社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

現代の理性のない欲望肥大と野蛮性の大衆的人間―オルデカの「大衆の反逆」から学ぶ

 現代の理性のない欲望肥大と野蛮性の大衆的人間

                ーオルデカの「大衆の反逆」から学ぶー

          神田 嘉延

 

 オルデガの大衆的人間の考え

 

   オルデカは、1883年にスペインのマドリードで生まれ、1955年になくなった社会哲学者であります。大衆化状況についての社会分析をして、ファッシズムの社会的群衆精神を明らかにした。

   そして、スペイン政治教育連盟を設立して、改革的共和主義の運動をし、新しい生きた理性的精神のリベラルな保守主義の歴史と文化の大切さを求めたのです。

 彼の代表的な著作の大衆の反逆では、みんな同じ、思考と判断を停止した知性のない粗暴な大衆と考えた。そこでは、甘やかされた子どもの心理状況と虚栄心にみちているのです。

  そのなかで、文明や文化に興味をもたない技術万能主義で、野蛮な規範による凶暴な独裁をつくりだしていったとするのです。これが、ファッシズム形成の基盤になると考えたのです。

 現代の日本社会はどうなのか。大衆の反逆を読みながら、それぞれの指摘から、現代の日本の大衆社会状況を考えたい。

 オルデカは、大衆的人間について、次のように考えています。「群衆という概念は、量的であり、視覚的である。本来の意味を変えずに、この概念を社会学用語に翻訳してみると社会大衆という概念がみつかるというのです。

   社会はつねに、少数者と大衆という二つの要素の動的的な統一体です。少数者は、特別有能な、個人または個人の集団です。大衆とは、格別、資質に恵まれない人々の集合なのです。だから、大衆ということばを、たんに、また主として,労働大衆』という意味に解してはならない。大衆とは『平均人』である」とのべるのです。

 オルデガが生きていた時代は、群衆が一種の魂となって出現してきたということです。その群衆が社会の高級な場所に入りこんできた時代が生まれたと考えるのです。このなかで、大衆の概念を資質に恵まれない平均の人びということで、社会学的に規定するのでした。

 この平均の人びとは「『自分がみんなと同じだ』と感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一だと感じて、かえっていい気持ちなると指摘するのです。そのような人々が大衆である」とオルデガがのべるのです。



 知的生活の劣化と超民主主義を求める大衆的人間

 

 「社会を大衆とすぐれた少数派に分けるのは、社会階級の区分ではなく、人間の区分であって、階層秩序と一致するものではない。上層と下層、どちらの社会階級にも大衆的に人間と少数派の知的生活の人間がいる」とオルデガはのべるのです。

   ここでは、知的生活のレベルの高低で、大衆的人間と少数派の人間に分けているのです

 それは、労働者階級という意味の大衆ではなく、知的生活を受けていない大衆的人間を指しているのです。

   つまり、社会的に知的生活は資格や一般教養の高さや、芸術的・文学的な感性を持っての人間的な能力を求めていきますが、大衆的な人間は、そのような天賦の才能を求めていないのです。ある意味では愚民の集団なのです。

 ここには、学校教育や社会教育の問題が大きくあるのです。社会的には生涯にわたって学び、人間的能力の発達が保障され、社会的判断や社会的理性が要求されていくのです。それが、本来の近代社会の発達です。

   しかし、大衆的人間の現象は、複雑な社会的な様々な生活で、その知的判断を求めていないのです。つまり、近代社会の文明化を否定するのです。社会全体が大衆的人間におおいつくされていくことは、社会発展の退化現象にもなるのです。

 本来的に科学技術の発展によっての近代化と複雑化する社会では、知的生活が必要になっていくのですが、その要件としての能力的な目安になっていく資格を大衆的人間の現象は求めないとオルデガはのべるのです。この問題について、オルデガは次のように語ります。

 「知的生活は、その本質から資格を要求し、それを前提とするものであるが、資格のない、資質を定めない、そのような精神構造が社会の勝利をおさめつつある。社会がきわめて多様な作用、活動、機能から、それらを運営していくには、特別な天賦の才なしには、運営することができない。

