社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

協同組合と社会教育ーモンドラゴン協同組合思想

 協同組合と社会教育ーモンドラゴンの協同組合思想から学ぶ
       神田 嘉延

 先日、退職の高校教師の森先生送別会兼勉強会で、ギリシャの協同組合のことで、話を聞くことができました。ギリシャが国家財政の債務危機と騒がれていますが、それだけでギリシャの経済をみてはいけないということでした。彼は、ギリシャで、産業組合、協同組合で地域経済が自主的にやられていることを学んできたということでした。オリーブオイルの農園の農業協同組合、オリーブ搾油工場、そして、消費者の協同組合が連携しながら経済を支えていることに驚いたということでした。

 この話を聞き、かつて読んだスペイン・モンドラゴン協同組合の生産者・労働者協同組合の創設思想を思いだしました。自宅に帰って、ホセ・アスルメンデイ著・石塚秀雄訳「アリスメンデイリェタの協同組合哲学」みんけん出版を読みなおしました。

 モンドラゴン創立者のアリスメンデイリェタは、地域の教育運動から協同組合運動を始めたのです。協同組合は、職業技術教育の学校からはじめたことは、労働者自身の人間的な自立として、労働疎外からの解放を重視したのです。労働疎外からの解放の前提に、精神的な自立を教育によって勝ち取っていくことを考えているのです。

 彼は1948年の32才のときに教育文化連盟を設立して、地域の教育を推進することからはじめたのが、労働者自身の人間的な自立が出発であったのです。教育なくして自立は達成できないということです。37才のときに、新しい技術専門学校を教育省の支援でつくったのです。38才のときに住宅問題が深刻ということからモンドラゴン住宅協会を設立します。また、結核予防診療所を開設するのです。41才のときには、消費協同組合を設立と次々に新しい協同組合思想による経済組織をつくっていくのでした。さらに、44才のときに、労働人民金庫及び社会保障サービスを設立するのです。

 そして、49才のとき、1964年に教育文化連盟を協同組合に移行していきます。1965年に理工学校を設立して、1000名を越える学校になるのです。アリスメンデイリェタの協同組合運動は、職業技術の教育運動、社会教育運動を基礎に展開していったのです。
 モンドラゴンの協同組合運動の創設時期は、職業技術教育運動や社会教育運動とが、協同組合の創設と密接に繋がっていたのです。

アリスメンデイリェタの協同組合運動は、資本主義での労働者の解放ということでの社会主義思想と密接に結びついて展開したのです。社会主義思想は、自らの解放は、自らの知からでのみ達成するということで、人間的な自立のための解放の教育を重視したのです。

 アリスメンデイリェタの協同組合における教育は、知は力なりということで、労働者は他人によって解放されるのではなく、自らの力のみで自ら解放できるとする思想からです。労働者はかたく団結し、総合的な受容力を創造して、社会の道徳的転換と技術能力の開発によって、労働疎外から解放されるとしたのです。教育と労働によって人間性の尊厳が実現できると考えるのです。アリスメンデイリェタは職業技術教育の重要性を人間の尊厳から重視しているのです。

 
 アリスメンデイリェタは、人間に奉仕する経済という原理のもとに、資本にたいする労働の優位性を教育によって、確立し、自治の概念や人間主義的民主制をつくりあげるとしたのです。1965年につくりあげた地域全体の様々な教育機関のカリキュラムは、合計すると2000以上の学習コースがあったのです。

 多元主義を重視したことによって、このように厖大なコースのカリキュラムになったのです。アリスメンデイリェタの社会主義は、人間的自立としてのそれぞれの個性を尊重することから、人間のもつ多様性を大切にしたこたから多くの学習コースをつくったのです。

 職業技術教育の学校教育ばかりではなく、宗教や人間教育、社会教育のためも重視したのです。協同の発展は三つの段階があります。第1は、力による協同、第2は、必要性の協同、第3は、未来に続く自由な協同ということで、労働を中心に協同組合の発展を考えたのです。社会主義と自由市場についても問題を深めているのです。未来に続く自由なる協同がアリスメンデイリェタの協同の発展の目標であったのです。

 協同組合主義はユートピア社会主義という見方がありますが、アリスメンデイリェタは、ユートピアに反対し、資本主義に生きる現実主義のなかからの労働者の解放の運動、現実からの改革をとったのです。アリスメンデイリェタは、労働の由来からの機械的な平等主義と暴力主義にも反対していくのです。社会変化に暴力を肯定する代案に対して、教育の重要性とあらゆる改革に対しての開かれた精神を強調するのでした。

