社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

水と平和

  水と平和

    鹿児島大学名誉教授 神田 嘉延

 

 (1) 水と紛争

 

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 異常気象によって、日本は水害に会う機会が増える今日である。現代は、干ばつと水害が世界各地で起きる時代である。日本で暮らす人々にとって、地球上は、水が豊富にあるように思われがちである。しかし、地球上で人間が生きるために利用できる淡水はわずかである。21世紀は、水の危機といわれるように世界の各地で、その紛争がほっとおけば激増するとみられる。


 また、水をめぐる紛争は、格差・貧困と差別の問題がよこたわっている。水の危機の対応には、環境問題ばかりではなく、発展途上国の貧困問題、女性、子ども、高齢者の社会的弱者に配慮しての持続可能な開発目標(SDGs)が求められている。国連は、2015年の総会で持続可能な開発目標を採択したのである。持続可能な開発目標にとって人間の能力開発という教育目標は重要な課題になっている。そして、平和なくして、持続可能な開発はありえないとしている。


 ところで、地球上の水の97.5%が塩水で、淡水は、2.5%である。しかし、湖・河川、浅い地下水で人間が利用できる淡水は、極めてわずかである。淡水の70%は南極と北極にあり、それ以外の淡水も地下800メートルである。地表の60倍も帯水層という地下水である。 

 人間が生きていくうえで必要な淡水は非常に少ないのである。世界の人口の4分の1が飲料水を地下水に依存している。水は本来人類の共通の資源として、地域でそれぞれ共有してきたのである。


 水の共有の掟が、植民地的なモノカルチャー経済や緑の革命という農業生産力の飛躍的増大によって、大きく変わった。それぞれぞれの地域や地方ごとの食糧生産から輸出のためになった。乾燥地帯での適切な排水のない過剰な潅漑用水が土地を砂漠化していくのである。

 過剰な耕作は、世界の各地で行われ、土壌の劣化が起きている。水をめぐる紛争は、モノカルチャーという植民地的な単一の農業生産や緑の革命という飛躍的輸出のための農業生産によって、起きるようになったことを忘れてはならない。食糧の輸入は他国の水資源からである。


 そこでは、井戸が涸れ、河川や湖沼が干上がる現象が起きる。地下水位の低下と化石水が減少して、太古の水の循環性が崩されていく。過剰な揚水が世界各地の穀倉地帯で起き、農地の栄養分が消滅しているのである。また、化学肥料、窒素肥料を多量に使う大規模な集約農業は、河川を汚染していく。
 さらに、多頭飼育の畜産業は河川の糞尿汚染を作り出していく。沿岸漁民は、森林を水源とする豊富なミネラルを含んだ河川の栄養素によって、プランクトンの繁殖で、魚が集まってきた。多頭飼育による河川の汚染によって、漁民と畜産農民の対立が起きるのである。紛争を解決する方向性として、漁民と農民が共同しての水源地域に植林運動をしている事例もみられる。

 

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 淡水の利用は、農業用水ばかりではなく、家庭用水と都市活動用水の生活用水と工業用水がある。工業用水は、使用量が急増しているが、近年の特徴として、工業用水を循環的に回収利用するようになっている。大和総研国土交通省の資料から2009年度の水利用可能な水源源賦の20%が利用されているとしている。それによると農業用水544億m3、工業用水116億m3、生活用水154億m3である。農業用水は、1990年がピークである。仮想水利用量は、日本の農業用水利用よりも上回っている。


 工業用水は、実際の使用量は、1965年から2000年度まで3倍になっているが、循環式の回収水の普及で淡水の利用が減少しているのである。工業用の淡水量供給の2009年は100億m3で、1970年150億m3である。生活用水量は、2000年度をピークに減少している。


 産業革命による工業の近代は、多くの淡水を利用するようになり、さらに、その処理の仕方も垂れ流しという水の汚染からの公害問題を起こしたのである。渡良瀬川足尾鉱毒事件、神通川イタイイタイ病を起こした。さらに、水俣病の原因になった窒素会社の水銀垂れ流しの問題などが起きた。

 

 これらは、永い年月をかけて地域住民と会社の対立を生んだのである。これらと同様な事件は、世界各地に起き、現在も起きている。水の紛争問題を考えいくうえで、公害の問題は近代の工業化や植民地経済にとっても大きな問題を歴史的にもったのである。今でも、この問題は完全に解決しているわけではなく、発展途上国では、いまだに大きな課題になっている地域がある。


 世界人口の8億人近くが栄養不足で暮らしている現状である。先進国では、飽食状況で、食品ロスから多くの食糧品を破棄している。世界全体でつくられる食品生産量40億トンのうち、13億トンがすてられている。世界中で飢えに苦しんでいる人々に食糧援助しているのが320万トンである。日本では、その2倍の621万トンの食品がすてられている。日本は、37%以下という低い食糧自給率の国であるが、食品をすてる国民になっている。


 世界人口の40%は、2ヶ国以上の共有する河川水系に依存している。例えば、メコン川は、上流の国が中国、ミヤンマーであるが、メコン川の国際会議の正式メンバーは、タイ、ラオスカンボジアベトナムである。中国とミヤンマーはオブザバーである。複数の国にまたがるメコン川を共同で管理している。複数の国での下流の国は弱い立場にある。また、河川の権利を武力によって、独占している場合もある。


 イスラエルの水源の多くは、占領地に源を発している。パレスチナの人々は水を自由に利用できない。イスラエルの人々は水を自由に使い、豊かな農業を営み、何不自由なく庭に水をまくことができる。一方でパレスチナの人々は飲む水にも苦労している。シリアがヨルダン川から分水しようと1965年にイスラエル空爆してあきらめさせた。


