ケア労働と民主主義の生涯学習ーケアコレクティブのケア宣言を読んでー
コロナ禍でのケア労働の再評価
コロナ禍で社会的にケア労働の重要性が非常に高まっている現状です。どんなに自立しても人は一人で生きて行けないのです。それぞれの社会的な役割をもって、支え合いながら人々は生きているのです。ケア労働は、支え合う社会基盤であるのです。
しかし、ケア労働に携わる人々は労働力不足と過酷な労働、低賃金という状況のなかで、賢明になって社会的役割を果たしています。ケア労働を充実していくには、社会的な参加民主主義の充実が不可欠です。複雑化し、官僚化していく社会のなかでは、差別と偏見と重なって、本来の支え合いべきことが、社会から、地域から、家族から疎遠の場へとおしやられ、人間らしく生きることが奪われていることがあるのです。ケア労働には、個々の意思を尊重して、人間らしく生きていくために、ケア労働を受ける人、家族、地域での参加民主主義が求められるのです。
ケア労働は、本質的に公的なセクターが支えていくものです。従って、国や自治体の公務労働または、公務労働に準じる社会福祉協議会、社会福祉法人、非営利の協同組合、PO法人など担っていくものです。
優しく強い経済をつくっていくうえで、地球危機に対する再生可能なエネルギー施策などの国家の役割、経営者の社会的貢献意識や働く人々のイノベーション意識などは大切ですが、最も重要なことは、ケア労働など人間らしく生きていくための公的な福祉と教育の基本的条件が求められると同時に、それを支えるための民主主義的参加が必須になるのです。
少子高齢化のなかで、福祉分野の社会保険や国家財政支出の比率も増大していくことと同時に、財政の収入と支出のバランスが大きく崩れて、国家の赤字財政が大きく膨らんでいる現実もあります。ケア労働を社会的に充実していくためには、公的な社会保険や国家財政、税制のあり方が大きく問われる時代にもなっています。
官僚的傾向や財政赤字の現実のなかで、公的分野を改革と称して、ケア労働の公共性を否定して、利益追求による市場万能主義の新自由主義がはびこっているのも現実です。
ケア労働は、民営化されることによって、利益追求の市場万能主義に陥れば、差別と貧困化、さらに偏見と孤立化が進んで行きます。この結果、社会を担っている多くの人々が不安とやる気、社会的なコミュニケーションを損ねていくのです。また、社会的に治安の悪化も繋がります。ここでは、安心で働き、生きがいをもって、イノベーションをしていける社会的基盤が極めて弱くなって、冷たくもろい社会になるのです。それは、人々が安心して、未来に向かっていく強い経済にはなりません。
ケア労働は、保育園・学童保育などの子育て援助労働、病院や保健所、老人ホーム・介護施設、精神・生活・児童等の自立支援施設、社会的ハンデキャップをもっている人々の支援労働や教育労働、家事援助労働者など、様々な分野で社会的な支えをしているひとびとが居るのです。この労働が充実してこそ、差別と貧困を克服していく民主主義的な社会が充実していくのです。
イギリスのジエンダー・フェミニズムの研究者によるケア宣言
イギリスの労働党を支えてきたジエンダー・フェミニズムの研究者によって、ケア宣言が出されました。そのケア宣言は、ケアを顧みない世界を克服して、相互依存における政治の構築のためです。そこでは、ケアに満ちた家族関係、ケアに満ちたコミュニティ、ケアに満ちた国家、ケアに満ちた経済、世界へのケアをあげているのです。
イギリスの現実では、ケアを顧みない新自由主義のはじこる支配であるとするのです。コロナ禍で、この問題状況が明確になったしています。イギリスやアメリカなどは、過去に20年~30年間の間に新自由主義のもとで、社会福祉やコミュニティの理念が脇においやれ、ケアの危機が深刻になったのです。
また、ケアは女性によって支えられてきたという歴史があったことも大切とするのです。社会的に、ケアの仕事は重要なことであったのですが、非生産的労働ということで、低賃金と社会的に低い地位にあまんじてきたのです。
