社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

現代社会における自由矛盾の探究をーバーリンの自由論から

 現代社会における自由矛盾の探究をーバーリンの自由論から

はじめに・生きがいへの自由を求めて

 

 

 

 現代社会の矛盾

 あなたは自由ですかときっぱりと胸をはって、自由ですと答えられれば、本当に幸せと思います。現代に生きる人びとの多くは、自由なのかと迷うことでしょう。何が本当に自由なのかと戸惑うこともあるのでは。拘束のない、気まままに生きていることが自由なのかと。自分の心が充実して、毎日が楽しく生き生きしていれば問題はないと考えますが、何か将来に対する不安、心の中にさびしさがあるのではないでしょうか。それが、何からくるのかと、ああでもない、こうでもないと、錯綜するのではないか。

  現代の日本社会は、さまざまな社会矛盾があります。仕事や生活に生きがいをもてずに、孤立し、不自由を感じることはないでしょうか。現代日本では、そのような不自由を感じる人が数多くいるのではないでしょうか。この原因は、新自由主義のもとでの、長時間労働、弱肉強食の競争、生活苦、将来への不安、格差拡大、差別などがあると思います。

  ところで、人類の歴史で、近代社会の形成は、市民的な自由の獲得でした。それぞれの国によって歴史も異なります。しかし、実際は、資本主義の自由競争で、弱肉強食の実態が起きて、格差拡大をしているのです。その競争社会の過程では、自由時間の極端の減少、労働疎外や仲間の絆がくずされる現象が起きたのです。仲間との絆や連帯のない、孤独の状況で、拘束を受けない自由の状況が作り出されるのです。そこでは、自由からの逃走意識が起きるのです。

  さまざまな差別は、競争社会のなかで自己の弱さを見せられないということで再生産されていくのです。負け組に多くの人がなっていくのは資本主義的競争の矛盾の結果です。

  多くのハンディキャップをもつことや、個々の能力的・努力の弱さ、貧困の克服は、矛盾をもつ人々の団結と連帯が必要です。団結と連帯で、さまざまな資本主義的矛盾の人間尊厳から解放されるのです。このことがなければ社会的さまざまな差別は拡大再生産されていくのです。差別の克服は、意識の問題だけということに狭めてはならないのです。資本主義的矛盾によって再生産されていることを決して見逃してはならないのです。

  さらに、都市と農村の対立、植民地支配がありました。その後も先進国と発展途上国の格差による民族差別が続きます。先進国での発展途上国からの外国人労働者の差別が起きているのです。都市と農村の対立で、農山漁村の過疎化が起きて、農村では高齢者の暮らしが厳しく限界集落の形成がされているのです。

  人間が自由であることは、平和であることが前提です。戦争は、国民全体が不自由になります。戦争を防止することは国家的に自由を保障することで。この意味で、日本国憲法の9条は人類的理想です。この理念で、平和外交を行っていくことは自由を守る国家の大きな責任です。とくに、隣国との平和友好は、極めて大切です。

  実際は、人間らしく生きるための自由を感じる人は、ごく少数にすぎないと思うのです。

 

理性的自由を求めて

   欧米先進国での市民革命による近代社会の歴史は、資本主義的大工業制によって、長時間の過酷な児童労働や女性労働の動員が行われました。

  それは、人間の尊厳を逸脱したことで、自由ということから非人間的な労働強制ということで、人間の尊厳から真逆のことが起きたのです。このことによって、労働力の再生産に大きな弊害をもたらしました。この人間的な改善のために、社会的な運動もおきていくのでした。過酷な長時間労働からの労働時間短縮は、社会の大きな課題であったのです。

 大企業の経営者、中小企業企業の経営者は弱肉強食の資本主義的競争のなかで、争いに巻き込まれていくのです。ウエバーがのべたように禁欲的ピューリタンニズムのような資本主義の精神は、絵に描いた餅になっているのです。拘束を受けない気ままな自己欲望を払拭していかねば厳しい争いのなかで孤立した孤独の精神におおいつくされていくのです。

  経営者も心の葛藤をもって人間的善意が心の解放をもたらすのです。その証として、論語と算術、人間尊重の経営、社員と共に学ぶ経営などが評判になるのです。それらは、経営者の精神的な模索です。資本のもつ蓄積拡大の欲望のなかで、人間尊厳の精神と葛藤していくのです。

   ここに、修正的資本主義ということでの社会的コントロールによる自己欲望、支配欲、出世欲、名誉欲が抑制されていくのです。ここには、資本主義での理性的知性による自由への労働者や民衆との社会的運動との調和的な基盤があるのです。社会主義共産主義の志向が社会全体のなかで調和によって、一歩一歩前進して、人間尊厳の社会的ルールの確立があるのです。

   この反対の方向として、新自由主義のもとでの自己欲望や支配欲、権威欲、金銭欲・所有欲が拡大してのです。人間の自己欲望によって、争いが絶えなく、戦争へと進むのです。20世紀は、帝国主義間ごとの植民地獲得競争のなかで、資本と国家の結合によって世界戦争が起きたのです。現代の戦争も資本と結びついた世界支配、自国の権益欲、民族優位欲・拝外主義欲、宗教的支配欲などの国家の欲望をみていくことが必要です。戦争は人々の自由侵害の最大の行為です。

   戦争と平和をみていくうえでの、それぞれの価値観、民族的文化、それぞれぞれのの歴史文化を認めていく調和的理性、話し合いによって、理性的自由を獲得することが求められているのです。この意味で、平和のためには外交努力の話し合いが大切になってくるのです。人間にとって、戦争ほど不自由な状況はないのです。

  人間の争いが暴力に発展しないように、人びとは歴史的に努力してきました。日本の歴史も平安時代や江戸時代にみられるように国内での戦争はなかったのです。和の精神、大乗仏教的な殺傷を否定する見方や、人間のもつ自己欲望を利他の欲望の尊重、修行や懺悔の精神が争いを大きくしないような努力がされてきたと思います。

 

自由時間の問題

 働く人々の自由時間を少しでも拡大していこうとすることや、雇用契約・労働、社会保障のルールづくりが、社会・労働運動によって、勝ち取られていくのでした。

  自由に自分自身で処分できる時間の拡大は、知識や文化の獲得、スポーツによる充実感や健康保持など人間らしい生活、理性的な人格形成にとって大きな意味をもったのです。

 理性的な人格の形成が多くの人びとに定着していくことは、社会的ルールの形成にとっても大切なことです。それは、新しい創造的なものを生み出し、新しい産業を形成させる力にもなるのです。

  さらに、人間の尊厳を重視していくことは、人間的な文化的な趣味、工芸、観光などの人間の新しい産業分野も開いていくのです。人間尊厳の社会的なルールによる社会的な制度も充実していくのです。これらは、人間の主体的な学びによって実現していくことを見落としてはならないのです。人間の尊厳は、人間らしい文化をもった経済を発展させていくのです。

 これらは、人間の社会的な自由の獲得の歴史でもあったのです。自由な時間の拡大は、青年や成人の学びの保障にもつながっていくのです。学びは、自分の労働の質の充実にもなって、単純労働から知的な複雑な労働、労働の自由な選択になっていく。労働の疎外という自己のやりがいをもって、自分の労働への社会的誇り、生きがいをもてる条件もつくりだしていくのです。単に、給料を得るという金銭的な労働従事ということではなく、労働の社会的な意味が見えるようになっていくのです。

 

 社会的自由の獲得のジグザクの道

 ところで、社会的な自由の獲得は、常に発展していくばかりではなく、ジグザクの道で、大きく後退していくこともあったのです。とくに、近年は、新自由主義のもとで、歴史的に獲得してきた社会的なルール、社会的な自由が、営業の自由、弱肉強食の競争社会の持ち込みで、民衆が勝ち取ってきた人間尊厳が規制緩和ということで、大きく後退していくのです。

 このことで、現代の日本社会の実際は、長時間労働、低賃金、雇用・将来の不安などがあるのです。その結果、日常生活が、自由になれないと思う人々が数多くいるのです。生きがいをもてないことから、人生を悩む人びとが多いのです。

 それは、物理的な拘束だけではなく、生活不安、進路の不安、人生での自己不信、孤立感、挫折感、負け組意識など自我喪失などの精神的面からも強く不自由を感じているのです。

 現代社会は、お金で日常的生活が支配されています。自給自足の生活からすべてが自己の欲求を実現していくいは、お金が必要な市場社会です。お金がないことは、不自由さを感じていくのです。人間の幸福の実現は決してお金ではなく、お金は欲求を実現していくひとつの手段です。しかし、その手段としてのお金を得ることが目的となって、拝金主義に陥っていくのです。経済的自由は、現代社会では重要な要素になっています。

 

生きがいのための学習と主体的自由

 生きがいは、人間として幸福実現のなかで大切なことです。生きがい、やりがいは、主体的に自由に生きることで重要な要件です。この生きがいやりがいをもつことが、難しい社会にもなっています。自分がなにをやりたいのかを模索する青少年も多く、中高齢期になっても自分のしてきたことが、思ったようにやりきれず、または、挫折して、ほんとうに自分の生きがいであったのか、やりたいことであったんかと悩む人も少なくないのです。

 個性の自己発見や自分の社会的役割・価値などの探究は、生涯にわたって必要な課題なのです。自由に生きることは、自己発見という理性的な営み、学びが求められているのです。

 現代社会は、効率主義が求められて分業が一層に進み、狭い目的合理的な業務遂行になるのです。それが、官僚的な社会形成いなっていくのです。人間の仕事が社会の歯車のごとく、小さな世界に人びとは閉じ込められていく状況になるのです。このなかで弱肉強食競争社会の状況が加わって、人びとの精神は孤立状況になって、社会、地域との関係を持ち得なくなって、一人で悩むのです。

 現代社会は、本来的に人間がもっている社会的存在、絆や連帯ということから遠ざけられているのです。自由に生きることでの仲間の形成と、自由に自己の意志によっての生きがいややりがいの社会参加ということが不可欠になっているのです。

 

資本主義の文明作用と新たな矛盾

 資本主義の形成時期における市民的な自由は、人類が獲得した歴史的な大きな成果です。封建的な社会的拘束からの自由は、人間の幸福実現にとって大きな画期でした。自由に選択できること、自分の意志で自由に行動できること、集会結社の自由、表現の自由、意見発表の自由は近代社会形成のときの市民革命によって達成されました。それは、すべての人間にとっての知性をもった人格発展の発展、幸福実現にとっても不可欠なことです。

  さらに、資本主義的な営業・経営の自由などは、市場経済の発展から市民的自由として、生まれて行きました。それは、人間にとっての幸福実現に不可欠な要素です。

 社会的自由保障のためのルールは、近代社会で形成された人間の尊厳、幸福実現をすべての人びとに実現していくためのものです。しかし、資本主義の発展は、弱肉強食の競争を伴って、新たな格差社会をつくり、競争の結果からの多くの負け組の社会集団をつくりあげていくのです。競争主義の結果は人びとの精神的な荒廃をつくりだすのです。励まし合いながら切磋琢磨していく向上精神とは本質的に異なるのです。

 また、所有・経営と労働の分離が進み、新たな疎外状況もつくられていくのです。労働過程における自由ということは難しい課題になっていくのです。分業体制も大きく進行していくことによって、自己の労働の社会的な位置も見えなくなって、経営からも疎外されていくのです。

 さらに、格差が進んでいくことで、失業問題も生まれ、社会的に人間らしい文化的な生存権も大きな課題になっていくのです。経済的に不自由が増大していくのです。

  この経済的な不自由の状況で、大量生産・大量消費という資本主義的な消費欲拡大があおられていくのです。それは、一層に借金などを膨大にかかえていくのです。生活のいびつな貧困が生まれ、お金をめぐっての退廃状況が起きていくのです。不自由性が消費欲拡大によって、詐欺や人をだますことが金銭欲のために気軽に行うことなどの社会的な混乱が生まれていくのです。やりたいことをやるという自由の錯覚がはびこるのです。

 

 自由の侵害は、社会的な市民的自由の制度の保障のルールという次元ではなく、生存権保障などの経済的な社会的な格差からの自由の課題が出てきています。個々の自由を保障していくために、他人の個々の自由、社会としての生存権が保障されない人びと、差別されている人びとの社会的な意味での自由の視点と制度的な面ばかりではなく、精神的な疎外感、孤立感、不安感なども自由をかんがえていくうえで大切になっているのです。

 また、それらには、個々の感じている拘束感、個々の欲望からの自由の発想からではなく、社会的に考えていく理性的な行為、理性的な他人の自由を考えていく道徳的な責任が必要になってくるのです。

  それは、宗教的な感情や感性だけではなく、学びによる人間としての人格の発達、理性的な行為ができるように科学技術の習得や社会的法や制度の認識の向上が要求されていくのです。



 バーリンの自由論を考えるうえでの現代の自由侵害状況

 本論では、バーリンの「自由論」1と2、小川晃一他訳(みすず書房)を読み、それを、私なりに要約しながら、現代社会の自由をめぐる社会的な問題を論じていきます。序論から、二つの自由概念などバーリンの自由論にそって、のべていきます。

 人類が資本主義社会形成の近代社会で獲得した自由は、極めて大切な課題ですが、その実現をすべての人びとに達成することは難しい状況です。資本主義の発展は、競争の結果、多くの負け組をつくりました。それは、社会のなかで、人びとの格差拡大をつくりあげていきました。階級的、階層的な差別も生まれていきました。

 そこでは、人間の尊厳、人間の幸福からみると多くの矛盾をもっているのです。つまり、個々の自由と社会的な生存権から人間尊厳の侵害が、現代社会の新自由主義のもとでの資本主義的矛盾が噴出したのです。

  新自由主義による自己責任ということで、弱肉強食の競争社会で、多くの人びとが生存権を侵されて、経済的な理由から文化的に保障された生活ができないという社会的に不自由な人びとが増えているのです。まさに、社会的自由が大きな課題になっているのです。

   資本主義的な営業の自由や選択の自由が、弱肉強食の競争主義競争に利用されているのです。封建的な社会制度から人びとが獲得した営業の自由や選択の自由という市民的な自由が、ある階級・階層にとっては、自由を謳歌している状況であるが、多くの人びとには不自由を社会的に生み出しているのです。

 ここでは、すべての人びとに社会的自由が、保障されない状況が生まれています。効用主義の営業の自由は、資本の独占によって、特定の人びとの自由裁量によって、国際的な資本、大企業の経済活動が行われているのです。政治的権力を支配する人たちは、個々の利益のための世話、財政的利益誘導、自己組織維持強化をすることによって、自らの地位を維持しようします。

   資本の独占集団は、政治的権力者の経済的財力を集めていく動機があります。いわゆる社会的にオープンにならない個々の権力を支配する政治家の裏金問題のような不正を産み出す基盤があるのです。

   人びとの生存権保障のためには、社会的ルールが必要になっています。つまり、自由とルール・規制の課題が生まれていくのです。社会を経済的に支配する国際的資本と大企業における営業・経営の自由は、人間の尊厳、生存権の保障、解雇規制の両立が求められています。

  現代日本では非正規職員の拡大や解雇規制撤廃議論などが国際資本や大企業の営業・経営の自由論から起こっているのです。社会的自由の保障には、市民的な自由のルールの規制が必要になってくるのです。

  それらを保障するためには、労働者が自立していくための労働組合の団体交渉権など、一定の社会的ルールの規制がなければ有効に機能しないのです。

  経済的に立場の弱い働く人びとの権利は、自らの仲間との・団結連帯によって保障されていくのです。それがなければ、競争主義のなかで分断されていくのです。分断は、一層に自律性を失って従属し、拘束感を増して、個々には孤立していくのです。

   働く人びとが自由になっていくのは、労働権の確立という団結と連帯によって、資本との話し合いによって、社会権が保障されていくのです。それは、いわゆる働きがいをもって、自由に生きていく保障にもなっていくのです。

  この働きがいをもつことによって、労働のなかでの創造力を発揮できる条件や経営への参考意見ができて、社会全体への生産力発展に貢献していくのです。経営者にとっても労働者の権利を尊重するためには、企業の大きな力になるのです。

  労働者ばかりではなく、中小企業や自営業者・農民など、国際的資本や大企業に、経済的に支配される人びととの関係に、競争主義の矛盾があるのです。ここでは、協同組合方式や団体・同業組合方式などで自らの社会的立場を強化していく連合や連帯が求められているのです。 個々の自由ということから、社会的に、集団性をもっての団結や連合、連帯という個々の自由を保障していく社会的な枠組みが必要になっていくのです。その団結や連合、連帯を目的意識的に起こさなければ、競争の結果、多くの人びとの負け組が生まれて、孤立現象が起きるのです。

   現代の世界的な情勢は、先進国と発展途上国、政治的仕組みの多元性があるのです。それぞれの国の歴史があり、文化も価値も多様です。先進国と異なって、多くの発展途上国は、植民地からの独立した国です。以前は先進国の植民地でした。

  そこでは、生産力発展の違いや教育の普及の程度などさまざまです。何が正義であるのかということでも難しい問題があります。世界的緊張のある情勢で、戦争をしないで、外交的努力、話し合いで、解決していくという基本が今日の世界情勢の正義です。自由・民主主義と独裁ということで、戦争と平和の問題が深刻になっています。戦争は、国家によるもっとも深刻な集団的な自由の剥奪です。



バーリンの消極的自由論と積極的に自由論

  バーリンは、消極的自由と積極的自由の二つの概念を提起した社会学者です。バーリンは序論では、彼の自由論の批判に答えるということで、論を展開しているので、非常にわかりにくい論述になっています。まず、消極的に自由についての評価を批判に答える形で展開します。

  この意味では、かれが、消極的自由論で展開した積極的な評価として、政治的自由としての権力などから干渉されない拘束や虐待からの解放、みずからの意見を自由にのべられることや、職業の選択を自由にできることを大切にしたのです。この件については、バーリンの二つの自由概念のところでのべます。序論での消極的自由については、次のようにのべます。

 「消極的な自由論は、社会的な政治目的、統一、調和、平和、合理的な自己開発、正義、自治、秩序など共通の目的のための協力に旗色が悪い。善なるものは、互いに結びつき、相互に排斥しあうことはない。

  それは、公私を問わず理性的な行動の目的だ。決定論問題の論点は、自由に選択できる意志と歴史における道徳的責任観念をもって、理性的に判断することで融和が必要である。

 「 歴史は、人間の意図、人間の動機、選択をとおして、つくられていく。それは、非人間化社会の力に還元できるものではない」と歴史がつくられていくうえで、人間の意図、動機、選択の意志をとおしてであることをバーリンはのべます。

 かれは、自由論について、平和、正義や自治、秩序などの共通の目的のために協力していくことと、それらが自由との共立になることを大切にしているのです。このためには、序論では、積極的自由としての理性的な行動の目的が不可欠というのです。つまり、歴史における道徳的責任観念、理性的な判断は大切になってくるのです。

  営業の自由の意志には現代社会の新自由主義の格差や孤立など、さまざまな矛盾があるなかで、人間の尊厳、生存権社会保障などの道徳的責任が大きく問われるのです。

 

選択の自由と社会的・政治的自由

 さらに、バーリンは、選択の自由と社会的・政治的自由について、次のようにのべます。「社会的・政治的自由は、自由な選択の領域が必要であり、この領域を縮小することは政治的自由と両立できない。政治的自由も、選択の自由も本来人間の観念に内在するものではなく、歴史的に生成するものである。資本主義文明の新しい産物である個人の権利、市民的自由、個人の人格の尊厳、プライバシーや対人関係の重視という価値体系のなかで生まれた」。

