社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

騙し謳歌の新自由主義社会

騙し謳歌新自由主義社会

 

 (1)現代社会の騙しの構造

 

 新自由主義社会の問題点

 現代日本では、生活していくうえでのコミュニティー、絆や連帯の社会が崩れ、マスコミの力が人々の意識を左右する大きな力になっています。とくにSNSによる偽ニュースや詐欺も起き、アルバイト感覚での強盗や詐欺行為など、社会的なモラルの低下、退廃状況も生まれています。

 また、自然との関係では、温暖化なので地球環境問題も大きく問われています。天から授かった自然に対する循環性が大きく壊されているのです。人間の欲望が天に対して、自然を欺いています。

 この背景には、新自由主義的な弱肉強食の競争社会や拝金主義があります。この状況での絶え間ない人間の欲望拡大があるのです。新自由主義は、現実に格差拡大が進む中で、貧困化の層が増大していています。

  民の生活を豊かに、幸福実現をにするために、現実には、国家による富の再分配です。新自由主義は、それを否定し、福祉や・公共サービスを切り捨て、自己責任や民営化を推し進めることを特徴とします。

  ここでは、緊縮財政や労働法制、独占禁止法の法制の大幅な規制緩和をしたのです。そして、グローバルな市場万能主義で、経済の国際分業化を推進したのです。食糧やエネルギーの自給率の著しい低下のなかで、国家や地域としての経済的自立も大きく損なっていくのです。とくに、農山漁村の過疎化は限界集落の激増として深刻です。

 本来ならば、国家や地域としての循環的な自立経済にとって、農山漁村の役割が重要なのです。農山漁村での新たなバイオマスや薄膜素材による太陽光の再生可能エネルギーセルロースナノテクの新素材の開発など未来への大きな潜在的な地域能力をもっているのです。

  現実の新自由主義の国際的な進行は、経済の国際分業化をもたらして、サプライチェーンなど円滑な資材や部品の提供など問題を起こしたのです。効率的には、一層の大量生産・大量消費・大量廃棄物の国際分業の経済構造になったのです。

 そして、拝金主的な欲望拡大を煽ったのです。一攫千金をねらう風潮からの競争激化、詐欺などの社会的退廃もつくりだした。ごく少数の成功者に多くの若者があこがれていく社会的風潮をつくりだしたのです。誰でも努力すればなれるかのように、煽っているのです。その欲望は、人間が生きるためのことからはるかに超えた際限なきものです。まさに、天から与えられている自然の恵みを大きく逸脱していくのです。

 ごく少数の勝ち組と多くの負け組に社会は分かれて、挫折への連続へと突き落とされていくのです。多くの人々に未来への希望をもてる社会から遠ざかっていき、騙すことをしての手っ取り速さに飛びつくのです。

 新自由主義社会は、人間として、分かち合って、自律的に主体的に自由な生き方とははるかに違って、格差社会のなかでの一部の経済的な富を築いた特権層の欲望が拡大しただけの歪な自由にすぎないのです。

 騙しや自然に対する欺きが自由に行われる社会的な状況に対する秩序、市民的モラルの形成が必要になっているのです。社会的存在としての人間は、動物と違って分かち合うことによって、愛他精神を基本にもっと、慈愛と相互依存の精神を形成したのです。  そこには、社会的ルールをつくり、相互にコミュニュケーションをしてきたのです。

 言語の発達も、文化の発達も、科学・技術の発展も、このようななかで生まれてきたのです。個人として、自律的に考えていく人間は、基本的に社会のんかで、相互依存と協働によって、人間的に精神が開花していったのです。学び、自律して自己判断できるという自由はこのなかで位置づいていくのです。

 さらに、自律的に判断できる自由を保障していくには、偽情報や騙しの情報をチェック、規制する社会的な法や教育、インフラ整備が急がれているのです。偽情報があふれるなかで、正しい真実の情報を選択していくのは大変なことです。

 

新自由主義社会からの新たな共生社会への展望と学習

 国民の暮らしを守る権利や人間と自然との共生という課題に対して、人類は新たな知恵と工夫が求められているのです。このために、人間のもっている本質的な考える創造的な学びが求められています。学びは、今までの文化や科学・技術の伝達はもちろんのこと、新たな課題に対する創造的な側面をもっています。

