社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

マルクスから学ぶ社会的自由論

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マルクスから学ぶ社会的自由論

             神田 嘉延

はじめに

 

 マルクスは、150年まえの産業革命の発展のなかで、資本主義的大工業の矛盾の本質を経済学の探究から明らかにしたのです。自由を考えるうえで、この資本主義的な矛盾からの解放として、実践的変革を表した社会思想家で、共産主義未来社会を自由の側面から明らかにしたのです。マルクスは資本主義的な矛盾である労働者の長時間労働の短縮運動を展開したのです。

 さらに、自由な時間の獲得と共に、工場法制定の運動のなかで、教育を重視したのです。この教育実践のなかには、未来への教育としての全面的な人格の発達可能性をもっているとしたのです。人間にとっての自由は、自由時間の獲得だけではなく、教育の保障による知識の獲得、文化芸術・スポーツの発達保障、技能・技術の獲得、市民道徳の形成など人間らしく文化的に生きられる全面的な発達が要求されるのです。
 資本主義の歴史は、労働運動、差別解消運動、公害防止運動など様々な人びとの社会運動によって、市民的な自由権から、さらに、資本主義的矛盾からの人間の尊厳、生存権保障などの社会権が獲得されていった。社会権は、人類にとって、普遍的な価値となったのです。
 しかし、新自由主義のもとで、自己責任、社会的責任を放棄した営業の自由、弱肉強食の競争が蔓延し、資本主義的な矛盾の克服は、いまだに大きな課題となっているのです。自由の問題を考えていくうえで、市民的自由ばかりではなく、資本主義社会の矛盾から社会的自由は、重要な課題になっているのです。
 つまり、格差の拡大、世界的な恐慌、社会的頽廃は、極めて深刻になり、国際緊張やテロ、政治的な民主主義の危機も重なり、世界的に新自由主義の克服、社会的自由充実の課題が緊急になっているのです。
 市民的自由がすべての人びとにゆきわっていくためには、社会的自由の課題も不可欠になっているのです。自由の課題には、営業の自由・経営の自由にみられるように、資本主義によって、小自営業時代の市場経済ではなく、他人の自由を侵すことが大いにあるのです。つまり、公共の福祉ということで、他人の自由を犯さないということが、より重要になっていくのです。

 自由は、他人の利益と関係をもたない趣味などの個人の自由な生活に力点を置くのではなく、社会権の側面から自由な時間の獲得のための労働時間短縮や教育の保障など、人間の真の自由を考えていかねばならないのです。

 ここに、社会的な側面から人間の豊かな人格の全面的な発達への保障による知性的な自由の確保の問題があるのです。共産主義という未来社会をめざしたマルクは、人間の自由を資本主義的矛盾の解放という社会的な視点から積極的に提示したのです。
 人間は社会的存在です。現代は、国際化した社会のなかで、多国間の共存・共栄のもとに、多様な価値を認め合って、共生社会の形成が求められているのです。社会の複雑な広がり、交通手段の発展、科学技術の発展など、生活や生産の社会化は進んでいます。

  このことは、社会的自由の課題と公共性ということが身近な課題として感じられるようになっています。その課題を達成していくことが一層に大切になってきているのです。そして、マルクスの社会的自由を考えていくうえで、現代社会の複雑な現状から問題をみつめていくことが必要な時代です。

 

 1,マルクス資本論からの労働権

 

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 マルクスは資本主義の矛盾原理を資本論で明らかにしました。マルクスから学ぶ自由論を考えていくうえで、社会的自由が基本になります。

 マルクスは、イギリスの経済史と経済状態からの資本主義矛盾の解放を大きな課題としたのです。イギリスこそ不可避的に社会革命が平和的で合法的な手段によって、完全に遂行されうる唯一の国であると考えたのです。

 マルクスは、商品生産の物神的性格を脱ぎ捨てためには、自由に社会化された人間の産物を意識的計画的に管理できる社会的相互関係が大切としたのです。その歴史的条件には、人間と自然の関係の生産力の発展が必要としたのです。労働の疎外をはじめ制約されたものからの解放には、長い苦難に満ちた発展が求められると考えたのです。
 労働者が労働力の売り手として、資本主義的な生産関係に入ることで、労働とその意志の自由が大きく変わった。資本主義的生産関係の労働者は、労働する魅力が少なければ、また、自分自身の肉体的および精神的の働きとして楽しむことが少なければ少ないほど資本にとって喜ばしいことになったのです。

 それは、労働する緊張感と注意力としての合目的な意志が必要であったからです。労働者は、資本主義的な生産過程のなかで、労働の魅力、楽しみが奪われていったのです。つまり、労働者は、資本関係において、自分の意志を労働過程に従属させなければならなくなったのです。
 労働者は資本主義的生産関係に入ることによって、彼の一日の全体の生活は、労働力以外のなにものでもないようになるのです。労働者は、人間的教養、精神的発達のための自由な時間を奪われていくのです。さらに、社会的役割を遂行するための、社会的交流の時間も失っていくのです。