新自由主義は、このケア労働の社会的地位の低さや不平等に拍車をかけていったとみるのです。コロナ禍のパンデミックによって、この矛盾が医療崩壊という暴力を伴って、世界的に明らかになったとみているのです。ケアを提供する能力を失っているということです。
そして、他者や環境の配慮に欠ける社会で、困難性と不安の耐えきれない生活によって、ポピュリズムに容易に火をつけられる状況があるというのです。そこでは、他者を思いやることができなくなり、全体主義的で、権威主義的論理によってのケアしない行為に走っていくのです。ケアは社会的能力の活動として、人々が相互依存意識の目的を醸成しなければならないとケア宣言ではのべているのです。
イギリスでは、必要なケアを受けられない高齢者が150万人にあがるとされています。短期間のセラピーの公的な資金や自殺者の増大、精神的なセラピーを待つ期間が長くなっていると宣言ではのべています。
パンデミックのなかで、高齢者、女性、黒人やアジア人をはじめとするマイノリティ、貧困者や障がい者たちに直撃したのです。社会福祉の民営によって、政府によって大企業に外注する社会福祉事業を食い物にしているというのです。
社会福祉事業を行政から請け負う大企業の振る舞いによって、社会的給付と社会資源のいくつかが掘り崩され、さらに、地域の共同所有の空間が私有化されて、地域コミュニティティの福祉的機能がうちのめされているとするのです。このことによって、競争主義的な個人主義を煽り、孤独や孤立をもたらし、地域で参加する能力を破滅し、ケアのための諸制度は機能していかなくなったとするのです。
ケアに満ちた政治をつくるたには、相互依存をつうじて、私たちの生存と繁栄が様々な他者のおかげであるという認識からはじめなければならないとしています。ここには、人間相互作用の複雑さ、互恵性ということからあらゆる人の潜在力を育てるために必要な技術と資源を十分に評価できるように、社会のあらゆるレベルの民主的なプロセスが必要とするのです。
この民主的プロセスに十分に参加できる能力を高めていくことによって、相反する感情や矛盾とつきあっていくことになるのです。ここに、ケアに満ちた相互依存の世界が創造するおとができるのです。
ケアに満ちた親族関係
ケア宣言では、オルタナティヴな親族関係を問題提起しています。核家族を超えたケアです。母親業の理想は現実的に難しくなっているというのです。1970年代以降に、女性たちが公的な生活への参加をしていくため、給付付きの育児休暇、共同保育所などの多様な形の子育て制度を作り上げた。
20世紀後半から21世紀にかけて、ケアの第一提供者は、パートナーや親戚ではなく、友人であるということが多くなったとするのです。友人たちは、同居し、互いの子どもを世話し、病人や死の間柄の人たちと苦痛を緩和するケアになっています。国家は、こうした友情関係を十分に承認していない。また、決定権を付与されていないばかりか、ケアに必要な資源も与えられていないというのです。
ケア宣言の問題提起に、家族に代わる新しいケアの関係で、友情関係の存在が生まれていることも大切なことです。日本でもシェアハウスが広く普及しはじめています。自分の部屋とは別のキッチンやラウンジなどの共有スペースをもって、入居者が交流できる場づくりをしているのです。通常の一人暮らしからの転換です。
共通の趣味をもつシエアハウスなどの工夫もされているのです。このシエハウスでケアしていくということがどのような関係になっているのか、とくに病気などになった場合などのケアの機能がどのように果たされているのか興味ある課題です。
一人暮らしが増えているなかでの新しい動きですが、家族に代わる機能をはたしていくのかということでは別の問題です。核家族を超えたケアを促してくれるということで、現実家族生活の個人の尊厳と両性の平等、相互の協力ということで、親密に互いを尊重して、いたわりながらの家族関係をもって生きているのです。それは、多くの人々のケア問題を解くことにならないのです。
家族は社会の基本的な単位です。生活の面でも子どもを育てるという面でも重要な役割をもつ。このことから、国家は、家族の保護を図る施策を採用する義務があります。日本国憲法二四条の精神は、個人の尊厳と両性の平等ということと、国家が家族の保護を図る施策の義務を内包しています。
