社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

群衆心理と社会教育ー民主主義の危機のなかでー

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群衆心理と社会教育

     神田 嘉延

 

はじめに


 ー現代の群衆心理の怖さと民主主義ー

 

 今、世界は新型コロナのなかで、見えない感染症の恐怖にさらされています。この対処の出発は、科学的な根拠からです。人間のもつ理性的判断が鋭くとわれているのです。しかし、不安を煽られ、動物的な生存本能が群れとしての感情が蔓延しているのです。
 群衆心理のもつ恐ろしい危機が感染症と同時にパニック的に進行しているのです。新型コロナに感染した人々が差別され、社会経済も混乱状況になっているのです。さらに、この時期にコロナと全く無関係な日本の将来に大きな影響をもたらす、敵地攻撃論の動きがあるのです。選挙によって、絶対多数の論理が幅をきかしているのです。今、新型コロナの危機による対処は、科学的な根拠をベースにしての人間の尊厳を基礎としての理性的な判断です。
 未知の新型コロナに対する科学的な根拠、調査・研究と国際的な情報の入手、国民に対する徹底した検査、感染者の保護・医療の充実が切実に必要なのです。これには、強いリーダーシップが統治者に求められているのです。新型コロナの蔓延のなかで、危機における民主主義の在り方が問われているのです。
 近代社会の統治において、国民による選挙は、民主主義の基本であると考えられるようになりました。民主主義は、国会、行政、司の法三権分立によってなりたっているものです。
 そして、国の統治のルール、国民生活と三権分立の関係は、憲法にあるのです。民主主義には、各種の専門家、科学的知見を大切にしていく審議会方式をとり、オンブズマンパブリックコメントをも大切にしているのです。さらに、国民の直接請求権も保障しているのです。国民が直接に参加していくしくみは、単なる選挙だけではないのです。
 民主主義は、人間の尊厳を基本原理として、自由、平等、友愛というフランス大革命の理念によって生まれました。そのフランスも実際の歴史の過程は、革命後も為政者の人間の尊厳の施策に幾多の困難を抱え、独裁、侵略戦争、民主主義と交互に繰りかえしながら混乱と動揺のなかで展開したのでした。近代社会の発展によって、自由権も大きく変化していくのも特徴です。国家権力からの市民的自由から生きるための国家が保障していくという社会的自由も大切です。生存の保障の権利、独占禁止法などの営業の自由権が制限されるようになったのです。
 近代社会では、国民の政治意識状況、群衆心理も絡んで、国民の理性的判断のみでは、政治は動いていかなったのです。とくに、国民の心理的不安状況や貧困化、格差問題は、問題を複雑にしてきたのです。

 

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 自立した個人の理性的判断と平和

 

 国民自身が民主主義のもとに主権者になるためには、国家権力を握る為政者、マスコミ、周りから自立した個人の自由思考が必要です。民主主義の確立には、自分の頭で考えられる能力の形成、判断するための情報獲得の権利が必要です。民主主義とは何か。その内容が基本的に国民教育として、さらに、生涯学習と常に学ぶことが求められているのです。民主主義を考えていくうえで、多数決の原理がありますが、多数をとれば、信任されたということで、為政者はなんでもしてもいいということにはならないのです。
 民主主義の基本的原理は、人間の尊厳です。多数によって、少数者が迫害されてはならないことはいうまでもないのです。民主主義は、少数者を尊重し、寛容の精神で、他者を尊重していくことがです。基本的人権を侵してはならないという多数決以上の重要な基本原理があるのです。
 そして、平和的に暮らすという生存権をもつことが民主主義にとっての不可欠な要素です。異なる社会体制であろうとも平和的共存による国際的協調がなければ、それらは、実現しないのです。

