社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

参加民主主義を学習するーガート・ビースタから学ぶー

          参加民主主義を学習するーガート・ビースタから学ぶー

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はじめにー現代での参加民主主義の必要性ー

 

 歴史は、多数決原理の民主主義のもとに、世界大戦、ファッシズム・軍国主義体制、民族的な差別と排除が行われてきました。現代の新自由主義の世界的な矛盾は、人類的な悲劇をうみださないことが必要です。このためには、排他主義ではなく、尊敬と信頼、多様性を尊重する必要があります。ここでは、共に生き、共に産み出すため、話し合いと互いに認め合う熟慮の民主主義を深く学ぶことが不可欠です。
 現代日本は、新自由主義が闊歩し、社会全般が、弱肉強食で格差状況が深刻になっています。1%といわれる富裕層と貧しい層に両極に益々分かれ、社会の分断も厳しくなっています。日本の現代社会は、非正規雇用も増大することによって、将来の不安を訴える人々が多くなっています。また、政治や社会の退廃も深刻な状況です。
 若者をはじめ、公共的な生活に対する嫌悪観、無視が蔓延しています。様々な公共的な分野が民営化されて、医療や福祉、介護など、ケア労働などの公共性のあり方が問われる時代です。新自由主義の蔓延する社会から公平と公正が求められているのです。共に生きる、共に産み出していく共生の社会経済が必要です。

 そこでは、結果の平等ということからの社会福祉の充実という分配だけではなく、自然との共生関係が大切になっています。そして、経済の民主主義的なルールも大きな課題になっています。

 現代社会の民主主義の実現には、独占禁止法という市場の民主主義的ルールばかりではなく、最低賃金法による人間らしく生きるための生活的賃金保障、労働基準法による人権保障、地球気候危機に対する持続可能な自然循環など多くの課題があります。日常的な暮らしや労働、自然環境との関係のなかに、民主主義も問われているのです。

 民主主義は、選挙だけではないのです。現代の政治は、選挙による委任型といわれています。それは、おまかせ民主主義です。ここでは、国民が直接に参加していく仕組みが弱体している現実です。かつては、労働組合市民運動学生運動などがあった。その運動は、直接請求や団体交渉などを作り出した。これは、国民自身が直接に政治に参加したのです。これらの運動は、選挙の投票率の高さに反映したのです。
 現代日本の民主主義の学習を考えていくうえで、現実に民主主義の内容が形骸して、形式的な委任型をつくっています。選挙は、キャッチフレーズ的、利益誘導的な方法を伴っています。まさに、ポピリズムが隆盛な時代です。
 誰もがスマホンも持つ時代だ。SNSの情報などインターネットやテレビなどが大きな影響力をもつ今日です。感覚的に社会的不満をぶつけ、行動に走る傾向も強くなっています。

 

 シティズンシップ教育から参加型の熟議民主主義の形成

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 ガート・ビースタが民主主義を学習する提言では、政治への無関心と参加レベルの低さの現実に対して、若者の声に耳を傾ける大切さを指摘しています。そして、それぞれが民主的な関係をもって存在し、行動する機会を創造するための民主的教育の創造を強調しています。

 それは、民主主義の実験に参加する方法なのです。そして、学校などの教育の責任を地域や社会全般に及ぶことが大切とするのです。社会全体が福祉国家から新自由主義へ、社会権から市場権に移ったイギリスでは、サッチャー政権以降ですが、労働党政権が1997年に政権を握っても、市民を高品質の社会的サービスを受給する消費者として、位置づけていたのです。そこでは、集合的な資源を公正に分配する民主的な決定者への参加にはならなかったのです。
 イギリスのシティズンシップ教育理念は、3つの問題をもっていたとガート・ビースタはのべるのです。
 第1の問題点は、教育を通して民主的なシティズンシップを準備することをしなかった。そこでは、個人の適切な知識とスキル、正しい価値観ということで、個人責任に帰せられる新自由主義の見方を払拭できなかったのです。
 第2の問題点は、活動的で責任ある市民を形成する教育ではなかったのです。若者をまだ一人の市民ではないという問題のたてかたから、共通の関心事になる実践として、若者生活の全分野から教育者がさまざまな難しい要因をみつけだすことができなかったのです。
 第3の問題点は、教授の意味を解釈し、理解する方法に依存して、教育の本質である行為を基礎にしてのコミュニケーションのプロセスや予想できない要因をみつけだすことができなかったのです。
 学校は、若者の生活からみればほんの一部です。家庭や余暇活動の参加や仲間とのふれあい、メディア、広告、消費者として、多くのことを学習していることを教育は認識しなければならないのです。この現実のなかで、若者がいかに社会生活と公共生活のなかで活動的になれるかということです。

