社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

二宮尊徳の農村再興実践とその思想

 二宮尊徳の農村再興実践とその思想

 

二宮尊徳の生い立ちと思想の特徴

 

 二宮尊徳は、江戸の末期に生きた荒廃する農村再建を分度・推譲、至誠・勤労、一円融合の理念の基で、小田原藩主の大久保忠真や幕府老中の水野忠邦の命の庇護で実践したのです。しかし、実際の実践過程では、辞職願を出すほど、周りからのいやがらせなどの多くの困難を伴ったものであった。

 藩主から命を受けた小田原藩の分家である桜町領の三ケ村の尊徳の農村再建は、1822年からはじまったものです。約10年の年月をかけて、1837年の引き渡しで終わるのです。

 そして、1838年小田原藩一円の仕法が命ぜられますが、1846年に報徳仕法は中止となります。それだけではなく、尊徳との領民往来も禁止となるのです。彼の育った小田原藩の農村再建の実践は、挫折しているのです。

 尊徳が江戸時代の封建社会の厳しい上下の違いがあるなかで、社会的に身分の低い農民のために、農村再興に努力することと、身分の上の武士や豪商たちの自己利益、立身出世しようとする矛盾のなかでの苦しみであったのです。小田原藩主忠真による名君の支えによって、尊徳の桜町領の農村再建が可能であったのですが、小田原藩主忠真という名君の逝去によって、後ろ盾がいなくなったのです。

 江戸時代の末に、二宮尊徳が荒れた農村を再建できた村々は、そこを治める領主の仁政の姿勢が大きくあることを見逃してはならないのです。つまり、尊徳の荒れた農村の再興哲学が理解する為政者の位置を理解することが必要なのです。尊徳は為政者の民に対する仁政と農民たちの自立していく努力を分度と推譲をもって、農村再興の仕法をもって、諭したのです。

 また、現代の新自由主義的にいわれる競争の原理の努力ではなく、至誠と一円融合ということで、地域の人々が理解し、まとまって、一致協力していくことです。ここには、現代的に考えられる地域づくりと人育てという社会教育活動があるのです。

 尊徳の生きた時代は相次ぐ飢饉、大洪水や凶作などの自然災害、格差の拡大が進んでいく時期であり、私利私欲による為政者や豪商の不正もはびこっていたのです。また、為政者としての支配階級になる武士社会では、自己の出世ということや保身が支配していたのです。そして、農民一揆は、頻繁に起き、大阪では米の買い占めで暴利を得ていた豪商に対して、大塩平八郎の乱もあったのです。

 さらに、同じ関東の利根川下流筋の村で、大原幽学のように、窮乏する農村の生活を支えるために、協同組織の先祖株組合の創設などがあった。かれは、農業技術の指導、耕地整理、質素倹約の奨励、博打の禁止などの指導をしました。そして、教育にも特に、力をいれました。

 しかし、領主による復興の賞賛、領内の村々の模範の触れが、反感を持つ勢力の教導所の改心楼乱入になった。大原幽学は、勘定奉行に取り調べられて、改心楼の棄却、先祖株組合の解散になった。訴訟の疲労と荒廃を嘆き、墓地で切腹したのです。大塩平八郎と大原幽学は二宮尊徳と同時代の人です。

 二宮尊徳(金次郎)は、1787年神奈川県小田原の栢山で農家の長男として生まれた。1856年に数々の窮乏する農村再建を果たして、70歳で亡くなっています。金次郎は、14歳のときに、父親を失い、二人の弟をかかえて、極貧のなかで必死に母親を助けましたが、二年後の16歳の時に母親も失いました。

 また、金次郎が5歳のときに、近くの酒匂川の洪水で数ケ村が大被害をうけるのでした。金次郎の家の田畑もほとんど残らず流出したのです。もともと村のなかでは、裕福で学問の気風もあった家で、金次郎が5歳のときから孟子素読を受け始めていたのです。

 この水害によって、金次郎の家庭は極貧になるのです。この極貧のなかでも学問の大切さを金次郎は肌で感じていたのです。家の手伝いをしているときでも書物を読むことを忘れませんでした。

 朝早く起きて山に柴刈りに、薪をつくって、これを売って、夜は縄から草履をつくったりして生計をたてたりしていましたが、そこでも本を読むことをやめなかったのです。山への行き帰りが読書の時間であったのです。

 薪を背負って本を読んでいる姿は金次郎の少年時代であったのです。二宮金次郎は、親を失い少年時代の苦難な生活のなかで、学問を忘れずに、一生懸命に家を建て直す志をもって、働いたことが、至誠と勤労の人格をつくりあげていったのです。

 この姿は、近代日本の小学校の校庭での銅像になったのです。近代化を進めていく日本は、絶対主義国家・軍国主義や大企業に忠実な人材養成のために、忠君愛国、勤勉・倹約・質素な生活を求めたのです。民の怠惰を起こさないためにと、滅私奉公思想が大きな教育課題として、教育者に強制した。国家主義教育勅語教育も、二宮尊徳が利用されたのです。

 このことは、決して、二宮尊徳の分度・推譲、至誠・勤労、一円融合の思想、経済と道徳の融合を否定されるべきものではないのです。現代社会は、私利私欲と不正が、新自由主義による弱肉強食の競争主義が蔓延しているのです。このなかで、経済と道徳の関係、公正や共生、社会的貢献が鋭く問われているのです。

 ここには、戦後憲法の日本の民主主義を基本にすえての、民の暮らしを第一に、仁政ということから、二宮尊徳の思想をあらためて見直していく課題があるのです。

二宮尊徳が実践した貧困農民から豊かな暮らしのための農村再建は、その後において、各地の農村に伝わっていった。しかし、それが国家的なレベルでは、農民の暮らしを豊かにしていうということが第一ではなく、国家の富国強兵策の経済優先主義に利用されたのです。

 それは、滅私奉公的な質素・勤勉によって国家や大企業に積極的に奉仕していく思想の転化でした。そして、現代での新自由主義の国際競争力社会のなかでは、自己責任論を根底においた公的責任放棄の自立・勤勉、日本的成功哲学というように二宮尊徳の再評価が行われているのです。

 二宮尊徳は、農業という人の営みによって、自然からの恩恵を大切にして、富を開発していくという見方です。一貫して農民の豊かな生活を求めての農村振興であったのです。決して、藩・領主が上位でなはないのです。分度ということでは、贅沢を控えていくということで、領主や武士としての家臣を第一に述べているのです。農民の分度を第一に考える見方ではないのです。仁政が行われていないことが、農民を怠惰にしていったという見方です。

 尊徳の考える農村振興で、大切なことは、農民の暮らしが豊かにすることが最も大切なことなのです。このことによって、自然からの恩恵の農業に、民が喜びをもって働けるのです。そして、藩全体が豊かになって、財政も健全になっていくという考えです。

 社会的・人間的な関係を上下という縦の関係ではなく、上下は交流し、相互に扶助することです。田徳がなければ人倫がないと、田があるから、はじめて生命を育成することが出来、田畑の恩恵があって、はじめて君主は君主たることができるのです。田畑の恩恵があるからこそ、民衆は民衆としての務めが果たせ、財宝は財宝としての価値を示すことが出来るのです。(三才報徳金毛禄・田徳が人倫を扶助する解)。

 一円融合ということで、それぞれの役割を大切に尊徳は見ています。とくに、二宮尊徳が生きていた時代は、封建社会で領主やそれに仕える武士の権限が大きな位置を占めていました。かれらの意志によって、大きく農村振興計画が左右されていく時代です。名君であれば、知恵を出し合って、農村の再建に立てるのですが、自己の地位安泰・出世欲、私利私欲の家臣団の状況では、ますます苦境になっていくのです。

 現代でも、民の暮らしを豊かに、平和になっていくうえで、上にたつリーダーの役割は大きな意味をもっているのです。成功哲学という個人の立身出世的なことをあおり、巨大に社会的な財が膨らんでいる中で、公的役割を軽視していく民営最優先の新自由主義の立場での自立自興とは違うのです。ここでは、巨大な財を支配するところの私利私欲になっていくのです。

 農村の振興は、上からの押し付けではなく、農民自身の自立心からということです。優れた農民には、農民自身の投票によって決めていくということです。ここには、農民自身の自発的意思を尊重して、相互に信頼して、励まし合っていく方法ととったのです。決して、型にはまった上からの儒教的な忠君愛国的な倫理によって表彰していくものではなかったのです。

 尊徳の方法は、現実の農民生活実態や意識の把握からの分度・推譲という農村振興計画の実施です。そして、思想的には、天地の和合という人間と自然環境を実践的に統一していく体験的な科学的方法を駆使した見方です。

 

 尊徳の自己の家の再興と小田原藩の家老の服部家の家計の正常化の援助

 

 金次郎は16歳のときに母を失って、みなし子になり、叔父の家にあずけられます。叔父の家業手伝いをして、夜になると勉強に励んだのです。しかし、叔父は、燈油を使っているとは恩知らず、学問などする立場ではないとしかられるのです。

 このために自分で燈油を買うために、作物が育たない川べりの土地に油種をまいて、7,8升の菜種を収穫した。それを町に行って売りさばいて燈油を買ってきて、夜に勉強したのです。それでも、叔父は学問の必要性を認めなかったのです。勉強する時間があれば、縄をない、むしろを織れと家事を強要するのでした。それで、隠れるようにして勉強したのです。衣類でおおって、外に光がもれないようにして、読書をするのでした。

 このことは、金次郎の学問をしたいという強い意志があったことがわかるのです。これは、金次郎の様々な物事を知りたいという好奇心の強い欲望があったからです。父親の影響もあったのではないかと考えられます。金次郎は、少年期において、極貧な家庭の経済状況で、きちんとした学問をする機会がなかったのです。

