沖縄の歴史文化から日本の未来を考える
神田 嘉延
はじめに
東アジアの平和の構築を目指して
日本の国民が未来社会を考えていくうえで、沖縄の自立してきた地方の独自文化の素晴らしさを認識することが大切です。全国のそれぞれの地域が、自らの歴史文化を見直し、自立しての地方自治を充実させていくうえで、沖縄から学ぶことが多いのではないか。
沖縄米軍基地は、人口の9 割以上が居住する沖縄本島にあります。沖縄本島面積の 15%が米軍基地です。それは、日本全体の米軍基面積地の70%を占めるのです。米軍基地に占める沖縄の負担が特別に大きい現状です。沖縄は、アメリカ米軍の中国やロシア等に対する東アジアの前線基地として大きな位置をもっているのです。
これは、中国やロシア、発展途上国のグローバルサウス等に軍事的圧力に沖縄米軍基地が大きな位置を占めているのです。
自由と民主主義陣営と専制国家・独裁陣営という国際的対立構造をつくっているのがアメリカをはじめとするいわゆる欧米系の考えをもつ先進諸国です。この対立構造によって、国際緊張関係がより強まっています。この結果、日本は、こでは、沖縄本島ばかりではなく、先島諸島や鹿児島県も含めて、自衛隊も動員して、軍事基地の強化が進んでいるのです。
平和をめぐる問題で、沖縄は中国やロシア、グローバルサウスに対して、アメリカを中心とするいわゆる自由と民主主義国家との国際関係の大きな争点になっているのです。
社会学者で、沖縄大学学長を務めた新崎盛喜は、「沖縄現代史・岩波新書」でのあとがきで、日米安保体制のなかでの沖縄の構造的差別として次のようにのべているのです。
「日米安保体制は、現代日本における構造的沖縄差別である。その差別構造は、アメリカの世界戦略の一環に組み込まれ、日米共同覇権主義の方向へ変質しつつある日米安保体制が、沖縄を第三世界抑圧の軍事拠点として位置づけることによって生じている」と。
現在・2025年の時点で、中国の力が、一層に強まるという危機を日本のマスコミは大いにあおっています。また、ソ連の崩壊により東欧諸国をNATOという軍事同盟に取り込むことで、軍事対立の危機が、一層、現実的に起きています。それは、ロシアのウクライナ軍事侵略という事態を招いた大きな背景になっています。この政治経済体制の異なる対立は、東アジアにも飛び火する可能性があるのです。アメリカの東アジアにおける戦略的な軍事基地になっている沖縄の位置は、平和共存、国際的相互尊重を守るうえでも極めて重要になっているのです。
ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎は、「沖縄ノート・岩波新書」で、1972年の沖縄返還のことを次のように書いています。「僕は沖縄で、アジアにおいて沖縄と沖縄の人間とはなにかを考えつつ行動をつみかさねる人びとを多くみてきた。本土の人間へのかれらのしたたかな拒絶の表情に見まもらせつつあらためて、僕は政府による72年の沖縄返還のプログラムを見つめなおす。
その時、僕は、沖縄の経験と思想のちがいをつきあわせつつ、あらたにアジアにおいて今日、日本と日本の人間とはなにか、と考えざるをえない思いにいたり、くりかえしいうことにるが、そこからやはり日本が沖縄に属するという命題に戻るのである」(131頁)。
日本が沖縄に属するという命題は、日本全体の自立ということからも大切なことです。 それは、沖縄から日本という国を考えること、日本の民衆意識、日本人と何かを見ることを意味しているのです。沖縄を日本から切り離して論ずることは、沖縄に対する地域差別意識でもあるのです。大江健三郎のこの意見は、沖縄の地域差別に対する批判でもあったのです。
沖縄県の知事を務めた太田昌秀は、「醜い日本人・岩波」で、沖縄に住んでいる人びとと本土に住んでいる人びとのあいだに、沖縄がかかええている問題について、同一の問題を論じても、共通の視点を欠き、論点がかみあわないという意識のずれがあるということを指摘しています。アメリカの軍政下に放置されたままで、戦後を生きてきた沖縄の人びとの理解。本土の人たちは、沖縄の犠牲のうえに繁栄を謳歌してきた戦後であったことを本土の人びとは理解していないというのです。50頁〜51頁参照。
この指摘は、現在でも続いています。日米地位協定による沖縄での米兵による犯罪に対する取り扱い、辺野古の基地問題などが続いているのです。沖縄の観光開発によって、多くの本土の人たちが沖縄を訪れますが、沖縄の米軍基地下の暮らしの苦しみ、不安のことを果たして理解しての南海の楽園の沖縄として、本土の人びとは沖縄で、レジャーを楽しんでいるのです。
沖縄をアジアのなかでみる必要性は、近年の歴史で、ベトナム戦争のなかではっきりしたのです。沖縄は、その戦争におけるアメリカの前進基地であったのです。反共の砦である南ベトナムを防衛するという戦争の中心的な役割を果たしたのです。その地理的な位置が、そうさせたのです。
沖縄からみえることは、アメリカの世界戦略のなかで、日本のアジアにおける位置づけが欧米流の「自由と民主主義」価値観の防衛軍地の前進基地ということが、はっきりしているのです。ここでは、多様な価値を認め合って、相互に共生して協力していくための話し合いをすることが平和の構築にとって極めて大切になっているのです。
沖縄は米軍基地の島と南の楽園という二つのイメージをもっています。現在は、沖縄の観光ブームが起きています。また、沖縄は、月桃の活用や海藻などを利用しての持続可能な循環経済の海洋バイオマス開発・ブルーカーボン事業など様々な新たな人類的課題の取り組みに挑戦しています。
