社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

マルクスから学ぶ社会教育・生涯学習論ー自由と民主主義を求めて

・自由とマルクスから学ぶ社会教育・生涯学習論ー自由と民主主義を求めて

       神田 嘉延

 

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 😒問題の所在

 

 社会教育・生涯学習は、公民館、博物館、図書館などの社会教育施設の実施する教育活動の役割が大きな意味をもっていることはいうまでもない。しかし、それらの教育活動ばかりではなく、生活や労働と直結する学習や職業訓練教育も大切な分野です。さらに、国民や地域住民の民主主義のための統治能力を高めていくことも重要な社会教育・生涯学習の社会的役割です。

 この学習には、国民、地域住民が参画していく参加民主主義を進めていくことが大切です。参加民主主義は、選挙という手段ばかりではなく、コミュニティごとの自治会や住民協議会の地域づくりの活動もあります。そして、直接民主主義になっていく条例制定やリコールなどの直接請求も住民の参政権として大切です。また、パブリックコメントオンブズマンなども大いに意味をもっているのです。社会教育・生涯学習は、これらの地域や職場の多様な国民の学習権に対応していくことが求められるのです。

 とくに、地域の生活や労働に直結する政策は、市町村自治体は大きな役割をもっています。また、労働行政や福祉行政が社会教育・生涯学習との連携が弱く、その学習や職業訓練、保育・介護・医療のケア労働を担うことが切り離されているのです。

 雇用の不安定や、格差拡大のなかで、国民の貧困問題が大きな課題になっています。社会教育・生涯学習として、この課題に立ち向かっていくことは、国民の学習権を生活と労働という側面からみていくうえで、極めて大切です。

 現代社会の雇用や労働・生活の問題を考えていくうえで、近代社会が形成し、発展していくなかでの資本主義の矛盾を考えていくことは、大切です。その根本問題を視点に、現実の問題を一つ一つ克服してきた運動の歴史がありまた。この歴史的な運動の成果が、生存権、労働権、教育権などの社会的人権が確立していったのです。  

 その矛盾克服に努力してきた人びとの学習と意識の変化を考えていくことは、社会構造の変動と社会教育・生涯学習をみていくうえで、不可欠なことです。

 

😃マルクス資本論から機械制大工業の歴史的役割

 

 150年前にマルクスは、資本主義の矛盾について、資本論で明らかにしました。その後に労働者をはじめとする社会的な資本主義の矛盾に対する運動のなかで、社会権的人権が確立していきました。

 この運動には、資本主義の矛盾に対する労働者自身の労働組合をはじめとする学習が大きな役割がありました。

 その学習によっての社会認識は、労働者が資本からの主体的形成でありました。資本と経営と並んで労働者自身の社会的役割は大きな意味があることを知ったのです。

 労働過程における資本の専制からの労働組合をとおして、労使で話し合っていくことが社会的に重要であることになったのです。そこでは、社会権を大切にする交渉や協議が確立していくのです。社会的な矛盾を改革していく交渉や協議の話し合いという民主主義の道が開けていくのです。

 資本と労働の統一によって、働く人びとを重視していくという見方や人間尊厳というモラル資本主義という企業の経営が成り立っていくのです。まさに、対立物の統一という弁証法によって、企業のルールを国家の民主主義の発展というなかで、法整備を伴って、社会的に確立していくのです。経営者の在り方も問われていく社会を醸成していくのです。

 現代は、一方で、新自由主義的な見方から、弱肉強食の資本主義的競争による150年前の利益第一主義の社会的経済的状況の回帰もみられています。

 労働と生活に根ざした学習は、社会的運動を実らせ、労働者の権利を獲得していくのでした。近代社会で発展していった社会権という人権は、労働者自身の学習と運動によって確立していくのでした。

 ここで重視しなければならないことは、感覚的に情緒的に不満の爆発という一揆的なことや、英雄主義な特定の独裁的権威者のリーダーシップに矛盾の解決を求めることが常に生まれことです。