 洪水によって、不要になった土地を休日に開墾し、村人が棄てた苗を拾い集めました。それを植え付けると一俵ほどとれたのです。この一俵を種にして、倍に収穫しようと計画を立てるのです。最初は、何も持たない貧しい境遇のなかで、できることはないかと必死に考え抜いて実践したのです。洪水になって、荒廃している土地の開墾と、棄てられた苗を拾って、稲をつくったのです。金次郎は、汗水流して働いて、お金をつくったのです。

 また、20歳のときに、誰も住んでいない置屋があるということで、その家を自分で修理して、一人住まいを始めるのです。最初は何もなかった財産でしたが、世間では、価値のないというものを、工夫して有効に使って、必死に働くのでした。これらの努力によって、所有田畑一町四反四畝の農家になるのです。すべて小さいことを積み重ねれば大きくなる。これは自然の道理だ。

 この道理によって、父祖の家を興したというのです。積小為大(小を積んで大を為す)という思想です。この体験は、後の尊徳による荒れた農村再建していく至誠と勤労によって村を再建していく原点になっていくのです。

 ここには、尊徳の勤労精神があるのです。努力することは、単に汗水流して、働くというばかりではなく、誠を尽くす心をもって、考え抜き、工夫していくということで、創造的な自由意志にもとづく仕事であることを見落としてはならないのです。

 現代的に、勤労の精神を考えていくうえで、国民的な合意は、日本国憲法第二十七条です。すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。児童は、これを酷使してはならない。労働基準法5条で、自由意思に基づく労働を保障しているのです。これは、強制的な労働を禁止して、創造的な自発的意志を尊重しての勤労精神という意味なのです。

 26歳のときに、三年間、小田原藩家老の服部家の若党(奉公人)になるのです。これは、服部家に3人の男子が学問を好むということで、学べる機会が持てるということであったのです。

 服部家に勤めているときに五常講という金に困っている用人や下男・下女に貸す組織をつくったのです。平素から余分の生じた金を金次郎が一括して預かり、仁義礼智信という5常の精神で、金に困っている下男・下女に貸すというしくみです。5常の心によって、百両の金が万両も動かすことができるという理念からです。

 ある女中の一人が借用を頼んできましたが、返すあてがない。どうしたらよいのかということでした。尊徳は女中に、5本の薪で焚いている現状から、3本の薪で工夫して、主人に残りの2本を買い上げてもらい、それで支払いなさいということです。3本で焚く方法は、鍋炭をおとすこと、木の煙をださないように工夫すること、鍋底にあたるように焚き、消炭も上手に使うことを教えたのです。

 尊徳は、29歳の年の2月に、自分の農家に帰り、5反ほど買い入れて、田畑は、1町9反2畝になるのです。そして、31歳のときに結婚します。その結婚がすぐに破綻するのでした。

 29歳のときの12月に服部家の奉公から帰ってきた12月に、服部家に家計の立て直しの仕法の起草をしたのです。そのときの服部家は、俸禄千石で千両の借金をかかえていたのです。

 当初、服部家からの家計の立て直しの依頼に、金次郎は、農民として農事に精をだして、なすべきことをしての家の立て直しができたということで、武士としての家計ではないというのです。服部家の膨大な借金をつくった原因は、武士の家を治める道を誤ったところになるのではないか。武士の家を建て直すことなど農民が到底できないと断ったのです。

 服部家の当主は、金次郎の賢明さを察して、ひたすら信義をつくして再三依頼してきたのです。武士の意地を捨てて、依頼されているので、断り切れずに承諾するのでした。金次郎の立て直しの仕法に一切、口出しをしないということが条件でした。

 引き受ける条件は、尊徳のすることに一切、まかせるということで、ほんのわずかでも口を出すなということでした。食事は飯と汁にかぎること、衣類は木綿にかぎること、不必要なことは好まないという3ケ条を守るということであった。

 服部家の家計再建仕法に集中したことから、家を離れて、あまりよりつかずの夫に、妻は、愛想をつかして、実家に帰ってしまうのです。翌年の33歳のときに、生まれたばかりの長男が死亡して、離婚したのです。

 服部家の家計立て直し完了の年に、34歳(1820年)で再婚します。服部家で働いていた女中の娘との結婚です。このときの田畑の所有は、3町8反となっています。すでに、当時としては、上層の農家になっているのです。

 服部家の家計の立て直しの仕法は、4年間で、千両の借金はすべて、返済して、三百両が残ったのです。服部家の家計の再建仕法は、借金千両という家計を赤字にしている原因を反省することからはじめるということでした。

 そして、金次郎は収入を見積り、分に相応した支出を差し引いて、収支があうような予算をつくり、無用の雑費をはぶいて1年間に要する費用を定めたのです。徹底した家計の緊縮財政計画です。借主を呼んで実状を説明して、5年間で弁済することを約束したのです。

 5年間の計画目的を達成し、服部家の千両の借金は返済するのでした。残った3百両は、尊徳の家計をまかせられた最後の意思として、服部家の非常のときの備えのために百両でした。5年間家事をなげうって、服部家の危急を救って、末永い安泰をもたらした奥様のご褒美として百両であった。そして、5年間のあいだに苦労して借金返済のために苦労した下男・下女の協力の努力に百両と使ったのです。(児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの報徳記、65頁~69頁参照、奈良本信也「二宮尊徳岩波新書、49頁~55頁参照)

 尊徳は服部家の家計再建の仕法を行っているときに、自分が奉公人のときにやっていた五常講を本格的に立ち上げていくのです。藩主から千両を年8分で借入れ、服部家の四百五十九両を、そのうちから払って、残りを家臣や用心たちに貸し付けたのです。低利であるが、藩主よりの借用利子より高いのです。それが利益を生んで借金返済の一部に充てられるのです。奈良本達也「二宮尊徳の人と思想」日本思想体系、二宮尊徳・大原幽学、岩波書店、411頁より

 服部家の家計再建お仕法は、守田志朗「二宮尊徳」朝日選書によれば、家老の服部十郎兵衛が理財計画の3年目に江戸詰で出費が重なり、借金の減少効果はあがっていないと指摘しています。当初利息を合わせて240両ほどあった借金が270両から360両へと1年ごとにふえてしまったということです。守田志朗「二宮尊徳」朝日選書110頁参照。

 松沢成分「教養としての知っておきたい二宮尊徳」では、「武家社会とは、尊徳の仕法が通用しにくいしゃかいなのである。事実、尊徳は完全な立て直しができないまま服部家を離れることになり、その後も細々と尊徳の示した仕法を続けた服部家が借金を完済するには、さらに30年を待たななければならなかった」。47頁から48頁参照

 5年間で借金を返済して、300両を残したというのは、報徳記からです。それぞれの資料の出所が異なり、その違いの分析も必要です。とくに、5年間で謝金をしたことと、30年間かかったということは、大きな違いであり、尊徳の仕法の実績を評価していくうえでも欠かせないことです。

 服部家の立て直しの期間や評価にとっては、尊徳研究をする人たちに、異なるところがありますが、服部家の立て直しの実践の体験は、尊徳の分度・推譲の思想の形成に大きな糧になったのです。

 

 小田原藩分家の桜町領の荒廃した三ケ村の再建

 

 小田原藩主の大久保忠真は、幕府の老中職にあって、悪い風習を正して、天下万民のために尽くしたいということから、傑出した才能をもった人物を抜擢したいということでした。二宮尊徳の評判を聞いて、藩政に参画させたいということで、家臣に相談するが、平民を藩政に参画させるということは、世間が納得すまいということで、家臣からの了解を得ることができなかったのです。

 そこで、分家の桜町領の荒れた三ケ村の再建にと二宮尊徳に仕法を命ずる策にでるのです。この分家の3ケ村領地は4千石の知行であった。元禄年間は、450戸であったが、文政年間には、わずか140戸から150戸と激減しているのです。年貢も4000俵を収納していたが、文政年間は、800俵に減っていたのです。

 分家の宇津家の窮乏は甚だしく、本家の援助によって、かろうじて維持していたのです。分家の桜町領の復興に、小田原の本家から今まで、何千両を出して、復興の仕法をさぐったが、ひとたび現地におもむくと、口先巧みでよこしまな人びとにだまされて、どう対処したらよいのかわからず、他の領地に逃走し、あるいは、その土地を追われて、小田原に帰り、罰せられたものが、数人におよんでいるのです。

 本家の領主の大久保忠真は、二宮尊徳ならば、必ず成功すると考えたのです。身分の差を考慮せずに、賢人を抜擢することができない小田原藩の状況でした。家臣が困り抜いた土地を再興すれば、本家の小田原藩の農村振興の仕法の仕事に、家臣たちは反対しないとふんだのです。藩主の依頼に、当初3年間も、断っていたのです。

 尊徳は、身分の低い卑しい者が、どうして分家の桜町領を再興することができようかということでした。二宮金次郎は、分家の再興という大事業がどうして、農家に生まれた人間が国を興し、民心を安らかにする大道をすることができようかということでした。我が身のおろかさを反省して、殿様のご命令をお受けすることができないということでした。

 しかし、藩主から尊徳のところに、何度も使いのものがくるのであった。尊徳は、再建が可能であるかどうか、土地の人びとの荒廃の原因が何であるのかを確かめてから殿の命令を受けることにしたのです。桜町領の実体調査を小田原藩主は尊徳に命令するのでした。

 1821年の文政4年で、尊徳35歳のときです。一軒一軒訪れては、その貧富を視察し、田や野にでかけは、その土地の様子を調べて、それぞれの村人の勤勉や怠惰を観察したのです。そして、水利の難易を計り、古い時代の様子を探り、近年の風俗を観て、再建が可能であるのかを確かめたのです。

 尊徳は小田原の殿様に、仁術をもって事に対処して、古くからのしみこんだ悪いならわしを改革し、もって農業に励むように指導すれば荒廃した村を再建することができるとしたのです。それには、仁政が行われることであると強調するのです。

