社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

民主的社会主義と社会教育型国家

 民主的社会主義と社会教育型国家

         神田 嘉延

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 現代は国際的に格差から貧困問題が大きな課題になっています。福祉国家の資本主義諸国での財政を通しての社会保障制度もありますが、格差からの貧困問題の解消になっていない。年間10億ドルを越える資産家は2000千名も超え、一位1247億ドル2位1034億ドルと巨大になっています。1.9ドル以下の絶対貧困で暮らす人は7億3千万人といわれます。

 国連統計などによると世界人口の23%13億人が貧困といわれています。相対的貧困率は、平均収入中央値の半分以下で暮らす人々のことです。

 日本の場合は、平均年収436万円ですが、中央値は370万円です。この相対的貧困率は、米国17.8%,日本15.7%となっています。教育格差、医療格差などは依然として深刻です。新型コロナで一層に拡大しているのです。

 

 資本主義の矛盾は、福祉国家資本主義の社会保障制度のみでは解決できない現状です。現代は、マルクス資本論を執筆した150年前の機械制大工業のルールなき過酷な搾取形態とは大きく異なっています。

 福祉国家資本主義では、社会保障制度、労働法の整備、独占禁止法の整備など社会における民主的な諸制度が確立しています。国際的な多国籍の大企業の規模も巨大になり、その社会的責任は極めて大きくなっています。大企業は経済の社会化という存在で、その社会的影響力は大きなものがあるのです。

 

 しかし、実質的にそれらの制度や社会的責任の役割が十分に機能していない状況です。それぞれの国によって、歴史や文化の違いがあります。帝国主義国や植民地国になった歴史、経済の発展の度合い、国民の所得、文化の違いがありますが、資本主義の現実に抱えている矛盾をどう解決していくのか。これは、現代の人類が抱えている共通の課題です。

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 本論では、資本主義の矛盾の格差・貧困、労働疎外、雇用不安、経済の競争と無政府性を、自由と民主主義の充実を基礎にして、それも教育を重視しながら自立を尊重して、問題解決の展望を明らかにしたい。それらの参考になる理論を紹介しながら、国家の役割としての民主的ルールづくり、憲法・法によっての民主的社会主義と社会教育型国家像を明らかにするものです。

 本論では、レスター・サロンの知識資本主義、ドラッカーのポスト資本主義、ロールズの公正なる正義、マルクス資本論の教育条項から、自由と未来社会への展望を探求していくために問題を整理していくものです。

 

1,知識資本主義:レスター・C・サロンの社会教育型国家

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 デジタル社会という情報革命によって、資本や土地、労働という従前の資本主義の経済的価値は知識に大きくかわった。つまり、新たな産業革命が起きているのです。レスター・C・サロンは、グローバリーゼーションと知識集約型経済によって、世界は第3次産業革命の衝撃として、大きく変わっていくとしているのです。
 世界の大富豪も、デジタル産業や、その関係をもった企業の創始者が多く、それらのイノベションを成し遂げた人びとが名を連ねています。この事実から、知識が大きく経済社会を変えていくと注目されているのです。

 この知識資本主義を考えていくうえで、ファッシズムを経験した世界の人びとが民主主義を実現していくうえで、マンハイム等が主張した自由の精神的理性という意味の知識社会論とは異なっています。 

 

 レスター・サロンは、マルクスの生きていた時代について、機械が熟練工にとって代わって、貧しい人びとはさらに貧しくなり、賃金も最低生活水準まで下げられたと、マルクスの当時の指摘は正しかったとのべます。彼のマルクス理解は、資本主義の発展で、巨大で略奪的な独占資本が集中するとマルクスの指摘であったが、現実の歴史はそうならなかった考えるのです。資本主義経済は発展し、マルクスが生きていた時代と、その後の歴史は違ったと考えるのです。富の分配が行われ、不平等をなくす政策を政府は積極的に行って、社会福祉国家になったとみるのです。
 この社会福祉国家で、格差を是正し、平等を実現していくうえで、教育の役割が重要であるとレスター・サロンは強調するのです。それは、社会教育型国家というべきかもしれないと格差是正の教育の役割をレスター・サロンは重視したのです。教育費を負担し、労働者の教育を充実していくという義務教育の制度がとられたが、これは平等な社会を作り上げていくうえで重要な施策であったと指摘するのです。

 

 国の義務教育制度は、親の収入と教育の関係を絶ったと、その平等化の社会的役割をみました。福祉国家的資本主義の発展によって、貧しい親の子どもでも技能を学ぶことができる時代になった。このことが、生産性も上がることに経営者が認識したとするのです。

 貧しい子どもでも知識や技能を身につけて立身出世できるようになったのが現実の福祉国家の姿であり、貧しい単純労働者の階層から抜け出すことができるようになったと考えるのです。つまり、貧しい階層の人びとでも義務教育の仕組みが平等を達成することを可能にしたと力説します。
 さらに、レスター・サロンは、政府による資本主義によって生まれる不平等を取り除く多くの政策を実施してきたとするのです。そのことを次のような具体的政策事項をあげて強調するのです。

 それらは、失業保険制度の創設、健康保険制度、年金制度の整備でした。さらに、累進課税は、富裕層の所得を再配分する役割を果たした。また、相続税が導入されて、裕福な家庭に生まれた人が経済的に有利にしないための方策をした。独占禁止法や、独占の規制などで資本の集中と市場の公平性を保障したとするのです。