沖縄県は、復帰50年を記念して、東アジア及び東南アジアの中央に位置する地理的特性等を生かして、同地域全体の平和と安定の構築に向け、地域の緊張緩和と信頼醸成に寄与するために、2024年3月に「沖縄県地域外交基本方針」を定めたのです。沖縄の長い海洋国家としての歴史文化を継承しての平和外交を地域から貢献しようとするものです。
この外交基本方針は、本来ならば日本国家の基本戦略として位置づけていくことが必要なのです。日本という国家は、東アジアの緊張緩和と東アジア諸国からの深い信頼が名誉ある日本国憲法の精神です。この意味で、沖縄県の地域外交基本方針は極めて大きなことです。
沖縄の固有歴史文化が崩壊するなかで、琉球王国の再評価
ところで、 沖縄の固有な歴史文化は、明治の近代化のなかで大きく崩れていったのです。沖縄は、中世時代に、琉球王国として、独自の交易外交による国際的な多様性を尊重する制度や文化を確立して、東シナ海における交易の権威者として、大いに繁栄したのです。
16世紀の後半に、ヨーロッパのポルトガルやスぺインの東アジアの進出、日本の朱印船貿易による大商人による大航海時代への到来がありました。また、朱印船貿易や朝貢貿易に反対する自由な貿易を志向する中国人や日本人の商人と結びついた倭寇の活動がありました。このようななかで、琉球王国の東シナ海における交易の覇者の地位は大きく後退していくのです。
江戸時代初期における江戸幕府の朱印船貿易政策のもとで、薩摩藩は1609年に琉球に侵攻して、琉球王国を従属させ、中継貿易を再編させたのです。このもとで琉球王国は、薩摩藩に従属されますが、大切なことは、新たに中国を支配した清朝の冊封体制と関係を結んで、変形された形で琉球王国の独自文化を維持していくのです。
ところで、明治の近代化のなかで、沖縄は、日本の中央集権体制のなかに組み込まれていくのです。沖縄の文化と精神は、国家神道という一神教精神動員体制に組み込まれていくのです。当初は、琉球王国の支配層を抱き込むため、旧慣の温存政策を実施して、そのうえで県民全体にふりかかる差別的な中央集権体制の編入と市場動員という近代化政策を進めたのです。
これらは、歴史的に沖縄が、海上交易を中心として、他国や様々な東アジアとの多様な文化を尊重して独自の文化をつくってきたものとは大きく異なるのです。
さらに、 旧慣の温存政策の廃止によって、一層国家神道の同化政策を教育を通して徹底させて、中央集権の精神動員を強め、沖縄の独自の文化を上から圧殺していくのです。 それは沖縄を日本のアジア侵略の拠点的位置に編成していく目的のためであったのです。ここでは、沖縄の独自の文化を大切にしてきた民衆の動きとの摩擦もまねいていくのです。
沖縄は、日本のなかで棄民として海外に移民した人びとが多く、移民した国々で、沖縄の出身は、必死の努力で生きてきたのです。沖縄の国際的なネットワークは、強いものがあります。これは沖縄の民衆がもってきた多様な価値観や文化を受け入れてきたなかでつくられてきた海洋民族の交易の民のもっている特殊性からくるものです。この文化は、世界平和の可能性にもつながっていくのです。
日本の戦前は、軍国主義に国民を総動員する体制を作り上げたのです。台湾と朝鮮半島を直接植民地にし、中国においては、傀儡の満州国をつくったのです。そして、過激に一挙に強力な軍事力を使って東アジア全体の侵略を行ったのです。
これらは、東アジア諸国の人々に大きな犠牲を強いて、結果的に大きな反発を招き、日本軍国主義に対する抵抗運動が起きたのです。日本の敗戦後に、再び欧米の旧植民地支配国は、再侵略を行うが、これに対して、旧日本軍の一部兵士は、日本に帰還せずにベトナムやインドネシアで、民衆の独立運動を支援して、再び占領した旧植民地主義者に対して共に戦ったのです。
ベトナムではフランスとのパリ平和協定が結ばれるまで、日本に帰還せずにベトナムの独立の解放戦線の一員として、戦ったのです。
沖縄の人口の4分の1が死亡した地上戦の悲劇、広島・長崎の大量破壊の恐ろしい原爆投下、大都市をはじめ日本全土への大空襲と、日本国民は軍国主義の愚かさ悟ったのです。これらの戦争を二度とくりかさない意味で、しっかりと学んで記憶にとどめることが、現代のように緊張が続く東アジア情勢では、大切なのです。
日本国憲法の平和の精神は、他国を無視せずに、相互尊重、相互協力の平和共存のための、話し合いと文化交流の大切さを強調しているのです。沖縄の悲劇の経験からよく知ることができるのです。
戦後の民主的日本国憲法は、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有すると宣言したのです。そして、日本国家は、いずれの国家も、自国のことのみに専念して、他国を無視してはならないことを国際平和理念として、日本国憲法のもとに、国是にしたのです。
沖縄の歴史は、大きくみれば、海洋国家としての側面を強くもち、交易によって、発展してきたのです。現代は、交易の促進のための平和のための行動が大切な時代です。現代は、民主主義と専制・独裁ということで、対立をあおり、緊張関係の続く国際情勢です。このなかで、常に交易を大切にした平和共存の見方は大切なのです。沖縄から平和の精神を日本国民は学び、それを近隣諸国との関係で、直視していく精神の必要性があるのです。
日本は、古代から和による平和の努力、話し合いの文化、交易を大切にする日常的な暮らしの文化が求めてきたのです。この意味で沖縄の歴史文化にあった様々な国との海上交易は、日本の海洋文化と農耕文化の両側面から大いに再評価する必要があります。
