社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

自由への社会教育:カール・ポランニーの社会的自由論から

自由への社会教育:カール・ポランニーの社会的自由論から  

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問題の所在ー人間・自由・教育ー  

 新型コロナのなかで、自由ということを人間関係のなかで、みることがあらためて問われています。人は一人で生きているのではなく、社会的関係のなかでの生活が一層に強まっているのです。

 しかし、意識は個人化しているのです。実際の社会的関係をもって生きていることと、意識の個人化の矛盾が深まっているのです。この矛盾を解決することは新型コロナのなかで、感染症対策としての政治的役割の民主的な規制が鋭く問われているのです。

 誰にでも人間的な自由に生きる権利があります。自由とは、人間らしく生き生きと暮らせることで、幸福の探求でもあります。しかし、人間らしく生きることは、社会のなかで実現できることです。生活の社会化で家庭でやっていたことが様々に商品化され、自給的な分野は縮小しているのが現代です。

 現代は、社会的社会的分業化が一層に細分化しています。目的意志的に協働や共生ということでの社会的関係を持つことが必要になっています。それをしなければ、人々は孤立化して、人間が本来的にもっている愛他主義的、相互精神による社会性をもつことが出来ずに、欲望と価値の攪乱によって、規範のない精神的な虚脱状態の病に陥ることで、自殺への基盤になっていくのです。分業の発展によって、個性発展の条件が増していくプラスの面があります。それは、束縛がなく、自分を高めていきたいう意識も高めていきます。しかし、愛他主義や協働の相互精神が欠落していけば、人間的に社会的自由が失われていくのです。

 そして、思う存分に自分の意志で、仲間と共に、したいことをして、より人間的に豊かに文化的に生きたいという願望も強めていくのです。ここには、それぞれの個性と、社会的に個々の多様性から、相互に尊重し、協働し、連帯していく社会的要求があるのです。  

 ところで、社会的存在の自己認識をもって、束縛がなく、自分を高めるためには、文化的に生存する権利、教育を受ける権利が必要です。また、文化的芸術やスポーツの条件整備の保障、学問の自由、その条件整備の保障が不可欠です。

 社会的存在である人間の生活が、より社会化していくなかで、一方で無縁社会現象という孤立化がみられています。このなかで複雑化する社会でのものごとを学習せずに、単純化してイエスかノウという二者択一思考になっていることを見逃してならないのです。

 そこでは、大衆化現象のなかで、画一性の価値観や群衆意識が形成され、権威や独裁志向もみられていきます。さらに、学習して理性的に社会をみるのではなく、不満、うっぷんを感覚や感情で政治的行動に走ることが起きるのです。

 つまり、ポピリズムがはびこっていくのです。SNSの普及のなかで、自分の興味関心のみの情報検索で、発信する方も極端に刺激して、その傾向が一層に強まっているのです。デマや人権を犯す情報が拡散していくのです。社会的意識の空気をつくっていくマスコミの役割が大きくなっていくのです。

 無縁社会で、引きこもり現象も重視しなければならないのです。いじめや挫折を経験して、社会的に人間関係を持てなくなっていることがあるのです。心の中ではさまざまな葛藤をもちながら、ときには生きることに否定的な面があらわれたり、狂暴的な心になることがあるのです。さまざまな人間関係をもちながら人間は是正されていくのですが、孤立化と無縁社会のなかで、むき出しになったり、SNSによってのターゲットにされるのです。

 民主主義のためには、それぞれのコミュニティの絆をつくって、自由に身近な生活を基盤に、きめ細かくさまざまな組織、機関、たまり場をつくることが求められます。そして、地域で暮らすことを考えて、実践していくことが重要になるのです。

 地域における民主主義の実現には、住民の参画による自治地方自治が求められるのです。地方自治は国家としての民主主義体制にとって、基盤になっていくものです。民主主義のための暮らしに根ざした社会的に自由をみていく地域主権国家像が大切なのです。

 この国家像を地域で充実していく過程のなかで、民主主義を学んでいくのです。学びの過程がなければ地方自治は充実していかないのです。まさに、地方自治は民主主義の最良の学校、その成功の最良の保証人というジーエムス・ブライスの格言です。

 地域の民主主義、地方自治の充実には、地域の暮らしに基づいて、あらゆる場所、あらゆる機関、職場での社会教育の役割が極めて大切なのです。

 現代は国際的に、独占が支配し、資本主義的な新自由主義的な弱肉強食の競争があります。この状況は、分断と孤立化、格差を進めます。ときには平和を脅かす紛争になることもあります。この矛盾の解決には、国連などの人類的普遍的原理の平和主義、社会的自由や人間の尊厳という人権の理念のもとに、国際協調主義と寛容の精神で国際的独占を民主的にコントロールしていくことが必要になっています。

 ここでの独占は、それぞれの分野での資本、経営、情報があります。また、国家行政の集権化により、官僚的独占、情報の秘密化・独占、政治的意志決定の独占化などがあります。