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 マルクスが生きた19世紀の資本主義とは明らかに異なるというのです。資本主義には固有に生まれる経済的不安定性と不平等性、格差がありますが、政府によってコントロールしてきたのが社会福祉国家の資本主義であったと強調するのです。

 これらのレスター・サロンの見方は、制度そのものが生まれたことは事実ですが、実際的に格差を解消して、平等な社会をつくりだしていく機能を果たしたのか、実証していく課題があるのです。今日では弱肉強食の競争主義や新自由主義の政策の現実の分析からの問題を整理していくことが求められます。

 とくに、コロナ禍で莫大な利益をあげているデジタル分野などの産業と貧困層の拡大がみられます。社会的危機というなかで、一部の独占的企業が最高利益になるという膨大な利益をあげていることも事実です。世界の企業の4分の1がコロナ禍で最高利益を得たのです。

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 第三次産業革命という知識情報社会は、知的所有権が重要な意味をもつ時代です。グローバリゼーションのなかで、競争力をもつのは、物的所有権ではなく、知的資本とみるのです。知的所有権は、新しい知的所有を創造する強いインセンティブシステムが必要ですが、他方で新しい知識と発明は、即座に利用しなければ経済的意味をもたない。発明は独占的権利を与えられてきた。それは特許として、自由に一定期間にわたって誰でも使用できなという問題があるとレスター・サロンはみるのです。


 知識集約的、情報化の第三次産業革命のなかで、経済格差の広がりは、知識や技能水準によって起きているというのです。教育の充実と技能の向上は格差を解消していくうえで大切というのです。全員が生活の糧となる技能を身につけ、生涯にわたって新しい技能を習得していくことが求められると。つまり、そこでは、生涯にわたっての教育の実施が行われる社会システムが重要ということです。


 資本主義に対立するためには、批判するばかりではなく、実現可能な選択肢を提唱しなければならない。レスター・サロンは、今のところ、非資本主義の選択肢で信憑性があるものは存在しないと考え、資本主義が世界を支配するグローバリゼーションのなかで、孤立しての国家経済はないとするのです。

 世界的経済のなかで問題をみることは重要なことですが、それがすべて絶対的なことになるものではないのです。このことを見落としはならない。

 

2,ドラッカーのポスト資本主義と「教育ある人間論」

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 ドラッカーは、ポスト資本主義として、知識社会を積極的に提唱するのです。ソ連や東欧の体制的崩壊がマルクス主義共産主義の崩壊とドラッカーは考えるのです。同時に、資本主義を老化させる力が働いているとみています。あたらしい社会はポスト資本主義としての知識社会とするのです。その主役は知識労働者とサービス労働者となり、資本でも天然資源、労働でもない知識が重要と考えるのです。


 ドラッカーの考える知識社会の生産性は、チームワークで、仕事と仕事の流れに最適なものを選ぶことを重視するのです。仕事の性格、道具、流れ、製品の変化など、仕事を行うチームそのものが経済を変化させると考えます。

 チームの構成員は、監督と指揮者から情報を得ます。監督や指揮者は、チームの楽譜を管理します。従前の機能別の部門で仕事をしていくのではなく、オーケストラのようにチーム編成して、指揮監督による知識労働者、サービス労働者の情報部門が力を発揮するのです。そして、それぞれの専門職員は仕事への集中として、大きな役割を果たしていくというのがドラッカーの見方です。
 また、専門的に仕事をしている人びとが、どのような道具が必要か。どのような情報化必要か。仕事とその方法についてわれわれに教えてもらえることはなにか。専門的に働くものが責任をもち、かれらが最もうまくいく方法はどのようなものか、また、いかない方法は何かを知っている必要があるとみるのです。


 ドラッカーにとって、知識労働者やサービス労働者の仕事は、責任ある労働者との協力が生産性向上の唯一であるとみるのです。仕事と組織に継続性を組み込むことが知識労働者とサービス労働者の仕事になるのです。ここでは、組織そのものが学ぶ組織および教える組織となるのです。
 ドラッカーは社会的責任論を強調します。ポスト資本主義の原則は社会的責任型組織になります。それは、自らの能力の及ぶ範囲内において、自らの本業の能力を損なわない限りにおいて、社会的責任をもつことです。組織の社会的責任は、経済的責任が企業の唯一の責任ではない。教育上の責任だけが学校の責任ではない。医療上の責任だけが病院の責任ではない。組織がもつ力は社会的な力なのです。

 社会的責任のシステムは、民主的な社会をつくっていくうえで極めて大切なことです。企業が大きく成長して、大企業になっていくことは、社会化の拡大でもあり、それだけ社会的責任も拡大していくという見方が重要です。

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 ところで、最もよく秩序が保たれ、安定した社会においてさえ、知識労働への移行に取り残された人びとは生まれるとドラッカーは考えます。社会と人間が労働力の急激な変化、必要とされる技能や知識の急激な変化に追いつくには、一世代ないし二世代を要するというのです。そこでは社会的サービスが重要になってくるのです。
 社会的サービスは、第一に、先進国にみられる高齢者の急速な増加です。一人でくらすことがでてくるのです。そこでは、保険に関する研究や教育、治療や入院のための施設が求められるのです。保健と医療は複雑化していくとみるのです。


 第二には、成人に対する継続教育です。ひとり親も増加していきます。社会的セクターは、先進国における成長セクターになっていくのです。むしろ、社会的救済のサービスは実質的に低下していくのです。
 ドラッカーが指摘する社会的サービスの二つの分野は、ますます社会で重要な仕事の分野になっていくのです。二つの分野は、人間らしく豊かに生きていくための福祉に、教育が密接に結びつていくのです。高齢化して楽しく生きていくために、健康であることが一番に大切な要件になるのです。

