はじめに
現代日本は1990年の後半から経済が停滞し、社会経済の活力も大きく失われいる。若い人々が積極的に未来社会を作っていこうとするエネルギーも少なくなり、現状に対する不満が溜まり、自己保身的、利己的、手軽で拝金主義的で実現で現金収入を得る傾向もある。社会に対する不満は感情的、感覚的に、単純化した形でSNSなどのマスコミなどであおられて爆発していくのである。いわゆるポピリズムが起きるのである。
これらは、政権を握る政治家、高級官僚、経済界のリーダーの不祥事事件が頻繁に起きる中で、社会全体の退廃現象の多くの若者の対応である。これは弱肉強食の新自由主義の激烈な競争社会で格差や差別が拡がっているなかでの現象でもある。独創的に自己の能力を大いに発揮して未来への夢や希望を描くことが難しくなっているが、そのことが教育の世界でも問題になり、教育改革の大きな柱になっているのである。
現代政治の退廃問題
現在、緊急に求められるのは、政権を握る政治家の退廃現象である。森友問題で総理夫人との関係をもっていた理事長が特別の利益供与を受けたのではないかと疑いが起き、公文書が改ざんされ、その任務を強制された公務員が自殺する事件が起きている。また、総理と留学生時代から親しい友人に特別に便宜供与したのではないかという膨大な公費を使った加計学園の獣医学部新設問題があった。
さらに、総理主催の公的行事に自分の選挙民を多数招待したという疑惑で公文書を破棄して証拠隠滅しのではないかと。参議院選挙で一億5千万円という特別に政権政党から資金を得て買収に使ったのではないかと議員を辞任した事件も起きた。大臣室で公的な補助の経済的利益を得るために多額の現金を渡されたのではないかということで辞職した議員。IRというカジノ推進法案可決のために業者から現金を渡されたという委員会議長が刑事事件で逮捕収監されるという事件など政治家の不祥事があとをたたないのである。
現代経済界の退廃問題と問われている新しい経済課題
経済界では日産を再建したカリスマ経営者が公私混同ということで多額の所得隠しと会社会計の不正ということで問題になった事件があった。日本の政治経済の腐敗現象が根深い中での経済の低迷である。政治経済の退廃の問題を根本からみるうえで、資本主義と道徳ということで、歴史的に多くの国で問題が起きて、その対処のために様々な考えの思想家が現れたのである。
大量生産、大量消費、大量廃棄物の社会経済は、深刻な環境問題を起こした。人類は持続可能性のある社会経済を求める時代である。地球温暖化ということで、脱炭素の社会経済が求められ、プラスチックの大量生産、大量廃棄物で、海洋汚染も深刻になっている。持続可能性のある社会経済は、循環型経済が必要になる。
循環型経済には、例えば、エネルギーなどでは再生可能性の自然エネルギーである。それは、地球上にある石炭や石油からの大量の炭素を排出するエネルギー資源ではない。また、プラスチックではなく、再生可能な、生態系もこわさず、生き物に安全な、人間の健康にも安心な自然にやさしい代替えが必要である。その素材をどのようにしてつくりだしていくのか。産業界にとって、大きな社会的責任でもある。あらたな抜本的な循環型経済構築の改革が必要な時代である。
それには、根本的に経済をまわしていく持続可能性をもつ循環型の社会的道徳をもっての社会的に責任を果たしていく生涯学習が、まずは、それぞれの政治手、経済、教育、文化、マスコミなどの分野のリーダーから切実に求められるのである。この意味では、次世代の社会のリーダー育成、科学・技術や先進的文化の生涯学習に重要な役割を果たす高等教育の位置は大きい。
(1)資本主義と道徳問題
アダム・スミスの道徳論
18世紀のイギリス資本主義の形成期に経済学を体系化して市民社会の全体認識として「国富論」(1776年)で知られるアダム・スミスは、同時に道徳感情論(1759年)の大書を書いている。アダム・スミスは、市場をとおしての労働の生産力の発展、分業を引きおこす原理、資材の性質・蓄積・使用、都市と農村の生産物交換の原理、富裕の発展、政治経済学の体系化、国家財政論などを展開した。
アダム・スミスの国家財政論において、とりわけ社会の商業に便宜を与えるものと同時に、重視したのは、青少年の教育とあらゆる年齢の教育のための費用である。国家が教育を保障していくのは腐敗と堕落を防止するために必要であるとアダム・スミスは考えた。