 芸術的な、贅沢な特性をもったある種の楽しみ、政府の機能、公的問題に関する政治的判断など、以前は、資質に恵まれた少数派の人びとによって行われていた。

  以前に、大衆はそれらにわりこうとしなかった。わりこみたいとおもうならば、それにふさわしい特別な資質を身につけて、大衆であることをやめたのである。

   大衆的人間が政治的支配権をもつ以前の古い民主主義には、自由主義と法に対する熱情がたっぷりと盛り込まれて、個人はきびしい規律を自らに課して自由の原理と法的な規制の庇護のもとに、少数派は行動してきた」。

 科学技術や市場経済の発展などによる社会の高度化は、特別に天賦の才能をもったエリートがそれぞれぞれの分野の社会的エリートが求められたのです。そのことによって、社会の円満な機能になっていくのです。

   これが、社会の少数派の役割であった。大衆的人間は、以前に少数派の役割を果たすのには、知的生活の分野での能力を身につけて大衆的人間をやめたのです。これが、立身出世としての教育の役割機能でもあったのです。

 また、オルデガは、大衆的人間が支配する以前ということで、古い民主主義、自由主義と表現しますが、その時代では、社会的リーダーは、きびしい規律を自らに課して、自由の原理と法的な規制を非常に大切にしたというのです。

   大衆的人間の現象は、社会的倫理として、このことがはずれて、知的生活による冷静の判断をもっていくのではなく、大衆的人間の現象による「みんなと同じ」という世論を優先して流されていくのです。

 その世論も意識的にマスコミやSNSによる大衆の意識操作によって動かされていく時代になっていくのです。大衆的人間現象において、マスコミが大きな役割を果たすようになっていくのです。オルデガが生きていた時代は、新聞が大きな役割を果たしていたのです。

 オルデガは知的生活を重視しない大衆的人間が政治支配をする社会を、法律の外で、暴力的手段、みんなと同じと考えない人は、暴力的手段で排除される超民主主義であると次のように表現するのです。

 「今日は、群衆が直接的に支配する超民主主義のなかである。大衆的人間は、物理的強制手段によって、自己の野望と趣味を押し付けながら、法の外で行動するようになる。思考や判断を停止し、法の外的な平均的規範に盲従する精神が蔓延していく。

 みんなと同じように考えない人は排除され、社会の人びとは、大衆的人間の粗暴の支配のなかで生きるようになる。

   これは、暴力的な大衆の精神的反乱であり、威圧的で手がつけられなないようになる。物資的技術だけではなく、人権とか市民の権利などを法的・社会的技術として利用するようになった」とのべるのです。

 ここでは、大衆的な人間の粗暴な知的判断のないなかで、法律よりも自己の野望と趣味が優先されていく政治になっていくのです。まさに、知性のない無法な精神的反乱が社会の全般をおおうようになっていくのです。

   大衆的人間の知性のないリーダー層は、個々の欲望が動物的側面をまるだしになって、権力と拝金主義を追い求めていくのです。大衆的な人間がはびこる社会現象では、社会的倫理、法律は、形式なものとして処理されて、実質的に十分に機能しなくなっていくというのです。

 

 大衆的人間が生まれる理由

 

 オルデガは、大衆的に人間について、それらの人びとはどのような人間であるのかと、解剖していくのです。

 「19世紀の革命的な社会大衆は、それまでの条件とは根本的に異なり、市民生活をひっくりかえしたのである。革命とは既存の秩序に対する反乱ではなく、伝統的秩序を否定する新しい秩序の樹立である。20世紀の革命の新しい社会大衆は、それ以前の人間とは別である。この社会大衆は、自分だけが生きているという甘やかされた子どもの心理を構成するものである。

 甘やかされた大衆的人間は、欲望を制限しない、なんらの義務もない、自己の限界を経験することがないという。他人に感謝するものは誰もいない。空気は誰かが作ったものではない。自然にあるものである。それはなくなることがない」。