 タイ東北部では、雨期と乾季が明確に季節によってわかれているが。そこでは、森林と水田によって、伝統的に人々の集落での生活がされてきた。キャッサバによるデンプン生産を行う外国資本の影響で大規模開墾のために広大な森林を伐採した。また、パルプ生産のために生育のきわめて早い外来のユーカリを植えた。


 この結果、地表の植生による保水能力が失われ、水の自然循環が破壊されたのである。乾季のときに河川の水が流れなくなる。地域全体に、地下水の塩分が地表にあらわれるようになり、あちこちの畑に塩がたまるようになっていく。地下深くにあった塩の岩盤が地下水の上昇によって、塩害被害が起き、砂漠化していった。もともと、地下を掘って塩田生産が行われていた地域で、地下に塩の岩盤があることは知られていたのである。


 2011年にタイのチャプラヤ川では、大洪水が起きた。ここには、7つの工業団地があり、8000以上の企業が浸水被害を受け、その半数以上が日系企業であった。直接経済損失1兆円、機会損失4兆円という莫大な被害であった。

 

 経済のグローバル化によっての海外の工業立地において、災害リスクは大きな課題であることが認識されたタイの大洪水であった。日本企業の自然災害リスクの認識不足ということで、海外であれば、その被害が甚大になるのである。目先の関連企業との近さや交通や物流の便利さだけではなく、河川などからの自然災害ということも視野に入れておかねばならないという教訓である。

 

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 日本は、世界で最も豊かな水の資源に恵まれている国であるが、世界の水に頼って経済が成り立っていることを認識しなければならない。日本の農産物輸入品などの外国からの輸入品を生産するために使われた水を仮想水貿易とするが、2016年度の輸入品から東大教授の水文学専攻の沖大幹氏の試算によると年間640億立方メートルとされ、世界最大の仮想水輸入国になる。食糧の自給率が低いことから農産物輸入が大きいことになる。日本の潅漑揚水量は、572億立方メートルといわれることから、それを上回る仮想水輸入国になっている。まさに、日本は、世界の水を犠牲にして、国民の生活が成り立っている経済構造である。


 沖教授は、一国だけで幸福はありえないとして、グローバル化した世界で、良くも悪くも相互依存が高まっているため、運命共同体になっているとしているとしている。シリアの内戦などに大量の難民が欧州におしよせ、大きな社会問題になった。水や気候変動などで地球規模の難民が高まると考えられ、水、エネルギー、食料を適切に利用できる社会基盤の必要性を強調しているのである。

  沖大幹「水の未来」岩波新書、130頁


 水は人間の暮らし、産業にとっても不可欠の資源であるが、その地域性をもって自然の循環性の資源である。地球の生態系を維持する自然循環として、人類の共有財産であることがあらためて重要になる。水は生命の源である。また、水資源は、地域的に偏在しており、その恩恵を受けるためには、人類的な管理運営が求められる。


 人々は、生きるために水の権利をもっている。水資源は貯水量ではなく、基本的に循環している資源としての水であり、ローカル性をもっている。それは、地理的、季節的にも大きく異なる。


 2000年に国連総会でミレニアム開発目標として、採択された安全な飲料水を確保できない人々を2015年までに半減していくということは、世界に多くの人々が飲料水の確保に苦労している緊急性を示した。ここには、安全の飲料水の確保には、汚染された水を浄化していく整備の問題をも含んでいる。


 水道水の普及は、汚染された水で生活している人々を衛生面から救うために不可欠なことである。水道水の普及がなく、居住している近くに飲料水の確保が難しい地域では、家事労働のひとつとして、女性の水くみと運搬の過重な仕事がある。女性の過重労働の解放ということに、水道水の普及による飲料水などの生活水の確保の問題がある。

 

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 例えば、鹿児島県の離島では、飲料水の確保に、どの集落も苦労していた。そのなかで女性の水くみの労働は大変なものであった。
  沖永良部の知名町瀬利覚に、水が湧き出す場がある。地元の人々は、ジッキョヌホー(瀬利覚の湧水)と。平成の名水百選に指定されている。それぞれ、飲み水等の生活用水、洗濯場、水浴場と使い道によって、区画の区分がされている。この地は、地下の暗川のはずれで海に近い、自然条件から生活のための水くみの過酷な労働から解放された恵まれたところである。飲み水、炊事・洗濯と人々が生きていくうえでなくてはならな水。湧き水のない地域では、暗川を掘り当て、きついがけ下まで降りて、水をくみ上げて、運んでこなければならなかったのである。


 現在は、水道の普及によって、その生活的な役割は終えているが、昔から、聖なる場であると共に、人々が水をくみながら、洗濯をしながら語り合う場でもあった。また、子ども達の水遊びの場でもあったのである。村人にとっての共同の心が通い合うところでもある。そこから、水に感謝する地域の文化が生まれ育ったのである。


 沖永良部では、聖なる泉として水神を祀るショージゴーがある。内城にある世之主墓の西方の谷間でショージゴーが行われていた。元旦の早朝に、全家庭では、若水汲みの行事を主婦が黄金水と称して神棚に供える。ショージゴーでは、水で手足を清め、洗米つくって水にささげ、自ら頭にのせ、そして、その水をくんで家の神様にささげることをしてきたのである。


 家の人が亡くなった数日後は、神の行事をする。その人は、ショージゴーとしてユタに指名された人が行う。ショージゴーは後年になると、近くの泉や井戸を掘って水がでるようになるとショージゴーと称する神移しがおこなわれる。現在は水道の普及によって、その行事やショージゴーという信仰を消えている。
 沖永良部の水の文化を大切にしていくために、瀬利覚の人々が中心となって、文化財として保全し、それを地域の祭として盛大に行っている。現在は水道の普及によって、暗川の役割はなくなっているが、明治、大正、昭和と長い年月にわたって、暗川は活躍したのである。この暗川は、住吉、正名と二つの集落の水源であった。水桶を頭に載せて、あるいは肩に担いで高低20メートルの階段を利用しての水の運搬は重労働であったのである。この仕事は、主に女性の仕事であったことに注目する必要がある。


