資本論・第一巻」新日本出版、838頁

 大工業の機械設備の導入による労働力を枯渇させるという耐え難い児童労働の導入によって、社会的に自然諸制限が限界になることが認識されて、労働日や保健衛生設備充実の社会的規制と児童労働者の初等教育実施が義務化された。

 このことは、労働者が資本からの勝ち取った社会的譲歩であったが、同時に、生産・労働や実際の生活を結びつけていく教育の内容と方法の未来への教育のあり方も含んでいるとマルクスはみるのである。

 立身出世や学力競争が氾濫するなかで、人間の様々な諸能力の獲得は、人間らしく、文化的に豊かに生きるために、自然循環との付き合いで人間社会の持続性のために、実際と結びついていく教育のあり方が問われているのである。

  つまり、何のための教育であるのかという根本的な問題提起が含まれているのである。マルクスは、未来への社会を展望しての現実の社会的矛盾の直視から、それを一歩一歩解決していくことの重要性を教えているのである。

 

 賀川豊彦の協同組合論

 

 賀川豊彦のディスカバー選書「協同組合の理論と実際」から、協同組合の社会における産業民主主義、政治的民主主義、利己意識に根ざす資本主義に苦しむ人々の救済の道、それを実践的に支えていく学びを考えていく。

 終戦直後の都市では、食糧難による飢え、栄養失調がひどいものがあった。このなかで、闇の経済が氾濫して、社会経済が大混乱している状況であった。この状況を救うために、賀川は、協同組合の必要性を力説した。

 「経済機構も、生産、分配、消費の傾向が、全部物質および本能的な経済行動から救われて、初めて意識的に移り、生命的な一つの大きい愛の組織を形成せねばならないのである。

  その愛の経済組織とは、ここにいう協同組合運動のことである。 われらは、世界を一つの協同組合経済の世界とするために、あらゆる無用なる経済はこれを破壊して、世界経済を建て直す協同組合への道を獅子奮迅の勢いで努力せねばならない。

 窮乏・飢餓・不安・闘争・失業・闇の横行・混乱・恐慌、などなどの深淵が、暗黒な口を開いて人々を呑みつつあり、かつ呑まんとしているのである。 またインフレーションの竜巻が吹きまくって、アレヨアレヨという間に人々を天高く引きさらっては、再び地上へ墜落させている」。賀川豊彦のディスカバー選書「協同組合の理論と実際」前掲書、5頁

 日本主義的な無政府による経済の社会制度の生産、分配、消費の物質的な行動から、人びとが救われることである。この救いがあって、はじめて意識的な人間らしい生命活動になっていくというのである。その中で、とくに、友愛精神という愛の組織を形成するということで、協同組合を賀川は重視するのである。

 賀川は、愛に根ざした助け合いの経済組織が窮乏と飢餓を救い、盲目的な無秩序な経済状況が社会の混乱を防止していくとするのである。前掲書、10頁参照

 この愛に根ざした友愛の協同組合の精神に、公平で自由な幸福で、分かち合う社会ができるとするのである。

 つまり、賀川にとって、友愛の精神の協同組合の形成において、キリスト教でいう兄弟愛精神が、重要であるということになる。生産者も、消費者も愛のつながりによって、公正で自由な幸福を分かち合うことができる。キリスト教でいう兄弟愛意識の発展を協同組合にみることができると。前掲書、16頁参照

 賀川は協同組合運動において、物質を第一とするのではなく、人間尊厳を大切にして、友愛精神をもつ格を第一としているのである。協同組合運動は、隣人愛の社会を実現することを目的とするもので物質を第一とせず人格を第一とする。利益を中心とせずに相互扶助を中心とする。前掲書、20頁参照

 賀川は、協同組合運動の三つの原則として、ロッチデールの協同組合の原則を重視するのである。その三つは、(1)利益払い戻し(2)持ち分の制限(3)一人一表制ということである。とくに、もうけた利益を案分比例で戻すという分配制度の確立を重視した。このことは、独占権の打破と利益を消費者に戻すということから富を搾取しない、集中しないという原理をもっているのである。前掲書、21頁参照

 ところで、日本の協同組合の歴史について、古くから、無尽・頼母子講、地割制度のような共済組合、相互扶助制度のようなものが日本文化の特徴としてあったことを賀川は指摘する。日本の農村の共同体には、伝統的に助け合いの精神があったとするのである。

  そして、とくに、日本の協同組合の歴史で、重要なことは、学びという教育を重視してきたことであるとする。その典型的な事例として、京都の伏見をあげる。伏見十六会は、明治27年にキリスト教の信者であった人見善三郎によって信用組合が16名の有志で立ち上げられたものである。この組合は一日2銭の貯蓄ということで、16人が32人になり、千人となり、一万人を超える組織となった。

  その利益を教育に貢献させるということで、伏見菊水高等女学校、伏見商業学校を創立した。上級の学校に行きたい者には、学費のないものには大学を出るまで学資金を貸し出すということを行ったのである。

 賀川にとって、協同組合運動は、隣保愛、互助相愛の精神を基礎に、働いて得た利益を公平に分配し、個人家庭社会の幸福と向上のために使い、到善の施設を拡大して搾取なき社会をつくっていくことにあるというのである。前掲書、24頁ー25頁参照

 協同組合運動は、資本主義の解放ということで、搾取なき社会が目標となるのである。そして、協同組合運動は、運用するものの精神的社会意識の目覚めの程度によって真価が問われるということを賀川は力説している。まさに、教育、生涯学習という友愛や慈愛の精神による学びになってくる。

 そこでは、道徳教育を徹底し、意識開発をまたねばならないとする。組合員が利己的であれば利益金は全部かれらに返っていく。組合員に他愛精神が旺盛であれば、その利益は組合員の決議によって、全部社会公共のために使用される。協同組合は単なる金儲けの組織ではなく、喜んで人のために損をする覚悟をもっていく兄弟愛意識が求められていくのである。前掲書、27頁ー28頁参照

 兄弟愛意識形成という利他主義が大切になってくるのである。とくに、資本主義のなかで、金儲け主義の自己利益がはびこっていくばかりではなく、人を騙し、嘘をついていく人間としての倫理観を失っていくことが平然とやられていく状況もあらわれていく。その克服として、人間の尊厳、人間らしく生きるということはどういうことか。動物と異なって、類的な社会存在という根本的な本質論から、利他主義的な友愛や慈愛の精神が重視されていくのである。

 賀川は、生産を、生産のために生産すると言う盲目的の生産から一転していくことが求められるとしている。つまり、需要に対して生産者の活動が開始される時に、人間生命の幸福と完成のために、必然的に功利的一面と共に、芸術的精神をもってこれを生産するということである。

 そこでの生産には、芸術化があり、生産品に美と味わいを加えることになるのである。従って消費ということもまた芸術的意義を有し、かつ文化的意義を生ずるのである。賀川の生産論には、文化と結びついて、計術的精神が含まれているのである。

  まさに、物の生産には、人間の芸術をもっての美的な精神的活動が含まれているのである。まさに、生産物に対する文化的要素としての美的な品質の問題があるのである。一つ一つの生産物には、人間の魂が入っているのである。伝統的な職人労働による生産物は、このことを強く反映しているのである。大量生産・大量消費という効率主義による生産物ではないのである。前掲書、28頁参照

 協同組合運動の教育と訓練には、(1)奉仕精神と信用、(2)私欲を離れる、(3)会計検査を厳重にせよということがある。

 第1は、奉仕精神がなければ信用がない。日本の村々の産業組合はただ利益ということから出発しているのが多いので、利益がなければ組合をすぐに脱退したり、解散したりする。協同組合運動は、その場限りの利益中心の金儲け主義の運動ではない。経済状態を根本的に改造せんとする協同愛の運動である。

 第2に、肥料を買いつけ、先へ行って高くなると組合員に高く売り、その価格の差だけをもうけていた。こうしたことは、組合員を欺く利己的な態度で、利己的な態度で、利己心は組合を滅ぼすものである。

 第3の会計検査を厳重にせよということは、このためには、整然たる会計簿を備えておくことが絶対的な条件になる。

  多くの協同組合の失敗の教訓は、会計簿の整備の問題がある。幹部には会計事務に堪能な人、宣伝の上手な人、商品に明るい人と、三人をおかねばならない。さらに、組合成立の努力には、200軒の加盟者、事務所の設置、配給法として組合員が自分で取りに来るやり方、掛売りはできるかぎりしない方がよい、利益金の分配は早く理解させる方がよい、商人の妨害にひるまず妥協せずに、協同組合は労働組合と違って永い訓練と経験を積むことで忍耐せよということを賀川は述べているのである。前掲書、51頁-53頁参照

 さらに、協同組合運動は、国家改造ということがある。国家のもとで協同組合がしっかりして、組合員を餓えぬように、貧乏にさせないようにしなければならないと賀川は考えるのである。

 日本では、政党の歴史は、自己の権力のことばかり腐心して、国民の全生活のこと、福利のことは考えていない。政治を利用してわがまま勝手なことばかりしている。これでは、政治は少数者の権力争いの具に使われ、一般民衆がおきざりにされている。民衆それ自身が組織し管理する協同組合精神によって、国家の改造が必要であると賀川は述べるのである。

 また、協同組合代表による議会改造の必要性を強調する。協同組合の代表者を選んで、協同組合の組合長なり、専務理事というものの中から選挙し、議会を組織すればよい。国民それぞれの生活を熟知している組合の代表者のみが、真の国家の議会というものを組織しなければならない。

 議会制度というものは、生活に即して生活を根本的に改造する国家組織をもたねばならない。生活権を保証し、労働を保証し、人格権を保証するような、生活、労働、人格の三つを保証し得る真の協同組合の基礎をもった議会制度が生まれ、組合国家の議会をつくるべきと賀川は考えるのである。

 世界平和ということも賀川の協同組合論では重要な課題である。近代戦争は、人口問題、原料問題、国債問題、運輸問題、商業政策・関税問題の五つが重大な問題と賀川はみる。経済問題が世界戦争の大きな要因になっている。このために、協調相愛し、戦争のない世界的政治文化を協同組合の原則によってつくることを力説している。このためには、世界経済会議をもって、世界経済同盟を結ぶ必要性を提唱している。前掲書、55頁

 現代の平和と戦争の問題を考えていくうえで、賀川が指摘していることは重要な課題であるが、ウクライナ戦争問題やイスラエルパレスチナの問題を考えると、それぞれの国家体制や民族的価値観、民族的文化、宗教的価値を相互に認めていく国際的な協同と協調の国家主権の尊重が大切になっている。とくに、世界の平和共存を考えていくうえで、民主主義と独裁・権威主義の闘いという見方の克服が緊急の課題になっている。この意味で国連憲章の遵守が世界の協同と協調になっていくのである。

 

まとめ

 

 賀川豊彦は、キリスト教の友愛精神をもって、貧困化などの資本主義の矛盾にあえぐ人びとの救済に、友愛による協同組合を積極的に考えたのである。ここでは、利己ではなく、友愛による協同の経済を大切にしたのである。友愛の協同組合の経済の確立・発展には、学びの営みが大切と賀川が指摘していることである。教育の力によって、それは、実現していくというのも大きな社会変革の行動における特徴である。

 1995年に世界の協同組合原則として、協同組合のアイデンティティーに関するI CA 声明を全体総会で決議した。協同組合の定義は、共同で所有し、民主的に管理する事業体を通じ、共通の経済的・社会的・文化的ニーズと願いを満たすために自発的に手を結んだ人々の自治的な組織である。

 協同組合は、自助、自己責任、民主主義、平等、公正、そして連帯の価値を基礎とする。それぞれの創始者の伝統を受け継ぎ、協同組合の組合員は、誠実、公開、社会的責任、そして他人への配慮という倫理的価値を信条とする。

 協同組合の定義は自発的に手を結んだ人々の組織としていることである。つまり、自発的な自治組織ということである。そして、協同組合の価値観では、他人への配慮という倫理的価値を信条としている。他人への配慮ということで、利己的ではなく、利他主義を信条としていることである。

 協同組合の原則として、七つあげている。第一は、自発的で開かれた組合員制。第二は、組合員による民主的管理。第三は、組合員の経済的参加。第四、自治と自立。第五、教育、訓練及び広報。第六、協同組合間協同。第七、コミュニティへの関与。以上の七つの原則で、長年にわたって、教育と訓練の役割を特別に重視してきたのである。

 協同組合にとって教育の役割は決定的に重要であるということである。とくに、若い人々やオピニオンリーダーに協同組合運動の特質と利点について重視していることである。第七原則は新たに付け加えられたものである。それは、環境問題克服など持続可能な発展、人間らしい生活の地域課題と深くかかわっていることが認識されるようになったからである。協同組合運動は地理的空間として、コミュニティと密接にかかわっている。

 資本主義社会は、利益中心の利己主義に陥りやすく、競争主義を一層に促進する。このことが、国際的になって世界各地の天然資源の大規模な略奪、持続可能性を否定していく開発が各地に進んでいったのである。未来への持続可能な社会形成に、資本主義的利益第一主義の矛盾の解決をしていくためには、友愛精神による協同組合運動の必要性を不可避にしている。

 協同組合運動にとって、最も大切なことは、組合員の教育とともに、コミュニティに関与していくための啓蒙活動は必然的に要求されていく。1995年の協同組合のアイデンティティーに関するI CA 大会の7つの原則のなかでも子どもや青年期からの協同組合精神の教育を重視しているのである。現代日本における子育て・教育も大きな矛盾をもっている。

 学校では競争主義による一斉学力試験が導入され、一斉学力試験による教育の画一化も進み、偏差値教育による子どもたちをランク化していく。子どもの個性によって、また、子どもの将来の希望、やりたいことをじっくり考えていくような進路の指導も遠ざかっていく。学習塾やお稽古ごとの教育産業も幅をきかしている。子育てにかかる家計費も大きな比重を占めるようになり、子育て・教育をめぐる格差も重大な問題になっていく。本来ならば公的教育が担うべき教育の比重もさがっていく。

 このなかで重大なことは、子ども・青年の成長に欠かせない人間的な絆、仲間と共に考えて、協働の力で創造していくことが疎かになって、利己主義的利益におちいりやすくなっていくことである。つまり、類的存在・社会的存在としての人間の本来の利他主義的な人格が形成されていかないことである。

 この矛盾を真剣に考えて、教育における協同・共同、仲間と共に相互性をもって集団的に学ぶことが求められているのである。また、集団のなかで、道徳的に利己主義の克服、友愛精神、慈愛精神、利他主義の教育、協同組合と教育機関との連携がコミュニティーのなかで大切である。

 賀川は、生産過程における資本主義的な労働疎外の矛盾に対して、労働組合運動や農民運動を支援したが、それに、協同組合運動を対置したのである。また、社会保障の確立・整備、資本主義の無政府的な搾取や利潤中心主義にたいして、社会的規制をもって対処していくための政治的権力や行政的施策にたいしても、協同組合主義によって変革していくというものであった。キリスト教の友愛精神が大切にされた賀川であったが、ここでは宗教と政治権力や行政的な権力との関係にふれておかねばならない。

 友愛精神や仏教的な慈愛・慈悲の精神は、個々の社会的な活動を支えていく大切な精神になっていくことはいうまでもない。それぞれの信仰は、人間が生きていくうえで重要な精神になっていく。哲学や思想も同様である。個々の信仰や価値観は多様性をもっているのである。

友愛の精神には、人間の尊厳を基礎にして、それぞれを認め合って、対話して、相互に自由に活動ができることが重要なのである。社会的に絶対的な宗教や価値観があるわけではなく、国家権力や行政権力は、それぞれの信仰や思想・信条を認め合い、その自由を保障していくことが大切なのである。ここには、思想・良心の自由(憲法19条)。信教の自由、政教分離憲法20条)の民主主義の原理があるのである。

 人間は主体的な意識をもって、知的に、文化的に生きているのである。人間の意識、意欲、感情、知的な活動、他を思いやる心は、社会的存在として、類的存在の人間らしく生きていくために大切なことである。マルクスも労働疎外論など彼の哲学・思想のなかで、積極的に人間らしく生きていくために重要なことである。

  具体的に社会主義未来社会を論じるうえで、労働疎外や弱肉強食の競争主義、自己利益の金儲け主義の人間モラルの衰退の資本主義に対して、労働者や農民をはじめの国民的運動の役割は大きい。その矛盾の解決には、強いられた競争から矛盾のなかで生活苦や地域の環境を解決していく仲間の輪をつくり、絆を形成し、団結していくことである。

 現実の資本主義の矛盾の外にあるものではない。資本主義の胎内に社会主義の未来の姿がある。歴史的に資本主義の矛盾の現れ方も人々の運動によって異なる。それぞれの国の制度や歴史文化によっても異なる。また、それぞれの国の経済の発展度合い、人びとの意識度合によっても異なる。

 資本主義の中での科学・技術の発展は、競争主義の中で一面的、奇形的になっていった。そこでは、自然環境破壊をもたらし、持続可能な発展ということからの危機が現れたのである。人間それ自身も分業的に生産効率にさせられて、資本主義の労働疎外と同時に、目的合理的官僚制によって、人間の心のない業務遂行が機械的に促進されていくのである。近年のコンピューターや映像の発達、AI化によって、マスコミの発達も複雑になっている。

 人間は一層、機械に動かされ、バーチャルな世界に人びとが入り込んで、人間の意識それ自身が操作されやすくなっていくのである。人々の日常の暮しや実際の現実から遠ざかっていくことで、自立的、自発的に主体性をもって物事を考えていくことが難しい時代をもたらしていく。

  現代の日本社会は、子どものときから学力競争や立身出世にかりたてられて、大人になっても競争に追われる。この現状から、人びとは、孤立や無縁にかりたてられる。そして、利己的にならざるをえない側面がある。そこでは、個々人にとって、意志的に人間のもつ類的存在、社会的存在としての絆が薄くなっていく。様々な生活の矛盾を仲間と共に考え、学ぶことが苦手になっていく。

 このような現代の状況は、目的意識的に絆や仲間という集団、協同の組織形成が必要なのである。とくに自己の主体性をもつこと、目的や意欲、自分は何をしたいのかということの自己の個性をみつめて、積極的に組織形成していくことが不可欠になっている。

 さらに、人間らしい暮らしを実現していく人びとの目的意識的な友愛による協同の組織的実践は、資本主義的な社会的矛盾と対抗しながら、新たに、友愛・慈愛の協働性をもって、人間の個性と自由性の総合的な発展を導いていく。また、自然と調和し、豊かな人間関係をつくりあげていくのである。

 現実の資本主義の矛盾のなかで、その矛盾を解決していく人びとが獲得した社会的ルール、法制度、人間の尊厳による社会保障や民主的な公平の分配などの財政制度などは、社会主義を準備していく社会的基盤でもあるのである。

 この意味で、社会主義未来社会論は、人びとの現実的な資本主義の矛盾解決として人びとが勝ち取った社会制度、政治制度、財政制度のなかにあるのである。また、社会主義未来社会を考えていくうえで、利他主義的な友愛や慈愛などの精神をもつ人間の尊厳、人間らしく生きるということは大切なことである。

 

未来への地方自治と社会教育の研究展望

未来への地方自治と社会教育の研究展望

               神田 嘉延

 (0)研究所の 社会教育教育研究の基本的視点の再確認

 

  社会教育・生涯学習研究所の島田修一先生を囲んでの小さな3月9日(土曜日)の研究会は刺激になりました。私はオンラインでの参加。

  島田先生は、次のような問題提起をした。地方自治の未来をどのように具体的な展望をもっているのか。研究所が出した今回の本は、理論的に未来展望を提示できていないのではないか。社会教育の再定位を10年前に本を出して、研究を積み重ねていく必要があるということであった。その視点からの研究は、進んではないのではないか。この指摘は、厳しい指摘である。この厳しい意見は、研究所のメンバーに対する島田先生の大きな期待であると受けとめた。

  長く所長をされてきた先生の社会教育・生涯学習の理論の再構築の願いでもある。これは、生活の現実と現在の政治経済的構造の矛盾を解決していく未来への希望ある地域づくりの学習の方法にもなると考える。

 その見方は、それぞれが主体的に学び、科学的な視点から化社会教育実践をどう理論的に構築していくかという問題提起でもある。現在の世界的環境問題、平和の問題、都市と農村の対立、所得格差問題、人権問題など、人々の暮らしは厳しい状況にたたされている。それぞれの学問分野でも、人間らしい暮らしの豊かな未来社会の探求は重要な課題になっている。

 社会教育の研究者として、現実の社会的問題に対して、どう実践的に、それを社会教育という学びの論理から具体的にせまっていくのか。この理論構築が求められているという。

  その学習方法はさまざまな人々の相互の学び合いである。そして、学びをともに創ることをとおして、相互の人間的な発達や実践力を高めていくということの認識が大切になる。

  現代は、人権と自治に結び付いていく社会教育労働論の必要性が極めて大切になっているということを島田先生は強調する。 島田先生は、人類史な危機的状況に真正面に向かって、社会教育研究の必要性を指摘する。島田先生は、この課題に次のようにのべる。

  いま、食料、エネルギー、環境をはじめ人間の生存に関わる深刻な危機的状況に、人々の科学的認識、危機を解決する新しい社会秩序構築に人類はたたされている。この状況に、人々の人々の学びをとおしての深い思考と哲学の協同の作業が必要なのである。

  今後、社会教育実践がどのような領域で広がりをもって展開されていくのか。それを担う社会教育労働は、新しい人間発達の公共性としてどのようにして展開されていくのか。

   島田先生は、社会教育学会での研究の現状を批判する。研究動向は、地域づくり論が政策批判に傾斜し、社会教育職員の専門性が学習方法や技術論になっているという思いをもっている。

 

(1)神田の問題提起は、基本的視点をもって具体的実践の分析から普遍化探求。

 

神田の基本視点

   島田先生の意見に対して、私は大賛成である。しかし、なかなか自分の考えが十分に伝えることができなかった。この日のオンラインからの参加では出来ずに、難しさも感じた。

 神田の問題意識からは、地方自治の未来を社会教育から考えるならば、地方自治の暮らしの住民参画という地域民主主義の発展ということで、地域の伝統的文化、自然に対する畏敬の地域文化の社会教育の位置づけが必要であると考える。

  自然の畏敬の伝統文化は、山神、水神、田の神などに内包されている。それは、未来への住民自治の発展の文化的要素として再定位していくことではないか。

  人類史的に人間は、動物と異なって個体の生きる欲求としてでなく、共同体的営みのなかで社会的存在・類的存在として生きてきた。

 近代社会の市民社会は、個人の尊厳が重視されて、社会的存在としての人間の側面ではなく、自己欲望、自己利益ということで他者との関係が薄くなっている。そこでは、他者との絆・友愛の精神が弱くなっている。その結果、精神的に孤立した人間存在、意識のなかで無縁社会が形成されている。

  現代社会の実際は、巨大で複雑な官僚的組織化の状況になっている。このなかで人間の本来の精神的な営みである絆・友愛による自由な精神による共同的・協同的社会が切実に求められている。

  地域の暮らしの社会教育実践は、未来への社会像としての人間の本来のあり方からの、自己利益、自己欲望のみのエゴイズムの問題の克服に正面から向き合うことが必要である。

   農山漁村地域では、共同体的営みが伝統的にあった。それは、入会地や共有地、水利権、入浜権、溜め池の利用と管理、学校林野などである。

  ここでは、新たに無縁社会の克服、社会的存在としての人間を否定していく自己欲望謳歌を克服していくためにも、地域での暮らしの共同の営みを評価する必要がある。

   わたしは、島田先生の問題提起を具体的事例をとおして、農業・食糧やエネルギーの新たな地域づくり・地域再生の学びとして、また、再生可能エネルギーを新たな地域再生の学びと結びつける必要があると考える。

   さらに、現代的矛盾の視点に、都市と農村、農業や工業の不均等発展、都市への商業や金融の集中、病院や教育機関などやサービス機能が都市へと機能的に集約されていく問題を明らかにしていくことが求められる。

  これらのためには、農村のもっていた暮らしの文化や共同体機能の現代的な見直しが必要である。そこでは、崩壊していく農村の危機的状況のなかで、人々の農村の再評価の学びによって、新たな視点からの未来への持続可能な地域発展の力をつけていくことである。農村再評価の学びによる地域再生は、都市と農村、相互の新たな自覚した人々の自治の力で、いかに再生していくのかということになる。

  現代社会は、スマートホーンが誰でももつようになり、パソコン機能も人々に浸透して、テレビや新聞と同時に新たなマスコミ機能を果たすようになっている。それは、人々の意識や行動に大きな影響を与えている。このなかで、人々への宣伝や啓蒙活動というプロパガンダ操作によるウソや騙しがはびこっている状況を注意していかねばならない。

   現代のマスコミによるプロパガンダは、人々の意識や行動が暮らしから考える習慣よりも世論操作が大きい。それは、消費生活や文化、政治も大きな影響を与えている。

  現代社会は、騙しやウソではなく、真実を知るということを意識的に追及していく姿勢が必要な時代である。真実を知るには、地域の暮らしから考える学びが大切であり、多様な情報から真実を知ることが大切である。

   また、政策の基本になる法律・条例・行政施策などが理解できるるように社会教育的機能を充実させていくことも地域の民主主義を育てていくうえで不可欠である。

 

都市の暮らしの問題提起からの農村の再評価

  農村の過疎化、さらに崩壊のなかで、暮らしの共同体の再評価をしていくうえで、都市の暮らしが人間らしい豊かさであるかという根本的疑問の問題提起からはじめることが必要である。

  人間は本来、一人で生きられるものではない。孤立して無縁なる生活は耐えがい苦痛になる。かつては共同体が人間らしく生きる絆の役割を果たした。

  現代は相互に自立した人が、家族や仲間や絆をもって、さらにさまざまな機能的な人間関係で生きている。これらは大切な人間らしい関係である。この機能的な新たな人間関係によって、新しい地域コミュニティーや様々な機能組織の継続性が大切になっているのである。

 さらに、地域での自治、コミュニティ、社会的連帯は、無縁社会にならないために極めて大きな役割を果たすのである。この学びと組織化を積極的に展開することは大切なことである。ギャンブル依存症、アル中患者などの問題は、人間関係のなかでのトラブルなどの精神的疾患である。

  それは、現代的社会的病理現象である。人々の心の病みが蔓延している。そこでは、精神的疲れ、癒しの世界が求められている。この癒しも経済的格差のなかで、すべての人々に機会が提供されているわけではない。日常的な場を離れての癒しという様々なふれあい、豊かな環境での自然や文化的学びは、孤立化した精神状況を解放して、視野を広げていく。

 弱肉強食の競争社会、成果を常に求められての業績主義的な管理主義社会が生み出されている。現代の資本主義も矛盾は、都市に集中して、経済的格差の貧困ということばかりではなく、人間関係からの精神的な貧困化が生み出されているのである。

 現代の民主主義は、制度の問題ばかりではなく、人間らしく生きるための精神的な豊かな環境、個々の文化的な様々な充実が必要になっている。ここには、価値の多様性、異なる文化や宗教の寛容性、楽しく対話のできる環境が求められているのである。自然や文化の癒しとして農村の再評価があるのである。

  大都市の暮らしは便利であり、物質的にものが満ち溢れている。一見、自由に楽しんで暮らしているようにみえる。映画館や文化ホール、音楽会、美術館、博物館などのさまざまな文化的な催しが行われている。

   最先端の病院もあり、大学も集中している。しかし、都市の人々の生活は全てが生き生きと楽しく人間らしく暮らしているようにみえない。人々の暮らしのなかでの絆や地域の連帯ではなく、個々が自己欲望と競争のなかでバラバラにみえる。ここには果てしない人間の欲望が渦巻き、それを駆り立てている。

  自己欲望からではなく、利他を考えながら相互依存関係や自然の恵みのなかで生きてきた農村の暮らしにふれる学びが人々の心の病みの解放に効果のである。

  大都市は、根本的に格差矛盾と孤立化の社会である。当時に大きな地球的な面からみれば日常生活そのものが環境破壊を作り出しているゾーンである。農村の過疎化のなかでの危機の認識と同時に、都市の暮らしの矛盾を直視することが大切なのである。

  この都市と農村の矛盾を統一的にとらえていく学びは、社会教育として積極的に行って、未来への展望、都市と農村の交流と連帯ということがある。

   まさに、この危機のなかでで新たな地域的生活機能、文化の再構築などからの視点から未来への農山村社会の構築の課題がある。これらは、現代的に地域住民自治の文化的要素として位置づけていく必要性からである。

   ここには、狭い地域閉鎖的な見方ではなく、広く大都市と農村の交流という全国的な視野と市町村自治を越えての国のあり方にも関係してくるのである。

  伝統的な地域の祭りは、地域の暮らしの共同体の営みの物質的基礎をもって存在していたのである。それらは自然破壊の環境問題に立ち向かう地域文化の再生でもあり、大都市で暮らす人々の交流による心の糧にもなる。地域文化の自然に対する畏敬や伝統的地域の暮らしの営みの文化的再評価にもなる。

  この再評価のなかで、新たに現代的自然生態系に即して科学的技術の応用による地域経済の活性化にもなる。このための住民参画の自治が求められていくのである。バイオマス発電、地域資源の積極的な探求、新たなセルロースナノファイバーなどの学習など未来への地域の再生の視点も重要なのである。

   

バイオマス発電・小水力発電の具体的事例

 新しい農山村のバイオマス発電として、焼酎工場でのバイオマス発電がある。ここでは、肥料として、牛フンや焼酎かすを発酵させて地域の農業に還元している。

  霧島の焼酎工場の事例は、地域のエネルギー2000世帯分に還元している。南九州の焼酎工場、その他のバイオマスエネルギーの可能な食品廃棄物、食品工場の廃棄物、鹿児島県内全体の畜産物の糞尿などを具体的に数字としての可能性のエネルギーの産出量を求めていくことも必要なことである。観光牧場である高千穂牧場は、牧場の糞尿の醗酵を利用してのメタンガスで、発電をしている。

   これらのの実践が南九州全体または日本全体に拡がっていけば大きな再生可能エネルギーになる。数字を示しながらの具体的な説得力も同時に求められている。バイオマスを実施している焼酎工場は、自由に見学できる。また、学習館を設けている。交流のための市民広場も整備している。

  観光農場も高千穂の峰のすそので、動物とのふれあい、乳製品の加工工場、バイオマス発電も見学できる。これらの見学を積極的に取り組む姿は、人々が理解していくのに大いに役にたっている。まさに、人々の学習の場に機能している。

 さらに、地域の用水路や地形の段差の利用を小水力発電して、霧島市重久の110メートルの落差を利用しての発電所がある。これは水害の防災機能を兼ね備えたものである。霧島山麓には、戦前から山麓での自然の傾斜地を利用しての水力発電所がある。それは、いまでも活用されている。

 その発電所は、霧島第1発電,霧島第2発電,水天渕発電、小鹿所発電、塩浸温泉発電、新川発電など数多くあったのある。自然の傾斜地を利用しての水力発電である。地域の集落のエネルギーを自給する取り組みなどもある。旧霧島田口の集落の用水路発電がそれである。自然の地形は、多くの小水力発電としての利用が可能である。また、傾斜地の多い集落では、用水路を利用しての発電もできる可能性が高いのである。

 生産法人による農業とのシャア太陽発電も貴重な取り組みである。これらは、地域循環のエネルギーのしくみづくりの基盤になる。そして、新たな地域経済の活性化になり、雇用も増大していく。

  さまざまな再生可能エネルギーの取り組みの障壁になっているのが、安くて合理的な大量発電という幻想的な宣伝が原子力発電やメガソーラーである。原発は、福島の事故がそのことを教えている。メガソーラー発電は、日本の自然環境を破壊して、自然災害の大きな原因にもなっている。これらは、なかなか幻想を払拭できない強力な宣伝と政府の金配りの財政誘導があってやめていくのに難しい問題がある。

  ひもつき補助金、多くの財政誘導政策が地域住民の自立的学びを奪っている。この矛盾を直視しての国の財政民主主義をどう確立していくのかということである。

   原子力発電反対と同時に地域での再生可能のエネルギーの具体的な施策が地域の自然条件にあわせてつくりあげていく学びの課題がある。このさいに、住民の暮らしの自立の視点からの財政民主主義の視点は、欠かせない。

  この実現には、働く人々、地域住民の相互の学び、矛盾のなかからの具体的解決のための相互の協同の学びが不可欠になる。 地域住民間の矛盾、それぞれの企業と地域住民、地域住民と行政や公的な機関との矛盾も多い。

  矛盾の解決には、新しい未来創造の地域社会がある。大量の焼酎かすは、工場にとっても大きな悩みをもっていた。被害は、漁民や地域住民であった。

  観光牧場の近くは別荘や昔からの集落があった。臭いのことで、地域の人々は悩まされた。発酵によるバイオマス発電がそれを解決したのである。年間150万人訪れる観光牧場のエネルギーは、バイオマス発電で間に合うのである。

  

過疎化での新たな山の再生の可能性

 山村地域では、都市と農村という不均等発展からの著しい格差のもとで、過疎化や農村の貧困が起きていく。これに伴って、山林も荒廃していく。山の再生・活性化は、大きな課題である。

  生産性や効率性ということからは、農業と工場、都市と農村の不均等発展は、避けられない。工場と農村の援助は、社会的に公共的コントロールということから、国家的に財政的援助することはいうまでもないことである。

  ここには不均等を是正するための国家の役割がある。都市と農村の不均等発展の学びは国家としての食糧自給率向上や農村のもつ環境保全的役割、癒しや教育的役割から国家的課題になってくる。

 その学びは学校教育として子供の発達段階での自治と参加民主主義による民族的、国家的自立の課題として必要なことである。

  木材の輸入は、日本の需要の70%である。日本の森林が荒れて外国産の安い木材が入ってくるのである。セルロースナノファイバーという新しい未来型の工業素材が開発されているが、単なる経済利益の効率性からではなく、日本の森林資源の活性化、自然循環が重要である。

  学校林野も存在して、子供の成長や教育活動に林野は、大きな役割を果たしてきた。日本の農山村の教育の大きな特徴であった。若者組や青年団通過儀礼としての世俗から離れての山に籠る文化があった。

  現在では、多くの学校教育では森林の教育的役割が無視されている。森林行政と社会教育行政との連携もない。山村の地域住民は、体験学習として、森林の教育的役割の問題提起をしている。みどりの少年団が十分ではないが生まれている。森林組合などが積極的に青少年の自然体験学習として、環境問題の具体的解決方法の森林の役割を教えている。

  地域住民は、学校教育や社会教育の行政に体験学習や環境学習をよびかけている。森林関係の行政職員もその学びに協力している。学校の先生や社会教育職員と住民の学びの意識に大きな開きがある。

 

社会教育職員の仕事の本来的役割

  公民館は、趣味やお稽古の講座が中心である。社会教育の公民館などは趣味やお稽古などの講座や催しがほとんどである。暮らしの福祉や医療、環境問題などの実際生活に結びつく学習から遠くの存在である。

  趣味やお稽ごとの講座や催しは、広い意味での豊かな生きがいをもって文化的に暮らすことである。それらは、社会教育として独自の役割をもっている。それを否定できない。これらの活動が健康保全機能やシニア世代の趣味の充実として、生きがい対策になっていけば、それなりの地域での暮らしの充実の学びとして役割を果たしていくこくになる。決して趣味やお稽古ごとの講座を否定すべきことではない。

   しかし、その講座や催しの工夫も必要ではないか。これらは、自主的なサークルや地域の人材を生かして、さらに、民間のカルチャーセンターの活用、自治会などの自主的講座などを大いに生かすこともできる。

