社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

正義論と社会教育-民主主義社会の道徳形成ー

 為政者が正義に生きることは、日本の武士道にあった!
 
  正義に生きることは、日本の武士道にとってあたりまえの徳育であったのです。民主主義の発展には、人間尊厳、相互尊重・相互扶助の人間らしく生きていくことが必要です。ここには、正義感覚をもった市民形成が要請されています。正義は、ときの為政者によって、大きく曲げられていくことがたびたびあるのです。
 権力を握った為政者は、私欲に走り、民のため、公のことを忘れがちになるのです。民主主義にとって、常に厳しく問われるのは、正義に生きる為政者です。政権をとった政治家や高官は正義の姿が求められます。そして、民はそれを見張る役割としての政治参加があるのです。選挙や直接請求、告発や訴訟は、民主主義社会の形成にとって大切な課題です。これらのために、社会教育は不可欠です。その基本に、為政者を縛る憲法の学びが大切になっているのです。
 
 権力を握る政治家は、民主主義、人間の尊厳、相互尊重の人間らしく正義に生きる。この言葉は、現代の政権において、死語になっているようにみえます。日本の伝統的武士道にとっては、民のために正義に生きることが基本であったのです。武士は、正義を持っていることが誇りになるのです。
 
 現代の日本国憲法のもとでは、法のまえに平等であります。基本的人権は犯すことの出来ない永久の権利として信託されています。日本国憲法の内容は、為政者が日本の主権在民者に対して、誠実に守る責務でもあるのです。
 今の国会での政府答弁では、様々な不正疑惑に対して、首相、大臣、高官もまともに答えない状況です。記憶にない。覚えていない。起訴されているので答えられない等という言葉が続いているのです。
 
安倍晋三政権の退廃状況
 
  国会での統計不正問題では、事実でない報告ということでグレーであるが、隠蔽は確認できなかったと、しらじらしく言う。信じられない矛盾に満ちた発言です。まともに議論を深めず、建設的に不正をなくしていく制度設計にほど遠い状況で、はぐらかしと、その場しのぎで、うそと人を騙すことがまかりとおっているのです。
 
 そして、特定のグループの私欲のために国が動かされているようにみえます。政権を握る人々や一部の財界の幹部は、日本の社会のこと、国民の生活のことを全く考えていないで私欲に走っているようにみえます。日本の社会全体がうそと人を騙すことに走っている悲しい現実があるのです。
 
 武士道の正義
 
 薩摩の郷中教育では、出水の兵児修養の掟にみるように、「偽りを言わず、身に私を構えず、心素直にして、礼儀正しく上にへつらわず下をあなどらず、人の艱難を見捨てず、温和慈愛にして、人に情けを施す」ということです。、地域社会の若者集団のなかで絶えず、これらの心構えを暗唱していたのです。身に私を構えずということで、自己利益、私欲で生きることを大きな恥としたのです。私欲を絶え間なくコントロールして、公の民として生きることを美徳にしたのです。
 
 新渡戸稲造の著書「武士道」でも正義の道理、人の上にたつ条件として、民への仁愛の心を大切にしたとしています。正義は武士道の光輝く再考の支柱なのです。正義は素直で、正直な、徳行で絶大な賞讃を与えられていたとするのです。武士の情けは、正義に対する適切な配慮です。
 
 
 武士の情けは、生かしたり、殺したりする力を背後にもっているのです。武士の慈悲は、民にとっての受益者の利益になっていくのです。武士はいつでも他者への憐れみの心をもっているのです。礼とは他人に対する思いやりを表現することです。礼は最高の姿として、ほとんで愛に近づくものです。新渡戸稲造は以上のように武士道の正義についてのべるのです。
 
 日本の商人の伝統的正道
 
 
 日本では、石田梅岩をはじめ昔から経済活動をしていくうえで、私欲をおさえること、商いは公のためと、利他の心をもつことの重要性を強調してきたのです。商人の正道は、仁愛の精神です。買ってもらう人に自分は養われているという見方です。
 
 
 飢饉があったとき、飢えた人を商人は救うのです。それは、商人の正道です。商人は買い手が満足するように身を入れて努力すれば暮らしの心配はなくなるというのです。商人の利益は公に許された俸禄と同じです。商人は利益を得て、その仕事を果たせば世間の役にたつということが石田梅岩の考えであったのです。
 