現代は、交易をとおしての様々な文化交流、多様な思想や信仰を包摂して、大国との平和共存の制度的工夫が求められます。このため、多様な価値や文化の統一性を保つことが必要になっているのです。
それぞれの世界における地域は、自然的条件が、大きく異なります。人類は、それぞれの自然に柔軟に創造性をもって適応してきたのです。人類のもっている自然的信仰は、地域的特性をもって形成されてきたのです。
沖縄は、豊かな自然条件のもとで、縄文時代、弥生時代とにわたって海上交易をとしての交流が幅広くあったのです。それは、貝の道といわれるものです。沖縄で取れる貝は貴重な装飾品の加工素材として、交易品に、大きな価値がありました。
また、豊かな温暖な気候のもとに、狩猟採集経済が交易経済と結びついて10世紀頃まで続いたのです。そして、農耕文化が定着していっても、それは継続的に行われ、交易経済と狩猟採集経済と結びついた農耕文化の発展があったのです。それは強く自然信仰文化を残していったのです。
沖縄は、海上交易として様々な文化を受けとめ、沖縄の自然的な島としての特性を生かして、海流をとおしての交易と北部を中心とする照葉樹林の自然的条件で、多様性を包含した独自の文化を作り上げてきたのです。
沖縄は、中世から近世までは、琉球国として交易によって、中国や東南アジア、朝鮮半島と積極的に交流をもって、日本本土との中継貿易の役割を果たしてきたのです。そして、東アジアのさまざまな文化を取り入れて、独自の文化を作り上げてきたことを直視しなければなりません。この独自の沖縄の文化は本土の文化との相互の影響を与えてきたことも見落としてはならないのです。
海洋国家琉球王国の中継貿易
琉球王国は、1429年に北、中、南の三山が統一されることによって成立したのです。そして、南西諸島における大宰府出先機関の喜界島にあった城久(喜界島中央部の高台に位置)が琉球王国によって、1466年に滅ぼされ、琉球王国に奄美大島も含めて統一されていくのです。1474年に宮古島を統一した仲宗根氏が首里王府から首長に任用されて琉球王国の支配は先島諸島にも及んでいくのです。
琉球王国の統治は、地方在地の有力者を国王の名前で首長にして、統治する方法です。琉球王国は、沖縄本島を中心にして、奄美諸島から宮古島諸島、八重山諸島を含めて、海上交易における南シナ海を支配していくのです。
琉球王国は、中国、東南アジア、日本、朝鮮という東アジア地域との交易における中心的な役割を果たしていくのです。中国の支配を打ち立てたていた明帝と冊封体制を1374年に受け入れ、朝貢を頻繁に行ったのです。三山時代における朝貢の差が、中山王による琉球統一の影響を反映したのです。1372年から1415年(南山側の禁止)まで、中山42回、南山24回、北山11回。
琉球王国は、同時に東南アジアとの交易を活発に行い、朝貢品として東南アジアの産物を明王朝に貢いでいるのです。明帝から冊封体制を積極的に受け入れ、自由に商人が行う貿易を認めない明帝の海禁政策を利用して琉球王国の海洋支配権を強くしたのです。沖縄は、日本や朝鮮にとって、明や東南アジアの産物を購入していくための中継基地になっていくのです。
15世紀後半から16世紀のなかの150年間は、古琉球の大航海時代といわれますが、東南アジアでの相手はシャム国でした。琉球船の派遣回数を琉球国の外交文書からみると、シャム58回、マラッカ20回、パタニ11回、ジャワ6回、バレンバン4回、スマトラ3回、スンダ2回、ベトナム1回となっています。多くが、現在のタイとインドネシアに属している地域との交易です。これは、明との朝貢貿易と密接に絡んでいるもので、南方の貴重な品々を貢物としてもっていたことによるものとみられるのです。
琉球王国が繁栄していた時代は、日本の商人たちは、沖縄を介して中国や東南アジアの品々を得ることができたのです。明朝の冊封体制と朝貢貿易に依って、日本の商人たちの海外貿易活動は自由でなかったのです。明は、海禁政策をとって中国商人と周辺国家の商人の自由な交易を取り締まったのです。琉球王国は日本の商人たちの海外貿易活動にとって、大きな位置を占めたのです。
16世紀後半の琉球王国を取り巻く東アジアの変化
16世紀後半になると、琉球王国の朝貢貿易の大きな相手であった明の力も弱まりました。このことは、日本の貿易商人、ポルトガルやスペインの東アジア進出によって、琉球王国の東南アジアとの交易の影響力を失っていくのです。日本の商人は、朱印船貿易ということで、大航海時代を戦国末期から江戸時代初期にかけて活発になっていくのです。
鹿児島神宮や加世田の万之瀨川の河川、坊津で、14世紀後半から15世紀にかけてのタイやベトナムの陶器が発見されています。南九州の島津氏が琉球王朝をとおして、交易をやっていたことが考古学の発掘から明らかになっています。琉球王朝とチャンパ王国における交易国家の友好関係によって、島津氏の交易も可能であったのです。そして、16世紀後半から17世紀初頭にかけて、ベトナムの交易活動は活発になるのです。
南九州では、ベトナム産焼締陶器が、霧島市隼人町の鹿児島神宮の宮内地区、南さつま市金峰町花瀬で、出土報告があります。 ベトナム産鉄絵・青花では、霧島市隼人町の菩提遺跡で、鉄絵陶器、南さつま市坊津町の泊浜では、ベトナム産鉄絵と青花の発掘報告があります。泊浜採集のベトナム産鉄絵は底部破片で、鉄絵の花文が描かれています。
南九州出土の東南アジア産陶磁は、考古学の研究で、森本朝子氏によれば、14世紀中期から15世紀初期、西村昌也・西野範子氏によれば、14世紀後半に位置付けられています。