  社会教育職員は、実際生活に即して、住民の学習権の保障を担う専門性である。その専門性は、地域の暮らしや地域振興の学びの地域教育計画、住民の学習の組織化、コーディネーター的役割、生涯学習ということからの人間の発達論、様々な学問分野の基礎的な教養性が高く求められているのである。

  一般行政は、啓蒙的な政策遂行的教化主義になりやすい。住民自治による学習権として、学びによる参画民主主義にはならない。 社会教育職員の専門性は、地域の暮らしと結びついた地域の学習計画とその組織化、学習方法のの設計が本来の仕事なのである。

    一般行政と結びついての地域の振興計画とその実践の学び、住民の参画民主主義のコーディネーターとしての社会教育職員の役割がある。

  例えば、環境問題の学びは、それぞれの関連行政の仕事であるという社会教育職員の意識が強い。学校教育の先生も教科書、学力向上で忙しい。地域の教材開発や地域での自然体験学習で命の尊さ、自然の恵みを実感をもって教えることが弱い。

  パソコンの導入などで教育機器が一層に実際の生活実感や体験などから離れて、バーチャル世界での日々の暮らしから実感をもっての理性の発展から遠くなっている。喜び痛み悲しみという人間の感覚的感情から感性に、そして、理性へと発展過程をとおしての学びが薄くなっている。

 

地域住民の暮らしを守る運動からの主体的学び

  大規模な太陽光発電霧島神宮周辺の山で外国資本によって企画された。土地をもっていた人々は生活資金が欲しいということで売った。これも地域の矛盾として、悩むのである。

  旧霧島地域には天孫降臨ニニギノミコトを祀る霧島神宮がある。サルタヒコ巡りの行事も行われている。田植え行事、六月灯、夏祭り

収穫祭など、さまざまな祭りの行事があるのである。

  この神宮の宮司さんもメガソーラーに積極的に反対署名運動に参加した。神宮にお参りにくる参拝者に反対署名の看板を出して協力を願ったのである。

  メガソーラー予定地の大山の麓の集落自治会も反対の表明して陳情をした。地域には、お寺の住職たちと隠れ念仏の祈りの場の洞窟の6ケ所の調査などさまざまな遺跡巡りをして、地域の人びと歴史文化の大切を学びあってきた。

  これには霧島神宮の懐の深さがみれるのである。薩摩藩が弾圧して、隠れ念仏になった人々を霧島山麓の人びとはかくまったのである。霧島六所権現の多元的な信仰を包み込む精神があるのである。 

  神仏混合という古代仏教だけではなく、浄土真宗なども包み込む心の深さがあるのである。六根清浄という自然の恵みのなかで精神を豊かにしていく営みがあるのである。

 これらの歴史文化の学びの蓄積のもとに、メガソーラー反対運動の輪の基盤があった。霧島神宮には年間200万人の参拝者が訪れる。観光牧場や観光果樹園、たまご牧場なども盛んである。新住民が霧島の自然や歴史文化に魅せられて、移り住んでいる。その新住民の典型が別荘地帯の人びとである。

 また、新しいレストランなども都会から移り住んだ人びとが始めている。うなぎ屋、文学喫茶・レストン、スイーツの店、イタリア料理店、ピザ店、カレー店、しゃれた家族レストランなどさまざまである。古くからあった店の多くはつぶれている。

 旧霧島町の地域全体は過疎化して、人口減少は止まらない。60代以上の昔から住んでいる人たちに聞くと、地元に残って商売や農業をやることは恥ずかしいことであるという意識があったという。学校教育では、都会に出て、立身出世していくことが求めらられたのである。

  霧島の森林には山神が宿り、水神が祭ってある。麓には山から降りてくる田の神がいる。農民は豊作祈願の神様にさまざまな感謝と祈願の行事をする。感謝の気持ちで地域での収穫祭があり、稲穂をもって高千穂の山に登る。メガソーローの反対運動では、地域の歴史文化や自然の恵みに感謝する祠や遺跡などの調査で、その深さを再認識したのであった。祭りの行事は、地域の人々の絆や伝統的な文化の継承の学びとして、大きく役割を果たすのである。

 メガソーラー反対運動は、 結果的に地域住民の学び、度重なる会合によって、対象となる霧島神宮や別荘の住民または地域の農民、観光にたずさわる人々を中心として、反対運動が広がり、市議会議員全員と市長の反対で計画は頓挫した。

  これは地域住民の未来への地域づくりのを求めてことになった。メガソーラーに反対する運動を積極的に展開しながら、未来への地域振興策を模索していく一つの事例である。全国にはさまざま地域住民の未来への地域づくりの学びがあると考える。

  メガソーラ反対運動は、単に自然や森林を残すという消極的な意味でではなく、森林を活用した地域の未来へ創造の模索の学びでもある。自然のなかで生きる人間のあり方を長期滞在型の観光の工夫で出来ないか。

  都市から山村への子供の学習体験事業として出来ないか。心が疲れた働く人々がのんびり山村で滞在しての心のケアは、出来ないか。さまざまなアイデアが起きてくるのである。観光のあり方も一過性の景色の素晴らしいことだけではなく、心の豊かさを自然のなかで癒す、農業で汗を流しながら癒すという取り組みなどが必要ではないかと。

   

地方の労働力不足と外国人労働者への学び援助

 地方では、とくに農産漁村では深刻な労働力不足である。外国人労働者労働者に依存しなければ地域の経済はなりたたなくなっている。いうまでもなく、外国人労働者労働者の大きなハンディキャップは、日本語と日本の生活習慣や文化の違いからの大きな行違いである。

   この問題の解決には国際交流の行政職員のイベント活動や英語教育ではない。日本語の教育や日本文化を職場を基礎に教えていくことである。これには教育労働の経験や若者たちの地域の未来への熱意ある人々のボランティアが求められる。行政職員や外国人労働者の管理の機関では対応してくれない。現実は、検討するという回答であるが、なかなか進まない。

   住民による外国人労働者への日本語学習は、こみコミュニケーションが円満にいくように、仕事の基本の日本語が理解できるようにしている。「おはようございます」。「お願いします」。「ありがとうございます」。  このように丁寧なことば、感謝のことばを大切にしている。乱暴なことばは使わない、一方的な命令ことばも使わない学びを指導している。 

   日本人と外国人労働者の相互学習に気配りをしている。観光農園でも多くの外国人労働者が朝の挨拶でおはようございます。今日もお願いしますということばが日本人にも大きな影響を与えている。  一緒に旅行することも出来るようになる。ベトナム人と日本人と結婚することも生まれている。

 

地方自治の未来への展望と暮らしの社会教育の充実・参加民主主義の社会教育型国家像

   地方自治の未来とは、具体的にさまざまな先進的に事例を普遍化し、概念化していくことが必要である。南日本新聞珠洲市の半世紀前の原発反対運動が紹介されていた。能登半島地震を受けて、その反対運動の正しさが実証されたということである。

  ここにはふるさとの力という住民自治のことが問題提起されていた。自然の恩恵のなかで自然を大切にしてきたエコロジカルライフをはじめふるさとのなかで暮らしてきた人々の暮らしのなかの営みを大切にするということである。また、掟という住民のくらしの伝統的モラルには、現代的に再編成してことが求められるのではないか。

  とくに大都市の形成という超自然的現象のなかで未来への新たな地方自治の模索が不可欠である。地方やふるさとの連携、産直、都市と農村の持続的な定期的交流も含めて地方自治のあり方を深めていくことが必要である。

  鹿児島では協同組合間の学びが労働者協同組合を中心として、ネットワークの動きがある。協同組合は、本来的に組合員の学びの機能が不可欠な組織である。社会教育職員との連携は、求められているのである。現実には進んでいない。

  社会教育労働を狭い公民館などの行政として、そこに配置された職員のみに求めるべきではない。新しい国家像として、暮らしの人間らしい豊かさと人間的自由を求めての地域の参加民主主義を作り上げていくことである。

  この学びは地域の暮らしや経済に関わる様々な機関・組織団体と関わり、行政組織も狭い専門的分業された領域主義からの脱皮が不可欠である。

  公民館職員や教育委員会の社会教育の専門性は地域の学びで重要な役割を果たす。その可能性は、大きなものがある。幅広くさまざま機関分野の組織や団体と連携して、協同で学ぶこである。

  そのあり方を模索していくことが求められる。 これらには社会教育職員の幅広い知見とエコロジカルライフという住民自治の模索も必要である。社会教育の実践者として、個人の学びという狭い枠組みでは地域の住民が協同で学び自治を、それぞれの地域課題に即しての対応していくことが求められる。

  実際には価値観や認識の違いなども多様であるのが現実である。この違いを意識して住民の自治ということからの協同の学びの組織化があるのである。

 学校のように教室という学びの場が設定されているわけではない。学びの協同において、価値観や認識の違いが、さらに、興味関心という学びの参加意欲なども極めて大きく異なるのである。地域自治ということを尊重しての学びの協同を考えていけば、その学習の組織化は難しい側面が大きくある。学習の共同体は同じ興味関心の意欲によって成り立っていくものである。

 社会教育の実践者は趣味やお稽古ごとの共通の文化的関心意欲の場合は容易に講座として組織しやすい。講座方式の場合は同じ興味関心によって集まってくるのである。

  地域課題を解決していくには、同じ興味関心という意欲ある人々によっての学びの論理ばかりでなく、興味や関心のない人々を学びに引き込んでいく論理が必要です。住民自治ということからは参加民主主義ということで、興味関心のない人々を包み込んでの学びを構築して難しさがあるのである。

   社会教育・生涯学習の研究者にとって未来への地方自治の創造の研究、実践的な政策提言も含めての幅広い機関や団体などの連携や協同の学びが求められている。

  地方自治の住民参加の充実は、教育委員会の社会教育行政の狭い論理ではなく、地域住民の様々な暮らしのための行政分野の学びが不可欠である。住民の学びなく、住民自治の参加はない。地域の民主主義の充実もない。

 さらに、財政の民主主義を地方自治から作り上げていくことも大切なことである。制度の民主主義だけではなく、財政的に住民のために奉仕していくことが求められるのである。

  税金の取り立ても同じである。貧富の格差が現実にあり、累進課税ということで、所得の高い層が税の割合が高くなっていくのは当然である。社会保険も同様である。地方の暮らしの自治の住民参加から中央の税の問題や、国の財の在り方や国の政策転換も大きな課題である。

  地方自治の住民参加の充実から国の制度や政策、国の財政の民主主義が不可欠なのである。これらは、国民の学びがなければ実現していかないのである。

  これらには、様々な学びがある。それらが、相互にどのように関係していく学びであるのか。その問いが、社会教育の専門的な労働に求められているのである。学びの組織化は社会教育の職員の大切な専門性である。

  そして、学びによって、地方自治の住民参加がどのように充実していくのか。その実践をどのようにしていくのか。ここには、地域の民主主義のための社会教育の実践がある。

 この研究姿勢をもっての理論的構築が切実に求められる。社会教育・生涯学習研究所の社会的役割もここにあるのではいか。 日頃に同じ関心をもつ人たちの研究会をオンラインなどをとおして気軽にできないかと。また、大切なこととして、島田先生の問題提起について考えていくことが必要がある。
   社会教育型国家像については、すでに、社会教育評論のブログでのべている。そのブログは、次に示しているので参照してもらえれば幸いである。

https://yoshinobu44.hateblo.jp/entry/2021/02/24/220358

騙し謳歌の社会からの解放の学びの大切さについては、次のブログに書いている。

https://yoshinobu44.hateblo.jp/entry/2023/06/13/092813

 

熊沢蕃山:人間教育と慈愛の仁政

熊沢蕃山:人間教育と慈愛の仁政

       神田 嘉延

はじめに:現代で、蕃山の人間教育と慈愛の仁政を考える意味があるのか

 

 人間らしく生きていくうえで、今は、教育にどんなことが求められているのでしょうか。学力競争や学力テスト中心による学校教育がはびこっていないでしょうか。教育は人格形成ということで、人間として生きていくための能力、それぞれの民族的、地域的文化素養を身につけていくことが求められます。

 そして、生きていくための基礎学力はもちろんのことですが、同時に人間の尊厳、話し合いやルールという民主主義の尊重、人間として生きていくための絆、善悪など道徳形成は、大切なことです。それぞれの個々の成長も能力の差があり、相互に発達の差をもちながら、利他のなかで、他を尊重しながら、人間らしく絆や集団的に自治形成をもちながら成長していくということが問われるのです。

 ここには人間が生きていくうえでの自然の恩恵、自然循環のなかで人間らしく、豊かに生きるのが含まれるのです。それらは、競争主義的な個々の発達のみを考えていくものではないのです。また、健康に育っていくためにスポーツや情操の発達も大切です。子どもたちは、個性の発達と共に、全面的な側面からの育ちが求められるのです。

 現代は、国会議員選挙にいかない人びとが大幅に増え、投票率が半数以下になる市長選挙の状況があります。選挙では、それぞれが議論して自らの理性的な判断ではなく、マスコミやSNSのイメージ宣伝によっての影響が大きく、十分な政策議論が少なくなっているのです。民主主義の危機が生まれているのです。

   一人一人が現実の矛盾や未来社会を議論して、考える状況が乏しくなっていることは重大なことです。とくに、若い人びとは、所得も充分ではなく、競争主義と管理主義のもとで、将来への不安や恐怖をもっていることも少なくないのです。教育の力によって、未来をみつめていく状況が極めて少ないのです。これらの問題は、学校教育や社会教育の関係者に鋭くつきつけられているのです。

  とくに、公民館などの社会教育機関は、市民の教養充実、地域施策の学習など、民主主義の日常のなかで定着して、市民参加の様々な地域での取り組みが弱くなっています。職場のなかでも管理と競争がはびこり、個々が創意を活かしての自由な発想で、心を豊かにしていく働きがいが少ないのです。

 人々は孤立化して、本来の人間のもっている仲間と共に社会的な絆で生きるということが難しいことを弱肉強食の競争社会がつくりだしています。このような状況で、精神的な病も増大しています。現代社会は心の貧困が厳しい時代になっているのです。

 将来の見通し、不安感が人々の心を襲い、未来がみえにくい時代の中で、未来未来社会の創造性を求める社会教育、人々の学びの機会はきわめて大切ですが、それが整っていないのが社会的に取ってとって、大きな問題です。

 現代社会は、あらためて人間にとって、学ぶこと、学問をすることが問われているのです。日本という国は、伝統的にどうであったのか。仁義礼智信ということで、道徳の教育が重視されて、村のなかでは、小若組、若者組ということで、地域で一人前の人間になるための教育が行われていたのです。為政者や社会のリーダーになっていくには、学問を身につけていくことが大切にされたのです。

 とくに、為政者には、暮らしを豊かにしていく、民を幸福にしていくことが重視されたのです。民のための公の道が必要なことは時代を超えての普遍なことです。

  武士道は、公のために生きる精神であり、武士としての正義の生き方が示されてたのです。熊沢蕃山は、江戸時代に生きた学問を大切にして、仁政を強調した人です。常に批判的精神をもって、民のために武士として生涯を送った人です。

 かれの儒学陽明学知行合一思想からの人間教育や仁政論は、古い封建時代の身分制にもとづいた思想として、切り捨てるのではなく、現代政治のなかでも私欲や既得権が問題にされるように、為政者の公の仕事が求められているのです。

  熊沢蕃山は、水土思想をもって山の自然、森林の役割、水の恵み、天人同一などエコロジカルライフを積極的に提示しています。

  現代で利益優先、効率主義絶対主義、大量生産・大量消費、大量廃棄物、大規模開発優先で地域の自然を破壊してきたなかで、あらためて人間と自然、自然循環社会が問われるのです。人々の暮らしが地域の自然に根差して、エコロジカルライフの探求、人々の自然に優しい地域コミュニティー、それを支えていく地方自治のあり方、古からの自然のなかで生きてきた人間的なふるさとの力が、住民自治を基本に求めれる時代です。

 政治の荒廃は、極限です。仁政から大きくはずれています。裏金問題にみられる政治と金銭の癒着の現状を直視して仁政を模索する為政者が必要な時代です。

  平和と戦争というテーマからホモサピエンスという人間の原点である仲間、支え会う集団、相互依存性、慈しみから対話という本質をながめることが必要です。

  仁政が鋭く問われるのです。現実は真逆になっています。人間のもつ考える力、工夫する力、科学技術の発展の力が非人間的なものに、動物的欲望になっているのです。この欲望は自然的に規制されるのではないので動物以下です。

  敵対主義による軍事膨張、パレスチナにみる大量虐殺、ウクライナ戦争など混迷した政治的状況や、荒廃した精神状況があるなかで、熊沢蕃山の仁政について学ぶことが多々あるのです。

 

  (1)熊沢蕃山の世界観と人間教育論 

 

人間の長所と短所によるそれぞれの人の役割

 蕃山は、人間に長所と短所があるという見方です。人間には、徳行に薄い人と、知に不足している人とがいるということで、為政者は、知と行をすべて備わっているということを部下を使うときに求めないということです。

 このことについて蕃山は次のように述べているのです。「たいてい文才に器用な者は徳行に薄く、徳行に良い人は、文才に拙(つたな)いことがある。知が聡明な生まれつきの者は、行いが欠けやすい。行いが篤実な者は、知に不足のところがある。君子は人の長所を採り用いて用いて、知と徳を全備することを求めない。小人は人の短所を表立てて、その美点を覆い隠す。すべての世の中には、才もなく徳もない人が多い。だから才があればたたえ、徳があれば誉めるがよりしい」(集義巻1)。

 蕃山は、このように知と徳を全面的に求めないことを強調してるのです。小人は自分の才もなく、徳もないことを隠そうとしています。むしろ、君主は大切なこととして、

その人のもっている良いこと、不足していることをきちんと見て、それにふさわしい仕事をつけていることであるとしているのです。

 

学問と人間性

 知を増大していくということで、学問をすることで、利欲を求めることは大きな問題と蕃山はしているのです。

 「学問でも、利欲を本として勉学する者は論外です。真実に道を求めて学ぶ人は、みな愚人と召されるがよろしい。この世に生まれて知力が増すにつれて世間にもてはやされる人は、利巧だからである。そんな人物でも世間の利害に染まれば、道徳には遠いものとなります」(集義和書巻1)。

 知力がある人は、愚人と言われる方がよいということです。それぞれ、自分の与えられた仕事について謙虚になってこなしていくというのです。知力があると褒められても、自己の利害に染まらないということを指摘するのです。

 学問をして、博学になっても人情や時変(時勢の変化)を見通す能力のないのは政治に向かないし、ねじけた心をもっている人は害が多いとも蕃山は言っているのです。「たとえ博学有徳でも人情・時変(時勢の変化)を見通す才のない人は政治はできにくく、また世間知(政事に明るい知識)があっても心が、ねじけた人は害が多いのです」。

 「これらの事は、むかしの人選の仕方」で、蕃山の生きていた時代では通用しないと言っているのです。「地位相当の身分の人か、衆人を指すか、いずれも人情が納得する人の中から悪徳のない人物を選んでいる」ということです。「無学であっても、われ政をせんという学者の国政よりも優れている」と述べているのです。

 この言葉は、蕃山の生きていた時代の権力と結んだ学者の国政の悪さを警戒していたのです。これは。、出世のための私利私欲の朱子学的な学問を利用して、幕府の権力と結んで力をもっていたことに対する蕃山の気持ちの表れです。

  学者が一般の人には難しいことをしようと努めていますが、無学の普通の人よりも劣ることがあるのですと蕃山は述べるのです。学問を朱子と程子道に違うことはないが、立極点の志に変わりがあるのです。

 学術は心の外に向かうので自らの知見が明らかにならないためでしょう。陽明の学者でも心から修養すると申しても理を極めることでは見解がいろいろあるのです。真実でないところが見えます。愚かさを知っていることが明らかでない。

 その境地を抜け出ることを知らなければ名利欲の根性が伏蔵して元の凡庸となるというのです。大志がなければ到達しないのです。生まれつき良い性質の人で世間の風習で表面ばかり暗くなった者などは、道を開けば一時の迷いはすぐ解けて元の良いところが現れる。このような気質変化と申す者もあろうが、これも変化ではない。

 導く人の人柄が良ければ、その国の良い人が集まります。王陽明朱子の学の異同にはよらず、先学の徳と不徳によるものである。相対する人が我が身の鑑とすれば、自分の人柄こそ恥ずかしくなるものです。

 文が過ぎるとは驕りである。士以上が驕れば、軟弱になり、武威が弱い。上が驕れば、民がゆかれ果てる。上下が怠っては武が備わらない。無事の時には、民も女のように心やさしいのは、使いようだけれども、戦国に当たって士の手足とするものは民である。

 少し学んだだけで、道理がましい説を立てる者は人道の害になるものです。自身の愚かさをを知らず、至らぬ私見を立て、無地の人まで物事を狂わせます。平凡な学者でも謙遜で心掛けの良い者を招いて経議を開かれるのがよいと蕃山は謙遜である学者の意見を大切にすべきと語るのです。

 徳行は人のためにするのではないと蕃山は断定するのです。それは、「自分一人のために天理を存し人欲を去るものである。人欲を去って天理を存する工夫は、善行より大きなものはない。善というものは、格別にことを作ってなすものではなく、人倫日用の用はみな善である」。まさに、自己中心的な欲をなくしていくことが徳行であるというのです。

 義理ということを決して、心法とするのではなく、小人の境地から抜け出すことを指摘しているのです。「蕃山は義理ということを心法にとって重要と思う人がいるが、「小人の境地から自らが抜け出す」ことを大切としているのです。「心中では義理を主として、よく心法を受容すると思う人がいるけれど、その人柄の全体は小人の境地で、自身はそれに気がつかない。小人の境地を抜け出せない者は古今に多い」。そして、理学と心術についての概念の概略を説明します。「人の迷いを解明することの多いのを理学といい、心を修めることが多いのを心術という」。

 

天地万物一体と人間の欲

 ところで、天地万物一体と人間について、蕃山は次のように語るのです。

「天地の間に人が存在するのは、人間の胸中に心があるようなもので、天地万物は人間を主とするから、有形のものの中で人間より尊いものはない」。

 「仁者は、一草一本でも切るべき時節でなく、道理がなくては切りません。鳥獣虫魚は殺しません。草木でも萎むのを見ては、わが心も萎む。雨露の恵みで青々と栄える様子を見ては、われ心も喜ばしい。これが万物一体のしるしです。人は天地の徳、万物の霊といって、優れているのは太極、一本の木は天地、枝は国々、葉は万物、花の実は、人のようなものである。

 葉も花の実も一本の木から生ずるけれども、葉には全体の木の用はない。多数あって朽ちるばかりである。花の実は、少ないが一本の全体を備えているから、地に植えればまた大木となる」(集義和書巻1)。

 このように、蕃山は天地一体の自然の道理について述べるのです。そして、明徳の称号は、人の性にだけ当てえられたものであるとするのです。仁義礼智信は、人にあってこそつけられたのです。木神は仁、金神は義、火神は礼、水神は知である。天地人を三極という。万物は人のために生じるものである。わが心は太極であり、天地四海もわが心の中にある」。

 万物は人のためにあり、自然体の木・金・火・水等の神と徳の要素を結びつけて蕃山は強調するのです。蕃山は儒者も仏教者も兄弟であると述べたのです。

 「異なる見解は、争うのではなく、仏者も儒者、それぞれ天地の子です。所見の相違や生業によってさまざまに分かれます。兄弟の親しみだけで交われば争うことはありません。食べ物にも兄弟それぞれ好き嫌いがあります。味を争っても各自の口の引くところは一致しない。そのままにして、われはわれ、そのままの人で良い」(集義和書巻1)。

 人はそれぞれ異なるのですが、天地の子として兄弟であるというのです。違う見解を激しく争って、敵対するのではなく、許容して、寛容な立場に立って、お互いを尊重して、それぞれがそのままの価値観、好みを守っていくことが大切というのです。

 無欲とケチの違いについて蕃山は語ります。「無欲は、天理を止めて人欲とし、人欲を止めて天理とするという誤りがある。物を貯めて使わないのを欲とし、貯えないで有り次第に使い、無くなれば何もしないでいるのを無欲とおもっている誤りがある。ケチと正常の心でとがある」(集義和書巻3)。

 無欲とか人欲に対する見方の誤りがあるというのです。むしろ、真実の無欲ということを知ることが大切であるとしているのです。それは、天理を悟ることになるのです。天地ということで、自然の姿をよく観察して、自然のなかで人間が生きていることの原理を知り、それを実践していくということになるのです。無欲というのは、生きるすべを放棄させというのではなく、積極的に人間と自然の関係をみながら生きる知恵を出していくことになるのです。

 「支出を節約せず、急場の準備もせず、わざと財を貯えない様子をし、仁でも義でもなくて、理由もなく使い施すのを無欲と申しましょうか。それは名誉心から発して、欲心のいいわけでに見せかけたものである。

 人はケチというだろうかと考えて、純白な風をするのである。真実無欲の人には、純白もないものです。真実に無欲であれば、人がケチにあるという気遣いもないから、気にもかけずに、家屋の美を好まないから自然に倹約である。衣服・諸道具・飲食の好みがないから自然に身軽である。無欲無心の倹約であるから、自分も苦労せず、他人もとがめない」(集義和書巻3)。

 真実の無欲ということからの倹約というのは、自然にできるというのです。天理と人欲について、蕃山は並立しないと語るのです。

 「人が天理を主とするときには、人欲は亡失する。これを操存という。心が人欲を主とするときは、天理が亡失する。これを放舎という。天理が存在する時は、夜も昼も天理に感応するだけである。だから万物一体の理を感じて、惻隠の情が、発する。義の理を感じて、善悪の情が発する。礼も知も同様である。これはみな真実無妄の天理である。これを天理流行という」。(集義和書巻14)

 天理と人欲を主とすれば、天理は亡失する、天理を主とすれば人欲は亡失するというように、相反するものとしています。理を感じて、相手の身に寄り添って深く心を痛めるという憶隠の情が発することや真実無妄という偽りのない善悪の情が発するというのです。これらは、みな真実無妄の天理というのです

 義と欲について、蕃山は、欲が義に従って動くことを道としているのです。人間の欲の前提には人間としての義があるというのです。人間が生きていることに、自然的な欲があるのは当然です。

 欲がなければ死を意味します。食べる欲はだれでも生きるためには不可欠です。寒さを防ぐために衣服を着て、暖房をするのは人間の生きる欲です。家を建てて生活の場を得るのも人間の生きる欲です。これらの生きる欲には、人間的な義があるのです。義のない欲は、獣と同じであると蕃山は次のようにのべています。

 「義理で欲のないものは、生きている人間ではない。欲だけで義理を知らぬものは、獣である。欲というのは人間の形をなす心のもつ生の楽になるのです。天地万物は有無が離れず、道が存しているのです。

 だから有形はみな無になるというのです。形や色のあるものは恒常不変という常ではない。形や色のない恒常不変の世界が真の実であるのです。形や色のない世界の境地に極めつくした人が心静かに、福が来てもはなはだ喜ばない、禍があってもはなはだ憂えないのです」。(集義和書巻10)

 欲に覆われることなく、道を身につけて、義をもって悠然として、生のための欲をもって、暮らすことを好人としているのです。つまり、恒常不変として、無を極めていく人は心を静かに、動揺せず、心を常に平静さをもって楽しんで生きていくことが出来るとしているのです。

 現代社会は、消費社会と競争主義社会のなかで物質的な欲望が際限なく拡がって、出世欲や権力欲も増大していく社会です。人間は本来的に仲間をもって、慈しみのなかでそれぞれに助け、助けられていく社会的存在として生きてきたのです。本質的に利他主義です。競争が煽られて、利己主義的な人びとになりやすいのですが、そこには、心の苦しみも計り知れないものが伴っていくのです。心の病が大きな社会的課題になっているのが現代社会です。

 

わが子の育て方論

 蕃山に来書での質問が来ました。それは、わが子の育て方です。「愚者ではありませんが、者世間の習慣に染まって、気ままでわがままで道徳を好まず、諸芸も根本に入れず、かえって父の非を数えて立て、同志の人びとの非をいい、口先がうまくて、その身の行状が悪く、どうしたらよいのか」ということです。

  蕃山は次のように答えます。「一朝一夕にそうなったわけではありません。貴殿の長年の育て方のためであるから、御子息の罪ではありません。父とは心根には慈愛があって、いつも厳格であるのがよろしい。人の生は水と火の二つがなければ、一日もやっていけません。

 水火の仁恵ほど大きいものはないが、火は厳しいものなので、人は恐れて用心をするから心から火に近づいて死ぬ者はいません。水は柔らかなものなので人びとは心安く思い、近づいて溺れ死ぬ者が多い。貴方の欠点は、柔和にすぎていることです。柔和に過ぎているのは人が褒めるもので、善いようですが、その家に不孝の子が出ます。

 ・・・水の仁は母のようで、火の仁は父のようである。貴方のは母の仁であって、御子息が悪くなられたのです。いまになって厳しくなさるのなら、いよいよ逆らって善いことはありません。・・・貴殿は今から火の仁をなすことはできませんから、水の仁でもっていよいよ徳を積まれるがよろしい」(集義和書巻3)。

 蕃山は、水と火の性質の人間との関係をみながら、子育てにおける火の厳しい側面と根底に慈愛をもつ父の役割があるというのです。そして、水の柔らかさと慈しみの母の子育ての位置があることを強調しています。父と母とは子育てにおいて、それぞれの自然的な役割機能があるというのです。蕃山が火と水に対する人間の関係から子育てを説いていることは、天地万物、人間の存在の天地自然の運行、万物は人のためという世界観を根底にもっているからである。 

 子育てにおいて、道理や学問を強いることは、かえって逆の効果になるということを蕃山は次のようにのべているのです。

 「道理を分別する知恵も開けない時に、善事を強いるのは、かえって善根を挫けさせる例もあるというのです。学問などが強いると、後に学問嫌いになる人もいる。ただ善事で大きな垣を廻して不善の事を見せず、戒めなくても不善をせず、努力しなくても善にならうようにするがよい。天地の間に春が来れば、春に遊ばぬ人はなく、善事が家の中に満ちれば、善を楽しまぬ人はない道理である。善事と言って特別のことがあるわけではない。五倫の人間関係に五典十義があることを自然に教え習わすのである。六芸で遊ぶことも、その作法がよければみな善事である」集義外書巻1)。

 このように、子育てにおいて、分別も知恵のない時期に、善事や学問を強制してもかえって逆の結果をもたらすことを警告しているのです。むしろ、自然に育っていくことを大切にして、そのまわりの人びとが善事を積んでいくことであるとしているのです。

 幼君の教育について、1、礼を教えるのに世間一般の基本を知らせるがよい。7・5・3などの祝儀を遊び事にして、成人こ子どもも混じって互いに客になり主人となり、給仕人となって作法を教え習わすがよい。口上・辞儀も、遊びがてらに習わせるがよい。

 2、音楽の稽古の初めは、音律のよい者を師として、ことや笛の楽譜を歌うことを習うがよい。幼少の者に成人もまじり、幾人も一度に歌えば早く熟達できるであろう。そのなかに音調に器用な者がいれば、脇の者も引き立てる。楽音によく熟達すればみだらな音楽は好まぬものです。

 3、幼少の弓矢の稽古について、弓は手ごたえのないほど弱い篠張(しのばり)から始め、馬は木場から始め、その後は的を射て遊び、輪乗りをして、鞍を固め、馬から落ちぬように教えるということです。武道を、技芸を職業とする身分の者にまかせると、武道が廃れることになるのです。

4、読書・手習いは幼少の者に成人の人もまじって、退屈しないように約1時間替わりで学習するがよい。武芸は約2時間替わりでよい。いつも幼君の眼前で練習すれば、自然に見聞して、苦労なく習うことができるのです。成人の者は、その好みに従い、決して強制してはならない。8歳から15歳・16歳、20歳までは教育の年頃だから、少しづつ教えるがよい。

 5、算数は才知を伸ばし、六芸の一つで人生の用に立つものであるから、必修の科目であるけれども、卑しいことのように考え込んで、習わない人が多い。古の武士は商人のように利害の話はしなかった。今は算数を卑しんで利害に専念しているのです。軍法にも算数を用いることがあります。数の根本は利益を取り扱うものではない。律算などは最も風流なものです。このような算数を子どもと大人がまじって2番、3番し、そのうち1番は幼君のきままに従い、2番、3番は算数の技を競うのがよい。

 このように蕃山は集義外書巻一のなかで教育について語っているのです。それぞれの教育内容についての教育方法について、成人がまじって、習わせるということと、強制させずに、遊びに心を大切にしての教育を重視しているのです。

 

(2)熊沢蕃山の仁政論

 治国平天下の窮理は民がいるということから考えることです。民が民として生きて行けるのは五穀が豊富にあって民力に余裕があることであると熊沢蕃山は次のようにのべているのです。

 「そもそも国が国と存在するのは、民があるからである。民が民と存在するのは五穀があるからである。五穀が豊富にあるのは、民力に余裕があって、仕事の成果によるものである。だから、有徳の君、有道の臣のいる時代の一日は、のびのびとして長い。その民が静かで暇が多く、生活力に余裕があるからである。

 道の失われた時代の一日は忙しく、短い。その民は苦しみ、勤めても力が足りないないからである。古も今も一日の長短に変わりがあるわけではない。君が英明で、民が静かであれば長いように感じる。上が暗君で、下が乱れていれば短いように感じる。だから、礼儀は富み万事に足りていることから生まれ、盗賊は貧窮より起こるものである」。(集義外書巻7)

   天下の治国は、民がいることによって、成り立っているという見方です。民は五穀を生産し、五穀が豊富であることは、民力に余裕ができるということで、その国と富の源泉というのです。五穀を基本にして農業生産を通して民が豊かになっていくというのです。民の豊かさは、生活力の余裕であるというので、食糧が確保されてこそ、民がのびのびとして一日が静かで長く、暇が多いという気持ちになっていくというのです。

 現代の国際的分業社会では、それぞれの民族や地方・地域で食糧を自給していくということではなく、金銀銭によって、交換していく時代になっているのです。一見、豊かな飽食の生活と多量の食べ残しをしているようですが、不安を持ちながら生きていることと、金銀銭を持たない他の民族に飢餓状態を押しつけているのです。

 蕃山の生きていた時代の江戸中期時代に、民が衣食を不足して、士が貧困になっていることがあった。そこでは、士は、財を貪り、民は盗みをはたらくという現状で、どのような政治が政治が必要であるか。この問いに、蕃山は農業の五穀を基本にすえることをのべているのです。

 「農業が有利である時は、本業を勤める者がたくさんいる。そして民力に余裕があれば五穀の生産も限りがない。女の仕事も寛やかで精しいから、天下婦人は女の仕事をよくして、布綿も余るほどある。木こりや杣人が山林に入って仕事をするにも、時節をはずさなければ、草木がよく繁茂する。同時に、無用の家作をせず、無用の器物をつくらなければ、山は茂り、川は深くなって民の需要にも欠乏することはない。

 そもそも金銀・珠玉・銭物を用いることが多くて、五穀の生産の少ない時は、人民は多欲になる。善人を宝としないで、器物を宝とする時は、驕奢になる。だから、善政は粟(もみ)を本にして他の万物に交換するのである」。

 民の食糧不足で、士が貧困な状況をつくりだしたのは、金銀・珠玉・銭物を用いることが多く、為政者が傲慢になって、驕奢な生活になっているということです。民が五穀を生産していく原点として、自然生産物を大切にしていくということで、籾によって、交換していくことを基本としているのです。