  経済的・社会的格差が広がり、自己利益、特定の派閥・仲間のための金銭欲のために為政者が動いていけば社会的退廃がはびこっていくのです。正義に生きる為政者は、民のために、貧困の人びとを救済します。自由で人間らしい暮らしの喜びをもてるように施策を工夫するのです。それらを実行していくのが正義の努めです。社会的公正さ、公共的な福祉が失われていけば、刹那的、享楽的に社会が走っていくのです。
 
 社会的退廃とファッシズム
 
 社会が退廃していくことは、民主主義の危機です。ドイツの戦前のファッシズムへの道や日本の軍国主義化でも社会の退廃が進んでいったのです。ファッシズムの社会的基盤を分析し、それと戦った社会学者のマンハイムは、近代の資本主義社会の発展は、無政府的で、多くの人びとが群衆となり、一部のエリート支配と2つの局に分断されていくと分析しました。
 
 エリートにコントロールされる群衆を形成する大衆社会は、ファッシムへの社会的基盤として、警告したのです。そして、人びとが参加していく民主的な社会計画論を強調しました。この民主的社会計画は、人間性をもった総合的な視野からの教養に裏付けられた知識社会のための教育がなければ実現しないと。
 
 民主主義のための倫理・道徳の教育があってこそ、民主的社会計画の能力が個々につくられたのです。つまり、個々の自己利益、エリートになるための競争主義の教育が出発ではないのです。

 アメリカの社会学者のミルズは、20世紀後半のアメリカを「パワーエリートは金権社会のなかで構造的に退廃する」ことを強調したのです。このなかで、官僚制を克服していくうえで、公衆の参加民主主義教育の役割に糸口をつかみました。
 
 現代社会は、ポピュリズムの蔓延するなかで、現実の金権政治が横行することで、モラルなき金銭欲に走り、オレオレ詐欺から暴力的な最も恐ろしい高齢者をねらったアポ強盗事件が起きるほどです。
 
 すべての基準が金銭欲に走る状況がみられます。正義とは何かがあいまいにされ、正義を語ることは白々しいと敬遠される時代です。正義は、どこかうとましい存在になっているのです。現代は、為政者をはじめ社会的モラルや社会的ルールがおかしくなっているのです。
 
 社会的協働の重要性
 
 本来的に人間の尊厳や社会のなかで生きていく相互尊重と協働の関係が衰退し、立身出世、権力・権威獲得と金銭欲獲得の弱肉強食競争社会の関係が幅をきかせているのです。
 
 人間らしく生きるということが鋭く問われているのです。これらの現実に向き合う社会教育をどう構築していくのか。人間らしく生きたいと思う多くの人びとの潜在意識をどう引き出していくのか。それを潜在能力として地域社会のなかで人間的な相互扶助、協働、共生の関係を作り出すが求められています。つまり、参加民主主義の学習をどのようにして作り出すかが求められているのです。
 
 震災などで多くの若者が自主的・自発的にボランティアに参加ました。そのことは、地域社会で人間的に生きていく未来をみていくうえで大切なヒントを与えてくれます。人々が窮地に陥っていることに共感を示して、自分が少しでも役にたてばと生きがいをもって活動しているのです。
 
 人間のもっている潜在的優しさ、相互扶助を開花させているのです。より、動物的な側面の競争主義から人間的になっているのです。動物は自然の掟で欲望がコントロールされていきますが、人間がより動物的に欲望を拡大していくと果てしなく拡大していきます。人間は、社会的正義という道徳力の教育によってコントロールされていくのです。
 
 ところで、世界は原発の廃止から再生可能エネルギーの方向に動いていますが、日本は原発の再稼働で莫大な費用を使っています。九州電力が再稼働のための安全対策として1兆円近く投資をしています。福島における原発事故の処理費用には、80兆円かかるといわれています。税金や電気利用者からの支出です。まさに、宇宙的な数字です。
 
 日本の経済には、国民の生活が豊かになることによって、発展します。格差社会がひろがり、非正規労働者、雇い止めの労働者などの不安定労働市場が拡大するなかでは、国民の働く意欲も減退し、摩擦が増え、経済も発展していかないのです。実に悲しい日本の現状です。うそをつかない、ひとをだまさない、弱いものをいじめないということは、あたりりまえのように昔から教えられてきたのが今鋭く問われているのです。
 