分業が進展することによって、限定された能力で人間が単純化され、無知を促進し、理性的にならなくなり、寛大な高貴あるやさしい人間的な感情をもつことができなくなる。私生活の普通の義務についてさえ、それらの多くに関して正当な判断ができなくなる。重大で広範な利害関係についてかれはまったく判断することができなくなる。
文明化した商業された社会では、身分と財産のある人々の教育よりも民衆のための公共の学校教育を必要とする考えが、アダム・スミスの教育論の基本である。かれの考えた公共学校は、各教区、ちいさな地区に建てることを意図した。
市場において、人間はどんなに利己的なものと想定されても人間の本性はあわれみと同情の感情をもっているというのがアダム・スミスの見方である。肉体に起源をもつ欲求に対して人間は嫌悪をもつ。それは、獣類と共有する欲求である。さらに、慣習に起源をもつ情念と寛大・人間愛・友情などの社会的な情念とがある。
悲哀に対する同感は、歓喜に対する同感よりも注意をひく。羨望がない歓喜に対する同感は、悲哀に対する同感よりも強い。富や権力などを求める野心の起源はどこからか。アダム・スミスの道徳感情論にとって、同感の概念は基本である。
市民社会における人間関係は、市場をとおしての交換関係である。市場をとおしての交換関係は、個々の欲望を基礎によって、なりたつものである。自己愛を近代的個人の行動原理として認めながら、そのうえに社会的秩序を求める。社会はいわば個人の分業の鏡であり、社会と交渉をもたない人間は自分の感情や行為の適宜性や欠陥について考えることができない。富裕な人を感嘆し、貧乏人を軽蔑する性向の道徳的腐敗はどこからか。アダム・スミスは、文明化された商業社会における道徳問題の難問に格闘する。
マックス・ウエバーの道徳論
マックス・ウエバーは、資本主義の精神を「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著書で、禁欲的なプロテスタンティズムのもっていた資本主義形成における精神的な歴史役割を分析している。近代ヨーロッパ文化における資本主義の形成の精神を明らかにしている。
近代のマニファクチャアの工場建設の合理的な産業経営者の精神が、禁欲的なエートスによって支えられていた。その担い手は中産的産業資本の禁欲主義と合理的な経営によって、産業の発展が成し遂げられていったのである。
新興の産業資本家は、絶対主義的な王権と結びついた商人や金融業者の活動に対して敵対関係であったのである。海外などの不等価交換の取引によるぼろ儲けする商業などではなく、中産的な産業資本の生産意欲によって、生産拡大によって富を蓄積していったのである。そこには、禁欲的な精神が根底にあった。隣人たちが必要としている商品を生産して、正当価格で市場にだしていく。
利潤は適正で貪欲の罪という意識が強くあった。投機的な暴利や高利貸しを嫌ったのである。プロテスタンティズムの資本主義の精神は、隣人愛の実践であったのである。金儲けのためではなく、仕事そのもののために献身し、利潤は隣人愛の結果であるという考えである。
資本主義発期の小生産者経営の精神は、人格と倫理の分離はなく、自らの内面化された合理的な禁欲主義であり、封建的な抑圧された禁欲ではない。隣人愛という精神的基盤があり、それは、分業化されていく社会のなかで小生産者経営者同士が隣人愛なくして生産的活動がなりたっていかないとう手工業的分業社会の段階の精神構造である。
ここでは、生活上の厳格な訓練を受けて成長し、生粋の市民的良心を原理を身につけ、さらに打算と冒険心とを兼ね備え、わけても誠実にして着実に業務にうちこんでいくという道徳的な資質をもっていたのである。マックス・ウエバーの分析した資本主義の精神は、産業資本の形成期の小生産者経営の生産意欲の精神である。
高度に資本主義が発展し、グローバル化した巨大な多国籍資本の独占的な経営手法の精神ではないことはいうまでもない。独占的資本ではなく、自由な小生産者経営の初期資本主義の精神の分析である。この初期資本主義の禁欲的な精神、生産意欲は、現代の市場経済における道徳問題を考えていくうえで、学ぶべきことは多い。