子どもの権利条約では、父母に子どもの発達の責任、権利及び義務を尊重しているのです。そこに、家族の役割があるのです。また、家族が機能していない場合、子どもを保護するために、親等による虐待・放任・搾取からの保護を立法、行政、社会、教育の措置をとることの義務を強調しています。
イギリスのラディカルなフェミストの研究者のケア宣言では、乱交的なケアを提言するのです。ゲイを事例にして、表現があまりにも嫌悪的なもので、一夫一婦制の社会的な倫理から納得しがたいことですが、この表現は、大いに誤解をうけるものです。
ここで、いいたいことは、ゲイ男性が互いに親密を表し、ケアする、複数化されて、最も親密な者から最も遠い者まで、ケアする関係を再定義するように外に向かって拡散する倫理ということを強調したいのです。
乱交ケアというラディカルな表現は、行き当たりばったり、あるいは無頓着にケアすることでない。それは、市場と家族に頼ってきたものから、遠くであれ、近くであれ、他者への志向性を育成する能力を高めるという拡張的な方法でのケアという包容力のある考え方です。ケアは親族的なつながりだけではなく、見知らぬ者しか担えないことがあります。それは、ます。コロナ禍で経験したということです。
ところで、日本では、社会的なケア施設と家族を日常的に結ぶということで、ディケアやディサービス、小規模多機能施設などがありますが、それらは、家族のケア負担の減少、ケアする人の社会活動や仕事の両立に意味をもっています。
また、ケアされる本人自身の社会的交流の場、心の癒やし、身体的な機能回復に大きく役にたっているのです。介護施設や児童養護施設の施設主義を克服するために、地域との関係や施設内をユニット制にして、家族的な状況をつくる努力をしているのです。これらは、家族のもっている人間らしく暮らして行ける生活単位としても、情緒的な側面からも重要な意味をもっているのです。
ケア労働が低賃金ということは、その担い手が女性ということに大きな要因があります。ジェンダー問題と深くかかわっているのです。家族とケアということで、歴史的にケアが女性の担ってきた仕事です。それが社会化されることによって、社会的労働として、ケア労働になってきたのです。という職業になってきたのです。しかし、社会的なジェンダー問題が女性の賃金を低いものにしていますが、女性の担い手が多いところのケア労働は、社会的な評価も低くなっているのです。
ジェンダー問題は、歴史的にみれば封建時代から継承している家父長制の問題があります。さらに、資本主義の大工業制によっての単純労働者を大量に導入して、熟練的な職人労働を排除していったのです。この単純労働者は、低賃金で、女性や児童が労働市場に動員されていったのです。
そこでは、女性や児童が過酷な状況に置かれ、子育て・教育放棄などからの退廃や社会的再生産の機能不全に陥ったのです。労働力の社会的再生産ということから、工場法の制定ということで、それらの改善の課題がだされていくのです。
さらに、外国人労働者が奴隷的な家事労働者、低賃金労働者として、発展途上国から連れてこられたのです。ケア労働を社会的に価値あるものとして、ジェンダー問題の克服をも含めて、抜本的に改善していくことが求められています。
ケアに満ちたコミュニティ
ケアに満ちたコミュニティの創造には、4つの核があるとしています。それは、相互支援、公的な空間、共有された資源、ローカルな民主主義です。
第1の相互支援は、近所づきあいからコロナウイルスの相互支援グループまで幅広い相互支援があります。そして、自発的で下から上にひろがっていく相互支援があるというのです。また、長期的な活動にするためには、構造的な相互支援を必要とするのです。
よき隣人は、病気に伏せた人の様子をみにいったり、ちょっとした使いをしてあげたり、植物の水やりやペットの餌をやったり、相互の支援によって、広くケアされていくのです。これは、地域に根づいた相互支援ということでの最良の形でケアに満ちたコミュニティというのです。