 政治的自由や選択の自由は歴史の産物であるというのです。つまり、資本主義文明の生産力の発展の結果の産物とみるのです。それは、人間の観念に内在するものではないという見方です。

  ところで、 この資本主義の発展は、新たに市場経済のなかで、資本と労働、労働と経営、所有・経営・労働などさまざまな社会的矛盾を産み出していくのです。

   そして、社会的矛盾が国家の財政規模が拡大していくなかで、支配政府の政治家と官僚機構も結んで、権力欲や金戦欲、搾取欲も含めて矛盾が大きくなっていくのです。

  とくに、官僚機構は、事務的な専門性、効率性などが進んで、国民との暮らしから遊離して、ますます官僚的に目的合理的に人びとを支配していくのです。官僚機構からの日常的な拘束は、税との関係や補助金を受けた場合に大きくなっていくのです。

  それは、企業においも巨大化することによって、組織の官僚化が進み、同じような官僚制の現実の仕事から遊離した弊害の現象が起きていくのです。 企業の強大化によっての官僚的拘束の問題があります。会社を辞めることによって解放されるようになりましが、それは、失業という問題に直面するのです。

  自由になるためには、職業の選択の保障のできる職業訓練や就職情報、職業あっせんを受けられる権利が必要なのです。つまり、安心で転職できる条件が働く人々の自由の条件になるのです。労働力の流動化は、働く人々の職業選択の自由のための職業教育が保障されていなければならないのです。

 ところで、行政的な官僚機構の拘束は、税金などの煩雑な業務からの行政事務命令にみられるように、暮らしに行政が深く浸透していることで、なかなかぬけることができないのです。

  競争的な補助金を受けた場合には、なおさらに、厳しい行政的な煩雑な些末な業務命令や業務の形式の強制が補助金を司る為政者の恣意によって行われていくのです。為政者に深く従属していく構造が補助金を介して大きくあるのです。

  競争的な補助金の仕組みは、厳しいそれぞれの活動財政のなかで一層に補助金を司る為政者に大きく振り回されて、それぞれの活動の自立性が失われていくのです。

 バーリンは自由の観念が歴史的な産物であるということを、生産力の十分な発展ということが必要であったことを次のようにのべます。

  「食料、燃料、家、それに最小限の安全がないところでは、契約の自由とか表現の自由との関心は、ほとんで期待できないのである」。契約の自由や表現の自由は歴史的に形成されていく必然性があったのです。

 積極的自由の観念は、自分が独立した人格を理性的認識によってもってことが不可欠です。それは、高次の自我であるとしています。そして、消極的自由は、経験的・心理的な低次の自我であると次のようにバーリンはのべます。

 「歴史的に積極的な自由の観念は、自分が独立した人格をもっているという理想的自我・高次の自我をもって、積極的な活動である。経験的、心理的な低次な自我とは区別されるものである。 共通の福祉、社会の革新的勢力、最も進歩的な天与の使命ということに同一視される。消極的自由の信条は、持続的な害悪を生じせしめることに両立することがある」。積極的な理性的な自由の観念は独立した人格をもっていることが必要とバーリンは、のべるのです。それは心理的な低次自我ではなく、学びをとおして理性的な自我をもっているということなのです。それらの行動は天与の使命として、歴史を作っていくというのです。

 

積極的自由を高次の理性的自我へ

 バーリンは、自我を積極的自由との関係で、高次の理性的自我と、消極的自由との関係で、経験的・心理的な低次の自我に区別するのです。そして、ここでは、消極的な自由の信条が公共的な面から、持続的に害悪を生み出すことをのべているのです。

 それでは、積極的な自由の信条は、公共の福祉や人間の尊厳からどうであったのか。積極的自由は、本来の自由そのものの人類史的な人間の尊厳や幸福ということから、それに大きく逸脱して、人びとに騙して、嘘をつき、拝金主義を煽り、権力欲、搾取する欲望、金銭欲などで、目的意識的に人びとをコントロールしていたことを近代史の100年間の歴史であったことを次のようにバーリンは、指摘しているのです。

 「積極的自由のチャンピオンたちが自分の信条を弁護するときにみせかけの議論や詐術を使うことがはるかに多く、消極的自由の信条者はそれをすることが少ない。

  不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きものに対して、野蛮な無鉄砲な、情け容赦のないことに、利用されてきたというのである。過去100年の間に、積極的自由の信条が社会の破滅的なことをしてきたことをみることが必要である。 積極的自由の信条は、功利主義を基礎としての特権への欲望、抑圧し、搾取する権力への欲望ではない。人間の尊厳を害することからの克服としての道徳的責任をもって、積極的自由の本来の本質を取り戻すことが大切になるというのである」。

  バーリンは、本来の積極的な自由を取り戻すことの大切さを強調しているのです。 自由とは、政治的な意味では、弱い者いじめ・抑圧の不在と完全に重なる。自由のみが行動を決定しうる唯一の価値ではないのです。バーリンは、積極的な自由の信条者、人間の尊厳からの自由を獲得していった本質を取り戻すことを大切としているのです。自由を考えるときに、それぞれ、人びとの幸福、人間の尊厳ということを社会的にみたときに、それぞれに矛盾することがあるのです。バーリンは、このことについて次のようにのべます。

  「ひとつの自由が他の自由を挫折させるかもしれない。自由は、より高度な自由をつくりだす条件を考えていくことが求められる。ある個人ないし集団の自由は、公共生活への十分な参与、協力・連帯・友愛の求めとは、両立しないかもしれない。究極的な価値の正義・幸福・愛などとの関係で、新しい自由観念をつくりだすことが求められているのです。それは、自由そのものと、これらの条件と両立することである。個人の自由は、絶対的な意味で不可侵ではないのである」。

 自由とは、協力、連帯、友愛、正義、幸福など人間尊厳の本質から生まれる基本的人権を、侵害してはならないという内容を含んでいます。自由の保障には、その道徳的な責任が社会的に広く確立していることが必要なのです。 つまり、それらの本質を前提にしての自由の存在を考えることが不可欠になってくるのです。

  道徳的な責任では、自己の欲望のために、人を騙さない、嘘をつかないという人間としてのあたりまえの誰でもわかる社会的倫理が大切です。営業の自由な意志が、小自営業者などの自由競争時代から、国際的資本、大企業時代の新自由主義になっていることで、嘘や騙しの社会的倫理、社会的ルールの重視はきわめて大切になっています。

  ところで、19世紀から20世紀にかけて、資本主義の発展がされていきますが、その社会的矛盾として貧困化や労働問題が起きていきます。このことから社会を経済支配する大資本に対する新しい人間の尊厳の問題が起きていくのです。社会的規制や社会的ルールづくり、組合としての集団による労働契約、労働者の権利運動が虐げられている人々から起きていくのです。バーリンは19世紀の解放的政治運動について、次のようにのべます。

 「19世紀の解放政治運動は、人道的個人主義とロマン的国民主義であった。自由主義者は、教育の無限の力と、道徳的道徳の力とによって、経済上の悲惨と不平等が克服できると信じた。

  反対に社会主義者は、経済資源の分配と統制の上に、根本的な諸改革がなされないかぎり、個人の側における心情や知性がどんなに変化しても不十分であるとした。 無政府主義、急進主義者は、現在の社会の支配者たちが身に着けたものが清算されなかった遺制があることから、それをなくさなければ、人間の意志の自由な社会を構想し、建設することは不可能である」と、それぞれの立場からから社会的運動の思想的立場について、バーリンは指摘するのです。

  19世紀の解放運動は、人道的個人主義とロマン的国民主義で、自由主義を社会的な矛盾から考えることはなかったのです。

  反対に社会主義は経済的な矛盾の根本的解決がない限り自由を獲得する解放運動はないと考えたのです。個人の知性や心情がどんなに変化しても社会的な矛盾の構造的な変化がなければ自由への解放ではないと、社会主義者の考えをバーリンは、みるのです。

  また無政府主義は、現在の支配者が身につけたものを清算しなければ自由は獲得できない見方であるとバーリンは、三つのタイプを紹介するのです。自由への達成には社会制度との関係で、考えることが必要なのです。

  19世紀の解放運動での市民的自由の考えは、後の社会主義的な考えの経済的矛盾を根本的に変えていく社会制度の改革ということに、市民革命での生まれてきた自由の問題を発展に考えることが必要なのです。

  無政府主義がすべての社会制度を否定していく、新しい社会制度を創造していかねば社会的な自由の獲得にならないのです。

  社会的な自由の獲得は、社会制度の変革でありますが、それは、人びとの意識、意欲、動機をとおして実行されるものなのです。つまり、社会的な運動として、人びとが社会制度の創造する行為によって、変わっていくのです。



 相互依存性と他人の自由を尊重する大切さ

  バーリンは自由の二つの概念の論文では、自分の目標達成において、他人に妨害されない消極的な自由としています。そこでは、政治的自由や経済的自由の大切さをあげています。

  経済的自由の説明では、貧困の原因に対する特定の社会的・経済的理論に依存して、不公平と考えられる特定の社会的しくみで、自由が奪われていると考えられるようになるとバーリンはみるのです。

 「人間はきわめて相互依存的存在であるし、いかなる人間の活動もまったく他人の生活を妨げとならないほど完全に私的なものはありえない。強者の自由は、弱者の死。あるひとつの自由は他の人の抑制につながる」というのです。他人の自由を侵害する自由の行動があるというのです。強者の自由と弱者の自由は調整が必要になってくるのです。

   「ここで実際上の妥協点をみいださなければならない。市民的自由とか個人の権利のための抗弁、屈辱、公的権威の侵害、慣習や宣伝による大量催眠などの抗議は、個人主義的な人間観、消極的自由観から生まれている。強制は人間の欲望をうちくだくので悪、無干渉は、唯一の善の観念である。

  積極的自由の意味で、わたくしはだれによって統治されているのか。わたくしはなにをなすべきか。でもくらしと個人の自由は自分自身によって統治されることを欲する。自分の生活が統制される過程に参画したいという願う気持ちは、行動の自由な範囲を求める願望であり、自由の積極的な概念は、からの自由から、への自由である」と、バーリンは語るのです。

  個人の自由は自分自身の統治にもなるのです。自由の積極的な概念としての理性的に個人が高まっていくことが求められるのです。行動の自由な範囲は、理性的なのです。

 

 無知の低次の自我と理性的自我

 バーリンは、積極的な自由と消極的自由は、それぞれ異なる方向に展開され、両者は、直接衝突する」とのべます。そして、自我について、つぎのように説明していきます。

  「真実や理想の自律的な自我と低次の自我の非合理的な衝動、制御できない欲望が衝突するのである。無知・堕落と、理性・賢明の衝突が起きる。積極的な意味での自由の自我は、国家、階級、国民、歴史の進行にまで拡大され、自己支配の積極的な自由観になっていく。

  低次の自我である盲目・無知・堕落の人びとが賢明で、理性的自我と同じように利害を理解すれば社会的ルールに対して、意志的抵抗せずに衝突しないですのである。個人的な自我ではなく、理性的な理想的な目的追及の積極的な意味での自由の自我は、国家、階級、国民、歴史の進行まで拡大していくのである。自由観は、人間の自己分裂を示唆する。超越的・支配的な統制者と、訓練された服従させられる一群の経験的な欲求や情念に分かれていく。自由観は、自我をめぐる理性的な高次の自我と、非合理的な欲望を制御できない低次の自我という人間観をめぐることになっていく」。

  この低次の自我と理性的な自我との衝突があることを見逃してはならないのです。いかにして高いレベルの理性的な自我を高めていくかは、実際的な体験と個々の内面的な葛藤をとおしての積極的な学びが必要になってくるのです。

 

人間は自律的である限り自由

 バーリンは、人間は自律的である限り自由であり、その自律は理性ということで、自分に強制するというのです。

  「人間は自律的である限りにおいて自由である。わたくし法則にしたがう。それは、自分の強制されざる自我のうえに、この法則を課しているのである。

   この意味で、自由は服従の側面をもっている。これとは反対に、人間は自律的存在ではなく、外的刺激のままに動かされ、その選択もかれの支配者によって操作されたものと扱われる。人間は自己決定ではないものとして、扱われる。自由主義個人主義は、自分の動機だけが統御できるもの。世間を無視して、孤立的に人間や事物をつなぐ鎖から離脱してみる。理性的賢者が個人的自由主義と同じように現れるのは、外部の世界が圧政的で、残虐かつ不正であることが明らかなときである。

 禁欲的な自己否定は誠実さや精神力の一源泉であるかもしれないが、どうしてこれが自由の拡大と呼ばれるかは理解しがたい。自由の消極的な概念に固辞する人なら自己否定というものが障害にうちかつ唯一の方法ではない、障害を取り除く別の方法があるという考えが許されることだろう。

  消極的自由では、自国の利益を脅かす国を征服したりする。個々の人間の抵抗がある場合に、力による暴力や残虐性で障害物を取り除くこともあろう。そのことで、取り除いた当事者が自分の自由を増大せしめることを否定することは不可能である」。

 理性的自我をもって、自律的になるということは、禁欲的な自己支配として、精神力を理性によって持つことができるというのです。

  自由は自己支配の側面をもっているのです。理性的賢者は、世界が圧政的で、残虐かつ不正があるときにあらわれるということは、真の理性は、人間の尊厳を守る働きをするというのです。そして、人間の尊厳を大切にする賢者をはじめ、虐げられている人々よって、暴力や残虐性の拡大を阻止するため、人間の抵抗が起きるのです。

 

 自由を達成する方法

 バーリンは自由の達成の方法について、次のようにのべます。「自由を達成する方法は、批判的理性を使用することである。その批判的理性とは、なにが必然的で、なにが偶然的かを理解することである。自由を妨げている多くの外的要素は、必然性から成り立っている。

  例えば、音楽の演奏者が作曲家の目的を自分の目的としたならば、その音楽の外的な法則は服従、強制、自由の妨害ではなく、自由な運動となる。世界を支配しているのは、必然性ということを理解できない無知や非合理性の人は、情念、偏見、恐怖、神経症などに支配されて神話とか幻想の形態をとる。知識は非理性的な恐怖や欲望を除去する。」とバーリンは自由を左右する必然性のことを批判的理性としてのべるのです。

 知性が非理性的な恐怖や欲望をなくしていくとするのです。この知性とは、自由を妨げている要因を理解して、その克服への必然性を理解することなのです。音楽の演奏者と作曲家の目的を理解することを例にあげて理性的な自由の獲得のことについて、説明しています。人間の行動、社会的運動において理性をもつことは、音楽における演奏者と作曲家の目的というように。

 調和的な社会を作り出すことの重要性について、バーリンは、次のようにのべます。「すべての国の理性的な人間は、同一不変の基礎的要求や同一不変の満足を求めるものであるから、賢明な立法者は、適切な教育と法制によって完全な調和的社会をつくりだすと考えた。

  しかし、制度を創造し、変革し、人間の性格や行動をつくりかえる法は、人間理性から生まれる法を理解しなかったゆえに生まれていくというのである」。人間の理性から生まれた法律を重視するのです。それは制度を創造し、人間性格や行動をつくりかえるとバーリンは、語るのです。

 バーリンは、マルクスの未来への進むべき道を妨害しているのは社会制度であると次のように紹介します。「マルクスは人間の進むべき道を妨害しているのは、自然の力あるいは人間自身の性格の欠陥だけではなく、人間の社会制度なのだと考えた。

  目的のためにつくった社会制度の機能が誤解され、人間の進歩の障害物となった。客観的な力として、需要と供給の法則、所有の法則、富者と貧者、所有者と労働者への社会の区分を変えるべきという社会的・経済的な仮説を提起したのである」。以上のように社会的矛盾を作り出している社会制度という、マルクスの考えを積極的に提示するのです。そして、理性的に理解されることの大切さを次のようにのべているのです。

 「これらが理性的に十分に理解されない限り、古い世界を破壊し、もっとも適切な自由な社会組織はできないのである。専制君主の制度、信仰、神経症によって、奴隷にされていることを取り除くには、分析と理解のみでああある。自分の意志によって、自分の生活を設計するならば、その人は自由になっていくのである。

  自分に課して、それを理解して、自由に受けるのであれば自分によって、発案されたものであろうと、他人によって発案されたものあると、理性的なものあるかぎり、抑圧し、隷属されることはない。知識がわれわれを自由にするのは、われわれの選択が開かれた可能性を与えてくれるというのではなく、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれることだ。合理主義的な自由観念は、障害物のない境遇、自分のやりたいことのできる空虚な場所という消極的な自由の観念ではなく、自己支配、ないし自己統御という積極的な自由の観念である」。

 バーリンは、合理的理性的な認識による行動は、人間を積極的に自由にしていくというのです。人間の行動は、学ぶことをせずに、自分の行動について、感情的な衝動や、なるがままの利己的欲望のままであるならば、決して創造的なものは生み出せないのです。自分のやりたいことという空虚な場所という消極的な自由、衝動的に自由ということは、結果的には、不自由になっていくのです。

  衝動的な感情を煽っていく現代社会のマスコミは、大きな問題を含んでいるのです。マスコミのもっている公共的役割が軽視されているのです。安易な利益中心主義があるのです。

  どのようにして、理性的に人間がなっていくのかを真正面にすえて、テレビや新聞、SNSでの発信は社会的なモラルとして、常に考えていくことが求められているのです。

 

理性からの法と自由

 支配欲は非合理性であり、理性的でない人、真理を学ぶことをしない、教育のないものが法律や制限から逃れようとすると、バーリンはのべるのです。法律は真理の原則として、理性的な人びとによって受け入れられていくというのです。

 「すべての真理は原則として、理性的思想家によって発見される。そして、理性的な人びとが受け入れることによって、明瞭に証明される。これは、自然科学においてすべてが事実であった。政治の問題も、理性的存在者が当然もつべきすべての自由を、それぞれの人に与えられるような正しい秩序をうちたてることによって解決される。

  支配欲はそれ自体、非合理性の兆候であり、理性的によって治療されるものである。万人のために正しく計画された生活は万人の完全な自由(理性的な自己支配の自由)と合致する。法律は理性の命ずる原則である。

 これが厄介なものであると思うのは理性が眠っているからである。理性的な法律は理性の人びと自身の利益、あるいは一般の善をもたらす指示である。制限と考えるのは、法律から逃れることである。法に依存する状態を見出すことが真の自由である。

  依存とは立法者行為する自分の意志であるから権威と自由は両立する。自由は法と合致し、自律は権威と一致する。教育のないもののみが非理性的・他律的で、強制されることを必要とする。大多数の無知なるものを法律に従わせることによって、理性的に教育するのである。これらは人権宣言の思想家の考えである」とバーリンはのべるのです。

 法律は理性によってつくられ、法律的権威は、自由をもつおとでもあるのです。立法者は、議会でつくられていきますが、議会での立法は、多数決の原理で決まられていくため、代表民主制の議員は、深い教養をもち、人間尊厳の真理のための思想をもっているという理性的人間でならなければならないのです。

  近代の議会主義をもっての法律を制定した国の歴史は、ファッシズムという独裁政権をつくりあげて、残虐な非合理的な圧政、民族排外主義や侵略戦争をしてきたのです。立法議会によっての法の制定や予算の執行で、それらの圧政や残虐の行為をしたのです。この意味で代表制の議会、議員一人一人の理性が問われるのです。

  法が理性的であるというのは、立法議会の議員の理性や人間性も含めて相対的であるのです。おの意味で、個々の法の基本的な理念や為政者を縛るという意味で、憲法の役割が極めて重要なことになるのです。

