社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

貝原益軒と習俗からの学び

    貝原益軒と習俗からの学び

 はじめに

 

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 貝原益軒が少年時代を過ごしたのは、筑前飯塚市八木山の集落です。現在は、その地に貝原益軒学習の碑があります。飯塚市から福岡市への国道201号の山を登っていく道路沿いに、八木山小学校があります。その向かいの道を入ったところに学習碑があります。ここは、のどかな田園風景です。益軒は、少年時代の感性強いときに、この自然の山に囲まれた田園風景で育ったのです。

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 貝原益軒の父親は武士でしたが、幼いときに、父の転職で各地に転居しました。民間で生活した経験もありました。父は益軒13歳のとき、知行を失い、医業を営むようになります。益軒は少年期のときから、父親によって、儒学を学びました。利発であった益軒は、18歳で忠之の近侍として任官されますが、諫言することで、20歳のときに忠之の怒りにふれ、失職します。7年間の浪人生活をするのでした。

 しかし、黒田藩の重臣より、益軒の学問的能力が27歳のときに認められ、藩の費用で京都などに留学できるようになるのです。7年間京都などで学び、34歳のときに福岡に戻り、150石の知行をもらいました。

 福岡では、若い藩士のために儒学の大学の講義をするのでした。益軒は、黒田藩の儒学者として、若い藩士の教育者として、また、儒学者として藩の相談役を勤めます。さらに、黒田家の歴史をまとめる仕事をします。そして、くまなく調査した筑前国風土記をあらわすのでした。
 貝原益軒(1630年~1714年)は81歳の晩年に「和俗童子訓」で、民衆の中に根づいていた習俗の子育てを儒学的な孝の精神によって整理しました。83歳のときには、自然の力、民衆の暮らしの健康術を学んだものを養生訓として書いています。

 益軒の暮らした同時代では、「仁愛、恕(思いやり)」と日本的ヒューマニズムを説いた伊藤仁斎がいます。この時代は、子どもの教育は僧によって行われていた時代から次第に民間の学問をする人々に変わっていくのです。
 貝原益軒の学問は、民間の人々の生活習慣を大切にして、孝の道徳が大きな柱になるのです。それは、天地すなわち自然の心は仏教によって定着していた恩の観念に通じるものです。仁の心は、恩に応えるということで、万物に対してあわれみ、愛をもち、報恩の精神を形成するというのです。
 習俗としての親子関係は報恩の精神からです。自然のなかにある法則性が人間の習俗を支配するとみるのです。孝によって、秩序を考え、忠義と孝は次元が異なると、貝原益軒は考えたのです。

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貝原益軒の子育て・教育論


 貝原益軒の子育て、教育論では、過保護を戒め、とくに富貴の家の子どもは、特別に注意が必要としています。彼は、儒学的な忠義の精神ではなく、民衆の暮らしのなかにある孝行から儒学を考えたのです。ここに貝原益軒儒学思想の特徴があります。
 小さいときから早く善い人に近づけ、良い道を教えるべきというのが益軒の子育て論です。人はみな天地の徳を生まれつきもっていますが、教えがなくては、人の道を知ることができないと益軒は考えるのです。
 益軒は、善い人を選んで教育にあたるべきとのべます。子どもが悪くなるのは、そばについている人が教えの道を知らないからというのです。学問をするのは、善を好み、善を行うためという志が重要だと益軒は強調します。

 子どもを育てるのは、人としてのまもるべき義の教えをするのがよいというのです。子どもは厳しく教え、かわいがりすぎると、父母を尊敬する教えが行われず、規律を守らず、したがって父母をあなどって孝の道がたたなくなるというのです。