相互扶助がコミュニティで拡張されることによって、それが公式なものとして発展していくのです。そこに、地域での協同組合の充実があるのです。この典型的な事例として、スペインのバスク地方で発展していったワーカーズコープやイギリスのウェールズ地方のトレデガー労働者医療扶助会があるというのです。
第2には、公的な空間の必要性です。それは、誰もが共有しており、共同で維持され、私的な利益に左右されるものではないことです。公的な空間は、平等主義で、すべての人がアクセス可能であり、共に生きる喜び、相互のつながりをもっているということです。
公的に所有された公園は、保護と拡張を必要として、地域のコミュニティが野菜を育て、人々が自然に触れ、体を動かして他者と出会える空間になるのです。共有の庭園は、存在することによって、あらゆるレベルでの共に生活を育てる相互連関があるのです。
第3は、少数のものにより、資源の独占ではなく、一回だけの使い捨てのものではない資源の共有ということです。地域の図書館が地域空間と資源共有の最も強力の事例です。モノのライブラリーも再利用や再循環の形態を転換できることができ、切迫する環境破壊の時代に、電気ドリル、高価な子どものおもちゃなどを共有することができ、無料でさまざまな日曜大工のワークショップに参加することができると言うのです。
第4には、公的なセクターの再建のために、地方分権よりもさらに自治を示した新しい市民による直接政治をめざしてということです。それは、公共サービスの提供や協同組合を通しての地域に根ざしての統治の拡大という地域の参加民主主義の充実です。これには、イギリスのプレストン市議会が、地域の労働者協同組合に働きかけて、予算削減に対処した事例なのがあります。
このイギリスの事例は、アメリカのオハイオ州のクリーヴランド・モデルにならったということです。そこでは、地域の協同組合の能力を高めようとする取り組みを積極的にしたのです。仕事が公的なセクターに戻ってくれば、労働者は安定した職を手に入れることができて、生活できる賃金と年金、さらに疾病手当や有給休暇を得ることができるというのです。
地方自治体のプロジェクトは、コミュニティレベルにおけるケアを根本的に創造することができるのです。私的な利益ではなく、地域住民の供給の社会的あり方に基づいて、計画と生産の段階に利用者が加わります。そこでは、その過程における民主主義が重要になってくるのです。
ケアに満ちた国家
福祉国家は、ニューディール政策からゆりかごから墓場といわれるようにベヴァリッジ報告などケインズ主義経済学で進められたのです。イギリスは、1950年代に経済の20%が公有化されました。1979年に人口の半数が公営住宅に住むようになったのです。
ケアに満ちた国家は、質の高い学校制度や職業訓練、大学教育、医療制度が整備されたのです。教育と職業訓練は、ケアする実践を強調したのです。ケアする能力を初期の人生の段階から醸成していくのです。
新自由主義の台頭によって、ケアに満ちた国家がくずされていくのです。以上のように、ケア宣言では、1980年代までのイギリスをはじめヨーロッパの福祉国家の施策を評価しているのです。
福祉国家では、相互に依存するということで、自律性と依存性から生涯にわたって意義深く価値ある生きる者として認知される必要があるとするのです。ケアに満ちた福祉国家は、父権主義的であり、人種差別的、植民地主義的であるというのです。
それらを克服するには、伝統的な家庭内の役割分担の意識を乗り越える必要があるとケア宣言はみるのです。そして、階層的に構成されて、トップダウンで決定され、規律的で、強制的組織から、エコロジカルな民主的に参加によるケア国家の創造を強調するのです。
さらに、ケア宣言のケアを支える社会的基盤は、有償労働に従事する時間を社会的なしくみから短縮することであると提言します。そして、家族的な環境であれ、人々がケアする自らの能力を拡張するために、そのケアする人々がのんびりとすごす時間と他者の状態をしっかり見定める関係性が求められるとするのです。また、ケアを受ける人々が主体的能力も必要になってくると考えるのです。これらのことから、週4日間労働を訴えることも必要というのです。
