西郷隆盛と霧島―立憲主義憲法草案との関連
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西郷隆盛は、明治維新の五か条の五誓文最初の「広く会議を興し万機公論に決すべし」を大切にした人物です。筆頭参事として、国の行政責任者になった明治5年から明治6年にかけて、憲法と国会開設にための会議を興した人物です。残念ながら挫折しています。霧島では、明治8年に、霧島在住の竹下弥平の名によって、立憲主義によって、国を統治する憲法草案が東京の朝野新聞に発表されました。
西郷隆盛と霧島山麓の位置⛰️
霧島は、西郷隆盛がたびたび訪れたところです。明治維新のときも鹿児島に凱旋することなく、西郷は霧島にとどまったのです。また、明治6年の政変後に、霧島山麓の温泉で日本の未来を思索しています。その後に、士官・幼年学校、私学校にづくり、そして、吉野開墾塾での新しい人材養成に奔走するのです。
西郷の生涯の親友で共に、西南戦争で戦った桂久武が下級武士の生活を確保するために幕末から明治初期に私財を投げうって開墾したところです。
西郷が奄美に流されたときに、久武は、奄美の役人として左遷されました。奄美では、共に暮らした間柄です。西南戦争では最後まで、西郷隆盛と共に、城山で政府軍と戦った人物です。生涯にわたって、西郷隆盛と共にした薩摩藩の家老で、維新後も重要な鹿児島の人物であった桂久武でした。かれは、慶応三年(1867)に霧島の開墾事業を始めたのです。明治の初期で霧島山麓に庁舎を構えた都城県の知事になった人物です。 👨🦱
桂久武は、薩長同盟で結ばれた翌年に霧島の開拓事業を始めているのです。西郷、小松帯刀と共に薩長同盟に尽力しています。同盟が結ばれて鹿児島に帰ったのでしたが、新しい世の中は、武士も経済的に自立して行くことが必要ということで、開墾事業に乗り出していくのです。
霧島田口の入植による開墾事業は、家臣たちの家造りからはじめなければならなかったのです。水田には、用水路建設などの多大の経費を要するのでした。この費用は全額桂家から出しているのです。久武の二男桂小吉が開墾事業を継承されたのです。
西郷と桂久武は、深い人間関係で結ばれていました。西郷が月照僧と錦江湾に入水し、奇跡的に助かった後、奄美大島に流刑されていたとき、桂久武も、奄美大島に左遷された。二人は、奄美大島という共通の基盤で、薩摩藩と日本の未来を考えていたのです。
明治8年の霧島での憲法草案と西郷隆盛🌄
明治8年の憲法草案は、竹下弥平の名で発表されたものです。竹下弥平と西郷隆盛の関係は、西郷が大山などに手紙を託した人物です。竹下弥平は、民間人として、日本の当時では、画期的な自由の真理と立憲主義の憲法草案を発表した人物です。
この憲法草案の内容は、国民のための民主憲法を歴史的に考えていくうえで、重要な資料です。明治8年3月1日付けの朝野新聞に発表された。執筆は、明治8年2月1日と記されています。竹下彌平は、鹿児島県襲山郷在中とある。西郷は大山に手紙を出すときに、竹下に託すと書かれているのです。
かれの憲法草案の理念的特徴は、「我国ヲ愛スベシ、吾人、自由ノ理ハ我国ヨリモ愛スベシ」ということで、国会の早期創設によって憲法を制定して、立憲主義のもとに、為政者を豹変させないという趣旨です。
民会の議論は、利害がぶつかりあい、時期が成熟していないという意見がですが、五箇条の御聖誓をうずもれさせないためです。国政失調を挽回するには、民会に求める他にないとするのです。自主自立、自由の理の真理を切り開き、国を発展せるためには、早期に民会を開くことしかないと強調しています。民会という議会を大切にしていく国と統治方法です。
現代的にみると、解散権は首相に専権事項とか、首相に信任のための解散という強い行政権限を持たせる独裁体制の風潮からみると、明治初期の竹下弥平の考えから学ぶことがたくさんあります。
欧米文明諸国と対等になるために政治の失調を立て直すに、民会を興し、旧来の悪い習慣を破り、天地の公道に基づくべし、知識を世界に求めるべきとしたのです。民会ということで、さまざまな意見を大切にして、古い悪い風習を無くして、新しい天地の公道に基づくということです。
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5ケ条の御誓文の天地の公道を指しているのです。天地という普遍的真理や、自然の摂理、誰からみても認めているルールや正義を大切にしていくことです。みんなが共有する正しい道、また人間がかってに決めたルールではなく、誰もが理解できる自然の普遍からということです。そして、知識を世界に求めて、人類普遍的な原理を求めていくということです。