 明治以前は、さらに厳しい労働であった。明治のはじめに、破裂技術の進歩で、岩盤を切り開いて、高低20メートルの階段のついた通路をつくったのである。それ以前は、水源に至るまで、非常に狭い通路であった。その通路は、水の上から六寸、横幅3尺、水の深さ一尺である。常々衣服を脱ぎ、腹ばいになって桶を脇に挟み水中をもぐるようにして水を汲んでいたのである。


 明治文明開化の世の中になったということで、破裂技術の発明がされたことを知り、島役人たちは支庁に訴えた。そして、支庁は直ちに現地調査を行い、民の苦しみ痛んでいる実情を本庁に具申したのである。県知事から技術者6名が派遣され、公費で無償で明治9年に完成させたのである。


 ところで、2015年に国連総会は、持続可能な開発目標(SDGs)の内容を全会一致で採択した。この開発目標では、5つのPを最重要として位置づけた。それは、人々、地球環境、繁栄、平和、連携という5つである。平和の課題では、持続可能な開発なくして平和はありえないという提起である。


 食糧安全保障では、優先事項として飢餓を撲滅し、あらゆる形態の栄養不良の解消をあげている。後発開発国での小自作農や女性の農民、遊牧民、漁民への支援を通じて、持続可能な農業、漁業発展の資源に注ぎこむ必要があるとしている。また、水とエネルギーのより有効な活用を通じ、都市活動や人々の健康と環境に有害な化学物質の負のインパクトを減らすと考えている。


 ここでは、天然資源、海洋、生物多様性の鍵は、天然資源の持続可能性な管理であるとする。大洋、海、湖、森林や山、陸地の保存をし、それらを持続可能的に使用して、生物多様性、生態系、野生動物を保護すること決意した。持続可能な観光事業、水不足・水汚染解消への取り組みの促進構築と災害のリスク削減に向けた取り組みを強化するとした。17分野の開発目標のもとに、169項目の行動目標を国連総会で持続可能な開発目標をまとめたのである。


 コモンズとしての水、水の脱商品化を提起する「水戦争の世紀」を書いたモード・バウロウ、トニー・クラークは、人類にとって水の平和を強調する。グローバルの水危機に対して、どの国も自国領土内の水の利用の権利をもつことが大切であり、どの国も他国に相談せずに水を利用してはならない原則が大切とする。そして、公平かつ適正に共有する流域の水を利用する権利をもつことができることである。水危機に対して、世界平和を守るために、10の原則を提起する。

 

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 第1は、水は地球と全生物のものである。人間だけが、全生物種の依存する生態系を破壊する力をもっているのである。人間がたどっているのは、破壊的な道である。水とわれわれとの関係を再定義し、水は自然に欠かせないという認識にたちけることができない限り、誤りをただすことができない。
 第2は、水はできる限り元の場所から動かさない。自然はあるべき場所に水をおいた。ダム建設、分水、タンカー輸送は環境に与える影響を考えれば好ましくない。
 3,つねに水の保全に心がける。生活習慣を根本に変えて、水が水量ともに減少しないように心かけるべきである。
 4,汚染された水の再生をはかる。水の不足と汚染の原因は、過剰消費と非効率な水の利用を奨励した経済にある。国境を越えた採掘事業や森林開発に対する厳しい規制を復活すべきである。これらを野放しにしたことが水系を害してきた。
 5,自然の集水域こそ、水を最もよく守ってくれる。集水域の地表水と地下水の状況は、地域の水文条件下にある動植物を含むすべての生き物に影響をおよぼしている。
 6,水は政府のあらゆるレベルで保護すべき公共信託財である。領土内の水は、公共財財として各国政府は宣言すべきである。
 7,クリーンな水へのアクセスは基本的人権である。上下水道事業を公共セクターにとどめ、水資源の保護に法制化し、水を有効に利用すべきである。
 8,地域社会と住民こそ、水の最良の保護者である。水の安全保障には、科学技術にいくら金をかけても、民間企業や政府にもできない。地域社会に根ざしたものでなければ、水不足の解消、持続可能な水の確保はできない。
 9,一般市民と政府は対等のパートナーとして水の保護にあたらなければならない。長い間、政府と世界銀行OECDのような国際的経済機関と貿易官僚が大企業のいいなりになってきた。NGO環境保護団体は相手にされなかった。それが、どの国でも政府の権威を失墜させた。水政策の決定に、市民と労働者、環境保護団体を対等の参加者として、水を守っていく措置を講じなければならない。
 10、経済のグローバル化政策によって水の持続可能性が確保されることはない。経済のグローバル化には、水不足問題を解決することができない。水の持続可能性をグローバルに達成するには、地域的な自給自足を促す道以外にはない。地域の集水域系に根ざした経済の構築は、健全な環境保護政策と人間の生産力を統合すると同時に、水を保護する雄一の方法である。
 モード・バロック、トニー・クラーク著「水戦争の世紀」集英社新書、217頁~227頁参照


 世界の水危機のなかで水をめぐる紛争も世界各地におきる可能性がうまれてきている。水紛争から平和を守るために、以上の10の原則も水と平和ということで重要な検討事項である。


 令和天皇は、皇太子時代の2018年にブラジルであった世界水フォーラムで講演をしている。そこで、水を分かち合うことの大切さを強調している。「歴史を通じ世界にも水を分かち合う工夫は多くあります。その仕組みは施設や慣習にとどまらず、社会システム、法制度、条約にまでおよびます。その中で水に関する情報を共有し、協働して水水源を守り、異なる水利用を折り合わせることは、人々が水を分かち合い、平和と繁栄、そして幸福を分かち合う第一歩といえます」。徳仁親王「水運史から世界の水へ」NHK出版26頁