 これらのことは、肉体的・精神的生命力のための時間を資本の価値増殖のために、奪われていくということを意味しているのです。資本関係に入ることによって、労働者は、人間的な自由時間が失われていくとマルクスはみたのです。
 本質的に、資本主義的生産は労働日の延長によって、人間的労働力の正常な精神的および肉体的発達との諸条件を奪いとられるだけではなく、労働力そのもを早く消耗して、労働者の生存時間を短縮していくとマルクスは分析したのです。
 ここには、労働者と資本家との間の長期にわたる闘争の歴史が生まれていくのです。そして、長い闘争の成果として、労働者は、標準労働時間の獲得をしていくのです。利潤第一主義の資本制的大工業の誕生以来、強力で無制限な労働日の延長がされ、児童や女性が労働力市場に入り込んでいったのです。19世紀の前半に、イギリスでは、工場法立法の制定によって、標準労働日を獲得したのです。
 工場立法は、工場労働者たちの政治的選挙スローガンによって、広く宣伝されて、議会の大きな課題となったのです。工場経営者を規制していく工場法が制定されたのです。この工場法も労働者の戦いによって、労働時間の短縮、労働条件の改善が充実していくのでした。

 1844年の工場法によって、一日12時間以下、女性労働者の夜間労働が禁止され、13歳未満の児童は、一日6時間半になったのです。さらに、工場立法では、保険条項として、換気装置などの労働現場や労働者の住居の改善をしていくのでした。

 国家法の強制によって、清潔・保健設備がされていくのでした。工場内は過密で健康に悪く、労働者の宿舎も換気の悪い部屋であありました。しかし、衛生的正義の闘争によって、衛生当局者も労働者の衛生権を報告するのでした。衛生権は法的な保護になったことを見落としてはならないのです。
 また、工場内に教育条項としての学校がつくられたことは注目することです。工場法によって、初等教育が工場内で実施されたのです。このことは、資本から労働者がもぎとった画期的な譲歩であったのです。
 労働者の闘いによって、孤立した労働者ではなく、資本との自由意志契約によって、自分たちの奴隷的状況を克服していったのです。ここには、議会による労働立法という強力な社会的手段があったことを見落としてならないのです。議会による工場立法は工場経営者に対する強制力になったことを決して忘れてはならないのです。
 同時に、ここでは、孤立した労働者としてではなく、標準労働日や労働条件を団結した力によって獲得していったことは重要なことでした。資本との関係で、自由対等に労働契約を結んでいくことができるようになったのです。まさに、労働契約を自由にできることは、労働力市場の自由ということから注目すべきことなのですけど。

 労働者の場合は、個々では孤立した存在であることから、労働者が意識的に団結の力で、議会に要求し、国家による労働立法から守られることが大切であったのです。また、労働者自身の団結権、労働交渉権なども不可欠であったのです。
 資本論からみた労働者の労働時間の短縮の闘いは、相対的に自由な時間の獲得ということです。そして、工場法の教育条項にみられるように、人間的な発達のために、初等教育も獲得したことは特記すべきことです。

 安心、安全な環境で暮らすことは人間にとっての自由の条件でもあります。清潔・保健整備の改善や換気の悪い宿舎の改善など、衛生権ということからも大切なことであったのです。
 社会的自由、社会権としての日本国憲法の27条の「勤労の権利・義務、勤労条件の基準、児童の酷使の禁止があります。

 また、憲法28条の労働基本権、勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動する権利は、これを保障するということがあるのです。

 ここには、マルクス資本論を書いた150年前からも、その問題が問われていたのです。その後の近代の歴史が社会権としての重要な認識となり、基本的な人権として充実させてきた結果によるものです。

 

 2,貧困化問題と生存権社会保障の国家義務

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 憲法25条は、生存権、国の社会保障の義務を定めています。すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 日本国憲法は、社会的自由の条件として、様々な貧困化の状況に対して、社会福祉社会保障、公衆衛生を実施するのを国家的義務にしているのです。
 資本論では、資本主義的蓄積の一般的法則として、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、道徳堕落の蓄積の必然性をのべています。そして、社会的階層に相対的過剰人口、受救貧民層をあげています。

 受救貧民層は、浮浪人、犯罪者、売春婦、孤児、転業能力のない没落層です。彼らは、危険な機械設備、鉱山作業、化学工場などの犠牲者です。この層の拡大は貧困層と産業予備軍の増大、資本の増大に比例するというのです。