 アリスメンデイリェタは、社会革命と経済革命の同一性を労働者・生産協同組合のなかで考えたのです。協同組合は、人間の尊厳から人間を変革し、既存の経済的現実を考慮して、新しい経済体制のための企業から出発して現実経済を人間主義民主制に変えていくものであるとしたのです。

 現状の消費のための消費社会は、物質的な幸福を紛れこませます。それは、人格としてではない。協同組合運動は、人格としてよびかけ支援して参加していくものです。創造的労働から引き出して企業をつくりだすのです。ここに、人間の尊厳と共同体の要請から新しい経済の変革が起きるのです。

 アリスメンデイリェタの協同組合思想は、多数者のための多数の革命を臨んだのです。多数者の積極的な参加による変革です。革命が少数者の前衛を主体として、大衆をその道具とし、闘争を手段とすることを認めなかったのです。指導者とは大衆の意識化を行う機能以外何もものであり、教育と協同をつうじて革命を実行すると考えたのです。

 アリスメンデイリェタは、自由な機構と教育から自由な意識の発展による革命を考えたのです。経済力は人間的自立の労働に依拠しているとしたのです。指導者の役割、案内人の役割は教育者が求められているのです。大衆は盲目的であってはならないのです。協同組合は社会を改革していく革命派でなければならないが、同時に社会の反映、共存と変革の学校でなければならないとしています。

 アリスメンデイリェタは、協同組合の役割として、社会の革命をめざしていますが、その革命、目的はもちろんのこと、手段も民主主義の重要性を指摘するのです。労働者は、解放のために真の社会的経済的解放や労働の機構や組織の効率的抜本的な変革について、自分の労働の主人になる必要があるのです。また、自ら評価する力をもたねばならないとするのです。つまり、労働者は自らが統治し運営する力をもたなければならない。協同は直接的な真に責任ある活動により、常に外部の介入を排除するとするのです。

アリスメンデイリェタは、革命と人間力の発展の創造性について格調のある言葉を引用しよう。

 「われわれは教義を経験とともにつくり出す。事実と比較して洞察をおこなう。団結とともに力を創造する。曇りのないコミュニケーションにより意識をつくり出す。われわれは障害を乗り越えるため、堅い決意によって問題に直面するための力がある時に、地下を歩くことは好まない。
 諸力を計算し、目的をともに分かち、あらゆるやもえ得ない諸制限を認識して前進しよう。したがって、われわれは永続的な変革の立場にたっているのであり、いわばそれを人間的価値に由来する共生や使命と分有できる限界まで、推進しようというのである。そのために倫理であり、普遍的であり、永続的でなければならない。永続的な変革の解体、破棄は、人間的社会的なあり方の完全な反自然化であり、反道徳化である」。(260頁~261頁)

アリスメンデイリェタは、スペインの独裁政権の戦いのなかで、左右の暴力的方法の政治闘争を否定し、民主主義の大切さを認識したのです。人間的な自立は、自由のもとに開花していくことを信じたのです。人間の尊厳の自由の権利は、個性を発揮して、多様性を尊重することで実現することを確信したのです。協同組合主義は市場のために生産しなければならない。そのために市場の要求にあわせなければならない。品質の確保、費用、顧客の満足度の商品の開発が不可欠であるのです。

 1950年当時のスペインのモンドラゴンは、飢えで破壊された家族、粗末な家畜小屋のような住居で、住宅の問題は深刻であった。結核患者も悪い食事と世話を受けられず、ほとんど放っておかれた状態であった。最低限の生活も保養されない多くの労働者がいたのです。アリスメンデイリェタは、このような現実のなかでの労働者の人間的自立のための職業技術教育を重視した協同組合による教育運動を展開したのです。

 フランコ独裁と第二次世界戦争後の資本主義の矛盾のなかでの協同組合運動であったのです。労働のあり方は、現実の競争社会の市場が強制する生産性に見合っていかねばならないのです。協同組合は、仲間的・兄弟的集団とは違った企業であるのです。協同組合企業は、人間を尊重し、連帯を失うことなく、具体的な現実から出発するのです。