 大衆的人間は19世紀の革命の時代から、20世紀にかけて、甘やかされる欲望に制限を持たない人間が生まれていったとオルデガは、その歴史的背景についてのべるのです。

    その甘やかされる人格的な特徴は、伝統的な秩序を否定し、なんらの義務をもたない、自己の限界を経験したことのない、他人に感謝することない人々であるとするのです。

 オルデガは20世紀に入っていく社会の高度化に伴い、分業の発達と社会の複雑化、機械制による単純労働、専門分化、知識や科学・技術の資本主義的な充用、資本主義的な不況という景気循環の不安定性などからの知的生活欠如状況の分析はされていない。大衆的人間の現象を資本主義的な大量生産やマスコミの発達などからとらえていくことが重要である。

 オルデガは、大衆的人間の権利構造は、文明の恩恵とその努力によって成し遂げられた権利の価値をみないで、その恩恵を自然の権利のようにみているので、食糧が不足する暴動となって、パンを求めて、パン屋を破壊すると次のようにのべます。

 「大衆的人間の権利構造は、文明の恩恵の背景には大きな努力と最新の注意をもって、はじめて、維持しうることを知らない。そこには、発明と建設の努力があったことを大衆的人間はわからない。その恩恵を自然の権利のようにしつこく、有無を言わせず要求する。食糧が不足すると暴動となってパンを求め、パン屋を破壊する。

 人権、市民権は、受け身の財産、あらゆる人間が遭遇する運命からのありがたい贈り物であり、努力も必要としない権利であると思い込む。

   それは、無人格的の権利の所有であると錯覚する。本来、人格的権利は、動的で、努力によってである。それは、貴族に与えられていた。貴族という本来の意味は、高貴な人ということで、努力する人、卓越した人という意味である」。

 大衆的な人間にとって、人権や市民的な権利は努力も必要としない受け身なのです。人格的権利は歴史的に人々の努力によって、卓越人によって達成されたのです。

   さらに、オルデガは、大衆的な人間は、自分は完全であると思い、外部の権威に対して自己閉鎖になって、他人の意見に耳をかさず、自己の支配力を行使したがるとオルデガは次のようにのべるのです。

 「大衆的人間は、自分は完全であると思い込み、自己満足から外部の権威にたいして自己閉鎖してしまい、耳をかさず、自分の意見に疑いをもたず、他人を考慮に入れないようになる。たえず、内部にある支配感情に刺激され、支配力を行使したがる。

   そこで、自分とその同類だけが世界に存在しているかのように行動する。慎重も熟慮も、手続き保留もなく、いわば直接行動の制度によって、すべてのことに介入して自分の凡庸の意見を押し付ける。ここにかかげた諸特徴から甘やかされた子、反逆する未開人、野蛮人といったようにみられる」。

 

  大衆的人間はすべてに暴力的に介入する

 

 大衆的人間はすべてに介入し、しかもなぜいつも暴力的に介入するのかとオルエガは、考えるのです。それは、虚栄心からくるものであるとみるのです。

 「大衆的人間は知性の閉塞である。自分が完全であることを思う。それは、虚構の、幻想的な、疑わしい虚栄心からくるものである。虚栄心の強い人は他人を必要とし、他人のなかに自分の観念の確証を求める。

  大衆的人間には、知的立場を尊敬しない。そこには、文化も存在しないという野蛮性である。野蛮とは、規範も頼るべき原理のない状態である。

 大衆的人間は、理由をもたない権利、道理のない道理、思想をもたない。議論をやめる。資格をもたないで社会である。そこでの支配は、知能の閉塞性による強制的暴力の特徴がある。

  そこでは、あらゆる共存形式、議論をやめることで、会話から科学を経て議会にいたるまで、客観的な規範を尊重することをしない。それは、文化的共存を拒否して、野蛮な共存に退化する。自分たちの欲望を直接的に押し付ける。大衆が社会生活に介入するときは、直接行動の形式で暴力的に行われる」。