 「籾は米にしてしまうと損しやすいし、虫に食われて使えなくなるのが多いため、古は籾(もみ)で納め、すべての売買も籾で行ったのである。籾はかさが多くて、たくさん積み隠すことのできない物であるから、自然と人心の欲は少なくなる。他のいろいろな物を作って、それを籾に替えて食う者も、仕事の労力は少なくても食は足りた。

 だから、倹約の訓戒がなくても、自然に驕奢にはならない。世間に粟が満ちてたくさんになれば、互いの不作にも困窮にまでに至らない。五穀が水や火のように多い時は、民に不仁の者が少ない。盗みをすることがない。金・銀・銭は五穀の補助だけをする」。

 籾によって交換していくことは便利性、効率性という面からみれば、金銀で取引することになりがちである。便利ということは、驕りの心が増大して、商人が富むということで、武士や民はかえって貧しくなっていくというのです。

 「籾を使うことをやめて、金・銀・銭で万物の売買をする時は、それを収め貯えて広く用い、便利なものであるから、規制しても驕りが生じる。いろいろな職業の者がみな美を尽くそうと思うようになる。だから、商人は過分に富み、士が貧乏であれば、民から取ることがますます多くなる」。(集義外書巻8)

  どのようにして民を救ったらよいのか。上の米穀を散じて民を賑わそうとすれば、民が多くて穀物が足りない。金銀を施そうとすれば、金銀は限りがあって、民は限りがない。この問いに対して、蕃山は、民に対する驕りが根本であると述べるのです。

 「下々を損ずるのは驕りである。驕らなければ使用することが少ない。使用が少なければ、自然と民から取ることも薄い。・・・心の驕りをやめないで、物事を倹約しようとするときには、東で物入りをなくしても西で物入りが生じる。なくした所では、人の所有物はなくなり、庶民は職業を失う。生じたところでは、人はない物を求め、民は本を棄てて末に赴く。だから、士はいよいよ貧乏となり、民はますます遊民となる」。

 どんなに倹約しようとしても為政者の驕りの心が民を貧しくしているというのです。金銀が取引驕りが為政者と大商人によって、蔓延して、金銭による支配が強まっていくのです。人間にとって、五穀という食糧の原点を考え直して、自然のなかで生きていく在り方を深めていくことは、生活の余裕、豊かさを作り出していくというのです。

   治国・天下のためには、その要としての人材を得ることだと、蕃山はのべます。どうすれば仁政のために人材を得ることができるのか。為政者自身が民を我が子のように慈の心をもってことに当たることを基本にすべきで、人々はだれでも平和を望み、世の乱れは望まないものであるとみているのです。人としてのあるべき仁の心が大切であるとつぎのように蕃山はのべます。

 「人は、みな国の治安、天下の平和を望まないことはないけれども、その治平を乱す根を絶つことを知らない。その根本を精究すると不仁が原因である。人民に対して自分の幼児を保育するような慈心がないためである。

 人々は我が子が水火の中で苦しめば、これを救わないうちは、寝ても、眠られず、食べても味わうことができない多くの子供を、自分ひとりの力では水火の災難から救うことができないときは、助ける術を知っている人があると聞けば、年来の仇敵であっても、かならず行って手を束ね膝をかがめても、我が子の救助を頼むだろう」。集義和書巻12

 仇敵であっても我が子の命が危ないときに、その術を知っているならば、手を束ね膝をかがめても頼むということで、我が子を慈しむ心が重要であると指摘しているのです。君主という人間的な器は、民を我が子のように慈しむ心であり、徳行の備わったが、学識、人格ともすぐれた人格者が為政者になっていることです。

 つまり、仁政の精神をもっているのが、君主なのです。学識がある人々があり、人格的にも優れていて、君主を支えていくのが賢人であるのです。だれでも、君主や賢人であるわけではなく、その人間性の鍛錬、教養、その素養が求められるのです。

 多くの人々は小人です。小人は、小人としての社会での役割があり、その能力を十分に発揮させるのが君主であり、賢人であるのです。その小人が君主や賢人のようにでしゃばって為政者のようにふるまえば社会が混乱し、国は亡びていく。小人が驕る時に民は剥落されて、天下に災害が多くなると蕃山は次のようにのべているのです。

 「そもそも剥とは、君子が退き小人がでしゃばることでもある。小人がでしゃばれば日ごとに驕奢になる。このため、世の中が驕るときは、民は剥落されその次に士が剥落され、その次に公侯が剥落される。このようなときには、天下に災害が多くて、ついには主君も剥落して、乱世となるものである。今の武士は、民から厳しく年貢を取ることを好んで、寛大にすることを怠り、民が剥落された次に、自分の身にも及ぶことを知らない」。集義外書巻7

  乱世の原因の三大要因として、蕃山は、「第一には、大都市でも小都市でも河海の通路の便利なところに都を建てると、驕奢が日々増して防ぎ止められない。商人が富んで士が貧しくなる。第二には、穀物で諸物を交易することが薄くなり、金銀銭だけを用いるようになると諸物価が高値となり、天下の金銀が商人の手に渡り、大身も少身の士も財用が不足するものである。第三には、適宜の礼式がないときは、事が繁り、物が多くなるものである。

 禄米を金銀銭に替えて諸物を買う。米穀が低値で諸物が高値の時は、財用が足りない。そのうえに物事が多く繁れば、ますます貧乏になる。士が困窮すれば、民から取り上げることが倍になる。だから豊年には不足し、凶年には飢え寒さに苦しむ。士民が困窮すれば工商の者は穀物に替える相手を失い、ただ大商人だけがますます富有になる。財用の権富を商人にまかせてはならない。商人に財用の権をまかせると諸侯と富を争い、諸国が枯れて、国が亡び、天下が乱れる」。集義和書巻13より

 交易にも便利な場所ではなく、ほどほどの距離をもって、贅沢にならない程度の暮らしに必要な交易を指摘しているのです。また、金銭だけでの交易だけではなく、穀物で諸物を交換する意味をのべているのです。

 国の人々が豊かに暮すには、穀物が不可欠であり、食糧がなければ人は生きていくことができないということで、富の基本的な価値を穀物においているのです。さらに、礼式も派手にするのではなく、適度に簡素にすることを強調しているのです。富の権は、穀物にあるということで、それを管理していく為政者の諸侯や天子の役割があるのです。大商人が、それによって代われば世の中は乱れていくということを蕃山は力説しているのです。                                                                                                                                                                                                                                                   



 




 



 

 

熊沢蕃山の自然循環思想

熊沢蕃山の自然循環思想

      神田 嘉延

 

 はじめに・現代に熊沢蕃山を学び意味

 

 熊沢蕃山の自然循環の環境思想を学ぶ意義は、現代に大きな意味をもっている。自然の力によって、自然をよく観察して、自然循環を破壊しないで防災対策をしていくということである。これは、持続可能な社会を形成していくうえで、不可欠なことである。

 蕃山は、これらのことを教えてくれるのである。国土強靭といって、自然に対して、人工的な構造物を強大につくっていくことでない。また、自然循環的なことに反する開発、エネルギーの創出を極力抑えていく見方が必要な時代である。

 九州の大分県竹田市の巨大な天空にそびえる山城は、現在、公園として整備されて、観光地の名所になっている。そこに蕃山先生のほめの徳の碑がある。42歳の時、江戸から下っての冬、そして、翌年の4月まで滞在したといわれている。藩政の自然循環の灌漑用水と植林などの民政指導のために、短い藩主からの招聘によっての滞在であったが、蕃山の功績は、後の人々の心のなかに深く刻まれている。

 城原井路、緒方上井路戸の建設に助言したことが現在も残る貴重な灌漑用水になったのである。疎水によって、自然をこわすずに、集落ごとの争いがないように、稲葉川支流から取水し、その末流のひとつとして、滝の上から落差40メートルのがけ下にひらがっていた下水の水田に用水して、稲葉川に合流させている。

 この滝は、竹田駅の近くで、落門の滝として名勝地になっている。全長、7.7キロの工事である。城原井路土地改良区として、現在でも稼働して大いに地域経済の発展に貢献している。ここの土地改良区は、最も最先端の少水路による水力発電所建設をしている。近くの井路群と協力しての地改良区も同じような発電所を建設して、5000世帯近くの電力をまかなっているのである。

 大分県の竹田地方は、多くの湧水群や滝、井路があり、地元の石材を用いた水利施設も特徴であり、石橋、石垣、円形分水、ため池、さまざまな井路の形など自然と融合した山間の石の文化が定着しているのである。熊沢蕃山の自然循環の思想が、現在でも発展させて、生きづいているのである。

 

 熊沢蕃山の主な経歴

 

 熊沢蕃山は、中江藤樹のところで、学問を学び、1645年に28歳で、岡山藩に仕えようになった武士である。1654年に備前の大洪水・凶作・飢餓で、農村振興のために、藩主の池田光正を補佐し、自然循環的な開田事業を推進した。

 しかし、家老のなかで意見の食い違い起きる。1656年に藩主の三男を養子にして、藩主光正との関係も強くしたことが、翌年に隠居においこまれる。蕃山は39歳のときであった。

  その後は在野の陽明学者として活躍し、為政者には厳しい批判をし、幕府から監視の身におかれる。監視され、幽閉された立場でも蕃山は地域からの相談にのり、渡良瀬川の今でも残る堤などの灌漑用水の自然災害のおきない工夫の工事をしたのである。

  52歳のときに、母を岡山の蕃山村に葬る。55歳のときに父が病のため岡山に帰る。69歳のときに、松平忠之幕府の意を受けて古河に招く。12月に幕府の命で古河城頼政廓に禁固になる。

   古河藩に幽閉されたが、蕃山に農政や田畑の灌漑用水など開墾事業の指導を受けさせている。渡良瀬川の洪水防止ための新堀や堤の事業を指導している。新堀の築造1年後に、73歳でなくなっている。

 

蕃山のかんがえの慈愛をもった仁徳政治

 

 ところで、蕃山の考えは、仁徳の政治をめざすものである。それが、行われなければ、在来の遊民の暮らしが豊かにならなければ、新田を開いても意味をもたないという見方である。

 塩浜と焼き物は、人々に富をもたらしていく産業として、各地で盛んに行われるようになった。しかし、蕃山は、これを決してすべてよいことであると言っていない。森などの自然循環の害になることをみていかねばならないという立場である。このことに蕃山は、次のようにのべる。

「塩浜と焼物とが山林を取り尽くすことは重大な問題である。山林は国の本である。山は樹木がある時は神気が盛んであつが、樹木がなければ神気が衰えて、雲雨を起こす力が少ない。それだけではなく、草木の生え茂る山は土砂を川中に落とさず、大雨が降っても草木に水が含んで、10日、20日もかかって自然に川に出るから、一方では洪水の心配がない」。

 塩浜と焼き物が盛んになると、山林を取りつくことになると警告するのである。山林の果たしている自然循環の役割をよく考えて、塩浜や焼き物の生産を考えるべきとしている。  

  この問題は、山川の神気が知らないからであるとしている。現代風に言えば、自然循環ということは、それぞれの山、川、草木、雨の自然の現象は相互にかかわって生態系をもって共生しているというのである。蕃山は、山川の神気、山沢の気が通じ合いと、次のように言っている。

 「山に草木がないと、土砂が川中に入って川底が高くなる。大雨を蓄える草木がないから、一度に川に、落ち入り、しかも川底が高いから洪水の心配がある。山川の神気が薄く、山沢の気が通じ合って水を生み出すことも少ないから、平成は田地の用水が少なく、船を通すことも自由でない。これはみな山沢の地理に通じ、神明の理を知る人がいないためである」。(「中江藤樹・熊沢蕃山」中央公論社、集義外書巻1)より)

 さらに、新田畠開墾者の罪悪として、蕃山はのべる。不仁の王が新田畠を開墾するのは、主君を富ませ、勢いを強くするおとあるから、悪逆の根を増やすことになうとする。

  「新田畠は、多くは古地の害になるものである。また、隣村の害になることもある。国に不毛の野山が多いのは、牛馬を養うのに便利であり、薪を採るにも都合のよいものである。新田はまた、これらに害になるものがある。たいていは後々に悪い影響を残すものであるから、軍者の次に悪逆である」。(集義外書第9)。

 日本の水土に適した大道が大切と蕃山は考えるのである。この日本の水土に適した大道とはどのようなことを指しているのであろうか。「上は天の時節にのっとり、下は水土に基づく大道である。形跡だけを見ても真実を知らない人とは、ともに道を語りがたい。言ってはならない者に言い、非難を得るなら、私の不明である。けれども非難を恐れて言わなければ、後世に知る人はないであろう」。集義外書巻10。

 蕃山は、上は、天の時節にのっとり、下は、水土のもとづけ大道としている。水土ということから天地の自然の動きのなかで生きる人間の自然循環の知恵を大切にするのである。

 

水土に適応する学者の知恵

 

  水土に適応する学者はめったにいないというのが蕃山の見方である。それは、老荘でもなんでもないというのである。蕃山の見方の水土論からの大道である。

 蕃山の生きていた時代についての学者についても厳しい見方をしている。学者は、仏法の立てている成り行きをもって、水土に適応するところがあるとしている。

  儒道には、水土に適応するところがないが、遺徳を明らかにして、人情や時の移り変わりを知って、万物の道を助ける大道であり、儒道の礼法は、仁欲を抑える堤があると蕃山はみている。

 「現代の学者は、儒道を興起すると言って、自分自身を抑え、仏法を避けると言って、助けて立てている成り行きを知らない。仏者の不仁と儒者が理法に拘泥するのと、ともに神道をないがしろにすることは一つである。その中でも、仏法は、水土に適合するところがあり、儒法は水土に適応しない。

 ・・・神代の遺徳を明らかにし、王朝時代の法令を考え、現代の人情や時の移り変わりを詳しく知って、万物の道化成育を助ける大道がある。信が厚くないのに法を先にすれば、民の偽りを導き、無事を行わないで礼にわずらわしければ、人欲が生じる。

 そもそも礼法は人欲の堤である。大河のほとりに住居するものは、堤が堅固であれば、生命は安全である。ところが、水源に遠くない小河で、水害の心配のない土地に、堤をあちこちに大きくすれば、民の身命を養う田畠も、多くは堤のために取られて飢餓に陥るであろう」。集義外書巻10

 大河のほとりに住居するのは、堤が堅固であれば、生命が安全である。水源に遠くない小河で堤をあちこちに大きくすれば、民の身命を養う田畠が小さくなり、飢餓に陥ると蕃山はのべるのである。

  日本の国土の多くは、大河ではないのである。中国の広大な大地をもって、大河が流れるところではないのである。このことについて蕃山は次のようにのべる。

 「唐国は大国であって、土地の生産力が厚い。中での周の代は、天地開けて以来、太平無事の時運に当たっていた。天地が物を生じることは限りなく、財用の多いことは水火のようである。人民は大いに富み、しなければならない用務はない。それゆえに驕奢(きょうしゃ)に流れ、情欲が溢れる勢いであった。

 聖人がこれを心配されて、礼文・法令を多く作って暇をなくさせ、喪祭のために財物を費やして欲を防止された。その時でさえ、礼文が先立ってまだ実行には至らなかった。

 後世になると、政令は道を失い人心が正しくないので、四季の気が不順であって、土地が物を生じることも少ない。貴賤おのおのの身分相応を超えて、士・民ともに貧しい。事柄が多く暇がない。

  そのため多欲になり、人情が薄くなったので、その国でさえ礼法は行ないにくく、まして他国ではもちろんである。近年は草木金石でさえ性質が弱くなっている。まして人は病気や無気力な者ばかりである。その上、家が貧しく、世間のことが忙しい。どうして大国の上代の法を行うことができようか」。集義外書巻10

 中国は広大な土地で、天地開けて以来、時節に恵まれて、開墾して生産力が増して、人々は贅沢になって、個々が情欲に走って社会が乱れていくようになったのである。

  これによって、天の恵みに感謝する祭礼や先祖への喪を大切にするようになったのである。礼法などを大切にするようにして、自由気ままの個々の情欲を抑えて、忙しくするようにしたと蕃山はのべるのである。

 ところで、蕃山の時代の学者は、わが身を富んで、暇ばかりであるとしている。武士は決して豊かではなく、暇がないというのである。暇にもてあそんでいる学者は、天地自然の天理、水土の大道をしらないのである。それを観察したり、探求したりすることはなく、実践的にも思考しないのである。

 「現今の学者は、我が身は富んで、暇ばかりである。武士の貧しく、朝夕の暇がないものにも、その礼を移して行わせるようにする。我が身は仕事を持たないので、気力に余裕があってすることを、奉公に疲れている武士に無理強いすれば、怠らない者は少ない」。(集義外書巻十)

  蕃山の生きた時代の学者は水土論から学問をするものは少なかった。多くは自分の身を富むことばかりで、暇な人間であった。

 

天地自然循環に山の樹木は命

 

 熊沢蕃山は、山に樹木があってこそ、天地自然の理にかなって大雨が降っても洪水を防ぐことができることを考えた。淀川などでは、川が浅くなり、川底を掘り、砂留をして、船の航行を自由にしていることに、それは、根本的に効果のないことだと蕃山は次のようにのべる。

 「川底を掘り、砂留めなど末端のことで、船の航行を自由にしようというのは、効果まさしく食物の上を蠅うようでありましょう。

 水上の水、流域の谷々、山々の草木を切り尽くして、土砂を絡み保留することがないから、一雨、一雨に、川の中に土砂が流入して、川底が高く、川口が埋もれたのである。その根本をよくしないで、末端だけのやりくりをしてもどうして成功しようか。

 今は草木を切り尽くしばかりでなく、木の切り株まで掘っている。切り株を掘った山は、なお多くの土砂が川に流入する。後に伐採禁止の留山にしても木の根を掘りとった山は50年、30年も草木はそだたない。

 水上の山が荒れると、山や沢の神気が薄なくなって、水を出すことが少ないので、平常は荒れが細い。そればかりでなく、大雨のたびに流れ出た砂は、川底となって積もるので、砂の中をくぐる水も多い。

  もとは川というものは、平地よりも低かったのに、今は平地と同じ高さになり、あるいは平地よりも高く流れるものがある。堤防だけで支えているのである。

 これはみな山が荒れてなったことである。昔は川が深かったので、たいていの大雨・大水では田地・家屋敷を損なうことはなかった。今は川が浅い。山々に雨水を貯える草木がない。

  少量の水も中水(中ぐらいの水量)となり、中水は大水となり、大水すぁれば堤防を越え壊し、田畑・家屋敷を損なうことが多い。その上、左の堤防が強ければ、右の堤防を破壊し、左右ともに強ければ、川下の堤防を破壊するという。これはみな川が土砂に埋まって深くないための災害である」。(集義外書巻13)

 蕃山に対する問で、「今から水上の山々谷々の伐採を禁じて、草木を生やしても、もはや埋もれ流入した砂は取れないものでしょうか」という質問に、熊沢蕃山は、次のように答える。    「山々谷々に木が茂り、土砂の流入が止まれば、大雨のたびごとに、今、川に落ちこんどいる土砂や自然に大海に入り、川の水は深くなる勢いです。後から流入する土砂が多大であるため、初めの砂も海に落ち入りにくいのであります」。(集義外書巻13)

    山の伐採を禁じて山々に草木を繁るように、また植林をしていけば自然にもとのように堆積した土砂は、なくなり、川の流が自然になっていくというのである。

 

淀川の3つの合流川についての蕃山の灌漑用水の工事に対する見方

 

 奈良から流れ出る木津川は、京都と大阪の堺で、瀬田川宇治川桂川と大きな三つの河川が、ひとつに合流して、淀川となって大阪にながれていく。この木津川と瀬田川の改修工事についても熊沢蕃山は言及している。

 木津川の河道改修工事について質問されている。「今の木津川を三ケ原(奈良の北方)の上から川筋を変えて、奈良の佐保川筋へ廻し、河内路を経て、摂津の国の川口(大和川の川口)へ落とせばよいと申す説がある。そのようにすればよいことが多い、調査してほしいと願う者があります。もしや、また、悪いことが起こりましょうか」。

 「川筋を変えよとの話の場所から、淀の大橋まで五、六里はありましょう。川の水勢がゆるく下に常に流れている大河を受けているので、ひでりの時にも十石船はたがいに航行します。それを大和路へ廻して、河内・摂津の国へ落とすと、大和は地形が高く、河内への落ち口に銚子の口(水量調節のため川幅を狭くした部分)を当てなければ、川の水を保ちがたい。銚子の口をすると、今の十石船もまっすぐ進めない。

 銚子の口をしないで水をまっすぐ落とすとすると、水上は水が少なる。水は急に下がって、川の水がなくなってしまうから、船の航行は止まるであろう。大雨の時は河内の上田へ砂石が入って、国土を損なうであろう。

 大和川は、平常は水が少なくて、大雨の時はことのほか水が出るのである。今の川幅は、二町交あるとこところも三町あるところもある。それにいっぱいに水が出て、それでもなお堤防が危険なことがたびたびである。

   今の堤は昔からの堤であるから、山と同じくらいに堅固であるが、それでも時々決壊することがある。

 二十里余りの所、川幅2町平均にして、大和・河内の上田畠をつぶすとしても、山々は荒れて、大雨ごと砂を落とし入れば、ほどなく砂川となり、河底が高くなるであろう。

   そうすれば、その後は大和・河内は荒れてしまうこともことあろう。もとの川跡が田畠になると言っても、底まで砂なので、何も生長しにくいであろう。

 新川の幅を狭く見積りするものであるとのことですが、大水の時の水勢を知らないからである。狭くてはなかなか持ちこたえるものではない。さて、川の長さは、今の倍になります。

   この川は、ふだんは細い流れである。それを伸ばす、方々で水が漏れ、いよいよ水流が細くなるだろう。その上、淀から下流の大阪までの船路は、少し照ると船が川底についてしまうので、木津川の流れが止まったらならば、いよいよ航行は難儀でしょう。

 昔は、大和川にも銚子の口があったと聞く。船を通そうと言って、これを切り削ったので、船が通らなくなっただけではなく、川が浅くなってしまった。

  少なくなった水は、砂中をくぐり、音に聞こえた立田川も、今は名ばかりである。後悔してももとにようにしようとしたけれども、天然の岩を切り削ったので、もはや直すことができない」。(集義外書巻13)

 さらに、琵琶湖から流れる瀬田川でのししが瀬の岩を砕いて、琵琶湖のたまった水をいっきょうに流す工事について議論が起きていた。 琵琶湖から流れる水は、瀬田川ひとつになっている。琵琶湖に流れ込む川はたくさんあり、大雨がふれば、水が入りこんで、耕作のできない田畠が増えて、石高24、25万ほどが水底になってしまった。瀬田川下流のししが瀬の岩を少し砕けば水がながれ落ちて、耕作できるようになるという意見があるが、熊沢蕃山にどう考えがえるかという質問に、次のように答えるのである。

 「おおいに悪いことが起きるでしょう。湖の水が入り込むというのは、一朝一夕のことではない。ししが瀬は天地自然の銚子の口である。それなのにししが瀬の岩を切り削るならば、湖の水が急に流れて落ち、淀川の水は湧きあがり、湖の水がまもなく流れ落ちれば、淀川は後悔してもどうしようもない。・・・

 晴天続きのよい時分、水が渇き落ちて、稲も実り、淀川の水も適当なころを見計らない、それよりも高い水は流れ落ちるように、北国の方へ、池水のあらて(水量を調節するため掘った川)のように、水はけをつけることは差し支えないのではなかろうか」。「集義外書巻13」

 蕃山は、河川において、天地自然の銚子の役割を重視して、それを削ることで水が急に流がれ、降らないときはかれるということで、自然の水の調整的なことがくずれることを危惧しているのである。

  むしろ、みずはけをつけるようにと川を掘ることでの水量の調節には奨励しているのである。それも自然の害が起きない時期をよくみてする必要があることを強調しているのである。

 蕃山は日本始まって以来、日本国中で大和・河内の上田という古地を、川につぶして、その下流の地を新田にしようということは、大きな誤りであると警告している。

 「川下に新田をつくれば、川上の古地は悪くなるといって、昔から心あるものはしないことである。まして、古地をつぶして別の地に新田をつくることは、その大小の損益はいうまでもない。やがて山々から流入した砂は、天下の主のお力でも除去しようがありますから、もはや大和・河内の上田は、永久に廃に田なるでしょう。・・・

 今、山城・摂津・河内の水害を止めることは容易であろう。淀の大橋の向う山崎の辺から、あらてごし(本流の外に水路を掘って水量を調節)ということをして、洪水の時、二本の川とするのがよい。

  桂川は淀までつけないで、半分余の水量をあらての川へ、引く水路もあるだろう。そうすれば鳥羽・伏見・摂津・河内の水害はやむだろう。あらてごしのために、田地のつぶれる石高は、2千石ばかりであろう。助かる土地は石高15万石もあるだろう。

  15万石から2千石を補えば、租税率にしても一、二分であろう。堤と堤の間の田地は、そのまま耕作すればよい。5年、7年に一度、その年の作物の損害はあるだろうが、翌年は肥料がなくても、大いに豊塾するであろう」。「集義外書巻13」

 このように、治水の権道としての臨機応変の処置について、蕃山はのべるのである。つまり、5年から7年に一度の水害で、2千石はそのときに、損害を被るが、全体の15万石から2千石を引いた田畠は、守られるということになのである。本流の外に水路を掘って水量を調節する方法である。

 

天地自然の理と仁政の義

 

 新田開墾することに、蕃山は、天地自然の理と仁政の義をもってよく考えるべきと警告する。民の暮らしを第一と考えて、目先の生産量増大ということだけではない。まずは、民の暮らしを豊かにすることからはじめるべきということである。

 「国は、田畑ばかりで山林や不毛の地がないのは、士民の生活が悪いからである。野は野のままにしておくがよい。その上、新田を開いて古地の田が悪くなる所があるから、よく考えるべきである。たといさしさわりがなく、良い新田であっても、君子なら理由なしに開発すまい。

   開発するのなら必ずその義・正しいわけがあるだろう。義というのは、仁徳の政治が行われて、在来の遊民を住まわせる所がなければ、新田を開いてそこへすまわせるがよい。塩浜が国土の山林より多すぎて材木木炭が不自由な時にその浜を減らす場合、塩焼たちを移動させるために新田を開くがよい」。(集義外書巻1より)

 塩田を開くにも国土の木炭を燃やすためにも、山林を多く伐採して不自由になるのなら意味をもたない。山林は国の本である。山の樹木がる時は、山川の神気が盛んである。

  樹木がなければ神気は衰える。草木の生え茂る山は土砂を川中におとさず、大雨が減っても草木に水が含んで、10日も20日もかかって自然の川にでるのである。そこでは、洪水の心配がなくなる。

 乱世となり、山川が荒れるのは、天地自然の理を人々が知らないことから起きると蕃山はのべるのである。小人の考える利をもって利するということでは天理を知らない、決してない。

 

天理と人欲は両立しない

 

 天理と人欲は両立しなというのが熊沢蕃山の見方である。天理の誠を知らない、驕りで仁政を失う、仏者が得度を失うごとく、堂塔寺院を多く建てるように絢爛豪華を求める為政者を批判する。

 世間には学問を得意とするものがあるが、正道という本才には疎い。日本は山野に限りがある小国である。その山野にあった正道が必要である。為政者や驕る仏者に対して、「山川が荒廃する根本の原因を知らない。また、山川が荒れては世の中が立ち行かない道理も知らない。天地が破れても洪水に見舞われなければ理解しない。乱世となる天地も理解しない」(集義外書14)。

 為政者が天地自然の理と仁政をないがしろにして、目先の己の欲に走っている施策について、蕃山は批判する。ひとつは、山林への高い年貢である。

 「山林のある里村では、山林を目当てにして田にはない高免をおくことがある。このため山林がだんだん荒れて、後には百姓が頼れる物をなくなる。家屋を壊し田畑を売って、村の様子は昔の面影もなく、衰微して年貢も取れないので、仕方なく免を下げるのである」。

 さらに、第2に、麦を田につくって百姓の食料とする為政者の施策について批判する。麦作の悪い年で田の年貢率の許可がないから、負債がでてくる。田地を質にとられ、土地をとられるのである。村の民は乞食同様になる。

 第3に田畑の土地の条件も考えずに年貢を一律に課す為政者の施策を批判する。水田湿地で麦もまけず、山林の便もなく、田以外に頼るものがないところにすべての村と同じように四分六分の毛見をするところがある。

 第4に、米の収穫を考えないで、年貢を取り立てる為政者の施策を批判する。田地に米の有無を計らず、しきりに督促して取り立てを行えば、春の農作の牛馬を売り、子ども年季奉公に出して、夫婦は嘆き悲しみ、まめに働く気力もなくなり、耕作に精を出さなくなる。

 第5に、公儀が毎年に収穫量で調べる毛見による不当な年貢取り立てがあることを批判するのである。「集義和書」巻16)より)

 熊沢蕃山は、治国道理の論議をしていく結論に、次のようにのべる。「国が国として存在するのは、民がいるからである。五穀が豊富であるのは民力に余裕があって、仕事の成果によってである。だから、有徳の君、有道の臣のいる時代の一日は、のびのびと長い。その民が静かで暇が多く、生活力があるからである。道の失われた時代の一日は、忙しく短い。その民は苦しみ、勤めても力が足りないからである」(集義外書第7巻より)。

 国は民によって、成り立っていることを根本的に為政者はみるべきとしている。そういう見方をもてば、民はのびのびとして、民の暇が多く、生活力に余裕がきるというのである。

 

それぞれの専門と地域のことをよく知っている人にたずねよ

 

 蕃山に対する盟友の問いで、池堤の修造、飢餓を救い、干害と水害を防止されて、土地の人民はいつまでも、その功をほめているが、どのようにして治水術を鍛錬されたのですかと。蕃山は、そのような術は見たことも習ったことのないとしている。

「自分は治水の術を知らないから、巧者の人にそれをさせたのである。巧者の人々が治水工事をするのを許しただけである。後には、人に問い尋ね、見習い教えられて、少しは功もあった。世の中で何か事業を実施する人の過ちをみると、たいていは他人に問い尋ねないことから起こっている。

  京のことは京育ちの者pに尋ね、山のことは山村の人に尋ね、川の流れや洪水の勢いは川辺の者に尋ねて相談し、堤を築き、水除けをすれば、後悔が少ない」。(集義和書巻15)

 人の間違いが他人にたずねないことから起こということで、蕃山は、京都のことは、京都の人に、山のことは山の人に尋ねるということのように、それぞれの直接に関連する人や、それぞれ専門の人に尋ねることも大切にせよとしている。

  「治世でも乱世でも、大任に当たる者は、心が公平で自分を捨てて他人の意見に従い、天下の才知を用い、衆人の計策をつくさなければ、成功することはできない」(集義和書巻15)。

 蕃山は、大任に当たる者は、公平で他人の意見を従い、才知を用いていくことの大切をのべている。

 仁政ある農業施策は、人民の労力を奪い取ってはならないというのが蕃山の考えである。「民を骨折らせる場合は、彼らが秋の収穫に有利なことに骨折らせ、民を使う場合は、将来彼らが骨休みできることに使えば、民は働き疲れても恨まない」。(「集義和書巻16)

 民が骨折ることも耐えることは、自分たちの秋の収穫に有利なたであり、将来に豊かになって幸福になっていけば、骨折ることに恨みをもつことはないと、蕃山は強調している。まさに、仁政が基本になっているのである。

 「年ごとに稲の出来具合を調べて年貢を定める方法としての毛見は、公儀ではなく百姓にやらせた方がよいとする。公儀毛見では手間がかかり、費用もかかる。風雨のために稲刈りが遅れるとすらある。公儀毛見になれば大損になることを百姓に理解してもらい、奉行公儀をなくして、さらに、毛見の制度を廃止して定免にする道を選んだ方がよいとしている」。(「集義和書巻16)

 蕃山は日本の水土にあった民の暮らしを重視しなければ、日本は、永続していかないと警告するのです。

 「日本の水土により山沢・草木・人物の情勢をみると、簡易の善でなければ、あまねく行きわたらず、長く続かない道理がある」。水土の考えを民に進めていくには、簡易でなければできないとしている。仏教は世にあった簡易さを失っているというのである。

 「近年は、仏法が世に合った簡易さを失って、驕りを極めていますので、長くはりすまい。けれどもやがて天から驕りを削がれ、堂寺や法師など少なく、やや出家らしくなって、またまた長く続きましょう。今の儒学の様子では、朱学も王学も、治学の助けとはなるまい。・・・日本の水土や今の時節に合わない」。(集義外書巻16)。

 蕃山がのべる水土論は、現代の資本主義的な利益中心の開発に対するアンチテーゼを築いていくうえで、大いに参考になる自然循環の思想である。

 

石清水八幡宮と三つの河川の合流地域

 

 京都の石清水八幡宮の建っている男山の裾野は、大きな三つの川が合流地形にある。その川は、京都盆地からの桂川、琵琶湖からの瀬田川宇治川、三重の伊賀からの木津川である。たびたび氾濫によって、水害に悩まされた地域である。

  木津川は、砂礫の堆積による川底が周辺の土地よりも高くなる天井川と言われ、堤防がくまなくつくられて、さらに、氾濫があれば高く積み上げられた堤防になっていった。

 この三つの河川は、水害対策を昔から、自然の状況をみながら有効な手をうってきた。そこには、人間と自然という共生ということから、自然に対する畏敬にそっての防災対策をしてきた歴史が含まれていた。

 歴史のなかで様々な利益による開発が起き、その合意や自然との関係があったのである。自然との共生、循環性をもつためには、山の木を切ったら植林をし、そして山林の保全、大雨の山の対策としての調整池の設置である。

  これは、大雨による巨大な水流を撃退する強靭な建造・施設ということからではなく、「減勢治水」という思想ということからである。

 さらに、里に流れていく河川では、霞堤ということで、溢れる川の水を流しての二重の堤防の遊水池、引堤として、川を掘り、川面を大きくすることや付け替え、川底掘削などを行ってきたのである。

 ここには、上流と下流の住民の利害対立を乗り越えて河川の水系全体としての協力し、合意していく強いリーダーシップとシンボル的な自然の神の存在が必要であった。

 熊沢蕃山の環境思想からの河川の水害対策も、このような大きな歴史の流れのなかでみていくことが必要である。

 琵琶湖を囲む山々も花崗岩の岩石であるが、都の建設や神社建立などによって、森林伐採が盛んに行われて、天井川になった河川が多かった。このために、田畑や市街地に土砂流失の続いてきた地域です。琵琶湖から流れていく河川は、瀬田川一本で厳しい自然条件にさらされていたのである。

 瀬田川京都府に入り宇治川になり、三つの川の合流で淀川になる。山が川に大きく張り出しているところを削る試みは、奈良時代行基が考えられたが、瀬田川の川幅を拡げることがかえって下流の地域が氾濫するということで、断念した。

 さらに、山に手をつけることは祟りが起きるという言い伝えを残した。現在は大日山とよばれている。そこに、大日如来を祀った場所がある。

 桂川は、古代から嵯峨や松尾などに入植した秦氏が氾濫に対して治水対策をしていたということです。その後に、嵐山周辺と上流域は、「大堰川」というように、土砂が流れやくす川底が高くなっていく現象が生まれていくのである。

 平安京建立のときは、丹波や山城からの船による木材運搬の川といわれた。しかし、同時に、水害の発生の危険も増していくのである。木材などの交易のための航行の発達によって、大水害の歴史も繰り返されていく。