 国民の命と財産を守るということで、他国の侵略攻撃からの敵地攻撃能力が議論されている現状のなかで、国家間の相互不信から民主主義の基本的原理としての国際協調による平和を積極的に構築していく世論を動かしていくことが大切です。
 慈愛と仁愛をもった日本の伝統文化からの愛国主義は、民族や国家の連帯心と誇りになります。その誇りを平和と人間の尊厳を伝統的な文化から探ることも大切です。一見、不合理とみえる民俗信仰の掟や祟りというなかに、人々が生きるための知恵があるのです。
 伝統的ほこりということは、民族的な共有感情をつくりだしていくものです。群衆という動物的な人間のもつ本能的感情をあらわにするのではなく、語り継がれてきた民衆や大衆のもつ人間性を醸し出すことが必要なのです。
 近代の歴史では、民主主義の選挙制度によって、ファッシズムが生まれました。近代の数々の侵略戦争を起こした為政者は、選挙に勝利しての軍事的な行動であった。民主主義の名による独裁政権打倒ということで、侵略戦争はたびたび行われた。

 例えば、イラクフセイン政権が大量破壊兵器をもっているということの名目で、選挙で選ばれ欧米先進国の軍隊が有志連合ということで、戦争遂行が行われた。フセインバース党政権を殲滅して、イラク国土を占拠しました。しかし、戦争の口実になった大量破壊兵器はなかったのです。その後、イラクは大混乱の社会になっていくのです。
 さらに、傭兵と反政府軍事勢力のもとで、リビアなどの独裁政権が倒され、民主主義国とする先進国の承認を得ることになった。そこでも大混乱の政治的状況で、内戦が続いているのです。侵略戦争は他民族、他国の主権を侵す最大の民主主義の敵です。国際化の時代のなかで、国家間の平和共存と協調主義は民主主義の重要な課題であることを決して忘れてはならないのです。

 

  ネット時代の民主主義の課題

 

