社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

共生・協同の社会形成と社会教育ーマンハイムの「自由・権力・民主的計画」から学ぶ

                     神田嘉延

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 現代日本で、マンハイムの「自由・権力・民主計画」から学ぶ意味

 現代日本は、新自由主義の弱肉強食的資本主義競争と大衆化のなかで、利己的に人々が追いやられた。エリート層のモラル退廃がはびこり、差別や貧困なども深刻になっています。このなかで、命令と服従による成果主義、自己責任の強調による独裁的支配の傾向が強くなっています。

 現代は、利他主義的に、他者を考えて、相互扶助、協働で問題に対処していくことが弱くなっています。まさに、日本の伝統にあった絆の精神、戦後の憲法にある自由と民主主義を大切にして、他者の人間尊厳を考えて協同することが危機にあります。

 自由は他者の自由を考えることで相互的に自己の自由も保障されるという姿勢が大切です。人々の自由の保障は国家権力、支配関係から自由の保障があることも大切なことです。

 自己の精神的自由は利己主義的に自己の欲望世界の増幅による孤立化を招くことで不自由になっていくのです。人間は本来的にもっている愛他精神があるのです。つまり、他者の関係を深く認識することによって、豊かな感性を持つことでなのです。個人の尊重は人間的な尊厳があるのです。人間は共同感情、絆の関係を持つことで自由に振る舞うことができるようになるのです。

 マンハイムファシズムと戦った社会学者です。とくに、民主主義のためには、社会教育の役割を特別に重視しました。民主主義のための協同的態度をどのように形成していくのか。民主的コミュニティの理想的形式の協同的態度を大切にしたのです。協同的態度の形成は権威主義的社会における支配形式の命令と服従と対抗する概念です。

 命令と服従は多くの場合に、高い能率的達成を要求するが、人間の尊厳からは大きな損傷をもたらすのです。

 現代とマンハイムの生きたファッシズムの荒れ狂う時代とは同じではないことは言うまでもない。現代は新自由主義という弱肉強食による資本主義のグローバル化のなかで、より一層に、一部国際的な富豪層に富が集中するということで、競争の質と利己主義の蔓延が大きくなるのです。拝金主義で人間的モラルも大きく後退し退廃化も進んでいます。

 しかし、時代は異なるが、自由や民主主義対独裁・権力の集中ということでは共通した問題があります。

 現代では弱肉強食という競争社会のなかで、利己的なことが一層はびこっています。また、忖度ということで、暗黙の命令と服従を意識的に取り入れることによって、立身出世に勝ち抜いていこうとする態度が支配的にみられるのです。

 このことは、協同的な態度が一層に困難になっています。意識的な協同の感情や連帯の醸成をつくりあげていく社会教育的役割が一層に重要になっているのです。

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 協同的思考形成の重要性

 マンハイムは、集団が統制され、秩序だっていくことは、2つの形態があると考えるのです。命令と服従権威主義的支配と、協同の行為をとおしての人間の発達と指導によって、まとまっていく形態があるとするのです。

 協同的な思考形態を開発するのは、単純ではなく、討議をとおして合意を形成するのです。このことでの要する時間は長くかかり、そこに参加する人々の寛容の精神がなければ合意の形成は困難になるのです。共同目的によって、責任分担のなかで実現しようとする考えは古くからあったのです。階級対立は、その労働統制の役割分担によって、共同的な責任分担は破壊的になっていくのです。

 命令と服従権威主義的な支配のなかでは、高い能率性を発揮するのです。しかし、たいていの場合、人間的尊厳が損傷されるのです。

 マンハイムは権力と人格的諸関係について、命令や威嚇のみによって、他の人間を統制するのではなく、しばしば親切や説得によって統制することがあるとするのです。

 権力的諸関係における総合的行為は恐怖のみによって基盤づけられているのではないと考えるのです。相互的反応の方がおそらく、より基本的に一般的な人間統制の源泉になるのです。