 現代は、川の交易のための交通手段の役割は大きくなくった。道路の開発が網の目のように細かく行われて、山の様相も大きく変わったのである。森林の保全、植林の大切さや、自然の力で自然の水害から調整していくことがあらためて問われる時代である。

 熊沢蕃山の環境思想、自然をよく観察しての自然をよく知っての自然の力を大いに利用しての防災対策が、持続可能な可能社会を形成していくためにますます重要になっているのである。

中江藤樹の学問・教育と民の暮らし

中江藤樹の学問・教育と民の暮らし

 

 

はじめに

 

   中江藤樹は、何のために学ぶのか、人間的に生きることはどのようなことなのか。人を育てることをどうしたらいいのか。人間のもつ素晴らしい可能性を探求した儒学者、村の教育者でした。現代ても学ぶべきことがたくさんあると思う人です。

 藤樹は、すべての人々に孝を大切にした人です。全孝の精神から人間らしき生きるための道徳を提唱した儒学者・教育者であったのです。

 彼は、幕府体制維持の精神支柱になった林羅山などの朱子学に疑問をもち、大洲藩を脱藩して、生まれ育った琵琶湖湖畔の高島藩小川村で私塾を開いたのです。そこでは、村民を中心に、また、かつて自分が任官していた大洲藩をはじめ、多くの若い武士も含めて、士農工商のすべての階層に開かれた塾でした。現代的にみれば、学校ばかりではなく、自由に開かれた学びの場であったのです。それは、塾に入門して、大学や中庸をきちんと体系的に儒学や医学を学ぶことだけではなく、村民が自由に話を聞ける場でも交流する機会でもあったのです。

  藤樹は、学問をはじめたとき、武士の身分でしたが、脱藩して、生まれ故郷で塾を興いた志士でした。権力に仕官しない自由の立場の学者として生きたのです。そして、学問とすべての人々の暮らし・生き方を統一的にとらえ、人間として敬愛心・孝徳の大切さを考えたのです。村人や武士に対する教育実践と新たな思想の模索は、後に、日本の陽明学の祖、近江聖人として言われるようになったのです。

  その教育実践は、武士にはなれないという親が考える特別に覚えが悪い若者を、かれが希望する医学を教えたのです。彼のために、専門的な医学書をやさしく教科書につくりかえたのです。

 藤樹は、それぞれの個性や能力に応じて、また、文字を読めない村人にも自由に講習が聞けるように、また、休憩や余暇のときは、長期に滞在している弟子たちと村人、そして、藤樹自身が交流できる場をつくっていたのです。

  それは、閉鎖的な決められた時間内に教育の課題をひとつひとつ細かく教化的に実践していく学校教育風ではなく、おおらかに教育の目標を定めて、現代風での社会教育的な成人学習の場でもなっていたのです。

  中江藤樹は、琵琶湖のほとりの高島藩の小川村という村落社会での傑出した教育者、思想家として、後の日本に、大きな影響をもっていくのでした。現代の日本での参考になることがたくさんあります。

  現代の日本は、弱肉強食の競争社会になっています。社会の矛盾も大きく、無縁社会現象も生まれています。敬愛の心の形成は、大切な時代です。学校教育も立身出世主義、競争に打ち勝っていくという評価主義と管理主義が横行しています。共に生きるための教育の実践が切実に求められる時代です。

  何のなめに学ぶのか。人間としての根本である敬愛心の形成を明らかにした藤樹から学ぶことはたくさんあると思います。万民は、すべて天地の子であるから人はみな兄弟で、公明博愛の心をもって生きる心の形成を大切にしたのは藤樹でした。

  これらの明徳を明らかにする学びは、現代的でも学ぶことがあります。私欲をもつ人面獣心ではなく、人間として生きていくに必要なことです。その学びは、書物を暗記し、もの知りとして出世という私的欲の手段はなく、暮らしのなかから、討論して思考して敬愛という人間の心をもった人格形成のためなのです。この中江藤樹の問題提起は、現代に生きる人々にとっても極めて大切なことです。

   中江藤樹の学問・教育を考えていくうえで、戦前の家族国家観にみられる注入主義的な方法での親孝行・忠孝との関係をみていかねばならない。戦前の絶対主義的体制の精神支柱として、国家による上からの教育勅語教育が徹底され、家父長制による絶対服従の精神形成を強要したのです。そこでは、家族における人間的自然の親子感情を家父長制の家族国家観に利用したのです。

  つまり、中江藤樹の親孝行の言説が、歪曲されて、絶対主義的な家族国家観に積極的に利用されたのです。それは、国家権力機構を大家族という家父長的な家族の一体制のなかに国民を精神的に組み込んだものであったのです。

 この体制を作り上げていくうえで、教育の役割が極めて重要であった。日本の伝統的に行われてきた儒教教育が歪曲されて利用されたのです。武士ばかりではなく、村落で暮らす農民にも大きな影響を及ぼした中江藤樹の親孝行の思想が歪曲されて、学校教育のなかで積極的に利用されたのです。

   中江藤樹の親孝行の思想がどういうものであったのか。徳川幕藩体制の確立していくなかで、幕府の丸暗記的な訓詁学林羅山朱子学言説が採用されたのです。これは、立身出世の道具として、幕藩体制の武士の新たな官僚機構整備に、奨励されたのです。しかし、絶対服従の精神形成を強要することに、反発するなかから、生まれたのが中江藤樹の敬愛・全孝の人間学的な思想であるのです。

   内村鑑三は、代表的な日本人の五人のひとりとして、日本での伝統的な真の人間になるための、英語でいえばジェントルマンになるための詰込みの教育ではなく、歴史、詩歌、行儀作法を少なからず教えた実践的道徳形成の村落学校であった。

  そこでは、決して、思弁的、神学的な性質を有する道徳を決して押しつけなかった。ここでは、多くの国々にみられる宗教的論争のらちがいであった。そして、子どもたちや青年たちをいくつかのクラスに分けずに、すべて人は一個の人間と考えたのです。そこでは、面と面、霊魂と霊魂とが相対して、とりあつかわなければならないと信じて教育をしたのです。それゆえに、一人ひとり、各自その肉体的、精神的の特質に応じて薫陶したのです。それは、人の個別の人間として、敬愛の精神による人間関係の教育実践であったのです。そして、身分に関係なく、誰でも教育を希望すれば受けられる学校であったのです。

  以上のように内村鑑三は、中江藤樹の村落学校を積極的に評価するのでした。内村鑑三の著作は、英文で書かれての日本の代表的な歴史的な教育者として、中江藤樹を世界に紹介するものでした。

  中江藤樹は、どの藩にも仕えるのではなく、自由な立場のわずかな生計糧の手段をもった処士の儒学者であり、村落の教師であったのです。日本の村落の伝統的な教育実践の典型として、中江藤樹を世界に紹介しているのです。

 中江藤樹は、1608年に近江の高島郡小川村の農家の子として生まれました。9歳のときに、武士であった祖父の養子になって、学問をはじめるのです。父親は、武士として、祖父の後を継承せずに、農民として暮らしていた。

  祖父は、加藤家の100石の武士として、米子藩に仕えていましたが、藤樹にとって、米子の生活は1年間でした。国替えで、四国の大洲藩に移住しました。脱藩するまでの27歳まで、藩士として、藤樹は大洲藩で暮らすのです。祖父は奉行職であったが、藤樹も、祖父が亡くなった後は、その職に就いていいます。

  学問に志していた藤樹は、15歳のとき、奉行職と同時に藩内の学問を推奨することで、若い武士と共に儒学の大学等などの会読を行うのです。21歳で大学啓蒙を著すのです。

  25歳のときに、近江の母親を大洲に連れてくるために帰省します。しかし、母親に断られます。母は、住み慣れた小川村を離れることをしなかったのです。小川村には、娘夫婦も近くに住んでおり、あえて全く知らない大洲に行くことをしなかったのです。藤樹にとって、人生は、思うようにいかずに、マイナス状況に働くのです。持病の喘息が、小川村から大洲への帰りの船で、悪化するのでした。

  大洲藩では分家問題がありました。藤樹は、分家に帰属することになっていたのです。このような状況もあって、藤樹は、母の面倒をみることと、自分自身が病気であることを理由で、藩主に辞表の願いの「致仕願」をだすのでした。しかし、致仕願いを出しても許可がでることがなかったのです。

  藤樹は決死の脱藩を決意するのでした。もともと藤樹が生まれた家は、戦国と幕藩体制の移行の時代であるときは、農民と下級武士を兼ねていたのです。父親は、農民であったが、祖父は100石家禄の武士身分で、大洲藩では飛び地の代官でもあったのです。

  祖父は、跡継ぎがいないということで、藤樹を養子にしたのです。戦国時代から幕藩体制の太平の世になりましたが、封建的な身分制は厳しくなったのです。武士にとって、脱藩することは、追ってが、さし向けられて、死罪に値するほどの重い罪になる時代になっていました。藤樹は、すぐに、故郷の小川村に帰郷するのではなく、様子をみるために、京都に滞在しています。

脱藩に対する おとがめがない状況と判断して、小川村に帰るのでした。大洲藩主は、藤樹に対して、期待をもっていました。学問によって改革を断行していくとみていたのです。大洲藩からは、若い武士たちが、藤樹が塾を開いたと聞くと学びにくる状況でした。藩主は、藤樹の将来を見越して、藩にとっても得策であると、柔軟な対応をしたのです。脱藩して、藤樹は小川村で塾を開くのでした。

 

  藤樹は、武士としての禄をとることがなくなったので、生計の手段を考えていかねばならないのです。仕官せずに自由に学問を深め、人びとに教えていく道をとったのですが、十分な土地をもっているわけではなく、生計の手立てをもっていなかったのです。

  藤樹は、自由に学問を志していこうと思っても、生きる手立てがないのです。仕官しての立身出世のための学問ではなかったので、生計の糧はありません。人間としての生き方の真理を探っていくために、幕藩体制の処世術から解放されて、藩内の権力的な人間関係から解放されて、自由に生きる道を選んだのですが、生計の糧はないのです。生計を立てていくには、どうすべきなのか。考えていかねばならないのです。

 生計のためには、わずかな土地だけでは無理ということから、残っていた銀百銭で、酒を仕入れて農民に売りました。刀を銀10枚で売って、その金で米を買って、農民に貸して、利息で生計をたてるようにしたのです。武士の禄からの生計から、わずかな酒の販売と少ない金額ですが、金利という金融業で生計をたてるようになったのです。

 生計の基盤をつくり、自由に自分の考えで、塾を開くようにしたのです。この塾は農民をはじめ、すべての身分の人に開かれた学びの場であったのです。大洲藩からも藤樹を頼って学びにくる多くの武士がいたのです。

 藤樹の人柄がわかることは、大洲藩時代の同僚の200石家禄大野家次男了佐の話です。藤樹が31歳の時で、結婚した翌年です。大野家当主の父親は、武士にむかない愚鈍な次男に、武士以外の道を探していた。

 本人は、医者になりたいということであった。しかし、まわりの反対をよそに、多くの学問を積まなければならない難しい道を選択したのです。

 藤樹は、かれが医者になりたいという強い希望を素直に受けとめた。医者になることは、難しい医学書を学ぶことをしなければならない。愚鈍なものには、誰でも無理という答えでありました。しかし、藤樹は、そのような立場をとらなかったのです。わずかな医学書をすこし読むように指導したのですが、文書を200回繰り返し読んで理解できるようになるのは難しいというありさまでした。

 しかし、藤樹は、了佐のために教え方を工夫しました。中国からの難しい医学書をかれが理解できるように、藤樹のために、やさしい教科書をつくるのでした。教科書づくりは大変な仕事でした。教師である藤樹と、医者になりたいという教え子の了佐の努力が重なって、一般の医学の志望者の数倍の時間と並々ならぬ苦労のすえに、立派な医者になっていくのでした。

 大野家の愚鈍な次男、大野了佐は医者として生涯を送るのでした。大野了佐は、母の実家の尾関家で、尾関友庵という医者になりました。大洲藩の近くの宇和島で開業し、七十七歳まで、真心をもった医者として領民から慕われたのです。

 ここには藤樹の仁愛に満ちあふれた姿勢と人を育てる態度がみられるのです。最初から人間の能力の素質、将来の夢を優秀であるか、愚鈍な人間であるのかという基準で判断しないことです。その人の将来に対する可能性は、人間性を含めて総合的にみていくことが必要なのです。記憶がよくない人でも人間的にみれば素晴らしい側面をもっているのです。大野了佐が人間的に素晴らしい医者として生涯過ごしたことが証明しているのです。

 どんな人でも、本人自身の強い努力と教える人の工夫で、その可能性を秘めているということです。人は、記憶力の優劣は様々です。愚鈍ということで、覚えが人並みの努力では難しいのはいうまでもありません。本人自身の強い意志と並々ならぬ努力、教える者自身の工夫、その子供や青年に対するきめのこまかい丁寧な指導ということが大切ということを中江藤樹の実践姿勢は、教えています。

 教育の力によって、彼の希望はかなえられていくという立場です。また、教えられる大野了佐は、彼自身の熱意ある努力、将来の強い希望があったことを見落としてはならないのです。400年前の藤樹の村落での教育実践は、時代が大きく異なるとはいえ、現代でも学ぶことが大いにあるのです。 

 熊沢蕃山が、中江藤樹の塾に入りたい強い希望をもったエピソードがあります。加賀藩前田家の公金200両を届ける飛脚の話です。かれは、200両を馬の鞍の間に挟まっていたのを忘れて、紛失したということで、途方にくれていたということです。そこに、宿屋に泊まって困っていた飛脚に馬方が届けたという話です。

 その200両の大金を届けた馬方は、小川村で藤樹の話を熱心に聞いていた人です。藤樹の儒学の話を聞いていたので、人として、私利私欲ではなく、仁義の生き方を身に着けていたのです。飛脚は、馬方に、お礼として自分の財布から15両の金を出したが、受け取らない。5両、3両、一両といっても受け取らない。結局、200文ということで、お酒の振る舞いとしてもらうことにしたという話です。

 やさしい心をもっている馬方に、飛脚はどうして、そのような態度をもつのかと、聞きました。馬方は、自分の村に中江藤樹先生がいます。その人から人として正しく生きることを学んでいるからということでした。

 毎日仕事が終わると藤樹先生の塾に通い、藤樹先生の話をきいているということです。村人はみんな同じことをすると告げたのです。現代でいうと村人に対しての人間としての生き方の社会教育活動になるものです。

 この噂は、京都にひろまり、その噂を聞いた熊沢蕃山が中江藤樹の弟子入りを決意するのでした。中江藤樹のところに訪ねて、弟子入りを願うのですが、教える立場ではないと強く断われるのです。門の前で2夜座り込んだり、馬方をはじめ村人となかよくなったりして、弟子になるための方策を考えたのです。

 熊沢蕃山の様子をみかねて藤樹の母親は、息子を説得するのです。このことで、ようやっとのことで、熊沢蕃山は、藤樹と対面することをするのでした。8月であったが、すぐに入門を認めたわけではなく、翌年の冬に藤樹を慕って訪ねてきた蕃山の熱意にうたれて入門を認められることになったのです。

 藤樹にとって、熊沢蕃山が訪ねてきたときは、学問内容の大きな転換時期であったのです。そのことから、将来性をもっている若い武士を引き受けることができなかったのです。「人の師たるに足らず」ということで、教えることができる立場ではないと思っていたのです。朱子学を信じての学びの疑問から新しい学問を求めてもがいていたという大きな思想の転換期であったのです。

 藤樹は熊沢蕃山との出会いは、人格的な深い交わりを結んだということです。学習し、討論し合い、心と心がとけあって、友として、互いに人間としての完成をめざして励ましたのです。そこでは、意気投合して助け合うことができたということです。

 藤樹は、蕃山を性命の友と呼び、心を許し合う捕人と某逆の間柄と言っているのです。捕人は、親友が互いに仁の徳の成長を助け励まし合うことで、莫逆は、互いに心を逆らうことなく意気投合するということです。藤樹33歳、蕃山23歳のときの出会いであった。(渡部武「中江藤樹清水書院・藤樹と蕃山の出会い134頁から143頁参照)

 藤樹は、酒を農民に売る方法として、無人販売方式で、家の門前に大きな酒壺を置いて売ったということです。ここには、教育的な配慮をもっていたのです。村人は勝手にのれんをくぐって必要なだけ酒を飲み、代金をおいて立ち去るという方式です。店頭に誰もいなく、講義や討論の邪魔にならないで収入をあげるということであった。

 酒は順調に売れて、生計を安定させるのに役に立ったのです。そして、藤樹は生活を弟子たちと楽しむことをしたのです。それは、楽しみながらの教育として大いに役にたったのです。

 藤樹は、詩や和歌を作り、音楽も楽しんだ。これらは、弟子たち共に楽しんだということです。師を中心に弟子たちが泊まり込み、寄宿舎の形態をとるときに、娯楽なしに学問をするのは不可能です。節度ある娯楽の工夫として、詩歌管弦、村に伝えられてきた横笛などは絶好の楽しみであった。

 また、琵琶湖の北部に浮かぶ竹島にも弟子たちと出かけているのです。楽しみながら、弟子たちと親密な関係をつくりながら、学問の目的である明徳を明らかにする。民に親しむに在り、至善に止まるに在りということで、博く、これを学び、審らかにしたのです。

 また、これを問い、謹んでこれを思い、明らかにこれを弁じ、篤くこれを行うことをしたのです。そして、物知りをひけらかす、利禄のもとめとのみ、心の驕慢の深い記誦詞章ではなく、実践的に明徳という五倫道徳の知を窮めることにあったのです。

(山住正己「中江藤樹朝日新聞社、近江の私塾117頁から176頁参照)。

 

  中江藤樹の翁問答(中公バックスの日本の名著)から、学問や教育の考えを読み取っていきます。藤樹は、問答ということで、弟子たちからの質問に答える形で、自分の考えをのべているのです。

  学問の本意が世間で明らかでないことが天下の大不幸であると藤樹は、徳がなければ儒者ではいということで、のべていますが、その意味がわからないという弟子の質問です。

 藤樹はのべます。「学問は明徳を明らかにすることを主意真髄とする。明徳は、われわれ人の形をしているものの根本であり、主人である。この主人が暗ければ、あたかも主君がぼんやり者で家来が無秩序であるようなものだというのです。

 その人の思うこと行うこと、みな天理に背き、もっぱら明利の欲が深く、親をも親とせず、君も君とせず、ただひたすら自分には利があり人には損害をあたえることに知恵を働かし工夫をし、互いに争ったり奪い合ったりし、はなはだしい場合には主君や親を殺す悪逆な行為もする。人間の万苦は明徳の暗いことから起こり、天下の兵乱もまた明徳の暗いことから起こっている」(163頁)。

 ここでは、私利ということが、天理にはずれ、明徳を暗くして、その怖さとして、心の側面から争いの根本の原因になることを指摘しているのです。天理ということが藤樹にとって大切なことなのです。

 世間で学問をする人をみるに、学問の真の意味を知って、志す人は少ないと藤樹はみているのです。

 弟子の質問は、四書・五経は世間にゆきわたって、読む者はたくさんいるが、この真の意味が明らかではなく、世の中の人々が学問を謗(そし)るのはどうしてか。この質問にたいして、藤樹は、学問の本意は、明徳を明らかにするということであると語ります。

「文字や書物の読み方を教えて禄を得るという物読み奉公人、医者の飾り、伊達道具のためか、三つを志として学問をするので、学問第一義の明徳を明らかにすることに関心ももっていないから、心を正しく身を修める益はなく、文芸を自慢する病がかさむだけである」。(166頁)

 弟子は、学問はよいものであるとみるのです。しかし、たくさんは不要のことであるという人が多い。これは真実のように思いますか。これに対して、藤樹は、学問に、贋(にせ)学問と正真とがありますと答えるのです。

「正真の学問は、私心を捨てて義理をもっぱらとし、自慢の心をおこさないように心がけることを工夫の眼目とすることであり、贋の学問は博学の誉れだけをもっぱらとし、自分より勝っている人をねたみ、自分の名を高くしようとたたひたすら文字だけを暗記ばかりする記誦詞章(きしょうししょう)の芸ばかりになって、心構えや行儀が悪くなり傲慢になっていく。自慢の心根は固くなり、人々。これは生きている虫ほどにも思わず、天下に我以上はないと、親や親方の愚痴な様子を軽蔑し笑いものに思い、主君を謗り盟友を嘲、正道を妨げているようになるのです。(101頁から102頁参照)

 正真の学問は私利私欲を捨てるために、義理を重んじるために学ぶのですが、ニセの学問は、暗記ばかりの物知りになっての出世のための私利私欲のために学ぶものです。

 弟子は、世間の学問をする人を見ると、さして学問による有益なしうるもなく、かえって気質は悪く異風になる人があるようです。結局は学問はしない方がましと存じますが、どんなものでしょうか。

 藤樹にとって、人間は徳を知り、道を行わなければ人面獣心ということになり、学問は人間第一の急務と答えるのです。しかし、それをよく知って教える人がまれであると藤樹は、次のように語っているのです。

 「人間に生まれて、徳を知り、道を行わなければ、人面獣心といって、形は人間であるが心は獣と同じで、至誠無息の神聖を失い、世俗の諺に「人の皮をかぶった犬」というようにたいへん浅ましいことであるから、学問は人間第一の急務であり、なさねばならないことであるけれども、正真の学問を知っていて教える人がまれだから、学ぶ人も少ない。世間でもてはやす学問は、多くは贋である。贋学問をすればなんの益もなく、かえって気質悪く異風になるものである」。(71頁参照)

 さらに贋(にせ)学問と正真の学問について、、天道の道にそって、その違いをのべていきます。「天道の神理に背いているのが贋学問である。俗儒は、儒道の四書・五経その他諸子百家の書物を残らず読覚え、文章を書き、詩を作り、口耳を飾り、利益に禄を求めるのみで、驕慢心の非常に深人です。彼は、訓詁や記憶してそらんじ、詩文を読むことをもっぱらとして、耳に聞き、口に説くばかりで、徳を知らないものです。

 これとは正反対の正真の学問は、明徳を明らかにすることを志の根本にしているのです。四書・五経の心の師とし、事に応じ物に接する実際の生活環境を砥石と考えて宝珠を磨くように明徳を磨き、四海を正し天下を安らかに治め、立派な事業を実施し、時勢にあわないで困窮するときは、ひとりその身を正しくして、己の心に具えた天理をつくし天命を信じて教えを実践することが、正真の学問です。72頁から73頁参照)。

 正真の学問をする人たちは、四書・五経を読んで覚えるだけではなく、実際の生活を砥石として、磨いていくということになるのです。実際の生活とかけ離れての四書・五経を自分自身の心を磨いていくことはないのです。ここには、藤樹の学問の姿勢が実際生活との関係で、物事を考えていく基本的な立場があるのです。

 ところで、弟子の質問で、世間の取沙汰に、武士に物読み坊主衆あるいは出家のすることで、武士のなすべきことではない。学問に熱心になりすぎた人は軟弱で武用には役にたたないなどといって、武士の中で学問する人があれば、かえって非難しております。

 このような誤りは、いかなる迷いから起ったのでしょうか。藤樹は、世間に贋の学問ばかりが盛んで、人々の心が汚れに染まっているからだとのべるのです。そして、正真の学問は武士に必要と強調するのです。

 「世間は贋の学問が盛んで、風俗が悪く人々の心が汚濁されています。書物を読むことばかりを学問と考える風潮です。心の汚れを清めるのが学問です。学問は武士のすることではないというのは、愚かなことで、迷いの中の迷いです。心が明らかで行儀正しく、文武を兼ね備えるように思案工夫することを正真の学問です。学問は武士がしなければならないことです。

 正真の学問は仁義の勇です。生まれつき勇気のあるものは、元来死を恐れずに物におびえない驚かないことは仁者の勇に似ているが、仁欲の迷いが深いから、明徳の良知が暗いので、不義無道の働きは畜生と同じで、生まれつき天から受けた仁徳を失うものである。生まれつき勇気のある者は、正真の儒学を努めて、その勇を仁義の勇となっていくのです。(96頁から99頁参照)

 施政の法度は厳しくしたのがよろしいでしょうかという弟子の質問に、藤樹は、主君の心が明らかで正しい道が実行されていれば、自然と人の心はよくなるもので、本来政治は、法度の個条が少なく、その時代相応の至善にかない、おおらかであることを大本とするものです。

 法治は厳しく厳しいほどみだれやすいものです。徳治と法治の区別をよく理解して、徳治は、まず自分の心を正しくして、人の心を正しくするものです。法治は、自分の心が正しくなくても、人の心を正しくしようとするものです。

 主君の心が明らかであれば、吟味は正しく法度も道理があるから、いつまでも変わらない。主君の心が暗ければ、万事に不吟味であるから、その法度もたびたび改められるのです。明徳さえ明らかになっていれば、時・所・位の分別、人事の務め、運命の定め、みな鏡に影を映すようなものです。(84頁から87頁参照)

 法度がかわらないことは、為政者の明徳が明るいことであり、学問をせずに明徳が暗ければ法度はたびたび変更されるとみているのです。明徳が明るければ、鏡のように分別、人事、運命がみえるというのです。法度が次々にかわっていくことは徳が乱れていること証であるのです。

 学問と政治とは別のことと考えておりますが、一つのものでありましょうかという弟子の質問に、正真の学問であれば、学問と政治は同一とあると、藤樹はのべるのです。 「学問は明徳を明らかにするのを全体の根本とする。明徳は、天地の有形のもの以外にも通じ、上もなく外もなく、神明にして測ることのできないものであり、天下国家を治める政治は明徳の神通妙用の要領であるから、いわば政治は明徳を明らかにする学問であり、学問は天下国家を治める政治でもある。天子・諸大名が自身行われる一事、あるいは口にされる一言でも、みな施策の根本であるから、政治と学問とは本来同一の理であることを、はっきりと納得しなければならない。(87頁参照)

 天下国家を治める政治は、明徳によって正しい施政が行われいくものです。ニセの学問ではなく、真正の学問によって、仁政という政治の根本姿勢が定められていくのです。

 ところで、学問を教える教師について、藤樹はのべるのです。「真儒の生業として、教官をするのは、教え方さえよければ、ありがたい真儒である。その心の持ちようと行いが道理にあわないのが俗儒のそしりを受けるのです。教官を生業とするのは、良いけれども教え方にあやまりがあるのかどうか知るべきです。(76頁参照)

 大学の道は、上は天子から下は一般庶民までの教えとして聞いております。愚かな下々の者は書物を読むことができません。どういたしましょうかという弟子の問いに、藤樹はのべるのです。

 「昔、聖人の御代には小さな村にも学校があった。そして、その村の奉行・代官がその先生となって、耕作の余暇に聖経を講釈し道を教えたので、愚かな下々の者まで書物の本意をよく理解したのである」。163頁

 聖人の御代では、小さな学校が村々に学校があり、奉行・代官が先生になって、農民たちに聖経を教えていたというのです。書物を読めない人々のために、講釈する学校があったということです。藤樹は、まさに聖人の御代のように小さな学校を琵琶湖のほとりの小川村で、わずかな生計を得る手段をもって、権力から自由な立場であるものが実践していたのです。小さな村々にも人間としての正しい生き方の学びの場があったということです。

 名誉や利益を目指して学問する人が何の役にもたたないということはもっともであります。しかし、それほど明利の汚れもなく道に志して学問する人が役に立たないばかりではなく、かえって心持や行儀が異風になっていくのかどういうわけでしょうか。

 この弟子の質問に、藤樹は答えます。「人の心というものは、知識ある者も愚かな者も、私心を種として発する自慢の心のないものは少ない。この慢心が明徳を暗くし、災いを招く曲者であって、万事の苦しみも大部分はこれから起こる。恩恭自虚(おんきょうじきょ)が、初学心法の第1義とするのです。この四字に法に則って慢心を除き捨ててしまえば、その学ぶところはすべて心を磨くことになって、明徳は日ごとに明らかになるものです。

 もし、この法によらないで慢心を除かなければ、学ぶところはみな慢心を助長することになり、明徳は日ごとに暗くなるものです。温和で恭々しく人にへり下り、自ら反省し独り慎み、人を恨まず人を軽蔑せず、人を手本として善をなすということです」。(162頁から163頁参照)。

 誰でも慢心という明徳を暗くする心があるものです。明徳を暗くすることは、苦しみの源になっていくものです。従って、だれでも常に学びが求められているというのです。

 藤樹は「親が子をいつくしみ愛するには道理や才芸を教えて、子の才徳を成就するのを根本」と考えています。苦労をいたわって、子の願いのままに育てるのを姑息の愛としています。牛が子牛をなめ愛して育てることと同じで、慈愛のようにみえるが、その子は気ままになって、才もなく徳もなく鳥や獣と同じようになってしまうので、結局は子を恨んで、悪い道に引き入れるのと同じです。親は、子どもに孝徳を教えることが大切であるとしているのです。

 「子どもの感情の願いのままに育てることは、決して親が子に対する慈愛ではなく、親が子を悪い道に引き入れていくのとおなじである」と藤樹は言うのです。

 「まず道を教えて、本心の孝徳を明らかにすることを教えの根本とするのです。才芸が衆人よりもすぐれ、めぐりあわせが非常によくて、人間として栄誉を得ても、その心がねじけていて本心の孝徳のないものは、天地・鬼神に恨み捨てられものであるのです」。心がねじけていて、孝徳のないものは、天からすてられるというのです。

 ところで、藤樹は幼少期の父母の教育は根本と考えるのです。「幼児の期間には教えないものと思っている人がいると思うが、教えるのは、口で言い教えることだけではない。根本になる教育は、口で教えるのではなく、わが身を立てて道を行って、自然に身についていくのです。言葉を覚えるように、幼い者の気質や身の持ちようも、父母・乳母などの気質や身持ちを見たり聞いたりしてなじんでいくものです」。

 幼少期の教育は、口で言いのではなく、父母自身の気質や態度を見たり聞いたりして身に着けていくものであるとしています。

 そして、孝徳の大意を教える8歳から9歳の重要性についても藤樹は次のようにのべます。「八歳から九歳にもなったときは、孝経の大意を説き聞かせて、才徳兼備の教えをもっぱらとして、愚鈍で才徳兼備を理解できないものは、義理をなんとなく語り聞かせて孝徳の本心を失わないようにして」。

 ところで、15歳になったときの教育について、藤樹は師匠と友人を選ぶ大切さを指摘し、生業の力量の重要性についてのべるのです。「15歳のころになったら、師匠と友人を選ぶことを教えの眼目として、生業は、それぞれの力量や性質に従い、またそれぞれ運命を考えて、生活の本来の道筋と士農工商の身分を考えて定めるべきとしているのです」。(63頁から64頁参照)

 このように、藤樹は子どもの発達の段階にそっての子育て、教育の重要な課題を指摘しているのです。幼児期の教育、8歳から9歳の孝徳の教育、15歳になったときの師匠や友人えらび、生業の力量をみにつけていく課題など、それぞれの成長段階に対応させて考えるようにしているのです。

 中江藤樹の思想では、孝が基本的な内容になります。その孝は、愛敬の二字に要約できるとしています。愛は人間的な感情の親しむということで、敬は、上の者を敬い、下の者を軽くみることではなく、侮らないようなものとしています。孝経は、この宝を学ぶ鏡になるというのです。

 人間の心の持ちようで至徳要道という孝経の宝がもつことができると藤樹は強調するのです。それは、上に天道に通じ、下は四海に明らかにするものです。そのことで、人間の交わり関係でそれぞれ和睦して、互いに憎しみ合うことも生まれないとしています。その宝は本当に求めたいものですが、あまりにも広大な道でわたしどもの分際ではとても到達はできそうもないと弟子は語ります。

 藤樹は本心さえあれば,その広大な宝を誰でも用いることができるとしているのです。衆生に教えを示すために、昔の聖人は孝と名称したというのです。孝は、親に仕えるということに考えると思っている人々がいるが、そうではなく、万世の人々の迷いを開くためで、広大深遠で、始めもなく終わりもない神明の道と藤樹は考えているのです。

 親を愛敬するのは、感通という天地の徳が働いて人間に通じることです。それを孝行の根本としています。臣下が二心なく主君を愛敬するのも忠と名づけ、親がよく教えて子どもを愛敬するのも慈といいます。弟が和順で愛敬するのも悌という。兄が善行を励まして弟を愛敬するのも恵とします。妻が正しく、節操を守って夫を愛敬するのを順となします。夫が義理を守って妻を愛敬するのも和としています。偽ることなく盟友を愛敬するのを信というのです。

 このように、身近な切実な愛敬の道徳であるから、どのような愚鈍な下々の男女でも、幼児でも、よく知りよく行うことができるとしています。そして、人間は天地の徳、万徳の霊であるから、人間の心と身には孝の実体が備わっているので、それによって身を立て、道を行うことを修養の工夫の要領としていると藤樹はみるのです。

 わが身は本来、父母から受けたものであるから、わが身は父母の身と同じと思い、父母の身は天地より受け、天地は太極より受けたものです。このことから、本来わが身は太極神明の分身ということで、それを失わないで、人倫に交わるということになるというのです。(54頁~55頁参照)

 まさに、人間は天地の太極から受けたという人倫の意識が大切だというのです。天道に通じて、四海を理解していくという人間としての仁義があるのです。人間の孝は、すべてにわたって、父母から朋友までの天地の徳、万徳の霊によって、行われるというのです。

 人間の千万の迷いは、みな私心からおこるというのです。私心がわがみ身をわがものとして思うことからおこるのです。孝は、その私心を破り捨てる主人公であるから、孝徳の本来の意味を悟らないときは、博学多才であっても真実の儒者ではないとしているのです(56頁参照)。

 藤樹は、人間のすべての迷いは、私心からおこるとして、私心の心を破り捨てることの大切を力説しているのです。

 私心を入れずということでは、主君が臣下を使ううえでの本質ということや、諸侯・家老の私心が世を乱していることをのべているのです。

 臣下をどのように使用するのがよいのかという弟子の質問に藤樹は公明博愛の心を基として、人を選ぶことの大切さを次のようにのべているのです。

 「賢知・愚不肖それぞれの分相応の人物を取得する場合、私心を入れず、道徳・才智のある賢人を高位につけ、施政万事の主な相談役とし、才徳のない愚人、不肖の人にも必ず得意なことがあるもので、その長所をよく見知って分相応の地位につけて使うならば、人間で役に立たぬ者はないものです。

 使い方が悪いから、よい者も役に立たぬと思うのです。主君の側が直接使ってこそ、その人柄も心がけもわかるのです。人づてに聞いているだけでは人物の良否はわからないのです。出頭人のとりなしでだけでは聞き知る程度にすぎない。心の暗い主君は、どれほど良い士を集め来ても、それを用いる主君が暗ければ曲者で出世しようという士を使うことになるというのです」。(83頁から84頁参照)

 自分で直接会って、そして使って人物の良否をみることの大切さを藤樹は指摘するのです。その際に、使うもの自身が明徳が暗ければよくみることができないとしているのです。

 藤樹は、君主が人を使ううえで、大切な道理は、仁と礼の心をもつことと、人はみな天のもとに、みな骨肉同朋で、兄弟ということの気持ちをもつということを強調しているのです。

 「君主は、仁と礼をもって臣下を使うのが道理です。仁は義理に従って人を愛することで、礼はそれぞれの位の道理にしたがって、人を敬い、侮らないことです。万民はすべて天地の子です。われわれ人も人間の形をしている者はみな兄弟です。生まれつきの厚薄・高下によって主君となり、臣下となっても、元来は骨肉同朋の道理であるから、扶持のないものも憎み悔いるべきことではない。まして、扶持している者は、本当に、情を深くし、礼儀正しくする道理があるというのです」。(65頁から66頁参照)

