社会教育評論

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ベトナムの仁愛思想のグエン・チャイと明の侵略との戦い

ベトナムの仁愛思想のグエン・チャイと明の侵略との戦い

 ベトナムの歴史的な教育者として、今から600年前の中国・明との戦いのときのグエン・チャイの仁愛思想が今日は話題になった。ベトナムでの学校の教科書に出てくる思想家でもある。日本でも江戸時代に仁愛思想の儒学者がいたが、ベトナムと日本の双方から儒学の仁愛思想が話題になったのである。

 

  グエン・チャイ・Nguyễn Trãiは、後黎朝大越の建国の功臣である。政治家でもあったが、儒学者・文学者などの文化人でもあった。(1380年から1442年)。

 グエン・チャイは1380年に生まれである。彼の思想は、中国・明軍から国の独立を取り戻した15世紀の闘争の精神となった。その後、彼は、国の再建と発展に大きく貢献した。グエン・チャイの生誕600周年にあたる1980年に、ユネスコはグエン・チャイを世界文化人として認定した。世界的に認知された思想家でもある。

 北部ハイズオン省チリン市に位置するコンソン・キエプバック特別国家遺跡群にあるグエン・チャイを祀る神社で、グエン・チャイの命日580周年にユネスコ認定式典が行われた。

 

 ベトナム陳朝の時代に、民族文字としてのチュノムが作られたほか、史書「大越史記の編纂も行われた。14世紀の陳朝末期は、官僚の腐敗がひどかった。その刷新を目標に掲げる胡朝にグエン・チャイは、仕官した。しかし、ベトナムは明の占領地(1407~1427)になる。国の腐敗は、中国・明の侵略を許したのである。かれは、明に対して、軍事と外交を使い分けて、明からの支配を断ち切ろうと努力した。このためには、民衆に対して、明軍に対するレー・ロイ軍の抵抗闘争をわかりやすく呼びかけたのである。また、ベトナムの様々な勢力の結集に力を尽くした。

 ベトナムは、明との20年間の独立のための闘争がはじまり、民族の力を強くしていった。グエン・チャイをはじめベトナムの人々は、土地条件を活かしての巧みな戦術をつかって侵略軍を追い出したのである。

 明からの独立の宣言に、グエン・チャイの名文がある。『平呉大誥(ビン・ゴ・ダイ・カオ)』(明からの解放の勅語)。この中に、グエン・チャイは、敵兵士も人間であるということで、仁の精神を発揮して、明の捕虜をあつかった。そこには、人類的な仁愛思想がにじみだている。レー・ロイは、敗退して撤退する明の兵士に対して、船や馬、食糧を用意をした。そして、安全に故国に帰らせたということである。これには、徹底抗戦を主張する将軍たちは抵抗した。レー・ロイはグエン・チャイの意見に従った。

 「復讐したいのは世の常であるが、人殺しはよくない」と、これを認めさせた。グエン・チャイはこれによって、ベトナム人の民族的気概がいかに堂々たるものであったかを人々に明らかにしたのである。

 

 大越国は、文明の国であり、山川領域は、深い。ベトナムと中国の風俗は、異なる。ベトナムの各王朝は、初めて造られた。漢唐宋元と中国の各王朝、それぞれに皇帝がいた。強弱は時によりて、不同でありといえども、豪傑は世に末だかつて乏しからずということである。

 

 グエン・チャイは、後レー(黎)朝成立後、内務大臣を務める。彼はあくまでも官僚の腐敗を嫌った。そのことが他の官僚からの妬みをかうことになり、追放されてしまう。グエン・チャイを疎ましく思っていた官僚たちから王謀殺の嫌疑をかけられる。結局、英雄グエン・チャイは、一族300人ともども斬首される。非業の最期をとげるのでした。国民的詩人としても名高く、『抑斎詩集』などの詩集を残している。また独立戦争の詳細を筆記した『藍山実録』『平呉大誥』なども著した。