 それは、自由と民主主義の一層の発展をめざす社会的認識を求める学習運動がないなかでの不満爆発による熱狂的な運動なのです。これは、社会主義的な民主主義にも反するものです。

 あらためて、人類の歴史的な遺産である市民的人権、社会的人権を基礎にして、資本主義の現実的矛盾を直視して、未来社会を創造していく民主主義の道が必要になっているのです。現実の矛盾を一歩一歩解決していく人間的な自由の充実と、個々が主体的に参加していく民主主義の発展が、未来社会へとつながっていくのです。

 マルクス資本論1巻13章の機械と大工業のなかで、安価で単純な女性労働、児童労働を大量に動員していくことを述べています。機械は労働者家族の全員を労働市場に投じて、成人男子の労働力価値を全家族間に分割していくのです。そこでは、自由な労働力を売ることを放棄していくのです。機械は労働者自身を幼少時からひとつの部分機械の部分にしてしまうために乱用されていくとマルクスはみるのです。

 資本主義的な機械の充用は労働者の労働を解放するのではなく、自動装置によって、労働条件に労働者が使われることが強固になるというのです。つまり、手労働のときの心身の一切の自由な活動を封じてしまうのです。監督労働と単純な筋肉労働へと工場が産業兵卒へとなるというのです。

 マルクスは、工場内での労働者に対する資本の専制について、ブルジョアジーが愛好する分権も、それ以上に愛好する代議員制も、工場法典は私的法律として自分かってに定式しているとしています。

 機械の使用につれて、労働過程の社会的規制は、資本主義的戯画でしかないとしています。資本・経営者たちは、政治的には、分権とか、代議員制をいいながら工場内の経営では専制的であるとみるのです。

 資本にとって、政治的には分権や代議員制は、封建的特権を打ち破り、営業の自由を獲得していくうえで、歴史的に重要なことであったのです。この分権や代議員制は近代の民主主義の発展にとって極めて大切なことですが、自らの経営にとって、資本は利潤第一主義によって先制的になるのです。

  また、労働者は自らの目先の現象的な矛盾から機械との闘争をはじめるのです。機械は労働者自身の競争相手になると思うのです。実際は、機械の資本主義的充用によって、解雇され、生存条件が奪われていくのです。

 機械による分業は労働力を一面化して、ひとつの部分道具を取り扱うまったく特殊化された技能にされてしまうのです。機械のために余分な労働力にされた人々が生まれて行くというのです。労働者にとって、ここでは、社会的な関係をみることではなく、目先の機械化に奪われているのです。

 一方、すべての侵入しやすい産業部門では労働力市場に満ちあふれ、労働力の価格が押し下げられていきます。機械の社会的破壊作用は労働者層の慢性的な貧困を生み出します。資本主義的機械の充用は労働者に対して労働条件も労働生産物も独立した疎外された姿をみせるのです。

 資本主義的大工業は労働手段が労働者を打ち殺すという現象をみせます。絶えざる行われる機械の改良や自動的体系の発達は同じような作用をするのです。

 資本主義的自動体系のもとでは労働者の才能をますます排除します。熟練度の高い成人男子から熟練度の低いものに、子どもを大人の代わりに用いていくのです。

  ここでは、機械そのものの資本主義的充用から区別し、物資的生産手段の社会的利用形態の重要性を労働者が覚えるためには、時間と経験が必要であったのです。

 機械装置の発達によって、子どもの世話、裁縫や修理などの家事労働の家族の機能も大きく変化するのです。児童や少年の労働の売買は知的荒廃をつくりだしていくのです。

 しかし、児童の知的退廃が社会的に問題にされることによって、工場法の教育条項が生まれます。その適用を受ける産業で、初等教育を14歳未満での法的強制をしなければ社会それ自身の再生産が成り立っていかない状況になったのです。