報徳記では、荒廃した農村を再建させるに、農民自身の自立の力を高めることを次のようにのべるのです。荒廃した土地を開墾するには、土地自体の力をもって、貧しい者を救うのです。決して、お金を配るものはありません。村の者の名主や百姓は、殿様からのお金に心が奪われ、このお金を手にいれようと非難の争いが起きるのです。

 4千石の知行は、名ばかりで、現実に年貢を納入した8百俵を再建までの禄高として、はじめるのです。桜町領は、3ケ村の土地は荒廃しており、2反を1反と考えて、宇津家の俸禄は4千石ではなく、2千石として再建計画をたてるべきだと提言するのです。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの報徳記、72頁~75頁参照

 1822年に、小田原藩主は、桜町領の再建開発の命を尊徳に出すのです。尊徳は、36歳のときです。尊徳の待遇は、待遇名主格5石2人扶持です。この年の9月に、桜町に到着するのです。

 翌年の37歳のときに、翌年1823年3月に家・田畑・道具を売り払い、妻子を連れて桜町に行くのです。このときに、桜町に定住して、荒廃した桜町領の再建を、強い意志をもって決意するのでした。

 3ケ村の荒廃した3ケ村の復興の計画を具体的に練り始めるのでした。一軒ごとに訪問して、明けから日暮れまで歩き、村民の艱難・善悪を察して、農業に精をいれているのか、いれていないかをそれぞれをみきわめることを重視したのです。そして、田畑の境界、土地の荒廃した土地の広さなどを調べ、地味・水利を考えたのです。

 このなかで、善人を賞して、悪人を諭しと善に導き、貧民の保護と育成をした。また、用水を掘り、冷たい水を除き、勧農の道をすすめたのです。さらに、具体的に、荒廃した土地の開墾の努力、方策を実施していったのです。この年に、桜町領の農民に対して、投票によって、耕作努力の表彰をした。借金のない農家は特別に表彰されたのです。

 しかし、荒廃した農村の復興を進めようとする尊徳の行動に、多くの妨害があったことも、同時に起きたのです。それらは、名主などの村役人層の横領などの不正発覚の恐れ、目の前の損得をめぐっての争い、成功へのねたみなどからでした。表面は尊徳の指示に従うようにみせて、裏では、村民を扇動して妨害するのでした。

 荒廃した田畑に、年貢を納めることが免れることから、勝手に耕して、年貢を納める田畑には、肥料をやらずに、土地が悪いから年貢を減らしてほしいという。名主の横領に農民は訴え、名主は零細農民の無法を訴えということで、陣屋では毎日のように、もめごとがもちこまれることで、復興事業に大きな障害にもなったのです。

 小田原藩から派遣された2人から3人の陣屋で仕事をする出張藩士も妨害に加担するのでした。尊徳の命じたことに、小田原藩からの派遣の代官などの役人が認めていないとうことで、中止せよということなど、村人が尊徳に従わないように策を練ったのです。また、悪い農民を賞するなど、尊徳事業の失敗を考えることばかりであった。

 小田原藩からの派遣された武士たちは、「二宮の仕法なるものは、貧しい村を復興する道ではなく、むしろこれをくつがえすものある」と、村民に言いふらして、尊徳を怨むように仕向け、事実をまげて、藩主に訴えを出すのでした。

 尊徳の荒廃した農村の再建仕法は、農民たちが、もっぱら農業に精をだせるように、仁政をするということでした。荒廃した農村で、すさんだ人情を改善するには、仁政をもって、土地の状態をよくして、農業による富を豊かにすることであるとしたのです。このために、土地の尊い理由を教え、田畑に力をつくさせることでした。

 決して、お金を投入することではないとしたのです。お金を投入すれば、農民は、名主の不正、名主は、農民のかってな非難と争いが起きるとしたのです。荒廃した土地を開墾するためには、荒廃した土地自体の力をもって、貧しい者を救うのは、貧しい者自身の力をもってするということでした。荒廃した田一反を開墾し、一石の米を生産して、半分は食料にして、あと半分は来年の田を耕すためのもとする。このことをくりかえしていくということです。

 小田原の藩主から桜町領回復仕法を命ぜられて、4年後の1826年に、組頭格に昇進して、桜町仕法の主席となります。しかし、小田原藩士の豊田正作が着任して、仕法をめぐって対立が起きるのです。翌年の1828年には、尊徳の農村再興の仕法が厳しい状況に陥っていくのです。

 尊徳は、藩主から呼び出されて、訴えのもとの内容の尋問がされますが、藩主は尊徳のことを信じて、訴訟や讒言(ざんげん)したものを小人として、藩主は罰するのでした。また、1829年に、尊徳は、桜町領復興に、成田山に大願成就の祈願のために、21日間の断食を行うのです。

 成田山に祈誓するのに尊徳は、次のように書いています。「わたしが殿の委任を受け、この地にまいって以来、心血をそそいでこの村を興し、この民を安んじようとして復興の道を実施した。すでに数年、道理においては必ず復興することは疑いないのであるが、よこしまな連中がこれを妨害し、またわたしと事をともにする役人までも、かたよった考えにとらわれて、疑いをいだき、ついにわたしを讒訴(ざんそ)するに至った。

 内にはわたしの事業をそこなおとする妨害がありました。外には心の曲がった連中がこれと組んでわたしの事業を破壊しようとする心配があったのです。このままの状態が続けば三ケ村の復興はいつになることか。ああしかし、わたしにはできませんと言って退くことは簡単だけれども、それでは殿の御命令を無にするおとになる。思うに、わたしの誠意がまだ至らぬからであろう。かりにも誠意が到達すれば、どのようなことでも成就しないはずはない」(児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの報徳記より)と、尊徳自身の誠意は、妨害する役人と村民がいたのです。このために、荒れた農村復興の回復を成し遂げるために、21日間断食して、祈願するのでした。

 1828年4月に二宮尊徳は、小田原藩邸に辞職願を提出しているのです。そこでは、尊徳が、荒れた桜町領の再建の仕法の妨害が、本来ならば、権限をもって、共に協力して実践していく立場の出張の小田原藩士が、妨害しか考えていないということでした。このことが、尊徳の辞職願のなかに書かれています。尊徳は、小田原藩からの出張藩士たちは、私利私欲の出世主義であるとしているのです。

 彼らは、「私利私欲で、農民の将来の困難を考えず、その場だけの手柄を殿様のために役立つと言い、つくろって欺瞞し、年貢増強のことばかり努力し、立身出世の褒美を内心にもつ人物では不適当。きびしく税金をとりたてる家臣よりも、むしろ物を盗む家臣の方がましである」と皮肉をこめた痛烈な批判をしているのです。

 尊徳は、私利私欲の出張藩士たちが特権を利用して、仁政を行わず、不正をしていることから、農民自身の民の風俗も悪化していると辞職願に書いているのです。出張藩士は、目先の年貢増強のことばかり考えての実績主義で、農民たちの苦労や生活をみないで、民の将来の安寧のことを考えていないのです。まさに、仁政をしようとしないとみるのです。

 そして、役職の特権を私利私欲のために利用しているので、仁政が行き届かいと次のようにのべています。「役職の特権を私ごとに利用し、世評や利欲に動く家臣が出て、政治が行き届かず、でたらめな政治のためか、村々の大小の農民の風俗は悪化し、人情は惰弱になり、農民は法を守るかたちで道理を破るようになった。

 これは何年の洪水による荒地、何々の理由によりつぶれた誰それの土地、何の荒地、何の耕作放棄地、耕作者が逃げて村中で共同に耕作しなければならない土地などと、いろいろと名目をつけ、一反歩のところを一反五畝とか二反歩に書き、情・中・下の地目をいつわる」。

 私利私欲の出張藩士のために、農民がいじめられて、農民の風俗が悪化して、不正も蔓延して、荒れた農村が一層に行き詰まるのです。耕作放棄地の増大ばかりではなく、農民自身が村から逃げていくというのです。役人たちの私利私欲、目先の業績主義で農民をいじめることで、立身出世しようとする問題点を指摘するのです。

 正確な実態を把握せずに、でたらめな年貢の取り立てが行われている状況のなかで、農民の生活を安定させるためには、真実を把握するために、現実の土地台帳から実態にあっているのか調べることからはじめなければならないとしているのです。

 「農民の生活を永続させるためには、まずむかしの土地台帳にもとづいて、本田・新田・屋敷・山林まで、一畝、一歩も残さず台帳と実際を照合して必ず調査し、違いがなければ、いったん領主の手もとに引き上げ、領主の命令でいままでの体裁をすてて、現耕作している新古の百姓を、大小の区別なく、田畑の持ち主の名前で土地台帳に記載し、村の絵図によってこまかく証明し、これを名主や村役人に預け、小前の百姓については一人別に面積を記した帳面に所有反別を調べ、一人一人に持たせ、田地を農民に渡せば、農民それぞれ家宝になる」。

 度重なる洪水などによる田畑の被害、荒れ地の実態がいい加減になって、ごまかしが役人の手によって、やられているというのです。私欲をおさえて、自然の気候に気を張り、道理や河川の整備、荒れ地などの開発、農具の整備などをし、農民の暮らしを率先して考えていく仁政の大切さを強調しているのです。

 「農家の生活を永続させ、年貢を昔のようにもどすには、第一に政治を正しくし、弓矢の道を正し、君子として国内を治め、人びとの私欲をおさえ、学問をしてものの筋道を学び、実践して人の本心をいつくしみそだて、金銭・米を農民の食料や生活費、暑さ寒さの心配や家・道路・川の工事、田畑の開発や農具諸事などの費用にあて、日々に勤めるべきことどれ一つ欠けても、事は成就しない」。

 農民の生活を永続させて安定させるためには、まず、政治を正しく、私欲をおさえて、学問をして、筋道を整えて、農民への食料や生活の確保をしていくことであるとするのです。実践して、人びとの心をいつくしむことによって、荒れ地の開発を実施していくというのです。そして、日々勤めるべき、すべてのことを欠いても農村の復興はないとするのです。決して、お金をだせばという復興するというものではないのです。