 このためには、行政機関はもちろんのこと、企業などでの社員や株主、協同組合での徹底した情報公開と、自由に意見をのべていく機会が必要です。参加していく民主主義や多様な機関によるチェック制度が求められているのです。

 図書館や公的機関によるSNSの情報発信、様々な機関の情報公開の徹底化から情報を正確に認識でき、個々が自由に判断できる生涯学習も大切になっているのです。また、気軽に自分の入手した情報の案件で相談できる機関も大切になっています。参加民主主義は学び必要なのです。それを保障していく社会教育の役割は極めて大切なのです。

  一方で、騙しの精神から誠や信義の精神への構築も大切な課題です。人間と自然の共生、自然循環、持続可能性をどのように作り出していくのか。人はなぜ騙すのか。または騙されるのか。人間はなぜ、自然を破棄するのか。開発とはなにか。

 人間の生身の姿をみたときに、欲望は誰でももっているものです。それは、善的に利他主義的に誠と信義、共生をもって生きたいということから大切なことです。生きるための必要な小欲知足であったり、世のため、人のためにつくしたいという公欲であったりするのです。    

 人間は、自然との付き合いのなかで自然との共生と循環を工夫して生きてきたのです。本来的に天から与えられた自然の掟を守りながら人間は生きてきたのですが、科学技術の分業的な狭い専門性の発展は、持続可能性や循環性という総合的な視点を欠いています。

 それは、目先の自己欲望拡大ということであったのです。自然を破壊してきたことは、大都市の形成、大規模開発、無秩序の資源開発、化学肥料、遺伝子組み換えなどであった。

  人間は、意識的に考える力をもって、利己的に自己欲望の拡大をしたいという姿をもっているのです。しかし、もう一方で、人間のもっている絆や慈愛、分かち合いの精神によって、善的に生きたい心は、大なり、小なりもっているのです。

 人間は、本質的に動物と異なるのは、自然のなかで、自然そのものの一体のなかで生きているのではなく、自然と付き合って、考える力をもって、工夫や創造する力をもっているのです。

 そして、人間同士は、分かち合って、協力して、相互依存のなかで生きていくという特徴をもっていることが動物と本質的な違いのです。人間は、動物的な個体の自己欲望と分かち合いの二つの側面からの葛藤のなかで生きているのが現実です。

 現代社会は、人間のもっている考える力や創造工夫する力が、特に強くあり、自己欲望の際限なき獲得になっているのです。このことから、現実的に利益をあげるために、考えてなければならないことや工夫創造しなければならない課題の達成が自己中心的な利益と結びついているのです。

 個々の課題を達成していく喜びは誰でももっているものです。その課題達成の個人的な貢献に対して、人々は分かち合いのなかで尊敬心になっていくのです。しかし、現実の現代の新自由主義的な競争社会では、分かち合いがなく、個人的な独占欲になったりするのです。

 これは、拝金主義による自己の欲望の拡大であったり、金銭や財産の蓄蔵による享楽的世界と権力支配への強欲であったりするのです。ここには、争いがつきものですし、ときには、戦争へとも発展することもあります。また、騙しや策略もつきまとっていくのです。

 21世紀に生きる現代社会は、騙しの世界や策略、SNSやAIということで、マスメディアの役割が極めて大きく、真実が映像などのAI操作によって、偽りがまかり通っているのです。真実がみえにくい社会です。感覚的な映像操作や二者選択な印象判断の横行は、人々の意識や行為に大きな影響を与える時代なのです。

 まさに、真実よりも嘘の方が広まりやすい社会です。SNSの社会での人々がとびつくのは、嘘の極端な目新しいことなのです。さらに、極端なことに、怒りや不安の感情を煽る方が拡散しやすいのです。

 

偽ニュースに弱い日本と詐欺集団の手口

 2023年6月4日の日経新聞の一面では、偽ニュースに弱い日本としての記事がのっています。日本は情報の真意を確認するファクトチェックを知る人の割合が日本は19%とベトナムの81%の四分の1です。韓国は34%です。アジアの主要国で最下位としています。

 偽ニュースは、選挙での世論操作や安全保障の脅威にもなります。犯罪を誘う闇サイトや差別をあおるメセージもあふれているとして、日経新聞は信頼できる情報のインフラの構築を提言しています。 

 日本社会全体が、地域、職場、学園での絆や連帯が薄れています。一人暮らしの無縁社会状況とSNSによる偽装社会形成が蔓延しているのです。そして、孤独な私的な金銭欲による拝金主義が横行しているのです。ここには、自由に騙しの世界の傾向が強くなっているようです。