福祉国家からケアに満ちた国家として、参加民主主義が重要な要件ですが、合衆国のクリーヴランドでの先進地では、協同組合主義的な草の根への支援が拡大しているというのです。イギリスでもプレストンの事例で、ホームレスになるような人々にコミュニティは住居提供をしているのです。
イギリスのウエールズでは、2014年に「社会サービス法」で、ケアサービスの育成と促進は義務化され、ケアの提供者は、官僚的ではなく、持続可能な資源形成のためのケア提供をするようになるのです。連帯と行為能力、コミュニティ、そして帰属ということを重要な感性を制度化していく。
こうした事例から学び、それを基盤にして、さらに発展させて、公共の資源に平等にアクセスできて、すべての人々が相互依存によるケアに関われることで、民主的な過程を大切にしたケアに満ちた国家を形成することができるとしているのです。国家とケア労働をみていくうえで、相互依存の政治として、過程における民主主義を重要な課題とするケア宣言は、大切な考えです。
相互依存の支え合いケアを充実していくうえで、大衆的に、その能力をつけていく人々が増えていくことは、国家としてのケア教育としての役割です。国民が教育を受ける権利の内容として、ケア能力形成は、相互依存の社会形成にとって、不可欠です。
貧困者、障がい者、高齢者、病をもった人など社会的弱者に対する偏見や差別を克服することは、すべての人々が相互依存で、自由に、参加民主主義の社会で人間らしく、楽しく生きていく社会のために非常に大切な課題です。このためには、多くの市民がケアにボランティアとして参加することは極めて重要なことです。そして、国民大衆の基礎的な能力の形成に、ケア能力は不可欠になっていくのです。しかし、このケアの大衆化とケアの専門的労働とは全く違うのです。独自に、ケアの専門的労働を相互依存の社会にとって考えていく必要があるのです。
家族内での家事・子育てとして、位置づけられていたケアは、社会的関係の見方が弱く、私事としてみていたのです。しかし、ケアが社会的労働になることによって、保育士、介護福祉士、社会福祉士、看護師、保健師、栄養士などのケアの専門的職業が生まれていったのです。
ケア労働の専門的職業の形成は、例えば、発達障がいをもっている子育て、認知症をもつ高齢者のケアにとって、人間らしく楽しく生きていくために適切な発達援助や対処ができるのです。医師が病を適切に治療して病気を治し、健康の体や心にしていくことと分野は異なるが同じ機能をもっているのです。この専門的ケア労働と一般大衆のボランティア的ケアとの関係をもって、有効な相互依存の民主主義的な社会が形成されていくのです。
専門的ケア労働はケアを受ける人との関係ばかりではなく、ボタンティアをはじめ、一般大衆のケアに囲まれた社会のなかで、人間らしく、楽しく生きる相互支援のための有効なケアが可能になっていくのです。
専門的ケア労働の職業形成とその能力の充実には、国家の役割があるのです。専門的な資格制度を充実していくことと、その専門的な能力形成・発達の研修制度も国家の仕事です。さらに、ケア制度の法的な整備も国家の重要な課題です。
国家としての社会福祉行政における民主的な意思決定における地域での一般大衆の参加は重要です。官僚的な地域の福祉計画策定から住民参加的地域の民主主義の形成が切実に求められているのです。ここには、専門的ケア労働と一般大衆のケアへの意志も含めて、社会福祉行政の地域計画とその遂行が必要なのです。
国家のケアに対する財政問題は大切な課題です。それは、ケア労働の専門性の充実、ケア労働者の充実した給与の保障、ケアを受ける人々の生活援助、ケアの料金、ケア施設の充実や運営費など、多くの財政支出が国家に求められています。
ここには、社会保険や税制のあり方も含めて、ケアを国民的な課題として深めていくことが重要なのです。そこには、ケアから新しい民主主義の国家像のあり方が探っていけるのです。
ケアに満ちた経済
ケアに満ちた経済は、新自由主義の市場絶対主義を止めることですとケア宣言でのべるのです。市場だけの交換だけではなく、世帯内、コミュニティ、国家、そして世界のなかで満たされいくという多様性をもたせるということです。