 民主主義に、反する動きが熱狂的な民衆の運動を伴っての排外主義的ナショナリズムが現代でも世界各地で起きています。世界はこの勢力の動向に民主主義の勢力は悩まされているのです。排外主義的なナショナリズムの勢力が増大していく手法として、リーダーによる世論の動員、マスコミの利用が大きい。人間尊厳を尊重し、理性的判断のための情報を提供するマスコミの在り方も大きくとわれています。感情的なインパクトを与えるという衝動的な記事や映像の報道も問われるのです。
 現代はだれでもスマートホーンなど気軽にインターネットが利用できる時代です。その社会的役割は一層に大きくなっています。テレビや新聞からインターネットの拡散による世論の操作もはかりしれないほど気軽になっています。その拡散操作方法も金力によって、巧みに群衆心理を用いて自動化しているのです。
 現代は、生活のすべてにスマートホーンが深く浸透しています。買い物のキャッシュレス決済、インターネットによる商品購入、オンラインの会議や授業、ニュース、ネットによる仮想的人間関係など、さざままな利用があります。また、ネットによる人々の行動が管理することも可能になっています。
 街中にある監視カメラと同時に、新型コロナの感染防止ということからの個々の行動情報の提供など。その運用がどのようにされているのか大きな民主義の課題になっているのです。透明性や自分の情報がどのように正しく管理されているのかというアクセス権の問題が出てきているのです。
 社会経済の活動か直接的な人を介しての場面や実際的に見て、ためして、肌で触って商品を買う、人との関係をもつということから、ネットをとおしての映像判断になってきています。思ったのと異なる商品であることも少なくなく、また、ネットによって、知り合っての犯罪に走っていく場合もあるのです。気軽に便利な側面と同時に仮想の映像が大きな役割を占め、重大な問題を起こすことがあるのです。
 気軽で便利であるということはじっくりと物や人をみることよりも映像によって、感覚的な即断の判断によることが大きくなっています。これは、新聞や読書によって知識や情報を得たりすることや、人との直接的関係によって、その人の性格、趣味、人間性をみていくということよりも、気軽にインターネットになっていくのです。インターネットの検索は、自分の関心ある事項について、素早く情報を得ることが出来ます。
 検索は、自己の関心事項という極めて狭い範囲の情報で、それを広くみていくことを難しくしています。これらは、知識や情報をじっくり考えていくよりも心象的な側面のが大きくなっているのです。
 インターネットの社会がより日常生活に入り込んでいくことによって、人間関係も直接的な顔を見ながら、一歩おいての相手の感情表現をみながらのコミニケーションではないのです。インターネットは、葛藤や悩みなどの心の葛藤がまるだしになり、仮想空間で行われていく側面が大きくなっています。
 ここでは、感情が高ぶった場合に、歯止めがきかなくなる場合も生まれてくるのです。インターネットの暴言により、傷ついていくことが増えていくのです。自分の頭で、自立的に物事をみるのではなく、感情のままに極端な言葉が浴びせられる場合が少なくないのです。それが一斉に拡散されて、一つの群衆心理的にインターネットをとして起きるのです。つまり、社会心理的には、本能的なものがまるだしの群衆的心理が働いていくのです。
 インターネットでは、相手の顔をみながらの感情を抑えたり、個々の理性的なコミニケーションではないのです。社会全体が個々の孤立化が日常生活のなかで強まっていくなかで、人々は群衆心理のなかで大きく影響されて、孤独化現象が進んでいくのです。それは、仮想的な人間関係が形成です。現代は、群衆心理がインターネットによって拡散されているのです。
 近代社会以前は、少数の貴族的な知識人によって、社会の統治がおこなわれていたが、そこでは、一般の民衆にとって、政治はあずかりしれぬところであったのです。近代社会は、普通選挙制の導入などによって、民衆は政治的参加が可能になりましたが、そこでは、政治的な教養を受ける人間発達のしくみが不可欠です。参政権が、異なる候補者による立ち会い演説会など政策を聞くための徹底した整備など、個々の理性的な判断がされるための保障がされているのかというと大きな乖離があるのです。
 学校の普通教育の発達によって、国民の教養の高まりや社会教育の普及によって、日常的な政治的教養、様々な住民参加のためのしくみが十分にできているわけではない。社会教育的に情報開示やそれぞれの施策の学習が自由に展開されているわけではない。
 多くは、群衆として、政治的な投票権が与えられているにすぎず、国政や市町村の選挙にしても投票率は半数以下の場合もあり、極めて低い状況です。本来、選挙は、それ自身が政治的な教養を高める場であるはずが、それを保障していく政治討論会さえも極めて不十分なのです。一般的に、心象的な判断による群衆的側面が強くなっているのです。
 
 近代社会と群衆心理ーギュスターヴ・ル・ボンの群衆心理よりー

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 群衆の時代の到来

 

 20世紀初頭に社会心理学者として、活躍したギュスターヴ・ル・ボンは、近代社会の到来によって、群衆が歴史を動かすようになったとしています。そこでは、群衆の非合理的な行動に警告したのでした。ヒトラーは、ボンの群衆修理を愛読書として、その群衆心理をファッシズム形成に利用したのです。
 個人の意識的な行為にかわって、群衆の無意識的な行為が歴史に大きな役割を演じる時代になったとするギュスターヴ・ル・ボンは、著書「群衆心理」で強調したのです。近代社会は、集団的な感情によって、非合理的に動く、群衆の勢力を重視しなければならないとするのです。
 ボンにとっての近代社会の到来は、宗教上、政治上、社会上の信念の破壊によって、全く新たな生活状況、思想状態の創始ということから始まったと考えるのです。群衆の活動はなにものにもおびやかされず、威厳がますます増大しているという群衆の時代が到来しているというのです。
 近代社会の国家の運命は、群衆の意向によって決定されるようになったとするのです。群衆は、封建時代の少数の貴族的な知識人によって、創造され、指導されてきたこととは別の全く新しい時代になったとボンはみるのです。そこでは、近代の群衆勢力が支配する社会では、破壊力しかもっていないとするのです。理性的状態、将来に対する先見、高度の教養などが含まれず、野蛮な状態のままに放任されているのが群衆であるとボンはのべるのです。
 群衆の心理は、意識的な個性が消え失せて、あらゆる個人の感情や観念が同一の方向にむけられるものです。群衆の中の個人は、単に大勢のなかにいるという事実だけで、さからうことができない力を感じて、本能のままにまかせるというのです。

