社会教育評論

人間の尊厳、自由、民主的社会主義と共生・循環性を求める社会教育評論です。

尾瀬の自然を歴代守った長蔵小屋の偉人

尾瀬の自然を歴代守った長蔵小屋の偉人

 

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 尾瀬のハイキングに6月初旬行きました。素晴らしい尾瀬沼での水芭蕉をはじめ山間の高層湿原の植物群と、尾瀬湿原高原の雄大さのなかで、はてしなく続く木道に、自然保護の地元の人びとの関係者の尽力に感謝しながら歩きました。

   尾瀬の高層湿原の貴重な植物群落は、特別記念物に指定された植物が多数存在し、その管理は、後世までも残すために、大切な仕事になっているのです。

   鹿などの動物に対する対策も植生の保護からも欠かせないということです。尾瀬の高層湿原は、脆弱な地層によって、特別な管理が求められ、湿原のハイキングに、木道以外に立ち入らない規制が入っているのです。

 自然保護は、人間が観光・登山として、入っていけば、当然ながら、入る人のマナーと地元や関係者の管理が必要なことが身にしみて感じました。

ブログを書いた当事者

 

   尾瀬では、原生的な自然を楽しむことのできることに感動したのです。とくに、ガイドさんの丁寧な説明と尾瀬についての学識の深さ、尾瀬の自然保護の強い意識に、たくさんのことを教えられました。

   とくに、日本の自然保護運動の生まれたところとして、長蔵小屋の三代の話は、心に深く残りました。さっそく自宅に帰ってから、本を取り寄せて勉強しました。

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 尾瀬の国立公園は、ゼロカーボンパークの認証を受けた、世界に誇れる高層湿原と沼による植物宝庫と大森林の発達で、豊かな自然景観と信仰の山を持ち、日本の自然保護運動の発祥の地として、知られているところですまる。

 この豊かな自然があるのは、それを三代にわたって、自然と共生して生きる大切さを命をはって訴えて、守り続けた長蔵小屋主の役割があったからです。

 尾瀬の自然を守った長蔵小屋の三代の努力によって、電力会社と自動車道路の開発の阻止がされたのです。このことで、豊かな自然が守られてきたのです。

 ハイキング・登山ブームのなかで、尾瀬の自然生態・景観のすばらしさに、多くの人びとが訪れるようになるのです。

  1996年には、66万人が尾瀬を訪れることになり、新たにゴミ問題や自然が壊される問題が起きて、ごみの持ち帰りや山小屋の再生可能ネネルギー利用・省エネの推進、トイレの維持管理、木道の設置、植生の回復・保護が必要になっていくのです。山村の経済発展にとって、観光客の増大は、目先で、喜ばしいことです。

 しかし、長期な面から、尾瀬の自然保護に魅せられて訪れる観光客ということから、自然破壊されては、かえって大きなマイナスということから、尾瀬の自然保護に地元の人びとは考えるようになるのです。

   地元の片品村では、土地利用基本構想を立てて、村民と国民の貴重な限られた豊かな自然資源を守るための総合計画をつくっているのです。

  豊かな湖沼・湿原・森林ゾーンの保全・整備をして、観光客の憩いとレクレーションの活用の場の提供施策をだしているのです。

   そして、土地利用の片品村のゾーンをきちんと指定して、尾瀬からの自然保護運動の原点・発信など6つのカーボンパークのプランを策定しているのです。

 ここでは、後藤允「尾瀬ー山小屋三代の記」岩波新書を要約しながら、そのコメントを含めて、尾瀬の自然を守った三代について紹介して行きたいと思います。

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初代の長蔵の燧岳の神社をはじめ事業の失敗

 初代の長蔵さんは、南会津檜枝岐村出身です。10歳の時に、父親を亡くし、小学校3年までしか行っていませんが、父親が向学心が強かった人で、その影響もありました。大人の仲間に入れてもらえなかったけれども窓の外に立って、軍書読みを聞いていたということです。

 昔から、会津と沼田を結ぶ会津沼田街道の交易の中間点が尾瀬沼であったのです。檜枝岐村から沼山峠を越えて、尾瀬沼、そして、尾瀬沼の東側を道から三平峠を過ぎて、上州・現在の群馬県片品村に出ていく街道があったのです。