 健康のためには、当然ながら予防医学の知見が必要ですし、そのためのスポーツや食事・栄養が必要です。食事は楽しみのひとつですが、健康のためにも栄養や塩分などを控えていくことも求められていくのです。健康のためには、保健活動やスポーツ活動、趣味の活動など楽しく仲間と生きていくことも大切なことです。

 コミュニティのなかで生きるために、その活動の輪をつくっていくリーダーや指導員、その施設が不可欠になってくるのです。ドラッカーが指摘する高齢化による新たな社会サービスは益々大きな期待が社会に要請されていくのです。


 成人の継続教育もいつでも自由に受けられることも大切な要件とドラッカーは提起するのです。それは、職場での専門的な職業的教育はもちろんのこと、また、仕事の安定的継続性のためには、産業構造が著しく変化するなかでは、労働力の移動は当然ながら社会的に求められていきます。

 そこでは、年齢に応じて、体力的に職種が異なっていくこともあります。積極的に労働力の流動化が必要なのですが、職業教育・職業訓練が伴った積極的な労働力政策でなければ、格差拡大や貧困化になっていくのです。そして、貧民層として固定化していくこともありうるのです。年をとってもいつまでも可能であれば働きたいという人も少なくないのです。

 高齢化しても働くことによって、生きがいをもてるようになり、所得向上にも役にたち、年金収入以外としても役にたつことがあるのです。高齢化社会のなかで、いつまでも働ける社会システムも重要なことです。これらには、社会教育型国家のしくみがどうしても作り上げていかなば実質的な意味をもたないのです。


 ドラッカーは、知識社会にとって、知識の経済学を必要としているというのです。つまり、知識を富の創造過程の中心とする経済理論が求められていると考えるのです。既存の経済学は資源の配分や経済的報酬の分配について、完全競争をモデルとしています。現実は不完全な競争ですが、その原因を経済に対する外部干渉、独占、特許保護、政府規制等に帰しています。

 しかし、知識経済における不完全競争は経済それ自体に内在するのです。さきがけた知識の利用、学習曲線によって得られる優位性は永続するのです。逆転は不可能であるとドラッカーは指摘します。
 知識は安く手に入らない。知識の形成が最大の投資先になり、知識から得られる利益こそが決定的要因とみるのです。知識の生産性は知識を体系的に応用できるマネージメントの責任です。知識を応用する努力は、もっぱら経済と技術の分野ですが、社会問題、政治、知識そのものの分野で知識の生産性は応用できるのです。知識は道具として結合することも大切なのです。結合させる能力は、学んだり、教えたりするうえで、道具に焦点を合わせることが必要というのです。以上のようにドラッカーは知識の応用と生産性を強調するのです。

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 ドラッカーの責任ある学校は、社会の中心的機関であるという関係者の認識が大切です。しかし、学校が教育の対象としてきた子ども達や青年達は、市民権をもたず、責任能力もなく、労働力になっていないのです。知識社会における学校は、成人教育、とくに高等教育を受けている成人教育ともなるのです。

 日本の教育の伝統について、ドラッカーが評価しているのも大きな特徴です。それは、近代以前の文人による私塾です。書道は規律と美的感覚を重視した。文人の塾は、大衆と異質なエリート教育ではなかったのです。中国的な伝統教育ではなかったのです。近代学校は、文人の塾で教えられた弟子達によって行われた。技術は重要であるということで、教育や学校の見直しということで、新しいことをしたのです。教科書は道具にすぎなかったのです。


 学校は高度の基礎教育を行うことがなければ、社会から課された知識の重大な責任を果たすことができないとドラッカーは考えるのです。知識社会では教科内容そのものよりも、学習の継続能力や意欲の方が重要です。ドラッカー生涯学習を不可欠なこととするのです。学習には規律が不可欠になっているという見方をドラッカーはもっています。

 学校は生涯学習に向けて開かれたシステムです。学校は年齢にかかわらず、いかなる教育課程でも入れることが重要なのです。とくに、高等教育の道を開いていることは、社会的要請とドラッカーはみます。


 ドラッカーは、学校教育と社会との協同を重視します。教育は学校の独占ではなく、学校がパートナーとなるさまざまな社会分権との共同事業をもっているのです。学校は働く人びとにとって、学習を継続する場であるのです。成人とくに高度な知識を有する人は教育訓練の対象となるのです。同時に、生徒だけではなく、教師にもなるのです。今後にとって、未来を構築していくうえで、高等教育機関と雇用機関は協力していくことが必要になってくるのです。
 ドラッカーは教育ある人間という概念を用いるのです。知識社会では教養ある人間形成が不可避になっていきます。教育ある人間は、社会的モデルとなる能力を規定し、社会の価値、信念、意志を体現するとしています。教育ある人間は、知識社会であるがゆえに、貨幣経済、職業、技術、諸種の課題、とくに情報ががグローバルであるがゆえに普遍性をもつ存在なのです。

 

 そして、統合の力、諸種の独立した伝統を共通かつ共有の価値あるものへの献身、卓越性という共通概念や相互の尊重、まとめあげられる指導力などがあります。

 ドラッカーにとって重要なことは、教育ある人間を考えるうえで、未来を創造するための能力が大切なのです。それは、人文主義という人類の遺産や知恵、美や知識という教養主義でもないというのです。教育ある人間は専門知識を大切にして、自らの専門が他者に理解できるように、様々な分野との結合ができるための相互理解、対話ができるための教養が必要になってくるのです。