 日本の水の分かち合う文化や慣習の事例を紹介しながら、世界の水の分かち合うことの大切さを強調しているのである。さらに、令和天皇は、2015年に採択された国連の持続可能な開発目標達成に向けて、女性や子ども、高齢者、障害者の人たちなど社会的弱者が水害や干ばつ、地域の不安定に最も影響を受けるとして、水に関わる人々は、ジェンダー、教育、難民、移民、貧困などの問題に取り組む人たちとの対話を積極的に行う必要性を力説しているのである。前掲書、33頁

 

(2)農と平和

 

 農業は水がなければ生産ができない。農業にとって水の存在は不可欠である。開墾には、水を確保していくことが大きな課題である。つまり、潅漑用水が必要になる。食糧生産にとって、水を制していくことは重要なことである。水をめぐる地域間の争いは絶え間なく起きたのである。為政者にとって、農業生産を安定に確保して、富を増大させていくことで、治水は重要な仕事であった。


 農から平和教育を考えていくことは、人口増大からの食糧問題、資源獲得からの領地拡大として、古代国家から戦争が絶えず続けられてきたのである。農業は、自然と関わる人間の食糧生産の営みである。
 人間が生きていくうえで、基本的な物質的生産が農業である。農業は自然循環による持続可能性をもっていたことによって、その地域の人々は生きてきた。人口増加のため、目先の食糧生産のための乱開発によって、自然生態系を崩した歴史をもった民族があった。例えば、古代のメソポタミヤ文明は、どんなに優れた文明をもっていようと農業の乱開発の環境問題によって衰退していったのである。


 農とかかわってきた人々は、人間として生きるための食糧生産ばかりでなく、農林産物を資源とする工業化にも大きく寄与してきた。体の温暖の調整と豊かな文化性を表現する衣装は、農林産物の加工品であった。人々が住む住宅や家具などは、林業からの匠の加工品である。


 権力者でない民衆は、その都度、戦争の悲惨から人々は平和を願ってきたのである。なぜ、戦争を起こすのか。いつの時代も民衆の最大の為政者に対する疑問であった。
 現代は、科学技術の発達によって大量破壊兵器が開発された。その典型が核兵器である。現代の戦争は、地球全体の破滅につながりかねない恐ろしさをもっている。現代戦争の兵器は、一瞬にして多くの人々を死に追いやり、何年も後遺症で苦しんでいかねばならない。戦争を起こせない世の中をどうしたらつくれるのか。それは、現代の人類の持続可能な社会をつくっていくうえで緊急の課題である。


 戦争は国家、宗派、民族、地域の統治者によって引き起こされる。民衆は誰でも平和で暮らすことを求める。戦争は、個々の人々の争いではなく、国家統治者の意志によって起こされる。この意味で為政者、政治家、教育者、経済人、言論界・マスコミ等社会リーダーの平和に対する有徳問題は決定的に重要である。農からの平和の有徳を考えていくとどうなるか。


 戦争は、個々の争い、憎しみの意識問題に還元できない。個々の人々の意志は、為政者、政治家の戦争動員、戦争協力のための世論づくりに利用される。近代の立憲主義、議会主義の国家体制では、人々の意識、世論が戦争遂行を防止するうえで、極めて大きな役割をもつ。戦争遂行には、国民への協力体制、戦争のための秩序を要求する。


 戦争は、国家、民族、宗派、地域の集団的なエゴが大きくある。民族排外主義のナショナリズムの醸成は、その典型である。民族・国家のエゴは、国際関係での利害関係者との敵対行動へと発展する。平和には、共存・共栄、平等互恵、領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉が必要である。これらは、近代の国際関係の平和主義にとって極めて大切な課題であった。


 民主主義国家であるためには、戦争をしないように努力することが、基本姿勢である。仮想敵国を目的意識的につくり、防衛のために軍事力を強化してきたことが、戦争を誘発してきた。このことは、近代の歴史が証明した。
 国家として、どうしたら国際協調による共存・共栄の関係ができるか。それぞれの民族が生きていくために食糧問題や資源確保の基本がある。それぞれの民族や国家は、食糧を自立的に確保していくことである。それぞれの民族が暮らす地域で自給的に確保できない自然条件では、近隣の民族間を含めての自給的な共存共栄の関係が不可欠である。平和の構築には、それらのことが歴史的に形成されてきたのである。


 例えば、倭人アイヌの関係もそのひとつである。それぞれに恵みを与えて共存してきたのである。もともと異なる民族間が食糧をとおして、交易を行い、共存してきた。これらは、国際協調主義の原型である。


 国際協調主義は、平和を守っていくうえで、基本的な姿勢である。国際協調主義は敵をつくることではなく、軍事力を強化することでもない。民族の誇りは愛他主義であり、このためには価値観の多様性を認め、多文化共生の国際関係を作っていくことである。


 それぞれの国家、民族、宗派、地域は自由で自立した存在として認められ、お互いの主権、自治を尊重して共に生きてきた。共存・共栄の姿勢は平和時代の要請である。国益を守ることは、しばしば利害関係の相手国に対して傲慢になる。国際的な関係で利害関係者がそれぞれ利他主義になることが共生文明になり、平和を構築していくことになる。この思想は世界連邦構想である。国連による平和構築は、この発想に連なる。


 現代の戦争と平和を考えるうえで、格差や貧困を克服し、人間のもっている能力を発展させることは重要である。格差や貧困問題は、現代での平和を考えていくうえで、大きな課題である。人間的に生きていくためには、十分な食糧確保とエネルギーや水などの資源は重要である。平和な社会を築いていく食糧、エネルギー、水などの人間が生きていくうえでの基本になる「人間の安全保障」の視点が世界的に求められている。