 使うもの自身が明徳が明らかで、人を敬い、侮らないということで、すべてが、天のもとにあるという姿勢が持てるかどうか大切というのです。そのような関係になれば、骨肉同胞の感情が生まれてくるというのです。みな天の子として、等しく平等にみて、扱うことが上にたつ人は重要であるというのです。まさに、為政者の在り方を説いているのです。 

 また、愚痴・不肖のように才能のすぐれていない者でも良知良能があるというのです。天の子として、人間みな平等ということから、愚痴や不肖の者も良知良能を失わなければ善人の仲間というのです。愚痴や不肖という人間の能力面から悪人とすべき理由はないというのです。

 藤樹は、才ある者も才ないものも、知ある者も、知なき者、形や気の邪欲に溺れ、本心の良知を失う者は、すべて悪人ということで、人間のもつ私欲の問題を基本にして善悪を語っているのです。(92頁参照)

 ところで、諸侯や家老の第一の悪い欠点はどこにあるのかという弟子の質問に藤樹は、私心にあると答えるのです。「私心の人はきままであります。気ままの人は必ず他人の意見を聞き入れず、世間の非難も顧みず、自分の心まかせに偏って、自分の好むことは悪いことでも善いことと取りなすことです。

 また、夜も昼もあけぬように好みふけり、自分の好まぬことは善いことでも誹謗して、けなして取り上げず、性の合う者は小人倭人でも近づけて親しみ、功績もないのに知行を加増し、罪があるのに刑罰を課さず、性が合わなければ長い間の功績・忠節の者をおろそかにして近づけず、功があっても賞を与えず、罪もないのに刑罰を加えるという不義無道の作法や仕置きが行われるのです。これらは、みな諸侯や家老の私心の根底から起こるというのです」。(112頁参照)

 人を治める立場の諸侯は、私心の怖さを藤樹は語り、国が乱れ、国を滅ぼしていく道として、私心の慎みをのべているのです。そして、諫言の重要性を指摘しているのです。

 「諸侯の第一の心得として、謙の一字をあげているのです。それは、諫言をよく聞き入れて、自分の高い位におごり、自慢する魔の心を断ち切って、義理の本心を保ち、万民を軽蔑せずに、慈悲深くすることです。諸士には無礼をしないように、家老や出頭人の諫言をよく聞き入れて自分の知恵をさきに立てず、善を好むこと、悪を憎むことは謙というのです」。(112頁から113頁)

 ここでは諫言ということを藤樹は、国を治めていくものが、私心を抑制して大切をのべているのです。

 諫言は、儒学によって、為政者の私心、私欲を取り除き、国を治めていくうえ大切なことであることとして、それを体制的に保障していくしくみを中国の歴史ではつくってきたのです。

 つまり、王によって機能しないこともあったが、諫言を保障していく諫官の制度がつくられていたのです。唐の太宗の時代の諫官は、毎月200枚の用紙を支給されて、それを用いて諫言を書いたのです。そこでは、諫院という庁舎が整備されていたのです。太宗の時代には、諫言が大いに機能して仁政と太平の世が充実していったのです。

 唐の太宗が中国歴史の名君からまとめた「貞観政要」がありますが、そこでは、臣下の諫言に耳を傾けることが帝王学で大切としています。太宗は熱心に臣下からの諫言に耳を傾けた君主であった。「部下の諫言には喜んで耳を傾けるがよい。部下の意見が自分の意見と違っているからといって咎めだてをしてはならぬ。部下の諫言を受け入れない者が、どうして上の者を諫言することができよう」。(守屋洋貞観提要」現代日本語訳、プレジデント社、97頁)。

 日本の武士道の世界でも佐賀藩士の山本常朝が書「葉隠」での武士道の真髄を1659年にかいたが、そのなかで、諫言の重要性を指摘しているのです。

 「すべての諫言や意見は、和の道であり、じっくり話し合わなければ用をなさないものだ。堅苦しく改まった言葉遣いなどでは、角を突き合わせて形になって、簡単なことでも直せぬことになる。主人を諫言するにもいろいろややり方がある。真心から諫言しようというのであれば、周囲に気づかれないようにすることだ。ご主人の気持ちに逆らわぬようにして、よくないことをお直しするのである。

 ・・・諫言する場合にも、もし自分がしかるべき地位にいなかったならば、その地位の人に言ってもらって、主君の間違いが直るようにするのが大忠というものだ。このつてを得るために、諸人と親しく付きへつらうということになる。それを自分のために利用すればへつらうということになる。自分でお家を背負って立つという真心からすればできることである」。(奈良本辰也訳編「葉隠三笠書房、118頁から119頁参照)

 1715年に出版された室鳩巣「名君家訓」にも絶対的服従ではなく、誤りについては、正していく詮議し、諫言を用いて、学問の大切さが述べられていたのです。

 「古の聖賢の君さえ群臣の諫めを求め、生まれつき不肖にして、君たる道にたがい、各々の心にそむかん事を朝夕おそれいり、その身の行い、領国の政、諸事大小によらず、少しもよろしからぬ。生まれつき不肖の悪事を強く諫めれば、不快の顔色をもつ。かさねて申し懲りるようにいたし、その分随分嗜むようになります。

 終始の心底は、弓矢をもって申すどおり。おのれの悪事を人にかくし間、何事によらず、機嫌をはからず諫言を行うことです。威勢をつのり、才智にほこりがあると諫言を用いず、賞罰をしなければ、賢臣を遠ざけ、佞臣を近づけさせることになります。

 それは、文道疎くなり、武備をわすれ、家臣百姓にいたるまで憐れに思うようになる。無用の器物をもてあそび、金銀を費やし、作事を好むのでは、人たる道の力を破ることになります。

 武士の風俗、質直朴素の気味すくなく、外見かざり、身を豊かに持ちなし、下のものに対しては高位な姿勢をとることがあります。これらは、武士の作法にかなうことではなく、武士の本心は、形をつくろい、身をかざる心ではない。平生の行い考えて、善悪を定るのは、家老、頭分の役である。えこひいきは、武士の仕儀にはない。万一左様なことがあれば、詮議を行うべきです。

 武士は、書を読み、古の聖賢御言葉を種として 、心身の工夫をするのであれば、小学、四書、近思録のたぐいを熟読いたし、余力あれば五経などにも及び、その義理を尋ね、一字一句も今日の上にひきうけて、ことごとく修行のためにいたし、真の学問をすべきものです。

 武士は節義のたしなみをもって、口に偽りをせずに、身に私をかまえ鉄石をもって義理を重んじるというのです。そして、温和慈愛にして、物のあわれをしり、人に情けをかけるものです。(「名君家訓」近世武家思想・日本思想体系、岩波書店、68頁から83頁参照)。

 藤樹に、弟子からの武士の人調べはどのようにするものかという問いがあります。世間の諸大名では、諸士を召し抱えるのに、定まった作法があるとは見えない。ただよいひいき、つてのあるものが良い武士とあつかわれ、高い知行を取るように思いますが、いかがでしょうか。

 藤樹は答えます。「主君は人物を吟味して、良い武士をかかえたいと考えても、世間一般の風俗が悪く吟味の方法も明白でないため、不本意にも不吟味になっていくのです。根本的に、武士の品位に上・中・下の三段階があります。

 明徳が十分に明らかで明利私欲の思いがなく、仁義の大勇があって文武を兼ね備えている人を上とするのです。明徳は十分ではないが、財宝利欲の迷いがなく、功名節義を身に代えても守る人を中とします。外見だけは義理だてをしますが、心の中は財宝利欲を考え立身のことばかりをむさぼるのを下とするのです。この下品の曲者が大勢栄えているようにみえるのです。主君たるは用心せねばならぬことです。

 諸子の吟味には三つの要点があります。徳と才と功です。徳は文武合一の明徳です。才能とは、天下国家の万事をとり行う文芸・武芸に関する才智・芸能のことです。功は、あついは天下国家の施政の実績です。あるいは奔走する功です。天下国家の危機をはらい、天下国家のためになることを初めて造り出したたり、大敵を滅ぼし成功をたてるなど、みな功です」。(82頁から83頁参照)

 藤樹は武士の品格には、上中下と三段階があると考えています。そして、多くは、下の段階で、多くは、外見だけは義理だてするが、財と利欲、立身のことばかり考えていると言っているのです。この現実を考えて家臣を冷静にみていくことが必要としています。ここには、家臣たちの常日頃の品格を高めていく学びが求められているのです。

 武士道を吟味するには心学があるのです。真の武士道は、忠孝と藤樹はのべていますが、弟子は、世間での武士道は武のたしなみばかりを考えています。明徳を明らかにして仁義を行うのは、昔からまれであると思っています。昔も今も国も治まっていますので、難しい心学などいらないのではないでしょうか。

 この質問に藤樹は、そうではないと答えます。「明徳仁義は人間の本心の別名で、生命の根であるから、生きとし生ける人間で明徳仁義の心のない者は一人もいない。これを学ぶのが心学です。武篇は忠孝の一種です。忠孝の心が真実であれば武篇は強いものになります。仁義の道を捨てて武士道も立ち、世が治まったなどということはない。欲のために働く勇は、謀反人や盗人であって、武篇ではない。何の吟味もなく猛々しく腕自慢をして人を殺すのは浅ましい嘆かわしいことです」。

 このように、武篇にも仁義が必要であるとのべるのです。それがなければ、人を殺すことを武として自慢するようになるからです。それでは、仁義の道を外れて、世が治まることはないのです。戦場での軍の戦略においても明徳が求められることになるのです。

 ところで、藤樹は、庶民の孝についてのべています。「庶民は、農工商の仕事をしている人たちで仕事を勤めて怠らず、財穀を貯え、むだに消費せず、身の行い、心構えよく慎み、公儀をおそれて法度に背かず、わが身の利や妻子のことを第二として、父母の衣服・食物を第一に念を入れ、心力をつくすこととしています」。

 「庶民は、財産が乏しいので、十分に心を使うことをしなければ衣服や食料が足りないのであるから、庶民にだけ父母の養いを説いたのです。親を愛敬するばかりではなく、それぞれの生業の仕事に精を入れることが親に対する孝行の本当の意味になるというのです」。(58頁から59頁)

 庶民は生業の仕事に精を入れることも孝行にとって大切としているのです。父母への孝行も、財がなければできないということです。つまり、愛敬ということばかりではなく、年老いた父母を養っていくことができなければ孝行にならないとしているのです。

「父母は慈愛の心を持って、苦労を積んで子の身を養い育てたのであるから、人の子の一身、一筋の毛までも父母の千辛万苦の厚恩でないものはない。父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深い。あまりにも広大無類の恩であるので、本心の暗い凡夫は、それに報いることを忘れ、かえって恩があるともないとも思わないようです。恩に報いるように思うのは孝徳の本心があるからです。それを忘れてしまうのは、人欲の雲に覆われ、明徳という日の光が暗くなり、心の闇に迷うゆえです」。(61頁参照)

 このように、藤樹は、父母の恩に対する報いとしての親孝行の大切を強調するのでした。親孝行を考えていくうえで、父母の人間的な慈愛に対する恩に報いるということで、それは、父子関係を基本にしたことでは決してないのです。

 とくに、我が子に対する強い慈愛をもって、育てる母親に対する恩の感情と、父親との関係もあるのです。民の父母たちは、我が子を、苦労を積んで養い育てたのです。家父長的な家族関係での親孝行ということではないのです。家父長的な親孝行の概念が、家族国家観に結んでいった戦前の反省のうえに、父母に対する親孝行を人間学の普遍的道徳から考えていくことが必要なのです。

 ところで、盟友の信としての孝について、藤樹は大切にしているのです。同郷、隣同士、同じ役目、同じ職場、一度あった人でも志で通じ合うことがあります。盟友とは互いに偽りがなく義理にかなう、信をもって交際する道のことです。お互いに志が同じで交わり親しくしていくことを心友という。

 同郷、隣同士、同じ職場、同じ役目をもって交わるのを面友という。善悪の分別もなく自分の心のなかで真実に思い入れて交流をしているのを信とおもっているのは大きな誤りで、真実に思い入れたことでも道に背いていれば、人欲の偽りということであります。盟友たるは、自分も人もみな真実無妄の天道を父母として生まれたものであって、その外形は他人であるが、道理の側からみれば同胞であるから、真実にして妄りなき信の道を守って、骨肉の感情を持つ(69頁参照)。このように藤樹は盟友に、仁徳の義理、骨肉の感情ももつことであるとのべるのです。

 盟友の信としての孝の関係を広く作り上げていくことは、現代社会の弱肉強食のなかで、無縁社会現象や平気で目先の自己利益のために、人間としての仁義が失われがちななかで、大切な課題です。信とは単に絶対的に相手を信じるという関係ではなく、人をあざむかいということで、約束したこと、自分の言ったことに、誠実に責任をもっていく人間関係なのです。

 信用していく、信頼していく人間関係としての盟友としての孝になっていくのです。この意味で、心友という関係ことが大事にされるのです。面友という同郷、隣同士、同じ職場、同じ役目という関係は、幅のもった広い人格形成にとって大切なことです。弱肉競争社会と分業化の極端な進展のなかで、孤立が進み、仕事も一人で行う場面も増えているなかで、面友を増やしていくことは大切です。

 面友は、強い絆をつくりあげていくうえでの共同の活動、仕事などで大いに力を発揮していくことがあるのです。創造的なこと、持続的に課題を探求していくこと、困難性をともなった中では、目的意識性をもった心友の関係への発展が必要になってくるのです。盟友には、心友という孝の関係が基本であるのです。盟友信の大切さは、地域や国を太平で平穏に楽しく豊かに治めていくうえで大切な人々の輪づくりであるいえるのです。

二宮尊徳の農村再興実践とその思想

 二宮尊徳の農村再興実践とその思想

 

二宮尊徳の生い立ちと思想の特徴

 

 二宮尊徳は、江戸の末期に生きた荒廃する農村再建を分度・推譲、至誠・勤労、一円融合の理念の基で、小田原藩主の大久保忠真や幕府老中の水野忠邦の命の庇護で実践したのです。しかし、実際の実践過程では、辞職願を出すほど、周りからのいやがらせなどの多くの困難を伴ったものであった。

 藩主から命を受けた小田原藩の分家である桜町領の三ケ村の尊徳の農村再建は、1822年からはじまったものです。約10年の年月をかけて、1837年の引き渡しで終わるのです。

 そして、1838年小田原藩一円の仕法が命ぜられますが、1846年に報徳仕法は中止となります。それだけではなく、尊徳との領民往来も禁止となるのです。彼の育った小田原藩の農村再建の実践は、挫折しているのです。

 尊徳が江戸時代の封建社会の厳しい上下の違いがあるなかで、社会的に身分の低い農民のために、農村再興に努力することと、身分の上の武士や豪商たちの自己利益、立身出世しようとする矛盾のなかでの苦しみであったのです。小田原藩主忠真による名君の支えによって、尊徳の桜町領の農村再建が可能であったのですが、小田原藩主忠真という名君の逝去によって、後ろ盾がいなくなったのです。

 江戸時代の末に、二宮尊徳が荒れた農村を再建できた村々は、そこを治める領主の仁政の姿勢が大きくあることを見逃してはならないのです。つまり、尊徳の荒れた農村の再興哲学が理解する為政者の位置を理解することが必要なのです。尊徳は為政者の民に対する仁政と農民たちの自立していく努力を分度と推譲をもって、農村再興の仕法をもって、諭したのです。

 また、現代の新自由主義的にいわれる競争の原理の努力ではなく、至誠と一円融合ということで、地域の人々が理解し、まとまって、一致協力していくことです。ここには、現代的に考えられる地域づくりと人育てという社会教育活動があるのです。

 尊徳の生きた時代は相次ぐ飢饉、大洪水や凶作などの自然災害、格差の拡大が進んでいく時期であり、私利私欲による為政者や豪商の不正もはびこっていたのです。また、為政者としての支配階級になる武士社会では、自己の出世ということや保身が支配していたのです。そして、農民一揆は、頻繁に起き、大阪では米の買い占めで暴利を得ていた豪商に対して、大塩平八郎の乱もあったのです。

 さらに、同じ関東の利根川下流筋の村で、大原幽学のように、窮乏する農村の生活を支えるために、協同組織の先祖株組合の創設などがあった。かれは、農業技術の指導、耕地整理、質素倹約の奨励、博打の禁止などの指導をしました。そして、教育にも特に、力をいれました。

 しかし、領主による復興の賞賛、領内の村々の模範の触れが、反感を持つ勢力の教導所の改心楼乱入になった。大原幽学は、勘定奉行に取り調べられて、改心楼の棄却、先祖株組合の解散になった。訴訟の疲労と荒廃を嘆き、墓地で切腹したのです。大塩平八郎と大原幽学は二宮尊徳と同時代の人です。

 二宮尊徳(金次郎)は、1787年神奈川県小田原の栢山で農家の長男として生まれた。1856年に数々の窮乏する農村再建を果たして、70歳で亡くなっています。金次郎は、14歳のときに、父親を失い、二人の弟をかかえて、極貧のなかで必死に母親を助けましたが、二年後の16歳の時に母親も失いました。

 また、金次郎が5歳のときに、近くの酒匂川の洪水で数ケ村が大被害をうけるのでした。金次郎の家の田畑もほとんど残らず流出したのです。もともと村のなかでは、裕福で学問の気風もあった家で、金次郎が5歳のときから孟子素読を受け始めていたのです。

 この水害によって、金次郎の家庭は極貧になるのです。この極貧のなかでも学問の大切さを金次郎は肌で感じていたのです。家の手伝いをしているときでも書物を読むことを忘れませんでした。

 朝早く起きて山に柴刈りに、薪をつくって、これを売って、夜は縄から草履をつくったりして生計をたてたりしていましたが、そこでも本を読むことをやめなかったのです。山への行き帰りが読書の時間であったのです。

 薪を背負って本を読んでいる姿は金次郎の少年時代であったのです。二宮金次郎は、親を失い少年時代の苦難な生活のなかで、学問を忘れずに、一生懸命に家を建て直す志をもって、働いたことが、至誠と勤労の人格をつくりあげていったのです。

 この姿は、近代日本の小学校の校庭での銅像になったのです。近代化を進めていく日本は、絶対主義国家・軍国主義や大企業に忠実な人材養成のために、忠君愛国、勤勉・倹約・質素な生活を求めたのです。民の怠惰を起こさないためにと、滅私奉公思想が大きな教育課題として、教育者に強制した。国家主義教育勅語教育も、二宮尊徳が利用されたのです。

 このことは、決して、二宮尊徳の分度・推譲、至誠・勤労、一円融合の思想、経済と道徳の融合を否定されるべきものではないのです。現代社会は、私利私欲と不正が、新自由主義による弱肉強食の競争主義が蔓延しているのです。このなかで、経済と道徳の関係、公正や共生、社会的貢献が鋭く問われているのです。

 ここには、戦後憲法の日本の民主主義を基本にすえての、民の暮らしを第一に、仁政ということから、二宮尊徳の思想をあらためて見直していく課題があるのです。

二宮尊徳が実践した貧困農民から豊かな暮らしのための農村再建は、その後において、各地の農村に伝わっていった。しかし、それが国家的なレベルでは、農民の暮らしを豊かにしていうということが第一ではなく、国家の富国強兵策の経済優先主義に利用されたのです。

 それは、滅私奉公的な質素・勤勉によって国家や大企業に積極的に奉仕していく思想の転化でした。そして、現代での新自由主義の国際競争力社会のなかでは、自己責任論を根底においた公的責任放棄の自立・勤勉、日本的成功哲学というように二宮尊徳の再評価が行われているのです。

 二宮尊徳は、農業という人の営みによって、自然からの恩恵を大切にして、富を開発していくという見方です。一貫して農民の豊かな生活を求めての農村振興であったのです。決して、藩・領主が上位でなはないのです。分度ということでは、贅沢を控えていくということで、領主や武士としての家臣を第一に述べているのです。農民の分度を第一に考える見方ではないのです。仁政が行われていないことが、農民を怠惰にしていったという見方です。

 尊徳の考える農村振興で、大切なことは、農民の暮らしが豊かにすることが最も大切なことなのです。このことによって、自然からの恩恵の農業に、民が喜びをもって働けるのです。そして、藩全体が豊かになって、財政も健全になっていくという考えです。

 社会的・人間的な関係を上下という縦の関係ではなく、上下は交流し、相互に扶助することです。田徳がなければ人倫がないと、田があるから、はじめて生命を育成することが出来、田畑の恩恵があって、はじめて君主は君主たることができるのです。田畑の恩恵があるからこそ、民衆は民衆としての務めが果たせ、財宝は財宝としての価値を示すことが出来るのです。(三才報徳金毛禄・田徳が人倫を扶助する解)。

 一円融合ということで、それぞれの役割を大切に尊徳は見ています。とくに、二宮尊徳が生きていた時代は、封建社会で領主やそれに仕える武士の権限が大きな位置を占めていました。かれらの意志によって、大きく農村振興計画が左右されていく時代です。名君であれば、知恵を出し合って、農村の再建に立てるのですが、自己の地位安泰・出世欲、私利私欲の家臣団の状況では、ますます苦境になっていくのです。

 現代でも、民の暮らしを豊かに、平和になっていくうえで、上にたつリーダーの役割は大きな意味をもっているのです。成功哲学という個人の立身出世的なことをあおり、巨大に社会的な財が膨らんでいる中で、公的役割を軽視していく民営最優先の新自由主義の立場での自立自興とは違うのです。ここでは、巨大な財を支配するところの私利私欲になっていくのです。

 農村の振興は、上からの押し付けではなく、農民自身の自立心からということです。優れた農民には、農民自身の投票によって決めていくということです。ここには、農民自身の自発的意思を尊重して、相互に信頼して、励まし合っていく方法ととったのです。決して、型にはまった上からの儒教的な忠君愛国的な倫理によって表彰していくものではなかったのです。

 尊徳の方法は、現実の農民生活実態や意識の把握からの分度・推譲という農村振興計画の実施です。そして、思想的には、天地の和合という人間と自然環境を実践的に統一していく体験的な科学的方法を駆使した見方です。

 

 尊徳の自己の家の再興と小田原藩の家老の服部家の家計の正常化の援助

 

 金次郎は16歳のときに母を失って、みなし子になり、叔父の家にあずけられます。叔父の家業手伝いをして、夜になると勉強に励んだのです。しかし、叔父は、燈油を使っているとは恩知らず、学問などする立場ではないとしかられるのです。

 このために自分で燈油を買うために、作物が育たない川べりの土地に油種をまいて、7,8升の菜種を収穫した。それを町に行って売りさばいて燈油を買ってきて、夜に勉強したのです。それでも、叔父は学問の必要性を認めなかったのです。勉強する時間があれば、縄をない、むしろを織れと家事を強要するのでした。それで、隠れるようにして勉強したのです。衣類でおおって、外に光がもれないようにして、読書をするのでした。

 このことは、金次郎の学問をしたいという強い意志があったことがわかるのです。これは、金次郎の様々な物事を知りたいという好奇心の強い欲望があったからです。父親の影響もあったのではないかと考えられます。金次郎は、少年期において、極貧な家庭の経済状況で、きちんとした学問をする機会がなかったのです。

 洪水によって、不要になった土地を休日に開墾し、村人が棄てた苗を拾い集めました。それを植え付けると一俵ほどとれたのです。この一俵を種にして、倍に収穫しようと計画を立てるのです。最初は、何も持たない貧しい境遇のなかで、できることはないかと必死に考え抜いて実践したのです。洪水になって、荒廃している土地の開墾と、棄てられた苗を拾って、稲をつくったのです。金次郎は、汗水流して働いて、お金をつくったのです。

 また、20歳のときに、誰も住んでいない置屋があるということで、その家を自分で修理して、一人住まいを始めるのです。最初は何もなかった財産でしたが、世間では、価値のないというものを、工夫して有効に使って、必死に働くのでした。これらの努力によって、所有田畑一町四反四畝の農家になるのです。すべて小さいことを積み重ねれば大きくなる。これは自然の道理だ。

 この道理によって、父祖の家を興したというのです。積小為大(小を積んで大を為す)という思想です。この体験は、後の尊徳による荒れた農村再建していく至誠と勤労によって村を再建していく原点になっていくのです。

 ここには、尊徳の勤労精神があるのです。努力することは、単に汗水流して、働くというばかりではなく、誠を尽くす心をもって、考え抜き、工夫していくということで、創造的な自由意志にもとづく仕事であることを見落としてはならないのです。

 現代的に、勤労の精神を考えていくうえで、国民的な合意は、日本国憲法第二十七条です。すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。児童は、これを酷使してはならない。労働基準法5条で、自由意思に基づく労働を保障しているのです。これは、強制的な労働を禁止して、創造的な自発的意志を尊重しての勤労精神という意味なのです。

 26歳のときに、三年間、小田原藩家老の服部家の若党(奉公人)になるのです。これは、服部家に3人の男子が学問を好むということで、学べる機会が持てるということであったのです。

 服部家に勤めているときに五常講という金に困っている用人や下男・下女に貸す組織をつくったのです。平素から余分の生じた金を金次郎が一括して預かり、仁義礼智信という5常の精神で、金に困っている下男・下女に貸すというしくみです。5常の心によって、百両の金が万両も動かすことができるという理念からです。

 ある女中の一人が借用を頼んできましたが、返すあてがない。どうしたらよいのかということでした。尊徳は女中に、5本の薪で焚いている現状から、3本の薪で工夫して、主人に残りの2本を買い上げてもらい、それで支払いなさいということです。3本で焚く方法は、鍋炭をおとすこと、木の煙をださないように工夫すること、鍋底にあたるように焚き、消炭も上手に使うことを教えたのです。

 尊徳は、29歳の年の2月に、自分の農家に帰り、5反ほど買い入れて、田畑は、1町9反2畝になるのです。そして、31歳のときに結婚します。その結婚がすぐに破綻するのでした。

 29歳のときの12月に服部家の奉公から帰ってきた12月に、服部家に家計の立て直しの仕法の起草をしたのです。そのときの服部家は、俸禄千石で千両の借金をかかえていたのです。

 当初、服部家からの家計の立て直しの依頼に、金次郎は、農民として農事に精をだして、なすべきことをしての家の立て直しができたということで、武士としての家計ではないというのです。服部家の膨大な借金をつくった原因は、武士の家を治める道を誤ったところになるのではないか。武士の家を建て直すことなど農民が到底できないと断ったのです。

 服部家の当主は、金次郎の賢明さを察して、ひたすら信義をつくして再三依頼してきたのです。武士の意地を捨てて、依頼されているので、断り切れずに承諾するのでした。金次郎の立て直しの仕法に一切、口出しをしないということが条件でした。

 引き受ける条件は、尊徳のすることに一切、まかせるということで、ほんのわずかでも口を出すなということでした。食事は飯と汁にかぎること、衣類は木綿にかぎること、不必要なことは好まないという3ケ条を守るということであった。

 服部家の家計再建仕法に集中したことから、家を離れて、あまりよりつかずの夫に、妻は、愛想をつかして、実家に帰ってしまうのです。翌年の33歳のときに、生まれたばかりの長男が死亡して、離婚したのです。

 服部家の家計立て直し完了の年に、34歳(1820年)で再婚します。服部家で働いていた女中の娘との結婚です。このときの田畑の所有は、3町8反となっています。すでに、当時としては、上層の農家になっているのです。

 服部家の家計の立て直しの仕法は、4年間で、千両の借金はすべて、返済して、三百両が残ったのです。服部家の家計の再建仕法は、借金千両という家計を赤字にしている原因を反省することからはじめるということでした。

 そして、金次郎は収入を見積り、分に相応した支出を差し引いて、収支があうような予算をつくり、無用の雑費をはぶいて1年間に要する費用を定めたのです。徹底した家計の緊縮財政計画です。借主を呼んで実状を説明して、5年間で弁済することを約束したのです。

 5年間の計画目的を達成し、服部家の千両の借金は返済するのでした。残った3百両は、尊徳の家計をまかせられた最後の意思として、服部家の非常のときの備えのために百両でした。5年間家事をなげうって、服部家の危急を救って、末永い安泰をもたらした奥様のご褒美として百両であった。そして、5年間のあいだに苦労して借金返済のために苦労した下男・下女の協力の努力に百両と使ったのです。(児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの報徳記、65頁~69頁参照、奈良本信也「二宮尊徳岩波新書、49頁~55頁参照)

 尊徳は服部家の家計再建の仕法を行っているときに、自分が奉公人のときにやっていた五常講を本格的に立ち上げていくのです。藩主から千両を年8分で借入れ、服部家の四百五十九両を、そのうちから払って、残りを家臣や用心たちに貸し付けたのです。低利であるが、藩主よりの借用利子より高いのです。それが利益を生んで借金返済の一部に充てられるのです。奈良本達也「二宮尊徳の人と思想」日本思想体系、二宮尊徳・大原幽学、岩波書店、411頁より

 服部家の家計再建お仕法は、守田志朗「二宮尊徳」朝日選書によれば、家老の服部十郎兵衛が理財計画の3年目に江戸詰で出費が重なり、借金の減少効果はあがっていないと指摘しています。当初利息を合わせて240両ほどあった借金が270両から360両へと1年ごとにふえてしまったということです。守田志朗「二宮尊徳」朝日選書110頁参照。

 松沢成分「教養としての知っておきたい二宮尊徳」では、「武家社会とは、尊徳の仕法が通用しにくいしゃかいなのである。事実、尊徳は完全な立て直しができないまま服部家を離れることになり、その後も細々と尊徳の示した仕法を続けた服部家が借金を完済するには、さらに30年を待たななければならなかった」。47頁から48頁参照

 5年間で借金を返済して、300両を残したというのは、報徳記からです。それぞれの資料の出所が異なり、その違いの分析も必要です。とくに、5年間で謝金をしたことと、30年間かかったということは、大きな違いであり、尊徳の仕法の実績を評価していくうえでも欠かせないことです。

 服部家の立て直しの期間や評価にとっては、尊徳研究をする人たちに、異なるところがありますが、服部家の立て直しの実践の体験は、尊徳の分度・推譲の思想の形成に大きな糧になったのです。

 

 小田原藩分家の桜町領の荒廃した三ケ村の再建

 

 小田原藩主の大久保忠真は、幕府の老中職にあって、悪い風習を正して、天下万民のために尽くしたいということから、傑出した才能をもった人物を抜擢したいということでした。二宮尊徳の評判を聞いて、藩政に参画させたいということで、家臣に相談するが、平民を藩政に参画させるということは、世間が納得すまいということで、家臣からの了解を得ることができなかったのです。

 そこで、分家の桜町領の荒れた三ケ村の再建にと二宮尊徳に仕法を命ずる策にでるのです。この分家の3ケ村領地は4千石の知行であった。元禄年間は、450戸であったが、文政年間には、わずか140戸から150戸と激減しているのです。年貢も4000俵を収納していたが、文政年間は、800俵に減っていたのです。

 分家の宇津家の窮乏は甚だしく、本家の援助によって、かろうじて維持していたのです。分家の桜町領の復興に、小田原の本家から今まで、何千両を出して、復興の仕法をさぐったが、ひとたび現地におもむくと、口先巧みでよこしまな人びとにだまされて、どう対処したらよいのかわからず、他の領地に逃走し、あるいは、その土地を追われて、小田原に帰り、罰せられたものが、数人におよんでいるのです。

 本家の領主の大久保忠真は、二宮尊徳ならば、必ず成功すると考えたのです。身分の差を考慮せずに、賢人を抜擢することができない小田原藩の状況でした。家臣が困り抜いた土地を再興すれば、本家の小田原藩の農村振興の仕法の仕事に、家臣たちは反対しないとふんだのです。藩主の依頼に、当初3年間も、断っていたのです。

 尊徳は、身分の低い卑しい者が、どうして分家の桜町領を再興することができようかということでした。二宮金次郎は、分家の再興という大事業がどうして、農家に生まれた人間が国を興し、民心を安らかにする大道をすることができようかということでした。我が身のおろかさを反省して、殿様のご命令をお受けすることができないということでした。

 しかし、藩主から尊徳のところに、何度も使いのものがくるのであった。尊徳は、再建が可能であるかどうか、土地の人びとの荒廃の原因が何であるのかを確かめてから殿の命令を受けることにしたのです。桜町領の実体調査を小田原藩主は尊徳に命令するのでした。

 1821年の文政4年で、尊徳35歳のときです。一軒一軒訪れては、その貧富を視察し、田や野にでかけは、その土地の様子を調べて、それぞれの村人の勤勉や怠惰を観察したのです。そして、水利の難易を計り、古い時代の様子を探り、近年の風俗を観て、再建が可能であるのかを確かめたのです。

 尊徳は小田原の殿様に、仁術をもって事に対処して、古くからのしみこんだ悪いならわしを改革し、もって農業に励むように指導すれば荒廃した村を再建することができるとしたのです。それには、仁政が行われることであると強調するのです。

報徳記では、荒廃した農村を再建させるに、農民自身の自立の力を高めることを次のようにのべるのです。荒廃した土地を開墾するには、土地自体の力をもって、貧しい者を救うのです。決して、お金を配るものはありません。村の者の名主や百姓は、殿様からのお金に心が奪われ、このお金を手にいれようと非難の争いが起きるのです。

 4千石の知行は、名ばかりで、現実に年貢を納入した8百俵を再建までの禄高として、はじめるのです。桜町領は、3ケ村の土地は荒廃しており、2反を1反と考えて、宇津家の俸禄は4千石ではなく、2千石として再建計画をたてるべきだと提言するのです。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの報徳記、72頁~75頁参照

 1822年に、小田原藩主は、桜町領の再建開発の命を尊徳に出すのです。尊徳は、36歳のときです。尊徳の待遇は、待遇名主格5石2人扶持です。この年の9月に、桜町に到着するのです。

 翌年の37歳のときに、翌年1823年3月に家・田畑・道具を売り払い、妻子を連れて桜町に行くのです。このときに、桜町に定住して、荒廃した桜町領の再建を、強い意志をもって決意するのでした。

 3ケ村の荒廃した3ケ村の復興の計画を具体的に練り始めるのでした。一軒ごとに訪問して、明けから日暮れまで歩き、村民の艱難・善悪を察して、農業に精をいれているのか、いれていないかをそれぞれをみきわめることを重視したのです。そして、田畑の境界、土地の荒廃した土地の広さなどを調べ、地味・水利を考えたのです。

 このなかで、善人を賞して、悪人を諭しと善に導き、貧民の保護と育成をした。また、用水を掘り、冷たい水を除き、勧農の道をすすめたのです。さらに、具体的に、荒廃した土地の開墾の努力、方策を実施していったのです。この年に、桜町領の農民に対して、投票によって、耕作努力の表彰をした。借金のない農家は特別に表彰されたのです。

 しかし、荒廃した農村の復興を進めようとする尊徳の行動に、多くの妨害があったことも、同時に起きたのです。それらは、名主などの村役人層の横領などの不正発覚の恐れ、目の前の損得をめぐっての争い、成功へのねたみなどからでした。表面は尊徳の指示に従うようにみせて、裏では、村民を扇動して妨害するのでした。

 荒廃した田畑に、年貢を納めることが免れることから、勝手に耕して、年貢を納める田畑には、肥料をやらずに、土地が悪いから年貢を減らしてほしいという。名主の横領に農民は訴え、名主は零細農民の無法を訴えということで、陣屋では毎日のように、もめごとがもちこまれることで、復興事業に大きな障害にもなったのです。