 貝原益軒にとって、子どもを愛して、大事にするには、その子に苦労させる必要があるというのです。困難に耐えられる子どもが大切というのです。その家の位よりも貧しく、何でも足りないことに遭遇して、もてなしを薄くして、気ままにさせないほうがよいというのです。
 さらに、人間として最も大切なことで、教育の本質でもある善の志を身につけていくことで、うそをいわぬ、偽りをいわないことを教えの本道にするのです。約束を違えては、偽りとなり、信用を失えば人の道ではないと。子育てにとって大切なことは、子どもの時から心をおだやかに、人を愛し、なさけをもつようにし、人を苦しめたり、あなどったりせず、つねに善を愛し、仁を行うことを志としなければならないと益軒は強調するのです。
 益軒の生きていた時代に、子どもを早くから教育するといじけるからよくないという人がいました。つまり、知恵は自然とつくということで、ただ思うようにさせておくがよいという考えがありましたが、これは愚かな人のいうことですと益軒は、子どもの自然成長性を否定するのです。
 子どもの好きなことは、まずその好むところのわざをえらばないといけないというのです。人間らしく生きるうえで好むことが最も大事というのです。しかし、益軒は、人間的な善によって、子どもの好むことに気をつけて、よく選び、好みにまかせてはいけないというのです。子どもの好みにまかせては善悪を選ばないことになるというのです。ここに、教育の大切さがあるというのです。
 人には三愚あると益軒はいうのです。すぐれた才能があっても傲慢で自分の才をほこり、人をあなどるという人がいます。親が子どもをほめるのは、子どもが悪くなるというのです。諫言をきいたら喜んでそれを受け入れなければならぬ習慣を身につける必要があるというのです。諫言されたら、けっして怒ったり、そむいたりしてはいけませんし、諫言をきいて喜んで受けたならば、その人は善人になっていくというのです。諫言を積極的に受け入れて、自分のものにしていくというのが、益軒の見方です。
 四民(士農工商)とも、その子の幼児から礼儀作法、聖経を読ませ、仁義の道理、書き方、算数を習わせることが必要ということで、すべての人々の子弟に学ぶことの大切さを強調しているのも益軒の見方です。六芸という礼、楽、射、御(ぎょう=馬術)、書、数は、大切ですが、義理の学問が本道で、芸は、末です。六芸のうち、書き方、算数は、金持ちも貧乏人も四民共に学ぶことが必要というのです。

 算数は卑しいわざであるという日本の風俗は誤りですと益軒はのべるのです。身分の高い者、低い者も、算数を知らないと自分の財産や禄の限度を考えず、みだりに財産を使ってしまって困窮するというのです。
 貝原益軒は随年教法をとったのです。六才の子には、はじめて字を教えるのに「あいうえを」。七才の子には、男女席を同じにしないように。この年齢の子どもの知恵は少しずつでてきます。だんだんと礼法を教えます。八才の子どもは、古人が小学を学びはじめたときです。幼い子どもに、とくに義を教えることが大切になっていきます。
 10歳になったら、5常の道(仁、義.礼、智、信)5倫(君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友)の道をおおまかに教えることが必要というのです。10歳になると外に出して昼夜、師につかえます。これらの教育のためには、父母の家におくことを推奨しませんでした。子どもをいつも父母のそばにつけておきますと、恩愛になれて、日々あまえ、気ままになり、努力して艱難にたえられないからというのです。
 15歳になったら、大学の学問をはじめる年です。身を修め、人を治める道を学ぶのです。20歳には冠をかぶるということで、大人の徳に従うのです。大学は、少しずつ教え、好きになることです。難しく面倒で、その気を屈するようなことはしてはならというのです。難しく教えると学問を苦しんでいやがる心がでてくるのです。
 教えるには順序が必要というのです。はじめて本を読む時はまず文句を短くして、読みやすく覚えやすいことを教えるがよいというのです。本を読むには早くさきを読んではいけない、毎日読む努力させる必要があるというのです。

 そこでは、学ぶことがきらいにならぬようにする工夫が必要だということです。一度にたくさん教えても意味がない、一字、二字、三字ずつ字を知らせ、そのあと一句ずつ教えるが工夫が求められるというのです。そして、句読をはっきりさせて読ませ、文章の意味を教えていくことが必要なのです。

 以上にように、貝原益軒は、教える方法についても年齢ごとに配慮しての子育て、教育の工夫を求めているのです。


 貝原益軒の女子を教える法

 

 貝原益軒は、女子を教えるのは親というのです。ここが、男子と異なるのです。師にしたがい、ものを学び、友達と交わり、世上の礼法を見聞することが多い男子と違う現実があるというのです。