 また、発展途上国の格差や貧困問題を正面から明らかにするために非同盟諸国の連帯も国際的な課題である。貧困と格差をなくしていくことは、テロを根絶するためにも根本的なことである。貧困による生きていくための食糧さえも確保できない人々が地球上には数多くいるのである。人間の安全保障によって、食糧問題は極めて重要なのである。


 ところで、日本の伝統的な平和文化や平和思想には、近代以前にも存在した。それは、神仏習合平安時代徳川時代の平和時代のなかでみることができる。農民思想として、耕すことが人間にとって最も大切なことであるとした安藤昌益は、武器の全廃を唱えた。また、世界兄弟で貿易を盛んにする日本を考えた横井小楠など江戸時代の儒学者に典型にみることができる。


 近代以前に、日本は伝統的な平和文化をもっていた。それを支えたのは安定的に食糧生産をしてきた開墾事業であり、そのための治水、潅漑用水を整備して農業生産力を増大してきた役割は大きい。明治の近代以降に、近隣諸国を侵略し、植民地獲得の戦争をしたのか。また、世界を相手に戦争をしたのか。

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 水の危機から平和を考えていくうえで、この問題を深めていくこともひとつのヒントを与えてくれるのではないか。水は万人の人権であり、水は人類共通の共有財産であり、水の商品化を克服して、どの国も他国に相談せずに領土内の水を利用することができない。他国と共有する流域の水を利用する権利は、公平で適正な利用が原則ということを、今一度深く認識して、各国の関係を築くうえでの参考にしてほしいものである。
 
 (3)霧島山麓での水とエネルギー

 

 日本の自然地形から水力発電所が大きな意味をもっている。水力発電所は日本を救うといわれるほどである。自然とのつきあいをうまくやっていかねば、自然からしっぺ返しされる。これが日本の厳しい状況自然条件である。うまくつきあえば日本はすばらしい自然の恩恵がある。自然と上手に共生していく水力発電所はその典型である。

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 たとえば、天孫降臨の神話がある南九州の霧島はカルデラ地形から急に流れ落ちる河川の傾斜地域が多い。この地形を利用して、明治後期から大正期にかけて水力発電所が積極的に作られた。


 霧島にある水天渕発電所は明治40年につくられ、小鹿野発電所大正元年に操業している。妙見発電所が大正10年である。霧島第2発電所が大正11年である。霧島第1発電所昭和元年に、塩浸温泉発電所昭和9年で、新川発電所昭和16年と戦前に多くの発電所が天降川の水系につくらている。


 小鹿野発電所は南九州でパイオニア的存在の鹿児島電気の飛躍的発展になったのである。鹿児島電気は1898年明治31年に開業していますが大型の発電所を霧島につくり鹿児島市に電気を供給するのが本格化する。
 霧島の小鹿野鹿児島市の鹿児島電気にとって第4発電所であったが、それまでの発電量を倍加する。1909年9月に株式総会で60万円の大増資決定で、100万円の資本金になります。1910年に着工され、11年に工事は完成し、1912年3月から鹿児島市に送電を開始する。需要家数は前年度の5倍以上になるのである。

 

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 1913年には国分電気への供給を開始する。鹿児島市ばかりではなくなく地元にも電気が使われるようになっていく。霧島の地形を利用した水力発電所は、鹿児島市の電気普及に大きな役割を果たした。
 鹿児島県の大口にある曽木の滝発電事業の創始者は、野口遵である。現在のチッソ旭化成の設立者になる。曽木の滝水力発電所は明治42年に竣工した。平成25年に廃止されていた水力発電所の一部を利用して新たに出発している。
 野口遵は明治39年曽木の滝を利用した発電事業を立ち上げる。大口金山に電力を供給するためである。その余剰電力を水俣カーバイド生産のために利用していく。このことから日本化学工場の発祥の電力供給地域といわれるようになる。


 歴史ある水力発電所の一部の取水設備を改築して新曽木の滝水力発電所として平成25年に観光と教育を兼ねたものとして出発している。事業者は新曽木水力発電所株式会社である。最大出力490kWh、年間発電量343万KWHである。
 霧島山麓のえびの市から白鳥温泉にいく途中で山深いところに、出水観音がある。豊富な霧島の地下水が湧き出ている場である。千年以上の歴史があり、性空上人が創建されたとする出水観音として祀っている。子宝祈願、安産祈願としての観音さまである。

 

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 霧島の六社権現のある反対側のえびの市にも性空上人の創建された神社がある。霧島山麓全体に、性空上人の信仰がある。この泉は、性空によって生まれたという説話がある。霧島の山系のいたるところに性空上人の伝承がある。ここは、古くから農民にとって大切な用水源になった。もともと、真幸院観音寺と称して、天台宗であった。神仏混合の神社である。真幸院を治めていた北原氏があつく信仰していた寺である。


 隣の県になる阿蘇山麓でも霧島と同じように、湧水が信仰の対象になっている。白川水源は南阿蘇村の代表的な水源で多くの観光客が訪れるところである。この水源の池は透明度が高く、川底の砂から湧水がわき出ている様子がみられる。ボコボコと川底から湧水が吹き上げている。毎分60トンの湧水量である。名水百選にも指定されている。古代より水源の守護神として吉見神社がある。この湧水は不老長寿と諸病退散の御清水として昔から語られている。


 霧島山麓は、巨大な水瓶になっている地形からあちこちにわき水が出る。霧島は雨が多い気象条件を持っている。大雨が降ったときは、水害の危険が高い地域でる。このために昔から特別に水害対策が行われてきた。山の森林を大切にして、山のなかに遊水池をつくった。

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 また、山の谷間に水田をつくったことが、水害予防にもなった。今でも谷間のわき水のすぐ近くに水田をつくって水害対策になった話を古老が話す。霧島川の支流になる狩川の源流は、鍋窪の集落の山地からである。山間地の鍋窪の集落が谷間で水田を今でもつくっている。