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ところで、民会・国会は、国の重要な行政的責任者の太政大臣、左右大臣を選び、国の歳入歳出を定める特権を有するという提言です。予算は、国家の運営の重要な事項であるということです。西郷南洲遺訓でも私利私欲を棄て、敬天愛人の精神によって、民の生活を豊かにすることを第一にして、民への税の無理な取り立ては国を滅ぼすということです。民の税を減らすことが国を豊かにするというのです。
このために会計は、入りを測り出ると制するということで、税収について、民の生活が困らないように設計することを考えているのです。そして、支出を制するということで、国の指導者は自ら質素倹約に勤めて、品行をよくして、公道にそっての使い道を考えていくべきとしているのです。
現在のように、経済成長や積極財世論などで、入りを大幅に超えての財政支出ではないのです。国の指導者や大金持ちの質素倹約ということで、その蓄積される富は民に分配するようにすることが、税の仕組みで大切になってくるのです。
民にたいしては、税を軽くして、富める国の指導者や富豪層に対して、質素倹約を求めて、その部分の一部を税として民に分配していくという見方が現代的にも求められているのです。累進課税として、戦後民主主義の財政に導入された税制制度です。しかし、それが消費税ということで、富豪層も含めてすべての人々に求めているのが現代です。👱
民に、税の均等性ということから、所得が低ければ、重い税金になるのです。大金持ちという所得の高いに人々には税金を高くするというしくみになっていないのです。民を豊かにしてことは、税金を軽くしていくことです。そのことは、教育にも力を注ぐことができて、国にとっての創造的な人材養成の基盤にもなっていくのです。そのことは、国をさらに、豊かにして、子孫と地域を繁栄させていく道筋が求められていくのです。
😇ところで、政治のしくみとして、国会を中心として、左右両院の特権は、いかなる行政官、司法官、武官といえども犯すことができないとしているのです。国会の権限は、立国の本旨から最重要であるとするのです。これは、明治維新の5箇条の御誓文は、広く会議を起こして万機公論に決すという理念であったことから、その理念を早急に拡充して国会を開設すべきという。国会は、立憲主義ということから、行政府を縛り、国権の最高機関という国会の役割の主張がみられるのです。
😇 自由の理のもとに、憲法をつくり、国会を開設することで、日本の国が豊かになるために、教育の役割を重視していることも極めて大切なことです。このことについても竹下弥平は、憲法をつくって国会をつくることで、国が豊かになっていく道筋をつくっていくことをのべているのです。
幕末の立憲国体の動きと西郷隆盛
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西郷隆盛が筆頭参事をしていた明治5年から6年の新政府では、憲法を定め、国会を開設しようとする統治体制の議論が行われていくのです。
西郷は、すでに薩摩と土佐の盟約が結ばれた1867年6月の翌月にイギリス人のアーネスト・サトウと2回の会談をもっています。そこで、西郷は「国民議会」の構想を語ったことが、サトウの証言から記録に残っています。サトウは、それは狂気じみた考えであったとしています。
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アーネスト・サトウいわく「西郷は、現在の大君政府の代わりに国民議会を設立すべきであると言って、大いに論じた」「これは狂気じみた考えのように思われた」「西郷は政府は大坂と兵庫の貿易の全部を日本人豪商20名から成る組合の手にゆだねて、自らこれを独占する計画をたてていることを私に漏らした。・・・この情報が長官の耳に入るや、彼は烈火のようにおこって、直ちに首席閣老に会い、この計画を放棄することを主張した」アーネースト・サトウ「一外交官の見た明治維新(下)」岩波より
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薩土盟約での議会主義による国運営計画がありました。薩土盟約では、大政を朝廷に奉還し、上下の議事院を建立し、下院は、陪臣庶民に至るまで正義純粋の者を選挙し、上院は諸侯とする案でした。朝廷の制度も弊風を一新改革して地球上に恥じない国本を建てるとしたのでした。諸侯会議を開いて、人民共和をめざして万国に恥じないような国体を薩摩と土佐の盟約にしたのでした。