 それは、単なる博学ではなく、人文主義の求める教養を積極的に享受して、未来を創造していく能力を身につけていくという教育ある人間という意味なのです。

 

3, ロールズの公正なる正義論での民主的社会主義論と教育の役割

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 ロールズは、正義にかなった国家像・社会制度として、財産私有型民主制とリベラルな(民主的)社会主義をあげています。それらは、資本主義的福祉国家ではなく、資本主義に代わるものとみるのです。
 世代から次世代へとわたる自由で平等な市民間の公正な協働システムは、重要なことです。それは、財産私有型民主制または、リベラル(民主的)社会主義の未来論の積極的な提起です。
 福祉国家型資本主義は、現実的に、利益第一主義の弱肉強食競争、社員の暮らしより株主第一主義に巻き込まれ、格差社会を拡大している状況です。ここでは、国家と独占的企業の癒着や財政誘導行政になりがちで、民主的経済のあり方が問われるのです。

 そして、経済との関係で、政治的自由の公正的価値を拒んでいきます。機会平等の配慮がされていても、格差を生む経済的仕組が是正されない限り、平等の達成に必要な政策がとられないのです。

 所有の不平等から少数者による経済支配がおき、そこでは、経済的社会的不平等を規制すべき互恵性の原理がないのです。国家社会主義は、一党独裁による指令経済で基本的諸権利と諸自由を侵害しており、自由の公正の正義の価値の侵害です。


 財産私有型民主制とリベラル社会主義の政体は、どちらも民主政治の憲法枠組みを設定し、基本的諸自由に加えて、政治的諸自由の公正な価値と機会の公正な平等も保障しており、格差原理によってではない相互性の原理によって、経済的・社会的不平等を規制していると考えています。
 財産私有型民主制か、民主的社会主義のどちらを選ぶかは、決める必要がないとみるのです。両方の政治的価値も、ロールズの考える公正なる正義を実現する政体なのです。
 財産私有型民主制と福祉国家型資本主義の綿密な対比がロールズにとって、大切なことであった。財産私有型民主制は、富と資本の所有を分散させています。それは、少数のものによる経済や政治生活の支配を防ぐように働く。財産私有型民主制の政体は、もたざる人びとに所得を再配分するのではなく、各期のはじめに、生産用資産と教育と訓練された人的資本の広くゆきわった所有を確保するのです。
 教育と訓練の重視と機会の公正な平等の徹底によって、格差原理に対処するものです。それぞれ、相互の利益と自尊によって、自己の分担役割をしていく。最も不利益にある人びとは、慈悲や同情、哀れみの対象ではなく、何人も互恵性なのです。社会的・経済的平等を足場に自分自身のことは自分でやっていくということで、最も不利益で、もたざる人びとに、自立の立場を作り上げていくのです。
 教育と訓練を重視して、意欲的に誇りと自尊心をもって生きることは、より人間らしく自由になることです。この仕組みづくりで教育と訓練は極めて重要な事項です。もたざる人びとも自由で平等な者として、自由に人間らしく誇りをもって、意欲的に働き、市民間の公正なる協働システムの一員として、機能するようにロールズは考えたのです。


 
 財産私有型民主制やリベラル社会主義の政治的価値は、公正なる正義として、民主的政治の憲法的枠組みを設定しています。立憲民主制と手続き的民主制の違いも明確にしておくことが必要としています。
 財産私有型民主制は、手続き的民主制という政治的価値はない。憲法事項にそって、法がつくられていくのです。憲法の制約が立法でも裁判所でも明確にされています。しかし、手続き的民主制は、立法上において憲法の制約もなく、適切な手続きによって法が制定されていきます。それは過半数の原理によっての制定です。

 財産私有型民主制や民主的社会主義では、多数決原理という手続き民主制の普及ではなく、憲法的内容を実質化していくという公正なる正義の政治が執行されていくという教育を社会的に充実していくことが大切になってくるのです。
 市民達の政治論争、政治的に対立する党派での討議の基礎は、憲法の必須事項からの政策的な合意、社会的協働なのです。これらを具体的な国民の要求実現の筋道を合意と協働システムのなかで示していくのです。
 財産私有型民主制の経済制度は、格差原理からの自由と平等を保障していくという社会的諸制度で、貯蓄原理を正義のために働かせるのです。社会は長期にわたる世代間の公正なる協働システムを作っていくのです。貯蓄をとりしきる原理も必要になるのです。貯蓄原理の合意は、富の水準をどれほど多くするのかという他の世代の義務を根拠づけることが求められます。


 さらに、税のことでは、貯蓄原理と課税の問題があります。ロールズは、遺贈を規制し、相続を制限するということは税の対象とせずに、累進課税に原理を積極的に適用するとしています。公平で平等な正義がかなっている社会では、累進課税で財源を増やすことを直接の目的にするためではないとするのです。
 それは、政治的諸自由の公正、機会の公正のために、背景的正義に反する富の蓄積を防ぐためというのです。ここで、問題となるのは、貯蓄原理が生活のために、小規模な資産として相続することを考えるのが必要なのです。それは、公正なる平等の正義から不公平な富の格差が生まれてくることはないのです。
 しかし、市場競争という現実を肯定しているなかで、資本の一極集中が進んで、それに伴って資産も強大になり、そのことで、世界の経済を支配することで重大になります。生活のための小規模な貯蓄であれば、富と貧困の極端な格差の矛盾は生まれない。その場合は遺産相続の所得控除という制度によって、実質に相続がかからない仕組みもできのです。控除額をどれほど引き上げるかによって、実質的に小規模な生活のための資産の遺産相続はなく、ロールズのいうとおりに課税対象からはずれることになるのです。
 比例的な消費税として、一定の所得税を越える消費総額にのみ課税されることも考慮するひとつです。人びとが、生産された財やサービスをどれだけ使用したか。それに応じて課税されることで、適切な社会的ミニマムに配慮した調整ができるというのです。。
 ロールズは、財産私有型民主制にとって、女性の完全平等をめざすことが大切と考えます。伝統的な家族内分業が基礎になった歴史的条件があることから、基本制度としての家族の問題になるのです。長期的な社会的協働のひとつとして、女性や子どもに平等な正義を確保する必要があるのです。 