エーリッフ・フロムの道徳論
資本主義が高度に発達した大衆社会では、自由からの逃走の精神的状況が生まれていくことをエーリッフ・フロムは社会心理的手法で分析している。そこでは、資本主義における人間の自由問題(1947年)として、権威主義に対する人道主義的な倫理の問題提起を積極的にしている。
現代社会は、一生懸命に働き、努力しながらも自分の活動は空しいものと感じている。個人的生活と社会的生活において自己を無力と感じる時代になっているというエーリッヒ・フロムの認識である。
フロムの唱える人道主義的倫理は、人間の自律と理性による価値判断を基礎とした。人道主義的倫理は、非合理的な権威主義的倫理の対抗的な概念である。権威主義的な倫理は、子供の倫理的判断や大人の無反省な価値判断の発生過程にみられる。子供の価値判断は、自分の生活の中で重要な意味をもつ人が自分に対して示す親しげな反応によってつくりあげられる。
子供は完全に大人の配慮と愛とに依存して生活していることを考えれば、子供に善悪の弁別を教えるには母親の承認と拒否の表情一つで十分である。学校でも社会でも同じ要因が働いている。規範を与えるものは、いつでも個人を超越した権威である。このような体系は理性と知識に基づくものではなく、権威に対する畏怖と服従を強制するとエーリッヒ・フロムは考える。
権威主義的良心は、決して自分自身の価値の判断によって決定されるものではなく、その命令や禁止が権威者から発せられるという事実によってのみ決定される。権威主義的な人格構造は、権威に寄生することによって安心を見出している。
かれは権威の一部を分有していると感ずる。権威主義的状況における根本的な罪は権威の支配に対する反抗である。従順とは権威の優れた力と知恵との認め、権威が自ら欲するままにが命令し、報いを与え、罰を科する権利をもつことを承認する。
主観主義的な人道倫理は、欲望によって価値が試されるのであって、価値によって、欲望試されるのではないとする。倫理的規範は普遍的なものであるということを否定する。倫理的快楽主義は、欲望は尊いものであり、効用をもたらし、快楽と幸福は、人間自身の体験を価値の唯一の基準とする見方である。
建築家や技師や熟練した技術家になるために大変な勉強が必要だと信じている。ところが人生などは極めて単純なもので、生きるためにはどうすべきかなどについて何の努力もいらないのだと考えている。現代人が人生の術を完全に身につけているのではなく、人生の行程のなかで純粋な喜びや幸福が一般的に失われているからである。
現代社会は幸福と個性と自己関心とを非常に強調するにもかかわらず人間に対して人生の目的が幸福ではなく、働くという義務を果たすことであり、成功ということにあるのだということを教え込んだ。客観的な人道主義的倫理は、善とは生の肯定であり、人間の力の展開である。得とは自分自身の存在に対する責任であり、悪とは人間の力の破壊であり、悪徳とは自分自身に対する無責任さなのである。
エーリッヒ・フロムにとって、人間にとっての真の意味の堕落は、権力に脅かされ頼りなく恐れを抱き、権力者からの弱きものを保護する約束という服従精神であるとする。力=支配権の服従によって人間は自らの力=能力を失い、人間としての一切の資格を失う。理性の活動は停止する。彼は知的であるかもしれないし、諸事物や自分自身を処理することができるかもしれない。
かれは人間としての愛する能力を失う。今日の道徳問題は、人間の自分自身に対する無関心である。自分自身をある目的のために道具としてしまい、自分自身をある商品として体験したり、処理したりしている。結果として自分自身の無気力のために、自己の頼りなさと自己への絶望を感ずるようになる。
フロムは、生産的性格が徳の源泉と考える。そして、かれの悪徳論とは、自分自身の欠如と無関心になる。自己放棄でも利己主義でもなく自己への愛がすなわち個人の否定ではなく、真に人間的な自己肯定が人道主義的倫理の最高の価値である。
現代の日本の高度に発達した資本主義社会は、大量生産と大量消費、さらに、大量破棄物ということである。まさに、現代社会の経済的構造のゆがみとして、大衆を巻き込んでの大量消費社会と大量破棄物の環境問題をつくりだしているのである。