 独占が支配する社会では管理主義が支配して、一人一人が自由に創造性をもって社会貢献と未来へと挑戦する機会が少なくなっていくのです。リーダーではなく、管理のみで、新しいことを嫌って自己地位の防衛のみに走る統括責任者が増えていくのです。

 とくに、教育は未来をつくりあげる重要な役割を果たしますが、創造性よりも管理主義的教育評価が競争社会のなかではびこることが起きます。それは、学力競争、競技競争、コンクール競争による成果主義に陥っていく側面が強くなるのです。

 お互いに協働関係の中でも、切磋琢磨は大切なことですが、弱肉強食競争の論理は人間性をいびつなものにさせます。このいびつを子供のときから押し付けられるのです。

 科学や文化、生活習慣や秩序を継承して、持続可能な社会へと発展させていくには教育の力があるのです。

 未来への持続可能な社会をつくりあげるためには、国民の参画、コミュニティの自立化、国会の国民統治における重要な国民的合意討議や民主的意志決定の形骸化を是正していくこと求められていくのす。ここでは、教育の独占的支配からの国民の教育権、生涯にわたる学習権が重要な意味をもっているのです。

 さらに、さまざまな分野での独占的支配からの自由を獲得していくことがあるのです。そのためには、社会として、基本的人権の確立、なかでも生存権を中心とした社会権の保障が必要です。

 どんな人間でも、より自由に、創造性をもって人間的に花開くという考えをもって自由に生きたいという要求をもっています。

 市民的な国家からの自由権を含みながら、市民はそれぞれの分野でコミュニティをもち、個々の市民的自由でも社会的自由を求める時代が必要なのです。

 ここに、政治的に社会ルールと税などをとおしての民主的分配、独占の民主的コントロールの課題がでてくるのです。民主的コントロールのない権力は自由の宿敵になるのです。

 現代の資本主義の独占化した社会構造の矛盾のなかで、それを是正していく自由社会主義を展望する必要があるのです。平等主義という名のもとに、官僚主義的行政管理の全体主義的な国家社会主義とは異なる意味で、資本主義の矛盾を解決していくという自由社会主義という概念を用いたのです。

 また、選挙で選ばれたリーダーが絶対的にすべてを国民から委任されて、自由に自己の考えで行政権力を動かしていくという選挙全体主義・独裁主義とも異なるのです。

 憲法・法のルールのもとに、議会制民主主義の理性的話し合いによって、さらに、国民の請願権、オンブズマンなどの監視、パブリックコメントなどの住民意見、参画を尊重して、科学的専門機関の学術審議会、各種の行政の審議会をより国民要求実現目線で専門家を選定して、行政を遂行していくことが民主主義のルールであるのです。

 行政権力を民主的にコントロールしていくためにも住民参画が求められているのです。このためにも社会教育は重要な役割があるのです。社会的自由は、社会権やコミュニティとの関係での自由です。このことから、国家や地方自治体に、その実現の課題があるのです。

 貧困層の人びとは、自由の保障によって、社会相互の役割機能からの社会的な責任性を踏まえて、自由に自己の能力を切磋宅して、コミュニティでの自由の世界に参画出来るのです。

 独占に対して、民主的コントロールによって、中小零細企業個人事業主も経営の自由が保障されるのです。ここでは、すべて人々や大企業も含めてすべての企業が、自由に切磋琢磨して能力を発揮し、創造的仕事がされていくのです。

 働く人々が協働方式で自ら出資しての福祉、環境、学童保育・子育て、小農・森林、地域の絆起業などの分野でワカーズコープで起業づくりをしているのも注目するところです。労働者が積極的経営参画していくことです。

 また、一般企業にもおいても、労働者の生きがい、幸福探求として経営参画の取り組みもみられはじめています。この取り組みのひとつとして全員参加方式のアメーバ経営があるのです。労働者の民主的経営参画が大きな課題になっているのです。

 政治的には格差社会、独占社会のなかで、すべての人びとの自由の保障と国家からの自由ということが必要なのです。ここでは、自由ということを弱肉強食の自由競争と、競争の結果、富を独占的にもつ層や政治権力を握る層の利己的な欲望拡大の自由を意味していないのです。いわゆる独占中心による国家が進める新自由主義的な自由ではない。  

 自由ということが動物的に欲望をふくらませ、際限なく利己的に生きることではありません。人間は学ぶことをとおして、理性と豊かな感性をもって、動物的な欲望をコントロールしてきたのです。それぞれの歴史的な段階によって、そのコントロールの仕方は異なってきました。

 社会的存在の人間は、文化や文明を継承し、創造して、自然との関係を持ち、社会の持続性をもつために、自由に学ぶことが不可欠であったのです。 この学びは、個々の人間的成長のための学びで、自由に生きるためです。

 それは、自発的なことを基礎にしたものです。そして、生涯にわたっての学びは、年齢とそれぞれの仕事に応じて、地域の課題に即していくのです。また、社会の変化、政治的状況に応じていくものです。  

 自由とわがまま、自分勝手に、利己的生きることと、人間的に自由に生きることは違うのです。わがままは、他人のことを全く気にせず、利己的に生きることです。それが、本当に人間的に自由であるのか。自由ということをじっくりとみつめる必要があるのです。  