 

 群集心理の特徴

 

 群集心理は、個人を抑制する責任感が消滅していくのです。個人の利益は無造作に犠牲になります。群衆の心理に感染しやすい。群衆の個人は個人の特性に全く相反する被暗示性に感染するとボンはみるのです。催眠術をかけられたものと同じになるといのです。個人が自主性を失う前に、観念や感情を群衆心理に変化しているのです。これらの暗示性に抵抗できる強い個性を持つものはあまりにも少数であるとするのです。
 群衆の感情と特性は、五つあるとボンはのべます。そのひとつは、衝動的で動揺しやすく、興奮が起きやすいというのです。ここでは、外的刺激に翻弄されて、たえず変化が反映し、自分自身の利害を消滅し、計画的な考慮をもたないことです。第2は、暗示をうけやすく、物事を軽々しく信じることです。
 第3は、感情が誇張的で、疑惑も不安も知らず、たえず極端から極端に走り、単純であることです。第4は、強大な権力に群衆の服従で、偏狭さと横暴さとをもち、保守的であるということです。第5は、群衆の特性が個人の特性よりも暗示に応じてているのです。
 第1の衝動的で動揺しやすく、興奮しやすい性質は、無意識に支配されるのです。個人は刺激のまま行動し、衝動の奴隷になるというのです。単独の個人は、自己の反射作用を刺激する能力をもっているが、群衆はその能力を欠いているのです。群衆は一瞬のうちに残忍極まる凶暴さから、全く申し分のない英雄的行為や寛大さに走ります。
 群衆は容易に死刑執行人となりますが、またそれにも劣らず容易に殉教者ともなるのです。単独の個人ならば、ほとんど頭に浮かんでこないことさえも、多数の与える力を意識して、暗示により群衆にとっては不可能という観念は消滅するのです。
 第2の暗示をうけやすく、物事を軽々しく信じることは、無意識の境地をさまよっていることです。それは、理性の力にたよることのできない人々によって、特有の激しい感情に活気づけられ、批判的精神を欠いているのです。
 群衆は心象によって物事を考えるのです。論理的に関係のない心象が喚起されて、理性では支離滅裂でもそれがわからないのです。観察された事実よりも心象によって喚起されたことが現実のものとなるのです。暗示と感染によって、集団的錯覚が起きるのです。まさに、各自の有する観察力と批判精神とが消え、正確に物を見る働きが失われるのです。現実の事象が、それと関係のない心象が支配し、群衆の判断は集団的錯覚にとってかわるのです。
 第3の群衆の感情が誇張的で単純であることは、疑惑や不確実の念を抱かないことになるのです。そして、責任観念を欠いているのも特徴です。群衆のなかに入れば、愚か者も無学もねたみ深い人間もおのれの無能無力の感じを脱し、絶大なる暴力の観念になります。単独の責任観念をもつ個人ならば、罰をおそれ、抑制心が働くが、群衆の誇張で単純さは悪質な感情になるのです。
 さらに、群衆は崇拝する英雄たちの感情が同様に誇張されることを望むのです。英雄たちは常に長所や徳行を誇張し、戯曲の主人公のようにふるまうのです。それは良識や論理は無関係なのです。群衆に訴える物は、程度の低いものであるが劇の特殊な上演のように特殊な才能を要するのです。群衆を熱狂させる誇張させる感情の領域の劇が求められるのです。
 第4の群衆の偏狭さと横暴さ、保守性は、反駁や論難を受け入れることができないのです。群衆は自分たちの反対説を口にすれば怒号や罵声をあびせられ、自説を固持すれば暴行を受けるのです。横暴さと偏狭さは異端者を強引に服従させようとするのです。群衆は弱い権力には常に反抗しようとするが、強い権力の前では卑屈に屈服するのです。群衆は革命的本能が優勢であると信ずるのは誤解です。反抗心、破壊心の激発は一時的です。群衆は無意識に支配されて極度に保守的なのです。
 第5の群衆の徳性は、衝動的で動揺しやすいという特徴をもってることから持ち得ないのが特徴です。責任のない、確実に罰をまぬがれることのできる群衆では、本能のままに従う自由が与えられているのです。
 光栄とか名誉とか宗教とか祖国とかの感情に訴えれば単独の個人がなし得るよりもはるかに高度の犠牲的な、無私無欲な行為も行うのです。低級な本能にしばしば身をまかせる群衆は、高尚な道徳的行為の模範を示すこともあるのです。