 一人暮らしの寂しい高齢者に対して、親切に話してくれる詐欺師集団が、かつて豊田商事事件として話題になってから、高齢者に対する詐欺被害は、後を絶たないのです。オレオレ詐欺などは、親が子に対する愛情を利用しての詐欺です。

 新興宗教団体や健康食品会社のマルチ商法による詐欺、新興宗教団体の霊感商法によるマインドコントロールの現実も見落としてならないのです。マインドコントロールでは、先祖の悪徳からの清浄などと称して、多額な商品販売や寄付を何度も要求されるのです。それは自らの信仰からのマインドコントロール状況での行為なのです。

 第三者からみれば、悪徳手段による多額な財貨の蓄蔵の事件とわかります。この事件は、自己の犠牲ばかりではなく、家族や親族をも巻き込んで行きます。しかし、本人は、真剣そのものなのです。

 高齢者に典型的にみられるように、孤独、さみしさ、子に対する愛情、健康に対する心配はつきものです。それを利用しての詐欺が起きているのです。被害者は、詐欺を働く人に、人間的信頼を持っているからこそ、ひっかかるのです。

 また、孤独や不安などを巧みに利用していることも特徴です。人々の人間的な信頼関係、相互の依存精神、社会的貢献精神を巧みに利用しての詐欺行為であるのです。マインドコントロールは、決して、一方的な強制的な手段や脅迫によることではないのです。

 社会的な精神的な不安状況があって、それを相談し、励ましてくれる社会的な絆や連帯がないなかでの精神的な空白が、多くの人々が社会的な詐欺の犠牲にあっているのです。絆をつくり、連帯していく暮らしの基盤が多くの人々に奪われているなかで起きているのです。

 社会的な詐欺やマインドコントロールを積極的に推進する人たちの拡大は、現代の社会的絆や連帯、人々の生活のなかでの寂しさや空白、様々な苦悩を巧みに社会心理的に利用している腐敗の側面があるのです。

 さらに、若者に、アルバイト感覚で誘ったという、16歳から19歳の若者が白昼に堂々と東京銀座繁華街の高額な腕時計店での強盗事件などは、その典型事例です。多くの若者がSNSをとおして、詐欺事件にアルバイト感覚で動員されているのです。

 

(2)人間の欲を考えるー井原隆一「言志四録を読む」から学ぶ、プレジデント社から

 

欲には善悪がある

 言志四録は、江戸末期の儒学者の佐藤一斉の著作であります。西郷隆盛をはじめ明治維新に活躍した志士に大きな影響を与えた思想家でもあります。

人間の欲について、言志四録はどうのべているのか。わかりやすい現代的な訳と解説を含めて、井原隆一「言志録を読む」から学ぶという著作を出しています。その著作は、大変に参考になるものです。

 ここでは、人間の欲を自然界の生物のように考えているのです。そして、欲には善悪があるというのです。つまり、欲の善悪ということで、人身の生気は、すなわち地気の精なり、故に生物必ず欲あるとういうのです。

 人間の生身は、善悪を兼ね、故に欲もまた善悪というのです。欲は人身の生気にして、これがあって生き、これがなくしては死すというのです。人間として、欲をもつことは、発展する原動力になるものです。

 つまり、欲を出すことは決して悪いことではなく、人間的に発展していこうとする原動力であるというのです。しかし、欲は善用のためであり、悪用してはならないということです。利は天下公共のものなれば、利益を得ることは決して悪いことではない。だだ、利益を独り占めすることは、人から怨まれるので、善ではないというのです。

 

足るを知る

 分を知り、然るのちに足るを知るということで、自分のおかれている立場を知れば、過分なことは望めないし、天が自分に与えた器量がわかれば、現在に満足するものです。

 中国の韓非子から井原隆一氏は、水の限界は水のなくなるところ、富の限界は、それに満足するところがありますが、人間は、これで満足することは知りません。それで、富も自分を失ってします。

 自然のわざ、たとえば、平和を守り助けるために努力する人は賞し、それをさまたげる者は罰す。この賞罰を司る人君は、これに私心をさしはさんではならない。

 私心の害ということで、事の処理に当たっては、たとえ自分が道理に叶っていても、少しでも自分に有利になるような私心があっては、それが道理上の邪魔になって、道理が通じなくなるものです。