 小田原藩から派遣された2人から3人の陣屋で仕事をする出張藩士も妨害に加担するのでした。尊徳の命じたことに、小田原藩からの派遣の代官などの役人が認めていないとうことで、中止せよということなど、村人が尊徳に従わないように策を練ったのです。また、悪い農民を賞するなど、尊徳事業の失敗を考えることばかりであった。

 小田原藩からの派遣された武士たちは、「二宮の仕法なるものは、貧しい村を復興する道ではなく、むしろこれをくつがえすものある」と、村民に言いふらして、尊徳を怨むように仕向け、事実をまげて、藩主に訴えを出すのでした。

 尊徳の荒廃した農村の再建仕法は、農民たちが、もっぱら農業に精をだせるように、仁政をするということでした。荒廃した農村で、すさんだ人情を改善するには、仁政をもって、土地の状態をよくして、農業による富を豊かにすることであるとしたのです。このために、土地の尊い理由を教え、田畑に力をつくさせることでした。

 決して、お金を投入することではないとしたのです。お金を投入すれば、農民は、名主の不正、名主は、農民のかってな非難と争いが起きるとしたのです。荒廃した土地を開墾するためには、荒廃した土地自体の力をもって、貧しい者を救うのは、貧しい者自身の力をもってするということでした。荒廃した田一反を開墾し、一石の米を生産して、半分は食料にして、あと半分は来年の田を耕すためのもとする。このことをくりかえしていくということです。

 小田原の藩主から桜町領回復仕法を命ぜられて、4年後の1826年に、組頭格に昇進して、桜町仕法の主席となります。しかし、小田原藩士の豊田正作が着任して、仕法をめぐって対立が起きるのです。翌年の1828年には、尊徳の農村再興の仕法が厳しい状況に陥っていくのです。

 尊徳は、藩主から呼び出されて、訴えのもとの内容の尋問がされますが、藩主は尊徳のことを信じて、訴訟や讒言(ざんげん)したものを小人として、藩主は罰するのでした。また、1829年に、尊徳は、桜町領復興に、成田山に大願成就の祈願のために、21日間の断食を行うのです。

 成田山に祈誓するのに尊徳は、次のように書いています。「わたしが殿の委任を受け、この地にまいって以来、心血をそそいでこの村を興し、この民を安んじようとして復興の道を実施した。すでに数年、道理においては必ず復興することは疑いないのであるが、よこしまな連中がこれを妨害し、またわたしと事をともにする役人までも、かたよった考えにとらわれて、疑いをいだき、ついにわたしを讒訴(ざんそ)するに至った。

 内にはわたしの事業をそこなおとする妨害がありました。外には心の曲がった連中がこれと組んでわたしの事業を破壊しようとする心配があったのです。このままの状態が続けば三ケ村の復興はいつになることか。ああしかし、わたしにはできませんと言って退くことは簡単だけれども、それでは殿の御命令を無にするおとになる。思うに、わたしの誠意がまだ至らぬからであろう。かりにも誠意が到達すれば、どのようなことでも成就しないはずはない」(児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの報徳記より)と、尊徳自身の誠意は、妨害する役人と村民がいたのです。このために、荒れた農村復興の回復を成し遂げるために、21日間断食して、祈願するのでした。

 1828年4月に二宮尊徳は、小田原藩邸に辞職願を提出しているのです。そこでは、尊徳が、荒れた桜町領の再建の仕法の妨害が、本来ならば、権限をもって、共に協力して実践していく立場の出張の小田原藩士が、妨害しか考えていないということでした。このことが、尊徳の辞職願のなかに書かれています。尊徳は、小田原藩からの出張藩士たちは、私利私欲の出世主義であるとしているのです。

 彼らは、「私利私欲で、農民の将来の困難を考えず、その場だけの手柄を殿様のために役立つと言い、つくろって欺瞞し、年貢増強のことばかり努力し、立身出世の褒美を内心にもつ人物では不適当。きびしく税金をとりたてる家臣よりも、むしろ物を盗む家臣の方がましである」と皮肉をこめた痛烈な批判をしているのです。

 尊徳は、私利私欲の出張藩士たちが特権を利用して、仁政を行わず、不正をしていることから、農民自身の民の風俗も悪化していると辞職願に書いているのです。出張藩士は、目先の年貢増強のことばかり考えての実績主義で、農民たちの苦労や生活をみないで、民の将来の安寧のことを考えていないのです。まさに、仁政をしようとしないとみるのです。

 そして、役職の特権を私利私欲のために利用しているので、仁政が行き届かいと次のようにのべています。「役職の特権を私ごとに利用し、世評や利欲に動く家臣が出て、政治が行き届かず、でたらめな政治のためか、村々の大小の農民の風俗は悪化し、人情は惰弱になり、農民は法を守るかたちで道理を破るようになった。

 これは何年の洪水による荒地、何々の理由によりつぶれた誰それの土地、何の荒地、何の耕作放棄地、耕作者が逃げて村中で共同に耕作しなければならない土地などと、いろいろと名目をつけ、一反歩のところを一反五畝とか二反歩に書き、情・中・下の地目をいつわる」。

 私利私欲の出張藩士のために、農民がいじめられて、農民の風俗が悪化して、不正も蔓延して、荒れた農村が一層に行き詰まるのです。耕作放棄地の増大ばかりではなく、農民自身が村から逃げていくというのです。役人たちの私利私欲、目先の業績主義で農民をいじめることで、立身出世しようとする問題点を指摘するのです。

 正確な実態を把握せずに、でたらめな年貢の取り立てが行われている状況のなかで、農民の生活を安定させるためには、真実を把握するために、現実の土地台帳から実態にあっているのか調べることからはじめなければならないとしているのです。

 「農民の生活を永続させるためには、まずむかしの土地台帳にもとづいて、本田・新田・屋敷・山林まで、一畝、一歩も残さず台帳と実際を照合して必ず調査し、違いがなければ、いったん領主の手もとに引き上げ、領主の命令でいままでの体裁をすてて、現耕作している新古の百姓を、大小の区別なく、田畑の持ち主の名前で土地台帳に記載し、村の絵図によってこまかく証明し、これを名主や村役人に預け、小前の百姓については一人別に面積を記した帳面に所有反別を調べ、一人一人に持たせ、田地を農民に渡せば、農民それぞれ家宝になる」。

 度重なる洪水などによる田畑の被害、荒れ地の実態がいい加減になって、ごまかしが役人の手によって、やられているというのです。私欲をおさえて、自然の気候に気を張り、道理や河川の整備、荒れ地などの開発、農具の整備などをし、農民の暮らしを率先して考えていく仁政の大切さを強調しているのです。

 「農家の生活を永続させ、年貢を昔のようにもどすには、第一に政治を正しくし、弓矢の道を正し、君子として国内を治め、人びとの私欲をおさえ、学問をしてものの筋道を学び、実践して人の本心をいつくしみそだて、金銭・米を農民の食料や生活費、暑さ寒さの心配や家・道路・川の工事、田畑の開発や農具諸事などの費用にあて、日々に勤めるべきことどれ一つ欠けても、事は成就しない」。

 農民の生活を永続させて安定させるためには、まず、政治を正しく、私欲をおさえて、学問をして、筋道を整えて、農民への食料や生活の確保をしていくことであるとするのです。実践して、人びとの心をいつくしむことによって、荒れ地の開発を実施していくというのです。そして、日々勤めるべき、すべてのことを欠いても農村の復興はないとするのです。決して、お金をだせばという復興するというものではないのです。

  1829年1月に、江戸に行き、帰りに失踪して、成田山で断食の祈願をするのでした。断食の祈願をして、桜町に帰るのです。藩主に対して、出張藩士や農民の二宮尊徳への讒訴は、取り下げられ、混乱の中心になった豊田正作は、尊徳の辞職願の翌年、尊徳が成田山で断食しての祈願の時期の3月に免還になるのでした。そして、宇津家の桜町領分度が江戸でたてられていくのです。

 二宮尊徳が失踪してから成田山での断食による祈願から桜町に帰宅してから、桜町領三ケ村の農村復興が進んでいくのです。1831年に尊徳の仕法を小田原藩主は賞賛し、桜町の第一期が終わるのです。

 1837年に、尊徳が名主待遇で荒れた桜町領の再建の藩主からの命令を受けたのが、36歳での1822年から実に、15年間かけて、桜町領の3ケ村は、宇津家に引き渡されるのです。このとき、二宮尊徳は51歳でした。同じ、年に大阪では大塩平八郎の乱が起きています。

 1837年(天保8年)7月に、尊徳は、大阪に勤務している伊谷治部右衛門に、手紙を出していますが、そのなかで「大塩平八郎の乱について、この騒動は幕府を狂わせるようなことだったのでしょうか。それてもご政治に役立つできごとだったのでしょうか。いろいろと評判があって、実説がわかりませんので、もしお暇があったら、事が仁か不仁か、真実をおしらせくださいと書いています。回答は、大塩平八郎の意図は逆賊、行為は奸賊にちがいない。言葉で言えないほどのふとどきもで、文面は逆賊ということの回答でした。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論、452頁その徳自身が大塩平八郎の乱に深い関心があったとみられます。

  1833年の初夏に、天候不順がやまなかったときに、尊徳は、茄子を食べると、その味がいつもと違っていたことに気づいたのです。初夏なのに、この茄子の味は晩秋の茄子の味ということに気づくのです。この事実はただことではない。

 今年は陽気が薄く、陰気がさかんで作物が実らないのは明らかだとして、それに備えるように3ケ村の農村に徹底するのでした。そして、一軒ごとに畑一反の年貢を免除すると、稗をまいて飢餓を免れるように徹底して指導したのです。農民のなかには、いままで苦しんだときでも稗を食べたことがない。農民たちのなかには、稗を作ったとしても食べることがないのではないか。無用ではないかという意見がありました。年貢を一反免除しているので、命令に従わなければ罰せられるにちがいないと、しかなく稗を植えた農民もいたほどであったのです。

 この年は、盛夏になっても気温が上がらず、凶作になったのです。一人も飢えに苦しむことはなかったのです。尊徳の自然をみる洞察力と、凶作の対策を徹底したことに三ケ村の農民は、喜んだのです。また、「稗を植えろ」という命令にあざけわらったことに、自分の浅い知恵を後悔した農民も多いのです。

 そして、翌年に、再び飢饉に備えての命令を尊徳はするのです。天明の大飢饉を考えると、飢饉のサイクルで、昨年の不作は、その訪れの予兆ではないかとみるのです。準備のために三年間、昨年とおなじように年貢を免除するということです。免除した土地に、稗をつくるように命令したのです。このために、1836年の天保の大飢饉のときに、桜町領の農民は、飢えに苦しむ被害は全くなかったのです。

 尊徳の指導のもとに桜町領は、半分に満たない農家で、数百町の荒れ地を開墾して、昔と同じように復興したのです。農民たちは安心して家業ができるようになり、分度を定めたのです。田畑の等級に応じて、生産高を調べ、年貢を決めて、三公七民として、二千俵を宇津家の定期収入と決めたのです。

 宇津家は、尊徳が再建の仕法の命令を受けたときは、八百俵しか年貢をえることができなかったが、その倍以上の年貢を得ることができるようになった。農民も収穫の7割は、自分の手元に残るということで、安心して、以前よりも豊かにくらせるということになったのです。

 尊徳研究者の奈良本辰也は、「二宮尊徳の人と思想」のなかで、桜町の復興は、個を超えたところで考えなければならないとしています。「そこには、宇都家の領主がおり、本家の小田原藩派遣の役人がおり、貧富・賢愚さまざまな農民もいる。それらが小さな一国を作っているのである。そして、他の諸関係とのかかわりあいもある。だが、金次郎は、それを要約して分度と推譲の関係に置き換えてみた。つまり、個の問題と社会や歴史とのかかわりあいである」。

 尊徳は農村再建のための調査は、栄養状態や食事など農民の細かな生活の状態まで把握しているのです。農民生活を最も重視した尊徳の農村再建の思想です。つまり、「農民の状態を把握することは、平素の栄養状態、食事までもわかるということだ。村内の農民の生活を把握した」。

 尊徳は、荒廃のなかで心が沈んでいる村人を励まし、前向きな農業生産をしていくために、優秀な農民を見つけ出して、活躍してもらうために、優秀な農民を表彰することをしたのです。「この表彰は、農民の選挙で選定して、表彰者に農具を与えたり、無利息の金を貸したりしている」。

 農民自身による選挙によって、表彰者を選んだことも大きな特徴です。上からの一方的な目線ではなく、農民自身が、それぞれに、お互いの頑張る様子をみての選挙による優秀者の選択であった。ここには、民を中心として、村の振興を行っていくという現代的にも価値がある見方である参加民主主義の発想がみられるのです。

 「荒れ地を開発するために、農民が休息できるように住宅を補修の改善に力を貸した。また、農具や肥料の買い入れを奨励し、無利息、低利の金を貸したのである」。

 「公共的な道路、用水、堤防、橋などの整備に力を入れた。いくら荒れ地を起こしたところで、用水池がなければ安心して水田は作れない。堤防をしっかりしていねければならない。こうした農業の基礎的な公共事業に力を入れたのである。 

 彼の天才的な土木工事の才能は、堰や橋の工事は、その後も後世にずっとのこっていくのです。村の急流に流れる川からの堰をつくるのに、従前の工法では難工事になるのであるが、茅屋を川の中に沈めて水を止めて堰をつくるなど、尊徳が、自然現象を常に観察している様子からの創造的な工夫であった」。

 

 小田原藩領内の復興事業に着手

 

荒廃した桜町領の再興は、多くの藩に知れ渡り、尊徳に農村復興の依頼がくるのであった。本家の小田原藩天保の大飢饉では、多くの農民が飢餓に苦しんだ。天保7年、1836年に、藩主の使者から、数万の飢潟(きかつ)に苦しむ救済をするために、召し抱えたいという依頼があったのです。報徳記では、小田原藩の飢饉による農民救済の対応に尊徳のとった態度は、自己の利益を入れずに、徹底した農民救済の立場での行動であったことをのべています。

 天保7年12月の大飢饉のあった年です。関東・東北地方は、飢饉のために20万人とも30万人ともいわれる多くの農民が餓死しました。桜町領では、尊徳の指導によって、餓死者は免れたが、被害は大きなものがあったのです。尊徳は、各農家を廻って、被害を調べて、三段階にわけて、一人につき雑穀をまぜて五俵とした。その数に満たないのを補ったのです。一軒に5人ならば二五俵、十人ならば五十俵、十五人ならば、七十五俵というように、備えさせたのです。

 ここでは、天候不順による大飢饉を予想しての対処あったので、誰も餓死することがなかった。しかし、凶作になって、大変な生活状況になったことは、事実です。このために、尊徳は、桜町の三ケ村の農民救済の仕法のために、小田原藩に召し抱えるという殿様の命を最初は、断っているのです。

 その理由は、凶作のときに、桜町の領民を救うために努力している最中ということからです。尊徳いわく。「殿様の命令によって、桜町の復興、民心の安定のためになみなみならぬ苦労してきた。凶作のなかで、領民を救うために、わずかないとまもとれない状況だ。土地の復興を成し遂げるまでは、殿様のもとで召し抱えられることはできない。江戸に帰って、このことを殿様に伝えてほしい」と使者にのべるのです。

 このことに使者は怒って、尊徳のことばに応えるのです。「家臣として主命に従わないのは不敬である。わたしは主命を受けて使者に立った。このような無礼な言葉をどうして殿にご報告できるか。ただちにご命令に従って、江戸にあがられよ」ということであった。

 これにたいして、尊徳の答えは、「主命を軽んずる行動をとったことはない。いまご命令をお受けしないのは、最初約束した主命を無意味なものにしないためである」と。使者は怒って江戸に帰ったということです。(児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの尊徳記より)

 このやりとりは、尊徳の桜町の三ケ村の復興と農民の暮らしの安定という志の高さをみせるものです。この取り組みに、尊徳自身が命を懸けて必死に主体性をもって、荒れた農村復興に取り組んでいる姿勢をみせるものです。殿様の上位下達という絶対的命令に対しては、尊徳は従わないことを示しているのです。尊徳にとっては、殿様の命令も合理性をもっていることが必要なことです。

 使者は、殿様の忠真に、尊徳は無軌道だとして、尊徳の言葉を報告したのです。との様は「尊徳の命に従わないのは、領民の飢渇を心配してのことだろう。予のあやまちで、二宮の言葉は率直で、道理にかなっている。小田原の領民がすでに餓渇に瀕している。望むのは小田原におもむき、飢えに苦しむ民を救い、予の心労を安んじ、国の大きな憂いをとり除くことを伝えてほしい」と使者に再度、尊徳に、この趣旨を伝えてほしいということでした。

 尊徳は、殿様の命に、現在の桜町領の復興が済んだ後に受けるということでした。「殿の御意志がこのようであるならば、どうして御命令をお受けしないことがありましょう。しかしながら、いまこの土地の民の育成することにいとまがない。この土地の民は十年前にご命令を受けたところです。いま発せられたご命令を先んじて、この土地の民より早く小田原の領民を育成することはできません。この地の救済が終わったら、ご命令に従って、小田原にまいります」ということでした。

 小田原藩主の忠真公は、家老以下に二宮尊徳の功績の内容とその恩賞、小田原藩の農村復興に、尊徳に託すことを告げるのでした。「二宮はすでに下野の廃村を復興し、比べもののないほどの丹精を尽くし、三ケ村の民心を安定させた。その事業は多くの人びと知るところである。そこでいままた小田原藩数万の飢餓に苦しむ人びとを救恤することを任じようと思う。彼はもとより一家をすて、一身の丹精をもってこの事業をなした。

 ・・・たとえ恩賞を与えると言っても素直に従わないにちがいない。しかし、二宮には二宮の道があり、予には予の道がある。どうして家臣のたたえずにはおられようか。もし彼の意志はおうであるといって行賞の道を欠いた場合、どうして藩主の職務をまっとうしていると言えようか。その方たちのあいだで彼を賞する方法を相談してほしい」ということであった。家中の人びとはこれを議論したが決定しなかった。忠真公は、用人格となしてかれを賞すべきとした。

 尊徳は12月に下野をでて江戸に到着した。忠真公は病であったが、彼を賞せよと命令した。恩賞として礼服を賜るということであったが、尊徳は、それを殿にお返しくださいということであった。尊徳は、餓死寸前の領民がいるなかで、穀物を賜ると思っていたというのです。また、官位俸禄をくださるというならば、千石がほしいというのです。その千石を飢餓に苦しむ農民のために使うというのです。

 病の忠真公は、尊徳の言うことは、もっとも至極として、窮民救済のために、米倉をあけよ、そのほか金をあたえよと命令するのでした。尊徳はただちに江戸を出発して小田原に向かったのです。国家老は思慮をめぐらしているが、空論ばかりで領民を飢餓から救う方策はでないで日をすぎるばかりであった。

 殿様は、病に伏せられも、領民の飢えの苦痛に心を悩まして、尊徳に千両を持参し、米倉をあけよと命令したというのです。本当に、尊徳が殿から命令を受けたことを国家老たちは信用せず、殿からの直接の命令がないと米倉をあけることを躊躇したのです。

国家老の評議が決定するまでは、米倉をあけることはできないということでした。

 尊徳は、米倉の番人に、殿の命令であるとただちに米倉を開くように大声で言うのです。番人は尊徳の命令によって、米倉を開くのです。尊徳が米俵の数を点検して村々の運送の手配のために、小田原藩の領内を廻っているときに、忠真公がなくなったことの知らせを受けるのでした。

 二宮尊徳は、小田原藩領内の復興事業に着手するのでした。1938年・天保9年に小田原藩の家老評議で、下野国三ケ村を復興し、百姓を保護育成した良法を、小田原領内の永続平安の道のために開いてほしいという命、農村の復興事業の命を出すのです。

 尊徳のみる小田原藩の状況は、上から下まで窮迫して、高禄の重臣といえでも日々の生活におわれているありさまです。ところが近頃しだいに困窮からまぬがれ、強制して領民の租税を増し、借財を弁済せず、贅沢三味にふけり、節倹どころか、それ以上の豊富を望み、満足を知らず、少しも難儀を心配する気持ちはありません。このような人情に直面していいます。上の者に節倹をさせ、下のものに利益を与える道はいかに難しいことかということであった。

 小田原藩11万石の領内の村々の復興をするには、過去十年の租税を平均して、収入を決めて、支出を制限して節倹をおこなっていくという分度の根本を決めることが大切としたのです。尊徳は「かりそめにも基本を立てずに末の方を起こそうとすると、領民をまどわしけっきょくは過重な租税の取り立てに終始し、国を滅ぼす大きな憂いを生ずることになります。ですから、分度を立てた場合は、仁政を行なうに十分で、分度がない場合は、国を滅ぼす災となります」。(児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの報徳記、135頁~137頁参照) 

 しかし、家老たちは上位の者を損させ、下々に利益を与える方策には誰も同意すまいということであり、分度を決めることは、藩の根本で容易に決定できないということであった。尊徳は、怒りをもって桜町に引き上げるのです。小田原藩の領民の中には、尊徳を慕って桜町に行くのです。小田原藩の72ケ村の尊徳の復興事業は、中止になるのです。そして、領民は、尊徳と往来することも禁止されるのです。尊徳は小田原藩に出入りすることすらできなくなるのでした。

 

 尊徳の農村復興仕法の桜町領以外の成功例

 

 二宮尊徳は、自分の生まれ育った小田原藩では、農村復興の仕法を実施することが出来ませんでしたが、桜町領の三ケ村以外に、多くの農村を復興させたのです。常陸国真壁郡青木村、石高850の旗本の川副氏の領地の復興は、農村荒廃の原因になる用水をつくるために、かわからの堰の工事に、茅葺屋根を沈めて、堰をつくり、堤防をつくったということです。屋根を沈めて水を防いだということです。

 川底は、両岸とも細かい砂で、木や石で保つことができず、堤防を築いても蟻の穴から崩れるということでした。そこで、茅葺の屋根の雨水を漏らさないということを利用したのです。

 下野国鳥山藩の三万石の領民は、大飢饉のときに、城下の金持ちの家を打ち壊す騒動があったのです。飢えに苦しむ農民をいかに救うかということが大きな課題であった。天理自然の分度を立てて、それを守り、困難な条件でも領民を救うという仁政がなければ復興はできなということを殿様に諭すのでした。

 支出に制度がなく、藩の分度がわきまえていない。その根本を改めて、上下心を一つにして、助け合って、よく領内を調べて分度を確立したのです。当初、尊徳は、復興のために、米や金を用意したのです。荒れた土地を開墾して、一両年のうちに生産する米は二千俵になったのです。この米の生産量があれば、復興の道は困難ではないということになったのです。

 細川家は、本家と分家の対立がはげしかった。分家は、所領の矢田部(現在の茨木県谷田部町)・茂木(現在の栃木県・茂木町)の年貢をあてに、12万両の負債の返済を考えていたのです。また、本家の細川家は仁政があり、八万両の援助を考えていたということです。本家と分家の積年の恨みがあれば、それも不可能です。まず、恨みを解くこともお家再興のひとつであると尊徳は諭すのです。

 そして、細川家の分家谷田部藩は尊徳の良法によって、旧来の荒廃地を興して仁政を行い、12万両の負債の償却の方法を確立したのです。数年で借財は半数に減ったのです。そして、大阪勤務に際しても、藩財政が窮迫していることで、すんなりと受けることができなかったのです。

 尊徳は、大先に登る費用を節約して、万時質素にして、勤められることを勧めたのです。細川家の家臣は、農村復興事業と幕府からの大阪勤務の両方をうまくいくように考えたのですが、尊徳は、大義がわかっていないということです。大阪勤務を引きうけたことは天下の仕事で、公務のために金を借りることは悪いことではないとするのです。大阪城を守り、万一変事が出来たときは京都を護衛して、非常事にご奉公するためであるというのです。(児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの報徳記、125頁~126頁参照)

 常陸国の下館藩主は、下館に一万三千石、河内国に七千石をもっている大名です。負債三万両で、一年間の利息二千両ということで、1年間の租税で、その利息も払えない状況でした。家中に扶持米も与えることができなっていた。藩としての亡国同然になるばかりであった。尊徳に、復興の良法を依頼してきたのです。

 小田原藩は、尊徳に桜町の復興を依頼してきたときに、領民の苦労を知らず年貢を増徴して、目前の快楽を好み、藩の根本を薄くしていたのです。これを病人にたとえると逆上の病です。身体の精気が頭に上がって、両足は冷え、血液は下まで循環せず、ついに重病になっていく。この憂いを除かないかぎり、永遠の安泰はまいのです。

 治国平天下の道とはなにか。上の者には、損をさせても、下の者には利益を与え、大きな仁恵を施し、領民を保護・育成し、これを豊かにすれば、逆上の心配は去り、国の基礎はかたまり、上下とも安泰になるでしょう。しかしながら家中の方々にいったい民を憂い、みずから艱難に甘んずる気持ちがあるのでしょうか。いくら道が立派でも、現在の人情では実行できません。 

 ・・・百姓を安んずることが大名のつとめなのに、そのつとめを怠り、安ずることができないばかりかりでなく、領民が粒々辛苦して作った米粒を贅沢のための費用とし、領民の父母である道を忘れたからではありませんか。

 そこで、領民は年々困窮し、耕作力を失い、衰貧におちいり、租税は減少して、ついに上下ともども値困難な事態となった。なおその原因を反省もせずにいながらに、商人の金を借りて不足を補おうとされ、天から分かち与えられた分限かえりみて節度を立てようとせず、借金は国を滅ぼす仇敵であることも知らないために、ついに衰亡の極に達してしまった。いったん、その藩の基本を明確にして、仁政を行わなければ、どうやって国の衰廃を興し、永遠の安泰の地とすることができましょうか。これが、尊徳の回答でした。(前掲、報徳記、145頁~148頁参照)

 まずは、家臣は、俸禄を辞退して、自分の労働で生計をたて、一致協力して、心配を取り除けば返済できるようになると。まずは、借財一年分の利息を出して、それを上下の経費に分配し、差し引いた減少した計算すると平均分度のうち二割八分の減少にあたる。

 この減数によって主君の経費、藩士の扶持を制限して、毎年の利息を支払ったらよい。元金の三万両の借財をどのようにして減らしていくのか。1839年の正月・二月の藩費は、尊徳自身が賄い、7月・8月は、下館の豪商の8軒地でまかない、3月・4月・5月・6月は、本家の石川家(伊勢亀山藩六万石)に艱難にたえて旧来の衰弊を興し、永続安泰の政治を行うことをつまびらかに申しあげたら、きっと補助してくれると。毎年、このようにして元金の借金を減らしていくという方策を提案するのでした。本家も4ケ月分の経費を贈られる、尊徳は、豪商8人を呼んで藩財政の立て直しを説明して、了承してもらうのです。この提案は実現していくのでした。

 1842年7月に、天保の改革の陣頭指揮をとった老中の水野忠邦より、御普請役格として、「利根川分水路見る分目論見御用」の命、つまり利根川水路の実施計画の作成ということで、幕府の役人に登用されるのです。水路の土木的手腕がかわれたのです。幕府は、尊徳に利根川の分水の計画を命じたのですが、尊徳は、村々の仕法を先にする計画書を提出した。

 尊徳の本領は、農村復興にあると幕府はみたので、今度は下総国大生郷村の復興を命じるのです。ここは、尊徳が復興させた桜町領と同じような貧しい荒れた農村であったのです。しかし、ここには、尊徳の仕法に、強力な力をもった反対者がいたのです。その反対者は、名主で千石をもつ大地主であった。代官も十分に理解していなかったので、実際は見分と調査だけで終わったのです。(奈良本辰也二宮尊徳岩波新書、100頁~108頁参照)

 「利根川分水路見る分目論見御用」の命と下総国大生郷村の復興命について、報徳記では次のように記しています。「天保13年(1842)、幕府は命を下して、下総国手賀沼から新しく川を掘り、印旛沼にそそぎ、印旛沼から太平洋に出る水路をつくってと奈川の分流となし、そこに船を通わせ便を開こうとした」「流れる水は新しい川に分流して、水害の心配を取り除くことができる」

 「船舶はいつも房総の大海を渡り、浦賀港に入り、そののち江戸に到着する。阿波の沖には難所があって船はしばしば風波のために難破して、米穀を失い、往々にして船が転覆しておぼれ死ぬ事故も少なくない。利根川からただちに内海に達し、江戸に到着することができれば、道程もかなり短縮され、沈没の心配からまぬがれ、軍事にも役立つといえる」。

 幕府は尊徳にかの地におもむき、土地の高低・難易をはかって、できるかできないかを察し、その考えるところを言上せよという命であった。この大事業に尊徳は、成功・不成功を決めることができないということであった。天下の威光と権力を第1としてやるのか、農民の暮らしを第1と考えて大工事をすすめていくかという大きな課題があるのです。それは、決して、工事の方法技術での成功、不成功の問題ではないという尊徳の考えです。威光と権力をもって実施すれば、役人も領民も困窮して、ただ利益のみがはかるだけで、工事は挫折するというのです。

 つまり、大工事で、長く引き続き力を尽くしてやらねばならないので、万民の力によって成就することができるのです。ご威光と権力をもって人夫を使役し、金を出して、期限をきってやる今までの土木工事にやり方では、できないのです。成功するには、先にしなければならないことは、万民にいつくしを育てることです。

 その次に印旛沼の掘割です。大事業は多くの人々の使役、労働力によらなければならない。お上が大仁を実施して、人びとの困苦するところをとり除き、その生活を保障することが出来たら、百姓は大いに喜び、大きな御恩を感じ、子孫に至るまで恩に報いる気持ちをいだきつづけて、恩に報いる志をもって、大事業を成功させていくというのです。

 この尊徳の見方は、幕府の積年の大事業の利根川の分流になる用水事業の技術的な問題が先にくるのではなく、それを実施していく地域の民の力を第1に考えて、水路事業の具体的な施工技術計画がくるというのです。

 大規模な公共事業を実施していくうえでの基本的な見方であるその事業を推進していく民の力として、そこで暮らしている民の生活の保障と、その大事業が成就したときの地域の民の暮らしの豊かさを考えていくことが大切というのです。その地域の外部の力や外部の人たちが、その工事によって利益をあげていくおとではないというのです。それを第1義的に考えれば、計画以上に膨大なり、無駄な資金が必要になって、また、計画も中途半端になって、挫折していくというのです。

 幕府は、尊徳に困窮する下総国大生郷村の復興を命ずるのでした。この郷村の名主で大地主の久馬という男は、貧民に対して利子2割で金を貸して利益をむさぼり、弁済できない者の土地をとってわがものにしていたのです。田畑、千石をもつ大地主になっていたのです。復興と永続安泰の仕法を調べて幕府に献上したが、久馬のさしがねによる代官の建言で、だめになったのです。不正を働き、利益をむさぼるわずかひとりの名主によって、罪もない多くの農民が貧民に陥っているのです。

 村民は直訴して、代官の悪たくみが発覚して、代官は交代になり、尊徳は、再び幕府に願って、村の復興を実施していくのです。荒廃した田を開墾して民家を修理して、復興の道を行ったが、久馬という名主は、代官の下役人に賄賂を贈り、村民をたぶらかして仕法の妨害をするのでした。尊徳の復興事業は中止されて、善良な村民が叱責されて、ついに名主の悪事のたくらみと貪欲のみが横行するようになるのです。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの報徳記、184頁~189頁参照) 

 代官や下役人に対する賄賂攻勢は、不正によって富を築いてきた大金持ちのやり方です。役人の私利私欲と立身出世、保身主義、ことなかれ主義ということは、どんなときでも貧しん農民の暮らしをまもっていくうえでの正義の心得として大切なことですが、地域を支配する大地主の横暴が強いところでは、その裁きは難しいものがあったのです。

 この時期に、市場経済の発展によって、人びとの生活が商品化に巻き込まれ、武士や豪商、大地主の贅沢が横行していく一方で、飢饉などを契機にして、餓死などの農村の絶えが痛い厳しい生活の現実が起きるのです。そして、荒廃した農村の現実のなかで、大金持ちになっていく大地主や豪商、武士の不正問題が数多く生まれ、これに怒った農民たちが一揆となったのが幕末の日本の農村の状況です。

 1852年の正月に、下館藩の郡奉行に、下館藩復興の道は、仁政を広く行って、領民の貧苦を安んじ、国の基礎がしっかり固まった段階で、藩士の窮乏をとり除き、上下とも永続安泰の道を得ることができる。これが、尊徳の仕法の常道であると語るのです。

 下館藩の仕法の開始は、仁恵を施し、善行の者を賞し、困窮した民を保護・育成し、家や小屋を与え、農具を支給し、借金をつぐない、道路を築き、橋をかけ、困窮をとり除き、安定した生活を営めるように図った。

 尊徳の仕法は、善人を発見して、みんなのもとで表彰し、人のふみ行うべき道、未来への推譲を行い、古い悪習をなくし、人情に厚い風俗に変化させる教えを積極的に展開したのです。荒れた農村の復興には、現代でいうところの社会教育活動を重視したことを見落としてはならないのです。(前掲報徳記、151頁~155頁参照)

 1844年に幕府は、尊徳に日光神領の荒れ地の復興を尊徳に命じるのでした。良法のことを細かく書いて上申するのでしたが、具体的にすすまなかった。真岡代官の下役になって数ケ村の衰廃した地を興したので、幕府は1853年に、日光神領の村々の天領・私領とも荒れ地を興すことを命じたのです。尊徳は67歳のときであったが、病気は完全に回復していない状況であった。

 日光の村々の田畑は、山岳地、丘陵地が多い。高い山を越えて、数里も隔てたところの山深い村から村へと回ったのです。村々を歩きながら、その村の復興を考え、善人を誉め、多くの人びとを励まし、慰めたのです。

 また、困窮する人々には、お金を与えたのです。荒れ地であっても、他の恵まれた土地と同じように規定で租税をとり、少しも年貢は減らない。復興と称して、年貢がさらに増えていくのではないかと尊徳は危惧するのでした。数千町歩の荒れ地は極限に達している状況で、村民たちは副業で生計を補っているというのです。困窮のなかで、民心は、軽薄になって、争いが絶えない。何をしたら貧困から脱することができるのか。

 貧困を外に原因を求めるのではなく、自ら考えて、荒れた田畑をどうしたら豊かにできるのか。荒れた神領千町歩、やせた土地でも一反につき平均して四俵を生産できる。一年間に一万俵になる。荒れ地を開墾していくことが大切であると尊徳はのべるのでした。

 日光領の89ケ村をくまなく、巡回して、すべての土地がこえているのか、痩せているのか、領民が勤勉どうか、得ているのか失っているのかを察して、復興する対策を十数カ条にまとめて日光奉行所に提出したのです。

 尊徳の長男弥太郎は幕府の御用向見習いの命を受けるのでした。尊徳が65歳のときでした。日光の仕法は順調に進んだ。西方が高く、東方が低いところの中央に、大谷川がながれているので、その両岸に長さ2里あまりの水路を掘り、荒れ地を開墾した。村民は競って新用水の開墾を願いでたのです。どの家も田畑に力を注ぎ節倹に励んで余剰を生み出し、お互いに信義の心で交わるようになったのです。

 

 二宮尊徳の荒廃した農村の再建思想

 

 二宮尊徳の農村再建思想には、天理に任せていれば、みな荒れ地になってしまうという見方があるのです。天には善悪はない。人道は天理に従うが、善悪を、人に益になることを善として、人に不利益になることを悪として、天理に異なることがあることを区別することが必要とするのです。つまり、稲や麦は善になるし、ひえ、はぐさを、悪とします。人に便利なものを善として、不便なものを悪とするのが人道からみた天理と区別と尊徳はみるのです。