 

 機械装置によっての新たな産業の形成

 

 機械のもたらす直接の結果は、剰余価値を増加させと同時に、生産物を増加させ、資本家階級とその付属物を養っていく。これらの物質といっしょう、その付属物を養う社会層そのもを増大させていく。かれらの富の増大とともに、新しい贅沢品欲望を生むとともに、その充足の新たな手段を生み出すのです。

 社会的生産物の大きな部分が余剰生産物に転化し、余剰生産物のいっそうな大きな部分が洗練された多様な形で再生産され、消費されるというのです。高級品や高級のホテルや高級の旅行などが市場に一定の役割を占めていくのです。

 つまり、贅沢品生産が増大し、高級な消費生活が拍車をかけていくのです。洗練された多様化の生産物は、多くの外国品嗜好品が国内生産と交換され、大量の外国産の原料、混合成分や半製品などの生産手段として、国内産業に入ってくるのです。

 さらに、新たな運輸業とともに、新しい産業分門があらわれるというのです。生産手段や生活手段の増加は、運河やドックやトンネル、橋などのように遠い将来にはじめて実を結ぶような産業部門での労働拡張をひきおこしていくのです。

 一般的な産業変革を基礎として、まったく新たな生産部門が形成されていくというのです。マルクスは、機械体系による剰余価値の増大が、新たな贅沢品の消費を生み出し、世界の嗜好品の取引が活発に行われて、運輸業や贅沢品の牽引による新たな産業分野を作りだされていくとするのです。資本論第一巻大月、582頁

 機械経営は、外国市場の手工業生産物を壊滅させ、外国市場を強制的に自分の原料の生産部門に変えてしまう。地球の一部分を工業を主とする生産現場と農業を主とする生産現場にと国際分業がつくりだしていくのです。

 工場制度の拡張的な可能性は、世界市場への依存性になり、熱病的に市場の拡張と縮小を繰り返していく。産業の生活は、中位の活況、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞という諸時期の一系列に転化し、労働者の生活状態に与える不確実性と不安定は、産業循環によって大きく左右されるのです。

 繁栄期を除いて、資本の間では、市場で占める領分をめぐって激烈きわまる闘争が荒れ狂うというのです。この領分では、生産物の価格競争が行われるのです。

 改良された機械や新たな生産方法が、価格競争に対応し、景気循環のなかで、改良された機械の導入によって、価格競争が行われていくのです。労働者たちは絶えず、はじきだされ、引き寄せられ、あちことにふりまわされるのです。しかも、そのさいに性別や年齢、熟練度は常に変わるのです。

 

 工場法の教育条項の歴史的意義

 

 ところで、工場法の教育条項は、全体的に貧弱にみえるとはいえ、それは初等教育を労働の強制的条件として宣言したとマルクスは積極的に評価するのです。マルクスによれば、その成果は、筋肉労働を教育および体育と結びつくることの可能性をはじめて実証したとするのでした。

 工場監督官たちはやがて、学校教師の証人喚問から、工場児童は正規の昼間生徒の半分しか授業を受けていないのに、それと同じか、またはしばしばそれよりも多く学んでいることを発見したというのです。

 それは、二つの仕事をしているということです。一方では休養に、および気晴らしになり、中断なしに続けるよりもずっと適当というのです。

 また、上級および中級の児童の一面的で不生産的で長すぎる授業時間が、いたずらに教師の労働を多くしていること、児童の時間や健康を無駄にするだけではなく、まったく有害に乱費しているとみるのです。

 ここでの労働は過度な強制的なものを意味しているものではありません。マルクスは、児童労働調査員会の報告書を紹介しながら、そのことを語っています。

 有能な労働者をつくる秘訣は、子どもの時から労働と教育とを結びつけることであると。

 その労働は激しすぎてはいけないし、不快なものとか不健康なものではいけない。自分の子どもにでも、学業からの気分転換のために労働や遊戯をやらせたいとおもっていると児童労働調査員会は報告しているのです。