 そこでは、参加者の人格諸資質、人間的信頼、友人関係、求愛関係など関係によって、相互統制の強さが決まってくるというのです。

 人格的諸関係は組織的方策によって、作り出すことはできない。親と子、生徒と教師、遊び仲間、恋人、友人の関係のような純粋的な人格と人格の関係とマンハイムはのべます。

 人格的アプローチは組織的アプローチに置き換えることはできない。組織化をすすめたり、計画したりする際は、人の関係は中心になるのです。それが、近代社会の発達によって、人格的な人間諸関係から機能的な命令と服従の関係になっていくとするのです。

 従前は聖職者しか充足しなかった諸機能が任命や選挙によって、そして、社会的機能によって、教育者、行政官、政治的宣伝者、ジャーナリスト、および公務関係職員によって分担されていくのです。そこでは、公的説得の組織も力を得ている。成人教育も含めて、形式的教育の機構は、人間精神を形成するための最も協力な組織になっているとマンハイムは強調するのです。

 組織的アプローチをする場合に、人格的諸関係を見失ってしまうと、人間の尊厳が崩されの命令と服従権威主義に陥っていくのです。

 ここに、合法的な権力使用における道徳的基準の確立が求められていくのです。決して、合法的な権力使用や制度的統制は、非人間化するものではない。教育的な努力は利害の葛藤に対比するなかで、相互関係性と協調性を強調する傾向をもっています。これゆえに、教育的努力は、利己ではなく、利他主義的に人間尊厳の合理性を高めていくというのです。

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共同体感情と権力

 マンハイムは、地域共同体を中心とする権力の集中化は、情緒的諸要求に答えて出発し、利害感情は、大きな非合理性をつくりだす。それは、接触伝染と情緒的融合によって広まり、国家主義の感情を育てていくと考えるのです。

 そして、均衡のとれた共同体的連帯性、相互に利害が一致しなくても合理的に妥協が自然に生まれていく合ことを求めるのです。それぞれの所属性と安全性、地位や自尊心を求める個人の渇望が充たされていく教育的方策が必要になっていくのです。

 それは、他人への尊厳によって、バランスをとられた自尊心や抑制的自己主張を鼓舞するかどうかです。自我の誇張や挑発的な態度ではないのです。

 それは善とか悪とかと国民感情を単純化して、世界を限定して、聖なる利己主義、自己膨張主義を鼓舞することではないのです。相互的配慮と協同性を教えていく大切さをマンハイムは強調するのです。国際的協同化を阻止していく共同体的感情、平和な世界の協同を閉ざす国家主義の有害な諸特徴の解明を目的として、政治や教育者は、考えていくべきと。

  国家的境界を越えた機能的な成長は、国際的規模での相互依存体系を発達させる可能性をもち、新しいタイプの権力連合が導くかもしれない。

 国際的寛容に対するキャンペーンは単一国家では進められない。平和的な社会秩序を建設するための教育的努力及び知的努力に参加することによって、相互の競争からの不調整の危機の克服ができるのであるとマンハイムは力説するのです。

 とくに、ある国からの他の国への大量の人口移動は、広範な不適応が起きるということで、教育の重要性を指摘するのです。

 このマンハイムの指摘は現代の弱肉強食の新自由主義のもとでの資本主義の国際化のなかで、一層に重要になっています。受け入れた国での民族間の対立が起き、差別と貧困の問題に拍車をかけていくのです。

 つまり、そこでは国際的な寛容の精神からの異文化共生や基本的に人間的に生きていくための基本的人権生存権を保障していく社会的教育が求められるのです。教育なくしての人口の移動による寛容の精神と移動した人々の生活や人権の保障は生まれてこないのです。

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 権力の濫用とその予防

  マンハイムは、民主主義は合理的科学および知識の伝搬に結びついています。そして、優れたマスコミニュケーション手段と高度に発達した教育技術によって大きく促進されるというのです。公衆が政治的未熟であっても、市民の自由、言論の自由や集会の自由が保障されることによって、権力の濫用を有効に統制できるとします。