 より人間的に生きることを考えていくうえで、人間とはなにかをしっかりと見つめていくことが大切なのです。人間は、動物と根本的にどこが異なっているのでしょうか。人類の100万年の歴史からみてみましょう。この問題をNNKスペシャル取材「ヒューマン」 角川書店を参考にして考えてみました。

 類人猿からヒトになっていく過程のなかで、仲間のなかで食べ物を分け与えることが、ヒトへの進化のうえで決定的に重要なことであったのです。動物は、自己欲望のために満足するまで食べます。人間は足るを知るということで、他人のことを考えて欲望をコントロールします。

 種族保存のために、動物でも母親は、本能的に子どもを育てるために、食物を与えることもあります。人間は他の人のために分け与えるという特徴があるのです。  

 旧石器時代ホモサピエンスというヒトとネアンデルタール人との比較で、3万年前に、なぜネアンデルタールン人は滅んだのでしょうか。肉体的に強靱であったネアンデルタール人が絶滅して、ホモサピエンスの人類祖先がなぜ生き残ったのでしょうか。  

 類人猿からヒトになっていくことは、二本足歩行で、素早く動き、行動半径が広くなり、手を動かすことが出来たのです。

 そして、石器などの道具を使用することが可能になったのです。ヒトは、狩りをすることができて、自然のあるがままの状態ではなくなり、家族を伴って集団生活をするようになるのです。

 家族や血縁的小集団は、狩りをした食べ物を分け与え、火を使って調理をし、保存を意識的にするようになるのす。 

 ネアンデルタール人は、筋肉隆々で強靱な体力をもっていたことから、巨大な動物に立ち向かって狩りをしました。そこでは、道具を使って、共同の力で狩りをするよりも自らの体力によって、獲物を捕らえたのです。

 しかし、ホモサピエンスは、ウサギや鳥など小動物を取っていたのです。両者の知能は互角で、火も用いていまた。 

 両者の決定な違いは、体力の弱かったホモサピエンスの特徴にあったのです。ホモサピエンスは、道具を使って、集団的に獲物に立ち向かい、道具を発達させ、家族集団の生活から、集落をつくったのです。そして、ネットワークをつくって、社会を形成したことです。ここに、人間の真の起源があるのです。

 社会の形成とホモサピエンスが人間になった起源と一致している見方です。ここでは、社会の形成によって、原始的な家族生活の単位から脱皮して、飢餓からの克服に努めたということです。

 また、ヒトは、社会のなかで生きるということで、個々の意志を伝達できる能力を発達させてきたのです。それが、言葉です。言葉をもって、コミュニケーションをすることは、より人間的な行為なのです。

 この行為には人間の意志の正確な伝達、意志の継承ばかりではなく、喜びや悲しみの感情、痛い、熱い、寒い、気持ちがよいという感覚を表現し、伝える機能をもって発達していくのです。コミュニケーションは人間にとっての基本的な行為なのです。  

 人間にとって、生物的側面がありますので、生きていくために、根源的に、衣食住の欲望は誰でも持っています。そして、文明の発展によって、その欲望は、文化的側面を強くもって、拡大し、社会的に複雑になって、変化していくのです。人間の起源と社会の起源は、同時ですが、人間の社会には、リーダーが常に求められてきたのです。  

 人間の社会は、家族的な共同体のなかのリーダーから地域的共同体へ、そして、民族的アイデンティティをもった国家へと発展していくのです。

 近代社会は、生きていくための物資を得るために、市場経済をとおして行われ、人間社会に市場経済が支配するようになったのです。人間の欲望は、このなかで拡大し、金銭が決定的に大きな力をもつようになります。  

 人びとが自由でありたいということを考えていくうえで、今、もう一度人間とはなにかということが大切なのです。

 現代社会は、大衆化社会の状況のなかでオンラインのネット社会が発達して、相互に顔をつきあわせて、直接に会話して、お互いの意志をまじりあう機会が少なくなっています。

 機能的にはネットでつながっていても、なにか感情的に、感覚的にも仲間と一緒であるという社会性を持たなくなっているのです。  

 また、孤立化状況で誰とも話をすることの出来ない人びとも生まれているのです。まさに、孤立して、コミュニケーションという言葉をもたず、社会性を持たず、不自由な状況におかえている人びとが増えているのです。

 現代日本での外国人労働者として働いている人びとは、日本語もわからず、簡単な命令語のみによって、働かせられている現状があります。人間らしく生きていく側面からみるならば、コミュニケーションができずに社会的な労働をさせられているのです。

 このことは、人間的な暮らしということからどうなのか。自由という側面からみるならば、極めて不自由な生活を強いられているのです。

 

カール・ポランニーの社会的自由論

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 20世紀の世界的矛盾は、ファッシズム、ロシア国家独裁社会主義、人間を犠牲にする無慈悲な自由放任主義が人類的危機を作りだしたが、カール・ポランニーは、自由こそ社会の真の調和の基礎として、自由社会主義を説いて、これらに対して、積極的に挑戦した人類学的な経済学者でした。  