  1829年1月に、江戸に行き、帰りに失踪して、成田山で断食の祈願をするのでした。断食の祈願をして、桜町に帰るのです。藩主に対して、出張藩士や農民の二宮尊徳への讒訴は、取り下げられ、混乱の中心になった豊田正作は、尊徳の辞職願の翌年、尊徳が成田山で断食しての祈願の時期の3月に免還になるのでした。そして、宇津家の桜町領分度が江戸でたてられていくのです。

 二宮尊徳が失踪してから成田山での断食による祈願から桜町に帰宅してから、桜町領三ケ村の農村復興が進んでいくのです。1831年に尊徳の仕法を小田原藩主は賞賛し、桜町の第一期が終わるのです。

 1837年に、尊徳が名主待遇で荒れた桜町領の再建の藩主からの命令を受けたのが、36歳での1822年から実に、15年間かけて、桜町領の3ケ村は、宇津家に引き渡されるのです。このとき、二宮尊徳は51歳でした。同じ、年に大阪では大塩平八郎の乱が起きています。

 1837年(天保8年)7月に、尊徳は、大阪に勤務している伊谷治部右衛門に、手紙を出していますが、そのなかで「大塩平八郎の乱について、この騒動は幕府を狂わせるようなことだったのでしょうか。それてもご政治に役立つできごとだったのでしょうか。いろいろと評判があって、実説がわかりませんので、もしお暇があったら、事が仁か不仁か、真実をおしらせくださいと書いています。回答は、大塩平八郎の意図は逆賊、行為は奸賊にちがいない。言葉で言えないほどのふとどきもで、文面は逆賊ということの回答でした。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論、452頁その徳自身が大塩平八郎の乱に深い関心があったとみられます。

  1833年の初夏に、天候不順がやまなかったときに、尊徳は、茄子を食べると、その味がいつもと違っていたことに気づいたのです。初夏なのに、この茄子の味は晩秋の茄子の味ということに気づくのです。この事実はただことではない。

 今年は陽気が薄く、陰気がさかんで作物が実らないのは明らかだとして、それに備えるように3ケ村の農村に徹底するのでした。そして、一軒ごとに畑一反の年貢を免除すると、稗をまいて飢餓を免れるように徹底して指導したのです。農民のなかには、いままで苦しんだときでも稗を食べたことがない。農民たちのなかには、稗を作ったとしても食べることがないのではないか。無用ではないかという意見がありました。年貢を一反免除しているので、命令に従わなければ罰せられるにちがいないと、しかなく稗を植えた農民もいたほどであったのです。

 この年は、盛夏になっても気温が上がらず、凶作になったのです。一人も飢えに苦しむことはなかったのです。尊徳の自然をみる洞察力と、凶作の対策を徹底したことに三ケ村の農民は、喜んだのです。また、「稗を植えろ」という命令にあざけわらったことに、自分の浅い知恵を後悔した農民も多いのです。

 そして、翌年に、再び飢饉に備えての命令を尊徳はするのです。天明の大飢饉を考えると、飢饉のサイクルで、昨年の不作は、その訪れの予兆ではないかとみるのです。準備のために三年間、昨年とおなじように年貢を免除するということです。免除した土地に、稗をつくるように命令したのです。このために、1836年の天保の大飢饉のときに、桜町領の農民は、飢えに苦しむ被害は全くなかったのです。

 尊徳の指導のもとに桜町領は、半分に満たない農家で、数百町の荒れ地を開墾して、昔と同じように復興したのです。農民たちは安心して家業ができるようになり、分度を定めたのです。田畑の等級に応じて、生産高を調べ、年貢を決めて、三公七民として、二千俵を宇津家の定期収入と決めたのです。

 宇津家は、尊徳が再建の仕法の命令を受けたときは、八百俵しか年貢をえることができなかったが、その倍以上の年貢を得ることができるようになった。農民も収穫の7割は、自分の手元に残るということで、安心して、以前よりも豊かにくらせるということになったのです。

 尊徳研究者の奈良本辰也は、「二宮尊徳の人と思想」のなかで、桜町の復興は、個を超えたところで考えなければならないとしています。「そこには、宇都家の領主がおり、本家の小田原藩派遣の役人がおり、貧富・賢愚さまざまな農民もいる。それらが小さな一国を作っているのである。そして、他の諸関係とのかかわりあいもある。だが、金次郎は、それを要約して分度と推譲の関係に置き換えてみた。つまり、個の問題と社会や歴史とのかかわりあいである」。

 尊徳は農村再建のための調査は、栄養状態や食事など農民の細かな生活の状態まで把握しているのです。農民生活を最も重視した尊徳の農村再建の思想です。つまり、「農民の状態を把握することは、平素の栄養状態、食事までもわかるということだ。村内の農民の生活を把握した」。

 尊徳は、荒廃のなかで心が沈んでいる村人を励まし、前向きな農業生産をしていくために、優秀な農民を見つけ出して、活躍してもらうために、優秀な農民を表彰することをしたのです。「この表彰は、農民の選挙で選定して、表彰者に農具を与えたり、無利息の金を貸したりしている」。

 農民自身による選挙によって、表彰者を選んだことも大きな特徴です。上からの一方的な目線ではなく、農民自身が、それぞれに、お互いの頑張る様子をみての選挙による優秀者の選択であった。ここには、民を中心として、村の振興を行っていくという現代的にも価値がある見方である参加民主主義の発想がみられるのです。

 「荒れ地を開発するために、農民が休息できるように住宅を補修の改善に力を貸した。また、農具や肥料の買い入れを奨励し、無利息、低利の金を貸したのである」。

 「公共的な道路、用水、堤防、橋などの整備に力を入れた。いくら荒れ地を起こしたところで、用水池がなければ安心して水田は作れない。堤防をしっかりしていねければならない。こうした農業の基礎的な公共事業に力を入れたのである。 

 彼の天才的な土木工事の才能は、堰や橋の工事は、その後も後世にずっとのこっていくのです。村の急流に流れる川からの堰をつくるのに、従前の工法では難工事になるのであるが、茅屋を川の中に沈めて水を止めて堰をつくるなど、尊徳が、自然現象を常に観察している様子からの創造的な工夫であった」。

 

 小田原藩領内の復興事業に着手

 

荒廃した桜町領の再興は、多くの藩に知れ渡り、尊徳に農村復興の依頼がくるのであった。本家の小田原藩天保の大飢饉では、多くの農民が飢餓に苦しんだ。天保7年、1836年に、藩主の使者から、数万の飢潟(きかつ)に苦しむ救済をするために、召し抱えたいという依頼があったのです。報徳記では、小田原藩の飢饉による農民救済の対応に尊徳のとった態度は、自己の利益を入れずに、徹底した農民救済の立場での行動であったことをのべています。

 天保7年12月の大飢饉のあった年です。関東・東北地方は、飢饉のために20万人とも30万人ともいわれる多くの農民が餓死しました。桜町領では、尊徳の指導によって、餓死者は免れたが、被害は大きなものがあったのです。尊徳は、各農家を廻って、被害を調べて、三段階にわけて、一人につき雑穀をまぜて五俵とした。その数に満たないのを補ったのです。一軒に5人ならば二五俵、十人ならば五十俵、十五人ならば、七十五俵というように、備えさせたのです。

 ここでは、天候不順による大飢饉を予想しての対処あったので、誰も餓死することがなかった。しかし、凶作になって、大変な生活状況になったことは、事実です。このために、尊徳は、桜町の三ケ村の農民救済の仕法のために、小田原藩に召し抱えるという殿様の命を最初は、断っているのです。

 その理由は、凶作のときに、桜町の領民を救うために努力している最中ということからです。尊徳いわく。「殿様の命令によって、桜町の復興、民心の安定のためになみなみならぬ苦労してきた。凶作のなかで、領民を救うために、わずかないとまもとれない状況だ。土地の復興を成し遂げるまでは、殿様のもとで召し抱えられることはできない。江戸に帰って、このことを殿様に伝えてほしい」と使者にのべるのです。

 このことに使者は怒って、尊徳のことばに応えるのです。「家臣として主命に従わないのは不敬である。わたしは主命を受けて使者に立った。このような無礼な言葉をどうして殿にご報告できるか。ただちにご命令に従って、江戸にあがられよ」ということであった。

 これにたいして、尊徳の答えは、「主命を軽んずる行動をとったことはない。いまご命令をお受けしないのは、最初約束した主命を無意味なものにしないためである」と。使者は怒って江戸に帰ったということです。(児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの尊徳記より)

 このやりとりは、尊徳の桜町の三ケ村の復興と農民の暮らしの安定という志の高さをみせるものです。この取り組みに、尊徳自身が命を懸けて必死に主体性をもって、荒れた農村復興に取り組んでいる姿勢をみせるものです。殿様の上位下達という絶対的命令に対しては、尊徳は従わないことを示しているのです。尊徳にとっては、殿様の命令も合理性をもっていることが必要なことです。

 使者は、殿様の忠真に、尊徳は無軌道だとして、尊徳の言葉を報告したのです。との様は「尊徳の命に従わないのは、領民の飢渇を心配してのことだろう。予のあやまちで、二宮の言葉は率直で、道理にかなっている。小田原の領民がすでに餓渇に瀕している。望むのは小田原におもむき、飢えに苦しむ民を救い、予の心労を安んじ、国の大きな憂いをとり除くことを伝えてほしい」と使者に再度、尊徳に、この趣旨を伝えてほしいということでした。

 尊徳は、殿様の命に、現在の桜町領の復興が済んだ後に受けるということでした。「殿の御意志がこのようであるならば、どうして御命令をお受けしないことがありましょう。しかしながら、いまこの土地の民の育成することにいとまがない。この土地の民は十年前にご命令を受けたところです。いま発せられたご命令を先んじて、この土地の民より早く小田原の領民を育成することはできません。この地の救済が終わったら、ご命令に従って、小田原にまいります」ということでした。