 資本論において、利潤第一主義の資本主義的な生産力の発展は、資本蓄積のためで、労働者の支配と搾取の手段にするのです。そこでは、労働者の犠牲のうえに達成していくとみたのです。

 「労働者を部分人間へと不具化させ、労働者を機械の付属物へとおしとめ、彼の労働苦で労働内容を破壊し、科学が自律的力能として労働過程に合体される程度に応じて、労働過程の精神的能力を労働者に疎遠なものにするのであり」。第一巻第23章資本主義的蓄積の一般的法則、1108頁、新日本出版
 一国民の富は、貧困層の人口に照応し、ある人びとの勤勉は、他のひとびとの怠惰を強要するのです。大衆の貧困と堕落とを伴う、資本主義の文明の野蛮ということになるのです。

 マルクスは、資本論で資本主義的蓄積の貧困化の例証を具体的にイギリスの実態でのべていく。
 1863年に枢密院の医務官は、イングランドの労働者の栄養最悪部分と窮状の調査をするのでした。絹織物工、女子縫製工、革手袋製造工、女子裁縫工などを調べて、食事のひどい貧しさ、栄養不足が病気を引き起こしているというのです。   衣料と燃料、下水溝がもっとも貧弱な不衛生な住居など。

 勤勉このうえない労働者層の飢えの苦しみと、資本主義的蓄積のもとづく富者の粗野または上品な浪費的消費、豪壮な建物、豪華偽装馬車のための道路拡張がみられるのです。
 資本主義的な大工業をいち早く取り入れ、資本主義の急速な発展を達成したイギリスで、その文明の汚辱の事実がみられるとマルクスはみたのです。

 そこでは、住居の劣悪さは明白であった。道徳的生活を重んじるすべての人びとにとって、深い心痛であった。伝染病を蔓延するひどい衛生状況での生活であったのです。これらの悲惨な状況を、公衆衛生報告書、児童労働調委員会報告書で、マルクスは引用してのべているのです。

 

3,疎外された労働

 

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 マルクスは、「経済学・哲学草稿」で疎外された労働についてのべまています。資本主義的な生産関係では、労働者は富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけ貧しくなるというのです。
 この事実は、労働が生産する対象、生産物がひとつの疎遠な存在であったのです。そして、生産者から独立した力として、労働に対立したのです。労働者は彼の生命を労働対象のなかにそそぎこむので。しかし、そそぎこまれた生命の生産物は彼自身のものではないという皮肉な結果であったのです。
 自然は労働に生活手段を提供しますが、自然は狭い意味での生活手段を提供していたのです。労働者は、資本主義的な生産関係に入ることによって、彼の生活手段の自由な労働を奪われるし、生存手段である生産物も失われのです。労働者は肉体的主体としてのみふるまうのです。ここに二重の側面から労働者の疎外が生まれたのです。
 労働者は労働の本質から疎外されることによって、労働によっての幸福を感ぜず、かえって不幸を感じるのです。労働者の自由な肉体的および精神的および精神的エネルギーがまったく発達せずに、かえって彼の肉体を消耗し、彼の精神は頽廃化していくのです。

 また、労働していない家庭にいるような安らぎは、労働しているときは安らぎをもたないのです。だから、かれの労働は自発的なものではなく、強いられたのであり、強制労働だというのです。 
 労働は、ある欲求の満足ではなく、労働以外のところで諸欲求を満足させるための手段にすぎないということです。人間的労働の本質である自然との関係で、欲求の満足のために、生産する喜びが失われているというのです。
 以上のようにマルクスは、資本主義的な生産によって、資本によっての労働過程の支配と所有から排除されていることで、労働による幸福感、満足を得ることができないということで、労働疎外の本質をのべるのです。
 人間は動物と異なって類的な存在であると考えるのもマルクスの特徴です。人間は自己に対してひとつの普遍的な、それゆえ自由な存在としてふるまうというのです。人間は、植物、動物、岩石、空気、光などの自然科学の対象として、また、芸術の諸対象してふるまうというのです。
 人間が享受すべき生産物を消化するためには、まず第1に仕上げを加えなければならないと考えます。それは、人間の精神的な非有機的自然、精神的生活手段になります。自然生産物が食料、燃料、衣服、住居などの形であらわれるようになるのです。そこでは、人間的生活や人間的活動の一部を形成し、また、人間的意識の一部をもつのです。人間は自然によって生きるということです。
 つまり、自然との不断の交流過程で人間は死なずに生きているのです。資本主義的な生産関係での疎外された労働は、人間は自然の一部として、自然と意識的に連関しているのを断ち切られているのです。