 ボンの提起は、孤立した絆のない社会で極めて不安のなかで人間の陥る精神構造として、きちんとみておくことが必要なのです。この精神的な構造は、現代でも危機の社会経済状況のなかでみられるのです。この現状に対して、どのようにして、人間尊厳の民主主義を確立していくのか。孤立のなかで絆の場をどのようにつくりだしていくのかかが求められるのです。まずは、一人一人が絆の実感をつくりだしていくことではないか。


 

 

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 ボンの考える群衆の時代における教育・訓練

 

 民主主義思想は、教育は人間を改良し、かつ人間を平等化するにも確実な効果をあげることができるとしていますが、しかし、現実の教育の現状を社会心理学からみると、
道徳的にも、人々を幸福にもせず、人間の遺伝的な情欲や本能を改造することは出来ない状況です。指導を誤れば、むしろ有益というよりも大いに有害になりかねない。青年にとって、教育は、暗記と服従とを意味するのです。小学校から教科書を鵜呑みにするだけで、決して自分の判断力や創意をはたらかせないのです。
 この暗記と模倣の教育は教え込まれるという不幸な児童たちを同情するということだけではすまされぬ重大な危険をもっています。この教育を受けたものは自分の生まれながらの身分に対する激しい嫌悪の念と、そこから逃れようと強烈な欲望を吹き込まれることです。労働者にととどまることも、農民としてとどまることを望まなくなるのです。国家の官職以外に眼中をおかなくなるのです。
 それらの教育は実生活に適応するのではなく、立身出世の成功のために何の創意のひらめきを要しない人々を仕込むにすぎなくなるのです。国家はひたすら教科書をたよりに免許所有者をつくりあげるが、そのうち少数者しか採用できないから、他の者は無職のままで、免許所有者の恐るべき大群が公職をとりまいているのです。この大群は、田畑や工場を軽蔑し、国家への奉職を希望するのです。
 ところが、民族の究極の教育者である経験の職業教育が、暗記と模倣の教え込みをただしてくれるのです。この職業教育が田畑や工場や植民地の事業へ青年を立ちもどらせることができるのです。判断力、経験、創意、気概などが人生における成功の条件なのです。
 例えば、技術家は、作業場で養成されるのであって、暗記の公的学校ではない。知能相応の程度も職務のなかで磨かれていく。人生における成功の教育は、実地観察をおさめ、概略的な講義を聞いて、日々の経験を順次整理して、生徒の能力に応じて、専門的な講義が行われていく。それは、職業教育によってであると。群衆の精神が改善されるのも、悪化するのも教育と訓練によると考えるのです。以上のように現実の職業教育に期待することをボンはのべたのです。
 群衆心理の危険性、幻想を打破していくためには、人々の経験が大切であるとボンはのべます。経験が大規模に実現され、くりかえすことによって打破していくとみます。その最大の経験が自由、平等、友愛をかかげたフランス大革命であったと。封建的な社会を徹底的に改造できると思ったところが、20年年間に数百万の人間殺戮がされ、ヨーロッパ全土を混乱に陥れたのです。
 しかも、専制君主たちが彼らを歓呼して迎える民衆に高い犠牲を払わねばならないことを知るには、50年間、2回の破滅をきたす必要があった。その結果は明白であるにもかかわらず、十分な説得力をもたなかったとボンはみるのです。
 フランスは大革命後に、立憲君主制、共和制、ナポレオン帝政、共和制、帝政、共和制とめまぐるしく体制変換が起きたのです。この時代の状況をボンは度重なる体制変革による多くの犠牲のうえに、群衆心理と民主主義の問題での歴史的体験の大切さを述べているのです。
 