ケア宣言では、経済的なものを市場での現象だけにみる考え方をとらず、ケアに満ちた交換のしくみを限りなく民主的でより連帯的なものにしつつ、所有、生産、消費を平等主義になるように取り組むというのです。市場化された関係からケアと相互性、自発的なネットワークという新しい交換の道ということです。
ケアと資本主義の市場論理は相容れないという見方です。親密なケア労働は、個人的な関わりと情緒的な愛情をもって最もよく提供されるものです。ケア関係は相互性、連続性、忍耐という支えのもとで開花するというのです。
ケアを価値づけることは、ケアを市場化することと同じということで、ケアに対する責任やサービスを購買力と同じように価値づけることに否定するのです。ケアの基盤は脱市場化というのです。
ケアに関わる多様性と複雑さに配慮しながら、脱市場化していくことが必要ですが、財やサービスが交換される何らかの市場は、資源の再配分から常にみなければならないのです。市場の再設計、市場の再配分の機能は、富裕層ではなく、人々と地球であると確約される必要があるという立場です。
市場の再設計は、協同組合、国営化、公共とコモンズのパートナーシップなど、さまざまな形態が考えられます。市場の商品の価値から集団化さえ、社会化されて、ケアの交換価値にとって代わる必要性を強調しているのです。具体的な事例として、モンドラゴンの労働者協同組合を描いているのです。
ケア労働は公的な分野で、国家や地方公共団体の役割は極めて大切です。また、非営利の協同組合やNPO法人なども社会的セクターとしての公共性から大きな意味をもっています。公共経済という立場は、営利的な市場でない。
公共経済は、資源配分の効率性、所得分配の公平性、経済の安定性からからです。そこでは、租税や公共事業、社会福祉事業が大きな位置を占めるのです。そして、事業が社会にどの程度貢献しているかが大きな指標になっていきます。
ケアを公共経済や公共政策から、いかに国民の一人一人の生活を豊かに、幸福に、人間らしく楽しく自由に生きて行けるかということ視点が大切なのです。ケアは公共性をもっている事業分野として、営利からの脱市場という論理は重要ですが、社会経済構造として、すべてが脱市場ということに意味することではないのです。
ケア労働は、市場社会のなかでの貧困化による所得再配分、資源の再配分機能をもっています。その意味で、市場との関係は、強くもちます。したがって、すべてが国際的な市場絶対主義の新自由主義から市場の民主主義的なルール、公共経済・公共政策、そして、市民の暮らしからの参加が重要性をもつのです。
世界へのケア
コロナ禍のパンデミックのなかで、世界へのケアの重要性が人々のなかでより強く認識されるようになりました。国境を越えた連携や協働が人々の命を救ううえで大切なことが明確になったのです。
また、地球規模の気候危機がエネルギーシステムの脱炭素化、再生可能ネルギーの投資というグリーン・ニューディールへの投資を世界的に喚起したのです。国境を越えた機関や機構をたくさん必要としている時代になっているのです。
世界各国で、今こそケアということで、あらゆる億万長者に課税、累進課税の促進、発展途上国での債務帳消し、国際的金融機関のケアに有効投資できるように再構築などの提言をケア宣言はしているのです。
ここでは、国境を越えた革新的なネットワークの構築が世界のケアのために求められているとしています。ケア宣言の中心は、世界資源の分配要求です。環境的に持続可能性であるだけではなく、公平性であり、お互いに憎しみを減らし、違いを超えたつながりがあるというのです。
日本ではケア労働関係の絶対的な労働力不足のなかで、発展途上国からの労働者の受け入れが必要になっていますが、ケアの専門性から日本語能力やケア自身の専門能力も含めて、大きな課題になっているのです。
19世紀から20世紀初頭の植民地国からの労働力補充ということで、過酷な労働を強制した歴史をアメリカやイギリス、日本も、経験したのです。この歴史的反省のうえに、ケア労働者の専門性を大切にしての外国人労働者の受け入れが求められているのです。日本では、単純労働者として、外国人労働者を受け入れることができないという理念と法的な規制があります。入国管理事務にとって、それは、大きな課題になっているのです。