 大衆的な人間は、知的立場を尊重せず、道理や思想を持たず、議論をしないのです。まさに、客観的な規範を拒否して、文化的共存を拒否して、自分たちの欲望を議論せずに多数決の暴力や直接な議論しようとする少数派の人びとを暴力的に排除して、人びとに自分たちの欲望を直接におしつけるのです。

 オルデガは、大衆的人間が支配することと、反対に、政治的共存の意志が最も表現された自由民主主義の統治を提起する。

  それは、「隣人を考慮に入れ、間接行動の原型である。自由主義的な公権が万能であり、弱い敵と共存する人間、敵とともに生きる、反対者とともに統治するという自由民主義の理念を大切にする必要があるとする」。

 オルデガは、大衆的人間の世界は、未開人の意識と同じであると次のようにのべるのです。「大衆的人間の世界は、文明化しているなかで、人間意識の未開人化である。自分たちの世界にある文明をみつめることなく、文明はあたかも自然物のあるかのように扱っている。大衆化した人間は、自動車をほしがり、技術の驚くべき進歩が常に話題にされる。技術万能主義になっている。

  大衆的人間には、理論的考察を尊重する気持ちはない。政治、芸術、社会的規範、道徳が疑問視さえなく、新しい発明が生まれれば、それを積極的に利用する」。

 大衆的人間は未開人の意識であるが、技術万能主義で、便利で効率的な自動車などの文明化された物質的欲望を強く求めるのです。

  しかし、政治、芸術、社会規範、道徳という近代化のなかで作られてきた社会的な文明作用の機能を認めないのです。



 専門分化した科学者は大衆的人間の原型である

 

 オルデガの見方で、現代の科学者は大衆的人間の原型であり、科学者の専門化が野蛮性をもっているとするのです。科学者の総合的な教養のなさの怖さを次のように指摘しているのです。

  「科学者が一世代ごとにしだいに研究の領域を狭くして、自分の知的活動分野のなかに閉じ困って、孤立している様子が大衆的人間の原型と言っているのである。科学者が他の部門ごとの接触を失い、科学、文化、文明という名の総合的解釈から離れているのである。

 つまり、科学者が自分の微小の専門分野に集中しているために、総合的な教養を失って、機械的頭脳になって、社会生活から無知な人間になっているのである。

   しかし、かれは、無知な人間としてふるまうのではなく、自分の微小な専門領域では、豊富な知識をもっていることから、気取った知識の豊かな専門家として、力強く自身に満ちた社会的行動をするのである。

  実際は、政治、芸術、社会的習慣、自分の専門外の科学は、原始人か、きわめて無知な人間である。大衆的人間の特徴として、人のいうことを聞かない、高い権威に従わないということが象徴的に現れる」。

 オルデガが科学者の社会的な無知、自分の専門外では教養がないということですが、傲慢性をもって、他人の意見を聞かないのであるとオルデガ強調するのです。このように、科学者の大衆的人間の原型を指摘するのです。

 科学者が自己の狭い専門性のみを追求していると恐ろしいことが起きるのです。核の研究をしていた科学者が戦争に利用されれば、核兵器として利用されて、日本の広島・長崎の原子爆弾のすさまじい強力な被害をももたらすのです。そこでは、多くの人びとを長年によって苦しめるのです。

 科学・技術の生産の応用でも、総合的な視点をもって、人々の生活や健康に、自然に影響を考えていかねば、その結果がどんな悲劇をもたらすかは、多くの公害問題や環境破壊が教えてくれているところです。

 科学者の倫理の問題は、人間としての倫理が問題になっているのです。科学者の研究の大きな目的には、人びとの幸福のために、文明・文化を発展させて、人びとの暮らしが豊かになっていくために、その倫理性と総合的な教養性が鋭く問われているのです。

 

 大衆化人間一群れの国家支配と自由と民主主義のための社会教育充実

 

 ところで、現代の大衆化した人間が、国家を支配することが最も恐ろしい事態になるとオルデガはのべるのです。

 「文明を脅かしている大衆的人間が、国家を支配することによって、生の国有化、国家の干渉主義、国家によるすべての社会の自発性の吸収していくことである。

   新しい自発性の種子は決してみを結ばない。社会は国家のために、人間は政府という機械のために生きることを余儀なくされる。

   国家は生を抑圧する至上権として、社会のうえにのしかかるのである。社会の奴隷化がはじまり、国家に奉仕する以外に生きることができなくなる。生はすべて官僚主義化される。人間の生存の官僚主義化が強化され、社会が軍隊化する