 近年に霧島川は、開発が進み、大雨のときは河川の水量が極端に多くなり、水害がたびたび起きる。土砂崩れもある。先人の知恵が生かされていないのである。灌漑水路の上に山からの小川の水を通す橋をかけた。橋は人が渡るものではなく、水を通す橋である。そこでは、水が交わることをせず、橋の上に水を通して、違うところに小川の水を流した。そして、霧島川の本流に流し込んでいくのである。


 霧島市の松永地区に灌漑用水を守るために、災害防御用の石橋アーチがかかっている。その河川水を落とす段差工事がされている。この石橋アーチのスパンは3.5メートルで、橋の長さは13.3メートルである。1777の改造の碑銘がある。水神碑には、1761年の刻印である。近世時代の貴重な災害防御用の石橋アーチである。水を分散させて水害から灌漑用水路を守ろうとしたのである。

 

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 ところで、霧島山麓水系は積極的に開墾が行われた。そして、余剰生産物も生まれ、人々の暮らしに余裕がでるようになった。生産されたものを交易した。治水技術の発展による開墾は交易の民を地域に生み出した。交易する民は、海の民が大きな位置をもった。海の民は、宇宙の星をみながら、自らの位置を見極め、気象条件、四季の変化、潮の流れの変化をじっくりみながら航海技術を深化させてきた。


 この航海技術の進歩は、世界へと羽ばたき、交易の民として、異民族文化との接触を積極的にできるようにした。異文化との接触は、珍しい文化のふれあいもでき、創造性をつくりだす。そして、貴重な財を蓄積し、文化が複合的に豊かになってきた。ここには、世界兄弟としての平和の文化もあったのである。海は命を一挙に奪う自然の恐ろしさもある。海の神に対する安全祈願は海の民にとって大切なことなのである。


 九州をほぼ統一した島津義久の拠点は、現在の霧島市隼人浜の市に富隈城を1595年に築いた。徳川家康より、関ヶ原の処理をめぐり、三州の領土は安堵された。鹿児島の鶴丸城に1602年に島津家の家督を継承した家久が入る。義久自身、1604年に国分郷の大隅国分寺跡近くに京都の町並みと国際交易性をもった舞鶴城が必要であった。


 戦国時代から徳川の天下統一によっての国際交易と太平の世の城下町を考えたのである。国際交易として唐人町が必要であり、明国の人々を厚く抱えたのである。霧島山麓の水系にあたる国分の唐人町は、国際交易のために明国から商人を集めてつくった。唐人町の近くには、広瀬川をさかのぼってくる貿易船の船着き場を持っていた。今でも中島、島田、中州という大河川を想像できる地名や川筋の名前がある。向河原、前河原、中河原、古川、滝川という小字名がある。


 また、船が入ってきた証としての湊町という地名が残っている。隼人の浜之市も大隅八幡宮の浜下りの場所である。天降川にそって、ここも昔から交易が盛んな場所であった。そこに、義久は富隈城を築いた。国分の舞鶴城は、京都と同じような町並みと文化的な整備をしていくためであった。
 義久は、明国から学者や技術者を多く召し抱えたのである。江夏友賢は明国からの帰化人で京都の町並みにならって独自に舞鶴城の町並み建設の担当をする。江夏友賢は著名な易学者であったが、町並みづくりの担当に力を発揮する。


 ここでは地形を配慮して、修正しながらの風水の思想を生かした建物の配置と町並みづくりで自然と共生の町づくりをした。富隈城も舞鶴城も天守閣をもった城ではない。舞鶴城は城下町として整然とした碁盤通りの町並みをつくり、武家屋敷街、加治木町、商人街、唐人町、高麗町を設けたのである。


 ここでなぜ一国一城令以前の富隈城も舞鶴城も天守閣をもつ重層的な高い建築の城をつくらず、屋形造りの城であったのか。つまり、なぜ、権威をもつ重層的な高い天守閣の城ではなかったのか。ここには一極集中的な武士団を城下町に集めるのではなく、中世的な各郷の秩序を維持しての兵農分離を徹底するものではなかったのである。


 武士団の権威の意味が郷村制の秩序のなかであった。武士団層が郷の麓集落ばかりでなく、農村のなかにも存在していた。農村では粗末な屋敷で耕作地も少なく百姓も貧しい武士がいた。農民ばかりではなく下級武士にとっての開墾田の要求があった。
 唐人町正覚寺跡公園にある煙草試作研究開発の服部宗重の碑と明国からの渡来の林家等の墓群がある。慶長11年(1606年)に義久の命によって、服部宗重が、この地でたばこの試作をしている。舞鶴城の商人街の近くで新しい産業づくりの取り組みがおこなわれはじめたのである。ここには、未来に対する息吹があったことが重要である。

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 明朝の高官であった林鳳山(ほうざん)が国の乱を避けて日本に渡来してきた。彼は島津義久に召し抱えられて唐人町の発展に尽くす。義久のつくった城の近くは、広瀬川が流れ、唐船や琉球船が入ってきたのである。
 鎖国令の後に、広瀬川は川筋の大工事を4年間で行う。1666年に完成し、新たな新川をつくり、川筋が5000石高の新田になった。川筋の開墾は自然の復元力によって、大雨が降れば水があふれやすい地形である。現代でも水害の防災対策として、歴史的地形を知ることは大切である。


 城をつくり、城下町を整備して、その周りの川筋を開田して、川筋の水量調整や保水機能を水田整備のなかで成し遂げていく。この事業は国分平野全体の水路や開田の整備をした。松永用水路、平溝用水路・清水新田、重久溝用水路、宮内原新田用水路と整備されていくのである。