 社会的リーダー・経営者の役割
 
  社会におけるリーダーや経営者の役割は極めて大切です。もちろん、もの作りや社会的労働によって人々の生活や未来をつくりだしている労働者の役割も大切です。それぞれ、人は社会のなかで役割を果たし、相互に支援されて生きているのです。社会の相互尊重や社会的協働は、大切なことです。
 
  社会的正義をもつ経営者は、 職務上だけの利益ではなく、公的な義務をもっているのです。道徳的資本主義のためには、人類的な理想の公的な義務という崇高な目的をもつことであると、スティーブ・B・ヤング氏はのべます。彼は、道義的資本主義のために、自己中心的ではなく、高潔な目的による道義的的責任の使命感をもつことであるとして次のように述べています。

 「道義的資本主義では、人は崇高な目的に奉じることができる、人生は巨大な目的のためにある、という使命感をみつけることができる、と想定する。私たちが単に自己中心的な意欲ではなく、高潔な目的を持った代理人であることを道義的に認識していれば、相手に対する代理関係において自らの権力をいかに行使するのか、という直接的な責任を担うことになる。
 道義的資本主義は心のあり方や指南力、考え方を問う。・・・・・受託者の義務は、権力を行使する場合には他者に配慮せよ、とする道義心から生まれる。信託的思考は、意思決定における道義心、人格の倫理的規範、英知を教える。信託的思考は、私たちを信頼できる存在にする。それにより、私たちが暮らし、働く社会の道義心が良質のものへと高められていく」。スティーブ・Bヤング著経済人コー円卓会議日本委員会+原不二子(監訳)「CSR経営モラル・キャピタリズム グルーバル時代の資本主義のあり方」生産性出版。91頁~92頁
 
 権力を行使する場合に、高潔な道義心による他者の配慮、公的な義務を強調して、受託者の義務による人格の倫理的規範における暮らしと社会の道義心を良質なものへと高めていくことの重要性をのべているのです。
 
 国連のグローバルコンパクトにおける社会的退廃への警告
 
 国連グローバル・コンパクトでも腐敗は、世界最大の課題としています。腐敗は持続可能な開発にとって大きな障害となっているのです。国連グローバル・コンパクトの見方は、貧しい地域に不当な影響を及ぼすことだけでなく、社会構造そのものを腐食していくという認識からから積極的に社会的退廃の克服をとりあげています。
 
 腐敗の防止に関する国際連合条約は,すでに、2003年10月に国際連合総会において採択されています。腐敗防止に関する国際連合条約の前文では、腐敗が国際的な現象になっており、民主主義と社会的正義、並びに持続可能な社会を危うくするとしているのです。

  腐敗の防止に関する国際連合条約では、腐敗防止の闘いに、総合的に取り組むことが大切としています。このためには、国の腐敗防止の制度的な設計と管理責任と同時に、市民社会、非政府機関、地域社会の組織の参加を得て、国と相互に腐敗防止に闘っていくことの必要性を強調しているのす。

  ステークホルダー資本主義という考えは、すべての人びとが経営との関係を結びつくことができるようにするものです。そこでは、すべての人々が経済的恩恵をうけられるようになることです。ステークホルダー資本主義として、企業が関係をもつ従業員、お客様、地域社会、取引先、株主・投資家との民主主義的関係の在り方が模索される時代になっているのです。

 グローバル時代の資本主義のあり方として、道徳資本主義(モラル・キャピタリズム)、企業の社会的責任(CSR)が大きく問われるようになっています。経済人コー円卓会議(CRT)は、企業の行動指針として、獣欲的な市場を廃しての道徳的な資本主義の価値と行動を積極的に提唱しています。
 
 経済人コー円卓会議は、激化する貿易摩擦の緩和、日米欧の社会経済の健全な発展という企業の倫理や企業の社会的責任という道徳資本主義の目的のために、スイスのコーという地域に、世界の経済人が集って1986年に創設されたものです。

 企業の社会的存在価値は、国際競争のなかで、生き残りをかけているだけでは不十分です。企業は、市民の一翼として、自ら創造した富を分かち合う公平の精神による社会的責任が課せられています。人間の尊厳の見方が基本です。それぞれの人々の文化や生活様式の質の保全と向上をめざしていくことです。