 女子は、いつも家のなかにいるので、師にしたがって道を学ぶことがない。女子は、心を本道として、和と順の女徳、貞信に、なさけが深く、つつましやかで、静かな心をもつように育てられて、教育される必要があるとするのです。

 婦人の職分は人に仕えて、家庭内を治めるものというのです。女には、4つの行として、婦徳、婦言、婦容貌、婦効があるといいます。子を思う道に迷って、愛におぼれててはいけないと益軒は、女子教育の家での教育の難しさを語るのです。

 4つの女性の行について、益軒は次のようにのべるのです。婦徳とは、こころだてのよいことを言う。こころがただしくきれいで、和順の徳とすることです。婦言とは、嘘を言わず、言葉をえらんでいい、ふさわしくない悪い言葉を使わない。言うべきときにのべて、不要なことは言わない。また、人のいうことをよく聞く。

 婦容とは、無理にかざっていないが、よそおいが上品でふるまいがきれいで、衣服もさっぱりしていることです。婦効とは、女性の勤めるべきことの織物、糸つむぎ、衣服を整えることです。

 益軒は、女性にも学問が必要と強調します。女性にとっての学問を身につけていくことを強調した益軒の子育て・教育論を見逃してはならない。7歳からかなを習わせ、漢字も習わせるのがよいとしています。そして、古い歌を読ませ、風雅を知らせる必要があるというのです。

 貝原益軒の女性の勤めということは、家族的共同体における男が外で、女は、内という家族内分業と封建的な家父長制が支配していた時代の産物です。現代に貝原益軒の女子を教える法から学ぶことは、女性も読み書きからの学問が必要ということで、生きる志を学ぶということを見逃してはならないのです。

 婦人に起こるこころの病は、和順でないことにあるというのです。それは、怒り、うらむのと、人をそしのると、ものをねたむと、知恵がないということですと益軒はのべますが、これらの心のなかにある弱点は、女性ばかりではなく、人間のもっている悪の業のようなものです。常に人間の善のこころとして克服していく教育や修行の課題があるのです。

 

 貝原益軒のみる学ぶことの本質ー大和俗訓からー

 

 貝原益軒にとって、天地の理と人の道とは、聖人経典の学にあるというのです。天地は万物の父母で、仁義礼智信という五常は、天地のこころをもっているというのです。天地は万物を生み養うことで、人は天地の大恩をうけているというのです。

 仁の理は天より生まれた本性で、人倫をあつく愛し、鳥獣草木をあわれんで天地の恵みを力を助けるをもって、天地に仕える仁義とするのです。人は天地の恵みによって生まれ、天地の心を受けているのです。人は、天地のうちにすみ、天地の養い受けているのです。益軒にとって、天地の心は絶対的であるのです。天地の恵みによって、人は生まれ、生きることができるというのです。

 人は無限の大恩を天地から受けているのです。人欲によって、天理に従わないのは、天地の大恩にそむくものと益軒はみるのです。仁者は、人を愛し、われを愛する心をもって、人を愛するものです。仁者は、自分がきらうことは人にほどこさないのです。そして、我が身をたてようとして、人をたてようとするのです。

 益軒は、人欲と天理の矛盾を指摘して、天地の大恩をもって、人を愛することを強調するのでした。益軒のヒューマニズムは天理と密接に結びついているのです。

 益軒の学問の推奨には、志を根本としているのです。かれの学問論はまず志をたてることを根本ということから出発するのです。志は大きく高くするのがよいとするのです。志が小さく、低くすると小さな成功に案じて成就しにくくなるというのです。天下第一等の人となると平生から志すが強く、大きく、高い志をもって日々勤めて行えば長い間に、その効がつもって、かならず人にまさることになるとみているのです。

 博学で経書に通じていても、その心だてや行いが悪くて俗人に劣っている人がいると益軒は指摘するのです。これは道に志がなくて、道にわが心を得ていないからというのです。道に志がなかったならば、文字を知っているだけで、心に益がなく、無用の学問と益軒は切り捨てます。