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 責任ある市民になるための民主主義の学習には、他者に対する尊厳、政治的、経済的、社会的、文化的な生活に参加すること、異なる信念と文化を理解することを必要としているとガート・ビースタはのべます。

 これらの課題は、学校内教育ではできないのです。コミュニティにおいて、責任感ある効果的参加者になることです。そこでは、自尊心、自信、イニシアティブの決意、感情の成熟など個人の特性が発達していきます。そして、自己、他者、環境に対する尊厳とケアの社会的責任感が育てられていくのです。
 すでに、1972年にユネスコは、未来の学習として、生涯教育と学習社会の発達支援を強力に推し進めることを強調した。ガート・ビースタは、その評価を現代に積極的にすべきとしています。そこでは、第1に、相違や対立の移り変わりでも政府間と人々の連帯を重視するのです。
 第2には、民主主義の信念として、自己の潜在的可能性を実現して、自己の未来の形成を共有する個人の権利を大切にするということです。このように、民主主義の重点に教育の役割をあげているのです。
 第3に、開発の目的は、人格を高め、複雑な表現やさまざまなコミットメントを行うことができるような人間の完全な実現です。
 第4には、生きることを学ぶために、全面的な生涯教育を実施して、完全な人間集団を創造することができるようにすべきです。
 これらの4つの課題は、連帯、民主主義、人間の発達の完全な実現からの生涯教育の設計というになるのです。


 
 雇用のための自己責任型生涯学習

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 ところで、1997年にOECDが「万人のための生涯学習」として、人的資本の開発を積極的に打ち出しました。これは、グローバル経済に対応した雇用と経済発展を促す生涯学習です。生きることを学ぶ未来の学習から生産的な雇用対象者になるための学習、収入を得るための学習に転換するのです。国民の権利としての生涯学習から個人の義務、個人の責任に変化したのです。国家セクターとしての生涯学習は、大きく減少していきます。このように生涯学習の自己責任として、生涯学習の変化をガート・ビースタはみるのです。
 そこでは、生涯学習の非公式な形態が急速に成長していくのです。自立支援セラピー、Eラーニング、自己教育ビデオ・DVD・CDなどを通しての学習が普及していくのです。

 近年では、デジタル革命と称して、生涯学習の分野でITによる個人学習が隆盛をみせています。この傾向は、日本では益々大きくなっています。また、学校教育では、GIGAスクールとして文部科学省が教育政策として、推進している現状です。
 生涯学習の個人的機能は、個人の収入創出を可能にするようなスキルアップになっていきます。そこでは、個人の義務と個人責任になっていくのです。ここに、民主的な社会を形成していく生涯学習との関係の大きな矛盾が生まれるのです。それぞれの違いや他者との出会いから共に生きていく能力形成という学習の課題が社会的に大きく削られるのです。この結果は、公共的な領域の意識形成がみられなくなっていくという弊害が生まれていきます。
 イギリスのシティズンシップ教育の大きな欠落は、成人学習の役割がないとガート・ビースタは指摘します。成人学習は、暮らしに影響を与える構造的な不平等を認識させてくれるだろう。それを出発点として、学習者に公共的な市民の探求を支えることになる。学習していくことは、行為主体やアクティブ・シティズンシップの発達を促すことが大切になってくる。