 人間にとっての労働は、生命活動、生産的生活そのものです。それは、欲求を、肉体的生存を保持しようとする欲求を満たすための手段であるのです。
 人間の生命活動は、類的生活がよこたわっています。自由な人間の意識活動は、そのものなのです。人間は、生命活動そのものなかに、自分の意欲や自分の意識の対象にしています。資本主義的生産関係は、自由な人間の意識活動、喜びや幸福感という自由な活動を疎外しているというのです。
 疎外された労働は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観することと、自然との関係での生命活動からの意欲や意識の自由な活動を人間の肉体的存在の手段に引き下げるということになるというのです。これらの意味することは、人間の精神的本質を疎外するというのです。
 労働の疎外があるということは、人間からの人間の疎外ということです。労働者が生産した労働生産物は、労働者に属さず、労働者以外の他の人間に属するということです。労働者の苦しみは他の資本にとっては、その生産物が享受され、他の人間、資本にとっての生活のよろこびになるのです。
 労働疎外によっての労働生産物は、資本家のものになり、その労働の主人が資本家になっているのです。私有財産は、労働者の外化された労働の産物、成果です。

 労働疎外が人間の疎外ということから、労働者の政治的な解放ということは、労働者だけの問題だけではなく、一般的に人間の解放が含まれているのです。人間にとっての労働、生命活動、生産的生活からの幸福感、人間の意識、人間的文化という本質の問題があるのです。このことから、利潤第一主義の労働から離れた資本家も含めて、人間的生きる喜び、幸福感、人間の意識や文化芸術をもみつめていくことが大切になってくるのです。
 資本主義的な生産関係での私有財産は、労働者の人間的欲求を知らないのです。資本家は妄想、気まま、気まぐれであるとマルクスはのべるのです。資本家は、光、空気など動物的な清潔さもやめてしまう。汚らしいもの、人間の頽廃、堕落、文明の下水溝の汚物のあるところが、労働者の生活基盤になっているのです。

 完全な不自然な放任、腐敗した自然が、人間の生活基盤になっているのです。もはや人間の感覚のどれひとつとして、人間的な仕方からみればおかしなことです。このような非人間的な事態は、動物的な仕方においてすら、まったく存在しないとマルクスは痛烈に問題を告発するのです。
 労働の疎外は、機械の発達の導入によって、全く未発育な子どもを労働者にするのです。機械は人間の弱さに順応して、弱い人間を機械にしようとするのです。労働者の活動をもっとも抽象的な機械運動にまで還元し、活動する欲求も、楽しむための欲求すらなくすというのです。まさに、労働者を貧弱した生存条件の無感覚的な欲求の存在として陥れるとしたのです。 

 そこでは、資本主義的生産関係にとって、賃金の節約ということから労働者のどんな贅沢も排除していくのです。諦めの、窮乏の、節約の科学として、空気とか肉体的運動の欲求さえも、人間の節約する驚くべき勤勉と禁欲の科学を道徳理想とするのです。
 自制、つまり生活とすべての人間的欲求との断念が、労働者の主要な教養になるとしたのです。つまり、食べたり、飲んだり、書物を買ったり、劇場や舞踏会や料理屋へ出かけたり、考えたり、愛したり、理論的に考えたり、歌ったり、絵をかいたり、フェンシングをしたりすることなどが少なければ少ないほど、それだけますます節約しているのだとみられているのです。

 この節約道徳は、大切なことを見落としているのです。消費がなければ生産されない。生産は競争をつうじて一層に多面的に、いっそう贅沢になってゆかざることを。節約を推奨する理想道徳は、消費と生産の循環の基本原理を忘れているのです。マルクスは節約道徳理想論をおしつけることを批判しているのです。 
 資本主義の発展のイデオロギーのなかで、ウエーバーの「資本主義の精神」に書かれた近代資本主義の職業的モラルとしてのピューリタンニズムの禁欲主義、日本の渋沢栄一の「論語と算盤」のように、モラル資本主義の課題があったことも見逃してはならない。経営者としての社会的モラル、職業的なモラルが歴史のなかで語られてきたのです。経営者としての職業的なモラルと資本主義的な競争主義のもとでの営利主義での経営的エゴイズムの現実的な矛盾のなかで、社会的ルールとしての経済のしくみが資本主義の矛盾の修正として、国家法によって形をつくってきたのです。
 ここには、労働者の運動、住民の公害防止運動などの社会的な運動との関係で、モラル資本主義のルールがつくられていくのです。さらに、恐慌ということは、生産、労働の目的が人間の生活を豊かにしていくという消費と結びついていないということの労働疎外の本質があります。その矛盾の克服の課題があるのです。
 さらに、最も重要なことは、国家の役割です。民主的な国家は、金融、財政、社会政策、厚生労働政策、教育政策などをとおしての社会経済の民主的な計画や管理の法や行政執行のコントロールの役割があるのです。そのことをことを見落としてはないならないのです。