 しかし、技術の改善だけでは、権力の統制や人間の欲望とエネルギーの方向づけのような諸問題は解決しないとマンハイムは考えるのです。人々が閥や利益集団や党派による国家の支配を甘受させられている限り、権力による支配服従と命令は栄えていくとするのです。支配と服従の権力から相互的尊敬と協同の社会秩序を形成するには、そのための道徳的復興をしていかねばならないとマンハイムは提起するのです。

 計画社会における競争と協同という論述のなかで、マンハイムは、責任性の主観的側面のなかで、相互的尊敬と協同という新しい統合論を提起します。そのなかで、良心の発達は、純粋に個人的な事柄ではなく、共同の努力によって、新しい規範が形成されるとしているのです。

 個人の良心を覚醒させ、発達させるための主観的な心理学的方策のみでは相互的尊敬と協同の道徳教育はできない。現実生活との接触によって、教師も生徒も環境に注意することによって目を開いていくとマンハイムは指摘するのです。

 個人の良心はコミュニティの成長しつつある良心に根づいて、新しい規範を見いだしていくのです。新鮮な活動分野を共通に発見するために、他人と連合することが不可欠であるとマンハイムは考えるのです。

 そこでは、共同生活の新しい創造的な傾向と潜在能力を鋭く喚起することができるとするのです。責任性の拡大は、決して抽象的な諸原理の獲得ではなく、集団間の共同をもたらす方策によって、家族や同族のレベルからコミュニティのレベルへ、さらに、同朋市民や広く人類的課題に社会集団の世界を拡大していくことが必要になっていくのです。

 人格的良心はある程度まで、歴史的過程の産物です。協同の責任性の拡大は、個人教育では達成できない。基本的に社会的教育の課題なのです。全同朋市民が益々拡大しつつあるコミュニティの権利と義務に参加することによって、民主的過程は発達していくのです。それは、選ばれたもの以外の市民を決して排除するものではないのです。

 ナチスは選ばれたエリートのためのセクト的な責任性を強調したのです。大衆的訓練は操作されたスローガンの感受性と置き換えられ、大衆心理によって大規模な宣伝であった。ナチスの共同体精神はエリートによって従属的行為でヒエラルヒー的組織をとおしての服従と命令によるものであった。 

 

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 公衆教育の重要性

  民主主義は真に共通の主目的を明確にして、党派的関心の特殊性の申し開きを認識し片寄りも除去していくことが必要です。圧力集団をなだめることよりも諸提案の一貫性をめざすべきです。敵対的諸圧力集団を鎮めなければならない。整合された計画が欠如していれば民主主義の充分な計画は成功しない。

 人間は過去の諸経験から学習する能力をもたねばならない。個人生活の限られたなかでしか認識しない場合が多い。今や諸集団が連帯して過去から学習すべきです。

 さらに、重要なことは公衆教育をすべきです。それには全生活の実験的性質を強調することが必要です。公衆教育は各レベルの知能と教育背景を考えて、問題解決するための方法を獲得しなければならない。

 例えば、テネシー流域の実験は重要な貢献であったのです。この実験は計画経済を教育運動に結合したのです。

 以上のように社会の民主的計画を公衆教育という教育運動に結合していく重要性をマンハイムは強調したのです。

  さらに、マンハイムは自由は議会の回路を通しての民主的統制と公衆の責任性からなるとしています。

 公衆性の欠如は寡頭政治、独裁政治、ファシズムをつくり出すととしているのです。公務の行政も公衆の責任性にあるということです。それは守るべき重要なことであり、民主主義政府の鍵となるというのです。

 民主的社会統制をしなければならないほんとうの意味はなにか。それは社会において自由に奉仕することであるとマンハイムは考えるのです。自由な社会は相互尊重のもとに連帯性をもった共同社会で人々は生きているのです。

 他人の自由の尊重なくして、自分の自由は保証されていかないという意味です。市民の自由を保障するために、市民生活において法を守っていくために、犯罪を取り締まる警察は不可欠なのです。