ベトナムは、14・15世紀に、鉄絵、青花(染付け)などの北部ベトナム陶磁器の生産・輸出が発展期を迎えます。15世紀中後期には、現在のハイズオン省北部のチューダウ、ゴイなどの窯場で生産されたと考えられています。
16世紀後半から17世紀初頭に、ベトナムの対外貿易相手は、明朝の衰退によって、日本との関係が強くなるのです。薩摩・大隅・日向の三州を領有した島津義久は、1581年から多くの琉球に渡航する商船に朱印状を発行しています。その後に、島津藩は、活発に明との貿易を、直接にするのではなく、琉球を中継して活発に行っていきます。
1609年の薩摩の琉球侵攻以前に、琉球国と薩摩との関係は深いものがあったのです。三州を統一し、九州制覇をねらった島津義久とその父親の貴久の時代から琉球渡航の朱印状を出しています。日本の商人による琉球王朝との交易を島津家は管轄をしていたのです。
根占や山川・坊津は、その重要な港であったのです。島津家にとっての三州統一と九州制覇ということで琉球は重要な交易による経済的基盤の一つであったことを示しています。
九州統一を目指した島津義久は、1587年に、秀吉の10万の進軍によって、夢を実現することができなかったのです。1592年、秀吉は、交易のための朱印船という許可証を発行しました。軍事的に東アジアにおける海洋交易の独占をねらったのです。
朱印船外交は、ベトナムの場合は、中部の阮朝と良好な外交関係であったことから実施されました。北部の鄭朝とは、阮朝と対立関係であったため、朱印船制度を利用しなかったのです。 しかし、北部の鄭朝とのトンキン湾での貿易をしていた商人がいました。彼らは、幕府に働きかけましたが、鄭朝との貿易を認めなかったのです。タイとの貿易は、アユタヤ王朝としたのです。朱印船貿易は、東南アジアの各地に日本街をつくっていったのです。
朱印船制度は、秀吉も1592年に導入し、家康もそれを継承していくのでした。朱印船制度によって、日本の東南アジアとの交易が活発になっていくのです。日本の商人によって、北部のトンキン湾の交易は、絹織物、手工芸品、陶磁器などの交易が盛んになったのです。1600年代の30年間は、日本人商人が支配的になり、オランダの海上貿易や中国人の商人が重要な役割をもっていた。
鹿児島の指宿山川町は大航海時代に重要な港であったのです。山川港から朱印船交易をしていた大迫家はその貴重な文書を残しています。いわゆる大迫文書です。 そこでは島津家から派遣の権利を譲渡されたばかりではなく、島原の大航海時代に活躍した有馬晴信から下府されたと思われる朱印状もあります。大迫家は安南国(ベトナム)との緊密な関係をもっていたとされる将令の印の旗を所有していたのです。この絹の旗は安南国に来れば間違いなく歓待されるという証のものです。(山川町史、371頁から374年、平成12年版参照)
南島原もキリシタン大名であった有馬晴信が手厚いキリスト教の布教に積極的に協力しています。南蛮貿易、朱印船貿易を展開した有馬晴信です。彼は、西洋の文化交流も積極的に行いました。これらは、ポルトガルの世界戦略による交易活動とキリスト教の普及が密接に関係したとみられます。
朱印船貿易や東南アジアの日本人町に居住する人々にキリスト教信者が多いこともそのことが物語っています。有馬晴信は、龍造寺家との争いで薩摩と手を組み、1584年に勝利しました。そこには、イエズス会の経済的軍事的支援がありました。彼は、イエズス会との絆を深めていったのです。そして、1599年から1604年にかけて、周囲4キロ、31メートルの断崖に三方、海に囲まれた巨大な城を築くのです。この城は、キリシタン王国をめざし、西洋文化と日本文化の融合をめざした城でした。
有馬晴信は、ベトナムのチャンパに渡航したといわれています。ベトナムは、薩摩との関係、日本各地の東南アジアと交易をしていた商人など、深い交易の関係をもっていたのです。
当時、ベトナムでもイエズス会によってキリスト教の普及がされていく時期でした。キリシタンであった和田利左衛門(備前長崎出身)は、1638年にハノイから紅河を下って50キロのフンイエンにオランダ商館の町の建設をしたのです。彼は、日本人であったが、トンキンの外国人貿易の統括の責任の高官にもなっているのです。
日本でもオランダ商館が交易活動に大きな役割を果たしましたが、それは17世紀初頭でした。オランダ商館を許可した松浦隆信は、1592年から1637年に生きた肥前平戸藩第3代の当主でした。父によってキリスト教の洗礼を受けました。
中国・明朝の海禁政策によって、中国商人は、ベトナムを積極的に利用したのでした。そして、ベトナムから日本の長崎平戸という貿易関係ができていくのでした。中国は伝統的に朝貢貿易という支配・従属関係をとおしての交易で、対等な取引をしたのではなかったのです。
この時期に中国商人は、ベトナムをとおしての交易活動により大きく変化していくのでした。大挙して、華僑が東南アジアに移動していく時期です。中国商人の活動によって、ベトナムの現在のハノイのトンキン(東京)から長崎のルートができたのです。
倭寇の統領ともいわれた五峰王直は、平戸を拠点に、そこでは2千名の配下をもち、鹿児島の根占にも中継地をもっていました。彼は、東シナ海の貿易路のネットワークをつくり、航海圏を支配していたといわれます。王直の海洋ネットワークを無視して、東シナ海をとおしての貿易は不可能であったといわれるのです。
中国明朝は、朝貢貿易体制のなかで中国民間の商人に自由な交易を認めなかったのです。中国沿岸部の自由な交易を求める民間商人は、倭冦ということで、明朝と関係なく、自由な交易活動を展開するのです。倭冦は、冊封体制の朝貢貿易に入らない中国沿岸部の民間商人と日本人、朝鮮人の共同の側面をもっていたのです。