 ボンのみる群衆心理を動かす方法

 

 群衆の心を動かす弁士は、その感情を訴えるのであって、決して理性に訴えはしないのです。合理的な論理の法則は群衆には何の作用を及ばない。群衆を説得するのは、群衆を活気づける訴えです。感情は何であるかを理解して、自分もその感情を共にふるまうのです。幼稚な連想によって、暗示に富んだある種の想像をかきたてていくのです。
 自分の思考のみの弁士は単にそれだけの事実で一切の影響力を失っていく。理詰めな人々は、緊密な推理の連鎖になれているから、群衆に話しかけるときに、この説得法にたよらざるをえないのです。道理は群衆の指導者にはなりえない。群衆に働きかけることは、感情との闘いです。
 ボンは道理は哲学者の仕事として、人間の統治には、道理が参加することをあまり要求してはならないと。名誉心、自己犠牲、宗教的信仰、功名心、祖国愛のような感情は、道理によらず、むしろしばしば道理に反して生まれるものであって、これらの感情こそ、これまであらゆる文明の大原動力であったとみるのです。
 群衆の指導者は多くの場合に、思想家ではなく、実行家であり、あまり明晰な頭脳を具えていない。明晰な頭脳は、概して懐疑と非行動へ導くとみるのです。指導者は特に狂気とすれすれのところにいる興奮した人や、半狂人のなかから排出するのです。指導者は強固な確信をいだいているわけではなく、多くは私利私欲のみを追求し、下劣な本能に媚びて人を説得するぬけめのないものたちです。群衆の精神をかきたてる偉大な人々は、まず自分たち自身ある信条に屈服させられてはじめて、幻惑の力をふるったのです。 
 群衆心理を煽り、人々に共感できる強烈な感情移入の演出のできる指導者は、あらゆる夢や希望がかならず実現されるに違いないと扇動できるのです。人々は、この指導者の掟に従うようになり、その言説が手引きになるのです。権力の手段を持たなくとも、容易に追従者を得ることができるとボンは考えたのです。
 群衆心理を醸し出していく指導者は、主として、三つの手段によるとボンはのべます。それは、断言と反復と感染です。
 断言は、証拠や論証を伴わない、簡潔なものであればあるほど、ますます威力をもつ。この断言もたえず、できるだけ同じ言葉でくりかえすことがなければ影響力をもたない。反復によって、論証ずみの真理のように承認されるのです。これと同様に、広告は驚くべき力があるのです。破廉恥な人であってもくりかえし新聞にくりかえしのべられていると誠実なひとになってしまうのです。
 反対に誠実な人でもくりかえし、破廉恥な人間と新聞にでれば、新聞の記事を信用するようになります。ある断言が反復されて、全体の意見が一致したときは、意見の優勢なものが作られます。新聞の反復は、強力な感染力として働くのです。群衆の思想、感情、感動、信念などは、細菌のそれにひとしい強烈な感染力を具えているのです。この現象は、群れをなすときの動物にさえ認められているのです。
 断言、反復、感染によって伝搬された意見は大きな社会的勢力として、威厳になります。威厳の魅力は、あらゆる批判能力を麻痺させるのです。催眠術にかかったものが受ける暗示のようなものです。威厳こそは支配権の最も有力な原動力です。