 長期的な側面からみれば、有能な労働者をいかにつくりだしていくかということは、資本にとって、大切なことであるのです。企業経営を安定させ、競争に勝ち抜いていくうえでも。

 さらに、マルクスは当時の農村の状況では貧困家庭には教育を禁止するという風習があったことを記しているのです。貧しいがゆえに児童労働者として、工場に働きにいった子ども達が、そこで教育を受けられるということなのです。農村にいては教育が受けられなかった子どもたちが、工場法の教育条項によって、学ぶことが可能になったのです。

 イギリスの農村地方で、貧乏な親たちは子どもの教育を罰ということで禁止されているのです。貧乏人が教区の救済を求める場合には、彼は子どもを退学させられることを強いられるのです。

 マルクスは、これらのことを資本論のなかで、引用しています。工場法の教育条項は、機械制大工業という資本主義の文明作用です。

 工場法の教育条項を実施するのはすべての工場ではないことも見落としてはならないのです。マニファクチャ的な煉瓦工場での児童労働における道徳的退廃について、マルクスは当時の児童労働調査委員会の報告書を引用して、堕落の恐ろしさをのべているのです。

 小さいときから耳にする下品な言葉、彼らを無知粗暴なままで成長させる狼狽で粗野で無恥な習慣はその後の彼らの生涯を無法、無頼、放縦にするというのです。堕落の恐ろしい根源のひとつは大人も子ども、少女も7人からなる小屋で寝るという住居の様式をあげています。幼児から乱暴と不潔で、塵埃、無頼きわまる仲間に釘付けにしてしまうというのです。

 工場制度からは、われわれはロバート・オーエンにおいて詳細にその跡を追うことができるように、未来の教育の萌芽がでてきたとするのです。

 それは、単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法であるとマルクスは工場法の教育条項を積極的にみているのです。629頁~630頁

 機械制大工業は景気循環と機械の改良のなかで、労働の転換を求めていくのです。このことは、労働の多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、社会的細部の機能の担い手でしかない部分労働の個人の代わりに、いろいろの社会的機能をもつ人間になっていくことを死活問題とするのです。

 全面的に発達した個人になっていくのです。全面的発達は、教育の前提ではなく、生きるために、労働現場からはじき出されることの繰り返しのなかで、その場、その場で必死に労働力市場に対応していくなかでの能力の形成からの結果としての全面的発達の人間形成なのです。長い人生のなかでの、困難につきあたり、新たな能力形成挑戦の努力から全面的発達の人間形成としてみることが重要です。

 ここには、社会教育・生涯学習ということからの全面発達の人間形成としてみるべきです。これは、生存権、労働権、教育権などの社会権が大きく歴史的に充実している状況であっても新自由主義のもとで、競争があおられて、契約職員、派遣労働、過労死などの問題があるなかで、また、生涯にわたって人間らしく行きたいということで、現代の日本社会でもいえることです。

 生涯を通しての全面的発達への基礎として、自然発生的に発達した工業および農学の学校や職業学校にもなるのです。労働者の子どもが技術学やいろいろの生産用具の実際の取り扱いのある程度の教育を受けることの重要性をマルクスは考えたのです。

 工業学校、農学校、職業学校は、生涯学習からの全面的発達の人間形成ということで、大きな意味をもっているのです。したがって、そこでは、すぐに役にたつという職業訓練的な教育ではなく、生涯にわたって大切な職業観教育や技術学の基礎、科学の基礎を実際的な訓練の基礎から学ぶことになるのです。職業観や技術学の基礎、科学の基礎を実際に応用できるように学ぶことが求められているのです。