王直は、東シナ海を支配する海洋王国をつくり、中国の明皇帝との戦いに挑んでいたのです。1543年に鉄砲の日本伝来になったポルトガル人が漂流して、種子島に着いたとき、種子島の城主に筆談で通訳したのが王直といわれています。
1549年に鹿児島に来てキリスト教を伝えたフランシスコザビエルも東シナ海洋で交易活動で活躍していたアンジローの案内で上陸しているのです。平戸の王直が活躍した浦の町にある老ソテツは、オランダ、イギリスとの貿易が盛んな頃に川崎屋の全盛期のときに植えられたものであるとされています。この周辺には、多くの日本の貿易商が軒を構えていたということです。
東シナ海の海賊といわれた鄭成功(鄭芝龍てい・しりゅう)は平戸で日本人女性との間で生まれた人物です。中国の南の海岸を中心に商業と軍事力をもっていました。かれは、海賊を率いただけでなく、オランダ東インド会社が関与したのです。
倭寇の統領ともいわれた五峰王直は、平戸を拠点に、そこでは2千名の配下をもち、鹿児島の根占にも中継地をもっていました。彼は、東シナ海の貿易路のネットワークをつくり、航海圏を支配していたといわれます。王直の海洋ネットワークを無視して、東シナ海をとおしての貿易は不可能であったといわれるのです。
王直は、東シナ海を支配する海洋王国をつくり、中国の明皇帝との戦いに挑んでいたのです。1543年に鉄砲の日本伝来になったポルトガル人が漂流して、種子島に着いたとき、種子島の城主に筆談で通訳したのが王直といわれています。
1549年に鹿児島に来てキリスト教を伝えたフランシスコザビエルも東シナ海洋で交易活動で活躍していたアンジローの案内で上陸しているのです。平戸の王直が活躍した浦の川崎屋の全盛期は、多くの日本の貿易商が軒を構えていたのです。
沖縄の近世時代と薩摩の従属的な中継貿易
日本の朱印船貿易にみられるように大航海時代によって、沖縄の日本の位置も大きく変わった。明王朝の衰退崩壊が、それに拍車をかけたのです。新たにポルトガルやスペインなどの西洋の商人が、植民地主義政策と結びついて東アジアに進出してくるのです。それ以前の琉球王国と薩摩藩との交易関係が、1609年に薩摩藩が琉球へ3千名の兵士をのせた軍船団による侵攻で、その関係は、大きく変わったのです。
1611年に薩摩藩は、琉球統治の方針として、掟15条を発令したのです。琉球の人・物の移動の制限として、薩摩藩の指示を仰ぐ体制、年貢の確約と知行・諸税の管理、維持維持に関する法令などを設けたのです。中国との貿易だけではなく、日本の他藩に往来も制限したのです。年貢のために、琉球全土への検知を行っての知行を定めたのです。さらに、これらを徹底させていくために、琉球に薩摩藩は、在番奉行所を配置したのです。
江戸幕府の朱印船貿易体制と南方の交易の覇権を得ようとする薩摩の野望という新たな段階であったのです。薩摩の琉球侵攻は幕府の明朝貿易を軍事的琉球進攻で、琉球の権益をコントロールしていこうする意図が、明らかであった。すでに、その同意を幕府からとりつけていたことによる琉球への軍事的進攻とみられるのです。
薩摩の琉球侵攻の翌年の1610年に、薩摩藩主の家久と琉球王朝の尚家当主が江戸幕府に上がっています。琉球王朝は、中継貿易によって発展してきたのです。幕府は薩摩に琉球の検地と交易管理権を認めたのです。薩摩藩は、琉球を中継地として、中国や東南アジアに、対する日本での独占的交易が可能になったのです。つまり、薩摩の琉球支配権は、中国との朝貢貿易、東南アジアとの交易に琉球王朝を利用するためで、琉球出兵の目的が明確であったのです。
薩摩藩の琉球侵攻では、琉球王朝や琉球の民の生活が潤うことを損なわないように、軍律を厳しく定め、不要な軍事力行使を慎むことの発令をしています。薩摩の琉球管轄権は田畑の検地をしていくが、統治のための15条の掟は、最重要施策である琉球王国をとおしての中継貿易の管理であったのです。朱印船貿易の時代は、薩摩藩としての独自性をもっての東南アジアとの交易の拡大であったが、幕府の鎖国体制によって、琉球王国の中継貿易は大きな役割を果たすようになるのです。
中国との冊封体制のなかに組み入れられていた琉球王国は、中国貿易にとっては、大きな位置をもっていたのです。中国商人の集団的な居住地が那覇の港の市街地に居住地があったほどです。薩摩藩は、琉球王国が行った中国からの貿易による輸入商品を手にいれることができたのです。貴重な中国からの輸入品が、薩摩藩をとおして日本の全国に流通したのです。薩摩藩と琉球王国の交易は、幕府の鎖国体制のなかでも自由であったのです。本来的に禁止されている琉球王国からの輸入品は、薩摩藩以外に流通したのです。
島津義久の甥で島津藩の初代の藩主になった家久は、1616年に北部ベトナムの鄭王朝に交易のための文書を送っているのがみつかっています。鄭王朝との文書のやりとりは文面からそれ以前におこなわれていたとみられます。商船一隻を派遣して、贈り物に渡海することを書いています。
島津家久の手紙の内容は1616年に安南国の華郡公に商船の派遣と衣類、長剣、弓、硫黄などの贈り物と一緒に渡航するということです。それ以前に、ベトナム華郡公からの手紙の返答になります。
この時期に、徳川幕府は朱印船として中部のホンアイに入港しました。1635年に朱印船制度廃止によって、東南アジアの日本町はなくなります。ベトナムの日本人居住地には、北部のハノイ近くの紅河の港であったフィンエン(オランダや日本人などの外国人居住区)と中部のホンアイ(日本町)にあったのです。