 

欲の公

 欲にも公有があるのです。理性にかなっているのが公欲です。理性にかなっていないものが私欲です。この公使を判別するのは心の霊妙であるのです。財産は天下公共のものであるから、私物化することはできないというのです。

 財産を尊重するのはよいが、これを浪費してはならないというのです。ものおしみはいけない。おしむことを大切にするのはよいが、惜しみ過ぎてはいけないということです。さらに、天下がよく治めるか、治まらないかは公平であるか、公平でないかによるのです。

 民を裕福にするには、税を免除してやることに越したことはない。利益になる事業を起こすよりも害に除いた方がよいというのです。人が自分に背くときは、自分が背かれるのかわけを自己反省し、それによって、向上するための不断の努力の基礎とすべきであるのです。だいたい背かれ原因の多くは、自分にあるのです。

 志が固まれば欲望は赤くも燃える炉の上の一片の雪を置いたようにすぐに消えていくのです。それゆえに志をたてる道理の解明が大切というのです。志を解明して、日常の詳細まで徹底して工夫することであると語るのです。

 志は高い見識と明晰の知恵のあることが必要であるし、実際の努力は適切であることを要して、行う場合の考えは緻密でなければならないし、期待することは遠大でなければならないと。

 志が人よりも上回っているからと傲慢ということではない。どのような志を立てるべきか。自分のよくない点を恥、他人のよくない点を憎むという気持ちから出発すべきであるというのです。恥ずべきことは恥じなければならない。佐藤一斉は以上のように志について、強調するのです。

 

 教育について

 教育については、次のように語ります。子弟のそばにいて助けて教えるのは常識です。子弟が横道に入ろうとするのを戒め、諭すのは時を得た教えです。教育の術は自分が先に立って実行し、何も言わずに子弟を教えるのは教育の霊妙の最上のものです。このことは、人を率いていく基本です。権力によって押さえつけて、それからほめて、激励して導くのは臨機応変の方法です。

 少年時代に学んでおけば、壮年になって役にたつ。何事を成すことができるというのです。壮年のときに学んでおけば老人になっても気力が衰えることはない。

 人は大きなことに着眼して学問すれば大人物になれます。小さなことばかり目をつけていれば小人物しかなれない。いつでも人をみる場合は、その人の長所をみるべきである。短所をみるべきではない。短所をみると自分が勝てない。自分には何の役にもたたないのです。

 公職にあるものは、望ましい字があるのです。その一つは、公です。公平無私ということです。私をもって公事をすることは害になるのです。正ということで、正しいということです。

 清いことは、精練潔白ということです。敬は己を慎み、人を敬うということです。敬すれば即ち心清明なり。つまらぬ考えを起こさないのが即ち敬であり、つまらない考えがおこらないのが誠です。

 邪ということはよこしまなこと、不正なことです。濁は不品行です。傲は傲慢なことです。人生の大病はただこれ一字の傲の字なりというのです。

 人相で占う法は、道理に叶わないということではないが、人を惑わすことも少なくない。そのために道理を知っている人は、人相を見ることはしない。

 名誉利益は悪いものではない。だだし、これを私物化してはいけない。誰も名利を愛し好むものだが、自分に適した中位のところを得るようにすべきだ。それが無理のない、自然に定まった筋道である。人として人情を愛好するには限界というものがない。しかし、それには大小があり、軽重もある。これらの均衡をとって半ば得れば、天理に叶うことになる。

 佐藤一斉は、傲慢になることを人生の大病として常に心の病から取り去ることに努めるように語ったのです。

 

(3)騙すことの多面性・

山本幸司「狡智の文化史―人はなぜ騙すのか」岩波を読んで

 

ずる賢い知恵吐いう狡智

 山本幸司は、詐欺とか嘘つきを考えるときに、ずる賢い知恵吐いう狡智とみるのです。これはひとつの知性であるとするのです。ときには、狡智は、臨機応変や知恵が回る、機転きくという称賛される知性の働きと同一物ということで、必ずしも嫌うべき存在ではないとするのです。歴史的にみると狡さはさまざまな局面で必要とされてきたとみるのです。

 振込詐欺や投資詐欺などの悪質の側面からみれば狡い、人を騙すというのは否定されるべきです。欺くというのは、神話の話のヤマトタケルの話や、中世や戦国時代の戦いのなかで華々しく話されていたとするのです。