 よりよい明日のために、明日のための価値や欲求を呼び起こす基礎のために自由と正義、生活を豊かにしていくために、新しい人間として働くのです。フランコ独裁と資本主義の弱肉強食の競争という矛盾のなかでの協同組合運動なのです。

 この根本問題を直視することなく、協同組合の運動はないのです。その問題を根本的に解決していく展望をもってこそ、労働者の解放があるのですが、重要なことは、それが達成することがなくても現実に、貧困な状況で多くの労働が生活しているのです。かれらの人間的解放に、精神的な解放、文化的な向上の大切から、協同組合運動に教育を重視したのでした。

 モンドラゴンをスペインの政治体制から理解するためには、フランコ独裁を理解することが不可欠です。モンドラゴンの協同組合の創設の時期は、フランコの独裁であり、厳しい左翼勢力の取り締まりがあり、一方で、それに抵抗する勢力としてのFTA(民族解放組織)があったのです。その運動路線も弾圧に対しての抵抗で暴力も是認する考えもあったのです。

 フランコ独裁体制について概説しよう。


1936年2月実施の総選挙は、左派の人民戦線勢力が勝利するのでした。右派のフランコ参謀総長を解任された。人民戦線政府は社会主義的理念に基づく改革を実行した。教会財産も没収する。ところが、7月にスペイン領モロッコと本土の一部で軍が反乱を起こした。元陸軍参謀総長フランコはモロッコで反乱軍を指揮して、本土に侵攻するのでした。

 フランコは1936年10月反乱軍の国家元首に就任する。保守勢力が反乱軍を支援したため、この反乱はスペインを二分するスペイン内戦に発展した。その後、フランコはドイツやイタリアの支援を受けて人民戦線政府勢力と戦ったのです。反乱は陸軍主体で行なわれました。

 空軍と海軍の大部分は共和国側についたのです。このため、ドイツの輸送機が活躍した。また日本はドイツとイタリアに次いでフランコ政権を承認した。フランコ政権が満州国を承認したのはその見返りである。フランコ独裁体制は、従来の伝統的支配とファシズム勢力が結合した「権威主義体制」であるとされています。
 さらに、1940年のフランコヒトラーのアンダイエ会談を実現させた。ヒトラーはスペインの参戦を求め、フランコも一時は同意した。 フランコ政権は、独裁体制であり、その成立時からドイツとイタリアの支援を受け、軍隊と治安警察による民衆の厳しい支配を行った。国際連合は、1946年12月の国連総会で、ファシズムの影響下にあるスペインを国連から排除する決議を採択したのです。

 東西冷戦の激化で、西側諸国は、反共産主義という共通点と、スペインが地中海の入り口ということから、フランコ独裁政権との関係の修復を始めた。当初は、「自由と人権の擁護」を掲げていたので、独裁国家スペインはNATO加盟国とは認められなかった。1953年にアメリカと相互防衛協定を締結して、東西冷戦の中では、西側になった。

 フランコ独裁体制は、ドイツとイタリアのファシズムが崩壊した後も、30年間、独裁体制を維持し続けた。1959年FTA(民族解放組織)結成する。
 スペインは、1960年代からは奇跡と呼ばれる経済成長が起きるのでした。1960年には軍法と通常法の分離が行われ、軍部が治安権限を警察に委譲する治安法と治安裁判所が成立した。1965年には国民運動の影響力を強める改革を行おうとしたが、カトリック教会の強い反発に会った。1966年にはフランコ体制の憲法と呼ばれる国家組織法成立した。

 1968年からはバスク祖国と自由ETA)の活動が活発となり、再び軍が治安維持の全面に立つことになった。ETA構成員に対する苛烈な処罰は国際社会の反発を再び招いたが、スペイン国内においてはおおむね支持されていた。

 フランコの支持基盤であった陸軍内部には王の帰還を求める声も強くありました。フランコ自身は、自分が死んでも、自分の作った体制を維持しようとしたのです。政治の実権は腹心のルイス・カレーロ・ブランコに与えようとした。しかし、1973年にETAに暗殺されるのです。
 1975年にフランコは死去するのです。民主化の兆候がありますが、その後もかつての独裁体制の実験をもっていたフランコ側近による「フランコ無きフランコ体制」の影響がありました。フランコの影響が完全に断たれたのは1982年スペイン議会総選挙でゴンザレス社会労働党政権の誕生以降のことです。