大量消費社会によって、人間の物質的な欲望が際限なく広がり、衣食から大量のものの消費が個々で行われた。便利さと安易性、そして、早さを物質手段として求めていく時代になっていく。
さらに、現代の大量消費社会は、商品としての新たな欲望が開発され、文化的消費の快楽もマスコミや情報革命とともに進んでいく。欲望の個人化が人間的社会性をもたない快楽集団をつくりあげていく。道徳と人間的愛や連帯性から人間の消費が遠ざかっていくのである。個人の欲望の肥大化が社会的につくられていく。
ここには、個々の欲望が、社会的な秩序や人間的な連帯、地域や家族の絆の崩壊のなかで個人の孤立が進む。大量生産と大量消費社会が進むなかで、生産と消費が分離していく。人間が生産的ではなく、生産と分離して、より快楽対象の消費社会になっていく。豊富な消費的快楽充足社会のなかで、人間の心の飢餓状況が起きていくのである。
この心の飢餓状況は、さらに、分業化と専門化による競争社会のなかで進み、人間が社会的な強大な官僚化された組織のなかで、一層に拍車がかけられていくのである。この状況のなかで、まさに、現代において、ヒユーマニズムの課題が人間的な連帯や絆が強く叫ばれてきているのである。現代社会の道徳教育の課題を考えていくうえで、この心の飢餓状況を無視しては教育実践を展開できないのである。
教育者自身の教師も大量消社会と官僚化された教育機関や学校組織のなかでの競争主義のなかで欲望や権威充足をしていこうと、生きていこうとする傾向をもつのである。道徳教育を実践していく教師たちの社会的な心の飢餓状況での精神的な文化教養性の向上の生産的主体性の営みが強く求められているのである。
C.Wミルズ「パワーエリート」の退廃論
アメリカの権力構造を分析した社会学者のC.Wミルズは、「パワーエリート」という書物のなかでパワーエリート層の不道徳性について分析している。ミルズは、1950年代のアメリカのエリート層の退廃問題は、構造的な特徴であり、大衆社会の本質であるとしている。アメリカ社会は、金銭的成功者が最高の評価と名誉を享受している。
金のある生活は支配的価値であり、その価値に比べて他の諸価値の影響力が衰退すれにつれて、道徳など度外視して、容易に手に入れる。そして、手っ取り早い財産づくりに熱中する。
アメリカの腐敗は、金持ちになろうとするところにある。これらは、上層部の制度化された意識にあるとミルズは考える。上層部のここのメンバーの経歴をたどってみると、それは同時に、その人間の忠誠心の変動の歴史である。
上層グループの中で成功するにはなにが必要か。上層グループは、そのメンバーを自ら選択する。成功の諸ヒエラルヒーは一枚岩のように緊密に結合している。それらは、敵対関係にたつ諸派閥の複雑な組み合わせである。そのような世界で成功しようと思うのは、成功者として選抜する基準を握って人々に結びつきをつくらねばばらない。
アメリカのエリートに対する不信は、上層部の不道徳性から生じているのではなく、上層部の無知に対する漠然とした感情にも根ざしている。エリートの組織化された無責任性もかれらの不道徳性と無知にもとづいている。かつてのアメリカの実務家は同時に文化人であった。権力のエリートと文化のエリートとは合致していた。
精神が自律的基礎をもち、権力から独立し、しかも権力に対して強力に働きかけうる関係に立つとき、始めて精神は、人間関係の形成にその力を及ぼしうる。民主主義的な形でこれが可能となるのは自由な知識ある公衆が存在し、知識人はその公衆に働きかけ、権力者はそれに対して真に責任を負う場合においてのみである。
現在ではそのような公衆も、そのような権力者も知識人も、多数を制してはいない。ミルズにとって権力から自律した知識人の存在の重要性を指摘することである。知識人が公衆に働きかけ、権力者が公衆の自立的な精神に責任を負うという関係においてのみ真の民主主義の成立を意味しているのである。民主主義との関係でのパワーエリート層の不道徳性と無知をミルズは強調しているのである。
アメリカのパワーエリート層は、支配的な権力手段、富の源泉、名声の機構によって選抜された人々であり、知識と感受性の世界と結合した純正の官吏制度によって選抜された人々ではない。