 近代の市民政府論を論じたロックは、法と自由との関係について次のようにのべているのです。

 「政府の下にある人間の自由とは、その社会の誰にも共有な、そうしてその中に建てられた立法権によってつくられた、恒常的な規定に従って生きることである。規定が何も定めがないところでは、一切の事柄について自分自身の意志に従い、そうして他の人間の流動不定、不測で勝手な意志に従属しない自由のことである。

  この絶対的恣意権力からの自由は、人の生存に極めて必要であり、またそれと密接に結びついているので、彼はもしこの自由を手離すなら、同時に彼の生存生命を併せ失うことにならざるをえない」。(ロック「市民政府論」岩波文庫、28頁

 法は社会の誰もが共有できる中でつくられたものであるとロックはのべているのです。法律による規定は、自己欲望に走る他人の勝手な、非合理的な行動を排除する自由であるというのです。法的な規定のないところでは、自分の意志によって、生存生命を間もなければならないというのです。

 「法の目的は、自由を廃止または制限するのではなくして、それを保持拡大するにある。法に従う能力をもっている生物にとっては、どんな場合にも、法のないところはあり得えない。

  自由とは、普通にいわれるように、各人が自分の欲するところをなす自由ではない。法の範囲内で、自分の一身、行動、財産およびその全所有を処分し、このようにして、自分の思うままに振る舞う自由であり、その点で、他人の恣意に服するのではなくして、自由に自分自身の意志に従うことである」。(前掲書、60頁)

 ロックの市民政府における法と自由については、各人の欲求のために、社会における非合理的な行動を排除するためです。

  自由と法を論じたロックの見方は、現代社会にも通じる大切な視点です。法がなければ知性的な自由が存在しないというのです。法は、国家によって、作られていくのです。

  国家は、市民的な自由を法によって、整備されていることが条件になっているのです。権力を握る為政者をしばってきた憲法の役割は極めて重要になってくるのです。

 つまり、立憲主義が、その国に確立しているのかということなのです。為政者は、議会の多数派によっての恣意性によって、法がつくられていくのです。法の制定には、少数者の意見や価値や文化の多様性を尊重することが不可欠なのです。

  法の遵守という問題は、悪法も強制ということで、人びとの自由を奪うことが形式な議会の多数者によって、圧政として民衆の自由を奪うことがあるのです。それらは、戦争というなかで、人びとが歴史のなかで経験してきたことです。

 法を制定していく議会の理性は極めて自由を保障していくうえで大きな役割があるのです。議員一人一人の知性がためされているのです。議員は世襲も多く占めています。それぞれの団体のリーダーや行政を司ってきたエリート官僚などが多くいます。議員の選出は、人びとの選挙によって、選出されていきますが、

  その選出は、マスコミ、地縁や血縁、業界団体、労働組合ということが、補助金行政の経済的な金銭のコントロールも含めて大きな影響力をもっているのです。個々の人びとの政治的な知性による自由な選択ということでは決してない側面があるのです。

  

 

個人利益の行為と他人への害の防止

 バーリンはミルでさえ、個人の行為について、社会的に生きている限り、他人に害をおよぼすということで、個人の利益を大切にする認識に失敗したと、次のようにのべます。

 「個人という言葉がなにを意味するのか。私的な生活領域と社会的生活の領域とを区別しようと努力したミルでさえ、自分の行うすべてのことが他の人間の害になる結果をもたらすので、個人の利益を大切にする認識に失敗している。

 社会的に生きている限り、わたくしのすることはすべてが他人に影響するのである。自分がある特定の集団なり、階級なりに所属しているのは社会的認知である。無視され、恩人ぶられたり、軽蔑されたりという、個人としての取り扱いを受けないことは、自分の独自性が認められないこと、何の特徴もない混合体の一員として類別されてしまうことである。それは、法的な権利の平等とか、したいことをする自由ではない」。

  ミルは、人間は社会的に生きている限り、すべて他人に影響にあたえるというのです。それぞれの個人は、特定の集団や階級に属しているのです。個人としての取り扱いを受けることの重要性は、個々の人びとが、自分の独自性を社会的に認められることであると強調するのです。このことが、個人の法的な権利と平等ということになるというのです。

  個人の行為について、ミルは、自分以外の人に利害を及ばさない行為と、他人に利益に及ぶす行為とに分けて考えています。このことについて、次のようにミルは自由論でのべます。

 「自己の行為について、自分以外の人の利害に関係しないことは社会的に責任をとる必要がない。他人の利益に損害を与えるような行為については個人は責任があり、もし社会が社会的あるいは法的刑罰のいずれかを自己防衛のために必要とすると考えるのであれば、個人はその刑罰のうちのどちらを受けてもさしつかえない」。

 個人の行為で他人の利益にかかわることは、その社会的責任は常に問われるのです。趣味やスポーツなどの余暇活動などの個人趣向の範囲内ということは、人間生活のなかでは少ないのが現実で、多くの人間の行為は、他人との関係をもって、その影響をあたえて、時には他人の不利益になる場合があるのです。

  この意味で、自由の行為の多くは他人、社会との関係をもって考えていくことが求められていくのです。従って、他人や社会との関係で自由をみれば、当然ながら、その知性的な認識が必要とされるのです。

 資本主義の発展によって、自給自足の生活分野が減って行きます。また、生活の分野でもサービス業分野の発達によって、家事や育児、介護などの多くの分野で生活の社会化、生活分野のサービスの商品化が起きていくのです。商売とのかかわりは、人間の暮らしのなかで、大きな位置を占めていくのです。ミルは、商売は、社会的な行為であるとして、市民的な個人的な自由の原理は通用しなと次のようにのべています。

「商売は社会的行為である。公衆になんらかの種類の品物を売ろうとするものはだれでも、他の人と社会一般の利益にかかわる行為であるから、彼の行為は、原則として、社会の管轄下におかれる。・・・個人の自由の原理は、自由交易説の中に含まれていないのと同様に、自由交易説の限界に関して生ずる大部分の問題にも含まれない」。ミル「自由論」世界の名著「ベンサム・JS。ミル」、中央公論社・323頁から325頁参照

 商売の行為は、公衆的な関係であります。社会一般の利益にかかわるものです。それは、決して個人的な利益が社会的な機能として、存在しているのではありません。しかし、商売は、社会的な利益の本質をもっていますが、個々の行為は、個人的な利益や特定集団の利益として、現象していくのです。この現象が人々の行為を支配していくとい矛盾があるのです。自由市場は、社会的な自由の誤解として、現象するのです。この誤解を解くためには、市場に対しての社会的なルールや規制が働いていくのです。 

 さらに、国家が誤用される自由の観念は、子どもに対する教育であるとミルはのべるのです。「国家が、その市民として生まれたあらゆる人間の教育を、ある一定の標準まで要求し、強制すべきことであるということはひとんど自明の公理ではなかろうか。

 人生上の役割をよく遂行しうるための教育は授けるのは両親の神聖なる義務である。もし両親がこの義務を遂行しないならば、国家ができるだけ両親の負担においてそれができるように監視していかねばならない。国家による普通教育を履行することが認められれば、国家は何を教えるできか。…

 民衆の教育全部ないし大部分が、国家の手中にあるべきということに対しては、私は他のだれにもおとらず反対である。国家教育は人々をお互いそっくりに形づくるための、ただの道具にすぎない。そして、人びとを投げ入れる鋳型は、政府における支配的勢力の、たとえそれが君主、僧侶階級、貴族階級であると、現存の世代の多数派であると否ずとを問わず、その勢力の気に入るものであるから、それは、有効で成功すればすろほど精神に対する先制を確立し、また自然の成り行きとして身体に対する専制になっていくのである。

 国家による樹立された教育が存在するとすれば、社会全体の進歩が遅れていて、政府がのりださなければ自立でなんら適当な教育制度を打ち出すことも能力もないないようなときである」。前掲書、336頁~337頁

 国家教育の誤りの施行は、精神の専制体制をつくります。人々の精神的な自由を侵害するばかりではなく、自由に思考したり、多様な文化や価値からの豊かな社会の発展を阻害していくのです。

 豊かな文化のないところでは、精神的な荒廃を招き、社会的な秩序も、市民的な自由を経験した人々が抑えられることで、人びとの反発精神からの常に混乱が起きていきます。多様な文化や価値観の潜んでいるなかでの社会的なルールの混乱を招いていくのです。 

 「アメリカ人のどの集団も、だだちに政府をつくり、政治やその他のいかなる公務を十分な知性と秩序を決意をもって遂行できる。これこそ、すべての民衆のあるべき姿である。また、これをなしうる民衆はまちがいなく自由である」前掲書、344頁

 民衆の自由のことで、民衆自身が、自分たち自身で政府をだだちにつくる能力がなければ、民衆自身の統治能力がなければ、国家権力からの民衆の自由をかちとることができないことをミルは強調しているのです。

 国家の恣意性については、競争的な補助金行政でもみることが出来ます。金銭によって、企業や団体、教育・研究機関など人びとをコントロールしていくのです。競争的な補助金行政は、恣意性が働く可能性が大きくあるのです。補助金行政は、為政者の権力維持、支配力に大きな影響をもっているのです。補助金行政をめぐっての民主的なコントロールの在り方が大きく問われているのです。本来は、国家から補助金を受けるのは、公平であるばきなのです。その公平性を維持していくためには、競争的な補助金が正義なのかということが問われていくのです。

 例えば、国立大学の教育・研究費などで研究室に一定の補助金が基準によって、一律に配分されていましたが、それが、教育・研究を熱心にしている人と怠けている人、成果があがる人と、あがらない人と一律に配分するのは社会的に不公平であるということで、教育・研究費を引き下げて、莫大な金額の出る競争的な補助金に転化していったのです。このことによって、何が起きたのかというと、競争的な補助金を得るための時間と費用を費やすことになったのです。

 補助金の競争的獲得の結果は、教育と研究も、個々の自由な研究ではなく、学生の自由な将来の選択のための自由な教育ではなく、競争的な補助金を得るために、奔走するようになって、疲れ果て、大学内の人間関係も悪くなって、学際的な幅の広い学問研究から遠ざかって、当面の狭い、また、国の恣意性によって、動かされて行くのです。

 

個人的自我と社会的に認知されること

 バーリンは、温情的な干渉主義は、人間に対する侮辱であると考えるのです。個々人は、社会的な役割の地位とその認知を渇望しているというのです。人は、誰ども自我をもって、社会的に理解され、認められたいということなのだという。

「自分が一個の行為者として、自分の存在を感知できる方が大切である。これは地位と承認・認知への渇望ということで、理解され認められたいことだ。個人的自我は、他人との関係、人びとの態度に存する諸属性のなかで生まれていく。人間の活動の独立の一源泉として、自分の意志をもち、行為しようとする一個の実在として認めてほしいということである。

 それは、被抑圧階級が要求するには、行動の自由の妨げではなく、社会的、経済的機会の平等でもなく、理性的立法者の考え出された摩擦のない有機体的国家内に割り当てられたことでもない。温情的干渉主主義は、自分が一個の人間、自分の生活を自分自身の目的にしたがって形成されることが、他から認められる資格をもった人間に対する侮辱である。それは、一個の自己支配的な個人的存在として認められていないということで、自由でないと感ずるのである。このような相互承認への欲求が大切なのである。

 地位と承認への欲求は、自由に近いものである。社会的連帯、兄弟的関係、相互理解、対等の条件での結合要求は、社会的自由とよばれるものである。社会の公的な立法者なり教師なりの与える指導から自由な強い独立自尊の人格という干渉を受けないという自由の概念ではなく、自分の人格に低い価値を与えられたくないという欲求、自分の人格が自律的・独創的な真正の行動に対して、社会的制約や禁止立法に出くわしたくないという欲求である」。

  バーリンは、個々の人間は、行為を伴って、個人的自我を重視して、社会から認められたいということで、それが叶わないのが自由でないとするのです。地位と承認への欲求は自由に近いものであると強調するのです。

  人間は誰でも誇りをもって生きているのです。その誇りが認められることによって、自己の社会的な行為に生きがいを感じていくのです。バーリンは、この誇りの精神を自由の概念のなかに包摂していくのです。

 

自由と人民主権

 人民主権は個々人の主権を容易に破壊すると、バーリンは、次のようにのべます。

 「人民の主権は個々人の主権を容易に破壊しうるであろう。民衆による統治はルソーの言う意味では必ず自由ではないのである。統治する人々は、統治される人々と同じではないのである。

 ミルは、多数の横暴という広く世に行われている感情や意見の圧政ということを指摘した。ふつうに主権とよばれる無制限な権威を移し替えることは、自由を増大させるのではなく、隷従の重荷を移動させるだけである。無制限の権威は、いずれだれかを破壊せずにいられない。抑圧の真の原因は、ひとえに権力の集積という事実からくるものである。自由は絶対的権威も存在によって危険にさらされているのである。絶対的主権という教義はそれ自身に圧政的な教養なのだ。多数決の規則にはほとんど期待がもてない。社会を真に自由にするには、すべての人間に、非人間的な行為を拒否する権利があることと、人間が、歴史的に長く受け入れられてきた規則を決して犯してはならない境界線を守ることである。このふたつの原理が、社会の自由を守ることである」。

 ミルの指摘しているとおり、人民の主権ということからの多数の横暴ということが起きるというのです。それは、自由を拡大するのではなく、とくに、少数派にとっては、耐え難い苦痛を強いるのです。人民の主権ということは決して多数派による権力の運営ではないのです。主権在民ということで、近代社会の国家は、人びとの選挙をとおして、選ばれた人が為政者として、権力を維持していきます。

 選ばれた人間は、知性や人格の一定基準をもって立候補するのではありなせん。本人の自由な意志によって、立候補するのです。人民の主権ということが、選挙によって絶対的になることはどうなのかという検討が必要なのです。為政者をしばっていく制度の設計が大きくあるのです。法的には憲法であり、司法によるチックであり、国会の自由な意見と、その公開です。行政権力によって、すべてが人民主権ということで、実行されることは、選挙による独裁・専制政府の確立です。

 人民主権というのであれば、多くの人びとが日常的に行政を監視し、行政に自由に意見をのべ、または参画していく仕組みづくりが求められているのです。

 この意味では、マスコミの役割が大きく問われているのです。また、身近な市町村からの多くの人びとが行政に参画していくことも大切です。市町村が広い範囲に構成されていることも大きな問題です。地方自治をより身近にしていく単位も含めて、広域合併の見直しで、校区単位の日常的な自治のしくみづくりが求められているのです。

  小学校や中学校なども社会教育機関の公民館とも結びついて、知性的な自由の確立のために生涯学習の拠点として、地方自治の日常的な気軽な担い手が必要になっているのです。

 

社会的矛盾の衝突と全体的調和による共存

 バーリンは、社会的な矛盾の衝突に対して、いかにしてすべての価値が共存することが可能であるのかと全体的調和の真の価値を次のようにのべています。

 「自然は、真理、幸福、徳を断ちがたい鎖で結びつけている。自由、平等、正義も同じような言葉を使った。これは、真理であろうか。政治的平等も効果的な組織も、ごく少数の個人的自由と両立せず、無制限な自由放任とは全く両立しない。正義と寛大、公的忠誠と私的忠誠、天才の要求と社会の要求とは、相互にはげしく衝突することがある。これらすべての価値が共存することは可能であるはずだ」。

 少数の個人自由と政治的平等は両立するものではないとバーリンは指摘するのです。それは、社会経済構造の矛盾や、人びとの文化的違い、宗教・信仰の違い、多民族性・多様な地域、人びとの志向や思想の違いなど、衝突していく危険性を常にはらんでいるのです。大切なことは、包容していく力や調和していくちからであるというのです。

 これは、決して、現実の様々な矛盾を容認するものではなく、矛盾を解決していくには、包容力や調和力のなかで、ひとつひとつ解決して、前に進んでいくのです。矛盾が激しくなれば、一層に、この視点は必要です。人々は矛盾のなかから戦争へと発展するケースが多いのです。

 

調和の理想の王国と民衆の運動

「究極的・最終的な調和の理想の王国は、経験的観察と通常の人間的意識の手段・方法によって、すべてのよきもが相互に調和可能になる。現代のもっとも力強い民衆の運動に生気を与えている国民的・社会的自己支配の要求の核心にあるものが積極的意味での自由の観念であり、これを認めないことは、現代の最重要の事実と観念(思想)を正しく理解しないということだ」。

 民衆の社会運動は、積極的な意味での自由の観念であるとバーリンは指摘するのです。この民衆の社会的な運動自身に、それぞれの社会集団や階級・階層、諸民族などの社会的矛盾があるのですが、この運動を調和によって、制御していくには、それぞれの所属している団体や階級・階層、党派のリーダーの理性の役割が重要なのです。

 バーリンは、原理的に調和できるのはあやまりだと指摘するのです。それは、最初から、調和できると思い込むからです。それは、民衆の運動の結果によって、調和がはかられていくというのです。

「原理的に調和的できることは誤りで、人間の目的は多数であり、原理的に相互に矛盾のないものはありえない。衝突・葛藤の可能性、悲劇の可能性は、個人的にも、社会的にも人間の全生活から完全に除去されることは決してありえない。個人的自由よりも深い要求を満足させるもっとも高次の別の価値を用意することが求められる。民衆が自分の欲するままの選択の生き方を選択する自由の程度は他の多くの価値の要求と対比しなければならない。その対比は、平等、正義、幸福、安全、社会秩序という他人の自由に対する配慮を必要とするものである。

 欲するままに生きる自由という理想は、没落しつつある文明の所産にすぎないというのです。自己の確信の正当性は、相対的なものであることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること、これこそが文明人を野蛮人から区別する点である」。

 まさに、欲するままに生きる自由とは、野蛮人であるというのです。文明人であるならば、ひるむことなく信念をもつところの自己の確信の正当性は、相対的なであるという認識が極めて大切というのです。この相対的な確信が包容力と調和をもたらしていくというのです。それぞれの立場によって、信念が異なり、その矛盾の歴史的な展望のなかで、矛盾の解決への調和が行われていくのです。

 その調和は、それぞれの価値をもっている民衆の運動の結果によって、高次の価値が生まれて行くのです。社会的矛盾のなかで、その矛盾を解決していくには、当初の民衆が自分の欲求の実現は、欲するままに生きるというおとでは、矛盾する他の要求と対比しながら、それを相対化していく作用を民衆の運動のなかでコントロールしていく必要があるというのです。

神田 嘉延の社会教育評論のプログで書いた自由論の一覧

自由の精神と社会教育・

yoshinobu44.hateblo.jp

マルクスから学ぶ社会的自由論 - 社会教育評論 (hateblo.jp)

ラスキの「近代国家における自由」から教育を争点に - 社会教育評論 (hateblo.jp)

ラスキの「近代国家における自由」から生活苦と無知の解放 - 社会教育評論 (hateblo.jp)

自由への社会教育:カール・ポランニーの社会的自由論から - 社会教育評論 (hateblo.jp)

アレントの公的自由論と市民による統治参加 - 社会教育評論 (hateblo.jp)

共生・協同の社会形成と社会教育ーマンハイムの「自由・権力・民主的計画」から学ぶ - 社会教育評論 (hateblo.jp)

ハイエクの「自由の条件・自由の価値」から人間らしい自由な労働過程の創造 - 社会教育評論 (hateblo.jp)

ハイエクの著書「法と立法と自由」から考えるルールと秩序ある社会の形成 - 社会教育評論 (hateblo.jp)