 工場立法は、資本からやっともぎとった最初の譲歩として、初等教育を工場労働者に結びつけることができたのです。このことは、労働者階級による不可避的な政権獲得のための理論的なことになります。また、実際的な技術教育のためにの労働学校のなかにその席を取ってやることができるとマルクスはみたのです。

 

 機械制大工業と全面的発達の人間・家父長制の崩壊

 

 資本主義的生産形態の分業の発展による部分人間と景気循環、機械の改良による労働力の反発、さらに労働力の吸収という繰り返しのなかで、全面的に発達した個人が生み出されたのです。機械制による労働者の経済的諸関係はこのような変革の酵素と古い分業の破棄に向かっていくのです。

 資本主的生産の目的と真正面から矛盾するということで、部分的人間が全面的に発展した労働者が生まれるというのです。

 部分人間からの全面的発展の人間形成は、機械制大工業による資本主義的な競争原理による価格競争からです。それは、生産性という絶えざる技術革新による労働者の労働力市場からの反発や吸収によって起きるのです。

 労働者の全面的発達の人間形成は、労働力市場の反発や吸収という死活問題のなかで形成されていくのです。ここでマルクスが指摘する死活問題のなかで形成されていくということです。

 それは、労働者が不況のなかで解雇されていくなかで、生きていくいくために必死になって新たな産業へと雇用を求めていくということです。つまり、雇用の安定のために、自己の能力を身につけていことする作用から起きるということです。

 部分人間からの全面的発達への人間形成ということは、前提としての教育の営みの目的によってではなく、労働者の景気循環のなかでの雇用の排出反と吸収のなかでの適応であるのです。つまり、経済的基盤からの労働者の死活問題としての労働への適応の努力の学習の繰り返しのなかで形成されていくのです。

 このように、マルクスが考えた全面的発達論は、部分人間からの脱皮は、資本主義的な景気循環での排出と吸収、絶えざる技術の競争というなかで捉えていくことが大切なのです。社会経済的状況から無視しての独自の教育論としての全面的発達論ではないのです。

 この意味で全面的発達論は、社会から閉じられた学校教育という狭いなかで考えるのではなく、学校教育自身も社会との関係で積極的に教育内容、教えていく課題、教育の方法、体験学習や観察、実験方法、体を動かす教育、感性を磨いていく実際の方法など、様々なことを社会や体験、実際のことなど工夫していく教育が必要なのです。

 さらに、社会教育・生涯学習の課題として、全面的発達論をみていくことが大切なのです。

 景気循環のなかで雇用の不安定性は労働者にとって、つきものです。ある特定の技術を身につけても、機械の改良によって、その技術の能力は役に立たなくなるのです。

 また、機械装置に対応した新たな技能取得の学びが始めるのです。技術学は機械装置の改良によって、大きく変化していくのです。現代日本において、社会教育・生涯学習として、技術学を学ぶことは、職業訓練の労働行政との連携が極めて大切になっていくのです。

 職業訓練の労働行政は、雇用への職業安定行政と結びついているもので、極めて狭い適応主義的な職業訓練げ現状です。人間の全面的な発達の形成ということからの視点から、職業訓練の技術学が成り立っているわけではないのです。

 ひとつの歴史的な生産形態の諸矛盾の発展は、その解体と形成とへの唯一の歴史的な道としてマルクスは、矛盾の発展のなかから新しいものが生み出されていくという歴史の弁証法としてみるのです。

 古い家族制度の崩壊も大工業によって、もたされていくのです。熟練労働の男子成人労働者は、機械によって、労働力市場から排除され、妻子を労働力市場に巻き込んだ。

 親の権力の濫用によって、妻子は労働力市場に投げ込まれていったのです。親の権力の濫用が、それに対応する経済的基礎を破棄したのです。資本主義的機械の利用によって、どんなに恐ろしくみえても社会的組織された生産過程で女性や男女の少年や子どもに決定的役割をあたえ、古い家族の形態からより高い家族関係や両性関係になっていくのです。