   すでに、長蔵さんが国見ということで、上州の旅には、この道を通るのです。青年のとき歩いた頃は、この街道は廃れていました。

 しかし、長蔵さんは、素晴らしい自然の景観に魅せられて、燧岳(ひうちだけ)の登山道を明治22年に開くのです。19歳のときでした。檜枝岐村に鎮座する地域の土地を守る産土神(うぶすながみ)が霊山の燧岳に、往古より宿るということでした。

  そして、群馬県側の信者も含めて、村人30人と共に、頂上に石祠をつくるのです。翌年に、道徳高き人の信濃国福島町の神道家中村神平が、群馬の片品村に滞在しているということで、そこを訪ねて門下になるのです。

 

 その後に、神習教(教団をもつ教派神道)の教師となって、信者を集め講社を結集して、燧岳教会を開設するのです。

   教会は敬神愛国の念をもって、燧岳の古い山岳信仰を媒介して広めたのです。愛国主義を発揚する時代の神道教団でした。村の伝統的な鎮守神ではないのです。

  また、祭祀を中心とする国家神道でもなく、自然の山に畏敬と感謝、自然の掟、自然の恵みで生きていくという理念をもった教団の神社でした。

  燧岳神社は、村の鎮守神とは異なり、村の山神講でもなかった。村には、狩猟を職業とする講として、山神講があったが、それらとは、別の教派神道の講です。

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 長蔵の一生を貫いたのは、産土神山岳信仰を媒介とした尾瀬の自然に畏敬と感謝をもつ強い信念があったのです。

   この信念は、単に自然を守るという保守主義的な古い伝統をそのまま守るということではなく、積極的に自然の畏敬と感謝の理念をもって、共生して生きる姿勢であったのです。

  長蔵さんは、数々の自然を生かした事業を試みていく前向きの人生であったのです。それは、何度も失敗していく事業計画でありました、革新的な未来への自然と共生していく事業でした。

 かれは、尾瀬の自然を破壊するものは、どんな権力者とも、巨大な金持ち・地主、権威をもっている学者でも糾弾していくのでした。

  この意味で、自然を破壊していく明治からの近代的営利主義的な開発を推進してきた巨大資本や絶対的な権力にも抵抗したのです。

  それは、権力や金銭力による強者の論理からではなく、自然と共生していく人間的な生き方と、弱者への解放へを包み込み、自然と共生する人間的な豊かさを模索する未来の論理でもあったのです。

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 尾瀬には、越後富士と呼ばれる到仏山山岳信仰の対象として、山頂には、米山薬師堂があります。

  米山の由来は、沖尾を通る船で米を運ぶ豪商に米の托鉢をお願いしたら、断られ、弟子が法力を掛けたら、この山に船の米俵が全部とんできたという逸話によるものです。尾瀬に日本百名として、ふたつの山の至仏山と燧岳は、信仰の山でもあったのです。

 長蔵さんは、燧岳の信仰のために営林署から尾瀬沼西岸に5反を借りて参籠所三棟を新築した。村中の各戸から白米4合を献納してもらい燧祭を行った。

  村人の協力によって、産土神の神社の建設がされていくのです。明治24年に拝殿を新築して、信者の一同協議により、5年間の社務を委託されます。また、神官となって燧嶽神社は、郡役所の認可を得るのです。

 しかし、山小屋の経営は狩猟やイワナ魚釣りの漁師が入るぐらいで、村人の参拝は少なく、厳しかった現実があったのです。

  さらに、村の有力者が燧岳に神官が奉職すれば熊やカモシカが取れなくなるという流言がされて、村人は神官の奉職に反対もあったのです。そして、ほとんど燧岳に参拝する村人はいなくなるのです。

  仕方なく、村の生活に帰った長蔵さんです。長蔵さんは、製糸工場の共同経営を区長などから用水使用権で妨害されながらもはじめるのです。

 明治35年に大洪水で製糸工場をはじめ家財・畑も流される不運にあうのです。明治37年には、健胃剤になるおうれん草採取のために、営林署に採取の願いを出しましたが、着手したところ、雨天と人夫のため大損害をこうむります。

