社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

日本での元寇とベトナム

日本での元寇ベトナム

 元寇が、日本では、2回きています。一度目は博多を中心として大きな被害を受けました。しかし、嵐のあとに突然と撤退しています。2度目は完全に元軍14万を撃退しました。同時に、ベトナムでも3度にわたる元軍を打ち破っているのです。

 日本とベトナムは750年前に元軍の侵略に襲われました。元は、アジアからヨーロッパまで、巨大な世界帝国を築いていたのです。ベトナムと日本は、世界最強の帝国を築いた元軍を打ち破ったのです。    

福岡の生の松原防塁

 

県庁前の亀山上皇像と日蓮

 ベトナムには、3回、元軍が攻めています。第1回が1257年で、南宋を背後から攻撃するために、ハノイの占拠です。ベトナム軍の抵抗にあって、撤退します。第2回目は、1284年です。チャンパを討つために陳朝の出兵要求でした。そのことを拒否したことに、ハノイの占領でした。ベトナム側の激しいゲリラ的抵抗にあって撤退するのでした。

 第3回は、1287年に9万の大軍をフビライの息子のトンガを総司令官として出撃して、ハノイを占領します。陳朝の王は逃げて、元の食糧補給をたつためのゲリラ戦術で徹底抗戦をします。兵糧攻めです。3回目も元軍の完全なる敗北でしした。

 日本に対して、フビライは、1266年に国書をもって日本の服属をせまったのです。属国になることを断った鎌倉幕府北条時宗であった。1274年10月に文永の役として、朝鮮半島の高麗軍を中心とした2万8千の兵の船団900が博多を占拠したのです。1271年に蒙古帝国は、国号を大元としたのです。元軍を迎え撃つ日本は、九州各地から5千で圧倒的な数と火力の違いで博多は火の海になり、廃墟となったのです。

 しかし、元軍は一夜で撤退したのです。なぜか。日本に攻めてきた元軍は、高麗軍が中心であったのです。台風が到来したという話も最近の学説から、旧暦10月20日、新暦11月26日という時期からみて、否定されています。元軍は本気で日本占領を考えたいたのではなく、強さを見せつけることではないかというという説もあります。元軍の撤退はかれらなりの予定の作戦ということであったというのです。

 問題は第2の弘安の役の1281年の戦いです。第1次の1274年から7年後のことです。たびたび服属を迫ったフビライであった。幕府はフビライの服属を迫ってきた使者にあうことを全くせずに、無視という態度でした。そして、5人の使者を打ち首にしたのです。フビライにより、この5名の安否を尋ねてきた使者も切り捨てられたのです。このことに怒ったフビライは、第二次の日本征伐、植民地化ということで、本格的に元の大軍が日本に襲ってきたのです。これが2回目の元寇でした。

 まさに、日本をせん滅するために、14万の大軍が日本を襲ったのです。このときは、日本を永久に占領するという意図をもっていたのです。軍船には日本で農業をするために、農機具や種子が積み込まれていたのです。

 このときは、国際情勢も大きく変わっていた。日本と貿易や文化交流などで友好関係をもっていた南宗は、日本に侵攻する5年前に都が陥落したのです。フビライによって日本への侵攻の2年前に逃げていた王の徹底抗戦軍は、完全に滅ばされていたのです。

 高麗軍を中心とする4万人の軍と南宗の投降兵を中心とする10万人の軍であったのです。元軍は、2つの大きな異なる軍隊から編成されていました。南宋の投降兵を中心とした10万の軍隊は、組織的に統率されていたのでしょうか。

 ところで、元軍にとって、7年前と対峙する日本軍とは大きく異なっていたのです。見渡す限りの海外線に防塁を築いていたのです。そして、崖のうえから洪水が流れるようにダムをつくり、さらに、夜襲の訓練と弓の飛距離の延長をしました。そして、弓矢が正確的にあたるように訓練を徹底したのです。7年前の教訓から日本は学んで防戦に備えていたのです。

 佐賀の唐津に接する長崎の松浦鷹島が元軍の集結地として、激しい戦いが起きるのです。この戦いは、ひと月の壮烈な死闘でした。南北13キロ、東西5キロに14万の元軍が集結するのです。日本は複雑な地形を利用して、夜襲をかけてのゲリラ戦です。ここで、なぜ元軍は14万の軍隊を鷹島に集結させたのでしょうか。

 大型の台風によって戦局が大きく変わるのです。船から離れることがことができなかった元軍は、壊滅的打撃をこうむるのです。船団として釘付けにしたことが決定的に日本の勝利につながったのです。

 元軍は、異国での戦いで、地形もわからず、台風という季節感もわからず、また、元軍自身が寄せ集めの軍隊ということから、軍団として強制的な集結を強いられていたのではないか。とくに、南宋の投降兵を中心とした江南軍は、5年前までは元と戦った兵隊が多いのです。

 

 


 ベトナムでは、日本に元寇があった同時期に、元軍を打ち破ったのです。1257年に軍が侵攻してきたときに、大越軍を率いてたのは、チャン・フン・ダです。また、1282年元軍の侵攻を受けたときに、皇帝は、降伏しようと言い出しました。チャン・フン・ダオは、「戦わずして降伏するくらいなら、私の首を差し出す」と言った。このことで、大越皇帝は徹底抗戦の構えに変わった。チャン・フン・ダオは大越軍の総司令官になりました。ゲリラ戦を繰りひろげて元軍に大勝しのです。1281年の日本への元寇で、14万の大軍が壊滅したのですが、フビライは、翌年にベトナムへの侵攻を行ったのです。

 1288年に大越軍とチャンパ軍が共同戦をとって、9万の元軍と戦い、壊滅的な打撃を元軍に与えるのです。徹底したゲリラ戦を行って、元軍を白藤江におびきだして、潮の引くことの差を利用して、元軍を水攻めて、壊滅させたのです。

 チャン・フン・ダオは現在でもベトナムの独立を守った英雄としてベトナム国民から愛されている人です。日本では神風と元寇の勝利ということで、当時の武士たちが元軍と巧みに知恵を働かせて独立を守ったことがあまり語られていないのです。

 また、当時の日本をとりまく国際情勢がどうであったのか。ベトナムや南宗との関係、さらに、朝鮮半島の高麗軍を主体とした4万の元軍がどうであったのか。対馬鷹島などで民の多くの虐殺の話の記録が残っているのです。また、南宋の投降兵を中心とした10万の江南軍はどうであったのか。軍勢の数だけではみれない寄せ集めの軍が、強い火力をもっていてもその威力を発揮できなかったのではないか。