日本ではベトナム北部のトンキン絹の人気が上流層にありましたので、1635年以降は、平戸のオランダ商館から長崎に移ります。ベトナムでは、北部にオランダ東インド会社が移り、日本とベトナムの貿易を展開していくのです。ここで、実際的な琉球の中継的な役割はどうなっていったのかは興味深い問題です。薩摩がトンキン絹、香木、陶器などのベトナム産品を実際に、琉球をとおして行われました。
ところで、朱印船貿易と共に、それとは別に倭寇の動きも無視できないのです。没落過程にあった明朝は、倭寇の活動を抑止できなかったのです。琉球王国との朝貢貿易も衰退していきます。倭寇との太い関係をもっていた鄭成功の活動を統治できない福建当局は、1628年に彼を提督に任命しました。鄭成功は、その地位を利用して、福建に独占的支配の基盤を確立したのです。鄭成功はアモイなど福建の港から、生糸を中心とする中国産品を日本へ輸出して、日本銀を輸入しました。日本銀は中国・台湾産品の支払いに用いられています。日本製の刀や甲冑などの武具を華人商人から東南アジア各地へもたらした。
東シナ海の海賊といわれた鄭成功(鄭芝龍てい・しりゅう)は平戸で日本人女性との間で生まれた人物です。中国の南の海岸を中心に商業と軍事力をもっていました。かれは、海賊を率いただけでなく、オランダ東インド会社が関与したのです。
鄭成功の活動を統治できない福建当局は、1628年に彼を提督に任命しました。鄭成功は、その地位を利用して、福建に独占的支配の基盤を確立したのです。鄭成功はアモイなど福建の港から、生糸を中心とする中国産品を日本へ輸出して、日本銀を輸入しました。日本銀は中国・台湾産品の支払いに用いられています。日本製の刀や甲冑などの武具を華人商人から東南アジア各地へもたらした。
明朝から中国の王朝となった清は、明朝政権で沿岸地域を支配していた鄭成功を滅ぼそうとした。清朝政権は、海外貿易に通じた鄭氏政権が日本をはじめとする海外勢力と連携することを危惧したのです。
清王朝は、1644年に明朝を崩壊させました。清朝は、1661年に沿海住民を強制移住させ、沿岸を無人地帯にしました。鄭成功は新たな拠点を求めて台湾に侵攻したのです。台湾からオランダを駆逐し、独立を果たしました。台湾では、行政を整備するために府県をおいたり、法律をつくり、開墾して農地を増やしたのです。鄭氏政権は台湾を拠点として長崎と東南アジアの間で貿易を続けましたが、銀の供給源が絶たれ、一時は和睦の道を探すが、清朝との戦いに敗れるのでした。
鎖国令が出たことによって、一層に、薩摩藩は、琉球王朝をとおしての中継交易を独占していく体制を作り上げていったのです。薩摩藩の従属的な関係と中国の清王朝と冊封体制をとっていた琉球王朝であった。清王朝との朝貢貿易は、赤字をかかえていましたが、薩摩藩との交易収入、黒糖やウコン等の産業振興によって、財政を支えることができたのです。そして、薩摩藩と清王朝との二重的な従属的関係をもっていた中継貿易であったが、沖縄の行政的統治権や徴税権は、琉球王国として独自性をもって沖縄の人々を支配していたのです。このことが幕藩体制のなかでの異国としての位置をもっていたのです。
沖縄の聖地御嶽(うたぎ)
琉球王国の聖地・斎場(せーふぁ)は、御嶽(うたぎ)です。沖縄の北部から南の八重山諸島まで、村に御嶽(うたぎ)があるのです。城・グスクの遺跡にも御嶽(うたぎ)はあるのです。御嶽(うたぎ)は天に対する遥拝所であり、楽土を考えることが第2次的で、香炉を通して郷家の遥拝するものと考えると、折口信夫「琉球の宗教」でのべています。そして、琉球の神々を天神と海神に分け、太陽の神の他に自然崇拝そのまままの形で残していると。また、琉球神道では、神がこの地に来るのは、海からと大空からとみていると折口信夫は書いているのです。
外間守善は、「おもろそうし・岩波」で「海の彼方の楽土」観として、琉球王国の理念は「常に地上世界に対応して観念化され構造化された天上世界」地上の万物は、すべて天上の世界(オボツ)の投影であると。国王が国内を平安に支配し統治するためのセジ(霊力)も天上のオボツから降ろされたものとするのです。祖神アマミキヨは、天上世界の主神の太陽神の従神になるのです。王権と太陽神が結びつき、農耕社会が形成された人びとの生活を守る守護神に太陽の神がなるというのです。太陽の神は自然神から人格神に変身していくのです。王権の誕生と成長にともなって王の祖神となって、王権の神聖を保証するというのです。
さらに、長老と太陽崇拝が重なっていくというのです。長老は、生活の知恵を豊かにもっていることから、村人の社会的信頼と尊敬を集めている存在であり、自然の恵みの願望が太陽信仰へとつながっていくことになるのです。沖縄では長老を根人(ニーツテェ)と呼んで、国の根としてたたえているのです。世を安全に治める長老への尊敬の意識と太陽の崇拝を恵み深い自然への崇拝と結びついているのです。このように外間守善は、天上の太陽信仰と王と長老の尊敬意識、自然からの恵みの感謝を結びつけているのです。
ここで、長老が尊敬されるのが、長い人生の経験から多くの知恵をもっていることで、自分の人生を振り返って、今に多くの村人に、役にたつことはどんなことであるのか、村が末永く継承して発展しくための貢献を考えるからです。そこには、自己の権力維持とか、自己の家族や一族の自己利益ではないからです。
琉球王国の精神的に、御嶽(うたぎ)は大きな役割を果たしているのです。御嶽(うたぎ)は、沖縄の村人の祈りの場でもあったのです。その祈りを司ったのがノロやユタです。日本の各地の村々にある村人の神社と、同じような機能をもっていたのです。日本の神社には、様々な役割の神がいます。つまり、八百の神であるのです。