  村人は誤解して、大儲けをしたと思い、入会権をもっていることことから、配当を申し込まれるのです。長蔵さんは、払うことが出来ずに村八分になります。

   このために、郷里を離れざるを得なかった悲しみに見舞われるのです。しかたなく、栃木県日光今市に行く結果となるのです。今市の生活は、町はずれの小屋の劣悪の住居であった。

 そこでは、自給のための農業と、停車場の貨物降し、大八車を引いての仕事でした。また、売薬つくりの仕事、廃材を薪にするバタ焼き、足で踏む機織りなど、あらゆる可能な商売をして、生活を支えたのです。(長蔵家族は、明治37年から大正11年

 

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 長蔵さんは、再び、剣岳の信仰を忘れることなく、尾瀬沼に戻って小屋を建てるのです。明治42年に6月に燧岳を参拝して、翌年に3月から再び、尾瀬沼の近くに、燧岳神社を参拝の拠点の小屋を建てるために、群馬、福島の村々を歩いて募金集めてをするのです。

  この夏に、小屋と船を完成させるのです。信仰復活を唱えて、尾瀬の生活に単身で戻るのです。尾瀬の植物の標本を帝大や早稲田、慶応などの大学に寄贈していました。

 山で暮らすための生計の源にと、尾瀬に適した産業を考え、養魚事業をはじめるのです。尾瀬沼区画漁業権を大正3年に獲得するのでした。

  しかし、養殖業は失敗するのでした。運搬手段ももたず、村の貧しい生活では、魚を買って食べることはなく、販路は難しいのです。長男の長英さんは、15歳のときに、大正7年に、母親と妹を今市に残して、父親と共に入山するのでした。

  大正11年に一家は、尾瀬に永住する覚悟で山に入った。山小屋の宿泊客での生計であったが、年間学生375人、学生以外196人ということで、苦しい生活が続くのでした。一家が尾瀬に入山したときには、漁業権と水利使用権を武器にして、ダム建設反対の訴願を行っているのです。

 

 戦前の尾瀬ダム計画問題

 

 尾瀬の水源を利用しての水力発電所のダム計画が起きるのです。尾瀬をダム化して、至仏山の山腹にトンネルを掘って、群馬県水上に二ケ所の発電計画がもちあがるのでした。

  尾瀬ヶ原の半分は、かつては戸倉、土出、越本(現片品村)の三ケ村の入会地でした。それが明治の地租改正以降に税に苦しむ農民が横田代議士など地元政治の有力者に売っていったのです。この土地をさらに電力会社が買っていくのです。

  長蔵さんは電力会社のダム建設に、勝算のない戦いを尾瀬沼の養殖業のための、漁業権、水利使用権許可を得ていると、反撃にでるのです。このとき、51歳でした。

 当時の水野廉太郎内相宛に訴願を単身上京して、行うのです。訴願は握りつぶされたが、当時の政友会と憲政会の政治的対立のなかで、憲政会群馬県支部尾瀬沼水力発電のダム計画の工事の認可阻止の決議をしていることから、尾瀬が政治問題になったのです。

  長蔵さんが、自然保全に対する強い信念をもっているのは、次のエピソードでも理解できます。植物学者の牧野博士に、五本や十本であればしからがないが、たくさん植物を採って馬で運んでいることはけしからん。そのように、植物採取するものは宿泊お断りというのです。

 さらに、若者に対して、自然を破壊するのは人類の敵だというのです。山は遊興の場ではない、高等教育を受けたものが、寝そべってお茶を飲むとは何事か。修養の場として、大学村の建設を考えていた長蔵さんです。大正4年6月の尾瀬沼山人の注意書が長蔵小屋に掲げられたのです。

 食事は必ず脱帽すること。植物をみだりに採取せざること。燧嶽登山者は、案内を受けること。神社に敬礼脱帽すること。礼儀を知らざるを人は宿泊を断ることもあるべし。

  世に恐るべきことは、不義不正ということで、自然の前では、大臣も博士もないもないという長蔵の見方です。昭和5年8月に長蔵さんは、60歳で永眠するのでした。長男の長英さんが27歳のときでした。

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 二代目の長英さんの戦い

 

 父親が永住した昭和5年に禁猟区に指定された。天然記念物指定の植物がおると報告された。実際に指定されたのは、戦後の昭和35年です。この年から尾瀬の一木一草に至るまですべて保護されるようになります。