 用水整備事業には多大な経費と尽力を要して、自然地形から極めて複雑な難工事であった。例えば、宮内原用水は取水口から12キロに及ぶ。高低差は、17メートルということで、極めて平坦な勾配で、100メートルで5センチという測量技術の正確さを要求された。同時に、嘉例川と西光寺川を横断する工事であった。取水口は大きな岩が多く、山地をぬけるということで、隧道工事を強いられたのである。そして、暗渠、放水門などの設備が必要であった。
 その潅漑面積は、436ヘクタール(現在は344ヘクタール)で、約6000石がとれる水田地帯になったのである。隧道は、上から何カ所も井戸を掘って、井戸の底部を横に掘って、つなぎ地下トンネルをとおしていったということである。そのトンネルを大きくするために取水口近辺の本流の天降川をせき止めて、上流から水を流して、土砂を水力によって崩していく方法をとった。
 嘉例川を宮内原水路が横切るために、潜り工法がとられている。合流点からおよそ30メートル奥まったところに隧道を掘って潜らせている。そして、川のこの付近の高低差は岩石の落下が頻繁に起きる地域ですので、嘉例川の底部を石組みで補強する工事をしている。西光寺川でも宮内原用水路を横切らせるために同様な工事をしている。
 国分平野には武士の麓集落と郷村制が国分郷、清水郷、重久郷、日当山郷村と存在した。これらの郷村が統一して国分平野の用水路と開田をして、産業の発展と治水事業をしてきたのである。山の整備も薩摩藩の林野やそれぞれの村の林野を整備して森林の管理と治水事業を結びつけることから植林の奨励もした。

 国分平野には武士の麓集落と郷村制が国分郷、清水郷、重久郷、日当山郷村と存在した。これらの郷村が統一して国分平野の用水路と開田をして、産業の発展と治水事業をしてきたのである。山の整備も薩摩藩の林野やそれぞれの村の林野を整備して森林の管理と治水事業を結びつけることから植林の奨励したということである。


 現代的に地域社会の循環機能を整備した。防災機能を充実していくうえで、森を大切にして水源を確保し、水路をつくり、水田整備の開墾と、循環機能の環境を大切にしたのである。現代でも自然との共生の開発が求められている。開発をしていくうえで歴史から学ぶことが未来への持続可能社会をつくっていくために不可欠である。

 

 (4)ベトナム紅河デルタでの治水による人々の絆と日本との交易

 

 治水は、人々の絆を強くし、分かち合いによる交易の精神をつくりだし、平和の大切、侵略の無謀性を教えてくる。ベトナムの紅河の事例は、そのことを考えてみよう。紅河デルタは、ベトナム人の文化の多様性、独立心、共同性のこころを強くもっている。ベトナムが歴史的に中国から独立していくうえで、紅河デルタは大きな意味をもっ。ハノイを中心とするベトナム北部は、紅河デルタ地域に覆われていたのである。


 ベトナム人にとっての河川との闘いは、食糧生産を豊かにしてきた歴史である。それは、開墾と独立のためである。1200キロと流域面積12万平方キロメートルという巨大な紅河は、ベトナム中流域には平原をもたず、山地とデルタが直接に接している特殊性をもっている。
 このため、ベトナム人は、雨期に荒れ狂う紅河と闘わなければならない歴史であった。紅河デルタの北部のベトナム農民は、経済的基盤をつくるために、広範囲に網の目のように、大小の防波堤を築くことであったことを見落としてならない。そして、地域の絆をつくり、分かち合いの精神を広い範囲で形成した。山間部で暮らす人々、少数民族との連帯を作りあげてきた。また、歴史的に、中国からの独立のためには、農業生産を向上し、暮らしを安定させることであった。


 そこでは、輪中をつくり、紅河の氾濫地域を防波堤で防ぎ、田庄とよばれる荘園をつくっていった。自然に対する深い認識を持ち、地形を戦略にも熟知していた。この荘園には私兵をもち、中国の侵略にたいしての強力な抵抗勢力となったのである。今でも、ナムディンの中心街の公園には、3度による元朝の侵略を打ち破った指導者の陳興道チャンフンダオ)の銅像がそびえている。

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 それは、ベトナムの人々のあつい独立の精神的支柱になっている。この紅河デルタには小さな運河がはりめぐらせて交通手段と灌漑とを兼ねている。今では、ナムディンの海岸では1千トン未満の船舶の造船業が盛んにつくられている。河を利用した交通の要衝であったため、造船業が発達したのである。
 中国軍を追い払ったのも河を利用しての水位の日ごとの差と時間差を利用した戦法であった。河にくいをうちこみ、水がひいたときに船が閉じ込められる工夫したのである。よく地形を考えた戦法である。


 ベトナムの伝統思想家グエンチャイ (1380年~1442年)は、仁義を唱えた15世紀中国の明朝の侵略を打ち破った指導者で思想家である。彼は次のように現代の思想にも通じることをのべている。「仁義は横暴より強し」ということで、「大義をもって残虐に勝る」ということで、儒教のこころをベトナム的に応用して独立を守ったのである。捕虜になった明朝の兵士を人道的にあつかい、彼等の食料と帰りの道を確保したのである。海を渡って帰る兵士に500余の船を与え、陸を通って帰る兵士には、数千の馬を与え、人道的なはからいをした。

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 ベトナムの王は、 人間としてのこころを民に説いた。ベトナムの民には、十分なる休息を与えた。これらは、今後中国と平和を築くためにとった施策である。敵であった中国の兵士は、国に帰って、ベトナムの施策の協力を積極的にしたのも興味あることである。


 紅河は、輪中による強固な共同体をもっていた。しかし、交通手段が発達して、外に開かれていたことも重視しなければならない。外に開かれた共同体意識である。紅河デルタ地帯の共同体は、集落それ自身が、輪中化して、塀をつくりひとつの大きな家族共同体となっていた。そのうえに、皇帝の指揮のもとに派遣されている郡単位規模の上位の地方共同体、省レベルのふるさと意識が存在し、国家・民族意識と繋がっていくのである。これが、強力な防衛組織になっていた。