 うそ教室の勧めの紹介で、山本幸司は、嘘をつくことによって、実害と無害、詐欺と暴露、虚構と真実との間のすれ違いを歩くことによって、活き活きとした頭の働き、知恵を磨くことになるというのです。

 

正直教育の問題点

 そして、正直教育をすすめた近代日本は、小民の小さな悪は許さなかったが、大物の悪はお目こぼしにしたと山本は神島二郎の説をひきあいにして、のべていくのです。小さな悪の習練をつかんでいなければ、大きな悪のからくりは見破れない。

 正直教育は、悪の悪のからくりを見抜く眼力を育てぬばかりか、悪のからくりを見破る者がなければ、監視されないから、大手をふって大物の悪がまかりとおっていくというのです。

 騙すということは他人の行動パターンを理解し、他人の行動を予測して、意図的に他者の聞き手を自分自身の目的に合うように行動させるのです。そもそも騙したり、嘘をついたりすることが人間社会で禁じられるのは、社会が相互の正しいコミュニュケーションを前提として成り立っているからです。この山本幸司の指摘は示唆にとんでいるものです。

 相手を信用させることから騙しははじまるのです。騙すことは、結果として、コミュニュケーションが乱され、社会が混乱に陥るのです。ところが、信用を悪用することは、社会関係では決してやってはいけないことという通念があるからこそ、それだけに騙すときにはもっとも有効な方法となると山本幸司はのべるのです。

 

騙すときの他者の感情移入・愛他的行動

 他者に感情移入して、他者の心を読み取ることができるのは、意図的に他者を騙すことが可能となるのです。他者の理解は、他者の苦痛や悩みを理解し、共感することです。他者をいたわったりする愛他的な行動は、他者の理解にとって大切なことです。この他者への共感的な感情移入は、他者を騙すときに有力な方法となるのです。

 人間の同情や博愛という義務を果たすための手助けという大義名分をかかげて堂々と自己の欲望を実現することができるのが詐欺師です。詐欺師になれるのは、人の共感をそそるタイプでなければなれないのです。

 騙すということは、他者の苦痛や悩みの理解や共感する力、信用させる力が巧みに働いているのです。つまり、騙す相手の性格や信条なども含めて、共感して巧みに共感しながら騙していくのです。

 

 まとめにかえてー騙しの世界の克服

 

 アダム・スミス(1723年から1790年)の国富論は、自由主義経済の古典になっていなす。それは、自己利益の自由な探究であった。同時に、道徳感情論として、人間社会の適合性の感覚に、他人の運命、他人の幸福にに関心をもっての共感が大切にしたのです。

 「人間本姓のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがいのないものにするいくつかの推進力がふくまれている。人間がそれから受け取るものは、それを眺めることによって得られる喜びの他になにもない。憐みや同情がこの種のもので、他人の苦悩や目のあたりにして、事態をくっきりと認識したときに感じる情動にほかならない」。(アダム・スミス道徳感情論、高哲夫訳、講談社学術文庫、30頁)

 この感情は、人間本性の根源的なものとして、他人の窮状の苦悩に心が動かされ、憐みの感情をもって自分の痛みとして一体感になるというのです。相互の共感が持つ喜びは、人間を活気づけ、悲嘆を軽減するものですと。知性的な徳が、共感を是認して称賛していくというのです。

 人間の競争心はどこから生まれるのであるか。それは、虚栄心です。安楽や快楽ではない。虚栄心の基礎は、注目や是認です。金持ちの人間が自分の富を誇りに思うのは世間から注目をあびたいということですとスミスはのべるのです。

  新渡戸稲造は武士道で義は、武士道の光り輝く最高の支柱としています。正義の道理こそ無条件の絶対命令ということになるのです。ところが、義理はしばしば詭弁に屈服しまい、非難されることを恐れる臆病まで堕落してしてしまったとのべています。武士にとって、嘘をつくことは、臆病とみなされた。武士の言葉は重みをもっていた。

 嘘という日本語は、真実、誠でないことを意味した。産業が発展すると誠は実践しやさい、むしろ実益のある徳行です。偽りの証言をすることはなんら積極的な戒めがないなかで、嘘をつくことは、むしろ弱さととして批判された。弱さは大いに不名誉であった。武士にとって、名誉は、この世で最高の善です。不名誉は、大きな恥になるというのです。以上が新渡戸稲造の嘘と誠の見方です。