かれらは、人類史上空前の巨大な権力の指令官であり、アメリカの組織された無責任のシステムの内部で成功を獲得した人々であるとパワーエリート層をミルズは規定する。無責任のシステムという構造的な精神的退廃構造のなかで、精神的自律のない権威主義的な人格性をもっていることこそパワーエリートになったのである。
アンドレ・コント・スポンヴイル著「資本主義に徳があるか」論
フランスの哲学者でアンドレ・コント・スポンヴイル著「資本主義に徳があるか」(2004年)で、社会における4つの秩序をあげている。
第1秩序は、経済・技術・科学という領域であり、経済学は同時に技術であるという認識である。そこでは可能なことと不可能ということが対立軸によっているとしている。
第2の秩序は法・政治の秩序である。現代の主権が国民あるという民主主義の内部に制限がない。
ナチズムという恐怖はあらゆる権利をもつ人民のおそろしさである。この恐ろしさから逃れるためのどのような制限が必要なのか。法・政治秩序に制約をくわえるためには個人的自由とあらゆる権利をもつ人民の集団である。第2の秩序の外側からしか制約を加えることができない。
第3の秩序は、道徳の秩序である。民主主義には良心のかわりも専門知識のかわりも務まらない。それと相互的に良心や専門知識に、民主主義のかわりは務まらない。真理は命令するものでもなく、服従するものでもない。それは自分のみに服従し、自分にしか服従しない。不道徳に対する抵抗、民主主義を脅かすものに対する抵抗のための理由として、真理の愛、自由の愛、人間性の愛がある。いいかえれば合理主義、政教分離、人間主義である。
科学は真理を愛さなければならないということを論証するものでもありません。自由の愛は民主主義に従属するものでもありません。大多数が全体主義的傾向をもったからといって、けっして自由を愛する自由の精神の持ち主がいなくなってしまうわけではありません。人間の愛は義務ではない。
道徳とはなにかという問いに、アンドレ・コント・スポンヴイルは、カントにならって、道徳とは私たちの義務の総体として答える。アンドレは、道徳的あるということと道徳を説くということは異なるとのべる。道徳を説くことは、隣人の道徳に気をまわすことであり、道徳ではりません。道徳を説く強迫性はあるが、道徳には制限される必要はない。
第4の秩序は、倫理の秩序、愛の秩序である。第の秩序は、喜びと悲しみという対立軸によって内面的に構造化されている。愛することは喜ぶことである。この倫理的秩序は、欲望そのもによって構造化されている。
この4つの秩序は互いに独立していて、総合に作用しあっている。アンドレは、科学は道徳に無縁であり、技術にいたってはなおさらであると考える。科学であると同時に技術である経済学的には、なおさら道徳は無縁である。どんな市場にも信頼は不可欠であるが、この信頼は心理的で社会的な現象であって、道徳に服するものではない。マルクスの目的は、経済を道徳化することにあった。
第1の秩序が第3の秩序に服することを望んだ。それらは、疎外と搾取という概念を追求した。人間とは利己主義であって、そのほとんどが集団の利害よりも個人的利害を優先する。マルクスのユートピア性は、人間たちが利己主義者であることをやめ、個人的な利害よりも集団の利害を優先させる必要があるというアンドレの見方である。
科学は道徳と無縁であろうか。専門的に分業化された科学の探求過程においては、科学の創造過程にいて、道徳そのものは無縁にあるように見えるが、科学への動機や問題意識、科学の結果における責任性や、それが技術化して製品化されていくのかでは、科学の道徳問題がでてくることを忘れてはならない。
とくに、核の利用ということでの兵器開発などはその典型である。現代の環境問題を地球的規模でつくりだしている責任性としての科学の生産力的利用における環境問題を引き起こすという無関心性がないか。科学の利用における道徳問題が現存していることを忘れてはならない。科学者としての教養性の高さが科学の平和的利用、科学の持続可能社会のための利用、生命倫理の利用という問題が含んでいるのである。専門化された科学は高い教養性を求められ、道徳の課題が大きく内包しているのである。