 これらの問題を深めていくためには、国民的な合意の形成を民主的にどう達成していくのかという課題があるのです。議会や国の役割の意義などを念頭におくことが必要なのです。つまり、この意味から人間の意欲・意志の自由と国家の役割を深めていくことが必要になっていくのです。
 
 4,人間の意欲・意志の自由と国家の役割

 

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 エンゲルスは「反デユーリング論」のなかで人間の意志の自由問題として、自由と必然性についてのべています。人間は合理的洞察と非合理的な衝動の両面をもっているとしています。

 自由は、洞察と衝動、分別と無分別との平均であって、その度合いとしてみるのです。自由とは必然性の洞察であり、意志の自由は知識をもって決定を行う能力というのです。だから、ある人が判断がより自由であればあるほど、その判断の内容は必然性をもつということになります。
 無知にもとづく判断は、気ままに選択するようにみえても、自らの不自由を証明するのです。自由は必然的に歴史的発展の産物です。動物界から分離したばかりの人間はすべて本質的に不自由であった。文明、文化の進歩は、自由の歩みであったことを重視しているのです。
 エンゲルスは「フォイエルバッハ論」の著書で、人間の幸福衝動についてのべています。幸福衝動は、その充足の手段である外界との関わり合いが必要としています。幸福の衝動は、食物、異性の個人、書物、談話、討論、活動などの形であらわれます。それらは、消費される対象になるのです。
 フォイエルバッハの道徳論は、これらの幸福衝動充足のための手段と対象が無条件に各自に与えられているとみています。人間にとっての幸福への衝動は生得的なものであり、いっさいの道徳的基礎としなければならないと言うのです。
 フォイエルバッハは、他人の幸福を尊重しなければならないと考えるのです。人は自らの身をもって、他人の幸福衝動をささげものであるということがあります。そのことから、われわれ自身の合理的な自制と、他人との交わりにおける愛を強調するのです。他人の幸福衝動に自分と同等の権利を認めれば、事情がいくぶんだけでもよくなるとみるのです。

 このことに対して、マルクスは消費される対象が必要であるとのべます。古代の奴隷と主人、中世の農奴と諸侯、資本主義でのブルジョアジーと労働者というように、支配階級と被圧迫階級の幸福衝動の条件は物質的基盤から異なることをみることが重要とするのです。
 幸福衝動は観念的権利からだけではなく、物資的手段が必要なのです。資本主義的生産関係において、貧窮な生活を強いられている労働者は、資本家とは消費水準は、同等ではないとみるのです。