 益軒にとって、志をたてることは、広く古い書を読んで、我が身を誤りを改め、善にうつって、身を修める工夫をするということです。学問をするには、師を尊ぶことになるのです。およそ人が不幸不忠であったり、いろいろと悪を行ったり、欲をほしいままにして、身や家を滅ぼすのは知がないからと、知の重要性を強調します。

 益軒は、知があれば善悪を知るというのです。書を読み聞く見るという知と真知とがあります。真実の知は、書物を読んで聞く見る知によって、わが心に道理の真を知ることです。真に知ればよく行うことです。学問をすればわがために、人のために益となるのです。それは、有用の学になるというのです。

 有用の学問ということで、益軒は、次のようにのべます。有用の学問は、身を修め、人倫の道を篤く行い、善をして人を助けることです。疑いを人に尋ねることは、知恵を求める道です。問うのは知恵を人に求めることです。思うのは知恵をわれに求めるのです。

 益軒は、ふだんの身近なことから有用の学問の行いをするのがよいと言うのです。心が大きいとおごって慎みがなく、細かい小さな行ないに努めない。学問の基は謙虚です。我が身をほこらず、人にたかぶらないので、人に問うことを好み、師友をうやまって、教えをよく聞き、人の諫めをよろこび、人を責めずに、我が身を責めるのをへりかだるというのです。

 益軒は、人の性は本来善というのです。人はたいてい気質と人欲に妨げられて善を失うのです。人欲の妨げを去って本性の善になっていくことが学問の道です。学問の法は、知と行の二つを要するのです。

 知行には5つがあると益軒はのべます。中庸、博(ひろ)く学ぶ、審(つまびらか)に問い、謹んで思い、明らかに弁(わきま)え、篤(あつ)く行うということです。博く学ぶ方法は、見ること、聞くことです。天下の道理は無限です。その道理を知らないと行うべき方法がわからないで誤ることが多いというのです。

 道理はわが一心に備わり、その作用は万物の上にあるから、まずわが一心の道理をきわめ、次に万物のついてひろい道理を求めて、自分の心中に自得すべきです。博く学ぶことは本を読むほど益のあるものですが、文字だけを好んで義理を求めないのは博く学ぶことではないと益軒はみるのです。

 審らかに問うとは、すでに学んだことで、自分の心にうたがわしいことを明師や良友に近づいて詳しく問うて、その理を明らかにして、疑いと解くことです。謹んで思うは、学び尋ねたことを心を静かにして慎重に考えて、とく納得しなければならということです。

 学問は自得を尊ぶことですと益軒はのべます。自得とは謹んでよく思って、心中に道理を納得して自分のものにしたことです。明らかに弁えることは、すでに謹んで思案して、なお善悪のまぎらわしいことがあったら明らかにその是非をきわめることです。

 篤く行うにはすでに学び問いて学び弁えて、その道理を知ったならば、その道理を篤く行うことで、その道がたっていくことです。篤く行うには、ことばに忠信にしていつわりなく、行いを謹んで誤りを少なくすることです。人のわざわいは多ければ言葉と行いとの二つを出ない。言葉をまことにして行いを慎めば身がおさまるのです。

 ところで、人の身の行動は7つの情から起きると益軒はのべます。喜怒哀楽愛悪欲という7つの情です。7情はみなこれ人情であるから、それはなくてはならないというのです。過不足なく適度なことが必要です。過ぎたるはもっとも害が多いのです。人をあわれるものはまことの善です。

 しかし、自分の気に入った人を愛することで、愛におぼれ、その人の悪いことがわからず禍となることがあります。怒るべき時に怒るのは人の不善をいましめる道です。怒りすぎると、その人の善のあることを知らず、小さな誤りを大きくすることがあるのです。悲しむべきときに、悲しまず、楽しむべき楽しまないのはひたすら情がないことです。7情のうち怒りと欲の二つはもっともわが心を害し、身をそこなうと益軒はいうのです。

 禍を生じないためには、欲を少なくする工夫が必要です。十分に心がかなうと禍があるのです。常に不足がよいというのです。足ることを知ることが大切なのです。我が身に事が足りていることを知ったならば、貧賊であっても楽しい。足ることを知らないと富貴であっても楽しくないのです。益軒にとって、公の見方は、天道の恵みで人に愛敬をもって集まることです。