 ポランニーは、社会に対して、責任ある自由の強調として、経済的公正を求める社会的自由を重要視したのです。それは、資本主義的経済のしくみによって、格差が拡大して、経済的な不平等の解消、貧困化、飢餓からの克服をあげたのです。

 それは、独裁的な体制により公正ではなく、民主主義の本質による公正の要求なのです。責任ある自由の良識ある精神は教育の力によって達成できるとしたのです。まさに、社会的自由と教育の役割は車の両輪ということです。

 現代的にみれば、まさに、生涯学習としての社会教育が、社会的自由にとって不可欠ということです。このことから、社会教育関係者にとって、自由を基礎にした民主主義のための教育活動を考えていくうえで、ポランニーの見方は参考になるのです。

 ポランニーは、民主主義にとって、公正と人間的自由を大切に考えたのです。そして、真の人間の自由をめざす社会主義の運動は、公正の要求ということだけではなく、個々の人間的精神の自由と責任倫理が求められるというのです。それには、他人に対する意志の自由の闘争が大切ですと、次のようにのべます。

 「公正が民主主義によって実現されることで、実際に倫理的進歩を意味する場合にも、それは公正の本質ではなく、民主主義の本質によるものであって、民主主義はたとえまだ取るに足りないものだとしても個々人の責任とは切り離せないのである。いずれにしても社会主義は、人間の外面的平等の要求である公正の要求にとどまっていない。

 しかし、社会主義は、公正の要求を経済に拡大することで、不正が経済必然性として支配している社会状態、けれども人間がその経済の必然性も制御できないでいる社会状態に対立している。経済的公正を求める闘争は、人間が自分の意志の効果を支配していないような社会状態に対立している闘争に、つまり、人間の社会的自由という新しい自由のために社会的必然性全体の克服に求める闘争に通じている。」(1)  

 ポランニーは、封建制からの解放として、近代の市民革命によって、得られた人間の市民的な政治的自由などの外面的な平等から経済的な暮らしの平等へと拡大して、社会的自由を積極的にのべているのです。

 ここには、資本主義の発展による矛盾の克服のための文化的生存権社会保障、人間にふさわしい労働保障に関する権利、人格の完全な発達をめざす教育に関する権利保障などの社会的人権の確立の問題があるのです。  

 人間的なものがもっと直接に生活に密着して、発展していけば、それだけ人間は自由になるということです。それは資本主義的な市民社会ではなく、社会的自由の保障された社会とするのです。

 資本主義的な市民社会の自由の概念は、市民たちの社会ではなく、実際に国家のルールづくりから対立しているのです。

 個々人にとって、自由はユートピア的な存在なのです。他者の生活や社会的現実に責任をもっての自由の関与は、資本主義的な市民社会では実行不可能なのです。

 自由に行為することは、人間の相互関係に関与することに、責任があるという事実を意識して行為することと、ポランニーは、次のように社会的存在としての人間性と自由の問題をのべるのです。   

 「社会的自由の真の概念は、人間と人間との実在的関係に基づいている。社会的自由の概念はわれわれに次のような二重の認識によって、この責任をおしつける。すなわち、一方では、社会的結果をまったくともないわないような人間の行動など存在しない、ということであり、他方では、社会のなかでは、どういうかたちであろうと個々の人間の行動に基づかない存在、権力、構築物、法則は存在しなし存在しえない、ということである。社会主義者にとって、自由に行為するというのは、われわれが人間の相互的関連-その外に社会的現実は存在しない-に関与することに対して責任があるという事実、まさにこのことに対して責任を担わなければならないという事実を意識して行為することである」。(2)  

 社会的自由の真の概念は、人間的に人びとが生きるうえで、社会的存在を無視することが出来ないことを認識することが大切ということです。その社会的な役割や責任のなかで、自由になっていくということです。  

 自由と社会的責任  自由は義務や責任から自由だということではなく、幸福感を感じるのは、家族、友人、仲間、地域、社会との人間関係で増していくものです。それらとの関係で、義務と責任を担うことでより自由になるのです。個々人の自由と責任は内面的生活において不動の基礎です。  

 個人的自由と社会的自由の問題が鋭く交差するのは、法が生まれる瞬間に個々の自立的な意志と対立していくのです。個人の内面的自由にとっては、独立の出来事の現存する意志と対立します。

 その解決は個人自身の内部で行われのです。個人の意志と共通の意志、共通の決定との違いがあります。個々人の意志を社会化された状態においてで、合計し、統合化されていく共通の意志が大切です。

 共通の意志にしていくには、人間の様々な願望を整流することが必要で、その際に、個人ごと異なる動機から分離することによって、統合が可能となるというのです。動機と意志の分離は、意志の社会にとって必要なことです。

 「意志の社会化された形態は、必然的に物的なもの、本来の意志主体から疎外されたものであり、意志主体に外側から対立する実態なのである」。(3)  

 法における共通意志と個人の内面的自由について、ポランニーは法の重要性を強調しています。法という社会の共通意志は、社会的なルールとして機能していくのです。それは、権力の強制力ということではなく、個々の意志の社会化として捉えていくことが必要です。