  フォイエルバッハの抽象的な人間的愛から現実的に生きた人間、人間の歴史のうちで現に実際行動しいる人間の状態から観察するばよいとマルクスは強調するのです。
 社会の発展史は、自然の発展史と本質的に異なるのです。自然史は、人間の意識のない盲目的な作用力であって、交互作用のうちに一般的な法則がありますが、人間社会の歴史は、行動している人間は意識を賦与され、考慮または情感をもって行動し、一定の目標をめざして努力している人間であるのです。
 ここでは、表面上では、個人の意識的に意欲された目標によっての行動があるのです。行動は偶然が支配しているようにみえますが、多くは、意欲された目的が交錯したり、抗争したりするのです。行動の目的は意欲されているにもかかわらず、その行動の結果は、意欲された目的と合致するかに見えても、意欲された結果と違うことになるのです。偶然性が支配しているように見えても、この偶然性の内部にかくれた法則性によって支配されていることを詳しくみる必要があるのです。
 人間の歴史は、人間各自の意識的な意欲を追うことによって、多くの意志と外界の多様な働きが合成されて、歴史の結果になっていくのです。個々の意志は破棄されるのではなく、合成された一部を構成されているのです。このことは、多くの個人が意欲しているというなかで歴史がつくられいくのです。
 意志は情感または考慮によって規定されています。合成された意識は、個々にとっての意欲されたものが他の各人によって妨げられていています。全体には、無意識に作用されているようにみえるのです。歴史を動かしている推進力は行動する人間の意識です。その行動する意識は、個々の人間の動因ではありません。それらは、大きな集団、大衆であり、諸民族全体を、そして、各民族のうちで、諸階級全体を動かしている動因なのです。
 人間的な感性的な活動は、実践的に把握されていくものです。人間の考えは、実践的ににおいて真理があるものです。真理は実践的に変革していくなかでみいだされていくという見方が大切というのです。
 近代の歴史は、経済的解放をめぐってされていくものです。国家とか政治的秩序は、従属的要素であるのです。個人の行動の推進力は、個人の頭脳を通過して、個人の意志によって行使されていきますが、社会的階級的によっての要求の意志は、国家のなかでの法律の形で効力をもっていくのです。つまり、国家の意思は法という形であらわれるのが、近代の歴史です。
 社会のなかでどの階級が国家のなかで優勢であるかどうかは、法の形にあれわれます。規定的には、巨大な生産手段をもつ生産諸力と交換関係のなかで、国家は独自の発展をもつようにみえるのです。つまり、歴史は、社会の経済的生活条件からみていかねばならないのです。社会は内外からの攻撃に対して、その共同の利益を守るためにひとつの機関をつくりだす。この機関が国家権力です。
 国家の発展は、社会に対して独立して行使するようになっていくのです。支配階級に対する被抑圧階級の闘争は、国家機能の行使の政治闘争になるというのです。経済的基礎との関係で政治的意識の基盤がありますが、国家は独自に発展して、独立性をもっていくのです。職業的に政治家や国法の理論家、私法の法律家が経済的諸関係の事実を考慮していくが、歴史は、その諸関係から独立していくというのです。
 資本主義的生産関係での経済的運動は、全体として自己を貫徹していきます。国家権力との関係では、相対的独自性をもって政治運動をしていくのです。そして、労働者の運動などの反対派の運動の反作用もうけていくのです。
 国家権力が、経済発展の反作用もあることを見逃してはならないのです。それは、経済発展の特定の方向を遮断し、他方の方向を指定する場合があるのです。政治権力が経済的発展を大いに阻害して、力や材料の大量の浪費を生み出すことが、秘本主義的な競争社会の政治的利害関係であるのです。さらに、経済的資源が征服されて乱暴に破壊される場合があるとエンゲルスはみているのです。
 エンゲルスは、のべます。資本主義的生産関係のなかでの政治闘争から学ぶことは、資本と労働者の矛盾や競争間による無政府性の矛盾を国家権力によって、基本的人権などの社会的正義に即して、どう公平性・公正性を保っていくかということにあると言うのです。
 現代に社会的教育・生涯学習の視点にとって、資本主義的矛盾に対して、その矛盾の本質と克服していく道を人びとが学ぶことになるのです。現代の社会権保障の歴史をつくってきたことは、社会を実践的に変革していくことにあったのです。ここでは、人間の意識や意欲、感性などをどのようにみていくのか。それをとおして、人間的自由を充実して、どう人間的に認識、能力を高めていくかのかということが大きく問われているのです。
 資本主義的社会経済の関係を考えていくうえで、財産権と公共性の関係問題は重要な課題です。資本主義的関係においては、大量に財産をもつものと全くもたないものと大きく二局に分かれていきます。いわゆる格差の拡大がされているのです。
 財産権と公共性の関係をみていくうえで、日本国憲法の29条の理念は、その重要性をあげています。この認識が現代社会で大きく問われているのです。また、税や財政は、国家の所得の格差からの生存権社会保障、福祉や教育の条件整備、労働の権利保障の財政出動、公共的な事業、公衆衛生など、国家の機能としての国民の命と暮らしの基盤・体制整備にとって極めて大切な課題です。
 現在の日本国憲法では、第29条で財産権は、これを侵してはならなとすると同時に、財産権の内容は、公共の福祉に適合するように法律で定めるとしています。また、私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができるとしているのです。
 財産権は、社会経済活動において、自由に営利のためのエゴイズムの営業活動行使ができるわけではないのです。社会的、経済的弱者の生存権を保障し、生活環境、自然との共生を守るということから制約があるのです。

 労働の場では、経営者側にとって労働安全衛生の遵守、労働基準法の遵守、労働基本権の尊重が不可欠になっているのです。また、社会的には、公害防止や自然環境の保護が求められているのです。
 そして、個々の自由な営業を保障するために、独占禁止法があるのです。商品が安全であること、商品の内容を知る権利、正当に商品を選ぶ権利などの、商品による被害が救済される権利などの消費者保護、証券取引の公平性・公正性を保つためにインサイダー取引の規制、・公平性・公正をもった商品という社会的責任をもつ制約のなかで、財産権の行使があることを決して見落としてはならないのです。
 さらに、国家の社会的責任、社会的義務としての国民の命と生活、国民の幸福、社会的自由の保障などの役割があります。

 このためには、財政的な基盤が必要です。その財政を民主的に管理し、運営していく義務があるのです。この納税義務は、包括的累進課税が基本原理です。つまり、払える能力の人が、その所得に応じて累進的に払っていくということです。憲法第30条は、国民の納税を法律に定めているのです。

 憲法82条から91条まで第7章として財政について定めています。財政は国家の機能として特別に重要性をもっていることから、憲法において、国家の役割、公費の濫用防止など細かに定めているのです。


5,マルクス・エンゲルスが考えた未来社会論・自由の国

 

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 マルクスとエンゲルの「ドイツイデオロギー」の著書では、未来社会論を次のようにのべています。資本主義的大工業による労働の分割から人間的な力の復元は、もとのようにはならない。諸個人が個人として参加していく共同態によって、諸個人の自由な発展と運動の諸条件のもとでの諸個人の結合によって、新たな豊かな人間的な力が復元できるというのです。