自由の秩序なくして真の自由はない-社会教育の役割 - 社会教育評論 (hateblo.jp)

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自由の精神と社会教育

この意味選ばれたこの精神を学生せいと公平バーリンはが必要、、ばかりではなく、日常的に
引用範囲
神田 嘉延の社会教...的自由論と市民による
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

都城中郷の卑弥呼伝説とその現代的学び

都城中郷の卑弥呼伝説とその現代的学び

 

 

  都城の中郷に、古代に王国の都があり、その王さまが女性であったということで、卑弥呼ではないかということで、その関心をもっている地域の人たち16人が集まって楽しく語った。現代の日本は、ジェンダー問題があります。女性の社会的地位が低く、国会議員や地方の議員も少なく、女性が社会を統治していたということは考えにくい状況です。

   しかし、文明が発生する古代社会では、女性が社会を統治したことがあったということです。それは、それぞれの地域の歴史文化、神話から考えることができます。この古代の歴史を現代的に考えることは、女性の社会的地位向上、女性活躍の社会をつくっていくうえで、大切なことです。

   この日は 魏志倭人の歴史書の地名解釈にこだわらず、その当時の都城の古代史がどうであったのかという自由な発想で議論した。

   それは、日本の古代文明の発生を中央集権的な上からの絶対的権力者が地方をひらいていったという視点からではなく、地方にはそれぞれの王国があって、その王国が東アジアとの国際交流をもっていたという発想から自由に語り合った。 

 また、ヒメ・ヒコ文化というように、女性が王であっても、男性も、社会の統治にかかわって、男女が協力し会う男女平等で、それぞれの役割を大切にした社会を現代的にも見直していくことを古代社会を手がかりに考えていくことが必要ということでした。

  古代社会は、自然に対する畏敬、全く予想のつかない事態も数多く、人びとが安心感をもって生きていく上で、祈りは重要な社会的行事でもあったのです。女性は、祈祷など、その大きな役割をもっていたのです。

 

   卑弥呼伝説ということで、それぞれ日本の各地で議論することは、母系制社会の継承の意味を文明の発達ということから考えることにもなるのです。それは、現代的に人間の本質論から男女が協力しあうことに大きな意味をもつのです。なるのです。その再評価は、女性の社会的地位向上につながっていくのです。

  もともと古代社会の文明の発生時期は、統治していくうえで、自然の畏敬、太陽神、祈祷などで、女性の役割が大きくあったことを見落としてはならないのです。

  卑弥呼を語ることは、大変によいことと思います。それぞれの地域が自分達の文化の誇り、自分達の王国、そのなかでの女性の役割をを考えているのではないかと思います。

  また、卑弥呼伝説は日本の古代の母系制社会継承の一端です。そして、ヒメ・ヒコ古代文化を見直すことは、現代社会で女性が尊重されて、未來社会への展望を探っていくことにもなるのです。

  日本神話のアマテラスも女性です。弟のスサノウミコトは、高天ヶ原という神話の国で、とんでもない弟で、追放されたという古事記の神話の話です。出雲にくだってまともな神になって、国譲り神話にも登場します。

  都城地方の古代の神話には、諸県(モロカタ)王がいたのです。髪長比売(かみながひめ)の伝説など(古事記)もあります。古代の堺に前方後円墳の大古墳をつくった仁徳天皇陵は有名ですが、これにもいろいろ説があるようです。

   九州の西都原古墳には、日本列島最大の帆立貝形古墳、おさほづか古墳、九州最大の前方後円墳、めさほづか古墳という大きな古墳があります。西都原古墳群は、地下式横穴墳墓と結びついて存在しています。

 地下式墳墓は、独自の高い文化をもっていたのではないか。霧島山麓では、たくさんの祈りの剣、象嵌装飾、蛇行剣が発掘されています。

  都城は、縄文時代の終わりごろの稲作跡地が見つかりました。横市で、ほ場整備事業で、発掘調査が行われました。 坂元A遺跡では、縄文時代終わり頃から中世までの水田跡が発見されたのです。歴史的に、その移り変わりをはっきりとさせる貴重な遺跡でした。

  本来ならば、日本の水田の始まりからの変遷がわかる土地なのです。九州南部で最も古い水田の形を知ることができるのです。そして、各時代の水田の移り変わりを観察することができる遺跡なのです。

  坂元B遺跡では弥生時代の竪穴住居を中心に縄文時代の生活の様子がわかるのです。そして、近世までの遺構・遺物が発見されたのです。

  弥生時代後期の竪穴住居(花弁形住居)からは完全な形の土器などが多数みつかりました。それは、儀礼に関するものと考えられます。

  稲作の水田はどのようにして、日本で生まれたのでしょうか。その地形的な特殊性は、どのようなことなのでしょうか。 豊かな湧き水が絶えず出てきて、自然のままで用意に水田が出きるということが、古代の段階で大切なことです。そして、豊かな水田に適した土壌があったというも。

  水田稲作が出来たことは、当然ながら集落が形成されて地域での人口の増加が生まれていく基盤であったのです。 小さな国家形成の始まりが都城に生まれていくということにもなるのです。都城での古墳時代の地下式横穴墳墓も独自の文化として考えていくことが必要です。

  象嵌の紋様の持った貴重な刀が発見されました。また、霧島山麓での高速道路工事などで、貴重な多くの蛇行剣の発掘がされました。その遺跡からは、当時の日本の文化からも高い文明が築かれていたことが理解することができるのです。

 ここには、都城の自然条件からの水田稲作が容易にできたこと、絹をはじめ衣類、鉄器、日向備長炭の木材、シラス台地という天然の登り窯など、地域の遺跡から考えていくことも大切です。経済的に優れた条件があってこそ、豊かな交易が行われていたのです。

  都城全体の地下式横穴墳墓や蛇行剣、象嵌装飾など視野から諸県王国・句奴国を前面に出して、高い文化をもった王国を探ることが必要だと思います。

  都城は、日本の文明の発祥のひとつの地域としてみることができるのです。なぜ、日本の文明の発祥地が都城なのでしょうか。土地の自然条件から考えてみることも大切なのです。

  卑弥呼伝説の根拠になる遺跡をできればみんなで、この話を想像させる遺跡の発見が大切です。大いに想像力を、ふくらませることも。

 

   ところで、議論は、平安時代に移りますが、都城は、日本の平安時代において、京都の上級貴族と同じような巨大な屋敷があったのです。その遺跡は、金田(かなだ)地区で発見されたのです。日向国大隅国国府よりも大きな屋敷が都城にあったのです。この遺跡は、平季基が島津院を中心に荘園を、開墾した100年前のことです。

  どのようにして、この屋敷が生まれ、どのような役割をしていたのでしょうか。この遺跡発見は都城が大きな経済地域として、発展していたことがうかがえるのです。どんな商いをどこの国とやっていたのでしょうか。国内ばかりではなく、国際的な視野からも見つめることが必要なのです。

   中郷は、島津庄という日本最大の荘園8000町歩に発展していった島津院を中心に荘園を開墾したところです。藤原摂関家に寄進したことから、平安時代に藤原摂関家の全盛時代の経済基盤にもなったのです。

  平季基が小さな荘園でしたが、その基盤をつくりました。彼は神柱神社として守護神を、中郷に、建てたのです。もともと、平季基は、私貿易をやっていました。志布志港の権益がほしくて、争いを起こします。諸県の地域は、志布志にもおよんでいたのです。大隅国府の焼き討ち事件を起こした人物でもありましたが、絹3000疋(12反1馬単位)賄賂をつかって、その罪を逃れたということです。

 島津庄のなかで、大きな役割を果たし、平安時代摂関家の藤原家の後ろだてで大きな力をもったのは、肝付家です。その関係も、中郷の平安時代の地域文化を考えていくうえで重要です。

  それは平家の世の中、鎌倉幕府になっても立場は変わりますが、南北時代まで南朝が滅びるまで肝付家は影響力を、もっていたと思われます。 その後に、肝付家は、現在の肝付地方の大隅半島への領地に縮小していきます。また、戦国時代に島津家に滅ばされて、従属していくことになるのです。

 中郷の梅北城も600年続いたお城で、戦国の末期に廃城になっています。4つのゾーンをもっていたお城で、その遺跡全体の確認は、できない状況だということを聞いています。

  都城の中心は、現在からみるとずいぶん異なっていると思います。高城の地域も含めて、歴史的に中心の都や市街地も異なっているのです。高城は、三俣院があったところで、都城でも歴史的に重要な地域であったのです。

   ところで、廃仏毀釈は、大変な地域文化の破壊、日本民族文化の破壊だと思います。明治維新のマイナスの側面です。 現代社会を未來志向的に考えていくことでマイナス側面もみておくことも必要です。日本の伝統文化と思っていたことが明治維新によってつくられた面があるのです。

  もちろん、明治維新は生産力とか効率的など大きな前進があったと思います。それが人間の暮らしや幸福、自然と共に生きるということで、いきすぎていることが現代はあると思います。

   廃仏毀釈で、地域文化は、大きく変わりました。昔に栄えていたところが跡形もなく、荒廃の地になっているのです。 金御山公園と天神の金のいわれも大切です。

  ここは都城が一望できて、霧島連峰が遠方にみえるという景色のいいところだけではなく、中郷の信仰の山として、文化的に大きな意味をもっていたところです。ここにも昔は神社があったのです。

  明治の神社合併政策で黒尾神社・黒尾権現に吸収されたとか。年輩の人に慣習として金御岳にお詣りすることはなかったか。修験道や山伏の話など。神楽の話や祓川という地名が残っているいわれについても文化の誇りとして、地域みんなで考えていく課題です。

   興玉神社・正応寺や黒尾神社、正生寺など、その周辺に女性に関する遺跡や民間信仰などを探していくことが必要と思います。ヒメ・ヒコ神社の役割をしたものが削られているので、なんでもないと思っていることも実は大きな発見になると思います。

   正応寺の門前街で育った深見一覧という日本の江戸時代に中国で12年間学び、中国の高僧を数多く招き、幕府の儒者として、江戸時代の日本の学問形成に大きく貢献した遺跡も残っていることから、地域で、どのような話が残されているのか。その遺跡碑は本人が中国から帰国したとき。ふるさとへの報告の記念碑として、現在も正応寺の遺跡近くに残っています。

    都城をはじめ霧島山麓が豊かな自然の資源に恵まれていたことが文明の経済発展が可能であったことです。志布志への街道など海外と結ぶルートや日本各地の海上交易をもっていたのです。

  中郷地区単位では、金御岳の麓の正跡寺、西生寺跡、黒尾神社、興玉神社などの現代的な地域文化の多様な価値を認め合う神仏混合、自然への畏敬、絆の文化、広く交易していく文化、大きく日本や世界をみていくことなどの見直しが必要です。

   修験道と神仏混合の文化を現代に生かして、山登りと心を鍛えていく。安久湯治温泉の活用など。豊かな自然のなかでの未來への健康安全と工業資源農業など新しい課題がでてきます。

  現代的に地域おこしとして、過去の歴史文化からの誇り、そして、経済の発展での自然条件を現代的に生かしていくことが必要です。

  柿を植えて酢に利用したのをさらに発展させて、果樹園から加工品、ワインなど地域循環型経済のモデル地区で歴史文化、様々な自然や農業、加工、グライダーやその他スポーツなど体を動かす体験を加えての観光業の発展。

  みんなで若い人たちが中心になれるような地域づくり運動を会として目指したらと思います。

  どうしたら多くの人が観光または滞在してくれるのか。のんびり仲良く、こころの癒しになる自然環境も含めて。また、お金があまりなくても地域での助け合いのを含めて。地域の自給率向上を大切に、せめて、農業とエネルギーの自給率の向上を小さくても数多くの住民参加で大きな力に。

  地域での自給にこだわり、ゴミも資源にして、地域の自然を生かしての新しい産業づくりで住民所得が結果的大きく発展している市町村もあります。楽しく自由に若者が地域の主役になって取り組める地域が都会の人たちを惹き付けて大きな経済発展になっているのです。鹿児島県のトップクラスの所得をあげている地域です。

 

 

 

 

社会教育研究全国集会・福島からの発信

社会教育研究全国集会・福島からの発信

 

大会のスローガン

 人をつなぎ 地域を拓き 未来をつくるー対話・学び・共同の力で分断を超えてー

 

 福島の人びとは東日本大震災原発事故によって、目に見えない放射能汚染をはじめ多大な被害を被った。原発事故の恐ろしさを実感したのです。原発事故から13年を迎え、帰還困難地域を除き、避難は解除されても、いまだに2万6千人余りが避難を余儀なくされているのです。

 震災前の福島の人口は200万人であったが、13年後の現在は、175万人に。大幅な減少ですね。若者の県外流出が大きく、人口減、地域の担い手の不足が深刻になっているという。この現状から分断・対立のの構図、口をつぐむ住民が後を絶たないというのです。

 分断・対立は、住民不在の復興と、原発による賠償金の問題があるという。が原発との距離や放射能量、避難指示などによって大きく異なっている問題があるというのです。

 また、風評被害で自由にものをいうことすら禁じられているという。実にいやなことですね。とくに、安心・安全の農産物や水産物など直接に生業にかかわる問題では、深刻なようです。まさに生きる糧の根本問題であるからです。被災者も避難先で生活が長期化することで、孤立感にさいなまれ、原状回復を望んでも何も変わらないと失望し、あきらめて沈黙する人々も少なくないという。基調報告は分断と対立のさまざまな問題点を指摘するのです

 復興の国家プロジェクトは、ロボット、ドローン、スマート農業、国際産学連携事業など新産業創出ということで、被災者の生活再建を基本になっていないということです。震災の起きた2011年8月に原子力に依存しない安全・安心で持続可能な地域づくりをを基本理念とした「福島県復興ビジョン」がまとめられたのです。

 全国の原発も総点検で、すべてストップされたのです。日本国民は、省エネの努力や再生可能エネルギーに希望を託して、原発のない生活を一時はしたのです。残念ながら、現在は、原発の再稼働が全国のあちこちでおきているのです。それも40年以上も経過している本来ならば廃炉になる原発をうごかしはじめているという怖い現実が起きています。福島の原発事故を忘れているのではないかと思うのです。

  福島の原点を見直すことは、極めて大切な国民的な課題でもあります。この意味からも今回の福島での社会教育研究全国集会は、分断を乗り越えて、日本の未来をつくっていくうえで、極めて大切な地域の学び運動の原点にもなっていくと思う。

 基調報告は、原発事故の被害によっても、ふるさとをあきらめない、ここで生きる覚悟と誇り、仲間と共に生きるということです。基調報告は、歴史・風土に根ざした多様な暮らしを編み出している実践が、若者や女性たちを中核におきているということを強調しているのです。

  それは、震災前の地縁的コミュニティの回復・再生ではなく,I ターンやUターンなど外部から人を迎えつつ、従来の枠を課題でつながり、連帯する新たなコミュニティを組み立て直す実践がひろがっているというのです。このことは大いに希望の持てることです。

 社会関係資本というネットワークによる新たな社会的信頼の構築が、震災からの復興の住民の暮らしからの主体的な取り組みのなかで起きているのです。

 この動きは、目的による地域組織という機能的な側面からではなく、地域で暮らしや文化、自然環境保全、地域での持続可能性をもった循環的な経済のために、機能的な側面を大切にしながら、地縁的側面につながっていくのです。それは、目的意識的に主体性をもって、参加民主義ということから、より機能的側面をもっています。

 しかし、その目的組織は、地縁的な基盤で、それぞれにつながっていく努力をしていくものです。地縁ということでのつながりを対話などをとおして、拡げて行くことを目的意識的にしていくというのです。

 

 「ミニ講演として、崩壊と創成の狭間で」ということで、福島の原発事故の語り部活動を積極的に展開している元高校教員の青木淑子さんの3.11を語る会の代表の話は胸にジーンとくるものでした。

 歴史の証言者として、福島原発事故の被災の怖さを語ることは後世に伝えていく強い義務であると活動しているのです。富岡町に4年間人が入れなかったという目に見えない怖さ。一時的に4年後に入った元の生徒たちは学校の校舎、庭をただぐるぐる歩くだけであったという。安心と安全は結びつかない。原子力災害は、人と人を分断したのだ。

 国際スポーツ学科を富岡高校は新設した。しかし、生徒たちは全国ばらばるにになって、4年間過ごしているのです。元教員であった青木さんは23歳のときに、学校に赴任したときに、東電からの説明で、原発のことに何も疑問を持たなかったという。

 6年間、富岡町には帰ることができなかった。16000人の町民はばらばらになったのです。多くの町民はまだ戻っていない現実があるという。人のつながりが希薄になっているなかで、復興の原動力は、人のつながりであると思い震災の原発事故の恐ろしさの語り部をつづけているといのです。いろいろな考え方あり、共に考え、共に動き、共に作っていくということが復興の力であると強調するのでした。

 震災から13年を経て、これからの地域を考えるというミニ講演は、丹波史紀(立命館教授・元福祉大学教授)の実態調査4300名の自由記述をとおしての分式であった。

 分析の枠組みは、国連避難民の1998年の決議の理念からでした。災害によって被災者は、人間の尊厳として、再定住、再統合の権利をもっているということです。そして、宮本常一の「忘れられた日本人」から学ぶということで、民俗学的に地域の暮らしの小さなことから学ぶことが大切としたのです。

 

 リレートクでは、ひとのつながりが大事として、福島県飯館村で農業をしている結い農園代表の永正増夫さんのはなしでした。飯館村は、震災前に、村おこしで活発な活動をしていたところです。飯館牛、野菜や花きで市場で高い評価を受けていた元気のある地域でした。

 それが、東日本大震災による原発事故で6年間の長期間に避難を余儀なくされたのです。長い避難生活で、住民のつながりが希薄になり、賠償金などで住民の分断が進んだのです。それは、住民ばかりではなく、家族のなかでも分断が起きたのです。

 どのように、地域のコミュニティを再構築するのが最大の課題であったのです。みんなでしゃべることが一番の宝であったのですが、それが、原発によってばらばらになったということです。

 福島県民が失いつつあるものと獲得しつつあるもんとして、漁業振興の立場から10年間の県漁連との話し合いに参加していた福島大学の林薫平教授の話があった。漁協はいつまで反対するのか。さかなの価格はどうなるのか。漁民からの生業の不安が語られているのでした。

 ここでは、目の前の具体的な浜通りの地域のことの取り組みが大切ということでした。本格的な操業の移行期間として、数量の制限からどのようにして拡大路線につなげていくのか。

 地区公民館のつながりを生かしての活動して、いわき市立鹿島館長の稲田雅子さんの活動報告がありました。いわき親子劇場をきっかけに社会教育とのかかわりがで、行政と市民の協同活動をしてきたというのです。いわき市が東日本震災の避難場所になったことから、防災にも強い関心をもっての住民への防災講座を実施しているというのです。

 

 リレートークの最後の締めとして、子どもたちのしあわせ運べるようにと、合唱団の歌声が間にシュプレヒコールを交えての感動的な素晴らしい語り部の歌声がありました。子どもたちが大声をあげて堂々と発声するのです。どんな大人になりたいのか。自分の言葉でかたってみようと。

 

 

 

農と関連した連携・協働の学びと地域おこしー福島の実践からー

農と関連した連携・協働の学びと地域おこしー福島の実践から

 社会教育研究全国集会が福島大学でもたれましたが、わたしは「食と健康と農業」の第10分科に参加しました。全体は、18分科会が設定されていました。報告は、福島県二本松市須賀川氏市、喜多方市の農をめぐる学びと協同の3本でした。それぞれ、社会教育実践からの農を中心とした地域循環経済の地域を関係機関・団体・企業などと連携した学びの実践による地域づくりの素晴らしい実践でした。