西郷隆盛の島津久光への建白書と西郷の長州派遣の中止がありました。西郷自身も同じ年の5月に、島津久光への建白書でも政権は天朝に帰し、幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に、朝廷を補佐し、天下の公議を以て統治を行うようにと提言しているのです。ここでも公議の問題が大切なことになっています。つまり、天皇を利用した絶対主義的国家、有司専制の官僚的な独裁国家による経済的な近代化を考えていたのではないのです。
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幕末から明治初期の新政府において、立憲国体が大きな政治課題としてありました。西郷隆盛は、薩摩と土佐の盟約を結んだ頃から、立憲政治の構想がありました。現実の政治過程として、大政奉還による平和的な体制変革は、その大きな目玉でした。
幕末の議会主義の構想は、坂本龍馬の船中八策、上田藩士の赤松小三郎による越前、薩摩、幕府への「御改正口上書」、会津の山本覚馬の「菅見」、横井小楠の貿易振興による世界兄弟論、議院内閣制の建白書などがありました。議会政治、立憲主義の見方は、すでに、日本の幕末の体制変革を唱える志士や思想家にあったのです。藩の枠を越えての日本という国のあり方を考えていたのです。
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西郷は、すでに薩摩と土佐の盟約が結ばれた1867年6月の翌月にイギリス人のアーネスト・サトウと2回の会談をもっています。そこで、西郷は「国民議会」の構想を語ったことが、サトウの証言から記録に残っています。サトウは、それは狂気じみた考えであったとしています。
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アーネスト・サトウいわく「西郷は、現在の大君政府の代わりに国民議会を設立すべきであると言って、大いに論じた」「これは狂気じみた考えのように思われた」「西郷は政府は大坂と兵庫の貿易の全部を日本人豪商20名から成る組合の手にゆだねて、自らこれを独占する計画をたてていることを私に漏らした。・・・この情報が長官の耳に入るや、彼は烈火のようにおこって、直ちに首席閣老に会い、この計画を放棄することを主張した」アーネースト・サトウ「一外交官の見た明治維新(下)」岩波より
薩土盟約での議会主義による国運営計画は、次のとおりです。薩土盟約では、大政を朝廷に奉還し、上下の議事院を建立し、下院は、陪臣庶民に至るまで正義純粋の者を選挙し、上院は諸侯とする案でした。朝廷の制度も弊風を一新改革して地球上に恥じない国本を建てるとしたのでした。諸侯会議を開いて、人民共和をめざして万国に恥じないような国体を薩摩と土佐の盟約にしたのです。
西郷隆盛と霧島山麓での温泉での思索
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維新後に湯治のために日当山温泉でゆっくりするのです。税を少なくして国民に余裕をあたえることが国力を豊かにする政治であると西郷はのべる。国民から税を絞りとるのは、国民と役人は敵対するようになり、国家の力は衰えていくということが西郷の考えです。
さらに、国家の歳入と歳出の原則についても西郷南洲遺訓の14項目で明確にのべている。「会計出納のことは制度の基礎であり、すべての事業のはじまる政治の中心なのであるから、とくに慎重におこなわねばならない。そのおおよそをいうと、「入るを量って、出るを制する」ということのほかには、これといった方法がないのである。一年の収入によってすべての事業の制限を定め、会計を担当する者がみずから制限を守り、決して制限を超えてはならない。
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明治8年の江華島測量の名目で挑発して、発砲してきた朝鮮の砲台を逆襲する事件に対する西郷の見方から、外交の平和的話し合いの重要性が理解できます。明治8年9月の朝鮮の江華島沿岸で海底測量の名目で挑発して発砲してきた朝鮮の砲台を逆襲する事件に、西郷は、篠原宛ての手紙に日本政府の外交路線を非難しています。(霧島山麓の栗野岳温泉で書く)。霧島山麓の温泉につかりながらのゆっくりと国の姿を考えた西郷の考えです。
農民のために尽力した西郷隆盛。明治9年頃に国分郷住吉村川尻の于寄地の紛議が入植士族と地元農民との間に起きている。この紛議に西郷は、百姓側の立場にたって、代作している。