 他の人たちとの共同こそが、個人の素質をあらゆる方向へ伸ばすことになるという考えです。したがって、共同においてこそ人間的自由は可能となるのです。
 この共同態とは、個々人の自由な参加による結合なのです。どのようにして、これを実現していくのか。その具体的な形態はどのようになっていくのか。資本主義的矛盾の対立のなかで、労働組合と経営者の集団的な交渉や協議会、協同組合方式の経営、労働者の職場などでの経営参加など、様々な試みが歴史のなかでされてきました。
 そして、労働基準監督、公衆衛生面からの保健所行政、環境保護行政など国家での法律に基づいて、経営側の社会的規制と労働者の社会的参加が行われてきました。

 マルクスエンゲルスの指摘する自由な国への諸個人の結合による共同態をどのようにつくりあげていくのか。詳細な具体的にるみえる形が必要です。
 そして、それらが、具体的にどのような方法で実現していくのかという過程も大切です。基本は現実的な問題の起きている利益第一主義の資本主義の矛盾を地域や職場のレベルから、地方、全国へと国民的な参加によって、民主的な協議、結合によって未来社会への達成を一歩一歩成し遂げていくことが必要になるのです。

 法的には、国家をとおして、地域では市町村での条例をとおして、民主的な協議や結合の法や行政体制が求められています。

 大株主の個人、大規模な特定集団の株式から、国民による社会的共同の株式形態の資本形成が可能であるのか。その模索から、新たにどう変革していくのかという課題は、資本の社会的所有形態として極めて大切です。

 新たな協同、共同所有方法による事業体の経営の模索になっていくのです。公社方式や協同組合資本、ワーカーズコープも考えられることです。株主会社は株数によっての議決権です、協同組合資本は組合の一人一票制です。ワーカーズコープは労働者自身が組合員ですので、協同組合資本と労働者が一体なのです。労働者は経営することを求められるのです。

 市場を社会の発展段階として、不可欠とみるならば、これらの考えを模索していくことは重要なことです。
 再生可能エネルギーでのスマートコミュンティティづくりを目標に、地域循環システムづくりなどにみられように、住民と事業体の共同経営による地域エネルギー経営などそのひとつの事例です。また、消費者・農業・医療などの協同組合を徹底して、労働と消費で直接的な関係の現場で組合員参加方式にすることや、介護福祉や共同の子育て、森林や農業でのワーカーズ方式も注目されることです。

 利潤第一主義の資本主義的矛盾の克服として、それぞれの様々な運動があります。この運動の発展の現実から、協同の結合、共同態の個々人の参加による自由なる国への未来社会をみつめていくことが不可欠なのです。
 資本主義的大工業での労働は、分業がすすめばすすむほど、蓄積がふえればふえるほど、分裂は鋭くなっていきます。生産力は個人と全く独立の世界となるのです。労働は自己表出とみることはできなくなるのです。労働の分割は、物資的労働と精神的労働の分割が現れてくる瞬間から、意識のなかで現れてくるのです。
 享受と労働、生産と消費は、矛盾が進行していきますが、このなかで、結合していけば諸個人のものとなる可能性をもつのです。

 分割されていれば、労働が自由意志的にではなく、抑圧に、よそもののこととして、彼に対立していくのです。労働の分割のうちにすべての矛盾が存在するのです。人間自身の仕業が人間に対して対立するのは、労働の配分が押しつけられた特定の排他的な活動範囲となって、そこから抜け出ることができなくなるのです。激しい矛盾は結合の必要性を強く意識するようになるのです。
 労働の分割によって、必須となった協働の社会力は、個々人の自由意志ではなく、よそものように彼らの外にある強引な力として現れるのです。

 私的所有と労働の分割を廃止してこそ、諸個人は自立して、社会的地位と、それに伴う人格的発展が保障されていくことが認識されるようになるのです。分業を止揚していくことは、共同社会においはじめて、人格的自由が可能となるのです。諸個人はかれらの連合によって自由になるのです。
 資本主義的な大工業は、競争を一般化し、通運手段と世界市場をつくりだしたのです。大工業から閉め出された労働者たちは、大工業の労働者たちよりもひどい生活状態へとおとされます。