 政治的リベラリズムの実現には、教育によって達成するのです。子どもの教育のなかに、自分の憲法上の権利や市民的権利に関する知識が重要です。自分の住む社会には良心の自由が憲法的に保障されいます。子ども達は十分に協働する社会的構成員となる準備を整え、可能となる自活の教育を受けていきます。そして、社会的協働の公正な条項を尊重したいという欲求が起きる政治的徳性を寛容していくことが求められます。
 自由で平等な公正なる民主的国家をつくっていくには、将来の市民としての子ども達の役割は重要です。子ども達に公共的な文化を理解し、その諸制度に参加し、政治的公正なる諸徳性の発達能力をつけることは不可欠になってきます。そして、全生涯にわたって、自活して生きる能力が求められということです。


4、 マルクスの自由論と教育の役割

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資本主義の基本矛盾

 

 マルクスは資本主義の矛盾原理を資本論で明らかにた。マルクスから学ぶ自由論を考えていくうえで、社会的自由が基本にしています。
 マルクスは、イギリスの経済史と経済状態からの資本主義矛盾の解放を大きな課題としたのです。イギリスこそ不可避的に社会革命が平和的で合法的な手段によって、完全に遂行されうる唯一の国であると考えたのです。

 マルクスは、商品生産の物神的性格を脱ぎ捨てためには、自由に社会化された人間の産物を意識的計画的に管理できる社会的相互関係が大切とした。

 そして、その歴史的条件には、人間と自然の関係の生産力の発展が必要と考えたのです。労働の疎外をはじめ制約されたものからの解放には、長い苦難に満ちた発展が求められていくとみたのです。
 労働者が労働力の売り手として、資本主義的な生産関係に入ることで、労働とその意志の自由が大きく変化したのです。資本主義的生産関係の労働者は、労働する魅力が少なければ、また、自分自身の肉体的および精神的の働きとして楽しむことが少なければ少ないほど資本にとって喜ばしいことになります。労働者は、資本関係において、自分の意志を労働過程に従属させなければならなくなったのです。労働者は資本主義的生産関係に入ることによって、彼の一日の全体の生活は、労働力以外のなにものでもないようになるのです。

 

 労働者は、人間的教養、精神的発達のための自由な時間を奪われていくのです。さらに、社会的役割を遂行するための、社会的交流の時間も失っていくのです。これらのことは、肉体的・精神的生命力のための時間を資本の価値増殖のために、奪われていくということを意味しているのです。資本関係に入ることによって、労働者は、人間的な自由時間が失われていくとマルクスはみたのです。
 本質的に、資本主義的生産は労働日の延長によって、人間的労働力の正常な精神的および肉体的発達との諸条件を奪いとられるだけではなく、労働力そのもを早く消耗して、労働者の生存時間を短縮していくとマルクスは分析したのです。
 利潤第一主義の資本制的大工業の誕生以来、強力で無制限な労働日の延長がされ、児童や女性が労働力市場に入り込んでいったのです。19世紀の前半に、イギリスでは、工場法立法の制定によって、標準労働日を獲得したのです。


 工場立法は、工場労働者たちの政治的選挙スローガンによって、広く宣伝されて、議会の大きな課題となったのです。工場経営者を規制していく工場法が制定されたのです。この工場法も労働者の戦いによって、労働時間の短縮、労働条件の改善が充実していくのでした。

 1844年の工場法によって、一日12時間以下、女性労働者の夜間労働が禁止され、13歳未満の児童は、一日6時間半になったのです。さらに、工場立法では、保険条項とて、換気装置などの労働現場や労働者の住居の改善をしていくのでした。

 国家法の強制によって、清潔・保健設備がされていくのでした。工場内は過密で健康に悪く、労働者の宿舎も換気の悪い部屋であありました。しかし、衛生的正義の闘争によって、衛生当局者も労働者の衛生権を報告するのでした。衛生権は法的な保護になったことを見落としてはならないのです。
 また、工場内に教育条項としての学校がつくられたことは注目することです。工場法によって、初等教育が工場内で実施されたのです。このことは、資本から労働者がもぎとった画期的な譲歩であったのです。


 労働者は闘いによって、孤立した労働者ではなく、資本との自由意志契約によって、自分たちの奴隷的状況を克服していったのです。ここには、議会による労働立法という強力な社会的手段があったことを見落としてならないのです。議会による工場立法は工場経営者に対する強制力になったことを決して忘れてはならないのです。
 同時に、ここでは、孤立した労働者としてではなく、標準労働日や労働条件を団結した力によって獲得していったことは重要なことでした。資本との関係で、自由対等に労働契約を結んでいくことができるようになったのです。まさに、労働契約を自由にできることは、労働力市場の自由ということから注目すべきことです。