 しかし、動機や願望という個人的自由と社会的自由の分離が起きるのも現実です。その解決は、個人の内面によっての社会的責任性からです。この同じ現象が分業的社会経済のなかでも起きると考えたのです。孤立した個々人の欲求が、多様な種類の生産の量的割合が相互に社会の欲求に対応して配分されるのです。

 そのことができるのは、個別欲求が総重要として、全体欲求へ合計されていることになるのです。個別欲求と市場の一致、つまり、総重要と総供給は、対立していくのです。市場での価格は、個々人の意志から完全に独立していくのです。

 個々人の人格的自由は全く通用しないとポランニーは指摘するのです。自分の労働と欲求の社会化という事実は、かれの人格的自由によって破棄されるのです。かれの調整は、彼自身の内部でしかできないのです。「彼の意識のなかで欲求と労働活動が相互に直接に対立することになり、これらの矛盾をする動機の葛藤を、彼は自分の内面において人格的自由の枠内で自己の責任で調停する」ということになるのです。(4)  

 人間相互の社会的関連は、政治的領域でも経済的領域でも精神活動の統合をもたらし、それと同時に疎外を生じるのです。社会的自由の獲得は、社会的決定を本当に自分たちの手で収めることはどうのような手段が必要であるのかとポランニーは問いかけるのです。 

 それは、人間の個別的生活間の現実的関連を具体的に把握することの社会的認識によってできることです。まさに、社会的に認識による人間の相互的生活の現実的変革によって成立するのです。見通しの高度化という意味でも社会的認識によって、自由が獲得されるというのです。

 社会的自由の獲得には、学びが必要で、それによって、主体的参加していくことで実現していくのです。参加民主主義の課題が政治的領域でも、経済的領域でも必要なのです。  

 「見通し問題を経済の境界を越えて一般化し、人間相互の社会的関連総体に拡張するのである。それこそ社会的認識と呼ぶことができるものである。社会的認識による自由、それが人類の道である。それは社会の現実的変革のみによって可能なのでだ」。(5)  

 社会的に認識によって、相互に個々が関連性をもって、自由を獲得していくというのです。これが、できないならば、社会の分断の固定化が進み、個々が排他的に争いを起こし、孤立化という無縁社会になっていくのです。

 

 民主主義と自由  

 

 それぞれの消費と生産の機能によって、互いに交渉していく機能的民主主義や機能的代表制の政治理念は、社会的自由を獲得できるとポランニーは次のように指摘します。

 「機能的民主主義の理念は、われわれの理解では、さらに法と経済の相互関連によって表現される客体化の絡み合いを解きほぐし、それを直接に自由の領域に移し替えることに帰着する」。(6)

 大衆文化の時代では、民主主義を救い出すにために、経済的教養と政治的教養をもつことが極めて大切で、その新しく動いている経済、失業問題、技術問題など新しい知識欠如があるとポランニーは次のようにのべるのです。

 「近代の民主主義を阻んでいるのは、近代の経済生活の諸条件と基本法則についての知識の欠如である。古い知識はここでは十分ではない。問題も新しいからだ。戦後世代に与えられたような通貨制度は新しい。持続的大量失業も新しい。戦争から生まれた計画経済の始まりも新しい。

 われわれの世代には、技術と経営の産業革命の経験も新しい。世界の信用経済の比類なき緊密な関連もまったく新しい。問題が新しいのと同じように、それに適応されるべき認識もほとんど新しい。理論経済学は通貨制度、景気、恐慌、合理化などへの適用に関してほとんどまったく新しい学問である。そして、新しい知識はまだ新しい教養になっていない。仕事、日常の日々の意味を大衆的に明らかにするのに役立った場合にはじめて、知識は教養になるのである」。(7)

  新しい社会の状況に対応しての学問や知識が仕事、生活も日々の暮らしとの関係で、その意味を大衆的な教養にしていくことが切実に求められているのです。

 現代では、知識の新たな使命に直面しているのです。さらに、現代の技術と現代の交通は、国民経済と世界経済の分業的構造をあまりにも複雑なものにしたのです。

 ポランニーは、個々人も立場に関する見通しがまったくつかなくなったとみているのです。この見通しのないことが、民主主義と経済を隔てる溝になっているというのです。そして、知識不足と現実の社会に対する責任感の形成の重要性を次のようにポランニーはみるのです。

 「知識がいかにこれまで知られていなかった諸関連に対する責任感を自分のなかに呼び起こすか、を感じる。民主主義の組織がより豊かに、より深く、より多様に拡充されればされるほど、この責任感もそれだけ現実的なものになる」。(8)

 20世紀の社会は、分業が進み、それぞれの領域・分野の溝も深まって、より複雑になっているのです。こらのことは、政治や経済などの社会科学的な教養は一層に重要になっているのです。この教養の基に、社会的責任が求められているのです。

 民主主義の内容は、社会科学の教養のもとに、より深く、多様に拡充していくことが必要な時代です。人間的自由の充実による個々の学びは、現代の民主主義にとって不可欠な条件なのです。