 競争は諸個人をいっしょうにするにもかかわらず、労働者を相互に孤立させるのです。労働者が団結しうるには長い時間がかかるのです。孤立した諸個人は、孤立化を日々再生産する状況のなかで生きているのです。この孤立をうちまかす長い闘争が必要なのです。
 エンゲルスは「空想から科学」の著書で、社会主義思想は、天才的頭脳が偶然に発見したものではなく、歴史的に発生したプロレタアートとブルジョアジーとの必然的結果から生まれたとしています。資本主義的大工業の生産は、社会的生産にますますなっていくのです。生産的行為が個々の生産物から社会的生産に転化したのです。
 しかし、私的所有による生産の支配で、生産物を実際に作りだした人びとに領有されないのです。資本家よって領有されるのです。ここでは、資本家による利潤、剰余価値を目的に蓄積が絶えざる行われ、同時に競争が襲いかかってくる社会になるのです。生産手段と生産物は実際は社会的になっているのですが、領有形態が私的であるがゆえに、社会的矛盾による衝突が起きるというのです。
 さらに、資本主義的生産様式が競争社会ということで、無政府をつよめていくのです。市場の膨張は生産の膨張とあわせることができなくなり、その衝突が起きます。それが資本主義的な無政府で、恐慌となって社会経済を混乱させるのです。社会的生産と資本主義的領有の矛盾が社会の無政府性としてあらわれていくのです。
 これらの無政府に結末をつけようとするのが社会主義なのです。資本主義的大工業による社会的生産の推進は、内部に無政府性をつくりだしたが、計画的、意識的な組織に変えられることによって、個人の生存競争はなくなるのです。人間はある意味で、動物界から決定的に分離し、動物的生存条件から人間的な生存条件に入り込むというのです。
 人間を支配してきた人間をとりまく生活条件の外的要因はなくなり、人間自身が主体的にコントロールできるようになるのです。人間は、ここではじめて自然に対して、意識的にほんとうの主人になるのです。つまり、人間は専門的知識と科学・技術によって、自然法則を循環的に応用していくのです。
 人間は自然に対して、自由な持続可能性の行為に入っていくのです。それは、自由の王国の飛躍になっていくのです。資本主義的な生産による社会的生産の拡大と私的所有の矛盾からの無政府を克服していくために、国家の力によって、社会的になった生産手段を公共的所有に転化させていくのが、社会主義の役割です。エンゲルは空想から科学への著書で、資本主義の矛盾の克服としての社会主義の必然性をのべるのです。
 マルクスとエンゲルが生きていた時代から150年たった現代社会は、生存権社会保障の充実、労働権など社会権の充実がみられるようになりました。国家の機能も大きく変化していったのです。

 国家としての資本主義的無政府性の克服に、国家の経済への関与が巨大な財政出動、公共的事業、金融管理が生まれてくるのです。そして、社会経済社会を法によるルールをつくっていくのです。
 つまり、国家による経済の監督、管理規制と大きく変わっていったのです。日銀の金融政策、国家の財政政策、国際的な経済機構の整備などが進んで、資本主義の無政府性をコントロールする歴史的な時代に入っているのです。

 しかし、一方で、社会的に自由の権利を物質的に制限しようと国民の命や暮らしの社会権利保障の財政出動を削減しようとする新自由主義の考えが大きく存在していることも事実です。この対抗が現代の政治的な矛盾になっているのです。
 新自由主義の考えが、大きな存在になっているなかで、資本主義のもっている原理的な矛盾をマルクスエンゲルスから学ぶ意義は現代でも大きく、社会主義的な見方は未来社会をみつめていくうえで、大切なことです。
 そして、マルクスエンゲルスの生きた時代から150年の歴史を深く分析して、人類史的に社会主義的思想の果たした歴史的役割を先進資本主義の現実の社会経済構造からみていくことも大切な課題です。社会主義という呼称がソ連や中国などで使われています。これらの国は、社会的自由や市民的自由が発展してきた先進資本主義とは異なっています。
 また、植民地から独立したキューバベトナムなどでも社会主義が唱えられています。世界は政治的に植民地が消えて、多くの独立国家として存在して、国連に加盟しています。国際的な共存・共栄と多元主義による多様な価値を尊重する協調主義も可能になっている時代です。
 社会主義を呼称している国は、それぞれ政治体制が、歴史的に異なり、また、文化的側面も違いがあるのです。また、社会主義という思想の意味あいも一律ではないのです。まさに、多様性をもって、多義的に社会主義が呼称されているのです。
 しかし、社会主義は人間的自由を勝ち取っていく思想として、独立と自由、平等ということで多くの人びとに支持されて、普及していったものです。いま一度、人間的な自由とはなにか。自由の国とはなにか。社会的自由、市民的自由、公共の福祉という基本的な原理を含めて、それぞれの国や社会的現実に即して、深めていく課題があるのです。
 マルクスエンゲルス社会主義論は、当時のイギリスなどの自由や民主主義の思想が社会的影響の姿がみられ、議会の発展もありました。このような資本主義の発展した国の現状のなかでの矛盾の分析でした。このなかで社会主義が唱えられたのです。この意味で、マルクスの思想からは、先進資本主義国のなかで、社会主義思想をみつめていくことが大切だと考えられるのです。