 労働者の場合は、個々では孤立した存在であることから、労働者が意識的に団結の力で、議会に要求し、国家による労働立法から守られることが大切であったのです。また、労働者自身の団結権、労働交渉権なども不可欠になります。


 資本論からみた労働者の労働時間の短縮の闘いは、自由な時間の獲得になるのです。そして、工場法の教育条項にみられるように、人間的な発達のために、初等教育も獲得したことは特記すべきことです。

 安心、安全な環境で暮らすことは人間にとっての自由の条件でもあります。清潔・保健整備の改善や換気の悪い宿舎の改善など、衛生権ということからも大切なことであったのです。

 マルクス資本論1巻13章の機械と大工業のなかで、安価で単純な女性労働、児童労働を大量に動員していくことを述べています。機械は労働者家族の全員を労働市場に投じて、成人男子の労働力価値を全家族間に分割していくのです。そこでは、自由な労働力を売ることを放棄していくのです。機械は労働者自身を幼少時からひとつの部分機械の部分にしてしまうために乱用されていくとマルクスはみるのです。

 資本主義的な機械の充用は労働者の労働を解放するのではなく、自動装置によって、労働条件に労働者が使われることが強固になるというのです。つまり、手労働のときの心身の一切の自由な活動を封じてしまうのです。監督労働と単純な筋肉労働へとなっていくのです。

 

  資本にとって、政治的には分権や代議員制は、封建的特権を打ち破り、営業の自由を獲得していくうえで、歴史的に重要なことであったのです。この分権や代議員制は近代の民主主義の発展にとって極めて大切なことですが、自らの経営にとって、資本は利潤第一主義によって先制的になるのです。

 また、労働者は自らの目先の現象的な矛盾から機械との闘争をはじめるのです。機械は労働者自身の競争相手になると思うのです。実際は、機械の資本主義的充用によって、解雇され、生存条件が奪われていくのです。

 機械による分業は労働力を一面化して、ひとつの部分道具を取り扱うまったく特殊化された技能にされてしまうのです。機械のために余分な労働力にされた人々が生まれて行くというのです。労働者にとって、ここでは、社会的な関係をみることではなく、目先の機械化に奪われているのです。

 

機械制工場での教育の獲得と人間の全面的発達論

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 資本主義的自動体系のもとでは労働者の才能をますます排除します。熟練度の高い成人男子から熟練度の低いものに、子どもを大人の代わりに用いていくのです。

 ここでは、機械そのものの資本主義的充用から区別し、物資的生産手段の社会的利用形態の重要性を労働者が覚えるためには、時間と経験が必要であったのです。

 機械装置の発達によって、子どもの世話、裁縫や修理などの家事労働の家族の機能も大きく変化するのです。児童や少年の労働の売買は知的荒廃をつくりだしていくのです。

 しかし、児童の知的退廃が社会的に問題にされることによって、工場法の教育条項が生まれます。その適用を受ける産業で、初等教育を14歳未満での法的強制をしなければ社会それ自身の再生産が成り立っていかない状況になったのです。

 

 ところで、工場法の教育条項は、全体的に貧弱にみえるとはいえ、それは初等教育を労働の強制的条件として宣言したとマルクスは積極的に評価するのです。マルクスによれば、その成果は、筋肉労働を教育および体育と結びつくることの可能性をはじめて実証したとするのでした。

 工場監督官たちはやがて、学校教師の証人喚問から、工場児童は正規の昼間生徒の半分しか授業を受けていないのに、それと同じか、またはしばしばそれよりも多く学んでいることを発見したというのです。

 それは、二つの仕事をしているということです。一方では休養に、および気晴らしになり、中断なしに続けるよりもずっと適当というのです。

 また、上級および中級の児童の一面的で不生産的で長すぎる授業時間が、いたずらに教師の労働を多くしていること、児童の時間や健康を無駄にするだけではなく、まったく有害に乱費しているとみるのです。

 ここでの労働は過度な強制的なものを意味しているものではありません。マルクスは、児童労働調査員会の報告書を紹介しながら、そのことを語っています。有能な労働者をつくる秘訣は、子どもの時から労働と教育とを結びつけることになります。その労働は激しすぎてはいけないし、不快なものとか不健康なものではいけない。自分の子どもにでも、学業からの気分転換のために労働や遊戯をやらせたいとおもっていると児童労働調査員会は報告しているのです。

 

 長期的な側面からみれば、有能な労働者をいかにつくりだしていくのか。このことは、資本にとって、大切なのです。さらに、マルクスは当時の農村の状況では貧困家庭には教育を禁止するという風習があったことを記しているのです。貧しいがゆえに児童労働者として、工場に働きにいった子ども達が、そこで教育を受けられるということなのです。農村にいては教育が受けられなかった子どもたちが、工場法の教育条項によって、学ぶことが可能になったのです。

 イギリスの農村地方で、貧乏な親たちは子どもの教育を罰ということで禁止されているのです。貧乏人が教区の救済を求める場合には、彼は子どもを退学させられることを強いられるのです。

 工場制度からは、われわれはロバート・オーエンにおいて詳細にその跡を追うことができるように、未来の教育の萌芽がでてきたとするのです。それは、単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法であるとマルクスは工場法の教育条項を積極的にみているのです。

 

 全面的に発達した個人になっていくのです。全面的発達は、教育の前提ではなく、生きるために、労働現場からはじき出されることの繰り返しのなかで、その場、その場で必死に労働力市場に対応していくなかでの能力の形成からの結果としての全面的発達の人間形成なのです。長い人生のなかでの、困難につきあたり、新たな能力形成挑戦の努力から全面的発達の人間形成としてみることが重要です。ここには、社会教育・生涯学習ということからの全面発達の人間形成としてみるべきです。