アンドレの4つの領域論は、それぞれの独自性をもっていることは認められるが、大切なことは、それぞれの相互の関係であり、倫理や道徳のことがとくに、重要性をもつことは、科学・技術・経済や法・政治がなんの目的をもって存在しているのかということで、アンドレも強調しているように真理、自由、人間性であり、平和、民主主義、基本的人権、平等という、経済、法・政治、道徳、倫理が求められているのである。
この意味で、4つの領域における相互関係が大切であり、近代的市民社会のなかで形成されていく個人の尊厳・基本的人権、平和主義、民主主義という価値観から4つの領域を構造化していくことが求められている。第3領域の道徳や倫理の問題は、文化性を強くもっており、民族や宗教によって異なる価値観をもっている。
道徳に法・政治や経済が従属するものでないことはいうまでもないが、しかし、重要なことは、道徳と法・政治の関係であり、道徳と経済の関係である。封建制においては、道徳と法が分離しておらず、道徳が法となって振舞うことは中正の教会の絶対的権威をもっていたヨーロッパでも、また、日本の江戸時代での封建的な領主に忠義の道徳と倫理が支配した。社会の秩序は、教会の経典や儒教の教えが支えたのである。
(2)戦後日本の企業のモラルハザート
政治・行政と企業の癒着問題
日本における戦後の企業のモラルハザートは、個々の企業自身や経済団体の自主的な努力という問題だけでは解決しえない個々の企業の構造的な体質があった。
戦後の企業のモラルハザート問題の焦点は、政治や行政との癒着が絡んだ事件が多く、市場の公平性の原理に反したワイロ問題などにみる企業の倫理問題があった。ここに金権支配という政治、行政の在り方が問われたのである。
大学が企業と共同研究や連携活動をする場合に、金銭をめぐって、企業からの利益供与にならないように大学の学術の府としての公共性原則の逸脱に十分なる注意が求められている。それは、企業の社会的責任と大学の公共性が統一されるなかでの共同研究、教育の連携活動が求められていることを意味している。
市場の自由と公平性に対して、戦後の経済民主主義として、独占禁止法が制定された意義は大きい。特許は、発明に対する特別な報酬として、知的財産としえの独占性を一定期間保障されるが、これは、市場での独占化にならないような緊張関係が一方では求められる。独占禁止法は、資本や株式の過度な集中による経済支配や談合などによる市場の独占を厳しく規制し、多くの企業や団体、個々、つまり、すべての人々に公平と自由のもとでの努力と創造性などの人間的能力の発揮によって、経済の活力をねらったものである。
市場の独占化の禁止は、市場の自由を保障したものであり、創造的で、人間的能力の発達による経済の活力の疎外要因を排除するものである。自由市場は、対等な立場、対等な能力を有するように、私的独占の禁止、独占的状態の禁止、不公平な取引の禁止、持株会社の禁止、事業会社・金融会社の株式の制限をしたのである。自由な市場を確保するための私的独占と不公正な取引の経済活動を規制し、対等な立場の取引、対等な能力の保障という経済民主主義のルールを確立したのである。
企業の成長は、経営規模の拡大になる。大企業は、市場での価格間競争においても有利に働き、技術開発の投資条件も中小企業と比較すれば格段に強く、市場のなかで独占化への可能性をもっていく。大企業の市場に対するモラルとして、独占禁止法の問題があることを見落としてはならない。
公害問題・自然破壊問題と企業の責任
公害問題や自然環境破壊など企業は、地域住民、人々の命と健康に大きな影響を与えるモラル問題がある。環境基本法における事業者としての責務は、煤煙、汚水、破棄物等の処理その他公害を防止し、又は自然環境を適正に保全するために必要な措置を講ずる責務を有することである。事業者は、環境保全上の支障を防止するため、適正な処理が図られる責務があるのである。また、製造物の欠陥においても製造物責任法として賠償責任がある。
企業は、社会的倫理を前提としての市場との関係が求められている。企業の市民主義が言われるのも企業活動も内外に対して近代的な民主主義的なルールがあるもである。企業は、消費者に対しての詐欺行為、不当表示をして利益を得ることがあれば、消費者主権という現代の時代的状況が生まれているなかで、その企業の反社会的な行為が告発され、社会的な制裁を受ける。
消費者主権と企業