 これらは、公共的な意識の衰退という現実や新自由主義的な自己利益、効用最大化という価値観の現実からの大きな転換ということになります。つまり、公共的な市民としての学習の構築にもあるのです。
 
 市民としての生涯学習ー経験と実践的な主体形成と公共性形成の学習ー

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 市民としての学習は、自己の経験および実践とつながることです。既存の社会的、政治的な秩序の再編成に、個人を適応させる市民学習から政治的主体性と政治的行為主体の現れに寄与する学びにすることです。それは、市民学習の社会化ということから市民学習の主体化を積極的に提示することです。
 市民としての民主主義の学習は、民主的な政治のプロセスと実践です。それは、多数者の支配する民主主義ということから参加者の集団的な行為です。学習の目的から、それぞれの意志表示による議論をとおして決定されていくことを学ぶことです。つまり、公的な市民形成として学ぶ必要があるのです。真正の熟慮によって、非強制的な形で、意思決定が行われていくことが、民主主義による公共的な市民の形成なのです。
 民主主義は、権力操作、権力による教化、権力によるプロパガンダ、ごまかし、単なる私的利害、おどし、そして、イデオロギー服従からの排除であるとガート・ビースタは強調するのです。単純に教えられ、あらかじめ規定されたアイデンティティによる無知な市民から、民主的なプロセス、熟議民主主義の実践関与をとおして、人間的な連帯、公共性の市民形成によって、達成されていくというのです。

 個人の願いが政治的な力や政治的な潮流になるためには、集団的必要への変換の意識にならねばならないのです。公共的領域の鍵となるのは、公共的な利益と公共財を産み出すことです。市民がなにが公共的利益なのかを明らかにすることは、闘争、論争、議論、そして交渉によって、自己利益の価値ではなく、公共的な集団利益に転換していくことです。
 公共圏の存在も公共の利益の形成にとっても大切です。公共圏は、私的な自己利益、効用最大化から保護された空間です。見知らぬ人たちが社会の共同生活において民主主義のパートナーとして互いに出会う空間になるのです。公共圏の縮小は、市民の民主主義な学習の機会、共同生活の構築や維持を減少をさせていったのです。 
   公共圏、公共的領域ということで、公共性を理解することは、市民としての民主主義を認識していくうえで大切なことです。集団主義的ということと公共性をもっていることは別のことです。集団性のなかでもオウム真里教やテロ集団のように反社会的集団の存在があるのです。それぞれの特定の利益集団が社会のなかで存在して、必ずしも公共性をもっているとは限らないのです。
 新自由主義のもとで、公共的なケア労働や公的教育などが民営化されて、私的な利益の市場によって、福祉や教育の社会的サービスを担うということが普及しているなかで、公益性ということが曖昧にされている現状があります。公共性ということから参加と熟議の民主主義も曖昧にされていくのです。

 

 包摂と熟議民主主義の形成と生涯学習

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 市民のための民主主義形成は、公共のために参加者がお互いに理由をのべることからはじめます。そして、批判的にそれらを評価し合い、熟議をもっぱら合理的な議論の形式をとっていくことです。その軸となる柱が私的な利益、特定集団の利益では、対立的利益のなかで公共性が定まっていかないのです。利己的な利益、特定集団の利益ではない、公共的な利益を探求していくことが市民の民主主義形成にとって大切なのです。
 ガート・ビースタは、ヤングの排除社会から脱していく包摂民主主義の考えを踏襲した。それは、参加者の熟議をもっての合理的な議論形成の場が民主主義とするのです。熟議的民主主義は、尊敬と信頼から排除的傾向を改善するというのです。現代の排除は、議論や意思決定から外側において排除するのではない。内的に形式的な意思決定のプロセスに包摂されますが、平等な敬意をもってあつかわないということです。この排除の形態が現代は数多くあるのです。これが内的排除です。