 ほっとおくと社会的力の強い人々が弱い人々を抑圧したり、個々が自己の欲望の思うままに社会的行為をすれば社会的秩序は大きく崩れていくのです。

 また、さまざまな考えや文化の多様性は社会的交流の発展、国際化の進行によって進んでいくのは歴史の必然性です。社会的諸力のバランスを民主的に保っていくことは一方で難しくなります。安易な効率性を重視していくことによって独裁体制、強権的集中化も進んで行きます。また、人々の群衆化や大衆化も進み、絶対的英雄も願望していく社会的風土も生まれて行きます。

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 ところで、企業の自由と産業の民主的統制についてマンハイムはどのように考えていたのでしょうか。民主的な政府が企業の経済生活に干渉することは、十分な生産を維持し、恣意的な独占を統制するためであるとしています。民主的に経済に統制することは、国民の共同利益のために、利用できる資源を十分に活用するためです。

 中央権力は、これらのために産業民主主義といういうことからの統制の限定です。過度の集中に対する解毒剤としての産業民主主義とマンハイムはいうのです。

 権力濫用によっての危険は、混乱によって利益をあげようと意図的に恐慌を惹起して、恐怖を操作することです。時には資本の投機を招くような一般的な信用の喪失を教唆することをするのです。これは、民主主義の自由の基礎をくつがえすことになるのです。

 民主的に均衡のとれた自由の社会のためには、マスメディアの役割は重要です。この問題について、マンハイムは、新聞・雑誌の本来の意味、ラジオの役割について、言及しています。情報を公衆に提供し、自由な議論のためにあるということから、信頼できるニュースの提示保証が必要ですし、新聞が独占的に所有されてはいけないということです。

 また、特定の党派によって、新聞の紙面や放送時間が割り当てられてはいけないとするのです。新聞もラジオも独占的利益への依存からの解放が大切としているのです。

 日本の新聞倫理綱領は、2000年に日本新聞協会が宣言しています。そこでは、国民の知る権利は民主主義をささえる普遍の原理で、この権利は言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して、初めて保障されるとしているのです。

 そこでは、自由と責任、正義と公正、独立と寛容、人権の尊重、品格と節度をうたったのです。メディアの社会への責任と義務がすでにマンハイムによって、反ナチズム運動のなかでのべられていたのです。

 民主主義において、習慣や無意識な価値判断のなかに公共生活があることから、共通の道徳性は世論のなかにどのように根付いているのか。部族社会や伝統のなかに根付いているタブーの現代的等価物としてみておくことも必要です。それらは、精神的な権力として世論を維持しているのです。

 それらの共同生活が破壊されているところでは、人間と人間の間のコミュニュケーションが閉鎖されているのです。精神生活それ自体が損傷され、産業文明の成長、とりわけ大都市の成長は、社会における自由な統合の基礎的形式を破壊しているというのです。

 これからの再建の作業は、コミュニティと町づくりの計画で、その社会的物理的構造の構築からはじめなければならないとマンハイムは現代の民主主義形成の条件課題をあげるのです。道徳性を形成していく基盤が崩れている現実をみることが大切で、その基盤づくりとしてのコミュニティやまつづくりの社会的教育の課題があるとするのです。

 民主主義の敵は、啓蒙された大衆ではなく、民衆扇動によって、激昂された大衆の暴徒である。専制政治は、保守主義ではなく、暴徒の力であるとマンハイムはみるのです。まさに、大衆化されたコミュニティをもたなし、公衆道徳性をもたない都市住民の暴徒によってファッシズムの体制の基盤がつくられていくとするのです。

 ナチスの教育実践は、セクト行動と大衆的行動の両方に集中したのです。エリートのための指導学校では、絶対的服従による共同体精神による講社的精神とそれに対応する責任性の教育を徹底した。大衆行動では、大衆心理の操作による大規模な集団情緒的感情を利用しての宣伝であった。

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 代議員制と政党の役割をどのようにみていくのか

 

 代議員制度はあらゆる社会勢力の統合化として民主的統制の最善の道具として意味をもつとしてマンハイムは考えます。また、局部的関心を表明する広場の役割を果たすとしています。それは諸関心を動的にバランスのとれた協定形式を作りあげていくという長所をもつとするのです。