  生涯を通しての全面的発達への基礎として、自然発生的に発達した工業および農学の学校や職業学校にもなるのです。労働者の子どもが技術学やいろいろの生産用具の実際の取り扱いのある程度の教育を受けることの重要性をマルクスは考えたのです。

 工業学校、農学校、職業学校は、生涯学習からの全面的発達の人間形成ということで、大きな意味をもっているのです。したがって、そこでは、すぐに役にたつという職業訓練的な教育ではなく、生涯にわたって大切な職業観教育や技術学の基礎、科学の基礎を実際的な訓練の基礎から学ぶことになるのです。職業観や技術学の基礎、科学の基礎を実際に応用できるように学ぶことが求められているのです。

 工場立法は、資本からやっともぎとった最初の譲歩として、初等教育を工場労働者に結びつけることができたのです。このことは、労働者階級による不可避的な政権獲得のための理論的なことになります。また、実際的な技術教育のためにの労働学校のなかにその席を取ってやることができるとマルクスはみたのです。

 

  部分人間からの全面的発展の人間形成は、機械制大工業による資本主義的な競争原理による価格競争からです。それは、生産性という絶えざる技術革新による労働者の労働力市場からの反発や吸収によって起きるのです。

 労働者の全面的発達の人間形成は、労働力市場の反発や吸収という死活問題のなかで形成されていくのです。労働者が不況のなかで解雇されていくなかで、生きていくいくために必死になって新たな産業へと雇用を求めます。雇用の安定のために、自己の能力を身につけようとするのです。

 部分人間からの全面的発達への人間形成ということは、前提としての教育や職業訓練の営みの目的によってではなく、労働者の景気循環のなかでの雇用の排出反と吸収のなかでの適応であるのです。つまり、経済的基盤からの労働者の死活問題としての労働への適応の努力の学習の繰り返しのなかで形成されていくとみるのです。

 このように、マルクスが考えた全面的発達論は、部分人間からの脱皮は、資本主義的な景気循環での排出と吸収、絶えざる技術の競争というなかで捉えていくことが大切なのです。社会経済的状況から無視しての独自の教育論としての全面的発達論ではないのです。

 この意味で全面的発達論は、社会から閉じられた学校教育という狭いなかで考えるのではなく、学校教育自身も社会との関係で積極的に教育内容、教えていく課題、教育の方法、体験学習や観察、実験方法、体を動かす教育、感性を磨いていく実際の方法など、様々なことを社会や体験、実際のことなど工夫していく教育が必要なのです。

 さらに、社会教育・生涯学習の課題として、全面的発達論をみていくことが大切なのです。

 

労働の疎外と人間的自由
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マルクスは、「経済学・哲学草稿」で疎外された労働についてのべまています。資本主義的な生産関係では、労働者は富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけ貧しくなるというのです。
 この事実は、労働が生産する対象、生産物がひとつの疎遠な存在であったのです。そして、生産者から独立した力として、労働に対立したのです。労働者は彼の生命を労働対象のなかにそそぎこむので。しかし、そそぎこまれた生命の生産物は彼自身のものではないという皮肉な結果であったのです。


 自然は労働に生活手段を提供しますが、自然は狭い意味での生活手段を提供していたのです。労働者は、資本主義的な生産関係に入ることによって、彼の生活手段の自由な労働を奪われるし、生存手段である生産物も失われのです。労働者は肉体的主体としてのみふるまうのです。ここに二重の側面から労働者の疎外が生まれたのです。
 労働者は労働の本質から疎外されることによって、労働によっての幸福を感ぜず、かえって不幸を感じるのです。労働者の自由な肉体的および精神的および精神的エネルギーがまったく発達せずに、かえって彼の肉体を消耗し、彼の精神は頽廃化していくのです。

 また、労働していない家庭にいるような安らぎは、労働しているときは安らぎをもたないのです。だから、かれの労働は自発的なものではなく、強いられたのであり、強制労働だというのです。 


 労働は、ある欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足させるための手段にすぎないということです。人間的労働の本質である自然との関係で、欲求の満足のために、生産する喜びが失われているというのです。
 以上のようにマルクスは、資本主義的な生産によって、資本によっての労働過程の支配と所有から排除されていることで、労働による幸福感、満足を得ることができないということで、労働疎外の本質をのべるのです。
 人間は動物と異なって類的な存在であると考えるのもマルクスの特徴です。人間は自己に対してひとつの普遍的な、それゆえ自由な存在としてふるまうというのです。人間は、植物、動物、岩石、空気、光などの自然科学の対象として、また、芸術の諸対象してふるまうというのです。


 人間が享受すべき生産物を消化するためには、まず第1に仕上げを加えなければならないと考えます。それは、人間の精神的な非有機的自然、精神的生活手段になります。自然生産物が食料、燃料、衣服、住居などの形であらわれるようになるのです。そこでは、人間的生活や人間的活動の一部を形成し、また、人間的意識の一部をもつのです。人間は自然によって生きるということです。
 つまり、自然との不断の交流過程で人間は死なずに生きているのです。資本主義的な生産関係での疎外された労働は、人間は自然の一部として、自然と意識的に連関しているのを断ち切られているのです。

 