 20世紀の自由と独占市場  ポランニーは、互酬性という透明な人格と人格の関係をもつ共同体社会から、分業による人間の相互関係を結ぶ市場への複雑社会の概念は、現代社会を分析していくうえで、重要な概念としています。

 人間相互の関係が人格的に透明な共同体の社会にたいして、資本主義的分業による市場の発達は、それぞれの選択や行為の意志に社会的強制力を及ぼしているのです。そこでの経済的相互行為は、道徳的影響を無視し、他者の精神生活や人格の影響に責任性をもたなくなるのです。

 自由主義的資本主義の市場経済は、競争と生産手段の私的所有ということから、価格の盲目的支配に従って機能するのです。この支配下で良識からの逸脱が合理性の外観をまとって行われるのです。 

 商品に人間が付着している事実、商品を処分する人間的存在は無視されるのです。それが、20世紀になると巨大なトラストや独占の市場になることによって、正義と安全という社会的責任が完全に放棄されていくのです。  

 19世紀の金本位制の世界秩序と無政府的国家主権との自己調整的市場は、調整を経済的利己心に依存していたが、しかし、20世紀の時代は、社会的・経済的混乱、不況の周期的な悲劇、通貨の動揺、大量失業、社会的地位の激動、諸国家間の劇的な瓦解のなかで、人間的な社会的責任として、最悪な経験をしたとしています。市場の自己調整は全くできなくなり、社会的自由を求める人びと努力、民主的社会的統合が進まない限り、欲望の連鎖のもとに社会が独裁化していくのです。  

 20世紀の資本主義の独占化という複雑な社会における社会的自由の課題について、ポランニーは次のようにのべるのです。

 「制度的な次元では、規制が自由を拡大もするし制限もする。ここでは失われた自由と獲得された自由のバランスをとることだけが重要である。このことは、法律上の自由についても実際上の自由についても等しく当てはまる。裕福な階級は、余暇によって提供される自由を安心して楽しめる。所得が少ないために最小限の自由で満足しなければならない人びとにくらべて、社会における自由の拡大に裕福な階級が熱心でないのは当然である。

 ・・・・19世紀の経済的副産物であったが、われわれは自由を大切に育むようになっている。政治と経済の制度的分離が、正義と安全を犠牲にした自由をほとんどで自動的に生み出した。市民的自由、私企業、賃金制度が、道徳的自由と精神の独立を好む生活様式に溶け込んだ。ここにおいても法律上の自由と実際の自由が社会の全体の基盤のなかに混入しており、それらの諸要素を厳密に分離するおとは不可能である」。(9)  

 正義と安全を犠牲にした自由を自動的に20世紀の複雑社会は生み出しているとするのです。20世紀の市場経済のもとで、自由も平和も制度化ができずに、失業や投機業者の繁栄をつくりだしたのです。巨大なトラストや独占体という虚構になった自由企業を弁護するためのエセ自由主義謳歌するようになっているのです。ファッシズムにおける自由の徹底した破棄は、ここでの自由主義哲学の不可避的結果です。(10)  

 複雑な社会では自由企業などは、幻想的な自由の概念なのです。巨大化したトラストや独占企業の自由そのものを放置することは、ファッシズムへの道になるというのです。

 ファッシズムが権力を獲得したのは、独占化した企業による自由主義者の努力である。独占敵企業の自由主義者による計画化、規制、管理が行われていくのです。ここに、ファッシズムの勝利が起きていく。独占化した企業などの複雑化した社会での人間的自由を獲得するためには、社会的に民主的規制が求められるのです。つまり、自由や民主主義を実現していくためには、社会主義的な見方が必要になってくるのです。

 

 自由と平和の創造

 

 自由と平和の創造は意識的に追求しなければならない時代です。諸国民の平和の意志は、世界的努力が必要な時代であるとするのです。

 平和ばかりでなく、個人の自由の保障手段、権力をおそれることなく良心に従う自由の保障、科学と文化の自由の保護、中央権力の集中強化による個人の自由の権利を守る民主的社会的集団が求められるのです。 

 独占化した複雑社会でのあらゆる市民的権利・自由の保障は、意識的に民主的社会的統合へ向うものでなければ実現できないものです。つまり、社会的自由の拡大をともなうものです。

 ポランニーは、ルソーの自由の条件設定は、画期的なものであったという認識です。それは、直接民主主義は、異なった条件によって制度や統治形態が要請され、人間は教育され訓練され、統治形態が要求する生活に慣れていかねばならないとした。

 自由な社会が存在するためには、市民が公共心をもち、私心もなく、市民的徳に身を捧げ、自分たちの祖国と自由の制度のためにすべてを犠牲する覚悟が必要ということです。(11)   

 自由を可能にする制度は、協力や競合といった形です。自由が制度のなかで居場所を見出すのは、人格、統合、個性、不服従=非同調がすべてに達成されるときです。交易の組織化が、公的であれ、私的であれ、個人の自由に関する問題ではありません。交易と商業の組織化に関わる自由は、良心の自由の価値づけ、制度面の保護ということに何も関係がないと。(12)