 農からの地域おこしのの基本視点は、食糧自給率向上、安心・安全の食料ということから健康で楽しく生きる、農業の担い手をどう育てていくのか、農業生産法人と自営農、食と農、農との関連業者との分断ではなく、連携や協同をどうつくりあげていくのかということでした。

 

第1の二本松の実践報告は、地域のゆういの里東和ふるさと協議会のとりくみを原発事故からの農の再生と地域の協同の取り組みでした。地域は福島市から南東の20キロの農業地帯です。人口は5000名の地区です。

 旧青年団の10名のメンバーで、出稼ぎに頼らない農業ということで、まずは、コープ福島との連携活動から出荷先を決めたのです。また、地元では、道の駅施設との連携し、さらに、商店街との結んでの経済活動の展開でした。そして、東京の消費者団体の大地を守る会との連携した販路を拡大しているというのです。

  荒れた桑畑を何とかいかせないかということで、健康食品としての桑の葉に注目して、それをパウダーにしたことが大きな成功のきっかけとなったのです。桑の葉のパウダーによって、お菓子などの加工食品ということで、地域の不必要になった荒れた桑を蘇えさせているのです。

 優れた牛を飼っている農家も多く、臭い牛糞をどうするのかということは、前から大きな課題であったのです。堆肥センターをつくり、しっかりした発酵をさせることも大切な地域おこしの課題であったのです。

 もみ殻と牛糞を混ぜて、さらに、食品の残渣を混ぜることで、すばらしい堆肥をつくることに成功したことにより、飲食業や食品加工会社など様々な業者から多くの問いあわせが、くるようになったのです。産業廃棄物ということが資源になっていくことが、実証されていくのです。

 2013年に、農家の有志8名でワイン製造会社を設立したのです。40ヘクタールの耕作放棄を活用するという事業でした。ここに、若者3名を専門的仕事として、雇いいれています。

 ところで、多くの若者が移住をしたいという問い合わせがくるようになっているのが、最近の状況であると元県庁の就農対策で、現在は就農支援センターで相談活動をしている人は語るのです。新規就農者が15年で40名以上になっているというのです。新規就農者によって、地域の集落が元気になるということがあるのですと。

 原発事故以降、若者の意識も大きく変化していると就農支援センターの相談員は語るのです。農業も新規就農ということで、一ケ所で農業をするということではなく、複数の土地で、冬は暖かい雪のない地域、夏は福島ということで、今まで、考ええられない発想で農業を展開している人も現れています。

 新規就農の担い手は、生計を農業のみで考える生業としての担い手と、地域の担い手として、農業以外でも生計を考える地域の担い手と、ふたつの見方があるというのです。後者は、農村で暮らすことを生きがいと思って、農業以外でも仕事を求めているのです。積極的に農業とともに兼業できる仕事を紹介していくことも大切というのです。

 さらに、里山合同会社ということで、空き家の改修を積極的に行って、農家民宿も東和地区で24軒生まれているというのです。住民主体のNPO、住民主体の起業づくり、住民主体の体験・加工・交流活動の実践を積極的に展開しています。

 原発事故から復興プログラムと研究内容は、住民主体を基本にしながら、大学研究者と農家が一体となって取り組んでいるのです。大学の積極的な役割は、調査データーをとって、科学的にエビデンスをとってくれるということだと報告者は強調していました。データーに基づいているので、風評被害があっても農家はがんばれるということでした。

 大学との連携で、土壌分析などもすれば多くの予算が必要になってくるのです。それぞれの研究での補助金を企業や官庁、研究支援機関に農家や地域づくりに主体に参加している人たちは大学と共に、求めていくことも大切というのです。

 この実践は今回の福島での全国研究大会の基調報告でも安全な食・農をを取り戻す農再生の協同実践のすばらしい活動として記述されています。また、この実践が大学との調査学習・相互学習をとおしての生産者が営農主体の自分を取り戻すうえで、大いに貢献していることを評価しているのです。

 さらに、基調報告では、この地域の女性たちの活動に積極的に注目しているのです。震災後に里山の暮らしをとらえ直す活動が「かーちゃんの力・プロジェクト」として道の駅を拠点に地域に根ざした食の活動をしているという。ここでは、昭和一桁生まれの女性たちの聞き取りをして、郷土料理を復活させて、広く、そのすばらしさを広く普及させるための冊子づくりもしているというのです。

 ここには、女性たちの故郷が奪われていくという危機意識から、地域の豊かさを学び直すための「あぶくま農と暮らし塾」「とうわ地元学」があったということです。また、昔から住んでいる地域の人たちだけではなく、福島の自然にひかれ、復興再生に力を貸したいというIターンや地域おこし協力隊として都会から移住してきた女性たちの存在があるという指摘を基調報告ではしているのです。

 つまり、ジェンダー差別の根強い農山村で孤軍奮闘している実態のなかで、都会からの移住などによっての外からの支援は重要であるというのです。従前の古い村落共同体の閉鎖的なコミュニティではなく、新たなネットワークによる男女共同参画という目的意識をもっての地域の民主主義の形成の生み出しが必要というのです。つまり、人をつなぎ、地域を拓き、未来をつくるという社会信頼をつくりだしていく社会関係資本(財産)の役割があるというのです。

 第2の報告は、須賀川市の農家の公民館、高校、地元企業などの連携活動をしながら、子どもたちの農をとおしての育ち、農をとおしての地域活性化の実践です。

 ウド、米、さといも、きゅうりを育てている農家です。農家の前は、小学校の教員もやっていたこともあり、農業と教育の関係には深い関心をもっていたのです。田畑は人も育つ場所で、農作業は、植物をよく見て、育てるということだというのです。決して、作物をつくるではないというのです。

 きゅうりは40店舗と契約して、さといもは和菓子屋に出荷しているというのです。また、学校給食や病院給食に食材を提供しているという。積極的に連携をすることで、それぞれの立場をよく知り、農家としてのもの見方、考え方を豊かにしているというのです。

 地元に岩瀬農業高校があるが、そこで、地域の先生として農業を教える授業に参加しているのです。授業がつまらない高校性にたいしての問いかけ。高校生自身の授業への主体的参加を試みとして、高校生の考えたレシピで調理実習。

 そのレシピを農家が出荷している店舗で特別メニユーとして、販売することにした。高校生は自分たちでつくったレシピであるので、そのお店にいく。また、親たちも行く。学校の先生方も行くということで、評判になっていく。店の方も大喜びです。

 ここに、ベトナム人も入れ、国際交流になっていく。評判はさらに、大きくひろがっていく。高校生は実践的な授業で楽しく、自分たちのアイデアがいかされて、それが評判になって、一層に授業が楽しくなっていくのです。

 結婚式場をやっている八芳園と農家として協定を結んだ。農業高校の生徒たちや地域の小規模な小中学校の子どもたちが参加していく食材の提供として、契約を結んでいるのです。栽培して、収穫して、レシピも考えて、接客も学ぶというものです。

 農家があたりまえにやっていることを取引先、出荷先と連携して、イベント化している取り組みが、公民館や農業高校、小中学校をとおして、農家が、教育の仕事に大いに貢献しているというのです。

 第3は、喜多方市の学校給食をとおしての農業教育、食育活動、栄養健康指導活動の報告です。学校給食に食材を提供している地域の農家の生産者の会が市の教育委員会と連携して、積極的な活動をしていることが特徴です。

 そして、小学校独自に農業科の授業を展開しているのです。このための教科書も市が独自に地域の人びとの協力も得て作成しているという大変にユニークな地域教材法式の教科書をつくっていることです。

 学校給食の器も地域の漆塗りをつかったものを使用しています。そして、喜多方の郷土料理を積極的に提供しているのです。ここでは、地場の食材、地場の伝統的な手作り食器、食の安心・安全と環境に配慮した学校給食の教育活動が地域の協力によって積極的に展開されているのです。

 食育教育は、大人になって大いに大切なことであると父母に理解を求めているのです。学校給食をとおしての栄養教諭による健康のための栄養素の知識も教えているのです。学校給食によって、野菜を食べる効果も生まれているというのです。好き嫌いの食べ物があるのは、子どもにとってつきものですが、それをおいしくする工夫と栄養素の話をくわえながら、学校給食に出たものは、食べるということになっているというのです。

 小学校の農業教育は市内17学校ですべて実施しています。農業科の支援員は、100名以上超えています。地域の人びとの善意による無償のボランティア活動でやっています。

 市の方では、有償にと交渉していますが、現在のところ、農業支援員は、無償で実施しているのです。農業科の実施によって、父母やボランティアの支援員は、豊かな心の育成と集団での協同作業などからコミュニユケーション能力が育成されると実感しているのです。

 地域で食材を喜多方市は積極的に提供していますが、全国的には、学校給食センターが巨大化して、経費の効率化も進み、食材も冷凍食品が出回っているということです。  喜多方の学校給食のとりくみは、地域の学校から地域の素材をつかった食の重要性、安心・安全の食を子どものときから提供するということで、大変に地域の循環的な農を中心とした地域循環経済の発展、食の自給率向上の発展にも大切なとりくみであることが理解できました。

 

 

 社会関係資本と生涯学習

 社会関係資本生涯学習

 

                       

    はじめに

 

  信頼は生きるうえでの財産です。人脈やコミュニティは、信頼されるうえで大切な社会関係資本(財産)です。人は誰でも安心を求めます。

  しかし、現実は、様々な面で厳しいことがあります。人間関係、社会との関係で、安心を保障されるには、信頼が不可欠です。信頼とは、人の思いやりの発現です。信頼される人格は、深い人を思いやる心、様々な価値観、個性やクセを持った人を包み込み、豊かな学識と正義に満ちた判断力をもっての行動力をもっている人です。

  

   現代社会は、騙しや詐欺、政治の裏金問題など信頼が大きく揺らいでいます。この現象は、コミュニティのない、絆のない無縁社会傾向のなかで起きています。弱肉強食の競争社会のなかで、負け組が必ず生まれます。新自由主義の自己責任論の広まりのなかで、社会のやさしさや思いやりがうすくなっています。

  だれでも人間らしく生きる権利は、自己責任論に転化であいまいにされています。社会保障は、新自由主義のもとで、ないがしろにされています。競争主義的能力の劣る人々は、挫折と無気力へと追いやられ、孤立させられていく社会なのです。

  どんな人でも社会的に役割があります。誰でも、人は、生きがいをもって、社会的責任を果たせるものです。小さな力でも、まとまっていけば大きな力になるのです。特別に社会のなかで優れた人だけでは、その社会的な力は限界があるのです。 

   弱肉強食の競争社会と大量消費社会のなかで、大都市には、人口が集中しています。そして、農山漁村の過疎化が進んでいます。人びとは、大量生産・大量消費をあおられて、個人の欲望が肥大化しているのが、現代の弱肉強食と自己責任を押し付ける新自由主義の社会です。個人の欲望の肥大化は、お金を絶対的にみる拝金主義に陥って、自己中心的世界にはいりこんでいくのです。

   人間の幸せとは。現代では大きく問われているのです。お金のみを追い求めて、欲望社会のなかで、殺伐としたコンクリートの人工物のなかで生きることが幸せなのか。現実はお金がなければ生きていくうえで不自由を感じるのは、誰も否定できません。お金と人間の絆の分断が起きるのです。友情、家族の愛、地域の人々の連帯感、文化的アイデンティティー、世のため、人のために生きる素晴らしさ、しかし、自己欲望も渦巻く。心の葛藤が起きるのです。

   人は、本質的に社会的存在です。孤立のなかでも利他の心を求めます。そこに、マスコミやSNSによる現実的ではない、同一心、共感を求めてくるのです。マスコミは社会的心の操作に利用されやすいのです。

   それは、感覚的なもので、扇動されやすい行動判断をもつようになるのです。いわゆる大衆化・群衆化の傾向です。マスコミの発達、SNSの普及は、人間と人間の肌による接触ではなく、マスメディアの機械による接触で、AIによって、機械的に操作されやすくなっていくのです。

   社会の欲望の肥大化は、個々の欲望のコントロールの歯止めがきかなくなることもたびたび起きるのです。それは、社会的秩序の乱れによって、深刻な退廃的状況も同時につくりだします。

   さらに、弱肉強食の競争社会は、社会的格差や同一化を求めての社会的差別、政治家やエリート層の退廃も深刻になっていきます。

   実際の人びとの暮らしは、所得格差、異文化、外交人労働者の増大、価値志向など多様化しているのが現実です。それは、狭い自己中心的な世界においやられているので、みえないのです。

 社会関係資本という絆や他者への思いやりの信頼関係、人脈・ネットワーク、互酬性の規範、コミュニティは、大きく問われる時代になっているのです。

   社会関係資本について、現代社会の関係で、入門的・体系的に書かれたジョン・フィールド著・佐藤智子他訳「社会関係資本現代社会の人脈・信頼・コミュニティ」を参考にしながら、人脈の力、社会関係資本の隘路、インターネットの問題、社会関係資本の政策課題を生涯学習という視点から批判をまじえながら、建設的未来志向で考えていきたい。

 ジョン・フィールドは、1949年生まれで、生涯外学習の研究で知られ、イギリススコットランドスターリング大学教育学部に籍を置いていた名誉教授です。

 

社会関係資本の概念構築

 

 ジョン・フィールドにとっての社会的関係資本の核心の見方は、流動的な多様な相互依存の世界における新たな社会的つながりの価値です。つまり、社会的ネットワークが価値ある資産であるということを強調しているのです。

 そして、先行研究であるピェール・ブルデュ、コールマン、ロバート・パットナムの社会的関係資本概念を検討していくのです。ブロデュは文化資本ないし経済資本と人脈の相互作用について明らかにしたが、社会関係資本役割を現代的に明らかにするうえでは、限界をもっているとした。

  それは、エリートが保有する資源を焦点化したことで、同一の文化圏でマナーを共有あっても人が好きになったり、嫌いになったりという事実を認めず、親戚関係や近親結婚の役割を誇張しているのです。

  これは、社会階層的についての静的モデルに依拠しているというのです。制度化された社会的関係資本を代表する立場のある人が、横領・不正・流用の可能性を認めていることや、社会的関係資本の保有者のメリットだけを一面的に強調している決定的弱点があるというのです。

 コールマンは、社会関係資本が相互扶助を誘引して、信頼と共有価値の広域ネットワークに接続していくとしています。かれは、ベッカー等の人的資本の個人利益を最大化する合理的選択理論を発展させた。

  そこでは、新しく個人の利益ではなく、他者と協力の利益のなかに社会関係資本概念を位置づけたのです。社会関係資本は、協力の動機づけが大切になるのです。学校での学業成績達成と社会的不平等とのコールマン研究の報告では、家族やコミュンティの環境要因が大きいということであった。

  そこで、コミュニティこそが社会関係資本の源であり、社会的・経済的に不利な家庭環境の改善の重要性を指摘したのです。社会関係資本は、信用を得るためではなく、認知能力の向上や健全な自己アイデンティティの成長にとって有益であるということです。

  そして、家族を超えた地域のコミュニティという社会関係資本が、個人と集団の両方を橋渡しするもので、個人としての資産というとらえ方だけではなく、社会環境の信頼度ということになるのです。

  コールマンの限界は、子どもたちを成長させていく第一次的責任は、現代社会において、学校という構築された組織が担っており、家族や個人と橋渡しする原初的な社会組織である閉鎖的な紐帯のコミュニティの社会関係資本ではない。

   ここでは、閉鎖的な密度の濃いコミュニティを過大評価しているのではないか。コミュニティは、公共財として善良に機能すると楽観的で、コミュニティの隘路という負の側面をみていないとジュン・フィールドはのべるのです。また、個人主義に対して、コールマンは否定的で、社会的孤立は有害ということで、スキルの分配を個人の選択に委ねることを重視しなという弱点があるというのです。

   人間は社会的存在であり、個人の利益を最大限に求めていくということに、利己主義の問題に戻るのです。個人の尊厳と利己主義、個人の選択の自由尊重と自己の社会的役割や社会的倫理・社会的ルールの人間的成長ということを公的な機関、コミュニティ、社会的労働、社会的組織のなかでみつめていくことが大切になるのです。

  コミュニティと同時に社会的なネットワークや自発的なさまざまなボランティア活動や社会的体験、自然体験などで、自己を社会的に位置づけて、その役割を認識していくなかで、自己のやりたいこと、自己選択が必要になってくるのです。

  その順序が、段階的ではなく、先に自己のやりたいことが当然ながら芽生えていくものですが、実は、そのことは社会的影響によって、自己のやりたいことが反映していくのです。

  パットナムについては、アメリカのコミュニティの崩壊のなかでの社会的関係資本の構築です。アメリカ民主主義は、コミュニティの存在によってつくられてきた。この意味でコミュニティの崩壊による孤立・無縁社会の進行のなかで新たに民主主義を構築していくためには、市民参加をどのようにつくりあげていくのかという課題があるのです。

  パットナムは、社会関係資本とは、ネットワーク、規範、信頼などの社会生活を特徴とするという。その中核はネットワークと。そして、ネットワークから生じる互酬性と信頼の規範とするのです。 

  社会関係資本は、橋渡し型、結束型と二つの形態がありますが、結束型は排他的アイデンティティを強化し、同質性を維持する傾向に対して、橋渡し型は、多様な人びとを結びつけるのです。パットナムは政治的無関心と他人への無配慮に暗黒郷を考え、そこには、犯罪や貧困対処のない社会を描くのです。

  アメリカ民主主義の基盤となったコミュニティの衰退の原因は、家族構成の変化や福祉国家の発展ではない。その衰退は、人種差別でもない。むしろ、大企業の力が大きくなって、グローバル化がビジネスリーダーたちの市民参加への関与を減少したためであるとするのです。

  そして、さらに、パットナムは、社会関係資本の衰退は問題なのであろうかと、根本問題を投げかけるのです。社会関係資本との関連で、教育、経済発展、健康、幸福感、民主主義の関与などを社会的信頼や市民活動への関与などで調査するのでした。

 パットナムの社会関係資本の定義は、ネットワークへの積極的参加に重点が置かれています。そこから生じる互衆性と信頼性の規範に重点が置かれているのです。ジョン・フィールドによると、パットナムは、社会関係資本がもたらす特定の効果を過度に強調してきたというのです。低水準の社会関係資本が貧困の原因になると推論するが、貧困こそが人々のネットワークを貧しくしているのです。

  ジョン・フィールドは、3人の社会関係資本論の共通の弱点は、組織や政治生活に参加する方法について、男女間の違いの探究、女性の役割についての見方はない。ジェンダーと権力関係や社会関係資本の負の側面の分析は、3人の社会関係資本論についてない。今後の課題になっているというのです。

 

人脈の力・社会関係資本と教育

 

 社会関係資本は教育との密接な関連をもっているのです。コールマンの研究は、は、社会的・経済的に恵まれた家庭の子どもたちは、不利な環境に置かれた子どもたちよりも学業成績はよい傾向にあると一般的に予想されますが、その例外を明らかにしたのです。宗教系のコミュニティの学校という社会関係資本が教育に影響を与えていたのです。

 社会的に不利な環境で育った若者に、社会関係資本は、社会階層の低さや文化資本の弱さを挽回する切り札になり、高い水準の成果に結びつくというのです。すべての形態に結びつくものであるのか、特定の文脈に依存しているのかということは明らかになっていないとジョン・フィールドはのべるのです。