 働く人々は、人間的に生きていくために、健康はもちろんのこと、品格も大切な要因です。モラル資本主義を構築していくうえで、従業員には、社会的な正義、公平、法令遵守で誠意をもって働くことを求めているのです。

 企業が従業員の人間尊厳を保障していくためには、性別、年齢、人種、宗教の差別をしないことはもちろんですが、障害者の雇用の保障のように、十分に人間的に能力を発揮できるような職場の確保をしていくことです。

 人間の尊厳、公平、正義という公益を重視する企業の存在を大切にするためには、そのための国家のきめ細かな社会制度づくり、経営者、社員や地域社会、消費者をはじめ公益性を重視する社会的な市民意識の変革が必要なのです。
 
 ステークホルダーごとの調整関係のみに力点をおいて考えていくのか、企業の批判勢力として見ていくのか、基本的な経営のフィロソフィで判断していくのか。この問題を企業の社会的責任から突き詰めていくことは経営にとって大切なことです。
 
 ロールズの正義論
 
 功利主義と弱肉強食の競争社会のなかで私欲の絶対化がはびこるなかで、公正な社会をどうつくるのかと、政治哲学者のロールズは、1970年代以降の社会福祉国家への再構成をしていくうえでの政治思想である正義論を展開するのです。
 
 個人の自由と権利の尊重と社会全体の福祉、公正ということからの社会的・経済的不平等の現実をどう克服していくかという正義論であったのです。自由と権利は自然権というのです。経済的・社会的不平等は、政治的平等を阻害するとロールズは考えるのです。社会は本来的に社会的協働によって成り立っているのです。
 
 経済的・社会的不平等の是正は、社会的最低限の生活水準を保障していくことを要求しています。また、持続可能な社会を築くために、現世代が年金資源をくいつぶさないように、天然資源を枯渇して後世代に不正をはたらかないよう。以上のようにロールズの正義論はソーシャルミニマムの考えを提起しました。また、公正な機会均等の原理を大切にしたのです。
 
 ローズは公正としての正義は、立憲デモクラシーの哲学的構想のなかでのものです。立憲デモクラシーにとって最優先しなければならないことは、自由かつ平等な人格をもった市民形成であるとしています。功利主義は、この基本的な権利・自由に対して満足できる根拠を提供できないとロールズは考えたのです。
 
 正義感覚の能力と善(幸福)の構想の能力を適切な仕方で発達させる社会的条件が必要としたのです。思想、良心、結社という自由は、この二つの道徳的能力の発達のために必要不可欠なことです。
 
 人々は自己利益の追求にとどまらない、より高次の利害関心である公共心に満ちあふれた市民に発達していく能力形成が求められているのです。公正なる正義は、財産所有のデモクラシーと福祉国家を要求します。財産所有のデモクラシーは、富と資本の集中に対して、分散を図り、一部のものが経済を支配することを防ぐことです。
 
 これには、政治の役割があるのです。公正な機会均等論から人間の能力を自由に発揮するために教育の権利がすべてに保障されるように、あらゆる機会、あらゆる場所、あらゆる時期、年齢で保障されるべきなのです。社会の相互尊重による社会的協働労働は、自由で民主主義的参加が条件になるのです。
 
 社会尊重による社会的労働が、すべての人々に享有されることにより、活力ある豊かな生きがいをもった社会の形成がされていくのです。財産所有のデモクラシーは、人間の自由で自己の能力を生きがいをもって発達させていくことと車の両輪であるのです。
 
 正義感覚をもっている人は、友情や愛情、相互信頼の絆を有しています。人類の一般的利益に役立っている制度や伝統への専心の代価としているのです。道徳的情操は、通常の人間生活の一部になるのです。
 立憲政治にとって、道徳的情操による公共的運営が必要になるのです。公共的な正義感によって統制されている社会では、内在的な安定性をもっているとロールズは考えるのです。
 
 平等な正義を要求する資格は、道徳人格をもっていることです。道徳人格は、合理的な人生計画によって表明された自分の善についての構想を抱くことができます。また、道徳人格は、正義感覚に基づいて行為したという欲求をもつことができるのです。