 人間にとっての労働は、生命活動、生産的生活そのものです。それは、欲求を、肉体的生存を保持しようとする欲求を満たすための手段であるのです。
 人間の生命活動は、類的生活がよこたわっています。自由な人間の意識活動は、そのものなのです。人間は、生命活動そのものなかに、自分の意欲や自分の意識の対象にしています。資本主義的生産関係は、自由な人間の意識活動、喜びや幸福感という自由な活動を疎外しているというのです。
 疎外された労働は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観することと、自然との関係での生命活動からの意欲や意識の自由な活動を人間の肉体的存在の手段に引き下げるということになるというのです。これらの意味することは、人間の精神的本質を疎外するというのです。


 労働の疎外があるということは、人間からの人間の疎外ということです。労働者が生産した労働生産物は、労働者に属さず、労働者以外の他の人間に属するということです。労働者の苦しみは他の資本にとっては、その生産物が享受され、他の人間、資本にとっての生活のよろこびになるのです。
 労働疎外によっての労働生産物は、資本家のものになり、その労働の主人が資本家になっているのです。私有財産は、労働者の外化された労働の産物、成果です。

 労働疎外が人間の疎外ということから、労働者の政治的な解放ということは、労働者だけの問題だけではなく、一般的に人間の解放が含まれているのです。人間にとっての労働、生命活動、生産的生活からの幸福感、人間の意識、人間的文化という本質の問題があるのです。このことから、利潤第一主義の労働から離れた資本家も含めて、人間的生きる喜び、幸福感、人間の意識や文化芸術をもみつめていくことが大切になってくるのです。
 
 労働の疎外は、機械の発達の導入によって、全く未発育な子どもを労働者にするのです。機械は人間の弱さに順応して、弱い人間を機械にしようとするのです。労働者の活動をもっとも抽象的な機械運動にまで還元し、活動する欲求も、楽しむための欲求すらなくすというのです。まさに、労働者を貧弱した生存条件の無感覚的な欲求の存在として陥れるとしたのです。 

 

人間の自由の意志と幸福観

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  エンゲルスは「反デユーリング論」のなかで人間の意志の自由問題として、自由と必然性についてのべています。 自由は、洞察と衝動、分別と無分別との平均であって、その度合いとしてみるのです。自由とは必然性の洞察であり、意志の自由は知識をもって決定を行う能力というのです。だから、ある人が判断がより自由であればあるほど、その判断の内容は必然性をもつということになります。


 無知にもとづく判断は、気ままに選択するようにみえても、自らの不自由を証明するのです。自由は必然的に歴史的発展の産物です。動物界から分離したばかりの人間はすべて本質的に不自由であった。文明、文化の進歩は、自由の歩みであったことを重視しているのです。
 エンゲルスは「フォイエルバッハ論」の著書で、人間の幸福衝動についてのべています。幸福衝動は、その充足の手段である外界との関わり合いが必要としています。幸福の衝動は、食物、異性の個人、書物、談話、討論、活動などの形であらわれます。それらは、消費される対象になるのです。
 
 社会の発展史は、自然の発展史と本質的に異なるのです。自然史は、人間の意識のない盲目的な作用力であって、交互作用のうちに一般的な法則がありますが、人間社会の歴史は、行動している人間は意識を賦与され、考慮または情感をもって行動し、一定の目標をめざして努力している人間であるのです。
 ここでは、表面上では、個人の意識的に意欲された目標によっての行動があるのです。行動は偶然が支配しているようにみえますが、多くは、意欲された目的が交錯したり、抗争したりするのです。行動の目的は意欲されているにもかかわらず、その行動の結果は、意欲された目的と合致するかに見えても、意欲された結果と違うことになるのです。偶然性が支配しているように見えても、この偶然性の内部にかくれた法則性によって支配されていることを詳しくみる必要があるのです。


 人間の歴史は、人間各自の意識的に意欲していることを追うことによって、多くの意志と外界の意志の多様な働きが合成され、それが歴史の結果なのです。個々の意志は破棄されるのではなく、合成された一部を構成されているのです。このことは、多くの個人が意欲しているというなかで歴史がつくられいくということです。
 

マルクス・エンゲルス未来社会ー真の人間的自由ー

 

 マルクスとエンゲルの「ドイツイデオロギー」の著書では、未来社会論を次のようにのべています。資本主義的大工業による労働の分割から人間的な力の復元は、もとのようにはならない。諸個人が個人として参加していく共同態によって、諸個人の自由な発展と運動の諸条件のもとでの諸個人の結合によって、新たな豊かな人間的な力が復元できるというのです。

 他の人たちとの共同こそが、個人の素質をあらゆる方向へ伸ばすことになるという考えです。したがって、共同においてこそ人間的自由は可能となるのです。


 この共同態とは、個々人の自由な参加による結合なのです。どのようにして、これを実現していくのか。その具体的な形態はどのようになっていくのか。資本主義的矛盾の対立のなかで、労働組合と経営者の集団的な交渉や協議会、協同組合方式の経営、労働者の職場などでの経営参加など、様々な試みが歴史のなかでされてきました。
 そして、労働基準監督、公衆衛生面からの保健所行政、環境保護行政など国家での法律に基づいて、経営側の社会的規制と労働者の社会的参加が行われてきました。

 

 マルクスエンゲルスの指摘する自由な国への諸個人の結合による共同態をどのようにつくりあげていくのか。詳細な具体的にるみえる形が必要です。
 そして、それらが、具体的にどのような方法で実現していくのかという過程も大切です。基本は現実的な問題の起きている利益第一主義の資本主義の矛盾を地域や職場のレベルから、地方、全国へと国民的な参加によって、民主的な協議、結合によって未来社会への達成を一歩一歩成し遂げていくことではないか。