 

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 選挙上の群衆

 

 群衆の性質は、微弱な推理力と、批判精神の欠如、興奮しやすいこと、物事を軽々しく信じる単純さです。候補にとって、群衆を籠絡するには、威厳にみえ、従って有無もいわせず強引に自分の意見を押しつけることです。労働者や農民から選挙人たちが、その代表者を自分たちと同じ階級から出る人を選ばないのでは、少しも威厳に見えないからです。かれらが、自分たちの代表者を選ぶときは、雇用主に対抗して、一時自分のほうが主人顔できるような錯覚を起こすのです。
 威厳をみせるだけでは候補者の成功は確実なものにできない。このため、選挙人の欲望や虚栄心を利用するのです。選挙人に途方もないお世辞を浴びせ、このうえもない架空的な約束を躊躇なく反古にするのです。候補者の文書にはあまり明確であってはならないのです。反対派の候補者たちが後日それを楯に攻撃してくるからです。
 しかし、口頭による政策は、どんなに誇張してもさしつかえない。どんな誇大な改革でも約束することができるのです。選挙人は、当選して、立候補したときの政策が実行したかは意に介しないからです。言葉や標語の使い方を心得ている候補者は成功するのです。それは、明確な意味を欠き、従って種々の願望に適応される新たな標語を発見し得る候補者なのです。群衆は他から強制された意見をもつだけで、自ら考え抜いたうえでの意見を持つことはない。選挙上の群衆心理は、他の群衆心理と同じです。 
 
  ヘルマン・ブロッホ「群衆の心理ーその根源と新しい民主主義創出への模索ー」

 

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 ヘルマン・ブロッホは、20世紀の前半にファッシズムの精神状況、ヒトラー現象を群衆心理として研究したのです。この対抗の論理に、全体民主主義を提起したのです。それは、危機的な社会状況で、人々の社会心理的不安を解消していくために、人間の尊厳、ヒューマニズムを基本原理として、人々の合意、様々の党派を相互に関係づけながらの統合していくというのです。
 群衆狂気は、集合的精神錯乱者・理性喪失者として、周囲の現実世界を全く考慮することなく、主観的な閉鎖に自らの価値体系で動きまわる社会現象です。それは、非合理の感情をもった共同体です。その共同体は、極端な精神錯乱という完全な閉鎖の態恐慌状態の群衆として、社会的な徳性も持っていないのです。以上のように、ブロッホは、群衆心理をみるのです。
 全体民主主義ということは、民主主義がもつ議会制度によってではなく、民主主義のもつ人間の尊厳の規制的基本原理によるものです。そのことによって、政治的意識を新たに覚醒させ、それを現代生活のさまざまな要求に適合させるのです。民主主義的ヒューマニズムの規制的基本原理は、厳密に依拠しなければならないとブロッホは考えたのです。全体民主主義はファッシズムに対する対抗の論理ですが、人間の尊厳という規制的原理を人々の不安が渦巻く社会的状況のなかで、どのようにして覚醒していくか。