 国際理解と平和の問題の本質について、ポランニーは、戦争のない状態、戦争を抑止することをつくりだすことであると考えるのです。戦争というのは、人のいるところどこでもあるという見方は誤りで、戦争のない時代があったことを知るべきであると。

 戦争の制度的機能を否定し、戦争は、精神や気質の異常であるとみなし、人びとにとって、利益に合わないという哲学が必要なのです。戦争は、民衆の情熱、感情のほとばしり、憎しみや嫉妬の激情に駆られた判断の誤りです。戦争は、人間の原始的、未開人に備わった獣性としての制御不能な本能がもたらす盲目的衝動によって引き起こされたとポランニーは考えるのです。(13)

 平和の公準として、戦争を廃止していくことは政治の根幹です。平和を求めているにもかかわらず、行動しないことは、平和への道のりを麻痺させると指摘します。

 現代の国際化した状況で、戦争をなくすのは国際的経済秩序で、その相互依存の再調整をしなければならない時代です。征服や従属、国際協調かの選択が問われているのです。制御不能な国際的な力にふりまわされるのではなく、国際的組織化という新たな基盤のうえに、国家間の協力、地球規模の協力ユニット、世界連合を形成する歩みが必要な時代です。(14)

 

 教育・科学と自由  

 

 近代の人目をひく浪費の文化は、浪費する階級にとっても価値あるものではありません。単なる階級的優越の現れにすぎない。

 この文化は、道徳を損なう悪影響をもたらす。生活を豊かにするためではなく、それを妨げ、挫折させ、破壊するというのです。真の文化にとって一番必要なことは、社会的現実に即応して、生活様式を創り出すことです。都市の文化は産業革命以降に深刻な欠点をもったとポランニーは考えるのです。(15)

 アメリカ合衆国の教育の経験について、公的生活な理想主義が高くかかげられているが、生活の糧を得る実際目標に主要な関心がむけられているとするのです。

 学校は社会的協働を世間にもたらす機関として、子ども達を意識的に適応しようとするのです。その動機をもっているのですが、しかし、実際の経済の影響から失業という問題があるというのです。仕事を得るための学校の否定現象があるのです。このことから、アメリカ社会の格差の現実から教育がいかなる課題をもっているのかを考える必要があるのです。

 アメリカ社会の新しい環境の変化における個人ならびに小集団が、社会の可塑性をもっているというなかで、社会建設の教育効果があるということです。社会的に有効な教育努力の可能性を社会の具体的な在り方から離れて教育の社会的効果を抽象的に考えるのは幻想であるとポランニーは考えているのです。(16)

 科学は人間の主権を超えるものではないということもポランニーの見方です。科学の成果は知識の連続性の中ではなく、同じ目的に向かって協働するさまざまな技術の束の中で蓄えられます。社会科学は目的達成のための手助けを問うだけではなく、それが人間の生活にどの程度妨げになるかを問うという二重の意味をもっているのです。

 人間の判断には慣習的隔たりがあり、そうした背景を科学的に分析して、その結果によって、人びとの能力を高め、遂行してもすべての人がなんの迷いもなく決断できることは奇跡に等しい。(17)

 科学についての公準は、人間的に生きるということから、科学的に進歩を考える必要があるとするのです。ポランニーは、科学を無分別に使用し、知識が人間に及ぼす本質に多様な在り方を強調するのでする。

 知識について、人間が生きていくうえで根本的に直接的に影響をもつものもあれば、目的やねらいに資するという実用的、道具的にすぎないものもあるのです。道具的知識は人間の暮らしに有用な側面をもつ一方で、人間の外的および内的な生を破壊するかもしれないものがあるのです。医学でも、教育でもあるのです。

 社会が責任をもって、知識の保護をすることが必要なのです。知識操作における放任的自由主義はファッシズム的反応になるのです。以上のように、ポランニーは、社会が責任をもっていくという人間と科学の円熟した関係が求められているというのです。(18)

 自由と技術の問題についてポランニーは、技術は自然を支配するための道具にすぎず、恐怖の諸要因を減らして、人間に安全確保の手段を付与したということです。技術文明は、自由の物理的な具体化であって、生活の豊かさを創出します。豊富な事例から自明です。無知と無力から技術文明は抜け出したのです。

 しかし、複雑な社会の中で、技術の危険が現実的になっているのです。技術の発展によって、人びとは恐怖の瀬戸際になり、社会は崩れやすく、不安定になっているとポランニーはのべます。複雑な社会は人類の初期社会と似ているというのです。少しでも収穫が悪いと滅んでしまうと同じように、平和は、押しボタン式の生活に突入したことによって、社会が恐怖になるのです。

 「技術は、社会の存在そのものを多様な仕方で不安定にします。何もなかったところで産業が成功する場合、その生活は、権力が中央集権的に供与されつづけることに影響されるでしょう。標準的な現代社会の生活は、暖房、証明、交通、伝達、食品事業、さらには報道や指令の提供、調整、法律の施行が遠隔にあるいくつかの専門的機関の機能となるような事態に移行します。その失敗はある種の破壊と等しいのです。事態が悪化すれば、失敗は不確実性の象徴となり、全面的な無力さと極度の不安を結びつけるのです」。(19)