 社会関係資本の内容を考える方が重要ではないか。それには、コミュニティのなかに、高い識見をもった教育的役割を果たす人がいるのかどうかということが前提になってきます。

  その人は僧侶であったり、牧師であったり、宗教家、文化的な権威をもったリーダー、元教師や社会教育関係者、社会運動家、豊かな知識をもった世話役などコミュニティの内部での人々を人間的に感性と知性をもって、異なる価値観、多様性を認め合うことで、大いに対話して未来志向の人格に育てていく基盤があるのかということです。

  これは、ひとつの教育的な人脈です。その教育的人脈はコミュニティ内部だけではなく、外部との多様な関係をもてる橋渡しの人物がいるのかどうかということも大切な要素です。伝統的な村落社会でも決して閉鎖的な側面ばかりではなく、修験道・山伏などによって、外からの文化が入ってきているのです。そして、全員一致主義という徹底した議論が行われていたのです。決して多数決原理による効率主義的な意思決定ではないのです。しかし、現代的には、伝統的なコミュニティは急速に崩壊していく傾向が強く、新たなコミュニティづくりが課題となっているのです。

  これらには、今までと異なって、地域、職場、学園で、それぞれの機能や独自に目的意識的な組織づくりが求められているのです。これは、自然発生的なものではなく、とくに公的な学校や社会教育機関、職場での学びの意識の醸成が不可欠なのです。

  それらは、暮らしの学び、健康の学び、子育ての学び、趣味やおけいこごとの学び、スポーツなどをとおしての様々な結びつきをつくっていくリーダーの役割が極めて大切なのです。

  ジョン・フィールドは、学校の友人関係は共に成長し、同級生のうちの何人かとは何年間も連絡をとりあっています。

  しかし、生徒や学生の間の友情ネットワークに関する研究は少ない。学校内部の人間関係を社会的関係資本と結びつけて、その継続性をみていくこともひとつの人脈です。

  同窓会やクラス会、卒業しての同じ学校で学んだ友人との深い人間関係の継続は、その一自身の社会的ネットワーク、社会的信用や社会的権威などとも結びついて、社会的信頼や社会的相互作用の潤滑油になっていくのです。

  学閥は、閉鎖的で、仕事の合理的な能力を判断していくことを否定しての社会的なマイナスのイメージをもっていくこもあります。そのことが不合理な利益集団として機能していくこもあるのです。しかし、心情的に同じ学校で学んだというひとつの心のよりどころの学問的な文化もあるのです。

 

経済と社会関係資本

 

 

 経済領域の人脈について、ジュン・フィールドは、人的資本の職業訓練や一般教養教育などの投資との関連も含めて、その効果、収益分配率などの道具となったことや、合理的就職での選択理論の検討をしていく。

  経済学者は、資格と学歴による就業能力とみなす見解であるが、社会関係資本視点からは、就職活動において、親類が持つ人脈に支えながらの、家族や友情のネットワークが就職活動に重要な役割を果たすことを指摘している。

  中国では、解雇された労働者が再就職する際に、親族や親しい隣人で構成される社会関係資本を利用されることが圧倒的に多いと指摘しています。ドイツでは社会活動への参加活動への参加が失業者の就職と正の関係がることを指摘しています。

  雇用する立場からでもネットワークや人脈を活用することで、大きな経済利益をもたらすことがしめされているとするのです。

  ジュン・フィールドの指摘は、労働市場との関係で、社会的関係資本をみているのですが、ここには、積極的に雇用の安定や自分の希望した通りの就職ができたということがあります。が      しかし、それは、社会関係資本が、閉鎖的ではなく、広く開かれて、公開と民主の原則を維持して、積極的に社会権の視点からの雇用の安定、労働権の保障、民主主義的に自分自身が参加しているかにかかわっているのです。

  そこには、職業選択の自由と自らが望むのには、キャリアアップや時代に対応できる職業・技術教育などの教育権の保障が当然ながらむすびついているのです。

   身分制的な封建的な制度のなかでは、見習いとして丁稚奉公していく時代は、親族をとおして、見習いを周旋する業者がいたのです。それは、封建的な身分制時代の閉鎖社会の親族と知人をとおしての見習奉公であった。

  その制度は、近代の製糸工場や縫製工場の年季奉公で続いたのです。善意の工場主にあたれば、工場内での学習も保障されたのです。

   しかし、多くは、前借して親が給金をとっており、過酷な不自由な生活を多くの女工は強いられたのです。雇い主と斡旋業者・紹介者の知人の良識に大きく左右されるのです。

   このことは、現代でも言えるのです。外国人労働者の実習制度は、その典型で、送り出し機関や送り出す日本語学校、管理団体が金儲けのために、絶対的な拝金主義になっているのかどうかということが大きく問われるのです。まさに、社旗的モラルが大きく問われているのです。

  法的にも罰則がきちんとしていないことも大きな要因です。日本語学校や中間業者のやりたい放題という現実があるのです。制度にそっての日本語教育は極めておろそかになるのです。り     また、借金をかかえて日本に技術・技能の実習ということではなく、出稼ぎにやってくるのです。実習制度の理念にそって実施すれば、受け入れ企業の労働力不足の解消という側面だけではなく、積極的に発展途上国への企業進出の人材確保になるのです。

   外国人労働者問題は、深刻な労働力不足が根底にあります。とくに、地方の中小企業や農業生産法人などは深刻です。、そして、介護や肉体労働を必要とする分野では、労働力不足は、厳しい現実があります。受け入れ企業・農業生産法人にとっては、中間業者に弱い立場から、ものが言えない側面があるのです。このことは、民間の職業紹介会社や派遣業者にも言えることです。

  この現実の問題から、外国人労働者の権利を守り、かれらの将来のキャリアを保障していくためにも、また、受け入れ会社にとっても安定的に労働力を確保するためにも人権や民主主義を保障していくための良心的な社会関係資本のネットワークが必要になっているのです。

  ビジネスを成功させるためには、ネットワークが重要であると考えられてきたという。創業期の段階では、人脈が、重要な情報資源となり、ビジネスチャンスを見極めて活用するうえで重要な役割を果たすという。

  イノベーションの交流は、商品やサービスの取引のような企業間のより確立された活動と同様に、お互いを信頼する人々の安定したネットワークの存在のよって促進されていく。

  パットナムの研究の紹介から、イタリアの民主主義に関する研究から、市民参加と経済的繁栄が長期的に関連性を持つというのです。それは、協力の習慣と信頼規範の発達に起因するという。信頼と経済成長、市民組織活動と信頼の間に一貫した正の関係があるということです。この信頼と経済成長を異なる社会関係資本との関連で、深く分析していくことが必要とジュン・フィールドはのべるのです。

  社会的結束と健康は、関連しているとジュン・フィールドは指摘します。そのエビデンスは、19070年代後半から十分に確立しているというのです。社会的紐帯が弱い人々は死亡率との関係で強い相関があるというのです。パットナムの研究の結果によると、社会的結束の強い人は、相対的に健康であるということを4つの理由あげています。1,社会的関係資本のネットワークは、物質的支援ができるのです。第2に、健康な規範を強化できるというのです。第3に、医療サービスの効果的なロビー活動ができるというのです。第4に、相互交流が身体の免疫システムを向上させるということです。

  所得格差は健康水準に悪影響をもたらし、社会関係資本のネットワークが、それを改善することができるとしているのです。社会階層の異なる上位から下位までの異なる垂直的な紐帯が大切としているのです。

   異なる社会階層の垂直的なネットワークをどのようにつくっていくのか。これは、格差社会の拡大のなかで、孤立していく低所得層の蔓延のなかで、どのようにつくっていくのか。極めて難しい課題でもあるのです。

   犯罪と逸脱を減らすことでも社会関係資本のネットワークは、大きな役割を果たすとジュン・フィールドはのべます。パットナムのアメリカの研究で、殺人、暴行、強盗は、インホーマルな社会的統制が弱く、法執行機関のようなフォーマルな外部資源を動員する能力が低いことに起因するというのです。

  社会関係資本のネットワークの充実と法律を順守する傾向があるというのです。若者が強力なネットワーク、広いコミュニティに統合されることで、自尊心と地位の感覚を獲得するというのです。これが犯罪を低減するというのです。

  互酬性への期待は、お互いが信頼しているかどうかに左右されるというのです。信頼自体が複雑で多様な現象であり、信頼は共有される規範と強力なネットワークが必然的帰結でもない、市民参加の多くが信頼を生み出すというエビデンスもない。信頼それ自身が望ましいものであるのかという経営陣の不信感があるというのです。

  このように概念の構築において、信頼と社会関係資本にジュン・フィールドは疑問を投げかねているのです。そして、橋渡し型と結束型、強い紐帯と弱い紐帯、同質性と異質性などの区別から社会関係資本が複雑ということで、概念の細分化を提起するのです。

  さらに、社会関係資本の前提条件としての協力と互酬性を生み出すということと、投資した個人にとっての価値があるだけではなく、より広範な公共利益にとっても価値があることが大切としているのです。

 

社会関係資本の隘路の散策

 

 社会関係資本は、地位と特権を支える資源にアクセスすることによって、他者を犠牲にして自らの地位を高め、不平等を拡大していくとジュン・フィールドはのべるのです。

  つまり、雇用主がネットワークをつくって労働組合を弱体化させたり、力のある集団が集団の外にいる人たちを社会的につながらないように、社会的に力の弱い人々の社会関係資本を解体したりすることがあるのです。

  市民組織の構成員は、性別によってすみわけられている場合が多く、社会関係資本が不平等に影響力をもつ場合があるというのです。

  また、社会的差別を受けている人種や民族的な問題では、それぞれのネットワークが社会的に広く交流するのではなく、別々で閉鎖的に固定されているという。

  社会的に不利な立場に置かれている人々は同質性の高い社会的ネットワークをもっています。裕福な異なる人々との社会的ネットワークは持てない状況になるのです。最も裕福で高学歴の人びとは、影響力のある人脈を多くもっています。人々のネットワークは、質的に異なるものが多い。

  多様な社会関係資本のなかでは、構成員の私的利益のための派閥を組むものもあります。組織的犯罪に加担していくネットワークをあります。権力を握っての私的な利益を求めていく政治的腐敗などにもみられるのです。

  社会関係資本のネットワークが社会的に犯罪や腐敗の温存になるという社会的正義から逆効果の側面もあるといのです。政治の世界では、コミュニティのリーダー格が、政治参加を支配し、自身の豊かなネットワークを利用して、自分と異なる意見の人びとを排除したり、その人の意見を無視したりすることが多々あるというのです。

  社会関係資本は、社会的正義の側面ではなく、社会的な負の側面があるとことをみていかねばならないことをジュン・フィールドは強調しているのです。社会関係資本における高い社会的規範、社会的正義が求められていることを見逃してはならないというのです。

 

インターネットは社会関係資本を破壊するのか

 

 パットナムは、テレビがアメリカの地域社会の崩壊の主な要因であるとしているのです。テレビによって時間が消費され、家にひきこまるようになった。テレビは、人びとの受動性と無気力を助長する。多くのテレビ番組のないようは、反市民的になる傾向があるのです。

インターネットが社会的人脈を下支えするだけではなく、一般的な情報や資源を提供することによって、社会関係資本に寄与しているという研究成果もあると。以上のようにジュン・フィールドは、バーバラ・B・ネヴィィスの調査結果を受けてのべるのです。

  インターネットが社会関係資本にマイナスの影響をあたえているのは、社会関係資本の隘路の特徴に起因があるとするのです。SNSの議論は、憎悪と敵対心を加速させる側面をもつ。社会調査のエビデンスのデーターが単純な統計的分析で、オンラインの相互交流と対面での相互交流がなぜ関連するのかという根本問題を明らかにせずにオンラインでの相互交流が対面での関りを充実させ、その不足分を補っていると結論づけているとジュン・フィールドは批判するのです。

  インターネット利用者と市民活動の参加者は、ともに相対的に高学歴で高所得の傾向があるのです。この要因はアクセスの良好さに関連しているのではないか。オンラインの交流が一体何をもたらすのかを理解できていないという。

 

社会関係資本の政策と実践

 

  OECDは、教育及び学習は、社会協力及び参加につながるような習慣、能力及び価値を支える可能性があるとのべているのです。

  より広い意味で教育と社会関係資本が結びつくのは、社会的学習のプロセスによって協力と互酬性が生み出すからであると。

  学問的な要素を通じてのみならず、スポーツやクラブ活動などの課外活動での出会いを通じて、学校や大学での成功体験がより優れた社会的スキルを育むからであるとみるのです。そして、教育活動が社会関係資本の促進に役立つとされるのは、次のような活動であるとみるのです。

  年齢やライフステージの異なる人々が集まり、知識や経験を共有する世代間学習、アメリカのヘッドスタートの親教育プログラム、児童・生徒・学部生を対象としたサービスラーニング・プログラムがあります。

  そして、、学部生のための課外活動やインターシップ、生徒・学生や起業したばかりの人、新領域に就いた人などに指導や支援を行い、橋渡し型社会関係資本を創出するところのメンタリング事業もあります。

  さらに、ボランティア事業の支援、ポジティブなローカルモデルと近隣地域外活動、成人学習の適切な機会提供などをあげているのです。

 社会関係資本の政策において、社会教育・生涯学習の政策が一般行政の暮らしの政策と結びつい展開することが、日本においては、大切です。地域のコミュニティの崩壊によって、新たにコミュンティティをつくっていくのは、従前のコミュニティティの復活という発想では、崩壊していく古い地域組織の再生、それ自身は難しいのが現実です。個々の暮らしのなかからの発想の展開が必要なのです。孤立化している現状のなかで、人びとが求めているものは、なにか。自分の感性とあった仲間はいないか。自分のやりたいことと同じことを考える仲間はいないのか。

  それには、趣味や考え方、自然に対する見方など様々なことでの結び合いがあると思います。まずは、同じ志向の仲間の集いや組織化が求められていると思います。そのネットワークが大切ではないか。それが、さらに発展していくためのつなぎの関係と幅が拡がっていくネットワークに発展していくのです。これらのネットワークづくりには、幅広い識見をもって、広い人脈をもったリーダーが必ず求められるのです。社会関係資本づくりについては、リーダーの養成が極めて大切になってくるのです。

 

 

現代の理性のない欲望肥大と野蛮性の大衆的人間―オルデカの「大衆の反逆」から学ぶ

 現代の理性のない欲望肥大と野蛮性の大衆的人間

                ーオルデカの「大衆の反逆」から学ぶー

          神田 嘉延

 

 オルデガの大衆的人間の考え

 

   オルデカは、1883年にスペインのマドリードで生まれ、1955年になくなった社会哲学者であります。大衆化状況についての社会分析をして、ファッシズムの社会的群衆精神を明らかにした。

   そして、スペイン政治教育連盟を設立して、改革的共和主義の運動をし、新しい生きた理性的精神のリベラルな保守主義の歴史と文化の大切さを求めたのです。

 彼の代表的な著作の大衆の反逆では、みんな同じ、思考と判断を停止した知性のない粗暴な大衆と考えた。そこでは、甘やかされた子どもの心理状況と虚栄心にみちているのです。

  そのなかで、文明や文化に興味をもたない技術万能主義で、野蛮な規範による凶暴な独裁をつくりだしていったとするのです。これが、ファッシズム形成の基盤になると考えたのです。

 現代の日本社会はどうなのか。大衆の反逆を読みながら、それぞれの指摘から、現代の日本の大衆社会状況を考えたい。

 オルデカは、大衆的人間について、次のように考えています。「群衆という概念は、量的であり、視覚的である。本来の意味を変えずに、この概念を社会学用語に翻訳してみると社会大衆という概念がみつかるというのです。

   社会はつねに、少数者と大衆という二つの要素の動的的な統一体です。少数者は、特別有能な、個人または個人の集団です。大衆とは、格別、資質に恵まれない人々の集合なのです。だから、大衆ということばを、たんに、また主として,労働大衆』という意味に解してはならない。大衆とは『平均人』である」とのべるのです。

 オルデガが生きていた時代は、群衆が一種の魂となって出現してきたということです。その群衆が社会の高級な場所に入りこんできた時代が生まれたと考えるのです。このなかで、大衆の概念を資質に恵まれない平均の人びということで、社会学的に規定するのでした。

 この平均の人びとは「『自分がみんなと同じだ』と感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一だと感じて、かえっていい気持ちなると指摘するのです。そのような人々が大衆である」とオルデガがのべるのです。



 知的生活の劣化と超民主主義を求める大衆的人間

 

 「社会を大衆とすぐれた少数派に分けるのは、社会階級の区分ではなく、人間の区分であって、階層秩序と一致するものではない。上層と下層、どちらの社会階級にも大衆的に人間と少数派の知的生活の人間がいる」とオルデガはのべるのです。

   ここでは、知的生活のレベルの高低で、大衆的人間と少数派の人間に分けているのです

 それは、労働者階級という意味の大衆ではなく、知的生活を受けていない大衆的人間を指しているのです。

   つまり、社会的に知的生活は資格や一般教養の高さや、芸術的・文学的な感性を持っての人間的な能力を求めていきますが、大衆的な人間は、そのような天賦の才能を求めていないのです。ある意味では愚民の集団なのです。

 ここには、学校教育や社会教育の問題が大きくあるのです。社会的には生涯にわたって学び、人間的能力の発達が保障され、社会的判断や社会的理性が要求されていくのです。それが、本来の近代社会の発達です。

   しかし、大衆的人間の現象は、複雑な社会的な様々な生活で、その知的判断を求めていないのです。つまり、近代社会の文明化を否定するのです。社会全体が大衆的人間におおいつくされていくことは、社会発展の退化現象にもなるのです。

 本来的に科学技術の発展によっての近代化と複雑化する社会では、知的生活が必要になっていくのですが、その要件としての能力的な目安になっていく資格を大衆的人間の現象は求めないとオルデガはのべるのです。この問題について、オルデガは次のように語ります。

 「知的生活は、その本質から資格を要求し、それを前提とするものであるが、資格のない、資質を定めない、そのような精神構造が社会の勝利をおさめつつある。社会がきわめて多様な作用、活動、機能から、それらを運営していくには、特別な天賦の才なしには、運営することができない。

 芸術的な、贅沢な特性をもったある種の楽しみ、政府の機能、公的問題に関する政治的判断など、以前は、資質に恵まれた少数派の人びとによって行われていた。

  以前に、大衆はそれらにわりこうとしなかった。わりこみたいとおもうならば、それにふさわしい特別な資質を身につけて、大衆であることをやめたのである。

   大衆的人間が政治的支配権をもつ以前の古い民主主義には、自由主義と法に対する熱情がたっぷりと盛り込まれて、個人はきびしい規律を自らに課して自由の原理と法的な規制の庇護のもとに、少数派は行動してきた」。

 科学技術や市場経済の発展などによる社会の高度化は、特別に天賦の才能をもったエリートがそれぞれぞれの分野の社会的エリートが求められたのです。そのことによって、社会の円満な機能になっていくのです。

   これが、社会の少数派の役割であった。大衆的人間は、以前に少数派の役割を果たすのには、知的生活の分野での能力を身につけて大衆的人間をやめたのです。これが、立身出世としての教育の役割機能でもあったのです。

 また、オルデガは、大衆的人間が支配する以前ということで、古い民主主義、自由主義と表現しますが、その時代では、社会的リーダーは、きびしい規律を自らに課して、自由の原理と法的な規制を非常に大切にしたというのです。