 内的排除型の社会は、議会制民主主義の形態をとっている多くの国でみられるのです。日本でも議会における野党の答弁に対して、質問の問題に真正面から捉えずに、はぐらかしたり、質問からはずれて、自分達の政策や施策の自慢話をしたり、論点をずらしたりすることです。そして、ときには、答えずに、検討中とか、関係者の意見をよく聞いてからとことです。つまり、まともに答えないので議論にならない場面を作り出すことです。これは、多数決で、議論なしで、最初からの結論ありきで、野党の意見を聞かないことです。多数党の議会運営での政策決定は、多数決で決定していくという内的排除の観念があるのです。熟議の民主主義のプロセスに入っていかないのです。
 デモクラシーは、同一性と同質性からではなく、複雑性、差異性に基礎づけられていることをガート・ビースタは強調します。また、それらの知識の構成要素、熟議・集合的意思決定・差異への対処の技能取得が大切とするのです。さらに、次世代への性向ないし価値の構成要素という公共的自由からデモクラティックな人格形成が不可欠とガート・ビースタは力説するのです。

 日本の現実における民主主義の学習にとって、大切なことに、前記に指摘すること以上に、ITの普及、テレビの偏向というデマやうそ、偏見、差別の情報氾濫があります。ここでは、科学的思考やエビデンスを重視していくことが大切になっています。デマや噓がはびこるなかで、何が真実なのかという困難なことがあります。事実に基づいての真理探究の科学的な思考が民主主義の学習にとって重要になっているのです。
 
 人間の自由の形成と生涯学習

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 人間が自由になっていくことは、権力から自由になっていくことが大切ですが、同時に、人間らしく自由に生きるために絆をもって支え合いのなかで安心していける自由、その社会のなかで文化的に豊かに生きられる生存条件をもっていることの自由などがあります。さらに、自由になっていくことで、知らないことがわかっていくことの自由、できないことができるようになる自由、スポーツ・芸術・ことばのように優れた技能・コミュニケーションをもつことによって、自由になることがあります。

 これらは、教育によって達成することなのです。教育は人間の大いなる可能性の発達を促し、人は学習することによって、結果的に自由になっていくのです。自由があらわれる空間は、公共的な関心のもとに、他者と関わり合い、複雑性や多様性、差異性を抹消していく人間的主体性をもって活動することをガート・ビースタは強調するのです。
 教育の目的は、人間的主体性を確立し、理性的自律への問いかけです。他律から自律へ、依存から自立、幼児期から青年期、絶対的な固定した観念の理性ではなく、様々な創造性、価値の多様性を受け入れていく理性が求められる時代です。その理性の力をつくる生涯学習なのです。学習のニーズは経済的な関係に決してねじまげることなく、デモクラティックな人格形成の議論として、信頼、応答可能性、責任性ということが大切です。教育者は主体性に対する責任、教育的な関係を引き出すことで、決して限定されたものではなく、計り知れないものをもっているということです。まさに、人間とはなにかという本質的な問いを教育的な関係性はもっているのです。
 教育の説明責任と応答性は、大きな二つの流れがあります。ポスト福祉国家主義の流れと、新自由主義の流れです。ポスト福祉国家主義は、公共サービスの精神によって、平等性、ケア、社会的正義のような専門職的な基準や価値への関与、そして協働の強調です。
 一方で、新自由主義の流れでは、顧客志向の精神、能率や費用対効果、競争への強調です。消費者としての市民に対する説明責任が問われるのです。教育者は、顧客としての保護者や生徒に合わせての方向性になっていきます。

 二つの流れのなかで教育者は、説明性と応答性を問われるのです。社会教育においては、民営化が隆盛を極めている現状ですので、新自由主義的な消費者としての社会教育サービスからの利益優先のための顧客満足度が鋭く問われていく時代です。これに、抗しての主体的に参加して、熟議していく民主主義を学ぶ生涯学習の強い信念と戦いと社会的交渉があるのです。 
 市民の民主主義のための社会教育は、行政などの公的な分野、非営利的な分野によって担われていく必要性が大きくあるのです。新たな公的な社会教育の創造が、市民の民主主義形成のためには大切になっているのです。