社会教育研究全国集会・福島からの発信
大会のスローガン
人をつなぎ 地域を拓き 未来をつくるー対話・学び・共同の力で分断を超えてー
福島の人びとは東日本大震災の原発事故によって、目に見えない放射能汚染をはじめ多大な被害を被った。原発事故の恐ろしさを実感したのです。原発事故から13年を迎え、帰還困難地域を除き、避難は解除されても、いまだに2万6千人余りが避難を余儀なくされているのです。
震災前の福島の人口は200万人であったが、13年後の現在は、175万人に。大幅な減少ですね。若者の県外流出が大きく、人口減、地域の担い手の不足が深刻になっているという。この現状から分断・対立のの構図、口をつぐむ住民が後を絶たないというのです。
分断・対立は、住民不在の復興と、原発による賠償金の問題があるという。が原発との距離や放射能量、避難指示などによって大きく異なっている問題があるというのです。
また、風評被害で自由にものをいうことすら禁じられているという。実にいやなことですね。とくに、安心・安全の農産物や水産物など直接に生業にかかわる問題では、深刻なようです。まさに生きる糧の根本問題であるからです。被災者も避難先で生活が長期化することで、孤立感にさいなまれ、原状回復を望んでも何も変わらないと失望し、あきらめて沈黙する人々も少なくないという。基調報告は分断と対立のさまざまな問題点を指摘するのです
復興の国家プロジェクトは、ロボット、ドローン、スマート農業、国際産学連携事業など新産業創出ということで、被災者の生活再建を基本になっていないということです。震災の起きた2011年8月に原子力に依存しない安全・安心で持続可能な地域づくりをを基本理念とした「福島県復興ビジョン」がまとめられたのです。
全国の原発も総点検で、すべてストップされたのです。日本国民は、省エネの努力や再生可能エネルギーに希望を託して、原発のない生活を一時はしたのです。残念ながら、現在は、原発の再稼働が全国のあちこちでおきているのです。それも40年以上も経過している本来ならば廃炉になる原発をうごかしはじめているという怖い現実が起きています。福島の原発事故を忘れているのではないかと思うのです。
福島の原点を見直すことは、極めて大切な国民的な課題でもあります。この意味からも今回の福島での社会教育研究全国集会は、分断を乗り越えて、日本の未来をつくっていくうえで、極めて大切な地域の学び運動の原点にもなっていくと思う。
基調報告は、原発事故の被害によっても、ふるさとをあきらめない、ここで生きる覚悟と誇り、仲間と共に生きるということです。基調報告は、歴史・風土に根ざした多様な暮らしを編み出している実践が、若者や女性たちを中核におきているということを強調しているのです。
それは、震災前の地縁的コミュニティの回復・再生ではなく,I ターンやUターンなど外部から人を迎えつつ、従来の枠を課題でつながり、連帯する新たなコミュニティを組み立て直す実践がひろがっているというのです。このことは大いに希望の持てることです。
社会関係資本というネットワークによる新たな社会的信頼の構築が、震災からの復興の住民の暮らしからの主体的な取り組みのなかで起きているのです。
この動きは、目的による地域組織という機能的な側面からではなく、地域で暮らしや文化、自然環境保全、地域での持続可能性をもった循環的な経済のために、機能的な側面を大切にしながら、地縁的側面につながっていくのです。それは、目的意識的に主体性をもって、参加民主義ということから、より機能的側面をもっています。
しかし、その目的組織は、地縁的な基盤で、それぞれにつながっていく努力をしていくものです。地縁ということでのつながりを対話などをとおして、拡げて行くことを目的意識的にしていくというのです。
「ミニ講演として、崩壊と創成の狭間で」ということで、福島の原発事故の語り部活動を積極的に展開している元高校教員の青木淑子さんの3.11を語る会の代表の話は胸にジーンとくるものでした。
歴史の証言者として、福島原発事故の被災の怖さを語ることは後世に伝えていく強い義務であると活動しているのです。富岡町に4年間人が入れなかったという目に見えない怖さ。一時的に4年後に入った元の生徒たちは学校の校舎、庭をただぐるぐる歩くだけであったという。安心と安全は結びつかない。原子力災害は、人と人を分断したのだ。
国際スポーツ学科を富岡高校は新設した。しかし、生徒たちは全国ばらばるにになって、4年間過ごしているのです。元教員であった青木さんは23歳のときに、学校に赴任したときに、東電からの説明で、原発のことに何も疑問を持たなかったという。
6年間、富岡町には帰ることができなかった。16000人の町民はばらばらになったのです。多くの町民はまだ戻っていない現実があるという。人のつながりが希薄になっているなかで、復興の原動力は、人のつながりであると思い震災の原発事故の恐ろしさの語り部をつづけているといのです。いろいろな考え方あり、共に考え、共に動き、共に作っていくということが復興の力であると強調するのでした。
震災から13年を経て、これからの地域を考えるというミニ講演は、丹波史紀(立命館教授・元福祉大学教授)の実態調査4300名の自由記述をとおしての分式であった。
分析の枠組みは、国連避難民の1998年の決議の理念からでした。災害によって被災者は、人間の尊厳として、再定住、再統合の権利をもっているということです。そして、宮本常一の「忘れられた日本人」から学ぶということで、民俗学的に地域の暮らしの小さなことから学ぶことが大切としたのです。
リレートクでは、ひとのつながりが大事として、福島県飯館村で農業をしている結い農園代表の永正増夫さんのはなしでした。飯館村は、震災前に、村おこしで活発な活動をしていたところです。飯館牛、野菜や花きで市場で高い評価を受けていた元気のある地域でした。
それが、東日本大震災による原発事故で6年間の長期間に避難を余儀なくされたのです。長い避難生活で、住民のつながりが希薄になり、賠償金などで住民の分断が進んだのです。それは、住民ばかりではなく、家族のなかでも分断が起きたのです。
どのように、地域のコミュニティを再構築するのが最大の課題であったのです。みんなでしゃべることが一番の宝であったのですが、それが、原発によってばらばらになったということです。
福島県民が失いつつあるものと獲得しつつあるもんとして、漁業振興の立場から10年間の県漁連との話し合いに参加していた福島大学の林薫平教授の話があった。漁協はいつまで反対するのか。さかなの価格はどうなるのか。漁民からの生業の不安が語られているのでした。
ここでは、目の前の具体的な浜通りの地域のことの取り組みが大切ということでした。本格的な操業の移行期間として、数量の制限からどのようにして拡大路線につなげていくのか。
地区公民館のつながりを生かしての活動して、いわき市立鹿島館長の稲田雅子さんの活動報告がありました。いわき親子劇場をきっかけに社会教育とのかかわりがで、行政と市民の協同活動をしてきたというのです。いわき市が東日本震災の避難場所になったことから、防災にも強い関心をもっての住民への防災講座を実施しているというのです。
リレートークの最後の締めとして、子どもたちのしあわせ運べるようにと、合唱団の歌声が間にシュプレヒコールを交えての感動的な素晴らしい語り部の歌声がありました。子どもたちが大声をあげて堂々と発声するのです。どんな大人になりたいのか。自分の言葉でかたってみようと。