   国家主義は規範として確立された暴力と直接行動のとりうる最高の形態である。国家を通じて、これを手段として、大衆という無名の機械がひとりでに動くようになる」。

 オルデカは、大衆的な人間が国家を支配することによって、人びとの自発性が失われて、社会の奴隷化が起きるとのべています。

  社会の文明の発展は、人びとの自発性や創造性、人びとの共同・協働の営みによって進んでいくものです。人々が国家の機械の歯車になって、社会全体が官僚化していけば社会の停滞、退化が進み、ときには社会の破壊となっていくのです。

 大衆的人間は、知的な生活をしないゆえに、歴史的に物事を見る目をもちません。ときには平然と時代錯誤も行うのです。この問題について、オリデガは次のように指摘しています。

 「大衆的人間の典型的鼓動は、時代錯誤で、古い記憶はなく、歴史意識もない人間に指導されるのが常である。はじめから、まるでなにもかも過ぎたことのように、いま起こりつつあることが過去の時代に属するかのように行動する。あわれわれは19世紀の自由主義を乗り越える必要があることは疑う余地がない。

 それは、ファシストのように反自由主義を宣言する人間にはできない。過去はそれなりの正当な理由をもっている。

   自由主義は、ある正当性をもっていたし、その正当性はいつの時代でも認められなければならない。しかし、なにからなにまで正当ではなかったから、正当でない点は拒否しなくてはならない」。

 19世紀的な自由主義のゆきづまりは、20世紀になって顕著にあらわれていった。とくに、市民的な自由主義である個人の国家からの自由だけでは、人々の暮らしからの文化的な生存の保障という自由は難しくなっていった。

   国家が直接的に自由を保障していく生存権の権利を保障してこそ自由が享受される時代になっていくのです。それは、社会的自由としての自由主義が課題になっていくのです。

 つまり、自由のためには、国家や地方自治体などの公的な機関が保障していくことが必要になっていくのです。

  また、自由市場経済の発展は、度重なる弱肉強食の競争の結果からの独占資本を生んでいくのです。

 そして、市場経済のなかで弱小の企業の自由な市場への活動を阻害していくのです。ここに、独占禁止法という国家による市場経済のルールづくりが行われていくのです。営業の自由は社会的に公正性を要求されていくのです。

  また、営業の自由、個々の営業のわがままが保障されるだけでは社会的公平性が失われてのです。そして、環境や持続可能性、社会的な害悪への慎み、人びとの暮らしを破壊しないなど様々な社会的なルールが要求されていくのです。

 営業の自由は、儲かるための経済活動ということだけではなく、社会的なルールや社会的なルールが強く求められていくのです。

  これらの社会的規制や社会的ルールづくりは、人びとの暮らしの豊かさや幸福のために、社会的な話し合いや合意によってつくられていくものです。

  そのもとで、それぞれが、社会的ルールをつくっていくのです。それは、豊かな知的生活のもとに社会的ルールは、守られていくものです。ここには、社会的リーダーをはじめ人びとの知的生活が前提になっているのです。

 その知的生活を保障していく人々の話し合いや合意、また、それを豊かにしていくために、それぞれが教養をたかめて、人間的にも豊かな能力をもっていくことが必要なのです。

  学校教育や社会教育、生涯にわたって、人間らしく豊かにいきるための能力の形成が不可欠になっているのです。

 大衆的人間の現象は、知的生活それ自身を否定して、人びとも愚かにしていくのです。社会的リーダーがまっさきに議論を否定して、話し合いや合意、自らのやっていることを公開して、公正にするのではなく、マスコミを利用しての大衆操作によって人々の知的生活を遠ざけていくのです。