 人道は水車のごとき、半分水中に入って、水に従い、半分は水流に逆らって運転がとどこおらない。人の道は、天理に従って、種をまき、天理に逆らって草を刈り、欲に従って家業に励み、欲を制して義務を思うことです。

 人道は情欲のままにすると成り立たない。会場に道がないようだが、船道を定め、岩にあたらないようにするのです。道路も同じことで、自分の思うまま行けば、つきあたるのです。言語も同じ、思うままに言葉を出せば、たちまち争いが生ずる。

 そこで、仁道は、欲を抑え、情を制し、勤めを勤めてなるものだ。うまい食事を、美しい着物が欲しいのは天性の自然だ。これを抑え、それを忍んで家庭の分内にしたがわせる。身体の安逸・奢侈を願うのもまた同じことだ。好きな酒をひかえ、安逸を戒め、欲しい美食・美服を抑え、分限の内容から節約し、余裕を生じ、それを他人に譲り、将来に譲るべきだ。これを人道というのである。責任編集・児玉幸多「二宮尊徳」二宮翁夜話、中央公論社208頁~209頁参照。

  尊徳の教えは、至誠、勤労、分度、推譲と四つです。窮乏する多くの人々を自力更生と相互扶助思想によって、農村の窮乏を救ったのである。

 至誠とは、真心であり、尊徳の生き方の全てに貫いている。勤労は、働くことによって人は生きていける根本な原理である。そして、働くことを通して智慧をみがき、自己を向上していく。人格を豊かにしていくことに働くことがあるという尊徳の見方です。

 「銘銘が自分の家の権量を慎み、法度を定めることが肝要だ。これが道徳経済のもとである。家々権量とは、農家ならば家株田畑、何町何反歩、この作徳何十円と調べて分限を定め、商家ならば前年の売徳金を調べて本年の分限の予算を立てる。これが自分の家の権量、おのが家の法度である。これを定めて、これを慎んで超えないのが家をととのえるもとだ」。二宮翁夜話、339頁

 分度は自分の収入に応じて生活設計をたてることである。人は自分の収入以上の生活を望み贅沢をしたがる。分度とは、自分の収入をみつめながら生活をしていくということである。それぞれの分度をみきわめて、贅沢を控えていくことを尊徳は家老等の家の再興に提唱したのである。尊徳の経営実践の基本理念は分度である。

 「およそ事を成就しようと欲するなら、始めに終わりまでの計画を細かく立てるべきだ。たとえば木を伐採するまえに、伐採の前に、木の倒れる所を細かにきめておかなければ、倒れようとするときになって、どうすることもできない。相馬の殿様から興国の法を依頼されたときにも、着手前に、百八十年間の収納を調べて、分度の基礎を立てた。これは、荒れ地の開拓ができ上がったときの用心である。私の方法は分度を定めるのを根本とする。この分度をしっかり立てて、これを厳重に守れば、荒地がどれほどあろうと、借財がいくらあろうと、恐れることもなく、憂えることもない。わたしの富国・安民の方法は、分度を定めることの一点にあるからである。

 百石を二百石に、千石を二千石に増すことは一家では相談できようが、一村が一同にすることは決してできないことだ。これは容易なようではなはだ難事だ。それゆえ分度を守ることが私の第一のこととするのだ。よくこの道理を明らかにして分を守れば、まことに気楽で、杉の実を取り、苗を仕立て、山に植えて、その成木を待って楽しむことができる。財産のある者は、一年の衣食がこれで足りるということを決めて分度とし、多少にかかわらず分度外を世のために譲って何年も積んでいくならば、その功績は計り知れない」児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論、307頁~308頁参照)

 富貴になっていくのも貧賤になっていくのも分度のわきまえが大切である。分度は農民の生活にとっての基本であり、それは、地域の振興にとっての積極的な意味をもっているのである。

 楽しみ遊ぶことが分度を超え、苦労して働くことが分度の内に退けば、貧賤になる。楽しみ遊ぶことが分度の内に退き、苦労して働くことが分度の外に出れば、富貴になる。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの三才報徳金毛録・富貴貧賤の解、419頁)。

 尊徳は、分限をも守ることを基本にして、人に譲るのを仁としているが、これは中庸であるとしています。「中庸は、通常平易な道で、一歩から二歩、三歩と行くように、近いところから遠くに及び、低い所から高い所に登り、小から大にいたる道であるから、まことに行いやすい。・・・わたしは人に教えるのに、わが道は分限を守るのを本とし、分限のなかから人に譲るのを仁とすることを教えている。これは中庸でおしえやすい道である」。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論、214頁参照)

 推譲は、余剰を人や将来に譲る精神をもつということであり、自己から他人へ、自己から村へ、村から他の地域、藩へと農民の貧困対策に機能した見方であった。また、一家を継承していくためには、毎年実る果物の法則にならって、枝を切り、木の全体を減らし、つぼみのときは、余計なつぼみをとって、花を少なくすることである。たびたび肥料をあてるように、親が勤勉でも子は怠惰になったり、親は節約するが子は贅沢になったりします。家を継承するには、これに備えて推譲の道を勧めることが大切です。

 「譲は人道だ。今日の物を明日に譲り、今年の物を明日に譲り、そのうえ子孫に譲り、他人に譲るという道がある。雇人となって給金を取り、その半分は将来のために譲り、あるいは田畑を買い、家を建て、蔵を建てるのは子孫へ譲るためだ。これは世間の人が知らず知らずに行っているところで、これがすなわち譲道だ。・・・これより上の譲とはなにか。親類・盟友に譲るのだ。もっとできがたいのは国家のために譲ることだ。世の富によく教えたいのは、この譲道だ。ひとり富者だけではない」(推譲論)。261頁

 桜町の分度の成功をみて、江戸の代官が尊徳に、自分の支配所に苦労していますが、なかなか成果がでない。なにかいい方法があったのかと、質問するのです。尊徳は「わたしは無能・無術でありますが、ただ、ご威光でも理解でも行えないところですが、茄子をならせ、大根を太らせる事業をたしかに心得ていますから、この原理を方法として、ただ勤めて怠らないだけのことです。草野が一変すれば米となり、米が一変すれば飯となります」。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論、二宮翁夜話、293頁

 「勤倹して金をたくわえ、田畑を買い求め、財産を増やすばかりで、天命のあることを知らず、道に志をもたず、あくまでも財を増やす者は、いうにたりない小人で、その人の心は、物を奪い取るというおとになる。

 勤倹して金をたくわえ、田畑を買い求め、財産を増やすところまでは同じでも、そこで天命のあることをよく知って、道に志し、譲道を行い、土地を改良し、土地を開き、国民を助けてこそ、譲道を行うというべきである」。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論、二宮翁夜話、358頁

 

 二宮尊徳の一円融合論

 

 一円融合は、全てのものは、互いに働き合い、一体となって結果が出るという見方です。天と地、陰と陽の対立のなかった時は、混沌とした状態で、なにも書き込みのない円のみが描かれています。そして、天地が分かれていない一円一元は、風空、火空、地空、水空ということで、混沌とした状態であるのです。

 一円一元の混沌とした世界から、新羅万象への発展に展開していくというのです。一円融合は天地の混沌としたことから、天地万物が生成して人体気、地体気、天体気が一体ということと同時に、その三者は関係をもって一円の中に融合されていくという見方なのです。

 「天の体と気が、地の体と気が、また人の体と気が一体であると同時に、その三者はまたたがいに関係を保ちつつ一円の中に融合されていることをしめす。たとえば地の作物によって生きる人間は、大気を呼吸することで天とのつながり、死ねば土に還元され、地上のものは火によって煙となって大気に飛散する」。責任編集・児玉幸多「二宮尊徳中央公論社、「三才報徳金毛録」387頁

 天地に生まれた生命がどのように生々消滅していくのでしょうか。最初に天地に生まれた生は種です。種は種族の生命の根源です。種は生の休止した状態ではなく、生への強い契機が蓄えられていくのです。育ったものが草木です。

 天は一円を通して草木花実を生じます。生とは茎、葉への生育で季節を配して種、草、花、実という一円に輪廻していくのです。荒涼とした天地に生気が満ちていく。太陽の光と熱を受け、四季の変化と乾燥の作用によって種から芽が、芽から茎へ、茎から花へ、花から実とへ輪廻していきます。進化の道は決して柳の木から梅や桜が、種を違えて成長していくというものではないのです。前掲書、391頁

 植物が育つには、水、温度、土、日光、養分、大気などいろいろなものが溶け合ってひとつになって成長していくということです。尊徳は、儒教的な仁・義・礼・智・信の五行よりも仏教的な空・風・火・水・地の五輪の思想をもってきた。

 この方が、尊徳の考える大自然を説明できます。尊徳は、すべてを円の図を書いて説明しています。円は、宇宙の一切の事象、自然界、人間社会を説明する尊徳の思想の独自性です。一円は、天地万物の多様性を生み出す根源であり、天地万物が生成発展し、進化していくものです。

 我利・我欲を社会の中心に置くと、天が乱世を命じていく。それは、徳を中心とする政治に対立することです。その悪循環の恐ろしさを指摘しているのです。我利・我欲は、不学から生まれるものであるというのです。

 そして、農業に怠惰となり、廃田をつくり、貧民になっていく。下に乱が起きるのです。犯罪が増え、臣恣になり、民は逃散していく。この我を中心とする一円は、賊仁をつくり、多くの衆を失い、国を滅ぼしていく。悪は悪を招き、邪は邪を呼んでいくという循環になっていくということです。

 徳を中心とする天は、百穀栽培の季節を命ずるのです。徳を中心にとすれば国は平和に保たれ、人々は農耕に精を出し、多くの作物をつくることができるというのです。天地に万物が生育する時、天地の呼吸、四季のめぐりを大切にしています。種類は場所によって、それぞれの時期の違いがあります。天地の中心は太陽であったのです。太陽の恩恵によって天地は繁栄していくことになります。

 治世の根本は徳であり、その徳は学によって心の中から生まれていくものであるのです。徳の心は、民を励まし、開田し、民はそのことによって恵まれ、犯罪はなくなり、国は安寧し、豊かになり、子孫は繁栄していくものだと一円上に描いていくのです。

 我利・我欲と徳を対概念として二宮尊徳はみているのである。我も徳も人間の作為である。徳は人間の目的意識的に自覚されていくことによって身についていくものです。それは、学問によって、形成されていく。仁義礼智信は、混沌とした状態から人間社会が確立されていく過程で生まれていくものです。前掲書、393頁~395頁

 尊徳は天地人の三才のなかで、人ということで我をみる側面があるのです。人を主体的にとらえることで我を使用します。天と地の間に我がある。仁義礼智は外から我をかざるものではなく、生まれながらにもっているものです。学によって、それが発露していくものです。

 我人は、天地に人が誕生して、その人を中心に男女五輪の道という人倫の仁義礼智信という徳を学ぶことをしない不徳の我が中心となって治世を行えば、賊乱が起きるのです。我を人としてみていくか、我を徳に対する反対の我を中心とする治世ということで、利他をみないで、絶対的自己の欲望を人間のもっている意志を我欲として増幅させていくのかということです。

 万の人間がいれば万の心があります。その中には善心があり、悪心もあるのです。離叛の心があれば服従の心もある。自然に和の心で行動するようになるが、和の心でいてもいつか不和の心が起き、不和の心から人を怨む心が生じます。

 また、親愛の心に変わることとなり、親愛の心があれば、平穏を願う心が起こってくる。平穏の心が起これば、賊乱の心もおこり、賊乱の心があれば、天災をこうむることになり天の恵みは永遠に失うことになろう。つまり一人の心を乱せば、十の心を乱すことになり、一つの心が治まれば十の心が治まることになる。だがから百の心が乱れれば千の心が乱れ、千の心が乱れれば万の心が乱れるように、際限なく広がる。これが天理であり、自然なのです。

 そもそもすべては不徳であるのです。その不徳が有為転変をとげて聖人・賢者になります。聖人・賢者の本質は仁義礼智信の道を学ぶことです。学問を身につけていれば、政治を行っても公平で私意をはさむことはない。政治が公明であれば、人々は必ずその徳を尊敬する。尊敬があれば、民衆は怠らず農業につとめ、精勤に励むため廃田になるようなことがない。

 そもそもすべては治心からはじめるのです。治心が転倒すれば乱心になります。乱心の根源は不徳です。不徳は不学にゆきつく。不学のものを考えれば怠惰であり、怠惰の者は、学問をなおざりにしていることにあるのです。学問のなおざりは父母の責任に帰されるから、父母は教育に不熱心という過ちを犯せば、その子は政治に無関心となる。不徳は賊乱を生むことになるのです。我をみるときに、二つの見方があることを尊徳も一円の対概念のなかで位置づけています。前掲書、401頁~404頁参照

 人道は労働を基本にして推し進められていく。尊徳は、生民の勤労を計る時の一円として、一日の生活の中で、労働の占める位置を表している。辰の刻(午前8字時)から午(正午)未(午後2時)から茜の刻(午後6時)ということで昼間の8時間を働く時間にしている。現代の8時間労働制の見方は、尊徳においても勤労の時間として考えられていたのです。前掲書。396頁参照

 尊徳にとって、上下は交流し、相互扶助していくのが人間の道であるのです。上下貫通弁用之解。天地の慈愍(じびん)なければ万物生育せず。天地の慈愍によって万物生育をなす。天地の慈しみあわれむことを万物生育にとって重要なことと尊徳は考えているのです。神仏の擁護なければ諸災降伏せず。神仏の擁護によって諸災降伏をなすとして、人々の災難から加護する神仏の社会的役割をみています。

 帝威の厳重(げんちょう)がなければ四海安寧せず。帝威の厳重によって四海安寧をなす。武威の正道なければ国家平治せず。武威の正道によって国家平治をなす。農民の耕耘なければ次年の衣食なし。農民の耕耘によって次年の衣食を保つ。帝の権威と武の正道によって国を平治することになります。人々の衣食を保つ農民の役割を尊徳はみるのです。

 儒舘の譔諭(せんゆ)なければ聖賢の道を弁(わきまえ)へず。儒舘の譔諭なければ聖賢の道を弁ふることをなす。儒者がいることによって、人々に学問をさとすことができ、人々の徳のある生き方の道を示すことができないとしています。書家の教導なければ揮毫(きごう)弁用に滞る。書家の教導なければ揮毫(きごう)弁用をなす。

 医家の療功(りょうこう)なければ疾病快癒せず。医家の療功(りょうこう)なければ疾病快癒をなす。数者の訓傚なければ間任算法(けんむさんぽう)に礙(とどこお)る。数者の訓傚なければ間任算法をなす。儒者、書家、医者、数者のもつ智と、それらを導く教育者の社会的役割を尊徳は指摘するのです。

 工匠の勤労なければ諸舎の造健ならず。工匠の勤労によって諸舎の造健をなす。商賈(しょうこ)の運送なければ諸品廻便せず。商賈の運送によって商品の廻便をなす。諸職の作業なければ万器自由にならず。諸職の作業によって万器自由をなす。工匠、商売、諸職の作業の重要性を人々の生活をおもいのまま豊かにしていくこととして社会的評価をしています。

 天地の恩恵は、神仏、帝武の役割、農民、儒者書道家、医者、数学者、建築家、商人と、それぞれの職業すべての社会的役割にみているのです。

 一円融合の相互依存では、横につながるものではなく、上下の関係においても同じである。天地自然の道理から、身分的上下も絶対的なものではなく、武士・百姓という上下関係も、一方的に服従するという寄生的なものではない。この発想は、天地・男女・昼夜・貧富・善悪・徳不徳というものに対する考えてと軌を一つにしています。

 尊徳の社会の上下交流と相互扶助は、それぞれの社会的役割を円滑に遂行していくために大切なことになっているのです。身分的上下関係は、絶対のものではないというのが尊徳の考えである。相互扶助の関係からは、服従も寄生的なものではなく、相互に役割を果たしているという見方なのです。前掲書、412頁~413頁参照

 田があるからこそはじめて生命を育成することができ、田畑があってこそ君主は君主なることができるのです。田畑の恩恵があるからこそ、民衆は民衆としての務めができ、財宝は財宝としての価値を示すことです。田畑の恩恵があるからこそ、すべての社会組織も機能することができるのです。

 人間が、人間として踏み行うべき道を一歩もはずすことなく暮らせるのは田畑があるからこそである。田畑は、人間が生きていくうえでの衣食住の基本です。農業の恩恵がなければ、神社仏閣、宮殿、橋や道路、刀剣などもつくれない。人間社会、個々の生活、国家の存亡は、農業あってこそと、尊徳は強調するのです。前掲書、前掲書407頁~409頁 日本思想体系・奈良本辰也二宮尊徳・大原幽学」岩波書店、39頁~40頁参照

 三才報徳金毛録の報徳訓では、「人間界の父母の根源は、天地が命ずるところにもとづいている。自分の存在のすべては、父母の養育にもとづいています。子孫がよく似るのは夫婦の結合にもとづいている。家運の繁栄は、祖先の勤勉の功にもとづいているのです。

自分の身の富貴は、父母のかくれた善行にもとづいている。子孫の豊饒は、自分の勤労にもとです。身体の長命は、衣食住の三つにもとづいています。田畑・果樹の栽培は、人々の労力です。今年の衣食は、昨年の生産です。来年の衣食は、今年の艱難辛苦にもとづいているのです。だから年々歳々、決して報徳を忘れてはならない」。責任編集・児玉幸多「二宮尊徳中央公論社、「三才報徳金毛録」、414頁

 報徳訓では天命としての父母の意味と父母の社会的役割が強調されています。そして、祖先の勤労の功、父母の善行による富貴をのべる。尊徳にとっての人間が生きていくうえでの父母・家族の大切さ、父母に感謝することが記されています。そして、身体にとっては、衣食住に支えられていることです。農業によって衣食住がなりたっており、その報徳を忘れてはならないとしています。衣食住と命は一円で対極にあり、勤労と産業も対極に位置づけられているのです。

 

 結びにかえて

 

 本稿は、現代的な問題意識をもって、二宮尊徳の荒れた農村の再興についての実践の思想を中心に書いた。尊徳の農村再興の実践思想は、現代でも通用することがたくさんあるのがわかった。

 また、その実践を妨害していく勢力も存在することも見逃してはならないのです。地域の人々が、必ずしも未来にむかって、新しい豊かな地域社会をつくっていくとはかぎらない。そこには、自分の地位の安泰しかみないリーダー層や自分の私利私欲によって、従前の既得権にすがる人々がいるのです。

 従前の路線による目先の立身出世主義しかみないものも少なくないのです。現代社会は、地球規模の気候問題にみまわれて、温暖化が深刻になって、持続可能な地域社会づくりが急務になっています。

 このなかで、自然にやさしい地域循環型経済が求められています。農業と太陽光発電をシェアーしていく新しい技術も開発されています。プロブスカイトの素材によって、新たな再生可能の太陽エネルギーや新しい固体電池の蓄電技術開発も進んでいる時代です。

 有機農業づくりで食べ物から積極的に健康を考えていく時代にもなっています。農業と福祉の連携ということで、農産物づくりは、心のやさしや絆づくりにも大きな役割を果たしています。

 農業の教育力として、子どもたちや青年たちが、農業に接して、人間と自然の関係性を知り、自然の豊かさを農業活動によって知るようになっています。植物の生長とともに、人間の育ちのなかに農業は大きな役割を果たす時代になっています。

 このような人間がいきていくうえで、大切な食糧確保ということを積極的にしていくことも、それぞれの国民に課せられたものです。農業の自給率を向上させていくことは、日本の国民を物資的な側面ばかりではなく、心の面、文化の面からも豊かにしていくことにもなるのです。

 セルロースナノテクの発達によって、鉱物や石油に代わる素材開発も進んでいます。 時代は大きく変わることを人類社会の永続性に求められているのです。このような未来社会を地域で持続可能性をもって築き上げてうえで、地域で暮らす人々の生活を第1にして、そこに暮らす人々が自分自身の課題として、主体的に参加していく手法で、二宮尊徳の荒れた農村の再興の仕法は、大いに参考になってくるのではないか。                                

 

 

直耕で自然活真の世を ―安藤昌益の人類未来社会論を考える―

直耕で自然活真の世を

―安藤昌益の人類未来社会論を考える― 神田 嘉延

 はじめに

安藤昌益は、江戸中期に生きた思想家で、四民平等と平和の自然活真の世を展望しました。既存の儒学・仏教・神学を批判して、王、武士の階級社会を農民から租税を取り立てているとして、生産物を盗み、乱をつくる原因として告発しています。為政者に仕える聖人、武士をはじめ、商人、職人、医者、僧侶、神官などに直耕をすることを提唱したのです。

農民こそ直耕をする天道の人としての正人とした。自然活真の世は、自然真が自感して、一気になって、すべて二つの互生から展開していくとしたのです。その営みは、常に循環してとどまることがないとした。

 安藤昌益の思想は、現代に生きるわれわれにとって、新自由主義による弱肉強食のもとでの格差社会の著しい現象の問題を解決していくヒントを与えてくれます。また、大量生産と大量消費、大量廃棄物ということでの自然破壊の問題解決にもヒントを与えてくれます。現代は、環境問題に悩み、地球気候危機を引き起こしているなかで、人類の気候危機克服、自然循環、平等を実現していくうえで、過去の思想家からも積極的に学ぶことが必要な時代です。未来社会を考えていくうえで、自然循環を考えた過去の思想家は、多くのヒントを与えてくれます。    

本論は、中央論社の日本の名著シリーズ野口武彦責任編集「安藤昌益」を読んで、人類の未来社会を考えていくことにします。参考にした引用の概要の頁は、その都度に、表記します。

 

  • 自然活真と直耕

 

自然活真とは

安藤昌益は、自然とは何かということで、それは、互生・妙道の呼び名としています。互生は、はじめも終わりもないひとつの土活真が自行することであるとするのです。

たとえば、木は物事の始めをつかさどる性であるが、同時に、その内部に終わりをつかさどる水の性質を含んでいます。水は物事の終わりをつかさどるが、内部に始めをつかさどる木の性質を含んでいます。だから、木は単純に始めであるわけではなく、水は単純に終わりであるわけではない。二つの性は相互に補完しあって、終わりも始めもないのです。

火は物事の動きをつかさどるが、収拾の性として金を含み、金は収拾をつかさどるが、また、始動の性たる火を含んでいます。それらが、妙道とよばれるものです。道とはその互生の働き(感)です。

土活真の自行は、だれも教えず、習わず、増すことも減ずることもなく、ひと(自)りする(然)のです。だから、自然と呼ぶのです。

活真とはなにか。活真の土は宇宙、すなわち天と海(転地)の中央にある地です。そして、活真とは天の中央に宿っている精気(土真)の称号です。土真はそこでつねに生き生きと活動して終わりもなく、ひとり感行して休止死滅を知らない。天の中央に位置して、その座から動くことがなく、その自行はいささかも間も停止することはない。野口武彦責任編集「安藤昌益」中央公論社、77頁参照。

以上のように、安藤昌益の基本的な概念になる「自然」と「活真」について説明しているのです。自然のついては、相互に依存しあい共生なる関係をもって絶えず循環的に動いていくそれぞれの互生について説明しているのです。

また、活真は、土活真という天と海の中央の地で、常に宿っている精気をもって生き生きと活動していることを指しているというのです。物事を静態的にとらえていくのではなく、循環的に精気をもって動いていくことを見ているのです。

 

 直耕とは

直耕とは、天と海とに昇降する気が地と和合して、通期、横気、逆気の三種類に循環して、穀物、男女(ひと)、鳥獣、虫魚、草木となって生まれていく。これが、活真の無始無終に生産しづけてやまぬ働きをするというのです。活真は全体が土活真で、自行して、天と海とをかたちづくり、人間の身体、四肢、臓腑、精神作用、感情、行為などを作り出す。

通に転回してはいつも天となり、横に転回して海となり、逆に転回しては地となる。その作用がひとたび極まり尽くされてから今度はさらに逆に発して穀物となり、通に開いて男女(ひと)となり、横にめぐって鳥獣虫魚となり、また、独立して草木となる。このようにつねに生産し、直耕してやむことがない。だから人も物もすべてがそれぞれ一つの活真の分身なのである。これを名付けて営道という。自然真営道と題するゆえんである。

人家のいろりは小宇宙であるとしています。炉のなかの薪は進木、煮え湯は、進水で両者が互生であると。薪の燃焼作用が盛んで湯が蒸発してしまい、煮え湯が用をなさなくなるのは、煮え湯の沸騰作用で盛んであふれ出し、薪が消えて役にたたず、進木の用をなさなくなります。

これは、水進の性になってしまうからです。薪と煮え湯との勢いが均衡を得ていればこそ、両者の相反する性質が相互に程よく作用しあって役にたつものです。

鍋蓋は退木、鍋の水は退水であって、この両者は、互生です。蓋の作用が盛んで圧迫するときには、水が減って用をなさなくなります。

これは、退水の性が蓋の退木の性に同化されてしまうからです。また、反対に、水がたくさんありすぎて蓋が浮かび、隙間ができると、今度は蓋が役にたたなくなります。蓋と水の均衡を得て、はじめて互生の妙用を得るのです。燃える火と鍋のつるとの関係。鍋のなかの蒸気と鍋との関係。これらも進火と進金との関係、鍋の中の蒸気の退火と鍋の退金との関係も前期と同様の互生の妙用として説明しているのです。前掲書、78頁~80頁参照。

四行の気がそれぞれに進退し互生の関係にある八気は、本来全体として一気です。一行でもかければいろりの妙用は一度に失われます。薪、燃える火、鍋金(なべかね)、煮え湯とすべて相なって、そろそろと鍋に暖気がいたるのは通気です。鍋の中が煮え立つのは横気です。

食物が煮え熟して味がよくなるのは逆気です。逆気にいたって味がよくなるのは、天と海との八気八節の気行が互生をつくしながら一年の間の妙行する働きです。その働きが炉の中に備わっているからです。宇宙の八気互生の微妙な気行はことごとくいろりの内部に備わっているのです。

その備わりは、人間が穀物や豆を煮て食べるようにするためです。天下万国の一軒一軒の家の作り方は違っていても炉中の四行八気互生の妙用はどこも全く同じです。

この炉の働きに助けられている人間であるがゆえに、人間の生業が同じく直耕であり、たとえ何万の人間がいようとしても一人の人間としての一つの生き方しかないことは明らかです。

人間の世界に、はじめて男女(ひと)が生じたとき、その暮らのなりあいをだれが教えただろうか。だれから習っただろうか。知る者は一人としていなかったはずであります。

安藤昌益は、以上のように炉の暮らしから四行八気を説明しているのです。とおろで、人間は、自然の草木や動物を生きていくために、自然そのものから採取、狩猟することから、積極的に生産し、生産物を加工していくようになったのです。炉を通して、食べるという行為も、その基本的な典型です。

安藤昌益の炉と鍋と火、水などの食べることを通して調理していく関係は、健康で、文化的に人間が生きていくうえでの基本的な営みなのです。人間は、食べ物を生産して、加工することによって、暮らしが豊かになって、人口の増大がはかられたのです。そして、自然そのものものの暮らしから、人工的に自然を作り変えていくのであった。それが、自然循環の側面からみるならば、開発ということから、自然の秩序の破壊へと向かうこともあったのです。近代社会は、その破壊が著しく進んでいったのです。

火を利用して、鍋で煮ていくことでの炉の働きは、人間にとって大きな生きていくうえでの行為です。原始的なヒトの生のままを食べるということから、家族や仲間としての絆と文化をもった人間になることによって、人間的に自立発展していくのです。生産した穀物も火で煮て加工して食べるということで、胃腸という人間の体のなかでの栄養吸収や病気の予防にもなり、さらに、重要なことは、味を楽しむ食生活をするようになったのです。

人間は食べ物を加工していくということを生きる知恵として発達させ、味を文化として大切にしていくために微生物を利用しての様々な発酵食品の開発したのです。塩漬け、燻製、天日などで長く保存していくための加工も縄文の時代という古の社会から獲得していったのです。安藤昌益の指摘する炉の暮らしから、現代社会の原理的な暮らしの在り方を考えていくことにおいて、ひとつの哲学的なヒントになるのではないかと考えられます。

安藤昌益は、人間の顔には宇宙に通じる門があるとのべます。人間の顔と炉の営みを類似させて、四行八気を安藤昌益は、説明していきます。

安藤昌益の考える世界の人間の顔面には、臓腑の八気互生が現れ、そのまま宇宙と通じているということになります。その門が八門です。臓腑のうちで胃は炉の内部に等しい。胆は薪、肝は鍋蓋、小腸は燃える水、心臓は鍋中の蒸気、大腸は、鍋づる、肺は、鍋金(なべかね)、膀胱は煮え湯、腎臓は鍋中の水ということです。安藤昌益の考える顔面や身体の臓腑の八気互生は、人間にとっての健康をみていくうえでも大切な見方です。

これらを腹中の土活真とするのです。人間の顔面と臓腑、それと炉の内部との間に同じものが備わっています。進木は瞼と胆と薪、めだま、肝臓と鍋蓋は退木、進水はみみわ、膀胱と煮え湯です。

退水は耳穴と腎臓と鍋中の水です。進火は唇と小腸、燃える火、退金は、歯と肺、鍋金、退火は、舌と心臓、鍋中の蒸気です。顔面と臓腑と炉の内部では同一の備わりがあるのです。

八門から宇宙の気を人身に通じ、人身の気を宇宙に通じて、大にしては宇宙、小にして、人身です。それらは、進退・互生・一活真のおのずからの活動です。顔面に備わる八門に差別がないことは上の身分の高い聖人・王者の顔だから九門、十門もあるわけではないのです。

下は賤しい貧民の顔だからといって七門か六門しかないわけででもない。大きな顔、小さな顔、長い顔、短い顔、丸い顔、角ばった顔などはあるが八門が備わっていることは全く差別がない。人間に上下貴賤の差別のないことの自然に備わった明白な証拠です。

炉の中で薪を火で火を燃やし、鍋づるを掛け、鍋を使って煮え湯に食物を入れ、食物をよく熱で蒸し、鍋蓋の下の水気で食物をやわらかくし、味をよくしあげるのは、人間の食生活のためです。食物は穀類です。穀物は耕すことなくして成らない。だから、炉中の妙用はただ食穀のために備わるものです。

炉中の八気互生、通・横・逆は、穀物を煮て食うことです。煮ないままで食うと、生命の気に身体を損なって長く生きることはできない。だから、人間は穀物を煮て食うのです。煮て食うのは天寿をまっとうするためです。

煮て熟して食べる間は、人間の精神・感情・行動・事業いずれも正常である。煮た穀物を食い、臓腑を養えば、臓腑の八気互生が顔面にいたって八門を開き、互生の妙用を尽くして宇宙と人身とを通じるのです。だから四府四臓は互生の八気、四体四肢は互生の八気、四神四情も互生の八気です。いずれも人身に備わる道です。

ただ日ごろからいろりを眺め、人の顔観察し、我が家の炉とわが面部とに備わっている事実をもってこれを知り尽くしのです。これは、自然の備わりです。

人間の八門こそが真理です。人間の顔面は自然の活真、八気互生の妙道の備わりをあらわす宇宙の源で、人体の根です。だから、そこに備わる八門の他には何の加速もない。互生の気行もないのに薬が府臓の助けにあるはずがない。無理に薬を用いれば人を殺すことになるのです。

 

儒教・仏教と安藤昌益の自然の世の違い

安藤昌益の考える自然活真の世は、五常五倫と、五門にしか備わらないことはなく、四民などとして四門にしか備わらないことはない。そこでは、天下を治めるなどといって一門だけが他の七門を治めるという現象はなく、賞罰政事などといって、八門のうちに何々は功績があるから誉めよう、何々は過失があるから罰するということはまったくない。

聖人の五倫は自然にあらずということで、君臣、父子、夫婦、兄弟、盟友の関係を儒学の聖人はのべますが、それは誤りで、祖父母、父母、自分、子、孫、その各々が夫婦であって一人、一人であって五人である人間としてとらえることでとするのです。そして、それぞれ、対の配偶者がいないという者はないと考えるのです。また、直耕との関係をぬきにして、仁義礼智信もあやまりであるとするのです。

悟りを開いて仏となるという見方も誤りだと言うのです。迷う者は凡夫にとどまるといった差別を立てて二門の備わりはないし、大衆を救うと称して一門だけが他の七門を教化するということはないのです。自然活真の世は、すべての人々が直耕して、欲を絶ち、盗賊、乱を絶って、自然活真として、人間が自由に働きかけて、活き活きと暮らすところです。そして、人間平等の社会です。

自然活真の世は、軍法合戦などといって天下国家を盗む備わりもない。極楽地獄という善悪の二別もない。六根と称する六門の備わりない。すべての上下・貴賤・邪性・和争の二別はない。あるのはただ八門互生、一活真の自行です。だから、道の備わりは、活真の自感、四行の進退、互生八分、一連する通・横・逆の運回、生々しく無始無終につきるというのです。81頁~86頁参照。

このように、仏教についても、様々な宗派の一門にかたまる世界も問題にし、心の迷い

の世界に閉じこめられた状態からを、迷いの原因の根本になっている直耕をせずに、それを民から盗み、天道を盗み、乱を起こしている根本の問題を据えて、批判するのです。

 

  • 自然活真の世における直耕・直織と天人合一

 

老子の自然観と自然の世の天人合一論

道とは無始無終の自然真の感ずる一気がひとり進退して、ひとり宇宙となるのです。一気は天に満ち、海に満ち、人の身体と心に満ち、万物に満ちて、自然の宇宙・人・物にとって唯一の道なのです。道の二道はない。

人間にあっては、言語とか行為とか心術とかは、みな一気です。この気は道です。虚無のうちに運回するものも気があるから、この気も道です。道は二道ではなく、唯一の道は一気です。天地は自然進退の無始無終であって、始めとか、終わりがあるものではない。人道・地道・天道は自然進退の一気です。これを別々のものと思って、虚無空寂とみることはできない。

安藤昌益は、老子を虚無と大道と人の常道ということで、本道の自然を虚無空寂とみて、道を二道とみていると批判するのです。

老子は道について、次のようにのべています。「道が語りうるものであれば、それは不変の道ではない。名がなづけうるものであれば、それは不変の名ではない。天と地が出現したのは、無名からであった。

有名(名づけるもの)は万物の(それぞれを育てる)母にすぎない。まことに永久に欲望から解放されているもののみが妙(かくされた本質)をみることができ、決して欲望から解放されていないものは、「きょう」(ものごとの帰着点・結果)だけしかみることができないものだ。(1章)世界の名著「老子荘子中央公論、69頁。老子は道には神秘主義として、いっそうにみえにくいと妙という本質がでてくるというのです。

老子の考える天下を治めることは、人民が行動しないように、ことばのない教えをするのです。それは、物を育てても権利を要求しない。仕事をしとげても、そのことで敬意を受けようとしないことです。

「天下すべての人がみな、美を美として認めること、そこから悪さの観念が出てくる。善を善として認めるおと、そこから不善が出てくる。有と無は互いに対立から生まれ、難しさとやさしさは互いに補いあい、長と短は明らかにしあい・・・。

聖人は行動しないことにたより、ことばのない教えをつづける。万物はかれらによってはたらかせてもその労苦をいとわないし、かれは物を育てても、それに対する権利を要求せず、何か行動しても、それによりかからないし、仕事をしとげても、そのことについて敬意を受けようとしない。自分のしたことに敬意を受けようとしないからこそ、かれは到達したところから追い払われないのである」(第3章)70頁~71頁