   大衆的人間の現象は、社会的倫理として、このことがはずれて、知的生活による冷静の判断をもっていくのではなく、大衆的人間の現象による「みんなと同じ」という世論を優先して流されていくのです。

 その世論も意識的にマスコミやSNSによる大衆の意識操作によって動かされていく時代になっていくのです。大衆的人間現象において、マスコミが大きな役割を果たすようになっていくのです。オルデガが生きていた時代は、新聞が大きな役割を果たしていたのです。

 オルデガは知的生活を重視しない大衆的人間が政治支配をする社会を、法律の外で、暴力的手段、みんなと同じと考えない人は、暴力的手段で排除される超民主主義であると次のように表現するのです。

 「今日は、群衆が直接的に支配する超民主主義のなかである。大衆的人間は、物理的強制手段によって、自己の野望と趣味を押し付けながら、法の外で行動するようになる。思考や判断を停止し、法の外的な平均的規範に盲従する精神が蔓延していく。

 みんなと同じように考えない人は排除され、社会の人びとは、大衆的人間の粗暴の支配のなかで生きるようになる。

   これは、暴力的な大衆の精神的反乱であり、威圧的で手がつけられなないようになる。物資的技術だけではなく、人権とか市民の権利などを法的・社会的技術として利用するようになった」とのべるのです。

 ここでは、大衆的な人間の粗暴な知的判断のないなかで、法律よりも自己の野望と趣味が優先されていく政治になっていくのです。まさに、知性のない無法な精神的反乱が社会の全般をおおうようになっていくのです。

   大衆的人間の知性のないリーダー層は、個々の欲望が動物的側面をまるだしになって、権力と拝金主義を追い求めていくのです。大衆的な人間がはびこる社会現象では、社会的倫理、法律は、形式なものとして処理されて、実質的に十分に機能しなくなっていくというのです。

 

 大衆的人間が生まれる理由

 

 オルデガは、大衆的に人間について、それらの人びとはどのような人間であるのかと、解剖していくのです。

 「19世紀の革命的な社会大衆は、それまでの条件とは根本的に異なり、市民生活をひっくりかえしたのである。革命とは既存の秩序に対する反乱ではなく、伝統的秩序を否定する新しい秩序の樹立である。20世紀の革命の新しい社会大衆は、それ以前の人間とは別である。この社会大衆は、自分だけが生きているという甘やかされた子どもの心理を構成するものである。

 甘やかされた大衆的人間は、欲望を制限しない、なんらの義務もない、自己の限界を経験することがないという。他人に感謝するものは誰もいない。空気は誰かが作ったものではない。自然にあるものである。それはなくなることがない」。

 大衆的人間は19世紀の革命の時代から、20世紀にかけて、甘やかされる欲望に制限を持たない人間が生まれていったとオルデガは、その歴史的背景についてのべるのです。

    その甘やかされる人格的な特徴は、伝統的な秩序を否定し、なんらの義務をもたない、自己の限界を経験したことのない、他人に感謝することない人々であるとするのです。

 オルデガは20世紀に入っていく社会の高度化に伴い、分業の発達と社会の複雑化、機械制による単純労働、専門分化、知識や科学・技術の資本主義的な充用、資本主義的な不況という景気循環の不安定性などからの知的生活欠如状況の分析はされていない。大衆的人間の現象を資本主義的な大量生産やマスコミの発達などからとらえていくことが重要である。

 オルデガは、大衆的人間の権利構造は、文明の恩恵とその努力によって成し遂げられた権利の価値をみないで、その恩恵を自然の権利のようにみているので、食糧が不足する暴動となって、パンを求めて、パン屋を破壊すると次のようにのべます。

 「大衆的人間の権利構造は、文明の恩恵の背景には大きな努力と最新の注意をもって、はじめて、維持しうることを知らない。そこには、発明と建設の努力があったことを大衆的人間はわからない。その恩恵を自然の権利のようにしつこく、有無を言わせず要求する。食糧が不足すると暴動となってパンを求め、パン屋を破壊する。

 人権、市民権は、受け身の財産、あらゆる人間が遭遇する運命からのありがたい贈り物であり、努力も必要としない権利であると思い込む。

   それは、無人格的の権利の所有であると錯覚する。本来、人格的権利は、動的で、努力によってである。それは、貴族に与えられていた。貴族という本来の意味は、高貴な人ということで、努力する人、卓越した人という意味である」。

 大衆的な人間にとって、人権や市民的な権利は努力も必要としない受け身なのです。人格的権利は歴史的に人々の努力によって、卓越人によって達成されたのです。

   さらに、オルデガは、大衆的な人間は、自分は完全であると思い、外部の権威に対して自己閉鎖になって、他人の意見に耳をかさず、自己の支配力を行使したがるとオルデガは次のようにのべるのです。

 「大衆的人間は、自分は完全であると思い込み、自己満足から外部の権威にたいして自己閉鎖してしまい、耳をかさず、自分の意見に疑いをもたず、他人を考慮に入れないようになる。たえず、内部にある支配感情に刺激され、支配力を行使したがる。

   そこで、自分とその同類だけが世界に存在しているかのように行動する。慎重も熟慮も、手続き保留もなく、いわば直接行動の制度によって、すべてのことに介入して自分の凡庸の意見を押し付ける。ここにかかげた諸特徴から甘やかされた子、反逆する未開人、野蛮人といったようにみられる」。

 

  大衆的人間はすべてに暴力的に介入する

 

 大衆的人間はすべてに介入し、しかもなぜいつも暴力的に介入するのかとオルエガは、考えるのです。それは、虚栄心からくるものであるとみるのです。

 「大衆的人間は知性の閉塞である。自分が完全であることを思う。それは、虚構の、幻想的な、疑わしい虚栄心からくるものである。虚栄心の強い人は他人を必要とし、他人のなかに自分の観念の確証を求める。

  大衆的人間には、知的立場を尊敬しない。そこには、文化も存在しないという野蛮性である。野蛮とは、規範も頼るべき原理のない状態である。

 大衆的人間は、理由をもたない権利、道理のない道理、思想をもたない。議論をやめる。資格をもたないで社会である。そこでの支配は、知能の閉塞性による強制的暴力の特徴がある。

  そこでは、あらゆる共存形式、議論をやめることで、会話から科学を経て議会にいたるまで、客観的な規範を尊重することをしない。それは、文化的共存を拒否して、野蛮な共存に退化する。自分たちの欲望を直接的に押し付ける。大衆が社会生活に介入するときは、直接行動の形式で暴力的に行われる」。

 大衆的な人間は、知的立場を尊重せず、道理や思想を持たず、議論をしないのです。まさに、客観的な規範を拒否して、文化的共存を拒否して、自分たちの欲望を議論せずに多数決の暴力や直接な議論しようとする少数派の人びとを暴力的に排除して、人びとに自分たちの欲望を直接におしつけるのです。

 オルデガは、大衆的人間が支配することと、反対に、政治的共存の意志が最も表現された自由民主主義の統治を提起する。

  それは、「隣人を考慮に入れ、間接行動の原型である。自由主義的な公権が万能であり、弱い敵と共存する人間、敵とともに生きる、反対者とともに統治するという自由民主義の理念を大切にする必要があるとする」。

 オルデガは、大衆的人間の世界は、未開人の意識と同じであると次のようにのべるのです。「大衆的人間の世界は、文明化しているなかで、人間意識の未開人化である。自分たちの世界にある文明をみつめることなく、文明はあたかも自然物のあるかのように扱っている。大衆化した人間は、自動車をほしがり、技術の驚くべき進歩が常に話題にされる。技術万能主義になっている。

  大衆的人間には、理論的考察を尊重する気持ちはない。政治、芸術、社会的規範、道徳が疑問視さえなく、新しい発明が生まれれば、それを積極的に利用する」。

 大衆的人間は未開人の意識であるが、技術万能主義で、便利で効率的な自動車などの文明化された物質的欲望を強く求めるのです。

  しかし、政治、芸術、社会規範、道徳という近代化のなかで作られてきた社会的な文明作用の機能を認めないのです。



 専門分化した科学者は大衆的人間の原型である

 

 オルデガの見方で、現代の科学者は大衆的人間の原型であり、科学者の専門化が野蛮性をもっているとするのです。科学者の総合的な教養のなさの怖さを次のように指摘しているのです。

  「科学者が一世代ごとにしだいに研究の領域を狭くして、自分の知的活動分野のなかに閉じ困って、孤立している様子が大衆的人間の原型と言っているのである。科学者が他の部門ごとの接触を失い、科学、文化、文明という名の総合的解釈から離れているのである。

 つまり、科学者が自分の微小の専門分野に集中しているために、総合的な教養を失って、機械的頭脳になって、社会生活から無知な人間になっているのである。

   しかし、かれは、無知な人間としてふるまうのではなく、自分の微小な専門領域では、豊富な知識をもっていることから、気取った知識の豊かな専門家として、力強く自身に満ちた社会的行動をするのである。

  実際は、政治、芸術、社会的習慣、自分の専門外の科学は、原始人か、きわめて無知な人間である。大衆的人間の特徴として、人のいうことを聞かない、高い権威に従わないということが象徴的に現れる」。

 オルデガが科学者の社会的な無知、自分の専門外では教養がないということですが、傲慢性をもって、他人の意見を聞かないのであるとオルデガ強調するのです。このように、科学者の大衆的人間の原型を指摘するのです。

 科学者が自己の狭い専門性のみを追求していると恐ろしいことが起きるのです。核の研究をしていた科学者が戦争に利用されれば、核兵器として利用されて、日本の広島・長崎の原子爆弾のすさまじい強力な被害をももたらすのです。そこでは、多くの人びとを長年によって苦しめるのです。

 科学・技術の生産の応用でも、総合的な視点をもって、人々の生活や健康に、自然に影響を考えていかねば、その結果がどんな悲劇をもたらすかは、多くの公害問題や環境破壊が教えてくれているところです。

 科学者の倫理の問題は、人間としての倫理が問題になっているのです。科学者の研究の大きな目的には、人びとの幸福のために、文明・文化を発展させて、人びとの暮らしが豊かになっていくために、その倫理性と総合的な教養性が鋭く問われているのです。

 

 大衆化人間一群れの国家支配と自由と民主主義のための社会教育充実

 

 ところで、現代の大衆化した人間が、国家を支配することが最も恐ろしい事態になるとオルデガはのべるのです。

 「文明を脅かしている大衆的人間が、国家を支配することによって、生の国有化、国家の干渉主義、国家によるすべての社会の自発性の吸収していくことである。

   新しい自発性の種子は決してみを結ばない。社会は国家のために、人間は政府という機械のために生きることを余儀なくされる。

   国家は生を抑圧する至上権として、社会のうえにのしかかるのである。社会の奴隷化がはじまり、国家に奉仕する以外に生きることができなくなる。生はすべて官僚主義化される。人間の生存の官僚主義化が強化され、社会が軍隊化する

   国家主義は規範として確立された暴力と直接行動のとりうる最高の形態である。国家を通じて、これを手段として、大衆という無名の機械がひとりでに動くようになる」。

 オルデカは、大衆的な人間が国家を支配することによって、人びとの自発性が失われて、社会の奴隷化が起きるとのべています。

  社会の文明の発展は、人びとの自発性や創造性、人びとの共同・協働の営みによって進んでいくものです。人々が国家の機械の歯車になって、社会全体が官僚化していけば社会の停滞、退化が進み、ときには社会の破壊となっていくのです。

 大衆的人間は、知的な生活をしないゆえに、歴史的に物事を見る目をもちません。ときには平然と時代錯誤も行うのです。この問題について、オリデガは次のように指摘しています。

 「大衆的人間の典型的鼓動は、時代錯誤で、古い記憶はなく、歴史意識もない人間に指導されるのが常である。はじめから、まるでなにもかも過ぎたことのように、いま起こりつつあることが過去の時代に属するかのように行動する。あわれわれは19世紀の自由主義を乗り越える必要があることは疑う余地がない。

 それは、ファシストのように反自由主義を宣言する人間にはできない。過去はそれなりの正当な理由をもっている。

   自由主義は、ある正当性をもっていたし、その正当性はいつの時代でも認められなければならない。しかし、なにからなにまで正当ではなかったから、正当でない点は拒否しなくてはならない」。

 19世紀的な自由主義のゆきづまりは、20世紀になって顕著にあらわれていった。とくに、市民的な自由主義である個人の国家からの自由だけでは、人々の暮らしからの文化的な生存の保障という自由は難しくなっていった。

   国家が直接的に自由を保障していく生存権の権利を保障してこそ自由が享受される時代になっていくのです。それは、社会的自由としての自由主義が課題になっていくのです。

 つまり、自由のためには、国家や地方自治体などの公的な機関が保障していくことが必要になっていくのです。

  また、自由市場経済の発展は、度重なる弱肉強食の競争の結果からの独占資本を生んでいくのです。

 そして、市場経済のなかで弱小の企業の自由な市場への活動を阻害していくのです。ここに、独占禁止法という国家による市場経済のルールづくりが行われていくのです。営業の自由は社会的に公正性を要求されていくのです。

  また、営業の自由、個々の営業のわがままが保障されるだけでは社会的公平性が失われてのです。そして、環境や持続可能性、社会的な害悪への慎み、人びとの暮らしを破壊しないなど様々な社会的なルールが要求されていくのです。

 営業の自由は、儲かるための経済活動ということだけではなく、社会的なルールや社会的なルールが強く求められていくのです。

  これらの社会的規制や社会的ルールづくりは、人びとの暮らしの豊かさや幸福のために、社会的な話し合いや合意によってつくられていくものです。

  そのもとで、それぞれが、社会的ルールをつくっていくのです。それは、豊かな知的生活のもとに社会的ルールは、守られていくものです。ここには、社会的リーダーをはじめ人びとの知的生活が前提になっているのです。

 その知的生活を保障していく人々の話し合いや合意、また、それを豊かにしていくために、それぞれが教養をたかめて、人間的にも豊かな能力をもっていくことが必要なのです。

  学校教育や社会教育、生涯にわたって、人間らしく豊かにいきるための能力の形成が不可欠になっているのです。

 大衆的人間の現象は、知的生活それ自身を否定して、人びとも愚かにしていくのです。社会的リーダーがまっさきに議論を否定して、話し合いや合意、自らのやっていることを公開して、公正にするのではなく、マスコミを利用しての大衆操作によって人々の知的生活を遠ざけていくのです。

 国会議員や地方公共団体の選挙などは、人びとが社会的な知的生活の場を充実していくための大切な機会です。それぞれが、大いに政策を議論して、高まっていくことになるのです。地域、職場、学校など、それぞれの機関での大いなる議論が求められるのです。

  このためには、すべてを公開して、データーをそろえての現実的な知的生活の議論が政治的にも人々が高まっていくものです。これが、知的生活の充実と民主主義の充実の原理です。

 これらの民主主義の話し合いと知的生活の原理を否定しての大衆的人間が蔓延するなかで、世界を支配するものか誰か。オルデガは、大衆の反逆は徹底した退廃ぶりであると。知的生活に替わり、退廃化が、大衆的人間の支配であるとするのです。

 オルデガは、この問題について次のようにのべるのです。「ここで支配というのは、物資的な力の行使、物理的な強制力の行使という意味ではなく、ひとりの人間、または一群れの人びとが支配力を行使できるのは、力という社会的装置ないし機械を自由にすることである。支配とは権威の正常な行使である。

 それは、世論に基づくものである。支配は、ある意見の精神の優劣なことを意味する。ほとんどの人間は意見をもっていないから、機械に潤滑油を入れるように、外から意見を注入して、意見をもつようになる。

  意見がなければ人間の生は、構造も有機性も失う。精神的な力なしに、本来的に真の統治する人がなければ民主的主義の社会は動かいない」。

 知的生活を求めない大衆的人間の一群れが支配力をもつのは、世論の支持ということが決定的に重要であるとするのです。

  独裁的なファッシズム体制でも議会をとして、世論の支持によって、築かれたのです。人々が知的生活から離れ、意見をもたずに、機械に潤滑を入れるように、世論の操作によって支配していくのです。これが、国家主義に導いていくのです。

 オルデガは、国家主義を国家創造の原理と対比させて次のようにのべます。

 「国家主義は国家創造の原理に対立する方向への衝動である。国家創造の原理は包容的であるのに、国家主義は排他である。大衆的人間は、道徳を軽視しているというのではなく、いかなる道徳にも服さず生きたいと望んでいる」。

 まさに、大衆的人間の国家を支配する一群れのものは、社会的道徳をもっていないのが特徴であるとオルデガはのべているのです。

  そして、かれらの精神状態は、人びとへの国家のするべき義務を無視して、無限の権利を所有していると感じているとのべるのです。「大衆的人間の精神状態は、結局のところ、すべての義務を無視し、何のためか自分では、考えもせずに、自分は無限の権利を所有していると感じている」。

 さらに、国家を支配する一群れの大衆的人間は、多くの人びとから支持を得るために、みせかけの情熱をもって語るのです。このことについて、オルデガは次のようにのべるのです。

 「筋肉労働者や悲惨な境遇にある人々や社会正義などに対するみせかけの情熱は、あらゆる義務、たとえば礼節、誠実、とくに、きわめてすぐれた人への尊敬を無視するのに役立つのである。

 われわれは普遍的なゆすりの時代に生きている。これは二つの補足的な面をもっている。暴力のゆすりと冗談半分のゆすりである。劣等な者、凡庸な人間が、一切の服従からの解放感を味あうというのだ。

  大衆的人間は、ただたんに道徳をもっていないのだ。道徳は、本質からしてつねに、なにものかへの服従の感情であり、奉仕と義務の意識である」。

 みせかけの情熱は、礼節や誠実、すぐれた人の尊敬を無視して、自分が絶対的なリーダーとするのである。日本の現代社会の政治状況を考えてもマスコミを巧みに利用しての自己演出が行われていく状況もみられるのです。

  自由や民主主義を充実していくには、幅広くいつでもどこでも、地域、職場、機関などで知的生活による話し合い、合意の形成が必要です。

 このためには、大いに議論して、幅広い教養を身につけて、人格的にも高まっていくことが求められているのです。

  広い意味でも社会教育が現代社会の自由や民主主義の充実に切実に求められているのです。この意味で、市町村行政の社会教育的役割を見直して、充実していくことです。また、地域、職場、学校でも社会教育的役割を充実していくことが社会的に求められているといえよう。

尾瀬の自然を歴代守った長蔵小屋の偉人

尾瀬の自然を歴代守った長蔵小屋の偉人

 

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 尾瀬のハイキングに6月初旬行きました。素晴らしい尾瀬沼での水芭蕉をはじめ山間の高層湿原の植物群と、尾瀬湿原高原の雄大さのなかで、はてしなく続く木道に、自然保護の地元の人びとの関係者の尽力に感謝しながら歩きました。

   尾瀬の高層湿原の貴重な植物群落は、特別記念物に指定された植物が多数存在し、その管理は、後世までも残すために、大切な仕事になっているのです。

   鹿などの動物に対する対策も植生の保護からも欠かせないということです。尾瀬の高層湿原は、脆弱な地層によって、特別な管理が求められ、湿原のハイキングに、木道以外に立ち入らない規制が入っているのです。

 自然保護は、人間が観光・登山として、入っていけば、当然ながら、入る人のマナーと地元や関係者の管理が必要なことが身にしみて感じました。

ブログを書いた当事者

 

   尾瀬では、原生的な自然を楽しむことのできることに感動したのです。とくに、ガイドさんの丁寧な説明と尾瀬についての学識の深さ、尾瀬の自然保護の強い意識に、たくさんのことを教えられました。