  ところで、人間本来がもっている愛他精神、理性的精神をどのようにして、目ざめさせるのが。暮らしの現実からの不安の解消が求められるのです。
 人間尊厳という人権の保護の意識醸成は、公的な社会教育の役割が大きく、生活や医療からの不安の解消には、行政の社会権の保障を具体的に整備していくことが不可欠なのです。ファッシズムの形成を防止していくうえで、不安からの衝動的な極端な政治意識をもたないようにするためにも、国家の機能的な社会保障・福祉的な社会権的な保障が極めて大切なのです。その具体的保障なくして、政治的な全体民主主義の覚醒はないのです。人間尊厳の規制的基本原理の意識形成において、このことを忘れてはならないのです。
 ブロッホはファッシズムを許した決定的要因は、経済的要因以上に大衆の合理的判断の衰退、あらゆる生に対する完全な無関心、強い意志をもった指導者に服従する傾向などの社会的心理状態にあるとしたのです。民主主義勢力は、大衆のありもしない理性的判断力にたより、もはや失われてしまった政治的意識に頼ったところにあった。これに対して、ファッシズムの独裁者は、大衆の心理的側面を見抜いたのです。
 このブロッホの指摘は大切ですが、経済的要因からの不安という要因と理性的判断を結びつけていく具体的な生活要求の運動をとおして、民主主義の政治的意識が形成されていくのです。ありもしない合理的判断の依存ということではなく、ありもしないのであれば、どのようにしたら合理的判断、理性的判断の醸成ができるのかということが大切なのです。ここには、全体民主主義の積極的な形成を国民的運動として盛り上げていくことです。

 

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 ファッシズムは、群衆心理による社会不安を合理的真実をふまえず、心理的感情に訴えていくのです。そして、不安感情的に恐慌状態に陥った大衆を興奮させて行動にと駆りたてたのです。そこでは、ヒューマニズムという基本原理を無視しての政治であったのです。大衆の経済的・社会的不安、それと同時に倫理的不安を巧みに操って、人々を狂気な行動に走らせていくのです。集団的な不安は、民主主義の危機の基盤になったのです。
 民主主義はその本質からして平和的であるとブロッホは考えるのです。戦争を望むものは国家以外にないとするのです。戦争中はどんな国家も完全に全体主義的になるのです。ナチズムの国家と西欧民主主義国家の戦争は、国家間の問題ということで、全体主義対民主主義というイデオロギーは副次的な意味しかないとブロッホはみたのです。

 国家は対外的に軍事的国家として、敵の防衛力のため、戦力的位置から国土拡張のために戦争予防し、相手の期先を制して攻撃を仕掛ける使命をもつ。国家機関に必然的に内在するのは全体主義的傾向といのです。
 民主主義はそれが自由のへの欲求を表現したものである限り、乱脈・無秩序ではないにしても無政府的に国家一般を撤廃しようと試みずにはおれないのです。国家は自分に敵対的な場でしか具体化されないので、民主主義は、国家との妥協になるのです。完全なる全体主義国家の建設は理論的に可能ですが、国家という概念から判断すれば、民主主義とは中途半端な妥協の産物です。戦争との関係で、民主主義の存在は難しいというブロッホの見方です。
 アメリカ民主主義は資本主義的全体主義イデオロギーです。西欧諸国は終戦後に平和的イデオロギー的攻勢をとらなかったのです。資本主義的全体主義は国家の外側にある民主主義的なものとみられるが、国家の根源的全体主義とぴったり一致し、それによって受け入れられるのです。

 民主主義的とは、市民的民主主義の成長を促した資本主的英雄時代へのほかならぬ感傷的な追憶で、そこから発した企業の自由と人間の自由を同じようにみるのです。このように、ブロッホは、資本主的全体主義をのべ、アメリカの新しい孤立主義の発展を世界の二分化というブロック幻想を展開していくのです。

 それは、アメリカとロシアのブロック問題なのです。ここでの孤立主義では民主主義の余地はなくったとするのです。ブロッホは第2次世界大戦後の米ソの冷戦構造をさしているのですが、現代は、ソ連の崩壊によって、資本主義と社会主義の体制的なブロックはなくなったのです。世界全体は、市場経済のなかに巻き込まれたのです。

 現在は、中国とアメリカの紛争が軍事、政治、経済、医療、文化なども含めて、二つの大国の争いが起きているのです。国際的な協調主義が切実に求められているのです。大国間の論理だけではなく、発展途上国も含めての国際連合の果たす役割が大きくなっているのです。