消費者主権の考えは、消費者基本法として明示され、消費者の権利の尊重及びその自立の支援が、国、地方公共団体及び事業者の責務として求められている。消費者の自主的、合理的な選択の機会は、必要な情報の提供と教育の機会の提供がなければ実現できない。
不当な景品や不当な表示は、市場における公平性の確保ばかりではなく、消費者の正しい判断力を失うことにもなる。消費者自身が十分なる知識のないなかでの欠陥商品などの存在も少なくない。住宅などの手抜き工事や詐欺の問題もたくみになっている。
現代の社会的な倫理問題として、法令違反や社会的倫理に反する金権支配をめぐる癒着問題を見落としてはならない。産学連携をめぐって、企業の社会的責任と大学の公共性の倫理問題も厳しく問われる。
それは、金権支配をめぐる社会的退廃問題があるからである。大学人にとっても学術の府としての学問の自由のもとに、教育が行われ、学問の発展と青年や社会人が大学で学ぶことによって、社会に貢献していくという基本的な役割がある。
大学と企業の金権という道と、社会的責任という倫理と大学の本来的な学術の府として、応用的な科学、実学的な分野、臨床的な分野など、大学の社会的貢献を暮らしと民主主義から進める道とがある。人類的面からの学問的貢献において、産学的な共同の分野があることを見落としてはならない。
そこには、大学と企業の社会的責任の倫理の問題が前提にされての産学共同や連携があり、企業の社会的責任と大学の公共性の基本問題によっての矛盾の統一が基本的にあるのである。
官僚のモラルハザート問題と企業
1970を境に企業のモラルハザート問題は大きな転機があることを有村隆氏は次のようにのべる。
「経済事件は主に企業人が官僚や政治家に働きかける金銭スキャンダルで、フィクサーが両者を仲介するという構造をもっている。だから、事件そのものは独立していても、登場人物は同じ顔ぶれになる。事件Aで主役を演じた人物が事件Bでは脇を固めるという図式だ。1970年代を境にして、経済事件には断層がある。事件の主役は、敗戦とそれに続く混乱期にのし上がってきた一癖も二癖もある「怪物」たちから、出世の階段を上がってきた経済界、政界、官界の「エリート」たちにとって代わった。「怪物」から「エリート」に主役はバトンタッチし、政・官・財・暴の癒着は一層ひどくなった」。有村隆「日本企業モラルハザート史」、文芸春秋、268頁。
1970年代を境に、階段を登り詰めてつめていた立身出世主義に、企業の不祥事は、バトンタッチしたとしている。つまり、立身出世の競争に勝ち抜いたエリート層に不祥事の主役が移ったのである。そこでは、出世のためには、どんなことでもするという手段を選ばない社会的モラルを欠いた状況が生まれていく。
出世のため権力者・権威者との人間関係を重視し、人を出世のための利用の対象としていくエリート層の人間像が浮かび上がってくる。怪物的ボス像の義理と人情的な不祥事から出世のためなら、金権的という目的合理的なエリート層の社会的モラルを欠いた非人間性の不祥事へと変化していく。
企業は社会的責任を考えなければ企業自体の存在基盤がなくなるのが現代の社会的状況である。土屋守章氏は、現代企業論で、この問題についてつぎのようにのべている。
「企業は社会的責任を真剣に自分のものとして考えなければ、企業外の社会にうけいれられなくなるばかりではなく、企業のなかの人びとの貢献を確保できなくなって、自滅していかざるをえなくなるであろう。新しい企業モラルを確立することは、このように企業自体の存続のために、必要不可欠な条件となっているのである」。土屋守章「現代企業論」税務経理協会、11頁。
企業と社会の相互理解として、企業にとって対応責任問題がある。現代企業にとっての社会的責任にとって最も大きな課題であるのは対応責任であり、その責任によって企業のなかの人々と企業外の人々が同じ考えで問題に対処することができると土屋守章氏は次のように指摘する。
「現代企業にとっての社会的責任は、基本的に対応責任である。とすればつぎに、企業が対応責任を果たす体勢が問題になる。かりに企業がこの対応責任を理想的に果たせる状態があるとすれば、それは企業外の人びとと企業のなかの人びとが、つねに同じ感覚で問題を考えることができるという状態であろう。この状態に少しでも近づく道は、一方では企業の行動の及ぼす派生的影響に対する企業の側の感受性を高めることであり、他方では企業の外の人びとが企業の行動に対する不必要な反感や偽悪を高めないようにするための、企業の側からの日常的なPR活動であろう」。土屋守章「現代企業論」税務経理協会、204頁~205頁。