 グエン・チャイは、学問をするに、実践を重視して、生活知識を大切にした。人々が学問をできるように各地に学問所をつくったのである。それ以前の儒教の学校は、完璧な人間をめざして、過去の皇帝の理想的性格、才能、徳性を学び、それに従って生きるということであったが、もっともすぐれた道徳観は、人々への慈愛、友愛、誠実さであるとした。

 グエン・ダン・テイエン編集主幹「ベトナム教育史」教育出版でのグエン・チャイの記述は、ベトナム儒教として仁義を基本に、中国の儒教道徳体系と異なっているとしている。人間の徳性には、仁愛こそ最も重要な心とした。そして、誰もが達成するように努力することしている。人を愛する心、愛他精神こそ大越国の道徳目標とするのである。

 「賢明で善良なる道徳は、あらゆる方面を覆う。人々は自然に譲り合うことを願う」。「骨肉の同朋は堅箇な義で結ばれる。北の枝、南の枝は一つの根よりなる。世の中で万事互いに忍耐することは美しい。剛と柔はともに二つの側面であることを知る」。

 皇太子や官吏には仁政についてのべる。「人民大衆を愛し、寛容でなければならない。仁義は、度をこした不義による羞恥に耐え忍ぶことではない。不義を除去するために断固として戦うことである。悪性を根絶することが仁義である。官は、罰を与える前に、暴の除去に関心を払うべし」。

 軍事と政治における策略書「功心」で、人心を打つということは、悪人や敵対者に、人としての部分を目覚めさえることであり、戦時において流血をさけるためには、長い時間をかけてでも各民族、各国家として好和を考慮させることである。これは、理想とする仁義のための戦い、孝養を尽くした彼の生涯における仁愛の表現である。

 グエン・チャイは、官吏階級に対して、子どもたちの模範として生きることを厳しく要求した。年長者、父母、特に大小を問わず統括権を有する官吏は、政治の制度と理想の化身であるが故に、少年の指導教書、伝授する教師とならなければならない。大人の腐敗による別の世界で生きていることは、子どものしんらい失い、社会における国家機構の信用を失墜させる悲劇をつくる。

 官僚には、安楽な境遇にあっては、以前の苦難を想わなければならない。嬉しい公事には先祖の蓄積した功績を想うことでなければならない。後のことを勘案して、常日頃から慎重でなければならない。小さな仕事をもとに大きな仕事を為さなければならない。天の心に従って、初めて人の心を得なければならない」。

 人の気質には天が定めたもので、変えることができないというのが中国からの儒教であったが、グエン・チャイは、人の性格と才能は、教育によって変えられるという考えであった。教育を受けることによって、あらゆる人間の面は発達して、人はあらゆる任務を成し遂げることができるとした。人間の才能は、教育と努力によって、発達していくというのが天の心である。人の心を得るということで、普遍的な原理や公の原理を大切にして、人間としての心を得ることを強調して、まずは、小さなことからこと、常日頃のことから苦難のときや先祖の蓄積を想うことを大切にと指摘するのである。

「およそ国を守り、軍をもち、自らを守り、国を治める方法は、熱心に努力することによって行われるべきである。喜びや楽しみを好むべきではない。友情を守り、親族を尊び、仲良くする。人民大衆を愛し、寛容の精神で仕事を行うべきである、私恩によるでたらめな賞を止め、私怨によるいい加減な処罰をすべきではない」。 

 私憤や私心からではなく、国を守り、治めるという公の精神のことから、熱心に努力することで、友情を守り、親族を尊び、仲良くすることの重要性を大切にせよということである。

 すぐれた官吏に「賢人を選べば、必ず旺盛な政治が得られる。推挙の要は俊秀を得ることである。賢人を選ぶのは、どれかを除くことではない。才人を用いることは自らを評価することである。人を選ぶ際には、互いに軽蔑し、封じ込めるものはつみとることである」。

 賢人を選ぶことは仁政の官吏にとって不可欠なのである。この推挙することは為政者自身の見識でもある。つまり、自らを評価させることになるのである。

グエン・チャイの仁愛の精神、仁政の見方は、現代でも通用する人類普遍的な為政者の姿勢でもある。