  長英さんは読書と短歌が楽しみであった。登山する学生が本を送ってくれるようになり、やがて、尾瀬沼文庫ができるようになります。

 長英さんはソローの「森の生活」の愛読者になり、長英さんの考え方に、大きな影響を与えて行きます。短歌が縁で、長英さんは、昭和7年、29歳のときに、靖子27歳と結婚するのでした。

  そして、新たに、百人泊まれる長蔵小屋を新築するのでした。靖子さんは、結婚前に、長英さんが、長い手紙を靖子さんに送っていたようです。その当時に、一燈園西田天香にひそかに彼の本をよみながら、教えを受けた思いをもったそうです。

  天香は、トルストイのわが宗教を読んで霊覚あり、小田頼造等の社会主義者との交流があり、刑事の尾行を受けるのです。一燈園には、倉田百三や尾崎放哉が入園しています。懺悔の生活を出版したものがベストセラーとなります。その後に、一燈園高泉林が西川庄六により献堂されます。

  また、庶民の率直に喜ぶ、劇場をつくります。それは、商業演劇でない一燈園独自の演題での演劇をつくるのでした。高校、中学校、小学校をもち、懺悔と感謝、無所有と托鉢を基に、一燈園の人間形成の学びがあるのです。天香は、1947年の75歳のとき、戦後、緑風会に属して、参議院一期を勤めています。

 靖子さんとの結婚の気持ちで、「長蔵小屋は、山小屋であって、旅館ではない。旅人と共にワラジヲのひもを結びという気持ち山小屋をやらねばならぬ。そいう気持ちで結婚したという」ことでした。ソローの森の生活と一燈園西田天香が、青年のときの人格形成に大きな影響を与えたということです。

  尾瀬での馬方、ガイド、山岳救援隊、尾瀬学校の語り部尾瀬の資料館・山遇楽を建て、自然保護運動にも積極的にかかわった松浦和夫さんは「尾瀬のかたりべ」上毛新聞出版の著書で、長英さんの影響に西田天香をあげています。

 「自然にかなった生活をすれば、人は何物をも所有しないでも、許されて行かされる。そしてそこから、世の中の種が除かれ、平和な社会がもたらされる」と一燈園生活と長蔵小屋生活を重ね合わせていたのではないかと書いています。

 昭和10年に長男が生まれるのです。そして、12年に長女、14年に次男が誕生した。山小屋を建てて4年に、目標の3000人の宿泊者になった。15年7月に長英さんは徴兵されたのです。2年余の戦場からやせ衰えた長英さんがかえってきた。3人の子どもと靖子さんは、沼田に移っていった。

 敗戦から昭和22年に強引に取水工事が再開された。尾瀬沼豊水期の水を沼尻に堤防をつくってせき止め、三平峠の下にトンネルを掘って冬の渇水期に片品川に落とし、落差を利用しての発電をするというものでした。景観を変えないということでしたが、沼尻の堤防工事で湿原が破壊され、植物は痛めつけられ、何千本という木が水をかぶったのです。

  昭和24年に取水工事がほぼ完了したころに、長蔵小屋で、現地の山小屋主と檜枝檜枝岐村村長も含めて、話し合ったのです。ここでは、取水の被害結果、起こるであろう異変を語り、不安は現実のものになったのです。

 昭和24年10月に尾瀬保存期成同盟が結成され、我が国の自然保護運動の出発でもあった。尾瀬の自然を永久保存する国会誓願をするのでした。

  期成同盟は、尾瀬に限らず、広く自然保護運動を展開するということに昭和25年になったこれらの運動が実って、昭和35年に、尾瀬の木々や草すべてが、特別天然記念物に指定されて、水利権の利用は厳しく制限され、昭和41年に、水利権10年延長が不許可となったのです。

 

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三代目の長靖さんの道路計画反対運動

 

 昭和36年7月に、山小屋の後継者を予定していた次男の睦男さんが、静岡大学在学中に海水浴で水死するのでした。京都大学を卒業して、北海道新聞に勤めていた長男の長靖さんが38年4月に退社して、長蔵小屋を継ぐために尾瀬に帰ってくるのです。