 小田原藩主の忠真公は、家老以下に二宮尊徳の功績の内容とその恩賞、小田原藩の農村復興に、尊徳に託すことを告げるのでした。「二宮はすでに下野の廃村を復興し、比べもののないほどの丹精を尽くし、三ケ村の民心を安定させた。その事業は多くの人びと知るところである。そこでいままた小田原藩数万の飢餓に苦しむ人びとを救恤することを任じようと思う。彼はもとより一家をすて、一身の丹精をもってこの事業をなした。

 ・・・たとえ恩賞を与えると言っても素直に従わないにちがいない。しかし、二宮には二宮の道があり、予には予の道がある。どうして家臣のたたえずにはおられようか。もし彼の意志はおうであるといって行賞の道を欠いた場合、どうして藩主の職務をまっとうしていると言えようか。その方たちのあいだで彼を賞する方法を相談してほしい」ということであった。家中の人びとはこれを議論したが決定しなかった。忠真公は、用人格となしてかれを賞すべきとした。

 尊徳は12月に下野をでて江戸に到着した。忠真公は病であったが、彼を賞せよと命令した。恩賞として礼服を賜るということであったが、尊徳は、それを殿にお返しくださいということであった。尊徳は、餓死寸前の領民がいるなかで、穀物を賜ると思っていたというのです。また、官位俸禄をくださるというならば、千石がほしいというのです。その千石を飢餓に苦しむ農民のために使うというのです。

 病の忠真公は、尊徳の言うことは、もっとも至極として、窮民救済のために、米倉をあけよ、そのほか金をあたえよと命令するのでした。尊徳はただちに江戸を出発して小田原に向かったのです。国家老は思慮をめぐらしているが、空論ばかりで領民を飢餓から救う方策はでないで日をすぎるばかりであった。

 殿様は、病に伏せられも、領民の飢えの苦痛に心を悩まして、尊徳に千両を持参し、米倉をあけよと命令したというのです。本当に、尊徳が殿から命令を受けたことを国家老たちは信用せず、殿からの直接の命令がないと米倉をあけることを躊躇したのです。

国家老の評議が決定するまでは、米倉をあけることはできないということでした。

 尊徳は、米倉の番人に、殿の命令であるとただちに米倉を開くように大声で言うのです。番人は尊徳の命令によって、米倉を開くのです。尊徳が米俵の数を点検して村々の運送の手配のために、小田原藩の領内を廻っているときに、忠真公がなくなったことの知らせを受けるのでした。

 二宮尊徳は、小田原藩領内の復興事業に着手するのでした。1938年・天保9年に小田原藩の家老評議で、下野国三ケ村を復興し、百姓を保護育成した良法を、小田原領内の永続平安の道のために開いてほしいという命、農村の復興事業の命を出すのです。

 尊徳のみる小田原藩の状況は、上から下まで窮迫して、高禄の重臣といえでも日々の生活におわれているありさまです。ところが近頃しだいに困窮からまぬがれ、強制して領民の租税を増し、借財を弁済せず、贅沢三味にふけり、節倹どころか、それ以上の豊富を望み、満足を知らず、少しも難儀を心配する気持ちはありません。このような人情に直面していいます。上の者に節倹をさせ、下のものに利益を与える道はいかに難しいことかということであった。

 小田原藩11万石の領内の村々の復興をするには、過去十年の租税を平均して、収入を決めて、支出を制限して節倹をおこなっていくという分度の根本を決めることが大切としたのです。尊徳は「かりそめにも基本を立てずに末の方を起こそうとすると、領民をまどわしけっきょくは過重な租税の取り立てに終始し、国を滅ぼす大きな憂いを生ずることになります。ですから、分度を立てた場合は、仁政を行なうに十分で、分度がない場合は、国を滅ぼす災となります」。(児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの報徳記、135頁~137頁参照) 

 しかし、家老たちは上位の者を損させ、下々に利益を与える方策には誰も同意すまいということであり、分度を決めることは、藩の根本で容易に決定できないということであった。尊徳は、怒りをもって桜町に引き上げるのです。小田原藩の領民の中には、尊徳を慕って桜町に行くのです。小田原藩の72ケ村の尊徳の復興事業は、中止になるのです。そして、領民は、尊徳と往来することも禁止されるのです。尊徳は小田原藩に出入りすることすらできなくなるのでした。

 

 尊徳の農村復興仕法の桜町領以外の成功例

 

 二宮尊徳は、自分の生まれ育った小田原藩では、農村復興の仕法を実施することが出来ませんでしたが、桜町領の三ケ村以外に、多くの農村を復興させたのです。常陸国真壁郡青木村、石高850の旗本の川副氏の領地の復興は、農村荒廃の原因になる用水をつくるために、かわからの堰の工事に、茅葺屋根を沈めて、堰をつくり、堤防をつくったということです。屋根を沈めて水を防いだということです。

 川底は、両岸とも細かい砂で、木や石で保つことができず、堤防を築いても蟻の穴から崩れるということでした。そこで、茅葺の屋根の雨水を漏らさないということを利用したのです。

 下野国鳥山藩の三万石の領民は、大飢饉のときに、城下の金持ちの家を打ち壊す騒動があったのです。飢えに苦しむ農民をいかに救うかということが大きな課題であった。天理自然の分度を立てて、それを守り、困難な条件でも領民を救うという仁政がなければ復興はできなということを殿様に諭すのでした。

 支出に制度がなく、藩の分度がわきまえていない。その根本を改めて、上下心を一つにして、助け合って、よく領内を調べて分度を確立したのです。当初、尊徳は、復興のために、米や金を用意したのです。荒れた土地を開墾して、一両年のうちに生産する米は二千俵になったのです。この米の生産量があれば、復興の道は困難ではないということになったのです。

 細川家は、本家と分家の対立がはげしかった。分家は、所領の矢田部(現在の茨木県谷田部町)・茂木(現在の栃木県・茂木町)の年貢をあてに、12万両の負債の返済を考えていたのです。また、本家の細川家は仁政があり、八万両の援助を考えていたということです。本家と分家の積年の恨みがあれば、それも不可能です。まず、恨みを解くこともお家再興のひとつであると尊徳は諭すのです。

 そして、細川家の分家谷田部藩は尊徳の良法によって、旧来の荒廃地を興して仁政を行い、12万両の負債の償却の方法を確立したのです。数年で借財は半数に減ったのです。そして、大阪勤務に際しても、藩財政が窮迫していることで、すんなりと受けることができなかったのです。

 尊徳は、大先に登る費用を節約して、万時質素にして、勤められることを勧めたのです。細川家の家臣は、農村復興事業と幕府からの大阪勤務の両方をうまくいくように考えたのですが、尊徳は、大義がわかっていないということです。大阪勤務を引きうけたことは天下の仕事で、公務のために金を借りることは悪いことではないとするのです。大阪城を守り、万一変事が出来たときは京都を護衛して、非常事にご奉公するためであるというのです。(児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの報徳記、125頁~126頁参照)

 常陸国の下館藩主は、下館に一万三千石、河内国に七千石をもっている大名です。負債三万両で、一年間の利息二千両ということで、1年間の租税で、その利息も払えない状況でした。家中に扶持米も与えることができなっていた。藩としての亡国同然になるばかりであった。尊徳に、復興の良法を依頼してきたのです。

 小田原藩は、尊徳に桜町の復興を依頼してきたときに、領民の苦労を知らず年貢を増徴して、目前の快楽を好み、藩の根本を薄くしていたのです。これを病人にたとえると逆上の病です。身体の精気が頭に上がって、両足は冷え、血液は下まで循環せず、ついに重病になっていく。この憂いを除かないかぎり、永遠の安泰はまいのです。

 治国平天下の道とはなにか。上の者には、損をさせても、下の者には利益を与え、大きな仁恵を施し、領民を保護・育成し、これを豊かにすれば、逆上の心配は去り、国の基礎はかたまり、上下とも安泰になるでしょう。しかしながら家中の方々にいったい民を憂い、みずから艱難に甘んずる気持ちがあるのでしょうか。いくら道が立派でも、現在の人情では実行できません。 

 ・・・百姓を安んずることが大名のつとめなのに、そのつとめを怠り、安ずることができないばかりかりでなく、領民が粒々辛苦して作った米粒を贅沢のための費用とし、領民の父母である道を忘れたからではありませんか。

 そこで、領民は年々困窮し、耕作力を失い、衰貧におちいり、租税は減少して、ついに上下ともども値困難な事態となった。なおその原因を反省もせずにいながらに、商人の金を借りて不足を補おうとされ、天から分かち与えられた分限かえりみて節度を立てようとせず、借金は国を滅ぼす仇敵であることも知らないために、ついに衰亡の極に達してしまった。いったん、その藩の基本を明確にして、仁政を行わなければ、どうやって国の衰廃を興し、永遠の安泰の地とすることができましょうか。これが、尊徳の回答でした。(前掲、報徳記、145頁~148頁参照)

 まずは、家臣は、俸禄を辞退して、自分の労働で生計をたて、一致協力して、心配を取り除けば返済できるようになると。まずは、借財一年分の利息を出して、それを上下の経費に分配し、差し引いた減少した計算すると平均分度のうち二割八分の減少にあたる。

 この減数によって主君の経費、藩士の扶持を制限して、毎年の利息を支払ったらよい。元金の三万両の借財をどのようにして減らしていくのか。1839年の正月・二月の藩費は、尊徳自身が賄い、7月・8月は、下館の豪商の8軒地でまかない、3月・4月・5月・6月は、本家の石川家(伊勢亀山藩六万石)に艱難にたえて旧来の衰弊を興し、永続安泰の政治を行うことをつまびらかに申しあげたら、きっと補助してくれると。毎年、このようにして元金の借金を減らしていくという方策を提案するのでした。本家も4ケ月分の経費を贈られる、尊徳は、豪商8人を呼んで藩財政の立て直しを説明して、了承してもらうのです。この提案は実現していくのでした。