 ベトナム中部のホイアンは、戦国末期から徳川時代の初期にかけて、日本人が積極的に国際貿易をしていた地域である。とくに、1604年から1635年の幕府が交付した 朱印船は、日本の国際的な交易活動に大きな役割をした。
 朱印船の交付はベトナムが130通でトップである。インドシナ半島では237通と、全体の67%である。ベトナムとの比重が大きくあったのである。その中心がホンアイの港である。ホンアイは国際交易活動を積極的に展開していたチャンパ王国の重要な港町である。朱印船時代に、ホイアンは、ヨーロッパの各国の貿易船が入港していた国際貿易都市であったのである。


 日本商人による国際交易活動ということだけではなく、有力な藩が広く東南アジアに貿易のために進出していた。島原のキリシタン大名有馬晴信や平戸の松浦藩、長崎港開発した大村藩など積極的に国際貿易を展開した。平戸は、日本における国際貿易の拠点になっていたのである。ベトナムのホンアイの国際都市には、この時代に日本町ができたといわれている。


 日本人はヨーロッパの世界の発見と同様に16世紀後半から17世紀前半にかけて大航海時代があったのである。東南アジアで当時の最先端技術が開発されていた。東南アジアからの発信と日本の戦国時代から幕藩体制の確立においての日本近世の発展という関係もみていくことも必要なのである。


 家康は茶屋四朗をとおして、チャンパの王に香木の交易依頼の親書を託している。朱印船の時代のベトナムは、北部に鄭(チン)氏、中部に阮(グエン)、南部にチャンパ王国が栄えたのである。小倉貞男著「朱印船時代の日本人」より
 日本橋ともいわれる来遠橋には、屋根付きの木造の部屋もありました。中国人と日本人のもめ事の簡単な裁定を行っていた。橋を境に東側が日本町、反対側が中国人町となっていました。日本人町には立派な建物がたっていたのである。
 これは朱印船貿易によって幕府や貿易を望む藩との関係で日本町がつくられた。中国側は、貧しい華僑の人々が商売を求めて移り住んだことと対照的であった。この橋のなかには、小さな寺もあったのである。

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 16世紀後半から17世紀前半にかけて日本はベトナムとの貿易を積極的に行っていた。その港はホンアイであった。絹織物と香木が大切な取引あったのである。グエン王朝は徳川幕府と協定を結び朱印船貿易で大きな役割を果たしたのである。日本の朱印船貿易はホンアイ港で重要な立場になってベトナムのグエン王朝の国際貿易の推進をしたのである。
 ホンアイの郊外の田んぼのなかに、日本人の墓が今でも残っている。谷弥次郎衛の墓で長崎の平戸出身で恋人に会うために再びホンアイに帰って来て永住したという逸話がある。


 ホンアイの日本人町では、角屋七郎兵衛が1670年に松本寺を建てている。日本人町自治制であった故にイエズス会キリスト教の信者の迫害は強くなかった。教会堂で葬式が行われており、多くの日本人が参列したという記録が残っている。岩生成一「南洋日本人町の研究」岩波63頁から73頁
 平野屋六兵衛は日本人町の頭領でした。ホンアイでは、日本町が港の行政にも大きな役割を果たした。オランダ東インド会社は北部のトンキンに事務所をかまえて絹織物を日本に輸出したのである。中国の国内の政治的乱れで、中国商人の活動はベトナムに移り、トンキンの絹は日本市場における中国絹糸の代替えとなった。トンキン在住の長崎出身の和田理左衛門はキリシタンとして貿易に大きな役割をしたのである。北部の王朝の側近として使えていたことも見落としてはならない。

 



 南島原キリシタン大名であった有馬晴信が手厚くキリスト教布教に積極的に協力している。南蛮貿易朱印船貿易を展開した有馬晴信であった。彼は、西洋の文化交流も積極的に行っている。これらは、ポルトガルの世界戦略による交易活動とキリスト教の普及が密接に関係したとみられる。


  朱印船貿易や東南アジアの日本人町に居住する人々にキリスト教信者が多いこともそのことが物語っている。有馬晴信は、龍造寺家との争いで薩摩と手を組み、1584年に勝利した。そこには、イエズス会の経済的軍事的支援があり、イエズス会との絆を深めていったのである。そして、1599年から1604年にかけて、周囲4キロ、31メートルの断崖に三方、海に囲まれた巨大な城を築くのである。この城は、キリシタン王国をめざし、西洋文化と日本文化の融合したものをめざしたのであった。

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 有馬晴信は、ベトナムのチャンパに渡航したと言われている。ベトナムでもイエズス会によってキリスト教の普及がされていく時期であった。チャンパへの渡航イエズス会を仲介していたかは不明であるが、日本の有馬晴信ベトナムチャンパ王国は、香木伽羅の貿易で関係をもっていたのである。


 幕府のキリスト教禁止令は1614年に発令されたが、日本の宣教師は、極東の活動拠点のマカオに集合する。ベトナムの布教活動の拠点にマカオがなる。ド・ロードは、ヨーロッパにベトナムを紹介した宣教師である。彼は、1623年から20年間マカオベトナムで活動する。ベトナムイエズス会の活動に日本の宣教師の果たした役割も大きなものがある。


 以上のように戦国時代末期から徳川時代の初期に至るまで、日本は、南方のベトナムとの貿易を積極的にしていたのである。そのなかで小国であるベトナムがいかにして大国との中国との関係で侵略から守り、平和を構築したのかを交易をとおして学んだのである。日本は、大航海時代に広く世界と交流していたことを忘れてはならない