 討論の形式は最大限の合意を追求し、それに到達するために競争者を訓練するという。民主的合意は画一性を意味しないで、相互に制限しあって協同的計画を作りあげる努力をします。

 そこでは協同の整合性をつくりだす交渉が建設的に行われ、妥協をめざす闘争が行われるとマンハイムは指摘するのです。ここではすべてが建設的妥協に導くとは限らず選択する妥協が原理的に間違い社会的協同と精神から敵対主義が強化されることがあるともみるのです。

 つまり、妥協の努力による社会的協同という原理が大切ということを基本にすえておかねばならないことをマンハイムは言っているのです。

 選挙区を地域の原理によって限定することによって代議員制度が投票を局部的関心によって支配されないように注意すべきです。投票者は一市民としてであって、宗派や職業や階級の一員ではないのです。民主主義は特殊な諸関心に訴えることを許し、それらの組織化を許しているが、選挙になると連帯性を形成することと公益のことを考えることが必要です。

 しかし、議会に選出された議員は劇化して特殊な諸関心を弁護するのです。高潔な気持ちで公益を見つめることではなく、公益という名のもとに権力を当てにしていくのです。団体代議員制度は統合的機能をもつことができない。

 地域的に限定された選挙区によって選ばれた代議員が統合的機能の可能性をもつ。地域代議員制はコミュニティを分裂していくのを阻止する機能を果たす。代議員制度は深く市民の責任感を喚起させ、市民とコミュニティとの同一視を助長するとマンハイムはみるのです。

 社会が民主的であるかどうかは公衆責任をその社会がもっているかどうかということです。選挙することは政府の真の責任を確立するためです。事柄がうまくl行われない場合は選挙民は誰を罷免すべきかを知る必要があります。指導者に帰属される責任は非常に重いのです。

 国会の討議は、科学的な解明や意味論ではない。議会における職業政治家は政治的弁明や利害の衝突など幅広い経験と政治的判断を獲得する。

 討議はむしろ競争的関心と諸価値をはっきりのべ、実施可能な政策協定を結ぶことにあるのです。法的、技術的及び細部のことは、専門委員会の仕事にゆだねることで、純正な議論は小集団を必要とするのです。

 代議員制の大きな弱点はドイツ国民が経験した。大衆操作によって暴君を権力地位にしたのです。大衆は群衆として反応して瞬間的な刺激によって動揺されたり刺激的諸情緒に反応していったのです。群衆的諸特徴は扇動と操作によって呼びさまされ、瞬間的統合に導くのです。大衆的扇動者は危機的状況に合理的思考や分別ではなく、恐怖と狂喜を巧みに利用するのです。

 民主主義を維持するために政党の役割は公共的良心を作りあげることと、それぞれの地域、職業や階級等の民衆の役割の意志を政策していくことです。かつてはコミュニティにおいて統合された機能をもっていましたが、現代はその機能がなくなったのです。

 現代は諸政党の統合的機能を抜きにして、さらに憲法を運用することです。政党組織を通して、民衆の意見や衝動を精巧させ、洗練させることです。以上のようにマンハイムは政党の役割をのべます。

 

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 民主主義精神の形成と社会教育

 

  マンハイムは、民主義精神の形成において、個性の発達における共同体感情を身につけていく社会的教育の役割を次のように強調するのです。

 慣習と伝統が働いている限りでは、人々の社会科学的認識は必要ではなかった。共同体的精神が色あせてているいる社会に必要としているのです。個人が新しい行動様式を作り出し、自己を社会のなかでコントロールできなくなったときに社会科学の助力が必要です。

 社会科学の知識の獲得は、社会的教育によって達成することができるのです。社会的教育は、社会的群衆動物をつくりだすものではなく、現実の民主主義の精神という均衡のとれたパースナリティを形成していくことです。個性は、共同体感情の犠牲のうえに発達するものではない。