ここでは、企業の社会的責任において、企業外の人びとに対する対応や日常的なPR活動の重要性を指摘するのである。企業にとって、対応責任は大きな課題であることは否定できないが、対応責任が企業の社会的責任の基本であるかということには異論がある。企業の社会的責任は、企業の社会的な貢献と結びついて語られるものである。
社会的貢献は、企業の経済的な市場活動をとおして、その商品などが持続可能な社会の形成のため又は、人びとの生き甲斐や福祉などの幸福など社会的な進歩として、社会的に貢献していくかということである。
さらに、もう一方では、直接的に市場活動によらないで、利益の一部を企業の社会的貢献のために福祉、教育、文化の発展に貢献するという側面があるが、企業の社会的貢献は、企業のもつ社会的役割からの社会的責任である。
とくに、現代は、企業のもつ社会的な影響力が大きくなっている時代であるので、その社会的な責任の意味は極めて大きい。企業市民論も企業自身のもつ社会的な役割の大きさから、企業における人間尊厳の問題、企業における私的独占や不公平や取引、人間尊厳の職場環境など民主主義的経済活動の在り方が問われているのである。
経済人コー円卓会議グローバル・エクゼクティブ・ディレクターを2000年から勤めているスティーブ・B・ヤング氏は、グルーバル資本主義のあり方として、道義的資本主義としての企業の社会的責任性CSRを力説しているのである。グローバル化したなかでの資本主義において、より高い道徳基準をもった人格的評価の問題が重要性をもっているとしている。
「成人には成熟した判断力、自らの情熱を抑制する能力、職務上の利益と公的義務をバランスすることが求められる。要約すれば、成人は人格によって評価される。そのような人々は商業や産業の荒波にあっては、より高い基準を追求する」(4)スティーブ・Bヤング著経済人コー円卓会議日本委員会+原不二子(監訳)「CSR経営モラル・キャピタリズム グルーバル時代の資本主義のあり方」生産性出版。87頁
職務上だけの利益ではなく、公的な義務を企業の経営者はもっているのである。道徳的資本主義のためには、人類的な理想の公的な義務という崇高な目的をもつことである。スティーブ・B・ヤング氏は、道義的資本主義のために、自己中心的ではなく、高潔な目的による道義的的責任の使命感をもつことであるとして次のように述べる。
「道義的資本主義では、人は崇高な目的に奉じることができる、人生は巨大な目的のためにある、という使命感をみつけることができる、と想定する。私たちが単に自己中心的な意欲ではなく、高潔な目的を持った代理人であることを道義的に認識していれば、相手に対する代理関係において自らの権力をいかに行使するのか、という直接的な責任を担うことになる。
道義的資本主義は心のあり方や指南力、考え方を問う。・・・・・受託者の義務は、権力を行使する場合には他者に配慮せよ、とする道義心から生まれる。信託的思考は、意思決定における道義心、人格の倫理的規範、英知を教える。信託的思考は、私たちを信頼できる存在にする。それにより、私たちが暮らし、働く社会の道義心が良質のものへと高められていく」。スティーブ・Bヤング著経済人コー円卓会議日本委員会+原不二子(監訳)「CSR経営モラル・キャピタリズム グルーバル時代の資本主義のあり方」生産性出版。91頁~92頁
権力を行使する場合に、高潔な道義心による他者の配慮、公的な義務を強調して、受託者の義務による人格の倫理的規範における暮らしと社会の道義心を良質なものへと高めていくことの重要性をのべている。
企業として利益をあげていくことは、企業の本質から不可欠な要素であるが、企業自身の社会的存在価値として、企業の社会的責任性というCSRが課題になっている現代である。市場において、企業のCSRが強く商品価値と求められている時代である。
商品価値が、単に機能的な品質の側面からではなく、それを製造する企業や人が評価される時代である。商標のなかに、価値の判断として、人や企業の姿が体現されている。