ノロは、琉球王府に任命されたのです。ノロ信仰は、琉球王国の地域支配に、地域統合精神形成として、大きな役割を果たしたのです。ノロは、伝統的にあった集落のユタとは区別されるものです。ユタは村落共同体の協働のための村のなかで暮らしを支えるための精神的なまとまりです。
つまり、一人ではいきていくことが出来ない共同社会の存在のためです。ノロによる琉球王国が地域支配できたのもユタがもっていた機能を継承しているからです。琉球王国の尚真時代にアニミズム文化を地域支配の手段にしたものです。ノロは琉球王国の神々と交流するために、派遣されたものです。琉球王国の強固な精神的支配力としてのノロですので、琉球王府から任命されて禄をもらっていたのです。
沖縄本島南部に、琉球王朝の 斎場がありますが、その参道の途中からみる久高島は、神の島とよばれます。琉球を開いたアマミキヨが天から降りてきたところといわれ、島は五穀発祥の地ともいわれます。琉球王国の太陽の昇る東の空からのニライカナイの信仰という来訪神が強くみられます。御嶽という守護神と一体となった琉球王国の信仰です。
「日本人の魂の原郷沖縄久高島・集英社」のなかで、比嘉康雄は、女は神人、男は海人と島でみられていると書いているのです。ここでは、太陽に出ずる方向は、聖なるところ、神々の空間であって太陽が、没する方向は俗なるところで、太陽の循環のなかで神々を考えたというのです。太陽と並ぶ最高神に、月の神がいます。久高島で、月神は神女たちの象徴とされていると言われています。
海の神は、男たちが未知の海に船で漕ぎ出るようになったとき、大海をコントロールする神であったというのです。 日常的暮らしのなかで、火は自然の神ではなく、人間が作り出したものです。火は生活の中心で火を囲んで暮らすということで、火を守り、カマドで食物を炊き、家族を守ってきのは女性です。火の神は、家の興亡になるのです。
水の神は、水原の井泉を聖地として久高島では大切にされています。井泉の司祭者は、それぞれの地域で決まっているのです。水の神を祀る神職者として決められているのです。 トイレの神様は、排水の流れのように、スムーズにさせて健康にさせてくださいと尊い場所なのです。
屋敷神は、屋敷のなかの御恩と呼ばれるものです。久高島の土地は、共有です。空屋敷が出来ても容易に、家をつくることができるのです。新しい屋敷に、入れてもらうことで感謝をこめて祠をつくり崇めているのです。
琉球王国の迎賓館では、識名園です。ここには、庭園に池を囲んで御澱と六角堂が芸術的に配置されて、庭園内の六角堂にいく途中に石橋の趣があります。御殿の玄関にある柱を八分に曲げているということは、人生を8分までということで、ほどほどにという意味だということです。琉球王国の思想の一端ということです。首里城に隣接した円覚寺跡には、仏教を大切にした琉球王国の姿勢をみることができます。
王墓のある石室の彫刻には、先祖崇拝、来訪神と守護神という琉球神道と、仏教とが結びついていることがわかります。様々な信仰を取り入れた先祖崇拝文化がみられるのです。玉陵(タマ ウドゥン)は1501年に尚真の遺骨を改装するためにつくられたものです。ここでは、洗骨儀式が行われていたことがわかります。中室という遺骨をおく場所と洗骨後の遺骨をおく場所とにわかれています。祖先崇拝の強い文化をもった琉球王国の王と王妃の墓でした。
柳田国男は、「海上の道」で東海岸と西海岸の文化発達の違いがあると書いています。首里・那覇地方は、一時盛んに外国人を受け入れて10ケ国の人々がいたと指摘しています。東海岸は、日本本土との交易の関係が強く、大和の文化の影響を受けていますが、西海岸は、中国や東南アジアとの交易が強くをもっていた地域であるとみられます。明王朝との朝貢貿易を盛んに行った西海岸の地域の中山王が琉球王国を統一して、奄美から南の八重山諸島までも含めて支配権を確立して、広大な海上交易国家として繁栄していくのです。
琉球王国では、中国の沿岸部の海上の女神である媽祖信仰の影響が強くあります。航海には必ず女神がいるのです。船の進水式や造船にも女神がいるのです。また、弁財天信仰も強くあるのです。さらに、日本神話の「いちきくまひめみこと」海神(わたつみ)信仰もあります。この神は海洋を支配し、魚類を統治する神です。日本文化と中国沿岸部の海洋信仰が沖縄には強くあるのです。さらに、琉球王府には、中国の龍神信仰が強くあります。この龍神は、水神の信仰の他に海神信仰の意味も含んでいたのです。
沖縄では、三国時代の城・グスク文化があったのです。統一した琉球王国の成立において、沖縄のそれぞれの地域に独自性をもった世界があったのです。このそれぞれの地域の王国は、明王朝と冊封体制を結んでいたのです。その結びつきの強さ、朝貢貿易の多さが、その後の王国の強さをつくっていく要因になったのです。つまり、交易により財政力の強弱が王国の力に大きな影響を与えていくのです。
琉球王国形成の起点は、14世紀に在地首長の強大な按司たちの三つの勢力圏の出現であると、その変革段階であるグスク時代の活力であると高倉倉吉は「琉球王国・岩波新書」でのべています。そして、中国で成立した明朝との冊封体制の関係をもって展開して、琉球王国の統一ということで、中国外交が一元され、アジアのなかの海洋国家の確立があったとするのです。