 1842年7月に、天保の改革の陣頭指揮をとった老中の水野忠邦より、御普請役格として、「利根川分水路見る分目論見御用」の命、つまり利根川水路の実施計画の作成ということで、幕府の役人に登用されるのです。水路の土木的手腕がかわれたのです。幕府は、尊徳に利根川の分水の計画を命じたのですが、尊徳は、村々の仕法を先にする計画書を提出した。

 尊徳の本領は、農村復興にあると幕府はみたので、今度は下総国大生郷村の復興を命じるのです。ここは、尊徳が復興させた桜町領と同じような貧しい荒れた農村であったのです。しかし、ここには、尊徳の仕法に、強力な力をもった反対者がいたのです。その反対者は、名主で千石をもつ大地主であった。代官も十分に理解していなかったので、実際は見分と調査だけで終わったのです。(奈良本辰也二宮尊徳岩波新書、100頁~108頁参照)

 「利根川分水路見る分目論見御用」の命と下総国大生郷村の復興命について、報徳記では次のように記しています。「天保13年(1842)、幕府は命を下して、下総国手賀沼から新しく川を掘り、印旛沼にそそぎ、印旛沼から太平洋に出る水路をつくってと奈川の分流となし、そこに船を通わせ便を開こうとした」「流れる水は新しい川に分流して、水害の心配を取り除くことができる」

 「船舶はいつも房総の大海を渡り、浦賀港に入り、そののち江戸に到着する。阿波の沖には難所があって船はしばしば風波のために難破して、米穀を失い、往々にして船が転覆しておぼれ死ぬ事故も少なくない。利根川からただちに内海に達し、江戸に到着することができれば、道程もかなり短縮され、沈没の心配からまぬがれ、軍事にも役立つといえる」。

 幕府は尊徳にかの地におもむき、土地の高低・難易をはかって、できるかできないかを察し、その考えるところを言上せよという命であった。この大事業に尊徳は、成功・不成功を決めることができないということであった。天下の威光と権力を第1としてやるのか、農民の暮らしを第1と考えて大工事をすすめていくかという大きな課題があるのです。それは、決して、工事の方法技術での成功、不成功の問題ではないという尊徳の考えです。威光と権力をもって実施すれば、役人も領民も困窮して、ただ利益のみがはかるだけで、工事は挫折するというのです。

 つまり、大工事で、長く引き続き力を尽くしてやらねばならないので、万民の力によって成就することができるのです。ご威光と権力をもって人夫を使役し、金を出して、期限をきってやる今までの土木工事にやり方では、できないのです。成功するには、先にしなければならないことは、万民にいつくしを育てることです。

 その次に印旛沼の掘割です。大事業は多くの人々の使役、労働力によらなければならない。お上が大仁を実施して、人びとの困苦するところをとり除き、その生活を保障することが出来たら、百姓は大いに喜び、大きな御恩を感じ、子孫に至るまで恩に報いる気持ちをいだきつづけて、恩に報いる志をもって、大事業を成功させていくというのです。

 この尊徳の見方は、幕府の積年の大事業の利根川の分流になる用水事業の技術的な問題が先にくるのではなく、それを実施していく地域の民の力を第1に考えて、水路事業の具体的な施工技術計画がくるというのです。

 大規模な公共事業を実施していくうえでの基本的な見方であるその事業を推進していく民の力として、そこで暮らしている民の生活の保障と、その大事業が成就したときの地域の民の暮らしの豊かさを考えていくことが大切というのです。その地域の外部の力や外部の人たちが、その工事によって利益をあげていくおとではないというのです。それを第1義的に考えれば、計画以上に膨大なり、無駄な資金が必要になって、また、計画も中途半端になって、挫折していくというのです。

 幕府は、尊徳に困窮する下総国大生郷村の復興を命ずるのでした。この郷村の名主で大地主の久馬という男は、貧民に対して利子2割で金を貸して利益をむさぼり、弁済できない者の土地をとってわがものにしていたのです。田畑、千石をもつ大地主になっていたのです。復興と永続安泰の仕法を調べて幕府に献上したが、久馬のさしがねによる代官の建言で、だめになったのです。不正を働き、利益をむさぼるわずかひとりの名主によって、罪もない多くの農民が貧民に陥っているのです。

 村民は直訴して、代官の悪たくみが発覚して、代官は交代になり、尊徳は、再び幕府に願って、村の復興を実施していくのです。荒廃した田を開墾して民家を修理して、復興の道を行ったが、久馬という名主は、代官の下役人に賄賂を贈り、村民をたぶらかして仕法の妨害をするのでした。尊徳の復興事業は中止されて、善良な村民が叱責されて、ついに名主の悪事のたくらみと貪欲のみが横行するようになるのです。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの報徳記、184頁~189頁参照) 

 代官や下役人に対する賄賂攻勢は、不正によって富を築いてきた大金持ちのやり方です。役人の私利私欲と立身出世、保身主義、ことなかれ主義ということは、どんなときでも貧しん農民の暮らしをまもっていくうえでの正義の心得として大切なことですが、地域を支配する大地主の横暴が強いところでは、その裁きは難しいものがあったのです。

 この時期に、市場経済の発展によって、人びとの生活が商品化に巻き込まれ、武士や豪商、大地主の贅沢が横行していく一方で、飢饉などを契機にして、餓死などの農村の絶えが痛い厳しい生活の現実が起きるのです。そして、荒廃した農村の現実のなかで、大金持ちになっていく大地主や豪商、武士の不正問題が数多く生まれ、これに怒った農民たちが一揆となったのが幕末の日本の農村の状況です。

 1852年の正月に、下館藩の郡奉行に、下館藩復興の道は、仁政を広く行って、領民の貧苦を安んじ、国の基礎がしっかり固まった段階で、藩士の窮乏をとり除き、上下とも永続安泰の道を得ることができる。これが、尊徳の仕法の常道であると語るのです。

 下館藩の仕法の開始は、仁恵を施し、善行の者を賞し、困窮した民を保護・育成し、家や小屋を与え、農具を支給し、借金をつぐない、道路を築き、橋をかけ、困窮をとり除き、安定した生活を営めるように図った。

 尊徳の仕法は、善人を発見して、みんなのもとで表彰し、人のふみ行うべき道、未来への推譲を行い、古い悪習をなくし、人情に厚い風俗に変化させる教えを積極的に展開したのです。荒れた農村の復興には、現代でいうところの社会教育活動を重視したことを見落としてはならないのです。(前掲報徳記、151頁~155頁参照)

 1844年に幕府は、尊徳に日光神領の荒れ地の復興を尊徳に命じるのでした。良法のことを細かく書いて上申するのでしたが、具体的にすすまなかった。真岡代官の下役になって数ケ村の衰廃した地を興したので、幕府は1853年に、日光神領の村々の天領・私領とも荒れ地を興すことを命じたのです。尊徳は67歳のときであったが、病気は完全に回復していない状況であった。

 日光の村々の田畑は、山岳地、丘陵地が多い。高い山を越えて、数里も隔てたところの山深い村から村へと回ったのです。村々を歩きながら、その村の復興を考え、善人を誉め、多くの人びとを励まし、慰めたのです。

 また、困窮する人々には、お金を与えたのです。荒れ地であっても、他の恵まれた土地と同じように規定で租税をとり、少しも年貢は減らない。復興と称して、年貢がさらに増えていくのではないかと尊徳は危惧するのでした。数千町歩の荒れ地は極限に達している状況で、村民たちは副業で生計を補っているというのです。困窮のなかで、民心は、軽薄になって、争いが絶えない。何をしたら貧困から脱することができるのか。

 貧困を外に原因を求めるのではなく、自ら考えて、荒れた田畑をどうしたら豊かにできるのか。荒れた神領千町歩、やせた土地でも一反につき平均して四俵を生産できる。一年間に一万俵になる。荒れ地を開墾していくことが大切であると尊徳はのべるのでした。

 日光領の89ケ村をくまなく、巡回して、すべての土地がこえているのか、痩せているのか、領民が勤勉どうか、得ているのか失っているのかを察して、復興する対策を十数カ条にまとめて日光奉行所に提出したのです。

 尊徳の長男弥太郎は幕府の御用向見習いの命を受けるのでした。尊徳が65歳のときでした。日光の仕法は順調に進んだ。西方が高く、東方が低いところの中央に、大谷川がながれているので、その両岸に長さ2里あまりの水路を掘り、荒れ地を開墾した。村民は競って新用水の開墾を願いでたのです。どの家も田畑に力を注ぎ節倹に励んで余剰を生み出し、お互いに信義の心で交わるようになったのです。

 

 二宮尊徳の荒廃した農村の再建思想

 

 二宮尊徳の農村再建思想には、天理に任せていれば、みな荒れ地になってしまうという見方があるのです。天には善悪はない。人道は天理に従うが、善悪を、人に益になることを善として、人に不利益になることを悪として、天理に異なることがあることを区別することが必要とするのです。つまり、稲や麦は善になるし、ひえ、はぐさを、悪とします。人に便利なものを善として、不便なものを悪とするのが人道からみた天理と区別と尊徳はみるのです。

 人道は水車のごとき、半分水中に入って、水に従い、半分は水流に逆らって運転がとどこおらない。人の道は、天理に従って、種をまき、天理に逆らって草を刈り、欲に従って家業に励み、欲を制して義務を思うことです。

 人道は情欲のままにすると成り立たない。会場に道がないようだが、船道を定め、岩にあたらないようにするのです。道路も同じことで、自分の思うまま行けば、つきあたるのです。言語も同じ、思うままに言葉を出せば、たちまち争いが生ずる。