   とくに、日本の自然保護運動の生まれたところとして、長蔵小屋の三代の話は、心に深く残りました。さっそく自宅に帰ってから、本を取り寄せて勉強しました。

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 尾瀬の国立公園は、ゼロカーボンパークの認証を受けた、世界に誇れる高層湿原と沼による植物宝庫と大森林の発達で、豊かな自然景観と信仰の山を持ち、日本の自然保護運動の発祥の地として、知られているところですまる。

 この豊かな自然があるのは、それを三代にわたって、自然と共生して生きる大切さを命をはって訴えて、守り続けた長蔵小屋主の役割があったからです。

 尾瀬の自然を守った長蔵小屋の三代の努力によって、電力会社と自動車道路の開発の阻止がされたのです。このことで、豊かな自然が守られてきたのです。

 ハイキング・登山ブームのなかで、尾瀬の自然生態・景観のすばらしさに、多くの人びとが訪れるようになるのです。

  1996年には、66万人が尾瀬を訪れることになり、新たにゴミ問題や自然が壊される問題が起きて、ごみの持ち帰りや山小屋の再生可能ネネルギー利用・省エネの推進、トイレの維持管理、木道の設置、植生の回復・保護が必要になっていくのです。山村の経済発展にとって、観光客の増大は、目先で、喜ばしいことです。

 しかし、長期な面から、尾瀬の自然保護に魅せられて訪れる観光客ということから、自然破壊されては、かえって大きなマイナスということから、尾瀬の自然保護に地元の人びとは考えるようになるのです。

   地元の片品村では、土地利用基本構想を立てて、村民と国民の貴重な限られた豊かな自然資源を守るための総合計画をつくっているのです。

  豊かな湖沼・湿原・森林ゾーンの保全・整備をして、観光客の憩いとレクレーションの活用の場の提供施策をだしているのです。

   そして、土地利用の片品村のゾーンをきちんと指定して、尾瀬からの自然保護運動の原点・発信など6つのカーボンパークのプランを策定しているのです。

 ここでは、後藤允「尾瀬ー山小屋三代の記」岩波新書を要約しながら、そのコメントを含めて、尾瀬の自然を守った三代について紹介して行きたいと思います。

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初代の長蔵の燧岳の神社をはじめ事業の失敗

 初代の長蔵さんは、南会津檜枝岐村出身です。10歳の時に、父親を亡くし、小学校3年までしか行っていませんが、父親が向学心が強かった人で、その影響もありました。大人の仲間に入れてもらえなかったけれども窓の外に立って、軍書読みを聞いていたということです。

 昔から、会津と沼田を結ぶ会津沼田街道の交易の中間点が尾瀬沼であったのです。檜枝岐村から沼山峠を越えて、尾瀬沼、そして、尾瀬沼の東側を道から三平峠を過ぎて、上州・現在の群馬県片品村に出ていく街道があったのです。

   すでに、長蔵さんが国見ということで、上州の旅には、この道を通るのです。青年のとき歩いた頃は、この街道は廃れていました。

 しかし、長蔵さんは、素晴らしい自然の景観に魅せられて、燧岳(ひうちだけ)の登山道を明治22年に開くのです。19歳のときでした。檜枝岐村に鎮座する地域の土地を守る産土神(うぶすながみ)が霊山の燧岳に、往古より宿るということでした。

  そして、群馬県側の信者も含めて、村人30人と共に、頂上に石祠をつくるのです。翌年に、道徳高き人の信濃国福島町の神道家中村神平が、群馬の片品村に滞在しているということで、そこを訪ねて門下になるのです。

 

 その後に、神習教(教団をもつ教派神道)の教師となって、信者を集め講社を結集して、燧岳教会を開設するのです。

   教会は敬神愛国の念をもって、燧岳の古い山岳信仰を媒介して広めたのです。愛国主義を発揚する時代の神道教団でした。村の伝統的な鎮守神ではないのです。

  また、祭祀を中心とする国家神道でもなく、自然の山に畏敬と感謝、自然の掟、自然の恵みで生きていくという理念をもった教団の神社でした。

  燧岳神社は、村の鎮守神とは異なり、村の山神講でもなかった。村には、狩猟を職業とする講として、山神講があったが、それらとは、別の教派神道の講です。

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 長蔵の一生を貫いたのは、産土神山岳信仰を媒介とした尾瀬の自然に畏敬と感謝をもつ強い信念があったのです。

   この信念は、単に自然を守るという保守主義的な古い伝統をそのまま守るということではなく、積極的に自然の畏敬と感謝の理念をもって、共生して生きる姿勢であったのです。

  長蔵さんは、数々の自然を生かした事業を試みていく前向きの人生であったのです。それは、何度も失敗していく事業計画でありました、革新的な未来への自然と共生していく事業でした。

 かれは、尾瀬の自然を破壊するものは、どんな権力者とも、巨大な金持ち・地主、権威をもっている学者でも糾弾していくのでした。

  この意味で、自然を破壊していく明治からの近代的営利主義的な開発を推進してきた巨大資本や絶対的な権力にも抵抗したのです。

  それは、権力や金銭力による強者の論理からではなく、自然と共生していく人間的な生き方と、弱者への解放へを包み込み、自然と共生する人間的な豊かさを模索する未来の論理でもあったのです。

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 尾瀬には、越後富士と呼ばれる到仏山山岳信仰の対象として、山頂には、米山薬師堂があります。

  米山の由来は、沖尾を通る船で米を運ぶ豪商に米の托鉢をお願いしたら、断られ、弟子が法力を掛けたら、この山に船の米俵が全部とんできたという逸話によるものです。尾瀬に日本百名として、ふたつの山の至仏山と燧岳は、信仰の山でもあったのです。

 長蔵さんは、燧岳の信仰のために営林署から尾瀬沼西岸に5反を借りて参籠所三棟を新築した。村中の各戸から白米4合を献納してもらい燧祭を行った。

  村人の協力によって、産土神の神社の建設がされていくのです。明治24年に拝殿を新築して、信者の一同協議により、5年間の社務を委託されます。また、神官となって燧嶽神社は、郡役所の認可を得るのです。

 しかし、山小屋の経営は狩猟やイワナ魚釣りの漁師が入るぐらいで、村人の参拝は少なく、厳しかった現実があったのです。

  さらに、村の有力者が燧岳に神官が奉職すれば熊やカモシカが取れなくなるという流言がされて、村人は神官の奉職に反対もあったのです。そして、ほとんど燧岳に参拝する村人はいなくなるのです。

  仕方なく、村の生活に帰った長蔵さんです。長蔵さんは、製糸工場の共同経営を区長などから用水使用権で妨害されながらもはじめるのです。

 明治35年に大洪水で製糸工場をはじめ家財・畑も流される不運にあうのです。明治37年には、健胃剤になるおうれん草採取のために、営林署に採取の願いを出しましたが、着手したところ、雨天と人夫のため大損害をこうむります。

  村人は誤解して、大儲けをしたと思い、入会権をもっていることことから、配当を申し込まれるのです。長蔵さんは、払うことが出来ずに村八分になります。

   このために、郷里を離れざるを得なかった悲しみに見舞われるのです。しかたなく、栃木県日光今市に行く結果となるのです。今市の生活は、町はずれの小屋の劣悪の住居であった。

 そこでは、自給のための農業と、停車場の貨物降し、大八車を引いての仕事でした。また、売薬つくりの仕事、廃材を薪にするバタ焼き、足で踏む機織りなど、あらゆる可能な商売をして、生活を支えたのです。(長蔵家族は、明治37年から大正11年

 

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 長蔵さんは、再び、剣岳の信仰を忘れることなく、尾瀬沼に戻って小屋を建てるのです。明治42年に6月に燧岳を参拝して、翌年に3月から再び、尾瀬沼の近くに、燧岳神社を参拝の拠点の小屋を建てるために、群馬、福島の村々を歩いて募金集めてをするのです。

  この夏に、小屋と船を完成させるのです。信仰復活を唱えて、尾瀬の生活に単身で戻るのです。尾瀬の植物の標本を帝大や早稲田、慶応などの大学に寄贈していました。

 山で暮らすための生計の源にと、尾瀬に適した産業を考え、養魚事業をはじめるのです。尾瀬沼区画漁業権を大正3年に獲得するのでした。

  しかし、養殖業は失敗するのでした。運搬手段ももたず、村の貧しい生活では、魚を買って食べることはなく、販路は難しいのです。長男の長英さんは、15歳のときに、大正7年に、母親と妹を今市に残して、父親と共に入山するのでした。

  大正11年に一家は、尾瀬に永住する覚悟で山に入った。山小屋の宿泊客での生計であったが、年間学生375人、学生以外196人ということで、苦しい生活が続くのでした。一家が尾瀬に入山したときには、漁業権と水利使用権を武器にして、ダム建設反対の訴願を行っているのです。

 

 戦前の尾瀬ダム計画問題

 

 尾瀬の水源を利用しての水力発電所のダム計画が起きるのです。尾瀬をダム化して、至仏山の山腹にトンネルを掘って、群馬県水上に二ケ所の発電計画がもちあがるのでした。

  尾瀬ヶ原の半分は、かつては戸倉、土出、越本(現片品村)の三ケ村の入会地でした。それが明治の地租改正以降に税に苦しむ農民が横田代議士など地元政治の有力者に売っていったのです。この土地をさらに電力会社が買っていくのです。

  長蔵さんは電力会社のダム建設に、勝算のない戦いを尾瀬沼の養殖業のための、漁業権、水利使用権許可を得ていると、反撃にでるのです。このとき、51歳でした。

 当時の水野廉太郎内相宛に訴願を単身上京して、行うのです。訴願は握りつぶされたが、当時の政友会と憲政会の政治的対立のなかで、憲政会群馬県支部尾瀬沼水力発電のダム計画の工事の認可阻止の決議をしていることから、尾瀬が政治問題になったのです。

  長蔵さんが、自然保全に対する強い信念をもっているのは、次のエピソードでも理解できます。植物学者の牧野博士に、五本や十本であればしからがないが、たくさん植物を採って馬で運んでいることはけしからん。そのように、植物採取するものは宿泊お断りというのです。

 さらに、若者に対して、自然を破壊するのは人類の敵だというのです。山は遊興の場ではない、高等教育を受けたものが、寝そべってお茶を飲むとは何事か。修養の場として、大学村の建設を考えていた長蔵さんです。大正4年6月の尾瀬沼山人の注意書が長蔵小屋に掲げられたのです。

 食事は必ず脱帽すること。植物をみだりに採取せざること。燧嶽登山者は、案内を受けること。神社に敬礼脱帽すること。礼儀を知らざるを人は宿泊を断ることもあるべし。

  世に恐るべきことは、不義不正ということで、自然の前では、大臣も博士もないもないという長蔵の見方です。昭和5年8月に長蔵さんは、60歳で永眠するのでした。長男の長英さんが27歳のときでした。

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 二代目の長英さんの戦い

 

 父親が永住した昭和5年に禁猟区に指定された。天然記念物指定の植物がおると報告された。実際に指定されたのは、戦後の昭和35年です。この年から尾瀬の一木一草に至るまですべて保護されるようになります。

  長英さんは読書と短歌が楽しみであった。登山する学生が本を送ってくれるようになり、やがて、尾瀬沼文庫ができるようになります。

 長英さんはソローの「森の生活」の愛読者になり、長英さんの考え方に、大きな影響を与えて行きます。短歌が縁で、長英さんは、昭和7年、29歳のときに、靖子27歳と結婚するのでした。

  そして、新たに、百人泊まれる長蔵小屋を新築するのでした。靖子さんは、結婚前に、長英さんが、長い手紙を靖子さんに送っていたようです。その当時に、一燈園西田天香にひそかに彼の本をよみながら、教えを受けた思いをもったそうです。

  天香は、トルストイのわが宗教を読んで霊覚あり、小田頼造等の社会主義者との交流があり、刑事の尾行を受けるのです。一燈園には、倉田百三や尾崎放哉が入園しています。懺悔の生活を出版したものがベストセラーとなります。その後に、一燈園高泉林が西川庄六により献堂されます。

  また、庶民の率直に喜ぶ、劇場をつくります。それは、商業演劇でない一燈園独自の演題での演劇をつくるのでした。高校、中学校、小学校をもち、懺悔と感謝、無所有と托鉢を基に、一燈園の人間形成の学びがあるのです。天香は、1947年の75歳のとき、戦後、緑風会に属して、参議院一期を勤めています。

 靖子さんとの結婚の気持ちで、「長蔵小屋は、山小屋であって、旅館ではない。旅人と共にワラジヲのひもを結びという気持ち山小屋をやらねばならぬ。そいう気持ちで結婚したという」ことでした。ソローの森の生活と一燈園西田天香が、青年のときの人格形成に大きな影響を与えたということです。

  尾瀬での馬方、ガイド、山岳救援隊、尾瀬学校の語り部尾瀬の資料館・山遇楽を建て、自然保護運動にも積極的にかかわった松浦和夫さんは「尾瀬のかたりべ」上毛新聞出版の著書で、長英さんの影響に西田天香をあげています。

 「自然にかなった生活をすれば、人は何物をも所有しないでも、許されて行かされる。そしてそこから、世の中の種が除かれ、平和な社会がもたらされる」と一燈園生活と長蔵小屋生活を重ね合わせていたのではないかと書いています。

 昭和10年に長男が生まれるのです。そして、12年に長女、14年に次男が誕生した。山小屋を建てて4年に、目標の3000人の宿泊者になった。15年7月に長英さんは徴兵されたのです。2年余の戦場からやせ衰えた長英さんがかえってきた。3人の子どもと靖子さんは、沼田に移っていった。

 敗戦から昭和22年に強引に取水工事が再開された。尾瀬沼豊水期の水を沼尻に堤防をつくってせき止め、三平峠の下にトンネルを掘って冬の渇水期に片品川に落とし、落差を利用しての発電をするというものでした。景観を変えないということでしたが、沼尻の堤防工事で湿原が破壊され、植物は痛めつけられ、何千本という木が水をかぶったのです。

  昭和24年に取水工事がほぼ完了したころに、長蔵小屋で、現地の山小屋主と檜枝檜枝岐村村長も含めて、話し合ったのです。ここでは、取水の被害結果、起こるであろう異変を語り、不安は現実のものになったのです。

 昭和24年10月に尾瀬保存期成同盟が結成され、我が国の自然保護運動の出発でもあった。尾瀬の自然を永久保存する国会誓願をするのでした。

  期成同盟は、尾瀬に限らず、広く自然保護運動を展開するということに昭和25年になったこれらの運動が実って、昭和35年に、尾瀬の木々や草すべてが、特別天然記念物に指定されて、水利権の利用は厳しく制限され、昭和41年に、水利権10年延長が不許可となったのです。

 

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三代目の長靖さんの道路計画反対運動

 

 昭和36年7月に、山小屋の後継者を予定していた次男の睦男さんが、静岡大学在学中に海水浴で水死するのでした。京都大学を卒業して、北海道新聞に勤めていた長男の長靖さんが38年4月に退社して、長蔵小屋を継ぐために尾瀬に帰ってくるのです。

  新聞社に勤めていたときは、組合活動にも積極的に参加して、地域の歌声サークルにも参加して、人間は社会の変革を志向して、集団のなかで成長していくことを実感していた。

 長靖さんは、27歳の時に、尾瀬に帰って、父親の長英さんから山小屋の経営のことを聞かされた。60歳の父親が小屋の経営の激しい労働のなかで、いつ倒れるかと父親の健康状態が心配であった。

   尾瀬の小屋を財団法人として、自分は再び働く者の仲間にとして社会に戻っていく。山小屋を経営するのか、働く者の仲間の社会に戻るのか、悩んだのです。

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 尾瀬に戻った長靖さんは1年後に昭和39年春に札幌で知り合った紀子さんと結婚するのでした。誕生の一年後に父を失った紀子さんは、定時制高校に学びながら、北海道新聞の編集局で働いていた。短大に進み、へき地の小学校の先生になることを希望していたのです。組合の青年部執行委員5人のなかに長靖さんがいたことで知り合ったのです。

  山小屋は、大きすぎるという紀子さんの当初の印象でした。父親の長英さんは昭和41年1月に脳血栓で倒れるのです。この年の11月に長女が生まれ、昭和43年に長男が誕生するのでした。

 昭和42年に観光目的で、三平峠頂上まで、自動車道路ができる計画が決まった。尾瀬沼から歩いて15分ほどのすぐ近くまで、自動車道路がくるというのです。自然保護と言っても実感をもたない時代的状況のなかで、どうやって尾瀬の自然を守るのか。

  長靖さんは孤立感を深めながらも小さな声でもあげなければならなということで、昭和44年6月に、ミニコミ紙史「いわつばめ」通信を発刊した。

  尾瀬の入り口から奥に向かって、まぎれもなく自然破壊が進んでいることを書いたのです。尾瀬の入り口の登山者が殺到する鳩街峠、沼山峠、三平峠に車道がつくられていく。鳩街と沼山は、定期バスが入った。尾瀬の自然が陥落していくのです。もっと尾瀬沼に近い三平峠に車道ができたらどうなるのか。木を倒して、山を削り、次々に自動車道路がつくられていく。

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 尾瀬の自然を破壊していくことに、ストップをかけた大きな転機は、昭和46年7月に大石環境庁長官の就任です。一度失われた自然は二度と戻らない。自然保護に力をいれたい。全国各地につぎつぎにつくられている観光道路はやめてもらいたいという就任あいさつです。

  長靖さんの母親は、大石に尋ねることを息子に強く促したのです。そして、長靖さんと母親の靖子さん、靖子さんの親しい友人で尾瀬駐在の国立公園管理人の妻の中島千代子さんと3名が発起人になって、「尾瀬の自然を破壊から守る会」をつくるのです。

  そして、長靖さんの友人の民放テレビ局報道記者に案内されて、大石長官を訪ねるです。昭和46年8月に東京で「尾瀬の自然を守る会」を研究者、学生、全国の自然保護団体、日本自然保護協会の会員、いわつばめの通信を送り続けた人たちによって、結成したのです。自然保護運動を全国的に展開していく第一歩でした。

  尾瀬の自然を守る会が発足した暮れの12月1日に長靖さんは、吹雪の三平峠で遭難という突然の事故で死亡するのでした。36歳の若さです。

 

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 この道路計画は群馬の沼田市から南会津郡田町を結ぶ91キロの自動車道路でした。昭和45年に厚生省が三平峠の工事を許可、8月には大清水の柳沢から一ノ瀬の着工も認め、群馬県と国が工事費の補助金を認めるものでした。

  大石長官は、国立公園にドライブウエイを通すのは好ましくない。多くの抵抗が予想される。これまで、子国立公園の自然保護行政は弱い面があった。

  大石長官は、尾瀬の自然を守る仕事を環境長官としての初仕事にしたいとのべるのです。大石長官は、鳩街峠から至仏山に登った。自然破壊のひどさに自分の体が傷つけられるような思いがした。

  どんなことがあっても道路はとめなければならない。三平峠のふもとの一ノ瀬の道で、下りながら、この道路計画は必ず止めるとのべたのです。大石長官の堅い決意でした。

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 長靖さんが反対する住民がいないと、ただひとりという心境が、母親の靖子さんの激励、大石長官訪問の勧め、尾瀬の自然を破壊から守り会の人びとにささえながらの活動が大石長官の心を動かして、道路をつくることの反対の意志が実ったのです。