沖縄の城(ぐすく)は村を守る神として拝む場所としての信仰的な意味をもっているのが多いのです。グスクは御嶽(うたぎ)と結びついているのです。三国時代の北山王が拠点とした城です。1368年に明が成立して、海禁政策を実行することによって、沖縄の三国は、正規の朝貢貿易の体制を確立しようとしのぎをけずって争います。沖縄本島では、11世紀から12世紀にかけて三国による小国が生まれていきました。それ以前の集落の首長の按司(あじ)を束ね、石垣で囲む城をつくっていくのでした。グスクが大型になっていくのでした。
集落をまもっていく拝所的性格と同時に、城壁としての役割を強くもっていくのでした。世界遺産に指定されたグスクは、大型グスクです。中山王は1416年の山北の征服、1429年の山南の征服によって統一し琉球王国が成立します。その後に、各地に構えていた按司は、1526年に首里城に集められました。明治10年まで琉球王国は450年間続いたのです。薩摩に侵攻される以前の200年間の古琉球時代と薩摩に侵攻されてから江戸時代から明治10年の琉球処分までの250年の近世琉球王国時代です。
今帰仁城は、城監守を設置して城を特別に維持し、1665年まで続きます。3千の薩摩軍が侵攻した1609年には城は武士団がほとんど逃げ、無人であったといわれます。1665年に城がなくなったが、地域の人々は拝所として守り続けたのです。
今帰仁城(なきじんじょう)の北山王は、奄美の与論島や沖永良部島を統括していました。北山王は按司を連合的に統括したのであって、与論や沖永良部をも支配していましたが、独自に地域の首長としての役割をもたせての支配です。与論や沖永良部にグスクが残るものは沖縄の北山王との関係が強くあったのです。北山王は、海の交通をとおしてのそれぞれの按司を統括したとみられます。グスクの守りは、陸上以上に、海からの守りに向けられ、海岸線からの絶壁の小高い山につくられているのです。
中城の城は、14世紀後半につくられました。1440年に読谷村の座喜味城から移ってきた護佐丸によって、城の形ができています。すでに、この時期に鉄砲の穴が城壁につくられていたのです。明からの高度な技術をいち早く学んでいたとみられます。琉球国は統一したが、しかし、統一した初期では首里王府は、完全に沖縄をまとめていたわけではなかった。勝連城との対立が先鋭化したのです。1458年に琉球国王の護佐丸を倒し、王府打倒をはかったのです。中城には、鉄砲を撃つ穴がここにはあるのです。二丸の曲にあるガマは、天災や戦いのときに身を潜めるところですが、逃げ道にもなっています。琉球国王は、重臣の護佐丸を中城に住まわせ、勝連城の攻略をします。ところが勝連城主は、御佐丸を倒し、王府打倒に動きますが、同じ年に琉球王府によって、1458年に敗北します。そのときに、このガマは逃げ道として、役に立つといわれています。
むすびにかえて
現代は、国際緊張関係が厳しい状況です。価値観、体制、文化、宗教、社会階層と異なることで対立と分断が起きています。ウクライナ戦争、カザでのジャノサイドなど国際関係での平和への構築が緊急に求められています。多様性を認め、包容力による話し合いの文化が大切になっている時代です。軍事的緊張のなかで、沖縄は、日本のなかでも極めて厳しい状況にたたされて、平和を求める県民の声は、強いものがあります。
また、現代は、地球規模の温暖化が深刻であり、環境問題が鋭く問われている時代です。沖縄のやんばる地方の亜熱帯海洋性気候にある照葉樹林文化には自然と人々の豊かな精神があります。そこには、海と山の暮らしの文化の豊かな世界があります。生物多様性の自然条件も極めて素晴らしいものをもっている地方です。
やんばるの人々は、漁船でも交易船でもサバニといわれる琉球松などの大木をくりぬく船に、また、地域に自生している自然の木材をはりつけたりして、木造船を帆船にしてきたのです。サバニのおおきさは、全長6メートル幅1メートルの小型船で大人4人から5人乗船可能、全長10メートル幅2メートルの大型船、大人30人乗船可能があります。接ぎ合わせた部分は、カンナを使って削りだし、形を作り出していました。
そして、継ぎ合わせた部分には、木製の接合や竹くぎを使用しています。これらは、やんばる地方の沖縄の海人の知恵であるのです。現代でも伝統的に行事のひとつとしての海神祭りに、この帆船が利用されています。祭りでは、帆船に乗り込んだ漕ぎ手たちが勝利を目指して海上を疾走するのです。この帆船は、漁業や交易を支えてきたのです。帆船は、やんばるの地方の自然からの贈り物です。柳田国男は、海南小記・沖縄編で、近い頃までサバニは、皆国頭の山の松樹をけずって造っていた。山原の磯山陰で作り出す船が西南数百里の外を走っているシナのジャンクとよく似てきたのも偶然ではなかったとのべているのです。
地方の文化を見直すということで、首都の東京の高層ビル化されたことで、日常の生活や仕事の必要物資やエネルギは、外国依存または、日本全国からの依存ということで、暮らしの地域で自給していく発想が全くありません。この現実には、循環社会の未来がありません。現代に江戸文化を見直すことも大切なことです。
例えば、江戸の100万都市での大量のごみや糞尿は、周辺の農村と結びついて再生し、循環していたのです。そして、周辺農村と結びついた日常生活の食糧は、調達していたのです。このことから、江戸周辺の日常生活物資の商品流通が盛んに行われたのです。全国的にも循環した地域の文化は存在していたのです。現代には、地域循環社会をより広い地域での生活圏として循環していく課題があるのです。沖縄は、現代での地域資源を積極的に見直しての起業おこしで地域再生活動をしているのです。沖縄は、未来の日本社会の平和と循環社会の創造的モデルとして、積極的に位置づけて、日本全国の人々が学ぶことがたくさんあるのです。