  新聞社に勤めていたときは、組合活動にも積極的に参加して、地域の歌声サークルにも参加して、人間は社会の変革を志向して、集団のなかで成長していくことを実感していた。

 長靖さんは、27歳の時に、尾瀬に帰って、父親の長英さんから山小屋の経営のことを聞かされた。60歳の父親が小屋の経営の激しい労働のなかで、いつ倒れるかと父親の健康状態が心配であった。

   尾瀬の小屋を財団法人として、自分は再び働く者の仲間にとして社会に戻っていく。山小屋を経営するのか、働く者の仲間の社会に戻るのか、悩んだのです。

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 尾瀬に戻った長靖さんは1年後に昭和39年春に札幌で知り合った紀子さんと結婚するのでした。誕生の一年後に父を失った紀子さんは、定時制高校に学びながら、北海道新聞の編集局で働いていた。短大に進み、へき地の小学校の先生になることを希望していたのです。組合の青年部執行委員5人のなかに長靖さんがいたことで知り合ったのです。

  山小屋は、大きすぎるという紀子さんの当初の印象でした。父親の長英さんは昭和41年1月に脳血栓で倒れるのです。この年の11月に長女が生まれ、昭和43年に長男が誕生するのでした。

 昭和42年に観光目的で、三平峠頂上まで、自動車道路ができる計画が決まった。尾瀬沼から歩いて15分ほどのすぐ近くまで、自動車道路がくるというのです。自然保護と言っても実感をもたない時代的状況のなかで、どうやって尾瀬の自然を守るのか。

  長靖さんは孤立感を深めながらも小さな声でもあげなければならなということで、昭和44年6月に、ミニコミ紙史「いわつばめ」通信を発刊した。

  尾瀬の入り口から奥に向かって、まぎれもなく自然破壊が進んでいることを書いたのです。尾瀬の入り口の登山者が殺到する鳩街峠、沼山峠、三平峠に車道がつくられていく。鳩街と沼山は、定期バスが入った。尾瀬の自然が陥落していくのです。もっと尾瀬沼に近い三平峠に車道ができたらどうなるのか。木を倒して、山を削り、次々に自動車道路がつくられていく。

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 尾瀬の自然を破壊していくことに、ストップをかけた大きな転機は、昭和46年7月に大石環境庁長官の就任です。一度失われた自然は二度と戻らない。自然保護に力をいれたい。全国各地につぎつぎにつくられている観光道路はやめてもらいたいという就任あいさつです。

  長靖さんの母親は、大石に尋ねることを息子に強く促したのです。そして、長靖さんと母親の靖子さん、靖子さんの親しい友人で尾瀬駐在の国立公園管理人の妻の中島千代子さんと3名が発起人になって、「尾瀬の自然を破壊から守る会」をつくるのです。

  そして、長靖さんの友人の民放テレビ局報道記者に案内されて、大石長官を訪ねるです。昭和46年8月に東京で「尾瀬の自然を守る会」を研究者、学生、全国の自然保護団体、日本自然保護協会の会員、いわつばめの通信を送り続けた人たちによって、結成したのです。自然保護運動を全国的に展開していく第一歩でした。

  尾瀬の自然を守る会が発足した暮れの12月1日に長靖さんは、吹雪の三平峠で遭難という突然の事故で死亡するのでした。36歳の若さです。

 

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 この道路計画は群馬の沼田市から南会津郡田町を結ぶ91キロの自動車道路でした。昭和45年に厚生省が三平峠の工事を許可、8月には大清水の柳沢から一ノ瀬の着工も認め、群馬県と国が工事費の補助金を認めるものでした。

  大石長官は、国立公園にドライブウエイを通すのは好ましくない。多くの抵抗が予想される。これまで、子国立公園の自然保護行政は弱い面があった。

  大石長官は、尾瀬の自然を守る仕事を環境長官としての初仕事にしたいとのべるのです。大石長官は、鳩街峠から至仏山に登った。自然破壊のひどさに自分の体が傷つけられるような思いがした。

  どんなことがあっても道路はとめなければならない。三平峠のふもとの一ノ瀬の道で、下りながら、この道路計画は必ず止めるとのべたのです。大石長官の堅い決意でした。

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 長靖さんが反対する住民がいないと、ただひとりという心境が、母親の靖子さんの激励、大石長官訪問の勧め、尾瀬の自然を破壊から守り会の人びとにささえながらの活動が大石長官の心を動かして、道路をつくることの反対の意志が実ったのです。