 そこで、仁道は、欲を抑え、情を制し、勤めを勤めてなるものだ。うまい食事を、美しい着物が欲しいのは天性の自然だ。これを抑え、それを忍んで家庭の分内にしたがわせる。身体の安逸・奢侈を願うのもまた同じことだ。好きな酒をひかえ、安逸を戒め、欲しい美食・美服を抑え、分限の内容から節約し、余裕を生じ、それを他人に譲り、将来に譲るべきだ。これを人道というのである。責任編集・児玉幸多「二宮尊徳」二宮翁夜話、中央公論社208頁~209頁参照。

  尊徳の教えは、至誠、勤労、分度、推譲と四つです。窮乏する多くの人々を自力更生と相互扶助思想によって、農村の窮乏を救ったのである。

 至誠とは、真心であり、尊徳の生き方の全てに貫いている。勤労は、働くことによって人は生きていける根本な原理である。そして、働くことを通して智慧をみがき、自己を向上していく。人格を豊かにしていくことに働くことがあるという尊徳の見方です。

 「銘銘が自分の家の権量を慎み、法度を定めることが肝要だ。これが道徳経済のもとである。家々権量とは、農家ならば家株田畑、何町何反歩、この作徳何十円と調べて分限を定め、商家ならば前年の売徳金を調べて本年の分限の予算を立てる。これが自分の家の権量、おのが家の法度である。これを定めて、これを慎んで超えないのが家をととのえるもとだ」。二宮翁夜話、339頁

 分度は自分の収入に応じて生活設計をたてることである。人は自分の収入以上の生活を望み贅沢をしたがる。分度とは、自分の収入をみつめながら生活をしていくということである。それぞれの分度をみきわめて、贅沢を控えていくことを尊徳は家老等の家の再興に提唱したのである。尊徳の経営実践の基本理念は分度である。

 「およそ事を成就しようと欲するなら、始めに終わりまでの計画を細かく立てるべきだ。たとえば木を伐採するまえに、伐採の前に、木の倒れる所を細かにきめておかなければ、倒れようとするときになって、どうすることもできない。相馬の殿様から興国の法を依頼されたときにも、着手前に、百八十年間の収納を調べて、分度の基礎を立てた。これは、荒れ地の開拓ができ上がったときの用心である。私の方法は分度を定めるのを根本とする。この分度をしっかり立てて、これを厳重に守れば、荒地がどれほどあろうと、借財がいくらあろうと、恐れることもなく、憂えることもない。わたしの富国・安民の方法は、分度を定めることの一点にあるからである。

 百石を二百石に、千石を二千石に増すことは一家では相談できようが、一村が一同にすることは決してできないことだ。これは容易なようではなはだ難事だ。それゆえ分度を守ることが私の第一のこととするのだ。よくこの道理を明らかにして分を守れば、まことに気楽で、杉の実を取り、苗を仕立て、山に植えて、その成木を待って楽しむことができる。財産のある者は、一年の衣食がこれで足りるということを決めて分度とし、多少にかかわらず分度外を世のために譲って何年も積んでいくならば、その功績は計り知れない」児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論、307頁~308頁参照)

 富貴になっていくのも貧賤になっていくのも分度のわきまえが大切である。分度は農民の生活にとっての基本であり、それは、地域の振興にとっての積極的な意味をもっているのである。

 楽しみ遊ぶことが分度を超え、苦労して働くことが分度の内に退けば、貧賤になる。楽しみ遊ぶことが分度の内に退き、苦労して働くことが分度の外に出れば、富貴になる。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論のなかの三才報徳金毛録・富貴貧賤の解、419頁)。

 尊徳は、分限をも守ることを基本にして、人に譲るのを仁としているが、これは中庸であるとしています。「中庸は、通常平易な道で、一歩から二歩、三歩と行くように、近いところから遠くに及び、低い所から高い所に登り、小から大にいたる道であるから、まことに行いやすい。・・・わたしは人に教えるのに、わが道は分限を守るのを本とし、分限のなかから人に譲るのを仁とすることを教えている。これは中庸でおしえやすい道である」。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論、214頁参照)

 推譲は、余剰を人や将来に譲る精神をもつということであり、自己から他人へ、自己から村へ、村から他の地域、藩へと農民の貧困対策に機能した見方であった。また、一家を継承していくためには、毎年実る果物の法則にならって、枝を切り、木の全体を減らし、つぼみのときは、余計なつぼみをとって、花を少なくすることである。たびたび肥料をあてるように、親が勤勉でも子は怠惰になったり、親は節約するが子は贅沢になったりします。家を継承するには、これに備えて推譲の道を勧めることが大切です。

 「譲は人道だ。今日の物を明日に譲り、今年の物を明日に譲り、そのうえ子孫に譲り、他人に譲るという道がある。雇人となって給金を取り、その半分は将来のために譲り、あるいは田畑を買い、家を建て、蔵を建てるのは子孫へ譲るためだ。これは世間の人が知らず知らずに行っているところで、これがすなわち譲道だ。・・・これより上の譲とはなにか。親類・盟友に譲るのだ。もっとできがたいのは国家のために譲ることだ。世の富によく教えたいのは、この譲道だ。ひとり富者だけではない」(推譲論)。261頁

 桜町の分度の成功をみて、江戸の代官が尊徳に、自分の支配所に苦労していますが、なかなか成果がでない。なにかいい方法があったのかと、質問するのです。尊徳は「わたしは無能・無術でありますが、ただ、ご威光でも理解でも行えないところですが、茄子をならせ、大根を太らせる事業をたしかに心得ていますから、この原理を方法として、ただ勤めて怠らないだけのことです。草野が一変すれば米となり、米が一変すれば飯となります」。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論、二宮翁夜話、293頁

 「勤倹して金をたくわえ、田畑を買い求め、財産を増やすばかりで、天命のあることを知らず、道に志をもたず、あくまでも財を増やす者は、いうにたりない小人で、その人の心は、物を奪い取るというおとになる。

 勤倹して金をたくわえ、田畑を買い求め、財産を増やすところまでは同じでも、そこで天命のあることをよく知って、道に志し、譲道を行い、土地を改良し、土地を開き、国民を助けてこそ、譲道を行うというべきである」。児玉幸多編集「二宮尊徳中央公論、二宮翁夜話、358頁

 

 二宮尊徳の一円融合論

 

 一円融合は、全てのものは、互いに働き合い、一体となって結果が出るという見方です。天と地、陰と陽の対立のなかった時は、混沌とした状態で、なにも書き込みのない円のみが描かれています。そして、天地が分かれていない一円一元は、風空、火空、地空、水空ということで、混沌とした状態であるのです。

 一円一元の混沌とした世界から、新羅万象への発展に展開していくというのです。一円融合は天地の混沌としたことから、天地万物が生成して人体気、地体気、天体気が一体ということと同時に、その三者は関係をもって一円の中に融合されていくという見方なのです。

 「天の体と気が、地の体と気が、また人の体と気が一体であると同時に、その三者はまたたがいに関係を保ちつつ一円の中に融合されていることをしめす。たとえば地の作物によって生きる人間は、大気を呼吸することで天とのつながり、死ねば土に還元され、地上のものは火によって煙となって大気に飛散する」。責任編集・児玉幸多「二宮尊徳中央公論社、「三才報徳金毛録」387頁

 天地に生まれた生命がどのように生々消滅していくのでしょうか。最初に天地に生まれた生は種です。種は種族の生命の根源です。種は生の休止した状態ではなく、生への強い契機が蓄えられていくのです。育ったものが草木です。

 天は一円を通して草木花実を生じます。生とは茎、葉への生育で季節を配して種、草、花、実という一円に輪廻していくのです。荒涼とした天地に生気が満ちていく。太陽の光と熱を受け、四季の変化と乾燥の作用によって種から芽が、芽から茎へ、茎から花へ、花から実とへ輪廻していきます。進化の道は決して柳の木から梅や桜が、種を違えて成長していくというものではないのです。前掲書、391頁

 植物が育つには、水、温度、土、日光、養分、大気などいろいろなものが溶け合ってひとつになって成長していくということです。尊徳は、儒教的な仁・義・礼・智・信の五行よりも仏教的な空・風・火・水・地の五輪の思想をもってきた。

 この方が、尊徳の考える大自然を説明できます。尊徳は、すべてを円の図を書いて説明しています。円は、宇宙の一切の事象、自然界、人間社会を説明する尊徳の思想の独自性です。一円は、天地万物の多様性を生み出す根源であり、天地万物が生成発展し、進化していくものです。

 我利・我欲を社会の中心に置くと、天が乱世を命じていく。それは、徳を中心とする政治に対立することです。その悪循環の恐ろしさを指摘しているのです。我利・我欲は、不学から生まれるものであるというのです。

 そして、農業に怠惰となり、廃田をつくり、貧民になっていく。下に乱が起きるのです。犯罪が増え、臣恣になり、民は逃散していく。この我を中心とする一円は、賊仁をつくり、多くの衆を失い、国を滅ぼしていく。悪は悪を招き、邪は邪を呼んでいくという循環になっていくということです。

 徳を中心とする天は、百穀栽培の季節を命ずるのです。徳を中心にとすれば国は平和に保たれ、人々は農耕に精を出し、多くの作物をつくることができるというのです。天地に万物が生育する時、天地の呼吸、四季のめぐりを大切にしています。種類は場所によって、それぞれの時期の違いがあります。天地の中心は太陽であったのです。太陽の恩恵によって天地は繁栄していくことになります。

 治世の根本は徳であり、その徳は学によって心の中から生まれていくものであるのです。徳の心は、民を励まし、開田し、民はそのことによって恵まれ、犯罪はなくなり、国は安寧し、豊かになり、子孫は繁栄していくものだと一円上に描いていくのです。

 我利・我欲と徳を対概念として二宮尊徳はみているのである。我も徳も人間の作為である。徳は人間の目的意識的に自覚されていくことによって身についていくものです。それは、学問によって、形成されていく。仁義礼智信は、混沌とした状態から人間社会が確立されていく過程で生まれていくものです。前掲書、393頁~395頁