 そして、自由競争における問題点についてマンハイムは次のようにのべる。社会的民主主義の計画のない自由競争は、自己中心的個人の適応によって、社会的に秩序が生まれない。何が社会的に正しいが教える必要があるのです。

 大規模な単位の競争の圧力は個人を困惑させているのです。全体主義の組織化は、万能薬のようにみえるが、人々の活力を失わせています。民主的社会計画が求められているのです。

 社会は建設的な役割を遂行する人間を吸収し、教育し、社会的機能の機会を提供すべきなのです。失業青年の場合も就学年齢を引き上げれば自己発達と社会的改善の新鮮な機会を与えられるであろう。民主的社会計画がなければ社会的不安が作られていくのです。孤立化や利己主義ではなく、協同や共通の目的や共通の理解の意味を理解することが大切なのです。

 競争的自我は自己中心的になり、非人間性の人格をもつようになっていく。そして、競争的自我は、攻撃性を鼓舞していくのです。不平等間の競争は、常に反道徳的効果をもつ。

 個人間の競争は、ロボットのように誇大妄想的達成の実現を追求する非友好的社会をつくりだす。そして、この方法が破壊的効率性をもつようになっていく。過度の競争は、他人と分けられない個人成功への熱狂によって神経症的特性を発達させていきます。

 競争的自我とは反対に、協同の精神の形成は、仲間意識と仲間にによる社会的承認を求めていくのです。バランスのとれた社会の人間は、一つの欲望充足類型から他のものに変えることが出来ます。この柔軟性は、児童期の適当な協同性の訓練によって、より容易に獲得されていくのです。

 民主的協同は、異なる目標の連続的統合を意味して、単なる妥協ではない。それは、人格的関係のなかで実現されていくのです。この統合の行動は、彼自身の意志と他の仲間の意志の不一致に寛容になることです。

 自分自身のパーソナリティが異なる自分と異なる価値を寛容性で受け入れることによって、自分自身のパーソナリティを拡大していくのです。民主的パーソナリティの発達によって、より人間として大きくなっていくのです。それは、狂信という狭い他人を受け入れない自己中心的な情熱的行動から離れていることです。民主的真理は協同的生活過程のなかで出現していくのです。

 従って、一般的な同意を作り出すことをさぼることはできないのです。統合論によって、良心の発達は純粋に個人的な事柄ではないことが明確になるのです。それは、相互のギブ・エンド・テイクと結びつく協同の努力によって、民主的人格が形成されていくのです。新しい新鮮な活動分野を共通に発見することによって、他人と協同で行動することで個人の良心が発達していくのです。共同生活の新しい創造的な力は、協同していくことに注意を向ける能力の発達を獲得することによって、社会的な民主的パーソナリティが形成されていくのです。

 民主的教育は、協同、寛容、自主性、共同責任性、共同・協同感情の発達を教育計画の連続性によって、これらの発達を援助するものでなければならないとマンハイムはかんがえるのです。

 そして、マンハイムは、成人教育の新しい課題として、全市民が新しい社会変化の要求に知性的に対応できるように援助することであるとしています。

 そこでは、科学の進歩と迅速に社会変動に対応するために、公共精神に富み、民主主義的に諸課題が判断できるように教育を準備しなければならないのです。自由放任精神の成人教育は、人々が欲するものを提供するためであり、気まぐれな低趣味と余暇つぶしのためであった。そして、知識人と自負する人の見方で素人に教育を課すということであった。

 民主主義的成人教育の課題は、現実の社会的変化や科学技術の発達に対応してのもので、科学的総合、知識の統合をめざす成人教育で、決して高度な専門化ではないのです。成熟した精神は、主として生活経験によって訓練されれものです。

 民主主義的大衆は、あやゆる階層から指導者を補充することが必要なのです。民主主義しゃかいでは、知識を学者階級に独占するわけにはいかないのです。現代の根本的ジレンマと人間の窮状は、あやゆる教育のレベルを民衆に手の届く範囲にしておくべきと民衆大学の必要性をマンハイムは強調したのです。