社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

元ナムディン縫製・紡績工場管理棟フランス建築跡

元ナムディン縫製工場管理棟・フランス建築跡

 

ナムディン縫製・紡績工場の管理棟フランス建築づくり

 

ナムディンの縫製工場とホーチミンがきたときの執務室

 

アメリカの空爆に対する工場防衛

 

 


フランス植民地時代に抵抗者への虐殺の埋葬地

 

縫製・紡績工場の霊

 ナムディン市は東洋一といわれた縫製・紡績工場があったところです。フランスの植民経済のなかで、労働者は、過酷な長時間労働を強いられたのです。そこでは、女性労働と児童労働ということで、外にでることさえも難しかったという監視労働が徹底されていたのだ。

 ナムディン工場は東洋で最大の紡績工場として知られていたが、それは、植民地というなかでの工場の発展ということを見落としてはならないのです。ベトナムの近代工場は、植民地経済のなかで展開されたのです。

 1930年にベトナムをはじめインドシナ共産党が結成され、ナムディン縫製・紡績工場をはじめ、フランスの植民地支配に反対する必死のデモが4千人規模で行われたのです。

 ベトナムは、日本の近代の製紙工場の発展とは大きく異なるのです。日本もベトナムと同じように、不平等条約を欧米列強によって結ばされた。いわゆる安政の5ケ国・アメリカ、フランス、イギリス、ロシア、オランダによる不平等条約が1958年に結ばれています。この条約の完全撤廃まで実に1911年ということで、50年かかったのです。

 日本は製糸業によって作られた絹を国際的な貿易の商品にします。養蚕、製糸業、絹織物の近代工場に力を入れます。そして、それぞれの地方にあった手工業を近代工場として、また、官営近代製鉄業も盛んにしていくのです。

 1872年に日本は、官営模範工場として富岡製紙工場をつくったのです。旧士族の娘たちによって、工場の責任者は、尾高淳孝であった。かれは、豪農で私塾を開いていた学問好きな人物であった。かれの教へのもとに、後に日本の産業化に大きな影響を与えた渋沢栄一がいたのです。渋沢栄一は新しい一万円札の人物像になります。

 ナムディンは、昔からシルクが盛んにつくられてきたところです。その技術も高いものがありました。この意味では、日本の当時の状況と変わらないものがあったのです。フランスの植民経営では、その技術の高さに目をつけて、近代的な縫製工場をつくったのです。シルクを研究する場所に、縫製工場をつくっていったことでも、そのことが示されています。

 フランスの東洋全権者ド・ラネッサン氏(1887年-1888年)によって、設立された工場です。かれの、支配者としての管理棟が、現在に残されているフランス式の管理棟です。1898年まで、全権者ポール・ドゥメール氏は蒸気で繊維工場を稼動させることにしたのです。1924年には、6千人の労働者が、ナムディンの工場で働いたということです。

 ナムディン縫製工場は、グエン・ヴァン・ミエンの管理よって、1954年、ベトナム国家の紡績連合工場になった。当時は、戦争のなかで、ほとんどの機械は破壊されていた。非常に少ない機械だけで稼動したのです。当時の製品は麻織物などであった。再開された縫製工場であったが、アメリカの空爆によって、破壊的な被害を受けたのです。

 アメリカの空爆に対して、英雄的にナムディンで働ていた女性たちは、戦ったのです。1965年に、アメリカが破壊な空爆をして、ナムディン省は壊滅的被害地帯を受けた。ナムディンの縫製工場は各地に機械を移し、引き続き生産しながら、戦ったのです。

 戦争の後、ナムディン紡績工場は銀行の資金を借り、多くの新しい機械を購入し、生産方法を変え、国内外の企業と協力し生産した。一時、1万8千人の労働者が工場で働いた。

 ナムディン紡績工場は、環境を保護するためホアサー工業団地に移転したのです。ナムディン省にはもう1つの旧区域と同様の30haの織物生産区域で、市のセンターから5kmです。