 尊徳は天地人の三才のなかで、人ということで我をみる側面があるのです。人を主体的にとらえることで我を使用します。天と地の間に我がある。仁義礼智は外から我をかざるものではなく、生まれながらにもっているものです。学によって、それが発露していくものです。

 我人は、天地に人が誕生して、その人を中心に男女五輪の道という人倫の仁義礼智信という徳を学ぶことをしない不徳の我が中心となって治世を行えば、賊乱が起きるのです。我を人としてみていくか、我を徳に対する反対の我を中心とする治世ということで、利他をみないで、絶対的自己の欲望を人間のもっている意志を我欲として増幅させていくのかということです。

 万の人間がいれば万の心があります。その中には善心があり、悪心もあるのです。離叛の心があれば服従の心もある。自然に和の心で行動するようになるが、和の心でいてもいつか不和の心が起き、不和の心から人を怨む心が生じます。

 また、親愛の心に変わることとなり、親愛の心があれば、平穏を願う心が起こってくる。平穏の心が起これば、賊乱の心もおこり、賊乱の心があれば、天災をこうむることになり天の恵みは永遠に失うことになろう。つまり一人の心を乱せば、十の心を乱すことになり、一つの心が治まれば十の心が治まることになる。だがから百の心が乱れれば千の心が乱れ、千の心が乱れれば万の心が乱れるように、際限なく広がる。これが天理であり、自然なのです。

 そもそもすべては不徳であるのです。その不徳が有為転変をとげて聖人・賢者になります。聖人・賢者の本質は仁義礼智信の道を学ぶことです。学問を身につけていれば、政治を行っても公平で私意をはさむことはない。政治が公明であれば、人々は必ずその徳を尊敬する。尊敬があれば、民衆は怠らず農業につとめ、精勤に励むため廃田になるようなことがない。

 そもそもすべては治心からはじめるのです。治心が転倒すれば乱心になります。乱心の根源は不徳です。不徳は不学にゆきつく。不学のものを考えれば怠惰であり、怠惰の者は、学問をなおざりにしていることにあるのです。学問のなおざりは父母の責任に帰されるから、父母は教育に不熱心という過ちを犯せば、その子は政治に無関心となる。不徳は賊乱を生むことになるのです。我をみるときに、二つの見方があることを尊徳も一円の対概念のなかで位置づけています。前掲書、401頁~404頁参照

 人道は労働を基本にして推し進められていく。尊徳は、生民の勤労を計る時の一円として、一日の生活の中で、労働の占める位置を表している。辰の刻(午前8字時)から午(正午)未(午後2時)から茜の刻(午後6時)ということで昼間の8時間を働く時間にしている。現代の8時間労働制の見方は、尊徳においても勤労の時間として考えられていたのです。前掲書。396頁参照

 尊徳にとって、上下は交流し、相互扶助していくのが人間の道であるのです。上下貫通弁用之解。天地の慈愍(じびん)なければ万物生育せず。天地の慈愍によって万物生育をなす。天地の慈しみあわれむことを万物生育にとって重要なことと尊徳は考えているのです。神仏の擁護なければ諸災降伏せず。神仏の擁護によって諸災降伏をなすとして、人々の災難から加護する神仏の社会的役割をみています。

 帝威の厳重(げんちょう)がなければ四海安寧せず。帝威の厳重によって四海安寧をなす。武威の正道なければ国家平治せず。武威の正道によって国家平治をなす。農民の耕耘なければ次年の衣食なし。農民の耕耘によって次年の衣食を保つ。帝の権威と武の正道によって国を平治することになります。人々の衣食を保つ農民の役割を尊徳はみるのです。

 儒舘の譔諭(せんゆ)なければ聖賢の道を弁(わきまえ)へず。儒舘の譔諭なければ聖賢の道を弁ふることをなす。儒者がいることによって、人々に学問をさとすことができ、人々の徳のある生き方の道を示すことができないとしています。書家の教導なければ揮毫(きごう)弁用に滞る。書家の教導なければ揮毫(きごう)弁用をなす。

 医家の療功(りょうこう)なければ疾病快癒せず。医家の療功(りょうこう)なければ疾病快癒をなす。数者の訓傚なければ間任算法(けんむさんぽう)に礙(とどこお)る。数者の訓傚なければ間任算法をなす。儒者、書家、医者、数者のもつ智と、それらを導く教育者の社会的役割を尊徳は指摘するのです。

 工匠の勤労なければ諸舎の造健ならず。工匠の勤労によって諸舎の造健をなす。商賈(しょうこ)の運送なければ諸品廻便せず。商賈の運送によって商品の廻便をなす。諸職の作業なければ万器自由にならず。諸職の作業によって万器自由をなす。工匠、商売、諸職の作業の重要性を人々の生活をおもいのまま豊かにしていくこととして社会的評価をしています。

 天地の恩恵は、神仏、帝武の役割、農民、儒者書道家、医者、数学者、建築家、商人と、それぞれの職業すべての社会的役割にみているのです。

 一円融合の相互依存では、横につながるものではなく、上下の関係においても同じである。天地自然の道理から、身分的上下も絶対的なものではなく、武士・百姓という上下関係も、一方的に服従するという寄生的なものではない。この発想は、天地・男女・昼夜・貧富・善悪・徳不徳というものに対する考えてと軌を一つにしています。

 尊徳の社会の上下交流と相互扶助は、それぞれの社会的役割を円滑に遂行していくために大切なことになっているのです。身分的上下関係は、絶対のものではないというのが尊徳の考えである。相互扶助の関係からは、服従も寄生的なものではなく、相互に役割を果たしているという見方なのです。前掲書、412頁~413頁参照

 田があるからこそはじめて生命を育成することができ、田畑があってこそ君主は君主なることができるのです。田畑の恩恵があるからこそ、民衆は民衆としての務めができ、財宝は財宝としての価値を示すことです。田畑の恩恵があるからこそ、すべての社会組織も機能することができるのです。

 人間が、人間として踏み行うべき道を一歩もはずすことなく暮らせるのは田畑があるからこそである。田畑は、人間が生きていくうえでの衣食住の基本です。農業の恩恵がなければ、神社仏閣、宮殿、橋や道路、刀剣などもつくれない。人間社会、個々の生活、国家の存亡は、農業あってこそと、尊徳は強調するのです。前掲書、前掲書407頁~409頁 日本思想体系・奈良本辰也二宮尊徳・大原幽学」岩波書店、39頁~40頁参照

 三才報徳金毛録の報徳訓では、「人間界の父母の根源は、天地が命ずるところにもとづいている。自分の存在のすべては、父母の養育にもとづいています。子孫がよく似るのは夫婦の結合にもとづいている。家運の繁栄は、祖先の勤勉の功にもとづいているのです。

自分の身の富貴は、父母のかくれた善行にもとづいている。子孫の豊饒は、自分の勤労にもとです。身体の長命は、衣食住の三つにもとづいています。田畑・果樹の栽培は、人々の労力です。今年の衣食は、昨年の生産です。来年の衣食は、今年の艱難辛苦にもとづいているのです。だから年々歳々、決して報徳を忘れてはならない」。責任編集・児玉幸多「二宮尊徳中央公論社、「三才報徳金毛録」、414頁

 報徳訓では天命としての父母の意味と父母の社会的役割が強調されています。そして、祖先の勤労の功、父母の善行による富貴をのべる。尊徳にとっての人間が生きていくうえでの父母・家族の大切さ、父母に感謝することが記されています。そして、身体にとっては、衣食住に支えられていることです。農業によって衣食住がなりたっており、その報徳を忘れてはならないとしています。衣食住と命は一円で対極にあり、勤労と産業も対極に位置づけられているのです。

 

 結びにかえて

 

 本稿は、現代的な問題意識をもって、二宮尊徳の荒れた農村の再興についての実践の思想を中心に書いた。尊徳の農村再興の実践思想は、現代でも通用することがたくさんあるのがわかった。

 また、その実践を妨害していく勢力も存在することも見逃してはならないのです。地域の人々が、必ずしも未来にむかって、新しい豊かな地域社会をつくっていくとはかぎらない。そこには、自分の地位の安泰しかみないリーダー層や自分の私利私欲によって、従前の既得権にすがる人々がいるのです。

 従前の路線による目先の立身出世主義しかみないものも少なくないのです。現代社会は、地球規模の気候問題にみまわれて、温暖化が深刻になって、持続可能な地域社会づくりが急務になっています。

 このなかで、自然にやさしい地域循環型経済が求められています。農業と太陽光発電をシェアーしていく新しい技術も開発されています。プロブスカイトの素材によって、新たな再生可能の太陽エネルギーや新しい固体電池の蓄電技術開発も進んでいる時代です。

 有機農業づくりで食べ物から積極的に健康を考えていく時代にもなっています。農業と福祉の連携ということで、農産物づくりは、心のやさしや絆づくりにも大きな役割を果たしています。

 農業の教育力として、子どもたちや青年たちが、農業に接して、人間と自然の関係性を知り、自然の豊かさを農業活動によって知るようになっています。植物の生長とともに、人間の育ちのなかに農業は大きな役割を果たす時代になっています。

 このような人間がいきていくうえで、大切な食糧確保ということを積極的にしていくことも、それぞれの国民に課せられたものです。農業の自給率を向上させていくことは、日本の国民を物資的な側面ばかりではなく、心の面、文化の面からも豊かにしていくことにもなるのです。

 セルロースナノテクの発達によって、鉱物や石油に代わる素材開発も進んでいます。 時代は大きく変わることを人類社会の永続性に求められているのです。このような未来社会を地域で持続可能性をもって築き上げてうえで、地域で暮らす人々の生活を第1にして、そこに暮らす人々が自分自身の課題として、主体的に参加していく手法で、二宮尊徳の荒れた農村の再興の仕法は、大いに参考になってくるのではないか。