人民を統治する方法として、美を美として認めること、善の観念を育てること、仕事をしても敬意を受けようとしない観念ということで、積極的に仁徳を教えることは得策ではないと老子はみるのです。

老子は人民に欲望や知識のない状態にすることが、人民の間で競争をなくすこと、人民の心を積極的にむなしくすることが、聖人の統治がしやすくなると、のべています。

「もしわれわれが賢者に力をもたせることをやめるならば、人民のあいだの競争はなくなるであろう。もしわれわれが手に入りにくい品を貴重とする考えをやめるならば、人民のあいだの盗人はいなくなるであろう。もし人民が欲望を刺激する物を見ることがなくなれば。かれらの心は平静で乱されないであろう。

それゆえに、聖人の統治は、人民の心をむなしくすることによって、人民の腹を満たしてやり、かれらの志を弱めることによって、かれらの骨を強固にしてやる。

いつも人民が知識もなく欲望もない状態にさせ、知識をもつものがいたとしても、かれをあえて行動しないようにさせる。かれらの行動のない活動をとおして、すべてのことがうまく規制されるのである」(3章)72頁。

老子にとって、水のように生きるということは大切なことになるのです。「上善はみずのごとし。水は善く万物を利してしかも争わず。水のよさは、あらゆる生物に恵みを施し、しかもそれ自身は争わず、それでいて、すべての人がさげすむ場所に満足していることにある。このことが水を道にあれほど近いものにしている。

人びとが住居をつくるには、地盤のしっかり土地をよしとし、いろいろな考えのうちでは奥深いのをよしとし、友だちと交わるには心やさしいことを、ことばにおいては信義あることを、政治的においては秩序だったことを、事の処理においては実効を、行動においては時をたがえないことをよしとするならば、いずれの場合も人は争いがない。(8章)。前掲書、77頁

安藤昌益は、老子の「上善は水のごとし」について、次のように批判しています。「水は人にあっては智であり、水中に五行がそなわっている。だから水の徳用が盛んなのである。四行の木・火・土・金の徳用も同じである。それぞれ別個のものではなく、水ばかりを称賛するのは偏りである」。名著シリーズ野口武彦編集「安藤昌益」中央公論、114頁参照

形のない、水は、無為自然ということで、何ら作為しないことで、無為自然を大切にするのです。道はつねに、何事もしない。だが、それによってなされることはない。欲望を断って静かならば、天下は自然に安らかになる。

ここでは、欲望のない状態を作りだすことによって、天下は自然に安らかになる。つまり、欲望こそが争いの源泉という考えをもっているのです。(37章)争いの社会をつくるのは、理想的には、諸侯や王が欲望をもたないことを大切とするのです。無為自然ということで、なにもしないことが理想の姿というのです。

天と地よりも先に存在した名のしらぬもの、それは、音もなく、がらんどうで、ただひとり立ち、不変であり、あらゆるところをめぐりあるき、疲れることがない。それは、天下、万物の母だといってよい。真の名をしいてつけるならば、「大」というべきであろう。道が大であるように、天も大、地も大、そして王も大である。世界に四つの大があるが、王はそのひとつ。人は地を規範とし、地は天を規範とし、天は道を規範とし、道は自然を規範とする。(25章)

空虚に向かって進めるかぎり進み、静寂を一心に守る。そうすればあらゆる生物はどれこれも盛んにのびる。わたくしは、それらがどこへかえってゆくのかwゆっくりながめる。あらゆる生物はいかに茂り栄えても、それらがはえた根もとにもどってしまうのだ。根もとにもどること、それが静寂とよばれ、運命に従うといわれる。運命に従うことが常とよばれ、運命を知ることは、明とよばれる。

常を知らなければめくらめっぽうにやってしまい、災いにあうおとになる。常を知る人は、すべてを包み容れることができる。容であることはそのまま偏見のないこと、公であり、公であることは、そのまま王であることであり、王であることは天であることであり、天であることは道であることである。道は永久なのである。(16章)

安藤昌益は、老子の虚無無寂について、次のように批判しているのです。「人道・地道・天道は自然進退の一気である。これを別々のものと思っている。自然進退の一気を知らないのである。虚無空寂をもって、自然として、今日の天地・人・自然と別個のものであるとして、迷っていると」前掲書、133頁参照。

 老子のみる自然は虚無空寂ということで、人道・地道・天道は別個のものと考えているが、実は人間が積極的に直耕して、自然の進退の一気として、天人合一となって働きかけていくことをさしているのです。

 

 孟子の人倫と安藤昌益の天人合一論の違い

 安藤昌益からみる孟子の人倫は、「初めから治める者と治められる者の区別があって、上下の制を立て、天道を盗んで以来、乱世となり、治まるとみて、また乱世となる。孟子は、かえって書物の学問をもって上に立ち、耕さずに貪食して庶民の直耕を責めとることを天下の人を治めることだと思いこみ、天下を治め、民を救うのに暇がないのだから、耕さなくても道にかなっていと考えたのである」。前掲書、186頁参照

安藤昌益は、孟子の和の考えで、はじめから治める者の上と、治められる民と区別して出発しているとしています。その法制から乱との関係で和をみることが間違っているとするのです。そして、天人和合という見方を深めて行きます。天道と人道は合一ということなのです。孟子は、天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかずということで、学芸・法術の文章の理として論じているだけで、天の和、地の和、人の和が合一して備わっていることを論じていないというのです。

人の和に過ぎる道はないと誤ってみるというのです。人の和は、乱から生じるということですが、人の和を、仁をもってして、ひとたび治まるが、再び繰り返し乱が起きるというのです。

天の時と地の利とが和合して、人・物の子が実り、生じ、また生じて尽きることがない。これが天地の直耕である。だから、天下というものがあるのは、この天の時、地の利があるおかげである。

真の人の和を得ようとするならば、天の時と地の利とが直耕して、人・物を生ずるのと、人間の男女の直耕とが同行するときに、はじめて天・地・人が一和して無乱平安なのである。おれが真の人の和である。上に立つことを欲するときには、世はかならず乱れに乱れて乱が絶えることはないであろう」。188頁~189頁参照

人の和ということは乱から起きるのですが、その乱の根本的な原因であるところの天の時と地の利の和合というところの天地合一になる直耕の本質にふれていないのです。

 

 

士農工商の四民は立てるのは聖人の大罪

 安藤昌益は、士農工商という四民を立てているのは、聖人の大罪としています。武士がいるから乱が起きるというのです。武士は、君の下に身分を立てて、庶民の直耕の所産の穀物をむさぼり、もし気が強くて、規則・命令に背くものがあれば、武士が大勢でこれを制するのです。聖人の命令にそむき、徒党をなして敵対する者は、武士をもって討伐するのです。安藤昌益は、武士は乱世が絶えぬようにする用途であるとのべているのです。

「武士というものは乱世が絶えぬようにするための用途も兼ね備えているのであって、おれを聖人が製作したことは天の責めをまぬがれぬことである。君の下の士は、多くは耕さず食うから、耕す者が足りなくて乱世が到来する」。自然の世には、治乱の名はない」というのです。前掲書、274頁

贅沢品をつくる工匠は無用の長物であると安藤昌益は考えるのです。「美しい家や城郭を建てるため、諸器財を自由に入手するため、美しい衣服や美食で華美をつくるため、軍用品のため、いずれも自分を利するためにこれを兼ね用いているのである。無益に家を飾り立て、器物を作り、船を造って万国へ渡り、珍奇な物を運用させるのは自由に似ているけれども、はなはだ天下の費用となり、大乱の原因となるものである」。前掲書、275頁参照

贅沢品をつくる工匠を否定しているが、この問題を考えるときに、贅沢品が権力をにぎっていくうえでの贈答品になっていたことをみておかねばならない。現代的に贅沢品一般を否定しているのではなく、世の乱、権力を握っていく欲心、特権的に栄華を誇り、遊楽していることに、直耕せずに民の財を盗むことから出来るとしています。

その盗んだ財貨で快楽にしたっていることへの栄華への対価の象徴としての工芸品づくりを求めて、工匠につくらせていると批判するのです。さらに、安藤昌益の商人の見方は社会の敵、公敵として鋭く批判しています。これは、贅沢する上の人びとの欲求を満たすための物品を取引し、金銀を貯蓄していく君主などの上の人びとと結んだ特権的な豪商層に対する批判です。決して、江戸の都市で暮らす人々の塩や野菜、醤油や味噌など日常生活の小売をする商人層を指しているのではないのです。

 

金銀を採掘したのは誤り

安藤昌益は、金銀銭を採掘して、鋳造したのを自然活真にはずれると批判するのです。

「金を採掘して金・銀・銭を鋳造して、天下に通用させた聖人の所為に始めるところのものである。自然を誤るものといわなくてはならない。五行とは自然の妙用であって、金だけは山の土石中に隠れ伏していて外に現れないものである・・・人間の暮らしのためには、木、火、水、土で事足りるとするのです。「人間のために、木は家・耕具・用器となり、火は煮炊き、夜の灯火、暖房の用となり、水は煮炊きの湯、田畑の用水となり、土は居所・田畑となり、焼けば瓦や鍋蓋の用器となる。これによって人間のための用途はすべて事足り、調達される」。前掲書、276頁

金だけが五行のなかで山の土中に隠れているのです。金を掘ることは自然から外れることで、それを利用することが無用のものとするのです。そして、金は掘って、とるばかりで、それを土に戻さない。まさに、自然を破壊していくという大変なことになるとみているのです。「金を年々掘るばかりで、土に戻すことをしなければ、によって、土中では、金気の堅めが、弱く、天気は濁りやすく、不正の気が行われて人間は病気になりやすく、海の気は澄みにくく、水は沸きにくく、山は崩れやすく、河は埋まりやすく、地震は起こりやすく、人気はもろくなって体内に病気が発しやすく、山には木が生えにくくなるにちがいない」前掲書、276頁。

このように、金を採掘することに、警告するのです。直接的な因果関係ではなく、金の価値を重視することによって、多くの災難が人間社会と自然界そのものにもたらされていくということです。

人間の気持ちは金の効用によって、欲心が起きて、華美な暮らし贅沢と歓楽のために、金を求めていくというのです。ここでは、自然真の清浄、正直の心が金銭の欲望のためにかき乱されていくというのです。

「万国すべてみな欲に迷う。船にのって万国に渡り、国産の物品を金銀に替え、国に帰れなくなることもかえりみず、海外に渡航し、国ごとに市を開いて都市も田舎も物と金銭とを交易することになった。これを売買と称し、商いと名づけて制度とした。・・・

 耕さずに食育することができるものであるから、むやみやたらに利欲ばかりこだわり、自然の人倫の道は夢にも思うことはなく、ちょうど旅路に迷って方角を失い、狐と狸に化かされる者のように、一人が相手をたぶらかして利を得ようとすれば、向こうはこちらをだましすかして利益を得るというありさまです。ただひたすらに金銭のために身命の滅亡さ知らぬ始末です」。前掲書、277頁

 利欲ばかりこだわっている市での取引の状況を、安藤昌益は、狐と狸のばかしあいで、相手をたぶらかして、利益を得ようともがいている姿は、人倫の道は全く忘れ去っているというのです。

この状況から、争いや乱が起きると安藤昌益はのべているのです。「天下を奪ったり奪われたり、国を取ったり取られたり、家を滅ぼしたり、人を殺したり人に殺されたり、大は盗、小は賊の罪のため、刑罰・死刑されたりするのは、上下・貴賤ともにただひたすら金銭を欲する一事から出ているのである。だから、上の高位、富貴の善人というのは、金銭をたくさん持っている者の名である。下の無位、貴賤の悪人というのは、金銭をもっていない者の名である」。前掲書、277頁

「金は、気としては上昇して天の外郭を固め、土を堅めて崩れぬようにし、ひとを住まわせ、天気を剛健にし、海の水を澄ませ、人気を沸騰させる。これが金の用である。しかし、聖人は山中の金を掘り出し、金・銀・銭を鋳造して、これを天下に通用させた。これ以、世界万国で金のある所を穿(うが)ち掘り、金を宝とするようになったのである。

聖人は自由に器材を調達し、華美な暮らしをし、金銀を蓄えた飾ることが心のままでできるようになった。庶民はこれを見、金が通用するようになって以来、欲心というものを初めて起こすようになり、万人すべて金をもって諸用を弁ずることができるので、栄華を欲するようになり、そこで欲心がさかんに横行する世の中になったのである。・・・

この金を用いて諸物に易(か)え、自分の欲する物を足らせる。そこで上下の万人が金さえ得れば身の望み、歓楽を達しやすいものだから、一命に代えてもと金を惜しむ世の中となる」。前掲書、276頁~277頁

商人が社会の敵ということは、商いの制度をかかわっている人々をさしているのです。金銭を欲する人々が天下を乱して、混乱させて、欲心をあおっているというのです。自然活真の世の大罪と安藤昌益はみるのです。

そして、自然の世には四民はないというのが安藤昌益の考えです。「自然の人間は、直耕、直織する。平野の田畑に住む人間は穀物を生産し、山里の人間は材木屋薪を産出し、海辺の人間は諸種の魚類を産物とし、薪材・魚塩・米穀をたがいに交換することができるから、海浜・山里・平野の人倫はみないずれも、薪と飯と菜の需要をまかなうのに不自由することはなく、食と衣を安んじることができるのである。直耕の常業には、欲がなく、上下がなく、尊卑がなく、貧富もなく、聖愚がなく、盗みがないから刑罰もなく、貪ることがなく、知識も説法もなく、争乱もなく、歓楽もなければ苦しくもなく、色情もなければ軍戦もない無事平安の世である。

これは、金銭というもののない自然の徳である。しかるに、世に聖人が出て金銀の通用を始めて以来、自然の人行・心情は、時代ごとにくりかえし利欲にばかり倒錯し、上が天下を欲すれば中は国を欲し、下は利倍を欲するという状態になった。その欲するところはみな栄華を欲するのである。栄華は金銀によってのみ成就される」。前掲書、278頁

 

聖人の作った私法の世が迷い・欲・盗・乱の源

自然活真の世は直耕の世であると安藤昌益は強調するのです。「無始無終の土活真が自感する四行の進退、互生の八気、通・横・逆の妙道は天と海であって、すなわち土活真の全体です。男と女は互生、神と霊は互生、心と知は互生、念と覚は互生、八情が通・横・逆に運回し、穀物を耕作し、麻を織り、生々して絶えることがない。これが活真の男女の直耕である。天と海とは一体であって、上もなければ下もない。すべて互生であって、両者の間に差別がない。世界はあまねく直耕の一行一情である。これが自然活真の人の世であって、盗み・乱れ・迷い・争いといった名目のない真のままの平安の世なのである。しかし、聖人がこの世に出現し、耕さずに何もせずにいながら天道・人道の直耕を盗んでむさぼり食い、私法を立てて税を責め取り、宮殿・櫻閣をかまえた。聖人が自然世を堕落させた」。前掲書、244頁~245頁 

 迷い・欲・盗・乱が絶えることがないこの世の現実として、安藤昌益は聖人の作った私法の世を批判する。そして、上に正人がいれば、この世を自然活真の世に改めることができるとしています。「もしも上に活真の妙道に達した正人がいて、私法の盗乱の世を改めるならば、この世は今日にでもあまねく直耕活真の世となることだろう。しかし、上に正人がいなくてはいかんともすることができない。とはいえ、盗乱の絶えることのない世を憂いて、ここに上・下ともに盗乱の世でありながら自然活真の世に達する方法がある」。前掲書、246頁

 安藤昌益は、私法の上下差別という誤りをもって、上下差別を否定する方法があると、具体的に現状のうちから自然活真の世への道をさぐっていくのです。

 

すべての四民に直耕させる意味

国主・諸侯に自分の田を直耕させる方法です。上に立つものが臣下や一族が多いのは、乱を恐れるからです。だから、乱がないように専心すれば、臣下や一族を少なくすることができるのです。そして、上の領有する田地を定め、上の一族にこれを耕させ、これをもって衣食を足らせるようにすればよいのです。諸侯もこれに準じて国主の領田を定めて、同じように直耕することです。

諸国の遊民を禁止して、かれらに田地を与えて耕作させることです。金銀の通用を停止するのです。金銀は天下をあげて利欲が盛んになり、シナからインド・オランダ・日本を奪おうとしたり、日本から朝鮮を犯した琉球を取ったりすることが起きるのです。贅沢は乱の根源であり、金銀の通用は停止すべきとするのです。

家老・用人・諸役人・平士・足軽などはすべて必要がないので、みな相応に耕作させるのです。工人の職にあるものは、上に相応、諸侯と民にはそれぞれに相応の家屋や器材を細工するものとする。美々しい家や精巧な器材の細工はこれを禁止ずるのです。ふだん細工物の需要がないときは、やはり相応に耕作するのです。

耕さず貪食すし、天道・天下・国家を盗む根源である学問の廃止・賞罰を廃止することです。学者に土地を与えて、人間は直耕することで、生きていくことができるのです。身をもって知ることです。

 寺僧に真の仏法を教えるために、田地を与えて耕作させることです。成仏と天真を合一するのは、直耕することです。直耕すれば生き仏になるのです。地蔵とは地は田畑であり、蔵は田畑の実りです。観音とは観は直耕が天真の自感であることを観ることである。音は、天真の息気の感である。だから、観音は天真の直耕の呼び名です。薬師、不動、大日如来阿弥陀などの仏像も田畑や直耕、穀物の実りなどを表しているというのです。

神官には、天神・地神・万物の神・人身の神・八百万の神は、天の日神が四つ時八節に運回して直耕の妙道であると教え、神官は、直耕の大本であるとさとして耕作させるのです。

医者は危うくなった命を救うものです。人の命は穀精です。病人に穀食を勧め、危うい命を救うのが医者の務めです。人身の備わり、万物の具わりは、すべて八気互生の妙道です。

商人は金銀を通用させて売買にしたがうため、利欲が旺盛であり、上にへつらい、直耕する庶民たちをだまし、真道を知らぬ者であります。上・下を惑わして天下の恨みをつくり、天真の直耕を混乱させる公敵であり、天道への謀反人であるのです。

易・暦・天文・陰陽家は、直耕を第一と仰がなくてはならぬ家柄です。書物の学問をやめて、直耕してはじめて、その道に達することができるのです。

職人である染め物屋は、藍染め一品にかぎってこれを許可し、種々の美しい染色をすることを禁止する。その一族に耕作させることです。桶屋は水桶一品にかぎってこれを許可し、飾り桶のたぐいの製造は禁止する。その一族は耕作させるというのです。

安藤昌益は、贅沢品、贅沢の建物などを極力嫌ったのです。それらは、庶民からの税を取り立てて上の者たちが欲を駆り立てて、贅沢をするためのものであり、世の乱を招いているという理由からです。王、諸侯の上に立つものをはじめ、すべての職についているものが直耕することが大切であるという考えが安藤昌益の自然活真の世をつくることであるというのです。

「上が耕さずに貪食すること、贅沢を欲することをやめさえすれば、悪事や盗賊の根を絶たれ、下では賊徒が絶えて、おのずとゆたかになるのです。上が金銀を蓄えるのは兵乱のときにこれを用いるためである。上に贅沢の欲がなく、下の暮らしがゆたかであれば、たとえ願っても兵乱は起きることはない。すでに兵乱もなく贅沢、欲もなければ、金銀をいったい何のために用いるというのか」。前掲書、255頁

 安藤昌益は、自然活真の世をつくっていくことで、上に立つ君主や諸侯、聖人などが、耕さず、金銀を貯めて、贅沢していることが世を乱している大きな原因であるとしているのです。このことから、贅沢品をつくる職人や贅沢品を取引することの商人について、厳しく批判もするのです。例えば、藍染め一品に限って許可をして、種々の美しい染色をすることを禁止するというのです。ここには、上に立つものが贅沢品を消費することが、税を厳しく取り立てて農民たちの暮らしを苦しめているという状況を告発しているのです。商人も贅沢品を上に立つ君主や諸侯、聖人と取引することで、金銀を貯蓄して、贅沢を享受するということなのです。

 

交易とそれぞれの土地での直耕の生産物の違い

それでは、交易それ自身について、安藤昌益は、どのように考えているのであろうか。すべての暮らしていくうえで、自給自足にやっていけるわけではなく、それぞれの地域での産物を交換していくことの大切さも指摘しているのです。

それを安藤昌益は自然経済の物々交換の交易の役割としているのです。「すべて田畑にすることのできる土地からは、八穀の類が生ずる。穀精が男女(ひと)となるから、山岳地から遠く、土地が広くて用水の便のある場所に町や村を作るべきである。諸侯は戦乱する恐れがないのであるから、城をつくることを無用にして、住家を町家にするのがよい。山が近い所では、川の水があって田畑となりやすいところに村里をつくるべきである。海辺では、用水の便があり、河川が海に流れる土地に村々をつくるべきである。諸国天下どこでも、水の便がよくて田畑となりやすいところに村々をつくるべきである」。田畑をつくれるところに村々を設置することを望んでいるのです。そこでは、用水の便が大切にするというのです。そして、諸侯は、みんなが直耕し、特権的に贅沢をしない世の中で、争いのない太平の世をつくっていけば、城も必要なくなるというのです。

そして、それぞれの地域ごとの自然条件に適した生活材の生産を奨励して、その交換していく大切をのべているのです。「山が近い所では山の木を採って焚き木にしてよい。山が遠い所では、田畑になりにくい岡野に植林し、さきに成育した木を採って焚き木にし、採った後に苗木を植えて、林が伐採しつくされてしまうことのないようにこれを続ければよいのである」。このように、積極的に植林を継続していくことの重要性を指摘しているのです。自然のままの状態での木を伐採するのではなく、植林や苗を育てていく必要性を指摘しているのです。この行為を直耕になっているのです。

さらに、山里や海辺で、田が作りにくいところで、畑の多いところでは、工夫しての作物の奨励をしているのです。「山里や海辺で、畑が多く田が少ない土地に住む者は、栗・稗(ひえ)・黍(きび)・麦・蕎麦(そば)などを多く作り、米を少なく作って、直耕して食生活をいとなむのがよい」。

 広い平野で暮らすものは田を多くつくり、畑作での栗・稗(ひえ)・黍(きび)・麦・蕎麦(そば)を少なめにすることをのべているのです。「広い平野で、田が多く畑が少ない土地に住む者は、米を多く作り、栗・稗(ひえ)・黍(きび)・麦・蕎麦(そば)を少なく作って、直耕して食生活をいとなむべきである」。

莢(さや)穀の類としては、大豆・小豆・角豆(ささげ)・そらまめなどを主として栽培し、味噌を作って食べるのがよい。麻と綿とを耕作し、織って着るのがよい」。

以上のように、広く生活に必要な資材と食べ物を自給自足の生産をできる限りすることを奨励している安藤昌益です。そして、贅沢することを戒めているのです。「美食と美服とはこれを厳重に禁止しなくてはならない」。贅沢を世の大乱と考えた安藤昌益は、絹を衣服に用いることや酒を飲むことを禁止したのです。「絹はもともと蚕の巣であって、人間が衣類にするために自然に備わっているものではない。麻と綿とは天真から与えられたものである」「人間に備わっている食物は、穀物と野菜である。酒はもとより人間の飲み物として自然に備わっているものではない。人間のために大毒である」。

絹を素材にした衣服と着ることや酒を飲むことを禁止しているのです。まさに、これらは、贅沢にふけり、天道に反して、人の心を私欲によって、狂わせるという見方です。ここには、厳格な贅沢に対する禁欲主義がみられているのです。元禄時代に国内の商業が活発になり、贅沢品の絹を着る人びとが増大していくのです。

上に立つ将軍の一族、諸侯の武士、豪商、支配に仕える儒学者など、多くのものが絹の衣類の製品を着るようになったのです。儒教で、贅沢は社会秩序の逸脱を意味するとされたのです。江戸幕府贅沢禁止令で、農民の服装に、1642年に、襟や帯に絹を用いることを禁じたのです。百姓は、布・木綿に制限されたのです。江戸の元禄文化以降に、絹の素材の衣類を着る人びとの需要の高まりで、江戸近郊の農村も蚕を育てる農家が増えていくのです。

そして、従前に植えていた大豆の畑が少なくなり、東北の山間部の焼き畑農業に移っていくのです。焼き畑の大豆畑は循環的な農業ではなく、地力が衰えれば放棄されます。ところが、そこにくずが繁殖して、イノシシが激増していくのです。まさに、イノシシの被害が起きたのです。八戸の城下までイノシシが現れる状況になるのです。いままでの農業と自然生態系が大きく崩れていくのです。

広辞苑の辞書では、贅沢 の意味を、必要以上に金をかけること、分に過ぎたおごり、ものごとが必要な限度を越えていることとしています。この意味から、贅沢とはなにかということを時代によって、人びとの生活の水準や生活様式が変わっていくので、安藤昌益が生きていた時代に対応させて、深めていくことが必要なのです。

それでは、交易のことをどのように考えているのでしょうか。例えば、塩のように、生きていくことに欠かせない食材にとっては、「海の近い村の住人は、海水を煮詰めて塩を取り、諸国に送り出して、米・栗などの穀類と交易して食生活を営むべきである」。塩の生産者のように、交易によって、生活財、食材を得ていくことを決して否定してはいないのです。自然経済のもとで自給自足を大切にしているのですが、同時に、それぞれの地域の自然条件によって、適地適産ということがある現実をみて、それぞれにあった生産の奨励をしているのです。前掲書、251頁~252頁参照

 

  • 上に立つ者の直耕と政治

 

政治の徳と直耕

 政治は、自然のうちにあるものではなく、まさに天地宇宙の道にないというのが、安藤昌益の見方です。「治乱は自然の天道はなく、時々の君主の賢不肖にある。治乱とは政治のことである。政治が正しければ治まり、政治を失すれば乱れるのである。政治とは治乱の別名にほかならない」。前掲書、147頁

 安藤昌益は、徳を欠いた政治はかならず乱れるといわれていますが、しかし、大切な見方である天の直耕を見落としているというのです。つまり、秋の収穫がなければ自力で政治をすることができないということを聖人たちは見落としているのです。

「天が秋の収穫をもって人倫を養えばこそ、徳だの文だの政治だという私論ができるのである。もしも天の直耕による秋の収穫がなかったら、何を食べてこんな議論をするというのであろうか。私論などしなくても、ただ天とともに直耕して自力で生活すれば天に合致するだろう。

・・・徳行は、天道の直耕に似ているが、事実は耕さず天道を盗むものである。文字は、文字・書物だけの知識であり弁舌であり、人柄がいかにも天の行いに似せるけれども、やはり耕さず天の行いを盗むものである。政治の学は、これも天道の四時直耕の妙行に似ているが、やはり耕さず天道を盗むものである」。前掲書、149頁~150頁

徳を用いて国を治める、春の花の徳があり、しかる後にはじめて秋の収穫があるという徳の私論よりも直耕による秋の収穫による自力ということが大切なのだとするのです。徳行のことばは、天道ということで、騙されやすい気であるが、直耕という自然活真の人倫からみれば盗みとったことになるのです。

 ところで、孔子の弟子の曽子は、君主から俸禄を受けずに直耕して、食を賄ったのです。君主にへつらうことをしないために、禄をうけなかったというのです。こおことについて、安藤昌益は次のようにのべていす。「君主が自分に与える天道だ、といったのは君主にへつらうためではない。禄を受けまいと、思ってこういったのである。君主が禄を与えるのも、君主の所有物を与えるわけではない。国を盗んでいるのである。盗みの分け前を与えようというのである。だから、曽子は、自分が禄を受けたら天道を盗むことになると、言ったのである」。

「禄を受けて耕さずにこれを食み、無理に人の上に立ち、わずかな栄華に迷って天道を盗むようなことをしてよいであるか、天道を盗すんで罪をうける者が自分一人だけであるというなら別に苦痛はない。しかし、天道を盗んで耕さずに禄を食み、無理に人の上に立って天下を治めようとするのは、一見人々のためにかたじけないものであるから、その下はかならず乱世となって、天下国家大難の迷妄におちいってやむことがあいであろう。

 自分は天下の苦痛・乱逆が永劫に続くことを憂慮して禄をむさぼるいまいと考えたのである」。前掲書、178頁

 安藤昌益は、自分は曽子の思想の後継者として、自然真営道の学問統括で曽子の天道を示したのです。曽子だけが直耕こそが、天道であると知っていたが、それを書物に表さなかったので、後世に伝えることができなかったとのべるのです。

 

天下を平和にしようと欲するならば直耕の天道を上政に

天下を平和に欲しようとおもうならば、農耕の天道をもって上政を基準にすることであると安藤昌益はのべるのです。「農民は直耕と安食・安衣をもって天道とする。だから、天下を平和にしようと欲するならば、すなわち農耕の天道をもって上政とし、上主は直接手を下して農耕をしないにせよ、これをもって政治の極(基準)となして、不耕貪食の徒を減少させ、法を売る異形異相の者を根絶するならば、永久に乱が起こることはないであろう」。前掲書、194頁

安藤昌益は、農民の直耕から学び上政をすべきとしているのです。安食、安衣を基本に天道の政治を行っていけば、たとえ、君主が直耕しなくても、治世において、直耕するものを増やしていけば戦乱を起こすことはなくなるというのです。上の者が直耕することをしないえ、栄華と贅沢にふけっていれば乱のもとになるというのです。

「もしま上が耕さずに貪食して栄華・贅沢にふけったら、下はこれを羨んで財貨を盗み、乱をはじめるのである。上がこれを明察して栄華・遊楽の奢りをいっさいやめるのであれば、下にも羨望の心がなくなり、欲心をおのずから失わせるだろう。これはすなわ上がみずから盗みの根を絶つことである。だから下の者も枝葉の賊をみずから断ち切って、上・下ともに欲をも賊をも根絶したならば、たとえ願っても乱の名を知ることはないであろう。これがすなわち、また上・下の区別のある法世でありながら、そのまま自然活真の世であることなのである」。

上に立つ者が、耕すことをせずに栄華に贅沢をふけっていることが乱の根本原因であることから、その根を絶つために上下の区別をなくすことであるとしているのです。上が耕作せずに賞罰の制度を立てても天道を盗んでいることの根本を取り払うことが大切としているのです。無限に盗み・兵乱・罪悪・迷妄がとどまることがないのは、上のものが直耕せずに、栄華と贅沢しているのが原因なのです。

 

上・下の区別の困難性であれば上・下の分で自然活真の世に近づける

安藤昌益は、上・下の区別を絶つことが出来なくても、自然活真の世に近づく方法として、上・下の分を立てることをあげているのです。自然活真の世をつくっていくうえで、いきなり、上・下の区別をなくことをしなければ意味がないということではなく、それに至る過程を柔軟に示しているのです。この見方は、善悪の選択の判断基準を黒か白という単純な見方ではないのです。「上・下の区別を絶つことが不可能であれば、せめて上・下の分を立てながら上・下の差別のない活真自然の世に合致する道があることを明らかにして、ここで論じている・・・

もしも下なる諸侯や民が耕作や紡織を怠り、遊び奢り遊逸にふける者があった場合には、上はこれに刑罰や誅伐を加える。上はこのために上に立って政務を弁ずるものである。それ以外のことに関与してはならない。もしも生まれ損ねの悪人が出るようなことがあった場合には、その一族、一族にこれを殺させ、上の刑罰や誅伐を加えさせるはならない。これを村の自治とする。一族ごとにたがいにこれを糺して、いれば悪人のたぐいが生ずることがないのである」前掲書、253頁。

安藤昌益は、諸侯や民が耕作や紡織を怠るときは、上の者の政務として、刑罰や誅伐を課すことをあげているのです。そして、生まれつきの悪人の刑罰や誅伐については村の自治としているのです。

上・下があって上・下ではない世を安藤昌益は、模索するのです。上の贅沢の欲が、民を困窮させて、民が上を憎むのです。そこでは、民が上を心服することがなく、乱の原因になっていくというのです。従って、上が贅沢をしない、金銭をたくわえないことが重要だとするのです。

「上が耕さずに貪食すること、贅沢を欲することをやめさえすれば、悪事や盗賊の根が絶たれ、下では盗賊が絶えて、おのずと、豊かになるのである。上が金銭を蓄えるのは、兵乱の時にこれを用いるためである。上に贅沢の欲がなく、下の暮らしが豊かであれば、たとえ願っても兵乱が起きることがない。すでに兵乱もなく贅沢の欲をなければ、金銀をいったい何のために用いるというのか。・・・

上には上の領田を耕作させて衣食を安んじ、志ただ直耕を怠る者を刑するだけにさせるならば、下民の間に直耕を怠る者が出ることはないのである。上のものは下をいつくしんではならない。下の者は上を貴んではならない。上の者が下をいくつしまなければ、下の者が上の恩を誇ることはない。下の者が上を貴ばなければ、上が下の敬いにおごることもない。うえにおごりがなく、下に誇ることがなければ、上・下の区別はあっても上・下の身分の差別はない。ここにおいて、欲もなく、盗みもなく、兵乱もなく、賊もなく、病もなく、患いもない活真の世となるのである。」。255頁~256頁

上のもつ領田を上の者に耕作させて、上は、民が耕作を怠るものを刑するだけとするというのです。そして、上の者の心は、下をいつくしまない、おごりをもたない。下は、上を貴んではならない。恩をもってはいけない。このように上・下のもつ意識を変えていくことによって、上・下の区別があっても心や意識では、なくしていくということを安藤昌益は考えているのです。それには、まず上のものが領田を自ら耕すことであるとしているのです。

上の者も下の者も同じ人間であり、生きていくには、働くことであるのです。人間の情意や行為は活真の妙用であり、上の者が主として、活真の妙用を主導する職分をもっていると安藤昌益はのべるのです。

 「上、君主も人である。下民もまた人である。人々の他にこれといって形象を備えたものを指し示すことができないのが活真である。おのように、いかなる形象もなく、生きてひとり感(はたらく)ものであるからこそ、妙徳・妙用そそなえた真がおこなわれるのである。だから人間の情意や行為は活真の妙用である。

この妙用の主は活真である。主は上である。だから、下民の情意・行為・生業は、主たる主の妙用である。活真の職分をもって上に立ち、妙用をもって下民とする。・・・

現状のもとではやむを得ず上・下を立て、世を平安にしようとするならば、上・下という私制の言葉を宇宙活真の妙用に似せて世にあてはめなくてはならない。妙徳は上であり、妙用は下であるが、妙徳と妙用の間にはなんら差別がない。

上と下との間にもなんら差別もない。このように考えて上に立ち、政治をおこなうときは、上・下のある私法の世にありながら活真宇宙の妙道に合致し、治乱・盗賊・迷妄などの名もなくなるであろう。上・下ともに横気に落ちる罪をまぬがれて、永久に人の道、天の道から離れることはないであろう」。前掲書、256頁~257頁

安藤昌益は、孔子を世間で、聖人とみているが、人間が生きていく根本の直耕をすべての人々が行っていくことを言わないが、その弟子の曽子こそ、活真宇宙直耕の人道を体験して、禄をもらうことが君主にへつらうことになるとして、天道を盗むことになると考えて、辞退したのです。曽子は、直耕を積極的に実践した学者として、理想の正人として、評価するのです。天下を治めることが民の生きていく財を盗みと兵乱の根であることを孔子は知らなかったというのです。たとえ、上・下の別を立てたとしても、上・下ともに直耕して活真の妙道を失わずにいれば、欲もなく、兵乱もなく、安泰無地なのである。孔子の弟子たちで、曽子ひとりが実践したとするのです。