 

 自由社会主義

 

 経済的自由主義と自由放任主義とは同一視できない。経済的自由主義は、産業が自己調整的市場という制度に基づいた社会の組織原理です。

 市場システムと干渉主義が相容れないということではなく、独占体に対抗して、自己調整的市場システムの機能を維持するために、国家による干渉、法の強制力の行使を求めざるを得なかったので、国家による干渉、法の強制を経済的自由主義は求めるとポランニーは指摘するのです。(20)

 競争的労働市場は、労働力の担い手、すなわち人間を直撃するのです。まず、国際的自由貿易の脅威は、自然に依拠する産業である農業とみたのです。

 イギリス統治下で、インドは壊滅的打撃を三度ないし四度起きた。安価な綿製品のために、インドの村落共同体が破壊され、多くの人びとが飢餓で死んでいったのです。北米インディアンに行われた強制的土地割り当ては、1890年頃のポニー族の悲劇など、種族を壊滅的にさせた事件が起きるのです。(21)

 20世紀は、経済において自由ではないとポランニーは見るのです。自由経済の結果としての独占ではなく、自由経済の到来を阻止していると。自由で平等な人間活動を閉め出し、自由競争を正反対の方向へ、有産階級の無産階級の搾取へと向かわせているとするのです。自由経済は暴力的所有から制約されているということで、ポランニーは、所有の独占の問題を重視しているのが特徴です。(22)

 そして、資本主義の経済体制の根幹をなす不公正と搾取は、自由社会主義の立場から、真の労働の自由に対する制約の帰結と考えるのです。等価労働を実現する社会、利潤社会のように生産と社会的需要を対立するのではなく、社会利益を内在的に保障するようにするのです。

 自律的な協同組合の有機的構造の内部では、消費・生産組織を編成し、あらゆる卸売商業、すべての投機、寄生的機構を完全に閉め出すにいたるのです。この構造は機械的ではなく、あくまでも有機的なものです。この社会の成員はだれしも、自身を取り巻く消費・生産協同組合、あるいは他の何らかの協同組合の密な交際範囲の中で、自身が占める位置を見通すことができるとポランニーは考えるのです。

 そして、生き生きした体験から、利己的な経済的衝動と並んで利他的な協働意欲がわき、これらの誘因を常にあらためつつ、個々の人格を全面的に育むことができるとしているのです。(23)

 ポランニーは協同組合主義を新しい自由社会主義形成にとって重視しています。自由社会主義への道は、文化的生存権社会保障などの社会権的な人権を大切にして、協同組合主義はもちろん大切ですが、しかし、独占に対する経済の民主主義、拝金主義、弱肉競争主義による社会的退廃から、税などの社会的分配をとおして、人間らしく生きるための社会的良識の合意形成が必要とポラニーはのべるのです。

 このためには、公正で民主的社会ルールをつくりだす政治の役割があるのです。経済と政治の両面からの徹底した民主主義的社会ルールの確立が求められるのです。いうまでもなく、政治、経済、学問、文化、教育は独自の役割があり、それぞれが国家から自立している社会づくりが大切で自由を大切にする社会主義はその充実を努めることです。

 権威主義、政治や経済の独占から解放されて、人間的自由の活動のために、社会化したすべての社会的組織での参画民主主義を活用して、人間の能力を豊かに発揮できるように、あらゆる場所、あらゆる機会において生涯学習を推進していく社会の実現が求められます。

 さらに、人類の平和を守っていくうえで、国際協調主義が不可欠です。核兵器禁止の条約にみられるように、国連の役割は一層に重要になっています。同時に経済のグローバルが各国の人々の暮らしを包み込んでいるなかで、先進国と発展途上国の矛盾も深まり、自国主義ナショナリズムが大きな影響力をましているなかで、国連の持続可能な開発目標は大きな意味を持っています。

 

 

(1)カール・ポランニー「市場社会と人間の自由」大月書店、29頁

(2)前掲書、33頁~34頁

(3)前掲書、44頁

(4)前掲書、45頁

(5)前掲書、51頁

(6)前掲書、53頁

(7)前掲書、77頁~78頁

(8)前掲書、80頁~81頁

(9)188頁~189頁

(10)前掲書、193頁

(11)前掲書、275頁~276頁

(12)「経済と自由」カール・ポランニー「経済と自由」福田邦夫他訳ちくま学芸新書、46頁

(13)前掲書、115頁~116頁

(14)157頁~158頁

(15)前掲書、165頁

(16)前掲書、189頁

(17)前掲書、200頁~221

(18)204頁~205頁

(19)前掲書、293頁

(20)カール・ポランニー野口建彦他訳「大転換」東洋経済新報社、266頁~267頁  (21)前掲書、288頁~292頁参照

(22)前掲書、ポランニー「自由と経済」319頁

(23)前掲書、319頁~321頁