  江戸時代に活躍した儒学者伊藤仁斎(1627年から1705年)は、誠を人との関係における仁愛の精神においたのです。童子門では、私欲の克服を強調して、人間の関係における愛の重要性を大切にするのです。

 39「父子の親、夫婦のけじめ、兄弟の順序、盟友の信・誠実。愛は実体のある心情から発したものである。愛から発しないときは、いつわりのものしかすぎない。徳のある人は慈愛の心をもって大切にし、残酷酷薄の心をいちばんかなしんだ」。43「慈愛の心があらゆるものにまじああってゆきわたり、残忍で薄情な心が少しもない、これこそ仁というのである」、46「仁の徳をそなえた人は、愛を自分の心としている。それで、その心は自然とおだやかである。心が広くゆったりとして、人を包容するので、落ち着いてあわてない。落ち着いているので、楽しんで心配がない」。

 300年以上前の江戸時代の儒学者伊藤仁斎は、仁愛の精神から偽りの心を持たずに誠実に生きることの重要性を指摘していたのです。残酷酷薄の偽りは仁愛の心が人間関係において失われることから生じているとしているのです。

 現代社会での道徳心理学を研究したウイリアム・デイモンとアン・コルビーは「モラルを育む理想の力」で、誠実の重要性について、次のようにのべています。

 「不誠実の伝染は、腐敗が根を張め始める社会で起こります。腐敗を抑えようとする明確な手段や強いリーダーシップがなければ、腐敗から立ち直ることは難しいことです。現代社会を混乱させてしまう背景には、実際のところ知性あるエリートのオピニオンリーダーが、自己欺瞞から利益を吹聴し、ほかの不誠実な形を正当化しているところにあります。

 不誠実な文化がはびこる腐敗を予防するするために声をあげるのではなく、むしろ、彼らは自己利益を増すようなタイプに、また量的に偽善を主張し、悪徳ではなく、美徳として繕うとしてきたのです」「誠実が公共で賛辞されるのは普遍的認識です。不誠実なコミュニケーションが長期に予期されると市民化は破綻します。人間関係は、そのルールとして、真実を話すという誠実さを必要としているのです」。

 社会的リーダー層の自己欺瞞からの利益、悪徳を美徳として繕うこのの腐敗構造についてのべているのです。それは、まさに市民社会の破壊としてふるまうというのです。社会的なリーダーの役割が騙しの謳歌からの克服としえ重要性をもっているというのです。

   騙されることによって、生死にかかわる重大な被害を受けることも少なくない。騙すことは、不誠実とうことの次元ではなく、詐欺行為などにみられるように大きな犯罪てす。

 正直に生きることは、常に求められますが、絶対的なものではないことも時にはあります。死を覚悟しなければならない重大な病気が診断によって判明したときにどうするのか。難しい問題があるのも事実です。

 子どもは成長過程で、自分の失敗したことや、親に知られたくないときに嘘を自己防衛的、または親に心配かけないように嘘をつくことがります。相手をきずつけないように思いやりのなかから、嘘をつくことが人間関係のなかであります。

 しかし、それは頻度の多い嘘ではありません。嘘を謳歌の新自由社会で問題にするのは、社会的退廃状況での詐欺行為などの他者の生きる糧や生きがいを奪うことなどの苦境においやる行為のことです。

 人間は欲望のなかで生きています。小欲知足という考えも自己欲望を生きていくために必要なこととみることも大きな意味があります。限りない自己欲望の肥大化によって他者を悲劇的に落とし込めることが多々あります。利他主義的に慈愛の精神の形成ということが問われているのです。本来的に平和的に民族間や国家間の関係では重要な課題です。

 民族的、国家的な自己欲もつきまとうのです。お互いに欲からではなく、共生的な関係で理解していく話し合いは平和にとって不可欠なことです。しかし、ときには戦争になってきたことは人類の歴史でした。外交的に一歩距離をおいて考えることもい聴なときもあります。それが策略としてとらえられることもあります。

 モラル問題は、人間の道徳的な問題です。決して、制度的に二度と起きないように考えても難しいのです。モラルの問題は、社会的制裁ということで、抑制力をもつものです。犯罪的に行為については、厳しく取り締まって、制裁ということからも社会的に公開あれていくことも大切です。