 公益を考えていくうえで、私欲の克服は重要なことです。益軒の考える私欲とは、ひたすらわが身を利しようとばかり思って、人のためにかえりみないことです。これは人とわれをへだてることです。公益とは、人とわれをへだてることがなく、われと人を同じく利することです。これは天意にかない、人心にかなうことです。だからその心の誠は、自然にあらわれて、人の誉れも喜びもあつくなるのです。

 私欲は争いのもとであると益軒はみるのです。私欲は人間が生まれつき自然に持っている楽しみ失うと益軒は指摘するのです。

 君子に私欲があると人に生まれついた楽しみが失われていくのです。すべての鳥獣がさえずり鳴くのも、草木がさかえ、花が咲き、実がみのるのも、みなこれは天機の発生するところで万物自然の楽しみです。これゆえ人の心ももとから楽しみがあることを知るべきです。

 欲にひかれてこの楽しみを失うと、それは天道の道にそむいているのです。利は天地から生じて、天下の人に与え養う理であるから、天下の公物です。自分の一人の私すべきものではないのです。

 われ一人利を得ようとすれば争いが生じて、かえってわが身の害となるのです。むさぼって求める利は、真の利ではない。これは、利を求めるのではなく、害を求めるのです。私欲のおおいがあって心と体をふさぐからくらくて道理が通じない。だから心を明るくするには、私欲を去るがよいのです。以上のように貝原益軒は、私欲の害について、禍を起こす真の利で人の道ではないことを強調するのでした。

 

 貝原益軒の養生訓

 

 貝原益軒の養生訓は、内欲と外邪から身を守ることであるとしています。内欲とは、7情の欲をがまんすることであるとみているのです。内欲をがまんすることで、大事なことが、飲食を適量にして飲み過ぎないことをあげています。

 外邪は、天の風、寒、暑、湿の四気です。外邪を恐れて防ぐのです。畏れることは、慎みで我慢することで、身を守る心法です。それは、健康を保って養生するうえで大切なことであると益軒はのべるのです。

 心をやすらかにすることは、体を守ることです。養生の術はまず心気を養うことです。心をやわらかくにして、気を平らにして、怒りと欲を抑え憂いと思いを少なくして、心を苦しめず気をそこなわずというのが心気を養う要領です。

 およそ薬と鍼灸を使うのはやもえない下策です。薬も病気にあわなかったら害になります。針は余分な気を除くが足りない気を補うことはできない。やもえない時でないと鍼灸と薬を使ってはならなと益軒はいうのです。

 養生の道は元気を保存することです。元気を保存するのは、元気を害するものを取り去ることで、元気を養うことです。人間の3つの楽しみは、第1に道を行って、自分に間違いなく、善を楽しむことで、第2には、自分の体に病気がなく気持ちよく楽しむことです。第3に、長生きして長く楽しむことです。

 養生とは庭に草木を植えて愛する人は、朝晩に心にかけて水をやったり、土をかぶせたり、肥料をかけたり、虫をとったりして、よく養い、その成長を喜ぶと益軒はみるのです。どうして自分の体を草木ほど愛さないでいいことかと益軒は問うのです。人間のからだは父母をもとにし、天地をはじまりとしたものです。天地・父母の恵みを受けて生まれ、また、養われた自分のからだであるから自分だけの所有物ではないのです。

 自分の体力でつらくない程度で、からだをうごかすことは、血気循環がよく食事がとどこおらないので、養生の要術になるというのです。自分に相応の事をしようと、手足を働かすことだと考えるのです。いつもからだを怠けてはならないのが養生の道であるというのです。

 益軒は人は養生のためには、じっとしてはならないというのです。人間のからだは、欲を少なくして、ときどき運動をして、手足をはたらかせ、歩いて一ヶ所に長く座っていないようにすれば血気は循環してとどこおらない。これが養生の術です。

 養生の道で過信は禁物です。自分のからだの強いのを過信したり、若さを過信したり、病気が軽快を過信したりするのはみな不幸のもとになるというのです。過信は、健康を守っていく養生にとって、大きな害になるというのが益軒の見方です。