 国会議員や地方公共団体の選挙などは、人びとが社会的な知的生活の場を充実していくための大切な機会です。それぞれが、大いに政策を議論して、高まっていくことになるのです。地域、職場、学校など、それぞれの機関での大いなる議論が求められるのです。

  このためには、すべてを公開して、データーをそろえての現実的な知的生活の議論が政治的にも人々が高まっていくものです。これが、知的生活の充実と民主主義の充実の原理です。

 これらの民主主義の話し合いと知的生活の原理を否定しての大衆的人間が蔓延するなかで、世界を支配するものか誰か。オルデガは、大衆の反逆は徹底した退廃ぶりであると。知的生活に替わり、退廃化が、大衆的人間の支配であるとするのです。

 オルデガは、この問題について次のようにのべるのです。「ここで支配というのは、物資的な力の行使、物理的な強制力の行使という意味ではなく、ひとりの人間、または一群れの人びとが支配力を行使できるのは、力という社会的装置ないし機械を自由にすることである。支配とは権威の正常な行使である。

 それは、世論に基づくものである。支配は、ある意見の精神の優劣なことを意味する。ほとんどの人間は意見をもっていないから、機械に潤滑油を入れるように、外から意見を注入して、意見をもつようになる。

  意見がなければ人間の生は、構造も有機性も失う。精神的な力なしに、本来的に真の統治する人がなければ民主的主義の社会は動かいない」。

 知的生活を求めない大衆的人間の一群れが支配力をもつのは、世論の支持ということが決定的に重要であるとするのです。

  独裁的なファッシズム体制でも議会をとして、世論の支持によって、築かれたのです。人々が知的生活から離れ、意見をもたずに、機械に潤滑を入れるように、世論の操作によって支配していくのです。これが、国家主義に導いていくのです。

 オルデガは、国家主義を国家創造の原理と対比させて次のようにのべます。

 「国家主義は国家創造の原理に対立する方向への衝動である。国家創造の原理は包容的であるのに、国家主義は排他である。大衆的人間は、道徳を軽視しているというのではなく、いかなる道徳にも服さず生きたいと望んでいる」。

 まさに、大衆的人間の国家を支配する一群れのものは、社会的道徳をもっていないのが特徴であるとオルデガはのべているのです。

  そして、かれらの精神状態は、人びとへの国家のするべき義務を無視して、無限の権利を所有していると感じているとのべるのです。「大衆的人間の精神状態は、結局のところ、すべての義務を無視し、何のためか自分では、考えもせずに、自分は無限の権利を所有していると感じている」。

 さらに、国家を支配する一群れの大衆的人間は、多くの人びとから支持を得るために、みせかけの情熱をもって語るのです。このことについて、オルデガは次のようにのべるのです。

 「筋肉労働者や悲惨な境遇にある人々や社会正義などに対するみせかけの情熱は、あらゆる義務、たとえば礼節、誠実、とくに、きわめてすぐれた人への尊敬を無視するのに役立つのである。

 われわれは普遍的なゆすりの時代に生きている。これは二つの補足的な面をもっている。暴力のゆすりと冗談半分のゆすりである。劣等な者、凡庸な人間が、一切の服従からの解放感を味あうというのだ。

  大衆的人間は、ただたんに道徳をもっていないのだ。道徳は、本質からしてつねに、なにものかへの服従の感情であり、奉仕と義務の意識である」。

 みせかけの情熱は、礼節や誠実、すぐれた人の尊敬を無視して、自分が絶対的なリーダーとするのである。日本の現代社会の政治状況を考えてもマスコミを巧みに利用しての自己演出が行われていく状況もみられるのです。

  自由や民主主義を充実していくには、幅広くいつでもどこでも、地域、職場、機関などで知的生活による話し合い、合意の形成が必要です。

 このためには、大いに議論して、幅広い教養を身につけて、人格的にも高まっていくことが求められているのです。

  広い意味でも社会教育が現代社会の自由や民主主義の充実に切実に求められているのです。この意味で、市町村行政の社会教育的役割を見直して、充実していくことです。また、地域、職場、学校でも社会教育的役割を充実していくことが社会的に求められているといえよう。